#589/598 ●長編 *** コメント #588 ***
★タイトル (AZA ) 22/10/09 19:19 (454)
期間限定UP>屋根の墜ちた家:愛及屋烏(承前) 永宮淳司
★内容
ホァユウの指摘に、この厳つい顔をした捕吏はばつが悪そうに頭を掻いた。
「そうだよ。自分はあんた、いや先生の腕前を認めている。そして、滅多なことでは失
敗しないと知っている。だけど、殺しの行われた家の周りに足跡がなかったなんて、そ
んな馬鹿なことはあり得ない。だからつい、検験の結果を疑ったんだ。悪かった」
そして頭を深く垂れる。
「いえいえ、全然気にしていませんから、そちらも気になさらずに。それよりも足跡問
題を考えていたのですが、たとえば火消しの最中に、水をどんどん掛けていったせい
で、元々あった足跡が消えてしまった、なんてことは考えられないでしょうか」
「なさそうなんだ、それは」
ト小理官が答える。
「足跡がなかったと証言した者達は皆、消火の作業にも参加していたんだが、いずれも
ちゃんとその目で確かめたと言っている」
「はあ、だめですか。いや、まだ捨てるには早い。犯人が殺しのあと、家から逃走する
際に、水を撒いて足跡を分からなくし、泥の地面を均したというのはどうでしょう?」
「それは一つの妙案だ……と言いたいところだが、それくらいなら我らも考え済みだ。
水を使うほかに、木の板や箒を用いる場合も検討してみたが、いずれにせよ雨上がりの
自然な具合に仕上げるのは、なかなか至難の業であるというのが結論だな。しかも、月
明かりすらない夜に」
「そうか、近所の目を気にしながらになるから、下手に明かりを灯す訳にもいかない
と」
「他に何か浮かばないか」
「いやあ、難しいですね。すぐには答が見付かりそうにない」
首をゆるゆると左右に振ったところへ、マー・ズールイが書庫から戻ってきた。扉を
開けるなり、「あれれ、小理官の捕吏とお二人がお揃いって、何事かあったんですか」
と好奇心と緊張を溶け合わせた風な表情をなしている。
「ああ、ご苦労さん。資料は適当に置いていいから、話を聞いてみるといい。そして若
い君の考えを披露してもらうとしましょう」
ホァユウのにっこりとした笑顔とは対照的に、役人二人はやや渋い顔になった。
「こんな子供に意見を聞くのはどうかと」
「まあまあ。思いも寄らない案を出してくるかもしれないですよ」
そうしてしばらくの間、新たに分かったことの説明が再び行われた。聞き終えたズー
ルイは、足跡がなかった件について案出したことがあるらしく、「思い付くまま言って
も?」と師匠に許可を求めた。
「かまわない。検屍とは全然畑違いのことなんだから、自由奔放、間違おうがどうなろ
うが気兼ねなく言いなさい」
「では……。犯人は大変跳躍に長けており、事件のあった家の敷地を飛び越えて道まで
辿り着いた」
「無茶苦茶だ。あの現場に出向いたおまえなら知っておるだろう。とてもじゃないが、
鳥人でもない限り、道までは届かん」
ト・チョウジュは呆れつつも、なるべく穏やかに否定した。
「ですが、屋根に上がって、そこから跳んだとしたら、もしかすると届くかも。火を放
つ前なら、屋根はありますからね」
「……いや、やっぱり無理だな。あそこは平屋だった。三階建てくらいだったとして
も、屋根から跳躍して道まで届くかどうか。仮に高所から跳んで届いたとしたって、今
度は足腰が立たなくなっているだろうさ」
「うーん、そうかぁ……じゃ、こんなのはどう?」
言いながら、両手で大きな四角を宙に描くズールイ。
「運び込まれた氷って、このくらいはあるでしょ? 上に乗って、|雪車《そり》代わ
りにして、道まですーっと滑っていく。こうしたら跡は残らないかもしれない」
「面白い。さすが若いだけあって、頭が柔らかいな」
ト・チョウジュが本当に感心した様子で、首をしきりに縦に振った。
「だけど、氷で滑ると言っても、限度があるわな。あの家から道へは平らか、わずかで
はあるが上りになっていたと記憶している」
「だめですか……だったら」
「まだあるのか」
