#381/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 11/05/29 23:25 (401)
お題>遅刻>三者面談 (前) 寺嶋公香
★内容 17/05/20 21:09 修正 第2版
日直のその日最後の役目として、鍵を返しに職員室を訪れた暦は、担任の螢
川(ほたるがわ)先生から呼び止められた。
「相羽暦。これをお母さんかお父さんに渡しといてほしい」
立ち上がった先生からA4用紙を突き出され、反射的に受け取る。そこには、
手書きではなく、ちゃんとプリントされた文字でこうあった。『三者面談の案
内』と。
「え。面談の時期って、今頃?」
「もちろん違うさ。ただ、前の面談のとき、ご両親とも都合がつかないとかで、
来られなかったじゃないか。クラスで相羽達だけ」
“相羽達だけ”とは妙な表現だが、実はおかしくはない。同じクラスに、双
子の姉の碧もいるのだ。それ故、先生も友達もたいていは下の名前で呼んでく
る。
「それでですか。でも、うちは両親とも忙しいことが多いんですよ、掛け値な
しにほんとに」
「分かっている。プリントをよく読んで。都合のよい日をご指定ください、と
してある」
先生の指が紙の上をなぞる。確かにその旨が記してあった。期間設定はおよ
そ二週間。次の定期試験が来るまでに、一度会っておきたい節が窺える。
「都合のいい日ったって」
「この先の二週間で、一日ぐらいあるだろう」
「分かりませんよ。とりあえず、先生に悪い気が。先生の方の都合は大丈夫な
の。いつになるか分からない上、一日前になって明日空いてますって言われて
も、困るんじゃあ……」
「くだらないこと気にしなくていい。先生の場合、好きな釣りを一回やめれば
事足りる。クラス担任として当然だ」
「……ありがとう、先生。そういうの聞いたら、母も喜びますよ」
「それもこれも、暦、おまえが目立つ生徒だからだぞ。幸い、成績はとやかく
いうほどではないが、普段がな。今日のバレンタイン、いくつチョコレートも
らってた?」
「開けてないから、チョコレートかどうか分かりません」
「こら、中身の問題じゃない」
「はい、分かってるって先生。今日何かくれた女子のほとんどは、僕から芸能
人やモデルのゴシップを聞きたがってるだけじゃないかなあ、多分」
「……すれてるな」
「それより先生。三者面談て書いてますが、実際は四者になる? 姉も一緒に
するのなら」
「そうしたいところなんだが。姉と弟の仲でも、個人情報は秘密にしなければ
いけないんだ。たとえ建前上でも」
「なるほど、面倒だなあ。僕らを同じクラスにしたメリットよりも、デメリッ
トの方が大きくなってないですか」
双子(三つ子以上でも同じだが)は異なるクラスに割り振られるのが一般的
とされる。にもかかわらず、相羽姉弟が同じクラスなのは、性別が違うという
他にも、もう一つ理由があった。
親の仕事からの関係で、碧も暦もモデルめいた仕事を時折やっている。たま
に、授業を途中で抜け出したり、昼から学校に来たりというケースもある。中
高生の年頃なら憧れを抱きやすい業界に関わっている生徒を、別々のクラスに
分散するよりも、ひとまとめにしておいた方が何かと行き届くであろうとの判
断を学校側が下したのだ。
「デメリットが大きいってことはない。でもな、僕のような、クラスを受け持
つのが一年目の教師には」
そこまで喋って、不意に口を噤む螢川先生。生徒の前で愚痴はまずいと気付
いたらしい。
「とにかくだ。忘れずにプリントを渡しといてくれよ。都合がどうしても付か
ないようなら、電話がほしいとも」
「分かりました」
「ああ、それから、姉の方は元気になったか? 一昨日、朝のクラスでおまえ
はいるのに、碧だけいないのは珍しいから、何ごとかと思ったぞ」
暦と碧がオファーされる仕事は、現時点では二人セットであることが多い。
だから当然、仕事を理由に遅刻したり早退したりする場合も、二人セットとい
