AWC そばにいるだけで 64−2   寺嶋公香


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#335/598 ●長編    *** コメント #334 ***
★タイトル (AZA     )  08/11/30  23:59  (499)
そばにいるだけで 64−2   寺嶋公香
★内容
 天気予報通りの快晴に、家の門扉を一歩出た純子は空を仰ぎ、目を細めた。
汗ばむでもなく、肌寒くもなく、心地よい朝だった。風が多少あるものの、こ
れから気温が上がるであろうことを考えれば、ちょうどいい。今日は帽子をな
しにして、正解と思った。
 そんな爽やかさとは裏腹に、純子自身は寝不足気味。連日の仕事やレッスン
は春休みに入って、量を増している。それに加え、今朝は早くから起き出して
お弁当作りに精を出したのだから、寝不足も道理というもの。幾度、あくびを
かみ殺したことか。いや、最早、こらえきれなくなっている。
「喜んでくれるかな」
 口元を空いている片手で隠しつつ、自分の着ている服を見下ろした。桜色の
ワンピースは、今日という日への期待感の表れでもあった。
「それにしても、早すぎた……?」
 ペンダントに付いた時計を手に取る。もう片方の手には、もちろん、お弁当
の入った籐製のバスケット。中はしっかり、断熱構造になっている。
 相羽が迎えに来る時刻まで、まだ三分はあった。早からず、遅からず、時間
をきっちり守るのを常とする彼のことだから、三分間、待たねばなるまい。
 と、覚悟した矢先、往来の右手から、相羽が姿を見せた。
「あ? 遅れた?」
 純子を見つけた相羽が、焦った風にそう口にするのが聞こえる。純子はすぐ、
「遅れてない、遅れてない」と歩き出しながら言った。お互いに近付き、立ち
止まったところで、再び純子が口を開く。
「相羽君こそ、珍しい。早く来るなんて」
「絶対に遅刻したくなかったからかな。つい、歩調が速くなったみたいだ。あ、
おはよう」
 これに純子は挨拶を返すと、一番に聞きたかったことを言った。
「腕を組んでもいい?」
「……か、かまわないよ」
 目元を赤くし、顔を逸らし気味に答えた相羽。何だか久しぶりに見た彼の反
応に、純子は思わず、バスケットを置いて、一人でできる方の腕組みをしよう
かしら、なんて意地悪を考えた。無論、実行はしなかったけれども、その分、
含み笑いをする。
「どうかした?」
「何でもない。ただ、わざわざ聞くことじゃなかったね、って」
 腕を絡ませることなく、先んじて歩き出す純子。両手を後ろで組んで、スキ
ップみたいな足取りで。
「あんまり飛び跳ねると、バスケットの中身、大丈夫かい?」
「――忘れるとこだった」
 後ろから注意され、手を前に戻すと、バランスがいいように持ち直した。
「飲み物は、途中で買うつもりでいるんだけれど、いい?」
「うん。結局、どんなお弁当にしたの? それを教えてくれないと、飲み物を
決めにくいな」
 着いてからのお楽しみ、と答える気でいたのだが、飲み物を決められないと
言われては仕方がない。正直に教えることに。
「最初は本当にサンドイッチにするつもりだったの。でも、気が変わって、お
にぎりと、おかずは鶏の唐揚げ、煮付け、それから……」
「コーヒーやジュースよりも、お茶が合うってことだね」
「そうそう。さすがにデザートは用意できませんでしたから」
 余裕があれば付けたかったが、時間的にも容量的にも難があった。早起きし
て作ったはいいが、男子にとってちょうどいい分量を知らないものだから、勢
い、多めに詰め込むことに。結果、デザートを入れるスペースがなくなった次
第。
(付けられたとしても、カットした果物なんだけれど)
 次の機会にがんばろう、と誓う純子であった。
 バス停に着くと、時刻を確かめる。目的地は、城南の公園。普段、滅多に利
用しない系統のバスに乗り、揺られること十五分ほどで着く。
 やがて、定刻から五分ほど遅れてやって来たバスの中は、なかなか混み合っ
ていた。やはり花見客が多い。手荷物から容易に想像できた。
「これだけ多いと、知ってる人と会うかもね」
「うーん、それは避けたい。折角、二人なのに」
 小さな声で言葉を交わし、密やかに笑い合う。見つかったら見つかったとき
のこと。これから先、二人きりで花見に行くチャンスは何度でもあるのだから。
 三つ目の停留所で、並んで座っていた乗客二人が降りた。目の前の座席が空
いた。純子達は周囲を見て、他の人が座れるように通路を空ける。
 一つ分の席は、四十代ぐらいの女性が占めた。が、その左隣の席は、誰も気
付かないのか、それとも近くにいる学生(純子達のこと)に座られるものと思
われているのか、バスが走り出してからも空いたまま。
 純子は相羽と目を見合わせ、ともに座る意思がないことを確認すると、近く
で手すりに掴まっていた女性に声を掛けた。背を丸めて、いかにも辛そうに見
える。六十をとうに越え、もしかすると七十代かもしれない。見た目で判断す
る限り、このバスで立っている乗客の中で、最も席を必要としている人だろう。
「あの、空きましたよ」
 くだんの女性は耳が遠いらしい。斜め前に立つ純子から話し掛けられたこと
は分かっても、声は聞き取れなかったのか、耳に手を当てる仕種をした。
 純子は同じフレーズを繰り返し、座りませんかと持ち掛けた。
「ああ、ああ、ありがとう」
 ゆったりとした動作で二度、頷くと、女性は足の向きを換え、歩き始めた。
かなり危なっかしい。走行中であることも考え、純子は手を差し伸べた。
「すまないねえ」
 女性は手を借りても、まだ危なっかしかったが、どうにか、よっこらしょと
いう具合に、席に収まった。その頃には、もう次の停留所が目前だった。
「ありがとうね」
 二度目の礼に、何だか照れくさくなる。いえいえと首を横に振った。
「ほんとなら、息子達と一緒に乗るはずだったんだけれど、予定がずれてねえ。
一人でバスに乗るのは久しぶりで」
「息子さん達とは、どこかで落ち合うんですか」
「ええ、ええ。お城の公園で」
 この女性もお花見だ。しかし、大勢の人でごった返すであろう城南公園で、
うまく落ち合えるのか、少し心配……。
 そんなことを思った矢先、下から声が掛かった。
「その荷物、持ちましょうか」
「え? あ、これですか」
 バスケットを見下ろす純子。
「ご親切にありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。傾いてこぼれるよう
な物は入っていませんし、これくらいの混雑なら押しつぶされることもないと
思いますから」
 嫌な感じにならないよう、気を遣いつつ断ろうとしたため、語調がやや固く
なった。それがかえって相手の機嫌を損ねたのか、女性からすぐの返事はない。
聞き取れなかったにしては、様子が変だ。
「あ、あの」
「お弁当ね?」
 突然、そんなことを言った相手の女性は、顔いっぱいに笑みを広げている。
表情ばかりか、口ぶりも若返ったよう。
 純子が正直に、というよりもむしろ呆気に取られ、「はい、そうですが……」
と答えると、今度は嬉しそうにうなずいた。
「そちらの殿方と一緒に、桜の木の下で食べるのは、きっと、とても楽しいわ
ね」
 純子は相羽と顔を見合わせた。声は当然、彼にも聞こえている。
「あらあら、私ったら……。詮索してごめんなさい。あなたぐらいの頃、煮物
を作って、届けたことを思い出したから。お花見は、二人きりでは行けなくて、
大勢の友達からどうやって離れようかと、苦心したわ……」
 そう語る彼女は遠くを見る目を細め、昔日の記憶に浸っている様子。とても
幸せそうに映る。
「――春って、いい季節ですね」
 思わず、つぶやきのように言葉が出た純子。相手の女性は微笑みをたたえて、
ゆったりとうなずいた。
「ええ。ほんと、いい季節になりました」