「はい、また氷を使います。氷塊を何枚かの板に切り出して、家から道まで並べる。ち
ょうど踏み石みたいに。その上を歩いて行けば足跡は残らないし、氷が溶けてしまえば
証拠は消える」
「さらに面白いな。だがなあ、人ひとりが乗って割れない程度の氷って、厚さはいかほ
どだ?」
この疑問にはホァユウが感覚で答える。
「体格にもよりけりなのは言うまでもありませんが、親指の長さくらいの厚みは欲しい
でしょうね」
「八貫目の氷をその厚さで切り出せば、何枚取れるのか計算をしてみなくちゃ何とも言
えん」
「いや、計算しなくても、あまり現実的でないとする理由は言えますよ」
師匠からのだめ出しに、ズールイが目を見開き、「え〜っ」と情けない声を上げた。
「氷を切り出すにはちゃんとした道具――巨大な刃物がいることでしょう。あの家には
見当たらなかった。元からあったとも思えない」
「オウ・カジャが持ち込んだのかも、氷と一緒に」
ズールイの反論を、ホァユウは予想していたかの如く素早く返事する。
「だとしたら、荷車を引く彼の姿を見掛けた人も気付いていいと思うんだよね。金属の
刃物を氷と一緒にしておくと、熱が伝わってどんどん溶かしてしまうから、刃物を一緒
に運ぶとすれば俵の外に置くはずなんだ」
「じゃ、じゃあ犯人が持ち込んだとか」
「何のために? 普通に考えて、氷を持ち込んだ者が刃物も用意するでしょう。肉屋が
軒先に家畜を吊して、『切り売りするからお客さん、刃物は準備してきてちょうだい
な』とは言わないのと同じ」
「喩えはいまいちだが、理屈は分かる」
この台詞はセキ・ジョンリ。
「だけどな、いよいよとなれば刃物がなくたって、人間、何とかしようとする。氷な
ら、叩いてでも落としてでも割ればいいんじゃないかと思ったんだが、どうだい?」
「そうですね。仮に、力任せに割り砕いて適度な大きさの氷を用いようにも、表面が平
らでなければ、その上を歩くのは難しいと考えられます」
指摘を受けて、言葉に詰まるセキ捕吏。代わって、またもやズールイが反論を捻り出
した。
「そこで火の出番じゃないですか? 熱で溶かして平らにして……」
「時間の問題があるよ、ズールイ。一つ一つ、火であぶって平らにしていたら相当な時
間を要する。近所の人に気付かれる危険性も高くなる。そして何よりも、その方法で成
功するとは限らない。あやふやな可能性に賭けるくらいなら、足跡を残してでも脱出す
る方を選ぶものだろう」
「そっか。心中に見せ掛けようと拘るよりかは、逃げるのが優先ですよね。うーん……
参りました」
ズールイはお手上げの格好をした。役人達も同様に白旗を掲げる。
「しかしホァユウ先生、そこまで偉そうに語るからには、筋道の通った答を示してくれ
ないと、我々も納得できんぞ」
「はっはっは、そこを突かれると弱い」
気の抜けた笑い声を立てるホァユウに、場の空気も弛緩する。
「そりゃないな〜。せめて糸口だけでも見付けないと、わざわざ出張った我らの格好が
付かない」
「ええ、立場も分かります。うーん、そうだなあ。一気に解こうとせずに、積み重ねが
大事な気がする、かな」
「積み重ねというと、この場合は何から……?」
「私が一番気に掛かっているのは、オウ・カジャさんが氷をリィ・スーマの自宅に運び
入れた理由ですね。まず、茶屋で使うつもりがなかったのは確実でしょう。家で何に使
うか。氷を使った新たな飲み物なり食べ物なりを試すため? だとしても量が多いし、
お店で作らない理由が不明です。飲み食いに使用するつもりじゃないとしたら、氷の他
の用途は……」
「冷やす?」
ホァユウ以外の三人の声がほぼ揃った。
そこからさらにセキ・ジョンリが言葉を続けた。
「氷窃盗が露見する危険を冒してまで、大量に運び出し、冷やさねばならない物ってい
うと、自分が思い付くのは一つだけだ」
「……それってまさか、死体……とか」
ト・チョウジュは自らの言葉に恐怖したか、傍目にもはっきり分かるほどぶるっと震
えた。
ホァユウの示唆及びセキ・ジョンリの連想により、リィ・スーマの自宅敷地内のどこ
