#235/598 ●長編
★タイトル (BWM ) 04/08/11 23:49 (396)
水と和音(わおん) 上 (とりあえず版) 泰彦
★内容 04/08/11 23:52 修正 第2版
その日、私はバスに揺られながらぼんやりと外を眺めていた。窓の外では人々が忙し
そうに動いている。通学する人々は電車やバスに乗り遅れないように、お店の人は開店
前の準備で。朝は全てが早送りだ。時々お年寄りが散歩をしていると、逆にスロー再生
されているように見えてしまう。
それなのに、私のこの緊張感のなさはなんだろう。向かう先は、気乗りしない場所。
これから3年間、毎朝こんな思いをするのだろうか。
4月。窓の外はピンクに染まっている。
今日、私、山下佐知絵は高校に入学する。
〜 1.合唱部 〜
校門から校舎までわずか30mほどの桜並木。その両脇にはおびただしい数の上級生が押
し合いへし合いしていた。看板が立てられ、のぼりがいくつもはためいている。最寄り
のバス停からとぼとぼと歩いてきた私は、校門の前で思わず立ち止まり、一歩後ずさっ
てしまった。周りには同じように校門内のただならぬ雰囲気に恐れをなした新入生とお
ぼしき人々の姿が少なからず見受けられる。
私は門柱に目的の高校名を確認してから、一歩踏み出した。何も間違ったことをして
いないのだから、立ち止まっている道理はない。
それからの数分間の事は良く覚えていない。左右から紙を持った手が伸びてくる。部
活動の名前が連呼される。名前を書いてくれとノートが差し出される。そんな事が何回
繰り返されたのだろうか。気が付いた時には視界が開け、私が3年間を過ごすであろう校
舎が目の前に鎮座ましましている。そして、私の両手は紙の束でいっぱいだった。
振り返ると、私と同じように機械的に紙を受け取るだけ受け取る人もいれば、早速部
活に入部しようという人もいて桜並木はお祭り騒ぎだ。
願書提出、入学試験、入学手続きの3回しかこの学校に来たことのなかった私は、その
熱気に呆然として、しばらくその場を動けなかった。
私が和音に始めて出会ったのは、放課後の音楽室だった。
その日私は、黒板の隅に小さく書かれた文字を見逃さなかった。様々な部活動が放課
後の活動について連絡するために朝早く書かれた文字。水泳部と吹奏楽部の間に挟まれ
て少し縮こまるようにして「合唱部 15:30から音楽室にて」
合唱部という部活を選ぶことに、深い理由はない。中学校の時に姉が合唱部に入って
いたから、何となくやってみたくなった。ただそれだけの事だ。
入学式から一週間が経ち、私は入学前の気乗りしない気持ちが間違いでなかったこと
を痛感していた。入学式もオリエンテーションも中学校と大差なかったし、ホームルー
ムでの自己紹介や探るような会話も経験済みだった。きっとクラスの女子はいくつかの
グループに分かれて一緒にお弁当を食べたり、トイレに行ったりするのだろう。
違うと言えば大学入試がより視界に入ってきた事だろうか。以前は東大に何十人も送
り込んでいただけあって教師の質が高いと有名な公立校なだけに、勉強に集中すればあ
まり予備校に通わなくても何とかなるかもしれない。
それでも合唱部に興味を持ったのは、未経験の合唱というものに対する好奇心と、そ
の他のものに対する失望の反作用だろうか。不思議なことに、私の中に見学もせずに帰
宅部を選ぶという考えは少しもなかった。
そんなわけで、私はとりあえず見学に行ってみることにした。授業が終わったのが15
時。当番だとその後に掃除があるが、今週はそうではなかったのでそのまま音楽室に向
かう。途中、三年生の教室の前を通らないと音楽室にたどり着けないことに気が付い
た。校舎は学年で階が分けられているのではなく、クラス別になっている。ABC組は1
階、DEF組は2階、GHI組は3階。音楽室は3階の隅にあって、その隣は3年生の教室だ。何
