#130/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 02/12/17 21:13 (354)
お題>書き出し限定>メモ 2 永山
★内容
志賀納男のバンド仲間三名の居所を突き止め、事情を聴いたが、事件解決に
直結するような話は出て来なかった。
デビューできるかもしれないという一件は、納男の死によってすでに壊れて
いたが、十一月十九日に有力人物と会った際の感触はよかったという。深夜の
若者向け番組で、ありとあらゆるジャンルの“挑戦者”を募り、異分野の数組
で競わせ、最も支持を集めた一組をバックアップしていくというコーナーが来
年二月末からスタートする。その初回に、実力を伴ったインパクトのある何組
かを、あらかじめ仕込んで起きたいとの欲求から、局側が色々とピックアップ
作業を重ねており、志賀納男らのバンドもその網に掛かった訳だ。
バンド仲間らは、納男と最後に会ったのは十一月二十三日だったと口を揃え
た。翌日はそれぞれ仕事に打ち込んだり、親しい異性に会ったりと忙しかった
らしく、練習のために集まることはなかった。納男自身も午前中はアルバイト
に精を出していたことが突き止められているが、彼が二十四日にスーツを着る
理由には、誰も思い当たる節がないようだった。そして厄介なことに、志賀納
男の死亡推定時刻に対するアリバイが、バンド仲間の面々にはなかった。
事件発覚から一ヶ月。越年を目前に控え、閉塞感が広まりつつあった中、ふ
とした疑問を呈したのは、年若い刑事の方だった。
「志賀納男があの河原で殺されたのは、間違いなんですよね」
「何を今さら。死亡推定時刻、死斑、煙の目撃情報から考えて、間違いない」
「だったら、やっぱり、人目に着くなあ……」
「もごもごしてないで、分かるように言え、分かるように」
「いえね、警部。何で顔だけ焼いて、他の箇所や服なんかは燃やさなかったん
だろう、と思ったもので」
「そんなことか。身元を隠すには、顔だけで充分だと犯人の奴は考えたんだろ」
「でも、実際にはこうして、たどり着きましたよ」
「それは、あの紙切れのおかげだ。おまえさんの慧眼で見つけた、『ここには
○○』の」
「しかし……借りたスーツだからと言って、そのポケットには志賀納男の持ち
物がいくつか入れてあったと思うんですよ」
「そりゃそうだろうな。偉いさんと会うんだから、ハンカチぐらいは携帯して
おくものだ」
「でしたら、犯人はスーツのポケットをまさぐり、中身全てを取り出したこと
になりますよね。だけど、そんなことをしている暇があるくらいなら、スーツ
ごと脱がして、火を着ければ手っ取り早いんじゃないかなあ、と」
「小賢しいことを……待てよ。一理あるかもしれんな」
「警部も賛成してくれます?」
「待て待て。考えさせろ。スーツを……燃やすかどうかは別として、脱がせば
済む。ポケット全部をひっくり返すより、よほど時間が短縮できるだろう」
「着せたままポケットを探るにしても、脱がせてポケット探ってまた着せるに
しても、時間が掛かります。河原と言っても、あそこはジョギングコースに当
たるから、夜でも人の往来は割とあります。そこで火を焚くだけでも犯人にと
って危ない行為なのに、スーツを調べている余裕はないんじゃないでしょうか。
犯人の心理として、一刻も早く、現場から立ち去りたいはず。なのに、ズボン
を調べた上で、スーツにこんな手間を掛けるのは馬鹿げてますよ」
「じゃあ、なんだ。犯人は、わざとスーツをそのままにしていった、というこ
とになるか」
「あの、決め付けちゃいませんけど」
「いやいや。検討の価値あるぞ。あのスーツには、例のメモ以外、何一つ残っ
ていなかった。しかし強盗じゃない。強盗なら顔を焼く必要はないからな。犯
人には、スーツを残す理由があったに違いない。いかにも身元を隠すためのよ
うに装っているが、本当の狙いは別にある――としてみるんだ」
「犯人にはメリットがあるはずですよね。でも、スーツを着させたままにして
おいて、メリットなんて生まれるかなあ。他人のスーツを着させて、遺体を別
人に見せかけるっていうなら、分かるんですがねえ」
「遺体は志賀納男だと確認された。指紋の一致が決め手になったんだから、間
違いなかろう」
「うーん。スーツを着させることに意味があるとすると、被害者の意志でスー
ツを着たんじゃないってことになるんですかね」
「ん? そうか。被害者は殺された二十四日、スーツを着るような用事はなか
ったんだったな。元々、ラフな格好だったのを、殺害後、スーツ姿に替えた?
