長編 #2191の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
さらりと言ってのけた。王李光を除けば、ケオパーがシューベルトCBでのいち ばんの古顔であることを景子は思い出す。 「そう。さびしくなるわね」 『かわりの人が着任するわ』ドライに言いきり、つけ加えた。『正直いうとね、 任期を更新するかどうか、迷ってたの』 「更新すればいいのに」 言った口調がだだっ子のように頼りなげに響く。考えてみればケオパーは景子よ り年下だった。 『実は少し後悔してるの。でも代わりが赴任する以上、残るわけにもいかないわ。 ――おかしいわね。単調な、かわりばえのしない毎日にいいかげんうんざりして、 気が狂いそうなほど地球が恋しいといつも思っていたのに、いざ離れるとなるとと たんに名残りおしくなってしまうんだから』 「タイに帰るの?」 『しばらくはトウキョウ。大学で、月面における通信のあれこれをレポートにし たり、ほかにいろいろすることは山積みね。もっともそんなこと、ここにいてもで きないことじゃないんだけど』 「それからチェンマイ、か」 『たぶん、ね。すこし迷ってるの。もう一度、月への赴任を申請しようかって。 シューベルトには戻ってこられないでしょうけれど』 沈黙をおいた。景子も黙りこむ。 時どき考える。なぜ自分はこんなところで、安全規則とスケジュールにがんじが らめにされて自ら日々を忙殺に埋もれさせているのか、と。地球へ帰って教鞭のひ とつもとれば、もっと安楽で娯楽にもみちた暮らしを過ごせるだろう。エアコンデ ィショナーがちょっと妙な音を発しているからといって、生命の危険を感じながら 大騒ぎをくり広げる必要もない。街へ出れば日々その装いをかえる自然や無数の人 びとと出会うこともできる。ここではそれもただ荒涼とした死の世界のつらなり、 そして同伴するのはつねに死神だけだ。 にもかかわらず、月を離れるという考え自体に強力な抑制がかかるのもまた、事 実だった。もしかすると一生涯を、自らこの月の上ですごそうと選んでしまうのか もしれない、とさえ思う。 そしていつでも思考はここで足踏みをする。なぜ? と。日々、新しいことども の発見のくりかえしではある。文字どおり人類の先頭にたって走りつづけていると いう実感もたしかにある。それだけだ。ほかになにもない。人間らしい暮らしとは 無縁だ。ここにはなにもない。死の世界だ。なのに、なにが自分をここにとらえて 離さないのか。 理屈をつけられないことはない。だが、答えはなかった。人間とはそういうもの なのだろう――唯一実感できるのは、論拠も理性のかけらもないそんな言葉だけだ った。 「気をつけてね」 なんの気なしに、感慨をこめて呼びかけ、 『それはあたしのセリフじゃない』 はじけるような笑いとともに言われて、たしかにそうだと苦笑する。 『ほかの二台とも通信状態の確認をしておきます。またあとでね』 ふいに笑いをおさめたケオパーが事務的な口調で告げるのを機に、通信を終える。 狭い車内におしこまれた三人の同乗者に目をやると、同意を秘めた控えめな微笑が、 軽くうなずき返していた。 月に暮らす者はみな、そうなのだろう。 改めてそう確認できたような気がして、不思議に満ちたりた想いが胸の奥に広が っていくのを景子は覚えていた。 ふたたびケオパーからコールが入ったのは、数分後のことだった。 『S6のエンジンがちょっと不調だそうよ』さきほどの打ちとけた様子とはかわ って、緊張をはらんだ声音がそう告げた。『噴きあがりがいつもよりちょっと鈍い ってモリカワが言ってる。戻るわけには――いかないんでしょうね』 「安全規則には違反するけどね」 苦笑まじりに答える。開発公社は建前と実際のくいちがいがあちこちに存在する。 『あと基地にあるのはS3とS9か。この前出したばかりね、二台とも』 「S3は整備班がなにか故障箇所を発見したとかで、使えないわ。S9のほうは 整備はすんでるらしいけど、いまさら基地に戻るのもね。森川に状況をきいて、た ぶんそのままいくことにするわ。ちょっと調子が悪い程度なんでしょう?」 『と、モリカワも言っていたけど……。あまり無理しないほうがいいわ』 「大丈夫よ。無事に帰ります。わたしだってこんなところで死にたいわけじゃな いわ。また連絡します」 さらになにごとか言いたげなケオパーにもう一度、大丈夫ですと念をおし、S6 に回線を移した。ファンレディの状態を話しあったあげく、そのまま遠征に踏みき ることに決定する。