AWC そばにいるだけで 59−1   寺嶋公香


        
#57/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  02/03/30  03:04  (441)
そばにいるだけで 59−1   寺嶋公香
★内容
 アフレコ初日を迎え、久住に扮した純子は冷や汗のかき通しだった。
 声優としてのレッスンを本格的に受けたのは、ほんの数時間しかなかったと
は言え、こんなにも悪戦苦闘するとは……予想以上に難しい。
 監督からようやく最後のOKをもらえたのは、開始から六時間以上が経過し
たあとだった。
(一話収録するのに六時間……。一話が二十二分とちょっと。単純に割っても、
えっと、十六倍も掛かってる。私のせいで)
 スタジオの廊下を歩く純子の頭の中は、ぐるぐる回っていた。眩暈の一歩手
前だ。
(途中で後回しにされて、他の人達は先に済ませて、ほとんど帰ってしまった。
その方が精神的には負担が軽いけれど、でも、蚊帳の外に置かれたような感じ
がして……悔しい)
 気が付くとやけに寒い。冬だと言うのに、服の背中側がしっとり湿っていた。
アフレコ室内でかいた汗が、暖房の効いていない廊下に出たせいで、一気に冷
やされたらしい。
 思わず身震いし、両腕で自らを抱きしめる。マネージャーとして同行してき
た杉本が飛んで来て、スーツの上着を掛けてくれた。
「すみません」
「お疲れさん。あんまり長いから、眠たくなっちゃったよ」
 目をこする杉本。笑わせようとしたのかもしれないが、今の純子には面白く
ないジョークに過ぎなかった。それどころか、嫌味にさえ聞こえる。
「寝ててかまいませんよ。市川さんだったら、完璧に熟睡してる。六時間も無
為に過ごすのは、我慢できないって」
「……話し方が、ちょっと女っぽくなくなってるよ」
 ようやく収録を終え、ほっとして気が緩んでいた。杉本が小声で注意してく
れたのを受けて、純子は修正に掛かる。
「大丈夫。喉に負担を掛けないようにしてるだけですから」
「そう言えば、歌もあるんだよねえ」
 アニメの主題歌のレコーディング日も迫っている。鷲宇から離れた形ではこ
れが初挑戦となるだけに、思い起こす度に緊張が走る。今日これからというわ
けではないにも関わらず、憂鬱になってきた。
(何でもかんでも引き受けるもんじゃないわ)
 今後はもう少し慎重に仕事を選んでもらおう、そう市川にお願いすることを
心に決めた。今までにも何度となく思ったことだったが、その無茶な仕事を曲
がりなりにもこなしてこれたので、市川にストップを掛けられなかった。けれ
ども、声優をやってみて、今度という今度は身に染みた。未知の領域へのチャ
レンジは、しばらくやめにしたい。仮にやるとしても、充分なレッスンを経て
自信を持てた上での話だ。
(できればモデルに専念したいなぁ。ちゃんとした舞台モデルでがんばってみ
たい)
 つい、女らしい仕種で髪をかき上げようとしたそのとき、廊下の突き当たり
に人影が見えた。急いで手を引っ込める。
「終わった? お疲れ!」
 明朗快活な声がよく響く。耳に心地がよい。
 純子は声の主に心当たりがあった。今日初対面を迎えたばかりだが、強く印
象に残って忘れようがない声の持ち主。
「蒲生(がもう)さん……先にお帰りになったんじゃあ……」
「別の仕事があったんだよ、ここの第五スタジオでね」
 ベテラン声優の蒲生快路(かいじ)はゆっくりと近付いてきて、純子達の横
まで来ると、向きを換えて並んだ。そして目尻に細かいしわを寄せて、でも真
剣な口調で聞いてくる。
「さて、折角だから感想を聞きたいな。声優初挑戦はどうでした、久住さん?」
