#232/598 ●長編 *** コメント #231 ***
★タイトル (lig ) 04/07/26 00:08 (293)
もうひとりの私(tp version) [7/7] らいと・ひる
★内容
■Side B
保健室を出る時に、音楽の田島先生に渡して欲しい書類があるからと、用事
を頼まれてしまう。また三階まで上がるのは面倒だけど、どうせ暇だったので
ちょうど良かった。由衣の部活が終わるまで待っていようと思ったのだから、
ぼんやりしているよりは精神的には楽なのかもしれない。
音楽準備室をノックして中に入り、事務的に会話をして書類を渡す。無愛想
になってしまうのは、緊張しているのもある。
扉を開けて廊下に出て、もう一度教室に戻ろうかなと階段の所へ行った時、
ゆかりの前を上から降りてきた生徒たちが歩いていった。
たしか音楽室がある三階は最上階で、この上は立ち入り禁止となっている屋
上なはず。なのに、なぜ彼女たちはそこで何かをしてきたかのように降りてき
たのだろう。
ゆかりは好奇心をくすぐられ、三階から上に向かう階段を上がっていく。
目の前には古い木の扉。これを開けば屋上に出られるはずだ。
ためらいがちにドアノブに手をかけると、ゆっくりとそれを回す。抵抗なく
回ったので、今度は手前に引いてみた。
一歩踏み出すとそこには夕色に染め上げられた世界。
血のように赤黒く染まった西の空。まるで世界の終わりみたい。
ふいに誰かの気配を感じて辺りを見回すと、由衣の後ろ姿が見える。
何をやっているのだろうと、声をかけてみることにした。
「堀瀬さん」
「え?」
あの子は驚いたように振り返る。
「どうしたの? こんなところで」
「香村さんこそどうしたの?」
「屋上の方から人が降りてきたから気になって」
そうしたら彼女に会えた。会う必要があったのだからちょうどいい。でも、
彼女に伝えなければいけないことはとても残酷な事。だから少しだけ躊躇し
てしまう。
「そう。私はね、人を待ってるの」
「こんなトコで?」
ここは事件の現場だよ。ゆかりの口からその言葉が出かけた。
「うん。事件に関係のあることだからね」
彼女はまだ事件を調べている。でも、もうその必要はないのだ。だから、そ
のことを伝えなければいけない。
「そのコトで私も話があるんだ」
「そのコトって事件の事?」
「うん」
「あのね……」
ゆかりが話を始めようとしたその時、ちょうどタイミングが悪く由衣の待ち
合わせの相手がやってきた。
「なんでしょうか?」
ちょっと機嫌の悪そうな表情は、夕闇に少し薄れていた。バレー部のユニフ
ォームを着ているから由衣と同じ部活の子なのだろうか。上履きの色からする
と一年生の後輩だろう。
ゆかりは遠慮するべく、ちょっと離れた場所にあるベンチまで移動して腰掛
ける。
「うん、ちょっと確認したいことがあってね」
由衣はすぐに話に入ってしまった。人払いをしないということは、自分はこ
こに居てもいいことなのかもしれないと勝手に解釈する。だから、悪いと思っ
たけど二人の会話に耳を澄ませることにした。
「でも、ここって本当は立ち入り禁止じゃないんですか?」
呼び出された子は口調からして、すでに不機嫌さを拭えない様子だ。
「うん、でもね。ここで話す方が手っ取り早いと思ったんだよ」
そんな後輩の不作法さにも柔らかく答えを返す由衣。
「それで、話というのはなんでしょうか?」
「事件があった日、矢上さんがここで何を見たかってこと」
「ああ、その事でしたら前にも話したように」
「ストレートに言うわね」
後輩の言葉を遮り、彼女は続けて言う。
「あなたは実は何も見ていない。そうでしょ?」
「どうしてそんなことを言うんですか」
「周りも見てみて。ここは金網で囲まれていて、よじ登らなければ向こう側に
行けないの。乗り越えて端までいっても段差があるから簡単には突き落とすこ
とはできないの」
「そう……みたいですね」
呼び出された子は周りの状態をようやく気付いたようだ。歯切れが悪い言葉
は、彼女がその事実を知らなかったことを物語る。
「もし突き落とすとしても、相手もそれなりの抵抗はできる。なにより悲鳴を
あげる余裕さえある。だけど、私たちはそんな声すら聞いていないの。それか
ら、あの手すりのような段差のおかげで、ほとんどの生徒は腰から下が見えな
い。それが意味することはわかる?」
「……」
「この場所から推測される状況はそういうことなの。あなたの証言には信頼性
がない。だから私はもう一度確認してみたかったの。本当に人影を見たのなら、
翻るスカートや足下より上半身に目がいくはずだもの」
「だから、見間違えた……かも」
後輩の子は自信なさげにそう答えていた。なんとなくだけど、ゆかりは状況
を理解した。
「うん、矢上さんはそう言ったもんね。だから、これは別に尋問じゃないわ。
確認だもの。でも、だとしたら人影らしきものってなんだったんだろうね?
