長編 #2531の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
夕焼け。 5時を過ぎ、店が開く。 お客さんは待っていたように、現れる。 「いらっしゃいませ!」 弥生さんの声が響きわたり、仕事は始まった。 子供達から解放された悟は、皿洗いをすることにした。 まず残ったものを、手を使ってきれいに生ゴミへ捨てる。お湯で残りを流しさ り、洗剤を混ぜた浴槽の中にしばらくひたす。油が浮いてきたところで、一気に お湯を使って洗剤とともに流していく。 そして、きれいな布巾ですぐに拭くこと。水が残っていると、そこに雨のあと の車のように汚れがたまるからだと、弥生さんは説明してくれた。 「やっぱり食欲を促すような食器じゃなくちゃね」 その通りだとは思うが、これを二人で、水香がいる前はさらに一人でやってい たかと思うと、何となく彼女が何人かの男の人を愛してしまったのが、悟には解 るような気がした。 水香は相変わらず愛想の悪い対応をしているが、お客さんはそれを子供らしい 邪気として、軽く流している。昨日笑ったのは、やっぱり珍しいことに違いない。 九時を過ぎた頃、ようやく客の回転は遅くなり、お酒を中心にした長居をする 人が増えてきた。仕事の話をしていく人達もいれば、しきりと弥生さんや水香に からんでくる人もいる。 磐田<イワタ>、という人物に会ったのは、一心地ついた悟が店の隅で夜食をいた だいている時だった。 「弥生さん、結婚するって本当?」 悟は、かけ込んでいたご飯を喉につまらせた。 「したいなぁって思っているだけよ」 手もとの水を飲み干し、やっと落ちつくことのできた悟は、その男を見た。見 かけは、あまり好ましいとは言えない。かなり酔っていて、しまりもなく、弥生 さんにからんでいる様にも見える。 「あの男と?」 「うん」 「あんな男のどこがいいの? 暗くて、いやらしい感じの中年」 弥生さんは、ふふっ、と笑う。 「そんな所が、かな」 「実は結婚しているとか」 「戸籍を見せてくれたわよ」 「念がいっているなぁ。……嫌になったらきっと、お金をやるから別れてくれっ てタイプだぜ」 「そうかも知れない」 「だろぉ? なぁ、俺と二人でどこかでひっそりと暮らそうよ。その方がずっと 幸せにしてやれるぜ」 そんな時、「それじゃあ駄目だよ、おっさん」と、水香が呟いた。 「あぁ、悪かった。水香ちゃんも一緒に、三人で、なっ? 機嫌なおして」 「そうじゃなくてさ」 「じゃあ、なんだよ」 「どうせ口説くんなら、『子供も、店も、あなたの過去も含めて、大事にする』 って言わなくちゃ」 「水香……」 弥生さんが不安げに水香を見つめる。様子がおかしいと思ったら、磐田はおこ らんばかりに水香を睨みつけていた。 「その言葉、どうせあの男が吐いたんだろ」 まさか親父がそんなことを、と悟は疑ったのだが、水香はこくりとうなずいた。 悟はしばらく放心し、そして、親父、やるじゃないか……と、心の中で呟いた。 「けっ」 磐田はおもむろに煙草をふかし始めた。 息子の知らぬところで親父は、美人の未亡人の取り合いという、遅い青春を送 っていたらしい。そして、その勝負は親父の勝ちのようではないか。息子にとっ て、その事実は誇らしくさえあった。 弥生さんの苦笑いと、水香の憎らしげな無表情が、何となく頼もしく見える夜 だった。 磐田さんは、そうそうに店をでた。寒い風のために上着を着なおし、煙草を大 きく吸い込む。それをいつものように、横の路地に投げ捨て、あらたに煙草に火 をつける。 仕事も楽しいことがなければ、家に帰ってもやかましい。そしてとうとう、行 き着けの飲み屋まで居心地が悪くなってきた。磐田さんは、何とも面白くなかっ た。いつものように、石や缶を蹴り散らしながら、大股で歩き去っていく。 しかし磐田さんは、その自分の投げ捨てた煙草を、弥生さんが掃除しているこ とを知らなかった。そして、その心遣いのなさがために、弥生さんは磐田さんを 好きになれないという事実に、彼は気づくこともなかった。 この家にお世話になっていた間の出来事で、悟がもっとも良く憶えているのは、 何故か銭湯にいった時のことだった。築三十年になる家の風呂は水漏れが激しく、 冬の間は家族で銭湯に出かけることになっていた。 「家自体がもろいから、直してもすぐに駄目になるのよね」 十一時をまわり凍えるほどに寒い道すがら、弥生さんが呟く。 悟にとって銭湯にいくのは、かなり久しぶりのことだった。小さい頃に、クラ ブの合宿で利用して以来だろう。タオルと着替えを持つ手が、夜風にさらされて 冷たい。熱い風呂に入りたい気持ちで一杯だった。 水香、華歩、果菜、弥生さんと火斗は女風呂へ。海と加羅、そして悟は男風呂 ののれんをくぐる。お客は意外に多く、風呂好きのおじいさんや、仕事の帰りの 男性、若い学生がいた。服を脱ぎ、タオルを持って、風呂場へゆく。 冷えた体を温めようと、まずは軽く体を洗い風呂に入ろうとしたのだが、熱く てなかなか体をひたすことができない。ようやく、全身を湯の中に沈ませること ができると、悟の口からは思わず「おぉぉ……」とため息がもれた。 「おじんくさい奴だな」 悟の隣に入ってきた海が、熱くもない様子で腰を沈める。その横に、加羅が入 ってくる。大中小の三人組は、どこから見ても兄弟に見えるだろう、と悟は考え ていたが、あるいは親子に見えるかも知れないと思い、少しばかり落ち込んだ。 「それにしても大きな体だな。加羅が三つぐらい入りそうだ」 悟の広い背中を見た海が、そう呟く。 「八十五キロの三分の一は……三十キロもないぞ」 「見かけの問題だ、見かけの。褒めているんだから、素直に受けとめろ」 「そうか」 「まぁ、でも飯の無駄食いは、許し難いな。むさぼり食うことは最も悪いことだ と、仏教書にも書いてある。一粒のご飯にも三千の神が宿っているというからな」 海の方がじじくさいなぁ、と悟は心の中でだけ呟いた。 加羅は始終黙っていたが、体を洗おうとした悟の背中をタオルで一生懸命拭い てくれたのは、嬉しいことだった。もう一度浴槽に入り、十分にゆだった加羅は 海に言われて百を数えたあと、先に外にでていった。 海と悟はもうしばらく体を温めることにした。 「なあ、記憶喪失ってどういうものだ」 「そう言われても困るな。何というか、何もないんだ」 「何だそりゃ」 「いや、つまり記憶が」 我ながら情けない嘘のつき方だとは思ったが、海は「ふぅん」とうなずいた。 しばらく黙ったあと、海は「お前が兄貴ならいいな」と小さな声で呟き、驚く 悟をあとにして出ていってしまった。 神社のときの彼を見ても、そして風呂場での加羅の扱いを見ても、海はりっぱ な兄貴だった。そして何もかも知り尽くしているような聡明さがあった。 「ばれているのかなぁ」 悟はそう思いながら、ふと笑みがこぼれるのを止めることができなかった。 悟もようやく風呂場を出て、服を着込んだ。海にコーヒー牛乳を、加羅にヤク ルトをおごってやり、悟は牛乳を買って飲み干した。冷たい刺激が喉を通り、潤 いが広がる。こうして飲む牛乳がいちばん美味しいなと思う、悟であった。 帰り道、体が冷えないようにと足が早くなる。横にいる水香を見ると、しんな りと濡れた髪からやわらかな湯気がたちのぼっていた。風邪をひかないだろうか、 とふと悟は心配になった。 「寒くない?」 「寒くない。凍えるような夜風のなかに飛び込むのは、好きなんだ」 「物好きな……」 「お前はわからないのか? 寒ければ寒いほど、体が温かいのが嬉しくないか?」 あまり悠長なことのいえる寒さではなかったが、水香は気持ちよさそうにさっ そうと歩きだす。 「もっともっと寒くなくちゃ。そんな時に『さむいっ!』っ呟くのが、またいい んだ」 「よくわからん」 「例えばだなぁ……スキー場とかで本当に寒くて、寒くて、本当に凍えそうなと き、『寒い』って心から呟くだろう?」 「もちろん」 「何にも考えずに、強く心から念じたことを吐き出す瞬間って、良くないか? 『お腹が空いたっ』とか」 「眠たいっ、とか?」 「そうそう。実感こもっててさ」 水香が振り向き、微笑む。会話が途切れ、ふと静寂が広がった。電灯が一つ、 家族を照らしだしていた。 どういう意味なのか、悟はしばらく考えていた。そしてある瞬間、その意味が 何となくわかるような気がした。 例えば、「眠たい」にしても、うとうとする時の「眠たい」と、二日ぐらい徹 夜したときの「眠たい」とは異なる。 「きれい」ならば、車ででかけ楽して見つけた「きれい」よりも、野山をかき 分け苦労して見つけた「きれい」の方が、ずっと上のように思える。 そして、一度その「眠たい」や「きれい」を憶えると、たぶんそんじょそこら の刺激では、「眠たい」とも「きれい」とも思わないかも知れない。 昔は一度、そんなものを追いかけていたような気がするが、そういえばもう何 の刺激も感じない日を送っているなぁ、と悟は気づいた。 「寒ければ寒いほど、体が温かいのが嬉しくないか?」 ああ、そうかも知れない。秋の寂しい景色を見つめたとき、心の中に温かな思 いがあることを知って、嬉しくなる。自分の帰れる家、布団、親、友達。 きっと水香はそんな身近なものを、大事にしているのだろう。 家に帰り、部屋の布団の上に座りこみ、昨日見えた明るい星を見つめながら、 悟はそう結論づけた。
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