#212/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 04/01/31 22:54 (367)
お題>学園もの>覆水盆に帰らず 1 永山
★内容
管理者を兼ねた寮母の牛島(うしじま)から承諾を得て、女子棟に入った男
二人は、慣れた様子で廊下を進んだ。さほど歩くことなく、目的の部屋の前に
辿り着く。
桜井剛彰(さくらいごうしょう)は、一〇一号室のドアを景気よくノックし
た。中からの返事を待つ間を惜しんだか、ノブに触れ、回そうとする。
「だめだよ」
その手首を、別の手が掴む。烏有神威(うゆうかむい)は、桜井の顔を切れ
長の目で見据えながら云った。
「一応、レディの部屋なんだから。そうでなくても、いきなり開けるのは失礼
極まりない」
「一応ってのは、失礼じゃないのか。いくら一ノ瀬(いちのせ)だって、聞い
たら怒るぞ」
それでもノブから手を離した桜井。宙に浮いた左手は所在なげに、開いたり
閉じたりを二度、繰り返した。それがおもむろにぎゅっと握られる。
「だいたい、俺達は親友だろ。いちいち気にしても――」
「返事がないな。いるはずなのに」
桜井の話を無視する形で烏有は呟くと、今度は彼自身がノックをした。控え
目で軽やかな音が響く。
「一ノ瀬君? 眠っているのか」
「起きてるよ〜」
扉越しに、声がくぐもって届いた。続いてドアが開く。手の甲にガムテープ
数枚を着けた一ノ瀬和葉(かずは)が、頬被り姿で現れた。知らない人が見れ
ば、部屋に侵入した泥棒だ。
「使い方が間違ってる」
烏有が指摘し、手を伸ばす。赤い布を取り上げると、三角巾状に畳み、改め
て一ノ瀬の頭に被せた。最後に布の両端を結び合わせる。
「ありがとー。泥棒から赤ずきんに、かれーなるへんし〜ん」
「分かっていてやっていたのか」
「分かってなかったよん」
「準備、進んでいるか?」
桜井が部屋に首を突っ込み、中を覗き込む。段ボール箱や旅行用の大型鞄が
いくつかあった。他には、薄いノートパソコンとそれよりさらに小さい携帯端
末が一つずつ。そして最も目立つのが、本の山。
「いやあ、古い物をひっくり返すと、色々な発見があって、面白くて面白くて。
こんなことしてる場合じゃないと、はっと気付いて、困ったにゃーって、頭を
掻いていたところ」
猫の前足みたいな手つきをして、両頬の辺りに持ってくる一ノ瀬。猫っぽい
目つきと相まって、想像をたくましくすれば、左右三本ずつの髭や猫耳も見え
て来よう。
「何が面白いんだか。てきぱきとやらなきゃ、夜になっちまう。ぐずぐずして
たら、俺達も牛島のおばさんから睨まれるんだぞ」
「荷造りできた分から運び出すとしよう。一ノ瀬君は、面白がっていないで、
どんどん箱に詰めていって」
「分かったにゃ」
作業に取り掛かる三人。今日から夏期休暇に入った学園の寮内は、既に九割
方が帰省しており、図体の大きな男が荷物を持って廊下を行き来してもさほど
邪魔にならないし、奇異の目で見られることもない。
五分と掛からず、ある分だけ軽トラックに積み終えた男二人は、部屋に引き
返すと、残る荷造りを手伝い始めた。
「なあ、これ、全部読んだのか」
本を重ね、高さを調整しながら桜井が聞く。一ノ瀬はガムテープと格闘しな
がら答えた。
「読んだよん。読まなきゃ本じゃない」
「ちょっとぐらい、処分した方がいいんじゃねえか。重いだろ」
「まだ身に付いてないから、手放すに手放せられられない……あれ? 手放す
に手放されない……手放せれない……手放せられない」
「意味は通じたから、いいよ」
烏有が手を休めることなく、苦笑の息を漏らす。桜井がさらに聞いた。
「てことは、身に付いたやつは処分してるのか。処分してこれか?」
「だいぶ減ったんだけど、ミーの記憶領域はあんまり大した容量じゃないか、
それとも有効に利用できてないみたい」
「充分だよ」
「ところでさあ、周(しゅう)さんはまだ来ないのかなあ? あのベッド、あ
げる約束してるんだ」
カッターナイフで壁際を差し示す。組立式のパイプベッドがあった。既に分
解してあるが、梱包はまだ。
「周なら、遅れるってさ。何か手続きをし忘れていたと云っていた」
「そっかあ。じゃあ、あのままにして待つしかない」
「なあ、ほんとにいらないのか。越した先でも使えるだろ」
桜井の問いに、一ノ瀬はわざわざ立ち上がると、ベッドの脇に立ち、その黒
いパイプをぽんぽんと叩いた。
「ゆったりと包んでくれるいい奴だったけど、ミーには大きすぎたね。新しく、
かわいい奴を買うつもりさっ」
「周にはぴったりか」
烏有が周の姿を思い浮かべる風に、上目遣いをした。対照的に桜井は腕組み
をし、うんうんと頷く。
「西洋人はでかいもんなあ」
「オランダの成人男性は平均身長が一九〇ぐらいあるとか、聞いたな」
「周はドイツだぜ」
烏有の知識披露に、桜井が突っ込む。
「近隣だから、参考にはなるだろう」
云い返した烏有が荷物を持ち、立ち上がろうとした。ドアの方に向いた彼の
目が、若干、見開かれる。女性が一人、立っていた。細面で、すらりとしてい
る。長い黒髪に赤系統のメッシュがアクセントを効かせていた。
「しゅうっていう名前で、ドイツの人なの?」
「ええ」
初対面の相手に、いきなり質問から入られたにも関わらず、烏有は如才なく
応じた。荷物を床に置き、さらに答える。
「シュー=ペーターというのが彼の本名ですが、寮のネームプレートには、こ
う書いてあるんです」
左胸ポケットに指二本を入れて、レシートを摘み出した烏有は、一ノ瀬から
ペンを借りると、「周平人」と書き記した。
「これで、シュー=ペーター? “人”じゃなくて“太い”の方が近くない?」
「本人が『僕は太っていないから』ということで、“太”は採用されなかった。
ところで、他人の名前よりも、あなたの名前が気になるのですが。一ノ瀬君の
お知り合いですか」
「伊豆野倫(いずのりん)よ。一〇一号室の次の主になる予定。初めて入った
けれど、いいところね。入園当初から入寮希望を出してたのに、距離で跳ねら
れていたのよ。念願叶って、やっと。――あなたが一ノ瀬さんね?」
烏有らの隙間を縫うようにして、視線を飛ばした伊豆野。
一ノ瀬は座ったまま、右手を挙げた。
「はいにゃ。初めまして。入れ替わりで、すぐお別れだけど。惜しい」
「ちょっと失礼」
烏有が割って入った。時間を無駄にしたくないとアピールするかのごとく、
腕時計を見やってから、言葉を継ぐ。
「伊豆野さんは下見ですか? だとしたら、少々タイミングが悪い。七月末ま
でに出て行けばいいと聞いているもので、ちょうど今、支度をしています」
「下見を兼ねていることは確かだけれど、折角の機会だから、有名人の一ノ瀬
さんとお近付きになっておきたくて、こうして足を運んだ訳」
「有名人? ミーが?」
一ノ瀬は嬉しげに叫ぶと、また猫の手つきをする。目を細める彼女に、伊豆
野はなおも喜ばせるようなことを告げた。
「学園内では、知らない人がいないくらい有名でしょう? 最年少でここに入
っただけでも充分なのに、一年ちょっとで、今度は選抜されてアメリカ行き。
大したものだわ」
一芸に秀でた(あるいはその資質を有す)人材を優先的に募り、育てるのが
この学園のモットーであり、売りでもある。いわゆる秀才タイプが揃う中から
選抜され、より上級レベルの学問をくぐるとなると、学園内で名が知れて当然
だ。
「それほどでも」
右手を後頭部に持って行き、照れてみせる一ノ瀬だが、その瞼は退屈そうに、