うことになる。
「熱が出たけれど、病院で診てもらったらじきに収まったみたいです。実際、
昨日今日と見たでしょ? いつも以上に元気になりましたよ、あれは」
「まあな。分かった、それならいいんだ」
先生の用事から解放されると、暦は急ぎ足で学校を出た。
家に帰ると、台所からまな板を叩く包丁の音がしていた。一瞬、母さんかな
と思ったが、リズムが違うと感じた。母さんの包丁捌きの音は、これよりもわ
ずかにスローテンポで、柔らかい。技術に任せて勢いよく叩く今のこれは――。
「姉さんが夕食の準備?」
間仕切りのアコーデオンカーテンを開け、台所へ顔を覗かせると、果たして
姉の碧がエプロンを着て立っていた。頭の三角巾は白と赤のストライプ。これ
で下の着物が制服なら、学校の家庭科と見まがうかもしれない。
「お。暦、お帰りー。日直、結構時間取られたみたいね」
「料理してるなんて、何があったのさ。母さんが作っておいてくれた分、ある
んだろ」
「いや、別に。テレビをつけたまま宿題をやってたら、料理番組でロールキャ
ベツの作り方がが紹介されててね。素晴らしくおいしそうに見えたから、材料
揃ってるし、一品付け加えるのも悪くないかなって」
「体調、大丈夫なのかよ」
「なにそれ。体調が悪いときだけ料理を作るみたいな言い方」
「違う、文字通りに心配してるんだ。螢川先生も気に掛けてたし」
「平気平気。暦こそ、チョコレートの食べ過ぎでお腹こわさないようにね」
「……料理もいいけど、宿題は?」
「明日までの分は八割方済ませた」
「早いな。分からないところが出て来たら、教えてもらおうっと」
クラスが一緒なので、宿題も全く同じである。なるべく見せ合わないように
しているが、互いに協力はする。
「それよりも、残り二割をやっといてちょうだい」
「ああ。――そうだ、忘れない内に」
担任より受け取ったプリントを取り出し、姉に見せる。
「日直のついでって感じで渡された。姉さんはもらってないだろ?」
「ええ。なになに……面談かあ。昼間は難しいから、いっそ、家庭訪問しても
らった方が早いのに」
「そうかな。母さん、家にいるときは、家事をこなしたら電池が切れたみたい
に眠ることが多いじゃん」
「逆に言えば、何かしなければならない用事があれば、起きていられるってこ
とになるじゃない」
共働きの両親には、家にいる間はゆっくり休んでほしい。時折、子供のため
に時間を割いてくれれば充分だ。そう思っている暦は、しかし口を噤んだ。今、
姉と議論しても始まらない。
「この先二、三週間で、オフってあったっけ?」
母は暦達がそこそこ大きくなったのを機に、仕事に復帰した。最初の頃は原
点と言えるモデルをこなして感覚を取り戻し、現在ではたまに役者の方にも手
を広げている。そして間の悪いことに、つい最近、ドラマの撮影が始まったば
かりだった。
ちなみに二人の父親は現在、とあるエンターティナーショーに音楽担当の一
翼として駆り出されたため、しばらく帰らない。
「当然あるでしょうけれど、ああいうスケジュールって、割とフレキシブルじ
ゃない? 遅れが生じたら休みなんて潰れるし、他の俳優さん、特に大物の都
合でころっと変わることもあるし」
「うーん」
その辺の事情は、暦もよく承知している。
「まあ、幸いというか、今度の撮影はロケにしろスタジオにしろ、割と近場だ
から、その日の撮影が急遽取りやめなんてことになれば、母さんのことだから、
学校に駆け付けるかも」
「それはそれでいやだな。心の準備ってものが」
というよりも、先生だって当日になっていきなり行きますと言われても困る
だろう。プリントには、都合のよい日を指定してくださいとはあっても、いつ
までに指定との記述はない。とはいうものの、非常識な真似はできまい。
「とにかく、母さんにプリントを見せてみなくちゃ。メールで前もって知らせ
とく?」
