AWC 天衣無法 1   永山


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#223/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  04/07/25  00:02  (478)
天衣無法 1   永山
★内容
 ステージ上では、大がかりなイリュージョンが繰り広げられていた。マジシ
ャンが演じるのはスパイ。いかにも悪そうな黒尽くめの男に捕らわれ、ビル内
の一室に監禁された挙げ句、建物に火を着けられたという設定だ。男は猛獣を
入れておくような檻の中、手足をチェーンで縛られ、壁際に立ち姿勢のまま固
定されている。
 やがて舞台の様子が半分方見えなくなるほど煙がもうもうと立ちこめ、いよ
いよ危ないというときに、消防車のサイレンが響き渡る。舞台袖から現れたの
は、防火服に防炎マスクで完全装備し、ホースを小脇に抱えた男達(女かもし
れないが)四人。彼らは激しさを増す“火元”へ踏み込み、消火活動を始める。
程なくして、煙が引いていく。
 すると、そこに現れたのは、檻の中で虜になった黒尽くめの男。
 観客がどっと沸く。
 すると、スパイはどこに行った?
 そんな観客の疑問を察したかのように、ある人物が行動を起こした。
 消防士の一人が、おもむろにマスクを取ると、そこにはスパイを演じていた
マジシャンの顔が。割れんばかりの拍手の中、防火服も脱ぎ去り、スーツ姿で
決めポーズを取る。
「何が起きたの?」
 隣に座る七尾弥生(ななおやよい)の声に、横路玲二(よこみちれいじ)は
拍手の手を止めた。小学六年生になる姪にどう答えようか思案しつつ、口を開
く。
「見ての通りだよ。マジシャンと悪者が一瞬にして入れ替わった。不思議だろ
う。これがマジック、イリュージョンというものさ」
「いや、そうじゃなくって、叔父さん」
 面倒臭そうに首を振り、七尾は少し声を大きくした。
「どうしてみんな、拍手するのかと思って」
「どうして? だって、凄いじゃないか。素晴らしいマジックに感動して……」
「そうかなあ。黒尽くめの男が消防士の一人だったんでしょ。ドライアイスの
煙に紛れて、スパイのマジシャンと入れ替わっただけ。みんな気付いてると思
うんだけど」
「……」
 呆気に取られ、絶句してしまった。拍手を再開しようと構えていた両腕が、
自然にすっと下がった。
 なるほど。そういう種か。横路は全く考え付かなかった。元々、種を見破っ
てやろうなんていう目で手品を見ることのない彼だが、あまりにも単純明快な
解答例を示され、唸らずにいられない。
「叔父さん?」
「ま、まあ、これはオープニングだから、小手調べさ。段々と凄くなって行く
から」
 一応、そんな風に答えておく。その場凌ぎのつもりはなく、実際、このあと
の演技の数々を目撃すれば、こましゃくれた姪っ子も口をあんぐりさせて、驚
くに違いないと踏んだのだ。勿論、種を見破った(可能性の一つではあるが)
ことには、大した観察力だと感心させられたが、まぐれだろう。
 ところが、横路の思惑はひっくり返される。七尾は続いて行われた数々の演
目に、悉く答を与えた。それも、ほとんどの場合、即座に。
「右手でトランプを出している間に、左手が身体の陰に入っている。あそこで
何か仕込むんじゃないかしら」
 云われてみれば、マジシャンの仕種は怪しく映った。
「待って。考えたら、どんな数字を思い浮かべても、この計算をすると必ず九
になる」
 横路は頭の中で、Xを当てはめてやってみた。その通りになった。
「すれ違った瞬間、赤の看板の裏に隠れた。右に行ったと見せかけて、左から
