AWC         杏子の海(13)


        
#2419/5495 長編
★タイトル (MMM     )  93/12/11  18:40  (192)
        杏子の海(13)
★内容


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 『敏郎さん。真実は何処。真実は何処にあるの。』
 『真実は、真実は遠い星の向こうか、黒い目の前の僕たちのペロポネソスの海の中
かにあるのだと思う。』----僕にはもうそうとしか言えない。

                                         (敏郎・高一・十一月)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 波の音が聞こえてくる。杏子さんの悲しげな歌声とともに波の音が僕の耳に聞こえ
てきている。悲しげな杏子さんの歌声が聞こえてくる。一人ぼっちの僕のところに杏
子さんの歌声が不思議に聞こえてくる。16歳になった孤独な僕の耳に悲しげに聞こ
えてくる。

                                          高一・十一月

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                         敏郎 高一 十二月

 夜、家に帰って来たとき、僕の心は寂しさでいっぱいになっています。それに明日
の学校への不安と。
 だから僕は毎晩、2時間ぐらい創価学会のお祈りをしています。勉強は寝る前に3
0分と、4時ごろ起きたとき30分ぐらいするだけです。(4時ごろ目が醒めて30
分ぐらい勉強してまた寝ています。)
 幸せになりたいなあ、みんなのように何の不安もなく学校生活を送りたいなあ、と
いう気持ちでいっぱいです。幸せはどこにあるんだろう。僕にとって幸せとは何なの
だろう。そして世の中の不公平のことなんかを考えると。(僕だけでなくって不幸な
人は僕の身近にもたくさんいるから。
 杏子さんの家の前の青い海、細波の音、潮の香り、僕らが出会ったペロポネソスの
浜辺。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                   杏子   日記  中二 12月

 私、敏郎さんと1年2ヶ月も会ってないわ。2年前の10月、敏郎さんが泣きなが
ら帰っているのを見たきりで、それから全然会ってないわ。そうだわ。私、今日敏郎
さんの学校帰りを待ち伏せしてやるわ。
 今日は私たちの学校の創立記念日なのです。それで私、朝からそんなこと考えてい
ました。
 カーテンを開けて空を見たらとっても綺麗な青空で冬だって信じられないくらい。
きっと神さま、私が今日敏郎さんと会いに出かけてゆくのを見透して冬なのにこんな
不思議な青空をひろがらせてくれたのね。
 私10時に起きましたけどそれから『何を着ていこうかな、お化粧はどうしようか
な。』と考えてもう大変でした。3時に出ても充分間に合うはずなのに私、テレビも
見なかったわ。

『お母さん、私ちょっと散歩に行ってくる。心配しないでいいからね。6時ごろにな
ったら帰ってくるわ。』
 ママは私がいつもになく化粧して家を飛び出したのでびっくりしたでしょうね。私
、敏郎さんに会うつもりだった。このまま文通だけしていたって駄目だもん。やっぱ
りデートなんかをしたいもん。敏郎さんに車椅子を押してもらってあちこち散歩した
いもん。

 私の家から水族館前のバス停まで45分もかかりました。12月なのに空はまっ青
でちょっと暑くて汗をかきました。せっかくのお化粧も汗の跡が付いたみたいでコン
パクトを取り出してお化粧をし直してしまいました。
 敏郎さんはたぶん4時にいつも練習終わるから5時まえにはここを通るはずね。ま
だ一時間もあるわ。でもいいの。
 私、日見公園のなかに入っていってそこで日なたぼっこをし始めました。ときには
陽に照らされないとビタミン不足になってしまうって先生が言ってたから日なたぼっ
こしちゃおう。ちょっと色が黒くなるかもしれないけどちょっとぐらい黒くなったっ
ていいわ。

 ……
 …でも私やっぱり駄目なのかな。私のような身体障害者と敏郎さん一緒に歩いてい
るところを人に見られたくないのかな。私、やっぱり駄目なのかな。




 僕は土曜日、部活で疲れた躰をゆらゆらと網場道の長い階段で揺らしていた。夕暮
れが僕の足元や灰色の階段を包み込もうとしていた。
 この冬は暖冬で十二月なのに春のような毎日だった。僕は鞄を持つ手もきついほど
でバスの中で立ちながら(僕はいつも入り口の人一人だけが立てるくらいの空間に立
つのだったが)鞄を手から落としてしまいたいほど疲れていた。土曜日なのでいつも
より練習時間が長くてこんなにきつかった。
 網場道の長い階段を下っているとき前方の日見公園の前の辺りに僕は不思議なもの
を見た。

 なんだろう。あの正六面体のものは。頭のところが赤々と炎をあげて燃え盛ってい
るようで不思議だった。なんだろう、あの奇妙な物体は。
 最近勉強をし始めてきたためか急に目が悪くなりかけた僕には始めそれが何なのか
解らなかった。でも階段をもっともっと進んでいくうちにそれは車椅子でしかもその
上に乗っているのは華やかに化粧された若い女の子だということが解った。とてつも
なく大きな目とあでやかな服が白銀の車椅子の上に赤い炎のように揺れている。

 それは正六面体の鮮彩色に彩られたtexture。白銀が夕陽にきらめく不思議
なtexture。その上にまんまるいとても大きな瞳をした少女を乗せている不思
議なtexture。
 僕は階段の途中でやっと気づいた。
 ああ、杏子さんだ。やっぱり杏子さんだ。
 僕の魂は一気に崩壊したようになり僕の足は突然“frozen gait”とい
う言葉が浮かんでくるとともにぎこちなく歩くのがやっとになった。

 だんだん近づくにつれ僕の目にはっきりと映ってきた杏子さんの姿はライオンに乗
った女騎士のようにも思えた。僕にとって一年半ぶりの杏子さんの姿だった。あでや
かな化粧とよそ行きの服が夕暮れの日見公園横の風景によく映えていた。
 杏子さん何を眺めているのだろう。さっきから公園をとり巻く桜の木のてっぺんあ
たりをずっと眺めている。
 すずめがそこに十羽ほどとまっているけどその囀る姿に熱心に見入っているようだ
った。幸せそうに頬を輝かせて車椅子に背をもたれかけさせながら熱心に見入ってい
るようだった。
 杏子さん、何見ているんだい。僕は目でそう杏子さんに話しかけた。杏子さん、何
見ているんだい。
 だんだんと近づいていった僕の姿に杏子さんまだ気づかないのだろう。僕はすると
急いで大きな道路を渡り始めた。杏子さんが向こうを向いている隙に。そうして僕は
杏子さんから大きく遠ざかった。
 すると杏子さん、もしかすると僕に気づいていたのかもしれない。僕にうらめしげ
な悲しげな視線を振り向いて送った。杏子さん気づいていてわざと桜の木の上を見続
けていたのかな。いやきっとそうだろう。本当は僕が網場道の階段を下りている頃か
ら気づいていてそのときから僕に気づかないふりして黙って桜の木の上を見続けてた
んだろう。

 でも僕には君を無視するしかなかったんだ。僕は幽霊で誰にも見えない幽霊で、君
が見たのは僕の幽霊で、背中しか見えなかった幽霊で、逃げるように立ち去っていっ
た幽霊で。
 …
 僕の後ろ姿は陽炎のようにうつろに揺れていたでしょう。僕の後ろ姿は蜃気楼のよ
うに朧ろげに黒いアスファルトの上を歩んでいたでしょう。実は僕は苦しんでいたの
です。杏子さんを無視する苦しさが僕の後ろ姿を陽炎のようにも蜃気楼のようにもし
ていたのです。

 僕は揺れる陽炎  苦しむ蜃気楼
 僕は揺れる陽炎  苦しむ蜃気楼

 そして僕、早足で杏子さんに背を向けて橋の方へと歩き去ってゆきました。杏子さ
んに気づかれないようにと必死でした。

 僕の背中は苦しむ背中。まっ黒い苦しむ背中。杏子さんを置き去りにする黒い背中
。

 僕の背中は非情な背中。杏子さんを無視する非情な背中。

 僕の背中はまっ黒い背中。悪魔に呪われたまっ黒い背中。

 僕は背中から杏子さんに手を振っていました。僕のまっ黒い背中に僕の手の平があ
って杏子さんに『さよなら』と手を振っていました。『さようなら、杏子さん。』僕
は静かに手を振っていました。『さようなら、杏子さん。』
 僕はまっ黒い手を静かに、でも力強く振っていました。『さよなら、杏子さん。さ
ようなら。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                   敏郎  高一・十二月

 僕は昨日、白い船が空を飛んでる夢を見た。空と言っても天国みたいな所の空で、
白い船には杏子さんとゴロが乗っていて何故か僕は乗ってなくて僕は地上から手を振
っていました。そして杏子さんやゴロも白い船の上から僕に手を振っていました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  生きることの意味が掴めたら、僕は白い鳩になって、杏子さんの家へ飛んでゆこう
。そうして杏子さんの部屋の窓辺に泊まって、杏子さんに告げよう。僕の生きる意味
を。



 浜辺へ行こう
 浜辺へ行ったらきっと僕を慰めてくれるものがあるだろう
 もう十二月になって寒いけど
 学校の授業で傷ついた僕は
 ゴロを連れて浜辺へ行こう
 久しぶりにあの浜辺へ
 寒くて杏子さんは出ていないだろうけど


(僕は4時半ごろ家に帰って来るとゴロを連れて僕と杏子さんのペロポネソスの浜辺
へと走った。もう辺りは薄暗くなりかけていた。通り過ぎる誰も彼もコートやジャン
バーに首まで身を包んで足早に歩いていた。僕は涙が流れてくるのを必死に耐えなが
らゴロと走っていた。ゴロは蒸気機関車のように白い息をたくさん出していた。
 僕は薄暗くなった戸外を必死に駆けた。早くペロポネソスの浜辺に暗くなるまで着
いてそして海へ向かって石を投げたり叫んだりしたかった。風がとても冷たかった。
冷たくて悲しくなるほどだった。学校で苦しんでそして今もこうして風の冷たさにと
ても辛い思いをしなければいけないのかと思うととても悔しくなって泣きたいほどに
なっていた。

 十分ぐらい走っただろう。僕らはペロポネソスの浜辺へ来た。もう辺りはすっかり
暗くなり始めていてあと二十分もしたらまっ暗になりそうだった。僕は足元を用心し
ながらまだ駆けていた。
 やがて僕は砂浜に辿り着き立ちつくすと『バカヤロウ!』と大声で叫んだ。
 僕はそうしてゴロと夜になってゆく浜辺で抱き合うようにして過ごした。僕は涙を
浮かべていた。そうしてやっぱり医者になるんだ、自分のこの病気のために自分のよ
うな病気で苦しんでいる人たちを救っていくために耳鼻科の医者になるんだ、と決意
した。そうしてやっぱり柔道をやめよう。明日にでも松添先生のところへ行って『柔
道をやめさせて下さい。』と言いに行こう、と思った。

                                                      高一・一月





前のメッセージ 次のメッセージ 
「長編」一覧 (MMM)の作品
修正・削除する         


オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE