#275/598 ●長編 *** コメント #274 ***
★タイトル (RAD ) 06/08/25 22:49 (353)
白き翼を持つ悪魔【04】 悠木 歩
★内容 06/08/26 21:34 修正 第3版
すぐに走って追いかけたはずではあったが、彼女の足は思いの外速かった。あ
と三秒ほど遅れていたなら、彼女がどの角を曲がったのか、完全に見失っていた
だろう。もっとも、追いつきはしたものの実際に彼女と歩いた時間は二分にも満
たない。青年のアパートに程近い、モダンな造りの建物。それが彼女のアパート
なのだと言う。
アパートと称されてはいるが、青年の住いとはかなり異なる。青年のアパート
は築三十年を超える木造であったが、こちらは近年急成長を遂げた不動産会社が
経営する最新モデルの独身者用住宅だった。今年の春先に出来たばかりで、確か
週単位、月単位での入居も可能なものである。
「ここまでで、充分だろう。早く帰れ」
木戸を抜けてから、初めて聞く彼女の声に、青年は自分が阿呆のように玄関先
で立ち尽くしていることに気づいた。
「これ、ありがとう」
弁当箱の入った紙袋を持ち上げて声を掛けるが、彼女は振り向かず玄関へと入
っていく。
「あの、ぼくは笠原健司。君は?」
名前を尋ねようとする青年の言葉は、その耳に届かなかったのか、彼女の姿は
アパートの中へと消えて行った。か、と思えたが寸前で足を止める。そして。
「田嶋優希だ」
背中を向けたまま短く答えると、今度は本当にアパートの中へ消えた。
部屋に戻った彼女が最初にした行動は、誰もがそうであるように、明かりを着
けることだった。もっとも彼女にとって、明かりなどなくても不自由はない。た
だ目的を達するその日まで、極力人間らしく振舞おうと意識的に執った行動であ
った。
六畳ほどのリビングに、さして広くはないダイニングキッチン、そしてトイレ
とバスルーム。テレビや冷蔵庫、オーブン電子レンジ、炊飯器にエアコン。およ
そ標準的な生活を送るに必要と思われるものは、一通り部屋に備え付けられてい
た。当面ここが、彼女の「成すべき事を成す」ための足場となる。
田嶋優希―――青年に告げた、そしてこの部屋を借りるに際し名乗った名前で
ある。それが昨夜手に入れたカードの名義人でもある。あのカードが彼女のため
に用意されたものであるとしたなら、その所有者の名前を使うことが一番無難で
あろう。
今日のところは上手くいった。そう考えてよさそうだ。たかだか弁当の一つで、
笠原健司と名乗った青年の心に入り込めたとまでは思わない。だが、きっかけく
らいには出来よう。
コートを脱ぎ、クローゼットへ入れると彼女は強い空腹感を覚えた。それは血
の海の中で目覚めて以来、初めての感覚である。
悪魔の眷属とはいえども、食べなければ生きていけないのだろうか。しかし生
者とは思えない自分が食事を摂らず、餓死する事態などあり得るのだろうか。そ
んなことを考えながら、キッチンへと向かう。
悪魔は人の魂を喰らう。どこかでそんな話を聞いた気もする。しかしいま彼女
が欲しているのは、人の魂ではない。彼女の胃が求めていたものは、ガスコンロ
の上にあった。鈍く銀色に輝く鍋の蓋を開けると、白色の湯気が勢い良く立ち上
る。まだ充分に温かそうだ。ホーロー引きの鍋の中身はクリームシチュー。それ
ほど難しい料理ではないとはいえ、出来栄えには自信がある。少なくとも、彼女
の舌が人間とよほどかけ離れた味覚を持っているのでない限り、作りながら再三
行った味見には満足していた。あるいは、半欠けの姿になる以前、作った経験が
あるのかも知れない。
炊飯器にも一膳分程度のご飯が残っている。他にも冷凍物を中心に、弁当箱に
入りきらなかったおかずが残っている。彼女一人の腹を満たすのに、不足ない。
エアコンより出る温風は、ほど良く部屋を暖めていた。食事の支度をするため
に動いたことで、却って寒さを感じた彼女が着けたのだ。
さらに食事を済ませると、身体の中からも温まってきた。
まだこの街へきて二日目だというのに、妙に人間臭くなってしまったものだ。
しかしその方が都合いいこともあるだろう。それより明日以降、自分はどう動く
べきか、考えなくてはならない。
そう思いながらも、彼女の意識は強く、眠りの世界へと導かれて行った。