噴きあがりが悪いといっても気持ち程度、最悪の場合でも、二 台のファンレディがあれば余裕で帰還は可能だった。極端な話、非人間的な狭さを 無視すれば、一台のムーンカーでも十人の遠征隊員を収納することはできる。 ふたたびケオパーに連絡をとり、王主任の許可を得た上で遠征隊はスケジュール どおりに行動を開始した。 「無茶をしたもんだ」 隣のベッドでつぶやくように言うパパラシッドに、月華は微笑みながら他人事の ように「ほんとうですね」と力なくうなずいてみせた。 あきれて眉根をよせつつ、ラシッドは月華を見かえしたが、湖面の落ち葉のよう に、澄みきった微笑に毒気をぬかれたか、ため息をつきつつ苦笑するのみにとどめ た。 「で、月はものを考えていたのかい?」 なにげない風を装ってはいたが、声調に好奇がありありとあふれ出している。 月華は微笑をおさえてしばし黙りこんだ。 やがて、 「ものを考える、というのではありませんでしたね」うまく言葉にまとまらない か、ゆっくりとした語調で言葉を選ぶようにしながらそう口を開いた。「無数の光 景……というか俯瞰図が現れては消えていました。コンピュータ処理と似ているか もしれません。パパパッと、一瞬のうちに次々に写真を見せつけられたような……。 思考、というか、人間の頭の内部をのぞくのとは明らかにちがっていたわ……。い ちばん近いのはやはり、老師のいっていた“寝言”ですね」 「まったく無茶をする」しみじみと述懐するように、ため息とともにラシッドは 言う。「月の思考を読んでみた……? 無謀、というよりは狂気じみているとしか ……まあ、君にしてみればたいしたことではなかったのかもしらんが」 「たしかに常軌は逸しています」苦笑しながら月華は、ラシッドにむけて顔を横 むかせた。「ただ、異変のさなかに、老師の言っていた『寝言』という言葉を思い だして。寝言だったら、テレパスの私には読めるはずだ、と、ふと思ったんです」 パパラシッドは信じられない面持ちで、弱々しく微笑む月華の顔を見つめていた が、やがてふっと息をつくと視線をそらし、 「君は見た目より冒険家なのかもしれんな」 つぶやくように言った。 月華の微笑が、つかのま大きくなった。 蕾から花が開くような、あでやかな笑顔だった。 「冒険家かどうかはわかりませんが、情熱家であることはたしかですね。風貌や テレパスであるというイメージから、実際よりずいぶん落ちついた人格だと思われ がちですけど」 言葉にパパも、微笑みかえす。 「休養にはもうあきあきだよ、わしは」そしてため息とともにそう言った。「ク ララはいつになったらベッドからわしを解放してくれるつもりなのかね」 「私にとっては、いい休養です。たぶん」 気だるげに口にし、月華はだれはばからず大口をあけて、あくびをしてみせた。 ラシッドは苦笑を鼻から抜けさせながら首を左右にふるう。 「だろうな。この閉鎖空間でテレパスがカウンセラーをやるとなると、文字どお り気の休まる間もないんだろうし。まあ、だがわしの場合は、ふだんから半分がた 休養しているただのお荷物だから」 自嘲的な言葉に月華は眉をひそめる。 「パパ」母親が子どもを咎めるような口調で、そう呼びかけた。「そんなことを いっては、私は哀しくなってしまうわ。パパにはいつでも元気でいてほしいと、み んなそう願ってるんですよ」 ハハハそうかね、とパパラシッドは天井を見つめたまま弱々しく笑う。気づかわ しげに月華はラシッドを見つめていたが、 「よう、元気かいおふたりさん」 軽い口調とともに入ってきたクリシュナに、断ち切られたように視線をむけた。 「ケイコはいったかね? わしもせめて見送りたかったんだが」 ラシッドの言葉にクリシュナは励ますような褐色の笑みをうかべる。 「出かける前にはかならず顔を見せてたろ、パパ。今回は現れなかったなんてい わせないぞ」 「それがどうも、わしが眠っているあいだに来ちまったらしいんだ」 いかにも無念そうに、パパラシッドは言った。 「そいつはお気の毒。だけどおれにはさよならの一言もなかったからな。幸せな もんだと思うよ、プロフェッサーの場合は」 「通信機であいさつくらいは交わさなかったのかね?」 「なんとなく、ね」言って、クリシュナは肩をすくめてみせた。「ケオパーのう しろに立って、やりとりは聞いてたんだけどさ。どうも口をはさむタイミングをな くしちゃってね。ファンレディが一台、調子が妙だといってたから、気をつけろの 一言くらいは口にしたかったんだが、なんとなく、ね。できりゃ、いまからでもつ いてってやりたいとこだが。