#233/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 04/07/30 23:59 (371)
海の苦しみ 〜 ある二世の闘い 〜 上 永山
★内容
青いシートのパイプ椅子にどっかと腰を下ろした宍戸寛治は、頭の後ろで手
を組み、リラックスムードを発散していた。それは控室全体に伝染し、付き人
やプロモーター、タニマチらの顔をほころばせる。
「ウォーミングアップはどうだ?」
試合前だというのに余裕の笑みを浮かべ、彼は息子に云った。直立不動の姿
勢を取る息子の海斗も、父の声の響きに硬い表情を若干崩す。
「押雄。いつでも出陣できます」
「うふふん。闘うだけでなく、勝てるようにしとけ」
「勝てます」
「こいつは頼もしいな。さすが俺の息子だ。後継者にふさわしい」
宍戸寛治は三十九を迎え、さすがにピークは過ぎたように見られるが、今な
お団体のエースに君臨する。十年近く前には他の格闘技選手との異種格闘技戦
で連戦連勝を飾ったこともあり、一般的な知名度でも現役プロレスラーの中で
は一、二を争うであろう。
「今日の段取りは分かっているな? あまり早く仕上げすぎると、調子が狂う
かもしれんから、要注意だぞ」
今日は宍戸の主宰する団体・日本格闘プロレスリングが、初めて総合格闘技
の大会を開催する日だ。しかも、船上を試合会場にするという試みも初。“日
本を離れ、究極の真剣勝負が繰り広げられる!”という煽り文句がマニアの興
奮を誘ったか、人気は上々、チケットは前売り段階で完売した。
「注意はしますが、逆にかなり早く終わるんじゃないかと睨んでいます。だか
ら、父さんに調整していただかないと困ってしまいますよ」
興行は、十六名参加のワンデイトーナメントのみ。三ヶ月後に予定されてい
る世界大会を見据え、アジア地区予選と銘打っている。宍戸寛治はこのトーナ
メントに参加し、息子の海斗はリザーバーとして名を連ねている。
リザーバーとは予備の選手のようなもので、トーナメント戦で勝利したもの
のダメージが深刻で次戦を闘えない選手が出た場合、代わって出場できる。疲
労度をなるべく釣り合わせるために、リザーバー同士の対戦も組まれる。
宍戸海斗はこのリザーバーマッチがデビュー戦となった。
父寛治の云った段取りとは、こうである。
ファンは、プロレス界のエース・宍戸と、空手の強豪・大竹益明の対決を期
待している。トーナメント表も両者が当たるのは決勝になるよう、思惑含みで
組み合わせが決められた。そして実力からすれば、八百長を仕掛けなくとも、
二人が決勝で当たるのは必定。
しかし、内情としては、アジア予選程度で宍戸と大竹の黄金カードを実現さ
せるのはもったいない。加えて、宍戸サイドからすれば、大物の大竹に拝み倒
して出て貰った分、そうそう傷つける訳にも行かない。大竹のいるブロックに、
立ち技・打撃系の選手を多く集めたのも、配慮の一環である。
そこで今回は、大竹に花を持たせるシナリオが書かれた。
対戦して、宍戸がわざと負けるのではない。決勝までに負傷した宍戸がトー
ナメントをやむなく棄権する。そのリザーバーとして登場した息子の宍戸海斗
が、大竹と相対し、玉砕する……。これなら観客もまずまず、満足しよう。現
時点の海斗と大竹なら、まともに闘えば大竹の勝利はほぼ確実。万が一、海斗
が勝てそうなときだけ、海斗の意志に任されることになっていた。
「決勝では、おまえの器が試されることになるな。デビューの日から、いきな
りの難問という訳だ。はっはっはっは!」
「私もプロレス団体を継ぐことが約束された立場ですから、その辺りは汲みま
す。もし勝てそうでも、譲りましょう。大竹さんが度を過ぎて疲労困憊してい
ない限り、ですがね」
「向こうの耳に入ったら、半殺しにされそうな台詞だな」
「実際、半殺しにされるのもいい経験になるでしょう。強くなるために。それ
よりも父さんこそ、無事にある程度まで勝ち上がって来られます?」
「莫迦云え! 不覚取るような面子かよ!」
一回戦、宍戸寛治はインドネシアの選手と当たる。
「何とかシラットっていう、某有名格闘家が最初に習ったことだけが自慢の、