訳が分からん」
「志賀納男がヴィンテージ物のTシャツとかを着ていて、それを欲しがった犯
人が……っていうなら、辻褄が合うんじゃ」
「慌てて先回りするな。被害者は普段着をそのヴィンテージ物のシャツしか持
ってないって言うのか? そんなことはないだろう。いくつかある服の中から、
わざわざスーツやワイシャツを着させる理由がない」
「あ、そうですね。警部の言葉を聞いて思い付きました。逆に、普段着が全て
着られなかったから、やむを得ず、スーツを着たのかもしれません。ああいう
若いのは、洗濯物をためがちなもんです」
「普段着全部が着られない状態だった、だからスーツを着たという訳か。それ
もないな。当日の午前中、バイトに出て来たとき、納男は普通の格好だったと
聞いた。店では制服姿だから、汗まみれになることもない。つまり、昼から別
の服に着替える必要もあるまい。まあ、被害者のアパートに行ってみれば、は
っきりするさ。どうせ、着替えがいくらでも出て来るだろうよ」
「では、この説は一応、棚上げとします。さっき、話しながら思い付いた新た
な説があるんですが、言っていいですか? 怒鳴られそうなんですけど」
「おう。遠慮なく言ってみろ。俺も、怒鳴りたくなるような仮説なら、遠慮な
く怒鳴ってやるよ」
「……スーツ以外の衣服には、全て志賀納男の名前が記してあった、というの
なんですが……」
「はん。身元を隠すために、唯一、名前の書かれていないスーツ姿に仕立てた
ってか? よほど、怒鳴られたいらしいな。小学生のがきじゃあるまいし、服
に名前を書くなんて真似を」
「い、いえ、名前と言っても、サインペンで書いたようなのじゃなくて、刺繍
ですよ。イニシャルを刺繍するとか」
「刺繍か。それなら可能性ゼロとは言わんが、」
「他にどんな説があります?」
「……スーツを着たのは、恐らく、志賀納男本人の意志か、そうでないとして
も、犯人による誘導と見ていい。志賀の服を犯人が脱がせ、スーツを着させる
には、もっとしわが寄ると思う。被害者のような立場の人間がスーツを着るの
は、結婚式か彼女の親に挨拶に行くときか、何かのパーティか、面接か、まあ、
こんなところだろう。だが、これまでの調査で、そのような事実はいずれもな
い。犯人の嘘に乗せられて、スーツを着てくるように言われたんじゃないか」
「嘘と言いますと、たとえば……結婚式があるから出て来いと?」
「納男は仲間に秘密にしたまま、行動している。結婚式やパーティなら、秘密
にする必要性は低い。俺が思い付いたのは、仕事絡みだ。確か、歌だったな」
「は?」
「志賀納男は、バンドの中で歌を担当してたんだよなって聞いてるんだ」
「あ、あい。ヴォーカルですね」
「歌手として一人でデビューさせてやるとか何とか、持ち掛けられたんじゃな
いか。バンド仲間には秘密にして、一人で来いと言われたら、ふらふらっとな
るもんだろう」
「……まあ、筋道は通りますね。志賀納男の性格にもよりますが、ソロデビュ
ーを餌に、そのように誘われれば、のこのこと出て行くかもしれません。で、
この線で行くと、犯人は音楽業界に何らかの形で関わっている人間になります
よ」
「バンド仲間以外の親しい人間の中で、それなりに地位のある奴を加えていい
かもな。知り合いの業界人に紹介してやる、とでも言われれば」
「納男が信頼する人という意味では、警部の仰る通りです。動機の観点からも、
一介のアマチュアに過ぎない納男に、業界の人間が殺意を持つとは考えにくい」
「ここまでは、悪くないと自分でも思えるんだ。スーツを着た理由はすっきり
する。だが、スーツを持ち去らなかった理由となると、さっぱりだ。犯人の利
益になるとは思えない」
「捕まえてみて初めて分かるような類の理由かもしれませんね」
「とりあえず、親しい人間を洗い直そう。業界人も含めて、徹底的にだ」
二月初旬、書店の棚に、とある新人作家の推理小説が並んだ。
タイトルは『ここには真実がなかった』。著者名は炙賢吾。新人賞受賞の形
ではなく、推薦の言葉が帯を飾るだけだ。
