AWC そばにいるだけで 63−2   寺嶋公香


        
#217/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  04/03/19  23:58  (499)
そばにいるだけで 63−2   寺嶋公香
★内容
「いやいや。ううん、何でもない何でもない。こっちの話」
 町田達三人があたふたしつつも、ごまかす。相羽は気に掛かる様子だったが、
唐沢の方が半ば強引に前を向かせた。
「……キスもまだっていうことは、ようやく手を握ったくらい?」
 落ち着きを取り戻した口調で、井口が聞いた。
「手、手ぐらいは前から握ったことあるわ」
「付き合い始めて、何か劇的でロマンティックな変化はないのー?」
 そうあって欲しいという願望を含んだ富井の問い掛けに、純子は再び沈黙。
しばし考え、「二人きりでデートしたよ……」と答えるも、声はか細い。
「人それぞれだろうけど……長いこと両想いで、やっと念願かなっての付き合
いなんだから、キスぐらいはすぐと思ってたんだけどさ」
 はあ、とため息をついて、町田は首を傾げ、さらに腕組みまでした。危ない
よと純子が声を掛けるが、聞いてないみたい。
「今日、赤ん坊を抱いてるとき、ハンカチが落ちたよね。で、相羽君が拾って
挟もうとしたのに、途中でやめた」
 前を行く相羽を気にしながら、町田は続けた。
「あれって多分、純の胸に触るといけないと思って、相羽君、私らに代わって
と言ったんだよね」
「うん……私もそう思った」
「あれを見て、ちょっと変だと感じたのよ。だからこそ、どこまで行ったのか
なんて不躾な質問をしたんだけれど」
「えっ。変かな?」
「ちょっと進んだ恋人同士なら、遠慮なしにできると思うのよね。たとえ人前
で少しぐらい胸に手が触れても、騒ぎ立てることじゃない」
「……」
 言われてみれば、そうかもしれない。黙った純子に、今度は井口が聞く。
「もしかして、純子の方が許していないの?」
「許してない、って?」
「鈍いよー。その、キスとか、何とか」
「そんなこと! ……意識して考えたこともない」
 思わず声を張り上げると、周りの三人に、しーっ!とされた。
「相羽君には、そういうことをしたがるような素振りは、今までなかった?」
「……なかったと思うわ。鈍いから、自信ないけど」
 自嘲して答える純子に、井口が「さっきのはごめん」と謝る。
「ううん。私、本当に鈍感で、疎くて……。それに、そばにいるだけで楽しい
から。だから相羽君の求めてることに、気付けなかったのかも」
 ほっぺたを右の人差し指でかく仕種をする純子。
 そこへ、町田の「あーあ」という声が被さった。声量はほぼ普段通りに戻っ
ている。
「芙美?」
「聞いてられないって。一緒にいるだけで幸せなんて、そりゃあ、最高のおの
ろけだよ」
「……」
 それもそっかという富井達のささやきを背中で聞きながら、純子は考えた。
「でも、相羽君はほんとは、もっと進みたいのかもしれない。私が気付かない
だけかも」
「そんなことないと思うわ。相羽君だって、今は純と一緒にいるだけで幸せな
んだよ。ずっと惹かれ合って、同じ想いでいたのに、くっついた途端、気持ち
にずれが生じるとは考えられないわよね」
「いいのかな……」
「いいじゃない、急がなくても。二人のペースで進めば。その代わりね、来る
べき時が来て、動き出したら止まらないわよ、きっと」
 ウィンクする町田。純子はいささか呆気に取られたけれど、しっかり受け止
めた。
「すごーい! 芙美ちゃん、経験者みたい!」
 富井がきゃあきゃあ、かしましい。
「残念ながら、経験者じゃない。親戚のおねーさんの言葉よ。郁も久仁も、人
生の先輩の言葉を、ありがたく拝聴なさいな」

