#297/598 ●長編 *** コメント #296 ***
★タイトル (lig ) 06/09/01 20:39 (399)
箱の中の猫と少女と優しくて残酷な世界[09/10] らいと・ひる
★内容
「興味深い物語ね。綿菓子で丁寧に包まれたみたいな優しくて甘ったるい世界じゃ
ない。いいよね、こんな風に名前だけじゃない『本当の友達』がいる場所は。でも
さ、ありすちゃん。無意識に込められたメッセージに気付いている? 登場人物の
苗字、主人公とその親友二人と先生の分ね。最初の文字を繋げると『た・す・け・
て』になるけど……これは偶然? それともありすちゃんは誰かに助けてもらいた
いの?」
「……」
血液が凍るような感覚。頭から血の気が引いていく。
「内容も考えてみればすごいよね。これはありすちゃんの理想の世界なのかな?
もしかして現実では誰もに忌み嫌われ、誰からも愛されない。だから、愛される理
想の自分を夢見ている」
否定できるわけがない。彼女は読み解いてしまったのだから。
だが、それは安息に付く死者の眠りを妨げる墓荒らしのようでもあった。
「返して!」
ありすは咄嗟にそのノートを奪い取る。これだけは誰にも汚されたくない。そん
な想いで彼女の中はいっぱいであった。
どんなに罵られたっていい。
どんなに痛めつけられてもいい。
これだけは……これだけは誰にも触れて欲しくない。ありすの心は悲鳴を上げて
いた。
ありすがこのノートに、妄想ともよべる世界を書き始めたのは、三年前。
ある事件をきっかけに、彼女は現実を拒絶し、妄想の中に生きる事を選んだのだ。
それは妄想という形の中で一つの世界を構築しつつある。
綺麗で純粋で優しくていつもそばに居てくれるありすだけの友達。
ありすを愛してくれる世界の一部。
最近はホワイトラビットのおかげで書くペースが遅くなっていた。それでももう
一つの世界の日常は、止まることも壊れることもなくゆったりと流れていた。
だからこそ、これは他人が触れてはならないもの。
それなのに。
羽瑠奈に心を許したおかげで、隙ができてしまったのだ。
現実に再び希望を持ってしまったのだ。
その僅かな隙が命取りとなった。
懸命に構築してきたこの世界に亀裂が入る。
二人の間を重苦しい空気が張りつめた。
ばつが悪いと感じたのか、羽瑠奈はしばらくの間黙している。
苦痛だけの時間が過ぎていく。
後悔しか感じられない。
時間はもう巻き戻ることはなかった。
「そういえばさ」
沈黙に耐えられなくなったのか、羽瑠奈の方から口を開く。
そして、つまらなそうに机の上のホワイトラビットを小突きながら彼女は言葉を
続けた。
「そういえばさ、このウサギってさ、英語だと『hare』なんだよね」
聞き慣れない言葉が出てきたので、ありすは英語の知識を記憶から引き出す。
「え? ウサギって『rabbit』でしょ」
「うん。でも、この『サンガツ』は『hare』なんだよね。『野ウサギ』はそうだっ
て聞いたよ」
「サンガツ? 野ウサギ?」
「だって、茶色でしょ。それに頭に変な藁の冠被ってるし」
一瞬、羽瑠奈が何を喋っているのか理解できなかった。いや、この世界に漂う違
和感にありすは気付いていなかっただけかもしれない。
「羽瑠奈ちゃんには茶色に見えるの?」
「ありすちゃんには何色に見えるの?」
ホワイトラビット。白兎。着色を忘れられたのではないかと思えるほど真っ白だ。
体毛だけでなく、着ているチョッキでさえ。
「白一色だよ。だからあたしはホワイトラビットだと思っていたんだけど」
どうも会話が噛み合わない。ありすには何がおかしいのかもわからない。
