長編 #2189の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
研ぎたての刃のように純粋な娘だった。楽しければ笑う。自分を楽しくさせるた めに、強いて笑ってみせるようなことはなかった。 玲子に魂を奪われたのもその美貌以上に、過酷なまでの純粋さに己の鏡像を見た ためであったからかもしれない。 きみも、そして私もたぶん、まちがっていたのだろう――その後の長い人生のな かで何度となく浮かんでは消えた言葉が、景子の微笑みを前にしてふたたび浮かび あがる。 「すまんな。心配かけて」 言って微笑んでみせる。 首を左右にふりながら、景子の笑みは大きく広がった。 理想とはほど遠い自分の人生が、その微笑みに満たされたような気がすることに 淡く胸をときめかせながら、ラシッドは目を閉じ、照れ笑いを頬に浮かべる。 もうひとつの想いは、無意識の奥底で静かに眠っているようだった。 ふう、とため息をひとつつき、 「景子、きみはなぜ月にきたんだい?」 きいた。 瞬時、考えるような表情を見せる。 「子どものころね」言葉を切り、短い沈黙をおいた。「雑誌かなにかで見たの」 「なにを?」 「宇宙都市」 口にして、へへへと笑う。 つづく言葉を待ち、照れた表情でいつまでも黙りこんでいる景子を見て、 「……それで、月へ?」 信じられぬように目を丸くして質問、というよりは確認するようにそうきいた。 うん、と子どものように笑いながらうなずくのへ、笑いの衝動が快くわきあがっ てくる。 「それだけじゃないけどね。それからも、いろんなことがあって、それで月へき たんだと思う。けど、でも……つきつめればたぶん、それに終着すると思う。…… たぶんね」 笑い、考え、瞬時の哀しみや失望をよぎらせ、めまぐるしく表情を変化させなが ら、景子はそう言って最後に小さくひとつ、うなずいた。 「……なるほど」 ほかに言葉を思いつかず、そう口にして、ラシッドもまた深くうなずいてみせた。 そしてもう一度「なるほど……」とつぶやくように口にしてみた。 人生を思っていた。苦痛に埋もれた自分のささやかな幸福を。そして景子の、三 十年間を。 圧縮された膨大な無意識の海の底で、なにかがゆらりと蠢くのを、かすかな恐怖 とともに感じた。 なにが? わかっている。自分がここまできた理由。 「よう」 医療室の扉を出たところで、クリシュナは景子に短く声をかける。 「パパなら、いま眠ったところよ」 そっけなく言いおいて歩きだすのへ、 「パパラシッドを心配してここにいたんじゃないよ」 後を追いながらサボタージュの名人は言った。 「またシフトすっぽかしてきたんじゃないでしょうね?」 「ちゃんと交代してきたよ。なんなら、タイムカード見るかい?」 「遠慮しとくわ。おやすみなさい」 「おいおい、つれないこと言うなよ。展望室ですこし話でもしていかないか?」 「悪いけど、睡眠義務時間をオーバーしそうなの。また今度ね」 「少しくらいなら、いいじゃないか」 訴え顔のクリシュナにきっと向きなおり、景子は指をつきつける。 「悪いけど、私は自分の健康管理に責任があるわ。でなければ私だけでなく、チ ームのみんなや、そしてこの基地にいるすべての人に迷惑をかけてしまうかもしれ ないから。あなたもそうよ、クリシュナ。もし今日の異変が人命にかかわるような 事故に発展したら、そしてその時緊急回線の当直があなただったりしたらと思うと、 ぞっとするわ。ちがう? わたしの言うことは、固すぎる?」 挑むような視線に気圧されるようにして体を引きながら、クリシュナは目を丸く しつつ肩をすくめてみせた。 ふん、と鼻息あらく踵をかえす景子をもう追おうとはせず、クリシュナはその背 へむけて言葉をついだ。 「いつでもいいから時間をとって出頭してくれって、主任が言ってたぜ。異変の 時の様子を、くわしく聞きたいんだとさ」 立ちどまり、背を向けかけるクリシュナに呼びかけた。 「あの異変の原因、どうだったの?」 「まるでわからないとさ。ただ観測班の連中が妙な電波だかをキャッチしたらし くて、なんだかあわててたぜ。