矢上さんは瞬間的に人だと思ってしまったんでしょ。でも実際、人がいたって
のはおかしな話なんだよね」
「そ、そうですね。今思えばなんだったんでしょうか?」
演技という意味ではあまり上手いとは言えない。彼女の口調には無理があり、
嘘が隠されているのが簡単にわかる。
「私の友達にね、こんな推理をした人がいたの。川島さんはね、すでに殺され
ていてトリックを使って死亡した時刻をすり替えたってね。音と、彼女の遺体
を確認したという事で自分のアリバイを証明することができるって」
ゆかりは由衣の言葉を聞いて、さりげなく目の前にいる少女を追いつめてい
ることに気付く。きっと音と遺体を確認したというのは彼女自身の事を指すの
だろう。
「そ、そんな……」
「捜査を攪乱するという目的で何かを目撃したという嘘をついたとの推測も成
り立つんだよね。だって、そうすれば自分は犯人だと疑われないじゃない」
ここからだと由衣の表情が見えない。薄暗くなってきたのもあって、口調の
柔らかさがどこまで信用できるかを表情で確認することすらできなくなってい
る。
「なんでわたしがそんな事しなきゃいけないんですか? 川島先輩を殺しても
得なんかありません」
追いつめられている側からすれば、これほどの恐怖はないだろう。でも、果
たして由衣はそれを自覚しているのだろうか?
「これはあくまでも推測だからね。だから、水菜さんが疑われたのと同じ論理
が矢上さんにも適用できるの。つまり単純に損得で考えるとね」
「違う。わたしはそんなことしてない。わたしはただ……」
陥落寸前か。案外簡単に終わりそうだった。
「ただ?」
その部分をつつけば彼女も嘘を言っていると認めざるをえないだろう。
「……」
少女は口をすべらせてしまったことを後悔しているらしい。
「私は真実を知らないから、そう推理するだけだよ。たぶん、警察の人も同じ
じゃないかな」
わざと追いつめるような口調で話しているのは、今この場にすべての真実を
さらけ出すためなのかもしれない。そして彼女もゆかりと同じ事に気付いてい
るのだろう。
「わたしはただ、川島先輩が殺されたとしたら、水菜先輩が疑われるだろうな
って。初めはいたずら心があって、とっさにそんな事を言ってしまったんです。
でも見間違えかもしれないって付け加えました。そしたら、警察の人が他の生
徒にも屋上に誰かいたのを見ていないかって質問していたみたいで……私が見
たって事もいつの間にか広まっていったんです。その後、友達に『川島先輩と
水菜先輩ってライバルだったんだよね』って聞かれて、考え無しに『そうだよ』
って言ったこともあって、そこから噂が一人歩きしていってしまったんです。
気付いた時にはもう手遅れで……でも、あんな簡単にみんな水菜先輩を疑うな
んて思いもしなかったから」
「ありがとう」
「え?」
「私はね、別にあなたに罪を償ってもらおうとかそういう意味で呼び出したん
じゃないの。真実を知りたいから可能性の一つ一つを検証しているだけなの。
結果的には大勢の人に迷惑がかかったかもしれないけど。でも、矢上さんの問
題は取り返しのつくことじゃない。とにかく真実を話してくれてありがとう」
「ごめんなさい……ごめんなさい」
もの言いが柔らかいから相手も安心してしまうのか。そこが由衣の長所でも
あり、誤解を受けやすい部分でもあるのかな。
「いいんだよ。素直に謝ることができるのなら」
「本当にごめんなさい」
後輩のあの子はその場に膝をついて泣き始めた。
後輩の子が降りていった後、由衣はゆかりのいるベンチの所まで来て隣へと
座った。
「あーあ、考えたくない可能性が一つ残っちゃった」
あの子は薄闇の夜空を見上げるように言う。そして「どうしてこんなことに
なっちゃったんだろう」と続けて呟いた。