           *           *

「目には目を、歯には歯を。そして、内緒話には内緒話だよな、相羽」
「はあ?」
 肩に手を回してきた唐沢の顔をまじまじと見つめ、「意味不明なことを……。
とりあえず引っ付くな」と距離を取る。
「向こうが内緒話し始めたら、こっちも内緒話しかないでしょうってことだよ」
「僕は別に、隠れてこそこそするような話題に心当たりがない」
「そっちになくても、俺にはある。はっきり言うとだな、相羽。おまえと涼原
さんの仲に関してさ」
「いい趣味じゃない」
「おいおい、つれないな。具体的にはまだ何にも言ってないぞ」
 歩くスピードを上げた相羽に、唐沢は慌てて追い付いた。後ろから肩に手を
掛け、元の速さに戻す。
「俺を蹴落として涼原さんと恋人同士になったおまえには、事後報告をする義
務がある。涼原さんを幸せにしてないんなら、許せんしな」
「無茶苦茶な理屈。ただ、気持ちは分かるよ」
「それなら、教えてくれ。涼原さんとはどこまで進んだのか」
「……」
 二人きり、自分か唐沢の部屋で話していたのなら、ぼこっと殴っていたかも
しれない。相羽はそんな風に想像して、苦笑を浮かべた。
「あ、無視するなよ」
 また歩速を上げた相羽に、食い下がる唐沢。
「げすな質問かもしれないが、覗き趣味じゃない。心配になったから、聞いた
んだぜ」
「心配されるようなことが、何かあったっけ」
「さっき、先生の家で、ハンカチを涼原さんの胸のところに戻そうとして、最
後までやらなかっただろ。何でだ?」
 相羽はゆっくりと口を開けたが、すぐには答えない。正直に話していいもの
かどうか、しばし逡巡した。唐沢の目を見返し、まあいいか、と思った。
「胸に触れたらと思うと、恐くてできなかった」
「恐い? どうして。おまえの彼女だろ」
「そういう所有物みたいな言い方は、僕はしたくない」
「気に入らなけりゃいくらでも言い直すさ。恋人の胸に手が当たったら、だめ
なのかいな」
 おかしそうに、唐沢。彼にとっては理解の範囲外に違いない。
 尤も、唐沢も付き合った異性は多くても、正式な“彼女”“恋人”と呼べる
存在には巡り会っていないが。
「つまらないことで嫌われたくない」
「手が胸に当たったぐらいで、嫌いになるかよ」
「純子ちゃんとの仲は、まだそこまで行っていない気がする」
「ほら、な」
 得意満面になって、唐沢は相羽の脇を指でつついた。
「そこで最初の疑問に戻ってくるわけですよ、相羽クン。どこまで進んだのか」
「すでに答えたようなものだろ」
「胸でどうこう言うくらいだから、その手前……キスか」
「唐沢からすれば信じられないだろうけど、それもまだだよ」
「何?」
 そこまでは想像していなかったらしい唐沢は、一瞬立ち止まり、
「キスの一つもしてないたあ……ほんとかよ」
 とつぶやいた。相羽は答えず、肩越しに後ろを見た。当然、純子に意識が行
く。質問攻めにあっているのか、困っている風だが、敢えて口出しすることも
ないだろう……。
 相羽が前を向いた瞬間、女子達の声が大きくなった。
「ええーっっ?」
 何人かの声が混ざっていたが、その中に純子のものはない。相羽も唐沢も振
り返った。
「急に大声を上げて、どうかしたの?」
 相羽が聞くと、純子以外の三人が、「何でもない何でもない」だの「こっち
の話」だのと明らかに狼狽した様子で両手を振る。拒絶されてしまった。
 気になって少し突っ込んで聞こうとしたとき、隣の唐沢の腕が伸びてきた。
「放っておけよ。内緒話なんだから」
「しかし」
「こっちも内緒話の続きがある」
 首を竦め加減に、再度ひそひそ話モードに入る。
「涼原さんにキスしたくないのか」
「愚問」
「裸、見たくないのか」
「あのな、唐沢。適当なところで切り上げてくれよ」
「おまえはその欲求を、わずかでも涼原さんに示したことあるの?」
