#2435/5495 長編
★タイトル (MMM ) 93/12/11 19:35 (154)
杏子の海(29)
★内容
君の手は柔らかすぎた。
始めて握った女のコの手は、
僕には柔らかすぎた。
君の手は僕から通り抜けて、
ふたたび黒い海の中へと落ちていった。
僕は潜った。
君をふたたび掴んだとき、
もう四メートルほど潜っていたと思う。
君を掴んでから、
ふたたび水面へ浮かび出るのが大変だった。
君は疲れ果てていた僕には重たくて、
君は鉛のように重かった。
海面へと君を連れて登りながら、僕は一瞬手を放した。
ほんの何秒かの間だったと思うけど
(僕には辛かったから。君を、重い君を手にして水面までへと行くのがあまりに辛
く思えたから。だから僕は君への手を放した。)
僕にはこの苦しさが
今までの自分の(僕の)苦しかった人生のようにも思えて
僕は手を放した。
四つの頃から中一の秋までの市場の2階での僕の人生。
狭い六畳二間の間で僕たち一家4人は生活してきた。
毎日、地獄のようだった。
毎月、月末には金策に追われ、
毎日、夫婦喧嘩が絶えなくて
少なくとも僕が小学四年の頃までは、毎日地獄のようだった。
黒い海の中で君を抱いたとき僕の心の中は、何年も何年も君を理想化し、君を神聖
なものと思ってきた僕の誤解が崩壊してゆく、まるで石造りの大きな建物が崩壊して
ゆくような、感じに捕らわれていた。
僕は君を抱いて沈みながら4年間続いた僕らの文通の思い出を一つづつ一つづつ思
い出していた。君の綺麗な封筒、夜の2時や3時までかかって書いた手紙、バレンタ
インデーや誕生日の贈りもの。君の優しい言葉
君が僕の手を引いたと思ったとき、君は沈みかけていた。
黒い海の底へ沈んでいこうとしていた。
でもたしかに君は僕の手首を握りしめていた。
たしかに僕の手首を握りしめていた
君が手を引っぱっている
暗い海のなかで
君が手を引っぱっている
(杏子、水の中で)
きつかったの、きつかったの。杏子、やっと楽になれたの。苦しかったの。敏郎さ
んもいろんな障害を持った人は明日が来るのが辛いと思うけど、私、今やっと解放さ
れたの。私、やっと自由になれたの。
杏子自由になったの。これで苦しまないでいいようになったの。杏子、自由になっ
たの。
幸せになりたかったの。
敏郎さん、解ってくれて。
死んだ方が楽だって、
そう思って私は死を選んだの。
ブクブクと水の中に沈んでいきながら、自分という存在をはかなく見つめていた。
小さい頃から苦しんできて、そうして今もこうやって苦しみながら死のうとしている
。僕の人生は何だったのだろう、と近頃僕は思い始めてきたところだった。
砂浜が呼んでいる。
砂浜が赫く燃えながら僕を呼んでいる。
ペロポネソスのあの浜辺が
僕を呼んでいる。
夜空に何かが輝いた。
よく見ると星だった。
僕の涙と杏子さんの涙でできたような
赤い赤い星だった。
僕の思いは君には届かなかった。君はこうして寂しく死んで行き、いま僕の手の中
にある。僕の思いは君には届かなかった。
『ずっと苦しんできたのよ、敏郎さん。私、ずっと苦しんできたのよ。』
----海の中に沈んでゆきながら杏子さんは心の中で僕にそう叫び続けていた。----『
敏郎さん。私、ずっと苦しんできたのよ。敏郎さん。私、ずっと苦しんできたのよ。
』
----僕も海の中に沈んでいきながら何も答えられなかった。僕も苦しんできた。杏子
さんだけでなくって僕もずっと(たぶん杏子さんよりも)苦しんできたことを僕は杏
子さんに語りかけたかった。
『僕の方がもっと苦しんできたんだよ。僕の方がもっと苦しんできたんだよ。』----
僕は海の中でこう杏子さんに語りかけるしかなかった。身じろぎもしなくなっている
杏子さんにそう語りかけるしかなかった。----
冷たい海の中で君は囁いたようだった。
『敏郎さん。私たちが始めて結ばれたとき、私たちもうこうして死んでいこうとして
いるの。敏郎さん、寂しい。』
私たち、死んでゆくの
始めて抱き合ったとき
私たち死んでゆくの
君はもう死んでいた。もう君の魂は天国へ旅立ちつつあった。僕が来るのが遅かっ
たんだ。そうして君の飛び込むのが早過ぎたんだ。
君は僕が懸命に走っていることを、君の鋭い感で気づいていた。それなのに君は桟
橋からすぐに身を投げた。もし、もう少し桟橋の上で、僕の来るのを待っていてくれ
たなら、君は死なずに、僕と、涙の中で抱き合っていたと思うのに。悪魔が君の周り
を、(もしかしたら僕の周りをも)暗躍していたんだ。悪魔が君を死なせたんだ。本
当なら僕と君は桟橋の上で劇的な再会をしていたはずなんだ。
僕はそう心のなかで言いながらもう死んでしまったらしく動かない杏子さんをポコ
ポコと水の中で叩いていました。----
君の魂は飛び上がりつつあった。
僕が網場の桟橋に着いたとき、
君の魂はもう網場の海の上を、
お星さまになろうと、お星さまになろうと、
舞い上がりつつあった。
寂しかったからなの。敏郎さん、さようなら。本当にありがとう。敏郎さん、さよ
うなら。楽しい文通、本当にありがとう。
(杏子さんはそう言いながら五月の暗い冷たい海の中に呑込まれていった。杏子さん
は最後まで手を振っていた。小さな不自由な手を、僕の方に、一生懸命に振っていた
。)
『敏郎さん、さようなら。敏郎さん、本当にさようなら。』
(杏子さんはそう言って暗い五月の海の中に消えていっていた。いつまでもいつまで
も桃色の桜の花びらみたいに杏子さんの手が僕に振られていた。)