出て来るわ、きっと」
 まるで予言だった。七尾は奇術の段取りを読み切っていた。
 近くの客達に不快感を与えていないか横路が心配したほど、七尾の推測は鋭
かった。幸い、他の観客は皆、マジックに夢中のようだった。
「つまらなかっただろうな」
 ホールを出るなり、横路はため息混じりに、姪に聞いた。
 これまで姪を遊びに連れていってやったことは数知れず、回を重ねる内に動
物園や水族館に飽き、科学館やプラネタリウムの類は学校行事で何度も見てい
るし、今回、映画も子供向けのものが見当たらずと来たから、思い切って当日
券を買ったのだが……。姪の様子からすると、人気マジシャンのショーのチケ
ットを大枚はたいて購入した甲斐がなかった。そう考えていた。
「ううん、面白かった」
 予想外の返事に、目を白黒させた横路。次いで、子供なりに気を遣っている
のだなと解釈した。
 だが、七尾の続いての台詞は、横路の解釈を否定するものだった。
「クイズやなぞなぞを連続して出されてるみたいで、考えるのが楽しかった!」
「そうなのか。それはよかったけど」
「僕、クイズ好きだもの」
 七尾は叔父を見上げ、目をくりくりとさせた。前髪の掛かった広いおでこは、
なるほど、利発そうに見える。
 横路は彼女の頭に手を置いて云った。肩口まで伸ばしたストレートの髪は、
いつ見ても手入れが行き届いており、艶やかだ。母親の努力の賜物に違いない。
「見破ったのはクイズ好きのおかげか。何にしても、手品の種を見破るのには
感心した。けれども、女の子が『僕』なんて使うのは、感心しないな」
「いいじゃない。これが僕のアイデンティティよ」
 七尾はさらりと云った。
 苦笑を禁じ得ないのは横路。覚えたての言葉を使いたがる年頃なのかと想像
したら、おかしかった。やはり小学生だ。
 次に横路が口を開くよりも一瞬早く、斜め後ろ方向から穏やかな声に呼び止
められた。
「すみません。よろしいですかな」
「――私ですか?」
 振り返り、少し間を取ってから確かめる横路。七尾も足を止め、自然と振り
返っていた。
 二人の視線の先には、一見、紳士然としたダークスーツの男が立っていた。
顔はふくよかだが、皮膚に染みが目立つから結構年を食っていよう。鼻の下に
生やした髭は黒々とし、左右にぴんと跳ねて固めてある。背は高く見えるが、
よくよく観察すれば靴が上げ底になっている節が窺えた。左手に短いステッキ
を握り、右手には早々と脱いだらしいソフト帽があった。
 所々にいかがわしさを漂わせた人物だった。少なくとも、こんなサラリーマ
ンはいまい。いたとしても、ビジネス街にそぐわない。
「はい。正確には、あなたのお連れになっているお嬢さんに関心があるのです
がね」
「この子に?」
 頭に浮かんだのは、「誘拐」や「幼女趣味」といった言葉だが、まさか保護
者付きの子供に声を掛けるはずもない。一瞬にして上がっていた警戒レベルを、
ゆるゆると下げた。
「どのようなご用件でしょう。その前に、あなたが何者なのかを伺いたいので
すが」
 姪には喋らせず、横路は聞いた。相手の男は名刺を差し出し、答えた。
「申し遅れました。私、テンドー=ケシンと名乗らせていただいております。
手品師と云いますか、奇術師と云いますか、マジシャンとして食い扶持を得る
者ですよ」
「じゃあ、プロのマジシャン?」
 七尾は云うと、辛抱たまらなくなった風に一歩前に出る。横路は姪っ子の腕
を掴み、相手に近付きすぎないようにした。本名を口にしないことが、横路に
再び警戒心を強めさせた。そもそも、そんな名前のマジシャンなんて、見たこ
とも聞いたこともなかった。
「最前、Fホール内であなた方を見掛けました。近くの席だったもので、お話
の面白さに、つい、聞き耳を立ててしまいましてね。聡明なお嬢ちゃんだ」
 更に近付いた七尾の頭を撫でるケシン。六年生といっても小柄な方であるだ
けに、過大評価ではと思わないでもない。確かに、種を悉く見破ったらしいの
には横路も驚かされたが。
「マジックについて、何か専門に習っているのかな」
「ううん。別に」
 直接問われ、即答する七尾。ケシンはますます信じられないという風に口を
丸くし、目を大きく見開いた。動作一つ一つがオーバーアクションなのは、マ
ジックを演じる関係で、身に染み着いたのかもしれない。
「本当だとしたら、凄いことだ。――お時間がおありでしたら、どうでしょう、
喫茶店でお話でも?」
「時間はありますが……」
 腕時計をちらっと見て、横路がまだ迷ったのは、会ったばかりの相手にそこ
まで付き合うのもどうかというブレーキが掛かったため。姪に対して示しがつ
かない気がしないでもない。
「手持ちのマジックのいくつかを、見せて差し上げますよ」
 自信ありげにケシンが云った。いや、プロなのだから、自信があるのは当た
り前だ。リクエストすれば、この場ですぐにでも一つ始めそうな雰囲気を醸す。
 横路が返事をする前に、七尾が両手を挙げた。「見たい!」
 そしてくるっときびすを返して、横路のズボンを引っ張り、ねだる。
「見たい。新しいなぞなぞだよ、きっと面白いわ」
 横路は髪に右手を突っ込み、ぽり、と掻いた。ケシンに改めて身体を向け、
「姪もこう云ってますし、お付き合いしますよ。見終わったあとになって見物
料を、なんてことにはならないでしょうね?」
 と、洒落っぽく云って応じた。

 四人掛けのテーブルに、横路と七尾は並んで座り、その反対側にケシンが一
人で収まった。
 注文を終えてしばらく挨拶や詳しい自己紹介等で時間を潰したあと、ケシン
がトランプを取り出し、そろそろ始めましょうという姿勢を見せる。七尾は大
きなパフェの容器を、自分の前から横にずらした。窓際の席に座っており、小
さな女の子がパフェを美味しそうに食べる様は、さぞかし往来を行く親子連れ
へのよい宣伝になったろう。そして今度は、テンドー=ケシンのマジックが、
客寄せになるかもしれない。
「ここに一組のトランプがありますね。ま、正式にはカードと呼ぶべきでして、
本来『トランプ』とは切り札のことです。これから私は両方の呼び方を使いま
す。ややこしいでしょうが、トランプもカードも同じ意味と思ってくださいね」
 紙のケースからカード一組をするりと抜いたケシンは、口上を続けながらカ
ードをスライドさせて扇を作り、表側を横路達に示した。
「ご覧の通り、全てばらばらのカードです。ジョーカーは二枚ありますが、一
枚は使わない」
 ケシンは、端っこに二枚重なるジョーカーの内、一枚を抜き取ると、紙のケ
ースの中に戻した。
 五十三枚のカードの扇を閉じ、再び一つの山にしたケシンは、全体をひっく
り返し、裏向きの状態で左手の平に載せた。そして七尾の方を見つめながら続
ける。
「これからトランプをシャッフルします。好きなときに『ストップ』と云って、
ストップを掛けてください」
「うん。分かった」
 七尾が頷くと同時に、トランプを切り始めた演者。リフルシャッフルが五回
ほど行われた段階で、七尾は叫んだ。「ストップ!」
「早いですねぇ。ほんとに、ここでいいのですか?」
 手の動きを止めたまま、ケシンは薄く笑った。七尾は目をくりくりさせなが
ら、
「全然、問題なしよ。僕は僕の好きなところでストップした」
 と、こちらは満面の笑みをこぼす。
 ケシンはトランプから右手を離すと、人差し指をぴんと伸ばし、トップのカ
ードを押さえた。
