AWC お題>書き出し限定>メモ 1   永山


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#129/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  02/12/17  21:13  (393)
お題>書き出し限定>メモ 1   永山
★内容                                         04/05/19 01:46 修正 第3版
 ここには○○がなかった。あるはずのものが、あるべき場所にないというの
は、なんだか気持ちが悪い

「これは?」
「え、何ですか、警部? ああ、それ、被害者が着ていたスーツの左ポケット
に入っていたんです。正確には、ポケットの内側にできたかき傷みたいな穴に
入り込んで、隠れていたので見逃していたのを、僕が発見したんですけど」
「おまえさんの慧眼自慢はあとでいい。何を意味してるんだ」
「さあ……聞いたことも見たこともないです」
「流行りもんじゃないんだな? だがまあ、わざわざプリントアウトして、こ
う、細長く切ってあるくらいだから、大事な物だろう」
「でも、事件に関係あるかどうかは、定かじゃないですよ。印字してあるから
って、大切とは限らないし」
「馬鹿。身元を探る手がかりにはなる」
「あ、ですね」
「弛んでるようだから、これ、おまえにやってもらおうか」
「え。僕がですか」
「不満か? おまえが見つけたんだから、おまえ自身で探ってみるのもいいだ
ろう」
「不満ではありません。いつもの通り、凶器の出所を当たるものと思っていま
したので、意外だっただけです」
「慣れていて自信があるのなら、凶器の方もやっていいぞ」

 鉄橋そばの河原で見つかった遺体の顔は潰され、焼かれていた。背後から扼
殺されていたが、喉元に残る手の痕跡は判然とせず、犯人を確定する証拠にな
りそうにない。
 被害者は、身元を示す物は一切持っておらず、顕著な身体的特徴もなかった。
衣服や靴にしても、ありふれた既製品で、手がかりになりそうにない。
 手の指紋の照合を試みるも、前科者に該当する人間はなし。頼りの歯も、こ
の被害者のは喫煙者特有の汚れ方をしていたが、歯自体に治療痕はなかった。
歯の磨滅具合を含む身体の状態により、被害者が十代後半から二十代前半と推
定されたものの、行方不明者リストに該当者なし。この年齢層でスーツを着る
のは、就職活動中の若者だろうとの見込みで、調べが継続されているが、色よ
い結果は出ていなかった。
 あとは、復顔という手段があるにはあるが、検死優先のため、実際に行うと
してもまだ先になろう。
 残る糸口は、スーツから見つかった紙片のみ。だが、紙片そのものからは、
被害者自身の指紋が検出されただけで、他に有用な発見はなされていない。こ
れが現在の状況である。
「うひゃあ、警部〜」
「素っ頓狂な声を上げて、どうした?」
「ヒットですよ、ヒット」
「パソコンに向かって何をやってるのかと思ったら、野球ゲームでもしてたの
か。いくら聞き込みがつらくても、そういうことで」
「違いますよ、失礼な。これでも仕事していたんです。ほら、これ見てくださ
い」
「これがどうした」
「検索結果です。ふと思い付いて、というか本音は苦し紛れだったんですけど、
例のメモ、『ここには○○がなかった。あるはずのものが、あるべき場所にな
いというのは、なんだか気持ちが悪い』をネット検索に掛けたんです」
「よく暗記してるな。俺なんか、マルマルって覚えてるだけだ」
「そんなことじゃなくて、もっと驚いてくださいよ。キーワードが長すぎるら
しくて、ちょっと分割してみたんですが……ほら、ここのやつ、完全に一致し
てます。あとの十件は部分的なのに、ここだけ」
「メモの内容は、確か、公には伏せてあったな」
「ええ」
「てえことは、事件について無責任に書き立てた掲示板なんかじゃない訳だな」
「そのはずです。飛んでみます。えーっと、素人探偵作家倶楽部、AMWCか。
――出ました。……あ、これのことかな」
「どれだ?」
「ここにあります」
「おまえの指が邪魔で見えん。……短編コンテストとあるが、これのことか」
「はい。どうやら、同じ書き出しを条件に、皆で短編小説を作って競おうとい
う趣向ですね。その決められた書き出しが、『ここには○○がなかった。ある
はずのものが、あるべき場所にないというのは、なんだか気持ちが悪い』なん
です」
「全部言わなくてもいい。ふむ。ということは……どういうことになる? 被
害者はここの倶楽部員なのか」
「それはどうでしょう……メンバー登録制だとしても、このサイト自体は、誰
にでも閲覧できるよう、オープンな形ですから」
「……『ですから』、何だ?」
「は? ああ、ですから、インターネットやってる人間なら、誰でも見ること
ができます」
「手がかりにならんてことだな、くそっ」
「いえ、でも、書き出しをわざわざプリントアウトし、持ち歩いていたってこ
とは、作品を書くつもりだったのかもしれません」
「コンテストに応募できるのは、倶楽部員だけなのか?」
「ちょっと待ってくださいよ、調べますから……。うーん、どうやらそのよう
です。コンテストに応募するには、メンバー登録が条件となってます」
「じゃあ、やはり被害者はここの倶楽部員か。前進だな」
「でも、最初から応募する気がないとしたら……」
「何だと?」
「ですから、この書き出しで小説を書く気はあるが、応募はしないって人も、
全国には結構いるだろうなあ、と」
「意味が分からん。分かるように言え」
「言ってるつもりなんですが……。えっと。この書き出しで書こうとする人は、
ここのメンバーとは限らないってことになりませんか。なりますよね」
「どうして。書くからには、応募するだろう。でなけりゃ、何のために書くっ
てんだ」
「このコンテスト、特に賞品がある訳じゃないようですし、どうしても応募し
たくなるものではないでしょう。この課題をクリアするだけで満足して、一人
で悦に入る奴は恐らくいっぱいいますよ」
「要するに、折角見つけたこのホームページも、捜査には全然役に立たんてこ
とか」
「うん、まあ、一応、調べてみる価値はあるかもしれませんけれど」
「何てこった。ぬか喜びさせおって」
「こんなことで不機嫌にならないでくださいよ〜。……あっ。日付が」
「日付がどうした」
「コンテストの募集開始の日付が、ほら、十二月一日。三日前ですよ」
「それが……む? 遺体が見つかって、すでに十日ほど過ぎているんだぞ! 
計算が合わん! 十二月一日に出た文章を、十一月二十四日に死んだ人間が知
るなんてことは、あり得ん」
「ですね。しかし、実際にあの文章があった……偶然じゃないでしょうし、ど
ういう訳なんだか」
「この書き出しは、どうやって決まったんだろうな」
「え?」
「コンテスト主催者みたいなのがいて、そいつが単独で決めたのか、それとも
大勢で協議して決めたのか知らんが、ホームページで告知する前に、知ってい
た奴がいるはずだ。違うか?」
「なるほど、言われてみればそうですね。となりますと、恐らく、書き出し決
定の過程までは掲載されてないでしょうから、このサイトをやってる人物に接
触しないと」
「仮に過程が載っていても、このホームページをやってる奴に当たる必要があ
るぞ。書いてあることが真実とは限らんからな」

 推理小説の愛好家だからか、素人探偵作家倶楽部を主宰する亜木育人には、
警察から捜査協力を求められたことを、楽しむ様子が見受けられた。最初こそ
半信半疑の様子で、自ら指定した待ち合わせ場所のファミリーレストランに、
体格のいい若い男性と二人連れで現れたが、警察手帳を示されることで、警戒
を解いたらしい。
「これが警察手帳ですかあ。旧タイプのは生で見たことあるんですけどね。あ、
こいつは私の知り合いで、学生やってる岩田です。推理小説にはほとんど興味
なしのスポーツ人間ですが、今日はボディガードってことで着いてきてもらっ
たんですよ。――どうする?」
「しばらくいてもいいんだけど、刑事さんが嫌うんじゃない?」
「ああ、岩田さん。我々としても、それがありがたいですな。捜査情報を漏ら
す範囲は、なるべく狭く済ませたいので」
「分かりました。――じゃ、亜木さん。終わったら電話。忘れないでよ。いつ
ぞやみたく、忘れて置いてけぼりではたまんない」
「OK、OK。心配するな。あのときは酔ってただけ。今日はコーヒーぐらい
だろ。じゃあな。――さあ、これで心置きなく話せますよ、刑事さん?」
「本来なら、こんなところではなく、警察に来てもらって、きちんとした形で
事情を伺いたいんですがね」
「今から? まあ、行ってもかまわないですよ。あなた方が本物だってことは、
よく分かりました。ミステリ書く人間として、警察署内部って興味あるし」
「取材気分でも困りますな」
「はいはい。とにかく、そちらの意向に従いますよ。ただし、連れて行かれた
はいいが、帰って来られないって事態だけは、御免蒙ります」
「いいでしょう。幸い、客は少ないし、ここで済ませるとしましょう。確認だ
けですからな。だが、成り行き次第では、より詳しく伺わねばならなくなるか
もしれない」
「恐いなあ」
「ふん。話を聞くのは、私ではなく、こいつがやります。こいつなら恐くない
でしょう? 優男は刑事に向いてないと思うんだが」
「警部、その言い方は……まあいいか。えっと、亜木さん。身元その他基本的
な確認は済んでるので、早速本題に入りますが、素人探偵作家倶楽部では現在、
コンクールをやってますね」
「ええ。コンクールではなく、コンテストと銘打ってますが」
「書き出しだけを決めて、皆で競う」
「そうです。刑事さんがうちのサイトを見てるって聞かされたときは、びっく
りしましたよ。で、一体何なんですか。隔靴掻痒という感じで、焦れったい」
「あの書き出し、『ここには○○がなかった』云々に決まった過程を知りたい
のです。話していただけますね」
「それが、何の事件に、どう関係するんです?」
「答える義務はありませんが、協力してくださるのなら、他言無用を条件に伝
えますよ。――いいですよね、警部?」
「ああ、仕方がない。亜木さん、くれぐれも他言無用に願いします。ホームペ
ージに書くなんて、以ての外ですからな」
「見透かされてるな。いや、これはジョーク。無論、守りますよ。約束します」
「殺人事件の被害者のポケットから、あの書き出し全文がプリントアウトされ
た紙片が出て来たんです。被害者の身元が不明のため、これが手がかりになら
ないかと、あれこれ調べていたところ、そちらのサイトに行き当たったのです」
「ははあ。面白いですねえ。でも、うちのサイトは閉鎖系じゃない。誰にだっ
て目にできる。あの書き出しをメモした紙を持ってた人を、うちで特定できや
しません」
「はい。ですが、肝心なのはここからでして、被害者が遺体となって見つかっ
たのは、十一月二十四日なんです。ちなみに死亡推定時刻も、この頃でしてね」
「十一月? それはおかしいな。あの書き出しをサイトに掲示したのは、今月
に入ってすぐだったんですよ」
「察しがよくて、助かります。これは偶然とは考えにくい。そこで、書き出し
決定の経緯が重要になって来る訳です」
「ふむふむ。こりゃあ、ますます面白くなってきたな。ああ、いや、不謹慎な
のは御目こぼしくださいよ」
「いいから、早く教えてくれんか、亜木さん? あの書き出しに決まったのは
いつか。十一月二十四日以前に知り得た者がいたのか」
「そうですね、どこから話せばいいかな……。まず、あの書き出しは、私の独
断で決定しました。ただし、何もないところから思い浮かんだのではなく、登
録メンバーから募集した候補の中から、選んだんです」
「登録メンバーとは、素人探偵作家倶楽部のメンバーという意味ですね」
「ええ。応募はメールで行いましたから、候補全てを知ることができるのは、
私だけです。もちろん、漏らしていません」
「念のため、応募の締切はいつでした?」
「十一月二十日でしたね。そういう訳ですから、十一月二十四日の時点で、あ
の書き出しの文面を知っていたのは、私と『ここには○○』云々を応募してき
た人だけ、ということになる」
「応募してきた人について、知っていることを教えてください。本名や住所な
どは分からないでしょうね?」
「さすがにそこまでは。メールアドレスとその人自身のサイトぐらいだなあ。
メモする物あります? 口で言うのって、野暮ったいでしょ。ダブリュダブリ
ュダブリュドットだなんて」
「ごもっともです。これをどうぞ」
「どーもー。あ、字をじかに書くのって久々だから、手が震えるな」
「書きながらで結構ですので、もう少し質問させてもらいます。その人と実際
に顔を合わせたことは?」
「愚林檎さんとはお会いしたこと……ありませんね、確か。他のメンバーでも、
会ったことある人はいないと記憶してますよ。――書きましたよ。これで間違
いないはず。メールアドレスはサイトに行けば分かるから」
「どうも。ああ、これでぐりんごと読むんですか。愚林檎氏は、自身のサイト
でオフ会の告知をしたことはあるんですかね」
「いやあ、ないでしょう。基本的に、オフミに出て来るタイプじゃないんじゃ
ないかな。掲示板――うちの掲示板への書き込みは多い方じゃなかったが、文
章を見るとなかなか切れる感じで、頭のいい人なのは間違いない。作品にもそ
れが表れていたな」
「というと……」
「長編よりも短編が得意で、あるアイディアが最もよく光る描き方を心得てい
る。切れ味鋭い作風と言えば分かってもらえます?」
「あー、それは分かりますけど、僕が聞きたかったのは、愚林檎氏の応募した
書き出しをあなたが採用したのは、やはりそこに光る物を感じたからですか、
ということでして」
「ああ、そうですね。まあ、直感が五割以上だけど、他の候補に比べたら、断
トツでしたから。他は、えっと、『三メートルは長すぎる。雨上がりとなると
なおさらだ』とか『ノックの音がした。密室作りを急がねば』、あるいは『お
屋敷を出ると、外は大雪だった』というようなパロディ系統が多くて、笑って
しまいました」
「決定に当たって、誰かに相談したようなことは?」
「ありません。断言できます」
「パソコンの中にある文書を、盗み読みされる可能性はありませんか」
「告知を前にこしらえておいたテキストデータを読まれたってこと? いや、
それもあり得ません」
「じゃあ……警部、何かあります?」
「そうだな。その愚林檎とかいう男が」
「男とは限りませんよ」
「ああ、そうか。愚林檎は十一月二十五日以降、あんたの掲示板とかに書き込
みをしているか?」
「覚えてませんよ。連日書き込む人が突如書き込まなくなったら印象に残るか
もしれないが、ときたまだった愚林檎さんがどうだったかなんてことは、記憶
にないな。ネットカフェにでも行けば、じきに確認できますけど、何でそんな
ことを知りたがるんです?」
「愚林檎こそ被害者かもしれない、と思ったまでですよ。逆に言えば、書き込
みがあれば、被害者ではない」
「ははあ、なるほど、そう来ましたか。面白い。でも、IDだけじゃあ、完全
なる個人特定とは言えないから、たとえ書き込みがあったとしても、それは犯
人が愚林檎さんのIDとパスワードを盗み、なりすまして書き込んだ文章かも
しれない。よって、愚林檎さんが被害者である可能性は除去できないことにな
る」
「お仲間の生死について、随分と愉快そうに話されますな」
「ご冗談を。仮説を弄んでいるだけでしょう? それに、私は推理小説マニア
だから、つい、こういう話に乗ってしまうだけです」
「それなら、結構。ついでに、もう一つ。愚林檎氏が例の書き出しを、他の人
に喋ったとは考えられますかな」
「うーん、それはどうでしょう? 他のメンバーに明かすようなことはしない
と思いますよ。推理小説マニアに対して、ライバル意識を秘めているようだか
ら、書き出し程度のことでも口を割らないでしょう。だけど、推理小説に興味
ない人が相手なら、ぽろっと言っちゃうかもしれないな。あの人の私生活とい
うか実生活までは知りませんしねえ」
「あの、警部、いいですか?」
「おう、何だ」
「いっそのこと、こちらの亜木さんに、愚林檎氏へメールでアプローチしても
らってはどうです? 我々が一から接触していたら、また手間が掛かりますよ」
「そうだな。亜木さん、どうですか。あなたと同じ推理小説好きなら、捜査に
関われると聞けば、愚林檎氏も喜んで協力してくださるはずだ」
「多分。ですが、私が言っても信じてくれるかな。私達はサイト上で、自分の
作品で、いかに読者をだますかを競ってるようなものですから」
「作品じゃない。メールでしょうが」
「そりゃそうですけど、メールによる凝った引っかけだと思われるかもしれま
せんよ」
「もう、細かいことをごちゃごちゃ言っとらんで、やってみればいい。だめだ
ったとしても、そのときはそのときだ」
「はいはい。それじゃ、ネットカフェに移動しますか。最初から、あっちを待
ち合わせ場所にしておけばよかったな」

 新潟から駆け付けた愚林檎こと志賀弥彦は、やせぎすで神経質そうな印象を
与える外見だった。加えて、深緑色のコートに毛糸の手袋と帽子、マフラーと
いう防寒装備で固めているため、ひ弱にも見える。だが、口を開いてみると案
外、人懐こいところがあった。亜木が評した通りに、彼が切れ者だとしたら、
これら全てが計算尽くなのかもしれないという想像もできた。
 遺体の確認に当たったときは、少し息を飲んだだけで、一言、弟の納男のよ
うですと冷静に答えた。根拠を尋ねると、衣服を挙げた。十一月十六日に突然、
実家に帰って来た弟にスーツを貸してくれと請われ、応じたという。
 正式な身元確認は、新潟の実家から指紋を採取し、遺体のそれと照合するこ
とでなされよう。現段階では、被害者は志賀納男と仮定した上で、その兄に質
問をぶつける格好となる。
「新潟は寒いようですね」
「あ、この格好ですか。単に私が寒がりなだけです。新潟に比べれば、こちら
はだいぶましだが、私はだめです。冷え性で、十一月も半ばを過ぎると、手袋
と厚手の靴下、それにポケットサイズの洋酒が手放せません。日本酒造りに携
わる人間としては、失格かもしれないが」
「弟さんも寒がりでした?」
「いえ。一家の中で、私だけです。脂肪が少ないからでしょうね。だが、ご覧
の通り、やせの私が寒さに弱いのは不幸中の幸いでね。雪かきは弟任せだった」
「その弟さんは、いつ、こちらに出て来て、何をしてたんです?」
「……高校卒業と同時だったから、四年になりますか。中学一年の頃から、バ
ンド活動にのめり込み、最初はギター、最終的にヴォーカルに落ち着いて、や
っていたようでした。仲間三人か四人とともに、東京に出て行った。親の反対
を押し切ってというやつです。生活費はアルバイトで稼ぐしかなかったと思う
んですが、私は詳しくありません」
「あなた自身は、弟さんの音楽活動に賛成でしたか」
「反対ではなかったです。私も大学卒業までは、好きなように親に生きさせて
もらいましたから。今は家業を継いで、真面目に働いているつもりです」
「ご実家は造り酒屋でしたな。後継者が決まっているのだから、親御さんも納
男さんには好きにさせていいんじゃないかとも思えますが」
「やはり、不安定というか、先の見えにくい方面だからでしょうね。プロのミ
ュージシャンとしてやっていくなんて、そう易々と叶う夢じゃないでしょうか
ら、親としては反対せざるを得なかったんだと思います」
「十六日に帰って来た弟さんを、親御さん達はどのように迎えたんですか」
「最初は何とも言えない渋い顔をしていましたが、弟が得意げに、デビューで
きるぜと切り出したものだから、驚くやら疑うやら喜ぶやら……妙な空気でし
た。ああ、スーツを借りに来たのは、デビューのことと関係しているんです。
何とか言う業界の偉い人と伝ができて、その人ともども、さらに偉い社長か何
かに会いに行くことになったから、スーツが必要だと言うんです」
「それなら、弟さんはその偉いさんの名刺の一枚ももらっていたでしょう。ご
覧になりました?」
「いえ。私や父が、名刺を見たいと求めたのですが、弟は、バンド仲間の誰そ
れが持っているから無理だ、と。リーダー格の子が預かっていたようです。あ
の、刑事さん達は、弟にデビューの話を持ち掛けた連中が怪しいとお考えなの
でしょうか」
「現在のところ、思い付く限りの可能性を追っているだけです。大変心苦しい
のですが、あなた自身のアリバイも伺おうと考えていました。念のためですの
で、お気を悪くなさらずに」
「確かに、心外ではありますね。だが、それが刑事の仕事だと言ってしまえば、
仕方がありません。二十四日の私の行動を言えばいいのですか?」
「はい。午後から夜中までで結構です」
「二十四日と言えば……日曜ですか。ああ、あの日は、朝から商談で忙しかっ
たんだ。九時過ぎに自宅を出て、泊まり掛けで関東方面に売り込み行脚でした」
「関東方面?」
「東京、千葉、神奈川を、この順に回りました。最後の人との話が終わったの
が、午後七時を過ぎた頃だったかな。今日みたいに寒くて、震えていたのを覚
えています。商談相手に当たって裏を取りたいのでしたら、連絡先は少々待っ
てください。自宅に帰らないと、会った場所を含め、正確なところを思い出せ
ませんので」
「えっと、その辺も伺いますが、肝心なのは夜になってからですから、どこで
お泊まりになったのかを」
「上野駅近くのビジネスホテルです。証人は……いないでしょう。八時半ぐら
いにチェックインして、あとはずっと部屋に一人でしたから。残念ながら、ア
リバイ不成立のようです」
「そんなに気を落とされると、こちらも……。アリバイがないからと言って、
