#2146/5495 長編
★タイトル (RMC ) 93/ 6/17 19:42 (196)
泣かないでレディー・ライダー 11〈トラウト〉
★内容
◇
その少女は全身打撲と複雑骨折で、意識がないまま手術をした。その昏睡は手
術後も続き、今も生と死の狭間をさまよっている。その少女の母親にとって、ゲ
ンジは悪魔以外の何者でもない、心臓が締付けられる思いだった。
ゲンジの怪我は骨にひびが入ったのをのぞけば大した事がなかったが、少女は
たとえ死ぬ事を免れたとしても、発育期の複雑骨折だ。彼のした事が少女の一生
を台無しにしてしまう事になるかもしれない。
たとえ金銭をいくらつんだとしても、いくらゲンジが謝り続けたとしても、そ
れは償える問題ではない。あの少女が太郎だったらどうだ? あの母親がナホだ
ったら、父親がゲンジがだったらどうだ? ゲンジにはわかり過ぎるほど、その
母親ルースの気持ちがわかる。わかるがあくまでも想像だ。母親の哀しみを自分
に置換えて感じることなど出来はしない。
いくらルースに「出て行け!」と言われても、絶対にひるみはしまい、逃げま
いとゲンジは思った。
一度ナースに連れ戻されたが、また彼はルースのところに這いずってまでも行
った。引戻されてもまだ行く、殴られても行く、ただそこにいて頭を下げていた
いと思った。心の中でナホとルースを、太郎と少女エマをだぶらせた。
ルースは罵声を浴びせるのに疲れると、黙った。ただ睨んだ。彼はひびの入っ
た左足を前に投げだし、右足だけで正座をし、拳を膝に揃え、頭をいつまでも下
げ続けた。そしてエマの生還を祈った。
彼に向けられたルースの眼差しは、ゲンジがこれまで生きてきた中で、浴びせ
られた事もない憎しみの瞳だ。その瞳がまるで鋭利な刃物のように彼の心にダイ
レクトに突刺さってくる。いくらでも突刺せと思った。ひたすら耐えた。
◇
エマは三日目に昏睡状態を脱した。ルースは初めて少女の病室に入る事を許さ
れ、表情がわずかだが和らいだ。と言ってもゲンジに向ける眼差しにかわりはな
い「会わせてくれ」と懇願しても「ゲット アウト オヴ ヒア」会わせてくれ
る筈もない。
◇
七日程すると、ゲンジは杖をつきながらもどうにか歩けると思った。快復は数
カ月かかるだろうが、退院は時間の問題だ。彼はそこでやっと、しなければいけ
ない事を思いだし、ナースルームにいくと、詳しくルースの事を尋ねた。
エマには飲んべぇでぐうたらな父親がいたらしいが、数年前にくだらない女と
どこかに消えたという事だ。
ルースは三二才、まだ若い。そんな亭主の事はあてにもせずに、エマと二人で
エルパソからしばらく行った所にあるナショナルパークの「ホワイト・サンズ」
そこのビジターセンターの隅にスペースを借受け、ソフトドリンクやら、フィル
ム、ポストカードなどを売る店を開いた。家は町外れのボロアパートの二階だ、
収入はたかが知れている。
今は、そのホワイトサンズの店を閉めている。ビジターセンターの中にはもっ
と大きなスーベニールショップもあり、コーヒーショップもある、ルースの店が
閉っていても観光客も誰も困らないという事だった。
◇
外出を許された彼は、早速ホテルに戻った。
ホテルの脇にゲンジのスーパー・グライドが駐めてあった。
ハンドルが曲り、クラッチレバーがない、ステップが折れ、エアフィルターの
カバーがとんでいる。が、思っていたより損傷は少い。
ホテルに入りフロントが預ってくれていた荷物を受けとり、その中に入れてお
いた予備のトラベラーズ・チェックで支払いを済ませ、記憶にあった近所のモー
ターショップに向い、スーパー・グライドを売るべく交渉をした。
それほどの金額をかけなくとも新車同様に復元出来るという事であろう、それ
は思っていた以上の金額で売れた。
デイトナなどとっくに眼中にない、これで当座の資金を得た。あとは母娘の生
活をどうするか? その後にエマのリハビリに全力をつくす。自分の事はすべて
が終ったその後だ、いやエマの快復いかんでは、終りがない懺悔が続くのかもし
れない、そう覚悟した。
心配しているだろうみんなの事を初めて思った。
ナホと太郎の事を考え目尻が熱くなった。
エアメイルを書いたが、何故か出す気持ちになれなかった。
「アクシデントがあって困っている」という言葉以上に書く事がみあたらない、
かたや少女は生死の狭間をさまよっているというのにだ。
出さなかった。
しばらく日本に連絡をしない事で自分を戒めた。
ナホと太郎の事を無理矢理にも頭から追いだし、ルースとエマの事だけを考え
た。
◇
日がたつにつれ滅入った。
滅入るだけ滅入った。
だが考えた。
しばらくはそうするしかないとその頭なりに決めた。
しかし、そう思いながらまたナホと太郎の事を、知らぬ間に考えている。また
頭から追出す。
考える。
考える度に精神があらぬ方向に蝕まれていく。
『今までのゲンジはその事故で死んだのだ』ナホと太郎には詫びようもないがゲ
ンジは死んだ。いや『ゲンジは一度死んだ』と思って貰うしかない。
ナホは籍に入れた、ゲンジが死んだとしたらあの店はナホと太郎のものだ。
それにリョウがいてヨーがいる。
俺のやる事はまずあの少女を治す事だ。そして俺は、記憶を喪失していた者の
ように、もう一度死の淵から蘇ってやる。そう自分にいいきかせた。
やり場のない哀しみだ、不器用な奴だと笑えばいい。しかしルース母娘の哀し
みを癒すのには時間がかかる。責任がある。初めてゲンジは声をだして何時間も
のあいだ慟哭した。
◇
床、壁、天井、どこにも消毒薬の匂いがしみついている。
いやに足音が響きわたる、寒々とした廊下だ。
妙に明るい色の服をきた老女が、杖をつきつつ歩いている。
そこの長椅子でゲンジは、両膝に肘をのせうなだれていた。
エマは退院に四カ月を要するという事だった。その時点で通常の歩きが出来る
ようにリハビリを進めるか、無理であれば車椅子の生活を強いられるという結論
が出た。死こそ免れたがゲンジの祈りは通じなかったのだ。
病室のドアが開いてルースが出てきた。
ゲンジは、彼を無視して通り過ぎようとしたルースを引留めた。
何をいうでなく彼女が長椅子の前にたって、ゲンジをみつめた。
ゲンジは座るように彼女にいうと、封筒をとり出しスーパー・グライドで捻出
した金銭をルースに渡した。ルースは中を見、紙幣を取出すと、無言でそれをゲ
ンジの顔の前でばらまいた。
いったい何なのこれは? 彼女の目がそう言っている。
ゲンジはもう一度それを拾い集め、ルースの顔をまたじっと見つめた、赤毛の
髪がひどい有様だ。
もう一度それを差出し「金を渡して終りではない」と言い、ルースの手にもう
一度それを握らせた。ルースの涙が目の下のそばかすの上をすっと伝った。
ゲンジはつたない英語で、
「それでは少ない・・・・
エマが治るまで、自分はこの街にしばらくいて、金銭だけでなく誠意をみせる」
という事を伝えた。ルースがその英語を理解して頷いた。
それから、
「入院している間は、ずっとエマのそばに居てやってくれ 生活費の心配はしな
いでくれ」と伝えた。
ルースは黙ってそれを聴いている、伝わっているのだろう。
「もしも・・・・
いや、リハビリテーションに何ヵ月かかろうが、自分は努力する。自分は最後ま
で責任を取る。もしも彼女が完治しなくとも、前以上にふたりをしあわせにする
事に全力を尽す」ゲンジが迷いながらも、その事をゆっくりと間違いないように
確かめ確かめ伝えた。
彼女が小さく二度頷いた。ゲンジが握手を求めたが、それに応じる筈もない。
ゲンジは手をその手をひき、紙切れを彼女に渡した。
それはゲンジが取りあえず住む事にしたアパートの地図だ。病院とは反対側の
南のはずれにある有色人種ばかりが住んでいるアパートだ。
「ジョブは?」
ルースが初めて口を開いた。
「モーターショップで働く、メカニックに詳しい」と、この街の住人であれば誰
でも知っているであろう、スーパーグライドを売った店の名前を口にした。
彼女はその店のオーナーを多少知っていたようだ。
「デイヴィッドね」
ゲンジが紙きれを指さした、下にその店の電話番号も書いてある。
ルースは「待って」というと廊下の先にある電話のところに行き、その店に連
絡をした。
デイヴィッドが『ゲンジという日本人が来て色々話した。訳を聞いて自分が経
営するアパートに住まわせ、彼を雇う事にした』とルースに伝えてくれている筈
だ。
ルースは電話から帰ってくると、何もいわずにゲンジの肩を叩き、そのままう
つむいてエマの待つ病室に消えていった。
◇
ルースは数日後、ゲンジの告訴を取下げた。
◇
大型の4WDがジャッキで高く持上げられている。白いツナギを着てベースボ
ール・キャップをかぶったゲンジが、クルマの下でマフラーのネジを締付けてい
る。
奥からデイヴィッドがやってきて、ゲンジの尻をぽんと叩き、何かを言った。
ゲンジが振向いて、彼に笑いかけた。
彼が働く事を許してくれたデイヴィッドは背丈が、二mもあろうかという赤ら
顔の巨漢だ、しかしその割には可愛いぐらいの笑顔を持っている。
昔、横須賀の基地にしばらくいた時期があるといっていたが、余程いい事でも
あったのか、日本人というだけで、ゲンジを少なからず信用してくれた。
以前リュウのところでビンテージカーなどの整備を、好奇心のままに手伝った
事があったが、それがこんな所で役にたつとは思わなかった。英語もろくに話せ
ない彼にとって願ってもない仕事であった。彼が一生懸命働いたのはいうまでも
ない。
彼は「ゲンジー」と尻上りのイントネーションで彼を呼ぶ、そう言えばエマも
そうだ。
一度オフィスに入ったデイヴィッドが、すぐドアからゲンジをのぞき、そのゲ
ンジーを叫ぶと、ぽーんとクルマのキーを投げた。
受取った彼が不思議そうにそれを見ていると。
「お前はいつでもそれに乗れる」と眉をあげて笑った。
店のピックアップ・トラックのキーだ。
有難いが「ライセンスを失くした」ゲンジはそういって、それを返しに行こう
とした。彼は「ムスコがポリスだノープロブレム」とウインクをした。
どっちみち嘘だろう。
ゲンジはキャップを脱ぎ「サンキュー ソー マッチ」と頭をさげ、それを受
取った。
彼が「ユア ウエル カム」と日本風に頭を下げかえし、笑った。
あれからひと月にもなる。ゲンジの英語はブロークンだが、意志の疎通には悲
しくも困らなくなって来ていた。デイヴィッドのいうテスト期間も終り、週給も
すこしだが上がった。
病院には毎日歩いて通っていたが、明日からはそのピックアップに乗れるとい
う事だ。
今朝も一週間に一度の花を買って、病院にいった。毎日のキャンディーやらお
菓子も忘れずに持って行った。
早い時間に仕事が終った時は夕方にも病院に出かけた。
夕方は自分の英語の勉強になると、決ってエマに絵本を読んであげていた。
毎日仕事を終えるとゲンジは必ずビールを一缶だけ買い求め、就寝前の時間に
そのビールと絵本と辞書をテーブルに並べ、声を出して勉強をしていた。
わからない所は翌日デイヴィッドに聞いた。それからがエマの前での本番だ。
それでもゲンジの発音がおかしいのだろう、エマはいつもくすくす笑いながら
それを聞いていた。今ではゲンジにすっかりなつき、ゲンジーゲンジーと彼が来
るのを楽しみにするようにまでなった。
苦笑して見ていたルースも、さすがに目からは険しさがとれ、乱れるにまかせ
ていた髪を整え、化粧さえするようになった。冗談さえ言わないが普通に彼と言
葉も交すようになった。
ゲンジは心の中から刺のようなものが、ひとつひとつ抜けていくような感じが
した。刺がひとつずつ抜ける度に、ナホと太郎が近づいてくる気がした。