 最初に顔を合わせて挨拶のときから、蒲生は「さん」付けで呼ぶ。これは全
員に対してらしい。
 純子は頬に指先を当て、しばらく考えてから答えた。
「最初だけなら、とても面白くて楽しかったんですが、やっぱり、きつい」
「きついかあ。これがあと二十五回ほど続くはずなんだが、耐えられるかね」
「自分一人なら、問題ないんです。やり遂げるまでがんばれます。でも、他の
方に迷惑を掛けるのが、耐えられなくなるかも」
「ほう」
 感心したように口をO字の形にする蒲生。純子は続けて言った。
「未熟なのは分かっていたのに、それでも歯痒くなる。今はまだ疲労感が上回
っていますが、帰ったら自己嫌悪の方が強くなって、落ち込んでしまうかもし
れないなぁ……なんて」
「初めてなんだから、落ち込むことはない。自分が駆け出しの頃は、もっとひ
どかったよ」
 純子がじっと聞いて、無言のままでいると、隣の杉本が慌てたように「ご謙
遜が過ぎますです、はい」と言った。フォローのつもりなのだろう。
「謙遜抜きですよ、杉本さん。初仕事のとき、全くの新人は自分一人だけでし
てね。自分が声優を志した頃、綺羅星のごとく活躍していた人達ばかりが、周
りにずらりと並んでおられる。緊張なんてもんじゃありませんでした」
「あの……」
 純子は咳払いを挟み、蒲生に顔を向けた。
「あがらないようにするコツがあったら、教えていただきたいのですが」
「ふむ。なくはないが」
 一緒に外に向かいながら、蒲生は上目遣いになって顎を手でさすると、改め
て見やってきた。
「久住君の場合、うまく声を当てられないのは、あがっているのではなく、意
識過剰のように見える」
「意識しすぎ、ですか」
「うん。言葉で説明するのは簡単でないのだけれど、正しい発音、正しいアク
セントで言おうという気持ちが強すぎて、かえって珍妙な言い方になったりと
か、あるいは怒りの感情を込めよう、悲しんでいる様を表そうという意識が働
きすぎて、オーバーな演技になったりとかね」
「そうなんですか」
 自分では全く気付いていなかった。ために、指摘を受けても、もう一つぴん
と来るものがない。
「あくまで、私個人の感想だよ。ひょっとしたら、違うところに原因があるの
かもしれない」
「はあ」
「ただ、少なくとも、緊張してどうこうという話じゃないな。自分は、これま
でも何度か俳優や歌手の人と一緒に、声優の仕事をしたことがあるんだが、そ
の経験に照らして言えば、彼らは声だけでの表現に自信が持てない。それ故、
意識過剰に陥ってしまうことが、往々にしてあるようだ」
 この説明には合点が行く。純子はうなずき、「では、どうすれば解消できる
んでしょう?」とストレートに聞いた。
「自分で考えるようにと言いたいところだが」
 穏やかな笑みを見せながら、蒲生は戸を開けた。純子と杉本は先に出しても
らって、軽く会釈する。外はすっかり暗くなり、天には星が輝いていた。
「スケジュールが遅れ気味だし、秘訣を教えるのが皆のためになるな」
「ぜひ、お願いします」
「なに、簡単なことでね。声を当てるとき、身体も動かすんだよ」
 身体を動かすと聞いて、ジョギングやストレッチ運動を思い浮かべた純子。
そのため、怪訝な顔つきになる。
 蒲生は気にした様子もなく、続けた。
「自分が実際に怒るときにする仕種、悲しむときの顔、喜ぶとき何センチ飛び
跳ねるか……。声を当てるときも、実際と同じ動作をすれば、それだけ本物に
近付くという理屈さね」
「そう言えば、蒲生さんもやってましたね。こう」
 駐車場への道すがら、立ち止まって、右手で握り拳を作り、強く引っ張る動
きをした純子。
 蒲生も足を止めた。
「ああ、あれもそうだな。他のことならともかく、力を込めたときの声を出す
