AWC 毀れゆくものの形 六−3     直江屋緑字斎


        
#950/1850 CFM「空中分解」
★タイトル (QJJ     )  88/ 3/30  16: 3  (114)
毀れゆくものの形 六−3     直江屋緑字斎
★内容
 そのとき、早彦は、自分の思念、あるいは意識の姿がどのような
ものであるのかを、その所在によって確かめようとしていた。早彦
は意識をさまざまに移動させて、いま、躯のどの部分にあるのかを
掴もうとした。それは、あたかもガラスの人体という容れ物の中を
さまようごときものだった。人体という殻に意識をぶつけることに
よって意識の形態を探ろうとしたのだ。早彦は肉体の中を駈け廻り、
いつのまにか堪えようのない息苦しさを感じていた。その苦しさは、
どこをどうさまよっても、必ず撥(は)ね返るしかない絶対の壁が
存在するということに起因していたようだ。夢の捏造(ねつぞう)
を経験していた早彦にとって、そのことは許し難いものだった。
 だが、早彦はとうとう出口を見出したのである。そのときには意
識の形態という問題は忘れ去られ、早彦の頭の中にはただ肉体から
脱け出すということのほか何もなかった。その場所は臍(へそ)だ
った。ほんの小さな孔であった。早彦は、意識が霧状とも粘稠性
(ねんちょうせい)の液体ともつかない細い糸になって、その孔か
ら体外へ流れ出ているのに気づいた。いつのまにか、意識は空中に
滞り、その位置から自分の寝姿を見ることができた。早彦はここで
初めて、魂は肉体を離れることができると実感した。そして、夢見
の方法が魂と肉体とを分かつ方法であることを知ったのだった。
 その感覚は現実のものとは異なって、まるで夢の続きのようだっ
た。そのうちに、捉えどころのない自分がいつしか部屋の壁をいく
つか通り抜けていた。闇の中をふらふら舞っているだけのようにも
感じたが、どこかに一直線に突き進んでいるようにも感じられ、自
分が何ものかであるという意識が稀薄になっていくように思われた。
「「早彦の眼差しの彼方に、予備燈のつくる薄ぼんやりした光の暈
(かさ)が現われ始めた。そのかすかな光の溜りの中に、俯(うつ
ぶ)せになって白い尻を宙に突き出した女と、それを後ろから両手
で抱えている男の姿が、一つの影になって浮かび上がっていた。光
と影の境にぬめりを帯びた肉体の丸みがあるのを見て、二人とも裸
なのが分かった。早彦は襖を突き抜け、性行為に耽っている男女の
上にとどまっていた。しかし、二人の男女のいずれも、中空に滞っ
ているものの存在には気づかなかった。そのとき、彼らを見下ろし
ている早彦の意識に、二人の心の中の呟(つぶや)きが一瞬にして
伝わってきた。
(この女、声も出さない……。あの男のことが忘れられないとでも
いうつもりか。あの死んでしまった男を。「「ふん。あのとき、た
しかに薬物を用いはしたが、ああまで見せつける必要などないはず
だ。まして、あの男は殺人鬼じゃないか。「「この女、躯の中はこ
んなにひくついているくせに、この十年、いったい何を怺(こら)
えているのだ。おまえはおれの所有物にすぎない。おまえは生涯、
おれのものしか受け容れられないのだ。「「それにしても、ただ一
度のあの男のものがそんなに逞(たくま)しかったのか……。おま
えの汚れた場所をこうして清めてやる。どうだ、これでも声をあげ
ないつもりか……。くそっ。能面のような顔をして……。くそっ。
おまえなぞ、とうにまともな人間じゃないんだ。おまえは鬼の子を
生んだのだからな……)
(……怨んでいるわ、憎んでいるわ、蔑んでいるのよ。それが分か
るかしら。いくら激しく突き立てたって、ああ……、悦ぶものです
か。「「騙(だま)したうえに媚薬まで呑ませて……、あの独房に
押し込め……、あなたは酷い人よ……、忘れないわ……。でも、あ
の男は違った……。乱暴だったけれど、優しかったわ……。そして
囁(ささや)いたのよ、おれの胤(たね)を孕(はら)むのだ、と。
「「よくも、私のあさましい姿を父にまで見せたわね。格子窓から
あなたたちが始終覗いていたことは知っていたのよ……。あなたも
父も獣以下よ、人間なんかであってたまるものですか。「「私は許
