#582/1159 ●連載 *** コメント #581 ***
★タイトル (mor ) 07/09/14 12:23 (144)
黒い暑気 2・守屋
★内容
2
拘置所へ入るのは初めてだ、という小柴光芳子はなにを見ても珍しいのだろう、おの
ぼりさんよろしくきょろきょろしていた。
中肉中背の四四歳。分厚い眼鏡に化粧気のない顔、首の後ろでまとめただけの髪とい
う、いかにもおばさん然とした雰囲気だった。しかし、見かけに反して主婦の経験は一
度もない。高校時代は医学部目指してガリ勉し、大学入学後は医師国家試験を突破すべ
くガリ勉していた、と彼女は明るく笑う。家事を身につけるような余力はとてもなかっ
た、と。
誘惑を排除し、楽しみを後回しにしての猛勉強。司法試験合格に向けて永岡も勉強漬
けの日々を送ったから、彼女の言いたいことはよくわかる。努力もわからない外野に、
勝ち組だのエリートだのと呼ばれるのは不本意だった。この大阪拘置所には二年前ま
で、エリートが憎いという理由で大阪教育大付属池田小学校へ侵入し、児童や教師を殺
傷して回った宅間守がいた。
余談ながら、永岡には不思議でならない。逮捕後の宅間守に文通し、面会し、結婚を
申し込んだ女性は複数名いたという。死刑廃止運動家――活動家と表現すべきか。古株
は自称“新左翼”、他称“過激派”の生き残りだ。わが国における死刑廃止運動の中心
は、死刑囚となった仲間を助けたい彼らの熱意である――も大挙して支援に駆けつけた
が、これは毎度のことゆえ驚くに当たらない。しかし、宅間との結婚志願者はその手の
活動とは無縁の女性たちだったらしい。では、いったいなにが彼女たちを惹きつけたの
だろう? 事件の話題性か? 宅間の魅力か?
番号を呼ばれた。光芳子と雑談していた多良木が、鞄を持ってさっと立ち上がった。
光芳子も続く。多良木、光芳子、永岡の順で廊下を歩き、指定された面会室へ入った。
三人で入ると、改めて狭さを感じさせるスペースだった。拘置所、刑務所の面会室は
どこも似たような造りだ。六畳程度の小部屋の中央が、カウンター状の仕切りと透明な
アクリル・パネルで隔てられている。面会者側には三脚のパイプ椅子。被告人――拘置
所は裁判中の未決囚が収容される場所――や受刑囚――判決が確定すると、刑務所へ移
送される――はそれぞれのドアから部屋へ入り、向かい合って会話をするが、相手に触
れたり金品を手渡したりすることはできない。
ほどなく、向こう側のドアから熊川が姿を現した。初対面でもそれとわかる異様さ
に、永岡は思わず眉を寄せた。
くたびれたトレーナー姿、うつむきながらとぼとぼと歩く態度。
――腕が長い。
永岡がまず思ったのはそれだった。
熊川の背は一八〇センチ前後か。猫背なのでやや低く見える。肥満と呼ぶほどではな
いにせよ、早くも中年太りの始まった体型をしていた。特徴的なのは、からだの両側に
だらりと下げた腕だ。
長かった。
――なるほど。これで記憶されたか……。
永岡にも読めた。目撃者がすれ違ったにすぎない熊川をおぼえていた理由、駅員が一
瞬にして不審人物と断じた原因を。
刑務官に促され、うつむいたまま歩いてきた熊川は、挨拶抜きですとんと椅子に腰を
おろした。永岡たちのほうを見ようとはしない。背を丸め、会話を拒否するかのように
顔を下へ向けている。
――やっぱり。
予感的中だと思いつつ、永岡は横目でパイプ椅子に腰かけた光芳子を見やった。三つ
の椅子の中央に光芳子、その右隣に多良木が坐っている。弁護士との面会は立ち会いな
しで行われるが、今日は一般人の光芳子がいるため、会話を記録する刑務官つきだ。
若い刑務官が熊川の横の筆記台に着席するの待って、多良木が話しかけた。「こんに
ちは。しばらくぶりやなあ。前はいつやったかおぼえてるか?」
返事はなかった。向かいの椅子に坐った熊川は無反応だ。
「今日は、新しい先生を紹介しよと思てね」慣れているのだろう、多良木は気にするよ
うすもなく話し続けた。「こっちの、女の先生が小柴先生。その隣が永岡先生。永岡先
生とは手紙のやりとり、してきたやろ?」
熊川が身じろぎした。永岡の名前に対するなんらかの意志表示だろうか。
「東京からわざわざ来てくれはったんやで。東京、わかるやろ? 東京タワーとかディ
ズニーランドとかのある……」
――ディズニーランドは千葉です。
あるいは熊川がそう反論するのではないか、と永岡は期待していた。しかし、彼は肩
を揺らしただけだった。うなずいたらしい。
「小柴先生がな、ちょっと聞きたいことあるゆうてはるんやけど、ええかな?」
