AWC 寝床(四)     Trash-in


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#193/1165 ●連載    *** コメント #192 ***
★タイトル (tra     )  03/12/27  23:57  (180)
寝床(四)     Trash-in
★内容                                         05/07/01 18:58 修正 第2版
「重田、重田はいないか」社長室の方から木俣幸惟の声が聞こえてきた。
「はい、社長さま、どうなさいました」石川数也は呼びかけに応えると、廊下を小走り
に社長室へと向かった。
「石川さんですか。うちの重田はどうしたか知りませんか」
「重田さまは、本日の義太夫の会の参加者の出欠を自ら確認していらっしゃいます」石
川はそう言いながら社長室に入り、後ろ手で戸を閉めた。「社長さま、お疲れになると
いけません。ソファーにおかけになってください」我ながら惚れ惚れするような低音
だ。石川の武器はよく響く低音の声と、落ち着いた物腰だ。石川はわざと少しゆっくり
と話す。保険業界に入ってから今日に至るまで常に心がけてきた。落ち着きのある信用
できる人物を演出するために必要だと判断したからだ。特に木俣は得意先だ。失礼がな
いよう振る舞いには細心の注意を払わなければと、身が引き締まる。
「そうですか。みなには迷惑をかけますね」木俣が来客用の牛革のソファーに腰かけ
た。黒羽二重、染め抜き五つ紋付きの長着と仙台平の袴をつけた木俣は、近頃少し体重
が増えたこともあってか体から貫禄がにじみでていた。
「何をおっしゃいますか。それもこれも社長さまの義太夫を聴きたいがためのことでご
ざいます。強制されてではなく、心の底から湧き上がる願望に突き動かされるようにし
て無心に働いているのです」
「石川さん、あなたも腰かけてください」
 石川が言われるままに木俣の向かい合わせに座ると、木俣が言葉を継いだ。「本番前
というのはどうも落ち着かないですね」
「そうでしょう。なにしろ今回の会は特に力が入っていらっしゃるとお見受けしており
ます」テーブルの上のテレビのリモコンが石川の視界に入った。「テレビでもご覧にな
れば、リラックスできるかと存じます」
「そうしましょうか。緊張して本番でしくじってはいけませんからね」木俣がリモコン
を手に取りテレビをつけた。部屋の奥にある大画面の液晶テレビにサッカーの試合中継
が映し出される。
「社長さまはサッカーはお好きでございますか」
「いや、実を言うとよくわからないのです。孫が今年小学生になったのですが、将来は
サッカー選手になりたいと言ってましてね。だから私もサッカーの勉強をしようと思っ
てはいるのですが」
「最近の子どもは野球よりもサッカーに興味が移っている模様ですね」
「私は、長嶋より少し年が下ですが、やはり野球でしたね」
「私もそうでございました」
 画面がゴール前での競り合いを映し、選手がめまぐるしく動く。審判が笛を吹いた。
「試合が止まりましたね」木俣が言った。
 石川がテレビを見つめる。画面はリプレイを映している。オフサイドだ。「社長さ
ま、あれがオフサイドでございます」
「ほほう、あれが噂に聞くオフサイドですか」
「はい。間違いございません。オフサイドでございます。ご説明申し上げますと、オフ
サイドと申しますのは、敵の守備陣の向こう側にいる味方にパスを出してしまう所業の
ことでございます」
「なるほど」と木俣は言ったが、腑に落ちない顔つきをしている。「何のためにあるん
ですか、その規則は」
「もしこの規則がないと、お互いに相手のゴール前に攻撃陣を配置いたしまして、長い
パスを繰り返すことになってしまいます。そういたしますと、競り合いのない、大変に
味気ない試合になるおそれのあるところからこのような約束事を取り決めております」
「すると競り合いを促進するための規則ですか」
「おっしゃるとおりです。競争を促進する・・・例えて言うなら、独占禁止法に相当す
るものかと存じ上げます」
「なるほど」木俣がうなずいた。納得したらしい。「石川さん、あれはなんですか」
 石川がテレビを見ると、抗議する選手に主審がイエローカードを出している。
「あれはイエローカードでございます」
「ははあ、小耳にはさんだことが・・・」
「イエローカードと申しますのは、審判にたいする暴言、反則行為などへの警告でござ
います。ただいまの例では、審判にたいする暴言への対処であると思われます。このイ
エローカードを二枚頂戴するとレッドカードに昇格いたします」
「それはつまり、将棋でいうところの歩が金になるようなものですか」
「いや、これは私の言葉が足りませんでした。イエローカードが二枚になりますと、次
の試合には出場できない決まりになっております」
「なるほど。例えて言うなら、所轄官庁の行政指導のようなものですか」
「おっしゃるとおりでございます。そして、レッドカードはイエローカードよりも著し
い行為に対する処罰として発行されております。いきなりレッドカードが発行されるこ
ともございます。その場合には即退場とされております」
「そうすると、黄色よりも赤色の方が重い刑罰ということですね」
「さすが、ご理解が早い。全くそのとおりでございます。『商法違反に対する処罰』に
なぞらえてもよろしいかと存じ上げます」
「ふむふむ。ようやく理解できました」木俣も腑に落ちたようだった。「そういえば、
サッカーでよく2-6-3ですとか、1-9-8などと言いますね」
「はい。申します」うっかり頷いてしまったが、何を言ってるんだろう。石川は疑問に
思った。あっ、そうかフォーメーションのことか。数字が無茶苦茶だから理解に手間取
ってしまった。
「外人はあれでいいかもしれませんが、私は、やはり日本人なら3-3-7だと思います」
「なるほど」どうやら手拍子と間違えているらしい。3-3-7は三三七拍子のことだろう。
しかし今さら訂正もできないから調子を合わせるしかない。「お説ごもっともでござい
ます。実は、私も日本のサッカーは3-3-7だと、常々感じておりました」
「そうでしょう、そうでしょう。うちの会社も運動会の応援では必ず3-3-7です」木俣が
自慢げに言った。
「歴史ある御社にふさわしい美風かと存じます」石川が慇懃に応じた。
 木俣は自説を肯定されて自信を得たのか、満足げにリモコンを手にすると、ボタンを
押してテレビを切った。少しの間は気がまぎれても、やはり落ち着かないようだ。
「それにしても重田は遅いな」
「参加者が多いので確認に時間がかかるのでしょう。皆さま楽しみにしてらっしゃいま
すから」
「いやあ、私の義太夫なんかには興味はありませんよ」木俣が謙遜してみせるが、言葉
とは裏腹に笑みが広がる。
「こう申し上げては、お世辞に聞こえるかもしれませんが、社長さまの義太夫はことの
ほかお上手でございますから」
「いやいやとんでもない」木俣はあわてて手を振って否定した。しかしホクホク顔だっ
た。「60の手習いで始めたものですから。まあ、下手の横好きですよ」
 よくわかってるじゃないか。石川は心の底から同意した。
「たまたま、私の周りに義太夫好きが多かったというだけですよ。だから私は幸せ者で
すね。こんなに義太夫の良さを理解してくれる人たちに囲まれて。ただ、家族がもうち
ょっと理解してくれれば言うことはないのですが・・・」
「ご家族の方は理解していらっしゃらないのですか」
「ええ。私が義太夫の稽古をしようとすると『稽古場でやってよ』とこうきます」
 そりゃそうだろう。あんなもの間近で聴かされたらたまったものではない。「ご自分
の邸宅に稽古場があるのはうらやましい限りですね」
「稽古場の設計にもいろいろと注文をつけてきましてね」
「社長さまではなく奥様が?」
「妻と娘です。娘がまた強硬で、完全防音でなければ家を出る、とこうなんですよ。お
かげで稽古場が異常に頑丈でして。設計をした建築士が『核シェルターとしても使用可
能です』と言い切りました」
「そうですか。お嬢様は何か義太夫に嫌な思い出でもあるのかもしれませんね。社長さ
まの義太夫とは全く関係なく」
「と言うと」
「例えば、昔片思いをしていた男性が義太夫に凝っていたとか」あるわけないよな、石
川は自分でも苦しい理由だと思った。
「いや、そんな話は聞いたことは」木俣は思案顔になった。「なんでも言いあえる関係
を心がけていますが」
 石川はかぶりを振った。とりあえずこの線で押そう。「お嬢様にも人に言えない悩み
や思い出の一つや二つあるはずです。ましてや恋愛の話になれば父親には言いにくいで
しょう」
「そうですか・・・孤独だな父親は」
「同感です。私にも二歳になる娘がいますが、やはり私よりも妻になついております」
「特に保険の営業は厳しいと聞き及んでいます。一緒に遊ぶ時間もあまりないでしょ
う」
「お恥ずかしながら、あまり相手をしてやれません」
「今がかわいいさかりなのに・・・また何かいい保険があったら頼みますよ」
「ありがとうございます。うちの営業所は社長さまのおかげでもっていると、所長の滝
本も常々申しております」