階から音楽室へ向かっても避けられない。けれど別に悪いことも間違ったこともしてい
ないのだから、通らない道理はない。帰宅する人、部活へ行く人の間をすり抜けなが
ら、私はその3階の隅を目指した。
音楽室の大きな扉を開けた私の目に、教室よりはるかに大きな空間が飛び込んでく
る。音響のことを考えて高く湾曲した天井。音が反響しないようになっている壁。授業
のために並べられたパイプ椅子。上下にスライドする大きな黒板。指揮者用の譜面台。
そして向かい合わせに置かれた2台のグランドピアノ。
そこは校舎の他の場所とは少し違う空間だった。防音がしっかりしているせいだろう
か、喧噪から隔絶されている。そして生活臭がない。どこか壮大で、どこか異空間のよ
うな部屋。
その中に2つの人影があった。中肉中背の男性がグランドピアノに向かっていて、小学
生のような女性がその脇からグランドピアノをのぞき込むようにしている。
その女性がこちらを向いた。女性と言うよりは少女といった方が良いだろう、愛らし
い顔つき。
視線が交わる。
その表情をなんと表現すればいいのだろう。最初の一瞬、その顔を覆っていたのは一
言で言うなら怯えだった。新たな侵入者に対する絶望的な感情。もしこの場に2人しかい
なかったら、事情も分からないまま謝罪の言葉を口にしてしまいそうだ。
けれどその表情は、次の瞬間にはすがるようなそれに変わった。次の問題を自分が答
えないといけないという場面で、偶然通りかかった優等生を見るような、そんな視線。
私の出現に明らかにほっとしている視線。勉強も運動も音楽もその他どんな能力も突出
していない私にとって、それは生まれて初めて受ける視線だった。これほど強く自分が
必要とされていることを感じたことはない。
視線に捕らわれて、私は身動きできなかった。
「あ、見学者?」
その一言で世界が広がった。音楽室の入り口にいる自分を再認識する。そこで初めて
男性がこちらを向いていることに気が付いた。さっきの言葉はこの男性が口にしたらし
い。眼鏡をかけて愛想良く笑っているその顔は、こんな事を言うのは失礼だけれどカッ
パによく似ていた。思わず吹き出しそうになりながら私はその人へ答える。
「ここが合唱部なら、そうです」
「ようこそ! ここが合唱部です」
勘違いで違う部活に入部させられてはたまらないという思いが、ひねくれた答えにな
ってしまったのだけれど、その人は両手を広げて歓迎の意を示してくれた。
「俺は三橋って言います。入学式の後に校歌指導をやってたんだけど見てくれた?」
ああ、そういえば見たような気がする。さっきカッパに似た顔を見て吹き出さないで
いられたのは、1回見ていたからかもしれない。もっとも校歌指導自体は覚えていても、
指導していた人まではよく見ていない。もし位置が近ければその顔を覚えずにはいられ
なかっただろうけれど、残念ながら五十音順で「や」はとても後ろの方なのだ。
「この子もね、見学に来てくれたの。えーと、桐島さん、だよね?」
三橋と名乗ったその人は、隣の少女に確認する。少女はおどおどしながら口を開い
た。
「ええと、桐島和音です。1-Fです」
「山下佐知絵です、1-Aです」
再び彼女と目が合う。さっきまでのすがるような雰囲気はそこにはない。あるのは安
心とでも言うのだろうか。私はその視線の意味が良く分からなくて、ぎこちない微笑み
を返した。
「山下さんは、合唱はやったことある?」
私たちが挨拶を交わすのを待って、三橋先輩が口を挟む。
「いいえ。でも姉が昔やっていたので、聞いたことはあります」
「いいねぇ、合唱曲を聞いたことがあればもう経験者だよ」
「いえ、あの、初心者ということでお願いします」
あっという間に経験者にされそうで、私はあわてた。聞いたことがあると言っても、
今となってはほとんど何も覚えていないのだ。変に経験者扱いされてはたまらない。
「そんなことないと思うけどなぁ」
