#2523/5495 長編
★タイトル (RAD ) 94/ 3/10 0:23 (195)
「SPAER」(8) 悠歩
★内容
ヴィーナスがいた窓は東病棟のはずれに位置していた。
病棟と建物自体は繋がっているのだが、通路は関係者以外が通り抜けられないよう
に普段は鉄の扉に遮られ歩いて行くことが出来ない。
そちら側には主に各種の検査を行うための部屋や手術室があった。
東病棟の一階からエレベータを使うか、階段を上るしかない。
二人はエレベーターを使った。
司はエレベーターが昇降するときの音で人に気付かれてしまうのでは無いかと心配
したが、隣を動く病棟側のエレベーターが入院患者によって頻繁に使われるため以外
に目立たないものだと葉崎は言った。
むしろ階段を使う方が時間が掛かる分、人に見られる可能性も高いだろうと言う事
だった。
目的の部屋には、そこが何に使われているのか表すものは掲げられていなかった。
しかし病院内に使われていない部屋が存在していること自体、おかしなことの様に
司には思えた。
部屋には鍵が掛けられていたが、葉崎は内ポケットから小さなケースに収められた
何種類かの針金のようなものを使い、いとも簡単にそれを開けてしまった。
一瞬の緊張。
だが扉を開けて中に入ると、その緊張は空振りに終わってしまった。
部屋の中には何に使うのかは分からないが、だいぶ古くなった様に思われる機械が
あるだけだった。
「ありゃ、本当にただの空き部屋だな、ここは」
葉崎がすっとんきょうな声を上げた。
司は窓を開けてみた。
「ヴィーナス」
窓の下にいた鳩は間違いなく司のヴィーナスであった。
「なあ、ヴィーナス。どうしてお前、こんなところに来たんだ? やっぱり、茉莉華
ちゃんを探してきたのか」
腕の中にヴィーナスをそっと抱えて、頭を撫でてやる。
ヴィーナスは気持ちよさそうに目を閉じた。
「その鳩は、あの子を探してここまで来たのは間違い無いだろう。たが、あの子はこ
の部屋にいる訳じゃなかった。確かに………考えてみれば窓の有る部屋にいるっての
は変だからな。
その鳩は、陽が落ちてやむなくそこで休んでいたんだろう………
と、なるとあそこかな」
葉崎に促され、司はヴィーナスを抱いて部屋を出た。
二人は一度車に戻った。
ヴィーナスを抱えたまま病院の中を移動するのは都合悪い。
とりあえずトランクの中にあった、道具入れの代わりの段ボールにヴィーナスを入
れて、再び病院に戻る。
「今度はどこを探すんですか」
本当の茉莉華の居場所について、サッパリ見当のつかない司は葉崎に聞いた。
「いくつか妖しい場所はあるんだが………、俺の感だとあそこだな」
「あそこって?」
「びびるなよ」
二人は先ほどの館の地下へと移動した。
この病院では入院患者への各種検査は火曜日と木曜日。手術が水曜日と金曜日と決
まっていた。
今日はどちらの予定も無いため、緊急の事でもなければこの館を使用する人間は少
ない。
事実、地下は明かりが落とされていて非常灯が灯されているだけだった。
「ここだ」
葉崎の立ち止まった部屋を司は見上げた。
「こ、ここに入るんですか………」
唾を飲み込みながら、司は言った。
「恐いんなら、ここで待っていてもいい」
「い、行きます」
鍵を開けるのに、先ほどの空き部屋よりは時間がかかったが、それほどの苦労は無
かった様だ。
きっと、この葉崎と言う男は特ダネを掴むために泥棒まがいの行為も随分と重ねて
きたのだろうと司は思った。
そして二人は遺体安置室へと入って行った。
葉崎が車から持ってきた懐中電灯によって、部屋の中が部分的に浮かび上がる。
中には無数の死体が所狭しと………と司は予想していたのだが、以外にも死体など
は一体も無かった。
「安心したか? 『遺体安置室』なんて言っても、年中死体が置いてあるわけじゃな
い。入院患者が死んだとしても、たいていの場合遺族がすぐに引き取って行くし、司
法解剖もここでは滅多にやってはいないからな」
「べつに………死体が有ったって平気です」
強がってはみたが、やはり死体が置かれていないことに司はホッとしていた。
「見ろ」
部屋の隅まで来て、葉崎は司を促した。
そこには頑丈そうな鉄の扉が堅く閉ざされている。
「おかしいと思わないか? 『遺体安置室』の中になぜこんな扉があるんだ」
「病院の事は、良く判らないけど………」
確かにそれは不自然の様にも思えた。
「開けられますか」
「まかせとけ」
扉の鍵を調べながら葉崎は答えた。
「ふん、たいして複雑な鍵でも無いな。まさか見つかるとも思っていなかったんだろ
う………俺はな、いよいよ喰いつめたらこの道で生きていける自信があるんだ」
それはまんざらハッタリでは無い。
そのことは、ここにたどり着くまでの間に充分、実証済みの事であった。
程なくして、鉄の扉は開かれた。
「茉莉華ちゃん」
司はやりきれない怒りが全身を駆けめぐるのを感じた。
「クソッ!」
その事を十何年前から承知して、充分予想していた筈であろう葉崎も、それを目の
前にして思わず唾を吐いた。
二人の目の前には細長いガラスの水槽の様な物があった。
それはまるで、ガラスの棺桶の様にも見えた。
その中で横たわる少女………茉莉華だった。
茉莉華は呼吸器を付けられ、身体には大小無数の管が通されていた。
最も痛ましいのは胸から通されている管だった。
それは水槽の外で規則的に動いている装置へと、繋がれている。
「人工心臓だ………。この子の心臓は既にもう一人の茉莉華に与えられたんだろう…
……しかし……まだ生かされていたとは」
二人の気配に気付いたのか、茉莉華はゆっくりと眼を開いた。
そして司の姿を認めると何かを話そうとしたが、呼吸器が邪魔となって声を出せず
にいる。
「ま……茉莉華ちゃん、いま、そこからだしてあげる………」
よろよろとした足どりで、司は茉莉華の水槽に歩み寄る。
「やめろ! そんな事をしたら、その子は確実に死ぬぞ」
葉崎に言われ、司はふと動きを止める。
「おそらく、その子はこれからもう一人の茉莉華の為のスペアとして生かされるんだ
ろう。いままでは、片方を冬眠させることで年齢を揃えたが、これからは同時に年齢
を重ねさせて行く必要があるからな」
それは余りにも惨く、人道に外れる考えであった。
司は再び茉莉華の元へ向かった。だが、水槽の前まで来ても、何もする事が出来な
い。
「茉莉華ちゃん………茉莉華ちゃん………茉莉華ちゃん」
冷たいガラスの水槽を抱き、ただ少女の名を呼びながら泣く以外にどうする事も出
来ない。
狭いガラスの中で、茉莉華は何とか呼吸器を外そうとしていた。
首を動かしてみたり、腕を動かそうとしてみたり、しかしその狭さと身体の自由が
効かない事もあり、思うようには行かない。
「もういいよ、茉莉華ちゃん………無理をしないで」
もう涙のため、司には茉莉華の姿をはっきりと見ることは出来なくなっていた。
それでも茉莉華は呼吸器を外そうとする努力を止めようとはしない。
その姿にたまらなくなった司は、水槽の外から繋がっている呼吸器の管を手で押さ
えた。
そして、茉莉華に負担の掛からないように注意を払いながら、それを引いてみる。
やがて、呼吸器は茉莉華の口から外された。
「つかさおにいちゃん、きて………くれたんだね」
水槽の中に声はこもり、息も切れ切れであったが嬉しそうに茉莉華は言った。
「ヴィーナス……ヴィーナスが、茉莉華ちゃんがここにいるって、教えてくれたんだ
……」
「ヴィーナスちゃんが………。まりか、おにいちゃと………いっしょに………ヴィー
ナスちゃん……を…とばせに………いけなく………なっちゃった………」
「……………」
「あのね………まりか………つかさおにいちゃんも………ヴィーナスちゃん……も…
……だいすき……。
それから………ママも………パパも………」
苦しそうにそこまで話すと、もう茉莉華は何も言えなくなってしまった様だった。
誰よりも愛していた両親に裏切られた茉莉華のショックは、想像を絶するものであっ
ただろう。
一瞬、薄暗い部屋の中がパッと明るくなり、再び暗くなった。
驚いた司が振り返ると、何処に隠し持っていたのかカメラを構えてストロボを焚く
葉崎の姿が有った。
「やめろ! 茉莉華ちゃんを撮るな!!」
あまりにも痛ましい茉莉華の姿を、写真なんかに残したくない。
司は葉崎に突進していったが、簡単に突き飛ばされてしまった。
「この子の姿を世間に知らせ、二度と同じ事が行われない様にしなきゃならないんだ」
司にとっては、非情としか思えない葉崎の言葉。
「そうだ、葉崎さんは茉莉華ちゃんの写真を撮って、有名になりたいんだ。
そんなことより、茉莉華ちゃんを助けてよぉ」
「俺に何が出来る? もう一度、もう一人の茉莉華から心臓を抜き出して、その子に
返してやるか? そんな事が出来るか? そうすれば、今度はあの子がこうなるんだ
ぞ」
「そんな……………」
司はまた、茉莉華の方へ振り返った。
なんとか茉莉華を救いたかったが、もう何も手段が無いのだろうか。
「茉莉華ちゃん?」
いつの間にか茉莉華は目を閉じていた。
呼吸器を外して、話をした事が余程疲れたのだろうか。
「茉莉華ちゃん………。眠ったの?」
何も答えは返らない。
茉莉華の口もとからは細い糸の様な血が流れていた。
葉崎に送られて、夜遅くに帰宅した司だったが、余りにも沈んだ様子に両親は叱る
ことが出来なかった様だった。
また、葉崎も何か説明したらしく、その日の事について両親ともに司を問いただす
事は無かった。
翌週発売された雑誌には、美浜大学病院で行われた事についての記事が大スクープ
として掲載された。
もちろん、葉崎による物だろう。
そして、その日の午後には病院は多くの報道陣と警察官に囲まれたらしい。
岡崎医師の他、関係者達はまだ処分されていなかった茉莉華の遺体を証拠に逮捕さ
れた様だ。
その後、彼らがどんな刑罰を受けたかは司は知らなかったし、知ろうとも思わなかっ
た。
茉莉華の母親はその事を知ってはいたが、直接関係はしていなかったと言うことで、
それ程重い罪にはならなかったらしい。
もう一人の茉莉華は、全く何も知らなかった様だし、その子には何も罪は無い。
事件発覚の後、何処へ行ったのかは判らないが、思えばもう一人の茉莉華も不幸な
少女だった。
これらの事は皆、後から人づてに聞いたことで司はずっと自分の部屋の中でじっと
していた。
その間、司はずっと自分を責めていた。
結局自分は茉莉華に対して、なにもしてやれなかった。
正義感ぶった気持ちを持ちながら、それはただ自己満足のためにしかならなかった。
そんな自分に「すき」と言ってその短く、不自由だった生涯を終えた少女の事を思
うと自分の愚かさを責めずにはいられなかった。
もちろん、ヴィーナスの訓練も行わず、レースも棄権した。
学校が始まっても、司は部屋から出ようとはしなかった。
茉莉華の事については知っている筈の両親は、初めのうちは何も言わなかったが、
さすがに部屋に篭もったままの司をなんとか学校くらい、ちゃんと行くようにと叱っ
た。
しかし、いくら叱られた所で、司の無気力はどうにもならなかった。