#36/598 ●長編 *** コメント #35 ***
★タイトル (RAD ) 01/12/15 20:15 (180)
【OBORO】 =第4幕・異形胎動= (07/17) 悠歩
★内容 01/12/28 16:02 修正 第2版
意味もなく時計に視線を遣るのは、これで何度目だろうか?
柱時計の針は九時五十分を指し示していた。
喉が渇き、冷蔵庫を開けて烏龍茶のペットボトルを取り出す。昨日買ったばか
りの1.5リットルボトルであったが、中の液体はもう底を尽きかけていた。そ
れでもグラスに注ぐと、どうにか一杯分だけあった。
冷えた烏龍茶を、息継ぎもせず一気に飲み干す。その結果、シンクにグラスを
置いたのち、優一郎はキンとした頭の痛みを堪えるため、数十秒間、俯いたまま
動けなくなってしまう。
「馬鹿馬鹿しい、俺はなにを緊張しているんだ」
思わず、自嘲的な笑みがこぼれる。
夕刻、再会を果たした従姉妹たちの部屋で夕食を馳走になり、その帰り際。
『あとで、あなたの部屋に行くから………』
美鳥の言ったその一言が、優一郎を緊張させていた。
思い出される、あの日のこと。
初めて従姉妹の存在を知り、夏休みを利用して彼女たちの家を訪れた夜のこと
であった。
『優一郎、私のこと、嫌い?』
肌も露わにした美鳥の、やけになめまかしい唇。若い盛りである優一郎が平静
でいられるはずもない。一時の情欲に駆られ、身体を重ねていても不思議はなか
った。もし美鳥が従姉妹でなかったら、そうしていたかも知れない。
だがあの時の優一郎は、己の奥から沸き上がる欲望を辛うじて抑えることが出
来た。あまりにも不自然な美鳥の告白に、流されることなく済んだ。
直後、異形と化した田邊による騒動が起き、今日まであの夜の美鳥の言動につ
いては、優一郎も半ば忘れかけていた。美鳥たち姉妹が、その出来事を思い出す
より先に、消息も安否も分からなくなってしまったため、優一郎の心は彼女たち
の身を案ずることにと使われた。
麗花を除く姉妹の無事を知った後も、まだあの夜こと思い出されずにいた。美
鳥の言葉を聞くまでは。
「なにも、あの時の続きとは限らないじゃないか」
一人苦笑する。
優一郎にとって、美鳥たち姉妹だけが血の繋がりを持つ親族である。当然、彼
女たちから見た優一郎も同様である。成人していた長女を失い、中学生と小学生
の妹を抱えた美鳥が、今後の生活について唯一の親戚である優一郎へ相談しよう
としているのかも知れない。むしろそう考えるほうが自然ではないか。
だが。
もし、この部屋を訪ねて来る美鳥の目的が、あの夜の続きであるとしたら。自
分はどう対応すべきなのか。
なんの結論も出せぬまま空になっていたのも忘れて再びペットボトルのキャッ
プを開いたとき、部屋のチャイムが異様な大きさで鳴り響いた。
「はいっ!」
思わず返した声は、緊張に驚きをくわえ甲高いものとなる。己の不様な声を耳
にし、顔を熱くした優一郎はなくなった烏龍茶の代わりに唾を飲む。
特に防音措置されてもいないが、いまの声は外まで届いていないだろう。そう
自分を納得させ、ドアへと向かう。
「はい、どなた?」
平静を装ったつもりだったが、作り声になってしまう。
「私、美鳥」
予想通りの応えに、優一郎はドアのロックを外した。
「なんだよ、こんな時間にさ」
ドアを開いた優一郎は、美鳥が訪ねて来ることを忘れていたかのように振舞っ
てみる。が、自分でもそれが芝居じみて不自然になっているのを感じた。
「さっき言ったじゃない。あとで優一郎の部屋に行くって」
「ああ、そうだったっけ? まあ、じゃ、入れよ」
「うん、おじゃまします」
閉まらぬよう、ドアを押さえた優一郎の横を束ねた髪の少女が過ぎる。微かに
漂う、淡いシャンプーの香り。レモンイエローが目にも鮮やかなタオル地のカー
ディガン。生来とも思えるかしましさは見せず、清楚な少女の姿をした美鳥に、
優一郎の下半身に血流が集中する。
「どうかしたの?」
美鳥に気づかれぬうちに下半身の高ぶりを収めようと、優一郎はしばらくの間、
ドアの前に留まっていた。そんな優一郎を怪訝に感じたのだろう。背後から先に
居間に通った美鳥の声が届いた。
「あ、いや、なんでもない」
一度興奮してしまった優一郎の若い性器は、そう簡単に収まりを見せてくれな
い。だが、最大時より幾分縮小したそれは、ジーンズパンツの上からはそれほど
目立たない程度に落ち着きはじめていた。相手の眼前にでも突き出さない限り、
気づかれずに済みそうだ。
静かにドアを閉じた優一郎は、鍵に手を掛けてから逡巡した。すでに深夜と呼
べる時刻、従姉妹とはいえ若い女性を室内に招き入れた上で施錠する意味を考え
てしまったのだ。収まり掛けていたものに、再度力が甦る。
結局、優一郎は施錠しないまま、居間へと戻った。
若い男性の一人暮らしとはいえ、優一郎の部屋は比較的きれいに整頓されてい
た。しかし掃除をしてくれる親と暮らす、同年代の友人たちに比べれば行き届か
ない部分も少なくはない。優一郎はコーヒーのしみを隠すため絨毯に載せられて
いた、これまた少しばかり黒ずみ始めた草色のクッションに座るよう、美鳥に勧
めた。
「何か冷たいものでも飲む?」
「うん、ありがと」
優一郎がすぐに台所へと向かったのは、来客をもてなすためと言うより、クッ
ションの上で折られた、短いパンツルックから大胆に覗く美鳥の白い脚を見ない
ようにするためだった。
一人の部屋には大きすぎる、3ドアの冷蔵庫に掛けた優一郎の手が止まる。扉
を開け、中を確認するより早く、シンク横に置いたペットボトルに気がついたの
だ。
「水しかなかった………」
美鳥には、素直になにもなかったと説明して謝ろう。そう考えた優一郎だった
が、実行には移されない。部屋の中に美鳥と二人きり、飲み物もなく間を持たせ
る自信がなかったのだ。
「そうだ、コーヒーがあったっけ」
残暑も終わったとはいえ、まだ温かな飲み物が欲しくなるような日は少ない。
従ってキッチンの棚に置かれたインスタントコーヒーも長らく飲んではいない。
その封を開けたのは、確か今年の春先だった。
手にした瓶の蓋とその周囲には、うっすらと埃が溜まっていた。それを紙製の
キッチンタオルで拭き取る。いささか透明度の増した瓶を軽く振るってみる。中
には小さな山が出来ていて、粉末状であるはずのコーヒーが、全く動くことはな
かった。
「毒、ではないよな?」
今度は蓋を開け、匂いを嗅いでみる。コーヒー以外の匂いはしない。およそ半
年間の眠りを経て、だいぶ湿気を蓄えていたが、コーヒーであることに代わりは
なさそうだ。
逆さにしていたグラスを二つ、起こして柄の長いスプーンを使いコーヒーを移
す。ホットの方が手軽であるのだが、美鳥に冷たいものと言った手前、アイスコ
ーヒーを作るためである。
案の定、本来粉末であるあずのコーヒーは、すっかり固形化していた。柄の長
いスプーンを差し入れ、それを力任せに削る。不快な感触を手に残し、瓶と同化
していたコーヒーの一部が小石のような固まりを生みだす。それをさらにスプー
ンで細かく砕く。固まりが適当と思われるサイズになった頃には、スプーンを握
っていた掌にマイナスドライバーで刻んだような痕が残り、赤くなっていた。
「なんか、コーヒーって言うより、ネズミの糞みたいだな」
自らの連想で気分が悪くなる。軽く頭を振るってくだらない発想を払拭し、そ
れから居間の方をちらりと見遣る。曇りガラスの入った引き戸のため、美鳥の姿
は死角となって断定出来なかったが、いまの独り言に気づいた様子もない。その
まま優一郎は作業を続けることにする。
二つのグラスに固形化した粉末コーヒーを適量分け入れる。ミルクもホット用
の粉末を使う。こちらもほぼ固形化していたが、粉末コーヒーより砕くのは楽だ
った。さらに砂糖をくわえた後、冷蔵庫から冷えた水を取り出し注ぐ。冷たい水
では固形化したコーヒーが溶けにくいと承知していたが、熱湯を注いだ後の氷が
ないため致し方ない。 「こんなもんか………」
液中に飽和量を越えたコーヒー粉末が若干残ってはいたが、さして気になるほ
どでもない。優一郎は二つのグラスを握りしめるようにして持ち、美鳥の待つ居
間へと戻った。
「悪い。ストロー、ないんだ」
自分はウエイターに向かないかも知れない。優一郎は思う。
そっと置いたつもりのグラスだったが、その水面は大きく波打ち、危うくこぼ
れそうになった。
「ん、ありがと」
しかしそれをさほど気にする様子もなく、美鳥はアイスコーヒーを早速と口へ
と運んだ。あるいは美鳥も優一郎同様、緊張して喉が渇いていたのかも知れない。
グラスの表面には、短時間のうちに驚くほどの水滴が付着していた。当然それ
を持っていた優一郎の手も、ぐっしょりと濡れている。
クーラーのスイッチを入れた方がいいだろうか。濡れた手をシャツの裾で拭う
と、痛切なほどの喉の渇きに促され、優一郎も自分のグラスを口元へ運ぶ。
先刻の烏龍茶に負けぬ勢いで喉へと流し込まれた液体。しかし烏龍茶のように、
グラスの中身全てを飲み干すまでには至らない。
分量を誤ったか。
あるいは予想以上に劣化していたのか。
優一郎の喉を通って行ったアイスコーヒーには、ほどよい苦みも甘みもなく、
ただ粉っぽいだけのものであった。
見れば美鳥の前に置かれたグラスも、中の液体は彼女が口をつける前と変わら
ぬ容量を保っている。
「ごめん、失敗したみたいだ。作り直すよ」
「い、いいよ………平気、おいしいから」
伸ばし掛けた優一郎の手を、美鳥がそっと制す。優一郎も無理にグラスをとる
ことなく、その言葉に従った。作り直すと言ったところで、別のコーヒーがある
訳でもないのだから。
それからしばらく沈黙が続いた。
部屋の隅に置かれた、目覚まし時計の時を刻む音がやけに大きく感じられる。
それをうるさいと思う反面、時計がデジタルでなかったことに優一郎は感謝もし
ていた。もし時を刻む音のしないデジタルであったなら、この沈黙の時間はさら
に重たいものになっていただろう。
味の良くないアイスコーヒーではあったが、いつの間にか二人ともその半分以
上を喉に流し込んでいた。交わす言葉のない時間、ただそれを口にする以外、す
ることもなかったのだ。
「火事、大変だったな」
沈黙に堪えかね、最初に口を開いたのは優一郎の方だった。しかし火事の話題
を切り出したのは、それが特に気になっていたのではなく、直接美鳥が部屋を訪
ねて来た理由を問うのに躊躇いがあったためである。
「うん」
短く応えた美鳥の顔は、それまでの沈黙以上に伏せられてしまう。優一郎は切
り出した話題が失敗であったと悟る。
妹たちの前では気丈に振舞っていても、姉を失った衝撃は美鳥の心に深く刻ま
れているはずである。それは両親を共に失っている優一郎にとって、想像に容易
いものであった。
「あっ、そう言えばニュースで聞いたんだけど、お前、病院に運ばれたんだって
な。けがとか………」
火傷はもういいのか。
そう訊ねようとして、優一郎は唇の動きを停止させる。自分は話題をさらに悪
い方向へと導いているのではないだろうか。そう思ったのだった。
テレビのニュースでは、美鳥が病院に搬送されたおり、その容態がどの程度で
あったかまでは伝えていない。が、麗花を死に至らしめたほどの火事である。美
鳥も相当の重傷を負った可能性が高い。あるいは生涯、その傷痕が残るほどに。
だとしたら、迂闊に訊ねてしまっていいものだろうか。
姉を失った心の傷にくわえ、その身体に刻まれた傷痕の話まで蒸し返すことは、
美鳥にとって耐え難い苦痛ではないだろうか。
この部屋を訪ねて来た理由を、美鳥はまだ何一つ話してはいない。それなのに
優一郎は独り、想像を先走らせ落ち込んでいく。
それからまた沈黙が続く。二人が交わした会話の時間を数十倍、数百倍上回る
沈黙が続く。