AWC 目の中に居ても痛くない!1−2   永山


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#414/598 ●長編    *** コメント #413 ***
★タイトル (AZA     )  12/08/23  00:47  (445)
目の中に居ても痛くない!1−2   永山
★内容
 女の声がした。同時に、赤毛の少女がいきなり目の前に出現した。パッチワ
ーク柄のちょっと妙なドレスを着ている。この暑いのに長袖だ。暗色系ばかり
組み合わせているが、それでも目立ちそうだ。深いグリーンのタイツに赤い靴。
足首の辺りに金のラインが入っている。身長は僕より少し高く、百七十センチ
前後か。細身のモデル体型。右手には魔法のランプみたいな珍奇な物を持って
いる。あ、袖がめくれて、細い腕輪が見えた。黒いのと白いのを一つずつ付け
ているようだ。
「……初めまして」
 喉から心臓が飛び出そうなのを我慢し、代わりに挨拶の言葉を絞り出した。
 相手は口元に微かな笑いを浮かべ、「これは返礼せねば。初めまして」と言
った。最初の発声よりも優しげになった気がする。見つめてくる目は色が青だ。
「私の名前はリボラボ。この世界でそぐわないようなら、他の名前を考えたい。
君の名は?」
「ま、真霜光。ちょ、ちょっと待って。『この世界』って言うからには、あな
たは……」
「こことは異なる世界の生まれだ。肉体の組成は地球人と同じないしは似てい
るかもしれないが、詳しいことは知らぬ。それよりもだ。私がわざわざ姿を現
したのは、君が鈍感だからだぞ」
 非難がましく言われ、事情が分からぬまま、恐縮してしまった。それだけリ
ボラボの物言いには強さがあった。
「君は何故、あの転校生の女を警察に引き渡さない?」
「は? 何を言ってるのか意味不明」
「まさか、放っておいて、向こうからの接触を待つ訳じゃあないだろうね? 
確かに今後、接触してくる可能性は大いにあるが」
 状況が分からないにもほどがある。僕は首を傾げてみせた。目はきっと、不
安さを宿し、焦点が定まらないでいただろう。
 リボラボは呆れた様子を隠さず、早口で捲し立ててきた。
「まだ気付いていないのか。気絶していたのだから、全てを見ていなくても仕
方がないし、記憶があやふやになるのもやむを得ない。だが、決定的な違和感
に気付くべきだ」
「違和感?」
 目のことを思ったが、それを言葉にする前に、リボラボが続けた。
「真霜光。君はあの角で気絶から目覚めた直後、どこに痛みを感じた?」
「角って、ああ、今朝の。痛みなら肘や腰にあったけど、たいしたことない。
一番痛かったのは……眉間」
 僕はおでこに手をやり、前髪を持ち上げる仕種をした。まだ少し腫れている。
リボラボはそこを触れんばかりに指差してきた。
「どうしてそんなところが痛くなったか、考えないのかい?」
「言うまでもなく、車と接触しそうになって、転んだから……あれ? 眉間に
何かがぶつかる状況じゃない……」
「その通り」
 リボラボは近くにある事務机の角を、二本の指先でぴしりと打った。早押し
クイズで解答者がボタンを叩く様に似ている。
「君があのときすっ転んだのは、車に驚いたせいではない。キャッチボールの
球が逸れて当たった訳でもない。ほぼ同じ身長の人間と出会い頭にぶつかった
ためさ」
「し、しかし、倉谷雪穗は一言もそんな話、しなかった」
「当然。彼ら――倉谷と運転手は、君とぶつかった人物を始末したんだ」
「え?」
 耳慣れない語ではない「始末」にこんな反応をしてしまったのは、不穏な香
りを嗅ぎ取ったためだろうか。
「分かり易く言おう。倉谷達はその人物を殺し、車のトランクに隠した。今頃、
運転手がどこかに遺棄していることだろう」
「そんな、眉間が痛いというだけで、想像をたくましくするのは……」
「君は気絶していたが、私は見ていたんだ」
「ええ? あの場にいたって、どこに?」
 目撃していて、しかも今述べた話が事実なら、リボラボがすぐに警察に届け
ればいいのに。そんな響きを含ませ、僕は聞き返した。