半分閉じられた。喜んでいないようだ。
「ここは動物園ではないのですから、見るだけで帰るなんて云わないでしょう
ね、伊豆野さん?」
烏有の呼び掛けに、伊豆野が目を白黒させる。
「手伝ってもらえたら、よりお近付きになれますよ」
「そうねえ。烏有さんの云う通りにしておくわ」
「――伊豆野さん。僕は名乗った覚えはありませんが?」
前をすり抜けて、上がり込もうとした伊豆野を、烏有は呼び止めた。
「あなたも有名だからよ」
振り返り、伊豆野はにっこりと笑顔を作ると、そのまま中に入った。
「じゃあ、俺のことも知ってる?」
桜井が伊豆野に対して、初めて口を開いた。自身を指差し、心なしか少し顔
を赤くしている。
伊豆野は髪を手で払いながら、「知らないわ、悪いけど」とだけ応じ、話し
相手を一ノ瀬に換えた。
「どうすればいいの? 私が勝手に判断してもいいのなら、どんどんやってみ
せるけれども」
「持って行く分はもう梱包し終わったから、適当でだいじょーぶ。あ、あのベ
ッドは例外。あと、効率よく頼みます〜」
「了解。それにしても、きれいな部屋ねえ。本当に住んでたの?」
「うみゅみゅ。そういえば、半分くらいは、学園にお泊まりしてたかな」
「四六時中、コンピュータをいじってたのね」
「そんな感じ〜。何で四六時中なのかな?」
「え?」
「四と六を掛けて二十四だから二十四時間という理屈は、まあ認めるとしても、
何故、因数分解を四と六に限っちゃうのかが謎」
「それはね、二六時中という昔からの言い回しから来てるんだよ」
荷物を運び出そうとしていた烏有が、一旦下ろして、説明を始めた。ちゃん
と聞いていたらしい。
「二六時中を洒落て、四六時中という言い回しが生まれたとされている。二十
四を作るために、二と六のどちらかを残すかとしたら、当然、六を残すよね?
二を残したら、二十二時中となって発音しづらいし、午後十時と区別しにくい」
「ふみ。じゃ、何で昔は、二六時中なんて言い回しを使ってたのだろー? ミ
ーは歴史に疎いから知らないけれど、一日は十二時間だったのかな」
「そうだよ。一時間の概念が違った。昔は昼間六時、夜六時に分けたんだ。六
が二つで二六時中。三四時中とかではなく、二六時中にした理由もここにある」
「ふみふみ。納得したなり。記憶もした。ありがとー」
お喋りをしながらにしては、作業はてきぱきと進み、一時間ほどで終わった。
そして部屋には、ベッドが残る。
「周さん、遅いなあ」
指をくわえるようなポーズをしつつ、こぼす一ノ瀬。そこへ伊豆野が訊ねた。
「携帯電話、持ってないの?」
「ミーは持ってるけど、周さんは持ってないみたい。少なくとも、昨日会った
時点では、依然として持ってなかった」
「しょうがないわね」
手首を返し、時刻を確かめる動作のあと、伊豆野は一ノ瀬だけでなく、烏有
や桜井にも呼び掛けた。
「周さんには置き手紙をして、ちょっとお茶しない? 学食なら近いし、安上
がりでいいわ」
「おごってあげる、みたいな口ぶりですね、まるで」
「ご名答よ。もらったクーポン券があるんだけど、期限が今月一杯。もったい
ないから、使おうじゃない」
いつの間に、どこから取り出したか、数枚綴りのクーポン券をかざす伊豆野。
「ありがたい話ですけど、手伝ってもらった人におごらせるのは、たとえクー
ポン券と云えども、気が引けますね。礼儀に反する」
「いつかお返ししてくれればいいわ。一ノ瀬さんはアメリカに行っちゃっても、
あなた達はこっちにいるんだから」
「一ノ瀬君の代わりに、僕らが返すっていうのも、おかしな話と思いますけど」
ぶつぶつ云う烏有を押し退け、桜井が笑顔をなす。
「あと三十分ほどで三時。おやつの時間てことで、ごちになります」
