#44/598 ●長編 *** コメント #43 ***
★タイトル (RAD ) 01/12/15 20:20 (173)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (15/17) 悠歩
★内容
微笑んだ口元に反し、目から流れ出る熱いものを、優一郎は隣りを歩く美鳥に
見られないよう、拭った。
涙を吸い込み濡れた袖口を隠すため、不自然に腕を背中で組んだ時だった。優
一郎の頭にある疑問が生じた。
それは朧月家四姉妹、とりわけ音風と真月に関する矛盾である。
「なあ、みど………」
「音風!」
少し逡巡の間ののち、その答えを求めようと掛けた言葉は、妹の名を呼ぶ美鳥
の声に打ち消されてしまった。そして優一郎の声などまるで耳に届かなかったか
のように、振り返った妹へと歩み寄る。
「悪いけど、そのまま真月を連れて、先に戻っててくれる?」
「あ、うん、いいよ」
ちゃり、と美鳥の手から小さな金属音が生まれた。真月を背負った音風は、少
し持ちにくそうに金属音の元である、部屋の鍵を受け取った。
優一郎は様々な思いを巡らせて、気づくのが遅れたがもうマンションの玄関ロ
ビーの灯りが見えていたのだ。
「優一郎………」
音風と真月が光の中に消えて行くのを見届け、美鳥は振り返った。灯りを背に
していたため、優一郎からその表情は窺い知れない。
質問しようとしていたことを察し、妹を先に帰したのだろう。優一郎の中に生
じた疑問は、あるいは音風たちにとって辛い内容を孕んでいるとも考える。そこ
まで気の回せなかった己を、優一郎は恥じた。
「隠れてないで、出てきたらどうだい」
初め、優一郎にはその言葉が理解出来なかった。怒気を含んだ声に、自分の気
の利かなさを咎めているかとも思えた。が、戦闘時に見せる鋭い目は優一郎を捉
えて、のものではなかった。美鳥の視線は優一郎を越え、それよりも後方へと向
けられている。
慌てて優一郎も、美鳥の見つめるものを追う。
そこには一本の銀杏の樹があった。
あるいはこのマンション、いやこの街が出来る以前からそこに根をおろしてい
たのではないだろうか。そう思えるほどに、大きな銀杏の樹であった。すぐ後ろ
に外灯を抱えていたが、豊富に茂らせた葉のため、こちら側にはほとんど灯りが
届かない。
美鳥の誰何に応じ、太い幹から人影が現れる。顔は見えなかったが、女の影で
あるとすぐに分かった。
麗菜。
咄嗟にそんな名前が浮かぶ。
先ほどの女が、後を追って来たのだろうか。緩んでいた緊張が俄かに高まって
いく。
だがそれも瞬時のこと。こちらへと近づくことで、女の顔が次第に見えてきた。
見知った顔である。
「美鳥、だいじょうぶだ。彼女は敵じゃない」
と、優一郎は隣りに並ぶ美鳥の肩を軽く叩き、制する。それから声を顰め、耳
打ちをした。
「おまえも会ったことがあるだろう。ほら、真月ちゃんをさらった田邊………異
形の部屋にいた………」
ああ、と得心した表情を見せ美鳥は警戒の構えをやめた。あの一件被害者が敵
であるはずはない、と判断してくれたのだろう。すぐにごく平常の、いや忌まわ
しい事件の被害者に対する気遣いさえ感じられるほど、穏やかな表情を見せる。
影の主は大野佳美であった。
「陽野くん、こんな時間に………ごめんなさい」
明瞭ではあったが、過ぎるほどに遠慮がちな声。かつて自らを「俺」と称して
いた男勝りな少女の面影はない。それがあの事件に起因すると知るだけに、優一
郎には痛々しく思えた。
「どうした、俺になんか用か?」
「ん………ちょっと。陽野くんお部屋に行ったんだけど、留守だったから。ここ