笑いながら、ちょっと残念そうに言う先輩。でもそのことは別にどうでも良いのだろ
う。すぐに合唱部の説明をしてくれた。
練習は水曜日と木曜日の放課後と、火曜日から金曜日の昼休み。部員は2年生が4人
と、引退したけれど3年生が8人。それでいて30人以上いる吹奏楽部や管弦楽部と同じ頻
度で音楽室を使っているから、この両団体からはあまり快く思われていないらしい。何
でも合唱部にも昔は部員が40人以上いた時代があって、その頃と音楽室の配分が変わっ
ていないのだとか。
「でも部員同士は個人的に仲が良かったりするんだよ」とフォローする辺り、この先輩
は人が良いのかもしれない。そう思っていたら、
「今の時期は5月1日にある新入生歓迎会の練習なんだけど、うちは新入生にも歌っても
らうからよろしくね」とさらりと言う辺り、この先輩は人が悪いのかもしれない。
ちなみに新入生歓迎会とは新入生向けの文化祭のようなもので、50以上あるという
部、同好会、サークルが新入生を獲得すべく熱い戦いを繰り広げる場らしい。
オリエンテーションでは何も言われなかったから、先生方にとってはあまり大きな行
事ではないのだろう。部活動に所属しない、いわゆる帰宅部の人もいるだろうから、全
校行事の文化祭に比べて盛り上がりに欠けるのは仕方がないのかもしれない。
「『河口』って曲、知ってる?」
その曲名には聞き覚えがあった。卒業式で歌う学校が多いという合唱曲だ。私の出身
中学では大地讃頌だったけれど。
「歌ったことはないですけれど、曲名なら。」
「さすが経験者は違うね」
「ですから、曲そのものは知りません」
そう言い返しながら、私の耳は「すごいなぁ」というつぶやきを聞き逃さなかった。
誰の声と確認するまでもなく、この場には私と先輩以外の人は1人しかいない。
「曲名だけ知っているというのは、『大学受験』という言葉だけ知っているようなもの
よ。言葉を知っていれば入学できるわけではないでしょう?」
「上手い上手い。確かにそうかもね」
横で先輩が頷いている。桐島さんはといえば、「そうかなぁ」と言いながら首をかし
げた。
「私とあなたは同じ1年生。同じ合唱初心者。それでいいじゃない」
私が思わず強く言うと、彼女は少し怯えたようにこくこくと首を縦に振る。何だか弱
いものいじめをしているような気分だ。
「まあまあ、そのくらいにして練習を始めようか。まだ他の人が来ていないから発声練
習の前に『河口』の音取りを」
「みきょー」
"音取り"という耳なじみのない言葉について聞き返そうとした時、音楽室の出入り口
で奇妙な叫び声が響いた。そちらに目をやると、長身に眼鏡をかけた女性と、線の細い
男性が音楽室に入ってきたところだった。女性はこれでもかと言わんばかりに右手を頭
上で左右に振っている。その動作はどう考えても30m以上遠くにいる人にするような大げ
さなものだ。
「みきょ?」
「その呼び方はやめてって言ってるでしょう」
桐島さんが首をかしげるのと、三橋先輩が女性に抗議するのはほとんど同時だった。
そうすると「みきょ」というのが三橋先輩の呼び名らしい。
「あ、新入生? こんにちは。福岡です。部長をやってます」
人なつっこそうな笑顔がかわいい。年上に対して可愛いと言うのはちょっと失礼だけ
れど。
「このちっちゃい子が桐島さん。こっちが山下さん。山下さんは経験者だって」
「違いますって」
「おおー、期待のホープだね」
私の否定はわずか1m先までも届かない。
「で、そっちの子は新入生?」
「そうそう、入り口のところで入ろうか迷っていたから声をかけたの」
どうでもいいけれど、福岡先輩の身振りは常に、見ていて恥ずかしいくらいに大げさ
だ。「そうそう」で大きくうなずき、「入り口のところで」できちんと入り口を指差
し、「入ろうか迷っていたから」ではロダンの考える人のポーズ、そして「声をかけた
の」で肩に手を置いて話しかける体制。一連の動作には無駄がなく、これがパントマイ
