#56/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 02/01/26 23:25 (485)
そばにいるだけで 58−5 寺嶋公香
★内容
* *
相羽は複雑な心境であった。不満と心配と、ちょっと嬉しいのとが、一緒く
たになっている。
学校が終わるや、道場に行ったはいいが、大して練習できなかった。師範代
が風邪気味で体調を崩しており、軽い乱取りが終わると、早めに切り上げられ
たのである。津野嶋との勝負の期日が迫っており、空いている時間を少しでも
練習に当てたい相羽にとっては不満の残る内容だったが、致し方ない。道場生
だけで勝手に練習して、万が一、事故でもあったらことだ。
(言っても仕方がないが……こうなると分かっていたら、天文部に顔出しすれ
ばよかったな。純子ちゃんも入る気になってくれたから、一日も早く、一緒に
部室に行きたい)
そんな思いを抱いていると、彼女に会いたい気持ちが、急速に強まった。分
岐点に立ち、考える。
(今日はスケジュールなしって言ってたから、多分、家にいる。時間をあまり
取れないだろうけど、顔を見たい)
瞬時に結論を下した。純子の自宅のある方角へ、足を向ける。その歩みは、
自然と早くなっていった。
だが、急いだ分、純子が帰宅していないと知ったとき、落胆も大きくなった。
「確か、今日は何にもないって聞いたんですが、変わったんですか」
感情を隠しつつ、玄関先で純子の母に尋ねる相羽。
「そうなのよ、相羽君。ついさっき、電話があってね。写真集のことで、急遽、
追加の撮影が入ったとか何とか……早口で分かりにくかったんだけれど」
「追加ですか」
リフレインしながら、首を小さく傾げた相羽。ぼんやり眼を上目遣いにして、
記憶を手繰る。
(そんなこと、母さんは一言も言ってなかった)
この写真集を企画したのは鷲宇だが、あくまでモデルの仕事の枠内だから、
相羽の母も大きく関わっている。
(ひょっとして、極内密に、特別に撮り下ろすのか? 鷲宇さん、結構、秘密
主義なところがあるもんな。今日の撮影を母さんが知らされてなくても、不思
議じゃない)
「相羽君も知らなかったということは、よほど急な決定だったのね」
真正面に、得心顔でうなずく純子の母。相羽はまた少し考え、質問を発した。
「あの……電話には、純子ちゃん以外に、誰か出ましたか」
「え? ああ、そうね。いいえ、出なかった。娘だけよ。それがどうかした?」
「いえ、鷲宇さんが事情を補足説明したのかなと思って」
「えーっとね、鷲宇さんの名前は出なかったような……その代わり、カメラマ
ンの人にばったり会って、車で送ってもらうことになったと言っていたわね」
「……」
相羽は返事をしなかった。一度は納得しかけたのを、純子の母が口にしたあ
る言葉によってひっくり返された。
(『ばったり』っておかしくないか? どんなに急な仕事だとしても、今の純
子ちゃんは携帯電話を持っているんだから、あらかじめ、知らせることは可能
だろう。なのに、そんな、偶然に頼ったような……)
理解できず、こめかみの辺りに手を当てた相羽。表情が、勝手に苦々しいも
のになる。
「相羽君?」
純子の母が、両手をこすり合わせながら、怪訝そうに覗き込んできた。相羽
は慌てて取り繕った。
「あ、はい」
「そんなわけで、純子は今いないし、いつ帰って来るかもちょっと分からない
のよ。伝言でもあれば、聞いておくけれど」
「いえ。それは結構ですが……」
最前からのもやもやとした違和感のせいで、語尾がはっきりしなくなる。
相羽の母は首をすくめてから、
「何かあるの? よかったら、少し、上がって行きなさいな。おばさん、寒く
なってきたわ」
と、半ば急かすように促してきた。
「学校でのことも、聞いてみたいし」
「あの、その前に、電話を貸してください」
相羽は携帯電話を持たない。ついでに付け加えると、純子の持つ携帯電話の
番号も知らない。仕事用の物なんだし、番号を知れば掛けたくなるに決まって
いる。だから、あえて聞かずにいたものだ。
「純子ちゃんに掛けたいんですが、何番ですか?」
* *
少しだけ、違和感を持った。
(ここ、初めて来るスタジオだわ)
これまで写真集用の撮影が行われたのは、野外もあればスタジオ内もあった。
ロケ地が毎回変わったのは当然であり、反対に、スタジオは統一されていた。
それが、今日に限って違う。郊外、と言うよりも山林の中にある半地下にな
った小ぶりなスタジオだ。西山個人の持ち物かもしれない。
急な撮り直しだからかなと、純子は気に留めないでいた。いつもの場所が借