 定刻通りにバスは到着した。お城の公園で一緒に降りるや、すぐさま、女性
の携帯電話が鳴った。「持たされてねえ」と言いながら、まだ慣れていない手
つきで電話に出る。会話の断片から、掛けてきたのは息子さんか誰かで、場所
取りのため動けない、これから言う場所に一人で歩いて来てくれということら
しい。
「ご一緒しましょうか?」
 電話を終えた女性に尋ねる純子と相羽だが、返事はやんわりとした拒否だっ
た。
「あの子達に、私が他人様の厄介になっているところを見られると、口やかま
しくてね。幸いにも、人出は思っていたほどではないから、平気でしょう」
「そうですか……。では、お気を付けて。あ、お話、ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ」
 一番初めの印象からすると、随分と若く、快活な仕種を見せる。この分なら、
ちょっと歩くぐらい、大丈夫だろう。両サイドに露店の建ち並ぶ道を、しっか
りとした足取りで進む。
「いい思い出を持っている人は、年齢よりも若く見えるのね」
 後ろ姿を見送ってから、純子がぽつり。
「って、あの人の歳、知らないけれど。でも、おばあちゃんになっても、あん
な素敵に笑えたらいいよね」
「なるほど。僕は、ああいう感じの歳の取り方、いいと思うな。何て言うか、
頼るところは頼るけれど、自分でできることは自分でするという気概があって」
「そこまで深読みする?」
「するする。――さて、ところで」
 片手で庇を作り、辺りを見渡す相羽。
「場所取りのことを考えていなかった僕らに、土地の余裕はあるかな」

 心配せずとも、城の公園は広い。大人数でならともかく、二人が座れて、そ
こそこ桜を楽しめるスペースなら、まだ残っている。ロマンティックとか、い
いムードからは縁遠いが、それはここを目的地に選んだ時点で、あきらめるべ
し。むしろ、相羽も純子も無意識の内に、そういう方向に進むのを避けようと
する心理が働いたのかもしれない。
「お昼には少し早いけど、お弁当、食べる?」
 ミニサイズのシート――風情のない青一色のやつじゃなく、白に淡いピンク
色で桜の花びら模様を散らしたデザインだ――を広げ、とりあえず“領地確保”
をした。お花見にはさほど悪くない立地。ただし、日差しがない。が、時間が
経つにつれて解消されるだろう。
「出店で何か食べ物を買うつもりなら、お昼は早いに越したことないよね」
「その言い方、私が買い食いをすると?」
「しないの? 着色したみたいに真っ赤なりんご飴とか、コーン内部がすかす
かのアイスクリームとか」
「食べません。でも、一つだけ。公園の外になるけれど、桜餅の美味しいお店
があって、お土産に買って帰るつもり。個人的には、くるみ入りのが……思い
出したら、先に食べたくなっちゃうじゃないの!」
「食べたくなっちゃった、じゃないんだ? 問題なし、だね」
「う……そうね」
 いつの間にか握っていた手のひらを解き、腕を下ろす純子。
「何だか、力が抜けた……」
 シートの上に、ぺたりと座り込んだ。相羽の方は、立ったまま、周囲を見回
し始めた。
「どうかした?」
「まだ飲み物を買ってなかった。行って来るから、リクエストをどうぞ」
「ありがとう……でも、自動販売機の場所、分かる?」
「いや、知らない。ここに来ること自体、二度目か三度目ぐらいで」
「やっぱり。小学生のときの歓迎遠足は、ここなんだけど、相羽君は六年の途
中で転校してきたもんね」
「それはあんまり関係ないような……」
「いいから、いいから」
 小首を傾げる相羽に微笑みかけ、純子は腰を上げた。
「私が行ってくる」
「じゃ、一緒に行こう」
「だめ。留守番をお願い」
「……分かった。日本茶の類なら何でもいいよ」
 あきらめつつ、名残惜しそうな声で言った相羽。純子はうなずいて、自動販
売機のある方角へ急いだ。
 けれども、歩を進める内に、思い直した。どこを向いても桜が観られる中を、