「川島さんもこの夜空を一人で見上げていたんだろうね」
ゆかりも夜空を仰ぐ。
「やっぱりそういうことだったの?」
「お母さまと喧嘩して家を飛び出して、途中でゆかりと出会って話をして、落
ち着いた彼女は学校へ来たんだと思うよ。生物部や天文学部は許可を得て遅く
まで活動してることあるから、昇降口から入るのは簡単だよ」
ゆかりは自分の知っている情報に推測を交えて説明した。
「そのまま屋上に来たのね。で、この夜空を見上げていたんだ。一晩中」
「たぶんね」
「彼女は本当に一人だったの? 楽しそうに電話に出たって言ってたじゃない」
「それは悲劇の始まり。彼女はたぶんここに一人でいたんだよ」
「どうして? 私にはそれがずっと引っかかっていた。彼女はそれほどの悩み
を抱えていたの?」
「彼女以外の人間にはわからないよ。彼女は双極性障害の疑いがあったから」
「ソーキョクセイショーガイ?」
「いわゆる躁うつ病」
「それってうつ病みたいなもの?」
「基本的には違うものみたいだよ。うつ病は神経症に分類されるけど、双極性
障害は精神病に分類されるの。うつ病は誰でもなる可能性を持っている病気だ
けど、躁鬱病は百人に一人ぐらいしかならない病気だもん」
それ以上の細かい部分の説明は無意味なので、ゆかりはそこで言葉を止めた。
「でも、そんな心が病んでいるようには見えなかったよ」
「川島さんって、練習量すごくなかった?」
「うん、疲れ知らずのとこがあったかも」
「それは躁状態の典型的な例かも。もちろんそれだけでは断定はできないんだ
けどね。でも『躁』の時ってエネルギーを使い果たすくらいの勢いらしいよ。
ただね、この使い果たした後が問題みたい」
「その後に『うつ』状態になるってこと?」
「そう、何もやる気が起きなくなって挙げ句の果てには……」
「自殺を考える」
「それは発作的なものだから、自分でコントロールがうまくいかないと悲劇を
招くことになる」
自分ではどうすることもできない。それは「甘え」とはまったく違う問題だ。
だからこそ誰かの助けが必要だった。
「悲しいね」
由衣は寂しそうに呟く。
「あのね、堀瀬さんにはさ、誤解して欲しくないんだ。彼女はけして弱い人間
だったわけではないんだよ。彼女は何度も何度もそのうつ状態を切り抜けてき
た。病気だって断言するのはかわいそうかもしれないけど、でも、周りが病気
であることを理解できないってのも悲しいことなんだよ。川島さんはたぶん、
誰かに助けを求めていたんだと思う。病気の事は自分では自覚しにくいけど、
それでもずっと苦しんでいたんだと思う」
「うん」
「……どうしてゆかりは、もっと早く気付いてあげられなかったんだろう」
その事がとてもとても悔しくて涙が溢れてくる。
「香村さん」
「なんで今頃になって……こんなこと今更気付いたって遅すぎるよぉ」
■Side A
香村さんの涙を見て、由衣はこの子の人の想う気持ちの純粋さを改めて知り
ました。教室では他人に興味のなさそうな態度をとっていたこの子も、本当は
ひどく寂しがりやなのでしょう。
繊細で今にも壊れるのではないかと思えるくらいこの子の心はもろく、そし
てその分誰かを求めているのかもしれません。
哀しそうに震える姿を見ていられなくなった由衣は、彼女の頭を抱き寄せま
した。
そして髪をさすりながら囁きます。
「あなたが責任を感じる必要はないんだよ。ううん、あなただけが責任を感じ
る必要はないんだよ」
由衣の胸の中で子供のように泣きじゃくるゆかり。前に文化祭で少しの嫉妬
と羨ましさを感じた彼女からは考えられないくらい、今はすごく身近に感じま
す。
「私たちは完全には解り合えない。だからこそ言葉は大切で、伝える事が重要
なんだよ」
それは由衣自身にも言い聞かせている言葉でした。自分が日常の中で感じて