「それでは、お嬢ちゃん。一番上のカードをめくって、数字を見えるようにし
て、この上に置いてください」
「みんなに見せていいんだよね?」
「はい」
 それから七尾は云われた通りにした。現れたのは、ハートの3。
 ケシンは「何のカードかな?」と、七尾と横路に確認をさせた。
「確かにハートの3ですよね。じゃあ、お嬢ちゃん。このカードをまたひっく
り返して、元のようにしてください」
「見えないようにってこと?」
「はい」
 今度も云われた通りにする。裏向きになったハートの3がカードの山の頂上
に伏せられた。ケシンはもう一度、そのカードを指差した。勿体ぶった調子で
尋ねてくる。
「ではお聞きします。このカードは何?」
「はぁ」
 姪の隣で第三者的に見ていた横路だが、思わず声を漏らしてしまう。分かり
易い道案内だったのが、突如として暗闇の狭い部屋に閉じ込められたみたいな
感じだ。
「ハートの3」
 七尾がとりあえずという風に答える。目つきが少し鋭くなったようだ。怪訝
さを感じ取りつつ、分析を始めた様子が窺える。
「本当に、ハートの3? 変えるのなら今の内だよ」
 ケシンが云った。決まり文句だ。
「変えたいけれど、残り五十二枚の何に変えたらいいのか分からないから、こ
のままでいい」
 七尾は妙な理屈を口走り、一人で頷いた。
 ケシンはほんの一瞬、やりにくそうに苦笑を浮かべてから、カードを押さえ
ていた人差し指を滑らせ、そのまま摘む形に持って行く。
「めくって、確かめてみることにしましょう」
 云うや否や、えいとばかりにカードを裏返す。現れたのは、クラブのキング
だった。
「あ」
 横路はまたも声を漏らし、呆気に取られていた。コーヒーカップを引き寄せ、
口元まで運んでから、空だと気付いた。カップを戻して、「分からないな。見
事です」を連発する。
「どうもありがとう」
 礼を述べ、軽く会釈したケシンは、七尾へと視線を転じた。
「……」
 横路とは対照的に、彼女は黙りこくっている。問題のカードを見つめ、じっ
と考える横顔が見て取れた。
 ケシンは嬉しげに頬を緩め、演目を続けた。
「ハートの3はどこに行ったのかというと、こうして」
 云いつつ、クラブのキングを裏返し、山に重ねる。そして間を置かずに、再
びめくって見せた。
 次の刹那、横路はまたもや間の抜けた声を上げてしまった。
「あれっ?」
 クラブのキングだったはずのカードが、ハートの3に戻っていたのだ。
「おやおや。まだここにありましたよ」
 ケシンの口上を聞き流し、横路はしきりに首を捻った。
「変だな。すり替えられるはずないし、見間違いでもないし」
「もう一回、クラブのキングを出せる?」
 七尾が何故かおかしそうに聞いた。リクエストを受け、ケシンは大きく首肯
すると、右手の人差し指と親指とを擦り合わせ、山のトップカードをめくる。
 当然のごとく、クラブのキング。二度目なので驚きは減ったが、不思議さは
まだまだ残っている。
 ケシンはそれをさっさと裏向きにすると、「更に」と言葉を挟んで、またも
やカードをめくった。
 すると、スペードの6が現れた。
 最早、横路の口からも間抜けな驚嘆は飛び出さなかった。呆気に取られてし
まった。
「そのトランプ、見せて貰ってもいい?」
 スペードの6を見つめながら七尾が頼んだのだが、その台詞の途中でケシン
は「え?」と云いつつ、カードを裏返しにしてしまった。
「ああ、ごめんごめん。これかい?」
 裏を見せている一番上のカードを取り上げ、そのまま七尾に差し出してくる。
「ようく見てご覧」
「これ、ハートの3だよね?」
 七尾は表を見ずに早口で云った。
 ケシンの目が瞬きを何度か、素早く繰り返した。幾分硬い口調で返事する。
「見れば分かるよ」
