AWC ●長編



#513/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  18/06/27  22:49  (325)
愛しかけるマネ <前>   寺嶋公香
★内容                                         18/06/30 17:14 修正 第2版
 事務所での打ち合わせの最後に、初めての経験となる仕事を持ち掛けられた。
「どっきり番組?」
 マネージャーを務める杉本からの話に、純子はおうむ返しをした。声には、訝かる気
持ちがそのまま乗っている。
 すると杉本は、「え、知らない? 仕掛け人がいて、有名人を驚かせる」と当たり前
の説明を始めた。純子はすぐさま、顔の前で片手を振った。
「いえ、そうじゃなくって、どっきり番組の出演話を、私に全て明かしてしまって大丈
夫なのでしょうか」
「……」
「ひょっとして、仕掛け人の役ですか」
「……今の、忘れてもらえない?」
 忘れろということは、仕掛け人ではなく仕掛けられる方らしい。純子は即答した。
「無理です」
「だよねー。じゃあ、だまされるふり、できないかな」
「そういうのはあんまり得意じゃありませんが……」
 演技の一環と思えばできないことはない、かもしれない。
「杉本さん。このお話、だめになるとして――」
「どうしてだめになると仮定するの」
「えっと、多分、そうなるんじゃないかなと」
 ちょっとくらい怒った方がいいかしらと思った純子だが、ここはやめておいた。第一
に、怒るのは苦手だ。相手のためとしても、うまく言う自信がない。第二に、杉本の掴
み所のなさがある。打たれ強いのか弱いのか。仕事上の些細なミスをやらかしても半日
と経たない内にけろっとしてるかと思ったら、長々と引き摺って気にしてる場合もあ
る。
「どんなどっきりで、他に芸能人の方が絡んでくるのか、気になったんです。だめにな
るならないとは別に、ここまでばらしちゃったんだから、いいですよね?」
「う……内容は言えない。関係してる人については、共演NGじゃないかどうか、遠回
しに聞くように言われていたんだった」
「遠回し」
「共演NGなんて君にはほぼゼロだから、忘れてたんだよぉ」
「もういいですから。どなたなんです?」
「厳密を期すと、芸能人じゃない。古生物学者の天野佳林(あまのかりん)氏。知って
ると思うけど、男性」
「知ってるも何も、有名人じゃないですか」
 二年ほど前からテレビ番組に出だした大学教授。髪はロマンスグレーだが若い顔立ち
で、えらがやや張っているせいでシャープな印象を与える。二枚目と言えば二枚目。喋
りの方は、古生物のことを分かり易く説明する、そのソフトな語り口が受けた。当初は
動物番組にたまにゲストに出たり、化石発掘のニュースで解説をしたりといった程度だ
ったのが、アノマロカリスとシーラカンスをデフォルメキャラクターにしたアニメが子
供を中心にヒットしたのがきっかけで、一時期は引っ張りだこの人気に。今は落ち着い
てきたが、それでもしばしば出演しているのを見掛ける。
「面識はないよね?」
「ありません。前からお目にかかりたいなと思ってましたけど。というか、何故、共演
NGを心配されなくちゃいけないのか理解できませんよ〜」
「そりゃあ、君の化石好きは、僕らは知っていても、プロフィールに書いてるわけじゃ
ないから。企画を持って来た人だって、生き物全般だめっていう女の子がいることを念
頭に、聞いてきたんだと思うよ」
「そういうものなんですね」
「それで……僕としては、受けて欲しい。失敗を隠すためにも」
「自覚はあるんですね、失敗した自覚は」
「きついお言葉だなぁ。涙がちょちょぎれる」
 聞いたことのない表現が少し気になった純子だったが、聞き返すほどでもない。
「途中でぎくしゃくした空気になって、どっきり不発。挙げ句に、お蔵入りになっても
知りませんよ〜」
「そうなったとしても、君の責任じゃないし、させない」
 表情を急に引き締める杉本。黙っていれば割と整った顔立ちだし二枚目で通りそう、
などと関係のない感想を抱きながら、純子は答える。
「分かりました。何事も経験と思って、やります。台本が手に入ったとしても、私には
見せないでくださいね」
「そりゃ当然。最後の一線は越えさせないぞ」
 独り相撲という言葉が、純子の脳裏に浮かんだ。
(どっきり番組だけ、他の人が担当してくれた方がいいんじゃあ……)

 元々そういう線で行くつもりだったのか、それとも杉本がうまく言って変更がなった
のかは分からない。天野佳林との共演――つまりはどっきり番組の収録は、いつ行われ
るか未定とされた。
「なるほど」
 純子は低い声で合点した。本日の仕事で久住淳の格好をしていたせいで、男っぽく振
る舞おうという意識が抜けきっていなかったようだ。声の調子を改めて応える。
「いつになるか分からないということは、本当にだまされて、驚けるかもしれないです
ね」
「でも」
 隣に座る相羽が口を開いた。今、二人は普通乗用車の後部座席に並んで腰掛けてい
る。運転は杉本、助手席には相羽の母がいた。
「元々、その天野教授と会うのが初めてになるんだったら、意味がない気がしますが」
「それもそっか」
 純子は今気付いたような応答をしつつ、相槌を打った。杉本に気を遣って、そこは言
わないであげようと思っていたのに。
「はい、それは少し考えたら分かったんだけどね」
 少し考えなければ気付けなかったの? 杉本の言葉に心の中で突っ込みを入れた。
「もし可能であれば、他にも仕掛け人を用意していただけないでしょうかとお願いした
のだけれど、色よい返事はまだ」
「杉本さん。それ、言って大丈夫なの?」
 相羽母がびっくりしたように目を丸くして横を向き、指摘した。
「あ」
 杉本はブレーキを踏んだ。ショックで動揺し思わず踏んだ、のではない。黄色信号を
見て、安全に停まっただけのこと。
「万が一、僕の要望が通ったら、このこと自体、伏せておかなきゃいけないんだ!」
 叫ぶように自分のミスを確認すると、ハンドルに額を着けて深く大きな息を吐いた。
「いや、要望、通らないから大丈夫だ、うん」
 早々と立ち直った。要望は通らないと決めてかかるのもどうかと思うが。
「杉本さんはもしかすると、自分が口を滑らせたのが原因とは言ってないんじゃありま
せんか?」
 突然そんなことを言い出した相羽に、純子は「さすがにそれは」と止めに入った。
が、杉本は動揺を露わにし、あっさり認めた。
「どうして分かったのさ、信一君? 風谷美羽の勘が鋭くて、どっきりの企画だってば
れてしまったということにしといたけど」
「ひどいなあ」
「うちは人材不足だから、僕が抜けるわけに行かないのだ」
「人材不足以前に人数不足ってだけです」
「それで、何で分かった?」
「杉本さんが自分の失敗ですと認めていたなら、とても次善の策の要望なんて出せる雰
囲気じゃないだろうと考えただけですよ」
「はあ。そうか。言われてみれば確かに」
「杉本さん、ほんとに変よ。私生活で何か抱えてるんじゃないでしょうね?」
 と、息子に負けず劣らず、唐突な発言をした相羽の母。
(いつもよりも失敗の度が過ぎてる気がするけれど、プライベートがどうこうっていう
風でもないような。それとも、大人なら感じるものがあるのかな)
 純子はそんなことを思いつつ、杉本の返事を待つ。長い赤信号が終わり、運転手は
「うーん、特には」と答えて、車を発進させた。
「あ、でも、一つあると言えばあるかもしれません」
「何?」
「付き合っている彼女から、結婚してちょうだいサインを受け取った気がするんです」
「ええーっ?」
 一瞬にして騒がしくなる車内。蜂の巣をつついたまでは行かないにしても、皆の言葉
が重なって、ほとんど聞き取れない状態が二十秒くらい続いた。
「そんなにおかしいですか」
 次の赤信号で停まったタイミングで、車の中はようやく静かになった。
「おかしくはなくても、杉本さんに今までそんな素振り、全くなかったものだから、驚
いてしまって」
 相羽の母が言い、後部座席で子供二人がうんうんと首を縦に振る。
「まあ、隠すつもりはあったんですよね〜」
 後ろから横顔を見やると、何だか嬉しそう。目を細め、口元を緩ませ、その内鼻歌で
も唄い始めそうだ。
「あの、お相手の方はどんな人なんですか」
 純子は思わず聞いた。声が普段のものになっている。
「言ってもいいけれど、内緒にしてね。ここだけの秘密」
「はい、それはもちろん」
 今この車に乗っている面々の中で、一番口が軽いのは杉本だろう。飛び抜けて軽い。
その当人が口外無用というのは、どことなく変な感じだった。
 それはともかく、相羽母子も口外しないと約束すると、杉本は口を割った。
「ほんとにお願いしますよ。彼女って一応、芸能人なもので」
「――!」
 最前、結婚話をするほどの彼女がいると杉本が言ったときと同様かそれ以上の騒がし
さになった。漫画で描くとしたら、道路の上で車が跳ねている。
「だ、誰ですか」
 相羽の母は子供達よりも慌てた反応を示していた。
「やだなあ、相羽さん。そんな飛び付きそうな顔をしなくても」
「いえ、緊急事態だわ。話を聞かない内から言いたくないけれど、何かスキャンダルに
発展したら、お相手の所属事務所に迷惑が掛かるかもしれないし、こちらにだって」
「そうですかー? 客観的に見ればそういう恐れを感じるのは無理ないかもしれません
けども」
「いいから早く、名前を教えて」
「はいはい。松川世里香(まつかわせりか)さんです」
「……心の準備をしていたから、もう驚かないと思っていたけど、驚いた」
 後部座席の二人も驚いていた。
(松川世里香……さんて、あの?)
 純子より一回りは上の世代で、今となっては元アイドルとすべきだろう。現在はバラ
エティがメインのタレント。一時、下の名前を片仮名のセリカにして、“なんちゃって
ハーフ”のキャラクターを演じていた(ハーフを演じたのではなく、飽くまで“なんち
ゃってハーフ”だ)。純子も面識があるにはある。某ファッションブランドのライト層
向けイベントのゲストとして松川が来たときに、挨拶した程度だが。
「お付き合いはいつから?」
「尋問みたいだなあ。えっと、三年目に入ったとこだと思います」
「先方の事務所は、このことをご存知?」
「多分、知らないのじゃないかと。本人が言ってれば別ですが。――あ、行き過ぎてし
まいました」
 突然何のことかと思いきや、左折すべき道を通り過ぎてしまったらしい。杉本の今日
の役目は、純子と相羽母とを撮影スタジオに迎えに行き、その後、柔斗の道場で相羽信
一をピックアップ(社内規定ではだめだが、事前に承諾を取ってある)し、それぞれ自
宅まで送り届けるというもの。
「Uターンできそうにないな。遠回りになるかもですが、この先で左折しますねー」
 今、話せる時間が増えるのは、相羽母にとっては歓迎だろう。
「逆に、こっちは知ってるのかしら?」
「こっち、とは」
「市川さんよ。あなたのボスは知っているの?」
「言ってないです」
「そう。困ったことにならなきゃいいんだけど」
 ふぅ、と憂鬱げに息を吐く相羽母。
「できることなら、すぐにでも話をしておきたいところなのに」
 子供のことを思うと、そうは言ってられない。そんなニュアンスが感じられた。
「杉本さん。とりあえず、返事は待ってください」
「返事? ああ、彼女への。了解しました。というか、どう返事するかを決めかねてい
るので」
「市川さんに報告するつもりだけれど、よろしいですね」
「仕方ないです。隠し続けるのも潮時だと感じていましたし、覚悟して打ち明けたんで
すから」
 何故かしら爽やかな調子で杉本が言う。
(恋愛を語るとイメージが変わる人だったんだ、杉本さん)
 純子は妙に感心した。
 隣の相羽をふと見ると、いつの間にか興味が萎んだのか、窓の外を眺めていた。

 そんな一騒動があって以来、杉本に再び会えたのは三日後だった。
「どうでした?」
「所属タレントに自分の恋バナをする趣味は、持ち合わせてないんだけどなあ」
 恋バナのニュアンスがちょっとおかしい気がしたが、純子は敢えて言わずに、話を前
進させる。これから仕事場へ送ってもらうのだが、当然のことながら、行きは帰りより
も時間的余裕がない。
「そうじゃなくてですね。市川さんから叱られませんでした?」
「叱られる? うーん、叱られたというか呆れられたというか。自社の商品に手を着け
るのがだめだからって、よそ様に手を出すとは!って」
「はあ」
「そういうつもりじゃないんだけどな。接近してきたのは、松川世里香さんの方なんだ
から」
「本当ですか、それ」
「嘘じゃないって。信じてよ」
 ルームミラーを通して、杉本の困ったような苦笑顔が捉えられた。
「きっかけはやっぱり、あのときですか。松川さんがイベントにゲストで来られた」
 そう質問してから、計算が合わないと気付いた純子。お付き合いして三年目と杉本は
言っていたが、くだんのファッションイベントは、一年ほど前の出来事だった。
「いつだったかなあ。正直言って、僕の方は最初の出会いを覚えてなくってさ。彼女が
僕を見掛けて、何か気になったみたいで」
「ふうん?」
 では他に松川世里香と同じ場所にいるような機会があったか、思い返してみた純子だ
が、特に記憶していない。
(二、三年前と言ったら、ファッション関連よりも映像作品に関わることが比較的多か
った気がする。あの頃、松川世里香さんと同じ仕事場になること……分かんないなあ。
まあ、テレビ局でならあり得るのかな。遠目にすれ違ったら、気付かずに挨拶なしって
場合もなくはないし)
 そう解釈することで納得し、気持ちを切り替える。今日の仕事は、関連するアニメの
番宣を兼ねた、テレビ番組のクイズコーナー出演だ。生放送で行われるケースが多い
が、今回は純子が学生であることが考慮され、収録。だから比較的気楽と言える。ライ
ブだと失敗の取り返しが付かないのに対し、収録なら最悪でも撮り直せる。さらに、挨
拶するべき関係者が別撮りだと少ないのは、精神的に非常に助かる。
 その関門たる挨拶をこなしたあと、早速スタジオ入りだ。
「もし答が分かっても、全問正解すると嫌味になるかもだから、ほどほどにね。局だっ
て自分のところの番組の宣伝、もし全問不正解でも時間はくれるに決まってる。適当に
ぼけて」
「はいはい」
 杉本のアドバイスを話半分に聞き流しつつ、送り出される。クイズは五問出題され、
一問正解につき十五秒のコマーシャルタイムをもらえる。全問正解すれば、七十五秒に
プラスして十五秒のボーナスが加算され、九十秒もらえる仕組みだ。
(九十秒をもらったとしても、間が持たないな)
 元々、そのアニメのスポットとして、十五秒バージョンと三十秒バージョンの二通り
が作られたが、もちろん純子は出演していない。アニメのキャラが登場し、アニメの見
せ場でこしらえられたCMだ。ドラマや映画だと出演者がコメントを喋るCMが多いの
に対し、アニメではまずない。事前特番でも制作されるのなら、レギュラー役の声優達
に主題歌を担当する歌手、監督、(いるのであれば)原作者が揃って出演となるだろう
けれど。
「おはようございます。よろしくお願いします……?」
 撮影の行われるスタジオに入るや、雰囲気の違いを感じ取った純子。もちろん、この
番組に出るのは初めてで、普段を承知している訳ではないけれども、何やらぴりぴりし
た緊張感のある肌触りが場の空気にはあった。仮にこれがいつもの空気なら、撮影収録
の度にくたくたに疲れるに違いない。
 緊張感の中心は、探すまでもなく、じきに知れた。
 女性が二人、対峙している一角がある。若い人と、もっと若い人。二人とも面識があ
った。
「――どういうつもりでいるのかと聞いているのですが」
 丁寧語でもややぞんざいな口ぶりで言っているのは、より若い方。加倉井舞美だ。加
倉井と純子は現在、あるチョコレート製品のCMに揃って起用されて、“三姉妹”設定
の内の二人である。一緒に撮影したばかりと言っていい。一つ年上ということにされた
加倉井は、少々不満そうではあったが、仲よくやっている。
「そう言われても、私にも都合がありましたから」
 加倉井の詰問調に怯むことなく応じたのは、松川世里香。そう、杉本の言っていたお
相手だ。テレビを通して見るよりも大人びて感じるのは、普段の松川世里香に近いとい
うことだろうか。あるいは、離れたところからでも、その化粧の濃さが分かるせいかも
しれない。
「何か問題でも?」
「問題? あるわ」
 我慢できなくなった、というよりも我慢するのをやめた風に、加倉井が言葉遣いを変
化させた。
「三度誘って、三度ともドタキャンされちゃ、こちらの予定が狂う」
「あら。困るほどお忙しいんでしたか? それはそれは失礼をしました」
 松川は相変わらずのペースである。足先が出入り口の方を向いているのだから、もう
用事はないはずだが、何故かスタジオを出て行こうとしない。無論、彼女の前に加倉井
が立っているのだが、ちょっと避ければ済む話。なのにそうはせずに、どっしり構えて
いた。やり取りを楽しむかのように。
 周りには男女合わせて十名ほどの人数がいるのだが、止めかねているのは雰囲気で分
かった。加倉井舞美は若手ながら安定した実力を誇る女優だし、松川世里香だって浮き
沈みこそ経てきたが今また何度目かのブレイクを果たした人気タレントだ。二人とも
に、マネージャーと思しき存在がいないことも、状況に拍車を掛けている。
「あの。何があったんですか」
 純子は一番近くにいたスタッフに小声で聞いた。小柄だががっしりした体付きの男性
スタッフは、その場を飛び退くように振り返った。そして口を開いたのだが、彼の声が
発せられるよりも早く、加倉井が反応した。
「ちょうどよかった。あなたに聞いてもらって、判断してもらいましょう」
 いきなりそんなことを言って、純子を手招きする。戸惑いと焦りと不安を覚えた純子
だったが、断りづらい空気に流されてしまった。仕方なく、歩を進める。加倉井と松川
の周りを囲んでいた人垣が崩れ、その間を気持ちゆっくり歩く。
(うわ〜、何か知らないけれども巻き込まれた? 事の次第が分からないまま行くの
は、凄く嫌な予感が)
 対策の立てようがないまま、加倉井の右隣に立つ純子。ここは少しでも自分のペース
を保とうと、加倉井と松川に「おはようございます」で始まる芸能界流の挨拶をした。
それから目で加倉井に尋ねる。
 加倉井は純子の挨拶に些か呆れたようだったが、怒りが収まった様子は微塵もない。
「あなた、松川世里香さんはご存知?」
「も、もちろん。お会いするのはまだ二度目で、最初のときも挨拶を交わしたくらいだ
けど」
 改めて松川に向き直り、目で礼をする。松川は同じ仕種で返してきた。
「そうなの。よかったわね」
 加倉井の言わんとする意味が掴めずに、純子は「よかった?」とおうむ返しした。
「今後、親しくなるつもりだったなら、ようく考えてからにしなさい。不愉快な目に遭
いたくないでしょ」
「不愉快って、加倉井さん、大げさね」
 松川が言葉を差し挟んだ。
「食事の誘いをキャンセルしたくらいで。よくあることでしょうに」
「三度、立て続けに土壇場になってキャンセルされたのは、初めてですけれども」
「それはあなたのキャリアじゃ仕方のないことかもしれない。私は経験あるわよ、三連
続ドタキャン」
「自分がされて不愉快なことを、他人にして平気だと?」
「その言い方だと、私がわざとあなたの誘いをドタキャンしたみたいに聞こえるわね」
「そうじゃないと誓って言えます?」
「証拠はあるの?」
 充分な説明がないまま、純子を挟んで、二人の応酬が再開されてしまった。どうやら
加倉井が松川を食事に誘い、松川も受けたものの、ぎりぎりになって断った。それが三
回連続で起きたらしい。
(あ、確かだいぶ前、同じ映画に出ていたんだわ、加倉井さんと松川さん。コメディ映
画のオールスターキャストで、どちらも脇役だったけど印象に残ってる。そのときの縁
で、加倉井さんが食事に誘ったのかな? だとしたら最初は仲よくやっていたはずなの
に、どうしてこんなことに。――え)
 推測を巡らせる純子の腕を、加倉井が引いた。不意のことだったので、バランスを崩
しそうになる。
「ねえ、風谷さん。察しのいいあなたのことだから、今ので飲み込めたと思うけれど、
どちらが悪い?」
「え? えーっと。まだ飲み込めてません」
「ほんとに? 掻い摘まんで言うと、私があの人を――」
 と、松川を遠慮ない手つきで指差した加倉井。
「――食事にお誘いしたのに、三度も振られてしまった。それも当日ぎりぎりになっ
て」
「ちょっと。自分の都合のいいことだけ言わないで」
 松川が再び割って入る。今度は明白に怒りを響かせた口ぶりだ。
「ドタキャンしたの、最初はあなたでしょ」
 えっ、という口元を覆いつつ、純子は加倉井を見やった。
「その点については、きちんと謝罪したつもりです。あなたも受け入れてくださったと
解釈しましたが」
 その後しばらく繰り広げられた話から推し量るに……一番初めに食事に誘ったのは、
松川。応じる返事をした加倉井だったが、前日になってドラマの撮り直しが決まり、や
むなく約束をキャンセルした。後日、お詫びの挨拶に行き、今度は加倉井の方から食事
に誘った。そこから三度、ドタキャンが繰り返されたという経緯のようだ。
「あなたの意見では、どちらが悪いと思う?」
 加倉井が改めて聞いてきた。
 事情は理解できた純子だったが、心境は全く改善しなかった。こんな状況でどう答え
ろと。

――つづく




#514/598 ●長編    *** コメント #513 ***
★タイトル (AZA     )  18/06/28  01:03  (332)
愛しかけるマネ <後>   寺嶋公香
★内容                                         18/06/30 17:15 修正 第2版
「……」
 口を開き掛けて、何も言い出せないまま、また閉じる。
「どうしたの? 簡単でしょ、率直な意見を言えばいいだけ」
 加倉井の視線から逃げるように顔を逸らすと、今度は松川と目が合った。
「こんなこと聞かれても、困るだけよね。まだ若いんだし、マネージャーさんもいない
みたいだし。そう言えば杉本さんはお元気?」
「え――っと、はい、元気です」
 松川の台詞にも、どう対処すればいいのやら。取って付けたような杉本への言及が、
かえって松川と杉本の付き合いを真実らしく感じさせる。
(うー、どちらにも肩入れしにくいよ〜。直感だと、加倉井さんが筋を通してるのに、
松川さんがわざとキャンセルを重ねてるように思えるけれど、ほんとに急用が入ったの
かもしれないし。だいたい、ここで加倉井さんの味方をして、杉本さんの恋愛に悪い影
響を及ぼしちゃあ、申し訳が立たない……。かといって、松川さんの味方をすれば、加
倉井さん怒るだろうなあ。一緒に仕事する機会も増えてるし、今後のことを思うと、隙
間風が吹くような事態は避けなくちゃ)
 心の中で懸命に考えている間にも、加倉井は「どうなのよ」とせっついてくるわ、松
川は意味ありげににこにこ微笑みかけてくるわで、追い込まれる。
 このあとの宣伝の仕事も頭にあり、急がねばならない。と言って、吹っ切って場を離
れるだけの度胸は、まだ持ち合わせていない純子であった。こういうとき、マネージ
ャーがそばにいれば、多少強引にでも引っ張ってくれるものかもしれないが、現状では
期待できない。そもそも、杉本のがここにいたらいたで、話がややこしくなる恐れも僅
かながらありそう。
 こうして切羽詰まった挙げ句、純子はふとした閃きを咄嗟に口走った。
「じゃあ、私がお二人を食事に誘います!」
「は?」
 怪訝な反応をしたのは加倉井も松川も同じ。声を出したのは、加倉井だけだったが。
「関係ない私が言うのは差し出がましいから、とやかく言いません。二人に仲直りして
もらう場を、私が作ります! どうでしょうか」
 言い出したからには止められない。純子は加倉井の手をぎゅっと握りながら、目は松
川の方へ向けた。最低限、この場はこれで収めてください!と念じる。
 すると松川の視線が動くのが分かった。どうやら加倉井と目を合わせたようだ。もち
ろん、言葉を交わしてはいない。ただ、予想外の提案に困惑しつつも、加倉井の意向を
探る気にはなったのかもしれない。
「……風谷さん、あなたって」
 加倉井の声は、最前までの熱が引いて、冷めていた。
「その食事の席が、今以上の修羅場になったらどうするつもり?」
「そのときはそのとき。思い切りやりあって、すっきりさせてもらえたらいいなあ……
って。おかしいでしょうか?」
「……おかしい。あなたの発想が面白いって意味で」
 誉められているのだろうか。細かいことは気にせず、押し切ろう。
「さあ、のんびりしてないで決めませんか。皆さんには及ばないですけれども、私だっ
ていいお店、ちょっとは知ってるんですよ」
「あなたの場合、ほとんどが鷲宇憲親経由の情報でしょ」
「そ、それは当たってますけど」
「ま、私はいいわ。“姉”のよしみであなたの提案に乗ってあげる。あとは相手次第」
 加倉井は松川に最終判断という名のボールを投げた。芸能界の先輩を立てたとも言え
るし、器が試される面倒な決定権でもある。
「……私も、そちらのかわいいモデルさんに免じて、応じてもいいけれども」
 この返答に一瞬、喜色を浮かべた純子だったが、含みを持たせた語尾に不安が残る。
「果たして日があるのかしら。曲がりなりにも、今人気のある三人の休暇が重なるよう
な都合のいい日が」
「あ」
 そうですねと言いそうになったが、踏み止まる。ここでそうですねと答えては、自分
は二人と肩を並べる程の芸能人だと言ってるようなもの。
「私はどうとでもなりますから、皆さんの都合のいい日を教えてください。すぐには難
しいでしょうから、あとで連絡をくだされば合わせます」
「了解したわ」
 即答した松川。そのまま行こうとして、二、三歩歩いたところで立ち止まる。
「そうそう、連絡先を教えてもらわなくちゃね」
 杉本との親しいつながりを隠す意図があるんだろうなと察した純子。少し考え、杉本
の携帯番号を伝えた。互いに携帯端末の類を持ち込んでいないため、手書きのメモの形
で渡す。
 受け取った松川は特に何も言うことなく、スタジオを退出。ドアを開けるときに、マ
ネージャーらしき人が待ち構えていたのが見えた。
(ドアのすぐ前で待っているくらいなら、入って来てもいいんじゃないの? あの人が
いてくれたら、このもめごとももうちょっと早く解決したかもしれないのに〜)
 純子がそんな不満を抱いていると、加倉井のため息が聞こえた。
「加倉井さん?」
「どう転ぶか分からないし、お礼はまだ言わないけれども。あなたって、ほんっとうに
お人好しなところあるわね」
「そ、そう?」
「この業界、続けるのなら、取って喰われないようにせいぜい気を付けて。喰われると
きは、一人で喰われてね。巻き添えは御免だわ」
「そんなあ。でも、アドバイス、ありがとう」
 改めて加倉井の手を取って握った。加倉井はもう一度ため息をつくと、引きつり気味
の苦笑を浮かべた。

「会わなかったんですか?」
 帰りの車中、純子は意外さを込めてそう言った。
「うん。知らなかったし」
 運転席の杉本が淡々と答える。
「第一、知っていても会うわけにいかないんじゃないかなあ。他人の目が多すぎるっ
て」
 尤もな話だ。
 松川世里香と同じ仕事場に居合わせたのだから、事前に連絡を取り合ってちょっとで
も会う時間を作ったのではと考えた純子だったが、それは浅薄だったようだ。
(それを思うと、私の場合はまだ幸せなのかな……)
「ところで、松川さんと加倉井さんが揉めたって言ってたけれども、どのくらい? 険
悪ムード?」
 そう聞いてくる杉本の横顔は、いつもに比べるとずっと真剣な面持ちに見えた。
「どうなんだろ……。見た感じ、険悪でしたけど。がんばって取りなしたつもりなんで
すが、まだ結果は出てないわけですし」
「しょうがないよ。加倉井さんの性格は前から分かっていたとは言え、松川さんとぶつ
かるなんて想像できないもんな。びっくりしてベストの反応ができなかったとしたっ
て、誰も文句言わないよ」
「――どうするのがベストだったって言うんですかあ」
 少しむっときた純子は、対応に苦慮するそもそも原因の片棒を担いでいる杉本に聞き
返した。
「うーん、そう言われると困る。確かに難しい」
 杉本は簡単に引き下がる。こういう場合、責め立てて追い込んだつもりでも、杉本の
ように変わり身が早く、あっさり引ける人間相手には効果が薄い。
「仮に僕を呼んでもらっても、他の人がいる場で、何か松川さんに言える自信はないか
らなあ。はははは」
「じゃ、次にお二人だけで話すチャンスがあったら、ぜひ言ってくださいね。加倉井さ
んとも仲よくしてくださいって」
「がんばって言うよ。うちのタレントが板挟みで困ってるんだって言えば、効果抜群」
「何言ってるんですか。彼氏としての言葉の方が絶対に効き目ありますって」
「そうなるのかなあ。あ、でも、二人で話すより前に、松川さんが空いている日を連絡
してきたらどうしよう」
「ちょうどいいんじゃありませんか。三人で食事をする前に、杉本さんから念押しして
くれれば、松川さんも仲直りする気持ちを固めて来てくれるに違いない、うん、決まり
っ」
 事態収拾の目処が立った。そんな気がして、上機嫌になって言った純子だった。

 そしてその翌日の日曜日。雑誌のインタビューのお仕事だと聞かされて、純子はテレ
ビ局まで連れて来られた。運転手兼マネージャーの杉本は、所用があると言って、局を
離れてしまった。
(松川世里香さんに会いに行った、とか。まさかね)
 控室で一人座って待つ。インタビューの開始予定まで、小一時間はあった。時間を持
て余して考える内に、もやもやしたものが頭に浮かんできた。
(テーマが漠然としているのよね。最近の仕事とこれからの自分について、だなんて。
そんな語れるほどの人生経験ないし、こんな漠然としたインタビューを受けるほど、大
きな作品に関わっていない気がするんだけど。……そうだわ。何でテレビ局? 今ま
で、テレビ局で仕事があるときの待ち時間を利用して、雑誌などのインタビューを受け
てきたわ。雑誌単独のインタビューは、ホテルのロビーもしく部屋か、喫茶店。宣伝の
ために出版社を訪ねてそこで受ける形が多かった。わざわざ雑誌インタビューのためだ
けに、テレビ局に来るのは珍しい。というよりも、おかしい)
 純子は違和感の正体を突き詰めて考えてみた。対する答は程なくして降りてきた。
(もしかして――前に聞いてたどっきり番組? 前もって知らせることなしにやるって
言われたけれども、きょ、今日なのかしら? 天野佳林先生とどういった形で共演する
のか知らないけれども、対談形式だとしたら、インタビューに近いと言えなくもない…
…。どっきり番組だからこそ、テレビ局まで出向いた。ええ、筋は通る)
 と、そこまで推測を積み重ね、状況把握に努めた途端に、悲鳴を上げそうになった純
子。実際には黙っていたが、思わず空唾を飲み込んだ。
(どっきり番組ということは――この部屋に隠しカメラがあるかも?)
 途端に緊張が全身に回った。探してみたくなる。が、一方でうまくだまされなきゃい
けないんだから、隠しカメラ探しなんて言語道断、やっちゃだめと己に命じる。だけれ
ども、ゆったりできるはずの控室に、もしもカメラがセットされて撮影されているとし
たら、気が抜けない。
(まずいわ。私、スカートで来たのよ。低い位置にカメラがあったら、動きによっては
中が映っちゃう恐れが)
 頭に両手をやって、抱えるポーズをした。この姿も撮られているかもと思うと、何か
理由を付けなくてはという心理が生まれ、「ああ、覚えられない、台詞!」と口走って
みせた。
(だ、だめだわ。この短い間に、物凄い疲労感が)
 両肘をテーブルに着き、顔を手のひらで覆う。本当に隠しカメラがあるかまだ分から
ないというのに、意識過剰で動けなくなりそう。
(元々は、杉本さんのミスから始まってるんですからね! それなのにこんな、見え見
えの舞台を用意して……恨みます)
 部屋で待っているように言われていたが、息が詰まる。ちょっとくらいならいいだろ
うと、腰を上げた。ドアを少し開け、廊下を覗く。カメラを持った人物はいないよう
だ。
(もし行き違いになっても、ちょっと新鮮な空気を吸いに出てたって言えばいいわよ
ね。時間までには戻るつもりだし)
 そうやって自分を納得させて、外に踏み出そうとした刹那。
「やあやあ、お待たせしました」
 陽気な声が掛かった。純子が廊下へ出るのを待ち構えていたかのようなタイミング。
 声のした方向を振り返ると、知らない男性と女性のコンビ、さらに天野佳林その人が
いた。テレビ出演を終えたばかりといった体で、スーツ姿が決まっている。
 天野先生との初対面に少なからず感動を覚えた純子だったが、それと同等以上に気に
なるのはテレビカメラ。やはり見当たらないものの、女性の手にはデジタルカメラが握
られていた。
「事前にお知らせしていなかったと思いますが、本日のインタビューは天野佳林先生と
の対談形式でお願いしたいと考えています。風谷さんは、化石に興味をお持ちだと聞い
たものですから」
 男女二人はそんな前置きで始めて、それぞれ名刺を取り出し、自己紹介をした。続け
て、天野佳林との引き合わせ。ネクタイを少々緩めてから、当人が言った。
「天野佳林です。初めまして。今日は短い時間ですが、よろしくお願いします」
「初めまして、風谷美羽と言います。天野先生のご活躍、テレビで常日頃から拝見して
います。難しいことを小さな子にも分かるくらいに、楽しく面白く話されるから、私も
大好きで、だから急なことに驚いてるんですが、とてもわくわくもしてるんです」
 とりあえず、正直な気持ちを一気に喋ることで、最初の不自然さは乗り切れた?

 純子の懸念、いや、確信に近い想像に反して、対談形式のインタビューは特段、テレ
ビ番組らしい仕掛けなしに終わりを迎えた。
(あれ? 杉本さんから聞いていた話と違うんですけど……いいのかな? ある意味、
びっくりはしてるけれども)
 何が何だか分からない。内心、混乱の嵐が吹いていた純子だった、表面上はきっちり
笑顔を作れている。天野佳林との対談が考えていた以上に楽しいものに終始したのが大
きい。
「それじゃあ、若干時間オーバーしてるところをすみませんが、最後にツーショットの
写真を何枚か、いただきたいと思います」
 男性スタッフの声に応じて、女性がカメラの準備を。純子は天野佳林と仲よく?収ま
った。
 これで終了と伝えられ、純子は心中、ほっとすると同時に疑問符もいっぱい浮かべて
いた。終わりと見せ掛けて最後にどっきりがあるのだろうか。警戒を完全には解かずに
いると、天野が脱いでいたジャケットに腕を通しながら話し掛けてきた。
「そうだ、風谷さん。サインをもらえないだろうか」
「え、サインですか」
 来たわ、と感じた純子。
(こんな学者先生が私なんかのサインを欲しがるはずがない)
 意識して身構えてしまう。いやいや、あくまで自然に振る舞わなくては。見事にだま
されることこそが目的。
「はい。実は、うちの子達があなたのファンだと、今朝になって聞かされましてね。男
と女一人ずつおりますが、二人揃ってあなたについて詳しいのなんの。私、出掛ける前
に色々教えられましたよ」
「はあ。ありがとうございます」
(なるほどね。お子さんがファンだということにすれば、不自然じゃないわ)
 芸の細かさに密かに感心している純子に、先程の男性スタッフからサインペンと色紙
が差し出される。
「先生に言われて、急いで用意したんですよ」
 と、天野へ笑いかける男性。
「すまなかったね。買っておく暇がなかったんだ。――それで、先走ってしまったよう
だが、サイン、いいだろうか?」
「え、はい、かまいません」
 そう答えてペンと色紙を受け取ろうとしたが、またも想像をしてしまった。
(これって強めに握ったら、電気が流れるやつ?)
 雷が大の苦手な純子だけに、電気も苦手な方である。だが待てと冷静になる。
(確か、電気が流れるのはボタンを押すタイプのボールペンとかシャープペンじゃなか
ったかしら? サインペンは押すところがない。スタッフさんだって、普通に持って
た。サイン色紙の方も電気的な機械仕掛けをするには、薄すぎるような)
 自然な動作でサインペンを右手、色紙二枚を左手で受け取った。電気ショックは無論
のこと、何の変哲もない。
「何てお書きしましょう?」
 天野に尋ねつつ、ペンのキャップを取る段になって、またもや嫌な想像が鎌首をもた
げる。
(キャップを外そうと強く捻ったら電気が来るとか?)
 もうこれくらいしかどっきりの仕掛けようがないでしょ!という意識が強くなった。
その余りに、逃げを打ってしまった
「あの、色紙を持ったままだとキャップが取れないので、開けてもらえますか」
 誰ともなしに言ったのだが、男性スタッフが開けてくれた。そしてやっぱり、何とも
ない。平気で開けた。ペンを返され、受け取っても感触はさっきと変わらなかった。
「あ、ありがとうございます……」
 ペンをしげしげと見つめる純子に、天野が問われていた事柄を返す。
「ごく普通にお名前を。それから、みのるとさき、子供の名前なんですが、共に平仮名
で頼みますよ」
 純子は色紙を重ねて構え、一枚ずつ、サインペンを走らせた。現在の心理状態を考え
ると、上出来のサインが書けた。
「これでいいでしょうか」
「ええ、大丈夫。二人の大喜びする顔が目に浮かびます。本当にありがとう」
 終わった。どっきりではなかった?
 純子は何かに化かされたような心地でいた。が、天野が「それではお先に失礼を」と
部屋を出ようと横を通ったとき、はっと気付いて、切り替えた。
「あ、あの、すみません!」
 天野と男女二人が足を止めて振り返る。純子は対談相手に駆け寄って、お辞儀をしな
がらお願いした。
「私も、天野先生のサインをいただけませんか?」

 インタビューだか対談だか、あるいは不発のどっきり番組だか分からない仕事が終わ
って、しばらく経ってから杉本が控室に姿を見せた。
「遅いです、杉本さん」
「そう? 十分と遅れていないはずだけれど」
 十分近い遅刻でも大概だと思うが、そういったずれを見越して、余裕を持ってスケジ
ュールは組まれているので、大きな問題ではない。純子は音を立てて椅子から立ち上が
ると、その背もたれの縁に両手をついた。
「聞きたいことがあって待ちかねてたんです。だから、いつもよりもじれったく感じち
ゃって」
「何かあった?」
「終わったんだから、もうとぼけないでほしいな、杉本さん。お仕事ってインタビュー
と言うよりも、対談でしたよ。それも、天野佳林先生との」
「うん。そうだよね」
「……」
 捉えどころのないふにゃっとした返事に、純子は一瞬、二の句を継げなくなった。が
どうにか修正し、言葉を重ねる。
「どっきり番組だったんですよね? 私、ちゃんと覚えていたんですよ。雑誌インタビ
ューなのにテレビ局に来るから、おかしいと感じてたんです」
「うん、君の記憶力は僕よりずっと上だから、覚えてると思ってたよ。その上で、がっ
くりくるようなことを言うけれども、いいかい?」
「……何だか怖いですが、いいですよ」
 背もたれから手を離すと、握りこぶしを作って覚悟を決めるポーズを取る。
「実は、天野佳林先生とのどっきり番組、取りやめになったんだよねー」
「ええ? 意味が分からない。だって今日、さっき、天野先生が来られて……あ、ひょ
っとしてそっくりさん? 偽者の天野先生にサインをもらっちゃったんですか、私?」
 大騒ぎして、自らを指差す純子。その目の前で、過杉本はおなかを押さえる格好にな
って盛大に笑った。
「ち、違うって。どっきりじゃないって言ったのに。正真正銘、本物の天野佳林先生で
すよ、あの人は」
「わ、分かるように言ってください。大人しく聞きますから」
「だから、対談の仕事も正真正銘の本物で。テレビ局に来たのは、天野先生のご都合な
んだよね。出演番組の収録があって。それでも天野先生が君との対談を結構楽しみにさ
れていたみたいで、どっきり番組が取りやめになったのなら別口で何か仕事を一緒にで
きないかと言われたそうなんだよね。じゃあってことで、当初の予定をそのままスライ
ドさせて、風谷美羽と天野佳林の対談と相成ったわけ」
「……どっきりは完全になくなったんですか?」
 天野からそんな風に言われていたとはちょっとした感激ものだったが、今はそれに浸
っている場合でない。
「あー、どっきりはねえ、完全になくなったかと言われると、そうでもなくて」
「えっと、もしかすると、まずいことを質問しちゃいました? 近い将来、何もかも改
めて私をどっきりに引っ掛けるつもりでいるとか。だったら、もう聞きません」
 耳を塞ぐ格好をしてみせた純子。だが、案に相違して、杉本は首を横に振った。
「なくなったんじゃなくて、どう言えばいいのか……まあ、支度をして、出て来てよ。
外で待ってるから」
 奥歯に物が挟まった言い種になり、そそくさと廊下に出て行ってしまった。
 純子は急いで追い掛けた。支度なんて、とうにすんでいる。
「杉本さん!」
「ロビーで待ってるから、そんなに全力疾走しなくていいよ。むしろ、ゆっくり現れた
方がいいかなあ」
「ちょっと、どういう」
 意味なんですかという質問は途中で溶けて消えた。何度か角を折れ、ロビーへと通じ
る廊下に出たとき、その突き当たりの景色を見覚えのある人の影が横切った気がしたか
ら。
 とにかく、急ぎ足でテレビ局の広いロビーへと向かう。正面玄関を入ったところにあ
るホールまで戻って来ると、テレビカメラを担いだ人が二名ほどいるのが分かった。
「これって……まさか」
 ホールの一角を占めるロビーのソファ群に足を向ける純子。その正面に、二人の女性
が手を取り合ってひょいと現れた。さっき、純子が見た人影だ。
「このあと、食事に行く時間はあるかしら?」
「この通り、仲直りはもうしているから、安心して」
 加倉井舞美、松川世里香の順にそう言った。二人とも、意地悪げな満面の笑みを浮か
べていた。

