#153/598 ●長編
★タイトル (PRN ) 03/06/22 09:19 (145)
姉、帰る(前編) 已岬佳泰
★内容 03/06/22 09:35 修正 第2版
ぼくはその日の午後、少しだけ情緒不安定だった。
得意な数学で小田切先生ににらまれるほどにひどい点数をとってしまったこと。ちょ
っとだけ気になっていた風村良子が、悪友の森下伸治と図書室でいっしょだったこと。
それに、弁当のおかずが苦手な鮭の切り身だったこと。そういったことがいっしょくた
になって、ぼくの気分を喫水線以下に落とし込んでいた。こうなったら、家に帰ってテ
レビゲームで気分転換しよう。
そんなわけで、ぼくは部活をさぼり、いつもより早い時間に下校した。そして、その
男と出くわした。
中学校からの帰り道は、梅雨入り前のぼんやりとした風が吹いていた。
川に沿って歩いていると男が橋のたもとに立っているのが見えた。小型トラックのド
アに背を預けるような格好だった。男は包み……新聞紙にくるんだ長さ七十センチくら
いのものを大事そうに抱えていた。
刈り上げの頭、ジャンパー、長靴。ずんぐりと太めの体躯。
近づくにつれて明らかになる男の格好は、なんとなく漁師を連想させた。
橋の手前には東に向かって五軒の家が軒を連ねている。川にいちばん近いのが森下商
店。悪友、森下伸治の家だ。もともとは雑貨屋だったのが、最近、コンビニ風のつくり
に改装した。全国チェーンの有名コンビニではない。あくまでもコンビニ風なのだ。森
下によるとコンビニとは自動ドアがあり、弁当とドリンク、それにマンガがあることが
必須条件らしい。それだけなら確かに森下商店は条件をクリアしていた。
その隣がぼくの家、榎木家だ。午後三時過ぎだから、ぼくの家には誰もいない。町役
場に勤めている父、親戚の園芸業の手伝いに出かけている母、そして先週、電車で三時
間の東京から突然帰郷してきた姉は、毎日のように隣町の書店に出かけて夜まで戻らな
いと宣言していた。ぼくの家の東隣がクリーニングの鈴屋さん。それから、農協に勤め
ている五嶋家(子どもはいない)、中上牛乳店(一学年上、バスケット部主将の中上裕
子さんはここの長女である)と続く。
男はまるでそこで誰かを待っているようでもあった。時々、橋を振り返り、その向こ
うを見ている様子なのだ。しばらくして、誰も来ないことを確認すると、またもとの姿
勢に戻る。そして視線を戻す途中で男はぼくに気づいたようだった。背をトラックから
離し、ぼくの方へと体を向けた。ぼくも男を見た。最初は大きな鼻が顔いっぱいにあ
り、次にその上にある小さな目、垂れた眉毛、最後に小ぶりの口が動くのがわかった。
「榎木さんの家はこちらでよかったでしょうか」
ぼくはうなずいた。
「榎木はぼくの家ですが……」
男の目が小さくなり、眉毛が動いた。男は笑っていた。
「それじゃあ、これを」
そう言うと、男は持っていた紙包みをぼくに差し出した。重そうである。
「あの、どちらさまですか」
ぼくは出された紙包みに手を出さないまま、穏当な質問をした。新聞紙に包まれたそ
れは正体不明で、なおかつ、新聞紙がところどころ濡れて黒く湿っている。しかも、そ
の新聞紙の中には切り花らしいものが数本はさまれていた。つぼみの状態だがカーネー
ションらしい。
「榎木凛々さんにこれをわたしてください」
男はぼくの質問を無視すると、新聞の包みを押しつけようとした。ちなみに榎木凛々
とはぼくの姉の名前である。凛々なんて非常識な名前はもちろん親がつけたものではな
い。本人がそう名乗っているだけである。姉はほとんど売れていないが、小説家を自任
していた。
「そう言われても、名も知らない人から受け取るわけには……」
ぼくが言いかけた時、バタバタと背後から足音が聞こえた。男の顔が動いた。驚いて
いる。
「いったい、きみは何者なんだ」
町役場でパソコンを叩いているはずの父だった。背広に革靴だったが、さすがに上着
は手につかんでおり、肩が上下していた。町役場からここまで約一キロメートル。それ
を駆けてきたのだろうか。額に汗が滲んでいる。
「きみはこの一週間、この時刻になるとウチの周りをうろうろしているそうだが、いっ
たい何の用なんだ。となりの森下さんが気味悪がって、わしのところに電話をくれたん
で、こうして走ってきたのだ。さあ、答えてくれ」
初耳だった。この男のことは近所でウワサになっていたらしい。しかし、父や母の口
からそんな話は出なかった。もちろん、ふつうに部活をやっていれば、帰ってくるのは
午後六時をまわるから、男が今頃(午後三時過ぎ)に来ていたのなら、ぼくが知らなか
ったことになんの不思議もない。
「きみは何者なんだ?」
父はそう言うとさらに一歩、男に近づいた。男はその分、父の剣幕に押されるように
後ずさりする。眉毛が小刻みに動いて、困っている様子である。中途半端に差し出した
ままの紙包みをまた胸に抱え込み、口を動かした。
「オレは苑倉竜一といいます。凛々さんのファンです」
「ファン?」
ぼくと父の声がユニゾンになった……。
「それで預かった包みがあれってわけ?」
その夜のわが家の食卓である。「お代わり」とご飯茶碗を差し出した父に向かって、
母が問いただした。隣町へと出かけた姉はまだ帰ってこない。柱時計は午後八時になっ
ていた。
「そうだよ。ファンと言われたんじゃ、突っ返すわけにもいかないだろ。それに危険物
でもなさそうだし」
そう。売れない小説家でも人気商売には違いない。ファンは大切にするにこしたこと
はないという父の意見にぼくも賛成だった。結局、男は新聞に包んだものを父に押しつ
けると、そのまま軽トラックに乗り込んで走り去った。
「でも変だよ。中味は何ですかって聞いても、あの人はただ凛々さんに渡してくれって
言うだけで、そうすれば分かるはずだって」
ぼくが口をはさむと母がしゃもじを持った右手を振り回した。
「それにねえ、あれって妙に生臭いわよ。冷蔵庫にいれるには大きすぎるし、凛子が帰
るまであけちゃだめなのかねえ。なんか気味悪いからなんとかしたいんだけど」
母は新聞に包まれたあれを台所の流し台に置いていた。濡れているし、においも出て
いる。さんざん迷ったあげくの決断だった。ほんとうはどこかに捨ててしまいたいと顔
に書いてあった。
「とにかく、凛子が帰ってくるまで待とう。あの男は心配したような変質者ではなかっ
たから、そこはひと安心だな」
母がよそったご飯茶碗を受け取ると、父はそう言って夕飯に専念した。
帰宅した姉がこの奇妙な包みのタネ明かしをしたのは、もう午後十時をまわった頃だ
った。ぼくらはまた食卓に集まり、そこで姉の説明に耳を傾けた。
「あれはあたしが書いたミステリークイズへの回答のつもりなんでしょうよ」
母がいれたお茶をひとすすりしてから姉はそう言った。姉によると(マイナーな)雑
誌に彼女の掌編小説が掲載されたらしいのだが、それがクイズ形式になっていて、読者
から回答を募るというものだった。ふつうはハガキや手紙で回答を寄せるのだが、たま
たまその苑倉某は答えを持参したのだろうという姉の解釈だった。かなり強引だが、な
によりもあの包みの中味が雄弁に物語っている。
「そのクイズってどんなものだったわけ?」
母がそうたずねると、姉はいったん二階へ上がり、A5サイズの雑誌を持ってきた。
悲しいくらい小さな活字の掌編小説のタイトルは「凶器消失?」だった。まるで埋め草
じゃないか。思っても口には出さないのが弟としての仁義である。千字ほどの「凶器消
失?」。そのあらすじはこうだった。
名物「シャケ弁」で繁盛する弁当屋の厨房で店のオーナー(男)が死んでいた。死因
は頭蓋骨陥没。司法解剖の結果、男は重いモノで頭を横から殴打されたらしいと報告さ
れた。警察では弁当詰めに居合わせたパート主婦を容疑者として取り調べたが、肝心の
凶器らしいものが現場から見つからなかった。そこでクイズ。「凶器を特定せよ」とあ
って、弁当屋の間取りとそこにあったもの(発泡スチロールの弁当箱やおかずのパッ
ク、業務用炊飯器など)を描いたイラストが添えてあった。ヒントとして「男の傷のま
わりが水で濡れていた」とある。
「実にひどい小説だな」
父がそううめくと姉がむっとした。
「そりゃあ、あたしだってこういう仕事で満足してるわけじゃないわよ。でもね父さ
ん、新人はこういう仕事もこなしながら、チャンスを待つのよ」
姉の剣幕に父がややたじろいだが、それでもすぐに体勢を建て直す。
「人を殺しておいて、それをクイズだなんて。まったくどういう神経をしてるんだ」
姉が書くのはもっぱらミステリ小説である。学生の頃からたいそうな読書家だった彼
女だから、ミステリーは古典から入っている。その影響で、彼女の小説はおのずから典
型的なパターン、つまり殺人があって、名探偵が出てきて、荒唐無稽(失礼!)な推
理をして、強引に事件を解決するというやつだ。父はそういうミステリ小説に対して、
毎日読んでいる新聞ほどには敬意を払ってはいなかった。母も似たようなものだ。
「クイズなら他に書きようがあるでしょうに。わざわざ人をひとり殺さないといけない
わけ。なんか殺伐としてイヤだわね」
「もう」姉がむくれる。「ミステリに殺人は付き物なのよ。カー、ヴァンの昔からそう
と決まってるの。だから、殺人抜きのミステリ小説なんて私の中では存在しないのよ」
「だけどねえ、新聞をごらんなさい。この頃は毎日のように奇妙な殺人事件が起きてい
るわ。この間も白昼一家四人が惨殺されたけど、犯人の逃走経路が全く分からないのと
か、池袋の飲み会で急性アルコール中毒になった人が日本海側の公園で死体で見つかっ
たとか」
母は容赦ない。ぼくは姉に助け舟を出すことにした。
「この雑誌、けっこう有名なやつじゃないか。すごいね」
姉がぼくを見た。その目は冷たい。
……ぼくは応援してるんだよ。ま、たしかにメジャーな文芸誌ではないけどさ。
「とにかく、あれはもらっていていいわけね」と母。「あのまま放っておいたら、生も
のだから変になっちゃうし。浩二の弁当のおかずになるから、助かるけど」
姉がうなずくのを見ながら、ぼくは頭を振った。
「勘弁してよ。鮭は嫌いなんだよお」
包みの中味は、時間がたって、もうすでに半解凍状態になっている新巻鮭だった…
…。
前編・終わり