#82/569 ●短編
★タイトル (AZA ) 03/04/15 01:37 (406)
過ぎ去った日々 永山
★内容
※本作は、ミヤザキさんが電脳ミステリ作家倶楽部の掲示板等で提示された謎
を元に、“挑戦”に応えた物です。改めて断るまでもありませんが、内容は全
くのフィクションです。
* *
あれはビートルズが全盛期を迎えていた頃だった。
と書くと、私が当時、ビートルズの音楽に熱狂していたように思われるかも
しれないが、そんなことはなかった。
その頃の私は小学生高学年で、洋楽に限らず、楽曲はおしなべて好きだった。
もちろんビートルズの曲を聴いたこともあったし、決して嫌いなメロディでは
ないのだが、親父が大変な日本びいきだったのが障害になった。ラジオを持ち
出し、布団にくるまってこっそり聞いていたのを見つかり、こめかみの辺りを
ひどくぶん殴られたことも一度や二度ではない。そんな親父のおかげで、私は
ビートルズなどの洋楽を聴くと痛みを思い出し、音楽そのものもあまり好きで
なくなってしまった。
それでも何故かビートルズのメロディとともに、あの不思議な体験は私の脳
裏に刻まれている。六年生の秋口のことだ。
記憶力が格別いいという訳でもない私が、時季を断言できるのは、同じ年の
春に、物語の主役を務める一人の女子――崎谷晴美が転校してきたためだ。そ
れだけ、彼女の存在は、私に、否、私達全員に強いインパクトを与えた。
私の出身地は今でも週刊誌が数日遅れで入荷されるくらい、都会から離れて
いるが、およそ四十年も前となると、文字通り“田舎”“地方”であり、絵に
描いたような田園風景が広がっていた。一帯に高い建物は見当たらず、道も農
道に毛が生えた程度の小径がほとんどで、自家用車が珍しいほどだった。
そんな土地に、彼女は似つかわしくない――少なくとも、クラスの男子全員
が感じていたことだろう。都会から来た彼女は洗練されていて、他の女子がか
すむほどの美人だった。同窓会にたまに顔を出すと、崎谷晴美のことが必ず話
題に上るが、女子勢の声は「私らの立場なかった」に集約される。彼女の転校
前までマドンナ的地位にいた有田夕子なぞは、今でも恨み言を口にする。
だが、崎谷晴美が他の女子から嫌われていた訳では決してない。彼女は見た
目のよさだけでなく、成績優秀でもあったが、それらを鼻に掛けたり、気取っ
たりはせず、むしろ控え目な振る舞いを見せた。今思い返しても、好感の持て
る性格だ。少しばかり素気ない態度が見られるときもあるにはあったが、これ
は方言に馴染めず、戸惑ったのだろう。こちらが方言の意味を教えると、その
代わりのように彼女は街での様々なことを分かり易く教えてくれたものである。
こんな風に思い出を綴っていくと、きっと、私と崎谷晴美が親しかったよう
に見えるだろう。誤解である。現実は違う。私は彼女とまともに会話した経験
すら、数えるほどしかない。引っ込み思案だった私にとって、崎谷晴美は名前
そのままに眩しすぎた。遠くから見つめるだけで、充分満足できた。話ができ
ただけで、有頂天になっていた気がする。それも、「黒板消しをはたくの、お
願いね」と頼まれただけで。階段の昇り降りをなぞ、彼女が右足からなら私も
右足、左足なら私も左足から始めた。我ながら、子供らしい馬鹿である。
崎谷晴美に関する諸々をこうしてだらだらと語ったのには、理由がなくもな
い。“事件”が起きたとき、私は偶然、彼女のあとをつける格好になっていた
のだが、その際に見間違えたり、目を離したりすることは決してなかった。そ
れだけ、崎谷晴美の存在を意識していたという訳である。
先述した通り、不思議な出来事が起きたのは秋だった。田圃には稲の根元の