 手首を返した七尾。赤い心臓のマークが三つ。
「やっぱり」嬉しそうに微笑む姪に、横路はどうして分かったのか尋ねたかっ
たが、ケシンの前ではそれもしづらい。
 七尾はカードをケシンに返すと、パフェの容器を両手で掴んで、目の前に置
いた。溶けかけてマーブル色になったアイスクリームを、スプーンで掬う。
「僕も練習したら、できるようになるかな、ケシンさん?」
 クリームを舐め、マジシャンに尋ねる。
「分かったと? これはこれは参りましたね」
 まだ見破られたとは信じていない口ぶりだ。それよりも、用意していた次の
マジックに移るきっかけをなくし、多少、不機嫌になったように見える。無論、
ミスはケシン本人に帰すものだが。
「あることができれば、僕も同じマジックをやれる。さっきケシンさんがクラ
ブのキングやスペードの6を見せたとき、そのカードを直接僕の手に載せてく
れたら、きっと証拠が見つかってた」
「ふむ……本物のようだ」
 ケシンの物腰が変化する。演者としての軽妙さが消え、分別のある大人の重
重しさが前面に現れた。
「君が気付いたという種を、小さな声で、私に教えてくれるかい?」
「いいわよ。二枚または三枚を一遍にひっくり返していたんでしょ? 最初は
一枚しか摘んでないように見えたけれど」
 けろっとして答えた七尾。ケシンは横路に顔を向けた。
「本当に、マジックの勉強は何もされていないので?」
「え? あ、ああ。はい」
 返答の遅れる横路。彼自身は姪の話した種明かしそのものが信じられず、頭
の中で最前のマジックをリプレイするのに忙しかった。
「姪御さんは、マジックに限らず、物事を冷静に見極める能力、若しくは論理
的に分析する能力に長けてらっしゃるようだ。この年齢でこのテクニックを見
透かすとは、感服しました」
「いや、私もびっくりしていまして。普段から、鋭いところのある子だなと思
うことはありましたが。しかし、マジックの種を見抜けても、得はなさそうで
すねえ。素晴らしいマジックでも詰まらなく見えるんでしょうから」
「一概には決め付けられませんが、確かに姪御さんの場合、その気配があるよ
うです」
 ケシンはパフェを楽しむ七尾を一瞥してから、横路に囁いた。
「マジシャンを志されると、大成する可能性がある。途轍もないマジックを創
出するかもしれません」
「ははあ、どうなんでしょうね」
「実は私、優秀な才能の持ち主を求めています。お声をお掛けしたのは、あの
子にマジシャンの資質があると直感したからでして」
「と申されましても……私はこの子の親でありませんし」
 たとえ親だったとしても、マジシャンになりませんかとの誘いをどう受け止
めていいのか、簡単に結論を下せそうにない。むしろ、笑って断るべき類の話
ではないのか。
「この子の両親には私が伝えますが……」
「そうしてくださると有り難いです。返事を、名刺の番号に電話をいただける
となお助かります」
「でも、私がとやかく口を挟むことじゃないですので、この場では何とも。結
局は当人の意志が大事であって」
「無論です」
 テーブルの上で両手を組み、満足げかつにこやかに頷いたケシン。髭を一撫
ですると、七尾に聞いた。
「マジックを観ていて、面白いかい?」
「面白いけど」
 少女はスプーンを置いて、曖昧な返事をよこした。
「けど?」
「面白くて楽しいけど、びっくりはしない。今日のだって、大きな音や火や虎
が出たときだけびっくりした」
「ふむ。それじゃあ、こういうのはどうかな」
 ケシンは横を向くと、トランプ一式を右手でホールドし、構えた。数字やマ
ークが見える。ダイヤのキングだ。
 そこへ開いた左手をかざし、何度か振る。
 左手が退けられると、そこにあったのは矢張りダイヤのキング。だが、サイ
