#2339/5495 長編
★タイトル (KGJ ) 93/ 9/ 2 21:56 (196)
おじろく庄松(3) 村風子
★内容
御館は和知野川の流れに沿った街道を、一町程さかのぼった右手の南斜面にある。今
庄松が腰を下ろしている処からも、昼間なら御館の杉木立が見える。
暫らくして庄松は おと の家の前に立っていた。草葺きの低い屋根である、淡い月
の光に黒くうずくまって、軒先の柿の木が、その屋根に影を落としている。
庄松は足許の車前草の葉を摘むと、柿の木の下へよってその葉を口に当てた。草笛の
細い音は、低く高く、そしてまた低く、静かな夜に吸い込まれて消えた。
何時もなら合図の草笛で、静に押し開かれる雨戸が今夜は開かない、暫らく待ってか
ら重ねて草笛を吹いた。それでも雨戸は開かない、不安がかすめたが、ふと思いつき、
母屋の下手へ廻った。其処に崩れそうに傾いた小屋が便所と並んでいた、ひまや であ
る。
ひまや と云うのは、月のさわり中は神に対する汚れを恐れて、別火で炊事して家の
内へは上がらない習わしになっていた。しかし、仕事だけは普通にしながらであった。
庄松は ひまや の前で低く草笛を吹いた。ひまや の吊し菰が内側から押された
おと の声であった。
「・・・せっかく来てくれたのに、・・・ゆるして・・・」
「いや、・・・また来るから」と、言って背を向けると。
「待って」と、呼び止められた。
顔は見せずに吊るし菰の内からためらいながら おと が言った。
「お前さんは、お夏の処へ婿入りするって本当かい?」
「誰がそんなことを?」
「かくさなくてもいいわ、今日の手柄で御方様から狩師の跡目は、庄松との、お声が掛
けられたと云うでないか」
「それは、御方様の声が掛かったとなれば、婿入りもしなきゃあならないが、俺達の心
の奥までは、いくら御方様でもどうすることも出来ないさ」
「じゃあ、婿入りしても来てくれるんだね」
「うん、・・・」
「じゃあ、明々後日来てよ、待ってる」
庄松は、ひまや から離れた。この足で家へ戻れば、また与兵に何やかやと問いただ
されて面倒だ。
庄松の足は家と反対の和知野川の河原へ向かって道を下っていた。瀬の音が夜の静け
さの底から湧くように近ずいて、河原に出た。庄松は瀬へ突き出した大きな岩の上に這
い上がって腰を下ろした。両岸が黒く切り立った、底に深く流れが月に白く光っている
。
川下に松明の灯りが、川面を滑るように右に左に動いている。山女を突いているのだ
、灯が止まると、銛が突き下ろされる、灯は瀬を登って徐々に近付いてくる。
それまで気付かなかったが、川上の瀬で、よく見ると肌脱ぎになって髪を梳いている
女の姿があった。女は深く腰を折って髪を瀬に流しながら丁寧に梳いている。
暫らくすると女は両手で髪の水を絞って、腰を延ばし、髪の水を布で拭き取ってから
、頭を振って髪を背後に投げ上げた。
庄松は立ち上がった。川下に見えていた灯も何時か消えている。
「無礼者!」
瀬の音を引き裂いて夜の谷間に鋭い女の声が走った、一瞬、人影が瀬の中へもんどり
うって投げ込まれた。
鬼姫だ、それにしても鬼姫と知らずに襲っただろうが、そそっかしい奴がいるものだ
。人影は、瀬から這い上がると慌てふためいて逃げ去った。
その人影を見送って、庄松が立ち去ろうと、踏み出した足許に、風を切って飛礫が弾
けた。庄松はよろめいて岩の上から飛び降りた、その背に鋭い声を浴びた。
「まちな!」
鬼姫が向ってくる、面倒なことになった。
