#2100/3137 空中分解2
★タイトル (AZA ) 92/ 8/27 7:47 (101)
逆万引事件 上 桐鳩吉太
★内容
「私が宇宙旅行をしました折、最も役に立ったのは砂時計でしたね」
池原徳志のぼそぼそと動く唇から、こんな言葉が溢れてきていた。私のした
であろう変な表情に気付かず、彼は続ける。
「これも、私が砂時計を愛する理由の一つで……」
「ちょ、ちょっと待て。宇宙旅行がどうしたって?」
「ふぁ、あなたらしくもない。こんなホラ話に気を留めるなんて。いつものよ
うに無視してくれると思って、しゃべったのに」
「いやいや、ホラ話は分かっている。その後の砂時計だ、気になったのは。ど
うして宇宙で砂時計が役に立つんだね?」
「当然でしょう」
「分からないねえ。宇宙って言うからには、当然、無重力状態なんだろう?
砂がまともに落下するとは思えないが」
私は、率直なところを彼に尋ねた。
「いやあ、残念だなあ」
「何が残念だって?」
「桐鳩さん、詩人じゃないなあって。だって、楽しいであろう宇宙旅行におい
て、無粋にも時間を気にするんですか? 砂時計で時間を忘れましょうよ」
「何だ、そんなことか……」
気が抜けた思いである。
「そんなことと言われましても、私は本当に、時計を宇宙旅行に持って行くと
したら、砂時計にします。振子時計もいいですね。折角、星から飛揚できるの
に、何を好きこのんで、重力とは無関係に正確に動く時計を持って行かなくち
ゃいけないんです? 砂時計がどんな動きをするか、興味はありませんか?」
「なくはないけどね……」
私の態度に、池原は不満そうであった。
そもそも、どうしてこんな会話をしていたのか。話の流れはよく憶えていな
いのだが、私が、砂時計は熱による膨張で砂の落下量が変化するから駄目だと
言うと、それなら砂の粒も合わせて膨張するように造ればいい、とか何とかい
う風に、池原が論じた直後であったか。
まあ、彼の奇妙なおしゃべりは、私にとってありがたかった。作家なるもの
を生業とするこの桐鳩吉太は、外部から何か刺激を受けた方がアイディアが閃
くし、筆が進むのだ。
幸い、作家としての人気が出てきたらしく(作品の質が上がったかどうかは
別として)、執筆依頼が増え始め、桐鳩吉太の名前も顔もそこそこ売れてきた。
出版社の編集者やカメラマンに言わせると、私の顔は「味のある二枚目」だそ
うで、今時珍しい侍顔だとされる。顎髭を伸ばせば一層、貫禄がつきますよと
言われるのだが、手入れが面倒なので実行していない。まあ、髭を伸ばすのは、
本当の大家になってからでいいだろう。なれればの話だが。
で、池原の方はというと、職業は一応、評論家となっている。なってはいる
が、私はあらゆる出版物に関して、彼名義の批評・エッセイの類を目にしたこ
とがない。「桐鳩吉太専門の文芸評論家ですよ」と、池原は真面目な顔で、し
かし笑いながら言ったことがあった。
実際は、どちらかと言えば、彼は日本語指摘家である。例えば、「彼はグラ
スを口に運んだりしていた」等という節を、ワープロ画面に映る地の文に見つ
ければ、彼はのっぺりとした顔をしかめた。
「『たり』の使い方がおかしいですよ。『彼は指でリズムを取ったり、グラス
を口に運んだりしていた』ならいいですけど」
言われてみればもっともであるのだから、私はカーソルを持って行き、修正
を施す。ついでに、会話中にも同じ間違いを見つけたので直そうとすると、池
原は口を出すのだ。
「ああっと。それは直さなくてもいいんじゃないですか」
「どうしてだ? さっき、君が指摘したのと同じ間違いだろ?」
「先ほど私が言ったのは、桐鳩さんの間違いです。しかしこれは、この台詞の
主の間違いです。人間は、話している場合は、いくらでも間違った日本語を話
しています。私だってそうです。間違いがある方が、味わいがあるし、人間ら
しいってもんでしょう。それにですね、ドラマを見てますと、登場人物の誰も
が、全くとちりやしませんよね。あれは不自然だと思うのです。撮影していて
俳優がとちれば、それをそのまま使えばいいと思うのですがねえ」
これまたなるほどとうなずけるのだから、私は手の動きを止めるしかない。
おかげで、私は、よく担当の編集者から「誤字が少なくて、助かります」と言
われる。
「……で、高所恐怖症だったその人は、当然のことながら、湖が苦手でして、
ボートに乗るのを拒みました」
私が一人、考えを巡らせている間に、池原はおしゃべりを続けていたようだ。
「ん? 高所恐怖症なら山が苦手じゃないのか?」
「そうかもしれませんが、湖が苦手なのも自明です。それで、彼女は命拾いし
た訳です」
「訳が分からん。命拾いって?」
「ふぁ、話を聞いてませんでしたね、また。彼女は、友達何人かと、湖近くの
キャンプ上に遊びに来ていたんです。彼女の友達ら数人は、ボートを借りて、
湖に漕ぎ出しました。で、ボートは、ひっくり返ってしまったんです、強風で。
泳ぎが達者だった人が一人だけ助かりましたが、後は皆さんお亡くなりに……」
「何だ。じゃ、ボートに乗らなかった高所恐怖症の女性っていうのは、泳げな
かったんだろう? だから湖が苦手……」
「違います」
こちらが喋り終えぬ内に、池原はきっぱりと否定した。
「高所恐怖症の彼女は、泳げました。でも、湖では泳げないでしょうね」
「もう降参するから、分かりやすく言ってくれよ」
「そこの湖はキャンプ上があるような観光名所で、透明度も高いんです。透明
度が高いということは、湖の底が見えることになります。そんな湖に、ボート
を漕ぎ出せば、どうなります?」
「……はて?」
「湖の底からの視点に立てば、遥か上空にボートは位置することになるんです
よ。高所恐怖症でしたら、そんな『空飛ぶ船』に乗りたがりはしないでしょう」
「そうか」
言うこともっとも、である。
「何か、よくできたパズルかクイズみたいだ」
「あ、そうですねぇ。あああ、パズルといいますと、この間、凄く不思議な体
験をしましたよ。正しくパズルでした」
「へえ?」
促すと、池原は居住まいを正した。じっくりと話を聞こうという態度だ。ま
るで逆であるが、池原は本腰を入れて話すとき、こうする。
「万引の反対語は何と言うんでしょうかね?」
突拍子もない切り出し方に、私は面食らいつつ、応じる。
「……思い付かないな」
「いえ、別に真面目に答えてくれなくてもいいんです。ただね、適切な単語が
見つからないので……。古書店でね、手提げカバンから本を取り出し、本棚に
差し込んだ。こういう光景を見て、桐鳩さんは何を感じますか?」
「何だって?」
続く