のは、どうも苦手なんだ。若い頃はそうでもなかったんだが、歳を取ってくる
とねえ。だから、ああやって動きを取り入れた。うまく行ってたかな?」
「え? ええ、とても。わ――僕なんか、一視聴者に戻ってしまったほどです」
「感心されてばかりも困る。次回からは、この先輩からのアドバイスを活かし
て、もうちょっとがんばってくれたまえよ。はっはっは」
 一際大きく笑うと、蒲生は「では。自分はこっちだから」と言い、純子と杉
本に礼をして、ゆっくりと去って行った。
「さすが、大御所って感じだねえ」
 蒲生の影が見えなくなり、自分達の車の方へ歩き出すと、杉本がつぶやいた。
「勉強になったんじゃない? 人のアフレコをただ聞いているよりも、ずっと
具体的だったよね」
「そうですね」
 純子は、後部座席のドアに左手を掛け、右手には先ほどと同じような握り拳
を作った。
「もっともっと、がんばらなくちゃ」

「試合をするのって、次の次の日曜よね?」
 教室前の廊下で相羽を掴まえると、確認をする純子。
 相羽は向き直ってから、そうだよという風にうなずく。純子は間髪入れずに
言った。
「観に行きたい」
「え?」
 予想外だったに違いない。相羽の目がちょっと見開かれる。
「何でそんなに驚くの?」
「そりゃあ、純子ちゃんは元々、僕が武道をやるのに反対してたし、スケジュ
ールの方も詰まっているんじゃないかと思ったから」
 戸惑いつつも論理的に返答する相羽に、純子は胸元で手を組み、うつむくと
小さな声で言い足す。
「私だって、相羽君のこと全部を好きなんだから。武道をやってる相羽君も含
めて、全部」
 それからまた面を起こし、小首を傾げる。声を出す間際、相羽の表情が見て
取れて、微笑ましくなる。
「でも、確かに忙しいことは忙しいの。いくつも抱え込んじゃって」
「気持ちだけでも嬉しいよ。無理はさせられない。今の君は、仕事を優先しな
ければいけない立場だろ」
「ううん。試合のある日は何とかなるかもしれない。アニメの仕事が予定通り
に終われば、間に合うと思う」
「……」
「何よー?」
 黙り込んだ相羽に対し、純子は頬を膨らませてみせた。両手を腰の脇に当て
て、続ける。
「私が観に行ったらいけないみたいじゃない。もしかして、前のときのことを
気にしてるの……?」
 言い終わる頃には、不安げに目尻を下げていた純子。自分の上げた悲鳴のせ
いで、相羽は勝負に破れた――できれば思い出したくない記憶だ。
「私がいたら、集中できない。だからだめって」
「いや。逆」
 相羽は即答すると、試合を思い描いたか、ごく軽いウォーミングアップのご
とく屈伸をした。
「いてくれた方が、多分、力を出し切れる」
「ほんと? じゃあ、なおさら行かなくちゃ」
「仕事で無理をしないのなら、大歓迎さ。前みたいに、たくさん友達が観に来
たって問題ない。ただ、前と違うのは、今度は誰にもかまっていられないかも
しれない」
「かまえない、って?」
「勝ちたいんだ」
「あ。うん」
 今度の試合を最後と決めている。相羽の表情に、決意を見た。
「……勝って」
 思わず口走る純子。
 動きの停まった相羽は明らかに驚いていた。そんな言葉を聞けるとは、夢に
も考えていなかったに違いない。
 しばらくして、相羽は頬を緩め、気易い調子で答えた。
「怪我をしないように、がんばるよ。そして勝つ」

「涼原さん、そろそろ来てもらえないかなあ。頼みます」
 午前中最後の授業が終わって音楽室から自分のクラスへの帰り道、純子は廊
下で鳥越に呼び止められ、挨拶代わりのように懇願された。初対面の頃に比べ
たら、ぐっと馴れ馴れしくなったように思う。別に悪いことじゃない。
「どなたですの」