「『march hare(三月兎)』と『white rabbit(白兎)』は色も役割も全然違うよ。
私、ファーストフードで言ったよね。アリスのティーパーティーみたいだって。だ
から、ありすちゃんもてっきりそう見てると思ったのに」
どうして二人の見ているものが違うのだろうか。ありすは混乱しそうな頭を精一
杯働かせる。
もしかしたらありすの方が魔法使いとしての資質が低いのかもしれない。だから、
色まで認識できないのだ。そう思い込もうとした。
だが、何かが引っかかる。羽瑠奈は「頭に変な藁の冠被ってる」と言った。そん
なものは彼女には見えない。それさえも、能力の差なのだろうか。
「ラビ、どういうことなの?」
ホワイトラビットは沈黙を保ったままだ。
どうして教えてくれないのだろう、そう思いながらも何か嫌な考えが頭を過ぎる。
それを確認する為の質問は簡単だ。
「初めての時、ラビがなんて喋ったか覚えてる?」
ありすは慎重に言葉を選びながら問いかける。
「うん。『こんにちは』って挨拶してくれたでしょ」
ソンナハズガナイ。
あの時、羽瑠奈が「ウサギ」と言ったのでホワイトラビットはそれに怒って興奮
して、わけのわからない言語で自分の名前を叫んだのだ。だから「こんにちは」と
いう彼女の記憶は間違っているはずだ。もちろん、ありすの記憶が間違っていない
という前提だが。
会話が噛み合わない。有り得ない状態だ。二人は同じものを見て、同じ感覚だと
わかって、それで仲良くなったというのに。
いくら考えても答えは出てこなかった。ありすはそれを誤魔化す意味も含めて、
まったく関係のない世間話を始めながら羽瑠奈の怪我の手当をした。
余計な事を考えてはいけない。
それはありすがうっすらと『世界が崩壊してしまう』という事に気付いているか
らだろう。
だから慎重に言葉を選び、羽瑠奈に接した。
ふと彼女の右腕の包帯が緩んでいることに気付いてしまう。こういうときに気を
利かせすぎたところで悪い方向にはいかないだろう。
「あ、羽瑠奈ちゃん、包帯巻き直してあげようか」
そう言って彼女の手に触れたありすは何か違和感を感じる。
「あ、ごめん。大丈夫だから」
するりとありすの手から離れていく。
ゆるりと躱された。拒絶されたわけではない。だから彼女はそこで思考を止めた。
羽瑠奈との信頼は回復した。ただし、ありすが必要以上の沈黙を守ることで。
家に帰るという羽瑠奈を送ってありすも外に出る。もともと索敵の為に町内を巡
回中だったのだ。
隣を歩く羽瑠奈は何も喋らず、ありすも黙って口を閉じている。不必要な事を喋
らない限り、羽瑠奈とは友達でいられる。彼女はそれを本能的に悟っていた。
だから今日のことは忘れよう。せっかくできた友達なのだからと。
ありすはなぜか溢れそうになる涙に気付いて空を仰いだ。
長い坂道の途中で羽瑠奈の足が止まる。
ありすは何事かと、彼女を見るとその表情は驚きで硬直したかのようだった。
ふと人の気配を感じて前を向くと、どこかで見かけた人物がこちらへと歩いてく
る。
小太りなその体型と顔には見覚えがあった。
「どうして、生きてるの?」
ありすが言おうとした言葉をそのまま隣の羽瑠奈が呟く。
「やあ、奇遇だね。こんなところで会うなんて」
男はありすの存在など気にかけない素振りで、隣の羽瑠奈へと言葉をかける。
「どうして……」
そこで羽瑠奈の言葉は止まってしまう。まるで目の前の現実が受け入れられない
かのようでもある。
だが、その気持ちはありすにも少しは理解できた。なぜなら、目の前の男は生き
ているはずがないのだ。公園のトイレで死んでいた。公園の管理業者の老人が発見
して警察に通報したのだ。彼女もその場に居合わせたのだから間違いない。
まさか、それさえも幻だというのか。ありすは忘れようとしていた家での羽瑠奈
とやりとりを思い出す。
記憶が改竄されているのか。それとも現実がねじ曲がっているのか。綻びを見せ
た世界はどちらもありすには認め難いものだった。
「ほう、俺を見てそれほど驚くとは興味深いね。まさかとは思うけど、弟のハルミ
ズを殺したのは君だなんてオチはないよね」
冷静だがどこか粘着的な喋りは、不気味さとおぞましさを秘めているようだ。
「弟?」
言葉を発したのはありすだ。それが事実なら違和感の説明は簡単にできる。そう、
カメラの男はたしか『ダム』と名乗っていた。『トゥイードルダム』と。よく考え
れば、それはアリスの物語に出てきた人物ではないか。彼らは双子だ。
「そう、残念ねダイチさん。せっかくあなたが死んだと思って喜んでいたのに」
開き直ったかのように羽瑠奈が笑う。口元を歪め、まるで現実そのものを嘲り笑
うかのようだ。
「相変わらず嫌味ったらしいね『コスプレお嬢ちゃん』」
粘着的な言葉は軽蔑感を含む呼びかけで終わる。
「典型的なオタが何言ってんの?」
「ふん、見栄えばかりに心を囚われている人間が何を言う。きっとその醜い心を隠
す為に、そんなゴテゴテの衣装が必要なんだね」
「あなたの方が醜い人間でしょ。そんなあなたがピアノを弾くなんて考えただけで
もぞっとするもの。バイオリンが駄目だからって簡単にそれを捨ててピアノに転向
するなんて、浅はかな考えとしかいいようがないわ」
「ふん、所詮は貴族階級の生活に憧れるだけの似非お嬢のクセに」
「あなたみたいに確固たる信念もない人にそんな事を言われる覚えはないわ」
二人の間には何か確執があるのだろうか。会話から感じられるのは張りつめた雰
囲気だ。とてもじゃないが、冗談を言い合っているようには聞こえない。
「そんなひらひらした服を着て男の注目を集めることしか考えられないような女に、
音楽の何がわかるというのだ」
そう言って男は羽瑠奈の胸元のリボンに手を触れようとする。
「私に触れるな!」
直前で放たれた羽瑠奈の声に、男の手はびくりと止まる。だが、ニヤリと笑みを
浮かべる男の顔はなぜか勝ち誇っているかのようにも感じられた。
「俺はね、つくづく不思議に思ってたんだよ。君の服は安い物じゃない。貧乏人で、
やっとの思いでピアノ教室に通える君がどうやってその服を手に入れたんだ?」
「そ……それは」
羽瑠奈は言葉に詰まってしまう。
「俺は知ってるんだよ」
「……」
彼女は完全に俯いてしまっている。前に見た勇ましい姿の彼女はどこに行ってし
まったのだろう。
「俺はね、援助交際なんていう濁した言葉は使わないよ。だから、君の友人のいる
前ではっきりと言ってあげよう」
男はちらりとありすを見る。
「やめて!」
「こいつはね。男に身体を売って、金だけじゃなく……」
羽瑠奈が男に突進していったかと思うと、彼の言葉はそこで途切れてしまった。
「あなたなんかにわかるわけない。あなたなんかにわかるわけない。あなたなんか
にわかるわけない」
悲鳴もなく男は倒れる。その胸の辺りは血で真っ赤に染まっていた。
振り返った羽瑠奈は虚ろな瞳でありすを見つめる。右手のナイフは鈍い光を放ち、
左手に巻かれていた包帯はさらにほつれて患部と思える箇所が見え隠れしていた。
「今見たことは黙ってて、そうじゃないとありすちゃんも殺さなくちゃいけないか
ら」
その言葉からはなんの感情も読み取れなかった。ゆっくりとありすに近づいてく
る。
だが、彼女が黙っていたところで、羽瑠奈が警察に捕まるのも時間の問題だろう。
公園での殺害と違って、証拠がありすぎるのだから。
後ずさりしようとしたありすの足が止まる。
公園?