「……」
 記憶にない。が、一応、思い返してみた。軽く曲げた右手人差し指の第二関
節を鼻下に当て、少々の間、沈思黙考。
「ちゃんと付き合い始めてからは、ない」
「付き合う前ならあったってか?」
 驚きが露な唐沢に、相羽は首を横に振る。「いや」
「何なんだ、そりゃ。まぎらわしい言い回しをするなよ。俺が見るに、涼原さ
んはそういう方面には完全に奥手だぞ」
(僕もどちらかと言えば奥手なんだけど)
 相羽はそう思ったものの、さすがに口には出せない。
「ただでさえ、男が積極的に行かなきゃならないんだ。おまえはその何倍も努
力する必要がある。お楽しみにたどり着くまで、苦労するぞ」
「今でも充分、楽しい。二人でいる時間が貴重だしね」
「それじゃあ、仲のいい友達と変わらないじゃないか。恋人同士なんだろ」
「それもそうか」
 妙に納得させられた。ただ、仲のいい友達でも、悪いとは思わない。少なく
とも、現時点ではかまわない。男女の間に真の友情は育たない、なんて話を聞
くが、今の自分と純子の仲は、どうなんだろう。
「もしかしてさあ、相羽。遠慮してるのか」
「誰に?」
 おまえにか?と聞こうとした相羽だが、それより先に唐沢が口を開く。
「相手にだよ。涼原さんに遠慮して、欲求を抑えているとか」
「そのつもりはない。どうしてそんなことを思う?」
「モデルをやっているからさ。そこそこ顔や名を知られた涼原さんに、彼氏が
いたんじゃあ、今後の活動に支障を来すかもしれない。万が一、付き合いが公
になったとき、キスも何もかもすませてます、ではまずい……」
「ほんとに怒るぜ、唐沢クン」
「俺の正直な感想さ。そうとでも思わなきゃ、理解に苦しむ。最高の“女”を
恋人にしといて、まだキスさえしてないなんてなっ。幸福の生殺しだぜ」
「涼原さんにその気がない内は、しない方がいいんじゃないかな……」
 漠然と感じていることを言ってみた。
「普通、女の子の方からそんなこと、あからさまにアピールするわけないのは
分かるよな。ましてや、あの涼原さんなんだし」
「ああ」
「じゃ、結論は決まってる。相羽がサインを待つだけでは、いつまで経っても
先に進まない。信号はずっと赤のまま」
 お手上げポーズをしてみせる唐沢。相羽にも異論はなかった。でも、今はそ
れでかまわないという気持ちに、変化は訪れない。
「赤信号で待つのも楽しいさ。隣に純子ちゃんがいるからね」
「ったく、おまえわ」
 語尾にアクセントを置き、唐沢は呆れ口調で言った。
「俺がおまえの立場なら、絶対こんなに待てないし、待たせやしないのになー」
「人それぞれってこと」
 笑って応じた相羽。
(理由は他になきにしもあらずだが、それは当分、言えない)
 心中でこうつぶやきながら。

           *           *

 たった一年前のことなのに、懐かしい。不思議だけれど、この感覚を嬉しく
思う。
「おお、いと懐かしき、我が学舎(まなびや)よ」
「あんたの場合はどちらかと言うと、遊びやじゃない?」
 中学の校門を入ってすぐ、校舎を見上げながら芝居がかって大げさに感動を
表す唐沢。その後ろから、町田がきっぱり言った。
「それとも引っかけやかしら。女の子を誘いまくってたから」
「否定はしない。本気で勉強したの、中三のときだけだったからな。しかし、
せめてテニスやと言ってくれ」
「まるで屋号ね」
 掛け合いを始めた二人の背後で、「あとがつかえているんですが」と相羽が
言った。
 グラウンドでは各運動部の部員が練習に打ち込んでいる。時折、かけ声やボ
ールを打つ音が、校舎に反響した。
「後輩に顔を見せるのなら、大勢でぞろぞろ動くのも何だし、ばらけますか」
 町田の提案で、みんな分かれた。と言っても、唐沢がテニス部を覗きに行く
以外は、同じ調理部だ。
「いるかなあ。運動部と違って、休みに入ったら、さして活動してなかったわ
よね」
「それもそうだわ」
「まあ、家庭科室を覗くだけでもいいじゃない」
「そういえば、鍵を借りなくていいのかな」
「そっか。先に職員室に行けば、確かめられる」
 家庭科室に向かいかけた足を方向転換。みんな気が急くのか、段々とスピー
ドが上がる。
「たまに怒られたよね。廊下を走るな!って」
「多分、今でも怒られるよ」
 床や壁の模様も、窓から見える光景も、全部懐かしい。大切に仕舞ってある
記憶とは少しずつ違っているのだろうけれど、その差がはっきりと分かるもの
はほとんどなかった。この一年間、ずっと通い続けたような錯覚さえ起こしそ
う。
(郁恵や久仁香と仲直りできていて、本当によかった。そうでなかったら、泣
いてたかもしれない)
 穏やかに表情をほころばせる純子。
 職員室は、休みの期間中にしては人が多かった。三年生の進路先が大詰めを
迎え、新年度の準備もあって忙しいのかもしれない。
 知っている顔は大勢いるので、親しい先生を探す。机の位置は年度毎に異な
るため、多少手間取ったが、見つけることに成功。
「牟田先生! 鍵をお借りしたいんですがーっ」
「――お。おまえ達か」
 顔だけ先に思い出し、続いて名前を記憶のファイルから引っ張り出す。そん
な風に牟田先生は額に手の平を当てた。ルーズリーフ式のノートを閉じ、ペン
を表紙の上に置いてから、口を開く。
「涼原、相羽、町田、富井、井口。元気でやってるか。今日はどうかしたか」
「朝方、小菅先生のお宅にみんなで行ったんです。それで懐かしくなって、中
学にも行ってみようって話になりました。これから家庭科室を覗いてみるつも
りです」
 最初に呼ばれた手前もあって、純子が答える。
「ああ、赤ちゃんが産まれたお祝いだな。道理でにこにこしてると思ったよ。
幸せのお裾分けだ」
「とっても、かわいらしかったですよー。牟田先生も見に行かれたんですか」
「まだなんだが、写真で見せてもらった。自分も子供いるから分かるが、親は
子ができたらばかになる。親ばかぶりを見せつけられると、正直、かなわんか
らなあ。今は写真で充分だよ」
「幸せのお裾分けはなくていいんですか?」
「うちは現在、平穏無事だから、危なくなったらお裾分けしてもらうとしよう」
 牟田先生の喋りっぷりは、在校生だったときに比べると、軽くなった気がす
る。もちろん、前からユーモアのある人だったが、今は肩の力が抜けた感じで、
リアルタイムでの教師と生徒という関係から解放されたせいかもしれない。
 高校はどうだ、今年うちの学校からは**には何人、※※に何人が行くから
後輩の面倒をよろしくな云々というところまで話が進んだとき、職員室に入っ
て来た若い先生が、「部活動顧問の振り分けの件でちょっと……」と牟田先生
を呼んだ。
 腕時計を見て、時間の感覚を取り戻したのか、飛び上がるように椅子を離れ
た牟田先生は、先ほど閉じたノートを小脇に抱えた。
「すまん。今日はここまで。暇なときだったら、中学で習ったことを忘れてい
ないか、小テストをしてやるとこなんだがな」
「あはは。忙しくてよかったです」
 続いて「お邪魔しました」と純子達が言ったのへ被せるように、相羽が肩の
高さに挙手しながら、大きめの声で先生に尋ねる。
「最後に一つだけ。関屋先生が今どうされているか、ご存知でないですか?」
「関屋さんか。私は知らないが、音楽の先生に聞いてみるといい。川口(かわ
ぐち)先生を知っているな? 関屋さんと親しくされているはずだ」
「そうなんですか。ありがとうございます」
 相羽の礼を受けて廊下に出ようとする牟田先生。一旦、姿が見えなくなった
と思った次の瞬間、ドアの影から顔だけ覗かせ、「今日はおられんかもしれん。