かに、第三の遺体があるのではないかという仮説が立てられた。新たな方針に沿って、
家屋の焼け跡とその周囲の調査が行われた、のだが。
「掘り返すのは無駄骨に終わる公算が高いと思います」
あちこちを掘り返していると聞きつけたホァユウは、自らの言葉がきっかけになった
という責任も感じて、急ぎ現場に駆け付けた。そして取り仕切っているセキ・ジョンリ
に意見したところである。
「何でです? 遺体があるはずなのに、がれきを片したくらいでは見付からなかった。
火災で燃え尽きたのでもない。あとは地面の下しかあるまい」
「すでに埋め終えていたのなら、遺体が腐敗するのを氷で遅らせる緊急性に欠けるから
です」
「む?」
「埋めるに埋められなかったのなら、氷は用をなすでしょう。だが、埋めたんだとすれ
ばそのままにして遺体が骨と化すのを待つ方が賢明です。腐り始めの遺体をわざわざ掘
り返す理由を、私は何ら思い付きません」
「……自分も思い付かない。いかん、思い込みに囚われてしまっていた。これは大目玉
を食らうぞ」
辺りを見渡して、駆り出した人員の多さに額を押さえるセキ捕吏。
「このまま成果が上がらねば降格、悪くすると罪に問われるかもしれない」
公のことで人や金を無駄遣いする行為は為政者に対する罪と見なされる場合があっ
た。この度の件が当てはまるかどうかは分からないが、安心はできない。
「私のような者からすると、遺体がないと分かっただけでも一つの成果なんですが、そ
れだけでは難しいですか」
「あ、ああ。なあ、ホァユウ先生。あんたも言った責任があると感じたからこそ、来て
くれたのだろう?」
「それはまあそうですが」
「なら、次善の案を出して、助けてくれないか。並行して別の線でも捜査していたこと
にする」
「考えがないではありませんが、そちらの仮説も当たっているとは限りません」
「かまわない。この前言ったように、あんたの能力は買っている。検験にとどまらず、
見立てだって本職に劣らぬものがある。今の自分は思い込みが行きすぎてだめだ。他人
の発想で、刺激を受けたらきっと変われる」
「なるほど。それなら刺激を与える意味で、言うとしましょう。ただ、基本的なところ
は代わりませんよ。オウ・カジャさんが大量の氷を盗んで運んだのは、恐らく遺体を冷
やすつもりでいたから。これを大前提にします」
「おいおい、それじゃあ話が進まないじゃないか」
声が刺々しくなるセキ・ジョンリ。かしホァユウは柳のように受け流した。
「肝心な点が少し異なるのです。先ほど、思い込みと言われたのを聞いてふと考えが浮
かびました。オウ・カジャさんがそう思い込んでいた、と想定するのはどうですか?」
「オウが思い込んでいた? 死んだ人間を冷やして腐らないようにするためだっていう
ことをかい?」
「さようで」
「誰に? っと、これは愚問だったか。普通に考えていいのなら女、リィ・スーマに騙
されたってか」
「私のが思い描いたのも同じです。もしリィ・スーマさんの亡くなった頃合いがもっと
早ければ、彼女を殺めてしまったオウ・カジャさんが急いで氷を盗んできたという場合
も考えねばなりませんでしたが、幸か不幸かそうではない。二人はほとんど同じ頃に死
亡しています」
「それ以上話すのはちょっと待ってくれ。先へ先へと行かれると混乱する。それに、連
中がまだせっせと土いじりしているのを横目に見ながらじゃあ、落ち着かない」
そういうとセキ・ジョンリはホァユウのそばを一時離れ、部下や人足らに号令を掛け
た。
「休憩だ!」
事件や事故に関して審議全般を取り仕切る大理司院、その片隅にある小理官個人の小
部屋にて。
「つまり、何だな」
ト・チョウジュはセキ捕吏とホァユウからの話をしまいまで聞き、彼なりに咀嚼し
た。「女の家や敷地内に、第三の死人は影も形もなかった。だがその結果、女が男に嘘
をついて、大量の氷を運ばせたという線が浮上した。そしてそれにそって調べていく
と、火事の起きる前々日かもう一日前に、酒場でオウ・カジャと会って話をした男が見
付かったと」
「そうです」
セキ・ジョンリは胸を張って答えた。