ムだったら拍手を送らずにはいられないと思う。それを日常の動作の中で行っているの
だから驚きだ。しかも本人は意識してやっているわけではない節があるから、なお驚き
である。
「佐々原和久といいます」
線の細い男性はぺこりと頭を下げた。お辞儀は腰からきっちり30度。きまじめそうな
人だ。
ふと横を見ると桐島さんの体がさっきに比べて少しこわばっているようだった。
結局その日の新入生参加者は私を含めて5人だった。男性は佐々原君だけで、彼は見て
いて気の毒なほど居心地が悪そうだった。彼の後にやってきた女の子二人連れはカラオ
ケの延長線上で考えていたらしく、上級生の弾くピアノや歌声をお手本にしながら旋律
を覚える"音取り"にとまどっていた。しかも2人は女性の高音を歌うソプラノと低音を歌
うアルトに分かれてしまい、懸命に指導していた先輩には申し訳ないけれど、もう来な
いんじゃないかと思った。
〜 2.帰り道 〜
18時に活動が終わると、私と桐島さんは連れだって校舎を出た。別に深い理由がある
わけではなく、先輩や他の新入生は自転車通学で、私たちだけがバス通学だったから
だ。この学校は全校生徒の約7割が自転車通学をしていて、始業5分前ともなると学校前
の道路は北京大通りもかくや、という状態である。
「桐島さんはどうして自転車通学しないの?」
自分のことを棚に上げて聞いてみると、彼女は申し訳なさそうにうつむいた。
「学校まで自転車で通えるだけの体力がないから」
なるほど。見るからに線の細い彼女のことだ。自転車をこぐのも一苦労に違いない。
「山下さんは?」
「私? 面倒なのは嫌いだから」
「面倒?」
自転車の方が楽なんじゃないの?という視線に、私は笑って答える。
「雨が降ったらバス、晴れたら自転車って使い分けるのは面倒じゃない? 家を出る時
間も少し変わるし。私にとってはいつもバスで通う方がよっぽど楽よ」
「あー、そうか。そうだよねぇ」
こくこくと真剣にうなずく彼女の顔は、真剣だからこそ少しおかしい。そして「おか
しい」と思う自分に「おかしいなぁ」と思う。ついこの間、あんなに高校生活に気乗り
しなかったのに。
「また短気を出しちゃったかな」
一人ぼやく。短気は昔からの悪い癖だ。
ふと桐島さんと目があった。彼女は少し照れたような、まぶしそうな表情でこちらを
見ている。
ああそうか。私は昔からこの手の視線に弱いのだ。頼られたり期待されたりすると、
それに応えずにはいられない。手痛い目にあっても。その性分は高校生になったからと
いってそう簡単には変わったりはしないらしい。
「桐島さん」
自分のことを第一に考えるとそんな性格だよな、と思いつつ、私は彼女に声をかけ
る。
「はい?」
向けられた視線は、初めて音楽室であった時に向けられたそれに似ていた。あの時と
違って表情のこわばりはないけれど。
「『和音』って呼んでもいい?」
「ありがとう。そう呼んでもらえるとうれしいな」
ちょっとずれた答え。きっと彼女にとってそれはあえて肯定する必要がないくらい明
確なことなんだろう。
「私のことも好きに呼んでくれていいよ。あ、変な呼び方は却下だけど」
「ええと、好きに呼んでと言われても……」
「中学校だとさったんとか佐知とか呼ばれてたけど」
この感じからすると、あだ名を付けた事なんてないんだろうな。見ていて息が詰まり
そうなくらい懸命にあだ名を考える人なんてそうはいないと思う。
「じゃあ、佐知絵さん」
ずいぶんと経ってから、不意にこちらを向いて言う。
「ええ? 何それ。他人行儀じゃない」
「そ、そんなことない、と、思うけど」
急に口調がしどろもどろになる和音。
「だってさ、今時初対面でも佐知絵さんって呼ばれるよ」
「ええと、初対面だし」
そうだった、彼女とは今日が初対面だ。けれど私が言いたいのはそういうことではな
い。
「私が名前を呼び捨てにするのに、あなたはさん付けなんて対等じゃない気がしない?