ズが変化していた。半分の大きさになっていた。
「おお。鮮やかなお手並みで」
 軽く拍手をしたのは横路。七尾は首から上だけを突き出すようにして、ケシ
ンの手元をしげしげと見る。
 ケシンは無言のまま、にやりとして、同じ仕種をもう一度やった。するとダ
イヤのキングはより小さく、初めの四分の一になった。
 更にもう一度、左手をかざす。ダイヤのキングは八分の一のサイズになって
しまった。
「……」
 七尾は口を半開きにして、何か云いたげであるが、なかなか声が出て来ない。
 種が分からず、悩んでいるのだろうか。横路は微笑ましくなった。しかしそ
の微笑みは、直に引いた。
「マジック用の道具があるのね」
 七尾はどことなく落胆した口ぶりで、ぽつりと云った。ため息さえ混じって
いる。
「本当に縮むんだとしたら、手で隠さずに、お客さんの目の前で縮んで行くと
ころを見せた方がいいに決まってる」
「はははは。どうやら私の想像以上に手厳しく、手強いようです」
 ケシンは半ば自棄気味の笑い声を立てた。

 夏の陽射しを受けて、赤いスポーツカーが高速道を疾駆する。
 テンドー=ケシンの主宰するマジックスクールへの招待を、七尾弥生が受け
たのは、「君と同じぐらいの年頃で、凄い腕前の子達がいる」と聞かされたの
が大きかった。見破りに来ないかと誘われれば、好奇心旺盛な質の七尾だ、行
かないはずがない。
 幸い、両親の許しも簡単に出た。多忙な彼らに代わって、七尾に付き添うの
は横路の役目である。
「叔父さんも暇よね。折角の日曜日に、またこうして僕の御供なんてしてるん
だから」
 七尾の声を後頭部で受けて、横路はただただ苦笑した。姪は後部座席でシー
トベルトに押さえ付けられた鬱憤晴らしのつもりなのか、いつにもまして口が
よく動く。
「恋人いないでしょ?」
「いないよ」
「で、日曜に、僕みたいな女子小学生を車で連れ回してる……うわー、変質者
みたいだわ。叔父さん、かわいそ」
「あのねえ」
「真面目な話、何でいないの? 叔父さんの顔かたちなら、彼女の一人くらい、
いてもいいのに。ほんとに変な趣味を持ってるんじゃないでしょうね」
「前の彼女が死んじゃったから。しばらく恋愛はできそうにないな」
「え、嘘!」
「嘘だよ」
「……マジシャンよりも騙すの上手かもねっ!」
 腹立たしそうに叫んで、手足をじたばたさせる。その音と、ルームミラーを
通じて見えた後ろの様子に、横路は急いで注意する。
「あんまり無茶をして、傷を付けたり汚したりしないでくれよ。この車、友達
から借りたんだから」
「自分の車、買えばいいのに」
「簡単に云うなよ。今の僕だと、中古でも厳しい。……そういえば、こんなク
イズがあったな。『スピード狂のA君は、お金がないのでおんぼろ中古車を買
うのが精一杯。速度もせいぜい時速四十キロしか出ない。いつか世界一速い車
に乗りたいと願うA君の前にある日、悪魔が現れ、おまえの願いを一つだけか
なえてやると云った。A君が世界一速い車を望むと、悪魔は明日の朝にはおま
えの願いはかなっているであろうと云って消えた。翌朝、A君が車庫に行くと、
そこにあった車はいつもの中古車のまま。走らせてみても、時速四十キロが限
界だった。首を傾げるA君だが、悪魔は約束を果たしていたのである。どうい
うことだろう?』ってね」
「……質問していい?」
 興味を示したらしく、身体の動きは大人しくなった七尾。
「いいよ。何なりと」
「世の中にある車が、A君の持っている一台だけになってたんじゃないの?」
 それは質問と云うよりも回答ではないかと思った横路。しかも、用意してい
た答に極めて近い。