よく分からん」と付け足し、今度こそ消える。
「相羽君。関屋先生に会いたいの?」
 富井が聞く。その間に町田が、本来の目的である家庭科室の鍵を確認しに行
った。
「うん。特にお世話になったからね。僕らの卒業と同じときに退かれて、その
まま仕事を離れるという話だったのに、ほとんど音信不通で……」
「音楽室の鍵は使用中だわ」
 町田が引き返して来た。
「準備室も合わせてだから、多分、来られてるんじゃない、川口先生?」
「ありがとう、町田さん」
 軽く頭を下げる相羽。純子達の方を向いて、
「みんなは先に家庭科室に行っておいて。あとから行くよ」
 と言い置き、足早に出て行った。女子四人も遅れて廊下へ。
「相羽君て、関屋先生とそんなに仲よかったっけ」
 家庭科室への道すがら、富井が不思議そうに話す。純子は「親しかったわ。
ほら、ピアノの関係で」と教える。
「あ、そっか。理科教師なのに、音楽好きだったよね、あの先生」
「私、歌を唱ってるところを、ほんのちょっぴりだけど、聴かれたことある。
恥ずかしかったぁ」
 誕生日を迎えた相羽のために、相羽の演奏で歌を唱ったときのことを思い出
す。あのとき、自分が忙しさにかまけて相羽の誕生日を当日まで忘れていたか
らこそ、関屋先生と親しくなったのよねと、偶然に感謝。
「クラシックだけじゃないんだ、あの先生?」
 先頭を行く町田は鍵を持ち直した。もう、家庭科室はすぐそこだ。
「関屋先生は何でも聴かれるみたいよ。心の底から音楽が好きで、楽しんでい
るという顔でね。きっと、演奏する方も張り切っちゃうわ」
「へえー」
 返事をしつつ、扉を開けた町田。
 調理部の活動はなく、無人の家庭科室だが、部屋の前方にあるボードには、
部活の痕跡があった。三学期最後の部活の日に、板書したものだろう。来年度
の予定や人事の確認が書いてある。
「おーっ。ちゃんとやってるようじゃないの。感心感心」
「三年生を送り出すとき、来てあげればよかったね」
「煙たがられるんじゃない?」
 そんなことを話ながら、今度は後方にある棚に近付く。
「レシピノート、残ってるかな」
 全てではないが、チャレンジした料理の何品かのレシピを書いていた。オリ
ジナル(と信じる)の工夫をした物を中心に、残してみたのだ。味はともかく。
「あった!」
 棚のガラス戸越しに、見覚えのある帳面が確認できた。やや傷みが来ている
が、充分、使用に耐えたようだ。鍵を掛けてあるので、手に取ることはできな
いが、こうして眺めているだけでも部活動の思い出が、次々に蘇る。
「一番の失敗作、覚えてる?」
「それはもう、あれでしょ。肉じゃが。じゃがいもの一つ一つで、味が違うん
だもの」
「煮物系は全体的に難しかったわね」
「ケーキも難しかったよ。最初の頃は何回挑戦しても、すかすかのぱさぱさか、
固いパンみたいな感じになった」
「クッキーは、相羽君のおかげでうまく行ったよね」
「あれは絶品だったわ」
 盛り上がっていると、ドアがかたっと鳴った。相羽が追い付いたのかと思っ
て、純子がそちらを見る。
 ところが、できた隙間から顔を出したのは、彼ではなく。
「あっ、本当にいた!」
 髪にパーマを当てた椎名恵と目が合う。不安そうな顔が一変して、喜色に埋
まる。もう遠慮なんてどこへやら、ドアをがらっと景気よく開けて、入って来
た。
「涼原先輩、会いたかったですー!」
「め、恵ちゃん」
 町田や富井、井口が呆気に取られて見守る中、純子は飛び込んでくる椎名を
受け止めるしかなかった。
「こんな風に会えるなんて、凄い偶然! 感激!」
 椎名はこの三月で中学卒業のはず。それがここにいるということは、ちょっ
と遅めの合格報告のため、足を運んだのだろうか。
「どうして私がここにいると分かったの?」
 胸に密着する椎名の面を起こさせ、尋ねる。後輩は瞳をきらきら輝かせ、早
