AWC 水と和音(わおん) 中     泰彦


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#236/598 ●長編    *** コメント #235 ***
★タイトル (BWM     )  04/08/11  23:50  (249)
水と和音(わおん) 中     泰彦
★内容
                                〜 4.拒絶 〜

 音楽室にはいると、はっとしたようにこちらを向いた和音と目があった。
 どうやら他にはまだ誰も来ていないようだ。
 しまった、と思う間もなく、和音が顔を背ける。どうやらピアノを使って音取りをし
ていたようだけれど、ピアノと向き合ってはいるもののその手は膝の上に置かれたまま
だ。軽く握った拳は、遠目に見ても少し震えている。
 何か声をかけようと思って言葉を探すけれど、和音の背中は話しかけられることをか
たくなに拒んでいた。いや、正確には私を完全に拒んでいた。
 私は肩をすくめると、壁際にある電子ピアノの脇に鞄を置いて楽譜を取り出す。今日
はサウンド・オブ・ミュージックの曲を練習する予定だ。電子ピアノに向き合うと、和
音とはお互いに背中を向け合うことになる。背後ではきっとさっきと同じ姿勢でじっと
固まっていることだろう。ピアノと向き合っているはずなのに、その音は聞こえてこな
い。
 嘆息。
 聞こえるようにしてしまう辺り、私は嫌味な女だ。
 こんな状態が、もう一週間も続いていた。

 事の発端は、杉原君に呼び止められたあの日。
 練習で新入生が思いのほか期待できるのが分かったということで、三橋先輩も福岡先
輩も大喜びだった。私たち新入生はまだ合唱のことも良く分かっていないのにほめられ
てしまい、喜びというよりはとまどいの中にいた。
 そして気をよくした三橋先輩が、あの発言をした。
「サウンド・オブ・ミュージックのオブリガートは桐島さんにやってもらおうかな」
 いわれた当の本人はおそらくオブリガートの意味も良く分かっていなかったに違いな
い。
 オブリガートとは主となる旋律を補助するように流れる旋律のことで、普通は女性の
高音であるソプラノよりさらに高い音を差すことが多い。和音は確かに高い音がきれい
に出ていた。
「よろしくね」
 和音は、そう言われてようやく我に返ったらしく、急にあたふたしだした。
「ええと、私ですか?」
「そう、桐島さんって1人しかいないでしょう?」
 こともなく言う三橋先輩。
「もしかして双子の姉妹と入れ替わってる?」
 そんな訳ないだろう、と私は心の中でつっこみを入れたが、和音はそんな言葉にすら
律儀に対応する。
「ええと、私は姉も妹もいないんですけど」
「いや、本気で答えられても困るんですけど」
 案の定、先輩は苦笑していた。
「大丈夫。今のところこの中で一番高音がきれいに出るのは桐島さんだから。できるっ
て」
「は、はあ、でも……」
 まだもごもごと言っている和音に「じゃ、そういうことで」と決定を告げて、三橋先
輩は練習を再開する。