また肩が揺れた。そんなに首を下へ向けていては、肩凝りになるのではないかと永岡
は心配した。
「こんにちは」と、光芳子がまず挨拶した。「熊川さん、ちょっと顔を上げてくれへん
かな?」
沈黙ののち、熊川が微妙に姿勢を変えた。それでも、顔は下へ向けたままだ。
「顔を見てしゃべられへんの? わたし、なにも熊川さんを叱ろうと思って来てるんや
ないよ」その気になればマシンガン・トークでしゃべりまくることもできる光芳子が、
ゆっくり、はっきり発音していた。
熊川は動かない。背中を丸めつつ椅子に浅く腰かけるという不安定な坐りかたをして
いた。
「さっきね、多良木先生が、前の面会はいつやったかおぼえてるかって言わはったでし
ょ? 熊川さん、おぼえてる?」
「…………」
答えない熊川を見かねてか、取りなすように多良木が言った。「熊川くん、ふたりの
先生にまだ挨拶してへんやろ。あかんがな。永岡先生に挨拶は?」
もごもごと声がしたことはわかった。しかし、これを挨拶と受け取るのは難しいかも
しれない。
「小柴先生には?」
「……こん、ちわ……」小さな声だった。
「熊川くん、誰にかて苦手なことがあるんやで。こっちはこっちで頑張ってるんやか
ら、熊川くんも協力してくれな……。そうやろ? 顔を上げて、大きな声で返事してく
れへんかな。せっかく先生がふたりも来てくれはったのに」
光芳子が言った。「緊張してるんやね、初めての相手やから。……あ、わたしも熊川
くんて呼んでええかな? わたしのほうが年上やし、先生みたいなものやし」
沈黙。
「もう一回、質問するよ? 多良木先生と前に面会したの、いつやったかおぼえてる
?」
反応なし。
「忘れた? 別に叱ってるんやないからね、熊川くん。おぼえてへんのやったら、そう
言うてね」
永岡はいらだってきた。弁護士の面会は時間無制限だが、一般枠のそれは約一五分で
打ち切られる。これでは最低限のやりとりもできそうにないと思い、「おぼえてないん
じゃないですか」と口をはさんだ。
抵抗か、熊川が首を動かした。ノーの意味だろうか。
「おぼえてるの? いつやった?」と、光芳子が身を乗り出す。
「きっとおぼえてませんよ」
「……違う」ぼそっと熊川が言った。
――お、しゃべった。
しかし、発言は続かなかった。
永岡はふたたび挑発した。「熊川さん、嘘はいけませんよ」
「……じゃない」
「なんて言ったんですか? 全然、聞こえませんね」
「……嘘」
多良木が眉を上げ、驚いたというジェスチャーで永岡を振り返った。初対面の相手と
の会話は成立しないと決めつけていたのだろう。
「嘘じゃないと言ったんですか?」と、永岡は確認した。
熊川は床を見つめたまま、首を回すように動かした。どういう意志表示かわからない
が、永岡に対して腹を立てているなら挑発は成功だ。
「でも、熊川さんは私への手紙に嘘ばかり書いていましたね。自分は誰も殺していな
い、なんて」
「じゃない」
「聞こえません。もう一度言ってください」
「……嘘、じゃ」
「一八歳のとき、ひとを殺しているでしょう。忘れたんですか」
忘れていたに違いない。熊川はもぞもぞとからだを動かし始めた。
刑務官が肩のあたりに緊張を漂わせ、そのようすを見ている。暴れるのではないかと
警戒しているのだろう。
「若い女のひとを殺して財布を盗んだんでしょう、あなたは。それで逮捕され、刑務所
に入ってた。そうじゃないんですか」
「…………」
「どうなんです?」
熊川は落ちつきなく上体を揺らし続けていた。それでも背中を丸め、下を向いている
姿勢は変わらない。もう間違いなかった。彼は会話の相手と視線を合わせることができ
ないのだ。
この態度が法廷でどう解釈されたかを永岡は考えた。一審の徳島地裁の裁判長はよく
よく公正な、辛抱強い人物だったのだろう。控訴審の大阪高裁における「犯罪傾向は極
めて深化しており、もはや矯正教育よる改善可能性も極めて乏しい」という判断には、
うなずけるものがある。
光芳子が片手で永岡を制し、話を引き取った。「熊川さん、さっきの質問の答えを待
ってるんやけど? 前に多良木先生と面会したのはいつやった?」
「…………」
「忘れた? それとも、面会に来てへんのかな?」
「……モチ」
「え、どっち?」
「餅、持って来た」
ああ、と多良木がうなずいた。「差し入れの話か。餅が嫌いやのに、差し入れたから
怒ってるんやったな」
――いつの話ですか。
永岡は嘆息し、狭い面会室の天井を仰いだ。
熊川と三人の面会者を隔てているのは拘置所のパネルだけではない。見えない壁は厚
く、また高かった。絶望的なほどに。
(続)