刊行元はG社という。老舗から独立した新興の出版社で、流行や話題を最優
先にした仕掛けで支持を集め、現在、かなりの勢いを有している。
「まだ手袋を手放せませんか」
「……あっ、警部さん」
「ここでお会いできるとは偶然ですな、志賀さん」
「こちらまでは、捜査で? 部下の方はご一緒じゃないのですか」
「います。ちょっと用足しに。書店に入るとトイレに行きたくなると言うが、
奴の場合、寒さで小便が近くなったようですな」
「弟の事件、どんな進展具合なのですか」
「ああ、そのことで来たんです。あなたに聴きたい点がいくつかでき、これは
もう一度お会いせねばならんなと、足を運んだ次第です」
「ふむ。では、私も時間はあまりないが、どこか落ち着いて話せる場所に行き
ましょう」
「部下が戻るまで、待ってください。それに、ここはちょうどいい」
「ちょうどいい、とは?」
「これですよ、これ。ちっとも知らなかった。『ここには真実がなかった』、
これを書いた炙賢吾とは、あなただったんですなあ」
「……ええ、まあ」
「本名をお使いになればいいのに。ペンネームを使うなら、愚林檎があるし。
何故です?」
「大した理由はありません。本名は出したくなかった。愚林檎は、ハンドルネ
ームならともかく、ペンネームにはね」
「ごもっともで。今日が発売日だから、書店での売れ行きがどんな感じか、見
に来た訳ですか」
「まあそんなところです。厳密には、売れる瞬間を目撃したくて。職業作家の
大半が、自分の本が初めて売れた瞬間、感動を覚えるらしいですから」
「私は推理小説を読まない質なんですが、これはどんなお話です? タイトル
がこれだからと言って、まさか弟さんの事件をモチーフにしたとは思えん」
「当たり前ですよ。依然、お話ししましたように、私はあの書き出しで、作品
を書こうとしていた。いや、書き始めていた。すでに長編の構想を持っており、
あとは文章化するだけでした。弟の事件が未解決のままの状況で、あの書き出
しを使うのは心苦しくなかったと言えば嘘になる。だが、私はクリエイターと
して、自分に忠実であるべきだと判断し、敢えてあのまま使ったのです」
「ほう。どことなく弁解がましく聞こえますが、私は非難なぞしておりません。
内容をお伺いしただけですよ」
「内容を話してもいいが、できれば読んでいただきたい。よろしかったら、謹
呈しましょう。自宅に何冊かあります」
「遠慮しますよ。今は読んでいる暇がない。事件を解決せん限りね。――あい
つ、遅いな。本格的に腹を壊したか?」
「警部さん。私も暇が有り余っているという訳じゃない。あなたお一人でいい
から、聴きたいことがあるのなら、始めてくれませんか」
「そうですな。いえね。もう始めてるつもりなんですが」
「……どういう意味か、分かるように願いたい」
「あなたがこの本を出すことになった経緯を、私は知りたい。賞を取ったので
はないようだが、コネがあったんですかな」
「多少のコネはあります。あのサイト――素人探偵作家倶楽部に出入りしてい
たおかげで。あそこは割とレベルが高く、在野の作家を確保したいという頭を
持つ編集者が、しばしば覗いているのですよ」
「あなたは実力を認められたと」
「……残念ながら、それだけじゃないでしょうね。弟の事件で、あのメモの存
在が大きくクローズアップされ、サイトも私も有名になった。G社はそこに目
を着けたんだと思います。無名の新人でも、今このタイミングでなら、そこそ
この部数を見込める、と」
「ははあ。そういう舞台裏でしたか。だったら、我々警察も、この本の宣伝に
一役買った格好になりますな。こりゃあ、宣伝広告費をいただか――あっと、
失礼。――一冊、売れましたな」
「え、ええ」
「感動できました?」
「あなたと話し込んでいたおかげで、いまいち感動が薄いですよ」
「それは悪いことを。申し訳ない。だがまあ、辛抱してもらって、もう少し」
「私が本を出せたのと、事件とが関係するとは思えません。早く本題に入って
くれませんかね」