口で答えた。
「さっき、職員室に行ったとき、先生から聞きました。涼原先輩が来ていたと。
家庭科室に行くみたいなことを言っていたとも聞きましたから、すれ違いにな
らないように、ダッシュで駆け付けました」
 やけに声が弾んでいて分からなかったが、なるほど、呼吸が乱れている。
「先生との話は終わった?」
「必要最低限のことはすみました。あっ」
 椎名は純子から身体を離し、両手を互い違いに合わせた。
「私、緑星に合格したんです! 四月から一緒ですっ」
「わぁ、がんばったんだ。おめでとう。じゃ、ここに来たのは、その報告だっ
たのね」
「はい。……今頃なので分かっちゃうでしょうけど、補欠合格だったんですよ。
よその高校に手続きしてたんですが、即キャンセル!」
 純子会いたさで進学先を決めるのはどうかと思うが……。
「後輩として、またよろしくお願いします」
「こちらこそ」
 お辞儀し合っているところへ、町田が「感激の再会はその辺にして」と言葉
で割って入る。
「恵ちゃん。純を好きなのは分かるけれども、あんまりまとわりつくと、迷惑
になるからほどほどにね」
「――涼原さん、お仕事で忙しいんですね? 受験勉強してた間は、テレビも
雑誌もほとんど見られなくて、よく知らないんです」
「う、うん。まあ、それなりに」
「受験が終わったから、大いばりで情報収集できます。一番身近なファンの一
人として、精一杯応援しまっす。決して、邪魔しません」
 そんなに気合いを入れて語らなくても、と思えるほど、力説する椎名。
「小六のとき、男役をやったのが、今でも尾を引いてるんだねー」
 他人事のような口ぶりで、富井が言う。純子も思い出した。ぷんぷんしなが
ら抗議する。
「郁恵があのとき助けてくれなかったから、しばらく男の子だと思われたのよ、
私」
「しょうがないよ、純ちゃんに才能あるんだもん。男役の才能」
「そうそう。開花させたのは私達の力かもね」
 井口まで乗ってきたため、純子はあきらめた。今更、過去をほじくり返して
も仕方あるまい。
 ゴシップの標的になるのは疲れた。たまには反撃しないと身が保たない。純
子は椎名に言った。
「恵ちゃん。彼氏ができたという話は今、どうなってるのかしら」

           *           *

「失礼しました」
 相羽が音楽室を出て身体の向きを換えると、ちょうど知っている顔に出くわ
した。相手もすぐに気付いたらしく、立ち止まって、やや緊張の面持ちになる。
「相羽先輩。どうしてここに……」
 前田秀康はわずかにどもりながら言い、口元を手の甲で拭った。
 小学六年から中学三年にかけて一緒の学校に通った前田雪江の弟。二つ年下
だから、中二から中三に上がるところだろう。以前見たときから身長はあった
が、その細身でひょろっとした感じはだいぶ変わっていた。体操着の袖から伸
びる腕には筋肉が付き、肩幅も広くなった。かなり鍛えたものと見える。
 相羽は事情を話し、「お姉さんは元気?」と当たり障りのないことを尋ねた。
実際、気になる。
「立島さんと喧嘩したり、仲直りしたりして、うまくやってるようですよ。バ
スケ部の方は身長が期待したほど伸びなくて、選手としてはあきらめたみたい
な感じです」
「女子の中には、男子みたいに高校生になってからぐんと伸びる人もいると聞
くけどね」
「ええ。それを信じてるのか、姉さんも選手をやめたわけじゃないですよ。バ
スケが、背の高さだけじゃないのは言うまでもないし。好きだから続けてるん
です」
「好きで続けられるのなら、一番いいよ」
「姉さんの話はもういいでしょう。相羽先輩の方は、どうなんですか」
 固い調子で聞いてくる。
「涼原さんとは、どうなんですか」
「……秀康君は、どこまで知っているんだろう?」
