#835/1158 ●連載 *** コメント #834 ***
★タイトル (sab ) 10/04/16 11:28 (175)
ひっきー日記25 ぴんちょ
★内容
この俺流”ひきこもりシステム”を解っているにも関わら
ず、俺はひきこもり状態にあるから、やっぱり【a】ルー
トの親の愛をチェックしてしまうのだ。そして俺の求める
のは聖母マリアの愛の様に打算0%のものだった。
俺は親の愛の純度を調べる為に台所のテーブルの下にワイ
ヤレスマイクを仕掛けておいた。その録音がこれだ。
父:なんだよ、このパン。
母:ケイが好きなのよ。
父:そのスープもケイの好物だな。…あいつ何で降りてき
て食わないんだ。
母:昼夜逆転しちゃっているんでしょ。
父:このままひきこもるんじゃないだろうな。
母:まさか。学校が始まれば元に戻るわよ。
父:Iも京都に行っちゃうしな。ケイにはしっかりしても
らわないと。
母:最後はケイに頼るしかないものね。
父:跡取りだからな。ケイにはしっかりしてもらわないと。
そして夜中にテキストにおこして一発変換する。
父:なんだよ、このパン。
母:”金蔓”が好きなのよ。
父:そのスープも”金蔓”の好物だな。…あいつ何で降り
てきて食わないんだ。
母:昼夜逆転しちゃっているんでしょ。
父:このままひきこもるんじゃないだろうな。
母:まさか。学校が始まれば元に戻るわよ。
父:Iも京都に行っちゃうしな。”金蔓”にはしっかりし
てもらわないと。
母:最後は”金蔓”に頼るしかないものね。
父:跡取りだからな。”金蔓”にはしっかりしてもらわな
いと。
俺の親の愛には欺瞞がある、と言ったらヨーコさんが3つ
のテキストを送ってきてくれた。題して『喪男の求める愛、
3連発』。
『あれか、これか−愛の欺瞞』キルケゴール著。小川圭治訳。
おそらく不幸な恋が、その根拠を欺瞞にもつという場合に
は、その痛みと苦悩は、悲しみがその対象を見出しえない
ということにある。欺瞞だということが明らかになり、当
の女性が欺瞞だと気が付いた場合には、それは直接的な悲
しみであって、反省的な悲しみではない。その弁証法的な
むずかしさを、人はすぐに理解するであろう。なぜなら、
彼女はいったいなにを悲しんでいるのだろうか。彼がもし
欺瞞者であったのなら、彼が彼女を捨てたのはよいことで
あった。いや早ければやはりほどよいことであった。彼女
はむしろ、その事を喜ぶべきであって、彼女が彼を愛した
ことこそを悲しむべきであろう。だがしかし彼が欺瞞者で
あったということは、一つの深い苦悩なのである。しかし
それが欺瞞であったかどうかというこの点こそが、悲しみ
という恒久運動の中にある不安なのである。一つの欺瞞が
欺瞞であるという外面的な事実について確信を得ようとす
る試みそのものが、すでにまったく困難であり、しかもそ
れによって事柄はけっして片付かないし、あの「悲しみと
いう永久」運動も停止しない。欺瞞は、愛にとっては絶対
的な逆説であり、その点に反省的な悲しみの不可避性があ
る。愛のさまざまな諸因子は、個人の中ではきわめてさま
ざまな仕方でむすびつくことができるのであって、愛はそ
れゆえに一人の人間においては、他の人間においてと同じ
ものではない。利己的なものがまさっている場合もあるし
同情的なものがまさっているときもある。しかし愛がどう
であろうと、個々の要因に関しても、全体に関しても、欺
瞞は、愛はそれを考えることはできないのに、どうしても
考えようとする逆説であり、またありつづける。
(コメント。これはちょっと難解でしょう)。
『ものぐさ精神分析』岸田秀著の解説。伊丹十三。
(コメント。前提状況を説明すると、岸田秀の母親はサー
カス(?)を経営していた。彼女は岸田にギターなど遊ぶ
ものは買い与えたが、書籍や文房具は買い与えなかった。
そして大学進学にも反対した。家業のサーカスを継いでも
らいと言った。しかし岸田は反対を押し切って進学した。
そして母が亡くなった時に申し訳ないと思った)。
岸田はやがて、なぜ自分がこれほごまでにも母に罪悪感を
もっているのかを自己分析しようとする。「母は私を愛し
ている」、「母は私を愛していない」という二つの前提を
