#2192/5495 長編
★タイトル (GVJ ) 93/ 7/ 1 1:53 (200)
月の陽炎(6) 青木無常
★内容
たまりかねたように沈黙を破ってケオパーが問いかけるのへ、主任は無言でうな
ずいてみせるだけだった。
整備士兼操縦士とクララ・アルドーをのせたS9は、先行する三台の推定遭難地
点まで、やっと半分ほどを踏破したところだという返事が返る。
転回が訪れるまでに、基地内のだれもが憔悴しきっていた。
『シューベルトCB……シューベルトCB……こちらファンレディS6…森川で
す。糞っ……ひどい頭痛だ……』
「モリカワ! 無事か? なにが起こったんだ?」
クリシュナをおしのけるようにして王主任は通信機に飛びついた。
『……事故です。地盤沈下だと思いますが……よくわからない。突然、われらが
お嬢さんめ、沈みこみはじめて……まるで船が沈没するときみたいでした。沈没す
る船に乗っていたことがあるわけじゃないが……』
「よしわかった。事故の模様はまた後でおちついてから説明してもらう」
冗長な述懐に対して怒鳴りつけたい衝動と闘いながら、王主任は身ぶりでクリシ
ュナを通信機の前から退かせ、スツールに腰をおろしながら深呼吸をひとつした。
「まず乗員が無事かどうかを報告してくれ。きみ自身の状態は?」
『頭がひどく痛いが……外傷は見当たりませんね。いや……これは瘤か、糞っ。
血は出ていないが……ほかの乗員?』
「そうだ。ほかの乗員だ」森川を、そして自分をおちつかせるように、一語一語、
かみしめるように主任は言葉を口に乗せた。「負傷者はいないか、調べてくれ。い
や、まずは生きているかどうか確認するだけでいい。意識を失っている者を無理に
は起こすな」
ノイズのむこうでしばらくの間ガサゴソと音がはいまわり、二言三言、軽い呼び
かけがつづいた後、ふたたび返ってきた森川の声音は、先刻よりはいくぶんかおち
ついているようだった。
『とりあえず死人はいませんね。ひとり気絶したままだが、もう一人はいま気が
つきました。怪我もどうやらなさそうです』
「よし。では次だ。ほかのファンレディは? 近くにいるのか?」
答えは一拍おいて返ってきた。永遠に近い一拍だ。
『います。ひどいもんだ。S7は半分傾いちまってる』
「S2は?」
『……やっぱり陥没ですね。地盤沈下だ。蜂の巣状の底に三台ともいます。S2
はとりあえず平行は保ってますが。S7ほどじゃないが、おれたちのお嬢さんもか
なり傾いてる。とりあえず、外に出てあっちの二台を見てきます。気密服が無事だ
といいんだが……』
無理はするな、と言いおいていったん会話を途切らせた。念のために通信機は双
方オンのままだ。
割り出された遭難位置をケオパーが救助隊に報告し終えるのを待ち、補助回線を
あけさせ、そして待った。
ノイズをついてもうひとりの乗員が呼びかけ、とりあえずの無事を告げる。森川
の後を追おうとしかけるのを王主任は制止し、残りのひとりの具合とファンレディ
S6の状態を確認させる。そしてエンジンが完全に沈黙したまま動こうとしない事
実が判明した。
補助回線にフォン・ホルストの声が飛びこんできたのは数十分も経過した後のこ
とだった。
『シューベルトCB、こちらファンレディ1107S2、フォン・ホルストです。
たったいまモリカワに叩き起こされました。とりあえずこちらの乗員は三名とも無
事です。ただし未確認情報ですが、S7のほうはモリカワによるとそうとうひどい
状態のようです。死人は出ていないものの、三人が意識不明、ひとりもひどい怪我
を負っていると言っていました。S2は走行可能状態であることを確認済。ただこ
のすり鉢状の崩れた斜面を登攀可能かどうかはすこぶる怪しいところですね。キム
にモリカワを追ってS7の様子を見てくるよう準備をさせています。ほかになにか
指示は?』
王は救援隊が一機むかっていることを告げ、次いで三台のファンレディの位置関
係と沈下の状態に関するくわしい説明を求めた。理路整然としたホルストの的確な
説明にうなずき、モリカワにつづいてキムがS7に乗り込んだことを確認した上で
ほかの二台にも警告を発して斜面の登攀にトライさせてみた。
平行するようにモリカワからS7の状況を聞き出していたクリシュナが間をぬっ
ててきぱきと報告をよこす。竹野景子以下三人の負傷程度は軽いがまだ気がつかな
いこと、残りのひとりは急を要する怪我ではないものの、適切な処置をほどこすの
