AWC そばにいるだけで 63−3   寺嶋公香


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#218/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  04/03/20  00:00  (473)
そばにいるだけで 63−3   寺嶋公香
★内容
「だから言ったんだけどな」
 立ち直りは相羽の方が早かった。あきらめた口ぶりで苦笑混じりに言うと、
バッグを置き、ちらしを拾ってくしゃくしゃと丸める。手元に残るちらしの中
からも、同類の物を全て抜き出し、やはり丸めた。それからこの一角の隅っこ
に設置された大ぶりの屑篭に近付くと、不要のちらしをまとめて投げ込む。す
でに屑篭は満杯に近い状態みたいで、乾いた音がした。よその郵便受けにも同
様のちらしがたくさん入れられたに違いない。それも、屑篭が置いてあるとい
うことは、日常茶飯事なのだろう。
「青少年にとって教育上好ましくないってやつ」
 手をはたいてみせながら、相羽が言った。ため息をついた純子も、ようやく
落ち着きを取り戻す。
 相羽はバッグを持ち直すと、いつもよりは多弁に続けた。
「事実、マンションには小さな子達もたくさんいるからね。目に着かないよう
にするには、とりあえず、屑入れを置くでもしないと」
「そ、そうね」
「こうやって集合ポストを囲ってあるのは、建物の内部であることを明確にす
るためだそうだよ」
「建物の内部って、関係ある?」
 エレベーターの扉へ向かいながら、純子は聞いた。本当は、どうしても聞き
たいわけではないが、何か話題がないと、さっきのちらしの写真を思い出しそ
うで嫌だったから。
「ちらしを勝手に入れに来た人を、建築物侵入罪に問える。これがもっとオー
プンな、たとえばマンションを入ってすぐのところにむき出しで設置してある
と、不法侵入とは言いにくくなるんだって」
 説明を終えると、ちょうどエレベーターの箱が降りてきて扉が開く。母親と
小さな女の子の親子連れが乗っていた。道を空け、軽く会釈する。
 女の子は純子のことをコマーシャルかポスターで見て、しっかり認識してい
るらしく、「あ、美羽、美羽」と叫びながら、紅葉のような小さな手を盛んに
振ってきた。純子がびっくりしている間に、「応援してる、がんばってー」と
辿々しい発音で言った。
「ありがとう」
 微笑混じりに純子が手を振り返すと、女の子はいっそう大きく手を振る。母
親の方は今一度大きく頭を下げて、ほら、とばかりに子供を急かした。
「テレビで見るよりちれいだねー」
 舌足らずな喋りが耳に届いて、純子は再び微笑を誘われた。
「あの、純子ちゃん」
 ふと気付くと、相羽がエレベーターのドアが閉まらないよう押さえている。
「早く乗らないと、機械が壊れるかも」
 純子も相羽も慌てて飛び乗った。
 五階のボタンを押す。無事に上昇を始めるエレベーター。
「だいぶ有名になっちゃったな」
 相羽がつぶやいた。
 階数表示の電光を目で追っていた純子は、視線を彼に合わせると、冗談ぽく
尋ねる。
「妬ける?」
「いや。今はそんなことない」
「昔は違ったの?」
「それはもちろん」
 相羽の答に、純子は顔をほころばせた。思い出したことがあった。
(私がモデルの仕事を始めた頃から、相羽君てば「やめておけ」みたいなこと
を、ずーっと言ってたっけ)
 時間が解決してくれたのかしら――。そんなことを思った純子自身、モデル
をし始めてしばらくはなかなか本腰を入れてやる気にはなれなかったが、時の
経過とともに気持ちが変わっていったのではあるが。
 五階に着く。誰もいない静かな廊下を行く。もう通い慣れたルートだ。今日、
小菅先生に会ったり、中学校に行ったりしたためなのか、ここでも初めて来た
ときのことが思い出された。
(あの日はお見舞いに来て……)
 小学生の純子は泣いてしまったのだ。慰めてくれたのは、小学生の相羽。昨
日のことのように思い出せる。初めて来た日だけじゃなく、いろんな出来事を。
