#60/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 02/03/30 03:05 (446)
そばにいるだけで 59−4 寺嶋公香
★内容 16/07/28 03:32 修正 第3版
「どうかしたんですの?」
淡島が言った。話題をクイズから切り換えたらしかった。
純子はほうきを持つ手の動きを止め、淡島の方を見た。
「え、何?」
「先ほどから、同じところばかり掃いていますから、何か考えごとをしている
ように見えました」
足下の床を見る。指摘の通り、綿ぼこりがある地点まで掃き集められてライ
ンを形成し、そこから先には全くはみ出ていない。
「折角、私が練習問題を出しても、ほとんど取り合ってくれない」
不満いっぱいの口ぶりで、しかし無表情に言った淡島に、純子は相好を崩し
てみせた。手の動きを再開させながら、取り繕うように言う。
「ごめんごめん。ちょっと、ぼんやりしてただけ。陽射しが気持ちよくって」
教室の窓から差し込む太陽の光は、とうの昔に夕日のそれとなっており、今
の季節、必ずしも暖かみを感じさせるものではない。
淡島も不自然さには気付いているようだ。
「ホームルームが終わったあと、唐沢君に、掃除が終わるまで待ってるから一
緒に帰ろうと誘われていましたっけ」
「そ、そうね」
「どうして断ったのか、私には大変な謎です」
「謎だなんて、淡島さんも大げさね。待たせるのが悪いと思っただけ」
淡島は雑巾をあっさり放り出すと黒板の近くを離れ、しばし室内を見回す。
ちりとりを持つと、小さな歩幅で純子のそばまでやって来た。もちろん他にも
掃除当番はおり、それぞれ役割が決められているのだが、淡島と来たらお構い
なしである。
「そうでしょうか。今まで、何度かありました。待ってもらって、みんなで一
緒に帰るケースが」
「だから……ここのところ、私、仕事の都合で、一人で先に帰ることが増えて
いたでしょ。それなのに、こういうときだけ待ってもらうのって、悪い気がし
てさ」
「――涼原さん」
「はい?」
「さっきからこうして私がちりとりを構えていますのに、全然入れてくれませ
ん。もう、押さえる手がくたびれてきました」
ちりとりを床板にぴったり沿わせながら、ため息をつく淡島。
純子は急いでごみをまとめ、ちりとりへ送り込もうと試みる。
「涼原さんには、ひょっとすると、一緒に帰りたくない理由があったのではあ
りませんか?」
常よりも増して勘が鋭い、と内心、身震いしそうになる。
いや。
勘ではなく、見た目だけで分かってしまうのかもしれない。純子は思い直し、
これ以上ごまかすのはやめようかと、迷う。
「私、今朝からそれとなしに見ていましたが、今日は一度もよそのクラスに行
かなかった。違います?」
遠慮がちに指を差されて、純子は反射的にうなずいた。
「他の組に行かなかったからって、それが変なことかなぁ」
「今年になってからは毎日、隣のクラスに行くか、そうでないとしたら、逆に
向こうからやって来ていました。――ずばり、申し上げますと、相羽君と何か
あったのではないかと心配です」
気遣いの表れなのだろう、横から顔色を窺うようにして小首を傾げる淡島。
ちりとりは手放していた。
「さっすが。淡島さん」
微笑を交えて純子は応じた。それからほうきの他にちりとりも持つと、一人
でごみをかき集める。
「その話、あとでね。今は掃除をすませなくちゃ」
「分かりましたわ」
というわけで、掃除終了後、学校から駅までの帰り道で、純子は淡島に、ま
ずは、相羽と付き合っていることを一番に告白した。
「淡島さんやマコは、とっくに気が付いているかもしれないけれど」
思い切って言ったあと、そう付け足して、友達の反応を窺う。けれども、す
ぐに純子はうつむいてしまった。やはり恥ずかしさが身体を支配する。
やがて淡島の声が聞こえてきた。
「よかった。おめでとうございます」