彼女はなぜか当然のように羽瑠奈と公園での事件との関連を見いだしていた。た
しかにあの男は羽瑠奈が犯人かもしれないことをほのめかしていたし、今の彼女に
は人を殺すことなど造作もないように思える。
ふと頭に浮かぶのはあの事件の日のこと。
不条理な謎かけを解いてみたいのではない。ティーパーティーの続きをしようと
いうわけではない。
ただありすは、ふと思い出した事を訊かずにはいられなかっただけだ。
「ねぁ、あの日……あの男の人が殺された日に、あたし羽瑠奈ちゃんと会ったよね。
で、羽瑠奈ちゃんはレンタルビデオを返しに行くって言ってた。でも、それってよ
く考えるとおかしいんだよね。だって、羽瑠奈ちゃんの家ってテレビもビデオもD
VDもないって言ってたじゃない。だとしたら、借りたビデオはどうしたの? 誰
かからポータブルのDVDプレーヤーを借りたのかな……ううん、羽瑠奈ちゃんは
DVDじゃなくてビデオを返すって言ってたんだから、ビデオデッキが必要だよね。
ねぇ、それはどうしたの?」
「それはあれよ。友達の家で見てきたから」
羽瑠奈はさらりと答える。
「それからね。もう一つ疑問だったのが、あの日の羽瑠奈ちゃんの格好。もちろん、
いつもゴスロリってわけじゃないと思うから、それはそれでいいんだよ。でもさ、
黒い服を着るってのが羽瑠奈ちゃんの信条じゃなかったの。あの日はそれが崩され
ていたよ。まるで何かを恐れるように身体の防護に徹した服装だった。上下ともに
ジーンズ。これが何を示すかは、なんとなくわかるよ。ジーンズはインディゴで染
め上げられている。昔の人は毒虫や毒蛇を避ける為にこれを身に付けたとも言われ
ている。もちろん、どれだけ効果があったかはわからないけどね。でも、ブーツま
で履いての完全防備だった。もしかしたらと思うんだけど、あの時、あたしと会っ
て現場の状況を聞かなければ、そのままあの公園まで行ったんじゃないの? 扉が
開けられて蛇が逃げ出すのも計算に入れてたんじゃない? もちろん、これはあた
しの想像。だから、間違っていたら間違っているって言って」
「……そうね、私だっていつも黒い服を着ているわけではない。それが効果的な場
所を考えているわ」
羽瑠奈は歪んだ笑いを浮かべている。ありすが言っていることはあくまも状況証
拠だ。決定的な根拠があるわけではない。否定されればそれ以上は追究する気はな
かった。
ところが彼女の頭の中には、次から次へと疑問が湧き出てくる。思考を無理矢理
停止させていた箍が外れてしまったのだろうか。それゆえにありすは気付いてしま
った。
「あと、これも素朴な疑問。毒蛇に噛まれた事は話したけど、どの種類の蛇かはあ
たし言ってないよね? それなのに羽瑠奈ちゃんは、ヤマカガシに関しての症状を
きっちりと説明してくれた。ううん、もちろん都内のこんな場所でコブラやハブが
いるわけがないし、いくら本州に生息しているからといって山奥にいるマムシが出
てくるはずがない。こんな場所でもヤマカガシならギリギリでありえる……だから、
一般論として羽瑠奈ちゃんが説明してくれたのならわからなくはないの。でも、で
もね、もしかしてって思うの。羽瑠奈ちゃん、ヤマカガシに噛まれたことがあるん
じゃないかって」
「バカバカしい。私が毒蛇に詳しかったからといって、どうしてありすちゃんはそ
んな飛躍した想像ができるの?」
「だって、羽瑠奈ちゃんのその手の傷」
