#546/1159 ●連載
★タイトル (RAD ) 07/07/14 18:58 (263)
BookS!(04)■久遠紫音■ 悠木 歩
★内容
■久遠紫音■ (Shion Kudo)
室内に澄んだ鐘の音が響き渡った。漂う白い煙と特有の香り。線香のもので
ある。
仏壇には白い布に覆われた箱。それに向かい、長い髪の少女が静かに手を合
わせていた。
「ちょっといいか、紫音」
野太い声に少女は振り返る。
「雅之お兄様………」
少女が兄と呼ぶには、少々年配過ぎる男が立っていた。黒いスーツと黒いネ
クタイで、直前の行事が祝い事ではないと知れる。
少女、久遠紫音は兄へと向き直り、正座した。
男もその場に胡坐を掻く。
「明日だったな、上京するのは」
「はい、お父様が亡くなったばかりで、心苦しいのですが」
兄に対するには、紫音の態度はどこかよそよそしい。紫音と男とでは同じ家
に在りながら、母親を同じにはしない。即ち紫音は、妾腹の子であった。
「いや、それは構わんさ」
「長い間お世話になりました」
紫音は深々と頭を下げる。本心ではない。二十以上歳の離れたこの兄が、紫
音のために何かしたことなど一度もなかったのだから。
「これはな、まあ餞別だ」
男は手にしていた紙袋から白い封筒を取り出し、紫音の前に置く。金である
ようだが、さして厚みはなく、その額は期待出来そうにない。
「ありがとうございます。お心遣い、ありがたく頂きます」
丁重な礼を述べ、紫音は封筒へと手を伸ばした。
「それとな、これもお前にやろう」
そう言って、再度紙袋に入れられた男の手が掴んでいたものは、一冊の本で
あった。
「えっ、宜しいのですか?」
驚いて顔を上げる紫音。
「ああ、大切な家宝だが、いいだろう。お前、子どもの頃から、その本がお気
に入りだったからな。旅立つお前への餞だ」
「ありがとうございます、お兄様」
よそよそしさは消え、紫音の表情に笑みが宿る。心底嬉しそうに、その本を
胸に抱いた。
「ただな、その代わりと言っては何だが………その、親父の遺産の件なんだが
………」
やや口篭りながらも、男は話を続ける。
「その、なんだ………親父の事業な、あまり上手く行ってなくてな。この家屋
敷も借金の抵当に入っている有様でな」
「そうでしたか………ごめんなさい。私、何も知らなくて」
紫音にはもう、男の言いたいことの察しは付いていた。しかしそれを露にも
出さない。
「親父の事業は俺が継ぐ訳だからな………もちろん借金も俺が返して行く。お
前は余計な心配をしなくていい。ただ、その、な………そのためにも、お前に
は遺産の相続を放棄してもらいたいんだが………」
「はい、分かりました。いいですよ」
「えっ! あ、そ、そうか! 承知してくれるか」
少しは手こずると予想していたのだろう。即答した紫音に驚きながらも、男
の顔色は露骨なまでに明るくなった。
「よし、ならば膳は急げ、だ。お前には一筆書いてもらおう。えっと、ここに
だな」
男は紙とペンとを、紫音へと差し出しながら言った。
紫音の供えた線香はもう、とうに燃え尽きていた。代わり白い煙を漂わせて
いるは、男の咥えた煙草であった。
手にしていたのは一枚の紙。
紫音が遺産の相続権を破棄する旨を記した、一枚の紙。
それを満足気に眺め、男は煙草を深く吸い込む。
「良かったの、兄さん? あの本、アイツなんかに、くれてやって」
部屋に中年の女が入って来る。男の、母親を同じとする妹であった。
「何、ヤツに財産を放棄させたんだ。安いものよ」
「けどさあ………あれって二百年も前からウチに伝わる家宝なんでしょう。も
しかしたら、凄い値打ちものかも知れないじゃない」
「ハハッ、本気でそう思っているのか! 馬鹿馬鹿しい」
大声で笑ったため、煙草の灰が男のズボンに落ちてしまった。
「お前だって、何度もあの本を見ているだろう。ありゃ、どう見たって最近の
ものだ。大方、親父のヤツがどこぞの古本屋ででも手に入れ、話を作ったに違
いない」
男はズボンの灰を手で払った。そのため今度は畳が汚れてしまったが、男は
特に気にも掛けない。
「古い家だからなあ………何かこう伝説とか、そう言うものでハクを着けたか
ったんだろう」
「それならいいけど」
そう言いながらも、妹はまだ納得が行かない顔をしていた。
「クククツ、実はなあ」
そんな妹が可笑しくて仕方なく、男は笑いを噛み殺しながら言う。
「俺も万が一、ってことは考えたんだよ。それでヤツにくれてやる前、古本屋
に見せたのさ!」
「えっ! そ、それで?」
「買い取れないとさ。古文書なんて、とんでもない。あんな文字は存在しない
とよ。ありゃ、誰かが適当にそれらしく書いたものだろうと言われたよ」
「なあんだ………」
妹は少し残念そうな、それでいて安堵したような表情を見せる。
「そうでなけりゃ、紫音なんぞにくれてやるものか! いやいや考えようによ
っては、あの本は大した値打ちものだったな」
「?」
「ヤツに財産を放棄させられたんだ。本様々ってところだな」
「そうね、そうだわ」
二人は大声で笑った。もしいま、この場に第三者の目があったのならば、二
人は気が触れてしまったのだと思ったことであろう。
「あんな本に釣られてしまったこともあるけど、紫音がまだ子どもで良かった
わ」
「ん?」
「アイツ、人気だけはあったからね。もし成人していたなら、周りの連中が新
社長に推していたかも知れないわ。兄さん、人望がないもの」
「フン、ふざけるな。あんなヤツに親父の跡なんか継がせるか」
男はあからさまに不機嫌となる。決して言葉に出すことはないが、紫音と言
う少女に、少なからず脅威を感じていたからであった。
「商才じゃあ、俺はヤツにも親父にも負けやしない。見ていろ、ヤツじゃない
が、俺も東京へ進出するぞ。親父は地元の名士なんて小さな地位に満足してい
たが、俺は違う。会社をもっと大きくして見せる」
「ふうん、東京ね。そうしたら、私もセレブの仲間入り出来るかしら」
「ああ、楽しみにしていろ。そうと決まったら、酒だ、酒を持って来い。祝い
酒だ」
「父親の葬式の後に、祝い酒?」
「悪いかよ」
「いいえ、私も付き合うわ」
そう答えると、妹は鼻唄混じりに部屋を出て行った。
妹の鼻唄が遠くなるのを確認し、男は仏壇に向かい、投げキスをする。
「本当に、いい時にくたばってくたれモンだよ………そうそう、いけ好かない
餓鬼だったが、六十過ぎにヤツを生ませたアンタのことだけは、尊敬している
よ」
妹はまだ戻らないが、葬儀の席でもう充分男は酒を飲んでいた。赤ら顔の瞼
が重くなる。祝い酒の到着を待たず、男は深い眠りに落ちて行った。
広い庭の一画に建てられた小さな離れ。紫音の部屋である。
夏の夜の虫たちが奏でる演奏に、紫音は暫し耳を傾けていた。しかし突然の
風に演奏会は中断され、それを機に、紫音は自分の部屋の扉を開けた。
扉近くのスイッチを押し、暗い部屋に明りを灯す。
「存外、上手く行ったようだな」
紫音を出迎える声。
室内には若い、しかし紫音よりは歳上と見られる男の姿があった。
部屋の隅にて正座し、黙想する。静かな佇まいは古い日本の、武士を偲ばせ
る。だが少なからず、違和感も覚えさせる。
彼は純粋な日本人ではない。
束ねた髪の色は白銀。ゆっくりと開かれた切れ長の目は紺碧。異国人の容姿
を持ちながら、その身を包む着物は自然に着こなされていた。
「ええ、どうやってこの本を持って行こうかと、いろいろ考えていたんだけど
ね。最悪、あなた泥棒のふりをしてもらおう、なんて思っていたけど」
「それは難しいな。君には私はその本に触れることは適わぬと、何度も説明し
たはずだが」
「分かってる。冗談よ」
くすり、と笑みを漏らす紫音。家人には滅多に見せることのない、少女らし
い表情であった。
「古本屋のおじさんには感謝しないと」
呟くように言う。実は兄がこの本の価値を確かめに訪れた古書店には、事前
に紫音から頼んでおいたのだ。本は全く価値のないものだと言ってくれるよう
に。
もっとも後に古書店の店主は「紫音ちゃんに言われなくても、あの本に価値
はつけなかったよ」と言っていたが。
「これで上京する用意は、全部整ったわ」
「それなんだが………もう一度だけ忠告させてもらう」
穏やかであった表情を引き締め、男は正座のまま紫音を見上げる。
「止めた方がいい。江戸………いや、東京に出れば君は間違いなく、戦いに巻
き込まれるだろう」
「今回も答えは一緒よ」
微笑を湛えたまま、紫音は机の前の椅子へ腰を下ろした。
「それでも竹村の家に留まるよりはマシ。それにそれは、あなたの勘なんでし
ょう。本当にそうなるかどうか、分からないわ」
「うむ、勘、と言うのとは少々違うな。感じるのだ。東京に、我と同じ者の気
配を」
「だけれど、それが必ずしも私たちの敵とは限らないわ」
「それはそうだが、元々我らは戦うための存在。出会った者が、敵でない可能
性のほうが低いのだよ」
やにわに、紫音は服を脱ぎ始める。男は慌てた様子で視線を外した。それか
ら、ややあって。
「いいわよ」
その声に、男は再び視線を少女へと戻す。そこに在ったのはパジャマ姿の紫
音であった。
「明日は早いからね、私はもう休むわ。悪いけれど、あなたも本に戻ってくれ
る?」
それが男の忠告に対する、紫音の答えであった。
「あい分かった」
短い答えと共に、まるで蜃気楼の如く男の姿が消える。
残されたのは、強い風が打ち鳴らす、軒先に吊るされた風鈴の音だけであっ
た。
「みんな………」
驚き、その場に立ち尽くす紫音。旅立ちに当たって、長い髪はツインテール
に纏められている。
今日の旅立ちを知る者は、ごく限られていたはず。竹村の家人以外、伝えて