「は? はあ、ありがとうございます……」
表情の変化が豊かでない淡島が、今日はしっかり微笑していた。その祝福に、
思わず礼を述べ、頭を下げる純子。
「私も、多分結城さんも、そうだといいなと思っていました。今年になってか
ら、何となく感づきましたが、それ以上に、私は私の占いを常に信じてますの
で。今、当たっていたことが確かめられて、嬉しい」
「それじゃあ、淡島さんは、普段から、私と相羽君の仲を占ってた?」
「はい。悪いかもという思いは少しだけありましたけれど……幸せな結果が出
ると予感があったものですから」
占いに加えて、第六感めいたことまで言い出した。純子は話が逸れないよう
にと、本題の続きを語り始める。
次に話したのは、相羽がトレーニング中(後?)に女の子と会っていたこと。
遠野の名は伏せたが、中学校まで一緒だったことや彼女が泣いていた様子は隠
さずに伝える。
「ふうん。状況は掴めましたが、それで、涼原さんは結局、相羽君から何の説
明も受けてないんですか」
「だって。当然、向こうから話してくれると思ってるもの」
寒風に首をすくめ、早口で答える。
「昔の同級生の子と会ったんだから、大きな出来事よね。それを話してくれな
いのは、釈然としないって言うか……」
怪しい、という言葉は飲み込む。
しかし、中学卒業間際に、遠野が相羽にその想いを、意外なほど開けっぴろ
げな形で伝えるところを、純子自身も目の当たりにしていただけに、疑いはも
はやはっきりとした形を作るまでに至っていた。
「私はまだ一年足らずしか相羽君を見ていませんが、色んな女性と一度に付き
合ったり、試合が近いのに集中力を欠いた修練をしたりするような人ではない
んじゃありませんか」
「うん。私もそう思うんだけど」
「それでしたら」
淡島が急に微笑んだ。夕焼けが逆光になって分かりにくいが、明らかに満面
の笑みをたたえている。
「涼原さんがそういう気持ちでしたら、全く問題ありません。信じていればい
いんです。違います?」
「うーん」
つい、唸ってしまう。信じたい気持ちがあるのは言うまでもない。ただ、芽
生えた疑いもどんどん育っている。
「よろしければ、私が占ってみます。相羽君と涼原さんのこと……」
淡島の申し出に、心動かされる純子。顎を引き、胸元を見つめるような形で
考えた。
(どうしよう。淡島さんの占いって、当たるみたいだから……だから、恐い)
よい結果が出た場合は、素直に信じればいい。問題はその逆。もし、悪い結
果が示されたとき、どうしたらいいのか。気にせずにいられるだろうか。とて
もじゃないけれど無理のような気がする。
「ありがと。でも、今はいい。遠慮させて」
「そうですか」
「ただ、たった今思い出したんだけど、淡島さんが始業式の日に言った占いの
中身……」
「ああ、あれは涼原さん個人についてのものです」
「で、でも、相羽君との仲も含まれるんでしょう?」
「そうなりますね」
「二、三のよくないことが起きるっていう感じじゃなかった? その一つが、
相羽君との仲のことなのかな……って」
「いえ、それはあり得ません。お二人の仲は絶対です」
強くしっかりした口調で断言する淡島。これまでにないほど、確固たる自信
がみなぎっている。
「どんなことがあろうとも、つながりが切れない。必ず結ばれる運命。真理と
言い換えてもいいですわ」
「お、大げさだよぉ」
持ち上げられている気がしてきて、純子は目元を赤らめた。
「そ、それでさ。だったら、私がスポーツセンターで見たのは何だったのかな」
「恐らく、単純な誤解だと思います。正式に占えば、もっとよく見えてくると
思うのですが、涼原さんご自身が望まないのでしたら、仕方がありません」
「誤解、ね」
いつの間にか、淡島の占いをすっかり信じ、頼り切っている純子。
(誤解だったらいいんだけど、今の状況じゃ、確かめにくいのよね。誤解だっ
たとして、それを解くには、どうすれば?)