ありすはほつれた包帯の端を引っ張ると、するりとその白い手が剥き出しとなる。
彼女が見つめる親指の付け根にはぽつりぽつりと二箇所、点のような刺し傷の痕が
残っていた。それは、よくみれば牙を持つ動物に噛まれたような痕にも見えた。
「え?」
「それが毒蛇に噛まれたものだとしたら、ずいぶんと納得がいくの。神経にまで毒
が回っていたら、ううん、ヤマカガシは溶血性のものだから、この場合影響するの
は指先の毛細血管ね。毒のせいで指先の感覚は普通じゃなくなる。いくら噛まれた
患部が治ったからといって、他の箇所もすぐには治らない。そりゃ、ピアノを弾く
のにも支障が出てくるでしょ。羽瑠奈ちゃんあの時言ったよね、気休めで湿布を貼
ってるって。でもその痺れは毒によるものだから、そんなものを付けるはずがない。
あたしと会ったとき、毒蛇に噛まれた事を言うわけにはいかなかった。とりあえず
差し障りのない症状だけを正直に告白した。で、それに後付の説得力を持たせる為
に湿布の話を持ち出した。違和感はあったんだよ。羽瑠奈ちゃんからは湿布の香り
がしない。ついさっきだってあんなに患部に顔を近づけたのにね」
「……」
羽瑠奈は答えない。何か答えようと、口の中でぶつぶつと呟いている。でもそれ
はありすには届かない。
「羽瑠奈ちゃんのおばあちゃん家って、群馬県薮塚町かな? あたし調べたんだけ
どね。マムシの血清って全国どこでもあるのに、ヤマカガシの血清を保管している
のって全国に数箇所にしかないんだってね。日本蛇族学術研究所ってとこが群馬県
薮塚町にあって、担当医はここに直接連絡して血清を入手するらしいよ。だから、
逆を言えばここを調べれば、誰がヤマカガシに噛まれて血清を必要としたかがわか
るってことだよね。どうして蛇に噛まれたのか? この場合、そのおばあちゃんの
家に遊びに行って噛まれたというのが無理のない答え。でもさ、ヤマカガシって、
こちらからちょっかいをかけない限り、攻撃されることは滅多にないんだよね。た
とえ歩いていて間違って踏んづけてしまったとしても、最悪でも噛まれるのは足だ
よね。けどさ、実際には手を噛まれている。……少し考えればわかるよね。羽瑠奈
ちゃんは不注意に毒蛇に噛まれたんじゃない。それを捕獲しようとして噛まれてし
まった」
喋りすぎだった。沈黙は守るべきだった。それはわかっていたはずだ。でも、そ
れに気付くにはもう手遅れだった。
「どうしてみんな真実が好きなんだろうね。そんなのどうでもいいじゃない」
羽瑠奈は嗤っていた。ありすを嗤っていた。世界を嗤っていた。
「あ……ははは」
世界の崩壊は始まっていた。今度はありすの笑顔がひきつる番だ。こんな世界で
真実を追究しても意味はないのだから。
「それよりもありすちゃん。あなたの魔法とやらで、あの男の死体をなんとかして
くれない? さすがにちょっとまずいよねぇ。今度ばかりはさすがに私ケーサツに
捕まっちゃうよ」
「え?」
「あなたなら簡単でしょ? それとも私の願いなんか叶えられない?」
「ちょっと待ってよ。羽瑠奈ちゃんなんか……」
その後の言葉は続けられなかった。どう考えても彼女の行動は異常だ。異常者に
その行動が変だと指摘することは無意味に近い。
ありすが何も答えられずに呆気にとられていると、しびれをきらしたかのように
羽瑠奈が言葉を投げかけてくる。