で待ってたんだ」
「あ、悪い、優一郎。真月たちのことが心配だから、私、先に帰らせてもらうよ」
「ああ、分かっ………」
気を利かせたつもりなのだろう。優一郎の返事も待たず、美鳥は束ねた髪をそ
の名前の由来になった仔馬の尾のように揺らしながら、溢れるばかりの光に満ち
た玄関ロビーへと消えていった。
「あの子、あの時、陽野くんと一緒にいた………」
優一郎へと、と言うより独り呟くような佳美の声が聞こえた。はて、どこで見
られたのだろうか。校内では未だ美鳥とすれ違った記憶さえない。校外に於いて
さえ、肩を並べて歩いたことはそう多くない。
『あの時だ』
考えを巡らせ、ようやく思い当たった答えは、優一郎に自分の愚かさを知らし
めるものでもあった。
美鳥と一緒のところを見られたのは田邊のマンションだ。
田邊の異形としての能力でマリオネットの如く操られ、優一郎の首を絞めたの
は一糸纏わぬ姿の大野佳美だったのだ。
糞尿と精液と腐肉の入り混じった悪臭。玩具以下の扱いを受けていた女たち。い
ま思い出してみても吐き気がする光景であった。が、同時にその異様さは優一郎
の男性を刺激するものでもあった。
『哀れだねぇ………その大野さんは、優一郎くんの事が好きだったんだよ』
不意にあの時の田邊の言葉が、優一郎の脳裏に浮かぶ。もちろん目の前の佳美
が裸であるはずはないのだが、着衣の下の白い肌が実にリアルに見えるようだっ
た。
(なんて馬鹿な想像をしているんだ)
強く頭を振る。
あれは佳美にとって何より辛い記憶のはず。それを思い出し欲情することは、
直接言葉にしなくても、彼女を指差し噂する周囲の人間と何ら変わりない。
「心配しないで」 「えっ」
心を見透かされてしまったのか。優一郎はひどく動揺をした。が、すぐにそう
ではないと知れる。
「あの子とのこと、誰にも言わないから」
安堵のため、思わず笑みがこぼれた。どうやら佳美は美鳥を優一郎の恋人と勘
違いしたようだ。
「何がおかしいの?」
少し怒ったように頬を膨らませ、首を傾ける佳美。一つ一つの行為に女らしい
しなを感じさせる。以前の彼女とは、まるで別人だ。
「アイツ、美鳥って言うんだけど、従兄妹なんだよ」
「そう………だから陽野くんと同じ力を………」
「あっ」と言う、小さな悲鳴が重なる。佳美と優一郎との。
田邊との戦いの場に、佳美はいたのだ。異形の力を揮う田邊と、人外の力を以
って迎え撃つ優一郎。それを目撃した佳美が優一郎を田邊と同類のもと判断して
も不思議はない。田邊に辱められた佳美にしてみれば、むしろその方が自然であ
ろう。
「心配しないで」
だが懸念を抱く優一郎に、佳美は先ほどの言葉を繰り返した。
「誰にも言わない、さっき約束したもの」
多分に優一郎の感情がそうさせていたのだろう。そう言って微笑む佳美が汚れ
を知らない乙女に見えた。田邊によってどんな仕打ちを受けたのか、知っていて
さえ、である。
柔らかな風が吹く。風は甘い香りを優一郎の鼻孔へと届けた。
酔う、というのはこんな気分なのだろうか。呼吸の度に強さを増す香りは、優
一郎を心地よくさせる。そう言えば、金木犀の花が満開を迎えていたな、と優一
郎香りの主へ思いを巡らす。 「ゆういちろうくん」
香りに溶け込み、その一部となった甘い声。佳美の笑顔に霞が掛かって見える。
ああ、そうか。
優一郎は香りの生まれて来る先を知った。
香りは佳美から発せられていたのだ。
発生源を知った途端、香りは甘さを増した。
あるいは優一郎の錯覚だったのだろうか。
しかし香りは花よりも濃く、熟した果実より強く優一郎の鼻孔をくすぐり、身