 そして、和音のオブリガートの出来は最悪だった。

 バス停でバスを待つ間、和音は終始無言だった。
 あの後オブリガートのある部分を10回は練習した。いや、練習しようとした。けれど
タイミングがつかめなかったのか和音が全く歌わなかったのが半分、歌い始めたのに急
に歌いやめてしまったのが3回。歌い始めたのにまるで音が違ったのが2回。三橋先輩も
さすがにこのまま何度繰り返しても無駄だと思ったのだろう、「急に言われたから緊張
しちゃったかな。また今度やろう」と言って別の曲の練習に切り替えてしまった。
 和音からはショックの色がありありとうかがえる。直後に目にためていた涙こそひい
たが、気恥ずかしさからか真っ赤だった顔は、むしろ青ざめていた。私の「大丈夫だっ
て」という励ましにも黙ってうなずくだけだ。
 扉が閉まって、バスはやや乱暴に走り出した。一番後ろの座席に並んで腰掛けた私た
ちだったが、話し出すきっかけがつかめない。
 和音が口を開いたのは、バスが右折しようとして大きく揺れた後だった。小さな悲鳴
をあげたから、声の出し方を思い出したのかもしれない。
「ええと、私、どうすれば良いんだと思う?」
 前の日までの私なら、迷うことなく和音を励まして自信を持たせてあげたに違いな
い。
 けれどその時、私は杉原君の言葉を思い出していた。
 答えを与えないで。
 私の励ましは、オブリガートを降りるという選択肢を奪うことにならないのか?
「和音はどうしたいの?」
 思いがけず問い返されて、和音は「え?」と私を見た。
「どうって言われても……」
 床へ視線を落とす。しばらく考えて、つぶやくような言葉が返って来た。
「みんなは、どうして欲しいのかな」
「ねえ和音」
 私は彼女の顔をのぞき込むようにして言う。
「他の人は関係ないでしょう。あなたはどうなの? やりたいの? やりたくないの?
 上手かどうかはその次じゃない?」
 少し強い口調になる。和音の顔に浮かんだ驚きともおびえとも取れる表情を、私はあ
えて無視した。今ここで引いたら、和音はこの先も同じようなことを繰り返すことにな
る。そんな気がして。
「私は、みんながやった方が良いと思う、なら、やる」
「それは他人の意見に流されているだけでしょう。あなたの意見じゃない」
 和音の声が弱々しくなるのに反比例して、私の声は大きくなる。そしてそのことがま
た、和音の声を小さくさせてしまう。悪循環だと思ってはみても、容易には抜け出せな
い。
「いつもいつも他人の顔色を見てないで、たまには自分で決めなさいよ」
 次の瞬間、和音の顔がこわばった。
「いつも?」
 聞こえるか聞こえないかのつぶやき。私は、自分のうかつな失言を悔いたがもう遅
い。
「いや、今までが迷惑だったって事じゃないよ。杉原君から話を聞いたから、さ。
「響一が?」
 私は二重の過ちを犯したことに気づいた。自分の知らないところで自分の話をされて
気分が良いはずがない。不信感を抱いてくれと言わんばかりの失言だ。
 気まずい空気が流れ、私も和音も互いを直視できなかった。バスのエンジン音がやけ
にうるさい。車中に客は少なく、いくつかの停留所を通過する。
 先に動いたのは和音だった。すっと立ち上がる。
「和音?」
 意図が分からず声をかけた私の方は見ずに、和音は降車ボタンを押した。
「私、もう降りるから」
 気づけば次は和音が降りるバス停だった。彼女は私より3つ手前のバス停が最寄りなの
だ。
 バスは乱暴に止まった。私は前の座席につかまったが、大きく体が揺さぶられる。け
れど和音は手すりにつかまったままほとんど揺るがなかった。それは硬化した彼女の信
条の表れのよう。
 じゃあねもまたねもなく、彼女はタラップを降りた。
 ブザーが鳴ってから扉が閉まる。バスは止まった時と同じように乱暴に発車した後ろ
を振り返ったが、暗がりの中で和音の表情はよく見えなかった。

 そしてそれから一週間、私は彼女に避けられていた。
 部活には出てくるが、先輩には「少し考えさせて欲しい」との申し出があったらし
く、新入生歓迎会の本番直前までオブリガートのある曲の練習は取りやめになった。
 休み時間に彼女のクラスへ行ってみたこともある。けれど私の姿を見るなり彼女は目
に見えて緊張し、図書室へ行ったりトイレへ行ったりを理由に会話は拒絶された。
 杉原君に事情を説明して取りなしてもらおうかとも思ったけれど、第三者から言い訳
がましいことを聞かされるのは自分なら耐えられないのでやめた。
 こうして私は、和音に嫌われたまま打つ手もなく、手をこまねいているのだった。