に時間がかかれば危ないだろうということ。ファンレディS7はほぼ横倒しのまま
とりあえずは安定しているが、このままでは走行できそうにない、ということ。
重症者を動かすのはクララ・アルドーの到着まで見送るほうがよさそうだと意見
の一致を見たころ、ホルストから登攀は困難だという報告が入る。
生命維持機構と水、食料に不安がないことを確認した上で、双方やるべきことは
あまりなくなっていた。遠征隊に無駄な体力を消耗しないよう休んでいるように釘
をさした上で、シフトを超過して勤務していた基地内のスタッフ数人に仮眠をとる
よう命令し、当直にクリシュナを含めたふたりを残して王主任もスツールに深く背
をあずけ、目を閉じた。
ハンガーから、ただひとり残っていた整備員の焦慮にみちた報告が飛びこんでき
たとき、王李光はやっと眠りの端緒をつかみかけていたところだった。
不安がとった形は、月華には鉄の匂いと真黒い銃口だった。
深山から下界へと、そして都市へと、その足跡を広げるにつれ、ささくれ毛羽だ
った警戒とどす黒い怒りとが四囲を占めていく。洪門の手に奪回された北京には、
糾弾され、追い落とされた者たちの絶望と底しれぬ怒りが渦を巻き、開発の途につ
いたばかりの少女の超感覚を責め、苛んだ。
征服者たちの満足感もまた、灰色の不安の裏返しであることを知った。大陸の首
都には血ぬられた記憶がこびりつき、平安はどこにもなかった。
カルカッタからレニングラードへ、そしてプラハ、ロンドン、シドニー、大阪、
そして香港。恩師とともに放浪した世界のどこにも、安住の地はなかった。
潜在能をさがす旅はまた、マグマのように地下深くを逆まく漆黒で粘液質の不安
に、こづきまわされて追われ、逃げまどう旅でもあった。
月華と胡教授のスポンサーである銀路財団が、おさえていた月のいくつかの拠点
に通信・交通網を核心にすえた開発公社や研究所を築き、そのスタッフを募りはじ
めたとき、すでに高齢で選別対象外の恩師をおいて地上を離れる決意をしたのも、
どこにも安住の地を見つけられなかった苦渋につき動かされてのことと自覚してい
た。
そして、政治性を排し人類の発展という美名のもとに、国家・民族をこえた機関
を標榜する公社が単なる理想でしかない、ということも知っていた。実態は新たな
る荒野と資源への欲望を、隠そうともしないトルコを代表とするアラブ諸国への洪
門の牽制であり、月への、そして外世界への、侵略競争のひとつの現れでしかなか
った。
それでも、地上の思惑をこえて最前線に集う者たちの結束は、月華には心地よか
った。軋轢さえもがここでは、純粋だった。すべての視線は、太陽系へ、そしてさ
らにその彼方へと、熱く向けられていた。
銀の荒野にもまた拭いきれぬ不安は渦まいている。それでも、その暗黒は地上の
それとは明らかにちがっていた。わき目もふらず、炎のような視線は据えられてい
た。
未知へと。
そして時に、そのあくなき好奇心が、ひとを破滅へと導くであろうことも、知っ
ているつもりだった。
だから眠りのなかに忍びこんできた、何者かの、不安と焦慮と、義務感の底に、
凶猛な渇望がひそんでいることも至極当然、と、他人事のように眺めやっていられ
たのだ。
その熱にひきずられてうかされ、汗まみれの悪夢からもがき出たとき、己のうか
つさに歯がみすることになるともしらず。
もっとも、心の奥深い部分では、なにが起こったのかよくわかっていたのかもし
れない。呆然と天井灯を眺めあげながら悪夢の原因をさぐり、汗だくの額をぬぐう。
ふと、自分のベッドのかたわらにだれかが腰を降ろしていることに気がついた。
「目が覚めたかい小姐」
つぶやきつつ、額の汗にタオルをよせる王李光の様子に違和感を感じ、返事をす
ることも忘れて月華は目を瞠った。
笑い、そんなに男前かい? と軽口を放ったが、王主任の態度はどこか、気弱げ
だった。
「どうしたんですか、王老師。まるで迷子の子どものような顔をなさっているわ」
は、と笑いかけて瞬時、その顔が凍りつき、そしてふたたび弱々しく笑いながら
首を左右にふった。そして長い、ため息をついてみせる。
「休憩もかねて少しね」
いいわけのように言ってもういちど気怠く、息をつく。
なにがあったんですか、と訊きかけて隣のベッドを視界に留め、悪夢の原因にい
き当たった。
「パパラシッドは……」
「出ていったよ。お転婆お嬢さんを捜しにね」
息をのみ、言葉を失う。
見つめる主任の顔が、微笑もうとしては幾度も失敗し、とうとう疲労と落胆を隠
すのをあきらめたかのように、暗く沈みこんでいった。
「老師……」
呼びかけに目を伏せて首を左右にふり、両手で顔を覆いながら崩れるようにして
ベッドの中の月華の身体に上体を埋めた。
「愛人」声は、泣いているように震えていた。「私はもう……」
状況を把握しきれないまましばし呆然としていたが、月華は無言でそっと、王李
光の背に手を寄せた。
かすかに震える肩を静かに叩きながら数刻、月華と李光は無言で抱きあっていた。
「主任」
と呼びかけながら入ってきたクリシュナがその場面にいき当たってぎょっとした
ように立ちすくむのへ、王李光は恋人の胸のなかでぎくりと身を震わせ、月華は励
ますようにして愛する人を抱きかえしながら、にっこりとクリシュナに向けて笑い
かけてみせた。
「あ、その、失礼」
しどろもどろになって踵を返しかけるクリシュナに、
「待ってください」
月華が静かに呼びかける。
えっと肩ごしにふりかえった時にはもう王主任はなにごともなかった体をとりつ
くろって立ちあがっており、月華もまたベッドから半身を起こしていた。
「なにがあった?」
ばつが悪そうに主任がそう訊くのへ、クリシュナもへどもどしながら、
「いや、その、なにも進展はありませんがその……」そこまで言いかけて、ふっ
と息をつくと肩をすくめてみせた。「みなが動揺しているようでしたので」
王主任もまた、照れたようにちらりと笑ってみせただけでうなずき返し、
「わかった。すぐ戻る」
真顔でそう言った。
うなずき、ふと月華に視線を移してクリシュナが目をむいた。
「イエファ、まだきみは……」
上掛けを羽織っただけで立ちあがる月華を見て王主任も、思わず気づかわしげに
背に手を添えた。
だいじょうぶなのか、とその口が発する前に月華は、
「私も管制室に。安穏と寝てはいられないようですから」
断固とした口調でそう宣言していた。
「ひどい目にあったわね」
動けば訪れる頭痛に顔をしかめながら負傷者の看護にあたる景子がいうのへ、疲
労の翳も濃く森川は力なくうなだれた。
「タイミングですよ」
わかっているわ、と、慰めというよりはつづく言葉をさえぎるようにして、景子
はつぶやいた。
「異変さえなければ、回避できたんだ……」
語尾が弱々しく消えていくのへ、景子はため息で応える。
まさにタイミングだった。先行するS7が陥没にまきこまれることは避け得なか
ったが、沈下の速度は拍子ぬけするほどゆっくりとしていたし、通常の状態であれ
ば衝撃もほとんど感じられなかったことだろう。つづくS6とS2は回避するのに
充分な距離と速度を保っていたし、当のS7にしても横転するような事故にまで発
展することはなかったにちがいない。
が、月面全域を襲った異変が、まさに陥没の機をとらえるように乗員全員の感覚
を擾乱した。
だれが悪いわけでもない。しいて生贄をあげるとすれば、S6の不調をおして遠
征の続行を決定した景子が最有力候補だが、それもいずれ後の話だ。
にもかかわらず、森川は必要さえない弁解と自己正当化の衝動につかれるまま、
先刻から幾度となく同じ言葉をくりかえしていた。
「ホルストとチェンはまだ登攀をあきらめていないのかしら」
窓外を見やりながらそうつぶやいたのは、延々とくりかえされる埒もない森川の
ひとりごとをなんとかして留めるための苦肉の策だった。
「ドイツ人と中国人。飽くなき挑戦にはいい組みあわせですね」
揶揄まじりの日本人の感想に景子は眉をひそめたが、弁解のはてしないリフレイ
ンよりはましかと思い直す。なにより森川と同じことを、口にしないだけで自分も
感じていた。
延々とつづくドイツ人と中国人に関する個人的文明批評にいいかげんうんざりし
かけたころ、その通信は届けられた。
『……ファンレディS3、聞こえますか? 聞こえたら返事をどうぞ。S3、こ
ちらシューベルトCB』
「なにを寝ぼけてるんだか」
一人ごちながら景子は通信機を手にとった。
「クリシュナ? こちらはS7です。依然状況に変化はないわ。S3は整備中の
はずでしょ?」
『それが出ちまったから焦ってるんだ。そちらじゃなんか見えないか? たぶん、
あんたたちを救援に向かったと思うんだが』
みぞおちのあたりに重苦しい塊がぎゅうっと凝縮する。
「窪地の底だからなにも見えようがないわね」疲れたような響きの声音は、まる
で他人が口にしているように虚ろに響いた。「無謀な救援に出たのは、だれ?」
『まだわからない。連絡に出てくれれば一発だがね』