ウォン主任が他のベースにも問いあわせてたが、結 果はまだだ」 背中ごしに手をふるクリシュナに「ありがとう」と叫び、すこし冷たくしすぎた かなと後悔しつつコンパートメントへ足を向ける。 電子シャワーをあびながら、異変のことを考えていた。はっきりとはしないが、 思い出したことがいくつかあった。 異変の最中、断続的に意識が遠のいていたような気がする。意識を揺さぶられる ような感覚。 遺跡との関連を、漠然と思い浮かべていた。 4.交錯 『1620ジャストです。まちがいありません』 「謝謝、ありがとう、ファヘド・ウエメン」断定するイカルスのムスリムに、王 主任は母国語で感謝の意を表し、そしてつけ加えるようにして、「あとで記録を転 送してくれ。張主任には私から話しておく。以上」 了解しました、との返信を最後まで聞かず、主任は通信をオフにした。クリシュ ナが得たり顔で、通信規約のマニュアルをならべ立てはじめる。唐突な交信のカッ ティングが、いかなる緊急事態を招きかねないかについての通信員の講釈を、王李 光は疲れたように手だけで制し、スツールのクッションに深々と背をあずけてむっ つりと黙りこんだ。 「お疲れですね、王老師」 ギャラリーを決めこんでいた李月華が気づかわしげに声をかけた。 「老師はやめてくれ、小姐」中国語でおだやかに告げる笑顔の底に、たしかに疲 労が重く澱んでいた。「手に入れた情報をもとに、仮説をいくつか組み立ててみた。 アメリカンコミックなみのナンセンスな答えしか出てこない」 英語に切りかわった説明に、クリシュナもまた興味深げな視線を寄せる。 室内の全員が期待と不安をこめて自分を見つめていることに気づき、王李光は弱 々しい微笑を浮かべた。 「クリシュナ」 ふいの呼びかけにインド・アーリア人が目を丸くするのへ、からかうように、 「ケイコはどうだ? 脈はありそうか?」 問いに対して、照れたような笑みが褐色の顔を輝かせた。 「わかりませんね」 と肩をすくめてみせるのへ、一角から野次がとぶ。 「ヒンドゥーの人間はのんびりしてるからな。千年かけて口説くつもりだろう?」 管制室に集う半数から笑いがまきおこるのへ、とまどったように微笑を浮かべな がらクリシュナは首を左右にふってみせる。この動作がクリシュナの故郷ネパール における肯定を意味することを知っている数人が、さらに爆笑を重ねた。 笑いの渦がおさまるのを待って、王李光は声を高めて口を開いた。 「異変の原因はほぼまちがいなく、遺跡だ」 言葉に、室内がしんと静まりかえる。 不安げに見かえす十数の顔をひとつひとつ、凝視するようにして視線を移動させ ながら、王主任はつづけた。 「遺跡調査班の最初の一人が遺跡内部に足を踏み入れた時間と、異変の勃発した 時間とは、記録上では完全に一致する。ほかの基地にも問いあわせてみたが、この 現象は時間を一にして、月の全面で起こったものらしい。内容も一致している。目 眩と一部通信機の不調、とくに月−地球間での交信は全面的に途絶をみた。時間感 覚の異常を訴える者が何割かいるのも、全基地で共通した現象だ。具体的になんの 作用でこういう現象が起こったのかはまったくわかっていない。遺跡での発掘調査 は現在中断されているが、いずれ再開されるだろう。そのときにまた同じ現象が― ―あるいはさらに奇妙で、しかも危険な事象が起こらないともかぎらない。心がま えだけはしておいてくれ。いま言えることはこれくらいだ」 簡潔な説明が終わると、数瞬の間をおいて管制室内にささやきの渦が拡大してい った。 「よろしいんですか、ウォン主任」声をひそめて、クリシュナが王にささやいた。 「みんな動揺しますよ」 「あれくらいの脅しで見境なくバカをやりだす能なしは、私の部下にはいないよ。 君を含めてな」 信頼にみちた微笑みをクリシュナにおくると、「ミス・リー」と呼びかけながら かたわらの李月華をふりかえった。 「パパラシッドの具合だが?」 「おおむね良好ですが」 おちついた美貌は、疑問にかすかに眉根を寄せていた。 「聞きたいことがあるんだ。《来訪者》の話題で以前教授と話していたときなん だが、タカクラ・パターンに関する仮説を口にしていた。たしかあのときは君もい っしょにいたはずだから、覚えているだろう? 