りられず、小さなスタジオを慌てて押さえたとしても、何ら不思議ではない。
ただ……。
「あの、西山さん。他の方は、まだお見えになっていないんですね」
スタジオの中には今、純子と西山の二人だけだった。
「ああ。『まだ』と言っては、正しくないな。今日は、君と僕だけで撮影をす
る。最初から最後までね」
「あ、そうなんですか……」
西山は助手をさほど必要としないタイプのカメラマンだということは、何度
となく重ねた撮影を通じて純子にも分かっていたが、それにしても、スタッフ
が一人もいないのは奇妙な感じがする。さらに、出版社の担当者まで見当たら
ないのには、首を捻らざるを得ない。
それだけ緊急事態、ということなのかしらと納得して、純子は指示を待った。
「新たに示された方針は、セクシー度のアップなんだが、君にできるかな」
「はあ……セ、セクシー?」
からかうような口ぶりの西山に、純子は一旦はストレートに受け止め、それ
から重大さに気付く。
「な、何で、そういう方針が。元々、モデルとしての魅力を押し出すというこ
とになっていたはずです」
「事務所の方はそれでいいよ。だが、出版社の方は、のんびり構えてもいられ
ない。当然、売り上げを考えるさ」
純子は口ごもった。合点が行ったのではない。まだまだ未成熟な自分が、セ
クシーさをアピールしたところで、売り上げは伸びず、ただ滑稽なだけではな
いかと思う。
「まあね、水着姿なんかも確かにあったが、あんな前時代のオリンピック選手
が着るような物では、かわいらしさやスタイルのよさは見せられても、色気が
ない。健全すぎて、匂い立ってくるものがない」
断定調のカメラマンの前で、純子は沈黙した。
(あれでも恥ずかしかったのに)
思い起こすだけで、また顔が赤らむ。あれ以上の水着――露出度が高いのや
際どいの――を着るのは、少なからず躊躇を覚えた。
「じゃあね、早速だが、着替えてきてもらおうか」
「あの、メイクは……」
「道具は揃っている。しかし、特に必要ないんじゃないか。撮っていてしばし
ば思ったんだが、君は素を見せるのが一番いい」
「そ、そうですか」
「それでいて、少しばかり非日常的な設定がほしいな。これまで撮った分は、
どれもスナップの類ばかりで、写真集として単調になりかねない」
「はあ……」
「メイクの話に戻るけれど、君自身が普段している程度なら、メイクもありだ。
それもまた、素を見せることに等しい」
“素”の意味を二通り示す西山。純子は、どちらにした方がいいのか、困惑
させられた。
尋ねても、自分で判断しろと言われるのは目に見えていたので、純子は黙っ
て控えの部屋に向かった。
(それに、普段、化粧をすることなんて、滅多にないもの。関係ないわ)
* *
相羽は送受器を、フックに押し付けるようにして戻した。
「つながらなかった?」
純子の母が聞いてくる。相羽は首肯し、それから口を開いた。
「圏外か、電源が切られているとか……。すみません、もう二、三軒、掛けて
みていいですか」
「どうぞどうぞ。かまわないわ」
純子の母には、相羽が感じた奇妙な印象を伝えていない。どことなく変だと
いうだけで、具体的に何もないのだから、この段階で騒ぎ立てなくてもいいと
の判断だった。
相羽が最初に掛けた先は、自宅だった。母親に聞いてみようと思ったのだ。
だが、留守録機能が作動しただけだった。
次いで、母の携帯電話に掛ける。これもまた、圏外もしくは電源が切られて
いるとの案内のアナウンスが流れて来るのみ。
自然発生した不安を振り払い、相羽は新たな番号を押した。
今度はつながった。
「――相羽です。相羽信一。すみません、鷲宇さん、今いいですか?」
「誰かと思ったら、相羽君か。どうかしたの?」
鷲宇のプライベートナンバーは、J音楽院留学の話が持ち上がったときに、
教えてもらっていた。
「仕事中じゃあ……?」
「そうだよ。でも、かまわない。君が掛けてきたということは、よほど大事な
電話なんだろ?」
相羽が鷲宇に直接電話をしたことは、これまでに数えるほどしかない。
「大事かどうかは、分かりませんが、写真集の件で気になることがあるんです。
鷲宇さんなら、知っていると思って」
「ふむ。当然、彼女――涼原さんの写真集だね? 言ってみて」
気さくな調子の鷲宇に対し、相羽は急く気持ちを抑えて、自身の思い付きを
説明した。ゆっくりとした口調で、分かり易いように努める。
相羽の話が終わるや、鷲宇は聞き返してきた。それも、一転して険しさを含
んだ声で。
「カメラマンの名前は分かっている? 涼原さんが電話口で言ったかい?」
「えっと。いえ、言わなかったみたいですけど。でも、西山さんでしたっけ?
あの人に間違いないんじゃないですか」
純子が見知らぬ人から誘われて、車に乗り込むとは考えられない。電話で家
に報告を入れる余裕があるくらいだから、少なくとも、顔見知りが相手だと判
断してかまうまい。
「だろうな」
鷲宇も同意する。舌打ちらしき音が聞こえたような気がした。
そして、その口調が、苦渋に溢れたものへと変化した。
「すまない。どうやら、僕は君達に土下座をせねばならないらしい」
答える鷲宇の声に混じって、衣擦れや足音、それに他の人との話し声が聞こ
えてくる。どうやら、今取り掛かっている仕事を中断し、車で出掛けるらしい。
相羽は急いで聞き返した。このまま、電話を切られるような気がした。
「何ですって? 鷲宇さん?」
「詳しく話す暇はない。訳が分からなくても、聞き返さないでくれよ。体面が
悪いので伏せておいたが、実は、西山は……うちとは切れている」
聞き返すなと言われても、無理だ。
「切れてる、とは?」
「奴とは途中から考え方が合わなくなり、契約を打ち切ったんだよ。今度の写
真集からも、あいつの撮った分は全て引き上げさせたはず」
「そんな! じゃあ、一体、そのカメラマンは今さら何を……」
「分からん。が、放っておけない」
砂利を踏み締める音がする。駐車場に着いた模様。
「直接、乗り込むんですか? 西山って奴のところに」
「ああ。さっき、西山の自宅と携帯にそれぞれ電話してもらったんだが、応答
がない。行くしかない」
「僕は今、涼原さんの家にいます」
「はあ?」
「連れて行ってください」
「な――」
一瞬の絶句のあと、鷲宇は試す風に聞いてきた。同時に、ドアが強く閉めら
れ、エンジンの掛けられた様子が伝わってくる。
「たとえ、遠回りになってもか? 君を拾っていくと、それだけ時間が掛かる」
「行かなきゃならないんだ! 鷲宇さんも男なんだから、分かるでしょう?」
「――OK」
車の動き始めた気配。鷲宇は、少し穏やかな物腰に戻った。
「心配するな。ちょうど通り道だ。そうだな、よし、七分、見ておいてくれ」
鷲宇とのやり取りを終え、送受器を戻すと、純子の母が急接近してきた。先
ほどまでとは違い、表情が不安で曇っている。
問われる前に、相羽は口を開いた。
「大声を出してすみません。でも、心配しないで。ちょっとした行き違い、た
だそれだけだそうですから」
「そ、そうなの? だけど、随分と深刻そうになったり、相羽君、あなた自身
が行くとか言ったり……」
「僕にも責任がありますから。あ、本来なら母さんの仕事だけど、今は母さん
が動けないので、代わりに僕がという意味です。それで、責任を取ろうとした
僕を、鷲宇さんが子供扱いするので、つい、声を大きくしてしまいました」
事実を伝えるのは全て無事に解決してからだと、相羽は心に決めていた。そ
のための取り繕いがうまく行ったかどうか不明だが、とにかく言葉を尽くす。
「うちの娘には、何の問題もないのね?」
「全然。周りの人間がしっかりしていなかったから、些細なトラブルが発生し
てしまったんです」
「トラブルって……スケジュール調整の不備とか、撮り直しに当たってのギャ
ラといったことかしら」
「はい、まあ、そんな感じで」
トラブルという単語を持ち出したのは失敗だったかなと、相羽が後悔を覚え
始めたそのとき、表でクラクションが短く、高く鳴り響いた。
「じゃ、僕は失礼をします。あとで純子ちゃんを必ず送ります。あったかい御
飯、用意してあげていてください」
そう言い置くと、相羽は相手の返事を聞くのもそこそこに、玄関の土間に飛
び降り、靴を引っかけ、外に出た。
* *
てっきり、水着に着替えさせられるのかと思い込んでいたが、今の純子は、
ドレスに身を包んでいた。
黒系統の、肩と背中の部分を大きく露出したドレス。スカートの丈も心持ち
短く、そこからやはり黒のストッキングを履いた純子の脚が、すらりと伸びる。