訳の分からん格闘技がバックボーンだろ。そんな奴は相手にならん。二回戦は、
日本拳法の古菅とハイルロエフの勝者とか。まあ、ハイルロエフだろうな。こ
いつは結構強い。柔道でタジキスタンの代表になったこともある。だが、プロ
レスに転向して稼ぐことを考えているから、俺に逆らえない。うんふふふ。
準決勝は恐らく、このルールに慣れたリーガン寺上が来るな。身体が小さい
から、まあ、大丈夫と思うが、念のために、ウルフ=カンと途中で当たるよう
にしておいた」
ウルフ=カンはモンゴル相撲出身で、今は日本格闘プロレスでプロレスデビ
ューを果たしている。まだまだ地味でプロレスは下手だが、実力者として知ら
れている。
「カンが勝ち上がるなら、それもまたよし。ただ、それだと俺の負傷がちょっ
と情けなくなるんだよな。あいつは弟子みたいなもんだから。できるんなら、
やはり寺上だ。オリンピック選手に痛めつけられたところを、その道の専門家
に更に攻められ、やむを得ず棄権という形がいいな」
「なるほど。磐石みたいですね。残る心配の種は、大竹さんが勝ち残れるかど
うか」
「あいつが途中でこけたら、俺が行くかもしれんし、最初の予定通り、おまえ
が出て優勝をかっさらうのも悪くない」
座ったまま、息子を指差す宍戸寛治。ややえらの張ったあごを撫でつつ、薄
く笑う様は、時として人の肝を冷やす。
「そして世界大会では、親子対決実現ですか」
海斗が満更でもない口ぶりで云ったとき、控室のドアの外から声が掛かった。
「入場式、始まります!」
「よっしゃ!」
両手で太股辺りをぱちんと叩き、宍戸寛治は椅子から立ち上がった。
トーナメントは順調に消化されていった。
一回戦第一試合に大竹を持って来たのには、二つの理由がある。初っ端から
人気選手を出して会場を温めるのと、大竹に休憩時間をなるべく多く取らせよ
うという目論見。勝ち上がるにつれ、試合と試合の間の長さが物を云うことも
ある。
相手はミャンマーのボー=トゥン。素手でやるキックボクシングと称される、
ラウェイの選手だ。
グローブ空手の試合で顔面ありのルールにも慣れている大竹が、多少手間取
りつつも、トゥンの拳を捌き、左ハイキックを首筋にヒットさせ、鮮烈なノッ
クアウト勝利を収めた。身体を硬直させ、棒のように倒れるトゥンに場内から
は悲鳴も上がったが、それは大多数の歓声にかき消された。
主催の思惑通り、興奮の坩堝と化した中、第二試合はキックボクシングの節
田と、タイはムエタイのランカー、ヨーナサン=ワーンサロップとで始まった。
格はワーンサロップが圧倒的に上だが、体重はミドルのワーンサロップに対し
て、節田はヘビー級。共に決め手を欠いたまま、立ち技限定ルールのような展
開が続いたが、幕切れは突然だった。ワーンサロップの強烈な左ミドルが、こ
の試合数十度目のヒット。腹にまともに食らった節田に、起き上がる力は残っ
ていなかった。
第三試合は柔道の村木戸VS韓国テコンドーの猛者、ユー=サンコン。現役
を退いてしばらく経つ村木戸は、サンコンの繰り出す変幻自在の蹴りに戸惑い
を見せ、掴まえようとするも、何発か食らって引かざるを得ない。判定でサン
コンかと思われた流れだったが、途中から柔道技に拘らないように作戦を変更
した村木戸が、蹴りをかいくぐってタックルに成功。袈裟固めと腕がらみの複
合技を一気に決め、逆転のギブアップを奪った。
「村木戸選手と当たったら、大竹さんも少し危ないんじゃないんですか」
海斗の問い掛けに、寛治はにやりと笑みを浮かべた。まだまだ甘いと云わん
ばかりの表情だ。
「寝技じゃそうかもしれんがな。村木戸は歳だ。スタミナがねえよ。柔道家が
いくらトーナメント慣れしてるからって、今日のルールは初めてだろうしな」
「そうか」
あっさり納得した海斗は、次の試合に目を移した。
第四試合、シュートボクシング(SB)のコブラ高野と、中国からの刺客、
散打の連慶軍。SBヘビー級期待の星、コブラ高野はこれまで十戦九勝一敗、
勝ちは全てKOというハードパンチャー。相手の連もまた伸び盛りの若手で、