そんなに急いでは風情がない。仕事や早起きした疲れも残っているし、今日は
まだ時間がたっぷりあるのだから、のんびり、ゆったりしよう。
 一番近い自販機まで、結構距離がある。その上、普段なら公園の中程にある
芝生のスペースを横切り、ショートカットできるのだが、今日は花見客でにぎ
わっており、そこを縫うようにして行くのはちょっと勇気がいるし、かえって
時間を要するかもしれない。
 勢い、芝生のスペースを囲う形の径に沿って、迂回することに。そこから枝
道に入ってしばらくすると、飲み物の自動販売機がある。
(……うわぁ)
 枝道に入るなり、目のやり場に困った。この辺りは、桜を観るにはあまり適
当でないが、その分、静かで人が少ない。人が少ないと言っても、いることは
いる。全てがカップルであった。こんな場所故、観桜そっちのけで、真っ昼間
からいちゃついているのは断るまでもない。
(よ、よその自動販売機に行った方がよかったかしら)
 顔が火照るのを感じると同時に、冷や汗もかいている気がする。恐らく、カ
ップルの方は、他人のことなんて目に入っていないだろうけど、純子は足音を
潜め、なるべく静かに進んだ。
 さすがに、急ぎ足に戻る。俯いて、砂利の少ないところを選んで行く。所々
にベンチがあるが、いずれもカップルに占拠されていた。ベンチの脚は見ても、
男女の絡み合いそうな足は見ないようにと、顔を背ける。
 目的を果たし、両手にペットボトルを持って引き返すときには、いっそう足
早になって、半ば駆け抜けた。もう、静かにしようなんて、言ってられない。
首から上が熱くなってたまらなかった。
 問題のテリトリーから脱出すると、春の日差しを浴びているのに、涼しさを
肌で感じたほど。相羽の姿を見つけると、ほっとしつつ、最後のひとっ走り。
 相羽は純子に気付くと、声を掛けた。
「息を切らせるほど急がなくてもいいのに。……どうかしたの? 顔が赤い」
 シートの直前で立ち止まった純子を、頭のてっぺんから爪先まで、相羽の視
線が一往復。それでも理由に当たりを付けられなかったのか、首をひねる。
「お花見に来たんだから、桜を観なさいって言いたい」
 純子は状況を手短に伝えた。長々と話すと、思い出してまた火照ってきそう
なので、極力手短に。
 相羽は黙って聞きつつ、ペットボトルを受け取ると、代金を渡してきた。当
たり前のように二人分。
「あ、いらない。家で作って来れば、必要のないお金なんだから」
「そういうわけにも行かないでしょ。実際、作って来なかったんだし」
「でも」
「逆に、お弁当を作って来なかったら、多分、どこかで買って食べることにな
るだろ。その場合、僕の分までお代を持つ?」
「それは……ないわね」
 なんとなく納得。硬貨を受け取りながら、「そういうときは、逆に、おごっ
てもらっちゃおうかな、なんて」と返した。
「そりゃもちろん」
「うそうそ、今のなし!」
 慌てて打ち消しておく。
 にぎやかに話す内に、さっき目の当たりにしたラブシーンまがいの連続絵巻
は、遠くに去っていた。もしかすると、相羽が話題を飲み物の代金に移したの
は、わざとだったのかもしれない。
 純子は膝をつき、靴を脱いで座った。若干、間は空いているものの、相羽と
隣り合う形になる。
 落ち着いたところで、お弁当を広げる。たいして片寄っていなくて、内心ほ
っとした。
「にぎやかだね」
 個包装の濡れティッシュを受け取った相羽が、手を拭きながら辺りを見渡す。
ここに来るまでのバズが満員だったことからも分かるように、あちらこちらに
青いシートが咲いている。幸い、カラオケセットを持ち込んだグループはいな
いようだが、二箇所ほどから昇る煙は、バーベキューのものだろう。どんちゃ
ん騒ぎに興じる一団があるかと思えば、ロープで囲った広いスペースに一人、
ぽつねんと陣取っている背広姿の若い男性もちらほら。
「平日だから、もう少しくらい、静かだと思っていたのに」
「静かな方がよかった? も、もしかして相羽君も」