「しなくていいじゃない? まさか明日ってことにはならないだろうから」
そうして料理や宿題をしながら待っていると、予想していたよりは早く、母
が帰ってきた。
「ただいまー」
「おかえりなさい。今日は早いね」
暦が出迎え、荷物や上着を持つ。姉の碧は台所へと走り、料理を温め始める。
「ありがとう、暦。天気がよかったし、みんな絶好調だったもの」
母――純子は一旦部屋に引っ込み、さすがモデルと思わせる素早さで着替え
を済ませると、台所へ足を運んだ。
「お帰りなさい、お母さん。いい感じに炊けてるわ」
碧が言ったのは、炊飯器のご飯のこと。母はやはりありがとうと言ってから、
匂いをかぐ仕種をした。
「何かこしらえた? おでんみたいな匂いがするのよね。でも、おでんじゃあ
ないような」
これには、碧が機嫌よく、「大当たりー」と声を上げる。と同時に、鍋を傾
け、中を見せた。
「ロールキャベツね。きれいにできてる」
「テレビの料理番組を見てて、ちょうど材料があったから」
暦にしたのと同じ説明をする碧。
「もっと小さい頃、手伝ってくれたときは、キャベツがうまく剥がせなくって、
ばりばりに破いちゃってたの、覚えてる?」
「覚えてる。あのときは、暦の方がうまかった」
「姉さん、自分の腕力を分かってないというか、結構雑なところあるから」
台詞の途中ではたかれた。鍋つかみを填めた手だから、やけに大きく見えて、
威力も普段以上にあった気がする。
姉弟喧嘩を始めそうな子供達に、純子が呆れ口調で言った。
「お腹空いてないの? お母さんはぺこぺこなんだけれどな」
夕飯が終わり、後片付けも済んだところで、暦は担任からのプリントを、母
に渡した。
「――なるほど。特別扱いさせちゃった」
申し訳なそうにつぶやく母。頬を緩めたのは、自嘲の笑みか。
「さて、どうしよう」
スケジュール帳を取り出し、ページを繰る。
「無理なら、行かなくてもいいと思うよ。あくまで、都合のよい日があればっ
て話なんだから」
「そんなこと言って、暦も碧も、三者面談を避けたいんじゃあ……」
「違うよ」
子供達から即答が返ってきて、嬉しそうにする。それから、視線をスケジュ
ール帳から起こした。
「実は、私が行ってみたいのかも。三者面談に、というよりも、学校にかしら。
碧や暦がいる学校ってどんなところなのか、とても興味がある」
「お母さんが昔行っていた学校と、大きな違いはないよ、多分」
「まあ、設備はハイテク化が進んでいるかもしれないけれどね」
弟、姉の順で言った。母は帳面を閉じ、分かってないわねと言わんばかりに、
二人をまじまじと見つめる。
「見掛けだけのことを言ってるんじゃないのよ。学校ってね、あなた達が暮ら
している世界、その一部でしょ。私の知らないところで、どんなことをしてい
るのか、どんな雰囲気を味わっているのか、どんな人達と知り合って、仲よく
したり喧嘩したりしているのか。全部、興味ある」
楽しげに語る母を目の当たりにして、暦と碧は顔を見合わせた。そしてぼそ
りとこぼす。
「とりあえず、三者面談でそこまでは分からないと思う……」
「だったら、ついでに学校見学もしちゃおうかな。そうなると、平日の授業が
ある内に行った方が――」
「授業参観はやめて〜」
双子ならではの、声を揃えての要請。対する母の純子は、不思議そうかつ不
平そうに応じた。
「あら、何で」
「他の子の親がいないのに、一人だけ教室にいる状況を想像してみてっ」
「私は気にしないわよ」
「こっちが気にする!」
再び、双子ならではの声のハーモニーで拒絶の意思表示。
「小学校のとき、来てくれたことあったよね。もちろん嬉しかったけれど、母
さんは目立つんだ。そこのところ自覚してくれなきゃ」
喋りながら、既視感を覚える暦。そう、今日の帰りしな、まさしくこのプリ
ントを渡された際、螢川先生から似たようなことを言われたんだった。
「分かったわ。授業参観はよしましょう。三者面談も、なるべくおとなしい格
好で行く」