「君の目の中」
 リボラボはそう言うと、壁の掛け時計を見た。
「休み時間は残り何分だ?」
「さ、いや、二分あまりある。あのさ、目の中って一体どういう――」
「時間がない。そろそろ域が切れる頃だし、続きはあとにしよう。君がたっぷ
り時間が取れるときに、ひと気のないところ、そしてできれば暗い場所に一人
で来てくれれば、また現れる」
 一方的に喋ったリボラボは、手にしていた魔法のランプ風の代物を一撫でし
た。すると燭台部分の先が光を発し、すぐに消えた。と、リボラボも消えてい
た。もちろん、彼女が手にしていたランプも見当たらない。
「……痛っ」
 右目に例の違和感の症状が出始めた。これってまさか……。
 呆然としていると、背後のドアががらりと開けられた。びくりとして振り返
ると、保健の馬場先生がいた。強い寝癖を押さえながら、「どうかした? 留
守にしててごめんね」と言い、脇をすり抜けて椅子に座る。
「えっと、目薬をもらいたいんです」
 軽いパニック状態の僕は、当初の目的を達成するほかなかった。

 まず、自分がおかしくなったのではない。これは確定としよう。リボラボと
名乗る少女――多分、少女だ――が、どこかから現れ、また姿を消した。この
ことは事実だ。
 ただ、リボラボの存在を認めることと、この体験を他言することとはまた別。
話しても信じてもらえまい。リボラボが出て来て説明してくれれば信じさせる
ことができるかもしれないが、さっきの彼女の態度や口ぶりから見て、恐らく
存在を隠したがっている。僕自身も現段階では、迷惑を被っていないし、警察
に駆け込んだり大人に相談したりするつもりはない。ライトノベルの主人公だ
ってこんな目に遭ったとき、最初は誰にも相談しないのがほとんどじゃないか、
うん。
 次に検討するべきは、彼女の話の信憑性だろう。異世界から来たのは、リボ
ラボの特異性から言って、真実だと思われる。そりゃまあ、やっぱりこの世界
の人間で、極秘開発された改造人間とかミュータント、あるいは未来人である
線なんかも考慮しなければいけないのかもしれないが、常識離れしている点で
は異世界から来たのと大差ない。故に気にしない。
 僕の目の中にいたという話はどうか。真実なら、今も目の中に留まっている
可能性が高い。日食観察後、ちょくちょく目に違和感があるのも、リボラボの
話と符合する。
 現時点で、彼女の話を疑う理由はない。すると、倉谷雪穗とその運転手が人
を死なせ、車のトランクに隠した云々の目撃譚も信用してよいのだろうか。そ
もそも、リボラボがこっちの世界にやって来た目的が分からない。自意識過剰
な仮説を立てるとしたら、僕を騙す目的でやって来たという見方もできなくは
ない。
 そういえば――。先生による期末テストの解説を聞き流しながら、僕は思い
起こしていた。
 目に留まっていても、リボラボは僕の心中を覗ける訳ではないらしい。もし
僕の考えていることを感じ取れるのであれば、どうして倉谷雪穗を警察に引き
渡さないのかなどと聞いてくるはずがない。そう結論づけて、ほっとできた。
考えを他人に勝手に知られたら色々と困るし、恥ずかしい。
 反面、僕が聞いた言葉はリボラボにも聞こえているようだし、僕の身体が受
けた衝撃は(そのままの強さでないにしても)彼女も感じているようだ。視覚
はリボラボの自由意志で、好きなところを見られるのだろうか。うー、そう考
えると、トイレに行きづらくなった。嗅覚、味覚に関しては、まだ想像のしよ
うがない。
 もう一つ、そういえば。保健室で目薬を差したけれど、中にいるリボラボに
影響はなかったんだろうか? 今度、聞いてみよう。
「こら、真霜! 聞いてるか? おまえ間違ったとこだぞ」
 先生の怒声に背筋が伸びた。

 異常事態なだけに、なるたけ早くリボラボと話がしたかったんだけれど、昼
休みは美月や六島とともに昼食を摂るのが常で、抜けられなかった。しかも今
日は、倉谷雪穗が「一緒でいい?」とやって来た。これって、リボラボが言っ
た“接触”だろうか。僕がどこまで覚えているかを探りに……?
