#135/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 03/03/23 23:07 (451)
三月の事件(下) 永山
★内容
* *
「もしもし」
「あ、よかった。君が出てくれた方が手間が省ける」
「米倉君? 三週間ぐらい経ったけど、何か分かった?」
「今、大丈夫か? 親とか、周りにいないな?」
「うん。大丈夫」
「帰ってから、正確なところを調べた。日記がこんな風に役に立つなんて、予
想もしてなかったけどさ。ただ、大した収穫はなかった」
「え、どうして」
「例の“お別れ会”のあと、春休みに僕の家に来たのは、二人だけ」
「随分少ない。米倉君て、もっとたくさん友達を家に呼ぶタイプだったじゃな
かった?」
「認める。だが、あの年、僕は家族で旅行してた。春休みのほとんどの間、家
を留守にしていたのさ」
「そうだったの。でも、二人なら、絞りやすいわ」
「二人の内の一人は、君だよ」
「え、そうだったっけ。記憶に全然ない」
「良心の呵責ってやつかな。君は不安あと訴えて、僕に相談に来た。今度みた
いに」
「……それよりも、もう一人は? まさか、大西君?」
「いや、大西は来ていないんだ。はっきり覚えてはいないけど、しばらく顔を
合わせづらかったんじゃなかったかなあ。気分的、精神的に。それでお互い、
春休みが終わるまでは、行き来するのをやめようぜって約束した気がする」
「じゃあ、一体……」
「永田だよ。永田大和」
「永田君が……犯人?」
「それなら楽なんだけどねえ。君の下駄箱に脅迫状を放り込んだことと合わせ
ると、六月三十日、いや二十九日に、そっちに出掛けていなくちゃならないだ
ろ。ところが永田は、六月十六日に足を骨折しているんだ。休み時間に踊り場
で何人かとふざけていて、階段を転げ落ちた」
「ということは、六月二十九日には動けなかった……」
「ああ。永田ではあり得ない。それに、あいつは機械音痴だぜ。テープレコー
ダーの操作もあやふや、乾電池の方向を間違えることもしょっちゅうだし、と
てもカメラを使いこなせるとは思えない」
「……誰か共犯者がいるのかも」
「僕も同じことを考えた。カメラに詳しく、六月二十九日、君の学校まで足を
運べた奴がいるんじゃないかとね。永田と親しい連中全員に対して、当日どう
していたかを調べた。あからさまに聞けないから、結構苦労したんだぜ」
「あ、ありがとう」
「いや、礼を言ってほしい訳じゃないぜ。苦労したのに、報われなかったのが
悔しいんだ。部活、永田の見舞い、塾、草野球、他にも色々あったけれど、要
するに全員、アリバイがあったんだ。だから、共犯がいるとしても、同級生と
かそんなもんじゃない気がする」
「……高校生?」
「大人かもな。まあ、それにしては、脅迫の意味がよく分からないんだよな。
女子中学生の着替えの写真は金になるだろうけど、僕の進学を妨害して何の得
がある?」
「米倉君の進学のときは、永田君一人がやったことで、今度の私の分は、新し
く共犯者が加わった、って考えたら筋道が通るんじゃない?」
「通らねえよ。さっきも言ったように、永田一人ではカメラを扱えないはずさ。
それに、永田が僕の進学を妨害する理由がない」
「……結局、分からずじまいってことなのね」
「そうなる」
「どうすればいいの? あと十日ぐらいで、九月が来ちゃう」
「最後の手段は、フィルムを潔く渡すしかないな。潔くってのも変か。ははは
はは。そういえば、フィルムの受け渡しのこと、何か言って来たか?」
「何にも。このまま、何にもなければいいのに。脅迫犯人、交通事故で死んじ
ゃってたり、とか、あれこれ空想してる」
「僕もそれを願いたいね。まさしく、死んでくれ、だよ」
* *
脅迫犯から新たな指示があった、という電話を受け取ったのは、夏休み最終
日だった。
その内容を聞いた流輔は、再び叔父に同行を頼まなければならないなと思っ
た。
* *
「米倉君、どうだった?」
「あ、やっと来たか。うーん……犯人はまだ現れない」
「私はちゃんと、指示通りにしたんだけど……。米倉君も見ていたでしょう?
