長編 #2302の修正
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近世大坂出版統制史序説(4) 夢幻亭衒学:Q-SAKU/MODE OF PEDANTIC ケースC 寛政三年四月二十五日付け史料に拠ると、左甚五郎(江戸初期の伝説的名大工) を扱った「彫刻左小刀」が絶版にされました。この絶版は版木を残らず削られる という徹底したものでした。「法義之事を取組候上るりニ付、芝居差留メ之義東 本願寺輪番円徳寺より願出候ニ付」とあり、寺院からのクレームが原因であった ことが解ります。宮武外骨は「改訂増補筆禍史」の中で、根拠となる史料を挙げ てはいませんが、本願寺僧の祖先が左甚五郎と関係があったように書かれている ためだと言っています。ならば、これは「御条目」にある、人の家筋祖先につい て勝手なことを書くな、との禁制に触れたことになります。ただ、この「法義之 事」は宗教論とも解釈し得えます。勝手な宗教議論を出版することは、禁止され ていたのですし。 寛政十一(一七九九)年九月十日付け史料に拠ると、「安土問答絵抄」という 本がチェックを受けています。この本は「安土宗論」という本に増補したもので、 「禁断日蓮義」「再難鈔」「挫日蓮」等の類本があるとの主張に拘わらず、「宗 論書」であることを理由に、惣年寄りは許可を与えませんでした。版元は原稿を 返すよう願い出ました。惣年寄りは通常の事件として処理することは出来ないと 答えました。そこで版元は返却のための文書に、前出類似の本を参考に添えて提 出。惣年寄は、「彼是差支有之書故、板行可相止」と判断を下しました。結局、 参考として提出した類本は返してもらえましたが、原稿は返してもらえませんで した。 元となった「安土宗論」は大日本仏教全書七十九巻に収められています。これ は、時代を「天正中旬」、場所を安土にとり、浄土宗と日蓮宗との間に起こった 宗教論争の顛末を描いたものです。実際に、天正七(一五七九)年五月中旬に宗 教論争が行われています。織田信長の干渉もあって、かなり不公平な問答だった ようです。結果は日蓮宗の敗北で、詫証文と罰金を取られ、しかも関係者は処罰 されたんです。また、この宗論については、信長が全国統一の政策上、日蓮宗迫 害のために仕組んだ陰謀ともいわれています。そして信長死後、豊臣秀吉が勢力 を台頭した天正十三年に日蓮宗は秀吉から詫証文を返してもらい、元に復しまし た。しかし同書中では、日蓮宗の衆徒や僧侶が傲慢、無知、無能を、絵に描いた ように演じており、一方的な日蓮宗への悪意を感じます。或いは、浄土宗関係者 の作であったかもしれません。ちなみに古川柳では日蓮宗といえば、頑固である と決まっており、かなり揶揄の対象にされています。 文化九(一八一二)年八月、「日蓮上人行状絵図」という本の発行が願い出さ れました。しかし、これも日蓮宗の本山に許可を得ているか尋ねられ、得ていな かったために文化十年四月、願い下げ(許可申請取り下げ)を余儀なくされまし た。また、文化十年六月の史料に拠れば、「垂釣卵」という本の出版許可が申請 されていますが、「文面之義神仏争論之説多候ニ付」き、これも取り下げられて います。 ケース D 寛政十二(一八〇〇)年二月、「会所往来」という本の出版が願い出されまし た。二ヶ月後「御口上にて被仰聞候ハハ此書御公辺に拘り候役柄之文章も有之」 として、「難差免趣」を惣年寄から言い聞かされ、「重而ケ様之書ハ願出ましく 旨」を言い渡されました。しかし、この場合は、願い写本は返してもらっていま す。 元文五(一七四〇)年二月の史料には、「画巧潜覧」という書物が登場します。 同書は狩野派の絵師による絵画入門書、もしくは解説書といった体裁を採ってい ます。六分冊となっており、第一冊は狩野、土佐派の先達の系統図や絵の模写を 載せています。この本がチェックされた理由は、「御上々之御名字并寺号什物等 書著有之候ニ付」というものでした。具体的には「和泉守」の名、大徳寺等の所 持する絵、高家所有の化物絵を、狩野、土佐派の正筆として写し載せています。 結果は、以前に五冊、類似の書物が出版されているとの本屋の弁明が通り、赦免 となりました。 安永五(一八五八)年六月十七日付けの史料は、以下の事を語っています。ま ず、奉行所か惣年寄から行事に対して、「日光御社参行烈記」という書物を往来 で売り歩く者がいるが、不届きである。版元は誰か、本屋で店売りもしているの か、詳しく調べて報告するように、と命令が下ったのです。「不届き」である理 由は、「はやり歌草紙もの同様に相心得、よミ売ニ仕候段」とあることから、本 の内容よりは売り方が問題となったようです。行事仲間は答えて、「日光御社参 供奉役人付」との本なら江戸から仕入れて売っている者がいる。次に役人側は、 江戸から書物を仕入れたら行事から伺いを立てるよう申しつけています。 差定帳所収、享和三(一八〇三)年六月十五日付けの史料に拠ると、「絵本太 閤記大全」という本が類版の疑いでチェックを受けています。同書は以前、別の 本屋が「太閤記筆操」という外題で刊行したものでした。この「太閤記婦操」は 「絵本太閤記」の類版として訴訟に持ち込まれたことがあります。その結果、被 告側は以後、「絵本太閤記」の類版を出版しないと証文を書かされました。しか し、この「太閤記筆操」の版木を手に入れた者が、「絵本太閤記大全」という紛 らわしい書名に変え出版したのです。