はいない。元来寂しがりやの紫音である。仲の良い人々との別れが辛く、話せ
なかった。
それにも関わらず、部屋を出た紫音が見たものは、彼女を送るため集まった、
両手の指でも足りない人々の姿であった。
「お嬢さん」
「紫音」
「久遠さん」
竹村の使用人、会社の従業員、同級生。
紫音のよく知った顔が、そこに並んでいた。
「紫音、元気でね」
「メール、ちょうだいよ」
「私も大学は、東京に行くつもりだから」
電車の時間にはあまり余裕がない。それでも仲良い友達の手を取り、親しい
人々と挨拶を交わす。どれだけ話をしても、名残りが尽きることはなかった。
(………分かってるって)
不意に肩に掛けた鞄が熱くなる。本の中で銀髪の男が旅立ちを促しているの
だ。
「それじゃあ、皆さん」
凛とした、よく通る声が響く。
「久遠紫音、東京にて一旗上げて参ります」
右手の指でVの字を作り、目元へと充てる。
久遠紫音は、友人たちへ高らかに別れを告げた。
「まあまあ、よく来てくれたね」
まるで禿げ上がった頭部まで笑っているようだった。亀田社長は満面の笑み
で、紫音を迎えてくれた。
都心からやや離れた街、場末の歓楽街の雑居ビルにその事務所は存在してい
た。
「まあまあ、座って。楽に、楽に」
勧めに従い、紫音はソファに腰掛けた。若い女性事務員がアイスコーヒーと
ヒヨコを模った菓子を置いて行く。
「生憎、こんなものしかなくてね」
亀田社長と直接顔を合わせるのは一ヶ月振りだったが、彼の愛想の良さは作
り物でないと、紫音は改めて感じていた。これは生来のものだ。社長は根っか
らのお人好しなのだと。
「お言葉に甘えて、来ちゃいました」
「まあまあ、その気になってくれて嬉しいよ」
亀田プロダクション。
ここは小さいながら、芸能プロダクションであった。
紫音の上京は、亀田社長からスカウトされ歌手デビューを目指してのものだ
った。
ことの起こりは二ヶ月ほど前になる。地元商店街で催されたイベント、ごく
小規模なものであったが、そこに紫音が参加したことに始まる。
所謂のど自慢大会。有名人など誰もいない。審査員も商店街の会長や、地元
高校の音楽教師。そこに一組のアマチュアバンドが参加を予定していた。それ
が何か些細なトラブルがあり、ボーカルが抜けてしまったのだ。
そこで急遽、バンドのメンバーのつてで紫音へと話が回って来た。元々人前
に立つことを苦にしない、また頼られると断り切れない性格の紫音はこれを引
き受ける。
そして急造であったにも関わらず、紫音たちの演奏は好評を博し、見事優勝
の栄冠に輝いた。とは言っても、賞品は米やらビール等の日用品、それとその
商店街のみで使用可能な商品券と実にささやかなものであった。
ところがその様子をビデオに収めていた者が在った。もちろんそれとてプロ
の仕業ではなく、家庭用の、個人的趣味によって撮られたものである。それ自
体は別段、珍しい話ではない。
しかしそのディスクがどこでどう巡って行ったのか。東京で亀田社長の目に
触れることとなった。
亀田社長の言に寄れば、ビデオの中の紫音に天性の素質を見たのだそうであ
る。社長自ら、紫音のスカウトに乗り出して来たのだった。
紫音にして見ればそれは唐突な話であり、柄ではないと最初は断っていた。
だが竹村の家に居心地の悪さを感じていたこともあり、亀田社長の熱心な誘い
についには折れる結果となった。
「まあまあ、芸能プロダクションと言っても、うちは少数精鋭………なんてね。
ごく小規模な商売をしている所だからね。まあ気楽に、気楽に」
「承知しています」
もう見慣れた仕草だが、遥かに歳下の者にも過ぎるほどに丁重な社長の態度
が妙に可笑しい。堪え切れなくなった笑いを零し、紫音は応える。
確かに亀田プロダクションは名ばかりの存在と言えた。現在所属するタレン
トは、わずかに二組を数えるのみ。
一組はお笑い芸人のコンビ、もう一組は俳優だそうだが、何れもその名前に
聞き覚えはない。
尤もこの世界で成功してやろうと言う功名心は皆無の紫音である。プロダク
ションの規模は、全く気にしていなかった。
「まあまあ、今日の所は長旅で疲れたでしょう。詳しい話は明日と言うことで、
一応、希望に沿うよう住まいは手配してあるから、ゆっくり休んでください。
後で案内させますよ」
「はい、ありがとうございます」
「あっと、それから学校のほうは………」
「ええ、そちらはもう自分で………緑風高校と言うところです」
「そう、すみませんね。こちらで手配することも出来たのですが」
「いいえ、学校くらいは自分で決めた所に行きたいですから」
こうして久遠紫音の都会での生活が始まった。
【To be continues.】
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