いる違和感は、たぶんそういう事なのです。
上辺だけの世界から抜け出したいのではなく、その世界から抜け出せないこ
とをわかっているのです。人は簡単に深い部分で繋がり、理解し合うことなん
てできないのでしょう。
「ごめーん。なんか、泣けてきちゃって」
顔を上げたあの子は、鼻水をすすりながら由衣に詫びました。涙でくしゃく
しゃになった顔はとてもかわいらしくて、大切にしたいとさえ感じます。それ
はまるで愛おしく思える、もうひとりの私のように。
だから悲しいことがあったら私がそばにいます。泣きたいことがあったらい
つでも胸を貸します。そう由衣は密かに誓います。
「気が済むまで泣いていいんだよ。そのほうがすっきりするから」
あの子の頬に優しく触れます。そして涙の痕をなぞります。
涙を流すことさえ忘れてしまった私の代わりに悲しみを洗い流してください。
そして、どうか罪深き私たちの心が救われますように。
* *
由衣たちが屋上で真実に辿り着いた二日後、緊急の職員会議が開かれその翌
日の朝礼でその事実は公表されました。学校側が当初発表した転落事故は過ち
で、警察から正式に「自殺」との報告がきたと言うこと。そして、けして『殺
人事件』ではないということが付け足されました。
これで事件は終わりを告げ、水菜香織は学校に戻り、部活に復帰しました。
もう誰も彼女を疑う者はいません。
後味の悪さは残ったものの、今回のことでは新たな発見もありました。
絶対に仲良くなれないのではないかと思っていた香村ゆかりと、少しではあ
るけど仲良くなれた気がすると由衣は感じていました。
もっと、取っつきにくくてプライドも高いのだろうな、と思っていたのは彼
女の勘違いで、すごいなって思える部分も持っているけれど、ほんとは傷つき
やすくて壊れやすいのだということに気付いてしまったのです。
寂しがりやで泣き虫で、でも一生懸命生きている彼女を、由衣は少しずつ好
きなり始めているのかもしれません。
■Side B
クラスでは相変わらず輪に加わることはできません。部活の仲間とも未だに
遠慮してしまっています。事件がきっかけで話すようになった由衣とも、あれ
以来声をかけづらくなってしまっていました。
ゆかりはまだ、あの子とは仲良くなれそうもありません。でも、友達になれ
たらいいなぁって思えるようになりました。
多少問題有りの性格ではありますが、あの子に対しての見方はだいぶ変わっ
てきました。
見た目のかわいさとは裏腹に意外としっかりしていたり、他人に対して必要
以上に気を使っていたり、かと思えばマイペースで大ざっぱだったり。ときど
き見せるくるくる変わる表情はちょっとかわいく思えたりもします。
あの時、聖母のようにゆかりを抱きしめてくれたぬくもりはけして忘れはし
ません。
あれ以来ゆかりは、部活の子には「少し角がとれた気がする」と言われたり
もしました。本人に自覚はないのですけど。
「にゃーお」
頭の上のほうから、下手くそな猫の鳴きマネをしている人がいます。
それじゃあ、猫が逃げちゃうじゃないと、ゆかりはその子を睨みます。
「にゃーお」
それでもその子は猫の鳴き声をマネています。
ゆかりは頭にきて立ち上がります。でも、彼女の笑顔を見た途端、怒る気力
がなくなってしまいました。
だからゆかりは悔しくて言葉を投げかけます。
「ゆかりね。ほんとは堀瀬さんの事大嫌いだったんだから」
それに対して彼女は苦笑いで答えます。
「でもね。大嫌いだって思い込んでいた自分も嫌いだった。だから、ゆかりは
ゆかりを好きになりたい。これって変かな?」
少し俯きながら、彼女の表情を窺います。
「ううん、変じゃないよ。私は好きだから」
天使のような微笑みを浮かべてあの子は言いました。
了