「……姉さんからは、付き合い始めたようだとだけ聞いてます。泣かせていな
いでしょうね」
「泣かせてなんかないよ。最愛の人にそんなこと」
 臆面のない相羽の言い様に、秀康はたじろいだのか、少し胸を反らせる。と、
身体のバランスを崩してふらついた。踏みとどまって、「これから先もずっと、
絶対にですよ」と負け惜しみのように言い足した。
「そういう約束は難しい」
 相羽は顎先に指を当て、理屈を述べた。感情の先走っている後輩をクールダ
ウンさせる目的も、多少ある。
「何故です」
「たとえば今日、帰り道に僕が交通事故に遭って重傷を負ったり、それ以上の
ことになったりしたら、泣かせてしまうんじゃないかな」
「そ、そんな偶然の事故なんかは考えに入れてないですよっ。本人の責任の及
ぶ範囲って言うか……。疲れるなあ、もう」
「分かってるさ。好きな人を悲しませないように全力を尽くせ――だろ?」
「……そこまで分かってるんなら」
 脱力したように肩を落とす秀康を、相羽は少なからず微笑ましく感じた。
「秀康君はまだ恋人いない?」
「いませんよ」
 すねたような口ぶりになった秀康。相羽は淡々と言った。
「恋人ができたら、理解できると思う」
「何がです」
「他人にとやかく言われたくないぐらい、幸せだってことが」
「……」
「今日、実は純子ちゃんも来てる。会っておく?」
「正直、会いたいですけど、今から部活が」
 そわそわし出す。腕時計をポケットから取り出した。
「君は、もしも恋人とのデートの約束が大事な試合の日と重なったら、どうす
るんだろう?」
「……分かりましたよ。悲しませないように全力を尽くしても、どうしようも
ならない場合があるって言いたいんですね」
「それもある。でも、選びようのない選択肢を迫られても、最善を尽くすって
方がもっと大事かな」
「はあ」
「恋人に、試合を見に来てもらえばいい」
「……あ、そうか」
 虚を突かれた風にぽかんとする秀康を見て、相羽はまた微笑してしまった。

           *           *

 中学校からの帰り、純子と相羽は二人だけになった。道順はほとんど重なっ
ているにも関わらず、唐沢や町田達が、「恋人同士の時間も作ってあげなくち
ゃ」とかどうとか言って、わざわざ遠回りして帰ってくれたのだ。心遣いには
感謝するけれども、赤面ものであることは間違いない。
(どうせまたあとで、「どこまで行った?」って聞かれるんだわ、もう)
 恥ずかしいやら腹立たしいやら。
 でも。
 隣を見ると相羽がいて、二人で歩いているという状況にある今、嬉しさが最
も際立つ。他の感情なんかどこか遠くに去り、にやけてしまう。
「時間がないのが、惜しいね」
 相羽が言った。車道側を歩く彼の横顔は、さっき角を曲がったせいで、逆光
になってよく見えなくなっていた。
「どこかに行けたらいいんだけど。休みに入ってから、まだまともに二人で会
えていないし」
「相羽君さえよかったら、私、お家にお邪魔したいな」
 自然に出た台詞。言ったあと、純子自身、ちょっぴり驚いていた。
 はっとして横を向くと、相羽もこちらを見つめていた。リクエストが意外だ
ったのかもしれない。
「あ、もちろん、逆もあり。私の家に相羽君が来ても」
「……今日は母さんがまだ帰ってないから」
 静かにつぶやく相羽。風の音で聞き取りにくくはあったが、確かに聞こえた。
(それって、どういう……)
 どきっとして、胸の真ん中に片手を持って行く。町田達とのあの内緒話が頭
に残っているせいかもしれない。
 相羽は前を向いて、続きを言った。
「……ろくなおもてなしができないよ、多分」
 純子の全身から緊張感が緩んだ。一瞬にして高まったものだけに、解けるの
も早い。
(そ、そういう意味だったのね。あー、恥ずかしいっ!)