「捜査が行き詰まってから、私が特に悩んだのは、この事件の動機は何だろう
ということだった。弟さんの周辺を徹底的に洗っても、殺人につながるほどの
動機は出て来ない。志賀さん。あなたやあなたのご家族も、弟さんをしょうが
ない奴だと見なすことはあっても、殺意を抱きまではしない」
「何を当たり前のことを。そんな馬鹿げた可能性は、最初から取り除くべきだ
ったんですよ」
「その見解は私と反対だ。と言うのも、今、目の前にあるこの状況を元に考え
ると、利益を受けた人が明らかだと結論づけられるんで。志賀納男がミュージ
シャン志望だったのと同様、あなたは作家志望の念が強いようですな」
「……」
「弟さんの死を利用しただけじゃなく、弟さんの死そのものを演出したんじゃ
ないんですか」
「納男を殺したのは私だと? お門違いです」
「本の出版が、やけに早いと思うんですよ。手回しがいいというか。私は詳し
くないんだが、聞くところによると、通常は三ヶ月ほど掛かるそうじゃありま
せんか。原稿を渡してから三ヶ月だ。今が二月で、事件が起きたのが十一月末。
逆算すれば、あなたの執筆時間がなくなる。志賀さん、あなた、事件が起きた
頃、原稿は完成していたんじゃありませんか? それを出版社に持ち込んでい
て、刊行できるかどうか、微妙な線だと評価されていた」
「……警部さん。調査済みのことを、あたかも知らないふりをするのはやめて
いただきたい。この本が出るまでの過程は、そちらで調べた通りですよ、多分
ね。だが、弟の事件とは無関係だ」
「あなたにはアリバイがない。可能ではありますね?」
「アリバイがないだけで犯人扱いも異議があるが、そもそもアリバイがない関
係者は他にもいるでしょう。どうしてその人達ではなく、私なのですか。動機
の有無ですか」
「動機は重要だが、決め手にはならない」
「まるで決め手を握っているかのような口ぶりですが、そんな物はないはずで
す。何故なら、私はやっていないのだから」
「では、次の話を聞いてもらって、意見を伺うとしますかな。ま、気付くのが
遅すぎて、恥ずかしい限りなんですが、なかなか面白いでしょうよ。スーツか
ら出て来たあの紙片からは、指紋が検出された。複数あったが、どれもあなた
の弟の指紋だと判明している。おかしいじゃありませんか。触ってないはずの
弟さんの指紋があって、間違いなく触ったあなたの指紋がないってのは」
「……弟の納男がどういう経緯で触ったのかは分からないが、私は手袋をして
いたから、指紋が付いていなくても不思議ではない」
「素手で一度も触らなかった? 馬鹿な。少なくとも、プリントアウトした直
後、素手で触ったはずですよ」
「だったら、恐らく擦れて消えてしまったんだろうね。手袋をした手で触る内
に、指紋を自然と拭うことになったんだ」
「そうですな。一度付いた指紋が消えるとしたら、それぐらいしか考えられな
い。では、弟さんの指紋は、そのあとで付いたことになる。どうやって? 穴
に入り込まず、ポケットの中に残っていたのではないことは、あなた自身が言
っていた。弟さん自身が、ポケットの穴から見つけ出したとも思えない。何故
なら、そんなところを探す理由がない。それに、あんな細長い紙片が一旦見つ
かったあと、再び穴に入り込むのという偶然も承伏しがたい。じゃあ、他にど
んな状況があるのかというと……ないんですな、これが。あなたの話を信じる
限り」
「私が嘘をついていると、そう言いたいんですね。よろしい。理屈を伺うとし
ましょう」
「あなたが嘘を言ったとすれば、選択肢は広がる。スーツを貸した時点ではポ
ケットにもそこにできた穴にも紙片はなく、別の形で弟さんの手に渡った。と、
こういうのはいかがですかな?」
「別の形というのを聞いてみないことには……」
「まず考えられるのは、スーツを貸したとき、紙片を渡した場合。ポケットの
中身を出しているときに、紙片を目にした弟さんが興味を持ち、『俺も考えて
みるから、その書き出しのメモをくれよ』と、そんなことを言ったのかもしれ