 忘れかけていた最前の光景を、自ら呼び起こしてしまいそうになった。
 そんな純子の心の動きに気付いているのかどうか、相羽は「ううん。まあ、
どちらでもかまわなかった」と答え、箸に手を。
「時間が合えば、また別の日に、河原にでも桜を観に行きたい気もするけどね。
――いただきます」
 手を合わせてから、唐揚げの一つに箸を伸ばす相羽。
 時間が合えばと言うからには、そのときも純子と二人でという意味なのだろ
う。汲み取った純子は、知らず、頬を緩めていた。
「いただきます」
 純子はそう言ったきり、相羽の方をじっと見る。反応及び感想を、期待半分
不安半分で待ち構えていると、手に力が入った。
 会話が途切れた不自然さからか、相羽は自分に向けられる視線に気付いた。
急いだ様子で、口の中の物を飲み込むと、「おいしい」と言った。
「本当?」
「本当。そんな不安そうにしなくても、味見をしてるんじゃないの?」
「もちろんよ。自信がなかったわけじゃないけれど、肝心なのは、あなたの口
に合うかどうか、でしょ!」
「おいしい。君が作ったってだけで、うまい」
 真顔で言ってから、相羽はにっと笑い、おにぎりを口に運ぶ。純子は赤くな
った顔を左右に振った。
「……もぉー、そういうんじゃなくって! 遠慮のない感想を言ってよ」
「香ばしくておいしいよ。味付けも……おにぎりの塩加減に、ちょうど合う濃
さになってる」
「よかった……って、それって、おにぎりが薄味だってことじゃない?」
「深読みしすぎ」
 ため息をつくと、相羽はおにぎりの入ったバスケットを純子の方へ少し、押
しやった。
「早く食べないと、全部もらうよ」
「――うん、私も食べる」
 やっと安堵でき、純子は二度目のいただきますをした。

 早めの昼食だったが、お弁当の中身は何一つ残らなかった。
 お腹が満たされると眠くなる。あくびをこらえつつ、片付けに取り掛かる。
ちなみにペットボトルは、まだ飲み切っていない。空にしても、自販機横の屑
入れはすでにいっぱいだから、持ち帰ることになる。
「足りた? 物足りなかったら、何か買って来る?」
「いや、充分。腹ごなしに身体を動かすつもりが、ちょっと億劫なぐらいさ」
 そんな返事に、純子は心中で色々考える。
(ということは、相羽君にとって、お昼の適量はこれよりほんのちょっぴり少
なめでよし、と。あ、でも、今日は食べ始めるのが早かったんだから、ぴった
りと思っていいのかしら? ああ、分からないっ)
 頭を抱えたくなる。直接聞けばすむ話なんだけれど。
「野球をやってる」
 顔を起こし、相羽の視線の先を見ると、公園内の芝の上で、小学生になるか
らないかぐらいの男の子――距離があるから断定はできないが、多分、男子ば
かりだろう――達が、ビニール製のバットとボールで、野球をしていた。みん
な半袖で、帽子を被っている。十八人にはとても足りないが、間違いなく野球
だ。緑色のボールを追って、駆け回っている。
「まさか、腹ごなしの運動で、入れてもらうつもり?」
「さすがにそれはない。それに、小さい頃に遊んだのはほとんどサッカーで、
野球はあまりしたことないんだ。あの子らより下手かも」
「野球よりもサッカーが多かったのは、やっぱり、ピアノの関係で?」
「一応はね。別に、父さんから止められていたわけじゃない。突き詰めれば、
サッカーの方が性に合った、好きだということ」
「この前、野球部の試合を観ていたとき、結構、詳しそうだったけれど」
「そりゃあ、基礎知識というか……野球をしないにしても、観戦まで嫌いな男
って少数派だよ」
「それじゃ、基礎知識のある相羽君に聞きますが、我が校の野球部は、今年、
どこまで行けそう?」
「どこまでって、夏の大会だよね?」
「よく分かんないけど、夏の甲子園。今やってるのは、春の甲子園でしょ?」
「そう、選抜大会。ただ、甲子園に行けなかったチームの大半は、もう次を目
指して試合をしてるところだよ」