奥書には再版する旨が記されており、「絵 本太閤記」の版元は危惧を抱きました。仲間同士の争いを避けるため示談を進め ようとしたのです。結果は、再版の度に、版木を彫る前に写本を交換し行事に判 断を仰ぐこととなりました。 紛らわしい書名の本が出版されたり、類似の本の初版奥書に再版予告が書かれ たことなどから、「絵本太閤記」自体の人気を窺うことができます。実は同書は、 この類版疑惑事件を含めて、数奇な運命を辿りました。 寛政十(一七九八)年、「絵本太閤記」の初編が発行された。第七編が出され た享和二年迄、通算八十四冊が刊行された。それが文化元(一八〇四)年五月に、 大坂ではなく江戸で、「売留」(販売禁止)、及び没収、元版絶版に処せられま した。「絵本拾遺信長記」も江戸では同様の扱いを受けています。 宮武外骨は「改訂増補筆禍史」の中で、「法制論纂」という書物を引用しなが ら、享和三年、嘘空山人、十返舎一九等が、太閤記のパロディを出版し、その後、 勝川春亭、勝川春英、歌川豊国、喜多川歌麿、喜多川月鷹等、当時の浮世絵師た ちが競って太閤記中の場面を描いて、太閤記人気が一世風靡したと述べています。 そして遂に、幕府創業の関係者達が人々の口に上ることを恐れ幕府は、文化元年 五月、「絵本太閤記」をはじめ、草双紙や武者絵の類すべてが絶版としました。 喜多川歌麿が三日間の入牢の上、手鎖の刑を受けたのも、この時でした。版元は、 それぞれ十五貫の過料を課せられました。また、余談として、「絵本太閤記」が 絶版となったのは歌麿が取り調べ中、恐怖に駆られ「絵本太閤記」のことを話し たために同書の存在がバレ、絶版に処せられたといいます。 文化十一年七月二十八日付けの史料に拠ると、行事が奉行所に呼ばれ、「絵本 太閤記」の他に太閤記という本があるか否かを尋ねられました。行事は答えて、 京で出版された本に二冊あると言上しました。後日、行事は詳細を文書で奉行所 に報告しました。その時、奉行所は行事に、京、江戸で、これらの太閤記関係本 が絶版となった事実があるか否かを尋ねました。その場で行事は、絶版の事実は 聞いたことがないと答えました。 安政六(一八五九)年十月五日の史料に拠ると、「絵本太閤記」の版元の一人、 河内屋太助が再版を申し出ました。この願書に拠ると、文化元年に絶版とされた が安政四年、江戸で「豊臣勲功記」という本が出版許可を受けました。同書は、 少なくとも河内屋太助の意見では、「絵本太閤記」に増補した全くの類版でした。 このことを根拠に嘆願書を提出、「絵本太閤記」の大坂での出版許可を願い出ま した。安政六年に、許されました。そして次に、この「豊臣勲功記」が問題を起 こしました。河内屋茂兵衛が「豊臣勲功記」の版木を江戸から買ってきました。 「絵本太閤記」の全くの類版、即ち版権侵害になり得ると解っていて買ってきた。 茂兵衛の言い分は簡単明瞭です。類版の「絵本太閤記」の版元には悪いと思った が、とにかく買いたかったので買った。確信犯ですね。ただ、このことを知った 行事に諭され、「豊臣勲功記」の版木を「絵本太閤記」の版元に売ろうとしまし た。彼の言うには、千両で買ってきたが百五十両の損金で、八百五十両で売りま した。こうして一旦は手放しましたが、元来が欲しくて欲しくて買ったのだから、 やっぱり惜しくなって買い戻し、「十軒之内一軒八分通り初篇より十二篇迄永代 為訳立、相合留板相渡買戻」との契約をしました。売り上げの十八パーセントを 差し出すことにしたようです。 文久二(一八六二)年十二月十二日、以前「絵本太閤記」の版元の一人であっ た海部屋勘兵衛は、他の本屋に自分の株を売ったのですが、その折、絶版となっ ていた「絵本太閤記」の版権も共に売ってしまっていました。株が売買された時 点では、「絵本太閤記」は絶版となっていたようです。勘兵衛は絶版所の版権を 取引したことを以て、株の売り渡し自体を無効であると主張していたよいうです。 結果は株の売り渡し契約書に不備がないことから、取引は成立していると判断さ れました。 ただし同月二十一日の史料に拠ると、「絵本太閤記」の版元の一人が版木を返 すように要求し、主張が通って返してもらっています。 宝暦十二(一七六二)年八月二十九日付けの史料に拠ると、「花系図都鑑」と いう義太夫の浄瑠璃関係本が一部削除を命じられました。中に出てくる「桃園」 という言葉を削り取るよう、京都町奉行所から命じられたと京都書林行事が伝え てきたためです。これを受けて大坂で版木の該当する六カ所を彫り直し、改めた 後の本と、今まで刷っていた本のみならず既に売り払っていた本も回収し取り替 える旨の証文を提出しました。 実は宝暦十二年七月十二日、百十六代遐仁天皇が崩御しています。「続史愚抄」 の後編桜町天皇上宝暦十二年七月二十九日の条には、「此日、先帝(遐仁)御追 号を以て、桃園院と為す」とあります。「花系図都鑑」が筆禍を被ったのは、こ の諡号決定から丁度、一ヶ月後です。即ち、諡号決定ーチェックー削除命令ー京 都からの伝達ー反応の過程の所要時間が一ヶ月だったのです。明確には書かれて いないが、「桃園」が削除されたのは、諡号に差し障りがあると判断されたため でしょう。そして、更に言えば、歴とした書物と認められていなかった浄瑠璃本 だからこそ、チェックを受けたのではないでしょうか。 (つづく)
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