 警戒しつつも、表立って断る理由がなく、同席することになってしまった。
「――それで何分ぐらいのびてたの?」
 今朝の出来事を話した倉谷に対し、美月が尋ねる。箸を止め、何だか興味津
津だ。
「うーん、三分ぐらい?」
 こっちを見る倉谷。僕はすぐさま首を横に振った。
「同意を求められても分かる訳ないよ。意識がなかったんだから」
「そうだったわ」
 恥ずかしげに口元を押さえ、照れ隠しなのか、小さな笑い声を立てる倉谷。
クラスの女子と比べると、上品な雰囲気がある。リボラボの言ったようなこと
をしたとはとても思えない。
「それで、あのあと何ともなってない? 気分が悪くなったり、どこかが痛み
出したり……」
「別に。もう心配ない」
「目薬をもらいに行ったぐらいだね」
 横から口を挟んだのは美月。このこと、倉谷は初耳だったらしく、「もしや
転んだことで……」と不安げに眉を寄せる。僕は即座に否定した。
「今朝の日食のとき、、ちょっぴり無茶をしたせいだと思う」
「あ、そうでしたね」
 またにこにこ顔に戻る。表情の変化がめまぐるしい。その様子は、とても悪
いことをしそうには見えない。無論、かわいらしい女性が裏では飛んでもない
ことを考えてたり、意外な一面を見せたりすることがあるのは、僕だって理解
しているが。
「そういや、俺、目薬もらうの忘れてた」
 今頃になって六島が言い出した。その程度なら、大した症状じゃないってこ
とだ。安心しなさい。
「実際のところ、どうなんよ、真霜? 治ったのか」
「具合はよくなった」
 目薬のおかげかどうかは分からないけど――と、心の中で付け足す。
「まったく、封筒越しに覗くなんてするから。次からは絶対にしないでよ!」
 美月が真剣に注意してくる。こんなんだから、夫婦喧嘩なんて囃し立てられ
るんだ。
 それはさておき、封筒の存在を思い出した。学生鞄に突っ込んだまま、中身
の確認をしていない。親父宛の急ぎの用件である可能性ゼロではないので、早
めに確かめねば。
 僕は食べ終わると鞄を手に、すぐ席を離れた。
「秘密の書類かもしれないんで、一人で開けてくる」

 校舎の屋上に一番近い踊り場まで来て、壁にもたれかかるようにしゃがみ込
む。鞄を開け、封筒を取り出した。特に折れ曲がったりしわになったりはして
いない。
 ひょいと首を伸ばし、周囲を見渡す。誰もいないようだ。
 リボラボに出て来てもらってもいいかもしれないが、そのあとになって第三
者がやってくる場合もある訳で。
(第一、こっちから呼び出す方法を聞いてないじゃないか。向こうの判断で現
れるのかな)
 頭の中で呟き、とりあえずリボラボの件から離れる。今は封筒だ。
 糊で封じられた口にペーパーナイフを沿わせると、きれいに開けられた。内
を覗くと、四角いボール紙のような物があった。封筒のサイズより二回りほど
小さい。引っ張り出すと、縦長の長方形だと分かる。真ん中にはカッターナイ
フで切り取ったのだろうか、相似形の小さな四角が空いており、そこに透明な
ビニールできっちりしっかりくるまれた円盤がはめ込んである。大きさは五百
円硬貨程度。色は半透明のブルーに、少しグリーンが混じった感じ。いや、当
たる光の角度で、違って見える? とにかく、サングラスのレンズに似ている。
 再度、封筒を覗き込む。説明書きなり何なりがあるはず……あった。
 横に罫線が入った便箋に、走り書きのような文字が躍っていた。あいにく、
外国語だ。少なくとも英語ではない。いくつか登場する数字しか読めない。
「これをどうしろっての」
 思わず、独り言が出た。ほぼ日本語しか理解できない子供が一人暮らしして
いる家に送り付けてくるのなら、日本語の説明書きを添えるのが大人の常識っ
てものでしょうが。
 僕は親父やその知り合い、ついでにお袋への文句をぶちぶち言いながら、レ
ンズ状の青い物体をビニールごと外した。そして利き手の人差し指と親指でホ
ールドし、やや斜め上に掲げて向こう側を見通す。こういう物を受け取ったら、
ほとんどの者がきっとこうする。そうに違いない。
「――うわっ」
 レンズを覗くと、その向こう側にリボラボが立っていた。
「これは……どういうことだ?」
 サンドイッチみたいな物を手でつまんだリボラボが言った。食事中だったら
しい。

「ふむ。何となく想像は付いた」
 床に座り、腕組みをしたリボラボは三度、大きく首肯した。傍らには食べさ
しの多分サンドイッチと飲みかけの多分紅茶のカップが置いてある。……こん
な物まで、僕の目の中に持ち込んでいるのか?