「すでに話を聞いて、この紙に書いてきた。目を通しますか」
「いや、かいつまんでしゃべってくれればいい」
「では――」
証言者はリンといい、オウ・カジャとは元々顔馴染みで、同郷の男を介して約三年前
に知り合ったという。
その酒場は二人の行きつけの店で、職の違いから連れ立って訪れることは少なかった
が、店内で偶然顔を合わせては酌み交わすなんてことはしょっちゅうだった。普段は楽
しい酒なのに、当夜がいささか様子が異なった。オウ・カジャが何やら思い詰めた顔を
していたらしい。訳を尋ねても答えなかったが、飲む内に酔いが回ったか、ふと口が軽
くなった瞬間が二度あった。そのときに聞こえたつぶやきが、<やっぱり、やるしかね
え。できる限り多くの氷を持ち出して、腐らねえようにしないと>と<でかい物でも分
ければ何とかなる>だった。
リンはつぶやきの意味を解しかねたが、オウ・カジャのただならぬ雰囲気にそれ以上
深くは聞けず、そっとお開きにし、立ち去ったという。
「なるほどな。その話を聞く限りでは、オウ・カジャとリィ・スーマは共謀して、巨漢
の男の死体をどうにかして処分しようと考えていた、と思える。が、何度も聞くが、死
体はなかったんだろう?」
「そうです。なので、さらなる手掛かりを求めて、オウとリンに共通する知り合いにも
当たってみた。さっき話に出た同郷の男、ジャンです」
行商人を称するジャンを、話を聞くためにこの街での彼の定宿で待ち構えていた。
と、その痩せぎすな男はこちらが捕吏と聞いただけで震え上がった。後ろ暗いところが
あるに違いないと、セキ・ジョンリが強面を活かして詰問すると、あっさり白状。と言
ってもたいした悪事ではない。ジャンは二ヶ月ほど前にオウ・カジャから、氷の仕入れ
元はおまえってことにしておいてくれと頼まれていた。
「妙な頼みだな。ははん。どうやら男は女にいい格好をしていたのだな」
「そのようで。オウ・カジャはリィ・スーマの茶屋が繁盛するように、適量の氷を都合
してやっていた。無論、それは盗品だが、惚れた女に正直に打ち明けるのが怖かったの
か格好悪いと感じたのか、とにかく秘密にしておいた。かといって魔法のように氷が手
に入るのもおかしいってんで、知り合いジャンに頼んだって訳です。ジャンなら行商人
としてあちらこちらを旅しているも同然だから、ごく少量の氷を街に来る度に持って来
たということにしておけば理由が立つという浅知恵だ」
「ふむ。男が氷室に秘密の抜け穴を作ったのは盗みのために決まっているが、その後、
何年間も使わなかったのは何故だと思う?」
「さあて……街では一時期、建物が雨後の竹の子の如く作られていたから、オウ・カジ
ャの懐は潤っていた。危ない橋を渡る必要がなかったんじゃないかと」
「今でもそれなりに蓄えがあったろうに、惚れた女のために、氷室への秘密の通路とい
う“伝家の宝刀”を抜いたってことか。――ちなみにだが、ジャンはそのあとどう遇し
た? 罪を問うにはいささか無理があろう」
「同感だったので、証言だけ取って放しました。捕吏と聞いてぶるぶる震えるくらい小
心者のようだし、これ以上の犯罪に手を染めるとは思えんので」
「結構。それで本題の続きだが」
「現段階で事実として掴んだのが以上です。が、これらを元に絵解き、いや、見立てを
するのがホァユウ先生という次第で」
「何だ、それでいたのか」
ト・チョウジュの目から怪訝さが和らぐ。ホァユウは礼をし、進み出た。
「私はすべて、セキ捕吏の手柄にしてくださいと言ったのですが、それだと彼の誇りを
傷つけてしまうようで、やむを得ず、足を運んで参りました」
「おお、その言い方なら、相当自信があると見える」
「うーん、どうでしょうか。手掛かりに符合する、最もありそうな絵が描けたというま
でのことです」
「何でもいい。とりあえず、聞かせてくれ」
「はい。実は、別口の証人探しを捕吏にお願いして、実行しているのですが、残念なが
らまだ見付からないようです。少々、証言しづらい面のある話ですので見付けるのは大
変だと覚悟はしていますが」