手紙にあったように、電車の三両目に乗って、R橋に差し掛かったとき、ケー
スに密封したフィルム一本を窓から放り投げた。川の水に沈んで行くのが、電
車からも見えたわ。重りに乾電池をくくりつけたんだから、当然よね」
「フィルムを落とすのを監視しているような奴さえ、いなかったぜ。こんな川
に落として、回収できるのかどうか」
「ここ、結構深いポイントよ」
「そうらしいな。それに、ずっと見ていて分かったんだが、流れが速い。時間
帯から言って、潮の満ち引きの影響が大きいんだな。乾電池の重りぐらいじゃ
あ、流されるんじゃないか」
「それじゃあ、犯人はどうやってフィルムを……」
「分からない。あらかじめ、アクアラングを背負って潜っていたとしたって、
難しい気がする。どこに落ちてくるか、正確に予測することはできない。落下
地点を見極めてから、川に飛び込むしかないと思っていたのに……完全に外れ
たよ」
「何時まで待ってみる?」
「泊まり掛けで来たし、叔父さんに電話を入れさえすれば、少しぐらい遅くな
っても平気だが……そういえば、何で犯人は、こんな日を指定したのか、ちょ
っと不思議だな。連休初日の九月十五日なんて、まるで、遠くから来る僕に誂
えたかのように。九月と聞いたときは、九月になってすぐかと思っていたんだ
が」
「もしかすると、犯人も平日は自由に動けないんじゃない?」
「それは中学生だけに限った話じゃないぜ。学校に行ってる奴はたいていそう
だし、サラリーマンだって同じさ」
「……永田君が今どうしているか、分かる?」
「たった今は無理だね。だが、ここに来ていないのは間違いない。体育祭実行
委員に選ばれて、今日は学校で打ち合せだからな」
「じゃあ、永田君は違うか。一体、誰の仕業なのかしら」
「この場に現れることを期待して、もうしばらく様子を見るしかない」
* *
(結局、影すら踏めず……)
妹尾は嫌な気分で寝入り、嫌な気分で朝を迎えていた。かつてのクラスメイ
トである米倉の協力を得て、脅迫犯の正体を掴もうとしたものの、首尾よくと
は行かなかった。
(要求を受け入れたら、将来が)
暗然たる心境になり、神経質そうに目を細める。頭が痛い。
妹尾は突如、立ち上がり、布団から抜け出た。部屋の壁に掛かる鏡の前に立
ち、にらみを利かせるポーズを取った。そして、深呼吸を一つ。
(こうなったら、先手必勝。証拠はないけれど、怪しい奴に心当たりがある。
直接会って、一か八か、勝負!)
奥歯のこすれ合う音がした。室内に短く響いた。
* *
窓の外は夜になっていよいよ暗く、雨がしとしと降っていた。
米倉流助はビールを口に運び、喉を鳴らした。蒸し暑さが和らいだ、そんな
風に表情に満足感が宿る。隣の空席には、紺のスーツが二つ折りにして置いて
あった。
「何年ぶりかな。十五年ぐらいか」
「いい加減ねえ。十九年よ」
真向かいの席に着く女性が、苦笑を通り越し、呆れ顔で答える。お冷やのコ
ップをまるで温めたいかのように、両手のひらで転がしていた。
「そうか。僕は同窓会にも全然顔を出していないしな。君は出席してるのか?」
「中学や高校のは。小学校のは避けてる。ひとみが来るかもしれないから……」
「おいおい。早速、その嫌な話かい」
ビールが急にまずくなったとでも言いたそうに、米倉は顔をしかめた。グラ
スを置き、ため息をつく。
「ひとみは五年生までしかいなかったんだ。同窓会に来るものか」
「小学五、六年はクラス持ち上がりだったから、お節介な子が声を掛けてない
とは、言い切れないでしょう? 可能性は低くても、注意するに越したことは
ないわ。幸い、あの子、誰にも口外してないみたいだけれど」
「ああ、なるほどな。それにしても……同じ秘密を背負った者が折角の再会を
果たし、こうして楽しく飲み食いしようというときに、この話題はなあ。他人
の目、いや、耳もあるしさ」
「十九年、いえ、あれは六年生になる直前だから、二十一年か。二十一年経て