試合まで、三日しかなかった。
多分、聞けば簡単にすむことに違いない。
それは分かっていても、純子は一歩を踏み出せないでいた。
(できることなら、相羽君の方から話してほしい。相羽君が原因を作ったんだ
から、相羽君が気付いて、説明してよ)
そんな気持ちがまず一つ。
加えて、純子からわけを尋ねようにも、一日経って学校で見掛けた相羽の様
子が不機嫌そうで怒っているように見えたため、聞きづらい。
最後の手段として、遠野に電話して直接尋ねる方法も、選択肢になくはない。
だが、もし万が一のときを考えると、最も選びたくない選択肢だ。
土曜日の早朝、純子はファッションモデルとしての仕事を終え、普通の女子
高生に戻っていた。
仕事に意識を集中する間は忘れられていたことが、今また呼び起こされて、
気が滅入ってしまう。
「本当に、駅まででいいの?」
「はい。ちょうど友達と待ち合わせをしてるんです。一旦戻るよりも、駅まで
送っていただいた方が、楽だと思って」
相羽の母にそう答えてから、後部座席に乗り込む。いつもは家まで送り届け
てもらうだけに、相羽の母の懸念を誘ったらしい。
しかし、純子は長く同乗したくなかった。一緒にいればそれだけ相羽のこと
を考えてしまうに違いないし、話題にものぼる可能性が高い。
早速、母親の口から息子の名が出た。
「学校では、信一の様子はどうかしら。元気?」
「え、ええ。元気みたいですよ。クラスが違うから、授業中のことまでは分か
りませんけど……」
そこまで返事して、純子は質問の意味を考えた。
「あの。家では元気がないんですか、信一君?」
「元気がないというほどでもないのよ。でも、口数が前より減った気がして。
それと、ここのところよく眠れていないみたいだから、少し気掛かりで」
「そう、ですか」
何とも応じようがなく、言葉を途切れさせる純子。相羽のそのような変調は、
もしかしたら私に原因があるのかもしれない。そう考えると、胸が痛い。
でも。純子自身も、なかなか寝付けない日が続いているのだ。
「信一君、試合が近いんですよね。ひょっとして、練習のしすぎで、疲れてい
るんじゃあ……?」
「かもしれないわね。ほんと、あの子ったら熱中する質だから」
「体調を崩さないようにしなくちゃ。大事な時期なんだし、おばさま、言って
あげてください」
「ええ、もちろん。幸い、今朝見てみたら、ぐっすりと眠っていたようだし」
相羽の母の微笑む横顔を見て、純子は少なからず申し訳なく感じた。
程なくして最寄りの駅に着き、車を降りる。ここで再度、本当にいいのねと
念押しされた。
「はい。どうもありがとうございました。お疲れ様です」
押し切った純子だったが、相羽の母は敏感に察知していたに違いない。こん
な早い時刻から駅に出向き、電車に乗って友達と会うなんて。
一人になった純子は白い息を吐きつつ、利用客が一人として見当たらない小
さな駅構内に駆け込んだ。列車の来る時刻を確かめる。さほど待たずに済むと
分かり、急いで切符を買った。
自動改札を通る際、駅員がこちらを控え目に注視しているのに気付いた。何
だろうと思いつつ、そのまま通り抜けたが、プラットフォームに出てみて、そ
の答が分かる。純子のポスターが張ってあった。缶飲料“ハート”の新ヴァー
ジョンのやつだ。
微苦笑を浮かべ、純子は何度かため息をついた。
(今なら、人気が出たってかまわない。打ち込めるのなら、どんどん仕事持っ
て来ていいわよ。あ、声優はまだ全然だめだから断らなくちゃ)
自分の考えにおかしくなった。おかしくて、涙が出そう。
(付き合い出して一ヶ月も経っていないのに。何で、こんな……)
アナウンスが鳴り響いた。急いで両目をこする。電車が見えた。
ひどく空いている車内は、好きなところに堂々と座れる。極端な話、横に寝
