#2517/5495 長編
★タイトル (RAD ) 94/ 3/ 9 23:13 (177)
「SPAER」(2) 悠歩
★内容
「まったく、散々な初訓練だったな」
毎日の習慣となっている就寝前の鳩小屋の点検に来た司は、じっと目を閉じたヴィー
ナスに話しかけた。
ヴィーナス一羽だけしかいない鳩小屋だったが、そこはまだ真新しく必要以上に広
く、司にとっては自分の部屋よりも落ち着く場所だった。
元々は、司の祖父が鳩好きで伝書鳩の飼育をしており、その影響で父も若い頃にレー
ス鳩を飼っていたらしい。しかし祖父も亡くなり、父も母と結婚してアパート暮らし
をする事になったときに飼っていた鳩は、全て知人に譲ってしまった。
そんな話を聞いていた司は、幼いときから自分も鳩を飼いたいと思っていた。
そしてようやく
一戸建てに住めるようになったときに、司は早速父に鳩を飼いたいとねだった。
ヴィーナスは、昔父が鳩を譲った知人から貰ってきたものだった。父が飼っていた
鳩の七代目になるそうだ。
その知人は、父から譲られた血筋の鳩を十羽近く飼っていたが、その中でも長距離
レースに優勝したこともある、優秀な鳩の雛をくれたのだった。
司も、いずれヴィーナスをレースに出したいと思っていた。
それから雄の鳩も買って、ヴィーナスの雛を産ませよう。その為にまだ一羽しかい
ない鳩のためにこんな大きな小屋を作ったのだ。
「司、お客様よ。司」
司がそんな将来の事について思いを巡らせているを、母の呼ぶ声によって中断させ
られた。
「はーい、いま行く」
こんな時間に誰だろう。
司はヴィーナスに「お休み」と、一言言って玄関に向かった。
「秋山司君だね」
玄関で司を待っていたのは、見知らぬ中年の男だった。
戸惑う司は、何かを訊ねるような目で母の方を振り返る。母も怪訝な表情で男の方
を見ていた。
「分からないかな、司君。夕方会ったばかりなんだけど」
「あっ」
司は小さく声を上げた。
あの時は暗かったのと、慌てていたのではっきり顔を見てはいなかったが、思い当
たる人間が一人いる。
「あ………あの、茉莉華ちゃんの、お父さん?」
男は無言で頷く。
「あの、うちの子がまた何か悪さでもしたんでしょうか」
司の動揺した様子を察して母が訊ねた。
「いえいえ、司君は別に何も。うちの娘と仲良くしてくれているんで、そのお礼を兼
ねてご挨拶に伺ったんです」
「はあ」
司にとって、男の言葉は意外であった。
てっきり、無断で庭に入り込んだ事を怒って怒鳴り込みに来たものだと思っていた
のだ。
「大変申し訳有りませんが、司君を十分ばかりお借りしてよろしいでしょうか?」
「司をですか」
「娘のことで、司君にお願いしたいことがありまして」
「どうする、司」
母は少々男のおかしな申し出に困った様に、司に答えを求めた。
「うん………僕、行って来るよ」
後ろめたさもあり、司には男の申し出を断ることは出来ない。そそくさと靴を履い
て、司は玄関を出た。
「それでは、すぐにお返し致しますので」
男が司を連れて行ったのは、家の近くの小さな公園だった。
わりと外灯設備の整った公園で、夜になってもそれほど暗い場所はない。
「勝手に庭に上がり込んで、ごめんなさい」
司は男が話を切り出すのを待たずに頭を下げた。
「ははは、司君。さっきもお母さんに言ったろう、別に私は怒りに来たんじゃあ無いっ
て」
「それじゃあ………」
男は背広の内ポケットから何か箱を取り出した。
司は一瞬、チョコレートかと思ったがそれは煙草だった。銘柄は分からないが、だ
ぶん外国製のものだろう。
煙草に火を点すライターも高そうなものだった。司の父親の使っている、使い捨て
の物とは大違いだ。
「君の家を探すのに、偉く時間がかかってしまってね。こんなに遅くなってしまって
………」
男はゆっくりと煙草の煙を吐いた。
「なにしろ、あの時ちらっと顔を見ただけだからね。娘が名前を聞いていなかったら、
見つけだせなかったかも知れない」
司は男の意図が全く分からなかった。
わざわざ時間を掛けて司を探し出して、今日の事を怒るわけでもなく妙にもったい
を付けた話をしている。
「おっと、こんな事をしていたら、約束の十分はすぐに過ぎてしまうな。率直に言お
う………今回限りで娘には会わないで欲しいんだ」
「どうしてですか!」
この言いぐさに司はいきり立って言った。
どんな理由にしろ、他人の庭の中に入り込んだことは司が悪い。その事について、
いくら叱られても仕方ない。
だが怒ることも無く、いきなり「娘と会うな」と言われては納得がいかない。
「娘は………茉莉華は病気なんだ」
「えっ」
突然深刻になった男の顔に、司はその言葉の重さを読み取った。
司の予想したとおり、あの子は病気だったのだ。
「病気って………移るんですか。で、でも僕、平気です」
司は本気だった。
「いや、移るとか、そんな病気じゃないだ。近々手術をする予定だ。それさえ成功す
れば………」