揉み手をしてみせてから、片付けの際に出た散り屑を探り、中より裏の白い
印刷物を見つけ出すと、周への伝言をフェルトペンでさらさらと書き付ける。
これを持って、戸口脇にあるミニサイズのホワイトボードに、磁石で張り付け
た。
「これでよし。行こうぜ」
手をはたきながら、玄関へと足を向ける桜井。
だが、隣の一〇二号室からの声と物音が、彼らの歩みを止めた。
「あんたに関係ないでしょう!」
女性と分かるが、金切り声ではなく、どちらかと云えば押さえ付けたような
感じのする口調だ。ほぼ同時に、壁かドアに何かが当たる、乾いた音が轟く。
「そんなに怒ることないのに。短気」
ドアが開き、別の女性の声が聞こえた。捨て台詞だったようで、そのままド
アを乱暴に閉め、荒い鼻息を一つ吐く。
「糸尾(いとお)さーん。怪我ない?」
男二人や伊豆野が何も云わない(云えない?)でいたのに、一ノ瀬は隣部屋
のよしみだろうか、平気の体で声を掛ける。すると、相手は伏せがちだった面
を起こし、安堵した。
「ああ、一ノ瀬ちゃんか。私は無事だけど。聞こえた? うるさかった?」
「聞こえた。といっても、最後のとこだけだから、うるさくはなかったよん」
一ノ瀬は何があったのか聞かずに、ただ、にこにこと笑顔でいる。彼女に代
わるかのように、烏有が訊ねた。
「糸尾さん、福水(ふくみず)さんと何かあったんですか? 物を投げつけら
れたみたいに思えましたが」
「ちょっとね。今度の夏は帰らないって云うから、どういう風の吹き回しかと
思って、あの子に聞いてみただけなんだけど」
「僕の理解では、福水さんはその程度で物を投げるような人間じゃない。糸尾
さんが嫌味な物言いをしたんじゃありませんか?」
「端から決め付けられるのは心外だけれど、悔しいことに、どうやら当たりの
ようなのよね。パパやママが恋しくないのかとか、帰省するお金もないのかと
か」
「あなたねえ」
呆れた風に頭を振った烏有。それきり、会話する気が失せたのか、黙ってし
まった。そこを、今度は桜井が引き継ぐ。
「そんなつまんねえことで、相手を激怒させるとは、天才的な喋りだな。いい
加減、直した方がいいぜ」
「あっちも短気過ぎるのよ。第一、帰省しない理由を聞いて、全然答えないの
も悪くない?」
「他人事じゃないか。放っとけよ」
「私だって寮に残るんだから。あの子がいると気になって、落ち着いて過ごせ
ないのよね」
「夏期休暇中に、刃傷沙汰が起きないことを祈ってやるよ」
「どうも。そういえば、引っ越しを手伝えなくて、悪かったわ」
糸尾の視線は桜井の頬をかすめ、一ノ瀬に当てられた。
「最初から期待してないよお。特に力仕事は」
「分かっててくれて、嬉しいよ。で、一ノ瀬ちゃん、いつまでいるの」
「ご覧の通り、これから出てくとこさっ」
「そうじゃなくて、日本を発つのは?」
「八月になってから。日本の中にも、行ってみたいところまだあるから、こっ
ちにいる内に回っておくんだぁ。一回、日本を出ちゃうと、戻ってくるのが面
倒っちいしね。何たって、お金の節約。月末までは親戚の家に泊めてもらうん
で、無料〜」
「節約って……向こうに行ったら、もう帰って来ないつもり? 永住?」
「先のことは分からないから。ちなみに、昨日のことは忘れた。これ、かたゆ
で卵の法則」
「何のこっちゃ」
「この間、そういう映画をテレビで観たにゃ。ハードボイルド物の」
猫の手つきで、シューティングポーズを取る一ノ瀬。
傍らでは伊豆野が「文学の知識、あるんだ?」と意外そうに呟く。一ノ瀬は
しかし、右手人差し指をぴんと伸ばすと、ノンノンという風に左右に振った。
「映画が始まる前の解説を丸飲みにしただけ〜」
「丸飲みじゃなく、鵜呑みじゃないか?」
烏有が云った。一ノ瀬は少し考える仕種を見せた。頬に指を当て、首を傾げ