何だか避けられている気分」
「違う、違うの」
私の言葉を遮って、和音は半ば叫んでいた。バスの中の乗客が驚いてこちらを振り返
る。私はゆっくりバスの中を見回した。私と目が合う前に誰もがそそくさと視線を戻
す。それを見て和音も自分の声が大きかったことに気づいたらしく、小声で「ごめんな
さい」とつぶやいた。
「謝らなくても良いんだけどさ。いや、公共の場なんだからね、と怒っておいた方がい
いのかな」
声もなくうつむく和音。何だか小動物をいじめているような気がして、気分が悪い。
「それで?」
水を向けても返事がないので、私は言葉を続けた。
「どう違うの? 私としてはさん付けは壁を作られたみたいで気になるんだけど」
それでも返事はない。和音はますます怯えたように縮こまっている。
もう、何なのあんた。そう言おうとして、さっき短気を反省したばかりだったことを
思い出した。さすがに数分後に再爆発しているようでは短気にもほどがあるというもの
だ。
「あのさ、和音はどうして私をさん付けで呼びたいの?」
北風と太陽のお話じゃないけれど、かたくなな相手に対するには力押しは逆効果だ。
そう思って優しく声をかけると、しばらくためらってから彼女はぼそぼそと口を開い
た。
「ええと、それが自然だから」
「自然?」
少し苦労して「怒っていないよ笑顔」を作ると、私は目で続きを促す。
「私がね、山下さんのことをさっちゃんとか佐知って呼ぶのは、私にとっては自然な事
じゃないの」
まるで泣き出しそうな口調。
「無理しないと出来ない」
こっちが呼んでいいと言ってもそういう風に思う人がいるのだろうか。そう思いつ
つ、現に目の前にそういう人がいるわけだ。
「だから佐知絵さんって呼ぶのが私にとって一番自然で、一番親しい呼び方なんだけど
……」
駄目かなぁ、という視線。ええい、そういう目を向けられたら嫌だとは言えないじゃ
ないか。
「分かった。好きにして」
「ありがとう、佐知絵さん」
天然なんだろうけど、これって結構ずるい。
一瞬で笑顔に変わった和音を見ながら、私は内心でため息をついた。
〜 3.依頼 〜
合唱部を見学してから一週間が経ち、新入部員は8人にまで増えた。女5男3という比率
に、三橋先輩は「男がちょっと少ないくらいがちょうど良い」と言って喜んでいる。
新入生同士がぎこちなく会話を交わすようになったその頃、私は一人の男性に声をか
けられた。
それは部活に参加しようと教室を出た時だった。
「山下さん、だよね」
声のした方に目をやると、大きなショルダーバックを提げた線の細い男性がこちらを
向いている。誰だよと思いつつ、佐々原君に体格は似ているけれど、彼は弱そうだから
なぁと観察していると「ちょっと話があるんだけど」ときた。
この人は目に力がある。私はそれに逆らえず、彼の後に続いて非常階段へ出た。
男の人と2人で非常階段。
このシチュエーションに本当は胸躍らせるべきだったのかもしれない。けれど2つの理
由でそんな気分になれなかった。
1つは彼の目。その目は私を見ていない、と私は感じていた。私に対して本当に私個人
の話をするなら、きっともっと違う目をするに違いない。
そして2つ目は、私自身がそんな場面に誘われるような人物ではないことを自覚してい
たから。長いつきあいの人からならともかく、話したこともない人から告白されるほど
私の容姿は麗しくない。
「で、何の用?」
私は単刀直入に口を開いた。私個人の問題でないなら、挨拶に時間をかける意味はほ