勝ち星を重ねている。試合は、体格で若干勝る連が、得意の横蹴りを高野の胸
や腹にヒットさせて距離を取り、高野が隙を見せたりバランスを崩したりした
ところへ、ハンマーパンチを打ち込むという変則的なヒットアンドアウェイに
出、有利に進める。ただしクリーンヒットはなく、倒すほどのダメージを与え
るには至らない。序盤を耐えた高野は、やや疲れの覗く連を追ってがむしゃら
に前に出るが、捉えきれない。このまま時間切れで判定かと観客の誰もが思い
始めた矢先。
連が距離を取るために出したサイドキックを、高野の両手が捉える。間髪入
れずにアキレス腱固めで絞り上げると、連は敢えなくタップ。SBにはサブミ
ッションもあることを思い出させる鮮やかな逆転勝利が、客席日本人のため息
を歓声に変えた。
「およ」
試合終了直後に、宍戸寛治が妙な呻き声を漏らした。気になって海斗はすか
さず振り返り、聞いた。
「何か?」
「いや。外しちまったなと。俺の予想では、連の勝ちだったんだが……。ほら、
よく云うじゃないか、連戦連勝ってな。あっはっはっは!」
「はあ」
父の見せる余裕を、内心ではさすがだなと思うが、言葉で何と返していいの
やら、困る海斗だった。
リング上は第五試合を迎えた。ここからの四試合はBブロック、つまり宍戸
寛治のいるブロックになる。
先にリングに上がったウルフ=カンが、プロレスファンの歓声と拍手に迎え
られる。ホームグラウンドと同等なだけに、相当な人気を博す。
相手は合気道を修めた沼。派手な実績こそないが、各地のアマチュア大会で
無敗を誇る。
共にアンコ型の似通った体格だが、サイズはカンの方が一回り半ほど大きい。
試合開始と同時に、カンは太い腕を振って相手を追う。沼は後ろ向きに下が
り、かわす。それが三度ほど続いたあと、沼が動いた。不意に前に出てカンの
腕を取ると、手首を捻った。カンの巨躯が見事に宙を舞う。そして派手な音を
立てて、マットに叩き付けられた。
沼は敏捷な動きでカンの鳩尾付近に拳を一つ落とし、次いで腕十字を狙う。
だが、カンは両手をロックして極めさせない。それどころか、そのかいな力を
存分に発揮し、腕にしがみつく沼を持ち上げた。そのままお返しとばかり、マ
ットに叩きつけんとする。が、沼は自ら手を離してこれを回避。スケールの大
きな攻防に、観客は一層沸き返った。
「カンの野郎、遊んでやがる」
「同感です。あれだけのことができるのなら、さっさと勝てるはず」
「だな。油断していい相手と悪い相手を見誤らなきゃいいんだが」
宍戸寛治の言葉は杞憂に終わった。
五分経過のアナウンスと同時に、急に解き放たれたかのごとくラッシュした
カンが、沼をコーナーに押し込め、パンチの連打で倒してしまった。
「プロレスの下手さ加減が出てしまったかな。ま、悪くはないが、ぎりぎりす
れすれで合格ってところだ」
「しかし、遊んであの強さなのだから、父さんのポリスマンとして最適ですね」
「ああ。いずれ、おまえに代わって貰いたいもんだな」
第六試合は、日系でグアム在住の総合格闘家・リーガン寺上と、イランのア
マレスラー・ヤヒア=カメリの対決。浅黒い肌で彫りの深い寺上は小兵だが、
それ故にスピードが身上。細かく速い打撃で翻弄し、相手をおびき寄せたとこ
ろで関節技か締め技に持ち込むのが必勝パターン。豊かな髭を蓄えたカメリは
対照的に大型で、アマレスの下地を活かしたタックルから、のしかかり、押さ
え付けて拳や膝を落としていく。それぞれ何でもありの総合格闘技大会で実績
を残しているだけに、慎重なスタートとなった。
互いに得意の展開に持ち込もうとするも、すんでの所で逃げられる。それの
繰り返しがしばらく続き、試合は長引いた。鍛えた者同士だと、小さい方が不
利になってくる。寺上は新たな展開を模索するかのように、相手の十八番であ
るタックルを逆に仕掛けた。本職のカメリは、これを切ると、上から押し潰そ
うと体重を掛ける。が、この瞬間、寺上は身体を右に捻った。
カメリは自重に勢いが加わっており、対処できずにバランスを崩す。反射的
に手をついた。それを待っていましたと、寺上がからめ取る。パワー差をもの