答を返す母。やけに物分かりがいい。
「ところでお母さん、時間の都合はつくの?」
碧が問うと、母の口調は自信ありげなそれへと変化した。何故かしら、Vサ
インを作る。
「多分、大丈夫。撮影も終盤で、天候に関わるシーンは済んでいるから、スケ
ジュールの目処は立っているのよ。拘束時間は長いけれど、私自身の出番は少
ないから、抜け出せると思う」
「抜けられるの? 監督さんはともかく、母さんより大物の人が出てるって聞
いたけど」
「何とかする。二人とも、さっきからネガティブなことを言うけれども、私に
来てほしくないのかしら」
「そんなことない。でも、先生に迷惑掛けるのも避けたい。そのためには、絶
対確実に来られる日を決めておくのが一番いいんだ」
「分かったわ。なるたけ早く、決めて知らせるから。暦と碧は、先生によろし
く言っておいてね」
そうしてウィンクをした母。そのチャーミングな仕種に、娘と息子の不安が
鎌首をもたげた。
「先生の前では、そういうかわいらしいことしないでよ」
「え、どこかおかしかった?」
「見た目が非常識なほど若いってこと、自覚してないでしょ。せめて言動だけ
でも保護者らしくしてよね!」
「はいはい、了解したわよ。……担任の先生って、男性よね。ひょっとして、
若くて独身?」
「それ聞いてどうするっての?」
子供達からの質問のハーモニーに、純子はただただ笑みを返した。その表情
に、暦と碧はようやく冗談だと気付くのだった。
どこから話が漏れたのかは知らない。自分は口にした覚えがないから、先生
自身か姉さんかのどちらかなのは間違いない。
「ねえねえ、暦君。特別に三者面談があって、お母さんが呼ばれるんだって?」
朝、登校してから同じことを何度聞かれただろう。いい加減、うんざりして
いた。休み時間なのに休めやしない。自分の席に座り、うつむいた姿勢のまま、
返事もいい加減になりがちだ。しかし、すんでのところで声の主が小倉優理で
あると気付き、慌てて顔を起こす。
「あ、ああ、そうだよ」
口元をひとなでし、上向きカーブの笑みをなして取り繕う。
「仕事を、完全に再開したんだよね? ファッションモデルとかドラマとか」
「ああ、してる。前に言ったっけ、自分がモデルしているのは、母さんに引き
ずり込まれたせいだって」
「うん。小学生のとき、授業参観で初めて直接見て、とってもきれいな人だと
思った。あと、暦君のお家を訪ねたし、時々、雑誌の写真なんかでも見るけれ
ども、変わらないよねー」
「外見は若作りできても、心は歳を取るもんさ」
「あれがお化粧でできるなら、私も今の内に習っておきたいな」
「小倉さんはそんなことしなくたって」
「二十歳半ばを過ぎると、肌が急速に下り坂を迎えるのが実感できるんだって。
それなら対策を今から講じておいて、損はないじゃない。お化粧じゃなくても、
他に秘密があるのかも。ああ、会って話を聞いてみたい」
「……今度母さんが学校に来たとき、時間があれば会ってけば?」
相手に横顔を向けたまま、さりげない調子で持ち掛けた(つもりの)暦。目
の動きが、もう少しで不審者のそれだ。
「いいの?」
小倉は対照的に、両手を合わせ、びっくりした風に声を上げた。頬が赤みを
帯びたことが、傍目にもよく分かる。
「決まらない内から、あんまり喜ばないでくれよ。ひょっとしたら、土日にな
る可能性だってゼロじゃないんだし。そうなったら小倉さんだって、わざわざ
――」
「それでも会いたいな。何とかならない?」
「……じゃ、じゃあ。母さんが家にいるときに、小倉さんが来てくれるのが一
番確実性が高いと思う」
喋っていて、「が」の連続を耳障りに感じた。言葉が普段よりもスムーズに
出て来ない。
「うん、それでもいい。ああ、楽しみができた。いい日が決まったら、すぐに
教えて」
「もちろん」
請け合うのと同時に、チャイムが鳴った。授業が始まる。先生が教室に入っ
て来るまでに、顔を引き締めなければいけない。