「ねぇ、だったらそのウサギのぬいぐるみを私にくれない? ありすちゃんができ
ないのなら私が代わりにやるからさ。私だって魔法使いの資質はあるんでしょ?」
そう言われてありすは思わずホワイトラビットを見つめる。そして、擦れるよう
な声で問いかけた。
「言う通りにした方がいいの? 羽瑠奈ちゃんの方が魔法使いの資質があるんでし
ょ?」
それに対し、ホワイトラビットは静かに語る。
「ありす。おまえは確かに魔法使いとしては未熟だ。だが、誰にも負けない真っ直
ぐな心を持っている。おまえは許せるのか? 魔法をそんな事に使おうとする彼女
を。もし友情という目先の利益を優先するというのなら我を渡すがいい。そんな心
の持ち主に我は用はない」
自分が助かる為に、一番の理解者であるホワイトラビットを渡すなんて……そん
な事できるわけがない。たとえこの場を逃げられたって、後で必ず後悔する。
逃げてもいい。でも、大切なものだけは捨ててはいけない。
「ごめん。ラビは渡せない」
羽瑠奈に向き直ってそう告げた。
「いかん! ありす、逃げるのじゃ!」
それは、ホワイトラビットの叫び。そして、本能が告げる危険信号。羽瑠奈のナ
イフを握る手に力が入る。
ありすは、羽瑠奈に背を向けると全力で駆け出した。もしかして、彼女もまた邪
なるモノに取り憑かれてしまったのであろうか。そんな可能性を考えてしまう。
「待ちなさい!」
羽瑠奈の呼び声は正気ではなかった。何かが壊れてしまった。何かを超えてしま
った。その上、何かを失ってしまった。そんな感じだった。
追いかけられるうちに、だんだんと恐怖がありすの身体を蝕んでいく。頼みの綱
であるホワイトラビットは先ほどから反応が鈍い。「逃げろ」としか喋らなくなっ
ている。
ありすは混乱して手足が思うように動かなくなっていた。しまったと思った時に
は、足がもつれて転んでしまう。なんとかホワイトラビットは放さずにいたが、左
肩に下げていたトートバッグを落としてしまう。
バッグの中身が路面に散らばる。だが、それを全部拾っている余裕はない。背後
には羽瑠奈が迫ってくる。
ありすは、咄嗟に一番大切な物を一つだけ掴んでそのまま駆け出す。この時、あ
りすが左手に握ったのは一冊のノート。後に魔法のアイテムであるカチューシャを
取らなかった事を彼女は後悔する。
転んだ事で距離が縮まったのか、振り返ると、既に羽瑠奈は追いついていた。
「なんで逃げるの? 真実が知りたいんじゃないの?」
彼女の手に握られたナイフが迫る。
「落ち着いて羽瑠奈ちゃん。あたしを殺しても何にも解決は」
その言葉は聞き入れられなかった。突き出されたナイフがありすの左肩をかすめ
ていく。回避行動をとっていなかったら、今頃背中を刺されていたかもしれない。
切り裂かれた衣服から血が滲み出す。
羽瑠奈の持っているナイフにはうっすらと血液が付いていた。たぶんあの男のも
の、それに加えありすの血も付着したのだろう
「どうして? どうしてこんなことになるの?」
正面に羽瑠奈を見据え、ありすはゆっくりと後ずさりしながら必死でホワイトラ
ビットに問いかける。マジックアイテムであるネコ耳付きのカチューシャは先ほど
落としてしまった。今の彼女には魔法どころか、敵の姿さえ見つけられる状態では
ない。
「理解不能」
感情のこもらない声でホワイトラビットは答える。
「どうして? 羽瑠奈ちゃん、もしかしたら邪なモノに操られているんじゃないの?