ともせず、あれよあれよという間に、肘を逆関節に捕らえた。さらに足も使い、
力を込めていく。
カメリは空いている腕で突っ張り、堪えるが、徐々に体勢が悪くなり、つい
には上半身を無様な格好でマットに押し付けられた。なおももがいて脱出をは
かるが、最早完全に極まっている。それでも参ったをしないカメリ。
そして。
ごきっ!という嫌な音がした。
「あーあ。やっちまったよ」
控室で、モニターを見つめる宍戸の目つきが不機嫌さを帯びる。
「過激なのはいいが、あんまりグロいと、テレビに乗せられなくなるじゃねえ
か」
画面の中、カメリはマットに正座をする格好で、肘を押さえて低く唸る。そ
の肘付近、明らかに異常な形で骨が盛り上がっていた。
レフェリーストップ勝ちを宣せられた寺上は、両手を突き上げて喜びを表す
と、一瞬にしてまた平静に戻った。
「思った以上に嫌な感じだな」
父が呟くのを海斗は聞いた。
第七試合の両選手がリングに上がったところで、父は海斗に言った。
「ぼちぼちだ。やはり初物の恐さはあるな。集中するから、おまえは出てろ」
「分かりました」
海斗自身も一回戦終了後にリザーブマッチがある。そろそろ一人になった方
がよかろう。
海斗が与えられた控室に戻り、シャドーボクシングに打ち込むこと五分強。
備え付けのモニターからの音声が、第七試合の終了を伝えた。振り返ると、父
親の予想した通り、アトベク=ハイルロエフが日本拳法の使い手・古菅を力で
押し切り、フロントチョークで絞め落としていた。
「確かに強いな……。こいつ、親父と当たったとき、本当に萎縮するのかね。
エースの宍戸を倒せば一躍有名人だと勘違いして、余計に張り切ったりしてな」
自分の想像に苦笑する海斗。そうなったらなったで、父親は本領を発揮し、
オリンピック選手だろうと何だろうと、潰すのを厭わない男であることは、息
子がよく知っていた。
そして一回戦最後の試合。宍戸寛治VSリン=ポール。
かたや日本のエース、かたやインドネシアのペンチャックシラット使い。体
格こそほぼ同じだが、経験や格は比べものにならない。その差は、宍戸にある
程度プロレス的な動きを許すのではと思える。
頭にカラフルなバンダナを巻き、民族音楽らしきゆったりした曲に乗って踊
りながら入場し、ロープに頭のてっぺんを擦りながらリングインした肌の黒い
男に、「サンポール!」と声が掛かり、会場に笑いが広がる。
楽勝ムードだな。
この次に試合を控える海斗は、当然のように受け止めていた。
父が馴染みの勇壮なテーマ曲に送られ、大歓声に応えながら入場するときも、
リングアナにコールされて雄叫びを上げたときも、その感覚は変わらなかった。
事実、試合開始直後には、失笑さえ起きた。
リン=ポールがいきなり、両腕を振り回しながら突進したからだ。さながら、
いじめられっ子の最後の反撃のように。
宍戸寛治はいつでも張り手を出せるポーズをし、待ちかまえた。距離が縮ま
ったところで、二回、三回と手を出すが、さすがに頬にヒットさせることは難
しい。上体をやや引き気味にし、どう料理しようか考える様子が見られた。
と、そこへ、軌道を換えたポールの右アッパーが。
「ああーっ?」
顎にまともに食らった宍戸が、腰を落としてダウン。尻餅をつく格好で、信
じられないという風に瞬きを何度もしている。
「おいおい。親父、それはいくら何でも」
まだ気付いていなかった。
宍戸の過剰なファンサービスか、でなければラッキーパンチだ。その証拠に、
ポールはパンチを当てたにも関わらず、続いて攻撃しない。ルールでは、ダウ
ンした相手に対して攻撃を続ける意志を選手が示さない場合、レフェリーの判
断でカウントが数えられる。ナインカウント以内に起きあがれなければ負けに
なる。
宍戸はファイブカウント目で膝を立て、更に三秒後にすっくと立ち上がった。
宍戸コールが渦のように巻き起こる。自らを張り、気合いを入れ直したかと思
うと、レフェリーの再開のジェスチャーも遅しと、ポールへ踊り掛かった。
その気迫と形相に恐れをなした訳でもあるまいが、ポールは後ずさりし、次
に走って逃げ出した。捕まりそうになると、大きな動作で回し蹴りを出す。無