とんどない。
「桐島和音って知ってるだろ」
「知ってるけど?」
質問と言うよりは確認に応じながら、私は和音のことを思った。あの初めて一緒に帰
った日から、彼女は何かと私の後をついて来た。昼休みの合唱部の練習前にはいつも遺
書にお弁当を食べていたし、放課後の練習からの帰りもいつも一緒だった。
それどころか授業中に何かおもしろいことがあったら、たった10分の休み時間にも報
告しに来るくらいだ。いつもなら鬱陶しいと思う私なのだが、和音のことはあまり気に
ならなかった。それは彼女に見返りを求める姿勢が見えないからだと思う。
「やめて欲しいんだよね」
そう言われて、私は思わず持ち前の短気を遺憾なく発揮しそうになった。
はぁ? 何言ってるの? 何でそんなことをあなたに言われないといけないわけ?
だいたいあなた何様なのよ。そんなことを言う権利があるわけ?
あわてて手綱を引く。
「先に聞くべきだったんだろうけど、あなた誰?」
口調と目つきが鋭くなるのは抑えられない。まあ相手にとっては怒鳴られるよりはま
しだろう。
彼はそれを気にする様子もなく「ああ言ってなかったっけ。1-Fの杉原響一」と答えて
からさらに続けた。
「和音の幼なじみ」
幼なじみ! 私は大げさではなくのけぞりそうになった。転勤族の父の元で何度も天
候を経験した私には全く縁のない言葉。小さい頃から隣近所で、親同士も知り合いで、
兄妹のように育ったという奴か。
「で、その幼なじみからすると、私という悪友と付き合うのは良くないというわけ?」
勢い、口調の鋭さが増す。
「誰もそんなことは言ってないだろ」
「やめて欲しいって言ったじゃない」
「違う。いや、確かにそう言ったけど、友達付き合いをやめて欲しいとは言ってない」
さすがに私の剣幕にたじろいだのか、彼は軽く両手を開いて見せた。
「和音に安易に答えを教えるのをやめて欲しいんだ」
「答え? 私が和音に?」
思わず眉間にしわを寄せて聞き返す私。
「私、先輩にポニーテールも似合いそうって言われたんだけど、ポニーテールにした方
が良いかな」
ゆっくりと、少し舌足らずに話す和音の口調で彼が言う。
「聞かれただろ?」
先週確かに和音にそう聞かれた。私は黙って頷く。
あのときは「たまには良いんじゃない」と答えたら、次の日彼女はポニーテールにし
て来たのだった。そして「それはそれでいいけど、たまにがいいかもね」と言ったら、
次の日には元の髪型に戻っていたのだ。
「工芸選択の時間、籐かごを作ることになってデザインを考えている時に、『どんなデ
ザインがいいかな』って聞かれただろ」
「あのさ、それくらい友達なら普通の会話なんだけど」
私は耐えきれなくて言い返した。聞かれて答えなかったら、それは単なる意地悪だ。
「そりゃそうかもしれないけどさ」
彼はじれったそうに頭をかく。
「あいつの場合はちょっと違うんだよ」
どう違うのかを気候として、私はふと肝心なことに気が付いた。
「あなた、何の権利があってそんなこと言ってるのよ。」
まるで保護者のような口ぶりに、私はむっとしていた。何様のつもり?と言いたいの
をぐっとこらえて穏便な表現に抑えたのは我ながら見事。ところが鼻白むかと思った彼
は、こともなくこう答えた。
「幼なじみなんだ、生まれてこの方」
「へえ、幼なじみって交友関係にまで干渉するんだ」
「だから違うって」
彼は心底困ったような顔をする。
「分かったよ。詳しく説明するから」