ば、時効と言えるわ」
「うーむ。僕もそう思いたいのは山々だがね。これからのお喋りは、全て酒の
席の戯れ言ってことにしたい」
「そうしましょうよ」
「本心ではそうなんだが、実は、まだ続いているんだよ」
「何が?」
女性が問い返したところで、様々な料理が一度に届いた。しばしの中断を挟
み、程なくして会話は再開した。
「脅迫は続いているのさ」
あっさりと言って、唐揚げの一つを口中に放る米倉。対照的に女性は、料理
に手を着けられずにいた。
「ええ? 中二のときに終わったんじゃなかったの? フィルムを川に放って、
でも犯人は現れず、その後、私の下駄箱に最後の手紙が入っていた。『フィル
ムは確かに受け取った』って。それ以来、音沙汰なしだったわ」
「僕もその気でいたさ。僕自身、ここ十数年間は、全く脅されていない」
「あらっ、米倉君じゃなかったの。じゃあ、誰が? そもそも何で言ってくれ
なかったのよ」
「気遣いのつもりなんだがね。十何年かぶりに、君を不必要にびくびくさせる
こともないと思って、言わなかった。つい最近の話でさ。七月上旬だったな。
電話があったんだ。君と同じく、僕に相談を持ち掛けてきた」
「……」
間を取るためなのか、女性はモツの欠片を箸で摘んで、口に運び、次いで窓
の外に視線をやった。そのままの姿勢で、呟いた。
「同じような脅迫に遭って、あなたに相談をしてきたということは……当然、
あの小五の春休みのとき、私達と一緒にいた人……」
「そんなに長々と考え込まなくても、決まってるじゃないか」
「まさか、ひとみじゃないでしょうから、残るは大西君」
「ああ。お偉い教授の入り婿になってて、ちょっとびっくりしたぜ」
「ふうん、初耳。それじゃ、今はどこかの大学で研究者をやってるのかしら」
その質問を待っていた米倉は、箸を揃えて、相手を差し示した。愉快そうに
表情を歪める。
「それが大違い。しがない教師だとさ」
「教師? 学校の先生ってこと? 教授の娘と結婚して、どうして先生を?
もしかして、損得勘定抜きの大恋愛の末、結婚したとか? 馬鹿みたい」
「答を聞く前から感想を言うなよ。あいつが入り婿になってすぐ、教授がスキ
ャンダルを起こして、失脚したんだ。企業とよからぬ関係を持ったとかどうと
か、新聞にもちらっと出たはずだぜ」
「知らない。興味ない」
「まあ、とにかく、未来予想図が大幅に狂っちまったあいつは、職も失った。
それでも、失脚したとは言え権力のあった教授の口添え、ごり押しで、どうに
かこうにか、中学校の先生に収まった訳」
「嬉しそうに喋るわねえ、親友の不幸話を」
呆れ口調で評した女性は、ようやく積極的に料理を食べ始めた。
「人の不幸は蜜の味と言うからな。もっとも、僕自身、幸せの真っ直中にいる
とはとても言えない立場だからこそ、他人の不幸が楽しく映るのかもしれない」
「都合のいい理屈をこねてるよりも、大西君はどんな風に脅されたのか、聞か
せてよ」
「君も、蜜を味わいたい口か」
「比べたいだけ。私と米倉君と大西君とで、脅迫状の要求に差があるかどうか」
「ふむ。そういうことなら、大西が一番ひどい。本人ははっきり言わねえんだ
が、さっき触れた教授のスキャンダルに、大西も噛んでいたらしいんだ。それ
を公表しろと脅されている。身の破滅だよ」
言い切ると、口を開けて笑った米倉。笑いながら、枝豆を器用に食べる。女
性の方は笑うどころではなく、顔色を変えた。
「ちょ……笑い事じゃないじゃないのっ。大西君が、そんなことを公表できる
はずない」
「だろうなあ」
呑気な反応に、女性の表情が焦りから、憤怒へと変わる。
「ということは、あの写真が公になるってことじゃないの? 二十年以上前と
は言っても、あれを知られたら、みんな、今の立場が危なくなる」
「そう。大西にとっちゃあ、どっちに転んでも身の破滅。同じことなら、時効
の成立していない方、企業との癒着について黙りを決め込む可能性が極めて高
い」
「冗談じゃないわ。私がどれだけ苦労して、今のお店を持てたと思ってるのよ。
今の生活を掴み取るのに……。米倉君は、元からお金持ちだから、何にも感じ
ないでしょうけれどね。ええ、そうよ。たとえ今の地位をなくしても、暮らす
分には心配いらないものね」
「うちも何かと苦しいんだよ。バブル景気とその崩壊で、天国から地獄に落ち、
辛酸を嫌ってほど舐めた。この上、スキャンダルが加わったら、僕は米倉家か
ら叩き出されるに違いない。家族内リストラだ」
自虐的に言い、首を縮こまらせて、頭を左右に振る米倉。もしそうなったと
きのことを考えると、身体が震えるのは事実だ。
「そこまで自覚していながら、へらへら笑って、飲み食いするだけなの?」
「言いたい放題だな。小学校の頃は、僕のこういう仕種一つを取っても、格好
いいと思っていたくせに」
芝居めいて、髪をかき上げてみせる。相手の女性は、何ら返事をよこさなか
った。冷笑らしきものを浮かべつつも、次の建設的な言葉を待つ様子が窺える。
「大西のため、そして僕らのためを思って、脅迫犯を特定するために、知恵を
絞ったさ。大西と協力してね。それでもなお、犯人は分からずじまいと来た。
さあ、どうすればいい?」
「……あなた、ひょっとして、とんでもないこと、考えてない?」
水たまりのたくさんある道路を、注意深く進むみたいに、女性は言った。
「それが何なのか、僕に言わせたいのかな?」
「私だって言いたくないから」
「分かった。では、このあとの話は、場所を移してからにしよう」
勝手に話題を打ち切ると、温くなったビールを一気に干した。
* *
駅から徒歩で十五分を掛けて、ようやく目的地を視野にかすかながら捉えら
れた。
そのとき、妹尾一美が明るい光の下で、鏡を見たなら、自分の両眼が血走っ
ていることに気が付いただろうか?
恐らく、気付きはしなかったろう。夜道を一人行く妹尾の心は、ある決意で
占められていたのだから。
(やっぱり、直感は正しかった。脅迫犯は、まずあいつに違いない! 話し合
う必要なんて、最早あるものか。さっさとけりを着けなくては)
空いている手をジャケットの上から当て、ポケットに入っている物の感触を
確かめる。それは手頃の細さ、長さの麻縄。
(全ては、自分自身の未来のために)
凶器を実感して、意を強くした。
本来、一本の縄のおかげで心強くなれることなぞ、まずない。
しかし、現時点の妹尾一美にとって、運命の縄。地獄に垂らされた、蜘蛛の
糸にも似て。
(絶対にうまく行く。力負けすることはない)
角を折れ、ついに、目的地たる一軒家がしかと見えた。
一帯は住宅街で、無論、どの家屋にも人が住んでおり、明かりが今も灯って
いる。故に、ことを遂げるに当たり、大きな物音を立ててはいけない。目撃者
対策の方は万全だ。学校の演劇部から持ち出してきた衣装で、完璧に変身して
いる。知り合いが見ても妹尾一美とは気付くまいし、知らない者が見ても不審
に思うまい。
逸る気持ちを抑えて、妹尾は門の前で立ち止まった。表札を確認しようとし
たが、見当たらない。代わりに郵便受けを見つけた。ペン型のライトで照らす。
プレートにはターゲットの名前があった。
(昔の名字のまま。まだ結婚してないようだ。米倉君から教わった通り)
胸ポケットにライトを戻し、麻縄をどうしようかと思案した後、今はまだ手
にしないでおく。
門扉をくぐり、玄関先に足を運ぶと、インターフォンを鳴らす。
と、物音が中からして、じきに玄関の明かりが点いた。そしてドア鍵のロッ
クを解除する気配。事前に来意を告げていたとは言え、訪問者が誰なのかを全
く確かめないとは、随分と不用心ではないか。
(それくらい不用心な方が、こっちには好都合だけれど)
妹尾はいつもの癖で、眼鏡の位置を直そうと、眉間の辺りに指先を持ってい
った。が、今日は眼鏡をしてこなかったことを思い出し、苦笑する。深呼吸を
し、落ち着こうとした。
そのとき、ドアがそろりそろりと開かれ、女性が顔だけ覗かせた。
「あ、やっぱり。時間通りね」
村山麻緒は小学校の頃とあまり変わっていなかった。いや、変わっているの
だろうが、全体のイメージは一緒だ。
「……今晩は。お久しぶり」
妹尾は笑顔を作り、左手を差し出した。村山は一瞬、きょとんとしたが、や
がて握り返してきた。
「これ、お土産です」
右手を持ち上げ、紙袋を示す。村山は受け取りながら、喜色を表した。
「わあ、どうもー。ご丁寧に。食べ物?」
「うん。あの、村山さん。全然変わってないね」
当たり障りのない話をして、自身の内なる緊張、高ぶりを隠す。
「そお? 若いって意味なら歓迎だけど、幼いって意味なら心外」
「若いし、きれいになった」
「今さら遅い。まあ、そっちも大して変わってないわねえ。そういえば、若作
りしてない? 七五三みたいにぴっちりした服着てさ。ねえ一美ちゃん?」
「その呼び方、やめてくれって」
「小学生の頃と違うのは……あ、眼鏡をしてない。がり勉のイメージにぴった
りはまってたのに」
真っ先に気付いていいはずの眼鏡の件を、ようやく言われ、妹尾の自信は少
しぐらついた。この変装は無意味だった? だが、計画の変更はしたくない。
引き返せないのだ。
「とにかく、中に入って」
村山がきびすを返し、背中を見せた。絞殺するには絶好の機会が早くも訪れ
た。妹尾は運命のくじ引きを頭の中で設定した。玄関戸を静かに閉め、それで
もまだチャンスが目の前にぶら下がっていたら、決行する。
後ろを向き、ドアを閉めてまた前を見たとき、村山の姿はちょうど角を曲が
るところだった。「早く」と言って、妹尾を手招きする。
「もう少し、用心深くなってもいいと思う」
誰にも聞こえないような小声で応じてから、妹尾は決意を持続させようと努
力する。
(脅迫犯は、春休みのあの日、米倉君の家に来ていた。だけど、そのあとカメ
ラを取りに来ることができた人は、実質いない。つまり、カメラを回収したの
は、当日だった。それが可能なのは、あの場にいた四人だけ。ひとみは被害者
だから絶対に違う。残る三人、加害者三人の中に、密かに写真を撮った人間が
いる。そいつは自分だけが疑われないように、自分自身にも脅迫状が来たふり
をした。それは誰か。最も被害の小さかった奴に違いない。それは……)
応接間に通され、座卓に着いた。村山は手土産の菓子を「開けるわね」と言
って、出してきた。遅れて飲み物が出て来る。ティーバッグの紅茶だった。
「どうぞ。うわあ、おいしそう」
顔の横で手をすり合わせ、喜んでいる村山。そんな彼女を目の当たりにして、
妹尾は、このまま思い出話を始めるのはよくないと感じた。子供の頃の記憶が
蘇って、殺せなくなる恐れ大。
「あー、悪いんだけど、もう一個、角砂糖が欲しいな」
口を開こうとする村山を遮って、そう希望した。
「三個目になるよ。甘党だったっけ?」
村山は不思議そうに言いながらも、テーブルに手を突き、腰を上げる。振り
返って、キッチンに向かう。妹尾から注意が逸れた。
妹尾は凶器を密かに取り出した。手の中で、絡まらぬように伸ばす。そして、
片手にだらりと下げて持つ。物音を立てずに席を離れると、発汗作用の結果か、
空気が冷たく感じられた。
背伸びをして棚に両手を伸ばす村山に、背後から忍び寄り、縄をその細目の
首に回そうと、両手を顎の高さまで持って来た。
(いよいよ。これでおしまい)
手を前に。
掛かった。
村山の表情は見えない。声もしない。何が起きたのか分かっていないはず。
妹尾は両手に力を込めた。
――次の刹那。
「大西! その辺でやめろ!」
結婚前の名前で叫ばれ、妹尾の手から力が抜け、縄が緩んだ。
* *
「悪く思うなよ」
米倉は、昏倒させた大西――妹尾一美を見下ろしながら吐き捨てた。
「こうすることが、最大多数の幸福につながるんだよ」
「ねえ、米倉君。まだ死んでないんでしょう?」
村山が米倉の陰に隠れるようにしながら、倒れたままの大西を覗き込む。
「ああ。電気で自由を奪ってから、酒と一緒に睡眠薬を流し込んだ。まさか、
ここに着いてすぐに行動に出るとは思わなかったから、少々焦ったが、うまく
行ったな」
安堵しつつ、テーブルを振り返る米倉。元々の計画では、紅茶に強力な睡眠
薬を入れて、大西を眠らせるつもりだった。だが、大西がカップに一切口を着
けず、突如として行動に移ったので、変更を余儀なくされた。キッチン横の脱
衣所に隠れていた米倉は、大西の不審な行動を垣間見て、いつでも飛び出せる
ように身構えていた。
それでももし、大西の用意した凶器が刃物の類だったら、間に合わなかった
かもしれない。
もっとも、そうなったらなったで、大西を背後から襲って始末すればいいだ
けだ。自分さえ生き残れば、何とかなる。
「首を絞められたとき、本当に助けてくれるのか、心配になったわ。もしかし
たら、米倉君と大西君とで、私を殺そうとしているのかって疑ったくらい」
村山が首をしきりにさすった。案外、痕は残っていない。
「君を殺しても、何の解決にもならない。いなくなるのは、大西だけでいい」
「それにしても、どんなことを吹き込んだのよ。彼、殺意満々だった」
「君――村山麻緒が脅迫犯じゃないかって、ほのめかしてみただけさ。僕や大
西と比べて、村山は被害が小さい。他人の裸を撮ったフィルムを、川に投げ込
んだだけだ。犯人が本当にフィルムを引き揚げたのか不明だし、フィルムの中
身を誰も確認していない。狂言だったかもしれないな……とね」
口調を変えて語った米倉。その間ずっと、にやにやし通しだった。
「真に迫りすぎよ。本当に死ぬかと思った」
「大西に行動を起こさせるためには、真に迫ってなきゃな」
「これからどうする気?」
「服毒自殺ってことにしようと思ったんだが、おあつらえ向きに、当人が縄を
持って来てくれた。長さも、首を吊るにはちょうどよさそうじゃないか」
手袋を填めた手で、縄を取り上げる。二度、引っ張って、強度を試した。多
分、問題ないだろう。
「折角毒があるのに、使わないなんて、もったいない」
「いや、そうとも限らないぜ。大西が毒をどうやって手に入れたのか、警察が
不審に思うかもしれん。その点、この縄なら、元からこいつの持ち物なんだか
ら、疑いようがない」
「さすがね。隙がないわ」
「尊敬してくれるのはありがたいが、そろそろ仕上げに取り掛かろうじゃない
か。君は指紋を拭き取るんだ。あくまでも、この空き家に忍び込んだ大西が、
一人寂しく、首吊り自殺を図ったことに見せ掛けねばならない」
「よくこんな空き家を用意できたわねえ。米倉家の力も捨てたもんじゃないん
じゃない?」
軽口を叩きつつも、布巾で、部屋のあちこちを注意深く拭いていく村山。
米倉は、彼女が見ていないと知りながら、肩をすくめた。
「景気がよいままだったなら、こういう空き家も用意できなかったかもしれな
いんだぜ」
それから、縄を通すのに適当な鴨居、欄間を探し始めた。
* *
妹尾一美を脅し、マークしていた甲斐があった。
とうとう、人を殺した。それも仲間内で。
どうしようもない連中だ。子供のときだけなら出来心で済んだかもしれない
が、大人になってからますますひどくなっている。
撮影と録音に成功したから、証拠はある。だが、まだ警察に届けるつもりは
ない。もう一度、殺し合ってもらう。
米倉流輔と村山麻緒、どちらが死のうと知ったことではない。最後の一人は
全ての罪を被り、司法の手で抹殺されるまでだ。
俺に罪の意識はない。菱川ひとみを破壊した三人に罰を下す。その行為に罪
の意識を抱けるはずがない。
発端は、村山の悪事に、ひとみが偶然気が付いたことだった。クラスメイト
の裸を隠し撮りし、その写真を売りさばくという悪質な小遣い稼ぎについて、
ひとみは立ち聞きした。その性格からか、誰にも相談できず、苦しんだらしい。
それから程なくして、転校が決まった彼女は、村山にだけは忠告をしていこ
うと考えた。それが、他の女子のためだと思って。
ひとみが村山の家に何日間か泊めてもらうことになったのは、どちらから言
い出したのか、判然としない。二人きりで話すためにひとみの方から持ち掛け
たのか、それとも学校かどこかで忠告を受けた村山が、逆恨みの末に復讐をし
ようとひとみを誘ったのかもしれない。恐らく、後者だ。最後によい印象を持
ってもらってお別れしたい、とでも相手から言われたら、ひとみは信じてしま
うだろう。
泊めてもらう約束ができあがってから数日後、流輔と大西がお別れ会を提案
してきた。流輔達が村山から写真を買っていることも知っていたひとみは、警
戒したはずだ。やはりその性格故、断りきれなかったが、念のために予防線を
張っておこうとした。それが、俺への依頼だ。
流輔の家にちょくちょく出入りしていた俺は、そのクラスメイト何人かとも
顔見知りになっていた。その中に菱川ひとみもいた。
ひとみは、俺がカメラに詳しいことを知って、密かに頼んできた。流輔の部
屋に、誰にも分からないように隠しカメラを仕掛けておいてほしい、と。技術
的には何ら問題ないし、流輔の叔父である自分にとって、設置と回収も楽にで
きる。だが、二つ返事で引き受ける前に、俺は訳を尋ねた。何故、そんなこと
を俺に頼むのか。
「みんなが知らない、だけど私は知っている、私とみんなとの思い出がほしい」
ひとみの説明に、俺は納得してしまった。あのとき、もう少し深く考えてい
れば、事前に食い止められたかもしれない。結果論になるが、俺は俺の仕掛け
た隠しカメラによって、何が起きたのかを知ったし、奴等三人に罰を下すこと
ができた。全然嬉しくないが。
ひとみは何も言わず、写真の受け取りも拒んで、引っ越し先に行ってしまっ
た。俺は事情が飲み込めなかったが、写真を現像して、流輔達をびっくりさせ
てやろうと思った。流輔の驚く顔を想像して、にやにやしながら、自宅の暗室
で現像をしていた俺は、やがて浮かび上がった画に呆然とした。やっと気が付
いたのだ。
陵辱されたひとみがその晩、何故、村山の家に泊まったのか。それだけが謎
だったが、写真を仔細に見ていく内に、それも解けた。村山は最初、予期せぬ
ことが起きて慌てている、そんな芝居をしていたのだ。ことが済んでから、ひ
とみにさも優しげに接触し、懐柔するために。精神的に崩壊していたひとみに
とって、そんな手段が必要だったかどうか、今となっては分からない。
俺は一週間ほど思慮し、ひとみに連絡を取った。彼女は、自殺未遂を起こし
ていた。命は取り留めたが、彼女の細い手首には、当時の技術で完全に消すこ
とは不可能な深い傷が残った。そして、精神にはより深い傷が。
病院の個室、白い空間の中、ベッドに横たわるひとみ。
退院した後も、まともに学校に通えず、家で過ごすことが多かったひとみ。
そんな様子を目の当たりにし続けて、俺は心に誓ったのだ。菱川ひとみのた
めに、復讐をしてやる。
いくら小学生のしでかしたことでも、許せない。甥っ子だろうが、関係ない。
真正面からの断罪では我慢ならなかった。だから、脅迫という手段に出た。
最初は懲らしめるだけのつもりだったが、進学をあきらめた流輔も、友人ら
を裏切った村山も、全く堪えていないように、俺の目には映った。
俺は考え方を変えた。連中が大人になるまで待つ。そして、連中がそれなり
の地位を築いた頃合を見計らい、どん底に突き落とす。その過程で、死人が出
てもかまわない。むしろ、望んだ。
今、俺の復讐は、最高の形で第一段階を達成したのだ。満足感はないが。
いや、復讐を完成させたとしても、満足感を得られるとは思っていない。た
だ、残る流輔と村山には、とことんまで苦しみ抜いてもらう。まだまだ長い人
生を、最後まで苦しむがいい。
寺下育哉は頭の中で、次の計画の最終チェックを始めた。復讐の成就を確信
して。
――終