                      〜 5.呼び出し −杉原君の場合− 〜

 金曜日の休み時間は月曜日のそれと同じくらい騒がしい。
 金曜日になると教室中がにわかに週末の話題に包まれる。遊びに行こう、どこへ出か
ける、見たい映画が、買い物をしたい、家族で、彼氏と、部活が、先約が。そして月曜
日にはその成果を報告し合うのだ。まだ入学して間がないから他人が珍しいのかもしれ
ない。出来ればそうであって欲しいと思う。
 先週、私はクラスの人にボーリングに誘われた。私はそれを地元の図書館へ行きたい
からという理由で断ったのだが、今週は同じメンバーからカラオケに誘われた。私の感
覚では仲良くなったから遊びに行くのだが、彼女たちの場合はどうもそうではなく、仲
良くなるために遊びに行くらしい。まるで合コンじゃないかと参加したこともないけれ
ど思う。
 他に理由も思いつかず、「ごめんね、今週も図書館に行きたいんだ」と断ると、「そ
んなに毎週図書館に行って何してるの?」「さては男か?」「山下さんもスミにおけな
いなぁ」という黄色い声に包まれてしまった。
 「そんなんじゃないから」という抗議もむなしく、彼女たちは「まあまあ、隠さなく
てもいいって」「頑張ってね」と言いながら離れていった。しばらくの間、この誤解は
解けないだろうな。
 そう思った私の目に、教室の入り口からこちらを覗く杉原君の姿が映った。目が合う
と、彼はあごをしゃくって例の非常口の方を示す。その顔は心なしかこわばっているよ
うに見えた。
「和音のことなんだけどさ」
 非常口に出るなり、彼は口を開いた。
「最近様子が変なんだ」
 私が「何?」と聞く暇を与えず、彼は私に問いかける。
「何か心当たりはないか?」
「ない訳じゃないけど」
 私は一週間前のことを思い出しながら言葉を探した。
「教えて欲しいんだ」
「教えない」
 一蹴。我ながら、探したにしては単刀直入だ。ここで話したら、この一週間が無駄に
なってしまう。
「私と彼女の間にあったことに、あなたは関係ないわ。いえ、厳密に言えばあるけれ
ど、それはもうどうでも良くなったの」
「何だよそれ」
 さっぱり分からないという様子で口をとがらせる杉原君。私は構わずに続ける。
「これは私と彼女の問題なの。見ているだけなのは歯がゆいかもしれないけど、今は何
もして欲しくない。きっと私が何とかするから、しばらく待って」
 誤解さえ解ければきっとまた上手くやっていけるはず。同じ部活でこれから一緒にや
っていく仲間なんだし。
 杉原君は黙っていた。きっと彼は幼なじみとして言いたいことがたくさんあるに違い
ない。それでも、私の方を見たまま、彼は口を開かない。
 じっと向き合う2人の間を、風が吹き抜けていく。入学式であれだけ咲き誇っていた桜
はすでに散り、もうすぐ新緑の季節だ。
「分かった」
 意外にすっきりとした顔。その表情からは和音のことを信じようという気持ちがうか
がえた。
「そうだよな。高校に入ったんだから今までと違うことがあって当然だよな。成長でき
てなかったのは僕の方だったか」
 苦笑しながら頭をかく姿を見ていると、つい一言言いたくなった。
「そうそう、ここは大人の私に任せておきなさいって」
「よろしくお願いしますよ、お姉様」
 案外いい友人になれるかもしれない。あのクラスの人たちよりも。
 突然吹いた風に髪を押さえながら、私はそんなことを思った。