「つまり……」
 完全にオフレコになったのを見計らい、純子は杉本に詰め寄った。詰め寄ったと言っ
ても、既に精神的に相当消耗しているため、迫力はなかったけれども。
「杉本さんが言っていた、別の人を仕掛け人にして私を引っ掛けるっていう要望は通っ
ていた。そうなんですね?」
「正解〜」
 ホールドアップの手つきをした杉本は、情けない声で認めた。加倉井・松川の両名と
は少し話ができたものの、とりあえず急ぎの仕事を片付けるからと、今はここにいな
い。
「だめ元で出した代替案が採用されたから、驚くのなんのって。まるで、僕自身がどっ
きりに掛けられた気分だったよ」
「それはそれとして」純子の華麗なるスルー。
「加倉井さんと松川さんは、ほんとに何にもなかったんですよね? 口喧嘩は全部お芝
居だったと」
「うんうん。さっき、カメラの回ってるときに言った通りですよ、はい」
「よかった」
 胸のつかえが取れた心地。気分がいくらかよくなった。
 腕を下ろした杉本は、「これで許してくれる?」と笑いかけてきた。純子は間を取っ
て考える振りをして、
「ううん、だめ。まだ聞きたいことがあるわ」
 と強い調子で言った。
「な何でしょう」
「あれも嘘なんですね? 加倉井さんと松川さんが仕掛け人だったということは、松川
さんが杉本さんと恋人関係っていう話。松川さんが仕掛け役を引き受けてくれたから、
急遽思い付いて恋人ってことにして、私がどちらの味方にもなれないようにした……」
 答は聞くまでもない。そう信じて疑わないまま質問した純子だった。しかし。
「さあ? どうなのかあ」
 杉本が答えるその表情はとぼけつつも、普段に比べると数段真面目なように見えなく
もなかった。

――『愛しかけるマネ』おわり




#515/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  18/12/29  22:11  (411)
そばにいるだけで 67−1   寺嶋公香
★内容
「留学、決めた。出発は八月に入ってからになると思う」
 相羽の突然の“報告”に、唐沢は一瞬、我が耳を疑った。
「――はあ?」
 頓狂な声で反応して、次に「留学?」という単語を発声する前に、相羽の説明がどん
どん進む。
「唐沢に任せたい、というか頼みたいのは」
「ちょちょっと待て。ストップ! 留学だって? おまえが? それってやっぱあれ
か。J音楽院だな?」
「そう」
「今さら、何で蒸し返すんだよ」
「蒸し返すの使い方がおかしい」
「うるさい、知るか。おまえ、じゃあ、さっきの俺の見立ては間違いだったってか。ピ
アノを選ぶのかよ」
「……エリオット先生には前々から誘っていただいていた。お断りしていたのは、いく
つか理由があるけれども、日本にいてもエリオット先生に個人レッスンをつけていただ
けるという特別扱いに甘えていたからかもしれない。それがこの春、先生が国に戻られ
ると決まった時点で、気持ちが揺らいだ」
「……もしかして……クイズ番組の観覧に行ったとき、頻繁に電話が掛かってきていた
が、あれも留学の話だったのか」
「当たり。よく覚えてるな」
「おかしな感じは受けてたんだ。席を外してばかりだったから、何のために涼原さん達
の応援に来たんだよ!って」
「一応、肝心な場面には居合わせて、役に立ったろ」
「ふん。過去のことはもうどうでもいいさ。揺らいだだけだったのが、どうして決定に
至ったんだよっ」
「その辺は長くなるし、ややこしいし、話したくない。ただ、昨日のコンサートは直接
には関係ない。最終チェックみたいな位置づけだった。もっと前、先生の帰国には僕に
も責任の一端があると分かったのが大きいけれども、それだけでもないし」
「……」
 尋ねたいことはいっぱいあったが、唐沢は我慢した。本音を言えば、唐沢も少し以前
から、予感していた。違和感に近い勘に過ぎなかったが、相羽の身に何か大きな変化が
起きるんじゃないかと。その予感があったからこそ、今、留学話を打ち明けられても、
“この程度”で済んでいるんだと思う。もし予感していなければ、相羽とまた喧嘩にな
っていた。
 よく喋って渇いてきた口中を、空唾を二度飲み込むことで湿らせると、唐沢は相羽に
続きを促した。
「率直に言って、いない間、涼原さんが心配なんだ。僕はどちらも選ぶ」
「ここに来てのろけるたあ、面倒くせーな。心配って、粘着質なファンもどきみたいな
奴とかか。なら、涼原さんにさっさと留学のこと言って、連れてけよ」
 投げ遣りな口調になった唐沢。無論、唐沢本人も、その最善の策が実現困難であろう
ことは、充分に承知している。
「できるのならそうしたい。できそうにないから……心配してるんだ」
「……まったく。それで? 俺に何をしろってんだ」
「涼原さんのボディガードになって守る。学校の行き帰りが心配なんだ。他は事務所の
人が付いてくれる。だから、学校にも迎えが来るときなんかは、問題ないが」
「あのな。何度か言ったよな。俺、体力はそこそこ自信あるが、喧嘩はほとんどしたこ
とないぜ。一番最近でも……おまえとしたやつが最後だ」
 心身ともに痛さを思い出して、少し笑ってしまった。が、すぐに戻る。
「いいんだ。じゅ――涼原さんを一人にしないことが大事なんだ。前にも言ったよう
に、男が一人でもついていれば、だいぶ変わってくるはず」
「変だな。具体的に危険が迫ってる口ぶりに聞こえたぞ。……勘違いで終わったけれ
ど、パン屋でのことも、実際には予兆があったのか? バイトを始めたのが噂になって
変な輩が寄ってくるのを心配しただけと思ってたが」
「微妙なんだが……ファンレターに混じって、変なのが稀に届くらしいんだ。今のとこ
ろ、実害は出ていない」
「そうか、ファンレターね。今後も何もないとは限らないってわけだ。しかし、ボディ
ガードってんなら、他にふさわしいのがいるだろうに。ほれ、道場仲間が」
「考えなかったわけじゃない。でも、同じ学校じゃないと厳しい。さすがに、こっちの
学校まで遠回りしてくれとは言えないし、仮にOKだったとしても時間がうまく合うと
は思えない」
「時間なら俺だって、委員長やっているから、遅くなることがあるかもしれないぜ。涼
原さんと合うかどうか分からん」
「そのときはしょうがない。涼原さんが待てるようなら、待ってもらう」
 話す内に、唐沢は想像が付いた。
(留学を勝手に決めて、涼原さんに対して後ろめたい気持ちがある。だから、せめて護
衛役を選んでおこうってことかいな)
 唐沢は少し間を取り、考えた。そしてやおら、座っている姿勢を崩して足を投げ出す
ような格好を取った。
「ご指名は光栄なんだけどさ……ボディガードがVIPを狙うのは簡単だぜ」
「うん? 何の話?」
「おまえが涼原さんを残していくのなら、俺、アプローチするかもしれねえぞってこ
と」
「……」
 まじまじと見返してくる相羽。唐沢は敢えて挑発目的で、口元に笑みを浮かべて横顔
を見せた。
(試すような真似をして悪いな、相羽。俺はこの話、涼原さんのためになることを一番
に考える。俺にはっきり言うぐらいだから、今さら留学を翻意させるのは難しいんだろ
うけど、揺さぶりは掛けさせてもらう)
 さあどうする?と、横目で相羽の反応を窺う。
 相羽は、さっき見開いていた目をもう落ち着かせ、左手の人差し指で前髪の辺り、左
頬と順に掻く仕種をした。
「それでも唐沢にしか頼めないな。信じてるから、唐沢のことも、涼原さんのことも」
 唐沢にとって、予想の範囲内の返事だった。ただ、実際にそう答を返され、考える内
に腹が立ってきた。
「ああ、そうかい」
 また姿勢を改め、相羽の方に身体ごと向く。
「そこまで信じてるなら、まず、涼原さんに言えよ、留学の話を。言ってないんだろ
?」
「ああ、まだ」
「何で、俺が先になったんだ。俺がボディガードを断れば、留学をやめるのか?」
「……悪かった。ごめん」
 相羽は頭を下げた。
「あ、謝られても、だな。第一、謝るとしたら、涼原さんに言ってからじゃないか」
 急に素直になられて、攻め手を失った唐沢が戸惑い混じりに応じる。相羽は即座に返
事をよこした。弱気が顔を覗かせたような、細い声だった。
「とてもじゃないけど言えないよ」
 黙って聞いていた唐沢だったが、内心では「だろうなぁ」と相槌を打った。もう責め
る気は完全に失せた。
「仮の話だが、今突然涼原さんが抜けたら、仕事関係の方はどうなる?」
「替えが効かないっていうほどの立場じゃないし、ほとんどは別の人が代役に入るだろ
うね。だから、ビジネスそのものがストップすることはないと思う。問題はルーク、事
務所の方。確実に迷惑を掛けることになるから、事務所に違約金支払いの責任が課せら
れて、最悪、潰れるかもしれない」
「なら、どうしたって無理、無謀か。やる値打ちがあるんなら、俺も協力して、涼原さ
んや周りを説得してやろうと思ったんだけど」
「残念だけど、そうみたいだ。……唐沢って、そこまで人がよかったとは知らなかっ
た」
「おまえのためじゃねーから」
 あーあ、と唐沢が両腕を突き上げてのびをしたところで、下校を促す校内放送が流れ
始めた。打ち切らざるを得ない。
「聞くまでもないが、留学話は他言無用なんだな?」
 音楽室を出る前に最後の確認と思い、唐沢は聞いた。
「頼む。学校で知っているのは、神村先生を含む何人かの先生と、おまえだけ」
「え。何か急に肩が重くなったぜ」
 廊下に出て、扉の鍵を掛ける頃には、この話題はきれいさっぱり消し去った。他の人
に聞かれてはいけないという意識が、暗黙の内に働いたのだ。
「あ、そうだ。天文部の合宿はどうすんだよ、相羽」
「七月下旬なら行けると思う」
「何やかんやで忙しいだろうに」
 でもまあ恋人と一緒にいられる時間を確保するには当然参加するよな。問題は、その
ときまでに留学のことを言えているかどうか……。唐沢は直感で決めた。
「やっぱ、俺も天文部入って、着いて行くわ。間に合うよな。ぎりぎりか?」
「ええ? どうしてまた」
「何かあったとき、事情を知る者が近くにいた方が便利だと思わん?」
「……うーん」
 相羽の歩みが遅くなる。このままだと、腕組みをして考え出しそうな雰囲気だ。
「おいおい、相羽がそこまで考え込むことじゃないだろ。ほら、早く鍵を戻して帰ろう
ぜ」
「うーん……。合宿までには、彼女に打ち明けてるつもりなんだけどな」

            *             *

 ベーカリー・うぃっしゅ亭でのアルバイト(一応の)最終日、純子は大いに営業に精
を出した。前日には急遽作ったビラ配りをして、風谷美羽の姿を往来にさらした。最後
の一日ぐらいなら、もし仮にお客がどっと押し寄せても大丈夫と踏んでの、うぃっしゅ
亭店長の了解も得た上での決断。
「いつもに比べて、小さな子が物凄く多い。もう、うるさいし大変!」
 そうこぼした寺東は、珍しく玉の汗を額に浮かばせていた。ハンドタオルを宛がい、
スマイルを絶やさぬように奮闘している。
(『ファイナルステージ』のおかげかなあ。高校ではさして話題にならないけれども、
小学生には受けてるみたいだから)
 アニメ番組を思い浮かべつつ、純子も笑みを崩すことなく、接客や陳列などに忙し
い。
 先程から、胡桃クリームパンの消費が激しい。文字通り、飛ぶような売れ行きだ。少
し前、子供の一人から「美羽が好きなパンは何ですか」と問われ、純子が正直に答えた
せいである。小学生のお小遣いで菓子パンをいくつも買うのは厳しいだろうけど、一個
ならほぼ躊躇せずに買える。手頃な価格かつ、風谷美羽の好物となれば、そこに集中す
るのは当然と言えた。
 おかげで店長は店の奥でフル回転だ。今日は他にも店員――パートタイムの主婦が二
人出て来ており、内一人が店長の奥さんだと聞いた。ただ、純子はどちらが奥さんなの
かは把握していない。店員として入ったのと同時に、忙殺されっ放しなのだ。
「整理を兼ねて、一旦、外でまたビラ配りしてみる? このままだと店がパンクしそう
だよ」
 パートタイマーの一人が言った。その視線は最初に純子、次に店の奥へと向けられ
た。
 パンクは大げさだが、大混雑しているのは間違いのない事実。通路の幅が狭くなって
いる箇所では、すれ違うのにも一苦労。トレイの端同士がぶつかる恐れが高まってい
た。
「そうだね。涼原さん一人でビラ配り、頼めるかな」
 店長の指示が届いた。
「あ、はい! 手すきになったら行きまーす」
 返事をする間にも、胡桃クリームパン待ちの小学生らが暇に任せて、純子の着るエプ
ロン型ユニフォームを、あっちやこっちから引っ張る。パンにじかに触っちゃだめと注
意したのは効果があったが、今度は自分が触られそうだ。
「ごめんね、ちょっと通してね。あ、ほどいちゃだめ」
 ようやく子供の輪を抜け、外に出る準備をしながら、純子は思い付きで新情報を流し
てみることにした。
「そうそう、発表します。風谷美羽が好きなパンの二つ目は――」
 桃ピザにしようか。

 午前中は体育やら教室移動やらで、いい機会がなかった。だから、聞けたのは昼休み
に入ってからになった。
 明日の土曜――五月二十八日――、学校が終わったら行っていい?と尋ねた純子に、
相羽は「かまわないなら、僕が君の家に行くよ」と提案してきた。
(相羽君、自分の誕生日だって分かってるのかなあ?)
 純子は座ったまま、隣の彼の表情を探り見たが、簡単には判断が付かなかった。
 まあ、特に支障はないし、もしかすると母子水入らずでお祝いするのかもしれないし
と考え、「かまわないわ」と答えた。
(中間テストが近くなかったら、デートに誘いたいのに。考えてみると来年もこんな感
じになっちゃう? 来年は、テストの後回しにしてみようかな)
 両手を頬に当て、肘を突いた格好で一年後の計画を立て始める。静かになった純子
に、相羽は不思議そうに瞬きをした。
「どうしたの? 急に黙りこくっちゃって」
「――あ、うん、歓迎するからね。何時頃までいられるかしら?」
「その前に、お昼をどうするか決めておきたいな」
「そっか。お昼御飯は……相羽君がいいのなら、うちで用意するわ。正しくは、しても
らっておく、だけど」
「……純子ちゃんの手作りなら食べたい、とか言ってみたり」
「少し遅くなってもいいのなら」
「物凄い即答だね」
 顔を少しそらし気味にし、目をしばたたかせる相羽。純子は嬉しさを隠さずに答え
た。
「冗談半分に言ったのをまともに受け取られて驚いた、でしょう? いつもいつも、や
られっ放しじゃないんだから」
 誕生日のプレゼントとして、食事を作ってあげるという選択肢が元からあったので、
素早く返せたまでなのだが。
「それで、どうするの?」
「やっとバイトが終わった人に、料理作ってなんて頼めないでしょ」
「大丈夫よ。そんなに難しい物作らないから。焼き飯になるかな? そうだわ、もらっ
たパンがまだ余ってるから、一緒に食べて」
「米とパンを一緒に……」
「育ち盛りなんだから。なんちゃって」
 笑顔がひとりでにはじける純子に対し、相羽はやれやれとばかり、頭を掻いた。
「ところで、何の用事か聞いていいかな」
「それは――」
 ここまで来て黙っておくのも変だし、気が付いている可能性だって充分にある。純子
はそう判断して答えようとした。が、第三者に先を越された。
「誕生日の何かに決まってるじゃない。自分自身のことには、意外と無関心なのね、相
羽君たら」
 白沼だった。いつの間にやらすぐ近くまで来て、聞き耳を立てていたらしい。
「白沼さん、ひどいよー」
 腰を浮かせ、少々むくれ気味に純子が抗議すると、白沼は「どっちがひどいんだか」
と受けた。
「長々といちゃいちゃ話をされるこちらの身にもなって欲しいわ」
「い、いちゃいちゃはしていない、と思うけど……ごめんなさいっ」
 いちゃいちゃしてたことになるのか自信がなかった。悪いと思ったら謝る。
「相羽君に用事なんでしょ。どうぞ、私の話は一応、終わったから」
「違う、はずれ。あなたに用事。お仕事ですわよ」
 白沼はメモを渡してきた。これまでよくあったのと違って、ノート半ページ分ぐらい
はありそうな大きさだ。
「前に会議で出た検討事項の内、結論が出たのがこれだけ。無論、関係者には全員伝わ
ってるんだけど、早めに目を通しておいてほしいという理由から、直接渡すように言わ
れたわけよ」
「どうもありがとう……これ、決定?」
「全部が全部じゃなく、意見を聞くのもあったはずよ。確か、二重丸が付けてある分。
注釈、書いてない?」
「……ごめん、あった。最後の方、自分の指で隠れてた」
 照れ笑いをする純子に、白沼はしっかりしてよねと声を掛けた。
「言うまでもないけど、テストが終わったら再開だから。各種PRの撮影とか」
「それまでには気合いを入れ直しておきまーす」
「……今日明日は浮かれていても、しょうがないわね」
 白沼も最後は咎めることなく、立ち去った。純子はメモを折りたたみ、鞄にしまうた
めに座り直した。終わってから、片肘を突いて相羽に聞く。
「あーあ。怒られちゃった。そんなにいちゃいちゃして浮かれて見えるのかな?」
「分かんないけど……それ以前に、誕生日のこと、忘れてた」
「え?」
 頭を支えていた腕が、コントみたいに、かくんとなった。
「本当に? その、おばさまが何かしら言ってなかったの?」
「言ってたけど、明日だということを忘れてた」
「……凄い、ような気がするわ。誕生日も忘れるなんて、ある意味、充実してる証拠じ
ゃない?」
「だったらいいんだけどね」
 相羽は微かに笑うと、次に、はっと何かに気付いたように唇を噛んだ。
「純子ちゃん、もしかして……アルバイトしたのって……」
「――えへへ。ばれたか」
 もう隠していても意味がない。聞かれれば素直に認めようと決めていた。
「プレゼントのためよ。だってほら、モデルとか芸能とかって、相羽君のおかげで始め
たようなものだから、今回ぐらいは自力でプレゼントを買ったと胸を張りたいなって」
「そうだったの……。あれ? バイトの理由、母さんからも『経験を積むためよ』って
聞かされてたんだけど」
「あ、それは私が頼んだの。嘘の理由を通すためには、どうしても協力が必要だから、
信一君には秘密にしておいてくださいねって」
「やられたよ、まったく」
 そう答えた相羽は、急に上を向いた。速い動作で右手を頬骨の辺りに宛がう。
「あれ、何だこれ。だめみたいだ」
「相羽君?」
 鼻声になった相羽が気になり、名前を呼んだが、すぐには返事がない。
「――ごめん。ちょっと。顔、洗ってくる」
 そのまま表情を見せることなく、席を立つと、足早に廊下へ出てしまった。
 純子が追い掛けようかどうしようか、迷っていると、唐沢が口を開く。
「放っておきなよ、すっずはっらさん」
「でも」
「感激して涙が出た、ってところじゃないの」
「嘘! そんなまさか、大げさな」
「大げさなんかじゃないさ。それに、今のあいつには、泣く理由があるもんな」
「ええ? 唐沢君、私の知らない事情を何か知ってるの?」
「いやいや。好きな相手が忙しいにもかかわらず、自分のためにわざわざアルバイトし
てくれたら、そりゃあ感激するでしょって話」
 世間の常識だぜと言いたげに、肩をすくめる唐沢。純子は完全には納得しかねたが、
感激するのは理解できるし、贈る側として掛け値なしに嬉しい。それ以上の追及はやめ
にした。

            *             *

(あー、情けない)
 目にごみが入ったことにして、校舎を出た相羽、屋外設置の洗い場まで来ると、形ば
かり顔を洗った。
 ハンカチを持っていたが、自然に乾くままにする。鏡の方は持ってないが、いちいち
確認しなくても大丈夫だろうと踏んだ。
(純子ちゃんがそんなこと考えていたなんて。それに全く気付かないなんて。いくら他
のことに気を取られていたとは言え……俺ってだめな奴)
 頭をがりがり掻き、太陽をちらと見上げる。どこかで冷静な部分が残っており、昼休
みが終わるまであと何分あるなという意識があった。
(あのとき、キスする資格なんて自分にはなかった)
 唐沢の自転車を借り、うぃっしゅ亭から純子と一緒に帰った帰り道。そもそも、何で
咄嗟にしたくなったのかを自分でも分からないでいるのだが……多分、留学に伴うしば
しのお別れを意識して、甘えたくなった・思い出を作りたかった・確かめたかったのか
もしれない。
(明日の誕生日。プレゼントを受け取っていいのか?)
 自己嫌悪が続いており、今の自分にはやはり資格がないと思ってしまう。反面、ああ
までしてプレゼントを用意してくれた純子に対し、受け取らないなんてできそうにな
い。
(渡される前に、留学のことを言う? それでも純子ちゃんがプレゼントしてくれるの
なら――いや、こんな試すような真似はしちゃだめだ。それに……中間テストに悪い影
響が出るかもしれないじゃないか)
 留学のことを話さずにいられる理由を探し、見付ける。純子の勉強や成績、ひいては
先生への受け及び学校側のモデル仕事への理解を考えれば、正しい判断であったが、別
の意味では間違っている。
(僕が独断で遠くへ行くと決めておいて、相手には待っていてもらおうなんて、身勝手
極まりないよな。僕が純子ちゃんを信じていても、純子ちゃんは僕を信じられなくなる
かも。ああっ、何もかも分かった上で決断したつもりだったのに! 誕生日プレゼント
のためにバイトを始めたことにすら思い至らない。全然、分かっていなかったんだ)
 留学の件は、もう後戻りできない。よほどのアクシデントがない限り、このまま進む
段階にまで来ている。だったらあとは。
(純子ちゃんの気持ちに任せるしかない)
 あるいは当たり前の結論に、時間を要して達した。少しだけど、すっきりした。

            *             *

 五月二十八日。半ドンが終わった。
 結局、純子の昼食作りはなくなった。相羽に予定があったのだ。誕生日をきれいさっ
ぱり忘れていた当人が言うには、母親が昼間、どこかに食べに行きましょうと決めてい
たのを思い出したらしい。
「案外、おっちょこちょいなんだねえ」
 下校の道すがら、駅まで一緒に行く結城が呆れ気味に評した。なお、淡島は試験を控
え、先日休んだ分を取り戻すべく、補習を自主的に受けている。よってこの場にはいな
い。
「おっちょこちょいっていうか、えっと、視野狭窄? 一つのことに意識が向くと、周
囲がほとんど見えなくなる」
「一言もありません」
 相羽は自嘲の笑みを覗かせ、認めた。
「てゆうことは、このあとどうするんだ?」
 唐沢が聞いた。最後尾をぷらぷらと着いてくる。
「もしかして、俺、というか俺達、お邪魔虫?」
「……僕からは何とも」
 相羽は純子に顔を向けた。
「今は、そうでもないけど」
 純子の返事は、妙な言い回しになった。ぴんと来たのは結城。
「どこだか知らないけど、家の最寄り駅で降りてから、二人きりになれればいいってわ
けね」
「だったら、邪魔してることになるの、俺だけじゃん」
 唐沢がぼやくと、結城が「こっそり見物していったら? 様子をあとで聞かせてよ」
なんて冗談を言った。
 そんな唐沢の心配は、すぐあとになくなった。駅に着く前に、鳥越が追い掛けてきた
からだ。
「唐沢クン、ひどいよ。掃除当番だから、待っててくれって言ってたのに」
 怒りつつも疲れからか、妙なアクセントかつ情けない顔で話す鳥越。それを見て、唐
沢は即座に思い出したらしい。
「わ、わりい。入部の話だったよな。今から戻るか?」
「入部って、唐沢君が天文部に? 今から?」
 聞いていなかった純子は、唐沢に尋ねるつもりで言った。だが、唐沢は鳥越とのやり
取りに忙しいと見て取ったか、相羽がごく簡単に説明する。
「最近、勉強に余裕ができて、何にもしていないのが退屈になったとかで、どこかに入
りたがってたんだ。ほぼ幽霊部員とは言え、僕らがいるところが馴染みやすいだろうっ
て理由で、天文部を選んだみたいだよ」
 純子が頷く間にも、鳥越と唐沢の会話は続いている。純子達とは反対方向の電車に乗
る結城は、「長引きそうだし、電車来るし、ここでバイバイするね。お疲れ〜」と言い
残し、とことこと足早に行ってしまった。
「学校でなくても、届けを書いてもらうことはできる。あと、どれだけ本気なのか質問
していいか」
「何、そんな面接みたいなことするのか」
 驚いたのは唐沢だけじゃない。純子も驚いたし、顔を見合わせた相羽も同様だ。
(私には面接なんてなかったのに)
 そのことを口に出そうか迷っていると、相羽が先に動いた。
「次期副部長。唐沢の知識はともかく、熱意は保証するよ。だから――」
「いくら君の頼みでも、簡単に承知できないな。だいたい、今日の約束を忘れてすっぽ
かすこと自体、本気度が欠けてる証拠だ」
「それは僕らにも責任があるかも……」
 相羽は純子に目配せした。
「今日、誕生日でさ。純子ちゃんがプレゼントをくれるっていう話で盛り上がって、唐
沢も興味を持ったみたいで、着いてきたんだ」
「……確かに気になる。でも」
 鳥越は改めて唐沢に言った。
「男と男の約束なんだから、忘れないでくれよ〜」
 しなだれかかって泣きつかんばかりの勢いに、唐沢は大きく深く息を吐いた。
「男の約束って言われてもな。そういう性格の約束じゃないと思うんだが。すっぽかし
たのはほんと、謝る。面接は勘弁してくれ、してください。今の俺は情熱だけだから、
クリアできる気がしない」
「鳥越、僕からも頼む。星や夜空のことをこれから勉強しようっていう新人を、ここで
門前払いにするのはよくないと思う」
「うう〜ん」
「入部させて、唐沢が他の部員に悪い影響を与えるようだったら、僕が責任を持つ」
「責任……具体的には? 一緒に辞めるとか言われても、部としては嬉しくない。相
羽、君が辞めたら、涼原さんにまで辞められそうだし」
「や、辞めないわ。少なくとも、そういう理由では」
 純子が慌てて言うと、鳥越は、不意に何かを思い付いたらしく、口元で笑った。
「三人とも、中間考査明けから一学期いっぱい、活動日にずっと顔を出すとかはどう
?」
「――鳥越君、ごめん。凄く難しいです」
 純子はスケジュールの書かれたカレンダーを脳裏に描き、ほぼ即答した。
「ほんとに文字通り、顔を出すだけなら何とかなるかもしれないけれど、最後までいる
のは恐らく無理だわ」
「うんうん、そうだろうな。他の二人はともかく」
 分かっていた様子の鳥越。
「だったら、昼の太陽観測はどうだろう? ほぼ毎日、当番制でやってるんだけど、当
番とは関係なしに、涼原さん達は昼休み、屋上まで来て顔を出す」
「それなら……学校を休まない限り、大丈夫かな」
「学期終わりまでに、三人とも来ない日が一度でもあったら、唐沢、君の入部は認める
が」
「へ? 認める?」
 唐沢の顔にクエスチョンマークが描かれたようだ。鳥越は愉快そうに続ける。
「うん。認めるが、合宿には参加禁止。これでどう?」
「ええー、意味ないじゃん! いや、天文に興味はあるが、合宿はまた別の楽しみって
ことで」
 ごにょごにょと語尾を濁す唐沢。その肩をぽんと叩いて、相羽が意見を述べる。
「いいんじゃないかな? 心配なら、唐沢一人でも連日、太陽観測に足を運べば、条件
達成だ」
「むー。俺、女子に声を掛けられると、そっちを優先しちゃう癖があるからなあ。それ
に真面目な話、委員長やってるからその役目で昼の時間、潰れる可能性なきにしもあら
ずだし、自信持って返事できねー」
「そんなときは私か相羽君が行けると思うから、ね?」
 時間が気になり始めたこともあって、純子は鳥越の提案を受け入れる方に回った。実
際、悪くない話だと思う。
(唐沢君がどれだけ本気なのか、私も分からないけれど、入口にはちょうどいいんじゃ
ないかしら。って、私だって部活動に参加していない点では偉そうなこと言えない)
「涼原さんがそう言ってくれるなら。その条件で頼むよ、えーと、副部長だっけ?」
「次期、ね」
 鳥越と唐沢はそのまま入部の手続きに関する諸々を済ませるために、道端で書き物を
始めた。

――つづく




#516/598 ●長編    *** コメント #515 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/29  22:12  (331)
そばにいるだけで 67−2   寺嶋公香
★内容
 自宅までの道を心持ち早足で歩いて行く。唐沢の入部騒動で、余計な時間を食ってし
まった。誕生日プレゼントを持って来ていれば、学校でも渡せていたはずだが、包装に
皺が寄るのを嫌ったのと、周りから冷やかされるのを避けたかったのとで、家に置いて
きたのだ。
「お待たせ!」
 家まで来てもらって、上がる時間がない相羽を待たせる形になった。気が急いた分、
短い距離をほぼ全力疾走で往復してしまった。さすがに息は切れないが、足音で気付か
れたようだ。相羽は苦笑する口元を手で隠しつつ、「そこまで急がなくても、大丈夫だ
ったのに」と言った。
「この場で感想を聞きたいんだもの。誕生日、おめでとうっ」
 相羽に紙袋を手渡しながら、純子。
「開けていいんだね。――スコアのノートと、これは……」
 縦長の箱を取り出す。紙ではなく、立派なケース入り。
「万年筆だ。あ、音楽用の?」
 万年筆のケース脇に音楽用を意味するMSと記してあるのに気付いた相羽は、少し意
外そうな反応を示した。小説を書くこともある彼のことだから、そちらの用途でプレゼ
ントされたと思ったのかもしれない。
「そ、そう。前、作曲もするっていうのを聞いたから。手に馴染むかどうか分からない
けれど、もし使いにくくても、お守りか何かみたいに思ってくれたら」
「――ありがとう」
  相羽はプレゼントを持ったまま、純子をしっかり抱き寄せた。紙袋のかさかさという
音が聞こえたかと思うと、すぐにまた元の距離に戻ったけれど、純子をドキドキ支える
には充分な時間だった。
「大切に使う」
「え、ええ。もう、逆に、壊れるくらいに一生懸命使ってもらってもいいわ。すぐにま
た新しいのをプレゼントするから、なんてね、あははは……」
「うん。がんばるよ」
「……相羽君。やだなあ、目がうるうるしてる。これくらいのことでそこまで感激され
ると、困っちゃうじゃない」
 相手の顔に感情を見て取って、純子はわざと茶化すように言った。喜んでもらえるの
は贈った方としても大変嬉しいのだが、普段にない反応をされると戸惑いが勝りそうに
なる。
「嬉しいんだから、仕方ないだろ」
 相羽も恐らくわざとだろう、ぶっきらぼうに返すと、受け取ったばかりのプレゼント
を丁寧に元の状態にする。そして学生鞄の中にスペースを作り、これまた丁寧に仕舞っ
た。
「さて。名残惜しいけど、もう帰らないと」
「おばさまにもよろしく言っておいてね。それに、えっと、親子で仲よくお祝いしてく
ださいって」
「分かった。誕生日の当事者がそれを伝えるのは、何となくおかしな気もするけど」
「そうなのかな? とにかく、おめでとうございますってことよ」
「はは、了解」
 別れ際には、いつもの相羽に戻っていた。

 中間考査は、始まるまでに二度ほど友達同士で集まって勉強会をした成果か、無事に
乗り切れた。純子に限って言えば、一年時最後の成績と比べて点数の上下こそあれ、少
なくとも補習や追試を受けねばならない科目は、一つもなかった。
 特に、大きかったのが白沼のサポート。そう、勉強会には白沼も参加したのだ。
「意外だったって? 今回は特別よ」
 全部のテストの返却が終わったあと、感謝の意を告げた純子に対し、白沼は当然のよ
うに答えた。
「もしも追試なんてことになったら、スケジュールが狂うでしょ、仕事の」
「あ、そういう……」
「もちろん、私が手助けしなくても、大丈夫だったとは思うけど。あなた、多忙な身の
割に、勉強もできるんだから」
「ううん、今回はいつも以上にピンチだった。白沼さんがポイントを教えてくれたか
ら、凄く凄く助かった。あれがなかったら、睡眠時間削らなきゃいけなかったわ」
「それは何よりですこと。寝不足はお肌の大敵と言うし、たっぷりと寝て、鋭気を養っ
てちょうだいね」
「……怒ってる?」
「いいえ。怒ってるように見える? だとしたら、あなたが何度もお礼を言ってくるか
らね。無駄は省きましょ。それよりも――また、唐沢君が見当たらない」
 クラス委員として何かあるのだろう、白沼は腕時計で時間を気にする仕種を見せた。
「知らないわよね」
「ええ。昼休みなら、屋上に行ってる可能性が高いんだけど」
 伝わっているのかどうか心配になったので、天文部のことを白沼に話しておく。
「そうなの。……その合宿、あなた達も参加するのね?」
「達って?」
「決まってるでしょ、相羽君よ」
「う、うん。参加するつもり」
「スキャンダルはごめんだから、監視役で着いて行こうかしら」
 視線を巡らせ唐沢を探すそぶりをしながら、白沼はさらりと言った。
(まさか、白沼さんまでここに来て入部?)
「し、白沼さん! そんなスキャンダルなんてないから!」
「着いて行ったって、ずっと貼り付けるわけないんだし」
「だから、何にもしないってば〜」
「あなたにその気がなくたって、健全な高校生男子が抑えきれるかどうか。夏だから、
涼原さんも薄着になるでしょうしね」
「――」
 赤らんだであろう頬を、両手で隠す純子。白沼はまた腕時計を見やった。
「冗談よ。――もう、仕方がないわね。唐沢君の苦手な子って、やっぱり町田さんにな
るのかしら」
「はい?」
 急に友達の名前を出されて、戸惑った。おかげで気恥ずかしさは吹き飛んだけれど
も、話の脈絡が掴めない。
「あなたからでもいいわ。町田さんに頼んで、唐沢君にきつく言ってもらえないかし
ら。休み時間になっても教室を飛び出さず、少し待機しなさいって。それとも、学校が
違ったら、友達付き合いも疎遠になってる?」
「ううん。大丈夫だけど……芙美が言っても、効果があるかどうか」
「そうなの? じゃあ、あなたと町田さんとで、飴と鞭作戦」
 絵を想像してしまった。唐沢がサーカスのライオンで、純子が給餌係。町田は猛獣使
いだ。思わず、笑った。
「ふふっ。それでもうまく行くか、分かんないけど、今言われたことは伝えておくわ」
「頼むわね。あ、そうだわ。唐沢君の弱みを知りたい」
「え?」
「弱みを握れば、私の言うことも多少は聞くようになるでしょう。町田さんなら、小さ
い頃から唐沢君を知ってるみたいだし、何か恥ずかしいエピソードも知ってるんじゃな
いかしら」
「あんまり気が進まないけど……一応、聞いてみる」
 悪魔っぽい笑みを浮かべた白沼に、純子は不承不承、頷いた。

「――ていうわけなんだけど」
 純子が話し終わると、町田は歯を覗かせ、呆れたように苦笑した。
「久方ぶりのお招きに、何事かと思って来てみたら、あいつの話とはねえ」
 電話口で、ともに中間テストが終わって、時間に余裕がある内に会いたいねという風
な話の振り方をした結果、町田が純子の家に来ることになった。
「ほんとに会いたかったのよ。たまたま、白沼さんに言われたのが重なって」
 ケーキと紅茶を勧めながら、純子は必死に訴えた。
「はいはい。でもって、純子、あなたは私とあいつとの仲がどうなってるか、気にして
ると」
「ま、まあね。芙美だって、学校での唐沢君のこと、気に掛けてるんだし」
 時折、電話したときに、学校での唐沢の様子を伝えてはいた。包み隠さずを心掛けて
いるので、この間のパン屋での一件も知らせてある。
「知っての通り、近所だから、顔はよく合わせるわけよ。デートしてるところを見掛け
る頻度が、めっきり減ったわ。ゼロと言ってもいいんじゃないかな。単に、行動範囲を
変えただけかもしれないけれど」
「見てる限り、校内では女子と親しく話してても、校外のデートはしてないと思う」
「心を入れ替えたとでも?」
「……分かんない。ただ、勉強の時間を確保するのには、苦労してるみたい」
「まったく、無理してレベルの高いところに入るから」
「でもね、最近はコツを掴んだみたいなこと、言ってたような」
「純、それは何のフォローなんだね? 唐沢の立場からすれば、逆効果になってる気が
するんだけど」
「えっと。フォローというか、現状報告の最新版」
「ふうん。それで、あいつは白沼さんとはうまくやってるの? 委員長として」
「うまく……立ち回ってる感じ?」
「あははは。その表現で、様子が目に浮かぶわ。白沼さんの苦労ぶりまで。だからっ
て、弱みを握りたがるのはねえ。気持ちは理解できても、やり過ぎ」
「やっぱり、そうだよね」
「だいたい、そんな弱みになるようなネタがあったら、私が使ってる」
「え」
「実はネタがないわけじゃないんだけど、私にとっても地雷だから。一緒になっていた
ずらしたりね。にゃはは」
「本当に、昔から仲がよかったのね」
「昔は、よ。こーんぐらいの頃だけ」
 町田は手のひらを使って背の高さを表す仕種をする。座っているから今ひとつぴんと
来ないけれども、幼稚園児ぐらいだろう。
「あいつがもて自慢するようになってからね、おかしくなったのは。あ、一個思い出し
た。これなら私は関係ないから、言えるわ」
「うん? 唐沢君の弱みの話?」
「まあ、小っ恥ずかしい話。あれは小学……四年生のときだった。知っての通り、小学
校は別々だったけど、お祭りなんかでばったり出くわすこともあるわけよ。あの年も同
級生の女子を大勢引き連れていた。私の方は友達、女友達二、三人と一緒で、穏やかに
すれ違うつもりだったのに、向こうが『女子ばっかで楽しいか』みたいな挑発をしてき
たから、こっちもつい」
 芙美と関係のない話じゃないのかしら?と疑問に感じないでもなかった純子だった
が、スルーして聞き役に徹した。
「『そっちこそ、毎度毎度同じ顔ぶれを引き連れて、よく飽きないわね』的なことを言
い返してやったの。そうしたら、『じゃあ、おまえらこっちに入れよ』って」
「それが恥ずかしい話?」
(単なる唐沢君の照れ隠しなんじゃあ……)
 純子のさらなる疑問を吹き消すかのように、町田がすかさず言った。
「まだ続きがあるのよ。上からの物言いがしゃくに障ったんで、私らも応じないで、適
当に辺りを見渡しながら、『その辺の女の子をつかまえれば』って言ってやった。それ
を唐沢の奴、真に受けてさ。私が顎を振った方向の先にいた、女の人に声を掛けに走っ
たのよ」
「女の人って、まさか、大人の?」
「そうよ。自信があったんだか知らないけど、当然、相手にされるはずもなく、当たっ
て砕けていたわ」
「唐沢君、無茶するなぁ」
 それだけ芙美を気にしているから――そう解釈できると思った純子だが、敢えて言葉
にはしまい。
(芙美も分かってる。第三者があれこれ口出しするときは過ぎてる。あとは二人のどち
らかが行動するだけ。芙美には唐沢君の普段の様子を伝えているけれど、特に気持ちを
動かされた感じはないのよね。そうなると、唐沢君が行動を起こすしかないんだろうけ
れど)
 かつての自分の鈍さ加減を思うと、無闇に焚きつける気になれない。相羽との件で
は、周りに気を遣わせていた意識は充分すぎるほど自覚している純子なので、今さら自
分が気を遣ったり気を揉んだりする分は厭わない。
(芙美も唐沢君も多分、お互いの気持ちを分かってて、意地を張ってる。どちらか一方
じゃなく、二人が揃って素直になれるタイミングじゃないと難しいかなあ)
 知らず、芙美の顔をじっと見ていた。視線に気付いた相手から、「唐沢のことなんか
より」と話題を転じられた。
「相羽君との仲を聞かせてほしいな。おのろけでも何でもいいから」
「誕生日プレゼントを贈ったわ」
「ほう。何を」
「万年筆と五線譜ノートを。ただね、相羽君てば、自分の誕生日を忘れていたいみたい
で」
「ふうん? よっぽど忙しいのかねー。忙しさなら、純子の方が上だと思ってたけど」
「分かんないけど、私だけ忙しいのよりはずっといい。だって、会えなくなって、私だ
けの責任じゃないもんね。あは」
「ジョークでも悲しいわ。その分じゃ、まともなデート、ほとんどしてないんだ?」
「うん。少ないからこそ、一回が濃くなるようにがんばってるから」
「……濃いって、まさか……」
「ん?」
「……あんた達二人に限って、あるわけないか」
「何が」
「デートの回数が少ない分、一回を濃くしようとして一気に進展するようなこと、ある
わけないわよねって言ったの」
「――な、ないけど」
 キスをしたことが頭を何度もよぎる。一気に進展とまでは言えないだろうけど、純子
達にとっては大きな進展に違いない。
「どうしたん? 顔が赤いよ」
 顎を振って指摘する町田。純子が「何でもない」と急ぎ気味に答える。
「さっきも言ったように、今日の私はのろけも大歓迎よ。自慢でも何でも来い」
「自慢するようなエピソードは、まだ……」
「あらら、残念。うらやましがらせるような話を聞かせてくれたら、私も早く彼氏を作
りたいなーって思ったかもしれないのに」
「ほんと? ようし、それなら楽しい話ができるよう、デートに精を出すわ」
 お互い、どこまで本気で言っているのか、当人達さえも分からないやり取りで終わっ
た。