中途半端に閉められたカーテンの隙間より射し込む光が、青年を優しく目覚め
させた。耳には雀たちの囀りが聞こえる。窓の外の電線に目を遣ると、羽を膨ら
ませた一羽の雀が毛繕いをしていた。その横で、もう一羽の雀が落ち着かない様
子で毛繕いする雀にちょっかいを出してみたり、電線の上を横に行ったり来たり
している。夫婦なのか、あるいは母子なのだろうか。
視線を枕元へ移すと、今朝は役目を免除された目覚まし時計が七時を指してい
る。
緩慢な動作で半身を起こし、右手で頭を掻いた後、自分の顔を二度三度と叩い
てみる。寝ぼけた意識を覚まそうというより、感じた違和感を正そうとしての行
動だった。
ああ、そうか、と独り呟く。
毎晩の如く見ていた夢を見なかったのだ。
夢。ある日を境に始まったその夢は、笠原健司にとっての、生きる原動力にな
っていた。ただし、それは健司を負の方向へと導くものでもある。
悪夢、と呼んでもいい夢を見ずに目覚めた朝。心地よい朝といってもいいはず
だった。しかし健司は決して爽やかな気分にはなれない。清々しさ、それは健司
が意識的に避けていたものである。
視線は狭い台所へと移動する。そこには昨夜のうちに洗っておいた黒い段重ね
の弁当箱があった。その弁当を作った少女こそが、こんな複雑な気持ちを健司に
与えた原因である。
十分近くはそうしていただろう。
その名を聞いた後、健司は彼女のアパート前で立ち尽くしてした。健司を我に
返したのは、アパートに帰宅して来た女性住人の怪訝そうな視線であった。気づ
いて見れば、アパートは女性専用となっている。あるいはいまの住人に、変質者
やストーカーの類と思われてしまったかも知れない。
再び自分のアパートへと向かう短い帰路の中、健司の思考は激しく波打ってい
った。それは自室に着いてからもなお続く。
田嶋優希。
それは健司の知っている、いや知っていた女性と同じ名前であったのだ。それ
もただ単に、「知人」と括られる程度に知っていたのではない。健司にとり、田
嶋優希はその名を耳にしただけで、感情を大きく揺さぶられる存在だった。
まさか彼女はそれを知って、名前を偽ったのだろうか。だが、そんなことをし
て彼女に何の得があるというのだろう。何より、少々言葉遣いこそ悪いが、人を
騙したりからかったりをするような性格には見えない。
思えば。
彼女の名を知ったいまにして思えば、である。
性質の悪そうな連中に絡まれている彼女を見掛けたとき、つい助けに入ってし
まったのは「田嶋優希」の面影を感じ取ったためではないだろうか。
「偶然、偶然だよ」
独りの部屋で、わざわざ声に出して自分を納得させる。
考えてみれば、田嶋優希などという名前は、取り立てて珍しい名前でもない。
たまたま同姓同名の女性と出会ってしまったからといって、驚くこともない。
そう考えることで、健司は少し落ち着きを取り戻した。落ち着いたことで、自
分が空腹であったと気がつく。
「せっかくだから」
カップ麺は保存が利く。握り飯は明日の朝食にしてもいい。それよりも、わざ
わざ彼女が手間をかけて作ってくれたのだから、その弁当を食べよう。
健司は紙袋から段重ねになった弁当箱を出し、開けた。
蓋を開けると同時に、息を飲む。わずかな間ではあったが、まるで時間が止ま
ってしまったかのように健司は動けなくなった。それから、ややあって、目から
止めどなく涙が溢れて来る。
胡麻の掛かった白いご飯。男言葉を使う少女からは想像が付かない、彩りを気
にした食材の配置。
しかし健司の涙を誘ったのはそれらのものではない。
およそ弁当にするには、あまりそぐわない食材。クリームシチューだった。
それは健司の知る「田嶋優希」の得意な料理でもあった。
弁当箱には箸とまるで幼子が使うような、小さなスプーンが添えられていた。
健司はスプーンを手にし、恐る恐るシチューを口へ運ぶ。白く湯気を立てたクリ
ームシチューの温かさと甘い味が口一杯に広がる。懐かしい味だった。それは健
司の古い記憶にある味と一致していた。
健司はついに嗚咽を上げて泣いた。
大きく吸い込んだ息を、ゆっくりと吐く。同じ行為を五度、繰り返した。それ
から布団の上で胡座を掻き、目を閉じる。
昨夜のことを思い出し、頭の中で一つ一つ整理してゆく。その結果、健司は全
てが偶然であると結論付けた。