「さすがだな。何を着ても決まる。似合うよ」
「そうでしょうか……」
口ごもる純子。座り心地のよくない椅子に、無理矢理座らされているような
感覚を味わっていた。露出部の多い物や、大人っぽいデザインは、着こなした
経験もあまりない。
「鏡の前に突っ立っているだけじゃあ、だめだよ。表情を作ったり、ポーズを
取ったりすれば、見事にはまる。それを、このカメラに収めるわけだ」
自信ありげに、商売道具に手を触れる西山。
(一人になって、変わったみたいに見える。これまでのお仕事だと、西山さん
て、これほど饒舌じゃなかった)
気持ちを高めてくれようとしているのだと解釈して、純子は扉の前を離れて、
スタジオ中央に進み出た。
「あの……教えてもらってもいいですか?」
「ん、何でも聞いていいよ。撮影のこと?」
カメラを設置しながら、西山は軽い調子で言う。純子はうなずいた。
「さっき、表情を作ると仰いました」
「うんうん」
「それって、素を見せることと、矛盾してる気がするんですが……どう理解す
ればいいのか、分からなくて」
「だめだめ、それには答えられん。理屈よりもフィーリング。アートを言葉で
語ってどうする?」
「アート……」
純子自身は、自分の写真集に対して、そんな意識は有していない。大勢に囲
まれて撮られているときは分からなかったが、今気付く。西山とは考え方に少
少ずれがあるみたい。
(また不安になってきちゃった。早く終わりたいな)
「では、始めるか。個人で用意したセットだから、あまり凝ったものはできな
かったんだが」
大きくて広い布と椅子とテーブル、それに燭台や一輪挿し等の小道具で、ち
ょっとした部屋の体裁がこしらえてあった。布は深紅がメインで、西山が言う
ところの非日常性を表現しているのかもしれない。
「まずは君に任せるから、好きなポーズを取ってくれ」
「はい」
この辺の導入の仕方は、いつもと変わりなかった。好きなように振る舞わせ
ることでリラックスさせて、徐々に注文を付けていく。
純子は衣装とセットをよく見て、さらに最前の西山の言葉を思い出し、どん
なポーズがいいか、瞬時に判断した。
椅子に手を掛けると、背もたれを前にして跨る。その背もたれの上辺に、両
腕を組んで載せた。脚を広げて、かなり大胆な格好だ。純子は気恥ずかしさを
押さえて、腕枕に頭を持たせ掛けると、表情を作る。
「――ふ。悪くない」
感心したように目を丸くしたあと、にやりと笑ってレンズを覗く西山。次の
瞬間にはもう、口元が引き締められていた。
「ちょっと……髪をかき上げて」
要求に、行動で応じる。右手でかき上げると、何枚かシャッターが切られ、
次に、「左手でもやってみてくれ」と来た。それが終われば、「両手で」と、
当たり前のように続く。
指示は、純子に休む暇を与えなかった。
――身体の向きを換えて、横座り――片膝だけ抱えて――胸を反らす……あ
あ、いや、違うな。上を向いてくれ。髪がだらんと下がるように。そう――い
いね――床に座る――位置がよくない。バックに椅子があるより、テーブルの
脚が見えるのがいい――うん。アンニュイなのはもういい――寝起きの顔。う
たた寝から目覚めた瞬間のな。
シャッターを切る乾いた音が積み重なっていく。
* *
「どういう人なんですか、西山カメラマンて」
焦燥感に思わず歯ぎしりをしつつ、相羽は鷲宇に聞いた。できるだけ多くの
ことを、聞き出しておきたい。
運転席の鷲宇はさっきから珍しく鼻息が荒く、いくらか興奮気味だと見て取
れた。それでも相羽の話を聞き逃すようなことはなく、唇をなめてから答える。
「世間一般には、あまり知られていないが、腕の確かなカメラマンだ。癖があ
るけどね」
「鷲宇さんとは、どんなつながりで……」
「直接はなかった。ジャケット写真を何度かやってもらった縁だ。モノクロの