論、当たらないが、逃げるには役立つ。
苛立ちの露な宍戸は、両手のひらを上に向けて前に突き出し、来いよと手招
きをした。ポールはしばし迷う仕種を見せたあと、最初と同様、無茶苦茶に腕
を振り回しつつの前進を開始した。それを今度はガードを固め、用心して待ち
かまえる宍戸。
海斗はこの時点で、やっと気付いた。
父の焦りと、リン=ポールのボクシング技術に。
「こいつ……でたらめなように見せかけて、本物のパンチを紛れ込ませてやが
る」
ガードの隙間を縫うように、ジャブが何度か繰り出された。時折フックやア
ッパーを織り混ぜるが、宍戸ももうまともには貰わない。
相手の打ち疲れを待ち、機会を掴むと、素早く組み付き、テイクダウン。仰
向けから俯せになって逃げようとするポール。
バックを取った宍戸は、漸く安堵の色を覗かせ、相手の首に手を回した。腕
を食い込ませ、絞め上げんとする。このルールの試合では、最も基本的な勝ち
パターンだ。客の歓声も一際大きくなった。
ところが、宙を掻いていたポールの両手は、だらりと下がることも、マット
を叩くこともなく、反撃に転じた。宍戸の鼻っ柱に器用に一発食らわせると、
鼻と口を押さえて呼吸の邪魔をする。
宍戸が頭を振ってこれを逃れると、今度はその両耳を掴んだ。
次の瞬間、宍戸は裸絞めを解き、自分の耳を守るべく、手を使って相手の腕
を払いのける。そして恐らく反射的にだろう、ポールの背中から離れて立ち上
がった。
「耳をちぎり取るつもりだったのか?」
父親の表情から、そう判断した海斗。得意はペンチャックシラットなどと称
するインドネシア人が、底の知れない化け物に見えてきた。
「しかし、リン=ポールさんよ。それは失敗だったぜ。親父にそんな裏技仕掛
けちゃあまずい。倍返しで済まない」
海斗の独り言の通り、あからさまに怒りに燃えた宍戸寛治は、ポールが起き
上がるや否や、飛び掛かって行った。
が、まるでそれを読んでいたかのように、ポールは宙を舞った。跳び膝蹴り
一閃。
宍戸の顔面に、ポールの右膝が綺麗に入る。
習性で受け身を取りつつ、真後ろに倒れ込む宍戸。ポールは着地と同時に、
宍戸の腹に乗った。そして今度は正確無比な動作で、相手の顔面に肘や拳を打
ち下ろす。それも速射砲だ。
下から殴り返そうとする宍戸だが、ほとんどが空振りで反撃の体をなさない。
パンチを諦めたかと思うと、相手の足や腹に指を食い込ませる。が、焼け石に
水のようだ。アドレナリンがたっぷり出ている状態であろうポールに、血が出
るほど指を食い込ませたところで、蚊に刺されたほどにも感じないのかもしれ
ない。
やがて、立てていた宍戸の指がゆっくりと折れ、ポールの肉体から力無く離
れる。止めるべきかどうか迷っていたレフェリーも、宍戸の両腕がマットに着
いた段階で、踏ん切った。片腕を上げて大きく振りながら、ポールの身体を宍
戸の上から退けようとタックル気味に制する。
しんとなった会場にて、ポールの勝利を宣告するアナウンスが響き渡った。
海斗は控室を飛び出していた。
リングサイドまで駆け付けると、見上げる先には勝者の姿。ポールは顔面血
塗れになって横たわったままの宍戸を見下ろしてから、レフェリーに手を挙げ
られると、子供のように飛び跳ねて喜びを爆発させていた。
一瞬、海斗は勘違いをした。予定通り、親父が棄権したのだから、次は俺が
出るんだな、と。
それほど動揺が出ていたことと、宍戸寛治の意識がまだ回復しないことから、
興行の進行が若干変更された。
十分間の休憩を急遽挟み、休憩明けにリザーブマッチから再開する。そのリ
ザーブマッチ三試合も順番を入れ換え、宍戸海斗のデビュー戦は最後に回すと
決まった。
「あいつ、絶対にシラット使いじゃねえ」
セコンドを務めていた中堅選手が吐き捨てるのが耳に入る。
医務室の前で長椅に座り、手を拝み合わせて俯く海斗は、その通りだとぼん
やり思った。あれは、ボクシングと空手を修めた奴の動きだった。
そこへちょうど、専門誌の記者達が大挙して押し寄せた。宍戸寛治の怪我の
具合や、息子の海斗からコメントを引き出すのが目的だろう。
負傷の程度の説明のあと、海斗は「これから試合なので」という理由で、ノ