 町田と久しぶりに顔を合わせて話をした翌日、純子は学校に着くなり、白沼の姿を探
した。唐沢の弱みについて、成果は大してなかったが、一応、伝えておこうと思ったか
ら。
(唐沢君は教室に来るのが遅い方だから、いない内にすませちゃお)
 そんな考えを抱いて教室に入った。途端に、当の白沼が気付いて、駆け寄ってきた。
(えっ、白沼さん、そこまで知りたがっていたなんて。すぐに教えたいけれども、で
も、唐沢君がいないことを確かめてからにしないと)
 慌てて教室を見渡すが、確認し終えるよりも早く、白沼が目の前に立った。
「あ、あの」
「ちょっと」
 袖を引っ張られ、そのまま二人して廊下に出る。鞄を机に置く暇すらもらえない。
「唐沢君、教室にいるの?」
 廊下に連れ出されたことをそう解釈した純子。だが、白沼はあからさまにきょとんと
した。
「何の話? 私はあなたに仕事の話をしたいの。さあ、もっと隅っこに行かなきゃ聞か
れるかもしれないでしょうが」
 校舎の端っこ、壁際まで来た。人がいないわけではないが、通り過ぎるばかりで、誰
も気に留めまい。
「仕事って」
「加倉井舞美の事務所から、直接うちの方に打診があったのよ。夏休みの期間中、テラ
=スクエアのキャンペーンのお手伝いをさせてもらえませんかって」
 話が見えない。とっても意外な名前が出て来た気がする。
「加倉井舞美って、あの加倉井さん?」
「どの加倉井さんか知らないけれども、加倉井舞美はあなたと面識があるのよね? 一
緒にやりたいと言ってきたのが昨日の夜だそうよ。今頃、正式な連絡があなたの事務所
にも入ってるはず。そっちは何か事前に聞いていた?」
「何にもないわ。うーん」
 思わず腕組みをしてしまった。
(加倉井さんがまた一緒に仕事をしたがっていたのは、私――風谷美羽ではなく、久住
とよね。それがまた、どうして私と)
「涼原さんにもわけが分からないのね? 加倉井舞美ほどのタレントが、向こうから使
って欲しいと言ってくれるなんて、ありがたい話だと思うわ。でも、異例でしょう、こ
ういうの。何か裏があるのじゃないかって気になったから、とにもかくにもあなたに事
情を聞こうと考えたわけ。それなのに、その様子じゃねえ」
 がっかりしたのとあきれたのが綯い交ぜになったような、徒労感漂う笑い声が、白沼
の口から漏れ聞こえた。
「白沼さんのところは、この話を受けるつもりは?」
「基本的にはあるみたいね」
「だったら、私、じかに聞いてみようかな」
「個人的に連絡取れるの?」
「え、ええまあ。電話番号やメールアドレス、教えてもらったから。ただ、メモリに入
れてないし、覚えてないから、一旦帰らなくちゃいけないんだけど」
「え、メモリに入れてないって、どうしてよ?」
「万が一、私が携帯電話をなくしたら、迷惑掛かるかもしれないから、芸能人の分は入
れないようにしてる」
「ロックしておけばいいんじゃないの。あー、はいはい、解除されるかもしれないと。
そうよね」
 一人で勝手に納得した白沼は、少し考える時間を取った。
「……今すぐ聞けないのなら、あんまり意味ないわね。あなたのとこのルークにも直接
話が行くのは間違いないから、その返事として問い合わせる方が礼儀にも叶うでしょ
う」
「そうかもしれない。白沼さん、凄い。業界にすっかり慣れた感じ」
「そう見えるのなら、少し分かってきただけよ。全体を大まかに見て意見を述べるの
と、連絡係をやってるだけなのに、やたらと調整に手間が掛かって面倒なのはよく飲み
込めたわ」
 白沼は大きく嘆息すると、視線を純子に向け、じっと見てきた。
「よくやってるわね、こんな仕事」
「わ、私は担がれてる方だから、手間とか面倒とかはあんまり。端で見ていて、大変だ
なあって思うし、スタッフさん達に支えてもらっているというのは、凄く感じてるけど
ね」
「じゃあ楽なの? 楽なら私もチャンスがあればやってみようかしら」
 本気とも冗談ともつかぬ白沼の意思表明に、純子は一瞬戸惑った。
「楽とは言えないけど、白沼さんがやる気なら応援するっ」
「ばかね、冗談よ」
「あ。そうなの。もったいない……」
 純子は本心から言った。少なくとも、美人度という尺度で測れば、白沼の方がずっと
美人だろう。
「ありがと。でもね、私、何がだめって、あの撮影関係の待ち時間の長さがだめ。まっ
たくの無駄ではないんでしょうけど、無駄に過ごしてる感じが耐えられないわ」
 白沼はふと思い出したように時計を見た。そして素早く行動を起こす。
「急いで戻らなきゃ。無駄話のせいで」

 一時間目のあとの休み時間に、加倉井から打診があった件について、相羽にも聞いて
みた。だが、意外と言っていいのか当然とすべきか、彼はこの話に関して何も知らなか
った。
「えらく急な話だね。夏休みと言ったら、あと一ヶ月くらいしかない。もうほとんどキ
ャンペーンの中身は決まってるだろうに」
 話を聞いたばかりでも、分析力に長けた相羽。すぐに不自然なところを洗い出してく
れた。
「あ、そっか。性急さがおかしかったんだわ。それもあって、何となく裏がありそうな
印象を受けたんだ」
「ねえ、純子ちゃん。加倉井さんの話は事務所に正式な形で届くだろうから、そのあと
でいいんじゃない?」
「う、うん。昼休みにでも電話して、聞いてみようかな」
「よし、決まり。実は、こっちも話があってさ。今朝、鳥越に会ったときに言われたん
だ。天文部の集まりに顔を出してくれって。合宿の説明がある」
「あっ、忘れかけてた。だめだ、私」
「そう自分を責めなくても」
「違うのよ。それだけじゃないの。昼休みの定点観測。電話を掛けることばかり考え
て、すっぽかすところだった」
 反省しきりの純子は、昼は屋上、放課後は天文部部室に行くことを頭の中にしっかり
刻んだ。
 ……刻んだのだが、合宿の話は思い掛けず、鳥越の方から足を運んでくれた。二時間
目の終わったあと、わざわざ教室までやって来た次期副部長は、「待っているだけだ
と、本当に来るか不安だから」とやや嫌味な、しかし当然とも言える前置きをした。
 聞き手は純子と相羽と唐沢の三人だ。と言っても、長くはない休み時間故、鳥越は必
要事項を記したプリントを用意しており、手早く配った。
「日程はそこにある通りで決まり。絶対に動かせないから。他に分からないことや、こ
うして欲しいという希望があれば、なるべく早めに言ってくれ。できれば今の役員に」
「はーい」
「費用のことも書いてあるけど、割り当ての活動費でまかなえる範囲に収まったから。
ただし、二日目のバーベキューを豪華にしたいなら、カンパ随時受け付け中」
「つまり、不良部員の俺達に多めに出してくれと」
 唐沢が緊張の色濃く出た笑みを浮かべて尋ねる。鳥越は対照的に、邪気のない笑みで
応じた。
「いやだなあ。そんなつもりは全然。ただ、合宿を楽しく過ごすには、まずは食事の充
実からかなと思ったまでのこと」
「食事の話はおくとして、一つ聞きたいことが。いい?」
 純子はプリントを持っていない方の手を挙げた。鳥越は相好を一層崩した。
「答えられるかどうか分かんないが、受け付ける」
「今回は皆既日食がメインなんでしょう? でも、夜は夜で観測するの? 流星群の時
期に重なるはずだし」
「もちろん、するよ〜。機材の運搬が大変だけど、副顧問の作花(さっか)先生がマイ
クロバスを出すと」
「そうなんだ? それで、細かいスケジュールや観測対象は、またあとで決めるのね」
「そうだね。まあ、夜の観測対象は、やぎ座流星群及びみずがめ座流星群が本命で決ま
りだよ」
「月齢の条件も、まあまあいいんだっけ。楽しみ」
 眼を細める純子の横では、唐沢が相羽の肩をつついていた。
「話が半分ぐらいしか分からないんだが」
「僕はだいたい理解してる」
「うーむ、こんなんで参加していいのか、不安になってきたわ、俺」
 唐沢のぼやきは、鳥越の耳にも届いていた。
「不安なら、テストしてあげようか」
「いやいや、遠慮しとく! 部活の中で教えてくれ」
 唐沢が椅子から立って逃げ出す格好をしたところで、タイムアップとなった。


――つづく




#517/598 ●長編    *** コメント #516 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/29  22:13  (384)
そばにいるだけで 67−3   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:12 修正 第2版
「それなんだけどねえ」
 昼休みに三度電話を掛けたがつながらず、太陽の観測に顔を出す必要もあったため、
連絡が取れなかった。なので放課後、純子は相羽とともに事務所に寄って聞いてみた。
部屋に入るや開口一番、「加倉井さんのところから話があったと聞きましたが」と切り
出すと、市川は明らかに困り顔で反応した。
「アルファグループのプロジェクト的には、細かい部分は進めながら決めていく方針だ
から、よそ様のタレントが絡んできても、よい使い方を考えるだけなんでしょうけれ
ど、うちにとってはあんまり美味しくない話」
「あ、いや、そういう部分の問題じゃなくて、そもそも何で加倉井さんがテラ=スクエ
アのキャンペーンに協力したいと言い出してきたのか、理由があるのなら知りたいなと
思ったんです」
「うん、その辺のことならさっき、と言っても一時間以上前だが、連絡をもらった。テ
ラ=スクエアの仕事で協力する代わりに、久住淳との将来の共演を確約して欲しいとい
うご要望だったよ」
「うわ」
 そういう狙いだったのね。一応、納得するとともに、冷や汗をかく思いもする。
(もし朝の段階で加倉井さんとホットラインが通じていて、迂闊にOKの返事をしてい
たら、大変だったかも)
 好ましく思っていないのは、市川も同様だった。回転椅子を軋ませ、事務机越しに身
振りで、高校生二人にソファに座るよう促す。純子と相羽はテーブルを挟み、向き合う
形で座った。
「そんなこと言われたってねえ、先方やアルファさんにはメリットがあっても、うちに
はほとんどないから。そりゃあ、加倉井舞美との共演は魅力的な話ではあるけれども、
その加倉井舞美とあなたが夏休みの間中、しょっちゅう顔を合わせていたら、さすがに
ばれる恐れが高まる。リスクが大きい」
 市川の深い深いため息を引き継いで、杉本がデスクから顔を起こして言った。市川の
デスクとは直角をなす位置におり、純子からは斜め後ろを振り返らないと杉本の姿が見
えない。
「せめて、テラ=スクエアでの仕事そのものが、加倉井舞美ちゃんと久住淳との共演な
んていう要望だったならよかったかもしれませんね。だめ元で、こっちから提案してみ
ます?」
「いや、それはそれで不自然になるだろうね。その共演が行われている間、キャンペー
ンガールの風谷美羽がどこかに消えちゃう形になるんだから。どこをつつかれてもおか
しくない理由を用意できるなら、考えてみる余地はあるが」
「だめですよ、断るべきです」
 相羽が不意に発言した。言葉は柔かだが、口調に断固としたものが感じられる。皆が
注目する中、彼は続けた。
「加倉井舞美さんは、久住淳との共演話は遠い将来という形で希望していたと聞いてい
ますが、間違いないでしょうか」
 大人達へ尋ねる口ぶりだったが、これには純子が答える。
「ええ。あの時点で、加倉井さんはスケジュールが決まってる風だったし」
「それなのに、今回の件は若干、話を急いでる気配がある。もしかしたら、別の都合が
新たに加わったのかも。完全に想像だけで話すと、たとえば、加倉井と久住でカップル
として売りたい、とか」
「え! カップル?」
 相羽の隣で叫んでしまった純子。意味がすぐには飲み込めなかった。
「なるほどね。今はあんまり流行らないけれど、昔は結構あった売り出し手法だね。こ
の男優にはこの女優、みたいなイメージを世間に植え付けるわけだ。ゴールデンコンビ
として認識されれば、しばらくはその組み合わせだけで結構売れる」
「中には、本当にカップルになって、結婚するのもいましたねえ」
 芸能の歴史や事情をよく知る市川と杉本は、説明がてらそんなことを言った。
「け、結婚て……絶対に無理じゃないですか。断らないと」
「いや、あの、決定したわけじゃないんだし」
 焦りが露わな純子を、相羽が落ち着かせる。
「でも、当たっているかどうかは別にして、また、加倉井さんからの要望を聞くか否か
とも関係なく、この話自体、僕は拒むべきだと思いますよ」
「理由を聞こうじゃないか、信一君」
 純子に代わって、市川が聞き返した。
「今の加倉井さんと一緒にやったら、純子ちゃんは食われてしまいます」
「そりゃまあ、理屈だね。相手の方がキャリアは上で、トーク力もある。食われて当
然。だが、私の見立てでは、個性は五分と踏んでいる。キャンペーンの内容によって
は、純子ちゃんが勝つことも可能じゃないのかな?」
「加倉井さんの個性を殺すような勝ち方では、だめなんじゃないですか。恐らく、互い
にマイナスになります。キャンペーン自体の勢いを削ぐかもしれない。ですから、どう
してもこの話を受けるのなら、相手を立て、持ち上げることに専念するのがましじゃな
いかって気がします。そういうのって、圧倒的に差がある人と共演するよりも、力が近
い相手と共演するときの方がずっと難しいでしょうけど」
「なるほど。案外、的を射ているかも」
 市川は目を丸くし、感心した風に息を吐いた。
「さすがね、風谷美羽の一番のファンだけはある」
「べ、別にそんなつもりでなくたって、おおよそのところまでは想像が付きますよ」
 市川にからかわれた相羽は、目元が赤みがかった。純子の方をちらっと見て、「1フ
ァンとしては、彼女の気持ちを最優先にしてもらいたいなって思ってます」と、捲し立
てるように市川に進言した。
「分かった。では聞こう。どう?」
 市川は座ったまま、椅子ごと身体の向きを換えると、純子の顔をじっと見てきた。
「私は……加倉井さんと一緒に仕事をしたくないわけじゃないんですけど、テラ=スク
エアとは切り離した方がいいと思うんです。白沼さんが関係していますから」
「ほう?」
「加倉井さんが来ると多分、芸能界の話題が出るし、久住淳についても色々発言するは
ず。中には外に漏れたらまずい話が出るかも。それが万が一、白沼さんの耳に入った
ら、ややこしくなりそう」
「あの子は口が堅そうだし、仕事とプライベートをきちんと分けられるように見えたけ
ど」
 これは杉本の感想。ほぼ印象のみで語っているはずだが、当たっている。
「ゴシップ程度なら問題ないです、多分。心配なのは、久住淳に関すること。下手をし
たら、一人二役、白沼さんに勘付かれるかもしれません」
「彼女、そんなに勘がいいのかい?」
 市川の質問に、純子は軽く首を傾げ、
「分かりませんけど……久住淳として会ったことがあるので、記憶を刺激するような話
題は避けたいんです」
 と答えた。
「ああ、そういえばそうだった。よろしい、決めた。今回は断る。と言っても、うちが
できるのは、共演を断る意思表明くらいで、企業が別口で加倉井舞美と契約する分には
口を出せないけれどもね」
「充分です。よかった」
 純子が笑み交じりに反応すると、市川の行動は早かった。すぐさま電話をかけ始めた
かと思うと、今決定したばかりの判断を先方に伝え、さらに今後もこのプロジェクトに
関しては共演なしでお願いしたいと強く要望を出し、会話を終えた。
「これでよし、と。――ついでに聞いておきたいんだが、純子ちゃん」
「はい?」
「本音のところでは、どうなの。テラ=スクエア関係は脇に置くとして、加倉井舞美と
張り合って――たとえば、同じ映像作品でダブル主演みたいな形で共演して、負けない
自信はあるのかな? 久住へのお誘いはあったわけだし」
「あのー、全然ありません。こと演技に関しては、加倉井さんは尊敬の対象というか」
 あんまり自信のない物言いをすると怒られるかなと懸念しつつ、正直な気持ちを答え
た。さっき相羽が示した見方の通りねと、純子も自覚している。
 果たして市川は、怒りはしなかった。
「だろうね。この場にいない加倉井舞美に気を遣って、『一緒に仕事をしたくないわけ
じゃない』と前置きするくらいだし」
「え、あ、それは」
 口ごもる純子に、市川は意地悪く追い打ちを掛ける。
「けど、それってつまり、演技以外なら勝負になると思ってるんだ、うん」
「ま、まあ、演技に比べたらまだましかなー。あはは」
「そういえば、歌は勝ってたよ」
 市川が言ったのは、五月の頭に催されたライブのこと。思いがけないハプニングを経
て、星崎とともに急遽出てくれた加倉井は、単独でも一曲披露した。
「冗談きついです。リハーサルやウォームアップなしに、あれだけ唄える加倉井さんが
凄い」
「じゃ、今いきなり唄ってみる? あのときの加倉井さんと比べて進ぜよう」
「もう〜、市川さん、やめましょうよ〜。私、これでも学校生活で忙しいんですっ」
「学校生活で“も”、でしょうが。いいわ、相羽君と仲よくお帰りなさいな。しっかり
休んでね」
 急に物分かりよく言ったのは、市川も仕事を思い出したためかもしれない。気が変わ
らぬ内にと、相羽を促し、急いで腰を上げる純子。
「それじゃあ、失礼します」
「――あ。大事なことを伝え忘れてたわ」
 背中を向けたところで、そんな言葉を投げ掛けられた。純子は嘆息し、相羽と顔を見
合わせた。苦笑を浮かべ、二人して振り返る。
「何でしょうか」
「昼過ぎに鷲宇さんから連絡があったわよ。連絡と言うより、報告ね」
 据え置き型のメモ台紙を見下ろしながら、市川は言った。心持ち、穏やかな表情にな
ったような。
「美咲ちゃんの手術が行われて、成功したって」
「えっ――やった! よかった」
 喜びを露わにする純子。隣の相羽は対照的に、「本当によかった」と静かに呟いた。
「帰国はもう少し先になるそうだけれど、順調に回復を見せているとのことよ」
「音沙汰がないから、海外に渡ってもドナーがなかなか見付からないんだと思っていま
した。いきなり聞かされて、びっくり」
「実を言えば、ドナーが見付かったという話もちょっと前にあったんだけれど、あなた
達には伝えずにおこうと決めてたの。気になって、仕事が手に着かなくなる恐れありと
見てね」
 臓器提供が決定したら、ほとんど間を置かずに手術が行われる。仕事が手に着かなく
なるほど、気にしている暇はないだろう。だから、市川のこの台詞の背景にあるのは多
分、手術の結果も併せて伝えたかったのと、万が一にも悪い結果に終わった場合を見越
してのもの……だったのかもしれない。
 ドアからまた引き返してきて、市川のデスクに両手をついた純子。熱っぽく要望を口
にする。
「帰ってくる日が分かったら、すぐさま知らせてくださいね。そして美咲ちゃんに会え
るように、スケジュールを」
「分かった分かった。今日のところは早く帰って、学校の宿題でも片付けなさいな」
 呆れ口調で応じた市川は、まるで追い払うように手を振った。
 純子と相羽は、事務所のある建物を出てだいぶ歩いてから、自分達もあることを知ら
せるのを忘れていたと気が付いた。
「あ――合宿の日程!」
 美咲の手術成功のニュースが、あまりにも吉報に過ぎた。

「そうですか。やはり、遊びに行くのは無理と」
「ごめん!」
 両手のひらを合わせる純子。頭を下げた相手は、淡島と結城だ。
「いいって、気にしなくても。だいたいは予想してた」
 結城が寛容に笑いつつ、言う。昼食後の休み時間、廊下に出てのお喋りは、今の気候
と相俟って、ついつい長くなりがち。
「天文部の合宿参加を純子、あなたが決めた時点で、他の諸々に影響が及ぶのは目に見
えてたわ」
「うー、面目もありません。当の私が、予想できていなかった。罪滅ぼしと言っちゃお
かしいんだけど、今度の土曜の午後、二人に付き合う」
「暇があるの? なら、その時間、私達に使わずに休養に充てなよ」
 結城の言葉に、純子は内心、頭を抱えたい気分になった。次の土曜日を仕事なしにで
きたのは、他の日にちょっとずつ無理をした積み重ねであって、もちろん淡島と結城の
ためにやったことなのだ。
(忙しいことを先に話したのがいけなかったかな。最初に土曜日の件を言って、約束し
ちゃうべきだった)
 後悔しても遅い。ちょっとだけ考え、再チャレンジ。
「私、遊びに行きたい。だから、マコも淡島さんも付き合って。だめ?」
「――まぁったく。あんたって子は」
 結城が両手を純子の頭に乗せ、軽くだがくしゃくしゃとなで回す。
「そういうことなら、付き合うわ。ね、淡島さんも?」
 純子の頭に手を置いたまま、淡島へ振り向いた結城。淡島は、最前の純子よりは長く
考えて、おもむろに口を開いた。
「基本的に賛成、同意しますが……一つ、いえ、二つ、よろしいでしょうか」
「え、何?」
 頭から手をのけてもらい、純子は面を起こしながら応じた。
「まず、一つ目は、涼原さんは補習の方は大丈夫なのでしょうか」
 心配げな淡島に対し、純子は微笑を返しつつ、また少し考える。テストの点数に関し
てなら、赤点にはなっていない。今、心配されるとしたら、出席日数の方だ。同じ科目
の授業を三度四度と続けて欠席するようなことがあれば、必要に応じて補習を受ける。
もちろん、純子だけが特別扱いという訳ではなく、他の人と一緒に受けるので、タイミ
ングもある。
「心配掛けてごめんね。今のところ、大丈夫だよ」
「そうでしたか。今後を見通して、余裕ができたときに補習を先取り、なんてことはで
きないでしょうし」
「あはは、無理無理」
 それこそ、頭がパンクしちゃうんじゃないだろうか。苦笑する純子。
 淡島もつられたように笑みを浮かべ、それから二つ目の件に移った。
「二つ目は、遊びに行くと仮定して、リクエストなんですが。もう一人、連れて行くの
はいかがでしょう」
「うん、いいかも。それで誰を誘う?」
「相羽君ですわ」
 にこにこと笑顔の淡島。純子は対照的に、表情を強ばらせた。
「あのー、淡島さん。相羽君を選ぶのはどういう理由から……」
「もちろん、二人のためを思ってのこと。付け加えるなら、その様子を端から見守りた
いという気持ちもあります」
「うう。それはさすがに嫌かも」
 冗談で言っていると信じたい純子だが、淡島の顔つきからはどちらとも受け取れて、
判断不可能。とりあえず、拒否の方向で。
「相羽君と一緒に行くのが嫌なのですか?」
「そ、そうじゃなくって、相羽君とはまた別の機会に……二人で……」
 純子は結城に視線を送って、助けを求めた。察しよく声が返ってくる。
「ほらほら、その辺にしておきなさいって。純が困ってる」
「そうですか。少しでも一緒にいられる時間を増やして差し上げようという、いいアイ
ディアだと思ったのですが」
 本気だったんかどうか、まだ分からない言い回しをする淡島。
「あ、ありがとう。気持ちだけで充分、嬉しい。でも、相羽君も最近、何だか忙しいみ
たいだし」
「言われてみれば」
 首を傾げ、教室内に注意をやる結城。
「今もいないみたいね。ま、休憩時間にいないからって、単なるトイレってこともある
だろうけど。純、本人に何か聞いた?」
「ううん。前に忙しそうなときは聞いたけど、大げさに騒ぐようなことじゃなかったか
ら、今後は聞かないでおこうって」
「あれま。気にならないの?」
「気にならない、ことはないけど。気にしないようにしてるの。でも三年になってから
も同じ調子だったら、気になるかなあ。だって、進路に関係してそう」
「なるほど。同じ大学に進みたいと」
「そ、そこまではまだ分かんない」
「てことは、芸能界に専念したい気もあるの?」
 結城は意外そうに目をしばたたかせ、声のボリュームを落とした。純子の方はまた慌
てさせられた。
「違うのよ。そんな意味じゃなくてね。進学したい気持ちの方が圧倒的に強いのだけれ
ど、相羽君は多分、目標が明確になってるのに、自分は全然定まってないなってこと。
こう言うと事務所の人から怒られるかもしれないんだけど、学校の勉強以外でも地球や
宇宙について知りたい。仕事を減らして、勉強してみたい。化石を発掘してみたいし、
オーロラや流星雨を観察したい。知りたいこと、体験しておきたいことはいっぱいあ
る。ただ……研究者を目指すのかと問われたら、強くはうなずけない」
「――ほへー。純て、星だけでなく、足元の方にもそこまで興味あるんだねえ。純の星
好きって、相羽君に合わせてるんだと思ってた」
 結城が感心する横で、淡島は「私は分かっていました」とぼそりと呟いた。と、強い
風が吹いて、開け放たれた窓から砂粒が少々飛び込んできた。ちょうどいい折と見て、
窓を閉めてから三人揃って教室に入る。場所を変えても、話題は変わらない。
「化石には、相羽君、関心ないのかな?」
「ううん、相羽君も好きみたい。でも、私が化石に興味持ったのは、相羽君に会う前だ
から、これも合わせたんじゃないのよ」
「そんなに強弁しなくても信じるって。進路の話からずれてきてるし」
「あ。それで……相羽君の一番したいことは音楽だと思う」
「だろうね」
「対して、私の目標がこんな宙ぶらりんな状態だと、相羽君に相談することもできない
し、一緒の大学に行こうだなんて、それこそ言えないわ」
「進路、迷ってるんなら、迷っていること自体を話すのは、ありなんじゃない?」
「うーん。相談したら、回り回って、相羽君と相羽君のお母さんが喧嘩になるんじゃな
いかと想像してしまって」
「い? 何ですかそれは」
 さっきと違い、今度は予想外だったのか、妙な驚き声を上げた淡島。
「私が相談を持ち掛けると、相羽君は、私が仕事を辞めたがってると受け取るかもしれ
ない。そうしたら、相羽君はお母さんに言うと思う。辞めるのは無理でもせめて仕事を
減らしてとか。でも、おばさまは反対するでしょ。契約あるし」
「考えすぎだと思うなあ。相羽君、それくらい承知でしょ。親子喧嘩なんかしない方向
で、純の相談に乗ってくれるんじゃない?」
 笑い飛ばす風に始められた結城の言葉だったが、急にボリュームが下げられた。彼女
の目線の動きを追って、純子と淡島が振り向く。廊下を通り掛かる相羽の姿が、窓越し
に見えた。
「帰って来たと思ったら、またどっか行っちゃった。何を駆けずり回ってるんだろ」
「職員室での用事が済んで、トイレに行っただけでは」
 結城はやたらとトイレ推しだ。それはともかく、確かに方向は合っているが。
(職員室に用事なら、ここに戻って来る途中にトイレあるのよね)
 純子は内心、ちょっとだけ不安を感じた。気にしないように努めても、やはり気にな
る。
「とりあえずさあ、遊びの方の話を決めておきたいな。純は相羽君を誘う、決まりね」
「え?」
 結城の強引さに、呆気に取られてしまった。
「誘っても来られるかどうか……ほんとに忙しいみたい」
「忙しいあんたが言うなって話だけど。相羽君が来られなくても、別にかまわないか
ら、私らは。誘うことが大事」
「うー。分かった」
「成功確率を少しでも高めるには、遊びの内容を相羽君の好みに寄せるのと、それ以上
に、誘うときの純の格好が重大要素になるね」
「格好って……」
 苦笑いを浮かべた純子だったが、次いでおかしな想像をしてしまい、顔が火照るのを
感じた。友達二人に気取られぬよう、手のひらで頬をさする。
「そ、それで、どんなことして遊ぶ? 二人のやりたいこと言ってよ。私が付き合うっ
て言い出したんだからね」
「ぱっと浮かんだことが一つあります」
 淡島が言った。水晶玉にかざしているかのように、宙を動く手つき。
「流行り物ですが、VRの技術を取り入れたプラネタリウムが先頃、オープンしたはず
です」
「あ、それ、知ってる。イタリア発のプラネタリウムのショーに対抗して、作られたや
つだね。文字通り、星に手が届く感覚が味わえるとかどうとかって。私も興味あるな。
星なら純も相羽君にもいいし。ただ、料金が結構高いのと、場所が遠くなかった?」
 結城の反応が早かったので、黙っていたが、純子ももちろん知っていた。天文好き
云々以前に、とある伝があった。そのことを言い出せない内に、淡島が答えている。
「料金は忘れましたが、距離は確か……一時間半ほど掛かると記憶しています。電車だ
けで一時間でしたか。あ、でも土日にはホリデー快速みたいなのがあったかもしれませ
ん」
「何にしても電車で一時間は、ちょっと時間がもったいない気がするねえ。あー、で
も、純にはちょうどいいか」
 にまっ、と笑い掛けられ、純子はきょとんとなった。
「何で?」
「移動中、睡眠に充てられる」
「そこまで寝不足に悩まされてないよー」
「休み時間、スイッチ切ったみたいにぱたっと寝てること、しょっちゅうあるくせに」
「あれは時間の有効活用と言ってほしい……」
 実際、寝ているところへ話し掛けられたら起きるのだから、という補足反論は心に仕
舞っておく。
「ま、移動時間はいいとしても、入場料が」
「あ、チケットの方は、私に任せて」
「だめだよ、純」
「まだ言ってないけど」
「私達の分を出すとか言うつもりじゃないの。いくら普通のバイト以上に稼いでいて
も、それはだめだよ」
「違うって。実はそのプラネタリウムの運営会社と、お仕事でちょっとつながりがあっ
て。割引券をいただいたの」
 ぼかして言った純子だが、その運営会社とはテラ=スクエアの関連グループだ。割引
チケットは白沼から直に渡された物で、「くれぐれも相羽君と二人きりで行くことのな
いようにっ」と、釘を刺されてもいた。尤も、今の白沼は二人の仲を一応、曲がりなり
にも認めてる訳だし、二人きりで行くな云々は、万が一にも芸能ネタになるのを避ける
ようにしてよねって意味らしい。
(マコと淡島さんが一緒なら、相羽君を誘って行っても問題なし、だよね)
 渡りに船という言葉を思い浮かべつつ、純子は結城らの反応を待った。
「……お金は自分で出す物と言った手前、非常に言いにくいわけですが。その割引券は
何枚あるの?」
「五枚。あ、でも、そもそも一枚で五名まで適用可よ」
「割引って何パーセントです?」
「えっと、七十パーセント引き。有効期限はオープンから一年。ただし、オープンから
半年間は、日曜を含めた休日のみ適用除外で使えない。混雑が予想されるからかな」
「おー、土曜ならセーフ。素晴らしい」
 結城は純子の両手を取り、「お世話になります」と頭を下げた。無論、わざとしゃち
ほこばって見せているのは純子にも分かってるのだが、元々もらい物なのだから、感謝
の意を表されても居心地がよくない。だから、言うことにした。
「白沼さんからもらったんだから、お礼なら白沼さんに言って」
「へえー」
「そういうことでしたの」
 結城と淡島は順に反応を示し、続いて白沼の席に目をやった。が、不在。純子はそれ
を承知の上で言ったのだけれど。

            *             *

 この場にいない白沼に代わってというわけでもないが、純子と結城と淡島の会話に、
じっと耳をそばだてていたクラスメートが一人いた。
(あの様子だと、相羽の奴、まだ言ってないな)
 自分の椅子に収まる唐沢は頬杖をつき、顔を廊下とは反対の方に向けた姿勢でいた。
聞き耳を立てていることに、勘付かれてはいないはず。
(ちょうどいいタイミングを計ってるに違いないけど。俺が口を挟むことじゃないかも
しれないけど)
 すぼめたままの口から、ため息を細く長く吐き出す。
(ああやって、相羽を誘って遊びに行く相談をしているのを聞くと、少し心が痛むぞ。
本人に聞かせてやりたい)
 相羽自身が純子達の先の会話を聞いたとして、その場で留学のことを打ち明けること
は、まずないだろう。それでも聞かせてやりたい。
(合宿までに伝えるつもりとか言ってたが、ほんとにできるのかね? ぎりぎりまで引
き延ばすつもりだとしたら、それはちょっとずるいぞ、相羽。相手にも考える時間てい
うか、気持ちを整理する時間をやれって)
 今度相羽と二人で話せるチャンスがあれば言ってやろうかと心のメモに書き留める。
ただ……それくらいのことを分からない相羽だとは考えにくいのもまた事実。
(早く決着してくれないと、俺まで気になるんじゃんか。おかげで、勉強も何も手に付
かねーよ)
 いざとなれば、俺の口から――と思わないでもない唐沢だが、実行に移すにはハード
ルが高い。高すぎる。
(そういえば)
 会話している三人の内、淡島に目を留めた。
(淡島さんは占いが得意なんだっけ。あの子に相羽の留学話を打ち明けて、占いの形で
涼原さんに伝えてもらう――)
 一瞬、悪くはないアイディアだと思えた。
(淡島さんがそんな芝居、できるかどうかは知らないが、涼原さんの受けるショックを
和らげる効果はあるんじゃないか。それに、相羽だって、直に打ち明けるよりは、気が
楽になるんじゃあ……)
 ただ、懸念がなくはない。
(涼原さんにしてみれば、相羽から自主的に話してほしいだろうなあ、きっと。女子の
気持ち、何でもかんでも分かるとは思っちゃいないが、これくらいは想像できる。占い
で示唆されて、相羽に確かめるなんて真似はしたくないに違いない)
 やっぱり、あんまりいいアイディアじゃないな。唐沢はこの案は捨てることにした。
(相羽から打ち明けるのを早めさせられたらいいんだが。あいつ、誰に背中を押された
ら、そうなるんだろう? 一番は母親だろうけど、でも、方法が思い付かん。俺が関与
できるのはクラスメート……白沼さんとか。確か今、彼女の親父さんだかの会社のキャ
ンペーンの仕事を、涼原さんがしているんだっけ。その線を突っつけばどうかな。涼原
さんがショックを引き摺って、仕事に影響が出たら迷惑だから、少しでも早く打ち明け
て!とか。……待てよ。それ以前に白沼さんて、相羽のことを完全にはあきらめていな
い雰囲気なんだよな。相羽の留学話を教えたら、彼女自身が動揺するかもしれん)
 状況を徒にややこしくするのは避けべき。賢い方法を見付けたい。
(あと頼れそうなのは、うーん、うーん……あ)
 不意に、一人の顔が浮かんだ。女子、でもクラスメートではなく、ここ緑星の生徒で
すらない。唐沢の幼馴染みで、ご近所さんだ。
(芙美。あいつにこのことを話したら、何かいい案を出すかな?)