ない。我々の調べでは、弟さんは文学に縁のあるタイプじゃなかったようです
が、絶対にないとは言い切れない」
「……」
「だが、この場合、あなたが嘘をつく理由につながらない。恐らく、この仮説
は誤りだ。ことが殺人事件なだけに、嘘をつくとしたら、よほど大層な事情が
ないといけませんな。そこで考えたのが、スーツの左ポケット以外のどこかに
紙片が入っていた、というものです。無論、少し探したくらいでは見落として
しまうような場所でなければならない。たとえば、左の胸ポケット。脇に付い
ているポケットに比べると、奥まで覗きづらいでしょう? ここに入り込んだ
紙片を、あなたは見落とし、そのままスーツを貸した」
「それを弟が見つけた、と?」
「ええ。そして十一月二十四日、あなたと弟さんは、会う約束をしていたんで
はないですか? 持ち掛けたのは、弟さんの方だと思うが、こう考える根拠は、
すぐあとで出て来ます。時間は夜の九時以降でしょうな。場所は分からない。
いきなり河原で会うのは不自然だから、飲食店だろう。そう当たりをつけて現
場近くの店を改めて回ったら、目撃証言が出て来てましてね。あなたらしき人
物が、二人連れで来ていたと」
「私だとは限らないし、たとえ私だとしても、外で食事をしたり、お茶を飲ん
だりしてはいけないっていう法はないでしょう」
「連れが志賀納男らしき人物だというのが問題だ。問題の紙片は、店に入る前
に、弟さんからあなたに返されたんでしょうな。いくらあなたでも、店内では
手袋を外すだろうから。『胸ポケットにこんなのが入っていたぜ』『ああ、そ
うか』、こんな具合ではなかったかと」
「芝居がかった刑事さんだ」
「店をあとにして、あなた達二人は河原に向かった。寒がりのあなたが外で話
をしようと持ち掛けるのはおかしいし、弟さんも不審に思うに違いない。だか
ら、外で話をと持ち掛けたのは、弟さんの方だ。しかもその内容は、志賀さん、
あなたを窮地に陥れるような重大かつ秘密の話題だったんじゃないか? 『他
人に聞かれてはまずいから店を出よう』と言われれば、あなたも寒空の下に出
て行かざるを得ない。そうして、話し合いが始まり、じきに決裂。あなたは弟
さんを殺害してしまった」
「講釈師、見てきたようなことを言い、ですね」
「そうですかな? 顔色が悪いように見受けますが。まあ、もう少しだけ、想
像にお付き合いください。さて、我に返ったあなたは、周囲に人がいないのを
幸いに、身元を分からなくしようと画策した。火種は弟さんのライターでしょ
う。あなたは煙草をやらないようだから。それから弟さんの身元を示すような
物を一切合切抜き取った。この瞬間かもしれませんな、あなたが余計な思い付
きを閃いたのは」
「余計な?」
「紙片を残すことで、自分の小説に付加価値を持たせようとした。その先にプ
ロデビューを見据えて」
「ポケットの穴に入り込んでいたのは、いかに解釈なさるんですか」
「わざとでしょうが。一切合切を持っていった犯人が、紙片だけを残すという
構図は不自然で、あまりにもあざといから、ポケットに空いた穴に入り込んで
いた状況を作った。犯人がスーツを持ち去らなかった訳は、これです。穴はそ
のとき作ったのか、前からあったのか知らんが、どちらでもいいことだ」
「警部さんの仮説は、矛盾していませんか。遺体の身元を隠す行為と、売名目
的に紙片を残す行為は相反する」
「顔を焼く作業をしたあと、思い付いたんじゃないですか? そもそも、穴に
押し込まれた紙片を、見つけてもらえない場合だってある。あの書き出しが、
素人探偵作家倶楽部のテーマに採用されないことだって考えられる。売名はあ
くまで二次的な目的だった」
「……付加価値が欲しければ、殺人被害者の兄というだけで、充分だと思いま
すがね」
「どうですかなあ? 被害者の兄がドキュメンタリーを書くなら興味を持たれ
るかもしれんが、小説を書く、それも人殺しの小説を書くというのは、あまり
感心されんのじゃないですか。あの書き出しのメモは、その辺を緩和する役割