体までをも支配していく。やがてそれは性的な刺激へと転化される。
佳美の着衣に乱れなどない。季節柄もあって、露出部分も少ない。ところが優
一郎の目は着衣の下の肌を見ていた。
ふくよかな胸、張りのある腰、下腹部の淡い草むら。
それが過去の記憶なのか、想像なのか、現実であるのかもう優一郎には判断が
つかなかった。
いや、脳内の奥でわずかに存在を保っている理性は、佳美の裸体を現実ではな
いと告げている。しかし理性を遥かに凌駕する欲望が、優一郎の全てを支配しつ
つあった。
「ゆういちろうくんのお部屋に行かない? 大切なお話しがあるの」
これはもう錯覚などではない。顕に男へと媚びた女の声が、優一郎の性を刺激
した。
「………ああ」
己を指す呼称が変わったことに気が付くゆとりなどない。優一郎は短く答える
のが精一杯だった。
佳美は女を強調するかのような仕草で駆け寄り、優一郎の肩にもたれ、腕を組
んで来た。その時、顔を撫でた佳美の髪からあの甘い香りが、さらに強く優一郎
の鼻孔へ侵入する。もう優一郎の男である証は、限界までの昂ぶっていた。
迂闊だった。
後になって考えれば簡単に言える。しかし、実際の時間の流れにおいて、人間
は完璧となることは難しい。
16才と若年ではあったが、美鳥は十分に経験を経た戦士だった。身に迫る危険
を前もって察知する能力にも長けていたはず。
少し前に圧倒的な力を持つ異形と接触し、自分が感じている以上に疲れていたの
かも知れない。あるいは多くの人が住むマンションへと戻ったことで油断が生じ
ていたのかも知れない。実際、これまで異形は一時に大勢の人間に目撃されたと
いう例がないのだ。彼らが人前に現れるのは、獲物と狙った相手に死を与えると
きのみ。つまりは一度に殺せるだけの人の前にしか姿を見せないのだ。
さらに一つ美鳥の油断を弁護するとしたら、相手が上手だった。
ロビー前で優一郎と別れ、部屋に達するまで美鳥は異変に気づくことはなかっ
た。確かにいつもより静かではあったが、腕時計を持たない美鳥は時間が遅くな
ったためだと理解していた。 「晩ご飯、すっかり遅くなっちゃったね」
美鳥が異変に気が付いたのは、勢い良く部屋のドアを開けた直後である。
努めて元気良く放たれた美鳥の声に、返事を戻す者はない。
「おとかぜ………」
不審に思い、妹の名を呼んでみる。が、返事はない。
明かりは点いている。キッチンの方からは、ことことと鍋の煮える音が聞こた。
部屋に戻ってすぐ、音風が火に掛けたのだろう。
しかしこの時点で、美鳥は異変をさほど重大なものして受け止めていなかった。
玄関前で別れたとき、真月は眠っていた。返事がなくても不思議ではない。
音風はトイレにでも入っているのだろうか。けれど責任感の強い音風が、たと
え数分間ではあっても、火の前を離れるとは考えにくい。
そうだ。と、美鳥は気づく。
先ほどまでは気が張り詰めていたため分からなかったが、自分はひどく疲れて
いる。それは音風も同様であろう。あるいは火に掛けた鍋のことすら忘れ、眠り
に落ちてしまったのかも知れない。
そう思い立った美鳥は二人の妹と鍋の様子を見ようと、急いで部屋に上がった。
しかし、不意に聞こえた物音にぎくりとし、後方を振り返る。
何のことはない、半開きのままにしていたドアが自らの重みで閉じられた音だ
った。しかし安堵する間はなかった。
「うっ………」
次に聞こえてきたのは声。
人の声。
くぐもった、呻くような短い声であったが、それが聞き慣れた妹のものである
と、美鳥にはすぐ知れた。
「どうしたの音風。どっか具合でも悪いの?」