――つづく




#518/598 ●長編    *** コメント #517 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/30  01:11  (449)
そばにいるだけで 67−4   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:13 修正 第2版
            *             *

「何、その紙袋は」
 町田に指差された唐沢は、右手をくるっと返して、紙袋表面のロゴが見えるようにし
た。
「鈴華堂の新作で、クロワッサン風どら焼き。芙美が好きそうだなと思って」
「……微妙」
 町田の視線が手元から上へと昇ってきた。唐沢の目にぴたりと照準、否、焦点を合わ
せる。
「クロワッサンと言えばバターたっぷりで、カロリー高そう。そもそも気味悪い。何の
狙いがあって、あんたが私に和菓子を買ってくるのよ」
「そりゃあ、久々の訪問になるから、手土産があった方がいいだろうなと思って」
「嘘。来るときに手土産を携えていたことなんか一度もなかったのが、急にこんな風に
するなんて、絶対に怪しい。何かあるわね。私の直感がそう告げている」
「とにかく入れてくれよ。玄関先で押し問答するほど、嫌われてるわけ、俺って?」
「……どうぞ。誰もいないから」
 言うだけ言って、先に入る町田。唐沢はそそくさと続いた。
「制服のまま来たってことは、学校帰り?」
「うん、まあ。家に、顔は出したけどな」
「それだけ急いで、ここに来るなんて、一体どんな用事よ」
「あー、話の前にお茶、入れてくんない? 俺もこの菓子、味見しておきたい。よさげ
だったら、他の女子に勧める」
「〜っ」
 文句を言いたげな町田だったが、黙ったまま唐沢をダイニングに通すと、自らはキッ
チンに立った。
「日本茶? コーヒー?」
「改めて問われると迷うな。洋菓子なのか和菓子なのか、はっきりしない物を買ってし
まった」
「コーヒーね。インスタントだと後片付けが楽だから」
 勝手に決めて進める町田。背を向けたまま、唐沢に問うてきた。が、その声とやかん
に水を満たす音が被さり、唐沢は聞き取れなかった。
「何て言った?」
「用事ってもしかして純子のこと?って聞いた」
「どうしてそう思うんだ」
「そりゃあ、今現在、あんたから私に直接関係のある個人的な用事があるとは考えにく
い上に、このお菓子」
 と、町田は紙袋から取り出した個包装のどら焼きを、皿にそのまま載せ、唐沢の前の
テーブルに置いた。
「鈴華堂の『すず』から、『涼原』を連想した。それだけ」
 そう説明されて唐沢も、無意識の内に鈴華堂へと足を運んでいたのかもしれないなと
感じた。
「で、当たってるのかしら」
 聞きながらコーヒーカップにお湯を注ぎ終えた町田は、テーブルまで慎重に運んで来
た。唐沢が目の前に置かれたカップに目をやると、お湯の量が若干、多かったようだ。
揺らすとこぼれかねない。
「当たってるよ。おかげで段取りが狂っちまった」
「段取り?」
 唐沢の正面に座り、自身の分の菓子を空けた町田は、手つきを止めて聞き返した。
「こっちの話」
 コーヒーを前に、“お茶を濁した”唐沢は、その段取りを練り直しに掛かった。元
は、以前に相羽の留学話が出た頃のことを話題にして、当時の相羽が純子に前もって打
ち明けるべきだったかとか、女子の気持ちとしてはどうされるのが最善なのかとか、そ
ういった話をしつつ、流れを見て、現在の留学について口外してみるつもりでいた。
(それなのに、涼原さんに関係することだと先に看破されちゃあ、やりにくいじゃない
か。かといって、他にきっかけはありそうになし。ここは一つ、正面突破で)
 心を決めた唐沢は、気持ち、背筋を伸ばした。相手を見据える視線も真っ直ぐにな
る。
「何よ」
 変に映ったのか、町田が速攻で聞いてきた。
「芙美は今でも口が堅いよな」
「うん? そりゃまああんたと比べたら」
「客観的にでも堅いだろう。そうと見込んで打ち明けるんだからな」
「――分かった。他言無用ね」
 唐沢の真っ直ぐさが伝わったか、町田も居住まいを正した。
「昔、相羽が外国の学校に行くかもって話があったのは覚えてるか」
「もちろん。居合わせたわけじゃないけれども、かなり驚かされたし、記憶に残って
る」
「そのときの縁が、今でも続いているらしいってのも分かってるよな。エリオット先生
のこととか」
「うん」
「どうやらその縁がまた強まったみたいなんだ。はっきり言えば、相羽の奴、J音楽院
への留学を決めたって、俺に伝えてきた」
「えええ? まじ? 担いでんじゃないでしょうね」
 途端に疑いの眼をなす町田。唐沢は肩をすくめ、大げさに嘆息した。
「驚きよりも疑いの方が大きいとは、よっぽど信用されてないのね、俺」
「だって、あまりにも突飛だから……」
「悪ふざけでこんなこと言わねえって。で、問題は、相羽はまだ言ってないんだわ、涼
原さんに」
「……おかしい。普通、恋人が一番でしょうに。何でまたあんたに」
「知らんと言いたいところだが、理由は一応ある。あいつが留守の間、涼原さんの護衛
役を頼まれた」
「え? できるの? 見かけ倒しのくせして」
「ひどいなあ。小学校のときの体育で相撲をやったとき、俺、いい線行ったんだぞ。ク
ラスで二番ぐらい」
「どういうアピールよ。あんたは小さな頃からテニスやってて、腕だけは筋肉ついてた
から、そのアドバンテージで勝てただけじゃあないの?」
「そういう説もある」
「まったく。護衛云々は分かったわ。相羽君が純子に言ってないのは確かなのかしら」
「俺に護衛を頼んできた時点で、まだ言ってなかったのは間違いない。その後は分から
ないが、打ち明けたなら涼原さんの態度に出ると思うし、相羽だって俺にそのことを知
らせてくると思う」
「……」
 カップに視線を落とし、沈黙した町田。その様子を前にして、唐沢も黙る。
(事情を把握したところで静かになるってことは、やっぱ、難しい問題なんだな。悪い
な、巻き込んでしまって)
 今からでも「嘘でしたー」とか言って、なかったことにしてやろうかという考えがよ
ぎる。もしそんな行動に出たら、ぶっ飛ばされそうだが。
「日にちは?」
 目線を起こした町田の質問を理解するのに、少しだけ時間を要した。
「うん? ああ、相羽が行く日ね。八月の早い段階のはずだ」
「あんまり時間ないわね。送別会すら開く暇がないかも」
「おいおい、心配するとこ、そこか?」
「うるさい。考えてるのよ。あんたとしては、どうしたいのよ」
「当然、相羽の口から早く伝えさせて、涼原さんに心の準備をしてもらいたい」
「基本的には賛成だけど……今、純はどのくらい仕事やってるんだろ?」
「俺に分かるわけが。てか、そんなこと気にする?」
「当然でしょ。ショックを受けた純が、仕事も何も手に付かなくなることだってあり得
る。そう危惧してるの」
 言われてみて、自分も多少は考えていたんだっけと内心で首肯する唐沢。表には出さ
ず、「その辺は、相羽のお袋さんがうまくやるに決まってる」と適当に答えた。
「それもそっか。相羽君の留学を認めた段階で、純子の仕事のことにも考えが及んでい
るはず。……でも、最終的には純子の気持ちの問題だわ。フォローが必要になるかも」
「あー、そんときは芙美ちゃん、頼む。他の二人――富井さんと井口さんも呼んで」
「気軽に言ってくれる。あーあ」
 テーブルに両肘を突き、組んだ手の甲側に顎を乗せた町田。
「そんなことよりも、相羽君に、純子へ打ち明けるよう促す方法よね。……純子の方に
それとなく仕向けて、純子から尋ねるように持っていく?」
「うーん、涼原さんから直接問われたら相羽も正直に言うだろうけど。それって事が済
んだあと、俺達涼原さんから恨まれないか? 知っていて隠していたのねって」
「恨みはしないでしょうけど、気持ちはよくないかも」
「そういうのは避けたいよな。……食わないのかな?」
 ほぼ忘れかけられていたクロワッサン風どら焼きを、真上から指差した唐沢。町田は
黙って、一口分をちぎり取った。
「……悪くはない。けど、やっぱりカロリーが気になる風味だわ」
「次はフルーツを使ったやつにでもするか」
「果物の糖分も、ばかにはできないのよ」
 唐沢もそのぐらい知っている。言い返そうと思ったが、またまた脱線が長くなるのは
考え物なので踏み止まる。
「さっき話に出た、相羽君のお母さんに促してもらうのが、一番安心できる線だと思
う。ただ、端から見て相羽君とこって、自主性を重んじる感じが強い気がしない?」
「まあ同意する。少なくとも俺のとこよりは」
「だから母親として、ぎりぎりまで待つんじゃないかな。いつがタイムリミットのライ
ンなのかは分からないけど」
「下手すると、相羽が涼原さんに打ち明けなくてもよし、旅立ってから伝えるとか考え
ていたりして。自主性を尊重するってのは、そういうことだろ」
「間接的に仕事への影響が予想されるんだから、さすがにそれはないと思う。……人の
心情を推測してばかりじゃ始まらないわね。いっそ、私達で相羽君のお母さんにお願い
してみる?」
「……そこまでやるのって、相羽を直にせっつくのと変わらない気がするぞ」
「じゃあ、そうしようじゃないの」
「ん?」
「あんた、純子から恨まれるのは嫌でも、相羽君からならちょっとくらい恨まれたって
平気でしょ?」
「平気じゃないが、『これまでいい目を見てるんだから、ちったぁ悩んで苦しめ!』く
らいは思ってる」
 割と本心に近いところを吐露した唐沢。町田は口元で意地悪く笑ったようだ。
「それなら、こういうのはどう? 相羽君を早く知らせざるを得ない状況に持ってい
く。例えば、『純子が、相羽君のお母さんが海外留学の本を持っているのを見て、気に
なっているみたいなの。何かあるんだったら、早くきちんと言った方がいいんじゃな
い?』とか」
「うむ。効果はありそうだが、直球勝負だな」
「今のは即興だから。もっと遠回しに、純子の目の前で、誰か男子が相羽君に九月以降
の予定を聞く場面を作るってのもいいんじゃない? 曖昧に返事するだけの相羽君を目
の当たりにして、純子は妙に思って聞く」
「うーん、そっちの方がましかな」
 チャンスがあれば試してみよう。でも、留学話を知っている自分が相羽の前で知らん
ぷりして予定を聞くわけにはいかないので、誰かに頼む形になる。
「実行に移すのなら、早めにね」
 唐沢の頭の中を覗き見たかのように、町田が言った。
「早くしてくれないと、私、言ってしまいそうだわ」
「おい、他言無用だからな」
「分かってるわよ。正直言って、久仁香達でさえ、相羽君が海外留学するって知ったら
泣くかもって思う」
「――それなんだけど、白沼さんはどうなんだろ」
「うん? 泣くかどうか? 知らない。ただ、人づてに知った場合、真っ先に相羽君の
ところに飛んで行って、確認しそうだわ。それか、純子に詰め寄る。『何でしっかり引
き留めておかないの』とか何とか言って」
 容易にその場面が想像できて、ちょっと笑った。
「ありがとな。相談に乗ってくれて。参考にさせてもらう」
「どうぞどうぞ。私だって、今まであの二人には何かと気を遣わされて、その挙げ句に
幸せにならないってんじゃ許さない。そういう気持ちあるからね」
 意見の完全な一致をみた。唐沢は言葉にこそしなかったが、思わず微笑んでいた。

            *             *

 VRのプラネタリウム体験は、想像していたのとは違ったところもあったが、充分に
楽しめた。宇宙旅行をしているような気分を満喫できて、でも映像酔いを起こすような
ことはなく、これならしばらくはお客さんが途切れることはなさそう。
「それで……」
 相羽は懐中時計を仕舞いつつ、面を起こした。エントランスホールは人の入れ替わり
の波が起きていて、下手に動くと離ればなれになりそうだし、突っ立っていては邪魔に
なる。だから、純子達四人は壁に半ばもたれかかるようにして横並びに立っていた。
「このあとはどうする予定なの?」
 前々日、女子から急に誘われた相羽は、今日の行程について何も聞かされていない。
「帰りの時間を計算に入れると、たっぷり余裕があるわけじゃないけど、折角だから話
題のスイーツでも」
 隣に立つ純子を二つ飛び越え、結城が答える。
「厳密には、みつき前まで話題になっていた、今は流行遅れのスイーツです」
 間にいる淡島が付け足す。それにしても、身も蓋もない。
「でも、二人きりになりたいと言うんだったら、私達だけで行ってくるわ。帰りはまた
合流になるけどね」
 結城がからかい混じりの口ぶりで水を向ける。純子は思わず、「マコ!」と声を上げ
た。
 一方、相羽の方は案外冷静なままで、「いや、それはまずいでしょ」と第一声。
「今日は元々、純子ちゃんが先延ばしになっていた遊びの約束を果たすため、結城さん
と淡島さんを誘ったと聞いたよ。だったら――」
「純子ってば、そんな誘い方をしたの。ばか正直に言う必要なんてないのに」
 今度は呆れ口調になる結城。淡島も追随する。
「そうですわ。こちらとしては、二人きりになったところをこっそり追跡して、覗き見
するつもりでしたのに」
「嘘!?」
「半分ぐらい嘘です」
 残り半分は本気だったのねと、苦笑顔になる純子。
「あのー、そろそろ人も減ってきて、動きやすいタイミングなんだけどな」
 相羽は結城とは別の意味で呆れ口調になりつつ、促した。そして再び時計を見やる。
「さっきから時間を気にしてるみたいだけど、早く帰りたいとか?」
 目聡く言ったのは結城。純子が気付けなかったのは、今ちょうど相羽が斜め後ろにい
る形だから。
「いやいや、そんな失礼なことは。もしも行くところが決まってないのなら、行きたい
場所がなきにしもあらずだったから。問題は、一定時間を取られるのと、必ずカレーラ
イスが出される」
「カレー?」
 今日は土曜で、プラネタリウムに来る前、もっと言えば電車に乗る前に昼食は済ませ
ている。そこそこ時間が経っているものの、カレーライスが入るかどうかは微妙なお腹
の空き具合だ。
「いいじゃない。スイーツはパスして、そっちに興味ある。もしかして、相羽君の定番
デートコースだったり?」
「残念ながら外れ。何たって、忙しい純子ちゃんと来るにはちょっと遠いから」
「それよりも、そのお店だか施設だか、お高くはありません? 開始時間が定められて
いるとはつまり、何らかの催し物があると想像できるのですが」
 淡島が恐る恐るといった体で尋ねる。
「そもそも、何のお店なのかを聞いていませんし」
「あ、マジックカフェだよ。学生千円」
 千円ならどうにかなる。それよりも、マジックカフェというあまり聞き慣れない名称
の方が気になったようだ。純子が聞く。
「多分だけど、マジックを見せてくれるカフェ?」
「うん。マジックバーのカフェ版。ほんとに行く気になってるんなら、動こうか」
 異論なしだったため、壁際から離れて外に向かう。
「予約とかチケットとかは?」
 先頭を行く相羽に着いていきながら、結城が尋ねた。
「必要なし。必要なタイプの店もあるみたいだけれども、これから行くところは大丈夫
だよ。満席だったら、少し待たされるかもしれないけれどね」
「相羽君は行ったことがあるの、そのお店に」
 今度は純子がちょっぴり尖った調子で聞く。連れて行ってもらったことがないのが不
満なのではなく、他の誰かと一緒に行ったなんてことになると、少しジェラシーを感じ
てしまうかも。
「ある、だいぶ昔に母さんと」
 地下鉄駅への階段が見えてきた。そこを下り始める。
「え。それって何年前?」
「だいたい五年前。大きな買い物のついでに寄ってもらったんだ」
「待って、ちょっと心配になってきた。五年前に行ったきり?」
 先を行く相羽のつむじを見つめる純子の目が、不安の色を帯びる。が、明るい返答に
その色はすぐに消えた。
「今も店があるかどうかって? 一応調べておいた。値段も変わらず、営業中だった
よ」
 相羽の言う駅までの乗車券を買って、程なくしてホームに入って来た車輌に乗る。三
駅先で実際の距離も大したものではないようだから、時間に余裕があれば歩きを選ぶだ
ろう。灰色の壁面を持つ、飾り気のないビルが見えたところで相羽が言った。
「あのビルの三階に入ってる店なんだけど、そういえば昨日調べたときに、隣は占いの
店になってたっけ。淡島さん、興味あるならあとで寄る?」
「お心遣いをどうもすみません」
 歩きながらぺこりとお辞儀する淡島。
「時間があるようでしたら、寄りたいと思います。でも本日はお二人のことが最優先で
すから」
 これには純子が反応する。
「いいよいいよ。こっちはマコと淡島さんのために今日を使おうと思ってるんだから」
「先程のプラネタリウムまでで充分です」
「私の気が済まない」
 歩みを止めそうになる二人を、相羽と結城が後ろに回って押した。
「はいはい、時間が勿体ない。ていうか、相羽君、間に合いそう?」
「うん、余裕。お客さんも少なそうだし」
 確かに、土曜の午後、往来を行き交う人の混み具合に比べ、ビルを出入りする者は皆
無と言っていい。
 重たいガラスの扉をして中に入ると、意外にも?空調がちゃんと効いていた。左手に
あるフロア毎の図で念のため確認してから、エレベーターに。三階に着いて降りると、
そこそこ人がいた。それまでは幽霊ビルなんじゃないかと感じさせるくらい静かだった
め、ちょっと安堵。尤も、人々のお目手当はマジックカフェ『白昼の魔法』でもなけれ
ば、占いの店『クロス』でもないようだ。フロアの大半を占めるゲームコーナーと、奥
まった場所にある市民講座か何かの教室に人が集まっている。
「何時に入ってもいいんだけど、九十分の時間制……でいいのかな」
 小さな頃の記憶だけでは不安に感じたか、相羽は店先まで小走り。壁に掲げてある板
書の説明に目を通す。
 その間、純子達は隣の占いショップに目を向けた。
「占い師がいて占うだけでなく、関連グッズもあるみたいだね」
「占い師は日替わり……今日は違うみたいですが、一人、かなり有名な方がいます。
マーベラス圭子師は著書が多く、テレビ出演も何度かあるはずです」
 さすがに詳しい淡島。ただし、その有名占い師が今日の当番ではないことを、さほど
残念がってはいないようだ。
 と、そこへ相羽が戻ってきた。
「今なら貸し切り状態。入店すれば、すぐにでも始めてくれるって」
「いいんじゃない?」
 純子が女子二人に振り返る。すると、淡島が急にきょどきょどし出した。
「うん? どうかした?」
「あ、あのう。お客さんに手伝わせるマジックは苦手です。それはなしということで…
…」
 貸し切り状態と聞いて不安を覚えたようだ。
「絶対にないとは言い切れないけれども、あったら僕が引き受ける。アシスタントは女
性がいいと言われたら、純子ちゃんか結城さんに頼む」
「もちろんかまわないわよ」
 ようやく入店。中は昼間だというのに、カーテンをほぼ閉め切っている。照明も豊富
とは言えない。その雰囲気のせいで、若い女性店員のいらっしゃいませの声までも明る
い調子なのに、獲物を待ち構える獣の冷笑を伴っているかのように届く。
「何名様ですか」
 手振りを交えて四名であると伝えると、先払いでお会計。次にテーブル席がいいかカ
ウンター席がいいかを問われた。カウンター席は、バーなどでもよく見られるタイプ
で、細くて高いストールが並んでいる。テーブル席は、通常のファミリーレストランや
喫茶店などで見られる物よりは低く、椅子もソファだ。
「カウンターの方がステージに近い反面、お客様同士が重なって並ぶため、手前の席の
方ほど見えにくくなるかもしれません」
 店員のそんな説明を受け、純子らは眼で短く相談し、「じゃあテーブルでお願いしま
す」と答えた。その頃には、フロア全体を照明が行き渡り、最初より随分明るくなって
いた。
 着座するとおしぼりを出されると同時に、カレー及びドリンク二杯分の注文を求めら
れた。それぞれ数種がラインナップされている。カレーはルーの違いだけで、トッピン
グの類はない。ドリンクは昼専用のメニューなのか、アルコール飲料はなかった(あっ
ても純子達は注文できないけど)。
「どうしよう、ココナツミルク入りカレーに惹かれる」
「いいんじゃないの。言っておくけど、胡桃みたいなナッツが入ってるわけではない
よ」
「分かってるって。胡桃好きだからって選んだんじゃないんだから」
 純子と相羽のそんなやり取りを見せられ、結城と淡島は顔を手のひらで扇ぐ仕種に忙
しい。
 注文が決まったところで女性店員がカウンターの向こうに引っ込み、代わって薄手の
眼鏡を掛けた男性店員が出て来た。年齢は、大学生かもうちょっと上くらい。顔立ちは
優しげだが後ろに撫で付けた髪が多少はワイルドな雰囲気を加味している。お客に舐め
られないようにするためかもしれない。ところが口を開くと、その声は顔立ちにも増し
て優しげかつ頼りなげだった。
「はい、では、お食事を出せるまでの合間に、まずはご挨拶代わりに始めさせていただ
きたいのですが、あ、私、卓村欽一(たくむらきんいち)と申します。覚えなくてもい
いですよ、名刺をお渡ししますので」
 愛想のよい笑みを浮かべた卓村は、カードを配るときみたいに名刺大の紙を四枚、
テーブルに置いた。それはしかし名刺にしては変だった。名前が印刷されてしかるべき
箇所に、一文字しかない。しかも四枚とも異なる漢字だ。それぞれに「卓」「村」「
欽」「一」と書いてある。
「おっと、失礼をしました。慌てて、試し刷りの分を出してしまったようで。すみませ
ん」
 卓村は四枚の紙を集めて回収。手のひらで包み込むように持つと、トランプのように
扇形に広げた。すると最前までの漢字が消え、卓村欽一と記された名刺になっていた。
 純子達は拍手を送った。
「これでよしと。では改めまして、お受け取りください」
 卓村にそう言われても、しばらく手を叩き続ける。挨拶代わりでこの鮮やかさ。続く
演目にも期待が高まる。
 もらった名刺をためつすがめつしてみるも、種は分からない。
「あー、あんまり見ないで。種がばれたら恥ずかしい。皆さんは高校生ですか?」
「はい」
 純子と結城の返事がハモった。
「今まで、マジックを生で観たことはあります?」
 卓村の目線が結城に向く。結城はちょっと小首を傾げて間を取り、「プロはないで
す」と答えた。
「えっ、ということはアマチュアならあると。もしかして、皆さん奇術クラブか何か
で、やる立場だったりするなんて」
「いえいえ。やるのは一人だけ」
 結城が相羽を指差し、純子と淡島も目を向ける。
「あ、そうなんだ。じゃあ、詳しいんだろうなー。種が分かっても、女子三人には教え
ないでね」
「もちろん。それ以前に見破れないと思いますけど」
「うわ、ハードル上げられたなあ。それじゃあ予定していたのと違うのを……」
 その言葉が真実なのかは分からない。卓村は紙のケースに入ったトランプカード一組
をポケットから取り出し、皆に示した。次いで中から本体を出し、表面を見せる。新品
ではないからか、順番はばらばらだ。
「ヒンズーシャッフルをするから、好きなタイミングでストップを掛けてください」
 言われた相羽が頷くと、シャッフルが始まる。五度ほど切ったところで、相羽が「ス
トップ」と声を発した。卓村はその状態で手の動きを止め、左手にあるカードの山を
テーブルに置き、次にそこに十字になるよう、右手に残るカードの山を重ねる。
「さて、ちょっとした個人情報を伺いたいのだけれど、だめだったらはっきり断ってく
れてかまいません。彼女達三人の中で、一番親しい人は?」
「それは」
 多少の躊躇のあと、隣に座る純子に顔を向けた相羽。純子はそれなりに手品慣れして
いるため、何か来るかと身構える。が、卓村は穏やかな調子のまま話し続けた。
「そうですか。正式にカップルかどうかまでは聞きません。では、さっきストップと言
って分けてもらったここ――」
 と、十字になったトランプの上の部分を持ち上げる。全体をひっくり返し、その底に
あるカードを全員に見せた。スペードの6だった。卓村は空いている手でポケットから
黒のサインペンを出し、相羽に渡す。それから「このカードにささっとサインしてもら
えますか」と、右手のカードを山ごと持ったまま、相羽の前にかざした。
「名前でなくても、目印になる物なら何でもかまいません。このカードを特別なスペー
ドの6にするためですから」
 相羽が記したのは馬の簡単な絵だった。
(……愛馬の洒落?)
 相羽の横顔を見ながらそんなことを感じた純子だったが、もちろん声には出さない。
「はい、どうもありがとうございます。このカードはこうして裏向きにして、よそに分
けておきましょう」
 カードを手の中で裏返した卓村は、言葉の通り、テーブルの端にそれを置いた。
「今度はあなたの番ですよ」
 純子に話し掛けた卓村は、最前と同じようにシャッフルをし、止めさせた。先程と違
って、十字に置くことはせず、ストップした時点で右手のカードの山を表向きにする。
現れたのは、ハートの8。これまた同じく、純子がサインをする。ここは流麗なタッチ
でさらさらと。
「お、芸能人みたい」
 おどけた口ぶりを挟む卓村。純子が本当にタレント活動をしていることは知らないら
しい。結城が忍び笑いを浮かべるのが純子から見えた。思わず、しーっの仕種。
 そんなやり取りを知ってか知らずか、卓村のマジックは続く。右手にあった表向きの
カードの山に、名前の入ったハートの8をそのまま見える形で適当に押し込む。さっき
取り分けた相羽のカードは、裏向きのまま、もう一つの山に差し込まれた。さらに二つ
の山を、全体で裏向きになるように重ね、軽くシャッフル。
「これでお二人のカードはどちらも、どこにあるか分からなくなった」
 純子達が首を縦に振ると、それを待っていたみたいに「――と思うでしょ。実は違う
んだな」とマジシャン。カードの山をテーブルに置き、まじないを掛けるポーズを取
る。
「まずは君から」
 相羽に視線をやったあと、「来い! 姿を現せ!」と叫んだ。その拍子にカードが飛
び出す……なんてことはなく、卓村はカードの山に手をあてがい、横に開いていった。
当然、裏向きの柄が続く。が、その中に一枚だけ白が見えた。指先で前に押し出すと、
スペードの6と分かる。相羽による馬の絵もある。
 女子三人から「うわ」「凄い」「こんなのあり得ないわ」と驚きの声が上がる中、卓
村は表向きにカードの山を揃えた。テーブルに残ったスペードの6を指差し、純子に
「じゃあ、あなたの番です。そのカードを好きなところに押し込んでください」と指
示。純子は右手人差し指と親指とで端を摘まみ、スペードの6を山の中程に差し入れ
た。
 卓村はずれを修正しつつカードの山を裏向きにしてテーブルに置く。
「さあ、ハートの8も、恥ずかしがらずに顔を見せて。来い!」
 まじないポーズとかけ声を経て、再び、カードの山を横へと扇に広げていくと……
ハートの8だけが表向きになって現れた。言うまでもなく、純子のサイン入り。
「嘘でしょ」「分かんなーい」「だからあり得ないって」
 女子三人が騒ぐ横合いで、例によって相羽は驚いているんだかどうだかはっきりしな
い。が、目を見れば感心しているのは分かる。
 驚きの反応が収まったところで、卓村が告げる。
「ここまで、マジックだと思って観てこられたでしょうが、実は占いでもあるんです
よ」
 占いと聞いて、ぴくりと身体が動いた淡島。さっきよりも身を乗り出している。
「占いの結果を示すために、あなた、手のひらを上向きにして、右手を出してくださ
い」
 言われた純子がその通りにすると、卓村は相羽にも同じ指示をした。厳密には右と
左、手のひらの上下は違っていたが。
「これからこのハートの8を彼女の手のひらに置きます。君はカードを挟むようにし
て、彼女の手を優しく握ってください」
「はあ」
 表向きに置かれるハートの8。そのサイン入りカードを相羽の左手が覆い隠す。
「もう少し強く握って。そう、バルスと呪文を唱えるアニメ映画ぐらいには強く」
 マジシャンのジョークに苦笑しつつ、純子は相羽の手から伝わる力が強まったのを感
じた。
「そのままの姿勢をキープして。そちらのお二人も冷やかしの目で見ないようにね。よ
い目が出るかどうか、大事な分かれ道だから」
 淡島と結城にも注意を促すと、卓村は残りのカードの山を左手に持ち、その縁に右手
指先を掛けた。そしてカードをぐっと反らせる。狙いは相羽と純子の重ねた手。
「この中にある彼のカード、スペードの6を飛ばします。ようく見ていて……」
 一瞬静寂が訪れ、コンマ数秒後にマジシャンが右手をカードから離す。ばさばさっと
短い音がして、カードの反りが戻った。
「……何にも飛んでないような」
 結城が最初に口を開く。淡島はうんうんと頷いた。
「あれ? 見えませんでした?」
 卓村は相羽と純子の方を見た。
「お二人も? たとえ目で捉えられなくても、感触に変化があるはずなんだけど」
「いえ、特に何も……」
 純子は答えて、ねえ?と相羽に同意を求める。相羽も「感触は同じままですね」と微
笑交じりに卓村に答えた。
「さてさて、困ったな。まあいいや。手のひらを開けてみれば、結果は明らか。まさか
失敗ってことはないと思うけど、万が一失敗だったら、より仲よくするようにご自身で
努力してね」
 身振りで促され、相羽は左手をのける。四人の観客の視線が、カードに注がれた。純
子の右手にあるのは相変わらず、ハートの8だけ。四人の視線は卓村へ移った。
「おっかしいな。よく見てみて。一枚に見えるけれど、二枚がぴったり重なっているの
かも」
「そんなことは」
 純子は左手でカードを持ってみた。指を擦り合わせるようにして確かめるも、やはり
一枚しかない。と、その目が見開かれる。
「――わ!」

――つづく




#519/598 ●長編    *** コメント #518 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/30  01:12  (363)
そばにいるだけで 67−5   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:29 修正 第3版
 純子が放り出したハートの8はひらりと舞って、テーブルに裏向きに着地。そこには
裏の模様ではなく、スペードの6が。相羽の手書きの馬もしっかりと描かれてある。
「これは」
 相羽がカードを拾い上げ、改めて一枚であることを確かめた。片面がハートの8、片
面がスペードの6でできた一枚のトランプカード。
「これは素晴らしいですね」
 結城と淡島にカードを回してから、相羽は感想を述べた。
「ありがとうございます。結果も気に入ったでしょうか? それぞれ選んだカードが一
枚になって、お二人は離ればなれになることはない、と」
(あ、そういう意味だったのね。驚くのに忙しくて、気付かなかった)
 頬を両手で押さえる純子。赤くなっているであろう肌を隠す。
 右隣の相羽も占いのニュアンスにまでは思い至っていなかったのか、遅れて「……そ
うですね」と答えた。
「――分かりましたわ」
 と、不意に手を打ったのは淡島。
「え? 種が分かったの?」
「いえいえ。そんな眼力、私にはございません。占いというのはジョークだったんです
ね」
 彼女の受け答えに、マジシャン以外がきょとんとなる。逆に、卓村はほっとしたよう
だ。
 淡島は両表になったカードをちょんちょんとつついて言った。
「ハートの8とスペードの6、どちらも表で裏がなくなった。つまり、うらない、で
す」
「ああ、オチを言われてしまった」
 卓村が片手で目元を覆い、天井を仰いだところで、挨拶代わりのマジックは終了。卓
村は下がり、最初に応対してくれた女性店員が四人の前にドリンクとカレーを運んでき
た。
「ご注文は以上で間違いないでしょうか」
 にっこりと微笑みかける女性店員。結城一人が異を唱えた。
「あのー。メニューは間違ってないですけど、私のスプーン……」
 見れば、彼女の握るスプーンはくにゃくにゃに曲がっていた。
「あ、これは失礼をいたしました。超能力マジックで使用した物が、紛れ込んでしまっ
たようです」
 女性店員は曲がったスプーンを結城から返してもらうと、奥に交換に行く――と見せ
掛けて、再度向き直る。
「お一人だけ食べ始めるのが遅くなるのもよくないですよね。こうする方が早いかと」
 店員が左手に持ったスプーンを何度か振って、右手で撫でるような動作をした。右手
が退けられると、曲がっていたスプーンが真っ直ぐに。
「おー」
 結城も他の三人も拍手を贈る。一礼した女性店員から、スプーンを受け取ろうとする
結城の前で、今度はスプーンがぐーんと長く伸びた。いちいち驚かされてしまって、目
を離せず、なかなか食べ始められない。
「すみません。余計な魔法まで掛けてしまいました。これでも使えなくはないですが、
あちこち触ってしまったので、取り替えますね」
 前掛けのポケットから先端を紙で包んだスプーンが登場。女性店員から「はい」と渡
される結城だったが、警戒してすぐには手を出さなかった。
「このスプーンには、何もございません。しばらくの間、お食事をお楽しみください。
あちらの店内モニターにはマジックショーの映像が流れますので、よろしければどう
ぞ」
 ほぼ正面に位置するモニターは、プロジェクター用のスクリーン大ぐらいあり、やや
粗い画像だったが、マジックの模様が映し出されていた。
「翻弄されっぱなしで、もう疲れてきたわ」
 結城がため息を吐き、カレーを一口食す。
「あら、意外と行ける」
「基本レトルトで、メニュー毎に様々なエキスを足すんだって、前に来たとき聞いた
な」
「キッチン事情の種明かしはしなくていいよ」
 純子が笑い交じりにたしなめると、「じゃあ、マジックの種明かしをしろって?」と
相羽に返された。
「そんな無粋は言いませんよー。でもまあ、分かったのかどうかだけは聞きたいかな。
特にカードが一枚にくっつくやつ」
「私も知りたいです。種が分かったとしたら、再現できます?」
「淡島さん、それって暗に、再現してくれと言ってる?」
「はい、遠回しに」
 遠回しと明言すると、遠回しではなくなる気がするが。
「うーん……ちょっと待ってて」
 相羽は食べる手を止め、しばし考えていた。なかなか答を言い出さないところを見る
と、やっぱり難しいのだろう。
「相羽君がマジックを嗜むって言ったおかげで、さっきの人、難しい演目に変更したみ
たいだけど、元々は何をするつもりだったのかな」
「スプーンを使うのがあるくらいだから、ドリンクのストローとかグラスを使った何か
かも」
「もっと簡単そうな……指が切れたり伸びたりするのとか、首が三百六十度回ったりす
るのとか?」
 純子達女子三人で勝手なことを言っていると、それがおかしかったのか相羽が考える
のを止めて話に加わる。
「僕が小さな頃に来たときは、輪ゴムのマジックだった」
「輪ゴムでマジックって何かあったっけ」
「えっと。簡単なのでよければ、こういうやつ」
 相羽はポケットをまさぐって、茶色の輪ゴム二本を取り出した。一本を左手の人差し
指と親指に掛け、もう一本をそれと交差させてから、右手の人差し指と親指で保持す
る。
「ほんとは色違いの輪ゴムを使うべきなんだけど、持ち合わせがないから勘弁。二本の
輪ゴム、間違いなく交差して、引っ張っても抜けることはない、よね」
 口上に合わせ、両手を左右に引く相羽。輪ゴムは伸びるだけで、交差が解かれること
はない。
「ところがこうして何度か同じことをやっていると」
 手を動かし、輪ゴムを伸ばしたり戻したりする相羽。と、急に動きを止め、輪ゴムの
交差部分に注目するよう、皆に言った。注目を得たところで、ゆっくりと手を動かす。
また伸びると思われた輪ゴムだが、そうはならず、一本ずつに分かれてしまった。何と
いうか“ぬるん”と擬態表現したくなるような現象だ。
「お、やるじゃない」
 結城が小さく手を叩いた。淡島は目をぱちくりさせている。
 純子はすでに見せてもらったことのある演目であったのだが、何度演じられても不思
議に見える。
「自分ができるのはこれだけなんだけど、店の人がやったのはもっと複雑なのが含まれ
ていた。もちろん当時とは違う人だからね、今日も輪ゴムマジックをやる予定でいたの
かどうかは分からない」
「私にとっちゃ輪ゴムのマジックでも充分に驚けるわ。その輪ゴム、特殊な物じゃない
のよね?」
 結城が不審の目つきをするので、相羽は輪ゴムを二本とも渡した。結城はその内の一
本を、目の前で引っ張ったりすかし見たりして調べる。と、強く引っ張ったせいなの
か、輪ゴムが切れてしまった。「あ! わ、ごめん」と慌てる結城に、相羽は首を横に
振った。
「いいよ。正真正銘、どこにでもある普通の輪ゴムなんだから」
「むぅ……それなら安心。だけど、それってつまり種がないってことかぁ。テクニック
だけでできるんだ?」
「まあ、そういうこと。ネット検索をしたら多分、分かるよ」
 カレーを食べ始めてからおよそ十五分が経ち、あらかた済んだところへ店員が来て、
食器を下げた。ドリンクも二杯目の物が新たに置かれる。さすがにこんなときまでマジ
ック的な仕掛けはなかった。食器が割れたら困るからかもしれない。
 そのあと、卓村が再登場。「またマジックでご機嫌伺いをしたいと思います」と寄席
芸人めいた入りから、ペットボトルを使ったマジックを披露。四人全員がサインしたト
ランプカードが、未開封のペットボトルの中に入ってしまうというポピュラーな演目だ
が、テレビ番組などと違い、この至近距離で観てもさっぱり分からないため、驚きが減
じられない。むしろより大きくなったかも。
 続いて、自分も超能力マジックが使えるんです、スプーンは曲げられないけれど云々
と前置きして、フォークをくにゃくにゃと曲げた。四つに分かれたフォークの先を、そ
れぞれ別の方向に曲げて、しかも捻るという一見すると本物の超常現象かと思える。
 最後にはフォークを元の形にして、次のマジックにつなげる。観客の一人から大事な
物を借りて、四つの紙袋の内の一つにマジシャンには分からぬよう隠してもらい、大事
な物が入った袋以外を次々にフォークで突き刺すという演目。なお、“大事な物”とし
て供されたのは相羽の懐中時計だったが、傷一つ付けられることなく無事戻って来たこ
とは言うまでもない。
 卓村最後の出し物は、トランプを使った定番のカードマジックだった。一枚のカード
を選ばせて、クラブのキングと言い当てた後、そのクラブのキングを観客に目で追わせ
る演目のオンパレード。山の一番上に置いたと思ったら二枚目になっていたり、逆に山
の中程に入れたはずなのにトップに上がってきたりと、これもテレビ等でお馴染みのマ
ジックだが、間近で見せられると凄さや巧みさがより一層伝わってくる。
 クラブのキングの彷徨いっぷりはエスカレートし、テーブルの端に一枚だけ別個に置
かれていたり、卓村のネクタイに貼り付けてあったり、同じく卓村の眼鏡に差してあっ
たりと、手を変え品を変えしてきたが、いずれも純子達は気付けなかった。最終的に、
淡島の座るソファの隙間から出て来た。さすがにこれは前もって仕込まれていたと想像
できるのだが、それを認めると、じゃあどうやって最初にクラブのキングを引かせるこ
とができたのかが分からない。
 純子らが手が痛くなるくらいに拍手して興奮冷めやらぬ内に、卓村は「このあと、真
打ち登場です。約三十分のステージマジックをご堪能ください」と言い残して引き下が
った。
 感想を述べるほどの間はなく、正面のスクリーン型モニターが機械音と共に引き上げ
られ、ステージが見通せるようになった。舞台袖から登場したのは、相羽らが入店して
からまだ一度も姿を見せていなかった、お洒落な顎髭のマジシャン。彫りの深い顔立ち
に加え、大げさな黒の燕尾服とシルクハットのせいで、魔術師と呼ぶ方がふさわしそう
だ。
 演者は自己紹介の前に手から次々とトランプを出してみせた。この辺で終わりだろ
う、もう出ないだろうというタイミングで一度手を止め、また次々にカードを出して宙
を舞わせる。左右どちらの手からも出現するし、両手を組んだ状態でもカードは現れ
た。しまいには脱いで逆さにしたシルクハットから、大量のカードが滝のように流れ落
ちる。
 ステージ上は当然、カードが散乱して足の踏み場がないほどに。卓村ら店員達が出て
来て、モップで片付けていく。
「えー、この間を利用して、挨拶をさせてもらいます。初めまして、ダンテ伊達(だ
て)と申します。濃いめの顔なのでたまに誤解される方もいらっしゃいますが、もちろ
ん芸名で、西洋の血が混じってることもありません。あしからず」
 散らばったカードが片付けられ、ステージの片隅には一本足の台が置かれた。卓上に
は直方体の箱や透明なグラス、花瓶など小道具がいくつか。伊達は空いたスペースにシ
ルクハットを載せると、次の演目に取り掛かる。
「先程お見せしたのは、マニピュレーションと言って基本的に、指先のテクニックだけ
で行う奇術です。あ、基本的にと言ったのは色々組み合わせたり、カードの補充にあれ
したりと事情があるので。嘘をつけない性格なもので、白状しておきます。それで、店
の者から聞いたところだと、皆さんはそこそこマジックに詳しいとか」
 四人まとめて言われるとどう返事していいのか困る呼び掛けだが、ここは結城が率先
して「私達は観る専門で、やるのは彼だけ」と相羽を指し示しておいた。
 伊達は承知しているという風に頷き、「何かに気付いたり変な物がちらりと見えたり
しても、やってる間は言わないで。これ、マジシャンとお客との大事な約束」と指切り
のポーズをした。
「さて、そういったマジック慣れした人達に、同じようなネタを見せてもつまらないで
しょう。折角準備したのだけれど、取り外します」
 そう言って伊達が宙を掴むと、右手の指先には金色に光るコインが一枚現れた。台を
引き寄せそこにある花瓶の中に入れると、ちゃりんと音が響く。と、次に左手で宙を掴
むとまたコインが。花瓶に入れるとちゃりん。これを繰り返して、何枚もコインが出現
する。途中、ステージを降りてテーブル席まで来た伊達は、淡島の肩口、結城の耳元、
純子のつむじ、そして相羽の飲み物のグラスの底からコインを出してみせた。
「コインはこれで多分片付いたと思うんですが、まだ他にも仕込んでまして」
 テーブルに右手のひらを押し当てる伊達。そのまま前後に擦る動作をすると、赤い球
が現れた。布か何かでできているようだが、手の中に簡単に隠せるとは思えない大きさ
になる。左手でも同じことをすると、今度も赤い球が出て来たが、右とは異なり、小さ
い。ただし数がやたらと多かった。三十個ぐらいあるだろうか、あっという間にテーブ
ル上に溢れ、転がった。
「それから、これも出しておかないと」
 ステージに戻った伊達は、今度はCDかDVDのディスクと思しき銀色の円盤を手か
ら出した。あんな固そうな物を次々に出現させ、マジシャンの手は赤、青、黄、緑……
とカラフルなディスクで一杯になる。それらを台に置くと、またディスクを出し、今度
は手の中で色がチェンジするおまけ付き。八枚出したところで一揃えにしたかと思う
と、自身がくるりと一回転。観客の方を向いたときにはディスクは巨大な一枚になって
いた。
「これで全部出し切ったかな。――あ、いや、もう一つだけ、最初のトランプで忘れて
おりました」
 口からトランプを出す一般にも有名なネタで、一連の演目を締める。
「ふう。やっと身軽になった。これでやりやすい。ところで皆さんは、お花と蛇、どち
らが好きですか」
 唐突な質問に戸惑う一行。一拍遅れて、「そりゃまあ、花になるでしょう」と相羽が
答える。
 伊達はふむと首肯し、花瓶を手に取った。逆さに振ってコインを取り出すのかと思っ
たら、花が五、六本ととぐろを巻いた蛇のおもちゃが出て来た。さっき入れたはずのコ
インは? 疑問を見て取ったらしい伊達は、蛇のおもちゃの首根っこを押さえて言っ
た。
「ああ、さっきのコインならこの蛇が飲み込んでしまったようだ。ほら」
 空のグラスに蛇を傾けると、その口からコインがあふれ出た。グラスを五割方埋めて
止まる。
「蛇はお嫌いとのことなので、使わないと」
 そう言うなり、蛇のおもちゃを観客席に向けてアンダースローのように投げる格好を
した伊達。次の瞬間、蛇のおもちゃはつーっと空中を泳ぐように伝った。勢いがあっ
て、まるで生きているかのよう。テーブルの端まで来て止まった。前触れなしに目と鼻
の先に蛇が来て、さしもの相羽もソファごと数ミリ後ずさり。
「び、びっくりした」
 この日初めて驚きを露わにした相羽に、伊達は満足げな笑みを浮かべ、髭をひとなで
した。
「その蛇は差し上げます。嫌いなら置いていってもかまいません」
「いただきますよ。面白い」
 相羽が手を伸ばすと、蛇のおもちゃはことっと音を立てて、横倒し?になった。今際
の際に最後の反応を示したみたいで、何だか薄気味悪い。それでも相羽は手に取ると、
もう一度「面白い」と呟いた。
「こちらの花はどうするかというと」
 伊達は台の上にてんでばらばらに置かれた花を見下ろし、両手をかざした。
「生きているようで死んでいた蛇とは逆に、死んでいるようで生きているのがこの花た
ちなのです」
 そう説明するや、顎の近くで揃えていた両手を、急に左右に開いた。そうすると目に
見えない力でも働いたみたいに、花が動いた。ある物は立ち、ある物ははじけ飛び、ま
たある物は浮かび上がる。伊達は浮かび上がった一輪をキャッチし、「この子が最も活
きがいい」なんて宣った。
「うまくすれば、お客さんの目の前でも飛び上がるかもしれない」
 またもステージを降り、テーブルまでやって来た。純子、結城、淡島の三人からほぼ
等距離になるテーブル上の一点に花を置く。
「もしうまく行ったら、キャッチしてください。棘はありませんから、思い切り掴んで
も平気です」
 そう言って皆を花に注目させてから、最前と同じように両腕をかざす。あたかも念じ
ているかのようなポーズがしばらく続き、だめかなと思わせるぐらいまで引っ張って―
―一気に動かした。花はマジシャンから見て左側に跳ね、純子の目の前に落ちた。
「あらら、思ったほど飛ばなかったな。惜しい。でも、その花も差し上げます。取り合
いにならないよう、ここにもう二本持って来ましょう」
 伊達の言葉に合わせて、空っぽだった彼の両手にそれぞれ一輪ずつ、花が現れる。結
城と淡島は呆気に取られながら、その花をもらった。
「少し疲れたので、一休み。皆さん、ドリンクをどうぞ。私もいただきますから」
 ステージに再び立った伊達は、グラスを手に取ると、女性店員からコップ一杯の水を
もらった。コインの詰まったグラスにその水を注ぐ。次の刹那、コインは泡を立てて溶
け出した。金属製のコインに見えていたが、実際は発泡性の溶剤か何かだったのか。
 黄色いオレンジジュースみたいになったグラスの中身を、伊達はうまそうに飲む。半
分くらいになったところで止めて、女性店員からストローをもらった。そのストローを
グラスに挿して吸い始める。と、伊達が両手を離しても、グラスは浮いたままになっ
た。
「おおー、芸が細かい」
 ぱちぱちと手を叩く。それに応えて、伊達が手を振り、「どうもありがとう」と喋っ
た。当然、口からストローが離れ、グラスが数センチ落下した。が、どんな仕組みなの
か、宙で止まってぶらぶら揺れる。
「おおっと危ない危ない。あんまり喜ばせないでくださいよ。油断して落とすところだ
った」
 液体を干してグラスを台に置くと、伊達は直方体の箱を取った。
「休憩、終わり。ああ、皆さんは飲んでいて問題ありません。マジックを観てください
とだけ言っておきましょう。さて、この箱、そうは見えないでしょうが、パン製造機で
す。信じられない? でもこれを見れば納得するのでは」
 今、直方体の上になっている面にはつまみがある。スライド式の蓋になっているよう
だ。そこを持って伊達が開けると、中は空洞。そのことをよく示してから、伊達は蓋を
閉じ、軽く振って呪文を短く唱える。また振ると、今度は何か音がする。聞こえにくい
が、直方体が音の源なのは確かだ。
 伊達はオーバージェスチャーで蓋を開けると、これまた大げさに驚いた顔つきにな
り、直方体からロールパン一個を摘まみ出した。
「ね? これ本物ですよ。食べてみせましょう」
 宣言通り、ひと齧りしてパンの欠片を飲み込む伊達。
「うん、うまい。え? 食べて確かめたい? そうしてもらいたいのはやまやまなんで
すが、残念。このパン、賞味期限が切れてるんですよ。コンプライアンス的にお客様に
提供できません」
 その賞味期限切れを食べた口で言うのがおかしい。逃げるための冗談なのだろう。
「このパン製造機のいいところは、材料を入れなくても新しく一個出て来る点でして、
ほら、この通り」
 口上に合わせて直方体を振り、蓋をスライドさせると中には新たに一個、ロールパン
があった。
「パンが出て来るってだけでも結構なマジックだと思うんですが、これで終わりじゃな
い。ここにサインペンとメモ用紙があります。どなたかお一人、紙に何か書いてもらえ
ますか」
 伊達の手には、すでに何度か登場したサインペンと、付箋のような小さめのメモパッ
ドがあった。用紙一枚を取り、テーブル席の方に来る。
「何でもいいんだけど、時間の関係もあるから、簡単な絵か短い文でお願いします。
あ、私には見えないように。書けたら四つ折りにでもして」
 受け取った淡島が成り行きで書くことに。嫌々という様子はなく、マジックの手伝い
を恐れていたのが嘘みたいだ。
「何て書くのがいいでしょう……」
「今日の感想でいいんじゃない?」
 時間を掛けずに、ぱぱっと『楽しんでます! 緑』と書いた。緑は自分達の学校を表
したつもり。指示の通り、紙を折り畳み、「できました」と伊達に声を掛ける。
「はい、どうも。ペンと用紙は他の人が回収しますので、そのままで。折り畳んだメモ
を、この箱の中に入れてください」
 伊達が両手で持つ直方体の箱は、蓋が開けられている。そこから中に紙を放り込ん
だ。
「はい、確かに」
 伊達は蓋を閉めて。小さく振った。かさっと乾いた音がした。
「えー、さっきは言いませんでしたが、この箱――パン製造機にはもう一つ、優れた点
があります。それはプレーンなパンを作ったあとから、そのパンに具を放り込めるんで
す」
「え、まさか」
「嘘や冗談ではありません。これから実証してみせましょう。実験には、このさっき出
したばかりのパンを使います」
 台に置かれた二個目のロールパンを指差す伊達。
「私が触ると怪しいと思う向きもあるでしょうから、どなたか取りに来てくれますか」
 目を見合わせてから、それじゃあ私がと純子が席を立つ。ステージに足を踏み入れる
と、照明がちょっと眩しかった。パンを両手で包み持って、すぐに引き返す。
「大事なパンです、しっかりと大切に保管してくださいね」
「は、はい」
「繰り返し注意しておきますが、そのパンも賞味期限切れなので、食べちゃいけません
よ」
「はい、食べません」
「結構。では、こういう具合にパンを額の高さに持ち上げて」
 伊達の動きに合わせ、純子は両手を額の位置まで持っていった。舞台を見通せるよう
に腕は若干開き気味。
「その格好……ビームフラッシュとかウルトラセブンて分かる?」
 伊達が言ったが、何を意味しているのか分かる者はおらず、全員きょとんとするばか
りだった。時代を感じると口の中でもごもご言いつつ、伊達は本題に戻った。
「そのまま掲げていて。先程入れてもらった紙を、こちらから飛ばして、パンの中に入
れるからね。下手に動くと、パンじゃなくてあなたの中に入るかも」
「あはは。そのときはさっとよけます」
 ジョークにジョークで切り返す純子。伊達は「これは頼もしい」と笑みを浮かべた。
「では、そろそろ行きましょう。一瞬のことだから、お見逃しなきよう――はっ!」
 直方体が上下に一度、激しく振られた。紙が飛んで行く気配は全く感じられなかった
が、僅かながら風は起きた気がする。
「……成功したと思います。パンをこちらに持って来てもらえますか」
 純子は再び席を立った。離れる際、パンを調べたそうな相羽の視線を感じ取ったが、
勝手な真似はできない。
「台の上に置いてください。はい、どうも。戻らないで、ちょっと待っていて。さて、
このパン製造機の箱には、ナイフが付属しています。パンを切るためと、バターを切り
取るための二種類が」
 講釈を垂れながら、くだんの二本のナイフを側面から取り外す。伊達は純子が持って
来たパンを左手に、パン切りナイフを右手に、純子の顔の高さに合わせて持った。他の
三人からもよく見える。
「今からこうしてナイフでパンを切りますから」
 伊達はナイフの切っ先をロールパンの横っ腹に差し込んだ。ゆっくりと押し込みなが
ら、台詞をつなぐ。
「よく見ておいて。メモ用紙の白い色が見えてくるはず……」
 程なくして白い紙が見えた。観客は口々に「あっ」「何かある」等と声を上げる。
 伊達はナイフを引き抜き、できたばかりの切り口を純子に向ける。
「最後はあなたの手で引っ張り出してください」
 無言で頷き、紙片の角を摘まむ。さほど力を入れずに抜き取れた。
「開いて、みんなに見せてあげて」
「はい……」
 実際には開く前から、全く同じ畳み方だわと気付いていた。焦って落としたり破いた
りしないよう、慎重に開いていく。そして『楽しんでます! 緑』の文字を見付けた。
 純子は用紙を目一杯に開き、テーブル席の方に向けた。が、この小さな紙の小さな字
では読めまいと気付く。伊達に目で許可を取って、ステージを降りた。
「凄い。ほんとにさっき書いた物だね」
「おみくじのフォーチュンクッキーみたい」
「いいバリエーションだなぁ」
 メモ用紙を囲んで、三者三様の感想をこぼす。
 このあとラストとして、人体切断マジックの大ネタを観ることができた。女性店員が
ロングスカートのドレスに着替えて登場。伊達の助手(要するに切られる役)になり、
人の形を簡素化した絵の描かれた箱に入って、上半身と下半身の間辺りに鉄板二枚を差
し込み、上半身を横にずらすという演目。ずらしたあとも、箱から出た手や足の先は動
いており、表情も笑顔のまま。箱のずれを戻して鉄板を抜き取ると、無事に助手が生還
する。箱から出て来た女性店員の衣装がドレスからバニーガールに変化していた。
 見事なフィナーレに拍手喝采し、ショーは幕を下ろす。店を出るときに、簡単なマジ
ックができるカードまでもらった。
「予想以上に面白かったわ」
 店を出てすぐに結城が振り返り、言った。少々興奮気味だ。
「いい趣味してるんだね、相羽君て」
「僕とかマジックがとかじゃなくて、演じた人達のセンスがいいんだよ」
「いやいや、輪ゴムのマジックだけでも分かる。純はいいわね。彼におねだりすれば、
種を教えてもらえるんでしょ」
「そ、そんなことないって!」
 ふるふると首を横に振った純子。
「厳しいんだから。こちらが考えに考えた末に、やっと教えてくれるかどうか」
「そんな、人を鬼教官みたいに」
 そのままエレベーターを目指す三人に、背後から若干恨めしげな声が掛かる。
「お待ちください。時間はまだあると思うのですが」
 淡島だ。純子は振り返って瞬時に思い出した。

――つづく




#520/598 ●長編    *** コメント #519 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/30  01:13  (283)
そばにいるだけで 67−6   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:39 修正 第2版
「占い!」
「あっ、ごめん」
 相羽と結城も急いで反転。占いショップの前でたたずむ淡島の元へ駆け付けた。
「せーっかく、お二人の仲を占ってもらう分、おごろうと考えていましたのに」
 淡島がどよんとした目で見上げてくる。
「えっと、このタイミングでそう言われても」
 相羽と純子は共に戸惑いを表情に出した。淡島の機嫌を直してもらうには、おごって
くださいと言うべきなのだろうか。何か変だ。
 相羽は両手を拝み合わせ、淡島に頭を下げた。
「淡島さん、本当にごめん。マジックのライブが久しぶりで、僕もつい夢中になってし
まって。次からは気を付けて、こんなことないようにする。だめかな?」
「……よろしいです。ちょっと意地悪を言いたくなっただけですから、ご安心を」
 淡島が笑顔を見せたので、相羽も純子も結城もほっとした。
「ただ、お二人が占ってもらうところを、同席してみたい。私独自のやり方の参考にな
るかもしれません」
「え。そういうのは、占い師さんに頼んでみないと分からないんじゃあ……」
 店の前で揉めていてもしょうがない。思い切って入ってみることに。店内は占いグッ
ズが所狭しとディスプレイされていた。が、淡島は目もくれない。
「時間がどのくらい掛かるか分からないから、すぐさま観てもらいましょう」
 淡島に手を引かれ、奥の占いスペースらしきコーナーへと連れて行かれる純子。相羽
も仕方なしに着いていき、その後ろを結城が面白がって押す。
 ゲルを思わせるそのコーナーの出入り口には、占い師の名札『小早川和水』が掛かっ
ており、天幕からの布が目隠しになっている。先客はいないようなので、布を持ち上げ
て中の人に声を掛けてみることにした。淡島と純子で声を揃える。
「すみません、占ってほしいのですが……」
「どうぞ、お待ちしておりました」
 存外、軽い調子の返事があった。幾分緊張していたのが和らいで、入りやすくなる。
 壁際の椅子に腰掛けていたのは、浅黒い肌の女性で、太い眉毛が印象的な人だった。
どことなく南国かインド辺りを連想させる。髪はショートカット、衣服は水色のワン
ピースで、いかにも占い師といった風ではない。客の椅子との間には白いテーブルがあ
り、紫のクッションの上にやや大きめの水晶玉が一つ鎮座している。他にも何やら標本
サイズの鉱物がたくさんある。
 椅子を勧められたが、先に伝えねばならないことがある。淡島が暗いジャングルを手
探りで行くような口ぶりで聞いた。
「変なことを言うかもしれないですが、あのう、一度に四人が入っても、大丈夫でしょ
うか……」
「他の人に占いを聞かれてもいいの? だったらかまわない」
 これまた思いのほかフレンドリーだ。虚仮威しタイプよりはずっといいが、こうも親
しげだと占いの重みやありがたみが薄れそうな気もする。
「初めての方ね? 初回特別割引で、学生さんならこういう具合になってるけれども、
いいかしら」
 料金表を示し、ビジネスライクなことまで言ってきた。とにもかくにも、普通の高校
生でも楽に手が届く設定はありがたい。
「お願いします。ただ、とりあえず、観ていただきたいのは二人なんです」
 ここからは純子が話す。相羽との仲を観て欲しいと伝えた。淡島に半ば強制されたこ
とは言わないでおく。
「珍しい。普通は隠したがるものでしょうに。いけない、関係のない詮索はやめないと
ね。れじゃ、二人に前に座ってもらって、付き添いの友達は後ろで……そこのパイプ椅
子を出して置けるようなら、座って」
 相羽が率先して椅子を置いていく。幸い、椅子を二列ならべてもまだ余裕はあった。
「それでは改めて……私の名前は小早川和水(こばやかわなごみ)と言います。ご覧の
通り、水晶占いにジュエリー占いを組み合わせて観させていただきます。他にも姓名判
断とタロットが使えますが、水晶でかまわないかしら」
「は、はあ。お任せします」
 純子が受け答えする横で、相羽は口をつぐみ、占いの道具の数々をぼんやり眼で見て
いる。興味がない訳ではなく、平静を装っているようだった。
「じゃあ、最初にイメージを掴むためにお名前を教えて欲しいの。姓名判断ではなく、
飽くまでイメージを把握するため。それから誕生石を知る必要があるので、誕生月もお
願いね」
 便箋と鉛筆を滑らせるようにして、純子と相羽それぞれの前に置く。相羽がここで初
めて口を開いた。
「名前にふりがなは?」
「何て読むのかを知った方が、よりイメージしやすいわ」
「じゃあ書きます」
 流れに素直に従う。書き終えた便箋を向きを換えて渡すと、小早川は何も言わずに石
を選んだ。五月の代表的な誕生石エメラルドと十月の代表的な誕生石オパール。どちら
も極小さな物で、シートに固定されている。他に参考ということだろうか、翡翠、トル
マリン、ローズクォーツとメモ書きするのが見て取れた。
「最初に言っておくと、このあとの占いで示される見立ては、今の時点でのものだか
ら。どんなにいい結果が出ようと心掛けや行い次第で、悪い方に変化し得るし、逆もし
かり。そのことを忘れないでね」
 二人がはいと答えると、小早川は便箋を返した。個人情報の処理はお客に任せる方針
らしい。
「それではお聞きしますが、お二人の何を観てみましょうか?」
「えっと」
 改まって尋ねられると、具体的には決めていなかったと気付く。かといって、淡島に
判断を仰ぐのもおかしな話だし。
「見たところ――これは占いではなく、私の直感だけれど――見たところ、現状で充分
幸せそうよ。120パーセント満足とまでは行かないにしても、大きな不安や悩みなん
てあるようには思えないわ」
「……小さな不満なら」
 純子が小さな声で言った。占い師の「聞かせて」という促しに応じて続ける。
「会える時間が少ないんです。一緒の学校、一緒のクラスなのに。でもこれは原因がは
っきりしてるからいいんです。一時的なことのはずだし」
「少し、はっきりさせてみましょうか。悩みは過去にあるのか未来にあるのか、それと
も現在なのか」
「未来、かな……この先ずっと、こんな調子だと嬉しくないなって」
 相羽の様子を横目で窺った。相羽の口が、そうかと声のない呟きの形に動いたように
見えた。
「彼氏さん、えっと相羽君の方は何かある?」
「悩み相談室みたいですね。ええ、今の状況に幸せを感じてはいます。だからこそと言
うべきなのか分かりませんが、将来に対する不安はあります」
 ほぼ同じことを言ってるようでいて、ニュアンスの微妙な違いがあるようなないよう
な。その空気を感じ取れたのか、小早川は具体的な提案をした。
「とりあえずというのもおかしいけれど、二人の将来を観てみよう。ね? 今の状態が
いつまで続くのかとか、よい方に向いているのかとか。結ばれるかどうかまでは言えな
いけれど、相性診断も併せて」
 その線でお願いすることに決めた。
 小早川和水は集中するためにと前置きして、占いコーナー内の明かりを若干落とし
た。ほの暗くなった空間で、水晶玉に手をかざす。その手には、エメラルドかオパー
ル、どちらかの誕生石が握り込まれているようだった。
「――今現在の姿から、将来への像を辿って描きます――今現在の涼原さんは全力疾走
しているイメージ。それも多方面に。水晶玉にあなたの誕生石をかざすと、色々な方向
に電気のようなものが走るから。そのことがさっき言っていた原因? あ、答えなくて
いい。……うん。ときが来れば止まる。そのとき、一緒にいてくれる人が」
 小早川は石を取り替えたようだ。ほとんど間を置かずに、首を縦に小さく振る仕種を
した。そして次に、首を傾げる動作もあった。
「そのとき一緒にいてくれる人が、相羽君なのは間違いない。ただ、それまでに……」
 言い掛けてやめる占い師。純子は何があるのかと反射的に聞き返そうとした。が、そ
のタイミングで相羽が手を握ってきた。おかげで口出しはせずに、占いは続くことに。
「もう少し待っててね。ここは慎重に、段取りを踏んで、彼氏さんの今現在の姿も思い
描くから」
 小早川がそう言って、石――多分エメラルドの方を水晶玉にかざす。その様を見てい
る内に、水晶玉の内部を本当に電光が走ったように思えた。
「うん。ちょっと不思議かな」
 どういう意味ですかと聞き返してしまいそうなのを堪え、続きの言葉を待つ純子。相
羽の手を握り返す手に力が入った。
「相羽君の方は今、岐路に立っているか、通り過ぎたばかり。本人が自覚しているして
いないにかかわらず、そういう地点にいるっていう意味」
「あの、よろしいでしょうか」
 意外なことに、相羽が口を挟んだ。隣の純子も、後ろの二人も少なからず驚いて、は
っとする気配が伝染する。小早川も一瞬むっとしたようだが、すぐに如才ない笑みを浮
かべた。
「何か?」
「高校生はそろそろ進路を決める時期だからってことで、当て推量で言ってるのではあ
りませんか?」
「うーん、私がそういう計算を無意識の内にしているのかもしれないけれども、その辺
りも全てひっくるめての占いよ。これでいい?」
「分かりました。失礼をしました」
「じゃあ、続きを――相羽君が行くであろう道は、彼女さんの道とは交わらないか、大
きくぐるっと回ってきてようやくつながる、みたいなイメージを持った。つながったと
きというかつながったあとは涼原さんとずっと一緒になる、そんな感じよ。今ね、二人
の石を同時にかざしているのだけれど、別ちがたい結び付きがあるのが伝わってくる。
それを思うと、道が交わらない時期があるのが逆に不思議。一時的な物とは言え、これ
だけ相反するものが見えたということは、心掛け次第では大きく変化してしまうことも
ないとは言い切れない……」
 明かるさが徐々に戻っていく。どうやら占いは済んだようだ。
「あのー、結局どういう……」
 終わったのなら聞いてもいいだろうと、純子は尋ねた。
「今のあんまり会えない原因が、まだしばらく続くか、拡大するという解釈になるんで
しょうか」
「少し違うと思う。見た目の原因は変わりがないとしても、間接的に相羽君の選択が関
係してるんじゃないかっていう見立てよ」
「そうですか」
 多少の不安を抱えて、相羽の顔を見る純子。相羽も見つめ返していた。
「まあ、驚かせるようなことを最後に付け加えたのは、二人に緊張感を保って欲しいか
らよ。何があってもどうせ一緒になれるんだからと思い込んで、いい加減な行動を取っ
て、それが原因で不仲になったりしたら、私が恨まれてしまう。実際、似たようなこと
で怒鳴り込まれた先輩を知っているし」
 占い師としての実情をぶっちゃける小早川。神秘性はあまりないけれども、親しみを
覚える人柄に、純子は少なからず好感を持った。
「さあて、知りたいことは他にない? あっと申し訳ない、先にお代をいただいておか
なくては」
 そう言われて、相羽が真っ先に動いた。
「ここは僕が」
 皆まで言わない内に支払いを済ませる。それどころか、ずっと見物していた結城と淡
島に向き直り、「何かあるのなら、僕が出すから観てもらいなよ」と誘った。
「ありがたい話だけれども、私は相談を友達に聞かれたくないわ〜」
 結城が冗談交じりに言うのへ、被せるようにして「僕らは出ているから」と後押しの
言葉をつなぐ。
(相羽君が占いのことでこんないい風に言うなんて珍しい。小早川和水さんを相羽君も
気に入ったのかしら)
 結局、淡島も結城も相羽のおごりで観てもらうことになった。先に座った結城は、外
に聞こえるほどの音量で「彼氏がいつになったらできるのか、知りたいです!」と言っ
ていた。

 帰りは当初の予定よりは遅くなったものの、ちょっとしたずれの範囲内で、明るい内
に最寄り駅まで戻れた。
 結城や淡島とはすでに駅で分かれており、ここから自転車に乗っての帰路は相羽と二
人きり。
「あーあ、楽しかった。ちょっぴり無理をした甲斐があったわ」
「やっぱり、無理をしてたんだ?」
 結城達がいなくなったところで気抜けしたのだろう、つい実情を漏らしてしまった。
相羽にはしっかり聞き咎められたが、もしかすると純子自身も心の奥底では誰かにねぎ
らって欲しいと願っていたのかも。
「そんなに、無理って言うほどの無理じゃないわ」
「隠さなくても。実は、おおよそのところは、母さんから聞いて知ってるんだけど」
「そ、そうだったの。だから誘ったときに、簡単にOKしてくれたのね」
「心配して欲しかった? 仕事がないときは休めって」
「うう。かもしれない。でもいいんだ」
 自転車ではなく徒歩だったら、相羽の方を振り返ってほころぶような笑顔を見せてい
ただろう。
「今日は休んだ以上に充実してたもん。寄ったところは三つとも好みに合って。プラネ
タリウムは内容が入れ替わるまではいいけど、マジックはどうなのかしら? ショーの
内容は同じ?」
「基本となる部分は同じで、あとは客に合わせて変えてくると思うよ。僕らのこと覚え
てくれただろうから、なるべく違う演目になるはず」
「じゃあ、近い内にまた行ってみない? 今度はその、二人で」
「……」
「な、何で黙るの!」
 恥ずかしさから声が大きくなる。相羽が急いで返事を寄越した。
「随分、積極的だなと思って、びっくりした」
「それだけよかったってこと! ……それに、占い師さんにああいう風に言われて、少
し気になったから」
 駅から自宅まである程度行くと、あまり信号がなく、あっても青だったため停まらず
に来られた。が、ここで十字路に差し掛かり、一旦停止した。
「相羽君も気になったでしょ?」
「そう、だね」
 相羽の区切った言い方に引っ掛かりを覚えた純子だが、疑問を言葉にする前に、自転
車を漕ぎ出す。比較的狭い路地に入るため、一列になった。純子は後ろに着いた。
「小早川さんの言っていた岐路って、当たってたんじゃあ?」
 思い切って聞いてみた。相羽の背中から反応が来るまで、ちょっと長く感じた。
「どうしてそう思うの?」
「学校で先生のところによく行ってるでしょ、相羽君。面談の話だけにしてはいつまで
も掛かっているし。やっぱり進路の相談なのかなあと思って」
「なるほど。……純子ちゃん、次に時間が取れる日っていつになる?」
「え? それは分からないけれども、当分無理かなぁ。今日の休みを確保するために、
あとのスケジュールにもしわ寄せが行ったみたいだから」
「そっか、そりゃそうだよね」
 相羽が額に手を当てて、考える姿勢になるのが分かった。そのポーズがしばらく続く
ものだから、「前、ちゃんと見てる? 危ない」と声を張る。
 実際には周囲がまだ明るさを残しているおかげもあって、危ない目に遭うことも遭わ
せることもなく、純子の自宅前まで着いた。
「結局、何だったの? 時間が取れる日って……」
 自転車を降りて門扉の手前まで押して立ち止まり、振り返って尋ねた純子。
「気にしないで。僕の方で何とかする。じゃあ急ぐからこれで」
「? う、うん。分かった。気を付けてね」
 違和感を払拭するためにも、手を強く振って彼を見送った純子。だが、何となく居心
地の悪いものが残った。

            *             *

「母さん、純子ちゃんのスケジュールで一日だけでも完全な休みを作れない?」
 マンションの自宅に帰り着くなり、相羽は母に言った。
 キッチンに立っていた相羽の母は、短い戸惑いのあと、眉根を微かに寄せた。難しそ
うだと見て取った相羽は、答を聞く前に言葉を重ねる。
「無理なら、一番仕事に余裕がある日を知りたい。三日間ぐらいのスパンで見た場合
に」
「……もうすぐ夕飯が完成するから、その話は食べながらにして、今は着替えてきなさ
い。うがいと手洗いもね」
 分かったと素直に動く相羽。
 今日午後から遊んだ中で、二度も暗示的な出来事があった。自分と純子との近い将来
を考えさせる出来事が。表裏一体になったカードと占い、どちらも純子に何かを勘付か
せるきっかけになっているような気がする。
(はっきり聞かれる前に、僕から言わなくちゃ)
 しかしそれにはタイミングを見定める必要がある。当初は、彼女にじっくり落ち着い
て聞いてもらえる時間と場所があれば、何とかなると思っていた。だけれども、少し考
えてみて、純子が関わっている仕事への影響も考慮せねばならないと思い直した。その
目的のために、まずは母に聞いてみたのだが。
「――それを教えても、大して差はないと思うわ」
 母の返答に、相羽は何でだよと口走った。似つかわしくない荒っぽい言葉に、母が苦
笑を浮かべる。
「信一がどんな理想的な状況を描いているのか知らないけれど、ショックを与えずに知
らせるなんて、絶対に無理だから。仕事への悪影響って言うのなら、ショックを二日も
三日も引き摺るかもしれないわ」
「それは……」
 続きが出て来ない相羽。母が意見を述べた。
「とは言ってもね。私から見た印象になるのだけど、純子ちゃんはあなたの留学を知っ
ても、多分仕事はきちんとこなすわ。最高の状態ではない、悪いなりにではあるかもし
れないけれど、責任感のある強い子だから、それくらいはやり遂げる。純子ちゃんにと
って一番影響を受けるのは、あなたがいなくなったあとの日常の方」
「そうなのかな……」
「決まっているわ。好きなんでしょう、お互いに。あなたが考えるべきは、一番ましな
伝え方をしようとか、ベストのタイミングを計ろうとかじゃなくて、離ればなれになっ
たあとの彼女のことを想って、今できる行動を起こす。これじゃないのかしらね」
「……分かるけど。難しい」
 食事の手が止まりがちになるのは、カレーライスのせいだけではない。母に促され
て、何とか再開する。
「私が純子ちゃんなら」
 その前置きに相羽が顔を起こすと、母がいたずらげな笑みを浮かべていた。
「こんな大事なこと、一刻も早く知らせてよ!ってなるかな。次は、ひょっとしたら翻
意を期待するかもしれない。そこは信一が誠意を持って受け入れてもらうしかない。そ
れから――一緒にいられる間にできる目一杯のことをしたくなるわね。信一は求められ
る以上に応えてあげて。そうして彼女に安心してもらう」
「安心」
「そう。たとえ遠くに離れていても、これからの将来ずっと一緒に歩んでいけるってい
う安心」
 おしまいという風に、箸でご飯を口に運ぶ相羽母。
「いいアドバイスをもらえた気がする」
 相羽は無意識の内に頭を掻いた。
「けどさ、純子ちゃん忙しいんでしょ? 出発する日までに、どれだけ時間を取れるの
か……」
「そこはまあ、信一が工夫して。学校にいる間を最大限活用するとか。たとえば、思い
っきりべたべたしてみるとか?」
「母さん!」
 怒ってみせた相羽だったが、次の瞬間には学校で純子とべたべたする場面を想像し
て、赤面と共に沈黙した。

――『そばにいるだけで 67』おわり
※作中に出て来た、皆既日食の起こるとされる月日は、架空のものです。過去及び未来
を通して、同じ七月下旬に皆既日食が日本で観られるケースはあるはずですし、なおか
つ本作のカレンダーと合致する年があるとしても、それは偶然であり、本作の年代を特
定する材料とはなりません。念のため。




#521/598 ●長編    *** コメント #501 ***
★タイトル (AZA     )  19/01/30  22:43  (471)
絡繰り士・冥 3−1   永山
★内容                                         19/02/01 01:30 修正 第2版
「これをどう思うね?」
 十文字先輩が白い封筒とその中身の便箋を示しながら云った。
「この住所のところに行ける? ちょっと季節外れでも、南のリゾート地に行けるなん
てうらやましいにゃ」
 一ノ瀬和葉が答えて、ホットミルクの入ったグラスを両手で引き寄せた。穴の開いた
棒状のお菓子をストロー代わりにして、ぼそぼそと吸っている。
「――百田君、君は?」
 先輩の目が僕に向いた。先輩の注文したコーヒーと焼き菓子がちょうど届いた。
「招待状を受け取る心当たりはあるのですか」
 僕は冷めつつある残り少ないパスタをフォークで弄びながら尋ねる。
 ここは七日市学園のカフェだ。今は放課後の四時。他の利用者はほとんどいない。冷
たい雨が降っているせいか、早々と帰路に就いた者が多いのだろう。唯一、遠く離れた
席で、女子の二人組がお喋りに花を咲かせている。――いや、何やら深刻そうに話し込
んでいる。
「ないさ」
 きっぱりとした返答の十文字先輩。名探偵を志し、実際にいくつかの凶悪犯罪を解き
明かしてきたこの人にとっても、見知らぬ人物から招待状を送られるなんて経験は、珍
しいらしい。それで先輩が困惑したのかどうかは分からないが、意見を聞きたいという
ことで、僕らはカフェに呼び出され――来たのは先輩の方が遅かったけれども――、今
に至る。
「字は毛筆体だが、プリンターで出力したものだね。差出人の名は小曾金四郎と書い
て、こそ・きんしろうと読むと判断した。初めて見る名だ。住所の記載はなく、消印す
らない。直に郵便受けに放り込んだと思われる。中身は便箋と飛行機のチケット。文面
は多少凝っているが、内容は至ってシンプル。『貴殿の探偵業における日頃の活躍を賞
し、また慰労のため、保養の地にご招待する所存』云々かんぬん。要するに、探偵とし
てよくやったから骨休めに来いという訳だ。どこで活躍を見てくれていたのか知らない
が、これを直に郵便受けに投じていることや、スマホや携帯電話その他モバイル機器の
類は持参するなと書いてあること等からして、怪しさ満点だよ」
「小曾金四郎ってのも本名じゃないんでしょうね」
「恐らく、いや間違いなく偽名だろうな。振り仮名がなかったんだが、こそきんしろう
と読める名を名乗ったのは、別の意図があるんだと思う」
「と云いますと?」
 僕が莫迦みたいにおうむ返しした横で、一ノ瀬が「あ」と叫んだ。ストローは消え、
ミルクも飲み干していた。
「もしかして、アナグラム? えっと、ローマ字なら、KOSOKINSHIROUだ
から……」
「KURONOSOSHIKI――『黒の組織』になる」
 すかさず答えた十文字先輩。著名なアニメでもお馴染み、悪者グループの俗称、代名
詞みたいなものと云えよう。
「これが偶然でないとしたら、ますます警戒する必要があるのだが、こういった招待状
に対して、怖じ気づいて応じないというのも名探偵像にはない」
「じゃあ、乗り込むんですか」
「それは君の返事次第だよ、百田君」
 想像の斜め上から来た文言に、僕は口をぽかんと開けた。頭の方も一瞬、ぽかんとな
ったかもしれない。
「ど、どういう意味ですか」
「お誘いの文句には、集合する日時と場所の指定に続けてこうある。『同封したもう一
枚は、お連れの方の分としてご自由にお使いください。ただ、一つだけ当方の我が儘を
述べさせていただきますれば、十文字探偵の名パートーナーでワトソン役である方をご
同伴願えたらと、切に願う所存です。』とね」
「僕のこと、ですか」
「そうなるね。ワトソン役を連れてこいということは、向こうで事件が起きる、少なく
とも準備がなされている可能性が高い。モバイル禁止は、外部の助けを借りるなという
示唆じゃないかな。向こうがここまでして待ち構えているのに、行かずにいられようか
という気分の高鳴りを覚えるんだよ。無論、君の意思は尊重したい」
「待ってください。僕が行かないとしたって、他に誰か頼めばいいのでは? たとえば
……五代先輩を通じて、警察の人に同行してもらうとか」
 五代春季先輩は十文字先輩の幼馴染みで、警察一家に生まれた。柔道の腕前は強化選
手クラスだ。
「この段階で、警察が動くとは考えづらい。仮に動いてもらったとして、何も起きない
内から、探偵が警察を連れて来るというのもまた前代未聞じゃないかな」
「だったら、せめてボディガード的な……それこそ五代先輩や音無さんがいれば、心強
いじゃないですか」
 音無亜有香は僕や一ノ瀬と同級で、剣道に打ち込んで強さを磨いている。こと暴力沙
汰になれば、僕なんかよりずっと役に立つ。
「ご指名は――名指しじゃないが――君なんだよ。特別な理由なしに、君以外の者を同
行させたら、僕が臆病風に吹かれたみたいに映るじゃないか。そうなるくらいなら、最
初から招待を断る」
 何となく格好いいこと云ってるみたいに聞こえるけれども、矛盾してる。そこまでメ
ンツを気にするなら、行かないというのはあり得ないはず。一人でも行くというのが最
後の選択肢なのではないのかしらん……なんてことを先輩相手に指摘できるはずもな
く。多分、十文字先輩は僕に着いてきて欲しいのだと思う。理由は不明だけれど。
「いつなんですか。都合がつけば行きますよ」
 僕の返事に、高校生名探偵は破顔一笑した。

 いくら南国のリゾート地といえども、連休を丸々潰して出向くには、不気味で不確定
な要素が多すぎる。一ノ瀬が云ったように時季外れだし……と、旅立つ前はそう思って
いたのだけれど。
「ようこそ、ワールドサザンクロスへ」
 空港のすぐ外、送迎車らしきワゴンカーの前で待機していた女性二人は朗らかに云っ
た。僕の方に付いた女性は、どことはなしに全体的な雰囲気が音無さんに似ていて、そ
れだけでこの旅がいいもののように思えてきた。あ、毎度のことだから記すのが遅くな
ったけど、僕の理想の女性像は音無さんなのだ。
 尤も、年齢は僕ら高校生より上であるのは確実で、四年生大学卒業前後といった辺り
に見えた。彼女はミーナと名乗り、十文字先輩に付いたもう一人はシーナと名乗った。
もちろん本名ではなく、当人らの説明によると、小曾氏の自宅に隣接する形で氏がオー
ナーを務めるリゾート施設があり、そこのショーに出演するプロのパフォーマーだとい
う。
「そんな方々が迎えに、わざわざ車を運転してくるなんて。まさか、自動運転じゃない
でしょう?」
 先輩が真顔でジョークを飛ばすと、ミーナとシーナはより一層の笑顔を見せた。
「ご安心ください。運転手は別にいます。名を東郷佐八(とうごうさはち)といいま
す」
 スライド式のドアを開け、中へと導かれる。運転席の中年男性に挨拶をすると、振り
向いて強面を目一杯柔和にして挨拶を返してくれた。
「このまま我が主の邸宅へ向かいますが、寄りたい場所があれば云ってください。道す
がら、目にとまった場所でもかまいません」
「とりあえず落ち着きたいので、目的地に直行でお願いします」
 実際問題、下調べをするゆとりがなかったため、どこに何があるのかさっぱりだ。結
局、コンビニエンスストアに立ち寄って、ご当地仕様のお菓子や飲み物なんかを多少買
い込んだぐらいで、他に寄り道はせず小曾邸に着いた。最終的に車は五十分ほど走った
ようだ。
 門をくぐって、噴水を中心にロータリーみたいになっているところで降ろされた。
ミーナが荷物を持ちましょうと云ってくれたが、断った。つい浮かれ気分になりそうな
陽気だが、この旅行は正体不明の差出人からの怪しい招待を受けてのもの。警戒するに
越したことはない。それを云い出したら、迎えの車に乗るのはどうなんだとなるが、だ
ったらそもそも招待に応じなければいいとなるので、虎穴に入る覚悟をある程度してい
る。
「こいつは……想像していたのとは若干違うが、豪邸だな」
 先輩の言葉に、僕も同感だった。ちょっとしたお城のような洋館を思い描いていたの
に対し、目の前に現れたのは、平屋造りの日本家屋。ただ、敷地面積がやたらと広い。
多分、余裕で野球ができる。
 隣接されているレジャー施設も背の高い建物はなく、黄色と青色を配したかまぼこ型
の屋根が長く伸びているのが確認できたのが精一杯だった。
 背の高い扉の玄関の前まで来て、ふと気付くとミーナもシーナもいない。東郷は元か
ら車を離れていない。
 どうしたものかと迷う間もなく、観音開きのドアが内側から押し開けられた。スムー
ズな動きで、音はほとんどしない。
 執事か何かが登場すると思っていたら、筋肉質な身体の持ち主がいた。若い男――と
いっても三十前ぐらいか――で、黄色のシャツに赤いジャケット、膝下でカットしたブ
ルージーンズという信号機みたいななりをしている。男前なのに残念なセンスの持ち主
なのかなと思った。
「よく来てくれたね。僕が小曾金四郎だ。よろしく」
 いきなりの招待主登場に、僕は面食らった。対照的に先輩は、小曾が満面の笑みで差
し出した右手を自然に握り返し、握手に応じている。ああ、何はともあれ、名前の読み
は“こそきんしろう”で当たっていたんだ。
「探偵の十文字です。お招き、ありがとうございます。こちらはワトソン、百田充君で
す」
 先輩の紹介に続いて、僕も小曾と握手。とりあえず名前だけ云って、あとは黙ってお
いた。
「早速ですが、僕らを招いた真の目的は何です? 本当に称えるためだけなら、失礼で
すがこのような僻地まで呼び付けずとも、僕らの地元で祝ってくれればいいのにと感じ
たんですがね」
「話が早いのは助かる。依頼がしたい」
 小曾は最初の笑顔を消して云った。
「依頼なら他に簡単な方法が――」
「ただの依頼じゃない。訳あってこのような迂遠な方法を採ったんだ。否、採らされ
た」
「採らされたとは?」
「言葉通りの意味だ。強制されたのだ」
 つい先程から、低い振動音が微かに聞こえている。スマートフォンか携帯電話のマ
ナーモードによる音らしく、どうやらそれは小曾の方から聞こえる。
「やっと許可が出た。僕は小曾金四郎ではない。俳優だ」
「はあ?」
「名前は岸上健二(きしがみけんじ)、あんまり売れていないが、ネットで調べればい
くつかの舞台劇や映画に出ていると分かるだろう。そんなことは重要じゃない。僕は今
の今まで、小曾金四郎役を強制されていた。さっき、スマホに着信があったんだが、そ
れが合図でこうして事情を君達に喋っている」
「きょ、強制されているって、何が原因なんです?」
 思わず、僕は口を挟んだ。横手から軽く舌打ちする音がして、十文字先輩が僕の肩に
手を掛けた。
「百田君。今は岸上さんの話を聞くのが先決だ。何者か知らないが、彼を操っている人
物から話すチャンスを与えられたようなのだからね」
 なるほど、喋れることを全て喋ってもらおうということか。質問するだけ時間の無駄
という訳だ。岸上も意図を汲み取り、一気に話す。
「僕には妻と子供がいて、三日前から人質に取られている。相手は小曾金四郎と名乗
り、妻達の身の安全と引き換えに、僕に指示をしてきた。警察には届けていない。君ら
には申し訳ないが、この条件なら達成できると思った。云うことを素直に聞いて、妻と
子供を無事に返してもらうつもりだ。条件というのは、さっきの着信まで小曾金四郎の
ふりをして、云われた通りの役回りを務めることと、もう一つ。君達というか十文字君
に、簡単な問題を解いてもらうことだと聞かされている。問題が何かは聞かされていな
い。このあと、指示が来るはずだ。それから、小曾がどこかから見張っていると思うん
だが、詮索するなと厳命されている。そのことは君達も守ってくれ。お願いだ」
 岸上が明確な返事を求める目を向けてきたので、先輩も僕も首肯した。
「もちろん、守ります。話したいこと、話せることは以上ですか」
 先輩の問い掛けに、岸上は一瞬考える仕種を覗かせ、次に早口で云った。
「聞きたいことがあれば聞いてくれ。次の指示があるまでは、自由に答えられる」
「とりあえず三つまとめて聞きます。いつどのようにしてここに来たのか。小曾からの
接触はどんな方法だったか。奥さんとお子さんが無事である証拠は示されたのか」
「着いたのは昨日だ。正午過ぎだった。多分、君らと同じ車で運ばれた。犯人の小曾か
らは三日前の夜、家の固定電話に電話があった。妻が自転車で保育園に飛翔(かける)
を迎えに行った帰り道、妻と飛翔を誘拐したと云っていた。ここへ来る交通費やルート
は、郵便受けに入っていた。無事である証拠は声を聞けた。最初の電話のときから一日
に一度ずつ、一分あるかないかの短い時間だったが」
「次の三問です。昨日着いてから今まで、何をして過ごしましたか。この家や隣の施設
に実際に使われてきた形跡はありましたか。あなたの他に、誰がいますか」
「到着したその日はずっと監禁されていた。奥の方の土蔵のような部屋だった。見張り
の有無は不明だが、外から鍵を掛けられた。食事は小型冷蔵庫があって、その中から適
当に食えと云われていた。トイレも簡易式の物があった。こう説明していると牢屋だ
な、まるで。今朝になって部屋を出された。身なりを整え、こんな格好に着替えさせら
れ、君らの到着を待った。二問目については、よく分からん。この家の方は使っていた
形跡はあるが、住人がいたのかどうかは知らない。隣の施設となるとさっぱりだ。サザ
ンクロス何とかだっけ? サーカスか何かみたいなものだと思っていたが、人の気配や
歓声はなかったな。それから他に誰がいるかは、答えることを禁じられている。云える
のは、犯人側ではない者が何人かいるとだけ」
「――他に禁じられていることは何? 電話をしてきた小曾の声の調子はどんな感じだ
った? それから」
「すまない。着信があった。時間切れらしい」
 岸上は俯き気味に首を振った。ポケットの中で、機械を操作するのが分かる。
「このあと、僕はまた小曾金四郎として振る舞わねばならない。君らもそのつもりで対
応してくれ。他の連中は何が起きているのかをまだ知らない。抽選に当たってただで旅
行に来られてラッキーと思っているようだ」
 言葉を句切ると、岸上は「入ってくれたまえ」と語調を改めて云った。
「案内は彼女達がやってくれる」
 ドアが閉じられてから、岸上が手で示した先には、ミーナとシーナの二人がいた。初
対面時のラフな格好と異なり、ホテルマンのような制服を身につけている。
 岸上の方には東郷佐八が着き、先を歩かされるようにしてどこかへと消えていった。
「ミーナとシーナ。君達には質問してかまわないかい?」
 先輩は物怖じする様子もなく、むしろ気さくな感じで尋ねた。女性二人は顔を見合わ
せたかと思うと、ミーナが口を開いた。
「こちらは将来、宿泊施設に改装もしくは増改築することを念頭に、今回テストとし
て、お客様にはお泊まりいただくことになっております。お二方もモニターという訳で
す。ご質問にはできる限りの範囲でお答えしますが、かような事情ですから、確定的な
返答ができかねる場合もありますことをご了承ください」
「ああ、いや、そうじゃなくて」
 表情に戸惑いが微かに滲む十文字先輩。その間に部屋への移動が始まる。
 やがて、まずは手探りとばかりに、当たり障りのない質問を探偵は発した。
「あなた方はパフォーマーなのに、従業員のような役割を受け持っている? おかしく
ない?」
「現在、私達は故障を抱え、パフォーマンスの方はお休みをいただいています。その
間、別の業務を、という判断がなされました」
「あなた達を雇っているのは小曾金四郎? いや、名前ではなく、さっきいたあの男
性?」
「違います。オーナーの姿を見掛けたことはあまりありませんが、先程の方でないこと
は確かです。あの、質問を返すのは申し訳ないのですが、先程の男性はあなた方に小曾
と名乗られたのでしょうか」
「――ええ、まあ」
「では、オーナーがお客様の皆さんのためにご用意した趣向だと思います。詳しいこと
は一切聞かされていないのですが、誰もが驚くイベントがあるとか。そのおつもりで、
お過ごしください」
「ええ、楽しみに……。東郷さんとは、以前からのお知り合いなんですか」
「はい。東郷は送迎バスの運転手の他、雑用をこなします。ワールドサザンクロスの設
備に不具合が見付かれば、あの人が修繕することがほとんどです」
「なるほど。他にも宿泊客がいるはずだけど、彼らもモニター役とは知らずに来たのか
な」
「知っている方もいれば、ここへ来て初めてお知りになった方もいました。現時点では
皆さん把握されていますから、気兼ねなく交流をお楽しみください」
「……」
 先輩が黙り込む。と同時に、部屋に着いた。扉には味も素っ気もない漢数字「一」の
プレートが掛かっていた。
「こちらになります」
 二人部屋で、扉を開けてみると、玄関の土間に当たるスペースが設けられており、部
屋へはもう一つ内扉があった。再び扉を開け、ようやく十畳程の和室と分かる。内扉は
ふすま風で、外扉は洋風のドア。上がり框が設けられていることからも、すでに宿泊利
用のため、この和風建築のそこかしこに手を入れてあると窺い知れる。
「ご宿泊中は、そちらにありますスリッパをお使いになれます。室内の小さな冷蔵庫は
ご自由にお使いください。中の物もご自由にどうぞ。夕食は――」
 ざっと説明を済ませたあと、シーナとミーナは部屋のカードキーを置いて去って行っ
た。
「さて、できることならワールドサザンクロスに関して、もっと調べておきたいところ
だが」
 荷物を部屋の片隅に放りつつ、先輩が云った。
「素直にルールを守ったおかげで、ネットが使えない。近所に聞き込みに行くのも簡単
ではなさそうだ」
「近くに民家は見当たりませんでしたからね。それよりも、案内してくれた人やその他
と、どう接するのがいいんでしょう? 犯人の小曾と通じている者だっているかもしれ
ませんよ」
「今は、相手のやり方に乗っかるしかあるまい。人質を取られていることを忘れないよ
うに」
「ですが……問題発言かもしれませんけど、あの岸上さんの話を信じられるかどうかも
分からない訳で」
「無論、それを含めて、敵の策略かもしれない。しかしこれは相手が仕掛けてきたゲー
ムだ。最初っからレールを踏み外すような真似はしまい。僕に害を加えることが目的な
ら、歓待の席で毒を盛るなり、行きの飛行機を落とすなり、簡単な方法や派手な方法は
いくらでもあるだろう。わざわざ舞台を用意するからには、意図があるに違いない。恐
らく、この十文字龍太郎の探偵力を試す」
 語る先輩の顔は、微笑しているようにも見えた。

 小曾金四郎が何を解かせようとしているのか提示されない内は、こちらか動く必要は
ないとの判断で、夕食のある午後六時半までは自由に振る舞うこととなった。
 とはいえ、矢張り気になる。何しろ、誘拐事件が起きているのだから。岸上の近くに
いて、一刻も早く次の小曾からの指示なり何なりを掴むのが最善の策ではないのか。そ
のような意見を先輩にしてみた。
「云いたいことは分かる。だが、そんな風に待ち構えるのは、詮索の一種になるんじゃ
ないか」
「それは……微妙な線だと思いますが」
「今現在、岸上氏は小曾金四郎として振る舞っている。その前提を無視するのは、避け
た方がよい気がするんだよ」
「確かに先手の打ちようはないですし、外部に援軍を求められる状況でもないでしょ
う。しかし、何かできることはあるんじゃあ……たとえば、隣の施設に行って、下調べ
をしておくとか。わざわざこの場所を指定したからには、きっと何らかの関連があるん
ですよ」
「僕もそれは考えた。考えた上で、二番目の優先事項だ。ここにいなければ、犯人から
の指示を報せてもらうのが遅れる可能性があるからね」
 そうか。携帯電話やスマホがない影響がここに出る訳か。
「携帯端末を誰かから借りるのはどうです? 従業員は信用できるかどうか半々でしょ
うけど、宿泊客なら」
「宿泊客なら信用できるという理論は怪しいが、借りるのは考え方として悪くない。問
題は、他の人達が持って来ているかどうかだ」
「え? そりゃ持ってるでしょう」
「どうかな」
 十文字先輩は後ろを向いた。
「館内専用のようだが、電話がある。あれでフロントに問い合わせてみないか? スマ
ホなどの持ち込み禁止ルールは徹底されているのか、といった具合に。他の宿泊客にそ
んなルールがないとしたら、電話に出た従業員は怪訝な反応を示すだろうさ」
 僕はすぐにやってみた。すると電話に出た女性従業員――多分シーナ――は、「は
い、厳密に守られています」との返事をくれた。それとなく理由を尋ねると、「皆様は
モニターとしてお試しで当施設をご利用になられています。云うなれば、企業秘密に関
わる事柄ですので、ここでの体験や情報をリアルタイムかそれに近い形で外部に流され
るのは禁止させていただいております」との答を得た。
「――だめでした。矢っ張り、全員が禁止です」
「そうだろう。理由付けがし易い状況だしな」
 満足げに頷く先輩。モニター云々という理由を見越していたらしい。
「まあ、落ち着かないのは分かるが、落ち着こうじゃないか。買ってきた菓子でも食べ
て、栄養補給しておくといい」
「そうですね。夕飯にはまだありますし」
 木製の四つ脚テーブルの上には、電気式の小振りなポットが一つと、湯飲みが二つ、
ティーバッグがいくつかまとめて置いてあった。茶菓子もあるにはある。
「お茶、入れます? それとも冷蔵庫の中から……」
「実は迷っている。いや、何を飲むかじゃない。もし僕を試すつもりなら、飲み物類に
は全て眠り薬が仕込んであって、迂闊に飲んだらぐっすりと眠りこけてしまうんじゃな
いか、とね」
「そういうテストまでされるんだとしたら、気力が保ちませんよ。風呂にいるときだっ
て、布団で寝ているときだって、襲われる可能性を念頭に置かなきゃならなくなる。今
だって、いきなり何者かが乱入してきたら」
「僕が云っているのは、ちょっとニュアンスが違うんだが、まあいい」
 十文字先輩がそう云ったとき、部屋の戸が激しくノックされた。ついさっき、乱入な
んて想像していただけに、余計にどきりとした。僕達は二人して応対に出る。鍵を掛け
たまま、まず僕がドア越しに「どなた? 何ですか?」と誰何する。
「東郷です。十三号室の小曾金四郎様から言伝があります」
 ノックの激しさとは裏腹に、落ち着いた調子のダミ声が響いた。僕の隣で先輩が「十
三号室? オーナーではなく、岸上氏のことか」と呟く。それから外に向けて、「この
まま読み聞かせてください」と云ったのだが、反応は歯切れが悪かった。
「それが、読み上げるにはいささか不適切な内容なので……」
「分かった」
 先輩はドアを開け、東郷佐八を中に入れた。彼の手を見てさらに云った。
「メモがあるのなら、直に見たい」
 この申し出に東郷は考える様子もなしに、すっと渡してくれた。この施設専用のメモ
用紙らしく、ロゴが入っている。
<犯人からの指示があった。君達への出題だ。直に奥の部屋に来てもらいたい。13号
室 岸上>
 なるほど、ドア越しに声を張り上げるには、「犯人」とは云いにくいだろう。
「奥の部屋とは十三号室のことなんですか」
 靴を履きながら問う十文字先輩。東郷は「恐らく。前の廊下の突き当たりが十三号室
なので」と答えた。
「その部屋は土蔵や牢屋のようになっている?」
「まさか。こちらの部屋と同じですよ」
 苦笑交じりに返答された。岸上が監禁されていた部屋は、別にあるらしい。
「急ごう」
 足早に行動を開始した先輩に、僕だけでなく東郷も着いて行く。
「東郷さんに聞きたい。これはイベントの一環?」
「分からんのですが、多分そうなのでしょう。実を云うと、三日前からオーナーは姿を
くらましていて、こちらにはおりません。秘密主義のところがある男で、またいつもの
癖が出たなと」
「あなたはオーナーの小曾金四郎氏とはどのくらい親しいんですか」
「親しいも何も、オーナーとは親戚でして。私の妻の兄が、オーナーの義理の母と姉弟
の関係になる」
「……小曾金四郎というのは本名なのですか」
「いえ。オーナーはかつて芸人をやっており、そのとき名乗っていた芸名をそのまま使
っている次第で。本名は那知元影(なちがんえい)と云います」
 東郷が矢継ぎ早の質問に淀みなく答え切ったところで、十三号室の前に辿り着いた。
「それでは自分はここで」
 帰ろうとする東郷。オーナーの部屋に案内してもらうような錯覚をしていたので、こ
の人に取り次いでもらうのは当然だと思っていたが、考えてみれば関係ない。仮にイベ
ントだとしても、従業員が特定の客に肩入れする形になるのはまずかろう。
「――待ってください。返事がない」
 早々にノックしていた十文字先輩が、東郷を呼び止めた。扉の取っ手をがたがた揺さ
ぶりつつ、「鍵も掛かっている。どうすれば?」と続ける。
「おかしいですな」
 素が出たような困惑の呟きをした東郷。扉にロックがされていること及び中に呼び掛
けても反応がないことを確認し、首を捻る。
「伝言を預かったのは、ついさっきなんだが。十分も経っていない」
 来いと呼び付けておいて、十分足らずで部屋を離れるのはおかしい。意図的に身を潜
めたか、あるいは。
「開けることは?」
「マスターキーを取ってくれば、開けられますが」
「……オーナーの指示で禁じられているとかでないのなら、開けてください」
 十文字先輩の要請に、東郷は黙って応じた。きびすを返し、今来た長い廊下を急ぎ足
で戻る。
「悪い予感しかしないな」
 先輩の言葉に、僕は「え?」と目で聞き返す。
「岸上氏は命じられて強制的に操られているだけで、直に害を蒙ることはない。そう思
い込んでいた。だが、今の状況は……」
 そこから先は口をつぐむ名探偵。もしや十三号室の中には、襲撃されて声も出せない
岸上がいるのだろうか。それこそ最悪の事態を想像したそのとき。
「あ? 開いている」
 何の気なしに触れたドアが、すっと開いた。
「何かしたのか、百田君?」
「いえ、何も。触れただけです」
 冷静さを失って、どもりそうになるのを堪えながら、僕はドアが動くことを示した。
「よし、入るとしよう。ただし、二人一辺に入るのはよそう。閉じ込められでもしたら
間抜けだ」
「でも、中に犯人がまだいるとしたら、一人は危険なんじゃあ」
「現段階では、誘拐が起きたと岸上氏が云っているだけだ。殺人や傷害事件が発生した
とは限らない。そこら辺を確かめないと、話が進まないんだよ。心配しなくても部屋に
入るのは僕で、君は見張りを頼む。充分に注意して、何かあったら大声で知らせてく
れ」
「先輩も気を付けて。中で何かあったら知らせてくださいよ」
「五代君に鍛えてもらったから、多少の心得はあるつもりだ」
 云い置くと、十文字先輩は扉を全開にした。僕は廊下全体に意を注ぎながらも、入っ
て行く先輩の背中を見送った。

 意識を取り戻すと、状況が激変していた。
 時刻は夕方。ブラインドの降りた窓からそれらしき光が差し込んでいる。場所は……
宛がわれた部屋ではない。荷物がないし、布団を敷いた覚えはないのに、今の僕は布団
の上に腰を落としている。そして寝床の横には人の刺殺体がある。
 驚きのあまり声を失うという経験が今までにもないではなかった僕だけれども、この
ときばかりは悲鳴を上げたつもりが出せなかった。物理的にシャットアウトされてい
る。緩くではあるが猿ぐつわをされていた。両足首には手錠のような物がはめられ、両
手首も後ろ手に結束バンド(直に見えてないので恐らく)で自由を奪われている。身体
が固いつもりはないが、この状態で腕を前に持って来るのは無理。肩が抜けそう。縄抜
けの術があれば習っておけばよかった。探偵助手としてのたしなみというもの――いや
いやいや、僕は探偵になりたい訳じゃないし、ましてやワトソン役に好んでなった訳で
もない。
 とにもかくにも、現状の理解だ。
 廊下を見張っていたら、突然、首筋に電撃みたいな一撃を食らって、意識を失った…
…んだと思う。薄れる意識の中、背後は壁なんだ、襲われるなんてあり得ないと疑問に
感じて振り返ったのを覚えている。そのとき視界に端っこに、壁が開いて中から腕が出
て来ていたような。恐らく、壁には仕掛けがあって、普段は単なる壁にしか見えないの
が、機械的な操作で口が開き、そこから腕を伸ばして僕の首筋を殴ったか、電気ショッ
クを与えたかしたのではないか。だとしたら、位置関係から類推するに、僕を襲った腕
の主は十三号室の中にいたことになる。つまり、十文字先輩も襲われて、僕と同じよう
に拘束されているのか?
 ……まさか、死んでいるのが先輩?
 僕は確かめるために、身をくねって遺体ににじり寄った。
 遺体は俯せで、あちらに顔を向けている。そもそも僕がこの人物を見て死んでいると
判断したのは、背中に深々と突き刺さった刃物状の凶器と、床に広がる大きな血溜まり
が理由だが、絶対確実に死んでいるとは言い切れない。といって、声を出せない今、ち
ょんちょんと爪先でつつくぐらいしか反応を見ることはかなわないのだが、もちろん実
際にはしない。
 やや近くで見る内に、この人物が東郷佐八その人だと分かった。後ろ姿が、記憶と重
なる。十文字先輩とは全く異なるシルエットなのに、一瞬でも勘違いしそうになった自
分が情けない。メンタルの疲弊を覚える。自覚したならしたで、意識して己を奮い立た
せる。
 何故、僕がこんな目に遭うのか。もっと云えば、何故、十文字先輩ではなく、僕なの
か? 招待状は高校生探偵である十文字龍太郎宛だった。こうして死体を見せつけるの
なら、名探偵相手に展開するのが常道ってやつじゃないのか。しかし、現実にはそうな
っていない。理由は何だろう?
 まず考えられるのは、僕だけじゃないってケース。さっき思い浮かんだように、先輩
も同じ状況下に置かれているのかもしれない。その場合、先輩が監禁されているのは、
十三号室か?
 次に、何かの手違いや思い違いで、僕が十文字龍太郎だと見なされているケース。可
能性は低いだろうけど、ないとは言い切れない。敵が深読みをする奴で、“名探偵たる
者、こんな怪しげな招きに乗ってくるからには、最初からワトソン役と入れ替わってい
るに違いない”なんて誤解した恐れ、なきにしもあらず。
 三番目は、想像したくないけれども、十文字先輩が既に亡くなっているケース。死者
を相手に死体を見せつけてもしょうがない。犯人だってわざわざ呼び寄せた名探偵をい
きなり殺すつもりはないだろうから、あるとしたら十三号室で乱闘になり、先輩の方が
制圧されて命を落とした可能性ぐらいか。犯人は計画を放り出せずに、僕を代役にして
続行している。もしこれが当たりなら、僕にとって最悪だ。
 四番目は……だめだ、思い付かない。意識を失っていた影響もあるのかもしれない。
 とにかく助けを呼ばなくては。窓ガラスを割るのが最も手っ取り早いだろうが、手足
を拘束された状態で、怪我をせずに割れるかどうか。窓の高さは、一般的な成人男性の
腰の辺り。普通よりは低いかもしれないが、それでも割るのは大変に違いない。道具も
使えそうになく、そもそも窓の下まで五メートルはある。あそこまで這っていくのと、
ぴょんぴょん飛び跳ねていくのとどちらがいいだろう。後者の方が楽だろうけど、もし
転倒すると血溜まりに身体を突っ込む恐れがある。
 まあそれらは些細な点だ。もう一つの脱出経路を検討してみる。ドアだ。窓と反対側
でやや暗く、すぐには気付かなかったが、ドアがある。学校の体育倉庫によくあるタイ
プ。横にスライドする大きな金属製の扉らしい。外から施錠されているのかどうか、こ
こからは分からない。危険防止のため、外からのロックを内側からも開錠できる仕組み
になっているのか否かも不明。距離は窓までよりも若干遠く、七メートルくらい? こ
うして観察していくと、意外に広い。本当に倉庫なのかもしれない。影になって見えづ
らいが、部屋の隅には大ぶりな物体がいくつか置いてあるようにも見える。
 と、ここで別の不安が沸き起こった。おいそれと助けを求めて大丈夫なのか。犯人に
見付かるのは避けねばならない状況なのだろうか。――これにはすぐに判断を下せた。
こうして人を拘束した上で死体を見せつけているのだから、犯人はとっくに立ち去って
いるだろう。次はおまえがこうなるという警告ではなく、飽くまでも高校生探偵への挑
戦と見なすのが妥当。こうとでも信じなければやっていられない、というのも無論あ
る。
 他に出入りできそうな場所を求めて、再三再四、視線を走らせる。するとまた新たな
発見があった。体育倉庫みたいだという連想が効いたのか、壁際の下部、踝ぐらいの高
さに、いくつかの小窓があると分かった。窓と云ってもガラスはなく、板状の蓋を横滑
りさせて開閉できる仕組みのようだ。体育館や体育倉庫にあった、空気の入れ換えのた
めの吐き出し口みたいなものか。施錠の有無は不明だが、どちらにせよ、大の大人が通
り抜けられる程のサイズはないと見えた。目算で、たてよこ三十センチメートルより大
きくはあるまい。二枚の蓋の間に柱がなければ、その二枚とも外に蹴り飛ばすことで、
穴が大きくなるのだが、現実には頑丈そうな金属の棒が通っている。
 検討結果が出た。窓ガラスを割るのが最も手早くできるはず。うまく割れずに脱出し
損なっても、音で気付いてもらえる可能性がある。
 僕は意を決し、身体を起こそうと試みた。やや遠回りになってもいいから血溜まりを
避け、なるべく窓に近付く。もし転倒したらそこからは芋虫のように這うか、横方向に
転がるか。
 ある程度状況を想定した上で、実行に移す。が、その努力は意外な形で幕が下ろされ
た。
「百田君、いるか?」
 足元の小さな扉がスライドし、その軋むような音に混じって十文字先輩の声が聞こえ
た。
 僕は猿ぐつわの存在を忘れ、「います!」と叫んだつもりだった。

――続く




#522/598 ●長編    *** コメント #521 ***
★タイトル (AZA     )  19/01/31  00:25  (432)
絡繰り士・冥 3−2   永山
★内容                                         19/02/01 01:31 修正 第2版

 拍子抜けする程唐突に窮地を脱し得た。僕はそう思っていた。
「客観的に云って、君の立場は厳しい」
 地元警察の栄(さかえ)刑事は、四十代半ばと思しき男性で、これまで知り合ってき
た警察関係者の中では穏やかな方だろう。太い眉毛を除けば柔和な顔立ちだし、声も威
圧的ではない。ただ、上にも横に大きい巨漢なので、空間的には圧迫感を感じる。太っ
ているというのではなく、大昔の武将みたいなイメージだ。狭い取調室だったら、それ
だけでギブアップする犯人もいるかもしれない。幸い、ここは取調室ではなく、僕(と
十文字先輩)に宛がわれた部屋だし、そもそも僕は犯人じゃない。
「ワールドサザンクロスの西側にある倉庫は、俗に云うところの密室状態にあり、その
中で東郷氏の刺殺体と一緒にいたのは君一人だ。一つしかない扉と六つある窓はいずれ
も施錠され、扉の鍵はスペアも含めて東郷氏自身が身に付けていた。あの場所はそこそ
こ広いし、何だかんだ物が置いてあったので、人が隠れるスペースはあっただろうが、
君を見付けて皆で救出した際、こっそり出ていく者ようなはいなかったと証言を得てい
る」
 窓ガラスを割ることで十文字先輩や施設の人が中に入り、僕を助けてくれたという。
 なお、僕の手足を縛っていた結束バンドや手錠は、自分自身で付けられる物だから、
犯人ではない証拠にならないとされた。
「証言をしたのは君の知り合いで先輩の十文字君だ。彼が嘘を吐く理由はないようだ
し、君との関係も良好のようだ。しかも彼は、君に対する救出は他人に任せ、彼自身は
東郷氏の遺体をそばから観察していたという。これがどういうことか分かるかい?」
「……犯人が僕以外なら、扉の鍵を密かに被害者の懐に戻すという方法は採れなかった
ということでしょうか」
 答えると、栄刑事は意外そうに口をすぼめた。
「ほお、本当に分かるんだな。十文字君が云っていた。名探偵の助手として経験を積ん
だのだから、これくらいは察するに違いないと」
「はあ」
 現状で、そんなことで誉められても嬉しくはない。
「足元にある換気のための小窓は、外側からでも自由に開閉できるが、そこを利用して
鍵を東郷氏の懐に戻すというやり方も、どうやら無理のようだ。何せ、鍵は胸ポケット
にあったのに対し、遺体は俯せの姿勢だったからねえ」
「何か絡繰りめいた仕掛けがあるのかも」
「秘密の隠し扉とか? そういうのは見付かってない。君が証言した、最初に襲われて
意識を失ったという話も、信じがたい。壁から腕が出て来たように感じたと云うが、十
三号室に隠し扉はなかった」
「そんな」
「設計図と実際とを比べ、念入りに調べたから間違いない。建てたのも外部の人間だ。
何か隠し事をしているとは考えられない」
「じゃあ、僕を後ろから襲ったのは……」
「君の言葉を信じるなら、一つだけ可能性がある。襲ったのは十文字君だ」
「え?」
「十文字君は、百田君が襲われる直前に、十三号室に入ったんだろ? 廊下に意識を集
中していた君は、密かに引き返してきた十文字君に気付かなかったという訳だ」
「そんな莫迦な! それだけはあり得ませんよっ」
 強く主張すると、相手は分かっているとばかりに鷹揚に頷いた。
「だとしたら、話は元に戻る。君の立場は厳しい。極めて」

「無事に戻れたら、真っ先に五代君に感謝しておくんだ」
 栄刑事が立ち去ったあと、夕飯と共に先輩が入って来た。どこで時間を潰していたの
か知らないけれども、目が若干落ちくぼんだような印象で、憔悴の痕跡が見て取れた。
そのことを告げると、君はもっと酷い顔になっていると指摘された。
「ということは、身柄を拘束されずに、こうして部屋にいられるのは、五代先輩のご家
族が……」
「手を回してくれたらしい。尤も、基本的に管轄違いだから、いつまで神通力があるか
分からん。今の内に目処を付けたいものだ」
「部屋の外には、見張りの人がいるんでしょうね?」
「いる。百田君はここから出るなと云われなかったのかい?」
「はっきりとは。『出掛けるのなら我々警察に知らせてからにしてくれ』と」
「じゃあ、敷地内なら何とか認めてもらえるかな。いや、容疑者扱いの君を犯行と関係
ありそうな場所に立ち入らせるはずもないな」
「先輩だけでも動けそうですか」
「さて、どうかな。さっきは大丈夫だったが。これも五代君のおかげに違いない」
「……連れて来るの、僕じゃなくて五代先輩がよかったんじゃあ」
 自嘲めかしてこぼす僕に、十文字先輩は叱りつけるような口調で応じた。
「今さら何を云うんだ。これは僕の希望したこと。招待主から逃げたと見なされたくな
いがためにね。それを含めて、君をまた事件の渦中に放り込む格好になってしまって申
し訳ないと思う」
「もう慣れましたよ。先輩のワトソン役を務めるようになって、どれだけ経ったと思っ
てるんです? 今回だって、怪我をしたとか、精神的に酷いショックを受けたとかじゃ
ないですし」
「そう云ってもらえると救われるが、犯人を見付けないことには収まらない」
 先輩はテーブルに置いた大きめのプレートに顎を振った。バイキング料理を適当に見
繕い、盛り付けてきたのが丸分かりだったが、これはこれでうまそうではある。
「とにかく食べようじゃないか。腹ごしらえは大事だろう」
 お茶を入れ、食べ始める。死体を見たあとにしては、食欲は大丈夫だった。
「僕が役立つかどうか分かりませんけど、結局、どういう状況なんでしょうか。イベン
トは本当に用意されていたのかとか、施設の従業員はどこまで把握していたのかとか、
小曾金四郎はどこにいるのかとか。ああっ、岸上さんの誘拐事件も」
 浮かんでくるままに質問を発した。先輩は箸を進めながら、順に答え始めた。
「分かった範囲で云うと、まず、宿泊者を対象とした宿泊モニターは皆が承知だった
が、イベントに関しては小曾金四郎の独断だ。前に聞いた話と変わりない。ただし、パ
フォーマーの何名かは、イベント関連でパフォーマンスを行うように指示を受けてい
た。ミーナとシーナの二人も、空中ブランコを披露する予定だったと聞いた」
「え、ていうことは、怪我は嘘?」
「そうみたいだな。怪我で休んでいると見せ掛けて、じつはっていうどっきりの一環ら
しい。彼女らの他には、ピエロの西條逸太(さいじょうはやた)とマジシャンの安南羅
刹(あんなみらせつ)が組んで、ピエロが空中に浮かんでばらばらになってまた復活す
るという演目を披露する予定だった」
「羅刹って本名じゃないですよね」
「本名は小西久満(こにしひさみつ)といって、西條と組むときは裏ではダブルウェス
トと呼ばれるとか。まあ、これは関係あるまい。演じる予定があったパフォーマーはも
う一人いて、トランポリン芸の北見未来(きたみみく)。普通にトランポリンで跳ねる
だけでなく、壁を徐々に登っていったり、高所から飛び降りてまた戻るという演目だそ
うだ。あ、それからこの北見は元男性」
「へえ。新たに分かった三人には直に会えたんですか?」
「いや。遠目からちらっと見ただけだ。警察以外で情報をくれたのはシーナとミーナだ
よ。話を総合すると、事件発生時に敷地内にいたのは、被害者を除けば、五人のパフ
ォーマーとそのサポート役の二人、そして六人の宿泊客の合計十二人に絞られる。小曾
金四郎が隠れているのなら十三になるけどね。サポート役についてはまだ名前は知らさ
れていないが、文字通りパフォーマンスの手伝いで裏方に当たるようだ」
「ええっと、ちょっと待ってくださいよ。敷地内にいた人ってそれだけなんですか? 
宿泊施設の側の従業員がいるんじゃあ?」
「そこなんだが」
 僕の疑問に、十文字先輩は何とも云えない苦笑顔を見せた。
「ここに来てから、従業員に会った覚えはあるかい?」
「うん? それはありますよ。東郷さんにミーナさん、シーナさん……」
「ミーナとシーナはパフォーマーだ。東郷氏は雑務全般を受け持っているから、まあ宿
泊施設の従業員と云ってもいいかもしれないが、正確には違う」
「もしかして、いないんですか、従業員?」
 ピラフの米粒が飛ばないよう、口元を手で覆いながら云った。十文字先輩は種明かし
を楽しむかのように、目で笑った。
「うむ。人間の従業員はいなくて、ロボットが対応するシステムだ。これもサプライズ
の一つだったというんだ。チェックインや客室への案内は、ロボット従業員が行うはず
だったのが、トラブルでシステムダウンした。結果、急遽パフォーマー達が奮闘したと
いういきさつみたいだ」
「……平屋だったり、通路に曲がり角や段差が少なかったりするのは、そのため? 
え、でも、料理は」
 目の前の料理に視線を落とした。
「料理は将来的にはロボットによる調理も考えているが、宿泊モニター期間は元々、ケ
イタリングで済ませる計画だったから問題ないと聞いた。百田君、そういった細かなと
ころを気にしていたら、事件解決からどんどん遠ざかる」
 あの、ロボットを利した密室トリックや殺人の可能性を思い浮かべていたのですが。
でもまあ、システムダウンしているのであれば、関係ないと言い切れるのか。と、そこ
まで考えてから、ぱっと閃いた。
「――ロボットを使うくらいなら、秘密の扉もあるんじゃあ?」
「ああ、壁から腕が突き出て来たんじゃないという話だな。残念だがそれはない。廊下
を囲う壁は明らかに古い日本家屋の壁で、修繕とその痕跡を覆い隠すための塗装はして
あるが、内部は至って普通だということだよ」
「そうですか……」
 壁の一部が突然開いて、機械の腕が僕の首筋に電流を、なんて場面を想像してしまっ
た。濃いめに入れたお茶を飲み干し、心残りなこの私案を吹っ切る。
「先輩は十三号室に入ったあと、どうなったんですか?」
「入ってすぐ、靴がないと知れたから、岸上氏は留守なんじゃないかと察した。その反
面、人を呼び付けておいて部屋を空けているのはおかしい。とにかく室内を覗いて確認
しようと、靴を脱いで上がり込んだ。念のため声を掛けつつ内扉を開けて、中を見たん
だが、矢張り岸上氏は不在だった。いつ帰ってくるか分からないし、部屋の中で待つの
も問題がある。東郷氏に再確認もしたかったから、部屋を出た。すると君がいないじゃ
ないか。しばらく一人で探したが見付からないのでフロントに出向いたら、今度は東郷
氏が見当たらない。鍵を取りに行ったはずなのに何故? 行き違いになったかと、また
十三号室に引き返したが、誰もいない。何らかのおかしなことが起こっている。施設の
人間を信用できるのかどうか分からない。よほど警察に行こうかと考えたが、ちょうど
このタイミングで東郷氏が現れた」
「ええ? まだ、そのときは生きていたと」
「そうなる。時刻は四時になっていたかな。彼が云うには、十三号室に鍵を開けに戻っ
たが、すでに開いていたから、どういうことなのかと僕を探していたそうだ。僕は鍵が
開いたことと、百田君の姿が見えないことを話し、探すのを手伝ってもらった。といっ
てもすぐ二手に分かれ、別々に行動した。僕はこの宿泊施設の方を探し、東郷氏はワー
ルドサザンクロスに向かったはずだが、この目で見届けた訳ではない。途中、他の宿泊
客に遭遇したので聞いてみたが、知らないという答が返って来ただけ。じきに探す場所
もなくなり、フロントに電話してみた。シーナかミーナかどちらかが出たんで、事情を
伝えるとすぐに行きますと云って――実際は五分以上経過していたと思うが、来てくれ
た。今度は三人で建物周りを三人揃って捜索したんだが成果が上がらず、とりあえず東
郷氏に首尾を伝えようとなって、今度は東郷氏が行方知れずだと判明した。それが確か
五時前だった」
 その後は、僕と東郷氏の両名を探す態勢になり、五時半を少し過ぎたところで、倉庫
部屋に辿り着き、僕は救出。東郷氏は死亡しているところを発見されたという流れだっ
たようだ。
「死亡推定時刻は四時半から五時半の一時間。だが、血の凝固具合から云って五時より
も前の可能性が非常に高いそうだ。百田君、この時間帯にアリバイは?」
 聞くまでもない質問だろうに。僕は首を横に振った。名探偵は軽い調子で頷いた。
「だろうね。さて、僕達以外の宿泊客については、岸上氏を除くと親子連れの三名。親
子連れとは直接会えた。五十代男性と三十代女性の夫婦に、小学校中学年の女の子が一
人。アリバイは証明されていないが、外見だけで判断すればとても事件に関係している
ようには見えない。男性は足が悪くて車椅子生活、女性は男性と子供の面倒をみなけれ
ばならない上に、外国と日本とのハーフで言葉がやや不自由。子供は親にぴったり着い
て離れないという状態だったからね」
「確かに、関係なさそうです」
「アリバイの話が出たついでに、他の面々のアリバイに関して、判明していることを云
っておくとしよう。パフォーマーの五人とサポートの二人は、リハーサル中でお互いの
アリバイはある。ミーナとシーナの二人は時折、宿泊客からの電話などに応対する必要
があったが、事件発生時は僕と一緒に捜索活動していたからね。結局、五人ともアリバ
イ成立だ」
「そんな」
「残る岸上氏だが、僕から云わせれば彼こそが怪しくなってきた。誘拐事件があったと
いうのは芝居だと云い出したんだ」
「ええ? さっきの刑事、そんなことはおくびにも出しませんでしたよ!」
 自宅だったら、机をどんと叩いてていたかもしれない。怒ってみたものの、警察の捜
査では極当たり前にある手法だと知っている。
「自分は小曾金四郎から送られてきた台本に沿って、役柄を演じただけだとさ。多少変
な役だと思ったが、高額報酬につられて引き受けたんだと。小曾とは会ったこともなけ
れば、声を聞いてすらいない。それはともかく、彼が役柄として指示されていたのは、
東郷氏を通じて僕らにメモを見せ、十三号室に呼び付けるまでだった。その後は別の部
屋に閉じ籠もって身を潜め、明日の昼間に種明かしという段取りを聞かされていたらし
い。それらのことは東郷氏もパフォーマー達も承知の上だったと云っている」
「うーん、何が嘘で何が本当なのか、こんがらがりそうです。要するに、岸上氏が小曾
金四郎に化けるのもイベントの一部であり、そのことは岸上氏本人だけでなく、パフ
ォーマー達も認めている。だから事実だと見なせる……」
「それが妥当な見方というものさ。思わぬ多人数が共犯の可能性を除けば、だがね」
「誘拐がなかったのはいいことですけど、岸上氏が犯人あるいは犯行の片棒を分かって
いて担いだんだとしたら、どうして妻子を誘拐されたなんていう設定を選んだんでしょ
うか。殺人事件が起きて警察に乗り込まれたら、その嘘を必要以上に疑われるのは目に
見えてると思いますが」
「僕もそう考えた。それ故に、岸上氏が怪しいとする線で押し切れないのだ。小曾金四
郎の存在も気に掛かるしね」
「オーナーの動向に関しては、パフォーマー達も岸上氏も、全く把握していないんです
かね」
「そのようだとしか云えないな。嘘を吐いている者がいても不思議じゃない。だが、何
にしても動機が不明だ。遊戯的殺人者の線を除外すればの話だが」
 遊戯的殺人者。その言葉が出て来て、僕は内心、矢っ張りかと感じた。大げさな招待
状に軽いアナグラム、そして意味があるとは思えない密室殺人。これだけ“状況証拠”
があれば、今度の事件は冥かその一味の仕業と考えてかまわないのではないだろうか。
 冥――冥府魔道の絡繰り士を自称するという、遊戯的殺人者。殺人のための殺人、ト
リックのためのトリックを厭わない、むしろそのために人を殺す。現在、職業的殺人者
つまりは殺し屋のグループと揉めている節が窺える(らしい)。その一方で名探偵を挑
発し、試すような行動を起こすこともしばしば(らしい)。いずれも一ノ瀬和葉のお
ば・一ノ瀬メイさん――旅人であり探偵でもある――が主たる情報源だ。冥とメイさん
とで紛らわしいが、事実この通りの名前なのだから仕方がない。
「冥の仕業だと思いますか」
「大いに可能性はある。最近、一ノ瀬メイさんも冥から試されるような事件を仕掛けら
れたことがあると云っていた。だから動機は斟酌しないでいいのかもしれない。真っ当
な動機があるとしたら、殺し屋グループにダメージを与えるためとか冥の身辺に肉薄し
た探偵を始末するためとか、そういったところだろうさ」
 穏やかでない仮説だが、少なくとも僕らは冥の正体に迫ってはいないだろう。第一、
冥自身が僕らを招いておいて、招待を掴まれそうになったら殺すなんて理不尽は、激し
く拒否する。絶対に願い下げだ。
「対策を立てるなら、メイさんに改めて連絡を入れて、最新の情報を仕入れておくのが
よくありません?」
「うん、一理ある。あの人は掴まえるのに苦労させられるが、電話なら何とかなるかも
しれない。ああ、しまったな。今の僕らは携帯電話が使えない。フロントの近くに公衆
電話があるが、人の行き交う場所で話すのは躊躇われる……」
「そんなことを云ってる場合じゃないと思うんですが」
「確かに。賢明な人だから、こちらが事件のあらましを伝えたら、察して一方的に喋っ
てくれるんじゃないかな」
 十文字先輩は腰を上げると、部屋を急ぎ足で出て行った。テーブルにはほぼ空になっ
たプレート二枚が残された。

 電話をしてきたにしては、いやに早いな。五分程で戻って来た先輩を迎えた僕は、内
心ちょっと変に感じた。
「どうでしたか」
「電話はしていない。フロントにいた、ええとあれはシーナが、伝言をくれたんだ。彼
女が云うには、『一ノ瀬メイ様から先程お電話があり、十文字様に伝えて欲しい、でき
ればメールをそちらに送りたいとのことでしたので、お部屋におつなぎしましょうかと
お伺いしたのですが、時間がないからとおっしゃって。それでメールアドレスをお伝え
したところ、ほとんど間を置かずにメールを受信しましたので、プリントアウトした次
第です。つい先程のことで、お知らせするのが遅れて、申し訳――』ああ、僕は何を動
転してるんだ。ここまで忠実に再現する必要はないな。要するに、五代君経由で事件の
概要を知った一ノ瀬メイさんが、気を利かせて情報を送ってくれたんだ。敵か味方か分
からないシーナにメールを見られたのは、今後どう転ぶか分からないが、とにかく読も
う」
「はあ」
 高校生探偵の一人芝居に、しばし呆気に取られていた僕は、つい間抜けな返事をして
しまった。それはともかく、メイさんからだというのメールには、次のような話が簡潔
にまとめられていた。

・冥の仕業である可能性が高い。
・その傍証として冥が起こしたと考えられる殺しで、私は似たような謎を解いた。
・その謎とは湖での墜落+溺死で、詳細は省くが、湖内に高さのある直方体の風船を設
置し、てっぺんに犠牲となる人物を横たわらせる。それから風船を破裂させれば以下
略。
・ここまで書けば、このトリックにはさらなる前例があることに気付くと思う。繰り返
し同じ原理を用いたトリックを行使することは、冥にとって当たり前の日常的な行為と
推察される。
・それから十文字龍太郎君。名探偵であろうとして完璧さに固執せずに、弱さを認める
べきときは認めるのが肝心。