もっとも、おれがついていったところでなんの助けに もなりゃしないんだがね」 どこかすねたような口調でいうクリシュナに、ラシッドは淡く微笑みながら、 「わかるとも」 と短くうなずいた。 「イエファも、ウォン主任以下無数の男どもがわがことのように心配してたぜ。 シフトがあけたらどっと大挙してここになだれこんでくるだろうな。覚悟しといた ほうがいい。実をいうと、おれが今ここにきたのも半分はまあ、ウォン主任にせっ つかれたせいなんだ」 言葉に月華は静かに微笑み、うなずいただけだった。眠気をもよおしてきたらし い。瞳に幕がかかりかけている。 「クリシュナ」間をおいて、ふいにラシッドが呼びかけた。「きみはなぜ、この 月にきたんだっけかな」 唐突な質問にクリシュナは腕をくんで考えこむ。 「家族の名誉を背負って……ってところかな」やがて、そう答えた。「カトマン ズじゃおれの家族はけっこうな名門だったが、それでも住居は倒壊寸前の集合住宅 だった。そんな環境から公社に抜擢されて月へ派遣されるとなれば、二度とは巡り きたらぬ大名誉、さ。深く考えたこともなかった。たとえ通信員だとしても、なん の疑問も抱かなかったな。不安は山ほどあったけどね」 興味深げな表情でパパラシッドはクリシュナの言葉を耳にしていた。 ネワーリが語り終えてもなおしばらくのあいだ教授は黙りこんでいたが、やがて 次の質問を口にする。 「それで、今ではどう思っている?」 インド・アーリア人が意味をはかりかねた顔つきで見返すのへ、困ったように、 「その、なんていうのかな。月へきてみて、どう思っているかってことなんだが」 うーん、とクリシュナはうなりはじめた。 「なんというのかな。そんなことは考える暇もなかった」 職場放棄の常習犯のそのセリフに、ラシッドばかりか眠りかけていた月華まで、 眉を寄せつつ目をむいた。 そんなふたりの様子を見て、おかしいかい? とばかりにクリシュナが真剣な顔 で見返した時、執務室からクララ・アルドーがやや早足で歩を踏みいれてきた。 「クリシュナ、地球からの定期連絡で、あなたへのプライヴェート・メッセージ が入っているそうよ。ケオパーがあなたをさがしているうちに規定の時間をこえて しまったので記録だけだそうだけど、なにか緊急のメッセージらしいわ」 クララには珍しい、なにかせかすようなその口調に、さすがのクリシュナもなに かを感じたのか、機敏な動作で立ちあがる。 医療室を出かけたところでふりかえり、パパラシッドにむけて声をかけた。 「べつに後悔はしちゃいないさ。ケイコにも会えたしね」 本気なのかどうかはかりかねたまま、ラシッドは「わかった。早くいきなさい」 とうながした。 異変の第三波が訪れたのは、それからさらに三時間後のことだった。 6.朔、ふりそそぐ光、そして狂熱 「まだか、クリシュナ」 長い沈黙の後、王主任はそう問いかけた。 「だめですね。まるで応答がない」 コンソール上に忙しく立ちはたらく手を休めないまま、クリシュナは答える。 なにか言いかけて立ちあがり、それから思い直したように王主任はふたたびスツ ールに腰をおろした。腕を組み、目を伏せたまま黙りこむ。焦慮を見せるのは指揮 をとる者にはタブーだった。それも限界かもしれない。それでも、苛立ちを見せる わけにはいかなかった。 「通信機がいかれちまったのかな」 メインスタッフのひとりがつぶやくのへ、クリシュナは顔もあげずにかぶせるよ うにして言った。 「三台ともか? あまりあり得ることじゃないな。乗員がなんらかの事故にあっ て、答えることができない状態にあるってところだろう」 そのとおりだった。問題は、なにが起こったのか、ということだ。クリシュナの 答えはなにも語ってはいない。 わかっている。王李光は自分に言い聞かせるようにして、心中にそうとなえた。 それを割り出すために、クリシュナは自分にできる最大のことをやってくれている。 実際、彼がこれほど熱心に職務を遂行しているのを見るのは初めてだったし、その 手腕も古参のケオパーをはじめとする全技術者が息をつめて見守るほどに、見事な ものだった。 焦るな。重ねて言い聞かせながら、王主任は瞑目する。 「救援隊に連絡をとってみますか?」
メールアドレス
パスワード
※書き込みにはメールアドレスの登録が必要です。
まだアドレスを登録してない方はこちらへ
メールアドレス登録
アドレスとパスワードをブラウザに記憶させる
メッセージを削除する
「長編」一覧
オプション検索
利用者登録
アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE