#35/598 ●長編 *** コメント #34 ***
★タイトル (RAD ) 01/12/15 20:14 (180)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (06/17) 悠歩
★内容 01/12/28 16:00 修正 第2版
赤い光が弧を描き、地べたへと落ち、転がる。メンソールの細い煙草から立ち
上る煙は、一瞬その濃さを増しやがて消える。
時刻は宵の口となり、もはやその必要性もないはずのサングラスを掛けた女は、
それまでずっと見つめていたマンションの部屋から視線を外した。
「思い切ったことをするわね………あの子。あの【日龍】のぼうやのマンション
に引っ越すなんて」
さしたる感情も込めず、女、師岡麗菜は呟いた。
応える者はない。彼女と文字通り、一心同体となった兄はいま、深い眠りにつ
いている。
「さて、どうするべきかしらね。麗花がいなくなって、厄介なのは音風って子く
らいだけど………いまならそれほど恐るべき存在ではない。それより長期の接触
で、あのぼうやが真の覚醒をしてしまえば、それこそ面倒。いまのうちに始末す
るのが、ベストなんだけどね」
麗菜の顔に、初めて表情が刻まれた。仮面のように凍てついた顔に笑みが浮か
ぶ。
「でもね、それは先生さまが楽しみにされているようだから。私が勝手に手出し
する訳にはいかないわよね」
元より医者である仲間が希望していなくても、麗菜が積極的に朧の姉妹たちを
始末することもなかったかも知れない。彼女とその兄雅人にとって最大の目的で
あった麗花の命は、もう終わってしまっていたのだから。
しかし目的を果たしても、麗菜たちには帰る場所もない。ただ忌まわしい血に
従って生きる以外、道はないのだ。いまは彼女にとって愛する兄とともにあるた
め、惰性で朧と対峙する立場にいるだけだった。
「それより、臭い匂いがするわね」
ふん、と鼻を鳴らすと麗菜の浮かべていた笑みは、嫌悪の表情に変わる。それ
から先刻まで様子を窺っていたマンションの明かりに背を向け歩き出す。その目
的は数歩先、外灯の死角となった場所に停められた車であった。
ドアを開け乗り込むと、ルームランプに照らされ不健康な色に染まった自分の
顔がミラーに映し出される。
「降りてもらえないかしらね」
ルームミラーを見つめたまま、麗菜の口からは穏やかな声が発せられた。しか
しその目は険しく、不快感を露わにしている。
「けけっ、つでねえだあ(つれねえなあ)」
眠ったままの兄ではない、別の声が麗菜に応える。それに続き、ルームミラー
の端に不気味なものが映り込んだ。
初めは手。青黒い手が伸びて、シートの背もたれをつかんだ。腕はその本体を
引き上げる。しかしその本体が尋常ではない。
腕は肩に繋がってはいなかった。肩など持ち合わせていなかったのだ。肩ばか
りではない。腹も足も、人が当然のように備えた身体のパーツを大きく省いてい
た。腕が引き上げたのは頭である。腕が繋がっていたのは、その頭頂部であった。
その姿は深海の底に生息する提灯鮟鱇(ちょうちんあんこう)のようであった。
醜いそれは、麗菜たちの仲間である『完全体』ではない。『異形』と呼ばれる存
在とも違う。生き物であることさえ麗菜には疑わしいそれは、創造者によって
14号と呼ばれる存在だった。
「おでたち、ながまだどう? ながよぐじようで」
麗菜が予想していた通り、それはさらに人間から遠のいた存在となっていた。
以前は話せていた人の言葉が、いまでは話せなくなっている。
必要な臓器を詰め込むため、最低限の脳しか残されていない14号は、どれほ
ど麗菜が嫌悪感を露骨に示したところで理解することも適わないのだろう。笑顔、
と称するのには大きな疑問と抵抗の残る表情でこちらを見ている。そいつにとっ