 リボラボがいきなり現れたあと、僕と彼女は一分間ほど二人揃ってパニック
状態になっていた。リボラボは出て来る気がなかったのに、出てしまったとい
う。そして僕がレンズのことを説明、というかありのまま起こったままの話を
したのだ。
 リボラボはブルーのレンズを手のひらに載せ、警戒を露わに観察をしばらく
して、それから分かったように頷いたのである。
「実は、我々は普通、人間には入らないんだ」
「我々って?」
「言ってなかったか。私のような保安師だ。保安師は職業の一つで、こちらの
世界で言うなら、警察プラス探偵プラス賞金稼ぎ、かな。免許を取得して認可
を受けねばならない」
 どこか誇らしげな響きが口ぶりに出る。誰でも彼でも就ける仕事ではないん
だろう。
「保安師は、異世界への逃亡者を追うために、特別な能力をいくつか身に着け
ている。元の世界と異世界とを行き来できるのは言うまでもないが、異世界の
生物にその目から入り、そこを借宿とするのも能力の一つだ。極秘裏に活動す
るための他、異世界に身体が慣れるまで鋭気を養うためにも必要なんだ」
「人間には入らないっていうのは?」
 時間が気になるは、それ以上にリボラボの話が気になる、聞かずにいられな
い。
「文化文明を持つ生物を借宿とすると、正体露見の危険が増すとの理由で、な
るべく入らないように定められている。元々、能力の性質上、文化文明のある
生物には入りにくいものだしな。それでもごく希に、偶然入り込んでしまうケ
ースが報告されている。だから今回の私の経験も偶然が起きただけだと思って
いたんだが」
 レンズに視線を落とすリボラボ。
「どうも違ったらしい。この青い代物のおかげで、私は君の目に吸い寄せられ
たようだ」
「あの、話の腰を折っていいかな?」
「いい」
 小さく挙手した僕に、リボラボは手の仕種でどうぞと促した。
「君がここへ来た目的は、その、逃亡者を追って?」
「その通り」
「じゃあ、そいつは今どこに。早く捕まえないといけないんじゃあ……」
「心配には及ばない。もう追い詰めている」
 不意の笑みを浮かべるリボラボ。鋭利で冷たく、乾いた笑み。彼女はレンズ
を左手で持ち直した。
「こいつのおかげで、持久戦の必要もなくなりそうだよ」
 彼女の右手には、いつの間にか細身の剣が握られている。フェンシングの剣
を連想させるそれは、黄金色の輝きを全体に有していた。
「真霜光。この物体には表と裏があることに気付いていたかい?」
「え? いや、注意して見てなかった」
「表と裏とで、カーブの具合が異なる。レンズにしては欠陥品に見えるが、そ
こに秘密がありそうだよ。多分、こちらの面が吸い出す方だと思うが……。真
霜、さっきしたように持って、私が合図したら覗いてみてくれないか」
「あ、ああ。いいよ」
 渡されたブルーのレンズを、最前と同じように二本の指で持ち、準備を整え
る。僕の正面では、リボラボが剣を構えた。彼女はそこから少しだけ右に移動
し、おもむろに叫んだ。
「よし、覗け!」
 僕は黙って言われた通りに――突然、先ほどと同じようなことが起きた。
 僕から見てレンズの向こうに全身黒い毛で覆われた獣のような人?が出現。
 それに向かってリボラボが剣を一気に突き立てる。僕からは見えない角度だ
ったけれど、恐らく切っ先は獣?の喉を捉えていたはず。じきに背中側の皮膚
を破って、剣の先が覗いた。
 ずしんと低く鈍い音を残し、獣人?は仰向けに倒れた。すでに絶命したのか、
ぴくりともしない。身長はさほど高くないが、大変な筋肉質で男のようだ。
「驚かせてしまったなら、申し訳ない。一から十まで話すと、中にいたこいつ
が勘づく恐れがあった」
「驚くというか……呆気に取られたって、こういうのを言うのかなと。こんな
奴が、目から身体に逃げ込んでいたって?」
「うむ。言わなかったのは、君が怖がるといけないから。君の身体の中で退治
してもよかったんだが、後々ややこしいことになりかねないからね。こうして
引っ張り出せて、手間が省けた」
「それは理解できるけど、同じ生物を、その、借宿にすることがあるの?」
「また想像になるが、逃亡中だったこいつもレンズに吸い寄せられて、君の目