ーコメントを通した。代わりに先輩レスラー数名が応じている。
「さっき、ポール選手に話を聞きに行ったんですがね。素朴そうな外見とは裏
腹に、なかなかの策士ですよ。出したのはペンチャックシラットの技かと聞い
たら、全然違うと答えました」
「そりゃそうだろうな。最後のあれは空手っぽかった」
「それにですね、次はシラットの技で勝ちに行きますかと聞いたら、分からな
いと。あんまり得意じゃないしと」
「……」
先輩達の不機嫌さが窺える沈黙。
間を埋めるように、記者が喋り続ける。
「じゃあ何でシラットを名乗るのかと聞いたところ、返事が振るってましてね。
だって、ペンチャックシラットの選手ということにしておけば、みんな油断す
るでしょう?ときた。宍戸選手の敗北も、油断ですか?」
「ああ、そうだよ! きちんと対策練ってまともにやれば、社長があんな輩に
負けるはずがない!」
怒声に一括される形で、取材陣は散り散りに去って行った。
身内の人間しかいなくなったところで、古参レスラーで宍戸の片腕とも表さ
れる選手が潜めた声で周囲に聞いた。
「あいつの次の相手、誰だ」
若手が答える。「あ、アトベク=ハイルロエフ選手です」
「そうか。ハイルロエフのとこ行って、ポールを潰してくれたら、特別ボーナ
スを出す。プロレス興行でも重宝してやると伝えろ」
その囁きに、若手が一瞬の戸惑いの後、走り出そうとする、だが、別のベテ
ラン選手が肩を掴まえて止めた。
「待て。それはまずくないか」
「独断はしょうがねえだろ。社長がのされちまったんだから」
「そうじゃない。社長を倒したポールを、オリンピック野郎、つまりはまだプ
ロになってない奴に潰されたとあっちゃあ、社長とうちの面目も丸潰れさ」
「確かにそうだが……じゃあ、カンに託すか?」
「それも手だが、できることなら」
会話が途切れ、どうしたのかと面を起こした海斗と、件のベテラン選手との
目が合った。
「ジュニア。行けますかい?」
「何が」
「親の仇討ち、ポール退治でさあ」
「……誰かを棄権させて、代わりに俺を出すってこと?」
「棄権させるとしたら、カンになるでしょうな。心配無用です」
「……ぶん殴られるかもしれないが、正直なところ、勝つ自信がありません。
ポールって野郎は底が見えない。さっき記者連中が云っていたように、策士だ。
怒りに任せてやっても、返り討ちを食らいかねない」
「そんな弱気じゃあ、困りますな」
「親父がやられたんだぞ? 先輩方も知ってるはずだ。親父は、プロレスでセ
メントを仕掛けられても、対処できるだけの技術と度胸を持っている。むしろ、
セメントこそ得意だと云ってもいい。なのに、負けた。これがどういうことな
のか……」
「寝技が弱そうだから、グラウンドに引きずり込めば終わる。社長は目や耳を
狙われて、思わずチャンスを逃してしまわれた。それだけのことじゃないです
か」
「そうは思えない」
空虚な問答がしばらく続いたあと、ベテラン勢が折れた。妥協案を提示する。
「ポールと当たる選手には潰しに行くよう号令を掛ける。それでもなお奴が決
勝まで残った場合は、ジュニアが出てください。どうせへろへろになっている
に違いないから、勝てますって。大竹サイドにはうまく云っておきます」
海斗はしかし、返答を保留した。
思いも寄らぬ父の敗北に、下手な小細工を弄することへの疑問が生まれてい
た。プロレスと違って、ポールはブック破りをした訳でない。実力と、運もあ
ったかもしれないが、とにかく宍戸寛治に勝ったのだ。制裁を加える大儀がな
い。大会をルール通りに運用し、それでトーナメント本戦への出場機会が巡っ
てくれば応じるが、その他の形でポールとの対戦に臨みたくなかった。
真に強い者が勝てばいい。いや、いいとか悪いとかですらない。それが当た
り前なのだから。
「だから私が云っていたように、念のため、コントロールできる奴を一回戦に
持ってくるべきだったんだ。これでは興行そのものがパーだ」
やっとインタビューから解放されたのだろう、団体の偉いさんが息を切らせ
てやって来て、非難がましく古参選手達に文句を垂れていた。
――続く