その可能性が一番高いんじゃないの?」
それが一番自然な答えだった。それならばありすにも納得ができる。だが、ホワ
イトラビットは肯定してくれない。
「理解不能」
まるで機械のような返答だ。いったいこの世界に何が起きているのだろう。
ナイフを持った羽瑠奈は、顎をあげてありすを見下すように視線を投げかける。
「どうせ生きててもしょうがないんでしょ。友達すらいないこの世界になんの未練
があるのよ」
その言葉は痛かった。まるで心の傷口を抉られているかのような痛みだ。
でも、自分から死を望まないうちは殺されるわけにもいかない。ありすはまだ
『逃げる為に消えたい』と思っても『この世界から消えたい』とは考えていなかっ
た。
じりじりと後退しながら、なんとか逃げる手段を考える。
「あ」
だが、その緊張は一瞬で崩れた。
再び足がもつれたありすはそのまま尻餅をついてしまう。
最悪の状況だった。
無論、それを見逃す羽瑠奈でもない。
彼女の口元が右側だけニヤリと吊り上がる。
突き出されるナイフ。
消えたい?
本当にそう願うなら、この狂った世界から消え去ることは簡単だ。ちょっと苦痛
を味わうかもしれないが、ただそれだけで願いは達成できる。
消えたい?
そうすれば楽になれる。もう何も悩む必要はない。生きる苦しみも、灰色の未来
も見ずに済む。
でも、ありすは消え去ることを拒絶した。なぜだかわからない。これほどまでに
世界に絶望しても、希望すら掴めなくても、それでも彼女は拒絶する。
そして、心の底から叫んだ。
「助けて」
それは生への渇望だった。
刹那。
右手で握っていたホワイトラビットが急に動き出し、そのままナイフへと突進し
ていく。
「!」
ホワイトラビットに突き刺さるナイフ。
その瞬間、そこから生み出された光の球がみるみる膨張してありすと羽瑠奈を包
み込んだ。
視界が光に飲み込まれ、右も左も天も地も全ての方向感覚がなくなるというホワ
イトアウトにも似た現象が彼女を襲う。
『契約受理』
そんな言葉がどこからともなく聞こえてきた。
光しかない真っ白な世界はだんだんと薄れていき、再び現実の世界が戻る。見慣
れた街並み、聞き慣れた雑音、木々の青臭い匂い。
現実に引き戻されたありすは右手を前に掲げていた。
羽瑠奈はそれに向かってナイフを突き出している。
そして、そのナイフの先にあるものは、ありすが持った一冊の本であった。ちょ
うどその本にナイフは突き刺さっているのだ。それは、ハードカバーの古臭い書物
である。製本技術が発達する前に造られたのではないかと思われる、地金で綴じた
頑丈で重々しい本だった。
「叉鏡ありす」
人間とは思えない機械を通したような歪んだ声が響いてくる。
「え?」
ありすは声の主を確かめようと、横を向いた。
そこには異形の人型が立っていた。黒い翼を持ち、猛禽類のような嘴がある顔立
ち。目が非常に鋭く、見つめているだけで気分が悪くなってしまう。
「ひぃー!」
そのあまりにものおぞましさに、ありすと対峙していた羽瑠奈が悲鳴とともに口
から泡を吹いて倒れてしまう。
「汝は契約者なり。汝の思うままの願いを申すがよい」
鋭い眼光はそのままありすを捉える。胃の中の物が逆流してきそうだ。羽瑠奈が
倒れてしまったのも納得が行く。
「願い?」
「汝は我と血の契約をした正統なる者だ。どんな望みも叶えよう。それが世界を破
滅させようと」
書物に刺さったナイフ。それにはありすの血が付いていた。それが何を示すのか
は、今の言葉で理解ができた。だが、彼女にとってはそんなことはどうでもいい。
「ちょっと待って、ねぇラビはどうなったの?」
右手にもっていたホワイトラビットは、いつの間にか書物と入れ替わっていたの
だ。
「ラビ?」
「そう、ウサギの形をしたぬいぐるみ。あたしの一番の理解者」
「なるほど、それは言い得て妙だな」