「もったいぶらずに、その別口の証人探しとは、どのようなことでなのか言ってくれん
か」
「ああ、そうでした。リィ・スーマさんに、お城の氷室で管理されている氷の量が合わ
ない、なんて噂を話した人がいないかどうか、です。もちろん、いると思ったからこそ
探しているのですが、この噂を知っておきながら役所に届けなかったとなると、ひょっ
としたら罰を頂戴することになるやもと恐れて、誰も名乗り出ないんじゃないかなと想
像しています」
「いや。その場合、罰を受けるのは氷室で氷の管理を担当する者であろう。正直かつ迅
速に報告せねばならぬ。噂を耳にしただけではその真偽が分からぬ者にとって、届け出
たあとになって噂は嘘だった、なんてことになれば目も当てられぬ。嘘の噂話を届け出
て惑わせたという罪に問われかねないのだからな」
「分かってくださっている。なれば、その旨を強調するお触れを出して、証人探しを続
行してください。きっと見付かります」
「分かった、手配する。して、女にその噂を知らせた者がいたとして、絵解きだか見立
てだかはどうなる?」
「リィ・スーマさんは一度手入れを受けた苦い経験もあってか、とても恐ろしく感じた
んじゃないでしょうか。『あの人――オウ・カジャのよこしてくれる氷が、街の有力者
から盗んだ代物だとしたら。ばれたとき、それを使っていた私も罰せられる。知らない
と言って通じるとは思えない。それだけあの人とは深い仲なのだから』と、こんな具合
に」
しなを作り、声も女性らしくして述べたホァユウ。ト小理官もセキ捕吏も苦笑を交え
て、「見事な物真似だな」と褒めた。
「ホァユウ先生は細見で遠目には姿形も女に見えるから、ちょっとした芸になりそう
だ」
「褒め言葉として受け取っておきます。ありがとうございます」
「礼を言われてもしょうがない。隠し芸よりも事件だ。付き合っている男が危ないこと
に手を染めているかもしれない、そう疑ったんだな、リィ・スーマは」
「だと思います。それから彼女が採った確認の手段が、ちょっと手の込んだ物だったん
じゃないかと。つまり、『実は少し前から、昔別れた男が今頃になって現れて、私につ
きまとってきていたの。あいつは大男でけんかっ早くてね。あなたを巻き込みたくなか
ったから黙っていたけれども、そうしたらあいつ、調子に乗って家にまで来て。仕方な
く上げたら、乱暴されそうになった。必死で抵抗したら、柱に頭を打って死んでしまっ
たのよ』」
「女声も仕種も上手なのは、ようく分かった。だから、話の説明に力を注いでくれ」
袖を目尻に当て、泣いている姿を表現するホァユウに、ト・チョウジュは呆れ口調で
注意した。ホァユウは居住まいを正し、声を戻す。
「失礼をしました。えっと、どこまで話しましたか」
「別れた男が死んだ、まで」
セキ・ジョンリがすかさず言う。
「そうでした。あ、もう少しの間、なりきって語った方が分かり易かったかもしれない
のですが……仕方がないですね。言うまでもありませんが、別れた男云々はリィ・スー
マさんの作り話。自宅で男が死んでしまった。とりあえず臭わないようにしたいから氷
をいつもよりもずっと多めに調達できるかと、オウ・カジャさんに頼んでみたんだと思
います。これに応じて大量の氷をすぐに持って来るようなら、まず間違いなくオウ・カ
ジャは氷室から氷を盗んでいると判断できます」
「待った。先へ行く前に、ちょっとした疑問がわいたので答えてくれるか」
ト小理官の挙手付き問い掛けに、ホァユウは「何なりと」と返事した。
「オウ・カジャは石工を仕事にしており、体格もがっちりしていた。あの体格なら、臭
うだの氷だのの前に、俺が死体を運び出してやるよ、とでも言い出すんじゃなかろう
か」
「リィ・スーマさんも同じ予測をし、だからこそ別れた男を超巨漢に設定したんでしょ
う」
「あ、そうか。はっきりした体重は告げずに、とにかくあんたでも運べないほどの巨体
だと言えばいい訳だ」
「その通りです。では続けます。――好きな女性からの頼みを聞くべく、危険を冒す決
心の着いたオウ・カジャさんは速やかに実行に移ったことでしょう。夕刻、帳が降りて