 以上だった。
 メイさんが示唆しているトリックについては、理解できた。だが、そのトリックが今
度の事件とどう結び付くのかがぴんと来ない。
「先輩、このトリックが倉庫部屋の密室に応用できるんでしょうか」
「……できる。そうか、分かったぞ」
「本当ですか?」
「うむ。君はよく見ていないから知らなくて当然だが、ワールドサザンクロスではエア
遊具的な物を多用しているんだ。ほら、商業施設のイベント用やスポーツセンターの子
供向け広場なんかに設置されることがあるだろう、空気で膨らませた強度の高いビニー
ル製の滑り台が」
「分かりますよ、見たことあるし」
「ワールドサザンクロスには、エア遊具ならぬいわばエアセットとでも呼べそうな代物
が多い。空気で膨らませたビニール製の建物や壁だね。トランポリン芸を披露するの
に、ちょうどいいんだろう。恐らく、あの倉庫部屋にも仕舞われてると思うが、空気を
抜いて小さく畳まれていれば気付かなくても無理はない」
「つまりは、メイさんが示唆したトリックを実行するための道具には事欠かないって訳
ですね」
「その通り。あの倉庫部屋に合った適切なサイズのエア遊具を使えば、密室殺人は可能
だ。想像するに……東郷氏は犯人が云うドッキリを演出する助手で、こう命じられたん
じゃないかな。百田君を意識を失わせた後に拘束して倉庫部屋に運び込み、布団に寝か
せる。東郷氏自身はその横で死んだふりをする。目覚めた君を驚かせる算段だ。ところ
が犯人の真の狙いは、東郷氏の殺害にあった。東郷氏は直前に、眠り薬の類やアルコー
ルを混ぜた飲み物を飲むよう仕向けられた。東郷氏自身は秘密の行動中だから当然、部
屋に入ったあと内側から錠を下ろす。横たわった彼はじきに前後不覚となり、意識をな
くす。頃合いを見計らって犯人はエアを注入」
「え? どこにエア遊具があるんですか」
「横たわった下だよ。これも想像だが、東郷氏が横たわる下には、床によく似せた迷彩
を施したエア遊具が設置されていたんじゃないか。そこに空気を送り込むホースは、倉
庫部屋にある足元の小さな窓を通せばよい。コンプレッサーを始動して風船を静かに膨
らませると、東郷氏は持ち上げられる。同時に、遊具の内部中央には一本の刃物が備え
付けられており、膨らみきったところで垂直に立つような仕組みになっていたんだと思
う。その状態で風船が破裂すると、どうなるか。東郷氏の肉体はすとんと落下し、真上
を向いた刃先に突き刺さる。割れた風船の破片は、小窓から回収できるだけ回収する。
残りが現場にまだあるかもしれないな。ホースももちろん片付けて、小窓を閉めれば密
室の完成だ」
「……凄い」
 僕は一応、感心してみせた。
 一応というのは、納得できない点があるにはあるから。そこまで大きな風船がすぐ隣
で割れたのに、僕は気付かなかったのだろうか。仮にじんわりゆっくり空気を抜いてい
ったとしたら、音で気付くことはないだろうけど、凶器の刃物がしっかり刺さるのかと
いう疑問が生じる。まだ他にも引っ掛かることがあるような気がするのだけれど、はっ
きりしない。霞の向こうの景色を見ようと、曇りガラス越しに目を凝らしている気分。
「無論、今云ったトリックが使われたとは限らない。だが少なくとも、密室内に他殺体
と一緒にいたから君が犯人だというロジック派は崩す余地が出てきた。そのためには物
証が欲しい。早速、警察に一説として知らせたいな」
 少し興奮した様子の十文字先輩。僕は同意しつつも、「それじゃ僕を背後から襲っ
た、壁からの手は何だったんでしょう?」と疑問を口にした。
「百田君の勘違いではないんだな?」
「壁から腕が突き出たという点は断言しかねますけど、壁を背にしていたつもりなおに
後ろからやられたのは間違いないです」
「ふむ……」
 顎に手をやり、いかにもな考えるポーズを取る先輩。その視線が、メイさんからの
メールの写しに向けられる。最初から順に読んでいるように見えた。
 そして最後まで来て、やおら口を開く。
「実は、一つだけ可能性があると思い付いてはいる」
「だったら、それを聞かせてください。決めかねる部分があるんでしたら、僕が推理を
聞くことで記憶が鮮明になって、何か新たな発見があるかも」
「うん。いや、決めかねているとか曖昧な点があるとかじゃないんだ。ほぼこれしかあ
るまいという仮説が浮かんだ。ただね、それを認めるには僕自身の問題が」
 そこまで云って、先輩はメイさんのメールの一点を指さした。
「思い切りが悪いな、僕も。こうして一ノ瀬メイさんが先読みしたように警句を発して
くれたのだから、ありがたく受け入れるべきだな」
「先輩、一体何を」
「この最後の一文さ。自分のプライドに関わるからといって、認めるべきものを認めな
いでいると、真実ををねじ曲げてしまう」
 先輩はそうして深呼吸を一つすると、まさに思い切ったように云った。
「僕は十三号室に入るとき、気が急いていた。内扉の向こうにばかり注意が行っていた
んだと思う。逆に云えば、それ以外への注意が散漫になっていた。入った直後、左右を
よく見なかったんだ。部屋の構造はどこも同じだという油断もあったと思う。下足入れ
にライトと鏡があるくらいで、その暗がりに何があるかなんて、全く想像しなかった」
「もしかして、その暗がりに人が潜んでいた?」
「恐らく、じゃないな。確実にと云っていいと思う。最初、東郷氏を含めた三人でいた
ときは鍵が掛かっていたのに、しばらくすると解錠されただろ。中に人が潜んでいた証
拠だよ。素直に考えればよかったんだ」
 こちらの方は納得できた。では、隠れ潜んでいた人物は誰?
「隠れていたのは岸上氏なんですかね。十三号室の宿泊客で、イベントに関して主催者
側だったのだから、ギャラと引き換えに命じられたら、ある程度までひどいことでも引
き受けそうですよ」
「普通の俳優がいくら仕事でも、他人を気絶させるような真似をするかね。尋常じゃな
い。まあ、だからといって隠れていた人物が岸上氏ではないと断定する材料にはならな
いが」
「他に候補はいます?」
「誰でもあり得るんじゃないか? 全く姿を見せていない者は、特徴で絞りようがな
い。小曾金四郎だってあり得る」
 十文字先輩の云う通りだ。極論するなら、影に潜んでいた人物と殺人犯とが同一とさ
え限らない。現実的には同一人物か、少なくとも共犯関係にある二人である可能性が高
いんだろうけど。
「各人の詳細なアリバイをリストアップして検討すれば、あの時刻――三時から三時半
ぐらいだったと思うが――十三号室内にいることが不可能な者はそこそこいるんじゃな
いかな。家族連れ三人組は除外できるだろうし、シーナとミーナ以外のパフォーマー達
も外せそうだ。云わずもがなだが、東郷氏も外せる」
 ここまで検討して来て、誰が有力な容疑者かを考えてみる。当然、小曾金四郎が最も
怪しいが実態がはっきりしない上、警察の捜査が入っていつまでも逃げ隠れしていられ
る秘密の場所が、この敷地内にあるとは考えにくい。一方で十文字先輩の推理したトリ
ックが殺人に使われたとすれば、その後片付けまで含めると少なくとも五時十五分、機
械の大きさによっては二十分頃までは現場周辺にいなければならないだろうから、その
後の逃走は難しそうだ。もし小曾金四郎が犯人なら、実行犯ではなく計画を立てた首謀
者なのではないか。
 岸上氏にも嫌疑を掛けざるを得ない。小曾金四郎と通じて、舞台裏をある程度把握し
ていたのは当人も認めており、平気な顔で嘘を吐き通せる。実行犯の可能性があると云
えよう。引っ掛かりを覚えるとすれば、誘拐云々という嘘。その話を聞いた僕らが強引
に警察に通報していたら、計画は失敗に終わったはず。わざわざ警察の介入を招きかね
ない誘拐を嘘のネタに選ぶ理由が分からない。
 他にはシーナとミーナも多少怪しい。十文字先輩と一緒になって僕を捜してくれてい
たというが、アリバイ工作の匂いを感じる。空中ブランコをこなすくらいなら、細身の
女性でも身体能力・運動能力は高いに違いない。
「さっきの殺人トリックって、結局、空気を送り込むコンプレッサーを駆動しておけ
ば、自動的に殺せますかね?」
「殺せるだろうね。無論、そのままにしておけないし、痕跡を消すためには色々と手間
が掛かる。目撃される恐れもある。幸運の女神ってのが犯人に味方したのかもしれない
な」
 うーん。それだと矢っ張り、シーナやミーナには難しいのか。
「さあ、いつまでも推測を重ねて、ぐずぐずしていても始まらない。警察に進言しに行
こうじゃないか」
「あ、僕も一緒にですか」
「決まってる。説得するには百田君自身の証言も重要になってくる」
 慌てて立ち上がる僕とは対照的に、先輩は落ち着き払った態度で、しかしきびきびと
次の行動に移った。

             *           *

「君にはがっかりだよ」
 一号室の会話を、車中で一人、盗聴器を通じて聞いていた冥は深く息を吐いた。警察
の人間の目に止まると厄介だからと、建物には近付けないでいたが、音はクリアに聞こ
えている。
(高校生名探偵の誉れ高い十文字龍太郎だったが、期待外れのようだね。元々、私自身
はその高い評判に疑問を抱いていたが)
 耳に装着したヘッドセットをひとまず外すと、念のため大元の機器のボリュームも落
とした。
 冥が今回の犯罪を計画した端緒は、十文字龍太郎の探偵としての能力に今ひとつ確信
が持てなかったことにある。ライバル――遊び相手にふさわしいのか見定めるために、
罠のあるテストを仕掛けた。
(こうも易々と引っ掛かるようでは、本来の探偵能力も怪しいものだ。知識ばかり先行
して、オリジナルの問題は解けないタイプじゃないかな。今回も、一ノ瀬メイからの
メールを偽物と気付かない上に、誘導に簡単に引っ掛かって、同工異曲のトリックが使
われたと信じてしまった。風船のトリックでは、死体の向きがおかしい。東郷の死体は
背中を刺され、俯せだった。風船が破裂してその下の凶器に突き刺さるのであれば、な
かなかそんな状態にはならない。破裂の弾みでそうなる可能性はあるが、仰向けのまま
である可能性の方が圧倒的に高い。もしも仰向けになったら、小窓から糸を介して鍵を
死体の懐に入れるやり口が容易になり、密室の強固さが失われるじゃないか。密室殺人
のためのトリックなのに、そんな不確定要素の大きな手段を執るはずがないと気付かね
ばいけないレベルだよ。暗示に掛かりやすい訳でもなさそうなのに……周りの人間に頼
りがちなところがあるということか。本人に自覚はなさそうなのが痛い。少女探偵団の
子達みたいに、最初からグループでやってますって看板を掲げているのなら、まだかわ
いげがあるのに、しょうがないやつだ。あの年頃にありがちな、実像以上に己を強く大
きく見せたい願望かな。調べたところでは、この四月の“辻斬り殺人”で、校内で襲わ
れた件はその後、犯人探しに力を入れていないようじゃないか。名探偵ともあろう者
が、そんな逃げ腰、弱腰でいいのかねえ)
 十文字探偵に対する感想を心の中で積もらせた冥は、しかし何故だか微笑を浮かべ
た。
(名探偵と呼ばれるが実際はたいしたことない、という存在には利用価値がある。色々
と想定できるが、実際に使えるのは恐らく一度きり。勿体ないな。まあ、別の楽しみも
あるしね。十文字に力を貸してきた周囲の連中が、なかなか優秀なんじゃないか?)
 と、そこまで近い将来図を描いていたところへ、電話が鳴った。複数所有している中
のどれだったかを瞬時に判断し、取り出す。
「小曾です」
 小曾金四郎からだった。普段の声とは息づかいが違うが、冥の耳は小曾本人だと正し
く認識した。
「私だ。定時連絡の時間には約一分早いが、ハプニングかな?」
「いいえ、順調そのものです。ただ、時計が。携帯電話の液晶がおかしいのか、読み取
れなくなりまして、それがハプニングといえばハプニング」
「腹時計で掛けてきたのかね? それはちょっと愉快だな」
「このような状況ですので、予定を切り上げて早めに脱出をしたいのですが」
「かまわない。自力で行けるかね?」
「大丈夫、何ら問題ありません」
 答えると同時に通話は切られた。冥は、使える部下の無事の帰還を待つことにした。
(そう、迂闊な見落としといえば、この点もそうだぞ、十文字探偵。小曾金四郎の本名
を気に掛けたまではよかったが、あとの詰めが甘い。小曾金四郎が芸名だったと知った
時点で、何の芸なのかを気にすべきだったのだ。那知元影という名前の方が、よほど芸
名らしく響きやしないか? これは偶然の産物ではあるが、那知元影は文字通り、名は
体を表すの好例と呼べるのだから、気付く余地はあったのだ。お得意のアナグラム……
ローマ字にしてから並び替えれば、それが浮かび上がる)
 冥は宙に指で文字を描いてみせた。

 nantaigei

――終わり




#523/598 ●長編
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:06  (229)
「長野飯山殺人事件」1 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:18 修正 第3版
1

 飯山ミュージック劇場は、こんな場末にあって、しかも雪で足元が悪いのに、
盛り上がっていた。
 天井にぶら下がったスピーカーから、音割れしたハウスミュージックが
ガンガン響いてきていた。
 お色気むんむんのピーナがステージ狭しと踊り狂っていた。
 肌の上を、赤、緑、青のスポットライトがくるくるとまわる。
 客のオヤジどもは、手の平も裂けんばかりに手拍子を送っていた。
 踊り子はステージの前面にせり出してくると、激しく身をくねらせた。
「燃えよいい女、燃えよギャラリーッ」という訳の分からないアナウンス。
 踊り子は前後左右に移動しながら、陶酔した様に踊り狂う。
 オヤジどもは狂喜乱舞の大はしゃぎ…。
 突然音楽が止まった。
 スポットライトも消えた。
「ありがとう、ございました」踊り子はちょこっと頭を下げると
楽屋に消えていった。
「続きましてはタッチショー。なお只今おっぱいの化粧中ですからね、
しばらくお待ちを」
 場内にピンクの明かりが点灯した。
マドンナの『クレイジー・フォー・ユー』が流れる。
 ステージの袖から、上半身裸で皮の腰巻だけ付けた女が再登場する。
「はい、拍手よろしくー」
 ぱらぱらぱらー、とやる気のない拍手があちこちで鳴った。
 ステージのすぐ横に居たおっさんが立ち上がって、
でれーんと両手を差し出した。
 女はそこへ行ってあぐらをかくとウェットティッシュで客の手を拭いた。
それから両手をとっておっぱいを揉ませる。
 おっさんはグィッと鷲掴みにすると、グイーっと揉みあげた。
「アーイ、ノー、優しくお願いしまーす」と女が嫌がっても、
ニンマリとスケベそうに笑っている。
 あれは中川といって、俺の電脳同人誌の仲間だった。
T大法医学教室出身の医者で、今は勤務医をやっていると言っていた。
 その隣に座っているのが佐山で、メーカー勤務で、
叙述ミステリーを書くとか言っていた。
 中川と佐山は俺がこの飯山に招いたのだった。
俺がマンション管理員をやっているスキーマンション兼ホテルが
長野県北部地震のせいか暇なので遊びにこないか、と誘ったら、
向こうも暇だから遊びに来るという話になったのだった。
そして泊まりにきたついでに劇場にも招待したのだった。
 中川はピーナの背中に手を回して片乳を揉みながら覗き込むようにして
話しかけていた。
 すけべ野郎。あいつは女好きで、看護師を愛人にしていると言っていた。
「やり過ぎてちんぽから血が出たで」とか言っていた。
「赤玉ってやつじゃないの?」と俺は言ってやったが。
 精液に血が混じるのは睾丸に病気があるからだと俺でも知っているのに、
元法医学者がそんな事も知らないのか。
法医学の知識を元にミステリーを書くとか言っていたが。
 俺は密かにあいつをライバル視していた。
あいつには解けないトリックを考え出して見せつけてやりたい。
いや、俺だったら社会派かな。ストリップ劇場の裏事情でも書くかな。
 劇場の裏事情なら隣に座っている同僚の牛山さんが詳しい。
見ると酔っ払って眠り込んでいる。
インスリンを打っている上に人工透析もしているのに、
こんなに飲んで死なないのだろうか。
時々咳をしている。ゲホッゲホッっと。痰の絡まるようなヤバそうな咳だ。
ヤバイんじゃないのか。
或いは今俺も胸を患っているので、咳に敏感になっているだけかも。

 パタンと入り口のドアが開くと店員が顔を突っ込んできた。
「はい、カミールの個室サービス、42番のお客さん、ステージ横の個室ね」
 この劇場には個室サービスというのがあって
三千円でユニットバスぐらいの個室で一発やらせてくれる。
 店員の後ろからカミールが入ってきた。パンティーにタンクトップという姿で、
手にはコンドームなどの入ったポシェットをぶら下げている。
「俺や」突然酔いがさめたように牛山が立ち上がった。
 なんだ、個室チケット買っていたのか。
 牛山はよろよろと椅子の間をすり抜けていくと、
カミールの後ろにくっついて行って個室の中に消えていった。
 ユニットバスのドアをすかして、抱き合っている影が見える。
 それを見ながら俺は牛山の話しを思い出した。
 カミールと店外デートした話。

【先週の給料日の話なんだけど。焼き鳥屋とかスナックで飲んでから、
十時頃、劇場に行ったんよ。
 最終回の3人目にニューフェイスの娘が出ていて、
久々にアイドル系の娘で、つい年甲斐もなく買っしまったんよ。
本当は俺みたいなジジイは年季系のサービスのいい女に入ればいいのだが。
 個室に入ったらいきなりコンドームか被せようとするんで、
ああ、まだ素人だな、と思った。
 彼女は眉をしかめてオンリーフィフティーミニッツと言っていた。
 英語だったら多少は分かるんで教えてやった。
 そんなんやって早く終わらせようとするから、消耗するんよ。
ぎりぎりまでしごいておいてから入れれば三こすり半で行ってしまう。
そうすれば疲れないだろ。つーか、こんな個室はアンテナショップにして、
店外デートで稼ぐ方が消耗しないだろ、などと教えているうちに、
自分が常連中の常連になった気がして、白けてしまった、萎んだまんまよ。
 もういいと言って、パンツを上げようとすると、
 まだ時間がある、まだ時間があると、引き止める。
 俺は思わず座り込むと、「どこからきたの?」と聞いた。
 フィリピン。
 幾つ?
 十八。
 子供が居ないのは体で分かった。
 借金はいくらあるの?
 それは私の問題。
 まあいいから。
 彼女は指三本立てた。
 三百万かあ。個室で客をとっても一人千円だから大変だなあ。
 しょうがない。
 そんな話しをして、十五分が経ったら、背中を丸めて個室から出てきた。
 それから自販機で缶ビーをル買って、おまんこを肴に、ビールをなめなめ、
結局閉店まで粘った。
 外に出たら雪だ。
 酔いを覚まそうと、コンビニで缶コーヒー買って出てきたら、
さっきの女の子が軒下に立っている。白い薄いパーカー一枚で。
 何やってるの?
 友達を待っている。レストランに行くから。
言うと、パーカーに両手突っ込んで膝をがたがたさせている。
 自分風邪ひくよ。そうしたらこれ飲んで待ってな。今車を回して来てやるから。
 そうして車を回して来ると、彼女を乗せて、
エンジン三千回転ぐらいにしてエアコンで暖めた。
 暖まってくると体も柔らかくした。
 ルームミラーでちらっと劇場の方を見ると店員がシャッターを下ろしていた。
 友達くるのか? 電話掛けてみる? 言ってスマホを渡すと、
掛けて、ぺらぺらぺらーっとタガログ語で何か言っていた。
 携帯を切ると、シーズライヤー、ライヤーと言う。
 なに? なに?
 彼女、うそつきー、と日本語で言った。
 ライアーか。あんた、もう帰った方がいいんじゃないの?
 劇場は二時まで開いているからファミレスへ連れいってくれ、と言う。
 そうしたらデニーズだ。あそこはメニューが写真だから日本語が読めなくても
大丈夫だから。
 デニーズではピザだのハンバーガーだのをぺろーっと食べてた。
俺だったらこんな夜中にあんなもの食ったら胸焼けがしてたまらんが。
 それから劇場に帰るともう閉まっていた。
 結局ホテルに行った。
部屋毎に建物が別になっている昔ながらもモーテルだった。
 部屋は暖かかった。
 入るなりカミールはうずくまるようにして腹を押さえるんで、
何しているんだと思ったが、Gパンのボタンを外してたんよ。
ぺらぺらぺらと脱ぐとすっぽんぽんになった。
 俺もぎんぎんになる。
 それからやったよ。
 終わると、俺の腕を取って、首に巻きつけて、俺の太股に足を絡めて来る。
 何をする気だと思ったら、そのまま俺の胸の中で寝息をたてたんよ。
 体が熱かった。女の体ってこんなに熱を持っているのか。
 雪が降っていたからすごい静かだった。どっかで、しゅーっと、音がしている。
暖房の湯が回っている音だろう。
 俺は、関係を続けたいと思った。でも客になるのは嫌だ。
でも彼女に必要なものは金だろ。どうしたらいい?
 スマホを買ってやろう。劇場の個室は三千円だから、
三千円使う毎に一回やらせてもらえばいい。
それから兎に角冬服を買ってやらないと。
 朝、デニーズ行って、マンゴーを食っている彼女に、スマホの件を提案した。
 そうしたら私、どんどん使う。
 三千円で一回だぞ。
 何回でもやる、と無邪気に彼女は言った。
 そんな話をしていて思ったのは、劇場で一人やっても千円、
あと何人とやらないといけないのかということ。
 突然、俺は、俺が死んで保険金をやれば、と思った。
俺の保険金で借金を返して帰ればいいんだ、と考えた。
 俺は透析にもうんざりしていた。週に三回も四時間も五時間もやるのがだるい。
もうすぐ個室型の透析器が入って寝ている間にできる、と妹が言っていたが、
それでも面倒くさい。
金があれば自分の家に透析器をおけるだろうが、銭が入るのは死んでからだ。
 カミールもうつむいて、うーんとうなっていた。
「どうした?」
「変な事を考えていた。フィリピンから女の子を入れて百万ぐらい抜けば自分は仕事を
辞められる…、だめだめ、それは悪い考え」と頭を振る。
 そんなやばい橋渡れるのか。
 とにかく劇場に彼女を送り届けると、俺はスマホと冬服を買いに走った】

 牛山の話を脳内再生をしていたら、リアル牛山が個室から出てきた。
 チャックのあたりを直しながら長椅子に腰掛ける。
「思った通り、たたなかったよ。ところで、頼みがあるんだが。
今晩、カミールをアパートまで送っていってくれない?」
「えっ、だって俺、東京から来たあの二人とあんたを送っていかないと」
「いいよ、俺らタクシーで帰るから」

 十二時過ぎ、牛山ら三人はタクシーで帰っていった。
 俺はコンビニの前にレガシィをまわすと暖機運転をして待っていた。
 ルームミラーで、百メートルぐらい後方の劇場を見る。
店員が酔っぱらいの客を追い出して、
あたりを見回した後、シャッターを半分閉めた。
 やがて、厚底ブーツにファー襟ジャケットのカミールが現れた。
と思いきや、後ろから四人も付いてくる。
 なんだよ、なんだよ。
 ここで、速攻でトンヅラすればよかったのだが、迷っているうちに、
女たちは小走りに迫ってきて、後部座席に乗り込んできた。
「あーい、あなた怖がっているでしょう。どうしてあなた怖い? 
もし逮捕される、それ私達でしょ。あなた問題ない、だいじょうぶ」
年季系の女が日本語で言った。
 後ろに四人乗ってカミールが助手席に乗った。
「デニーズお願いしまーす」タクシーの運ちゃんにでも言うみたいに言う。
 俺は諦めて車を出した。
 カミールは身をくねらせると、
後ろに向かって英語混じりのタガログ語で話していた。
「ウシヤマは勘違いしている。個室の客はこうやれば早くイク、だの、
デートならおまんこを消耗しない、だの。その積りで彼を誘ったのに、
一発やらせてくれたら三千円分スマホを使っていいとか、ケチな事を言う。
あれは、自分は客じゃない、マネージャーだ、みたいに思っているのか」
 けっ、牛山も気の毒な男だなぁ、と思いつつ、俺は飲み屋街から国道に出る
路地を慎重に走っていた。
 ところが、なんと、その路地の出口のところで、検問をやっていた。
 合図灯に止められた。
 窓を三センチぐらい開けた。「なんの検問ですか?」
「バレンタインデーの飲酒検問でーす。お酒のチェックさせて下さい」と、
マイクみたいな形の検知器を突っ込んできた。
 はーっと息を吹きかける。俺は店では飲まなかったからそれはよかったんだが。
「一応、免許証拝見できますかね」と言ってきた。
 こういう時に限って、ポンタカードだのキャッシュカードだのに挟まって
免許証が出て来ない。心臓がばくばくしてきた。
「手元、暗いですかね」とお巡りが懐中電灯を向けてきた。ついでに隣の女、
そして後部座席の女も照らす。
「あれあれ、後ろに4人乗っているんですか。定員オーバーですね。
つーか外国の方?」
 離れたところにいたお巡り2人も寄ってきた。
「ちょっとパスポート拝見出来ます? パスポート、プリーズ」
「あーい、ノー」女たちは渋りながらもパスポートを出した。
 お巡りたちがパスポートに懐中電灯を当てる。
「あらららオーバーステイだ。こりゃあダメだ。
ちょっと署までご同行願いますかね。ポリスステーション、プリーズ」
「あーい、ノー」
 女たちは車から降ろされると、パトカーに収容されてしまった。
「ご主人の分は、定員オーバーの違反切符を切りますので」言うと、
画板に免許証を挟んで違反切符に記入しだす。
「彼女らはどうなるんですか?」
「さあ。何日か勾留されて、入管に行って、強制送還になるのか、
ちょっとその先は分かりませんねぇ」
 女を乗せたパトカーはパトライトを点灯して行ってしまった。
 ヤバイ。俺はどうなるんだ。
 俺はあたりをキョロキョロ見回した。
 持って行かれたのは今更しょうがない、が、
劇場の客にでも見られていたら「あいつがお巡りに捕まったんだ」と言われる。
 回りに人影はなかった。
 このまま誰にも言わなければバレないだろうか。
牛山には、昨夜誰も出てこなかったと言えばいいか。





#524/598 ●長編    *** コメント #523 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:07  (126)
「長野飯山殺人事件」2 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:19 修正 第3版
2
 その晩、一睡も出来なかった。
 夜中じゅう、強迫観念に襲われていた。
やくざに拉致られて廃工場でリンチを受ける。
生爪を剥がされたり、歯をペンチで抜かれたり。
 朝になると、それでも空腹になって、朝マックへ行った。
 ソーセージマフィンを食っていたら、なんと、牛山さんの妹の良美さんが現れた。
彼女は飯山の隣町の中野町の僻地病院で看護師をしていた。
そこで牛山さんも透析をしていたのだが。
 彼女は、片手にショルダーバッグ、片手にトレーを持って、
操り人形の様に座席の間を歩いてくる。
途中で俺に気付き、こっちにくると相席してきた。
「あらー、おはよう、これから出勤?」
「いや、今日は夜からのシフトなんだよ。そっちは?」
「私はこれから」
 言うと、エッグマフィンをつまんでがぶりとかぶり付く。。
 その時、ジャケットの袖から手首が出て、
鱧でも刻んだみたいなリスカの痕が見えた。
 あれは、昔、僻地病院で、新生児の交換輸血に失敗して子供を死なせた
ということがあって、それがトラウマになっていて、リスカをするのだという。
 それからリスカのみならず、瀉血、透析、血液クレンジング療法など、
ほとんど血液マニアになってしまっているという。
 何でそんなことになるのか。
 前にゲイバーに行った時に、オカマのリストカッターが言っていた、
リスカはアナニーに似ていると。
アナルが疼くのは、勃起したペニスが空中に投げ出されたみたいな
寂しい時なのだが、そういう時にアナニーを繰り返すと脳に回路が出来るという。
同時にアナルに限らず、尿道切開、チクニーなど同時多発的に性感帯が発生する。
 それと同じで、良美の場合、交換輸血で空虚な気持ちになって
リスカを初めたのだが、同時に瀉血、透析、血液クレンジング療法などに
連鎖していったのではないか。
 俺は、エッグマフィンを食っている良美を、上目遣いで見た。
「そうそう」と良美がこっちを見た。「兄貴の透析だけど」と又血の話。
「とうとううちの病院に個室用の透析器が入るのよ、今日ね。
あれがあれば兄貴も夜に透析出来るだからいいと思うんだ。
もう兄貴も疲れているだろうから」
 俺もあんたの兄貴のせいですごい疲れてると言おうかと思ったがやめた。
「俺も今病院に通っているんだ。飯山市の市民病院だけれども。胸を患って」
「へー。兄貴もそっちにも通っているのよ」
「どこが悪いの?」
「うん、ちょっと」
 がんかな。あの咳の事を思い出した。
「兄貴に会ったら連絡くれるように言ってよ。
最近シフトの関係で全然会わないから。電話しても寝ていたら悪いし」
「ああ、言っておくよ。遅くとも明日の朝にはマンションで会うから」
「じゃあ、よろしく」
 良美はハッシュドポテトを食ってコーヒーを飲むと行ってしまった。
ゴミをトラッシュボックスに入れて。

 彼女が行ってしまうと、又拷問の続きが脳裏に浮かんだ。
鼻の穴に割り箸を突っ込まれたり眼球をえぐられたり。
でも別に俺には責任はないとも思う。俺はただ単に風俗店で遊んでいて、
アッシー君をやっただけだものなあ。それに誰にも見られていないんだから、
見つかる要素もないし。
 などと思っていたら スマホが振動した。
「斉木か」
「えっ」
「飯山興業のものだけれども。あんただろう、夕べうちのタレント連れ出したの。
四人もパクられちまったぞ」
「はぁ?」
「は、じゃねーよ。もう劇場は穴あいちゃうし、
マネージャーは女を返せって騒いでいるし、どうしてくれるんだよ」
「なんで俺だって分かるんですか。つーかどうやってこの番号知ったんですか」
「一人出てきたんだよ、まだビザがあった女がいて」
 カミールだ。カミールには電話番号を教えていない。牛山に聞いたのか。
「お前、即行で事務所に来い。来ないならこっちから行くぞ。
もうそっちの住所とか特定しているんだから。今から一時間以内に来い」
言うと電話は切れた。

 俺はとにかく、まだ女の匂いがぷんぷんするレガシィに乗ると、飯山に向かった。
 俺の住んでいる所は中野町といって、長野線の信濃竹原駅という寂れも寂れた
駅付近にある。
 飯山に行くには、雪の高社山を右手に北上していく。
 左右にうず高く雪がつまれた県道355を北へ走った。
 時々バスとすれ違うとチェーンの音がじゃらじゃらしてきたが、
それが行ってしまうと、人も車もいなくなった。
 355から414に入ると更に寂れて自分の車以外は何もなかった。
 俺はチェーンを付けておらず、溝の減ったスノータイヤだけだった。
ここで、又事故でも起こしたら、泣きっ面に蜂だ。夕べの定員オーバーで、
せっかくのゴールド免許にも傷もついたし。
 ところが、北陸新幹線の高架の下のところで、ごとっと何かを轢いた。
 なんだッ。猪か何かか。まさか人じゃあるまいな。
 降りてって確かめると熊だった。
体長一メートルに満たない小熊が頭から血を流して倒れている。
 つま先でつついてみたが、もう死んでいた。
 しょうがないな、と呟いて、尻尾を引っ張って、
左手の夜間瀬川の河川敷の方に捨てた。
 バンパーがへこんでべっとり血がついていた。
 ちっ。くそー。まだ、不吉な連鎖が続いているのか。
 突然高架を新幹線が、びーーーーーうーーーーとドップラー効果の
残響を残して走り去っていく。

 やくざの事務所は劇場隣のスナックの二階にあった。
 事務所に入ると、スカーフェイスのやくざが二人が麻雀卓で牌をこねていた。
「一緒にやらない?」と言う。
「いやー、三人麻雀はちょっと」
「まあいいわ。遊びにきたんじゃねーものな」こっちに向き直る。
「兄ちゃんよお。どうしくれるんだよ。今日から劇場開けられねーじゃねーか。
ただでさえニッパチで売上げが上がらねーのに、
タレント四人も連れて行かれたんじゃあ堪ったもんじゃない」
「俺、何か悪い事しました?」
「なにぃ」
「こんなの言うのなんなんですけど、
俺的には、風営法の看板の出ている店で遊んでいて、
アッシー君を頼まれただけなんだけれどもなぁ。事故った訳でもないし」
「なに言ってんだ、おめーは」
「もしタクシーに乗っていて、捕まったりしたら、
タクシー会社にも文句言うんですか?」
「なに、ごちゃごちゃ言ってんだ、おめーは。
そんな言い訳がマネージャーに通用すると思ってんのか」
「マネージャー?」
「劇場が開けられないのは俺らの問題だが、
女はマネージャーから預かったタレントだ。
女には一人当たり三百万の借金が残っている。
カミールは帰って来たからいいとして、三百かける四人で千二百万だ。
それをマネージャーが返せと言ってんぞ。お前払え」
「千二百万もあるわけないですよ」
「だったらホームレスでもぷーたろーでもいいから四人野郎を用意して、
偽装結婚させるしかないな」
「えー、無理だよ。つーかストレスで胸焼けがしてきた。
つーか、俺胸が悪いんですよ。これから病院に行かないとならないんで、
帰ります」俺は勝手に踵を返した。
「ちょっと待て」やくざが立ち上がった。
 脇目も振らず、俺は階段を駆け下りた
「ゴルァ、お前の住所も何もかも分かってんだからな。逃げても無駄だぞ」
背後でやくざが怒鳴っていた。




#525/598 ●長編    *** コメント #524 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:08  ( 69)
「長野飯山殺人事件」3 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:19 修正 第2版
3
 それから俺は、胸の病気の治療の為に、市民病院の呼吸器科に行った。
 待合室の長椅子に座っていたら、「よっこいしょ」と、
トートバッグを持った牛山が腰を下ろした。
「あれー、なにー。つーか昨日はえらい目にあったよ。
今もやくざに絡まれていたんだから」
 牛山は咳き込んでいた。ゲホッゲホッ。
 咳が収まるとじろりと見て、「おまえさん、なんでこんなところに居るの?」
と言う。
「ちょっとここを」俺は胸の当たりを押えて見せた。「でもずーっと
通院でやっているんだよ。シフトに穴あけて迷惑かけても悪いし。
そっちはどうしたの」
「ずーっと咳が止まらなかったやろ。かにてんてんや」
「かにてんてん」
 やっぱりな。糖尿で人工透析までしているのに今度はかにてんてんか。
「妹の病院で診てもらえばいいのに」
「だめだ、あんな研修医しかいない交通事故の専門病院なんて」
そして又ゲホッゲホッ。「こんどはダメかも知れないなぁ」
「なに弱気になってんだよ。大丈夫だよ」
「気休め言うな。俺には分かっている。それに考えている事もあるんよ」
「なに?」
「俺が死んだら保険金が入るんだが。
それをカミールに渡して有効に使って欲しいんだが。
彼女が、借金を返して、国に帰って、両親と使えば有効だろう。
 しかし、日本で渡して、散財されても無駄になってしまう。
 それに、受取人をカミールにしても、
あんなパスポート、偽造かも知れないしなぁ。
 そこで、誰か信用出来る奴に受取人になってもらって、
カミールの故郷に持って行ってもらいたいのだが。
もっともそんな事を引き受ける奴は常識のない奴なんだろうが」
「そんなの俺に聞かせてどうするの? 俺にやれって事?」
「そうじゃないけどなぁ、ゲホッゲホッ。
ところで、昨日運転していて捕まったそうだな。
どうする積りだ。一人三百万の借金だからなあ。四人だったら千二百」
「それ、保険金で払っていいって話?」
「全然違うよ。別の話だ。あんた、狙われているよ。
やくざじゃなくて、マネージャーに。
あんた、タイーホされた女のかわりに新しい女を入れろ言われているだろ。
それができないんだったら、これで落とし前つけにゃならんって、
預かってきたんよ」とトートバッグを開いてタオルを広げた。
そこにはハジキが。
 牛山はそれをタオルで包むとこっちに押し付けてきた。
「なんだ、これ。本物か」
「当たり前だ。そんなものおもちゃでどうするぅ、ゲホッゲホッ。
あんた、それを使いたくなかったら、女を入れるしかないで」
「どうやって」
「それは、やなぁ」牛山はめもを渡してきた。
ツイッターのユーザー名らしき名前が四つ。
「あんたがなあ、野郎を探してだなあ、そのツイッターの女と見合いさせるんよ。
そんでそいつらが身元保証人になってだなあ、
成田の入管を通して、入国させるんよ。そんでマネージャーに返すんよ」
「そんな事する男、ここらへんに居る?」
「できなかったらそれで自殺するしかないぞ」
「そんなぁ」
「結婚相手が見付かったら、カミールに報告しておいて。窓口はカミールなので」
 牛山は診察室に消えて行った。
 俺は、タオルに包まれたハジキを抱えたまま途方に暮れる。

 病院で処置を終えて建物の外に出てくると、スマホが鳴った。
 すわやくざ! 良美さんだった。
「今、お兄さんに会ったけど、良美さんの事伝えるの忘れちゃったよ」
「何だ、折角個室用の透析器が入ったのに」
「お兄さん、相当悪そうだったな。かにてんてんの方が」
「ああ、うーん。血液クレンジングみたいなのやればよくなるかなぁ。
つーかキース・リチャーズみたいに血液全取替すればいいのか」
「俺が血液クレンジングしてもらいたいよ」
「えー、なんですって」
「いや。俺がかにてんてんなんてことはないんだけどね。
あまりにもややこしい事になってきたので、自分をリセットしたい気分なんだよ」




#526/598 ●長編    *** コメント #525 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:09  ( 59)
「長野飯山殺人事件」4 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:19 修正 第2版
4

 俺は午後からの勤務の為にレガシィでマンションに向かった。
このややこしさから逃れるには、
誰かにフィリピーナをおっつけなければならない、と思っていた。
まず、俺の前に勤務していた加藤という男はどうだろう。
 マンションの更衣室で加藤と引き継ぎをする。
「何か変わった事あった?」
「ガンダムのナレーションをやっていた人が死んだ」アニメオタクの加藤が言った。
「そうじゃないよ。業務の事だよ」
「業務では特にないよ。そっちは何か変わった事あった?」
「大ありだよ。まず熊を轢いた」
「どこで?」
「中野町の高架の下だよ。今日は暖かいので冬眠から覚めたのかも知れない」
「冬眠といえば、ガンダムにもコールドスリープというのが出てくるけど、
あれは冬眠とは違って、眠る前に、
血を抜いて不凍液を入れてゆっくりと凍らせて行くんだよ」
「へー。血液交換だな。牛山妹の世界だな。
…まあ、冬眠の話はどうでもいいから。
そんな事よりお前、そろそろ所帯を持ってもいいんじゃないか? 
お前、外人は嫌いなの?」
「そんな事ないけど」
 俺はスマホでツイッターを開くとピーナの名前を入力して画像を表示した。
「こんな女どうだ」
「うーん、原住民っぽいね」
「贅沢言ってんじゃねーよ。おめーにしてみりゃあ、こんな女上玉だろう。
それにフィリピンだったら、常夏だぞ」
「フィリピンに住むの?」
「そうじゃないけど。とにかくお前の顔を写メで撮らせろ。
向こうに送っておくから」
「いいけど」
 そして俺は加藤の写真を相手の女に送った。
 加藤が帰ると、風呂掃除、巡回、蛍光灯交換、フロント業務などをこなす。
 仮眠をとるとすぐに夜中になった。
 夜中の三時、朝日、読売、毎日の新聞屋をオートロックを解錠して入れた。
「お前ら、新聞を配る前にちょっといい話し」と全員をフロントの前に集める。「お前
ら、結婚とか考えていないの?」
「え、なにをやぶから棒に」
「いい女がいるんだよ。ちょっとこれを見てみな」
俺はツイッターの画面にピーナの名前を入れて表示して見せた。
「こういう女と結婚してみたいと思わないか」
「今は新聞配達も外人ばっかりだからインターナショナルなのには
慣れているけれども、ピーナとなんか結婚して笑われないかなあ」
「笑われる訳ないだろう、今や角界にも芸能界にもピーナハーフは多い。
時代はピーナだぞ」
「ビザとか問題ないの?」
「だからお前らが身元保証人になって入国させて、
気に入ったら結婚すればいいんだよ」
「成田に行くのかあ。だったら夕刊の休みの日じゃなあいとダメだな」
「とにかくお前らの顔を写メで撮らせろ。向こうに送っておくから」
「いいけど」

 朝になって牛山が出勤してくると聞いてきた。
「どうだ、進展はあったか」
「俺は仕事が早いぜ。一晩で四人確保したよ」
「誰よ」
「加藤と新聞屋だよ。これからカミールに会いに行く」
「それは期待が持てそうだな」
 それだけ交わすと、俺はそそくさと退社した。




#527/598 ●長編    *** コメント #526 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:09  (106)
「長野飯山殺人事件」5 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:20 修正 第2版
5

 駐車場に行くとレガシィに乗り込む。
車内でも息が白かった。
 カミールに電話すると英語で話した。
「もしもし、サイキ。分かる?」
「もちろん」
「今日、会いたいのだけれども。偽装結婚のことで。大丈夫?」
「大丈夫」
「じゃあ十時頃、飯山のファミレスの駐車場で待っている。
俺の車は知っているだろう。白のレガシィ」
「わかった」

 二十分後、ガストの駐車場についた。
 フロントガラスごしに空を見上げると、異様に晴れていた。
今日は何か起こるんじゃないのか。
 拳銃をジャケットのポケットに入れると、車を降りた。
 ガストの軒下に、カミールがPコートに両手を突っ込んで立っていた。
 あのファー襟に厚底ブーツでなくてよかった、と思った。
 雪の照りっ返しで、カミールの顔は白く見える。
 カミールを促して、一緒に店に入ると窓際の席に付いた。
 カミールはハンバーガーにオレンジジュース、
俺は目玉焼き&ベーコン朝定食を注文した。
 料理がくるまえにさっそく俺は切り出した。
「夕べ、俺の知り合いにフィリピンの女の写真を見せたんだけれど。
そしてそいつらの写真をメールで送ったんだけれども。
向こうの女、なにか言っていた?」
「あんなこ汚い新聞配達員じゃあ無理だよ。女の子はみんな若いんだから。
それに、偽装結婚は私の借金を返す為にやる積りだったのに。
あんたがしくじって逮捕された女達の穴埋めをする為じゃない」
「そっちが乗せてくれって言ってきたんだろう」
「とにかく無理、無理。あんなジャパニーズじゃあネバーポッシブル」
 無理無理と繰り返されると無理に思えてくる。
ユーチューバーになろうとか、fxで儲けようとか、
ミステリーの新人賞に応募しようとか、誰かに無理と言われると無理に思えてくる。
 偽装結婚も無理だし、それに面倒くさく思えてきた。
 トンヅラした方が早いんじゃないのか。牛山の保険金をもって。
 料理が運ばれてくると、カミールはさっそくハンバーガーを頬張った。
見ていて、若いな、と思った。
こんな若い女が本当に牛山を愛しているのだろうか。
スマホを渡したり、送金したりしてやっているから、利用されているだけだろう。
俺は聞いた。「カミール。牛山は客か? それとも恋人?」
「恋人だよ」
「うそー。だってあいつは金をはらって個室に並んでいた男だぞ」
「それはあなたも同じ」と言うとジッとこちらを見据える。
 なんでここで俺を攻めてくるんだろうと、一瞬顔が引きつった。
でもまあいいや。俺は声を潜めていった。
「牛山は、タバコが好きでしょう。だから胸が悪い。後で死ぬかも知れない。
そうしたら、保険金が入るでしょう。彼はそれをあなたにプレゼントしたい。
でも、日本人がいないとお金持って帰れないでしょう。どうする?」
「あなた助ける」
「どうして? 俺、ただのお客さんでしょ?」
「友達でしょ」
「友達だからって、助けるとは限らない。
その前に俺には問題があるし。お前のボスに脅かされていて、
女を入れないと死なないとならない。こんなものを押し付けられた」
 テーブルの下で、拳銃をポケットか出して、見せる。
「はーっ」と息を呑む。「ちょっと見せて」
 さっと手を伸ばすとひったくった。
「おいおい」
「これ、カルロが持っていたものだ」
「カルロって?」
「マネージャー。私が持っていてあげる。故郷で撃った事もあるし」
「故郷に帰ろうよ。牛山の金でマネージャーに借金を返して。
俺もカルロに脅かされているから、一緒に逃げたい。どう?」
「うーん」と唸って前かがみになる。胸の谷間が見える。
「この話しの続きはホテルでしようか」
「一発撃たせてくれたら、行ってもいい」
「オッケイ、オッケー」