「お邪魔します」
「どうぞ」
 言っていた通り、相羽の母は不在だった。いつ見てもきれいなうさぎのスリ
ッパを履いて、一旦、相羽の部屋へ。バッグを仕舞う。
「とりあえず……お茶を?」
「うん、飲みたい」
 大して長居できないが、それぐらいの時間はあろう。一緒に台所に立った。
「たまには違う飲み物……たとえばコーヒーにする?」
「ううん。紅茶がいい」
 相羽の入れる紅茶は、基本的にここでしか飲めないから。相羽なら、仮にテ
ィーバッグに水道水を沸かしたお湯でも、味を目一杯引き出せる。
(その分、私のすることがなくなるんだけれど)
 カップを用意しながら、少し不満に思わなくもない。いつか彼のために、美
味しい紅茶を自分の手で入れてあげたい。
 その参考にしようと、手つきをじっと観察する純子。入れ終わった時点で、
相羽が気付いた。
「興味津々て感じだね」
「あ、その、自分の家でも飲みたいなと思って。美味しい紅茶」
 隠す必要はないのに、つい、そんな風に答えてしまった。あなたのために入
れてあげたいと言い切るには、将来、相羽に匹敵するほどうまく入れるだけの
自信がまだ持てない。
 紅茶と手作りクッキーを用意し、そのまま食堂のテーブルについた。
「相羽君、着替えなくていいの?」
「あとでまた出るからいいよ」
「え。出掛ける用事があるのなら、私、早く帰らなくちゃ」
「そうじゃなくて、君を家まで送る」
「……ありがとう」
 悪いからと断っても聞き入れてくれないのは、最早分かりすぎるぐらい分か
っている。素直に甘えよう。
「いただきます」
 制服姿の二人が声を揃えて唱えると、まるで学校での給食シーンだ。そのこ
とを思って、純子は笑みをこぼした。
 このまま楽しい話題を選んでお喋りに興じるのは魅力的だが、帰宅時刻が気
になる。試してみようと考えたことを、早く実行に移さなくては。
「ねえ、相羽君。おかしなこと、聞いていい?」
「何なりと」
 空模様を気にする風に、窓の方向を見やりながら、相羽は答えた。
 純子はでも、そのまま突き進むにはためらいがあった。前置きをしておく。
「あの、こんな質問したからって、私のことを変な風に見ないって、約束して」
「ん?」
 相羽がこちらを見た。紅茶カップの場所を確認するかのごとく、両手で包む。
「約束してよ。お願いだから」
「うん、約束するよ」
 多少の戸惑いの色が露だが、とにかく相羽から了解の返事を得た。純子は一
拍溜めて、思い切って言った。
「相羽君も……エッチな本とか見るの? 持ってる?」
 しばし静寂。蟻の足音でも聞こえそうなくらい、しんとした。
(は、早く答えて、相羽君!)
 テーブルの上に置いた手を両方とも握りしめ、全身が熱くなるような感覚に
耐える。待つ間が、とても長い。
「――見たことある」
 やっと相羽が答えた。尤も、純子が感じた長さの、何分の一も小さな時間し
か経っていなかったが。
 相羽は紅茶を口に運び、一口飲んだあと、続けて言った。
「持ってはいないけど。友達が持っている分を見たことがある」
「な、何のために見るの?」
「何のためと言われても……男だからとしか」
 純子も相羽も、声がかすれ気味で、上擦る。変な空気になってきた。早く脱
出したい。
 純子は早口で質問を重ねた。
「女の人の裸に興味あるのよね。相羽君でも」
「……」
 相羽は口を開いたが、単語の一つも発さず、うなずくにとどまる。対して、
しばらく面を伏せた純子。やがて膝上に移していた手を左右ともゆっくり握る
と、顔を起こす。再び、勇気を振り絞って言った。
「私じゃ、だめ?」

           *           *

「私じゃ、だめ?」
「え」
 思わず目を剥く。視線の先に、純子の表情を捉えることはできなかった。再
び顔を伏せてしまっていたからだ。彼女は下を向いたまま、今度は消え入りそ
うな声で言う。
「他の人の裸、見ないでほしい……」
 純子の耳たぶが真っ赤になっている。相羽自身も赤面しているような気がし