くるとすぐに秘密の通路を使って氷を盗み出し、荷車に乗せて急ぎ足で愛する女性の自
宅へ向かった。途中、強く降った雨もものともせずに。そうして苦労して氷を運んだ。
さぞかし相手から感謝されると思いきや、待っていたのは非難の言葉だった。やっぱり
盗んでいたのねとか何とか詰られ、自首するように言われたかもしれません。リィ・
スーマさんは二度目の罪に問われるのを嫌って、縁切りを言い出したかもしれません
し、もしくは自分も着いて行くからと説得したかもしれない。彼と彼女のやり取りを想
像するには、紛れも多くて難しいのでこの辺で切り上げるとします。ともかく口論の果
てに、オウ・カジャさんは騙された、裏切られたという意識が強くて、自首するよりも
目の前の女を殺して自分も死ぬ、と発作的に考えたんじゃないかと想像します」
「……ん? おかしくないか、それ」
途中から片頬杖をついて聞いていたト・チョウジュだったが、ふっと頭を起こした。
「現場の様子は、女が男を殺したあと首を吊って自殺した、という構図だった。その
上、先生の検験によると女も他殺だというから、ややこしくなったはずだが」
「はい、そのことを忘れた訳でも、言い間違えをした訳でもありません。己の犯罪は棚
に上げて怒りに駆られたオウ・カジャさんは、座して頭を下げて自首を願うリィ・スー
マ三の背後に回り、手近にあった縄で一気に彼女の首を締め上げた。当然、リィ・スー
マさんは必死で抵抗します。左手は自らの首に掛かる縄を取り除かんとし、右手は惚れ
た男の腕をかきむしります」
ホァユウの話に身振り手振りが加わった。咳払いをしてから続ける。
「痛みにやや怯んだオウ・カジャさんは引っ掻かれないように、彼自身も身体の向きを
くるりと換えた。二人は背中合わせの形になります。なおもリィ・スーマさんは抵抗
し、相手の量でに傷をいくつも付けたが、最後は男の怪力がものを言った。オウ・カジ
ャさんは女性を背中合わせのまま完全に背負い、目一杯締め上げた。リィ・スーマさん
の手は相手に届かなくなり、抵抗できなくなった。程なくして絶命したことでしょう。
オウ・カジャさんは彼女を下ろしてその死を確かめると、なるべく身ぎれいに、そし
て死に顔もできる限り見られるものにした。そして凶器として使った縄をそのまま、家
の梁に掛けて、彼女の遺体を吊すと、適度な長さのところで結び、固めた。足元に座卓
を置くのも忘れない。あっ、言い忘れていましたが、この時点ではまだ、オウ・カジャ
さんは女性を自殺に見せ掛け、自らは逃げるつもりだったと思います。それ故の偽装工
作ですから」
ここでホァユウは水を一杯、所望した。ト・チョウジュが自分のための水差しから注
いで渡してやる。ホァユウは礼を言って受け取ると、見口ほど一気に飲んだ。
「どうも、助かりました。さて……オウ・カジャさんが咄嗟に立てた計画が破綻したの
は、今からでも氷を戻しに行こうかと、外の様子を窺ったときであったと推察します。
雨が上がっている。地面に足跡が残る。荷車の轍も。それらの痕跡をきれいに消すのは
現実的でないし、ぐずぐずしていたら氷が完全に溶けてしまう。かといって、単に逃げ
ただけでは、まず氷を盗んだ罪で捕まり、さらに恋人殺しも疑われるのは確実。足跡の
みならず、腕には引っ掻き傷だらけですからね。どうあがいても死罪です。どうせ死ぬ
のなら、せめてわずかでも己の誇りを守りたい。そう考えたのかどうか、彼は自ら死を
選ぶと決心した。ただし、愛した女性に殺されて死んだことにしたかった」
「では、当初とはまったく逆か。オウ・カジャは他殺を装った自殺であり、リィ・スー
マは自殺に見せ掛けられた他殺だった」
「ですから、そう申し上げましたよ、ト小理官」
「い、いや、理解はしていたんだが。しかし、女の方の偽装はともかく、男は自殺だと
マー・ズールイだけでなく、ホァユウ、あなたも言っていたであろう」
「はい、そうでした。誠に申し訳ありません」
深く深く、身体を二つに折らんばかりにお辞儀するホァユウ。
「謝罪は不要。これまでもこれからもお互い様だ。それよりも続きが聞きたい。気にな
ってたまらん。まずは、何をどうして自殺と見誤ったのか」
答を求めるト・チョウジュを、セキ・ジョンリが無言のまま、唇の端で分からくらい
小さく笑んで見下ろしている。セキ捕吏はすでにホァユウの見立てを聞き、全体像を承
知しているのだ。
「まずはと言うよりも、それがほぼすべてなのです。先に、腕の傷から念のために説明
します」
「……ああ、あれか。当初は女が短刀を振るってきたので、男が腕で防御した、その際
の傷だと言っていた」
「あの腕の傷は元々、リィ・スーマさんに掻き毟られてできた傷であり、それをごまか
す狙いで、オウ・カジャさん自身が短刀を使って、掻き毟られた傷の上からさらに傷つ
けたのでしょう。煤やら灰やらで汚れていたとはいえ、より仔細に観察していればあと
からなされた小細工を見抜けた可能性はありました。大変、面目ないと反省していま
す」
「分かった。だが、男の自殺波ないと判定したもう一つの理由があったぞ。確か、喉を
貫くほど力を込めるのは自殺では無理だとかどうとか」
「その通りです。オウ・カジャさんがそのことを知っていたかどうかは分かりません。
恐らくは知らなかった。ただ単に自分で喉に刃物を刺す勇気が持てなかったため、ある
物の力を借りることにしたんじゃないかと私は想像しています」
「ある物とは」
「氷です。多少は溶けていたでしょうが八貫目近くある氷塊を、彼は背負った」
「背負った?」
「はい。背中にあった軽い火傷のような痕跡は、氷が長時間肌に触れたことによる凍傷
の類だったかと」
「あっ、あれがそうつながるのか」
「――それから男は自身の喉に短刀の刃先をあてがい、そのまま勢いよく倒れ伏した。
氷の重さがオウ・カジャさんの躊躇いを押し潰し、短刀は力強く、彼の喉仏を砕いて突
き刺さった」
「氷は火事の熱もあって、消火が終わる頃には溶けるってことだな。そういえば、火は
いつどうやって放った? 自殺の直前か?」
「そうでしょう。ただし注意すべきは、あまり火の回りが早いと、近所の者達に気付か
れ、小火程度で鎮火、氷が残っているなどという事態が起こり得ます。だからオウ・カ
ジャさんはすぐには延焼しないように細工を施したと思っています。仕掛けを具体的に
断言はできませんが、氷を包むのに使っていた俵と藁を利用したのは間違いないと睨ん
でいます。雨を浴びたせいもあって、俵も藁もちょっとやそっとでは燃え上がらない状
態になっていたでしょうからね」
「ふむ、目に浮かぶようだ。――男の服が、女の着物に比べるとぱりっとしていなかっ
たのも、濡れていたせいなのかな?」
「ああ、それもありましたね。着物については、わざと濡らしたと言うよりも、背負っ
た氷が溶けることでできた水を吸った。そのため乾くのに時間が掛かったのでしょう」
「ははあ、あれやこれやがうまくつながるもんだ。確かに、“最もありそうな絵”だ」
ト・チョウジュは一応、満足そうにうなずいた。その上で、改めてホァユウに問う。
「して、証拠はないのか。絶対確実でなくてもよい。今の絵解きを後押しするような物
は」
「今一度、オウ・カジャさんの遺体を調べれば、背中の跡が火傷ではなく、氷に起因す
る物と証明できるかもしれません。腕の傷の方は日数が経過していますので、望み薄で
すが再調査の値打ちはあるかと。あとは……あの縄は肌触りが悪くて、痛いくらいでし
た。普通なら自殺には選びません。リィ・スーマさん宅にもっと肌触りがましな、適当
な太さの縄なり紐なりが帯なりがあったとなれば、彼女が殺されたという有力な傍証に
なり得ます」
「うーん。三つ目のは、さして意味がないな。ホァユウ先生の鑑定により、首吊りは偽
装である可能性が高いことは端から分かっていたことである。女を殺したのが男である
証拠がほしいな」
「そう言われましても……ああ、多少弱いですが、縄がオウ・カジャさんの物であると
証明できれば、彼による殺しの線が濃厚となりますよね?」
「うむ、それは言える」