                    〜 6.呼び出し −三橋先輩の場合− 〜

 金曜日、放課後の教室は喧噪に包まれていた。クラスメートが名残を惜しむかのよう
におしゃべりをしているが、私はそれを避けるように廊下へ出る。けれどそこはそこで
別な喧噪に包まれていた。全ての教室から流れ出た喧噪が、廊下を通って昇降口から外
へと消えていく。その流れに乗って下駄箱へ向かうと、そこには見覚えのある人が立っ
ていた。
「三橋先輩」
「やあ、こんにちは」
 今日は部活はないはずだ。それに2年生の教室から下駄箱、そして校門までの道のりと
この場所は大きく離れている。
「急いでる?」
「いえ、別に」
「良かった。思っていたより早く出てきたから、用事があるのかと思った」
 大げさに胸をなで下ろしてみせる先輩。
「行き先に魅力があるというより、現在地に魅力がなくて」
 そんな憎まれ口に困ったような顔を見せながら、三橋先輩は「あまり魅力的でなくて
申し訳ないんだけど」と言って続ける。
「ちょっと話があるんだけど、いいかな」
 私を見る先輩の目は、いつかの杉原君に似ている。つまり私はここでもどきどきする
タイミングを逃してしまったのだった。

「桐島さんのことなんだけどさ」
 どこかで聞いたことのあるような切り出し方に、私は思わず笑いそうになった。
「最近何かあったの? 一番仲が良いのは山下さんだと思うんだけど、ここのところ話
をしてないみたいだし」
「ええ、まあ」
 どこからどこまで話したものか。その迷いが顔に出たのだろう。三橋先輩は私を押し
とどめるようにして言った。
「ごめん、聞き方が悪かったね。彼女へのプライベートに口を挟むつもりはないんだ」
 軽く唇をかんで、先輩は続ける。指揮をしている時の真剣な表情で。
「彼女はオブリガートをやってくれるのかな」
 つまるところ、先輩は指揮者として曲を心配しているのだ。和音がオブリガートを歌
えないのなら、早めに代役を立てなければならない。
「分かりません」
 私は正直に答える。
「ただ、やりたいかやりたくないかは別にして、彼女は自分では力不足だと思っている
と思います」
 一週間前の練習。10回のやり直し。それが「どうして欲しいのかな」という質問にな
って現れたんだろう。
「力不足か……」
 三橋先輩は少しの間天井を見上げ、今度は足下に視線を落とした。
「山下さんはどう思う?」
「え、私ですか?」
 意見を求められるとは思っていなかったので、私はとっさに答えられなかった。咳払
いをして時間を稼ぎながら考えをまとめる。
「要は本人のやる気次第だと思いますけど」
 私が彼女に聞きたかったことだ。やりたいのか、やりたくないのか。
「桐島さんはね」
 かたわらををにぎやかな集団が通り過ぎていく。それが5mは離れてから、先輩は続け
る。
「声だけで言えばダントツきれい。自信がなくて全然大きな声を出してくれないんだけ
ど、声の質は良いよ。本当にきれい。3年生にも負けない」
 そう言う先輩は心なしかうれしそうだ。
「でも、そう、君が言うとおり、本人のやる気次第なんだよね」
 目が合う。
「お願いがあるんだ」
 その真摯さに、私は吸い込まるような錯覚に襲われた。けれどその目は、さっきまで
の指揮者三橋先輩のそれとは少し違うような気がする。
「桐島さんにに答えを出させてあげて欲しい。もちろん桐島さん自身の意志で」
「私が、ですか?」
「僕が言ったら押しつけになっちゃうから」
 確かに和音なら先輩に聞かれて「やらない」とは言えないだろう。
「ごめんね、急にこんな事を頼んじゃって」
 先輩は私に向かって顔の前で手を合わせる。どこかコミカルなその動きに、私は「無
理です」という言葉を飲み込んだ。
「水曜日の練習までに結論が出れば、もしやらないことになっても何とかするから」
「あまり期待しないでくださいね。どうも嫌われちゃったみたいですから」
 予防線を張る私に、先輩は笑って言った。
「大丈夫、それはないと思うよ」
 その意味を聞き返そうとする私に「じゃ、頼んだから」と言い残して、先輩は背中を
向けて立ち去ってしまった。呼び止めたり追いかけることも出来たけれど、私はなぜか
その場に立ちつくす。
 あの目は、指揮者としての殻をかぶってはいたけれど、本当は先輩個人としてのお願
いだったんじゃないかと思いながら。




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