た。一瞬、呼吸が荒くなる。
「純子ちゃん」
 相手の名を呼ぶことで、気持ちを整えようとする。どうやら成功だ。
 だが、相手の心の方は、まだ落ち着きを取り戻していないらしい。今にも両
手を服の裾にやりそうな勢いで続ける。
「相羽君が見たいんだったら、私」
「純子」
 一度ブレーキを掛けなくては。相羽は――多分初めて――、彼女の前で名を
呼び捨てにした。
 効果はあった。ただし、純子がどう受け止めたのかはまだ分からない。もし
かすると、勘違いさせた可能性もある。
 顔を起こして、両手の指を所在なげに絡ませる純子。視線は相羽に向いてい
るようで、焦点を外しているようにも見えた。
 本心を言えば、相羽だって望んでいる。唐沢に突っつかれて、今日は特に強
まっている。その機会が到来したのかもしれない。
 だが……不審さの方が圧倒的に上回る。
(急にこんなことを言い出すなんて、おかしい。もしかすると、君も)
 勘が働いた。相羽は紅茶を飲んだ。
「内緒の話って、何だったの?」
「え?」
「今日、中学に向かってるとき、女子のみんなで話していたよね。あのこと」
「あれは……」
 言い淀み、純子は斜め下を向いた。
 相羽は少しだけ黙考し、敢えて「僕も」と始めた。
「僕も、唐沢から色々言われたんだ。その、君と僕とが、恋人としてどこまで
階段を昇ったかとかね。答に困るよ、ああいうのは」
「……私も」
 小さな声で反応があった。勘が的中したと確信する。
「みんなから言われて、普通よりゆっくりしてるのかなって思って。ううん、
それはいい。関係ない。ただ、考えてる内に、相羽君が全然、興味を示したこ
とがないって気付いたから、ちょっと不安になってきて……」
「唐沢に言われて、僕も少し、不安に感じたよ」
 相羽の返事に、純子はどこかほっとしたように、表情を和らげた。静かに語
り掛ける。
「僕だって関心を持ってる。君のことを想像する。裸を見たい、肌に触れたい、
そのまま抱きしめたい。欲求が、とんでもなく強まることもあるよ」
 結構恥ずかしいことを喋っているのに、気持ちは平静なままだ。純子の方も、
顔の赤みは残っているけれど、だいぶ落ち着いたのが手に取るように伝わって
くる。
「でも、今はこのままでいいと思っている。周りの人に言われたからとか、無
理にとか、そんな風にして進むのは望まないな」
「……」
 純子は無言だったが、こくりとうなずいていた。
 これでもう、完全に大丈夫かな。相羽はそう思った。調子をくだけたものに
して、話を重ねる。
「さあ、ここで純子ちゃんに質問」
「え、何?」
「今の君は、エッチなことをしたいか、したくないか」
「――」
 今度も無言の純子だったが、さっきと違って、首を左右に激しく振った。ポ
ニーテールが揺れるのを見て、ああ、変わってないとしみじみ感じる。
「今は無理っ」
「同じでよかった」
 相羽は笑み混じりに応えた。もちろん、青少年なんだから、惜しいことをし
たかなという気持ちがゼロだったと言えば嘘になるけれども。
「唐沢も町田さん達も、とんだお節介だね」
 肩をすくめてみせた。引き寄せた紅茶のカップはだいぶ冷めていた。

           *           *

「唐沢も町田さん達も、とんだお節介だね」
 相羽の言葉に、純子は苦笑いを浮かべる余裕ができていた。さっきまでの自
分は、どうかしていたんだ。本心がこれっぽっちもなかったとは言わない。思
いが酔っ払ったみたいになって、少し暴走しただけのこと。
「うん。けれども、みんないい友達」
 そう応えると、温くなった紅茶を喉に通した。
「飲み頃、逃しちゃったわ」
「うん。それより、いきなり変なことを言われたから、びっくりして忘れてい
たんだけれど」
「どうせ『変なこと』ですっ」
「怒らないで。本当に驚いたんだから。で、忘れていたっていうのは……一緒
にビデオを見てほしいんだ」
 やや歯切れの悪さが目立ったが、相羽の誘いであれば何だって嬉しい。それ
に、最善の恥ずかしさを忘れるためにも、オーバーなぐらい反応してしまった。