から入り込んでしまったんじゃないかな。追跡していた私も御同様って訳」
「でも、日食を観ているとき、リボラボもこいつも全然見えなかったけどな」
「向こうの世界からこちらの世界に来る際、我々は――逃亡者も――天高くか
ら落下する状態になってる。落下から着地もしくは着水するまでの間、こちら
の人間には我々の存在を感知することはできない。幸いと言っていいかどうか
分からぬが、我々にも自力で飛べる者はいないから、いずれ目に見えるように
なる」
「じゃあ、リボラボはグライダーみたいに滑空してこいつを追い掛けていたが、
たまたま僕がレンズ越しに空を見上げたから、今ここにこうして……」
「そうなるかな。それよりも真霜。ぼちぼち時間じゃないのか?」
 言われるまでもなく、気付いていた。もう走っても、授業の頭には間に合わ
ない。最後の質問として、当面の気懸かり二つを尋ねることにする。
「リボラボ、こいつの始末をできる? 放っておいたら、その内誰かに見つか
って、騒ぎになる」
「問題ない。この剣で貫かれた者は、じきに転送される」
 彼女の台詞が終わらぬ内に、黒い毛の獣人の肉体は空間にじわっと滲んだか
と思うと、瞬時にして消えた。
「ていうことは、君の役目は完了? 帰るの?」
「それなんだが」
 リボラボは剣を仕舞うと、多少のためらいを見せた。女の子らしい表情が垣
間見えた気がする。
「説明した通り、鋭気を養う必要がある。すまないが一晩、君の身体を借りた
い。許可してもらえるだろうか」
 何を今さら。僕はきっと微笑を浮かべていただろう。
「遠慮しないで、早く休みなよ」

 踊り場における秘密の体験のあとは、なかなかしんどかった。
 遅れて教室に戻ると、先生にどやされた。クラス担任に報告するというから、
あとで何かおまけの罰を喰らうかもしれない。美月達からは、時間に遅れるな
んて封筒の中身は一体何だったのかと興味津々に聞かれ、返答に困った。
 もう一つ。午後の最初の授業中に職員が教室に来て、倉谷雪穗を呼び出した。
彼女はその職員とともに立ち去り、放課後になっても戻らなかった。
 ひょっとすると……リボラボの言った通り、彼女と筏津とかいう運転手はト
ランクに遺体を隠し、運転手が一人でどこかに遺棄したものの、早々と発見さ
れ、挙げ句、学校にも問合せが来たという流れなんだろうか。だとすると、僕
も警察から話を聞かれるかもしれないな。
 学校が終わると、僕は一人で家路を急いだ。いつもなら下校時に一緒になる
ことが多い美月がうるさいのだが、今日は日食観察の報告をするのだと、柚沢
先生の元へ行った。
 同じくつきまといがちな城ノ内も、史学研究部起ち上げのためのメンバー集
めに忙しいらしく、姿が見えない。
 六島は金髪美人教師にコロクコロクと呼ばれ、こき使われているみたいだ。
夏休み前に、何やかやと運んだり移動したりしなきゃいけないらしい。
 理由はどうあれ、今の僕にとっては好都合。早く帰って、リボラボからじっ
くり話を聞きたい。独り暮らしの気楽さを実感する。ただ、彼女の休息を邪魔
するのは気が引けるので、辛抱できる限りは待ってみよう。
 そうして帰宅し、着替えて、軽くおやつを摂って、担任から与えられた罰の
課題をしながら待ったが、やっぱりリボラボは出て来ない。
 課題が済み、テレビを観ながら夕飯の仕度を進め、できあがる頃にリボラボ
に声を掛けてみた。一緒に食べないかって。しかし、彼女は姿を現さず、反応
もなかった。
 夜の十時過ぎ、滅多に食べることのない夜食を用意し、もう一度リボラボの
名前を呼んでみた。
「リボラボ、聞こえてる? 少しでいいから話がしたいんだけど、疲れてるの
かな。サンドイッチと紅茶が好きなのかと思って、用意してあるんだ」
 口を閉ざし、耳を澄ませて待ったが、声が返ってくる気配はなし。目の中に
いながら、声で返事できるのかどうか知らないけど。
 リボラボは学校で、一晩と言った。一晩経って、朝になったら帰るのだろう。
そうなる前に、落ち着いて話そうとするなら、もうあまり余裕がない。
 それとも、もしかして、黙って帰るつもりなんだろうか。まさか、すでにい
ない?
