#2532/5495 長編
★タイトル (HHF ) 94/ 3/22 14:22 (143)
「家族になりたい」 (5/7) ■ 榊 ■
★内容
もともとは自分の部屋なのに、気を使った様子で水香が入ってきた。片手には
店から持ってきた瓶ビール、もう一方の手にコップを二つ持ちながら。
「飲まないか?」
瓶ビールをちらつかせて、水香が尋ねる。十二時をとうにこえていたが、悟に
は嬉しかった。
「喜んで」
「そうこなくちゃ」
布団の上に二人で座りこみ、ビールを開けてコップにそそぐ。二人で乾杯して
飲んだビールは、よく冷えていた。
水香はまだ十六のはずだったが、慣れた様子でコップをあける。それでも、飲
み終わったあとの笑顔だけはまだ幼い。
空いたコップにビールをついでやると、水香が話し始めた。
「お袋がさぁ、再婚したがっているんだ」
今度は、悟も動ぜず受けとめることができた。ビールをつぎ終わると、自分の
コップにもたした。
「それでさ、オレ、反対しているんだ」
「なんで」
「お袋に男がからんで、幸せになったのを見たことがないんだ」
そうかも知れない、と悟は胃の中の冷たいビールを感じながら、深く納得した。
「それと、今回はお互い持っている者同士だろ? 持っている者同士が一緒にな
る場合、どちらかが捨てなくちゃいけないんだ」
「……」
「つまり、国と国とが合併した場合、王様は一人しか要らない。もう一人の王様
には、引き下がってもらうしかない。引き下がるのはその場合、きまって弱い方
だ」
水香は半分ほどビールを飲んだ。コップをつかむ指が細くて長いことに、悟は
気づいた。美しい子であることに、果たして本人は気づいているのだろうか。
「どうしたら、お袋は幸せになれるんだろうな」
結婚をしても不幸になるかも知れない。しなくても、やっぱり不幸だとしたら、
なぜ恋などしてしまうのだろう。水香にとって、それはきっと謎に違いない。
悟も結論をだすことはできなかった。何故なら、その結論は当人同士がだすも
のであるのだから。親父はどこまで、弥生さんのために自分を捨てることができ
るのだろうか。
「あまり悩んでもしょうがない。悩んで結論が出る問題じゃないから」
親でもなく、兄弟でもなく、友達でもないが故にかえって話してくれた悩みに、
悟はそういうしかない思慮のなさが嫌だった。それでも、水香は静かにうなずい
た。
「うん、そうだね、オレもそう思うよ」
自分の半分ぐらいしかない水香の、立て膝に顔をのせている姿がかわいくて、
悟は愛しさをこめてビールをついだ。
二人は黙って、窓の外を見つめた。テレビの音もしない、ラジカセもない。た
だ遠くに流れる車の音だけが、絶えることのない川のように聞こえてくるのだっ
た。
「あの星はなんていうの」
同じ星を見つめていることに気づいた悟がたずねる。
「あれはシリウス。全天一明るい恒星」
それは青白く、夜風に吹かれる氷片のような星だった。
「オリオンのすぐしたに見えるから、すぐ分かる」
窓に近付いてみると、確かにその上にオリオンの特徴的な姿が見えた。
「オリオンの左上の赤い星と、シリウスと、もう一つの明るい星を含めて、冬の
大三角形だ」
「よく知っているな」
「星を見るのは好きなんだ」
悟も星を見るのが好きなはずだったのに、どうして何も憶えることがなかった
のだろう。小学校の頃の教科書を思い浮かべ、知識とはこういうものを指すのか
も知れない、と悟は思った。
次の日も変わらぬ慌ただしい日だった。夜になり、店で水香と弥生さんと三人
で働いている自分を考えると、つい先日まで遊びとアルバイトに明け暮れていた
生活がどこか遠くに感じる。
店は賑わい、そして磐田さんが飽きもせずに絡む。他のお客さんが冷やかした
りして、あたりは和みながら時が過ぎゆく。
突然、磐田さんが立ち上がり、出ていこうとした。
「いけねぇ、そろそろあいつの来る時間じゃねえか。弥生さん、俺は退散するぜ」
「あら、そんな時間かしら」
弥生さんがちらっと、時計を見つめる。
あいつって?……と思うまもなく、その男は現れた。
扉を開けてはいってきたのは、四十第後半の小柄な中年。人の良さそうな笑顔
には、深いしわが刻み込まれていた。
スーツに、よれのない長いコートを羽織った彼は、思わず不思議そうな表情を
した。
「悟、なにやってんだ」
洗い物をしていた悟の顔に、冷や汗が流れた。
「おっ、親父」
「いけない、うっかりしてた!」
弥生さんがことの事情を飲み込み、思わず叫んだが、すでに時は遅かった。
「親父って……、お前の親父なのかよ」
水香が悟につめよる。悟は自分の口を塞いだが、それはかえって逆効果だった。
「お前、記憶喪失っていうのは嘘だったのかょ!」
水香が凄い剣幕で怒りだす。それでも、言い訳をいうような機転の良さは悟に
はなかった。
「きたねえぞっ! そうやってオレ達をずっと観察してきたのかよ! 馬鹿にす
るなっ!」
水香の手がひらめき、悟の頬にきまった。店に高らかな音が響き、悟の頬には
赤いあとが残った。
もう何も言うことはできなかった。言えば、それが水香を傷つけることが、悟
には分かった。情けない話だが、涙が出そうだった。
「ごめん」
肩で息をする水香を残して、悟はカウンターをこえ、事情の飲み込めない父を
連れて外に出た。
店に残ったのは、怒りに髪が逆立ちそうな水香と、オロオロして泣き出しそう
な弥生さん、そして磐田さんを含めたお客さんだった。
「水香、水香。怒らないで、許してあげて」
「何を許すんだよ」
「別に悪気があったわけじゃないのよ、私が引き留めたのが悪いのよ」
「……お袋もグルだったのか」
水香の表情がいっそう悪くなった。
「水香……」
水香は何も言わずにエプロンを脱ぎ捨て、家の中へ帰っていった。
弥生さんはとうとう泣き出してしまった。
悟は親父の車の中で、深く落ち込んでいた。
事情を説明もせず、ただ時折うわごとのように「しまった」と呟く。親父はど
う扱っていいか、分からない様子だった。
「お前の行動なんて、分かりきっていると思っていたが、やっぱり私の分身じゃ
ないんだな」
刺激しないように、つとめて明るく振る舞う親父。その気持ちには感謝したい
が、いまの悟にはそんな余裕はなかった。
「水香さんもかなり怒っていたようだが、まああまり気にするな」
親父の再婚がかかっていると言うのに、いつもは寡黙な親父はこんなとき、妙
に優しかった。
「親父……わるい」
初めての応対に、父はホッとしたようにため息をついた。
「なるようになるさ」
親父は明るく言い放ち、自分よりも大きい息子の肩を叩いた。
車は夜の国道を走り抜けていった。
店の方は、閉められた。
「ご免なさい、かっていっちゃって」
泣きはらした弥生さんが、来てくれたお客さんに精いっぱい謝る。
「いいって、こんなんじゃ料理も作れないもんな」
「早く元気だしなよ」
お客さんはみな快く帰ってくれたが、一人だけ磐田さんだけは弥生さんを慰め
るために残りたい、といってきかなかった。
「磐田さん、お願いです。一人にさせて下さい」
「そんなこと言わないでくれよ。お前と俺の仲じゃないか、一人じゃ寂しいぜ」
「いま、もうそんな余裕がないんです」
そう言われてさすがの磐田さんも、鼻白んだ。要するに、磐田さんと対応する
には余裕がいる。今はないから出ていってくれ、という意味であることに、磐田
さんも気づいた。
「そうかよ、分かったよ。帰るよ」
「ご免なさい」
扉は惜しげもなく、目の前で閉められた。蹴り破ってしまいたい衝動をどうに
かこらえ、磐田さんは吸っていた煙草をおもいっきり吸い上げ、いつものように
路地に投げ捨てた。再び煙草をくわえ、三本のマッチを使ってようやく火をつけ、
そのマッチも路地に投げ捨てた。
この世の中全てが気に入らなくて、磐田さんは眉間の間に強くしわを作り、歩
き去った。今夜はやけ酒をするつもりだった。