最初からしろよ、と思いつつ、私は目で続きを促した。それでも思わず口から出る言
葉は抑えられない。
「手短にね」
杉原君の説明によると、彼と和音は隣ではないけれどごく近所に住んでいる幼なじみ
なのだそうだ。生まれた時からではなく、幼稚園の時に和音が引っ越してきて、転校生
のご多分に漏れずからかいの対象になっていたのをかばってあげてから、和音は彼の後
ろをくっついて歩いているらしい。
ところが一緒にいることが多くなるにつれて、和音の問題点が見えてくる。それは彼
女が何でも相談してくることだった。最初は気軽に相談に乗っていた杉原君は、少しず
つ違和感を覚えるようになる。そしてその正体が分からずに何年間かが過ぎ、ある時彼
はようやくそれを説明する言葉に出会う。
「他人への過剰な依存」
選択肢が複数ある場合、和音はどれにするべきかを尋ねる。そして答えたとおりに選
ぶ。
選択肢がない場合、つまり選択回答式ではなく記述式の問題の場合、和音はどうする
べきかを尋ねる。そして答えたとおりに選ぶ。
もし答えなかったら、和音は他人のまねをする。その対象は杉原君であったり同性の
誰かであったりするのだけれど、必ず誰かの行動を見てから行動する。
「だから、僕はなるべく聞き返すようにしているんだ。和音はどう思うのか、って」
それはまた涙ぐましい努力だ。彼一人が頑張ったところで、他の人が答えを与えてし
まっては意味がない。
そこまで思って私はようやく気が付いた。彼は私にも同じ事をやらせようというの
だ。とっくに自分の力の限界には気づいているに違いない。
「ここ一週間、僕は毎日和音から君の話を聞いた。もちろんこれから交友範囲は広がっ
ていくと思う。だけど、今のところ和音は友人の中では僕の次に君に依存しているみた
いだから、君にあんまり安易に答えを与えられてしまうと、僕の努力が無駄になる。僕
の努力が無駄になるだけなら別に良いけど、和音のためにならない」
そう言う彼の目は、最初に見た時のまま、私を通り越して和音を見ていた。
「あなた、和音が好きなんだ」
内容はともかく、そこまで相手に何かをしてあげたいと思えることに私は感嘆しなが
ら尋ねる。その和音への気持ちに、私は「協力してもいいかな」という気分になりつつ
あった。
「正直、分からない。近くにいるのが当たり前だから、もしいなくなったりしたら寂し
いし、これからもこの関係が続くといいとは思うけど、それが『好き』という感情なの
かどうかは自分でも良く分からない」
「巷ではそれを『好き』って言うみたいだけど」
もっとも、それは本筋とは関係のないことだ。
「そろそろ部活に行かせてもらってもいいかしら。あまり遅いと、それこそ和音に怪し
まれるわ」
「話はまだ終わってないだろ」
あわてて引き留めようとする杉原君に向かってひらひらと手を振りながら、私は了承
の意を伝えた。もしかしたら少し笑っていたかもしれない。彼のまっすぐな気持ちがち
ょっとまぶしくて。
「前に向かって歩こうとする人は嫌いじゃないわ。もっとも『将を射るためにはまず馬
を狙え』っていうからめ手は、本当は好みじゃないんだけどね」
それだけ言うと、私は彼の横をすり抜けた。そろそろ部活に行かないといけないのは
本当のことなので、少し早足で。おかげで彼の表情はよく見えなかったけれど、一瞬笑
って見えたのは気のせいだろうか。
10分ほど遅刻した私は、和音に大いに文句を言われたのだった。