「そういえば、春休みの間も試合をするっていうのは、聞いた覚えがあるわ。
じゃ、じゃあ、もう夏の予選が始まってるの?」
 慌てた口ぶりになったのは、佐野倉との約束を思い出したため。夏の地方大
会はなるべく応援に行く、と。
「ううん、違う。今はシード校を決める地区大会……のはず。ここである程度
勝っておけば、夏の予選で強豪校と当たるのがだいぶ先になる」
「つまり、今は、夏の地方予選じゃないのよね」
 一安心。その安堵する様を目の当たりにした相羽も、くだんの約束について
思い出したらしい。一つうなずくと、
「応援するからには、勝ち抜いて、甲子園に行ってほしいと思ってる?」
 と純子に聞いた。
「当然よ。だいたい、佐野倉君て、何故だか私のことを、その……勝利の女神
……みたいに思ってるところがあるし。だったら、期待に応えたいじゃないの」
 自分のことを「勝利の女神」と言うのは、恥ずかしいにもほどがあった。そ
こだけ声が小さくなる。
「だから、どれぐらい勝ち進めそうなのかを予め聞いておけば、心の準備がで
きるっていうか、肩の荷の重さが違ってくるっていうか……」
 純子の言い方に、相羽は咳を交えて微苦笑を浮かべた。それから答える。
「知ってると思うけど、春は地方大会で負けても出られる可能性がゼロじゃな
いが、夏は基本的に勝ち続ける必要がある。本番までに、佐野倉以外の選手が、
どれほど力を着けられるかが鍵だね」
「……」
 もう少し分かり易く、お願い!――純子はそんな目付きをしたつもり。そし
てそれは伝わった。
「正直言って、緑星野球部が勝てるようになったのは、佐野倉のおかげだと思
う。力のあるピッチャーが一人いるだけで、ゲームを作ることができる。でも
それは、ある程度間隔を空けて登板すればの話。地方予選はトーナメントだか
ら、勝ち進むにつれて、日程が厳しくなるのは分かるよね?」
「ええ。たとえば、準決勝と決勝は確実に連続になるっていうことでしょ。天
気がよければ」
「そうそう。当然、エースの佐野倉の投げる間隔も狭まる。それだけ疲れがた
まり易くなり、百パーセントの力で投げるのは難しくなる。だから、佐野倉以
外の選手、特に投手がどれだけ育つかが重要というわけ」
「分かった。でも、『特に投手が』の意味が、まだ……。ピッチャーが育たな
いと、だめなんじゃないの?」
「それは、あまりありそうにない、極端な場合を想定したまで。ピッチャーが
育たなくても、打線が物凄くパワーアップしたとすれば、たとえ佐野倉が連投
の疲れから点を取られようと、それ以上に点を取れば勝てるっていう理屈」
「確かに、あまりなさそう……。それで? 結局、どのぐらい勝てそうなの」
「最近の試合や練習を見てないし、分かんない」
「〜っ。やっぱり、野球は苦手みたいねっ」
「そんな風に言われても困る。今、僕がどんな予想をしても、大会が始まった
ら、少なくとも一度は、応援に行くでしょ、純子ちゃん?」
「それはまあ、一度はね。無理をしてでも行くと思う」
「だったら、そのとき精一杯、応援してやればいいよ。声が届くようにね」
「……ねえ、相羽君」
 思うところあって、語調を換えた純子。相羽も気付き、振り向いた。
「何、改まって」
「佐野倉君が転校してきたばかりの頃、変な噂が立ったの、知ってる?」
「変な噂……あったっけ。記憶にないなあ」
「野球部の強くない緑星に、佐野倉君が転校してきたのはおかしい。ひょっと
したら、他に目当てがあるんじゃないかっていう、あれよ」
「ああ、あったあった」
 途端に手を叩き、相羽は声を上げて笑い出した
「目当ては君、涼原純子ではなく風谷美羽としての君だっていう噂ね、ありま
した」
 シートの上に寝転びそうな勢いで、笑い声を立てる相羽に対し、純子は膝立
ちして、両腕を下向きに突っ張る。抗議の意思表示だ。
「わ、笑いごとじゃないわよー。今でこそ噂は収まったけど、私、まだ気にな
ってるんだから」
「悪い悪い。でも、君がいるから緑星に転校してきたっていうのは、想像力が