「リボラボ! あのさ、もう知ってるかもしれないけど、ニュースでやってた
よ、倉谷さんの運転手が死体遺棄容疑で捕まったって。彼女自身の関与は分か
んないけどさ。リボラボのおかげで、僕、助かったのかもしれないよね。下手
したら、同じように始末されてたかも」
「――うるさいな」
 いきなり、リボラボの声。当然、その姿は目の前にある。元気もりもりでは
ないにしても疲労困憊ではない。肌の色つやがいい。かなり回復している。
 抱きしめようとする僕に対し、彼女は冷静な口調で言った。
「そんなに話がしたいのなら、いちいち一人芝居みたいに呼び掛けずとも、例
の青レンズを使えばよかろう」
 あ、そうか。僕は気付いていなかった。だけど、そんな素振りはおくびにも
出さない。
「君を無理矢理起こしたくなかった」
「今のこれは、無理矢理起こしたんじゃないと言うのかな」
 リボラボは食堂の丸テーブルに向かい、椅子に腰を下ろした。
「サンドイッチと紅茶をいただこう」
 僕らは夜のお茶会を開いた。会話が弾んだ、とは言えないかもしれない。お
互いにお互いの世界のことを話して、興味や関心を持ったのは確かだと思う。
 リボラボが僕に聞いた事柄は、こちらの世界に関することがほとんどだった
のに対し、僕がリボラボに聞いたのは、彼女自身についてのことが多かった。
保安師の仕事はどの程度危険か、この仕事を志したきっかけ、こっちの世界の
サンドイッチは美味しいか等々。年齢を聞くと僕と同じだったのでびっくりし
た。
「てことは学校は?」
「行ってる。もちろん、保安師はアルバイトではない。才能も関係するので、
年齢に関係なく採用されるんだ」
「学校との両立、大変だ」
「まあね。今日、真霜の学校の授業を見聞きした限りでは、ほとんど差はない
ようだった。尤も、声による言語はこうやって理解できるが、文字は学習する
必要があるんだよね。だから、書いてある内容はほとんど意味不明だった」
 ごく基本的なことしか分からないそうだ。二つの世界を何度か行き来する内
に勉強して身に着けるというのだから、充分凄いと思う。
「時間の表現が異なるので、確信はないが、そろそろ眠るべき時刻ではないの
かな、真霜?」
 午前一時を過ぎた頃、リボラボが言い出した。僕はもっと起きていられたが、
彼女に無理はさせられない。
「そうだね。そろそろ寝なきゃ。――リボラボは明日の朝、いつ頃出発するの
かな?」
 座っているリボラボに背を向け、カップと皿をキッチンで洗いながら聞いた。
「はっきり決めていないが、未明にしたい。仕事が完了した世界に長居は無用。
ルールでも可能な限り、早い期間が求められている」
「そっか」
 皿を拭くことに専心していると、妙に静かさを感じた。
 急いで振り返る。よかった。まだそこにいた。
「ええっと。できれば、声を掛けてから行ってほしいな。何か、もっと君や君
の世界のことを知りたくて、名残惜しい」
「うむ。私もだ」
 席を立ったリボラボ。僕の方にゆっくり近付いてくる。また目の中から入り
込むんだな。
「縁があれば、また会える。何しろ、私がやっている保安師という仕事は、こ
の世界に来ることが多いのでな」
「できたら、休暇で来て欲しい。ははは」
「……考えておこう。一日足らずだったが、世話になった。感謝している、真
霜。どこにも怪我はしていないか? 目を気にしていたようだが」
「大丈夫。何ともない」
「それならよかった。では」
 声がふっと途切れた。僕が、「あ、聞き忘れてたけど目薬を差してよかった
のかな?」と尋ねたときには、リボラボは眼前から消えていた。
 僕は一人になった部屋をゆっくりと見回した。
「……ドライなんだから」

