AWC そばにいるだけで 59−5   寺嶋公香


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#61/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  02/03/30  03:05  (431)
そばにいるだけで 59−5   寺嶋公香
★内容
 最初は会場の大半を道場の関係者が占めていたが、セレモニーが終わる頃に
なると、純子のような道場生の知り合いや家族といった風情の人達も、ぽつぽ
つと集まり始め、試合の準備が整ったときには、それらはかなりの数に上った。
「大会でもないのに、結構な人出だわ」
 無意識の内につぶやく。予想を超えた盛況ぶりに、純子は体育館の中をぐる
りと見渡した。一階のフロアは無論のこと、二階の手すりにまで、人影がたく
さん確認できる。
「新年会と言えばいいかな」
 目の前に誰か来たと思ったら、声を掛けられた。望月だった。
「望月君、用事はもうすんだの?」
「そ。実を言うと、相羽のセコンドに俺もついてやろうと思ってたのに、あい
つめ、断りやがった」
「じゃあ、セコンドなし?」
 試合場のマットに目をやる。選手も審判もまだ出て来ていない。
「いいや。人数の問題だな。津野嶋の方はセコンドが二人なんだ。それを知っ
たからじゃないか」
「よく知らないんだけど、セコンドの多い少ないで、大きく違うものなの? 
そりゃあ、ラウンドとラウンドの間の休憩のときには、大勢がいる方が楽でし
ょうけど」
「違うんだな、これが。セコンドがアドバイスを飛ばすことがある。優秀なセ
コンドほど、的確なアドバイスができ、差が出るものなんだ。打撃、寝技、そ
れに防御……それぞれの専門家がいた方が有利だろ」
 純子は得心し、改めて試合場に意識を向けた。ちょうど両選手が登場してき
たところだ。望月がつぶやく。
「津野嶋、気合いが入ってるな」
 その言葉の通り、足早に現れた津野嶋は厳しい顔つきで、両拳を合わせる動
作を繰り返していた。乾いた音が館内に響く。気負いすぎということはなく、
闘志に溢れた様子だ。
「打撃勝負で行くつもりか」
「そんな。相羽君は打ちたくないはずなのよ」
「と言われても」
 困惑の笑みをなした望月。純子は頭を動かし、相羽に視線を注いだ。
 自然体とでも言えばいいだろうか。津野嶋とは対照的に、淡々とした体で歩
いてくる。ただ、感情をぬぐい去ったような顔つきは、普段のそれではない。
真一文字に結んだ唇に、秘めた思いが間違いなく存在する。
「相変わらず、読めないな、あいつは」
 呆れた口調で、望月。いや、感心しているのかもしれない。武道にあって、
己の心理を敵に悟らせないというのは、長所のはず。
「勝つ、よね?」
 振り向きもせずに、望月に聞いた。試合場では、相対した二人の男が、審判
の注意説明を受けながらも、すでに勝負に集中し始める。
 望月が怪訝がる響きを含んだ声で、聞き返してきた。
「勝ち負けよりも、無事でいればいいんじゃなかったっけか」
「そうだけど。でも、勝ってほしい……」
「それもそうか。まあ、俺は格闘技評論家ではないんで、どっちが有利かなん
て分からんとしか答えようがない。だが、どっちが勝つかと聞かれれば、相羽
と答える。応援してんだから、当然さ」
「……」
 純子はまたもや不安を抱かずにはおられなくなったが、その一方で、強く信
じようと思った。
 相羽がきっと勝つ、と。
「始め!」

           *           *

 前の日までは、全てをシャットアウトして、闘いに精神集中したいと念じて
いた相羽だったが、今は少々違った。
 心境が短時間の内に何故変化したのか、自分でもよく分からない。
 柔斗の試合はこれで最後にするつもりだから悔いの残らないようにしようと
か、拳をなるべく使わずに闘うための作戦がうまく行くかどうかとか、様々な
思いはあった。けれども、それらは心境の変化とは関係ないようだ。
 ただ、純子との仲に暗雲が垂れ込めたときは、一時的に落ち込んだ。その後
も仲直りの機会は得られず、応援には来てもらえないだろうなと、あきらめが
ついたあと、やっと平常心に戻れたようだ。
 間違いなく言えるのは、もっと余裕を持って試合に臨みたい。現在の相羽が
そう感じ始めていたこと。
 相羽は入場後、マットに足を踏み入れて、ようやく、最前列にいる純子の姿
に気付いた。
(応援に来てくれたんだ)
 目が合った。すると、彼女が微笑むのが見えた。気のせいではない。
(応えたい)
 相羽にとって、一番自然な心の動き。精神面でのさらなるリラックスを得た。
集中力はすでに高まり、思い掛けず純子を見つけた乱れによる悪い影響も、ご
くわずか。じきに修正できた。これで力を出し切れなければ嘘だ。
 試合形式は一ラウンド三分の三回戦。以前闘ったときよりも、ラウンドの制
限時間が一分多いのは、二人とも高校生になったから。
「始め!」
 相羽はいきなり踏み込んでいった。まず、右からの打撃を繰り出す。思い切
り打ち込んでいく。
 大振りのハンマーフック。
 津野嶋は上体だけを動かし、余裕を持ってかわした。
 場内がどよめく。

           *           *

(相羽君!)
 純子は文字通り、手に汗を握った。
 相羽の大きなモーションのパンチに、周りがどよめく。
 それは歓声ではなかった。
 確かに相羽の攻撃は見栄えのするもので、一撃必倒の力さえあったかもしれ
ない。ただし、それもこれも当たっていればの話。空振りでは意味がない。ま
た、津野嶋のよけ方が素晴らしく巧みだったわけでもなかった。
 最初からいきなり大振りで出て行った相羽の戦法に、疑問符を投げかける意
味でのどよめきである。
 もちろん、格闘技に関して全くの素人である純子にとっては、そんなことは
分からない。でも、相羽の攻め方に疑問を抱いたのは、他の者達と一緒だった。
(どうして殴ろうとするのよ? 手を痛めないようにしないといけないんじゃ
ないの?)
 望月に聞いてみてもいいのだが、試合から目を離すのが惜しい。
 と、その望月のつぶやきが聞こえた。
「津野嶋の奴、笑った」
 え?と意外に感じる。勝負の――それも格闘技の――最中に笑うなんてこと
があるのだろうか。すぐに見てみたが、津野嶋の表情はもう勝負に徹した真剣
そのものになっていた。
「先制パンチに驚いたが、相羽の意図を読み取ったってところかな」
 今度の望月の声は、明らかに純子への説明が目的のようだ。純子は視線を動
かすことなく、聞き返す。
「どういう意味? 教えて!」
「津野嶋は、手による打撃はない、あっても思い切りは打ち込んでこないと踏
んでいたはず。その思い込みを利して、相羽は勝負に出た。ヒットしなかった
ものの、津野嶋に警戒心を抱かせるのに充分だ」
 早口で言い終わると、望月もまた試合に集中する。
 彼による解説を咀嚼する純子の眼前で、相羽が相手との距離を詰めた。かと
思うと、再び大振りのパンチを繰り出した。今度もステップバックすることな
く、上半身のスウェイのみでかわそうとする津野嶋。
 相羽の右はまたも空振り。だが、その勢いで前のめりになった相羽は、振り
向きざま、後ろ回し蹴りを出した。それも頭部を狙ったハイキック。
 打撃はパンチのみと誘導されていた津野嶋が、慌て気味にガードを上げる。
一瞬遅れた。踵が額をかすめる。
 すんでのところで頭を引いたので、ダメージはさほど受けなかったが、予想
外の攻撃をもらったことによる動揺が大きいだろう。
 津野嶋は両腕を顔の前に掲げ、身を縮める風にしてガードを固めつつ、相羽
との距離を詰めようとし始めた。
 一方、相羽は打撃戦を望んでいるのか、つかず離れず、後ずさりして相手と
の間を一定に保つ。体格差や技術の違いはそれほどないが、伸びのある拳や蹴
りを放てる分、この距離なら相羽が有利。
 だが、これでいいはずがない。相羽が拳を思い切り打ちたくないのは、津野
嶋も心得ている。先制の打撃を放ってみせたのは、拳も使えるんだというとこ
ろを示し、警戒させる意図があってのこと。試合を通して、ずっと同じペース
でパンチを繰り出せるわけがなかった。
「判定勝ち狙いなのかな、相羽は。しかし、スタミナ面から言っても……」
 怪訝そうに唇を尖らせる望月。不満そうと言い直す方が正しいかもしれない。
「これって練習試合のようなものなんでしょ? 判定なんてあるの?」
「練習試合じゃない。同門とは言え、本気でやってる。当然、白黒はっきり着
けるんだ」
 一ラウンドも後半に入り、体力を消耗したのか、相羽が試合場の角に追い詰
められるシーンが多くなる。津野嶋が軽くジャブを放つと、相羽も反応してパ