転がっても文句を言う人がいない。が、純子はドアに一番近い二人掛けの座席
に、身を小さくするようにして収まった。ドアの音と外気の冷たさが、うたた
寝してしまったときの予防の役目を果たすから。
実際、少し眠ろうと思っていた。
(疲れた)
目を閉じ、何も考えず、眠ろう眠ろうと意識する。陽射しはあるが、まだ暖
かさを感じるほどではない。代わりに暖房が利いて、若干暑いくらいだった。
そこへ車両の単調な揺れが加わり、眠気が力を増していく。車内アナウンス
のぼそぼそした声も、心地よい子守唄のよう。
はっと気が付き、若干斜めになっていた身体を起こす。
背筋を伸ばすと、プラットフォームの屋根から下がる駅名がちょうど真正面
に見えた。知っている駅ではあった。が、自宅に最寄りではない。終点だった。
乗り過ごした。
辺りを見れば、いつの間にか増えていた乗客が次々に降りている。純子は立
とうとしなかった。このまま待っていれば、折り返しになるかも。そんなこと
をぼんやりと考えた。
読みは当たっていたようだ。降車客がゼロになると、今度は乗り込んでくる
人で、たちまち座席が埋まっていく。純子の隣も、品のよい感じのおばあさん
が座った。
人の乗り降りが一段落したところで、アナウンスに耳を傾ける。これに乗っ
ていていいのだと確認できた。発車はもうすぐだと告げている。
車内放送が終わると同時に、慌ただしい音がドアの方から聞こえ、続いて純
子の前に影が。見上げると、飛び乗った乗客が握った吊革に額を押し付けるよ
うにしてうつむき、呼吸を整えている。
(席を譲った方がいいかしら。年齢は私と同じくらいみたいだけど)
そこまで思ったとき、前に立つ男性が顔を上げ、ことさら深く息をつく。
純子は見覚えがあった。声を掛けることを少し迷っていると、先に相手が気
付いた。
「あれ? 誰かと思ったら、相羽の知り合いの」
親しげに話し掛けてきたのは、望月だった。相羽とは武道を通じて親しい。
走ってきたせいか、髪型が見慣れたものとは違うように見える。
「お久しぶりです」
座ったまま、頭を下げる純子。本当に久しぶりに感じたため、言葉遣いが必
要以上に丁寧になってしまった。
「一人? 今日は何? 随分と早いお出かけみたいだが」
偶然の出会いに興奮状態なのか、興味津々が服を着たような望月。純子は頬
を緩め、小さな声で答えた。
「ううん。これから帰るところ。私の仕事、望月君は知ってるんだっけ?」
「仕事? あー、相羽から聞いてる。モデルだろ。じゃあ、仕事帰りか。モデ
ルってのも大変だよなあ」
「望月君の方は、どうしてこんなに朝早く?」
「昨日、先輩の家に遊びに行って、そのまま泊まって、朝帰りするとこ」
なるほど。そう思って見れば、望月の目は少々充血気味のようだ。
「へえー、いいなぁ。あら? でも、今日は休みだから、もっと余裕を持って
帰っていいんじゃないの?」
「それが、うちの父母(ちちはは)は、泊まるのはたいてい許してくれるんだ
が、その翌日については厳しくてな。遅い朝飯が食えるぐらいの時刻には帰っ
てこいというんだよ。まったく、寛大なのか、厳格なのか」
吊革から手を離し、腕組みをして首を傾げる望月。電車が揺れても、多少の
ことでは動じない。
「俺の話よりもさ。涼原さんは明日、来る?」
「え」
答に窮する純子。もちろん何のことかは理解できている。素知らぬふりを通
そうとするも、目が落ち着きなく動いた。
「応援に来るんだろ。相羽の試合があるから」
「あ、そのこと」
今度は、たった今思い出したふり。そうして、行けない理由を考える。
「行きたかったんだけど、このところ、何故だか仕事が増えてて」
「忙しいから行けない、と」
純子がうなずくと同時に、列車がスピードを落とし、駅でもないのにやがて
停止した。ちょっとしたざわめきの中、<事故発生、踏切でトラックの積荷が
架線に接触>云々との放送が入る。長引くのは間違いない。
「あぁっ、これで確実に遅れる」
両手で自分の頭を鷲掴みにした望月。笑いを誘われた純子に、彼が豹変した
口調で告げる。
「涼原さんて、嘘つきなのか?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。口を開けて、目を何度も瞬かせた。
「いや、言い方が悪かったか。嘘の答は、誰かに気を遣ったからか?」
「も、望月君、何を……」
「俺は試合以外では腹芸はしない。だから直に聞くけど、涼原さん、嘘を言っ
ただろ」
「どうしてそう思うの」
「相羽から聞いた」
これだけではよく分からない。純子は続きを待った。
「試合の日を、相羽に聞いて確かめたそうじゃないか。その上、絶対応援しに
行くと約束したんだろ?」
「……」
「相羽のやつ、ますます張り切ってたのにな。一昨日かいつだったか覚えてな
いが、急に元気じゃなくなって」
「……ほんとに?」
沈みかけていた視線を努力して持ち上げ、望月の目に当てる。望月は多少、
困った風に目尻を下げた。
「元気がなくなったというのは大げさだったかなあ。何て言うか、無口になっ
た」
「そう」
「相羽と喧嘩でもしたのか? だったらよくないぜ。そりゃあどっちが悪いか
なんて俺には分からないけどよ、折角似合いのカップルなんだから、つまらね
えことでつまらねえ時間を無駄にしないで――」
「ちょっ、待って、望月君。カップルって」
全身を熱くして純子が尋ねる。望月は不思議そうに首を前に突き出した。
「あれ、違うのか?」
「違うとは……言わないけれど」
横を向いて答える。一度顔をそむけると、見上げづらくなった。車内は暖房
が切れて、気温がゆっくりとではあるが徐々に下がっている。
「あんだけ仲がよかったのに。わけありみたいだな。俺でよけりゃ、相談に乗
るが。相羽に直接言いにくいことがあるんなら、言付かってもいい」
「……相羽君の練習のこと、知ってる?」
ふと思い付いた。望月なら知っているかもしれない。
「ああ、一緒に道場でやる分には承知してるが、今回に限ってあいつ、秘密特
訓だとかぬかして、一人でどこかへ行ってしまうこともあったからな。そこま
では分からない」
純子の望みは、あっけなく断たれた。運動公園での練習を望月にも隠してい
るとなると、多分、母親ぐらいにしか言っていないのだろう。これでは聞きよ
うがない。
「涼原さんこそ、知らないのか、相羽の秘密特訓を」
「な、内容は知らない。でも、場所なら」
純子は、場所を話したついでに、相羽がそこで女の子と会っていたことも望
月に伝えた。途端に顔つきを険しくする望月。
「俺は信じないね。相羽の秘密特訓が、女と会うためだなんてな」
「だ、だから、練習のあとに、会っていたんだと思う……」
「関係ないさ。相羽に限って、そんなことあるものか。女と会ってて、あれだ
け強くなれるはずがないしな」
「でも。私、見た」
「勘違いだ」
純子の顔を指差し、決め付ける望月。
「結構、思い込みが激しいところあるだろ、涼原さん?」
「え、ど、どうかしら」
「相羽が前に試合して負けたとき、その責任が自分にあると考えたくらいだ。
充分、思い込みは激しいと言える」
一人で納得してうなずく望月。
(どこでその話を……)
純子は一瞬だけ、疑問に思った。恐らく、これも相羽に聞いたに違いない。
「相羽が女の子と話してて、相手が泣き出したっていうのも、何かの勘違いし
てるんだと、俺は思うね。多分、くっついただの別れただのの話じゃない」
「私もそう思いたいのよ。昔の友達と会うことなら、いくらでもあるわ。けれ
ど、何故、泣き出したのかが分からないから」
「それは俺にも想像できないけど、単純なことに決まってるぜ。案外、その女
友達の方が、久しぶりの再会に感激しただけかもしれねえし」
望月の言葉を咀嚼する純子。
(遠野さんて大人しいイメージが強いから、遠野さんの方から相羽君に会いに
行くのって、考えにくいのは確かだわ。偶然出会ったのか、それとも、相羽君
が誘ったのか……)
自分が告白されたときのことを思い起こす。
判断はすぐに下せた。あれが偽りだったなんて、あり得ない。一度ふってし
まったにも関わらず、相羽はずっと真剣に想ってくれていた。
そして、問題は結局、一点に集約された。
(偶然会って、どうして泣くようなことになるの。遠野さん、そんなに感激屋
さんだったかなあ。いくら相羽君を好きだったとしても……)
思い悩む純子に、望月はしゃがんで目線の高さを合わせた。否、望月の方が
低くなった。
「信じろって。俺の友達の中で、あいつほど信用できる、正直なやつはいない」
「……」
「彼女のあんたが信じないで、どうすんの?」
「そう、よね」
純子が答えたのと同時に、発動機の回り出す音が、ぶうぅんと響いた。極小
さな振動が連続して起こり、眠りから覚めるかのごとく、電車が動き始める。
純子の中でも、何かが一つ、動き始めた。
「よっしゃ」
望月がガッツポーズをする。電車が再び動いたことに対してではなかった。
「それそれ、その顔だよ。その分なら、明日も大丈夫だよな。一生懸命、相羽
の応援をしてやりなよ」
「うん。行く」
純子は明るい調子で答えた。
日曜日は、着る物を悩ませる天気だった。冬にしては穏やかだが、暖かいと
までは言えず。結局、防寒具としてマフラーを持って行くことにした。
電車を乗り継ぎ、駅から徒歩七分。純子は多少迷いつつ、目的地にたどり着
いた。
(思っていたより小さな体育館)
一度、通った路地沿いに、その体育館はあった。帽子を手で押さえながら、
見上げる。
蔦に覆われて、暗い感じのする建物だった。人の姿はそこここに見受けられ
るが、出入りする者は少ないようだ。関係者の多くが、すでに入館しているの
だろう。その証拠に、中からざわついた雰囲気がこぼれ出ている。
純子は時間を確かめた。余裕を見て出発したため、遅刻ではない。試合開始
まで、あと一時間近くある。
(やっぱり、みんなも応援にって、誘った方がよかったかも)
体育館の開け放された門扉を前に、立ち止まって考える。そばを、小学生く
らいの男の子が一人、駆け抜けていった。
(だけど、大応援団になっちゃったら、相羽君に迷惑が掛かる)
この期に及んで悩んでも詮無きことに対し、当初と同じ理由付けを持ち出し
て、純子は踏ん切りを着けようとした。
しかし、実のところは、自分一人で相羽の応援に来たかったから……なのか
もしれなかった。
「お、来たな」
横手を通り過ぎていった人影が振り返り、純子の顔を確かめてから大きな声
を出した。望月だった。小走りに駆け戻ると、彼は純子に小さくお辞儀をした。
純子も思い出し、すぐさま礼を返す。
「昨日はありがとう。あれで決心がついたわ」
純子の言葉遣いも、昨日に比べるとぐっと砕けた調子になっていた。
「理由を聞くために、相羽に電話でもした?」
「ううん。試合の前の日に、そんなことしない。私が来てることが相羽君にも
伝われば、それでいいと思うから。あ、代わりに断りの電話を入れたんだっけ。
大変だった」
「断り?」
「え、ええ。今日、他の友達に誘われてたの」
聞かれもしないことまで、ぺらぺら喋ってしまう。ブレーキを掛け、純子は
逆に質問した。
「望月君も試合するの?」
「まさか。昨日一昨日と遊んでいた俺は当然、見てるだけ。そもそも、今日は
新年のお披露目みたいなものだから、通例は試合をしない」
「え、じゃあ、相羽君は……」
ちょっとしたことにも不安を覚えて、語尾が曖昧になる。
望月は平静なまま、説明を続けた。
「うん。師範代クラスの人が演舞をしたり、上級者の模範試合が組まれたりは
するが、道場生が試合をするのは、珍しいと言えば珍しい」
「ふうん。なのに、どうして相羽君が試合することになったのか、望月君は知
ってる?」
「……相手の津野嶋が申し込んできたからだろ? 当然、相羽から聞いてると
思ったんだがな」
腕組みをし、不思議そうに首を捻る望月。内心では、相羽と純子の仲を推し
量っているのかもしれない。
「ううん、それは聞いてる。でも、どちらか一人が闘いたいと言い出したから
って、認められないのが普通なんじゃあ……」
「ふん、なるほど。そうか、部外者は知らないか。津野嶋って奴は、有力な人
材というか期待の星というか、要するに強いんだ」
「強いからって」
「うん、だからね」
疑問を矢継ぎ早に繰り出す純子に対し、望月は両手で制す格好をした。
「俺達の属する流派が取り組んでいる武道を、敢えてジャンル分けすると、総
合格闘技っていうやつになる。それにはプロの場もあって」
「試合してお金がもらえるという意味ね?」
「そう。ボクシングとか相撲とかと同じ。で、津野嶋はプロで活躍できる逸材
ってわけ。そんな期待の星が、ぜひともけりを着けておきたい相手がいると言
えば、通るものなんだな」
「それじゃあ、津野嶋選手は抜きん出て強いのよね。相羽君……」
斜め下を向き、長めの息をつく純子。
望月は両手を腰に沿わせると、「いやに心配してるみたいだな」と、ぶっき
らぼうな調子で言った。
「相羽が負けるかもしれないと思って、不安なのか? あいつ、強くなったぜ。
しばらく休んでいたとは思えないほど――」
台詞の中途で、純子は首をゆっくり振った。視線を戻して答える。
「相羽君は今度こそ勝ちたがってるし、その気持ちは分かるけれど、私にとっ
て勝敗は二の次。とにかく、怪我をしないでほしいの」
「ふむ」
「私だって、前の試合を見てるから、圧倒されて怪我を負うようなことはない
と信じてる。でも、望月君の話を聞いたら、また心配になって」
「え、何で?」
腰から手を離し、胸の高さで大きく広げる望月。戸惑いが露な彼に、純子は
首を振った。
「津野嶋選手は、相羽君を徹底的に叩きのめそうとしてるんでしょう? これ
までは、アマチュア同士という意識があったかもしれないけど、今日の試合は、
そういう遠慮もなくなって、力の差を見せつけるんじゃないかなあ……って」
純子の心配する様に対して、真剣に聞いていた望月だったが、すぐに口元を
緩め、ついには吹き出した。
「プロだのアマだので、闘う気持ちを、そんな風に使い分けはしない。少なく
とも、津野嶋は使い分けをしない奴だと俺は思う。試合に臨む闘志は、いつも
同じに決まっている。相羽だってそうさ」
「そんなものなの?」
「ああ。試合の重要度によって、意気込みに多少の差はあるかもしれないが、
全力を出し切るという点では変わらない。これなら分かるだろ?」
「ええ、分かるわ」
純子がうなずくと、望月は軽く首肯し、顎を建物の方へ振る。
「早めに行って、いい場所に座りな。相羽が勝つところをしかと見られるよう
に、真ん前に陣取るんだぜ」
「うん」
(相羽君に、私の姿が見えるようにもしなくちゃいけないし。なるべく、前の
方に座ろう)
純子が歩を進めようとすると、それより先に、望月は駆け出した。
「望月君?」
「俺、ほんとは、立ち話してる場合じゃなかった。急ぐんで、これにて失礼。
機会があったら、またあとで――あいつの祝勝会でもやるか?」
慌ただしく走り去る望月の背中を目で追いながら、純子は何度目かのため息
をついた。
――つづく