風景写真が、僕を刺激したんだっけな」
「人物写真の専門じゃないんですか?」
意外さのあまり、声が裏返りかける。鷲宇はそんな相羽の興奮を見て逆に収
まり、冷静さを取り戻したようだ。さっきよりは穏やかにハンドルを切る。
「人物も撮るさ、もちろん。実際、今度の写真集でも、何枚かいい写真を撮っ
ていたと思うし。いや、僕は素人だから、感じたままを言うことしかできない。
何枚か云々という表現は、失礼に当たるのかもしれない。ただ……あいつと僕
とでは、感じ方に微妙な差があるようだ」
「方針の違いについては、あとで時間があれば聞きます。今は、西山について
知りたい。どうしようとしているのか……凄く、不安だ」
「不安に拍車を掛けるようで悪いが、事実を伝えておかねばならないだろう。
本来、あいつが人物を撮るときは、対象は主に裸体」
「……」
頭の中が真っ白になる。相羽は無言だった。色んな言葉が胸の内で生まれ、
渦巻いているが、口から出て来ないだけ。
「業界内では、ヌードカメラマンとして有名なんだ。そもそも、あいつはその
方面で名を知られ始め、地位を築いた奴だから」
「……知らなかった」
「教えていたら、君は反対した? 西山をカメラマンスタッフの一人に起用す
ることに」
「そんなこと、できるわけが」
平常時なら、ここで肩をすくめてみせるところだが、現在の相羽にそんな余
裕は欠片もない。
「そういうカメラマンが、仕事を降ろされたあと、勝手にモデルと接触して、
何をしようとしてるんですかっ?」
「僕は西山じゃない」
乱暴に言い返す鷲宇。再び苛立ちが起こってきたようだ。
相羽は前を見つめ直し、低い口調で問うた。
「想像でいい。聞かせてください」
「……最悪のケースは、多分、相羽君が思っていることと同じだ」
「最悪、ですか。それ以外に考えられなくなっていますよ、僕は!」
「『自分に任せてくれ。そうしたら、彼女の違う面を引き出してやる』」
口調を改め、鷲宇がつぶやくように言う。相羽はドライバーを振り返った。
「何ですか、それは」
「西山が言っていた。方針の違いが表面化したあと、口論し通しだったが、あ
いつの主張は結局のところ、これに行き着いていた。僕や涼原さんの事務所の
人、それに出版社――関係者の誰もが、涼原さんの別の一面なんて必要ないと
考えていた。少なくとも、現段階ではね」
鷲宇の言葉に、無言でうなずく相羽。
「それが、西山には物足りなかったのかもしれない。ずれの修復ができないま
ま、喧嘩別れの形になった。僕自身、忙しい時季だったせいで、ろくなフォロ
ーができなかった。あのとき、きっちりと話を着けておけば、今日のような事
態は招かなかったに違いないんだ」
鷲宇が後悔とともに、気分悪げに吐き捨てる。見れば、額には汗が浮かび、
流れの筋を作っていた。
相羽には、鷲宇の気持ちは理解できたが、それを言葉にしたことが許しがた
かった。
「そんな不吉な言い方、冗談でも口にしないでください。すでに取り返しが着
かないみたいじゃないか」
「……すまない。悪かった」
速度が上がる。相羽の両手は、膝の上で強く握りしめられている。
* *
純子は大きく長い布を、ターバンのように頭に巻いた。色彩豊かな模様が全
面に細かく施されているため、本物のターバンとは若干異なる印象を醸し出す。
身体の方はサリー風の衣服で包み、腕輪や耳飾り、ネックレスとアクセサリ
ーを多く着ける。手足の指にはマニキュア。これは西山が塗った物で、シンプ
ルなデザインだが大変手際よかった。履き物は当然サンダル。
砂漠の国の民族衣装……と、大雑把な表現で片付けてしまっていいものかど
うか分からないが、それを意図した異国情緒溢れる格好であるのは確かだ。
「凄いな」
ファインダーを通した場合と実際の見た目とを比べるかのように、何度か顔
を上げ下げしたあと、西山が言った。
「何がですか」
大型クッションみたいな物(スポンジをビニールカバーでラッピングしただ
けのように見える)に上半身をもたれさせ、横になるポーズのまま、純子は問
い返した。姿勢の都合上、目線は西山のいる位置とは全く違う方へ向いている。
「その格好は女っぽさを強調するつもりだったんだが、ジェンダーレスになっ
てしまったよ。予想外だね。予想外の効果だ」
純子は口をつぐんだ。ジェンダーレスの意味はもちろん知っている。
(嫌味な感じ。それなら、別の衣装に移ればいいのに)
不機嫌そうになる表情にブレーキを掛け、せいぜい澄まし顔に引き戻す。
(いけないいけない。男っぽく見えるのだとしたら、気を付けないと。下手な
ことをして、この人に私が久住淳と知られたら、厄介だわ)
男っぽく見える。ジェンダーレスと言われたのをそう解釈したのは、純子の
勇み足だったかもしれない。
「笑わなくていい。とりあえず、無表情をくれ」
「はい」と応える口ぶりまで、すでに無表情。
西山は二度、シャッターを切ったあと、首を傾げたり、うなずいたりした。
「やっぱり、こっち向いてもらおうか。レンズをにらんでみてほしい」
「? はあ、分かりました」
にらめという注文は初めてだ。戸惑いつつも、横たわったまま身体をずらし
て向きを換える。カメラのレンズを見て、眉間の辺りに力を込めた。
「――違うな。それじゃあ、見つめているだけだ」
内心、そうかしらと疑問を覚えないでもなかったが、純子は改善を試みる。
だが、どうもうまく行かない。しばしの思案の後、西山に聞いた。
「上半身を少し起こしても、かまいませんか?」
「好きなようにやってくれ」
下側の肘に力を込めて、上体を起こす。これで気持ちを込めやすくなった、
と思う。純子はレンズをまさしくにらんだ。感情をぶつけるかのごとく。
「OK!」
間髪入れずに応答があって、シャッターが何度も切られる。その軽快さに、
いよいよ調子が乗ってきたらしいと知れた。
「よし、次!」
フィルム交換を行いながら、吠えるように西山。着替える衣装は、もう残さ
れていなかったはずと、純子が小首を傾げると、カメラマンは自然な口調で注
文を出す。
「折角だから、徐々に女になってもらおうか」
「はい?」
「折角、ジェンダーレスな格好になってるんだから、そこから少しずつ、衣装
を解いていってくれってことだよ。段々と正体を見せていく様を順番に撮って
いけば、面白い絵になる」
「あ、分かりました」
意図を理解し、首肯する純子。アクセサリーが触れ合い、乾いた音を立てる。
「何から取りましょう?」
「うーん。普通はターバンだが、それを最初に脱ぐと、すぐに女と分かる姿に
なってしまうからねえ」
カメラから離した手を顎にやり、考える仕種の西山。だが、沈思黙考は長く
は続かず、閃いたとばかりに両手の平を叩き合わせた。
「サリーの下は、短パンとTシャツだったっけな?」
「Tシャツじゃなくて、チューブトップの」
「ああ、そうか。じゃあ、こうしよう。まず、アクセサリーを一つずつ、取っ
ていく。それが終わったらサリーだ。肩を見せる感じだな」
「肩を出すと、女性だと分かってしまうんじゃないですか」
不満も露に、純子は眉間にしわを作った。これはいけないとすぐに自覚して、
表情を和らげたものの、内心は穏やかでない。純子にもモデルとしてのプライ
ドがある。肩の肌を見せてなお、男性と思われるなんてことはあり得ない。
凝視された西山は何か言いかけるも、じきに口を閉じた。その代わりか、純子の写真
数枚を手に取り、お札を数える銀行員のように素早く見ていく。
純子は息を詰めて見守った。自信と不安を同時に抱き、審判を待つ。
彼の手が止まると同時に、口が再度、開かれた。
「なるほどな。俺の目が曇っていた。ターバンからにすべきだ」
荒っぽい語気だったが、確かに誤りを認めた。