「でしたら燃え残った首吊り、いえ凶器の縄を、どこか適当な場所に吊して、木の棒か
何かで根気よく叩き続けると成果が出るかもしれません。その際には、縄の下に大きな
受け皿を用意しておくこと」
「それは一体全体、何の|呪《まじな》いですかね」
セキ・ジョンリが聞いた。新たな証拠探しに関しては、彼もまだ案を聞かされていな
かった。しばらく黙り込んでいたせいか、声がかすれ気味だった。
「呪いではありません。石工を職業とする人物の家に置いてあった縄ともなれば、石材
から出た細かな粉状の石――元は石だった物と言うべきかもしれませんが、とにかく粉
状の物が数多付着しているものですよ。しつこいくらいに何度も何度も叩いていれば、
その粉が剥がれて、下に溜まるだろうという目算です」
「おお、そういう理屈か」
「縄は水を被ったとはいえ、粉のすべてが簡単に流れるものでもないでしょう。縄が乾
いているなら、早く試すべきだとここに進言する所存」
「あい分かった。事件の完全な解決に向け、諸々手筈整えて速やかに実行する」
ト・チョウジュが仕種で合図すると、それを受けたセキ・ジョンリは部屋を急ぎ足で
出て行った。
「思うんですけど……」
マー・ズールイは事件解決の場に居合わせられなかったことが不服なようだった。ひ
としきりホァユウに対する文句交じりの愚痴をこぼしてから、ふと話題を転じた。
「ズールイ、手がお留守になっている」
ホァユウの注意に舌を覗かせ、年季の入った石製のすり鉢の中ですりこぎを動かし、
草葉と種と粉をすり潰す。検屍に役立つ試薬作りだ。黙って精を出す。
「で、思うんですけどの続きは?」
しばらくしてホァユウの方から促してきた。よくあることであり、ズールイはにんま
りしてから話を再開する。
「オウ・カジャは、もう少し考えて行動していれば、リィ・スーマさんの嘘――試すた
めの嘘に気が付けていたんじゃないかなあって」
「ほう。どうやったら気付けるというんだろう? 私には見当が付かないな」
「だって、リィ・スーマさんはオウ・カジャとよい仲になる前は、男と付き合うのを避
けていたんでしょ。前の男に暴力を振るわれたからというんじゃなく、自分の身体に自
信がないという理由だった。そのことをオウ・カジャも知っていたのに、どうして昔付
き合っていた大男なんていう作り話をあっさり信じたのかなあと。甚だ疑問で、こうし
て時折、仕事が手に付かなくなるんです」
「それは困りましたねえ。絵解きして君の作業効率をよくしたいのに、私にもその答は
分からないと来た
種の選別をしていたホァユウ自身、手を止めた。そうしてしばし、沈思黙考する。
「――ホァユウ師匠、どうかなさったので?」
「無論、考えているんだよ。といっても、絶対的な正解は見付からないだろうな。想像
を膨らませるのみ……そうだなあ、“愛及屋烏”の境地に陥っていたのかもしれない」
「それ、『人を好きになれば、その人の家の屋根にとまっている烏までもが愛おしくな
る』ぐらいの意味でしたっけ」
「そう。多くの人にとってきれいな物には見えなかった、それどころか、リィ・スーマ
さん当人すら醜くて恥ずべき物と感じていた胸のあざだが、オウ・カジャさんは気にし
なかった。むしろ、魅力的に感じるようになっていたのかもしれない。彼が元からあざ
なんて気にならなかったから彼女を愛したのか、彼が彼女を愛したからあざが気になら
なくなったのかは分からない。とにかくオウ・カジャさんは、自分という実例があるか
らこそ、リィ・スーマさんを愛した男がかつていたと聞いても、まるで疑いもしなかっ
たんじゃないかな」
「……それが当たっているとしたら……」
ズールイは、師匠に合わせてまた休めていた手を動かし始めた。ごりごりごりと、す
り潰す音が小さく響く。
「凄く悲しくて、救われないじゃないですか。毫も疑わないくらい好きになったがため
に、殺すなんて」
「験屍使をやっているとよくあることさ」
ホァユウもまた、種の選別に復帰した。
「マー・ズールイ、君も一人前の験屍使を志すからには、その辺りのことにも慣れてお
かなきゃいけないよ。残念ながらね」
了