           *           *

 朝。
 ベッドがゆっさゆっさ揺れている。また美月が来てるのか……と思ったが、
様子が変だ。だいたい、今朝は訪ねてくる理由がない。
「熟睡しているところを悪い。起きてくれないか、真霜」
「――リボラボ」
 むっくりと上体だけ起き、眼をこすってから改めて確信する。うん、リボラ
ボがいる。絶対確実、間違いなし。
「出発前に、律儀に声を掛けてくれたのかい?」
 だとしたらちょっと感動。それを隠して、相手からの返答を待つ。
「声を掛けるか否かは迷った。だが、異常事態が起きた。いや、起きてる」
 見ると、リボラボの表情には焦り一色で占拠されている。こめかみから流れ
た汗が、頬の横を伝う。
「何があったの」
 まだ覚醒し切れていない僕は、暢気な調子で問い返した。ベッドから出て、
髪をいじりつつ、階下のリビングへ。
「帰れないんだ」
 リボラボの短い答えに、僕は反応が多少遅れた。予想の範囲外の答だ。
「冗談でなく?」
「大真面目だよっ。心身ともに回復し、こうして君の目から外に出て、あとは
これを――」
 と、右手に持った例の魔法のランプみたいな道具を示すリボラボ。
「三回こするだけで、出発できる。そのはずなのに、こすっても帰れない」
「……やってみせてくれる?」
 リクエスト通り、彼女はランプを三度こすった。何も起きない。
「故障?」
「それはない。何故なら、君の身体へ自力で出入りする場合にも、これが必要
なんだから」
「他に考えられる原因は……」
「考えていた。思い付いたのは、あの青レンズだよ。どこに仕舞い込んだ?」
「あれなら、親父の机の引き出しに」
 早めに親父に知らせなきゃいけないが、とりあえず閉まっておいたのだ。リ
ボラボが「どこ?」と目を走らせる、というか泳がせているので、僕は急いで
取ってきた。
「これでどうするつもり?」
 素朴な疑問に、リボラボは返事に窮した。
「……分からない。けど、同じような道具だとしたら、帰ることもできるかも
しれない」
「いや、逆じゃないかな?」
「逆? どういう意味だ、真霜」
「根拠なしの何となくだけどさ……このレンズを使って僕の身体に出入りした
から、悪い影響が出た可能性ってない?」
「レンズのせいで帰れないと? うーん……あり得る話だ。でも、仮にそうだ
としても、レンズでのせいでだめになったのなら、またレンズのせいで元に戻
れるかもしれない」
 リボラボの話し方は、自分自身に言い聞かせるような雰囲気が強い。彼女も
確証はないに違いない。でも、試さずにはいられないのだ。
「分かった。手伝うよ。できることがあったら言って。何から試す?」
「そうだな。最初に思い浮かんだのは、昨日の朝の再現なんだが」
 リボラボが考えを述べ始めたそのとき、庭の方向から「うえ?」とかいうよ
うな、奇妙な叫び声が聞こえた。
 慌てて振り向くと、網戸越しに人が。美月、昨日に続いて勝手に入ってくる
とは。
「ひ、光。その人、誰?」
 こっち――リボラボの立つ方を指差しつつ、若干後ずさりを始めた美月。こ
りゃあ弱りましたよ。どう説明しようか、急いで頭の中でまとめねば。
 そんな僕の背後で、リボラボが呟いていた。
「しまった。焦っていて、域を張るのを忘れてた」
 “域”っていうのは、人を近付けない結界みたいなものだと説明されたのは、
後日のことだった。

――第一話終わり




元文書 #413 目の中に居ても痛くない!1−1   永山
 続き #478 目の中に居ても痛くない!2−1   永山
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