即座に容疑者とする訳じゃありませんから。あくまで形式的なものです」
「私も推理小説を書く身ですから、その程度のことは承知しています。それよ
りも、今、気落ちしたように見えたとしたら、それは納男のことを考えたから
ですね、きっと。もしあの日、あの夜、私が納男と会って、飲み明かしでもし
ていたなら、あいつはこんな目に遭わずに済んだかもしれない、と」
「責任を感じる必要は、全くありませんよ。えっと……話を弟さんのことに戻
します。スーツを借りていった弟さんから、その後、連絡は?」
「ありませんでした。こちらから尋ねることもしませんでしたし……。だまさ
れていないことを祈るだけだった」
「弟さんのこちらでの住所と……あと、バンド仲間の人に連絡が付きますか?」
「あ、いや、私は把握してません。家に帰って、弟の持ち物を調べれば何か分
かるかもしれない」
「確認しますが、住所も分からないのですか?」
「はい。お恥ずかしい話になりますが、最初の頃は引っ越しをしても弟から知
らせてきたため、把握できていました。しかし、誰でも彼でも携帯電話を持つ
ようになった頃から疎遠になり、弟がどこに住んでいるのか、分からなくなっ
た有様でして」
「そうですか。では……警部?」
「うむ。――志賀さん。弟さんに貸したのは、スーツ一式だけですか」
「はい。ネクタイやベルトを含めて」
「靴は?」
「靴は、訪ねてきた日に買いに行きました。私や父と、弟とでは、サイズが合
わないのです」
「了解しました。弟さんとスーツを返す約束はなさいましたか?」
「いえ。返すのはいつでもいいと言って貸しました。他にも二着ありますし、
半ば、弟にやるつもりだったかもしれません。意識はしてなかったが……」
「それでは、スーツのポケットに、書き出しを印刷した紙片を入れていたのは、
どうした訳からですか」
「ああ。スーツは、弟に貸す前日、私が少し使ったばかりでした。酒の品評会
に出席しましたもので。そのとき、暇があったらあの書き出しで始まる小説を
考えようと、メモとしてポケットに入れておいたんです」
「あの書き出しがテーマに採用されるのか、不確かなのに?」
「それは関係ありません。採用されなくても、私は私が思い付いたフレーズで
書いてみよう、と考えていました。サイトの作品テーマに選ばれたのは、偶然
ですよ」
「ポケットの内布が破れて、穴が空いていたのは、お気づきでしたかな」
「いや、知りませんでした。品評会が終わって帰宅し、スーツをハンガーに吊
り下げたあとは、メモの存在をすっかり失念してしまいました。家の中なら、
書き出しの文面を確かめるのは簡単ですからね」
「弟さんに貸す前に、ご自身の物をスーツから全部取り出したはずですね? 
たとえばハンカチや万年筆……」
「そうしましたが」
「そのときも、気付かなかったと?」
「穴には気付きませんでしたね」
「ああ、失礼。穴のことではなく、紙片です。ポケットの裏は濃い藍色で、紙
は白。あれば、気付かないはずがない」
「……気付かなかったな、うん。恐らく、そのときすでに、穴から内側に入り
込んでいたのでしょう」
「紙片が穴から入り込んで、見当たらなかったことはいいとしてですな。あな
たご自身は、紙片をポケットに入れたままだったことを、思い出されなかった
のですかな?」
「言われてみれば……不思議なもので、頭の片隅にもなかった。多分、弟が急
に帰ってきたから、私も少なからず動転していたのでしょう」
「なるほど。落ち着きのある方とお見受けしますが」
「いや、今も、心は乱れています。弟の死の知らせに加えて、こうして刑事さ
ん方から事情を聴かれるというのは、精神的に疲れます」
「これはこれは。どうもいかんな。この辺りで切り上げるとしましょう。とり
あえず、質問のネタも切れてきたことだし。今夜はこちらでお泊まりの予定で
したな?」
「ええ。ホテルに戻ったら、あちらこちらに電話をしなければなりません。弟
のバンド仲間の人達について、何か分かったら、すぐにでもお知らせした方が
よろしいでしょうね?」
「そうしてもらえると、助かります。連絡先をお教えしておきましょう。――
おい、紙とペンだ、早く!」


――続く





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