長編 #2126の修正
★タイトルと名前
★内容(1行全角40字未満、500行まで)
『漆黒の闇』 第一章 真夜中に、電話のベルが、鳴った。おそらく、どこかで、誰かが、私の電話番号 を廻したのだろう。 真夜中だったが、私は起きていた。香港の夜景を見ながら、私は小説を書いてい た。私は、小説家だったのだ。 電話の受話器から、もう、何年も聞いていない声がした。忘れられない声が、聞 こえた。父の声だ。 私の血の、感情を司る部分が逆流した。瞬時のうちに、心に怒りが満ちた。私は、 何百キロも離れて、電話を通して話しているのを忘れ、あたかも自分の父が目の前 にいるかのように、叫んでいた。 「なぜだ! もう、二度と、電話するなと、言ったろう!」 父は、少し黙った。会っていない年月を経た分だけ、彼は年を取り、反応が鈍く なったのだろうか。数秒の静寂のあとに、父は言った。 「母さんが死んだんだ」 「だから! なんで、そんなこと、おれに、関係あるんだ!」 何も言わず、乱暴に電話を切った。自分には関係がないと、本気で、そう思って いた。真夜中に電話をされたから、機嫌が悪くなったわけではない。何年か前に、 父が心臓マヒで倒れて、危篤になったときも、帰らなかった。心配しなかった。私 は、父の危篤を平然と無視した。 ふだんから、実家とのすべての接触を、私は避けていた。実家から連絡が来るこ とすら、私は憎悪していた。 神経が高ぶって、眠れそうもないので、私は、酒を飲むことにした。母の死には、 なんのショックも受けていなかった。私はただ、すべてを忘れて、眠りたかった。 香港の夜景を見ながら、私は服を着替えた。今は、冬だったので、寒くないよう に、黒っぽい流行りのスーツを選んで着た。香港の冬は、私の感覚では、春か秋で、 それほど寒くはなかった。寒くはなかったが、私は軽装が好きではなかったので、 スーツを着こんだ。私は香港が好きだったが、冬の数ケ月以外に長期滞在したこと がなかった。暑いのが嫌いというよりも、私は軽装を嫌っていたのかもしれない。 マンションの下で、運よくタクシーを見つけた。タクシーに乗り、よく行く、馴 染みのバーに向かった。香港は、数日後に返還を間近に控えていた。道行く人の数 も減り、その代わりに、一目で、中国本土から来たとわかるグループが、目に付い た。いま、この街に漂う雰囲気には、ただならぬ、異様なものが感じられた。数ケ 月前から、人口が減り始め、今は最盛期の半分近くにまで、落ちているらしい。香 港からの脱出ラッシュも、何日か前に、やっとピークを過ぎて、街の雰囲気も、か なり落ち着いた。しかし、以前の活気は、完全に失われてしまったようだ。 その街を、いくストリートか通り過ぎ、目的の店の前で、私はタクシーを降りた。 そのバーの名前は、ぼんぼん、と言った。ぼんぼんという、珍妙な名前とは、うら はらに、上品で、清潔なバーだった。 その店で、何杯か酒を飲んだ。私は、無口で通すつもりだったが、好奇心に負け て、通りかかった、ぼんほんの店の女主人に『いつまで、営業するつもりなのか』 と、聞いた。彼女は『返還後も続ける』と、私に言った。私は笑った。そして、ま た、独りで、酒をあおり始めた。 たった独りで、飲むのは久しぶりだった。私は独りで、心を宙に漂わせ始めた。 独りになると、漆黒の闇が、私を包む。 漆黒の闇。どんなに部屋を明るくしても、それは消えない。なぜなら、それは、 私の心を巣喰うものだからだ。私の心を蝕む、魔のようなもの。夜の闇。独りの時 間。病気での体の衰弱。落ち込み。後悔。私の心は、毎日少しずつ、傷ついていく。 何年も前におこった悪夢のような出来事に、私は、まだ、苦しんでいる。作家に なってしまった、いま、事実や真実を書き残せばいいのだろうか? 書き残せば、 なにか意味があるのだろうか? 長く、苦しい年月を経て、私は作家になった。ささやかな名誉を手に入れた。そ れなりの地位も得た。収入も、海外で暮らせるくらいは、入ってくる。 私の情熱は、尽きることがなかった。書けば、書くほど、ますます、アイデアや 閃きが増殖した。疲れたり、落ち込んだりしても、私は自分で書いた本を読むと、 また、元気が出て来た。 私は、人生の勝利者だ。少なくとも、自分では、そう思っていた。自分自身の運 命に勝ったのだ。私は、いままで闘ってきたものに勝ったのだ。そう、世の中のく だらない、しがらみや障害に、私は勝った。 金持ちの親の財産に頼ることもなく、また、詐欺師のように、人を騙したりせず、 この若さで、私は海外で暮らせる身になった。私は、自分自身に満足していた。私 の、今までの人生は証明されたのだ。いま、たとえ、この瞬間に死ぬことがあろう とも、私の名は文壇の片隅に永遠に残るだろう。 勝利の美酒に、私はしたたかに酔いしれた。私は、勝った。勝ったのだ。運命に 勝った。人生に、完全に勝利した。すべてのものに勝った。私は笑っていた。心の 中で笑っていた。心の中で、豪快で笑いながら、私は、いつの間にか、いままでの 幸運を振り返っていた。 数日後に返還される香港に、私は居た。私が憧れ、愛し、そして、いとおしんだ、 香港の最後の姿を見届けようとしていた。母の葬式に出るにしても、出ないにして も、どちらにしても、香港を出ねばならないだろう。私は、とにかく、今日は酒を 飲むことにした。明日以降の予定は、明日決めればいいことなのだ。 酒が、尊大で傲慢で、自信家という、私のささいな欠点ばかりではなく、もっと、 別な面をひきだしていた。精神的というか、内面的な部分を除いては、私は完璧に 充実していた。 過去の覚えていたくない嫌な思い出は、すべて捨てた。忘れることこそ、それら の嫌な思い出に対する、最大にして、私にとっては唯一の、そして、もっとも有効 な対処法なのだ。 良い思い出を残し、過去を捨てるために、私は日本を離れた。渡航先が、香港で ある必然性は、特になかった。数ケ月の滞在のつもりで、返還前の香港に、居を構 えることにしたのだ。 日本の文化圏から離れようという気持ちはなかった。日本からではなく、自分の 妻と子供を除いた、周囲の環境を、すべて捨てたいと、私は願っていた。この世か ら消える『死』のみが、生まれ変わる手段ではないのだ。完全に、生まれ変わるこ とができなくても、良い思い出のみを残して、また、素晴らしい人生を送ることが できる。海外に移住して、私はやっと、過去の苦痛や苦悩から、逃れることができ たように思う。 長期滞在ではなく、実際に住むことが、私にとっては意味のあることだった。日 本の国内に住んでいるうちは、ミエや、世間体などの雑音に無関心でいられなかっ ただろう。 私も、その香港から、明日、旅立たねばならない。明日の正午に、私は、演説を しなければならない。香港の最後と、その後にくる新しい日々のために。 ほろ酔いに酔った、私は、バーを出て、自分の部屋を戻り、眠りについた。
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