「そうだなあ、それも正解みたいなもんなんだが、他にも車がいっぱい走って
いるんだ」
「じゃあ、楽勝だわ。他の車は時速四十キロ以下しか出なくなっていたんでし
ょ。あれ? 四十キロ未満かしら」
「どっちでもいいよ。当たり」
 あっさりと正解を出された上に、別解付きと来ては、横路も立つ瀬がない。
でもちょうどいい暇潰しにはなったみたいで、車は程なく目的地に着いた。
 駐車場に車を停めて、降りたところで時計を見る。
「少し早かったかな」
 十時半の約束だが、十分余り早い。マジックスクールは眼前の複合ビルの四
階で催されると聞いている。お邪魔していいのかどうかは分からないが、建物
の中に入るぐらいならかまわないだろう。そう判断し、横路は七尾の手を引い
てビルの玄関をくぐる。
 自動ドアの向こうはエアコンが効いており、汗をかく暇がなかった。
 横路がさてどうしたものかと腕組みをしている間に、七尾は各フロアの案内
掲示板の前まで走る。見上げて、四階にマジックスクールがあることを確認し
たらしい。
「割といいとこだわ。これなら僕、入学して通ってみてもいいかな」
「マジックをやることに、興味あるのかい?」
「うーん。微妙。半分半分。ううん、今は見破る方が楽しい。演じるのって、
大変そうじゃない? たとえばこの間のケシンさんのトランプ、特別なやつだ
ったわ。きっと高い」
「“大変”の意味がずれてないか」
 苦笑混じりに指摘した横路だったが、当人は一向に気にしていない様子だ。
元から家にある物でできるのならやってみてもいいかな、なんて呟いている。
 お喋りをしていると、十分程度はすぐに潰れた。四階に上がろうとエレベー
ターを待っていた二人だが、到着した箱がドアを開くと、テンドー=ケシンそ
の人が現れた。ただ、初対面時とは異なり、衣服はいたってノーマルなスーツ
姿、髭もなくなっていたため、見違えた。
「お着きでしたか」
 ケシンも二人に気付き、降りる足を止めて、逆に横路達を迎え入れる。挨拶
しをながら四階へ向かった。
「私の生徒達がとても張り切ってましてね。生意気な女の子を打ち負かしてや
ろうと、手薬煉引いて待ちかまえています」
 冗談半分なのは顔つきから読み取れた。が、それは横路にとっての話であり、
七尾がどう感じたかは分からない。黙っているのは、怒ったのか、それとも意
欲をかき立てられたのか。
 廊下を進んだ一番奥の部屋が教室らしい。磨りガラスの入ったドアからは白
い光がこぼれ、『マジックスクール』のプレートが掛かっていた。文字の周り
に何やら意匠を凝らした緑色の模様が描かれている。
「……えむえーじーしーって、ローマ字じゃなくて、英語?」
 いきなりそんなことを云った七尾に、横路は眉を寄せたが、ケシンは一つ、
拍手をした。
「おや、読めたのかい。MAGIC。そう、マジックの英字綴りだ。その後ろ
はSCHOOL、学校のことさ」
 ケシンの説明に七尾は納得した風に頷く。横路が怪訝な表情を見せると、ケ
シンが云った。
「プレートの文字を取り囲む模様があるでしょう」
「ええ」
「崩し文字になってましてね。MAGIC SCHOOL と書いてあります。
その気になってみれば、読めるはずですよ。身体を気持ち、右に傾けて見れば
もっと分かりいいかもしれない」
 云われた通りにやってみると、なるほど、蔦のように見えた緑の模様が、英
字に変化した。意識しなければ見えづらいこの文字を、七尾は一目見ただけで
理解したことになる。
 中に入ると、四人の子供がいた。長テーブルに横一列に座って、戸口の方を
じろりと見やってくる様は、面接官のお芝居でもしているかのようだ。年齢は
ケシンが先日話していた通り、小学生高学年らしい。