部分が硬いささくれとなって雁首を揃えていたから、刈り入れもほぼ終わった
頃だろう。そういえば、最新の脱穀機の稼働音が、あちらこちらで響き渡って
いた印象が強く残っている。
学校帰り、いつものように私は右にカーブする緩やかな坂を駆け足気味に下
り、平地に出た。そこからは、一本道がしばらく続く。右には大きな農家が、
左にはお寺が建つため、両側を背の高い板塀に挟まれたその道には、一人の女
児童の姿があった。赤いランドセルも、帽子も、学校指定の物だから他の子と
同じであるにも関わらず、すぐに崎谷晴美と分かった。
彼女までの距離は、十メートルほどだったろうか。早足になれば追い付くこ
ともできたが、話し掛ける勇気を今一つ持てなかった私は、元の距離を保った
まま、ぶらぶらと歩き続けた。ただ、目では、彼女の後ろ姿をちらちらと盗み
見ていた。他に人影はないのだから、堂々と見ればいいものを、急に彼女に振
り返られた場合を思うと、できなかったのである。幸い――と表現するのも変
だが、右隣の農家から脱穀機の騒音が絶え間なくするため、私の気配はないも
同然で、彼女に気付かれることはまずないと思った。私からすれば、たとえ十
メートルの距離があってもこれは彼女と一緒に下校しているのとほとんど同じ
で、もうそれだけで何だか幸せな気分に浸れた。
と、揺れるランドセルが、程なくして見えなくなった。ちょうど角に差し掛
かり、崎谷晴美が右に折れたのだ。彼女の横顔が一瞬だけ望めたが、こちらに
気付いた様子は欠片もなく、ただただ前を見つめているようだった。
私は急ぎたいのをどうにかこうにか我慢し、ペースを変えることなく歩き続
けて、角まで到達した。
「……あ、れ?」
恐らく、このときの私は無意識の内に、間の抜けた声を出していただろう。
だが、事情を聞いた者は、私の反応も無理からぬことと思ってくれるに違い
ない、そう信じる。
右折した先に、彼女、崎谷晴美の姿はなかったのだ。私の目の前には、幅四、
五メートルほどの一本道が約百メートルに渡って続いているのだが、そこには
誰もいなかった。文字通り、影も形もないというやつである。
右手には変わらず二メートル強の板塀が延々と並んでおり、きれいに舗装さ
れた道路に日陰を作っていた。通い慣れた道だから、この板塀に人が出入りで
きるような戸口がどこにもないことは承知していた。
視線を左に転じると、ただただ田園風景が広がる。だが、そちらにも彼女は
いない。刈り取りがきれいに済んだあとだから、子供が隠れられるような茂み
も一切ないのに。仮に隠れ場所があったとしても、彼女がそんなことをする理
由が分からない。
彼女までの距離、約十メートルというと歩いて十秒ほどだろう。私から見え
なくなった十秒間で、彼女はいかにして姿を消したのか。
私は狐につままれたような心持ちで、一本道の交わる角に立ち尽くし、崎谷
晴美の名を小さくつぶやいた。その声をかき消したいかのように、塀の向こう
から脱穀の音が相変わらず響いていた。
* *
「……というような顛末なんだが。いや、謎が残ったままなんだから、顛末と
言っては間違いか」
私は酒を注いでやりながら、隣の男に意見を求めた。
彼、山木正次は私の直属の部下で、歳はかなり離れている。若いがなかなか
の切れ者で、仕事の飲み込みの早さは、そのぬぼーっとした顔からはちょっと
想像できない。大きな商談に伴う出張の折にはしばしば彼を同行させ、経験を
積ませるとともに、相手取引先に名前と顔を覚えてもらっている。
「意見どうこうの前に、感動しました」
山木は酔っているのか、職場にいるときよりは砕けた口調で、そんな風に始
めた。私が「感動、とは?」と聞き返すと、彼は酒の着いた唇をひと舐めした。
「部長にもそんな頃があったのだと、ある意味で感動を覚えました。想像つき
ませんもん」
「ああ、そういうことか。私も十年ぐらい前までは、この話を人に聞かせるな
んて、滅多にしなかった。気恥ずかしいったらなかったからな。だが、今はさ
ほどでもない。この歳で何を恥ずかしがることがあろうか。懐かしくも美しい
思い出になった」
私も酔っているらしい。自分でもおかしなくらい、饒舌だ。焼き鳥のつくね
を咀嚼し、落ち着きを取り戻したのを確認してから言葉をつなぐ。
「私の初恋の話はもういいだろう。それよりも、君の若い頭脳がどんな解釈を
するのか、聞かせてくれないか。時折、自分と同年輩の奴に話をして、どんな
風に謎を解くのか試したんだが、さっぱりだったよ」
「試したというからには、部長は真相をご存知なんですか」
思わぬ点の指摘に、私はコップを持ったままの手を左右に緩く振った。
「いやいや。これまた失言だったな。皆目分からん。とにもかくにも、謎を解
いてもらいたいんだ。真相を知りたくてたまらない」
「解いたら、どうかなるのですか」
「ん? 賞金でもほしいかね?」
彼もまた何か褒美がないとこんなことは考えてくれんかと、落胆しかけた。
だが、山木は心外そうに頭を振った。
「違いますよ。何十年も前の謎を解いた結果、今の部長に何か変化が起こるの
でしょうか? たとえば、その女性に会いに行く、とか」
「ははは、そんな変化なんてものはない。確かに、会いたいとは思うがね。謎
解きとは無関係だ。第一、彼女の居所さえ分からないのだから」
「なるほど。謎の真相をどうして本人に聞かないのかなと、気になってはいた
んです。当時ならいざ知らず、今になってもそれができないのには、そういう
理由があるんですね」
「うむ。実を言うとだ。当時でも、聞くのは難しかったかもしれないな」
「何故です? 部長はそこまで引っ込み思案だったんですか。信じられない」
「引っ込み思案だったが、何日間も考えて分からなければ、勇気を出して聞い
てただろう。だが、現実には、物理的に不可能だった」
「物理的に、ですか。女の子が口を利けない状態になったとは考えにくいです
から……女の子と話せない状況になった?」
「ああ。彼女はこの出来事のあと、一週間か十日ほどして、また転校してしま
ったんだ」
答えながら私は、山木の優れた論理的思考の片鱗を目の当たりにし、期待感
を膨らませつつあった。事実、こんなにも食いついてくれたのは、彼が初めて
と言っていい。
「部長、最初にお願いがあるのですが」
「何だ?」
「これからいくつか考えを話すつもりでいますが、今の段階ではどれも仮定に
過ぎません。どんな考えでも、気を悪くせずに聞いていただきたいのです」
「いいともいいとも。私が彼女に恋い焦がれるあまり幻を見たのだとか、ヘリ
コプターから縄ばしごが降りてきて連れ去ったのだとか、ひどい説はいくらで
も聞いてきた。慣れてる」
空になったグラスに酒を注いでやろうとしたが、山木は手のひらをこちらに
向けた。「本腰を入れて話しますので、しばらく禁酒です」と笑った。
山木は椅子に座り直すと、深呼吸をして、話し始めた。
「まず……最も馬鹿々々しいものから聞いてもらって、可能性を潰すとしまし
ょう。彼女は大きなマントのような布を隠し持っていた。布には、道路なり田
圃なりにそっくり似せた絵が描いてある。それをすっぽりと被り、息を殺して
伏せていたというのはどうです?」
「がっかりさせるようなことを言ってくれるな、山木君」
私は苦笑し、呆れ口調で切って捨てた。
「雪の日ならともかく、晴天の下、布切れに描いた絵でごまかされるほど、私
の目は悪くないぞ。当時も、今もだ」
「分かりました。これはほんのお遊びです。次から、段々と真面目になってい
きますから……。崎谷さんが消えた道に、落とし穴はありませんでしたか」
「落とし穴? ははっ、そう来たか」
酔いの勢いも手伝って、私はカウンターを叩き、大声で笑った。幸い、居酒
屋の店内は喧騒に包まれており、目立つことはなかったようだ。その証拠に、
背後のテーブルにいる若者連中も振り返る素振り一つない。
「落とし穴はなかったと思うねえ。調べた訳じゃないが、私は崎谷晴美が見え
なくなったすぐあと、その道を歩いたんだ。落とし穴があれば、気付いたはず
だ。この出来事の前後にも、登下校やら遊びに行くやらで何度も通ったが、異
変はなかった。それにね、問題の道は舗装されていたんだよ。穴を掘るのは難
しいだろう」
「道に落とし穴の可能性は捨てましょう。道ではなく、田圃に落とし穴はなか
ったですか。いえ、落とし穴でなくてもかまいません。子供一人が隠れられる
ような穴があったかどうか……」
「田圃なら穴を掘れるという訳か。だが、そんな穴があったら、私も気付いた
さ」
「刈り取りの終わった田圃には、藁の束がありませんか?」
「なるほど。穴の上に藁を敷き詰めてカムフラージュしたんじゃないかってこ
とだな。だが、残念ながら的外れだ。十秒ほどで穴に到達し、身を潜め、藁束
を上に広げるとなると、かなりの早業だ。可能にするには、穴は道の近くにな
ければなるまい? そんな近くに藁は全くなかった。断言できる」
議論を重ねる内に、私も興が乗ってきて、酒や食い物を口に運ぶのを忘れて
いた。
「それに、山木君の唱えた説が正しいとしても、何故、彼女がそんなことを演
じなければいけないんだね? くどいようだが、私は理由も知りたいんだ」
「崎谷さんが彼女自身の意志で消えたのだとしたら、その理由は、一つしかな
いと思います。私もくどくなりますが、くれぐれも起こらないでくださるよう、
重ねてお願いします」
「二言はないよ。かまわん。言ってみてくれ」
「はい、その……崎谷さんは、部長のことを疎んじていたのではないかと……」
「何? 私を嫌っていた?」
「は、いえ、まあ、何というか……」
山木は視線を逸らし、薄く笑いながら、おしぼりを額に当てた。
「部長の崎谷さんを見つめる様が、彼女自身には嫌らしく映ったのかもしれま
せん。『あの子、私のことをよく見てるけど、用がある風でもなし、話もして
こない。君が悪いったらないわ』とか何とか」
「声色は使わなくてよろしい」
「すみません、失礼をしました。ただ、こう解釈すれば、彼女自ら部長の前で
姿を消してみせた動機にはなるでしょう」
「私のことなんぞお呼びでない、という意思表示か」
このときの私は、一体どんな顔をしていただろうか。鏡があったとしても、
見たくはないが。
「ま、理由の方は横に置くとしよう。肝心なのは消える方法だ。まだ解決して
ないんだぞ」
こちらが強い調子で言うと、山木は窮した気配もなく、悠然と答えた。
「ええ。布も穴も否定されるとなると、板塀に隠し扉があったとしか考えられ
ませんよ、部長」
「そんな物はなかった」
「そこに思い込みがあったのかもしれません。通い慣れた道の脇に立つ塀。ど
こにも出入口はないと知っている。だから、当日もそうだと信じ込んだ。だが
現実には、密かに扉が作られていたとしたら……さすがの部長でも見逃すので
はありませんか」
「うむ……それはまあ……ないとは言い切れないが」
記憶は鮮明なのだが、脳裏の映像としてはいささかぼやけている箇所もある。
板塀の状態をきれいに覚えていられるはずもない。
「だがな、山木君。板塀があるのは他人の家だぞ。崎谷さんの家じゃあない。
そんなところに勝手に扉を作るなんて」
「勝手にではなく、頼んで作ってもらったんでしょう」
「よその子供に頼まれて、板塀に穴を開ける大人がどこにいる?」
「崎谷さんは、都会から越してきたんですよね。何のためか、部長はご存知で
すか」
「いや、全く。ただ、崎谷さんの父親は土地開発の仕事に携わっているとかい
う噂を聞いた気がするな。子供だったから、詳しくは聞かなかったが、今考え
ても、事実かどうか怪しい。土地開発なら家族ぐるみで引っ越してくる必要は
ないし、たった半年でまた引っ越すのも変だ」
「細かい点は無視して、仕事がらみであった可能性は充分にあります」
それは認めざるを得ない。小さくうなずいた私に対し、山木は意外な想像を
口にした。
「崎谷さんの父親の商売相手は、その板塀の家だったんじゃないかと思います。
部長の話から想像すると、そこは辺り一帯でも大きな農家だったようですし、
都会から来たビジネスマンの相手にふさわしい」
「何だって。それはつまり……儲け話を成立させる過程で、崎谷晴美のわがま
まを、その農家が聞いてやって、塀に隠し扉を作ったということか」
「そうなります。他に合理的な解決ができそうにないですから」
あっさりとした物言いの山木は、これでおしまいとばかりに、酒を手酌で注
ぐと、一気に呷った。私はと言えば、腕組みをし、「うーん」と首を傾げてい
た。
理屈は一応、通る。理由も、気に入らないものだが、説明された。しかし、
釈然としない。何十年間も悩まされてきた謎が、こんな、隠し扉などという解
決では拍子抜けもいいところだ。それとも、このくだらなさこそが現実という
ものだろうか。
「まあ、いい。山木君。ありがとう。崎谷さんに今後会うことがあれば、聞い
てみるとしよう。君の説が正しかったら、私は彼女に謝らなければならないな」
「あのー」
私が山木のグラスに、新たに酒を注いでやろうとしたそのとき、第三者の声
が後ろから聞こえた。そのおずおずとした調子は、店員のものとは明らかに違
う。肩越しに振り返ると、私達とほぼ同じ時刻に来店し、居座っている若者グ
ループの一人だった。眼鏡を掛けたこの男性は、山木に負けず劣らずぬぼーっ
としていて、掴みどころのない鰻か心太のような第一印象だった。
「ちょっとよろしいですか。お話、何となく聞こえてしまってたんです」
「あ、うるさかったですかな。だとしたら失礼をば」
頭を下げようとした私と山木だったが、若い彼は、慌てたように首を左右に
振った。勢いがよすぎて、眼鏡がずれている。それを直しながら、「ち、違い
ます。謝るとしたら、勝手に話を聞いてた僕の方で」などと、へどもどする。
酔っているにしてもおかしな奴だ。
「それでは、どんなご用ですか」
山木は飽くまで丁寧に応じた。酒が相当入った割に、必要とあれば乱れずに
いられるとは、結構なことである。
「僕も一つ、可能性を思い付いたんです。それをわざわざお伝えするのも、差
し出がましいかなあと考えたんですけど、こう、飲んでる内に、段々と気が変
わってきましてですね。聞いてもらえるのでしたら、お話ししたくてたまらな
くなりました」
「ははあ……」
「聞いてくださいますか?」
尋ねられた山木は困惑の眼を、私に向けた。私は即座にうなずいた。とんだ
ハプニングだが、酒の肴としてはまずまず面白いではないか。
「いいでしょう。拝聴しましょう。よろしければ、どうぞこちらの席へ」
見れば、この若者の連れは四名いるようだが、それぞれペアになって勝手に
喋っている。若者は「では」とつぶやき、私の右隣に座った。そこしか空いて
いないのである。
まずは一献と酒を差し出してみたが、相手は頭を下げて遠慮した。
「これ以上酔っ払うと、呂律が回らなくなる恐れが大きいのです」
そんな風に言い訳してから、彼は早速本題に入った。
「最初に質問があります。その女の子は、消えた翌日、学校に来ましたか?
あ、無論、学校が日曜だったのなら、話が違ってきますけど」
「ん? 少し待ってもらえるかな。今、思い出す……」
私はやや上目遣いになって、あの日のこと、そしてその翌日のことを記憶の
中から懸命に掘り起こした。それは案外、簡単な作業だった。一つを覚えてい
れば、あとは芋蔓式というやつである。
「翌日、学校はあったな。そして崎谷さんは休んでいた。私はあの日、崎谷さ
んが来たら思い切って聞いてみようと、心に決めていた。なのに、彼女は現れ
なかった。それで気が抜けてしまって、次に彼女が登校してきた時点では決心
も鈍り、消えた方法と理由を聞けず仕舞いに終わったんだ」
「そうでしたか。じゃあ、崎谷さんの欠席の理由を、担任の先生が話していま
したよね?」
「あ? ああ、そうだったな。確か、彼女のお袋さんが急病になったとかだっ
た。症状は意外と深刻らしかった。と言うのも、クラスの女子がお見舞いに行
く意志を示したのに、先生が止めたんだよ」
「なるほど。示唆に富んでいますね」
若者は分かった風な口を利いた。私は山木に目で尋ねた。しかし、山木も首
を横に振るばかりだった。
若者は眼鏡を外すと、そのレンズの曇りを衣服の布地で丁寧に拭ってから、
再び掛けた。
「僕の仮説をお話しします。――」
突然、若者の声量が小さくなった。私は片耳に手を当て、「何だって?」と
顔をしかめる。
「ふぁ、すみません」
妙な応対をした若者は、私を通り越して、視線を山木に向けた。
「ところで、えっと、そちらの方は今の私の声、聞こえませんでしたか?」
「い、いや。聞こえた」
山木は私に気を遣うかのように、伏し目がちに答えた。
私は若者に向き直った。
「どういうことだ?」
「失礼を許してください。元のテーブルにいたときから、少し気になっていた
んです。僕らが、他のお客さんが振り返るような大声で騒いでも、あなただけ
は嫌な顔を全然しないし、振り返りもしなかった。また、そちらの相手の方は、
普通よりも少し大きめの声で喋っているように感じました。それで思ったんで
す。耳が遠いのではないかなと。失礼は承知の上で、改めて試させてもらいま
した」
「うむ。まあ、どちらかと言えば、そうだな」
「いつからなのでしょう?」
「……年相応とは思わないのかね」
「はい。あなたは昔話の中で、父親に何度か殴られたことで、音楽嫌いになっ
たと語っておられた」
「音楽が嫌いになったんじゃない。あまり好きでなくなったんだ」
同じことだがと思いつつも、訂正を施す。私の片意地を、若者は快く受け入
れてくれた。
「そうでしたね。音楽をあまり好きでなくなったのは、殴られた痛み以上に、
耳を悪くして、音を楽しみ辛くなったから……違っていたら謝ります」
「違う……と嘘を言いたいところだが」
私はきっと、にやりと笑っていただろう。若者の顔色の変化が、面白かった
のだ。
「事実、私の耳は親父のせいで、聞こえが悪くなった。小学四年から五年にか
けてのことだ」
「申し訳ありません、嫌なことを思い出させて……」
「かまわんよ。それよりも、この耳のことが崎谷晴美消失事件に関連している
のかね?」
「ふぁ、はい」
若者は膝を揃え、居住まいを正した。
「そちらの方の説を否定するものではありません。ただ、女児童が行うにして
は、手の込んだ悪戯だし、動機もきつすぎると思うんです」
「分かったから、早く君の説を聞きたいな」
山木もまた、関心を高めていた。山木も私と同じく、若者の洞察力に内心、
目を見張る思いでいるに違いない。
「全ては偶然だったと思います。あの日、崎谷さんはいつものように下校をし
ていました。ところが、角を曲がったときに、思いも寄らない迎えが来ていた
んじゃないでしょうか」
「迎え?」
「家の人が自家用車で――ひょっとしたらお父さんかもしれませんし、お金持
ちだとしたらお抱え運転手という可能性も考えられます。車の種類にしても、
足回りのよさ、スタートダッシュの点から言えば、バイクかもしれません。と
にかく、家の人が車の類で迎えに来ていた。崎谷さんを病院に連れていくため
に」
唐突に飛び出した単語に、私は口をぽかんと開けていた。代わりのように、
山木が「何故、病院に?」と聞く。
「お母さんの元に駆け付けるためにです。お母さんは急病で倒れ、病院に担ぎ
込まれた」
「え……っと。要するに。いや、ああ、そうか」
額に手を当て、しばらく考えることで、断片がつながっていった。事件の翌
日、崎谷晴美は学校を休んだ。母親の病気で。そして一週間か十日してまた転
校して行ったのは、母親が都会の大きな病院に移る必要があったから、か。
「君の言う状況を想定するのは、まま、無理がない。納得できるよ。でも、そ
れと女の子一人が消えることとはつながらない」
山木が指摘すると、若者はいつの間に持ったのか、オレンジジュースらしき
液体の入ったコップを傾け、喉を潤した。
「これからお話しします。待ちかまえていた家の人の様子を見て、崎谷さんは
察したんでしょう。あるいは家の人が手際よく説明したのかもしれません。彼
女を乗せた車は急発進し、えっと、部長さんが歩いてくる方とは逆向きに走り、
すぐに一本道の突き当たりまで達すると、角を曲がったのでしょう。部長さん
が一本道に顔を出したときには、車は全く見えなくなっていた」
「……ふむ。とても面白い。けど」
山木が反論する。
「そんな緊急事態なら、家の人はもっと学校の近くで待っていてしかるべきじ
ゃないのかな?」
「したくても、恐らくできなかったんです。問題の道よりも学校寄りで待とう
としても、幅が狭く、また舗装されていないため、車が入れない」
「あ」
「家の人は学校に一番近い舗装道で待っていたんです」
「――そうなんですか、部長?」
山木が私の顔を見た。私は黙ってうなずいた。
「バイクなら、細い道でも入れたかもしれないです。でも、大事な娘さんを後
ろに乗せて急ぐとなると、砂利道や農道は避けたいはず。よって、自家用車で
あろうとバイクであろうと、舗装道で待つと思います」
「……そうか。エンジン音だ。それで、私の耳か……」
「はい。エンジン音だけでなく、崎谷さんと家の人との会話も部長さんは聞い
ておられない。耳の遠いのもありますが、それと並ぶぐらい大きな原因は、板
塀の向こうから絶え間なく聞こえていたという脱穀の騒音です」
若者は、最後の言葉に力を込めたようだ。
「大きな農家なら、それだけ機械も大げさな物を使っていたでしょう。当然、
音も大きくなる。そのせいで、あなたは不思議な体験をすることになった……
僕はこういう風に考えました」
「ああ……ありがとう」
いかがでしょうか、というような目で見上げてくる若者に、私は思わず礼を
述べていた。この説に疑問がない訳ではない。十秒という時間で、車に乗り込
み、走り去れるかどうかは微妙なタイミングだ。だが、不可能とは言い切れな
いのもまた事実。
そして何より、そこはかとなく心優しさの感じられる若者の物腰に、私はす
っかり感銘したようだ。こんなことで……。やはり、酔いが回っている。
「ありがとう」
私はもう一度礼を言ってから、若者に名前を尋ねた。
「僕は――」
返事は肝心なところが聞き取れなかった。
連れである体格のいい青年が、若者を後ろから掴まえたのだ。
「おまえはー、何を一人で、黄昏てるんだよー」
「どこが黄昏てるように見えるんだ!」
彼らの楽しげに騒ぐ声は、私にもしっかりと聞こえた。
そのまま元の席に連れ戻された若者を見て、私は名前を知るのをあきらめ、
部下を振り返った。
「山木君。このあと、まだ時間はあるかい?」
「え? ええ、問題ありません」
「それじゃあ、もうしばらく付き合ってくれ。カラオケで唱いたいんだ」
「え、部長が。――分かりました。お供しましょう」
店を出る支度を始めた彼に、「女の子がいなくて悪いな」と冗談半分、本気
半分で声を掛ける。山木は背広の上着に腕を通しながら、にこにこと笑って答
えた。
「全然。自分もビートルズは大好きですから」
分かっているじゃないか。
――終