「なに、そんなこと」木俣は軽く照れ笑いをした。「たいしたことではないのですか
ら。そういえば滝本さんはどうしました」
「受付の準備をさせていただいております」
「いつもすみませんね。受付なんかをさせて」
「とんでもございません。陰からお客様をサポートする・・・あさがお生命の企業理念
でございます。御社の『企業活動を通じた社会貢献』と相通ずるものがあります。確か
に、社長さまの義太夫を聴きたい、という望みもあります。しかし、それを殺して『陰
からお客様をサポートする』。それが、あさがお生命の社員たる滝本と私の使命だと心
得ています」
「そうか」木俣が相好をくずした。「義太夫を聴きたいという望みを殺して、陰からサ
ポートする・・・うん。良いことを言ってくれました。これはいい勉強になりました。
石川さん、先日提案してくだすった娘の定期保険、契約書持ってきてください」
「ありがとうございます。早速手配させていただきます」
「そうですか、『義太夫を聴きたいという望みを殺して』ですか」
「そうです。『陰からサポート』いたします。あくまでも、『陰からサポート』いたし
ます」
「『義太夫を聴きたいという望み』も持ってらっしゃる」
「ええ。そうです。ただ、重ねて申しあげますが『陰からサポート』いたします。『義
太夫を聴きたいという望み』は殺して殺して殺しまくります」石川の口調が熱を帯び
た。
「まあ、そんなに禁欲的になることはないでしょう。少しぐらいかまいませんよ」
「いえ、とんでもございません。受付を離れることは断じて許されません。『陰からお
客様をサポートする』という企業理念に反してしまいます」
「そうですか。それは残念ですね」
「はい。私達もいつも、無念さを感じてはいます。特に会が終わった後、お客様方がお
帰りになられるときの、あの死んだように疲れきった・・・いやその、社長さまの義太
夫を心ゆくまで堪能され、満足しきった心地よい疲労感をにじませた表情をみるにつ
け、無念さが募ります。しかし、『陰からお客様をサポートする』という当社の企業理
念を、死に物狂いで遂行しています」
「そうですか・・・それは無念でしょう」木俣は軽く目をつむると、数度うなずいた。
「すぐそばで義太夫を語ってるのがわかってるだけにねえ。まるで蛇の生殺しだ。可哀
想に」木俣は今度は小さく横に頭を振った。「わかりました。では今からお二人のため
に一節語って」
「だ、だダメです。そそそれはいけません」石川は弾けるように腰を浮かすと、テーブ
ル越しに木俣の襟を両手ではっしとつかんだ。
「まあ、そう固いことはいわずに」木俣の笑顔は憎らしいほどに全開だった。「の、
の、喉に差し障りがあるといけません」とりあえず石川が言った。「せっかくの自社ビ
ルの完成披露の催し物の前に、喉に差し障りがあるといけません。われわれが恨まれま
す。社長さまの慈悲にすがって無茶をさせたとあっては、他のお客様が納得いたしませ
ん。それはそれは皆さま楽しみにしていらっしゃいますから」
「いやあ、そこまで気を使うことはありませんよ。本番前の軽いウォーミングアップで
す」
「い、い、い、いいけません。喉に万が一のことがあってはなりません。かか勘弁して
ください」石川は自分の目が涙で潤んでいるのがわかった。
「石川さん、勘弁してくださいって言うのは」木俣が小首をかしげた。まずい、石川は
直感した。嫌がっていると思われたらアウトだ。脇の下に嫌な感じの汗がつたう。あせ
るなあせるな、自分に言い聞かせる。
「わわ我々保険業の人間は、お客様の万が一に備えるのが仕事です。その保険屋が、大
丈夫だろうという甘い見通しにたって社長様に無理をさせるなどは、言語道断、もって
の外です。保険マンの風上にもおけません」
「なるほど」木俣が思わず右手でひざを打った。「これは恐れ入った。そこまで考えて
いらっしゃるとは」
 危機は去った。心の底から安堵感を覚えた石川は、自分が中腰のまま木俣の襟をつか
んでいることに気づいた。「お恥ずかしい話です」石川は木俣の襟から手を放すと、再
びソファーに身を沈めた。「職業病でしょうか。身に染み付いております」ゆったりと
した口調、低い声で言った。俺は客から信用される人物なのだ。
「いや、私は感動した。あなたは保険マンの中の保険マンだ。先日提案してくだすった
娘の年金保険、契約書をお願いしますよ」
「ありがとうございます」石川は重々しく頭を下げた。「早速手配させていただきま
す」




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