思考システムの発生に関する少々 眉唾な理論だよ」 なおも晴れない疑問を示す月華に、 「小姐、きみはすばらしい能力を持っていながら、ずいぶんと控えめだな。心を 読めば、私の考えていることもすぐにわかるだろうに」 「受信機を開けっぱなしにしていては、一日とかからずに発狂してしまいます」 めずらしく不満顔で抗議しながら月華は主任を凝視し―― 「月が悲鳴を? そんなことが――」 驚愕に目を見ひらき、息をのんだ。 いつでももの静かな、月華の神秘的な美貌を見なれていたクリシュナもその顔を 見てぎょっとする。 「さっきも言ったろう。アメリカンコミックなみの、馬鹿げた仮説を思いついた んだ」 自分を見かえす二つの呆気にとられた顔にむけて、言葉とは裏腹に自信にみちた 微笑を浮かべてみせた。 自信の底には、深刻にささやき交わす周囲のスタッフたちとひとしなみの不安が 見え隠れていた。 「タカクラ・ヒサヨシという日本のコンピュータ技師が仮定した、一種の奇想だ よ。思考、というか、知性の生ずるシステムは脳ではなく、脳をも含めた中枢神経 系のパターンからくる、というのがその骨子だな」 日に焼けたイスラム系の彫りの深い顔が、思慮深げに告げた。王李光、李月華、 クリシュナ、クララ・アルドー、そして主任の反対をおしきって続行に踏みきった 調査行から、ついさっき帰還したばかりの竹野景子とフォン・ホルストが、神妙に 視線を向ける。 うほん、と咳ばらいをひとつ、愉快そうな笑みを一瞬うかべてみせてから、プロ フェッサー・ラシッドは話をつづける。 「専門外のことなんで詳しいことはわしもしらん。仁科総合基地のライブラリに アクセスして百科事典的なおざなりのデータを読んだだけだが、それによると、ま あ、知性や意識の発生には脳のような装置だけでなく、あるパターンが必要だ、と いうことになるらしい。逆をいえば、そのパターンさえ媒介させれば、コンピュー タのような機械装置にも思考を発生させ得る、ということも書いてあった。 データにはパターンのサンプルもいくつか載っていたよ。もっとも、それを活用 してコンピュータに知性を付与できたという報告は、いまのところないらしいね。 もともとタカクラがこれを提唱したのも、自分のコンピュータがある日、つぶやき のような意味不明のデータを作成しはじめたので原因をさぐっているうちにこの仮 説にいきあたったという、まあ言ってみれば偶然の所産のようなものだし、確認を とる前にその“つぶやき”とやらも沈黙してしまったらしくて、まるで信憑性を認 「以前その話題が出たのは、遺跡の構造パターンのことを話していた時でしたね」 王の質問にラシッドは深くうなずき、 「そう。遺跡のパターンは、解明されているかぎりは頭のなかに入っていたから ね。タカクラ・パターンのサンプルを見たとき、そのひとつと遺跡のそれとが妙に 似ているということにはすぐに気づいたよ」 「ということはつまり……」 とクリシュナが不気味そうにつぶやくのへ、 「一足とびの結論ははやすぎるわ」釘をさしたのは、月華だった。「教授の話に よると、タカクラ・パターンは偶然の所産に直観的仮説を付与しただけの代物よ。 実証もおぼつかないようだし、それを遺跡の空洞と結びつけるのは性急に過ぎると 思うけど。興味深い仮説ではあってもね……」 そのとき、景子が「そういえば」と日本語でふいにつぶやき、一同の視線を受け てホルストに目をやった。 「ほら。マス・コンセントレーションのパターン。この際だから、みんなにも聞 いてもらったほうがよさそうだわ」 ああ、と思い出したようにうなずいてみせたが、つづく説明の理路整然としたよ どみなさからすれば、この会合が遺跡のパターンについてと聞いたときから演説の 用意をしていたのかもしれない。 「マス・コンセントレーション(質量集中部)というのは20世紀後半からすで に孫衛星の異常加速としてその存在を確認されていたものです。原因としては当時、 そこに密度の大きい物質が存在するためと考えられていたためこの名が冠せられた わけですが、最近では月内部の空洞の影響ではないかという意見が強いようですね。
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