 先に七尾がケシンから紹介され、次いで彼女自身もよろしくと頭を下げたの
だが、顕著な反応はない。むしろ、緊張感が高まったかもしれない。
 と、向かって左端に座っていた男児が、ケシンの方を向いて手を挙げた。
「天野(あまの)君、何かね」
「先生。待っているのもかったるいし、自己紹介をしたあと、すぐにマジック
をしてもいいですか?」
 早めの声変わりを迎えているのか、低い声でその少年が云った。ケシンは無
言で顎を引き、許可を出す。それから横路と七尾に、用意しておいた席に座る
よう促した。
 件の少年は椅子を離れると、上座の教壇に立った。紺のブレザー姿がなかな
か様になっている。教卓に両手を着き、堂々とした態度で口火を切る。
「俺は天野紳蔵(しんぞう)。六年生。ケシン先生に教わり始めて、ちょうど
二年になる」
 七尾の座る位置から教卓まで、目測で三メートル強といったところか。手元
が見えにくい距離ではない。教卓の上に敷かれた緑の布も、その光沢がよく分
かった。
 が、七尾は天野が最前やったように挙手をした。
「ここでお行儀よくしてないと、だめなの?」
「どういう意味だね?」
 ケシンが微笑を浮かべる。このプロマジシャンは、部屋の上座の左手奥に腰
を落ち着けていた。
「もっと近くから見てはだめなのかなってことです」
「私にではなく、天野君に聞いてみたまえ」
「――ということだけど」
 台詞の繰り返しを面倒臭がったのか、七尾はそれだけ云うと天野へと向き直
った。相手は強い調子で応じた。
「前からならどこから見てもいいさ。が、有能な人間ならば、今おまえがいる
場所からでも見破るね」
「ふうん。じゃ、ここでいい」
 意地の張り合いのようなやり取りの直後、天野は早速始めた。彼が教卓の下
から取り出したのは、銅のような色をしたカップと黄色いボールが三つずつ。
それと長さおよそ十センチのステッキ。ボールのサイズはピンポン球程度で、
カップを被せれば楽に隠れる。
 道具立てを見て、横路にはどんなマジックが始まるのか分かった。何度かテ
レビで見たことがあるし、小さい頃、祭の屋台で演じられていたのを見た記憶
もある。ボールの上からカップを伏せて隠し、カップの中にボールがあるかと
思ったら消え、ないはずのところから現れ、いつの間にか三つ揃う……そんな
感じの演目だ。
 相当な熟練を要するマジックのように思えるのだが、果たして小学生に演じ
られるものなのか。横路は付き添いで来たにも拘わらず、興味を抱いた。
 天野が披露したのは横路の予想した通りのマジックで、“カップとボール”
という通称がある。天野の演技は基本に忠実で、オーソドックスながらきれい
に進んでいく。三つのカップそれぞれに一個ずつボールを隠した状態から始め、
右に入れたはずのボールが消え、左を開けると二つになっていた。次は左右と
も消えていて、真ん中に三つ揃って現れる。あるいはボールを一個ポケットに
戻して、二個しか使っていないはずなのに、カップを開けるといつの間にか三
個に戻っていたり、三個使っていたはずのボールがカップを重ねる内に全て見
当たらなくなってしまったりと、徐々に不思議さを増していく。
 そしてラスト。左右のカップを開いて空であることを見せると、伏せたまま
の真ん中のカップの底をステッキで叩き、注目させる。天野は横路や七尾の方
を一瞥し、にやっと笑うと、カップの底に指を掛けて、ゆっくりと開けた。
「あ」
 横路が年齢に似合わず、例によって間の抜けた声を上げる。無理もない。ボ
ールが現れると思い込んでいたところへ、レモンが出現したのだから。

――続く





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