鬼姫とは御館の娘、千代のことで、女がてらに柔術をたしなみ、馬に跨がって野山を
駈ける、着るものにしても男物を身にまとって、女らしい千代の姿は今までに、ついぞ
見たことがない。その千代が、月光に浮き出るような白地の着物の胸と裾をはだけて、
足早に近寄つて来る。庄松はその姿に、今までの千代に感じたことの無い、女を感じた
。
「庄松、お前、じっと見ていたな」
「いえ、滅相も御座いません、お見逃しを」庄松は膝を突いて頭を下げた。
「見ていたのを怒っているではない、見ていたかと聞いているのだ」
千代はまた意地悪く絡むがに言った。何時もそうであるが、その意地悪い言葉の底に
、別の感情が潜んでいた。そんな千代の気紛を前々から迷惑に感じていたので、黙って
うな垂れていた。千代は続けた。
「わしより、おと の方がいい女か?・・・聞いているのだ、答えてみろ、辺りには誰
もいない」
「お許しを」。重ねて庄松は頭を下げた。
「聞いているのだ、顔を上げてよく見ろ、よく見て答えろ」
恐る恐る顔を上げると、目の前に月光に浮かんだ千代の姿は、片手に帯、片手に腰巻
きを吊して、手を広げた白く光る、千代の姿があった。
「お許しを、どうかお許しを」庄松は、両手を地べたに付いて頭を重ねて下げると、背
を向けて駆け出した、ただただ逃れようと走った。
(三)
御館の代掻きは、被官衆は総出払いと決まっていた。
その日は踏み代で、田圃の中には半助の姿も、お夏の姿も見えた。夕方近くから、今
にも降りだしそうに、厚い雨雲が空を覆いはじめた。被官衆の動きが、残りの作業を片
付けてしまおおと、急に忙しくなった。
その中で一人お夏だけは、田の隅で急ぐでもなく右足から左足、左足から右足と、ゆ
っくり重心を移しながら気怠そうに土くれを踏み込んでいる。ガボガボと足を動かす度
に鈍い音がして泥水が跳ね上がって裾を濡らす。少し離れて一人、半助が、同じょうに
足を動かしている。今日の二人は、御方様の手前か、村中にお夏の婿には庄松との噂が
流れてを気にしてか、如何にもよそよそしい。
庄松は、田の中央で、踏み代のあとを鍬でならしていた。鍬で泥水を掻き回す、ゴボ
ゴボ、ゴボゴボ、時には力あまって泥水が顔にまで飛び散る、時々手を休めて、額の汗
を拳で拭ては、泥水を掻き回してならし続けていた。
山襞を切り開いて造った田圃は小さく斜面に段々に造られて、その下に和知野川が流
れている。水田は少なく焼畑が主で、豆、粟、稗、蕎麦などが作られて、御館を除けば
米の飯は、盆と正月、それに祝い事の時に限られていた。
鍬頭の茂十の指図で、その日、六枚の田圃の代掻きが夕暮までに終って、幸い雨には
あわずに済んだ。
泥水で汚れた手足を、谷川で庄松が洗っている傍らへ寄って来たお夏は。
「今夜待ってる、・・・」と、擦り抜けざまに囁いた。そして何食わぬ顔で、一人離れ
て泥水に汚れた仕事着を脱ぎ捨てて、手足を洗いはじめた。
庄松は、あまり突然な事に、お夏の真意が掴めなくていた。
夜になって、雨はとうとう降りだした。
庄松は、いたみが目立つ草葺の軒先に立って暗い空を見上げて、まだ迷っていた。細
い雨である。お夏の誘いは何であろうか、御方様の言葉で、半助を捨てたか?。しかし
今夜は、おとを尋ねたい。と、言って御方様の言葉には従わなければならない。 迷い
ながら、庄松は、雨のなかへ踏み出した。細い雨が頭を肩を濡らした。それには気も留
めずに、車前草の生えた小川沿いの道に出て、ゆっくり足をはこんでいた。 暫らくし
て庄松は、お夏の家の軒先に立っていた。やはりこの村で生きるには、御方様の言葉が
頭にこびり付いて、それに従った動きしか出来ない。
庄松は、雨戸を軽く叩いた。待ちかねていたと云うふうに雨戸が内側からさっと開け
られて、白い手が延びて庄松を家の中へ引き込んだ。
お夏は、狂ってしまつたのか、いきなりしがみ付いた、その烈しさに圧倒されて、押
し倒され、絡み付かれて組み伏された。
縁の下では盛りの付いた猫か、凄まじい嬌声を浴びせあって走り回っていた。その声
に煽り立てられて、お夏は尚も狂った。
庄松がお夏の家を出たのは、曉けの七つ半時であった。
翌朝、御館の裏手の鍬頭茂十の家へ、泥棒が忍び込み、踏臼の米が盗まれていて、大
騒ぎとなった。その米は、御館で、日常食べる米であった。
八十八夜の種蒔きが済む頃は、貯えた穀類も乏しくなって、一年中でいちばん困窮す
る時である。
騒ぎにさっそく御方様が出向かれた。茂十の家の軒先に集まって騒いでいた村人達は
、その姿に、道を開けて静まった。軒を潜って土間に立った御方様は辺りをじっと見渡
していた。別に荒らされた形跡もなくて、土間に米粒が散らばっていた。
茂十の話では今朝起きた時、土間に米粒が零れていたので、家中の者を呼んで、不始
末を叱り付けたが、誰も覚えがなく、調べてみると昨夜つき掛けの米がすっかり救い出
されて、踏臼が空なので、倅の彦一に確かめたところ、間違いなく、つき掛けの米を踏
臼へ残して、戸締まりをして寝たとのことで、それで騒ぎだしたのだと云う。 御方様
は、組頭の半兵衞に調べを命じた。
半兵衞は、軒先から戸口、そして土間、踏み臼の周囲と、綿密に調べ廻った。谷間の
小さな村での出来事、それも隠れ住んだ先祖の言葉を守って、村から出もしなければ、
余所者のが村に脚を入れると直ぐに、言い継ぎの順序が定められていて、村中に知らさ
れる。何事でもこの言い継ぎの張られた網を使えば村中に伝えられた。そしてこの網か
ら外されると、この村では生きられない。また村を出て生きる、それは考えられない事
で、考えた事もない村人であった。盗人はこの網の中である。
その日の昼過ぎ、庄松は村外れに、自分の慰めに開いた畑に、豆を蒔いていた。鳩の
初音に豆を蒔く、田畑の耕作は、木や鳥でその時節を知った。村での出来事、それは庄
松には関係ない事であったし、かかわりたく無い事であった。そんな煩わしいことから
逃れて一人のんびりと畑の土をいびっていた。其処へ半兵衞が現われて、茂十の家の踏
臼から米を盗んだのはお前だと決め付けられて、いくら俺では無いと言っても聞き入ら
れずに御方様の前へ引き出された。
御館の庭先へ引き据えられた庄松は、半兵衞と兄の源助の二人に、烈しく責め立てら
れた。
兄の源助けは、青竹を振り上げて容赦なく庄松を叩きつつ責め立てた。上着は血を吸
って破れてはだけた肩から血が流れている。歯を食いしばってじっと悪怯れることもな
く耐えていた。
「お前って奴は、おい! 盗んだ米をどうした?」
源助けは眼を血走らせ、肩で荒らい息を吐きながら、青竹を庄松の肩へ振り下ろした
。 半兵衞は、火打ち袋を庄松の鼻先につき付けて続けた。
「これはお前の物だろう!これが茂十の家の土間に落ちていた、これはいったい、どう
いうことなんだ!言ってみろ!」
「・・・その火打ち袋は儂の物です、昨日までは確かに腰にっいていた、が、今朝なく
なっている事に気付いて・・・嘘じゃあないです、儂は、昨夜は早くからお夏の処にい
たんです・・帰ったのは曉けの七つ時、嘘じゃあないんです」
「くどい、お夏は、昨夜忍んできたのは半助だと言っている」
「違います、お夏を此処へ連れてきて、今一度よく確かめて下さい」
「しぶとい奴だ、お夏が半助とお前を間違える筈があるか!・・・それ!」
半兵衞は、源助けに向って最後の言葉を吐いた。源助は狂ったように庄松を青竹で叩
き続けた。身内から盗人が出たとなれは本人は当然、村から「ぼいだし」と言って追い
出されて、二度と村に戻れなくなるが、残された一家も、羽織の禁か、賤役賦課は免れ
ない。羽織の禁となれば、一軒前の株を持っていても、新年の集まりや村で行なわれる
祝い事など一切に羽織が着られなくなる、一軒前の株はあっても村で一軒前の扱いがさ
れないのである。また賤役賦課となれば、村で特別に人の嫌がる役の仕事をさせるので
ある。たとえば行き倒れの片付け、犬や猫などの死骸の片付け、申し付けられたことは
何でもしなければならないのである。
庄松は、訳が解らぬままに青竹で叩かれ、米を盗んだのはお前だ、白状しろと責め立
てられる。何で俺の火打ち袋が茂十の家の土間に落ちていたのだ、最近は茂十の家など
へ俺は行っていない。それにお夏もお夏だ、誘っておきながら、一緒にいたのは半助だ
などとぬかして、えい、どうとでもなれ、庄松は腕を組み、御方様を睨んで怒鳴った。
「儂は、茂十の家から米を盗んでいない! 誰が何と言おうと、儂は盗んでいないぞ!
ぼいだし にされても、儂は盗んでいない」
一瞬、半兵衞も、源助けもたじろいだ。
「もう、よい」御方様は立ち上がって続けた。
「今日の暮れ六つ、村外れの一本松の辻で、猫成敗だ。嘘を言っている者がいる、それ
までに申し出せばよいが、申し出がなければ厳重に処分する」
言い捨てて御方様は消えた。
庄松は、庭先の松の根方に縛り付けられていた。その松は、咎人を縛り付けるために
植えられて、育てられている松であった。
日はまだ高い、広い庭は箒の目がとうっていて、人影もなく静もりかえっている。左
手の木の間に、白く、緑の谷底に和知野川の流れが光って見える。その谷から吹き上げ
る風はさわやかに庄松の頬をなぜた。
肩から背にかけて、打たれた痕が熱をもちひりひり痛む。
こうした静けさの中に一人おかれて、庄松の頭をよぎったのは、何れ村を追放される
。村を出たらどうなる、その時から直ぐに食べるものの心配だ、だが、今は野に食べら
れるものがある、冬までは間がある、今なら村を出ても、冬篭もりの支度をして飢えと
寒さを、凌ぐことが出来る、と、考えた。斧、山刀、火打ち袋、鍋のひとつもあればよ
い、また和知野川の流れに沿って下れば人里があると聞いたこともある。そんな事を考
えているうちに、高ぶっていた気持ちが納まるにつれて、昨夜の記憶を辿りはじめた。
家を出たとき、細い雨が落ちていた、竹薮の手前で雨足が強くなり、竹薮まで駆けた
、駆けながら腰の手拭を探り頬かむりしたが、そのとき火打ち袋が指先に触れた。 お
夏の家では、お夏があまりにしつこくゆっくりして、と言うものだから、つい、帰りそ
びれて、何時か眠ってしまった。
「そろそろ帰ってよ」
お夏に揺り起こされた時、ひやりと冷たいものを感じたが、それはお夏の手であった
。それにお夏の口調にも突放すような響きがあって後味が悪かった。
そうか、そうだったのか、謀られた。これでは、どうにもならぬが道理、二人の仕組
んだ罠に落ちた。同じ被官仲間、一緒に猪狩りをした仲間、同じおじろく、その仲間が
、邪魔になるからと、仲間を村から追い出す。庄松は憤然として、瞼を閉じると松の木
に背をもたせ掛けた。
」」つづく」」