AWC 約束 (前編)        ポパイ


        
#2101/5495 長編
★タイトル (GTM     )  93/ 5/16  19:20  (191)
約束 (前編)        ポパイ
★内容

 その小さな村は、一番近い町でも100キロ以上離れており、車でも3時間近くか
かった。村には小さな診療所がひとつあり、そこには真田一助という60才の医者と
50才の看護婦がいるだけだったが、看護婦は夕方5時になると自宅に帰ってしまうの
で夕食の準備や風呂炊きはすべて真田自身でやらねばならなかった。
 真田は60という年にもかかわらず髪の毛は黒々としており、顔は四角く黒縁の眼鏡
をかけていた。診察中の彼の顔は恐い印象を与えるが、人と話すときの顔は柔和であ
り、人なつっこい笑みを浮かべた。また身長は、175センチと同世代のなかではかな
り高いほうで、肩幅は広く、がっしりした体型であった。
 そんな大柄な男が台所で料理している姿は多少滑稽に見えるが、包丁裁きなどはうま
いもので本人は結構楽しんでいた。

 真田の過去を知る者はこの村にはいなかった。10年前までは無医村地区であったこ
の村になぜ彼が来たかを知るものはおらず、たとえ聞いても、そのことは話したがらな
かった。それに不審をもったある村人が、にせ医者ではないか疑い近くの町の保健所に
問い合わせたことがあったが、保健所の回答は、それを否定するものであり、真田が
正規の医師であることを証明した。それだけでなく、それから数日後、大学の先生が数
人この診療所を訪れ、真田に教授として大学に来るように要請したが、真田は辞退した
らしかった。この話は、いずれも村人がたまたま診療所に行ったときに耳にしたことが
口込みで広まったもので、真田自身はこのことは口にしなかった。

 真田の豪放らい落な性格と、毎日欠かさず年寄りの家を一軒一軒自転車で往診して回
るその熱心な態度と常に的確な診察は村人の尊敬を得るには充分であった。ここの村人
は概して大人しく、ややもすると陰気な感じがあったが、真田の開けっぴろげで豪快な
明るさに接するとどんな人間でも心を開いてしまい、陽気になるのだった。

 真田の悩みは診療所には充分な医療器具がないということであった。これまでも、
事故で大怪我をして診療所に運ばれたものの充分な手術ができず、町の大病院に運んだ
が間に合わず命を落とした者やこの診療所での検診では発見できなかった特殊な病気で
死んだ者もいた。そのたび、真田の心はひどく痛んだ。
「もっと新しい医療器具や設備があれば、何人の人間が助かっただろう。」
 いつもそう思わずにはおれなかった。だが、村は貧しく、人口も500人足らずであ
るため、診療所を大きくすることなどできるはずもなかった。


 夏のある日、自転車で、友達付き合いしている権太じいさんのところに往診に行った
時、じいさんはいつになくはしゃいで、真田に話しかけた。
「今度の日曜日にわしの孫がくるでのう。25才のべっぴんじゃ。真田先生も見に来た
らええ。」
「ああ、寄らしてもらうよ。べっぴんということは権太じいさんに似なかったというこ
とだな。よかった。よかった。わっはっは。」
「医者のくせに相変わらず、口が悪いわい。」
 権太じいさんは真田と同様一人暮しで年は70を越しており、最近リューマチがひど
くなっていたが、それ以外は健康で足腰もしっかりしていた。しかし、食事の支度など
が次第に億劫になってきており、町の養老院にでも入ろうかと考え始めていた。

 次の日曜日の夕方に権太じいさんの家を訪れると若くて大変な美人が夕食を作ってい
た。若い頃の吉永小百合に似たこの色白の女性が権太じいさんの孫であることは先日の
話から容易にわかった。真田は年甲斐もなく胸のときめきを感じた。
その女性は真田の方を振り返り、にこりと微笑んで挨拶をした。
「真田先生のことはおじいさんからよく聞いております。」
 小さな声だったが礼儀正しく、感じが良かった。ただ、どことなく寂しさの漂ってい
るのが気になった。
「やあ、はじめまして。あまりいいことは聞いてないかも知れませんが。」
「いいえ。とっても良い先生で、村中が明るくなったと言っていましたよ。」
「わっはっは。わしは電球みたいなもんかも知れませんな。」
 この輝くばかりに美しい女性は名前を吉田美子といった。3人で夕食をした後、美子
は、しんみりとここに来たいきさつを話だした。

 美子は5年前、20才の時に会社で知り合った男性と結婚したものの1年後に交通事
故で夫を亡くしてしまった。そしてさらに2年後、見合いで結婚したが、先月、癌で2
人目の夫にも先立たれてしまった。子供はいなかったが、2人目の夫の子供を宿してい
た。美子は2人目の夫を亡くしたとき、よほど一人で生きていこうかと考えたが、小さ
い頃、よく遊んでくれた権太おじいさんが田舎で一人暮ししていることを思いだし、心
の洗濯をするつもりでこの村に来たのだった。
 「私、運がないんです。夫は2人とも本当に優しい人だった。幸せでした。でも、幸
せは長くは続かないんですね。」
 美子はハンカチで涙を拭きながら話した。
「でも私が子供の頃は楽しかった。その頃は両親は仲が良くて、おじいさんもおばあさ
んも一緒に住んでいて、みんな明るくて元気で、毎日が楽しかった。だけど、おばあさ
んが亡くなったから、みんなおかしくなっちゃって。私が19の時、両親は離婚をし、
権太おじいちゃんは田舎に行ってしまうし、私は一人ぼっちになったわ。会社でやっと
好きな人に巡り会えたのだけど・・・」
 美子は席を立ち、台所で泣きだした。
 権太じいさんは目に涙を浮かべて言った。
「もういい。もういい。忘れるんだ。この村は本当にいい村だ。おまえの好きなだけ
ゆっくりしていくがいい。」
 日頃は豪快な真田も今夜ばかりは、だまって話を聞いていた。


 それから1週間ほど経った、日射し強い午後、美子は真田の診療所を初めて訪れた。
ノースリーブの白のワンピース姿の美子はまぶしかった。真田は照れ隠しに台所に行き
お茶を入れようとした。美子はそれに気づき、あわてて台所に入り、真田に代わった。
そして真田の正面で美子がお茶を湯呑に注いでいるとき、思わずワンピースの胸元から
豊満で白い乳房が少し見えたが、その時、真田は年甲斐もなく心臓の鼓動が高まるのが
わかった。美子はそんな真田の心の動揺など気づかずにゆっくりお茶を飲みながら話し
た。
「先生、私、この村に住んでみようと思うんです。都会の生活には疲れましたし、お金
もあまりないんです。権太おじいさんも、いいって言ってくれました。」
 真田は美子がこの村を気に入ってくれたことがうれしかった。
「それがいい。都会は人間の住むところではない。化物のすみかだ。人間の顔をした
化物どもがうようよいる。それに比べて、この村は静かで空気はうましし、人情味が
あっていいところだ。」
 美子は少し真顔になって、真田を見つめて言った。
「先生、お願いがあるんです。」
「わしにできることなら、なんでもするよ。美子ちゃんに頼まれたら、いやとはいえん
もんなあ。」
「私のお腹の中にいる子供、この村で産みたいんです。そして、この村で育ててみたい
んです。」
「おお、そうかそうか。任せときなさい。わしは産婆さんより、子供を取り上げるのが
うまいんじゃ。」
 真田は、はっはっはと豪快に笑った。美子が、この村に長くいてくれることがうれし
かった。それから、真田は美子を診察した後、産婦として心がけることや注意すること
を懇切丁寧に説明した。美子は、真田と話していると心が和んで楽しくなってくるの
だった。そして、本当にこの村にきて良かったと思った。

 それから7カ月が過ぎた。美子のお腹も大きくなり、予定日まであと一月余りとなっ
た。
 真田は美子を自分の子供のように、いやそれ以上の愛情をもって見守ってきた。美子
も真田が他人ではなく、肉親のように思えるのだった。


 この頃、真田の所へ、1通の手紙が来た。手紙の差出人は、ここから100キロ程、
北にある米軍基地の将校のジョー・サトウとなっていた。
『真田先生、お元気ですか。8年前のことは本当に感謝しています。先生は私の命の恩
人です。あのとき先生がいなければ、私は死んでいたでしょう。私は今度、将校として
またこの基地に戻ってきました。そのうち、ご挨拶に伺います。もし、先生のお役にた
てることがあれば何でもします。8年前のお礼をするという約束をいつか果たしたいと
思います。』
 真田は、その手紙を読み終わると、椅子に深く腰かけて8年前の事を思いだした。

 それは真田がこの診療所を開いて2年目のことだった。冬のある夜、山の方でズシー
ンという轟音があり、村人数十人で何が起こったかを確認しに出かけた。雪が20セン
チ程、積もった寒い夜だった。真田も小さい医療箱をもって一緒に行った。そして3時
間後、山の中腹に米軍の小型飛行機が墜落しているのが発見された。パイロットは脱出
していたが、岩に体をぶつけたらしく、大怪我をしていた。そのパイロットはすぐ、
真田から応急手当を受けた後、村人達によって診療所に運ばれた。
 パイロットの体の状態は内出血がひどく、緊急の手術を必要とした。町の病院に運ん
でいたのでは、まず助からなかった。真田は直ちに手術を行った。大病院であれば5時
間程度ですむ手術もこの村の診療所の設備では20時間を要した。そして手術は無事成
功し、パイロットは一命を取り留めた。真田も精力を使い果たし、2日間、足腰が立た
なくなるほどであった。

 ジョー・サトウというパイロットはそれから1か月間、この診療所に入院した。
 ジョーはハワイ生まれの25才の日系2世で日本語は堪能であり、性格は陽気で真田
とはよく冗談を言い合った。そして、退院も間近くなった頃、1週間ほどかけてジョー
は真田と一緒に村人の家を回り、お礼を言った。村人達もジョーの礼儀正しさと義理堅
さに感心し、またその明るさに親しみを感じた。
 ジョーは、退院する日に、真田に言った。
「先生の事は一生忘れません。しかし、私は世界中を回らなければならないので今度、
いつここに来れるかわかりません。でも、いつかはきっとこのお礼をします。約束しま
す。それまで元気にいてください。」
「わしはいつでも元気さ。それより、ジョー。死ぬなよ。このお礼を返してもらわない
といけないからな。約束だぞ。はっはっは。」
 真田は大声で笑い飛ばした後、ジョーを診療所の前で見送った。ジョーは、米軍の
ジープで去って行った。

 そのジョーが無事に帰ってきたことが真田はうれしかった。さっそく、最近の村の
様子などを書いて、ジョーに返事を出した。


 美子の予定日が3週間後となったある日の深夜、診療所の電話が、けたたましくなっ
た。
 それは、権太じいさんからで、せき込んでいた。
「真田先生、大変じゃ。美子が、転んで苦しんでおるんじゃ。早く、来てくださらんか
のう。」
「わかった。すぐ行く。美子さんの体は動かさずに、そのままじっとしといて下さい
よ。」
 真田は、着替えるとすぐ、最近買ったばかりの中古車を運転して権太じいさんの家へ
急いだ。
 美子は廊下に倒れており、脂汗を流して悲痛なうなり声を出していた。真田は聴診器
で診察した後、鎮痛剤を注射した。
「どうなんじゃ。美子は。」
 権太じいさんは心配そうに真田の顔色をうかがった。
 真田は困惑の表情を隠しきれなかった。事態は急を告げていた。真田の診察では3時
間以内に手術をしなければ、母子ともども命が危うくなるのだ。そしてこの手術をする
ための医療器具はいまの診療所にはなく、そこでの手術は不可能だった。
 真田は直ちに町の病院に電話をし状況を説明したが救急車は出払っており、すぐには
来れないという。来るとしても3時間かかるし、病院に行くまでさらに3時間、つまり
手術開始まで6時間を要し、それでは助かる可能性は小さい。真田は苦しんだ。どうす
ればいいのかわからなかった。それでもとりあえず、村の診療所まで美子を車で運び込
んだ。

 鎮痛剤が効いて、美子のうなり声は小さくなったが、苦悶の表情は和らがなかった。
真田は焦りだし、身震いし、脂汗が体中から吹き出してきた。
 もう一度、美子の体に聴診器を当ててみた。やはり、かなりひどい内部出血を起こし
ており、一刻を争う状況だ。
 町の病院へ電話し、院長宅の電話番号を聞き出し、そこへ電話をした。
「わしだ。真田一助だ。早く、救急車をよこさんか。」
 真田は電話で怒鳴った。
「あっ、元T大教授の真田先生ですか。はい、すぐ手配します。3時間後にはそちらに
着くと思いますが。」
「1時間で来させろ。」
「む、無理です。田舎道ですし、飛ばしても2時間半かかります。」
「1時間だ!」
 そう言って真田は電話を切った。
 しかし、1時間で救急車が来れるはずもないことはわかっていた。
 『死なせてたまるか。絶対、助けてやる。この村で幸せな生活が送れるように美子も
子供も必ず、このわしが救ってやる。』
 真田は歯を食いしばり、全身を震わせて考えた。
(つづく)




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