「なら、どうして会っちゃいけないんですか? おじさんの家がお金持ちで、僕の所
がそうじゃないから?」
「ははは………まさか。確かに手術さえ成功すれば茉莉華は元気になる。成功さえす
ればだ」
「て、事は………」
「そう、成功する可能性は極めて低いんだ」
あの無邪気な少女が、そのような重い病気に苦しめられていたと知り、司はなんと
も悲しい気持ちになった。
「あの子と親しくなれば、手術が失敗したときに君まで悲しい思いをする事になるん
だ。私としては、それがあの子を失う事と同じいらいに辛い………」
「僕は………僕はそれでも……いえ、それならばなおさら、茉莉華ちゃんと友達になっ
てあげたい!!」
「お願いだ………私達家族以外には辛い思いをして欲しくないんだ」
「お帰り、司。何だったんだい? あの人は」
男と別れて家に戻った司に母が声を掛けた。
「なんかおかしな感じの人だったけど………」
「ああ………、友達のお父さんだよ。その子の事で相談に来たんだ」
「相談って、お前にかい?」
「うるさいなあ、いいだろう」
母の質問責めを鬱陶しく感じた司は、逃げる様に自分の部屋へ入った。
『ヴィーナスちゃんが悪いんじゃないわ』
『鳩さん、だいすき』
無邪気に笑う少女の顔が思い出される。
「あの子が、そんなに重い病気だったなんて………」
にわかには信じがたい。だが、わざわざ嘘をつくために父親が訪ねて来る筈もない。
『茉莉華とは会わないで欲しい』
茉莉華の父親の頼みはとても理解できない。
それは司が所詮は他人だからなのかも知れない。しかしどう考えても茉莉華に命の
危険があるならば、それこそ自分がいい友達になってやる必要があるのでは無いかと
思われた。
手術の事は司には分からない。
けれども友達になることで、僅かでもそれが茉莉華の心の支えになって成功の可能
性が増えるのでは無いだろうか。
「決めた!」
何と言われようと、自分は茉莉華の友達にならなくてはいけない。
司はそれを使命のように感じていた。
それから一週間の間は、茉莉華の父親に言われたように少女と会うことはなかった。
しかし司は茉莉華の事を忘れた訳ではなかった。
ヴィーナスの訓練にかこつけては茉莉華の家の前を通って、チャンスを伺っていた
のだ。
「せめてお前が、あの子に手紙を届けられたらなあ」
訓練場所まで篭の中に入れられているヴィーナスに司は言った。
昔は移動する鳩舎を探して手紙を届ける伝書鳩がいたそうである。その訓練方法が
分かれば、あるいは茉莉華の部屋までヴィーナスに手紙を届けさせる事が出来るかも
知れない。
だが残念な事に、司はその訓練の仕方を知らない。
高い塀に囲まれた茉莉華の家の中の様子は、外からは用意に伺い知る事が出来なかっ
た。
それでも根気強く観察する事で、幾つかの事がなんとなく分かってきた。
まず茉莉華の他にはあの父親と母親だけの三人家族であること。その他の人の姿は
確認出来ない。
広い家に住んでいるにもかかわらず、お手伝いも雇ってはいない様である。
父親の仕事は分からなかったが、帰宅するのはいつも遅い時間のようである。
司の調べた一週間の間、金曜日だけは七時頃に帰って来たが他の日はその時間まで
には帰宅するのを確認していない。
とすると、茉莉華と会った日に父親に見つかってしまったのは、極めて運が悪かっ
たと言えよう。
問題は母親である。
幽霊屋敷の噂が立つほどの家である。近所との付き合いは皆無のようで、買い物さ
え、どうも電話をして届けさせているようである。
しかし火曜日と木曜日に夕方六時頃に帰宅する母親を確認した。
学校が有るために、家を出る時間までは調べられなかったが、全く外出しない訳で
は無いらしい。
もう一つ。これは茉莉華の家族とは無関係な事かも知れないが、妙な男を三回見掛
けた。
黒い薄汚れたショルダーバックを抱えたサングラスの男。
着ている物も、この暑い時期に黒いレザージャケット。
単なる偶然かも知れないが、司にはこの男がやはり茉莉華の家の様子を伺っている
ように思えた。
三回目にこの男を見掛けたとき、男も司に気付いてそそくさと姿を消してしまった。
あるいは茉莉華の家に忍び込もうとして、下見をしている泥棒かも知れないと司は
思った。
その事を茉莉華の家の人に話すべきかと考えたが、あの父親と会うのは避けたかっ
た。それより、そんな事をすれば司が約束を破って茉莉華に会おうとしている事がば
れてしまう。
しかし幸いな事にその男は一週間のうちに、始めの三日間見掛けてその後は会うこ
とはなかった。
たまたまこの近所に用事があったか、この辺りの住人だったのかも知れない。
そう司は納得した。
一週間、茉莉華の家の周りを調べていると、司はなんだか自分がスパイにでもなっ
た様な気分になり、わくわくとしてきた。
『茉莉華のために』などと言いながらも、それは司自身の興味が先立っていたのか
も知れない。
それは司を難解なテレビゲームをプレイするよりも酔わせていた。