「相羽君と? 見る! 何の映画? あ、でも時間がないわ」
「映画じゃないんだ。一種のドキュメンタリー」
「ど……」
 途中で口ごもり、首を傾げてしまった。
「N**スペシャルみたいな?」
「まあ、そうかな。外国のテレビ局が作ったフィルムで、ナレーションは日本
語だって。実は、僕もまだ見てない」
「なあんだ。ということは、誰かに勧められたのね。いいわ。今から?」
「できれば」
「興味あるけれど、時間が大丈夫かしら……。どれくらいの長さなの、そのド
キュメンタリーって?」
「四十五分程度と言ってたな。十分余りの話が四つ」
「それなら問題なしね。『言ってた』っていうのは、誰?」
「えーと。一応、現時点では秘密にさせてもらいます」
 かしこまった物言いになった相羽に対し、純子は首を傾げる。
「なーんか、怪しい。まさか――」
「誓って言いますが、エッチなビデオではありません」
「そ、そんなこと、言ってない!」
 腰を浮かし、両腕をあわわわと回す純子。
(口に出さなくてよかった……)
 席を立った相羽に続き、あとを追う。彼の背中を見ながら、ほっと胸をなで
下ろした。
「どうぞ……って、何回か入ってるよね、この部屋にも」
 大きなテレビのあるリビングに通された。確かに入ったことはあるが、ほん
の数えるほどだ。相羽の家に来てテレビを見た記憶は、ほとんどなかった。
 ドアが開け放したままになっているのは、先ほどの話題が引っかかっている
から……なのかどうか分からない。
 純子がテーブルに着く間に、相羽はビデオの準備をし、やがて「いいかい?」
と聞いてきた。一瞬、意味を掴み損ねる。
「再生するよ」
 純子から少しだけ離れて隣の椅子に座る相羽。
「あ、うん」
 純子はスカートを直し、改めて腰を下ろした。
「リモコンの調子がよくないから、力を入れないと」
 機器の方に向け、リモコンのボタンを力を込めて押す相羽。幸い、一度で成
功した。テレビの画面に、鮮明な映像が映し出される。
 番組のタイトルはなく、四つあるという話の一つ目に、いきなり入ったよう
だ。英文が画面真ん中に大きく出て、下の方には付け加えたらしい日本語の字
幕が現れた。
 そのまま声に出して読む。
「キャンディドTV……?」
 相羽は何も言わない。代わりに、番組の男声ナレーションによって、どっき
りカメラ、いたずらカメラのことだと分かる。
「似た感じの、見たことあるわ」
「……だろうね」
 意味ありげな相羽の相槌が気になったが、純子は画面に意識を集中した。
 番組が仕掛けるいたずらは、どれもくだらないと言えばくだらなかった。美
容院の店員みんなが爆発頭だったり、地方の小さな映画館で延々と予告編を流
したり、あるいは自動販売機で出て来た缶飲料ラベルにおしっこする犬が描か
れていたりと、大がかりで手が込んでいるがくだらない。ただ、引っかけられ
た人達の反応がおかしくて、何度も笑ってしまった。
 三つ目の、ナイスバディの金髪女性が下着姿になるのを覗けば、どれも面白
かったと言える。
「あー、おかしかった。あれっ、相羽君はあんまり笑ってない?」
「面白いよ。声に出して笑わないだけで」
「そう?」
「あ、ほら。次が始まる」
 相羽が大きな仕種でテレビを指差した。これまた外国の物で、料理番組のよ
うだ。そうなるまで気付かなかったのと聞きたくなるほどの巨漢女性と、眼鏡
を掛けた針金をイメージさせる男性が司会役で、色んな国々の料理を紹介して
いく。女の人は普通に豪華な料理を食べ、男の人はげてもの料理ばかり食べさ
せられるのが、お約束になっていた。
「美味しそうなのを見せられても、次にげてものが来るから、食欲を抑えられ
るわ。ありがたいようなそうでないような……変な番組」
「確かに」
「この二つ、どちらもドキュメンタリーとは言わないんじゃない?」
「その内に出て来ると思うよ」
 相羽は最小限の言葉しか発しない。理由を聞く間もなく、三つ目の番組が始
まった。珍しい職や趣味を持つ人を紹介する主旨らしい。
 一人目はペット探偵で、迷子の動物探しを主に請け負う。かわいらしいリス
や小鳥が出て来たかと思ったら、大蛇やワニ、蜘蛛も登場し、純子は身震いさ
せられた。生まれて間もない子犬を助けるエピソードが最後にあって、なかな
か感動的に締めくくられた。
 二人目は化石探しに取り付かれた男。純子も化石好きとあって興味を引かれ
たが、お金儲けのために珍しい化石を求め、世界中を渡り歩いていると聞いて、
がっかり。逆に、腹立たしくなった。
 二人を紹介したところで、この番組は終わり。少々不機嫌になっていた純子
は、黙って四つ目の番組を待った。
 フラワーコーディネーターの西洋人女性が結婚を数ヶ月後に控え、家族五人
――彼女自身と両親と祖母、弟――で旅行に出掛ける。その途中で大きな列車
事故に巻き込まれ、瀕死の重傷を負う。数時間後に意識の戻った彼女にもたら
されたのは、祖母と弟は即死、両親も搬送先の病院で相次いで息を引き取った
という知らせ。追い討ちをかけるように、臓器提供の段取りが告げられ、ショ
ックを受ける。
 そんな模様が、再現VTRと実際のニュース映像とを交えて、巧みに語られ
ていった。
(いくら法律で決まってるからって……ひどい)
 純子は唇の真ん中をぐっと噛んだ。そうしてないと、泣いてしまいそう。
 女性は、全身の至る所に火傷を負い、左手の薬指と小指を失っていた。
 駆け付けた婚約者の男は、恋人の変わり果てた姿に、一瞬、たじろいだ。正
直言って愛せないかもしれないとそのときは思った、そうインタビューで語る
男性は、若くて頼りなげだが誠実そうに見えた。
 彼女は自分の身のことよりも、婚約指輪を失ったことを男性に謝り、婚約解
消を申し出る。男性は心を動かされる。ただ、男性は年老いて身体の自由の利
かなくなった両親の面倒を見ており、そこへ加えて女性の身の回りの世話がで
きるかどうかとなると、体力的にも経済的にも自信が持てず、結論を下せない。
周りの人間からはありがたく申し出を受け入れて、婚約解消すればいいとさえ
アドバイスされた。だが、彼にはどうしてもそんな真似はできない。深酒で酔
った彼は、同じアドバイスを繰り返す知り合いを殴り付け、警察の厄介になる。
 そのときたまたま警察にしょっ引かれていたのが、一人の泥棒。これがとん
でもない男で、火事場泥棒ならぬ事故現場泥棒を働いていた。犠牲者の金品を
持ち去って、金に換えようとしたのが発覚し、捕まったのだ。そして婚約者の
男性は、泥棒の持っていた品々の中に、婚約指輪を見つける。
 こんな偶然を軌跡と信じるなんて、ばかげている。そう思う自分がいる一方
で、神様が二人を別れさせないようにしているんだと感じた。男性はおどけな
がらも、涙声で語った。男性は婚約を解消せず、彼女と結婚した。
 このエピソードがニュースで流れ、世間の関心を集めたことで事態は変化し
た。女性の手術及び術後の費用に使ってくれと、全国から募金が寄せられた。
女性の火傷痕や手の再建手術には、国内で有数の名医が名乗りを上げた。男性
の務める会社も、彼を全面的にバックアップすると約束。
 ラストは、まだ手術の痕跡が生々しいけれども幸せそうに笑い、「お花の勉
強を一からやり直さなくちゃ」と語る花嫁と、事故直後の彼女を最初に見たと
きの自分をまだ恥じてる、それでも頼りなさの消えたタキシード姿の男性のツ
ーショットで幕を閉じた。
「……」
 純子は手を忙しなく、動かしていた。目のすぐ下やほっぺや、顎の辺りを濡
らす物を、手の表裏を使って拭う。ハンカチだけでは追い付かなくなっていた。
 鼻をすする音に気付いて、やっと恥ずかしさを覚えたが、止められそうにな
い。嗚咽めいた声が短く、こぼれてしまった。
 いつの間にか席を立っていた相羽が、ハンカチを持って来て、純子の前に差
し出した。
 黙って受け取り、俯いて涙を拭いた。
「――あは。どうしちゃったんだろ。こんなこと、滅多にないのに」
 笑いながら言ってみせたが、滅多にないというのは嘘だ。もっと小さい頃は
そうでもなかったのに、ここ一年ぐらいから涙もろくなった気がしてならない。
「ごめんね。びっくりさせちゃった? 泣くつもりなんてなかったのよ。でも、
何だか勝手に……」
 口の方は自分でも不思議なくらいよく回るが、涙の方もまだ止まらない。
「あれー? ほんと、どうしたのかな。なかなか止まんない。やだな、ひどい
顔になる。洗面所、使っていい?」
「もちろん」
 顔をあんまり見られたくなくて、横を向いて相羽のそばをすり抜け、洗面所
に向かう。冷たい水で顔を叩くようにして洗い、タオルを借りて顔に押し付け
る。しばらくそのままにしていると、どうにか落ち着いてきた。
「――っはぁ」
 タオルを外し、洗面台の鏡を見た。自分の顔。髪が若干乱れ、目元が赤くな
っていた。
(あーあ。やっぱり。ひどい顔)
 髪を直しながら、苦笑混じりの嘆息。
(モデルの仕事前なら、怒鳴りつけられたわね、きっと)
 息を整え、何とか見られる状態になったと信じ、純子は洗面所を出た。する
とすぐ近くの廊下に、相羽が立って待っていた。
「涙、止まった?」
 心配そうな顔をしている。声の響きも気遣いでいっぱい。
「止まった。どう? 外に出ても平気な顔になってる?」
 自らを指差す純子に、相羽は「全く問題なし」と力強く答えた。
 額面通りに受け取っていいのか、不安は残るが、純子はにっこり笑った。
「よかった。あぁ、本当にごめんなさい。いきなり泣いてしまって、びっくり
したでしょう? もう、どうしてああいうビデオを見せるのよー。悪い番組じ
ゃないけれど。初めに言ってくれれば、まだ心構えができたのに。女の子を泣
かせて、楽しい?」
「いや、そういう訳じゃなく」
 恥ずかしさをごまかすための問い掛けに、相羽は真面目に応じた。
「見終わったから打ち明けると、ビデオを君に見せてくれるように言ってきた
のは、母さんで――」
「おばさまが? どうして」
「母さんは市川さんから言付かったんだって。純子ちゃんが初めに、似たのを
見たことあるって言っていたけれど、それは当然で……」
 奥歯に物が挟まった言い方に、焦れったくなった純子は、「気になるから、
すぱっと言って」と、相羽の腕を掴んで揺さぶった。
「世界中のテレビ番組をいいとこ取りして紹介する、バラエティ番組あるでし
ょ。芸能人のゲストがやたらに多い……」
「知ってる。私が思い浮かべたのもそれよ」
「あの番組のゲストに、出てみないかという話があって、さっきのビデオはそ
のテストだったらしいんだ」
「?」
 事態を飲み込めず、目をしばたたかせる純子。掴んだままの腕を、再び揺す
った。
「どういうこと」
「これ以上、説明のしようが……。純子ちゃんに、と言うより久住淳に、あの
番組にゲスト出演しないかという打診があって、市川さんは乗り気だったもの
の、保留していたみたいなんだ。番組内でVTRを見て、久住らしくない反応
が出てしまうのを危惧して」
「ということは」
 目の下をこする。
「私、だめね。こんなにぼろぼろ泣いちゃって」
「僕が決めることじゃないけれど、多分……。出たいの?」
 どこか不安そうに、相羽。
「うーん、考えたことなかったから、自分でも判断しにくいけど……出しても
らえるのなら一回ぐらいはっていう程度。トークの方が全然自信ないし」
「最初からテストだと分かっていたら、我慢できたのかな」
「絶対、無理。さっきの内容だと、コメント一つ出せなくなっちゃうわ。ねえ、
市川さんに打診して来たのって、誰なのか分かる? 気になる」
 相羽は首を横に振った。
「教えてもらってない。でも、あの番組に携わってる人には違いないから、テ
レビ関係者だろうね。これまで出演した人の推薦かな」
「そっか。じゃあ、鷲宇さんじゃないわね。バラエティには絶対に出ない人だ
から。加倉井さんもこんな真似しそうにないし、一番ありそうなのは星崎さん
かしら。でも、星崎さん、ふざけるのは好きでも、仕事のことで連絡なしに話
を進める人じゃないと思うんだけどな」
「どうしても気になるなら、市川さんか母さんに聞けば、いずれ分かる」
「ううん、いいの。気になると言っても、ほんのちょっとだけ。出演の見込み
があるならともかく、ないんだったら、知らなくていい。その内、推薦してく
れた人から声を掛けてもらえるかもしれないし」
 純子は大きく伸びをした。
「ああ! たっぷり涙を流して、気分爽快って感じ!」
「そう言ってもらえると、後ろめたさが減るよ。黙ってテストなんて、あんま
りいい趣味じゃない」
 相羽はビデオの電源を落としながら、息をついた。そのすぐそばに立つ純子
は、つい、笑い声を立てた。
「うふふ、相羽君も気苦労が多くて、大変ね。お母さんの手伝いをしたい気持
ちと、私に対する後ろめたさ。どっちが大きかった?」
「それは」
「ああ、冗談よ、冗談。答えられない質問をして、ごめんね」
 頭を下げた刹那、ビデオ機器の時計に目が行く。
「あ、こんな時間? そろそろ帰らなくちゃ」
「もう?」
 二人とも、時間が経つのが早いと感じていた。
「……仕方ないか。一緒に出よう」
 相羽はすっくと立ち、制服のしわを直した。
「おばさまの帰宅が近いんじゃあ……。帰って来たとき、誰もいなくて、家が
暗いと、さびしいものよ」
 遠回しに――でもないか――、送ってもらうのは悪いわと意思表示。
 しかし相羽は、軽く首を振って答える。
「まだだと思うよ。君の家まで行って帰るぐらいの時間はある」
「……しょうがないなぁ、強情なんだから。『送ってください、お願いします』
――こう言っておけば、半分は私の責任よね」
「はは。それはともかく、喜んで送ります」
 相羽は短く、敬礼のポーズを取った。

 自宅前まで来て、くるりと相羽に向き直る。西の空は太陽の赤がもうすぐ訪
れる夜の黒を強調し、もの悲しさを演出していた。
「ここで、お別れのキスっていうのも、私達にはまだ早い?」
 今日は気持ちがそっちの方に向いているのだろう。最後もこんなことを言っ
てしまった。本気じゃないのに。
「早いか早くないかとは別の問題がある」
 相羽も本気にしはしていなかった。
「どんな?」
「君のお母さんかお父さんに目撃される可能性が高いね。それでもよければ」
「見られるのは嫌。というか、あとで何て言われるか分からない」
「他に、芸能カメラマンに盗み撮りされる危険性もあるなあ」
「まさかぁ」
「真剣に注意すべきだよ。好むと好まざるに関わらず、純子ちゃんの、いや、
僕と純子ちゃんのミスは、周りの人に迷惑を掛けるんだから」
 かつて、香村とのツーショット写真を撮られたことを思い出した。厳密を期
せば、あれは芸能カメラマンの盗み撮りではないが、結構大きな騒ぎになった
だけに、忠告が耳に痛い。
 でも。
「そこまで考えてたら、こうして付き合えなくなる」
 不安と不満から、目つきがきつくなる純子。相羽は小声で答えた。
「あくまで友達として付き合っている――そういうふりをしていれば、分かり
はしない」
「なぁんだ、意外と楽観的じゃない」
 ほっとすると、笑みが溢れた。相羽は小さくうなずいた。
「そうとでも思い込まなきゃ、心配で心配で」
「相羽君……」
 いざとなったら、仕事をやめる。そこまで言おうとした純子だが、相羽の口
から続いて出て来た台詞に、思いとどまれた。
「いざとなったら、結婚する。誰にも悪く言わせない」
「……」
 相羽の真顔をじっと見つめる。
 急な言葉だったけれども、感激しちゃって、だから返事が何も出て来ない。
 程なくして、相羽の頬がほころぶ。
「尤も、純子ちゃんにその気がなければ、絵に描いた餅ってやつだね。ごめん、
いきなり変なこと言って」
 間。静かに太陽が退場していく。
「変……じゃないよ」
 純子はぽつりと答え、下を向いた。その表情を緩みっ放しにして。
 いくばくかの時間が過ぎ去り、純子が面を起こす。相羽と目が合った。
「そ、それじゃあ、またね!」
 どちらからともなく言って、今日という日はおしまい。

――『そばにいるだけで 63』おわり





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