 関心があるのかないのか判然としない無表情で、淡島が聞く。それも、鳥越
を指差しながらという遠慮のない態度でだ。
「鳥越君て、純子と知り合いだった? 何の話してんの」
 淡島とほぼ同時に、結城も口を開いていた。彼女の方は、鳥越のことを以前
から知っているようだ。
 純子は返事をするきっかけを失って、口を半分形開けたまま、しばし立ち尽
くす。鳥越はと言うと、結城を相手に話し始めた。
「結城さんには縁のない話だから、説明してもなあ、無駄な苦労に終わる可能
性大だからなあ」
「ほー。じゃ、言ってみてよ。最後まで聞いてあげるから」
 二人のやり取りがこんな調子であるところから推測して、多分、中学が同じ
だったのだろう。
 純子はまず淡島に鳥越のことを簡単に説明すると、改めて彼へ向き直った。
「鳥越君。入部は今でも考えているんだけど、なかなか決心が……。時間を取
れそうにないっていうのがあって」
 入部したいのは本当だ。相羽と同じ部活ができるかもしれない。そう考える
だけでもう楽しくなってしまう。以前感じていた富井達やあるいは白沼に対す
る遠慮も、今はほとんど払拭したと言えよう。ただ、今の段階ではたとえ入部
しても、純子も相羽も時間が取れなくて個人的願望を満たすには至るまい。
「なーんだ」
 純子の答に鳥越が反応するより先に、結城がつまらなさそうにつぶやいた。
鳥越の言葉通り、星には興味が薄いらしい。
「天文部へのお誘いだったのね。鳥越君、かなりの星好きだったわよね、そう
言えば」
 鳥越は結城の相手はせず、純子にしきりにアプローチする。
「名前だけでも置いといてほしいんだ。それで、時間ができたら、ぶらっと部
屋に立ち寄るだけでいいから」
「そんないい加減な真似は――」
「固いことは抜きにしようよ。とにかく入部を!」
 今にも紙とペンを取り出しそうな勢いの鳥越に、端で待っていた結城が身を
乗り出す風にして、再び口を挟む。ついでに手もちょっと出た。
「あんたは新興宗教の勧誘員か、ノルマに苦しむ営業社員か? そんなに熱心
に誘うとは」
「痛いなあ」
 はたかれた腕を袖の上からさすりつつ、鳥越は苦笑顔になった。
「部員の数がいまいち寂しくて。でも無論、ノルマなんかないし、新入部員を
連れてきて見返りがあるわけでもないです」
「自分で言うところが、かえって怪しいわよ。『私は詐欺師ではありません』
て言う人ほど怪しい」
「怪しくないって。濡れ衣もいいところ」
 手の平をうちわのように振り、のどの辺りに筋が浮かぶほど引き笑いをする
鳥越。気を悪くしたのではないようだ。
「星になら、私も興味ありますけど」
 淡島が珍しくも首を突っ込む。とは言え、自己アピールするでもなし、単純
に、思ったことを口にしてみただけという可能性が強い。
「淡島さんのは星占いでしょ。さすがの天文部も、そこまで取り扱ってはない
んじゃないかしらね」
 結城が横目で鳥越を一瞥する。すぐさま、「はあ、さすがに占いまではやっ
てないです」と戸惑った口調で返事があった。と、そこへ急いだように付け加
えた。
「もしも占いまで幅を広めたら、淡島さん?だっけ。淡島さんは涼原さんを引
っ張って入部してもらえる、とか……」
「そんなことはとても約束できません。それに私自身が、すでに占い研究会の
人間ですから」
 にべもない。
 でも、淡島は純子に向き直ると、右手人差し指を顎のラインに沿わせるポー
ズを作り、小首を傾げた。
「涼原さんは何故、入らないんですか。いえ、天文部に限らず、どこかの部に
入ってエンジョイするおつもりはないのでしょうか。忙しいのは分かりますが、
暇を見つけてできなくはないと思いますのに」
 唐突に「エンジョイ」などという単語を持ち出されると、違和感が際立つ。