さない、絶対に許せない。あなたはあの男の子供を手に入れるため
だけに、強引に私を妻にしたけれども、私はあなたの妻になってこ
うして復讐してやるのだわ……。あの男との狂気のようなセックス
を、もっと想い起こしなさい。嫉妬の炎をいっそう燃え立たせるが
いいわ。「「さあ、もっともっと突き立てなさい。ああ……。歯を
喰いしばって、そう、こうやって、私は堪えぬいてみせるわ……)
 憎悪に充ちた激越な二人の言葉が、あくまでも静謐(せいひつ)
さを装っている夜の真実の姿なのだろうか。それとも、それは、空
中にとどまっている早彦の妄想がもたらした言葉だったのだろうか。
彼らの言葉の意味が捉えきれぬとでもいうように、早彦の塊(かた
まり)は収縮を始め、早彦自身は熱を帯びているように感じていた。
何かの気配を察したのか、それとも生理的な臨界点に達しているの
か、憔悴(しょうすい)し脂ぎった男の顔が天井に向けられた。予
備燈に照らし出されたその顔が、早彦には父親の矢継院長のものの
ように思われた。けれども、それを確かめる暇もなく、早彦は自分
の部屋に戻っていた。
 「「異変はその直後に起きた。それは、生まれてからかつて味わ
ったことのないほどの極端な不安の感覚だった。目にしているもの
は、横たわった自分の躯の他には、見馴れた机であり本棚であり寝
台であり、何の変哲もない自分の部屋の内部だった。しかし、得体
の知れない不安が、変調をきたした危機意識とともに一挙に昂進し
たのである。まるで、感覚が丸裸にされ、通常感ずることのできな
い世界の異様な動きが、棘(とげ)のように意識を貫き、過敏にな
った意識が悲鳴をあげているような気がした。あらゆるものから無
防備になっている早彦は、このような事態に遭遇して、再び元の肉
体に、眼下のガラス細工のような躯に戻れるのだろうかと怯えた。
その思いは、恐怖と名づけるべき性質のものだった。同時に、浮游
(ふゆう)している自分の周囲に、目で見ることのできぬ、強烈な、
あまりに異常な危険が到来しようとしていることを察知していた。
「「永久に魂と肉体を分かつものの勢力が、無限の彼方から襲いか
かってくる。そう考えたとき、早彦は、目覚めなければとんでもな
いことになると直感した。「「死を支配し、魂を滋養とするものの
手先が狙いを定めている。そのような気配が濃厚に蟠(わだかま)
って、早彦を拉致(らち)するようにも思われた。
 意識と肉体の隔たりの空間が凝結して、肉体へ還る動きを阻んで
いた。恐慌をきたしそうになっていた早彦は、無理やりその隔たり
を突き破った。そして、急いで肉体に潜り込もうとしたが、すでに
容れ物自体が拒絶反応を示し始めており、大きな困難にうちひしが
れた。それでも、ようやく元の場所に戻り着くことはできたのだが、
凄じい恐怖によって、肉体も意識も張り裂けんばかりに戦(おの
の)いていた。早彦は恐怖に逐われるようにして、肉体ともども覚
醒しようと試みた。だが、それは峻烈ともいえる肉体の激痛を伴っ
た。全身麻酔から瞬時に蘇生するときのような、筆舌に尽くしがた
い麻痺がその正体だった。肉体は微動だにせず、鮮烈に痛点を開い
た感覚器と、中途半端に弛められた痙攣性(けいれんせい)の麻痺
(まひ)が、早彦全体を圧し潰そうとしていた。
 早彦は、どこでもいい、躯のどこか一部分を動かすことさえでき
れば、この苦痛から、この悪夢から逃れられると思った。それは意
識と肉体の接続を意味した。全神経を集中し、死力を振り絞って、
なんとか右手の人差指を動かそうと努めた。けれども臍(へそ)の
上で組まれた指は質感を恢復せず、隣の指や絡められた左手の指と
の接触感も生じてこない。早彦はさらに力を罩(こ)めた。突然、
まるで数万ボルトの電流を浴びたかのような衝撃が全身に疾った。
そのとき、早彦の人差指がわずかに動いたのだった。
 憑かれたかのように目を瞠(みひら)いている早彦の全身は汗に
まみれていた。体重が半減でもしたかのような深い脱力感に囚われ
ていた。
 「「このことがあって以来、早彦は、肉体から脱け出ようなどと
は考えないように努めた。




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