ンチを前に。そこへすかさず、下半身を狙ったタックルに行く津野嶋。相羽が
膝を合わせようとすると、津野嶋は胴タックルに切り換えた。こらえる相羽。
逃がれるために試合場の外に踏み出せば、減点は免れない。
「得意の寝技に持ち込む気だ。相羽もグラウンドはうまいが、津野嶋の方が一
枚上手だろうからな」
「相羽君よりも上手なの……?」
 純子は相羽の寝技を、道場でなら見たことがある。ただし前回応援した相羽
と津野嶋の対戦では、一度もグラウンドの展開にならなかったため、津野嶋の
寝技の方は未見であった。
「がんばって!」
 思わず、叫ぶ。
 試合場では、相羽が敵を受け止め、足を踏ん張り、耐えていた。がっぷり四
つの体勢を経て、津野嶋が両脇に手を差し入れることに成功。相羽は首相撲で
応戦する。
 津野嶋が相羽に足を外から掛けると、両者もつれ合う形で倒れる。どちらが
上になるということはなく、相羽は身体の左側、津野嶋は右側をマットに着け
た状態。有利なポジションを取ろうと、ともに素早い動きで上体を起こす。
「おかしいな。相羽の奴、スタミナ切れで追い込まれたのかと思ったんだが」
 望月の口ぶりが怪訝さを帯びた。その通り、相羽の動きは落ちていない。津
野嶋のスピードについて行く。結局、グラウンドでの先手争いは決着せず、互
いに相手の肩や胴に腕を回したまま、ほぼ同時に立ち上がった。
 拍手が起きる。
 その刹那、隙を衝いて、津野嶋が再び足を今度は内側から掛けてきた。一瞬
力が抜けた相羽は、きれいに仰向けにされてしまった。
「ああ!」
 津野嶋が上で、相羽が下。純子にも相羽の不利は理解できる。
 腹に乗った津野嶋を、相羽は足を使ってガードする。が、津野嶋はそれを振
り払って、拳を落しに掛かった。ヘッドギアを着けているとは言え、パンチを
食らうのはきつい。
 純子はもう声も出ない。それでも、目を閉じたり背けたりすることはなく、
じっと見つめる。
 今にも、相羽の頭部にパンチが当たる――その瞬間、ゴングが鳴った。いつ
の間にか三分が経過していた。審判に指示されるまでもなく、別れる両者。
「救われたな」
「危なかった……」
 純子は両手で口元を覆い、深くため息をついた。ラウンド終了間際の十秒間
ほどは、呼吸を止めていたようだ。
「心配なら、相羽のそばに行ってやれば?」
 本気ではないのだろう、望月が持ち掛けてくる。純子は真剣に応じた。
「ううん。ここからの方がいい。近くに行けば、余計に不安が募りそう」
「相羽は元気づくかもよ」
「私がそんなことしなくても……相羽君は勝つわ、きっと」
 純子が言い切ると、望月は「へえ?」と意外そうな声を上げる。身体の向き
を換え、重ねて聞いてきた。
「急に自信満々になった感じ。何でまた……?」
「そう思うんだもん。理由なんかない」
 望月は短く口笛を吹いた。
 程なくしてインターバルの時間が過ぎ、セコンドアウトの合図がなされる。
 純子はいきなり、立ち上がった。両手を口元に添えてメガホンのようにし、
大きな声で叫ぶ。
「相羽君! 勝てーっ!」
 館内がどっと沸く。それまでは闘いに静かな熱視線を送るだけだった観衆が、
一転してにぎやかになる。純子の口ぶりを真似て「津野嶋君、勝て」と野太い
声が飛んだが、これは津野嶋と同じ道場の者の仕業だろう。
 顔を赤らめた純子に、相羽は左手を軽く挙げて応える。その目に安心させら
れる。
(勝って!)
 心中で祈り、腰をすとんと落とす。望月から何か言いたそうな気配が漂って
きたが、ゴングにかき消される。二ラウンド目の開始。
 相羽は前ラウンドとはがらりと戦法を変えてきた。いや、最初の一手こそ、
同様の打撃だった。飛び込むようにして右ストレートを打っていく。
 虚を突かれた津野嶋が、それでも冷静にガードの体勢を取ったところで、相
羽の攻めはタックルに移行。足を掛けて倒すことに成功した。腹の上に跨ると、
重心を移しながら、相手をコントロールしようとする。
 津野嶋もさるもので、拳を落とされる前に、身体を若干横向きにし、背を丸
めたり伸ばしたりを連続して行う、海老のような動きで脱出を計る。
 させじと、うまく体重を載せる相羽。
 と思った瞬間、相羽は腰と足の位置をずらして、津野嶋の左足を左脇下に抱
えると、今度は右手で相手の左腕を掴む。間髪入れず、津野嶋の体の左側に倒
れ込むような形で、腕ひしぎ十字固めを狙う。
 津野嶋の反応も早かった。完全に極められる前に、己の左手首を右手で掴み、
ロックする。
 これを相羽は力尽くで無理矢理に切ろうとはせず、左脇で敵の左ふくらはぎ
を挟み直すと、アキレス腱を固める気配を覗かせた。
 津野嶋はこの罠に惑わされることなく、左腕の防御に専心する。
 加えて、隙を衝き、身体を起こそうとするが、相羽もそこまで許しはしない。
左大腿部で津野嶋の首を刈る形で、再度、押し倒す。
 相羽はそこから連続した動きで、敵のロックを解きに掛かった。力任せにで
はなく、テクニックを駆使して。
「相羽の得意な展開だな」
 望月が解説をしてくれる。
「津野嶋にとって力を入れにくい方向へ腕をずらしたり、逆に腕を向こう側に
押し込んだり、あるいは津野嶋の指そのものを攻めたりしながら、左腕を伸ば
しきろうとしてるんだ」
「それができれば、勝てる?」
「多分な。でも、相手はあの津野嶋だから、単純に技術だけでは難しいかもし
れない。むしろ、防御法を当然、心得ているに違いないと考える方が妥当だし、
安全というもんだ」
「じゃあ、見込みは薄いってわけね……」
「いや、そうでもないさ。心理的な技術ってのもある。相手の呼吸を計りなが
ら、気が抜けた瞬間を見計らって、切る。相羽は敵の呼吸を計るのがうまい。
重要なのは、津野嶋がそれを易々とさせるかどうかだ」
 彼が喋る合間に、新たな展開があった。
 相羽が左の膝や踵を相手の脇腹に押し当てることで痛みを与え、隙を見い出
そうとする。津野嶋は呼吸を止めてこらえる。が、ほんの一瞬、緊張が途切れ
たらしい。
 そこを逃さず、相羽は敵の右手首に手刀を叩き込むと、一気に左腕を引っ張
り、絞り上げた。
 極まる!と思われたその刹那、津野嶋は左腕を引かれるのにタイミングを合
わせ、全身を起こす。相羽も足に力を込めたようだが、それをものともせず、
前屈みの体勢ながら立ち上がることに成功した。
 津野嶋は相羽の股の隙間から、パンチを勢いよく落とそうと、右拳をコンパ
クトに振り被った。
 相羽は左足で相手の右足甲を蹴り、バランスを崩させる。津野嶋の動きが止
まった。その間隙を衝き、相羽が今度は津野嶋の左手首を捻る。再度横倒しに
されそうになる津野嶋。だが、両足を前後に大きく開いて踏ん張り、回避した。
 続けざまに、三角絞めへの移行を試みる相羽。右足を膝から曲げて、そのふ
くらはぎを相手の後頭部に掛けるや、左足を己の右足首に載せた。そこから徐
徐に絞り上げていく……。
 津野嶋は相羽の両足から頭を力任せに抜き、振りほどいた。パワーに感嘆す
る余裕を誰にも与えず、相羽の片足を取ってアキレス腱固めをちらつかせつつ、
上のポジションを取った。形勢逆転。
 しかし相羽の反応も速い。空いている左の足を津野嶋の右肩に引っかけると、
まるで後ろ回りのような動きで、敵の股下をくぐって脱出。
 この時点で互いに背中を向け合う形になるが、両者ともすぐさま向き直った。
 相羽は完全には立ち上がらないまま、サイドキックを放つ。様子見の構えだ
った津野嶋は、その攻撃を下がって避けると、一転して前に出た。左右の腕を
伸ばし、またも組み伏せようとする。
 相羽は足を使って、津野嶋が前に突き出した二本の腕の内、右の方をからめ
取った。ブレイクダンスにある、背中で独楽のように回転する動きにも似て、
身体の位置をスライドさせると、足で津野嶋の右肘関節を極めにいった。
 自ら前方に回転することで、逆関節を逃れる津野嶋。
 その上を取ろうと、身を起こす相羽。
 津野嶋は相羽の立ち位置とは反対向きに身体を丸めたかと思うと、突然、左
右の足を時間差で後方に振り回した。まるで草刈の鎌だ。刈られるその草が、
相羽の両足。
「ああっ!」
 勝手に叫び声が出た。次の瞬間には息を飲み、沈黙する純子。手は右も左も、
強く握られている。
 不意を衝かれた相羽は、受け身を取るのが精一杯だった。反応が遅れ、津野
嶋に上を許してしまう。しかも、横四方の体勢。ここからの攻撃はバリエーシ
ョンに富む。あらゆるパターンに即応して防御しなければ、技を極められる危
険性が一挙に高まった。
 津野嶋は最高のポジションを得て、攻め急ぐことなく、相羽の動きを観察す
る。どこをどう攻めれば最も効果が上がるかを見ているようだ。恐らくは、関
節技での決着を狙っているはず。
 ところが、津野嶋側のセコンドから、「残り二十秒!」との声が飛んで、状
況に変化がもたらされる。
 じっくりと出方を見るのをやめ、津野嶋は片方の膝を高く振り上げた。膝頭
の標的は、相羽の右側頭部。これを食らったら、いくらヘッドギア越しでも、
相当なダメージを受けるのは確実だ。下手をすると、そのままノックアウト負
けもあり得る。
「危ない!」
 純子の悲鳴が届いたのか、相羽は頭の位置をずらし、すんでのところで回避
する。今まで頭部のあったマットに、膝が突き刺さった。
 津野嶋は躍起になって、膝を続けざまに投下してくる。新たに狙いを定めた
にも関わらず、当たらない。その都度、相羽が冷静にかわす。
 ついに、二ラウンド目もタイムアップを迎えた。
「また救われたぜー」
 望月が叫ぶように言った。まるで自身が闘っているかのように、肩で大きく
息をする。隣では純子も同じ気分でいた。動悸が瞬間的に激しくなり、たった
今、落ち着きを取り戻そうとしている。
「涼原さん?」
 望月の呼ぶ声が聞こえる。でも、口が動かなかった。
「涼原さん……声も出ないか、心配で。でも、あんだけやられそうになっても、
よく目を逸らさずに――」
「ううん」
 遅ればせながら、首を振って返事する。相羽から目を離せないので、上の空
のように見えるかもしれない。
「心配なんかしてない。相羽君が勝つから」
 純子のきっぱりとした答。望月は呆気に取られたみたいに胸を反らしたが、
じきに苦笑いを浮かべた。
「ちょっとくらい攻め込まれて危ない場面があっても、信じる気持ちは揺るが
ず、か」
「約束したから」
「なぬ、約束? 昨日もさっきも、そんなこと一言も言ってなかったような」
「相羽君が言ったの。勝つって」
「……嬉しそうに言うなあ。そんな顔されると、俺でさえ羨ましくなる」
「嬉しそうだなんて……普通よ。――と思う」
 普通じゃないのかなという思いが脳裏をすーっとよぎり、純子の話口調をお
かしくさせる。ほっぺたを手の平でこすった。それでも真っ直ぐ相羽を見つめ
たままだった。
「しかし、勝つとなると、次のラウンドで一本を取りに行くべきだろうな」
 望月もまた視線を試合場に向け、腕を組んだ。
「判定だと、ちょっと分からん。微妙な差で津野嶋に逃げ切られるかも」
「互角に見えるんだけど、私のひいきめなのかな」
「そうだなぁ。実際に受けたダメージは、変わらないと思う。ただ……うちの
場合、判定に具体的な物差しがあるわけじゃない。あ、もちろん、ダウンを奪
えば別だが。ダウンを除いたら、柔道で言うような技有りなんかはない。だか
ら、印象点になる。相手にどれだけダメージを与えたか、どれほどひやりとさ
せたか等を見る。そのアピールの仕方が、津野嶋の方が上手のように、俺の目
には映るんだ」
「よく分からないけど……望月君が言うのなら、そうなのね」
「こう言えば分かるかな。審判員の先生方は、相羽にはうまさを、津野嶋には
強さを感じる」
「そっか。うまさより強さを取るのね、判定になったら」
 ニュアンスは掴めた。けれども、満足してうなずいている状況にない。純子
は立ち上がった。
 今度は、両手を握って力を入れる。息を吸い込み、胸を反らし気味にして、
大声を張り上げた。
「相羽君! 次で倒せーっ!」
 空気が震える。ボイストレーニングの成果が、思わぬ形で出たようだ。一度
目に叫んだときよりも、さらに注目されてしまった。
 でも、いくら注目されても、気にならない。声援が相羽に届いたかどうかの
方が大事だ。
 彼が気が付いて、目線を向けてくれたのを認識し、純子は座った。
「すっごい声量だな」
 望月が呆れたように感想を述べる。「見かけによらず、大胆な。雰囲気に慣
れて、大声を出せたのかい?」
「しっ。始まるわ」
 純子は腕を伸ばし、指差した。
 相羽と津野嶋が中央に出て来て、オープンフィンガーグローブを合わせる。
時間がもったいないとばかり、すぐさま距離を取った。
 津野嶋が円を描くように右回りに歩き始めたが、相羽は応じない。仕方なく
足を止め、津野嶋は腕を上げてガードを固めた。そのままボクシングの要領で
身体を左右に小刻みに揺らしながら、近付く。もらう打撃を最小限に抑え、懐
に飛び込んで寝技に引きずり込む戦法を貫く。
 津野嶋に対して、相羽は軽いジャブを放つ素振りを見せた。と思えた次の瞬
間、相羽からタックルを仕掛けていった。
 意識の空白を狙われた津野嶋は、受けの姿勢へ移行するのが遅れた。ほぼ棒
立ちで、タックルを食らう。にも関わらず、持ちこたえて立っていられるのは、
足が揃っていないから。相羽は両足が揃ったところを狙ったはずだが、津野嶋
もとっさに前後にずらした。
 相羽の背に覆い被さって、タックルを切ろうとする津野嶋。だが、相羽は両
腕を封じて、思うようにさせない。
 やがて津野嶋は踏ん張る姿勢のまま、じりじりと押され始める。このまま場
外に出た場合は、津野嶋の逃げとは見なされない。タックルを必至に耐えてい
るのが明白だからだ。逆に、相羽が敵を無理矢理外に押し出したとされ、悪く
すると減点もある。
「津野嶋ほどの試合巧者なら――」
 ルールについてざっと説明したあと、望月は付け加える。
「無理矢理場外に押された、と見せかけることだってお手の物だろう。相羽も
分かっているとは思うが……タックルをしたなら、早く転ばさないとやばいな」
「大丈夫」
 具体的な根拠はない。勘だけで純子は断言した。そしてその言葉が、空気に
消えるか消えないかの内に、相羽が新たな手に出る。
 押し込み一辺倒だったのが、突如、引き付けに掛かる。バランスを崩しそう
になった津野嶋だが、予測の範囲内らしく、巧みな足さばきで着いていく。
 相羽の狙いはしかし、津野嶋の体勢を崩して転倒させることではなかった。
津野嶋の胴を両腕ごと締め付け、引き寄せると、一気に引き抜いた。津野嶋の
身体が宙に浮き、舞う。
 観ている者の多くが、「あっ」と声を上げた。
 相羽の身体が活きのよい海老のごとく反り、橋を形成する。その動きに合わ
せ、弧を描く津野嶋の身体。一秒あるかないかの出来事なのに、スローモーシ
ョンのように見えた。
 相羽は最後まで腕のロックを解除せず、相手を背中からマットに叩き付ける。
低い呻き声を漏らす津野嶋。腕を左右とも殺されているため、受け身を完全な
形で取れなかったのだ。
 さらに相羽は機敏な動きで身体を反転させると、上四方固めの要領で押さえ
込みに入ろうとする。が、体重を掛ける寸前に、津野嶋はブリッジをして脱出。
彼の首のばねには脅威的なものがある。
 まだ背面に痛みが残るのか顔をしかめているが、素早く立ち上がって離れよ
うとする津野嶋。相羽はその足を取りに行った。
 ところが、ここで主審からストップの声が掛かる。
「え? 何で? 相羽君が攻めてたのに」
「……津野嶋が怪我だな。その具合を見るため、時計を止めたんだ」
 望月の言うように、津野嶋の左肘から出血した模様だ。純子のいる位置から
でも、はっきり分かるほどに赤い。プロの試合なら止めない程度の出血量では
あるが、アマチュアの、しかも高校生同士の試合となると安全第一であるため、
チェックがすかさず入る。必要ならば、簡単な治療も認められる。
「こすったな。ブリッジをしたときに無理な体勢になったのか、その前に投げ
られたときか」
「勝敗には無関係よね?」
「もちろん。偶然のバッティングなど、不可抗力でひどい負傷をした場合は、
その時点で試合を終了し、判定を下すが、今のは当てはまらない」
 確認を取って、安堵した純子。もしも中途半端な形で終わったら、相羽に未
練が残るだろうと思った。完全燃焼してほしい。
「ただなあ、この中断が吉と出るか凶と出るか……相羽はペースを掴みかけて
いただけに、どうかな」
「望月君も同じ道場なんだから、応援してよ!」
「俺は冷静に分析してるだけなんだが」
 苦笑混じりに言い、二の腕辺りで口元を隠す望月。
 試合の方は、津野嶋の肘に四角い絆創膏が貼られ、再開を待つばかりとなっ
た。中断した時点の状況をなるたけ再現すべく、主審や副審達が、細かな指示
を出す。双方のセコンドも時折声を上げて、時間を要した。
「始めっ!」
 主審が両腕をクロスさせ、いよいよ再開。
 足取りに来た相羽の首を、津野嶋は右脇で抱え込んだ。ギロチンチョークと
いう名称の締め技の形になる。完全に極まれば、寝ていようが立っていようが、
相手を落とせる。
 一転してピンチに陥った相羽。
「相羽君!」
 叫ぶ純子。館内のあちらこちらからも、「相羽!」と声援が飛ぶ。それに負
けないくらい、津野嶋を後押しする声も上がった。
 相羽はパニックにならず、冷静な対処を見せ始める。左手を相手の右膝裏に
通し、足を抱え込む。右腕は相手の背中へと回した。と思った途端、津野嶋が
再び宙を舞う。反り投げだ。またもや相羽は、津野嶋を後ろへ投げ捨てること
に成功した。
 津野嶋は最前投げられた際の痛みの感覚を思い出したのか、とっさに受け身
を取る。これでダメージは最小限に押さえられたものの、技を解いてしまった
ことにもなる。
「すげえ。あいつ、いつの間に、あんなパワーを身に付けやがった! 津野嶋
に対して投げ技に活路を見い出すとは」
 常に一緒に練習している望月まで、感嘆の声を漏らす。
「予想の付かない動きをしやがる。これなら行けるかも」
「津野嶋選手に勝てる?」
「ああ。判定になっても、天秤はこっちに傾くかも。だが、津野嶋だって一筋
縄じゃいかねえ奴だからな。何か仕掛けてくるに違いな――お?」
 望月を絶句させたのは、津野嶋がいきなり大振りのパンチ攻撃に出たため。
見え見えの軌道で飛んでくるフックを、相羽は余裕を持ってかわした。拳に体
重を乗せていたせいか、前によろける津野嶋。相羽に背を向ける格好になった。
「やばっ。罠だ!」

――つづく





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