淡島が口にすればなおさらだ。純子はワンテンポ遅れて応じた。
「実は事務所の方からも、いい顔をされないの。今以上に学校行事を増やすと、
スケジュールが押したときに対応できなくなるからって」
「それは考え方次第でしょう。この場合、相羽君と会う時間を作ると考えれば
いいんです」
「な」
 何を言い出すのという台詞は飲み込んだ。淡島からの予想外の言葉に純子は
目元を赤くした。相羽と会えるなら入部してもいいなと考えたことを見透かさ
れたようで、気恥ずかしい。
「相羽君もあんまり出て来てないなあ、残念ながら」
 黙り込む純子に、鳥越が笑いながら気易い調子で告げる。「君」付けに慣れ
ていないのか、どことなく口が強張ったような発音だったが。
「相羽君は暇があれば何かトレーニングやってるのかな? よくは知らないん
だけど、走ってるのを割と頻繁に見かけるよ」
「ええ。今度、試合があるんだって」
 話題のポイントが微妙にずれて、内心ほっとする。このまま続けようと思い、
純子は質問を考えた。
「鳥越君。走ってるのを見たっていうのは、どの辺りで? 実は、私自身は相
羽君のトレーニングしてるのを見たことが一度もないの」
「えっと、たいていは僕の家の近所で。スポーツセンター、知ってる? 運動
公園が併設されてる」
「うん、行ったことある」
「あの辺りで走ってた。施設に出入りするのも何度か見たな」
 純子はうなずく動作を止めた。ランニングは周知の事実だが、施設に出入り
と聞いて、ちょっぴり意外に思う。
(どうして運動公園の中にまで……。まさか、ウェイトトレーニングまで始め
たんじゃあ? あんまり筋肉もりもりになってほしくないんだけど)
 また想像してしまった。首を横向きに振って伏し目がちにすると、前髪が少
し垂れた。それにはかまわず、赤くなったであろう両頬を柔らかく握った左右
の拳でこする。
「何をやってるの?」
 結城が不可解そうに片眉を吊り上げ、見つめてくる。「何でもない」と即答
しておいた。
「道場だけでは飽き足らず、ああいうところに行って練習を積むとは、相羽君
もよっぽど試合に力を入れてるんだな。文化系と体育会系の両立は、僕には考
えられないや」
 鳥越の言のおかげで、純子の胸の内にまた疑問を浮かんだ。
(確か道場にもウェイトトレーニングの器具はあったわ。スポーツセンターの
方が規模は大きいだろうけど、それにしてもわざわざあっちに行くなんて。忙
しいはずのに)
「大方、美人インストラクターでもいるんじゃないの?」
 純子の思考を読み取ったかのように、結城がからかう風に言った。
「でなきゃ、純子を放って行くはずが……あ、ごめんごめん! 冗談だってば」
 突然、結城が心配顔になる。傍目から見た純子が、よほど不安にさいなまれ
た様子だったに違いない。
「相羽君に限って、そんなことは絶対ありませんわ」
 淡島が自信たっぷりに断言した。天からのご託宣のごとく。
 純子は一瞬硬くなっていた表情をふっと緩めた。
「うん、そうよ。私が一番分かってる」
 信じているが、それでもなお、自らに言い聞かせる口ぶりで言った。
「何か、変な方向に話が行ってしまったけれど」
 鳥越は話題を元に戻しにかかった。
「相羽君が部活に来るようになったら、涼原さんもやる気が出るの?」
「そ、そこまでは」
「それなら相羽君にも、もっと頻繁に出るように頼まなくちゃな。試合が終わ
れば何とかなるだろう」
 鳥越は独り言のようにつぶやいてから、改めて純子に「だから入部、お願い
します」と一礼。そしておもむろに時計を見る。
「昼御飯の時間を削るのも、もう限界かな」

 土曜日の昼過ぎ、電話に出ると、町田の声が聞こえてきた。
「あ、芙美。私」
「純、元気ー? 家にいるかどうか不安だったんだけど、いてくれてよかった」
 明るい調子に、純子も気易く問い返す。
「もしかして、以前掛けてくれたとき、留守だったってことがあった?」
「ううん、それはないわ。たださ、純てばだいぶ忙しい身でしょ? 土曜とは
言え、電話されたら迷惑かなと思って。今、大丈夫?」
「うん」
 ペンダント型の時計で時刻を確かめる。午後、仕事が入っているのは事実だ
が、まだまだたっぷり余裕がある。
「ゆっくり話せる。何だったら会おうよ、芙美」
「ん。会うのはちょっと。今日はまずいんだ」
「なーんだ、そっちも結構忙しいみたいじゃない。よかった」
「ははは。それでさ、電話したのは、聞きたいことがあったからで」
「ふうん?」
 珍しいと感じる。普段、町田から電話をもらうとしたら(いや、純子の方か
ら町田へ掛ける場合も含められるのだが)、たいていは単にお喋りをするため
だけであって、具体的なテーマや目的があることの方が稀である。
「聞きたいことって、何?」
「唐沢の奴、この頃、どうなのかなと思って」
「えっ、唐沢君?」
「純は一緒のクラスでしょ」
「そうだけど。唐沢君のことなら、私よりも、芙美の方が。だって、家が近所
なんだから」
「やあね。近所だからって、そうそう顔を合わせてるわけじゃないわ。登下校
の時間帯も微妙にずれることが多くなってきたしね。その点、純は学校のある
日はいつも、あいつと顔を合わせてるでしょ? だったら、あいつの様子をよ
く知ってるはず」
 半ば決め付けるように言われて、純子は困惑した。考えても町田の意図は分
かりそうにないので、質問の意味を把握しようと努める。
「唐沢君がどうなのかと聞かれても、何を答えればいいのか、分かんないんだ
けどな」
「うーんとね。何て言えばいいのか……態度とか振る舞いとかが前に比べて変
化してないかどうかってこと、かしら」
 質問した本人も、しかとは分かっていないような口ぶり。純子は密かにため
息をついた。
「芙美がどうしてそんなこと言い出すのか分からないけれど、唐沢君は以前と
変わらず、唐沢君よ。私が言えるのは、これだけ」
「そうかなあ」
「あのさ、芙美がそういう風に考えるようになったきっかけが、何かあったん
だよね?」
「まあ、ね。でも、それについては話したくない」
「え?」
 町田がこんな態度を取るなんて。純子は驚きと寂しさに、しばらく言葉が継
げなかった。静寂が十秒あまり、続いただろうか。
「気にしないで。大したことじゃあないんだから」
 先に町田が口を開く。明るい調子だった。
「でも」
「いいから。あいつに学校で何にも変わりがないのなら、それでいいの」
 しかし、無理をしてこしらえたような明るさのように、その声は響く。純子
は思い切って尋ねてみた。
「芙美……唐沢君と何かあったの?」
「――」
 返事が遅い。いや、返事はもらえないかもしれない。町田が息を飲むのが伝
わってきたような気がした。
 純子は送受器を両手で包む風に持ち換えた。声量を落とし、心配げな口調に
なる。
「あったのね? 喧嘩でもしたの?」
「純、分かってないなあ」
 笑いを含んだ町田の答。今度のは、無理をしたのか、自然に出たものなのか。
「あいつと喧嘩なんて、しょっちゅうよ。今さら心配してもらわなくたって、
独りでに解決できるわ」
「じゃ、じゃあ、何が」
「別に。あんたを心配させたくて電話したんじゃないんだから、ほんと、気に
しなくていいよ」
「そんなの、ないっ」
 一方的な話に、さすがに頭に来る。再びボリュームが大きくなった。
「ねえ、芙美。あなたが唐沢君のことで電話してくるなんて、初めてよ。大事
な話なんでしょう? 口では悪く言ってても、あんなに仲がいいんだし、何た
って幼なじみなんだから」
「……純」
 短い沈黙の後、聞こえてきたのは、どこか冷たい感じのする声。芙美がこれ
まで見せたことのない冷たさだった。
 純子は一瞬、息を止めた。
「幼なじみだったら、どうだって言うのよ? あいつと私が小さい頃からの知
り合いだからって、それが何?」
「ふ」
 名前を呼ぼうとしたが、相手はそれをさせずに言葉を重ねる。向き合って話
をしていたのなら、つばきがかかるに違いないと確信できるほどの勢いで。
「あんただけじゃなく、周りのみんなが前々から勘違いしてるようだから、こ
の際、はっきり言っておくけれどねっ。私は唐沢に対して、好意的な感情は何
ら持ち合わせてないんだから!」
「……」
 気圧されて、と言うよりも、胸が詰まって、喉が痛くなって、純子は声が出
なかった。
 またもや静寂が長く続く。
 純子は掛けるべき言葉を探しているのだが、見つからない。謝ろうかとさえ
考えたが、それは思いとどまる。
(芙美、今のは本心? 信じられないよ)
 疑問を質問に換えて、町田に尋ねることも選択肢の一つだが、タイミングを
測れないでいる。
 そんな純子の気持ちを救うかのように、口を開いたのは町田の方だった。
「ごめん」
「え。な、何が」
「怒鳴って、ごめん。こんなつもりじゃなかったのに」
 数分前の尖った物言いが嘘みたいに、柔らかい物腰で話す町田。どことなく、
疲労した感じが滲んでいる。
「それと、さっき言ったこと、嘘」
「嘘? どこからどこまでが……」
「最初から話すわ」
 町田が深呼吸する様子が、電話を介して感じられた。純子は、直接会って聞
いた方がいいのかもという予感を覚えたが、今は続きを待つ。
「何日か前……一週間ぐらい前かな。私はきまぐれを起こして、あいつの――
唐沢の家に行ったわけよ」
「……」
 相槌を打つべきなのかどうか、判断が付かない。
「ま、訪問の目的は……何ていうか、あいつが元気にしてるかどうかを見るた
めだったんだけれど、喋ってる内に話がおかしな方向に行っちゃって。あいつ
の初恋の相手は誰かっていう話にね」
「はあ」
(唐沢君の初恋?)
 予想外。ぽかんとしてしまいそう。だが、町田の声が聞こえてくるので、集
中を途切れさせるわけにもいかない。
「あのプレーボーイにも、真面目な初恋ってのがあるのよね。で、私はさ、て
っきり……純、あなたがそうだと思ってた」
「はい? ど、どういう意味?」
「そのままの意味よ。唐沢が初めて本気で好きになった相手は、涼原純子だっ
てこと。初恋の相手かどうかはともかくとして、ひょっとしたら、あなたも心
当たりがあるんじゃないかしら?」
 早い口調の上、真っ直ぐに聞かれて、純子は絶句した。たっぷり間を取って、
どうにか応える。
「唐沢君が、言ってたの?」
「まあ、ね。ああ、いかんいかん。どうも、今日は口が軽くなってしまいそう。
要するに、だからこそ、私は純が初恋の相手だと思ってた。だけど、唐沢本人
が言うには、違うんだってさ」
「ふ、ふーん」
「それで、私も一度気になったら執着する方だからね。言いにくそうにするの
を、問い詰めてみた。そしたら」
 途切れる。電話の故障?と思わせるほど不意に。町田は口を閉ざしていた。
 純子は早く答を聞きたい、急かしたい気持ちを抑え、待った。
 唐沢がしたという答について、ある想像をしながら。
(芙美。それって……私に言っていいの?)
 待たされる立場だからか、時間を長く感じた。
 次の瞬間、町田から、続きが語られた。
「唐沢の初恋の相手って、私なんだってさ。笑っちゃうわ」

――つづく





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