豊かすぎる噂で、あり得ないと思ってたから。それを真剣に悩んでいたんだと
聞いて、つい」
「ど、どうせ、私は思い込みが激しくて、早合点のおっちょこちょいです!」
「そこまで言ってないって。ごめん、謝る」
「……どうしてあり得ないって言えるのか、教えて」
「緑星に風谷美羽がいること自体は、調べれば分かるかもしれない。しかし転
校は、あくまで家族の事情、多分、親の都合だろう。子供が独りで決められや
しないよ。大金持ちの家に生まれてわがままし放題の箱入り息子なら、絶対に
ないとは言い切れないけどね」
「……納得した」
「よかった。たださ、僕の口から言うのもおかしいけど、佐野倉が君を気にし
ているのは、間違いない」
「やっぱり、そう思う?」
 それくらいは、純子も自覚がある。相羽は気軽な口調で答えた。
「応援に来てくれたら絶対に勝つ、とか言ったんだから、そりゃあね」
「……で? そのこと、相羽君は気にならないの?」
「別に。モデルやタレントをやってると、仕方ないところがある」
 焦ってほしいとか、やきもちを焼いてほしいとか、そういうつもりはないけ
れど。こうも素っ気ない反応は、ちょっと不満だ。
(じゃあ、佐野倉君が、もしも、私にもっとはっきりアプローチしてきたら?)
 そう聞こうとした純子に、相羽の返事の続きが届く。
「本当は、モデルもタレントもしないでほしい。その気持ちは、昔からずっと
一緒だ」
「――ありがとう」
 言葉が口をついて出る。振り返った相羽の目が、少し、びっくりしている。
「お礼を言われるようなこと、した?」
「した」
 人目がなかったら、手をぎゅっと握って、上下に大きく振りたいくらい。長
らくお留守になっていた手を動かして、荷物をバスケットに詰め込むと、鼻歌
が出た。
「少し風が出て来た」
 相羽が言った。さっきまで飛んで来ることのなかった花びらが、彼の手のひ
らにある。
 次の瞬間、一段階強い突風が吹き、一片の花びらを相羽の手から取り去る。
同時に、たくさんの桜の木が花を一斉に散らせた。舞い落ちた花びらがそこか
しこで小さな渦を作り、やがて土に、草に、伏せる。
「ああっ……」
 きれい――と見とれる一方で、残念にも思う。
「今年、もう一度、桜を観るんだったら、急いだ方がよさそうよ」
 相羽の横顔を振り返り、純子が言う。風は収まり、何事もなかったかのよう
に、桜は咲き誇る。まだまだ大丈夫と言いたげに見えた。
「盛大に散る桜って、きれいだけれど、寂しい。寂しいけれど、きれいって思
えばいいのかな。あはは」
「……桜がもしも、春の花じゃなかったら、こんなにも感じ入ることはないか
もしれない」
「え……っと、夏に咲いたとしたら、散っていくのも豪快で、寂しさや悲しさ
は感じないだろうってことね?」
「うん。秋や冬なら、逆に寂しさ、もの悲しさばかりに感情が傾く。そんな気
がするというだけなんだけど」
 日本の春は、別れと出会いの季節。寂しさと喜びが相次ぐ季節。そんな春に
こそ桜はふさわしく、桜は春にふさわしい。
「来てよかった」
 二人は声を揃えていた。
「ほんとに、いい季節になったわ。夏も秋も冬もいいけれど、今は春が一番」
「はは、変な理屈。でも、凄く分かる」
 公園内は、にぎわいを増していた。人の入れ替わりはあっても、減ってはい
ない。
「シートも片付けよっか」
 純子は腰を浮かし、膝を立てた。
「いつまでも場所を占領していたら、悪いわ」
「僕はかまわないけど、早起きして眠たいんじゃあ……。もう少し休めば?」
「寝たければ、最初から家にいます。大丈夫。相羽君と一緒にいる間は、平気
だって」
 純子が立ち上がると、相羽もそれならと立ち、靴を履いた。

 散策と呼ぶにはいささか騒がしかったけれども、公園の中をぐるっと一周す
るコースは、思ったほど人の往来はなく、快適な散歩プラス観桜と言えた。
「……」
「……」
 しばらく会話がなかった。せいぜい、「桜、きれいだね」「うん」ぐらいで、