て普通の表情でいるより、下手にしまりのない口元を歪め、ひくつかせている分
だけ不快さが増してしまう。
麗菜はスイッチを入れ、運転席横の窓を開いた。それから一瞬の間だけ不快さ
を堪え、鮟鱇の腕をつかむとそのまま窓の外へ投げ捨てた。
「ぎゃわん!」 精一杯の叫びを残し、鮟鱇はアスファルトを転がった。
頭だけならまだ良かったかも知れない。なまじ腕を持っていたがため、それは
ラグビーボール以上の不規則さで転がっていく。だが麗菜はそんな鮟鱇の無様さ
を見届けることもなく車を発進させていた。
「ぢぐじょう、ぜんぜいにいいづけでやず」
「ご勝手に。私は私の自由で動く。お前は先生のため、しっかり朧たちを見張っ
ていなさい。お前には、せいぜいそれくらいしか出来ないんだから」
その言葉が最後まで鮟鱇の耳に届いたのかは分からない。元より麗菜には確か
めるつもりもない。鮟鱇を轢いてしまう可能性さえ気に掛けず、車をその場から
立ち去らせた。
「まだ臭い………」
本当に一人になった、もちろん兄は除くが、その車内で麗菜は呟いた。
鮟鱇の匂いが残った車内の空気を浄化するため、窓は開いたままに車を走らせ
て。しかし麗菜が感じていたのは、薄れつつある鮟鱇の匂いばかりではない。
「こっちは私が始末するしかないのかしら」
煙草をくわえた麗菜は、車のライターを強く押し込んだ。
「あ、お父さん。お風呂とご飯、どっちを先にする?」
予想していなかった。深夜遅くに帰宅し、とうに寝ているものだと思っていた
娘に声を掛けられ、男は戸惑い、すぐに応えることが出来なかった。
「………お風呂を先にもらおうかな」
それだけの応えを返すのに、三十秒ほどの時間を要してしまう。
「だと思った。すぐに入れるからね」
過ぎるほどに穏やかな娘の笑顔。男は呆けたように頷くと、娘に先導され浴室
へと向かった。
目にも鮮やかな彩りが、デーブルの上を飾り立てていた。
ほうれん草の緑に、人参の赤。茄子の青さに、白いご飯。そのどれもが不規則
な男の帰宅時間を知っていたかのように、出来立てであることを示す温かな湯気
を立ち上らせている。男の横のグラスに、気泡の弾ける音とともに晩酌のビール
が注がれた。
「ありがとう」
短く礼を述べ、男はグラスの液体を半分ほど喉へ流し込む。湯上がりの身体に、
冷たいビールが染みわたった。
「じゃあ、いただきます」
男は箸を手にして、里芋の煮付けを口へと運ぶ。
「うん、うまい。こいつはうまい」
娘に気を遣った世辞ではない。程良い味付けは、他界した妻には及ばないもの
の充分に男を満足させるものだった。
「驚いたな。おまえ、いつの間に料理なんか覚えたんだ」
男にとってそれは驚愕であった。つい数ヶ月前まで、半ば不良のような格好を
して、言葉遣いも乱暴だった娘。その頃はこの子が料理を作ってくれる日が訪れ
ようとは、夢にも想像出来なかった。
「ほら、私ももうすぐ高校卒業なんだしさ。やっぱり、料理くらい作れないと恥
ずかしいでしょう」
喜ばしい変化ではあったが、そう応えたとき娘の表情がわずかに翳ったのを、
男は見逃さない。
「おまえ、その………学校、うまくいっているのか?」
躊躇いつつも、箸を置いて男は訊ねてみた。それが娘の身に降りかかった、忌
まわしい事件を思い出させてしまうと知ってはいたが、訊ねなければならない。
あの事件がいまも娘やその周囲に影響を及ぼしているなら、親として改善してや
らねばならない。そう思って。
「平気………うまくいってるよ」
穏やかな声が返る。いましがた見せたばかりの翳りは、もうどこかへと消えて
いた。代わりに、娘ははにかむような笑みを浮かべていた。
そんな表情が本心から出来るようになったのであれば、こんな喜ばしいことは
ない。しかしそれは忌まわしい事件で受けた心の傷を隠すためのもの。そう思え
て、男は辛くなる。
「あのな、もし、もしもだぞ。おまえが学校に行くのが嫌だと言うなら、もうし
ばらく休学したって構わないんだ。そうだ! いっそのこと学校を辞めて、どこ
か遠くの街に行くか。なに、父さんの事なら心配はいらない。余所の街にだって、
仕事はいくらでもあるさ」
はたしてそれが、娘が心に受けた傷に対し適切な方法であるのか、分からない。
けれど妻の死からあの事件が起きるまで、長く娘との会話を疎遠にしていた男に
は、他に方法が考えられなかった。それでも精一杯、娘へ愛情のこもった手を差
し伸べたつもりだった。
「平気だって。お父さんたら、気の遣いすぎだよ」
返ってきた応えは、苦しさを訴えるものではなかった。それどころか娘を気遣
う父に、これ以上の心配を与えまいとする配慮さえ、感じられるものであった。
こんな時、妻が生きていれば。
男は思う。
娘が女として受けた心と肉体への傷。どれほど心を痛めても、男である父に娘
は想いの全て語ることは出来ないのであろう。彼とて、娘が田邊という男から受
けた仕打ちを、いまだ訊き出してはいない。もちろん、警察を通じて知ってはい
る。だがあるいはそれを娘自身から訊くことが出来なければ、彼女の傷を癒して
やる方法も見つけられないのではないだろうか。それは男親では、とうてい難し
い話である。
「だったら、聞いて欲しい話があるんだけどな」
葛藤する男の心を察したのか、娘の方から何かを語りだそうとする。
「な、なんだい? 父さんに出来ることなら、なんだって………」
事件についての話なのか。
学校での、娘の置かれた辛い立場についての訴えなのか。
緊張した男の手は、知らず知らずのうちに拳を握っていた。
「進路のこと」
男にしてみれば、それは予想外の言葉であった。にわかに身体から力が抜ける
のを感じた。
「私、デザインの専門学校に行きたいの………」
男の視線を避けるよう、俯きながら娘が言った。
「ああ、別に父さんは構わないが」
「ほんと!」
にわかに娘の顔が、輝いたように見えた。実際、上げられたその瞳は部屋の蛍
光灯より明かりを受け、きらきらと輝いていた。
「私、絶対に反対されると思ってたんだ」
「馬鹿な………お前の人生だろう。どうして父さんが反対なんか………」
言いかけて、男は止める。
そして得心する。
男の妻は、生涯にただ一度だけの出産しか臨めない身体であった。それだけに
生まれてきた娘に対し、夫婦でありったけの愛情を注いだ。それと同時に、過大
な期待も掛けていたのだ。
男は娘に自分の跡を継いでくれることを期待した。幼い頃より、ことある毎に
それを娘に語っていた。自分の進んだ高校、大学に娘も進むことを望んでいた。
それが娘を縛りつけていたのだ。思えば、娘が不良のような格好をするようにな
ったのも、妻の死をきっかけにではなく、男の奨めた高校への受験を失敗してか
らだったかも知れない。
「しかし、お前がデザインに興味があったなんて。父さん、全然気がつかなかっ
たよ」
いま娘の見せている笑顔は、本物である。その奥底まで測り知ることは出来な
いが、心の傷の痕跡を感じさせない笑顔であった。それが嬉しく、男も笑った。
「う、うん………ちょっとね」
曖昧な応え。初めて見る、娘のはにかんだ表情。
ひょっとして。
男は察する。
あるいは娘自身が学びたいのではなく、誰か親しい友人がデザイン学校へ進学
するのではないかと。いや、それは友人ではなく、娘が想いを寄せる男性なのか
も知れない。
それでもいいと、男は思う。
その友人、男性を想うことで娘が立ち直っているのなら。
「あ、ごめんなさい。もう、ビールなかったね」
何かをごまかすかのように、必要以上の慌ただしい動きで、グラスに新たなビ
ールが注がれた。
「ありがとう………うん、佳美のついでくれたビールは最高だ」
男はグラスのビールを一気飲み干し、娘におかわりを求めた。