たて、それぞれを前提とする証拠集めの作業を行い、それ
はノート数冊分にも及ぶ、その結論は、母親の愛情の欺瞞
性であった。すなわち、それは、「わたしの母親像は、わ
たしの自発性、主体的判断にもとづいて形成されたもので
はなく、母がわたしを支配し、利用するためにわたしに植
えつけられたものである」ことの発見であり、その結果、
「やさしく献身的、自己犠牲的で、どんな苦労もいとわず、
何の報いも求めず、ただひたすらわたしを愛してくれてい
た母というイメージの背後から、ただひたすらおのれのた
めに、わたしがどれほど苦しもうがいっさい気にせず、お
らゆる情緒的圧迫と術策を使ってわたしを利用しやすい存
在に仕立てあげようとしていた母の姿が浮かびあがってき
た」。これは岸田にとって、恐るべき真実の露呈であった。
本来、子供にとって母親が自分を愛していないという事実
は耐え難いことであり、従って、彼は「自分を愛していな
い母親」そして「自分を愛していない母親に対する憎悪」
を「抑圧」し、母親は自分を愛している、そして自分は母
親を憎んでいないという自己欺瞞の上に、自我を築くこと
になる。少年としての岸田もそうしてきた。しかしそれは
神経症への接続せずにはいられない。
『自己と他者』レイン著。志貴晴彦、 笠原嘉訳。
ある看護婦が、ひとりの、いくらか緊張病がかった破瓜型
分裂病感謝の世話をしていた。彼らが顔を合わせてしばら
くしてから、看護婦は患者に一杯の紅茶を与えた。この慢
性の精神病患者は、お茶を飲みながら、こういった。<誰か
が私に一杯のお茶をくださったなんて、これが生まれては
じめてです>。この患者についてのその後の経験から、この
述懐に含まれている単純な真理が実証されるにいたった。
ある人間が、他人に一杯のお茶を供するということは、
それほど容易な事柄ではない。ある婦人が私に一杯のお茶
を出す場合、彼女は自分のティーポットやティーセットを
みせびらかしているのかもしれない。彼女は、私をいい気
分にさせて、私から何かを得ようとしているのかもしれな
い。彼女は、私が彼女をすきになるように仕向けているこ
とだってありうる。彼女は、他者たちに歯向うという彼女
自身の目的のために、私を見方に引き入れようとしている
こともありうる。彼女が、ティーポットからお茶をカップ
につぎ、受け皿つきのカップを持ったその手を無造作に突
きつけるために、負担にならないように二秒以内に私がす
ばやくそれに手をかさなければならない、というような事
態が起きるかも知れない。その行動は、機械的なものであっ
て、そこには私に対する認知がひとかけらも存在していな
いといっていい。一杯のお茶が私に手渡されたけれども、
私に一杯のお茶が供せられることはなかったといえるので
ある。
「こいつら全員喪男です」とヨーコさんは言った。「喪男っ
て完璧な愛を求めるんだよねぇ。メーテルの愛みたいな。
でもそれは喪男の脳内にあるもので、それを外部に求めて
もしょうがないでしょう。外部から与えられたものが自分
の脳内のとは違うと言って欺瞞だのなんだの言っても馬鹿
でしょ」
「そういえば」と俺は言った。「内の母親は…この前PC
を買ったんだけれども。家族用に。富士通のデスクトップ
なんだけれども、マウスがワイヤレスで、感度が良すぎて、
ちょっと触れただけでカーソールが敏感に反応するんだよ
ねえ。それで思い通りに動かないって俺の母親はイライラ
していたけれども、ああいう感じで、俺の事も思い通りに
動かしたいんじゃないの?」
「だから、あなたがそれを分かっているんだったら、ああ、
お母さんは又、例によってイライラしているんだなってあ
なたがバッファを持てばいいじゃない。分かる? あなた
のお母さんがバッファ零人間で、あなたもバッファ零だっ
たら、がちがちになるじゃない」
…と言ったところで、そもそもこの母親との関係は【a】
ルート周辺の事であり、ひきこもりから脱出するには【b】
ルートを開通させなければならないので、あまり意味がな
い。仮に【b】ルート遮断の原因が母親にあったとしても
母親に開けられるのは【a】ルートだけなので、ひきこも
り脱出には貢献しない。