あとが続かない。
 無論、この二人が今の段階で、“会話はいらない”の域に達してるはずもな
く、互いに、何を話せばいいのかなと戸惑っていた。共通の話題はあっても、
このような他にも大勢いる開けた場所で、二人きりで話すというのには、まだ
慣れていない。
 かと言って、焦りも退屈もしているわけでは決してない。二人で作り上げた
狭い範囲ながらも静かな空間を楽しんでいるのも、また事実である。
 だから、不満があるとしたら、ただ一つ。
(こういうのって、友達同士でも大差ない? できることなら、恋人同士らし
いことを……)
  隣を歩く相羽を、ちらと横目で伺いつつ、純子は思った。相羽はどちらか
というと純子ばかりを見ないよう努力しているらしく、桜の木から木へと視線
を移していた。それでも純子のことを気にする感じが、頭の微妙な動きや角度
で分かる。
 純子は視線を戻した。そしてバスケットを見つめる。持って来た食事をきれ
いに平らげた結果、今はとても軽くなっていた。
「本当においしかった?」
 純子が聞く。蒸し返したのは、色気がなかろうと、会話のきっかけがほしか
ったから。こちらを向いてほしいから。
「うん」
 相羽は振り向いて答えた。
「こういう広い場所で食べたから、とか、お腹が空いていたから、とかを抜き
にして、おいしかった」
「また作るね。あ、相羽君も家ではお手伝いで料理、作るんでしょう?」
「作るという程じゃないよ」
「うそ。調理部で見た限り、手際よかった。今度は相羽君にお弁当を作ってき
てもらおっかな」
「……レパートリーが足りない。弁当向きのおかずを覚えないといけないな」
 真剣に考え込む様子の相羽へ、純子は「冗談だってば」と急いで言い添えた。
すると相羽、困ったように答える。
「いや、僕の今の返事も、冗談のつもりだったのですが」
「――じゃ、お弁当とは言わないから、何か一品料理を作ってもらおうかしら」
 二人の間に、笑い声が自然と生じた。
 会話は弾んできたものの、やはり友達同士の域を出ないまま。傍目から見れ
ば充分、いちゃいちゃしていると映るかもしれないが、少なくとも純子と相羽
の二人にとって、これはいつものお喋りだ。
「知り合いがいても、気付かないまま、すれ違いそうだ」
 辺りに目線をやりながら、相羽が呟いた。その言葉で、純子も他人の目を意
識した。
「お互いに気付かないんだったらいいけど、向こうが気付いて、こっちが気付
かなかったら、やだなぁ。学校で冷やかされる。せめて、みんなで来て、それ
からばらけた方がよかったかも」
「違いがよく分からない」
「だって、今のこの状況、内緒でデートしてるわけで……」
「内緒にしてると、あとでばれたとき、冷やかされかねないから、友達にいち
いち報告する? これからずっと?」
「うーん」
 改めて言われるまでもなく、滑稽だ。
(要や久仁香とのことがあったから、オープンにしておきたいっていう気持ち
が強いのかな。けど、考えてみたら、聞かれもしないのに言うのって、嫌味に
なるかもしれない。
 でも、どこまで進んだのか、なんて聞かれたこともあるし……あれは絶対、
行き過ぎのお節介だと思う)
 考え込む純子の隣で、息を漏らす気配があった。振り向けば、相羽が前方を
見つめている。
「ここは、一段と……」
 歩みを止め、感嘆するのもうなずける。小径の両側には桜並木。枝を茂らせ、
伸ばして、頭上を覆っている。桜の花のトンネルの入り口だ。足下にも、花び
らが、まるで敷き詰めたようにある。さっきの風のせいだろう。
(こんなにきれいにトンネルになっているのは、私も初めて)
 純子も声を出すのすら忘れて、立ち止まった。

――つづく




元文書 #334 そばにいるだけで 64−1   寺嶋公香
 続き #336 そばにいるだけで 64−3   寺嶋公香
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