 顔を両手のひらで覆う。ずっとそうしているわけにもいかないので、肌を擦
る仕種で紛らせた。それでもなお、頬が熱い。
(相羽君は、全然そんなこと考えないのかな)
 いくら自分達のペースでいいとは言っても、二人の内のどちらかにでもまる
でその気がないのなら、ペースも何もあったものじゃない。
 純子だって、今日、友達から言われるまでは特に意識していなかったのだか
ら、ひょっとすると相羽も同じで、何にも意識していないかも……。
「それでかまわなければ、僕の家に」
「う、うん。気兼ねなく話せるもんね。私の家だと、お母さんがいるもの」
 相羽の家に行くことに決めたのは、純子の内に、試してみようかなという気
持ちが生まれていたから、なのかもしれない。
「話を換えるけど、今日はあのペンダント――」
「気付いてた? ごめんなさい!」
 皆まで言わせず、道端で思いきり頭を下げる純子。相羽は苦笑いを浮かべた。
「いいよ。責めてるんじゃない。その、富井さん達がいたから、かい?」
「ええ。すんでみれば、気を遣いすぎたのかもしれないけれど。やっぱり……
ね」
「そうだね」
 マンションの玄関口を抜け、奥に進む。その中途で相羽は、
「少し待ってて」
 そう言うとエレベーターまでの道を脇に逸れ、ガラスの仕切りに囲まれた一
角に入っていった。
 待ってと言われたが、純子も着いていった。透明なガラス越しに、郵便受け
がいくつも並んで下駄箱のように直方体を構成しているのが見えた。よくマン
ションに設置されている、俗に集合ポストと言われる物だ。
 相羽がその内の一つの蓋――五〇三と記された――を開け、中からいくつか
の郵便物を取り出す。意外と大量だが、大半はちらしの類のようだった。
 純子は相羽の後ろまで来ると、彼の肩越しに声を掛けた。
「持ってあげる」
 そうして手を出す。中身はほぼ空っぽとは言えバッグを提げた相羽にとって、
ちらしの枚数が多すぎるように見えた。
「い、いいよ」
 何故か焦ったように言って、これまた何故かちらしの束を身体で隠すような
仕種をした相羽。
「どうしてよ。こんなことで遠慮しなくても」
「でも」
 気になって覗き込もうとした純子の前を、ちらしの一枚がひらりと舞い、円
を描いて床に落ちた。拾おうとして、伸ばした手が止まる。目が一瞬、釘付け
になった。
「……」
 赤くした顔を上げる純子。相羽と目が合った。二人とも赤面している。
 間には、半裸姿の女性が扇情的なポーズを取った写真が大きく刷られたピン
ク地のちらし。文字通り、ピンクちらしと称される代物があった。

――つづく





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