次の休み時間――昼休みになるとすぐ、姉の碧がいっしょにお昼をと誘って
きた。それも、二人だけでという条件付きだ。特に珍しいことでもないので、
深く考えずにイエスの返事をする。早速、晴天の屋外に連れ出された。校舎か
ら遠く離れた銀杏、その根本に腰を下ろす。
「小倉さんがうちに来るんだって?」
会話が始まるなり、碧から言葉のストレートパンチ。暦はお茶を持ったまま、
気持ちのけぞった。
「誰から聞いた?」
「本人から」
「……」
どうしてそんな流れになったんだと疑問に感じる暦。姉の言葉が続けて耳に
入ってくる。
「『私が暦君のお母さんにまた会ってみたいと言ったら、暦君が家に来てもい
いって言ってくれたんだけれど、かまわない?』って。双子の一人だけから許
可をもらっただけじゃあ、不安なのかしらね」
小倉の声真似に関して、碧のそれは堂に入ったものである。あとの台詞は、
にやにや顔で唄うように言った。
「そ、そういうことか。――で、姉さんは何て答えた?」
「全然かまわないよって。そんなことよりも、母さんに会うのが目的なら、暦
にじゃなく、同じ女子の私に言ってくれてもいいのに、って気になって気にな
って。つい、聞き返しちゃった」
「なんつーことを……」
暦の顔が濃くて渋いお茶を飲んだときのようになる。同時になるほどとも感
じていた。
(姉さんの疑問も尤もだ。小倉さんが姉さんを避けた? 僕の方が頼みやすい
と思われてるのか?)
「彼女の返事、気になる?」
「ま、まあね」
「小倉さんが答えて曰く――基、何も言わずに、顔を真っ赤に。そうして次の
瞬間、頬を両手で覆い、『た、ただ、何となく』と言い残し、逃げるみたいに
去って行ったのでした」
「嘘だろ?」
「ううん。半分以上、ありのまま。うーん、脈ありとは思っていたけれども、
彼女の方がこんなに積極的になるとまでは予想してなかったわ」
「――」
頬が緩む。姉の視線を感じ、急いで引き締めた。それだけでは心許なくて、
片手で口元を隠す暦。おかげで昼食がちっとも進まない。
「姉さん」
「――うん?」
対照的に、口をもぐもぐ動かしていた碧は、食べ物を飲み込んでから呼び掛
けに応じた。
「母さんには言わないでよ」
「え、小倉さんが来ることを?」
「違う、それは言わないと話にならない。そうじゃなくって……」
「暦が小倉さんを好きだってことなら、母さん、多分気付いているわよ」
「え」
ころころころ……。箸先から肉団子が転がった。
(やっぱりか)
職員室で生徒の保護者と電話をしているだけなのに、汗が噴き出した。
急な話で申し訳ありませんと言われたが、本当に急である。焦り、慌てる螢
川だったが、教師としてそれを悟られないよう、平静を装って応じた。
「はい、もちろんかまいません。では、午後四時頃を目処に。ええ、四時きっ
かりでなくて結構ですよ。そちらのご事情は承知しているつもりですので。は
い、ではまた、はい、後ほど」
相羽姉弟の母親との通話を終わらせると、螢川は額を手の甲で拭い、座った
まま背伸びをした。周囲を見回し、同僚の女性教師を見付ける。螢川より年上
で先輩だが、正確にいくつ上なのかは教えてもらっていない。
「砧(きぬた)先生。もう一度、例の雑誌を貸していただけますか」
「例のって、ファッション誌ですか?」
髪をひっつめにし、化粧気もあまりない砧は、お洒落に関心がなさそうに見
られがち。だが、休日、学校外ではストレスを発散するかのように、びしっと
決めるタイプだった。螢川も二度ほど目撃して、驚かされた覚えがある。
「はい。相羽達のお母さんが今日の午後、来られることになったので、再度、
予習をしておこうと思いまして」
「予習というよりも、慣れるために、でしょう?」
「そうです」
短く答え、口を噤む。最初に頼んだときも同じことを言い、さらに「美人に
慣れておかないと」と付け加えたところ、相手がとても不機嫌になったのを思
い出したためだ。
砧はしょうがないわねという目付きで、螢川を見据えたあと、自身の机から
適当な物を見繕う。受け取った螢川は礼を述べ、自分の席に戻った。と、背中
に砧の声が。
「一番上の新しいやつ、グラビア雑誌だから、確か簡単なプロフィールが載っ
ていたわ。参考までに」
「はあ」
プロフィールなんて職業と年齢ぐらいなら学校にある調査票で充分……と思
っただけで、口には出さなかった。
一番上の雑誌を手に取り、目次に視線を落とした。ファッション誌と違い、
モデル名が記してあるのはありがたい。目的のページを探す。
「――おっと」
覚えた顔を見付け、手を止めた。
(やっぱ、美人だよなあ。ま、化粧とか照明とかのおかげもあるだろうが、そ
れにしても。何より、若く見える)
年齢を思うと驚かざるを得ない。高校生で通用する。
(でも、前に別の本で見た顔からは、全く異なる印象を受けたっけ。俳優の経
験もあるらしいし、これは一筋縄ではいかない予感がする。見た目にだまされ
てはいけない)
頬を叩いて気合いを入れる螢川。
今回の三者面談は、絶対に行わねばならない類のものではない。学業成績や
学校生活の面で、相羽姉弟に問題は特になく、むしろ優等生の部類に入る(ク
リスマスやバレンタインのようなイベントでは、多少浮つくようだが)。なの
に敢えて面談を望んだのは、やはり相羽暦と碧がモデルのアルバイトをしてい
ること、彼らの母親が芸能活動をしていることが大きい。中学生の内から芸能
界にあまり深く関わると、妙にすれた性格になるんじゃないかと危惧してい
る。できれば子供達には学業に専念させたいものだ。
(説得して翻意させる自信はないが……担任教師としての考えだけは伝えてお
くべきだな、うん)
螢川は一つ頷くと、雑誌を閉じた。まだ授業が残っている。
螢川は教室内と廊下との往復を繰り返していた。
廊下に出ると、窓の向こうに目を懲らす。視線の先は校門。見やすい角度で
はないが、様子は窺える。
教室から持ち出した椅子に腰掛けている相羽碧へと視線を移し、聞いた。
「何も連絡入ってないのか?」
「はい」
携帯電話の画面を見やってから答える碧。そこへ、教室の中で待っていた暦
が顔を覗かせ、
「大丈夫だよ、先生」
と平板な調子で言った。
「まだ遅刻と決まったわけじゃなし。遅刻しそうなら、必ず連絡して来ますっ
て」
「しかしだな」
螢川は腕時計のガラス面を指先でこんこんと叩いた。約束は四時頃としたが、
今現在、四時十分を過ぎようとしている。
「四時頃といったら、五分までには着席しておいてもらいたかった」
「そういう場合は、四時五分に、と念押ししなくちゃ、先生」
碧が分かった風な口を聞く。携帯電話を仕舞い、面白そうに螢川の様子を見
ていた。
「母は、四時五分が無理なら無理ってはっきり言うし、一度OKしたら、よほ
どのことがない限り、四時五分よりも早く着きます。四時頃なんていう漠然と
した約束だと、どうなるか分かんないわ」
「今さらそんなこと言われてもだな、四時頃という表現を最初にしたのはおま
え達のお母さんの方だし……まあいい。十五分経っても来なかったら、二人の
内どちらかが掛けてみてくれ」
「はーい」
生徒二人が声を揃えて返事して、三十秒も経たない内に、校門前が騒がしく
なった。
「何だ」
再び窓に近寄り、確認する螢川。校門前に停まった車に、目を見張った。
シルバグレーのリムジンがその長い車体を横付けし、今しもドアが開こうと
いう瞬間。たまたま下校中だった生徒達も、どんな人が降りてくるのか興味津
津といった風に、遠巻きに眺めていた。
「もしかして、あれか」
螢川は相羽姉弟を呼び寄せ、確認させた。途端に碧が額を押さえ、暦は下を
向いた。
「あんな車に見覚えはないけれど、多分、そうです……」
暦が答える内に、運転手にドアを開けてもらって、後部座席から二人の母親
が姿を現した。
その格好を遠目に見ただけで、碧と暦は再び頭を抱えた。
「何であんな服……!」
――つづく