があると思う。弟が殺される前からこの書き出しで推理小説を執筆していた、
という状況なら、反感を抑えられる」
「物の見方は様々だというのが、よく分かりましたよ。では、弟は何故、スー
ツを着ていたのです? 私に会うだけなら、ラフな格好で何ら問題ない」
「弟さんは――志賀納男は、あなたを強請る気だった。ネタは無論、先ほど触
れた、河原での会話にあったんでしょうな。そして志賀納男は要求の手始めに、
このスーツをもらうぜという意思表示をしたんだ」
「わ、私はあのスーツを、最初から弟にやるつもりで」
「と、あなたが言っているだけだ。脅迫のネタ自体、納男はそのスーツから入
手したんじゃないかと、私は睨んでいる。そうでないと、以前からネタを握っ
ていた納男が、急にあなたを脅そうと思い立ったことになってしまう」
「スーツから脅迫のネタを入手とは、意味が分かりませんね。脅迫のネタにな
るスーツを、犯人は持ち去っていなければおかしい」
「スーツそのものではなく、やはりポケットにあった物でしょうな。想像をた
くましくすれば、そうだなあ、酒の品評会での不正依頼を記したメモとか、非
合法ドラッグの欠片とか」
「そんな危ない物を仮に持っていたとして、スーツを貸す前に、厳重にチェッ
クするのが当然でしょうが。見落とす訳がない」
「詳しい動機は、これからさらに調べます。脅迫の材料になるような何かが、
きっとあるはずだ」
「犯人でもない私のプライベートを暴くのは、問題がある」
「捜査の一環だから、抗議は受け付けられんですよ。訴えるとしたら、マスコ
ミによって公に広まったときだ。マスコミ連中を訴えればいい」
「あり得ない話を延々繰り広げても、全く愉快でない。話はおしまいですか?
決定的な証拠はなかったようですね」
「何を言っとるんです、志賀さん。推理小説のように、がちがちの物的証拠が
なくても、警察は動ける。紙片にあなたの指紋がなく、被害者の指紋だけがあ
った。これだけで充分、あなたを重要参考人と見なせますよ。嘘をついたんで
すからな。被害者の指紋の付着を失念したのが、あなたの最大のミスだ」
「……読者が納得しない」
「は? 何だって?」
「いや。そんな物を書いたら、読者が納得しまいと思ったまでですよ」
「やれやれ。そこまで言うのなら、一つ、証拠を示そうか。完璧な証拠とは言
わんが、補強にはなる」
「え? まさか」
「志賀さん。あんた、遺体の顔を焼くとき、アルコールを使っただろう?」
「……」
「暖を取るために、洋酒を常備しているんだったな? それも、ウオッカやテ
キーラといった、アルコール度数の高い方が都合がいいんだが、まあ、種類は
何でもいい。そいつを燃料に、弟の顔を焼いた。遺体に酒の成分が残らなかっ
たのは偶然か、あるいはよほど慎重にやったのか。だがな、完璧ってことはな
い。遺体発見現場の土を調べりゃ、酒が検出されるもんなんだよ。分かったか?
おっ、奴め、やっと戻って来たか。おーい、大丈夫か」
後日、志賀弥彦が語ったところによると、動機は次のようになる。
スーツの胸ポケットには、例のメモ書きの他にもう一枚、紙切れが残ってい
た。手帳から外れたその一枚には、志賀弥彦が付き合っている女性の名前と住
所が、愛の言葉とともに書かれていた。これを見つけた弟の納男は、数日間で
調べ上げ、女性は地元の有力者の娘で、しかも夫がいることを突き止め、金蔓
になると踏んだらしい。恐らく兄と相手女性の双方から金をせしめるつもりだ
ったであろう納男は、兄の上京を知って、手間が省けたとばかりにコンタクト
を取ってきた。
犯行後の兄は、弟の顔を焼くついでに、その手帳の一枚も燃やしたという。
いくら寒がりの犯人でも、この火に当たる気にはなれなかったかもしれない。
ちなみに、『ここには真実がなかった』は、志賀弥彦が犯行を自白した頃を
ピークに、好調な売れ行きを示していたが、殺人犯の著書を売るのは不謹慎だ
という世論に押され始め、ほどなくして絶版となった。稀少価値は出るだろう。
――終