る。
「確か、うのみのうは、烏有の烏なんだっけ?」
「いや、違う。鳥は鳥だけど、鵜飼いの鵜だよ。ほら、長良川なんかで観光名
物の。ちなみに本物の鵜飼いは一子相伝で――」
「どうでもいいが、早いとこ食堂に行こうぜ」
桜井の一言で、やっと移動が始まった。糸尾とはここで別れて、寮を出る。
「さっきの人とはどういう関係なのかしら。知らない顔だわ」
「さっきの人って、糸尾さんのこと?」
うなずく伊豆野に、一ノ瀬は周囲に何やかやと注意を払って、イレギュラー
なスピードでちょこまかと歩きながら応じる。
「ここに入ってからの知り合いで、ミーの知らないことをいっぱい知ってて、
面白い」
「あなたと同じ、コンピュータの人?」
「覚えてないなー。専門が色々分かれてるっていうだけで、基本は変わらない
んだし。えっと、法学の人だったかなあ。――合ってる?」
振り向かれた烏有が、「合ってる」と微笑とともに答える。
「もしかして、僕の学部学科も覚えてない、なんてことはないだろうね」
「それも面白いけど、覚えてるよ。何たって、ミーと同じだもん」
「よかった。そういえば、伊豆野さんは何です?」
「話してなかったかしら。映画。それもアクター……と云いたいところだけど、
シナリオ科よ。元々はシンガーソングライターを目指していたのが、何の因果
か、こっちの方面に興味が湧いちゃってね」
「へー。素敵なビジュアルなのに、勿体ないなー」
頭のてっぺんから爪先まで、伊豆野をまじまじと見つめる一ノ瀬。見つめら
れた方は、照れた様子もなく応える。
「初対面なのに、気の利いたお世辞ね」
「それほどでも」
頭を掻いてみせる一ノ瀬に、桜井が「違うだろ」と突っ込む。
「こういうときは、お世辞じゃありません、だ」
「そうだったにゃ」
「おごってもらうんだから、言葉には気を付けろよ」
「君もだ、桜井」
「みんな面白いわ。お茶が楽しくなりそうね」
最後に伊豆野が笑った。
が、実際には楽しいお茶とはならなかった。といっても、嫌なことが起きた
訳ではなく、伊豆野が携帯電話で急用を知らされたため、一緒にお茶を飲めな
くなったのだ。
「誘っておいて悪いわね。お詫びを兼ねて、クーポン券、全部あげるから。今
月中に全部使って」
学生食堂を目前にして伊豆野はこう云い残し、足早に去ってしまった。詳し
い内容は分からないが、それなりに大事なレベルの用事を忘れていたような口
ぶりだった。
「案外、そそっかしい人のようだね。外見とのギャップが大きい」
「何でもいいや。クーポン券をもらえただけで、俺は満足だよ。いい人だ」
「単純な判断基準は、ときに自分の首を絞めかねない」
「いいから、早く決めろよ」
クーポン券を一人で握りしめ、ぱたぱたと顔を扇ぐ桜井。先払いシステム故、
前を行く者が進まないと、閊えてしまう。
桜井はスパゲティとピザのイタリアンセットにコーラ、烏有はプリンとアイ
スクリームのデザート、そして一ノ瀬はミックスサンドイッチとアイスキャラ
メルカフェオレなる飲み物を取った。お茶というよりも、軽食に近い。桜井な
ぞ、昼食でも通る。
「周さんの分、残ってるか?」
アイスクリームをスプーンで掬いつつ、烏有が桜井の手元を覗き込む。
桜井はチーズがとろけ落ちそうなピザの一切れを、一気に頬張り、よく噛ん
で、飲み込んでからやっと答える。
「これだけあれば、まだまだ余裕だろ。それよか、あいつが支払いをする前に
気付いてやらなくちゃな」
「もぎゅもぎゅ。そういえば」
物を食す擬音をわざとらしく声に出しながら、一ノ瀬が上目遣いになった。
手元のサンドイッチは半分かじられ、長方形から三角形に変化している。
「部屋の鍵、どうしてきたんだっけ? 周さんに先にベッドを持って行っても
らおうと思いつつ、掛けちゃったんだったかにゃ。それとも逆だったか」
「鍵は掛けておいた方がいい。開け放したままだと、何かとトラブルの種にな
りかねないよ」
烏有の忠告に、一ノ瀬はサンドイッチの切れ端をくわえたまま、腕組みをし
た。うーんと唸って、「面倒っちいけど、確認しに行ってくるかぁ」と立ち上
がった。
「寮のことじゃなかったら、どっちかに行ってもらうんだけどなっ」
「そりゃあ、俺だって、女子寮のことじゃなかったら、おまえを行かせはしな
いよ。基本的に、レディファーストだからな。女子寮に入るために、また許可
を得るのが“面倒っちい”だけさ」
桜井は豪快に笑い声を上げ、手を振った。烏有が横手から突っ込む。
「レディファーストって、それ、ひょっとすると、フェミニストのこと? 激
しく間違ってるね」
「うるさい。ちょっと云い間違えただけだ」
「二人とも、ミーがいない間に、面白い話しちゃだめだよ」
「一ノ瀬君にとって、こういうコントめいた会話は、“面白い”の範疇に入ら
ないんだろ?」
「入んない。立入禁止。ただ単に、釘を刺しただけなのさっ。それじゃ、行っ
て来る!」
踵でくるっと回り、身体の向きを換えると、ダッシュで駆け出す一ノ瀬。と
いっても格好だけで、大したスピードではない。
と、食堂の出入口に近付いたところで、一ノ瀬は周の姿を認めた。足のブレ
ーキはそこそこに、相手の目前で立ち止まった。
「周さん、待ってたよ〜。メモ見たんだね?」
「見た。が、それどころではない。寮で事件だ」
周は厳しい顔つきで一ノ瀬を見下ろし、固い口調で云った。尤も、厳しい顔
つきなの普段からなので、事件とやらの深刻さを測る物差しにはならない。
「寮って、女子寮?」
「そうだ」
「女子寮で事件となると……痴漢が入ったとかかにゃ。それとも、下着泥棒か」
「巫山戯ている場合でないのだぞ。殺人事件だ」
「にゃ?」
両手で猫の仕種をやっていた一ノ瀬が固まる。周は相変わらず、厳めしく続
けた。眉間の皺が深くなったようだ。
「しかも、殺人現場は一ノ瀬がいた部屋の隣、二号室だ」
「殺されたのは誰?」
「二号室の住人、福水くるみという人だ」
「福水さんが。あちゃちゃ。ついさっき、彼女の声を聞いたのに。にわかに信
じられないけど……事実なんだね。あれっ? 音が聞こえなかったな。サイレ
ンの音」
疑問を口にした一ノ瀬に対し、周は今来た方角を見据えるポーズをしたあと、
ゆっくりと向き直った。
「警察は既に来ている。遺体を最初に見つけた寮母が、学園側に伝え、そこか
ら警察に通報がなされたようだ。鋭利な刃物で刺されていたらしい。学園は警
察の人間にも縁故があるだろうから、きっと、内密に来てくれと頼んだのでは
ないか。それよりも、一ノ瀬。恐らく、捜査に協力を求められることになる。
烏有と桜井も呼んで、一緒に寮に行こう」
「ミー達が行かなくても、起きたばかりの事件なんか、ちょちょいのちょいで
解決するんじゃないかなあ。警察は優秀だから」
「日本の警察の検挙率、特に凶悪犯罪に対するそれが高かったのは、自分も知
っている。だが、年々下がっており、今や大した数字ではないそうだな」
「……周さん、関わり合いになりたがってるねっ?」
「ヤー。日本の警察の捜査がどのようなものであるのか、興味津々だ」
我が意を得たりと、ドイツ人は金色の前髪をかき上げ、かすかに笑った。
「そういうことなら、ミーも興味あるよ。知り合いが死んだのは、痛恨の極み
だけど。幸い、アリバイあるし、動機ないし、痛くもないお腹を探られること
もないっしょ。よおし、行くとしよっか」
一ノ瀬が叫び気味に云ったそのとき、烏有と桜井が駆け付けてきた。どうや
ら、周の到着にとうに気付いていたようだ。
――続