精神的なしかめっ面を解消し、純子の目元が優しく笑みをたたえる。
「アクセサリー、ターバン、それからサリーですね」
「そうだな。やり方は君に任せる」
純子は耳に片手を当てた。その瞬間、閃く。構図として面白いかもしれない。
西山に提案してみることにする。
「乱暴に、引きちぎるような感じで取ってみましょうか? そうしたら、男の
子っぽく見えると思ったんですが」
「……一旦、男のように見せて、次に女だと明かすってことかい?」
「はい」
「ふむ、振り子が振れた方が面白いな。よろしい、その線で行く」
西山がカメラを構える。
純子は顎を引くと、目をレンズに向けた。左手を前から右耳に持って行き、
細長いイヤリングに指を掛けた。いつでも外せるようにしてある。
合図を待った。
* *
西山の所有するスタジオが見え、その前庭に車が滑り込み、停まる。
相羽は降りるなり、スタジオの全景を捉えた。だが、その建物がどんな形を
しているだろうかなんて、意識に上らない。興味がない。
砂利をけちらし、走り出す。常備灯の光が影を作っている。
「いきなり飛び込むのは――」
鷲宇の声が、車のキーの金属音に重なって、背後から聞こえた。無視して、
相羽は玄関を探した。
焦りのためか、容易には見つけられない。
行きつ戻りつした末、大きな窓ガラスを見つけ、駆け寄ると張り付くように
して中を覗く。奥の方から明かりがこぼれているが、外とのコントラストに乏
しく、建物内の様子は全く判然としない。
「相羽君、こっちだ!」
鷲宇の声が聞こえたのは、相羽が窓ガラスを激しく揺さぶったあとだった。
追い付いた鷲宇は、こめかみに右手を当てて、呆れた風に息をついた。
「不法侵入とされたら、言い返せないぞ」
「呑気に呼び鈴押してたら、相手に心の準備をする余裕を与えちまう。ごまか
されるかもしれない」
早口で一気に喋ると、相羽はもう一度窓ガラスを拳で叩き、音を出す。さら
に大声を張り上げた。
「純子ーっ!」
ほとんど同時に、明かりのこぼれていた隙間が、広がるのが分かる。引戸が
開いていく。
「あ」
国籍不明の衣装を身に着けた、すらりとした肢体の持ち主。純子だ。一瞬の
シルエットから、光が当たり、はっきり見えた。
きょろきょろしていた彼女に、相羽は窓ガラスを三度叩いて、振り向かせる。
そのとき、純子の出て来た部屋から、首にタオルを掛けた男が姿を現した。
相羽には、西山カメラマンが奥歯を噛みしめているように見えた。
駆け寄ってきた純子は、口を「ど、どうしたの?」という形に動かしながら、
窓の錠を解除して戸を開けた。内と外とで段差があるため、相羽は見下ろされ
る格好になる。
「――」
無言で純子の手を取ると、引き寄せる。純子はジャンプする風に、相羽の胸
に飛び込んだ。
「よかった」
「な、何なの?」
戸惑いを隠せない純子を、強く抱きしめる。
その背中越しに、鷲宇が西山に鋭い声を掛けた。
「どうする? 今ここでぶちまけてやってもいいんだが、場所はそっちに選ば
せてやるよ」
「ふむ。個人的に写真を撮らせてもらっていたと言っても、信じないだろうな」
答を用意していたのだろうか。物腰に追い詰められた感じはなく、西山は小
さい声ながら、淡々と応じた。ただ、右手をしきりに握ったり開いたりを繰り
返していた。
鷲宇はそこに不安を見て取ったかのように、鋭さを増す。
「その台詞、あの子の前でもう一度言えるか?」
「俺は、口の達者なカメラマンのつもりだが」
西山が純子の方に視線を投げてきた。相羽は純子をかばい、腕で盾を作った。
そして、相手を見据え返す。身動きできないように、視線で釘付けにする。
純子が顔を起こし、相羽を見つめ、それから肩越しに振り返った。先ほどの
台詞は、ちゃんと聞こえていたのだ。西山に詰問調で尋ねた。
「どういう……ことですか?」
* *
――『そばにいるだけで 58』おわり