この世に同姓同名の人物など、いくらでもいる。そう、試しに電話帳を開いて
みれば同姓同名が、どれほど並んでいるだろう。
クリームシチューもそうだ。市販されている素を使うのであれば、誰が作った
にしても味に大差は付かないのではないか。いや仮に多少の違いがあったとして
も、先に名前のことで動揺していた健司に、その差は感じ取れなかった。ただそ
れだけのこと。
「とにかく、あの子とはあまり関わらないほうがいいな」
健司の言葉は彼女を訝しんだり、嫌ったりしてのものではない。むしろ、まだ
ほんの微かにではあったが、好ましく感じていたからこそのものであった。関わ
ることで、これから健司の成そうとすることに巻き込みたくはない、と考えてで
あった。
計画した上で、であるならそれは偶然ではない。だが、あくまでも偶然を装っ
て行う。
彼女が青年と出会ったのは、一昨日と同じ駅に程近い交差点で、信号待ちをし
ている時であった。
「あっ」
「おまえは」
ほとんど同時に二人の声が上がった。
お互い驚いたような顔をするが、当然彼女のほうは芝居である。初めからこの
場所で会うように計画していたのだから。
「昨日はありがとう。美味しかったよ」
歩行者用信号が青へと変わり、二人は並んで歩き出す。いや、正しくは彼女の
ほうが半歩ほど先行する。
「そうか」
「あの弁当箱、どうしようか」
些か青年の言葉からは、よそよそしさが感じられた。出来るだけ彼女との関わ
りを避けたいという気持ちの現れだろう。しかしこれは彼女の予測の範囲であり、
むしろ好ましい反応でもあった。それだけ青年が彼女を意識している証でもある
のだから。
もちろんここで関わりを断つつもりなど、彼女にはない。だからこそ弁当箱が
青年の元に残るようにしたのだ。生真面目な青年は、必ずそれを返そうとする。
「そのまま使ってもらっても構わないが」
「えっ、いや、でも」
「明日、取りにいく。都合は?」
人の流れに乗り、思ったより早く駅に到達した。
「あ、ああ。僕は休みだからいつでも」
「じゃ、夕方、六時」
改札口の前を通り過ぎ、彼女はそのまま駅の反対側へ抜けようとする。そこへ
後ろから声が掛かった。
「君、たじ…まさん、電車に乗らないの」
「バスだ」
嘘である。学生でもなく、勤めているわけでもない彼女に通うべきところなど
ない。青年との約束を取り付けたことで、今朝の目的は果たされた。
駅を抜け、五十メートルほど歩き、彼女はようやく足を止める。振り返ると、
こちら側には高校があるのだろう。駅から出てくる乗客に、詰め襟姿が目立った。
確認はしなかったが青年は改札口を通り、電車に乗ったようだ。
「明日か、それまでは暇になるな」
ふざけ合って走る学生の一人が肩にぶつかって行ったが、気にも留めず彼女は
呟く。
今日、ではなく明日にしたのは、その日その時間に会えば面白いことになる。
そう予感したからであった。そしてそれは必ず、彼女の「成すべき事を成す」大
きなきっかけとなる。それはもう予感というより、確信に近いものであった。
「ちょっと待ってよ、ゆうきちゃん」
どこかで子どもの声がした。思わず彼女は周囲を見渡す。やや離れたところで、
懸命に走る男の子を見つけることが出来た。小学二、三年生といったところか。
背負ったランドセルが、かたかたと鳴って賑やかだ。
男の子の走る先に目を遣ると、同じ年頃と思しき女の子が腰に手を充て、少々
生意気なポーズを取っている。この女の子が「ゆうきちゃん」なのだろう。
彼女はつい、吹き出してしまった。
子どもたちの様子にではない。自分に対して、である。
男の子の声を聞いた瞬間、自分が呼ばれているかのように錯覚してしまった。
彼女が田嶋優希を名乗ったのは先日からのことである。しかも青年の他には、部
屋を借りるに際して不動産屋の書類に書き入れただけだ。それ以外の人間から優
希と呼ばれるはずはない。まして彼女自身、その名にまだ馴染んでいないのに、
だ。
そんな自分が滑稽で、おかしくてならない。人間に混じり、人間の世界で過ご
すことによって、その愚かさが自分にも影響してしまったのだろう。
彼女は口元を引き締める。
時間はいくらでもあるが、あまりゆっくりと構えていてはいられない。そう感
じていた。
「ゆうきちゃん、はやすぎるよ」
追いついた男の子が、女の子へと抗議を試みる。
「あんたが遅すぎるの。せっかくわたしが迎えにいってあげてるのに、まーだね
てるなんて、あきれるわ」
女の子には抗議を受け入れる気など、毛頭ないようだ。それどころか、さらに
早口でまくし立てる。
「ほらほら、いそがないと遅刻しちゃう。走るわよ、けんじ」
走り去る子どもたちを見送りながらも、彼女の意識はその姿を捉えていない。
彼女の意識―――思考は女の子が最後に言った名前を聴覚が捉えた瞬間、五感を
停止させてしまった。
「けんじ」と「ゆうき」
これは偶然なのか。少しばかり、出来過ぎている。
突然、何かを思い出して、彼女は子どもたちの走り去った方向へ視線を送った。
人混みに飲み込まれたのか、角を曲がったのか、もうその姿はどこにもない。し
かし見えなくなったはずの姿が彼女には見えた。いや、知っていたというのが正
しいのだろうか。
「えーっ、ぼくもう走れないよ」
「ごちゃごちゃいわないの」
渋る男の子の手を引いて、女の子は走り出す。足には自信があった。同じ学年
の女の子にはもちろん、男の子たちにも徒競走で負けた覚えはない。そんな女の
子は、強引に男の子を自分のペースで走らせる。
だが、男の子の手を引いていることで、どこかバランスが崩れていたのかも知
れない。あるいは注意力も散漫になっていたのだろう。
「きゃっ」
何かに躓き、女の子は前へと倒れこむ。咄嗟に掴んでいた男の子の手を離し、
その手を突いて転ぶのを防ごうとする。しかし遅い。目の前が暗くなったかと思
うと、次の瞬間、強い衝撃が女の子を襲って来た。
「だいじょうぶ、ゆうきちゃん?」
視界を暗くしていた地面から頭を上げると、そこには心配そうに女の子を覗き
込む男の子の顔があった。
手を振り解いた後、女の子が転ぶと分かった男の子は、背中を掴んでそれを止
めようとした。けれど間に合わず、せめて慣性のままに女の子を踏みつけないよ
うにと、上を飛び越えて行ったのだと聞いたのは、それからずいぶん後になって
からだった。
「立てる? けがはしてない?」
「へいきよ、これくらい」
痛みは感じていなかったが、それよりも転んでしまったという驚きで、誰の目
もなければ泣いていただろう。けれど男の子の手前、強がってしまう。本当は自
分の方が年下なのだが、いつも女の子は男の子に対して「姉」を気取っていた。
男の子の見ているところでは、プライドが先に立つ。
「いた………」
立ち上がろうとすると、それまでなかった痛みを感じた。驚きのため鈍ってい
た神経が、転倒から時間を置き、その機能を取り戻し始めていたのだ。
「あっ、ひざ」
「えっ」
男の子の言葉に促されるようにして、女の子は自分の膝へと視線を落とす。右
膝が擦りむけて、血が滲んでいた。
「う、うわん」
堪えきれなくなって、女の子は声を上げて泣き出してしまう。
血を見たことで、神経が活性化されたのだろう。痛みが一気に押し寄せて来た
のだ。痛みによってプライドは、脆くも崩れ去ってしまった。
「ど、どうしよう。おうちに戻って手当てしなきゃ」
普段、気丈な女の子の涙に、男の子も狼狽しているようだ。そんな男の子に、
女の子は首を横に振って見せる。
「だめ………そしたら、ちこく……しちゃう」
入学してから一度も、遅刻・欠席のないことも、女の子の自慢だった。泣きじ
ゃくりながらも、遅刻したくないという気持ちは強い。
「じゃ、じゃあ、保健室にいこう。先生には、ぼくがいっておくから。そしたら、
遅刻にならないだろ」
「もう、だめだよぉ。わたし、走れない………ちこく、だよ」
遅刻、と口にした途端、痛みに悔しさと悲しさも加わり、女の子の涙は更に量
を増した。
「だいじょうぶ、ほら」
男の子はくるりと背を向けて屈み込む。背中に乗れという合図だ。
女の子は男の子の肩へと手を伸ばすが、途中で動きを止めてしまう。
「けんじには、むりだよう」
「だいじょうぶさ。これでも、ぼく、男だもん」
「えっ、あっ」
躊躇う女の子を強引に背負い、男の子は立ち上がった。そして勢い良く走り出
す。
「ゆれるけど、けが、いたまない?」
風を切って走る男の子の声は、ややくぐもって聞こえた。
「へいきだけど………」
「えっ」
「へ・い・き」
聞き返されて、女の子は大きな声で答える。
本当は男の子の走る振動が少し傷に響いた。しかし戸惑いと驚きは、痛みに勝
る。
幼馴染として、二人は毎日のように顔を会わせていた。特に男の子は早くに父
親を亡くしたため、代わって母親が勤めに出るようになった。その間、男の子は
女の子の家に預けられていた。そのためお互いに家族と過ごす時間よりも、二人
でいる時間の方が長いくらいである。だから、女の子にしてみれば、男の子の性
格はよく承知しているつもりであった。
気弱で自分の思っていることを、はっきりと言葉に出来ない。何をするときで
も、人の顔色を窺い自分から先に行動することがない。気の強い性格の女の子か
らは、いつも歯痒く見えた。実際の年齢とは逆に、手の掛かる弟のように思えて
いた。
そんな男の子が、初めて逞しく見える。
「けんじって、男の子なんだ」
ぽつりと呟く。
「えっ、どうしたの。やっぱり痛い?」
女の子の独り言に男の子が足を止める。
「なに止まってんのよ。遅刻するでしょ。そしたら、けんじのこと、ゆるさない
からね」
聞かれてしまったかも知れない。そんな恥ずかしさに、女の子は思いとは別の
態度をとってしまう。まるで馬を進めようとする騎手の如く、両足でぽん、と男
の子のわき腹を蹴った。
「わ、わかったよ」
再び駆け出した男の子の背中で、女の子は風を心地よいと感じていた。
「なんだ、これは」
通勤通学のピークは過ぎたようだ。気がつけば、行き交う人の数も少なくなっ
ている。
青年の元に金の無心に来た女の時とは違う。彼女が意識的に子どもたちの後を、
その能力で追った訳ではなかった。それでは、何であったのか。彼女は暫しその
場に立ち尽くし、考え込んだ。過去を持たない彼女が、結果に至るまでには随分
と時間を要したが、それは思い出すという行動に近いと気づく。
子どもたちのやり取りの中、彼女の意識は女の子のものと重なっていた。つま
りあの女の子が、幼い日の彼女の姿であったのだ。
「馬鹿げている」
声にして、自らの導き出した結論を否定する。会社員風の中年男性が足を止め、
彼女を怪訝そうに見ていた。しかし彼女と目が合うと慌てて視線を逸らし、何事
もなかったかのように歩き去って行く。
数分前、いまの中年男性と同じように、あの子どもたちは彼女の目の前を通り
過ぎて行ったのだ。それが彼女の、あるいは青年の過去の姿であろうはずもない。
ふと彼女は自分の胸元が温かくなっていることに気がついた。ちょうど、女の
子が男の子の背で、その温もりを感じていたように。しかし自らを悪魔の眷属と
信じる彼女は、それを心の感じる温もりとは考えない。もっとも、確かにそれは
心などという抽象的な温かさではなく、もっと具体的なものであったのだが。
胸元、コートの内ポケットへ手を入れると、その原因はすぐにみつかった。
一本の白い羽根。先日、夜の公園で拾ったものである。手にしたそれは、微か
に熱を帯びていた。
「また貴様か………」
誰とも知れぬ相手へ、毒づく。
公園で彼女の企てを邪魔した何者かが、今度は子どもたちの幻影を見せたのだ
ろうか。確証などないが、他には考えられもしない。
よかろう。信じてやるよ。
彼女は思った。
少なくとも彼女の成そうとしていることを、快く思わない存在があるのは確か
なようだ。信じてはいなかったが、悪魔に対立する存在といえば神か天使と相場
が決まっている。ならば、それを天使として認めてやろう。そう思ったのだ。
彼女は手の中で羽根を幾重にも折り、丸めて行った。やがて羽根はすっかりと
拳の中へ収まってしまう。
たとえ相手が天使であったとしても、臆する理由などない。
まして光を放ってみたり、くだらない幻覚を見せるだけで、自らの姿は現さな
い相手である。その程度は、高が知れよう。
「見せてやるさ」
彼女の言葉に応じるようにして、握った拳が熱を持つ。行き交う人々は誰も気
づかないが、もし誰かその拳に触れる者があれば、大きな火傷を負っていたであ
ろう。
天使が何を望んでいるのかは知らない。
彼女の目的を妨害したいのか、青年を救いたいのか。あるいは別の何かであろ
うか。いずれにしたところで、彼女の計画は進行中である。何者にも邪魔などさ
せるものか。
彼女の唇の端が醜く歪み、怖気立つような笑みが浮かぶ。
ゆっくりと拳を解くと、そこにはもう羽根の姿はない。代わりに黒い灰が零れ
落ち、風の中に消えて行った。