 ファミレスを出ると、カミールをレガシィに乗っけて、中野町方向に走った。
 新幹線の高架の下で河川敷の方に向かう道に車を入れて止める
 そして、昨日捨てた熊の死骸のところへ行った。
「ここに撃てよ」
 カミールは構えた。
「ちょっと待って。一応、電車が来たら撃て」
 やがて、新幹線が、シューーーーーと擦れる様な音をたてて通過した。
「撃て」と俺は言った。

 船の形をした石庭グループのホテルに入ると、
自動販売機で部屋を選んで鍵を出す。
部屋に入ると「冷えた体を温めたい」とカミーラが言った。
 俺は冷蔵庫の上にあったティーバッグで紅茶を入れてやった。
「はい、tea。でも、アルファベットじゃないけれども、
俺は、T(tea)よりU(you)の方が好きだよ」
「でも、IよりHが先だと順番が逆ね」
 俺は黙って服を脱いだ脱いだ。
 カミールは寄ってくると、下着を下ろしてあそこを見た。
「なに、この絆創膏、血がにじみ出ている」
「それは、伝染る病気じゃないから」
「でも、やる前にシャワー浴びないと」
「オッケーオッケー」
 俺はシャワーで絆創膏のべたべたをとった。多少出血した。
 出てくると一発やった。

 事が終わる、そそくさと部屋を後にした。
 二人してエレベーターでフロントに降りてくる。
 そして出口に向かったのだが、突然カミールが消えた。
 あれー、どこに行ったんだ、俺はキョロキョロした。
背後を見ると、カミールが拳銃を構えていた。
「なにしている」
「サエキ、撃つよ」
「やめろぉ」
 しかしそのままズドンと銃声が鳴った。
 身をよじると胸からどくどくと血が流れ出した。
 俺はその場に倒れ込んだ。入り口のドアのガラス越しに妙に晴れた青空が見えた。




#528/598 ●長編    *** コメント #527 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:10  (152)
「長野飯山殺人事件」一 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:20 修正 第2版
一

 私、佐山と中川が同人の斉木に誘われて
このスキーマンション兼ホテルに来て三日が経っていた。
 初日はごたごたがあってろくにスキーも出来ず、
これでは慰安にならないと、慰安の慰安としてストリップ劇場に行った。
二日目は怠惰に温泉に浸かって過ごした。
そして三日目の今日も昼頃に起きると温泉に浸かっていたのだが。
 その帰りにフロントに差し掛かると、管理室の中で、
何やらガヤガヤ騒いでいるのが見えた。
清掃員やら、主任管理員、コンシェルジュやらが
「このままだとシフトが組めなくなる
…加藤ちゃんと牛山さんに連投してもらうにしても限度がある」
などと侃々諤々やってる。
 私はドア付近にいたコンシェルジュに訪ねた。
「ちょっと、何かあったんですか?」
「それが、斉木さんが撃たれたんですよぉ」
「はぁ?」
「ピストルで撃たれたんですよぉ」
「えー」私はほとんどそっくり返りかけた。
 コンシェルジュの高橋明子はネットのニュースを印字したもの広げると
読み上げた。
「今日十一時過ぎ、中野町のホテルで中野市在住の
マンション管理員斉木和夫さんが何者かに拳銃で撃たれました。
斉木さんは市内の病院に搬送されましたが、命に別状はないとの事です。
飯山署によりますと、
防犯カメラには外国人風の女性が銃撃の後走り去る姿が映っており、
同署は事件との関係を調査中…ですって」
「外国人風の女性っていったら、ストリップ劇場と関係あるんじゃないのか?」
中川が言った。「あの晩、一緒に帰ってきた時、牛山さんという人が
何とか言っていたなあ。何とかいう踊り子に入れ込んでいる、と。
彼に聞けば何か分かるんじゃないのか。牛山さんは今日はいないんですか?」
「今、裏のエントランスで雪かきしていますが」
「そこに行ってみよう」と中川。
 猪みたいな主任管理員を先頭に、私、中川、高橋明子は、
裏のエントランスに走って行った。
 裏口のエントランスに到着するとすぐに猪は雪かきをしている牛山さんに
詰め寄った。「牛山さん、斉木が誰に撃たれたのか知っているのかい」
「知らんよ」と背中を向けたまま牛山さんは雪かきに集中。
 しばらく二人は押し問答していたのだが。
 ところが突然牛山さんは、わーっと天を仰いだかと思ったら、
がばっと自分の体を抱くようにして雪の上に倒れてしまった。
咳き込んで吐血している。
 何で斉木、牛山と連続して人が倒れるのか、という疑問が鎌首をもたげたが、
とにかく、みんなで裏口のエントランスに運んだ。
 牛山は、更に咳き込み、吐血する。
「こりゃあもう救急だな」と中川。
 猪みたいな主任管理員が救急車を呼んだ。
 しかし、来るのは早いのだが、ストレッチャーで救急車に格納してから、
出ない出ない。
あちこちの病院に電話しては「今、別の急患を診ているから」
などと断られて手間取っている。
 猪みたいな主任管理員が怒鳴った。「なに時間食ってんだ、こんなの、
心筋梗塞、脳梗塞だったらとっくに死んでいるぞ」
 咳き込んでいた牛山がギクッと目を見開いた。
自分で尻のポケットから財布を出すと、診察券を取り出して
「ここに連れていってくれ。何時もここに通っているんだ」と言う。
「診察券を持っているならそこに行きましょう」と救急隊員が言った。
 そういう感じで、救急車はやっとこ動き出した。
 猪の主任管理員が同乗して、私と中川は明子さんの車でついていく。

 市民病院のICUの外で待っていると、医師が出てきて、我々に説明した。
「肺胞出血を起こしてまして、今、薬物療法をやっていますが、
場合によっては血漿交換をしなければならない」
「斉木はここには運ばれてきていないんですか?」私は聞いた。
「今朝中野町で撃たれた斉木なんですが、
彼もおんなじマンションで働いているんですよ」
「それは中野町の病院じゃないですかね。向こうで起こった事件なら」
「それじゃあ主任さんはここで牛山さんの様子を見ていて。
俺らは向こうに行ってみるから」と中川が命令口調で言った。

 私と中川は、明子さんの運転で、中野市の僻地病院へ言った。
 そこは、小さくて古い病院。
 明子さんが言った。「ここは元々は産婦人科だったんですが少子化で
人工透析や救急病院も始めたんですよ。
牛山さんの妹が看護師をやっていて、彼女から聞きました」
 受付の小窓に「斉木さんの職場の者ですが」と告げる。
「十三号室ですよ」と簡単に教えてくれた。
 これじゃあ、犯人がとどめを刺しにきたら簡単にやられちゃうな。
 我々が病室の前まで行くとちょうど女医さんが出てきた。
「今、面会謝絶ですよ。立入禁止です」と冷たく言う。
「しかし、私ら知り合いなのだから具合ぐらい聞かせて下さいよ」
と私は下手に出た。
「部外者には言えませんよ」
 ここで中川がT大医学部の威光を放つ。「私はT大法医学教室の
中川といいますが」
 女医の顔色が変わった。
「あなたが診たんですか」
「はい」
「傷口の大きさとか、火薬の付着の有無とか、教えて下さいよ」
 若い女医は従順に答えた。「傷の大きさは五ミリ。
使われた拳銃は38口径の9ミリです。銃弾は肋骨に当たって止まっていました。
火薬の付着はありません。距離は至近距離だと思われます」
「解せないなあ。普通銃の口径以上に射創はでかくなるんだが。
まあ拳銃なら同じぐらいの大きさの場合もあるが」
 女医は逃げる様に行ってしまった。
 次に警察関係者が出てきた。
「あの、斉木くんの友人なんですけれども、
事件の経緯を教えてもらえませんか?」
「マスコミ各社に言った通りですが」
 ここでも中川がT大の威光を放つ。
「私はT大医学部のモノですが」
「あ、そうですか」
「何かストリップ劇場との絡みとかあるんやなかろうか」
 我々は、牛山さんとカミールの関係を知っていたので、そんな事を聞いたのだが。
「実はですね、一昨日の夜なんですが、飲酒検問に
斉木さんが引っかかったんですよ。
その時にストリップ劇場の踊り子五人を捕まえましてねえ。
一人はビザがあったんで帰したんですが…」
「それが今回の事件と関係あるのですか?」
「さあ、今のところはなんとも」
「そうですか」

 三人でマンションに帰ってきたところで、我々はもう一つ情報を得る事が出来た。
 フロントには加藤という管理員が居たのだが。
「主任管理員はどうしました?」と聞くと、
「まだ、帰ってこなーい」と、それを聞いただけで、
こいつ池沼?と思える様な返答をしてきた。
「君ぃ。君が最後に斉木と会ったのは何時? 何か言っていなかった?」
と中川が聞く。
「前回勤務の時に斉木さんに会いました。その時に、
フィリピン人と結婚しないかと言われました」
「なにぃ?」
「フィリピン人の写真を見せられました。
そして僕の写真も撮って向こうにメールしたみたいです」
「それは偽装結婚?」
「詳しい事は知りません。斉木さんに聞いてみないと」


 我々は客室に戻ってこれらの情報を整理しようと思ったのだが、
やっぱりひとっ風呂浴びながら、という事になった。
 我々は湯船に浸かり、濡れたタオルを頭に乗せて、今日得た情報の整理を始めた。
「まず事件のあらましですが、
まず、あの晩、斉木は踊り子五人を乗せていて飲酒検問に引っかかった、
そしてカミールだけが帰ってきた、というのが事件の始まりですね。
それから、斉木は加藤に偽装結婚らしきものを進めていた。
あと、斉木を撃ったのはカミールなんじゃないか、という疑いがある」
「そうやな。そして想像だが、四人もフィリピン芸人をもってかれたんじゃあ、
その筋のひとから脅かされていたかも知れない。
それでまず偽装結婚で穴埋めをしようとした。
だけど上手く行かないから、落とし前をつけるために死ななければならなかった」
「実際に撃ったのはカミールって感じですが」
「それは怪しいと思うで」
「何故ですか?」
「だって傷口は五ミリしかないのに、九ミリの弾が出てきたんやで」
「でも、医者が弾を摘出したんですよ」
「あんな研修医にはなんにもわからないやろう」
「それに撃たれたところは防犯カメラにも写っているし」
「そうだけれども、俺にはまだ疑問だな」
「じゃあ、そこらへんの事、カミール周辺の事を、明日牛山さんに聞いてきますか。
見舞いのついでに」
「そうやな」




#529/598 ●長編    *** コメント #528 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:11  ( 85)
「長野飯山殺人事件」二 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:21 修正 第2版
二

 ところが翌日、またまた明子さんの運転で市民病院に行ってみると、
牛山さんはICUから出てきたのはいいのだが、
夜中にまたまた肺胞出血が進んで、
鎮静をかけられて人工呼吸器をつけられていた。
 もう意識がなく話せない。
「なんだー」我々は頭を抱えた。
 がっかりして、折りたたみ椅子に三人して座っていると、
看護師が来て、牛山さんの人工呼吸器からチューブを入れて、
ずずずずずーっと吸引した。
 牛山さんは体をビクビクーっと痙攣させた。
「なにをやっているんですか? 痰を取り除いているんですか?」と中川に聞く。
「ああやって、分泌物を取り除かないと誤嚥を起こすからね」
 看護師が作業をしながら、言った。
「斉木さんは中野市の僻地病院に行っちゃったんですってねぇ」
「えッ、斉木を知っているんですか?」
「ええ。この前、牛山さんと一緒に来ていましたよ」
「えッ、斉木がこの病院に」
「あら、そうですが」
「何科ですか。呼吸器科ですか?」と中川。
「え、ええ」
「内科ですか外科ですか」
「それは…、あらなんか私、余計な事いっちゃったかしら」
 看護師は牛山の鼻からチューブを抜くと、
適当に人工呼吸器のコントローラをチェックして、そそくさと出ていった。
「こりゃあ、面白い事になってきたで」と中川。「呼吸器科に通っていたって事は、
胸に切開の傷でもあったかも知れない。
そうすれば、銃弾をそこに埋め込んでおいてやな、空砲を撃たせれば、
他の人には、撃ったと思える。そんであんな僻地病院に運ばれて、
素人に毛が生えた程度の研修医に診させたら、わからんかも知れない」
「じゃあ、その情報をもって僻地病院に行ってみましょうか」
「そうやな」
「じゃあ、明子さん、また送っていってもらえますか」
「ええ」

 我々は又、飯山市から中野市の僻地病院に向かった。
 途中車窓から雪山を見て私は呟いた。
「折角気楽にスキーでもする積りだったのに、
やっかいな事件に巻き込まれちゃったなぁ」
「そんなに気楽じゃあないですよ。今年は熊が出ますから。
地震の影響かも知れないけれども」と明子さん。
「実際に出たのか」と中川。
「いや、加藤さんから聞いただけなんですけど。
加藤さんは斉木さんから聞いたと言っていました。
運転していたら山から熊が出てきて轢いてしまったと」
「近いのか」
「ちょうど中野市に向かう途中ですが」
「そこに連れていってくれへんか」
 我々は斉木が熊をはねたという中野市の北陸新幹線の高架下に降り立った。
 あたり一面は雪だった。
「ここらへんに、熊の死体はないかなあ」と私。
「斉木のアパートは中野市やから、中野から飯山方向の車線の向こうやな。
向こう側が河川敷みたいになっているから、どっか、向こう側にないやろか?」
 そして3人で、反対側の河川敷みたいなところを探してみた。
すぐに雪の上に熊の死体を見付けた。
「雪のおかげで保存状態がいいな」中川はしゃがみこんでじーっと見ている。
「これや。ここに銃創があるで。でも回りの雪は全然血で汚れていない。
つまり死んだ後に撃ったんや。そして弾を取り出したんじゃあないやろか」
 そこまで言った時に、高架の上から、
シャーーーーっという新幹線の音が響いてききた。
「このタイミングで撃ったんですかね。ドラマみたいですが」
「多分そうや。そして、その弾を傷口に入れたんや」
「じゃあ、僻地病院に行って、斉木に尋問してみますか」

 ところが僻地病院の斉木の病室に行ってみると、
なんと斉木は今朝方死亡していて、もう葬儀屋が運んで行ったという。
「検死したのかっ」中川が女の研修医を怒鳴った。
「しましたよ。変死だと思ってちゃんと検視官を呼んで。
そうしたら解剖の必要はないというから、死亡診断書を書いたんです。
そうしたら葬儀屋さんが迎えにきたんです。全部決まりの通りにやったんだから」
「まだ生きている可能性があるから、早く葬儀社に電話して」
丸で自分の部下にでも言う様に研修医に言った。
 しばらくして、事務方の男がきて言った。「あのー、葬儀屋に電話したら、
搬送の途中で遺体が消えたっていうんですよね」
「そんな馬鹿な。警察には通報したんですか」
「一応通報したそうですが、もう検死も済んでいるので、
これは逃亡というよりかは、
葬儀屋が死体をなくしたみたいな扱いになるそうです」
「そんな馬鹿な」
 一瞬興奮したがすぐに冷静さを取り戻す。
 中川は部屋を見回した。
「なんかここは寒いなあ」といいつつ窓際に寄る。
 カーテンは閉まっていたが、窓は開けっ放しだった。
室内の温度は零下に近かった。




#530/598 ●長編    *** コメント #529 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:12  ( 82)
「長野飯山殺人事件」三 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:21 修正 第2版
三

 途方に暮れて、我々は明子さんの運転で帰ってきた。
 フロントにはぼけーっとした加藤がいた。
 彼に言う。「加藤君。君の熊の話ねえ、明子さんから聞いたんだが、
斉木が熊を轢いたという話、あれが事件の一部解明に役立ったよ」
「ああ、コールドスリープでしょう」
「なに?」
「熊の冬眠と人間のコールドスリープは似ているけど違うって言っていたら
反応していたよ」
「斉木がか?」
「斉木さんはコールドスリープなんて牛山さんの妹の世界だって言っていたよ」
「なんだって」そして中川はこっちに言ってきた。「おい、もう一回、
僻地病院に行くぞ。明子さん」
「私、牛山さんの所に行かないといけないんです。
あの人が倒れたのは勤務中だから労災になるので、その書類を届けろと、
派遣元の上司にいわれているんです。もしよかったら社用車、貸しますけど」
「じゃあ貸して下さい」

 我々は自走で、又僻地病院へ行った。
 着くなり受付の小窓に「研修医はいるか」と中川が言った。
「もう今日は帰りましたけど」
「看護師の牛山さんは」
「急用があるといって帰りましたけど」
「じゃあ、院長はいる?」
「はあ。どちら様で」
「私はT大法医学教室出身の中川です」
「少々お待ち下さい」
 数分後、我々は院長室に通された。
 ヒゲを蓄えた初老の院長が我々を迎えた。
「これはこれは、あなたがT大の法医学教室の先生ですか」
「もう辞めましたがね。それで、いきなりですが、
看護師の牛山さんは今日は何で帰ったのですか?」
「なんでも、市民病院でお兄さんが亡くられたとかで早退しましたが」
「そうですか。亡くなったんですが。彼女はどういう人なんですか?」
「何か気になる点でもあるんですか?」
「今回の事件で死んだとされている斉木なんですが、
彼は市民病院で亡くなった牛山さんと同僚なんですが、
その妹が牛山看護師ですから、接点があるんですよ。
 その斉木なんですが、熊を轢いているんですが、
熊の冬眠とコールドスリープは似ている、とか言っているんですよ。
あと、コールドスリープに入る前の瀉血は牛山看護師の世界だ、
とか言っているんですよ。
 あと、斉木の病室が異様に寒かったことも
コールドスリープと関係がある様な気がして。
 そんな事から、彼女は一体何者かというのが気になっているんですが」
「そうですか。ミステリアスですなあ。
彼女は昔からこの病院に居たんですがね。
この病院は元々は産婦人科病院だったんですよ。
それで、新生児に溶血性疾患がある場合には、
当院で交換輸血等もやっていたんですが。
ところが、あるケースで上手くいかなくて、
子供に重度の障害が残ってしまったんですなあ。
彼女はそれを非常に気にしていて、
それ以来それがトラウマになったのか血液マニアの様になってしまって、
瀉血だのリスカだのに興味を持ったりして。
 ちょうどその頃、この病院も少子化のあおりで患者数が減ったんで、
人工透析を初めたんですよ。彼女も血液マニアですから、
喜んでそれに参加したんですがね。
 あと、偶然にもその頃から彼女のお兄さんも
人工透析に通うようになったんですが、
不幸なことに肺がんにもなっていましてねえ。
彼女は、血液交換をすれば治るかも知れない、と言っていましたよ。
 あと、透析の方だけでも楽になるようにと、
彼女は個室タイプの透析器を入れてほしいと言っていましたね。
あれだったら夜間寝ながら出来ますから。
そういうのは当院としてもあってもいいなあというんで、
最近導入したんですがね」
「それは今どこに」
「それがちょうど、斉木さんが亡くなった部屋に置いてあるんですよ」
「見せてもらっていいですか」
「ええご案内します」
 病室に行くと我々はPCラックぐらいの大きさの透析器にへばりついた。
 中川は指差しながら、瀉血のチューブ、血液ポンプ、血液濾過器、
そして返血のチューブ、と血の通り道を追っていった。
「ここにポンプがありますね。これを使って、血液交換は出来ないんですか?」
「さあ。血液交換器とは又別の器械ですからね。
血液交換の場合にはシャント手術なんて前提としていないし。
しかし、そのポンプで瀉血は出来るには出来る。
あと、返血は輸血パックで点滴してやればいいんでしょうから、
入れ替えは可能かも知れませんね。
彼女はこれでお兄さんの血をクレンジングして綺麗にする積りだったんですかね」




#531/598 ●長編    *** コメント #530 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:12  ( 42)
「長野飯山殺人事件」四 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:21 修正 第2版
四

 我々は、それだけの情報をもってマンションに帰ると
又温泉につかって濡れたタオルを頭に乗せた。
「まず、動機というかホワイダニットについての整理やな」
「それはまず、女四人をもっていかれたので劇場関係者から恨みをかっていた
ということですね。それが証拠に加藤らにも偽装結婚を進めていた。
しかしそれが上手く行かないんでその筋の人から脅かされていたかも知れない。
落とし前をつけろなどと。
 もう一つは、撃ったのかカミールらしいということですね。
しかも牛山さんがカミールに入れ込んでいたという。
 以上の二つがホワイダニットになるんでしょうか。
 それからハウダニットですが、これは医者じゃないと分からないんでしょうか」
「まずは、銃弾の偽装だな。加藤らへの偽装結婚も上手く進まないので、
落とし前をつけなければならないが、勿論死にたくない。
そこで熊の死骸に弾を打ち込んで取り出して、元々あった呼吸器科の傷に入れる」
「どういう病気だったんですか?」
「それは不明だが、カミールに空砲を撃たせて、
弾に当たった様に偽装したんじゃないの?」
「しかしそんな偽装、医師に見抜かれないですかね」
「新米の研修医なら見逃すかも知れへんな。
それに、それが死因な訳ではないんやから、
仮にバレても、トンヅラしちゃえばいい訳だから、
意外と一か八かでやれるかもしれないで」
「次にコールドスリープですが」
「まず、牛山の妹が血液マニアで血液交換などに興味があった、
というのが前提になるな。
そして彼女と斉木が
冬眠から覚めてきた熊の様にコールドスリープ云々話していたという事。
あと、あの寒い病室や」
「でも、仮にコールドスリープ状態になったとしても
心肺停止状態にはならないんですよね。
斉木は検死の結果死亡が確認されているんですよ」
「うーん」
 中川は湯船から出ると、屋外の露天風呂に行った。
 そこには小さい池があって金魚が泳いたのだが、
この零下だから池の水が凍っていて金魚も一緒に凍っていた。
「佐山さん、きてみな」と中川が呼んだ。
 私が行ってみると、中川は露天の湯を手ですくってきて、金魚にかけた。
 すると、金魚はなんと泳ぎだしたのだった。
「これをやったんや」
「そんな事が出来るんですか?」




#532/598 ●長編    *** コメント #531 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:13  (106)
「長野飯山殺人事件」五 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:22 修正 第2版
五

 それからなお二日間、我々は怠惰な湯治を楽しんでいた。
 その二日目の温泉の帰り、フロイトの前を通ると、
主任管理員の猪が声をかけてきた。
「お客さんからもらった饅頭があるんですよ。食べて行きませんか?」
 私と中川は管理室の中に入った。
 部屋は10畳ぐらい。家電量販店並の明るさ。
奥の壁には、防犯カメラのモニタ、防災関係の盤などがずらーっと並んでいる。
真ん中にスチールデスクが2個あって、ノートPCが一個置いてある。
 我々はそのデスクにキャスター付きチェアを寄せ合って座るとお茶をすすった。
 突然PCの右下にウィンドウが開いてスカイプの着信音が鳴った。
 「なんだ?」主任管理員が通話のボタンをクリックした。
 画面にタンクトップ姿の斉木がぼーっと現れた。
「なんだ。斉木さんか?」
「おー、おー、繋がったか」
「何処にいるの?」
「アンヘレス」
「アンヘレス?」
「フィリピンのアンヘレスだよ」
「なんで又そんな所に」
「まあ色々事情があってな」
 画面の中の斉木に誰かが皿を運んで来た。
ノースリーブのワンピースを着た女性だが顔は映っていない。
あれはカミールなんじゃないのか。
 斉木は「サンキュー、サンキュー」と言いながら
皿を受け取って机の上に置いていた。
「やっとインターネットを出来る環境が出来たんで、繋いでみたら、
このスカIDがあってんで、掛けてみたんだ。
こんな事すりゃあ、飛んで火に入るなんとやらなんだけれども、
俺って、そっちじゃあ、どうなっているかなーと思って」
言うと斉木はケケケッと猿の様に喜んだ。「つーか、驚いたことに、
そこには中川先生と佐山さんもいるんだ。
ちょうどいいや。今回の俺様殺人事件の答え合わせをしてみようよ。どうだよ」
「それはこっちも望むところやな」PCに向かって中川が言った。
「そうこなくちゃ。じゃあ中川先生、まず、ホワイダニットから言ってみなよ」
「だからそれは、あのストリップ劇場に行った晩、
お前は女のアッシー君をやって、四人も持っていかれて、
その穴埋めに偽装結婚をさせようと思ったが上手く行かず、
落とし前をつける羽目になったが、死にたくない、
そこでカミールと共謀して偽装殺人を思い付いた、ってとこだろう?」
「それじゃあ全然答えになっていないよ。
なんでカミールが偽装殺人に協力するんだよ。おかしいだろう。
実はカミールには俺に協力したい理由があったんだけれども、知りたい?」
「ああ、知りたいな」
「俺は確かにやくざに脅かされていたが、
もう一個カミール絡みで別の話があったんだよ。
実は牛山さんは生命保険に入っていて、
それをカミールに渡したいと思っていたんだよ。
でもカミールもイマイチ信用できない。
そこで俺にカミールの故郷まで金を運べって頼んで来たんだよ。
それでカミールも偽装殺人に協力したって訳さ。
結局はカミールに保険金が入るんだから」
そこまで言うと斉木は天を見上げて何か考えていた。
そして続ける。
「つーか。そもそも俺はあの疑惑の銃弾で死んだ訳じゃないんだけど。
俺はコールドスリープで死んだんだよ。
つまり、トリックは二つあって、
疑惑の銃弾のホワイダニットはやくざへの落とし前だけれども、
コールドスリープの方は保険金目当てって感じだな。
 それをさぁ、やくざへの落とし前を偽装するためにカミールが手伝った、
なんて言うんじゃあ、全然分かっていないな。減点一だな。はははっ」
と笑って乳歯の様な矮小歯を見せた。「だいたい今回の事件はホワイダニットは
どうでもよくてハウダニットが凝っているんだから。
だから、ハウダニットについて言ってみな。まず、疑惑の銃弾についてから」
「ああ、言ってやるよ。お前何か呼吸器の病気があって傷があっただろう。
あと、どっからか回ってきた銃で熊を撃って弾を取り出したのも分かっている。
その弾をその傷口に埋め込んだんじゃないのか?」
「おいおい、呼吸器の病気って何だよ。病名が分からないのかよ、
T大卒のお医者さんが。
それじゃあ裁判で勝てないぞ。今スマホで調べてみろよ。
胸、穴があく病気とかで」
「気胸か」調べるもなく中川はひらめいた様だった。
「そうだよ。気胸だよ。しかも通院で治療出来る方法があるんだよ。
胸に穴を開けて、ドレーンチューブを引っ張ってきて、
腹のあたりにポンプをつけてね。
その胸の穴に弾をめり込ませたって訳さ。
そんでカミールにラブホで空砲を撃たせて、
それから病院に担ぎ込まれた。
でかい病院じゃあバレるかも知れないが
アルバイトの研修医がいるみたいな病院に行けば撃たれたって事になるだろう。
医者に勘付かれたら逃げてくればいいし。それが疑惑の銃弾の真相さ。はははっ。
 でも、別に俺はその偽装殺人で死んだ訳じゃないんだぜ。
コールドスリープで心肺停止状態になったんだ。
そっちの方のハウダニットは分かる?」
「大胆な予想をしてやるよ。
お前はホテルで撃たれて僻地病院に運ばれて寝ていた。
そこに、血液交換マニアの牛山看護師の登場だ。
まず看護師は個室用の透析器でお前の血を全部抜いた。
そして血の換わりに生理食塩水を点滴する。
同時に窓を開け放って部屋を冷たくした。
そうやって体温が十度になれば全ての細胞は活動を停止するからな。
つまり心肺停止状態になるって訳だ。
これは金魚が半冷凍になるのとは違って、完全に心肺停止状態になるものだ。
実際、二〇一四年だかに、血を抜いて生理食塩水を入れて
仮死状態にして手術をする、という症例がピッツバーグだかであったんだよ。
とにかくそうやってお前はまんまと検死を突破した。
その後、血を元に戻して、霊柩車の中で甦った。
ところで、牛山看護師にも動機はあった。
兄の保険金を有効に使いたかったという」
「それは当たりだな。大したものだよ。はははっ」と斉木は力なく笑った。
「しかし全体で見ると、
やくざへの落とし前ということは分かっても保険金の事は分からなかったし、
コールドスリープのこと分かっても、気胸という病名は分からなかったんだから、
二勝二敗だな。
まあ、今回は引き分けって事にしてやるよ。ハハハ歯歯歯はははっ」




#533/598 ●長編    *** コメント #532 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:14  ( 83)
「長野飯山殺人事件」六 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:22 修正 第2版
六

 スカイプだから鮮明ではないのだが、斉木の頬はこけて無精ひげが生えていて、
心なしか頭髪も薄くなっている気もする。
伸びきったタンクトップの胸のあたりには肋骨が透けている。
逃避行で疲れたか、糖尿病でも患ったか。
 斉木は机の上の皿からスプーンですくってピラフの様なものを食べ出した。
その様子は、キッドナッパーに誘拐された商社の駐在員といった感じ。
 そこへ、さっき皿を運んできたノースリーブの女性が登場した。
 最初の内は、斉木が女に向かって、ファックだのビッチだの声を荒げていたが、
その内、プリーズとか言って、拝むように手を合わせていた。
 女が「カモン」とドア方向に向かって言った。
 機敏な動きの男二人が入ってきて、
椅子に座っている斉木の肩を両方からフルネルソンで固めると、
そのまま、部屋の外に引きずっていった。
 それからワンピースの女がカメラを覗いた。
「アディオース、アスタ、ラ、ビスタ」とこっちに言う。
そしてぷちんとスカイプが落ちた。
「なんだ、何か向こうで騒ぎが起こっているようですが」と主任管理員。
「彼女らも売春をさせられていたんだから、
恨んでいて男を呼んできたのかも知れない」と私。
「これから彼がどうなるのか、というのもミステリーやな。
まだまだミステリーは続くってことや」中川は全く他人事の様に言うと、
お茶をすすった。「腹へったなあ。そろそろめしでも食いに行かへんか。
このお菓子が呼び水になって、すごい空腹感やで」
「だったら今日は海鮮丼がおすすめですよ。
新鮮なイクラとかハマチとか乗っていましたから」
「じゃあ、それ、行こう」

 私と中川とでホテル側のレストランに向かって歩いていたら
明子さんに出くわした。
「あら、これからお食事ですか?」
「そうなんですよ。美味しい海鮮丼があると教えてもらって。
…そうだ、明子さんも一緒にどうですか? ご馳走しますよ。
色々ごたごたがあったし」
「そうですか? じゃあお相伴に与ろうかしら」
 我々三人は、レストランで、
日本海の海の幸満載の海鮮丼、お吸い物つき、お酒つきに舌鼓を打った。
「イクラがぷちぷちと口の中で弾けるところにお酒を含むと絶妙やな」
「磯の香りが広がりますね」
「お吸い物もグーですよ」
「魚介類と吸い物は合うよな。味噌汁はそうでもない。
魚には白ワインは合うというのに似ているのかな」
 など、食レポをしながら寿司を食った。
「そういえば、斉木さんってその後どうなったんですか?」
「そうそう、それを報告したかったんですけれども。
さっき斉木から電話がかかってきたんですよ」
「え? 携帯に?」
「いや、スカイプで」
「あの人、まだ日本に居るんですか? てか、生きているんですか?」
「ええ。なんでもフィリピンに居ると言ってましたよ。
なんか、牛山さんの間男みたいな真似しているみたいですが、
結構揉め事が多いらしいですよ」
「へー、いやらしい。そういえば、私カミールにあったんですよ、
牛山さんに書類を届けに行った日、先生たちに社用車を貸した日ですけれども。
あの晩牛山さんが亡くなって、そうしたらカミールも来たんですよ。
 カミールは、フィリピンに帰るけど、
牛山さんと一緒じゃないのが残念だ、って言ってましたね。
でも、フィリピンはすごい危険だから牛山さんは行けなくてよかった
とも言ってましたね。
なんでも左翼ゲリラがあちこちにいて誘拐されるとバラバラにされて
臓器売買に使われちゃうんですって。
心臓とか目とか。
もしかしたら斉木さんも危ない目に遭っているかも知れませんね」
「じゃあ、さっきの騒ぎも何かその手のトラブルかなぁ」
「え、何かあったんですか?」
「いやいやいや、想像ですよ。
つーか、斉木は死んでも死なない奴だから何があっても平気でしょう。
ねえ、中川さん」
「さあ、どうだろう。あの常夏のフィリピンと
このスキー場とじゃあ何千キロも離れているからなあ。想像でけへん」
 中川はイクラを口に入れると、お酒を含んだ。窓の外の雪山を遠目に眺める。
 私もつられて窓の外を眺めた。
 ゲレンデにはしんしんと雪が降っていた。
 雪が防音材になって、
人間の起こすもろもろの騒々しさを吸い取るかのように思われた。
 この静かな斑尾とあの騒々しいフィリピンが
海底ケーブルで結ばれていると思うと変な気持ちがする。
しかし数日したら又スカイプで電話をしてみようと私は思った。
斉木和夫が二度死ぬかどうかを確かめる為に。


【完】




#534/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  19/02/22  20:17  (  1)
私的バレンタイン・サガ (上)   永山
★内容                                         21/01/18 01:40 修正 第3版
※都合により一時非公開風状態にします。




#535/598 ●長編    *** コメント #534 ***
★タイトル (AZA     )  19/02/23  00:02  (  1)
私的バレンタイン・サガ (下)   永山
★内容                                         21/01/18 01:41 修正 第3版
※都合により一時非公開風状態にします。




#536/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:31  (225)
眠れ、そして夢見よ 1−1   時 貴斗
★内容                                         19/03/26 22:35 修正 第2版
   奇妙な患者


   一

「先生の研究についての噂は、かねがね伺っております」
 高梨と名乗るその変ににやけた男は、真新しい名刺を差し出した。滝
田は男の顔を一瞥し、受け取った。「小暮総合病院 副院長 高梨英一」
とある。
「小暮総合病院。ああ、私もお世話になったことがありますよ。二年前
に右腕を骨折しましてね」
 滝田は職業的な笑顔を浮かべ、Yシャツの胸ポケットから名刺を抜き
出すと、男に渡した。高梨は大仰に両の眉を上げてみせる。
「そうですか、それはそれは。その後ご加減はいかがですか?」
「ええ、もうすっかり。二年も前のことですから」
「いやあ、それは良かった」
 高梨は相変わらず笑みを浮かべながら、応接室の様子を眺め回してい
る。
「まあ、立ち話もなんですから、おかけ下さい」
 二人はソファに座り、向かい合った。
 滝田が経営する睡眠研究所に、病院の医師、それも副院長と肩書きが
つく人間が訪ねてくるなどということは、初めてのことである。「実は今
日伺ったのは、他でもありません」高梨は急に声をひそめた。「うちの病
院に、非常に、何と言いますか、複雑な症状を持った患者が入院してい
るのです」
「はい」
「先生も睡眠の研究者でいらっしゃるから、睡眠障害についてはご存知
でしょう?」
「ええ、一応は」
「最初この患者は、夜なかなか寝付けず、朝早く目が覚めてしまうので、
なんとかしてくれと言って私どもの病院にやってきました」
「睡眠時間が短いわけですね」滝田はテーブルの上に両肘をつき、口の
前で手を組み合わせた。「鬱病ですか?」
「精神神経科医の判断は、ノーです。患者は精神的にはいたって普通で、
しゃべり方もはきはきとしており、その後何度かのカウンセリングでも
本人の生活上とりたてて重大な悩みがあるわけでもなく、食欲もあり、
勤務上の問題もなかったそうです。煙草、よろしいですか」
「どうぞ」
 滝田は手の平でテーブルの上の、ダイヤモンドのような形にカットさ
れた、ガラス製の灰皿を指し示した。
 銀色の、いかにも高級そうなライターで火をつけ、一服吸うと、高梨
は先を続けた。
「ところがその後、今度は夜容易に寝付くことができないのは同じなの
ですが、朝なかなか起きられなくなったと言い出しました」
「ほう、症状に変化が現れたわけですね」
「最初は午前二時頃に寝て、朝七時に起きると言っていました。ところ
がだんだんと、寝る時間が三時、四時へと遅れていき、朝起きる時間も
八時、九時へと遅くなっていきました」
「勤務の方はどうなったのです? 当然支障が出ると思いますが」
「ええ。患者は遅刻の常習犯となり、周りから白い目で見られるように
なりました。奥さんが起こそうとするのですが、絶対に起きないのだそ
うです」
「失礼します」
 所員の常盤美智子が盆にコーヒーを二つ載せて入ってきた。
「どうぞ」
 彼女がカップを置くと高梨は「有難うございます」と言いながら美智
子の顔を興味深げに見つめた。前時代的な牛乳瓶の底のような眼鏡が珍
しかったのだろう。
 滝田の前にもコーヒーを置くと、美智子は高梨の失礼な態度に怒った
のか憮然とした表情で立ち去った。
「睡眠相後退症候群ですか?」
「私どもの診断も、そうです。その状態は一ヵ月ほど続きました」
 高梨は軽く叩いて灰を灰皿に落とした。
「治療を進めるうちに、徐々に症状は改善していきました。患者の睡眠
時間は正常な時間帯へと戻っていったのです。私達は、治療の効果があ
ったのだと思ったのです」
「そうではなかったと?」
「ええ。今度は昼間眠くてしょうがないと言い出したのです」
「今度は過眠症になったとでも?」
 滝田は少し驚いた。
「ええ。夜十分な睡眠をとっているにもかかわらず、昼間たえまなく強
烈な眠気に襲われ続けると言います。笑ったりびっくりしたりすると全
身の力が抜けてしまうということから、ナルコレプシーと診断しました」
 滝田はようやくどういう話か分かってきたが、唇を少し歪めた。
「その患者、嘘をついてるんじゃないですか?」
「いいえ。MSLT(Multiple Sleep Latency Test)をやってみたのです。平
均入眠潜時は三分です」
 二時間ごとに二十分間横になり、眠りに入るまでの時間を測定するテ
ストだ。三分となると、これはかなり重度だ。
「ふーん」滝田も胸ポケットから煙草を取り出した。「それで?」
 高梨は滝田の煙草に火をつけながら、先を続ける。
「次に起こってきたのはレム睡眠行動障害でした。患者はふらふらと家
の中を歩き回り、家族の者に怒鳴り散らしたり、壁に立小便をしたりし
ました。後で聞いてみるとそういう夢を見ていたと言います」
「ほおう」
「さらに睡眠時無呼吸症候群を併発するに至って、私達は患者を入院さ
せることにしたのです」
「つまり」滝田は眉をひそめた。「いろいろな種類の睡眠障害が、次々と
起こったと、そうおっしゃるわけですね?」
「ええ、そうなんですよ」
「そんな馬鹿なことが」
「しかし、現実に起こっているのです。入院してからがもっとひどくて、
一週間から二週間、眠り続けるのです」
「今度はクライン・レビン症候群ですか」滝田はあきれた。「睡眠時無呼
吸症候群は? あれだと夜中に何度も目を覚ますんじゃないでしょうか」
「目を覚まさない場合もあります。しかし、入院後は起こらなくなりま
した。全く不思議です」
「CTスキャンとか、MRIは撮られたのですか?」
「脳には特にこれといった異常は認められていません」
 高梨は大きくため息をついた。
「眠り続ける期間は次第に伸びていきました。今はずっと眠っています。
こうなるともう、分かりません」
 滝田は笑いを漏らした。
「でもそれは、私の所へ持ってこられても、どうにもなりませんよ。も
っと大きな病院に移すとか」
「いえいえ、こうして先生をお訪ねしたのには理由があるのです。入院
してから、我々には全く理解できないような不思議なことが起こったの
です」
「ほう」
「患者はその後、普通の状態では目覚めなくなりました。起きた状態が、
入院する前のそれとは全く違うのです」
「と言いますと?」
「患者の名前は倉田恭介といいます。しかし彼は、自分は御見葉蔵(ご
み ようぞう)だと言うのです。彼は三十五歳なのですが、その時の彼
の声は老人のようなしわがれた声なのです。全く元の倉田とは違った声
質です。どう思います?」
 滝田は、高梨が患者を“倉田”と呼び捨てにするのを、少し不謹慎に
感じた。
「それもレム睡眠行動障害なのではないですか? まあ、声が変わって
しまうのは説明がつきませんが」
「ええ。私達もそう思いました。そこで精神神経科医は彼に質問を試み
ました」
「寝ている患者と会話ができたんですか?」
「ええ、それも奇妙なことです。横で寝ている妻が寝言を言ったので返
事をしてみたら返答してきたので『なんだ、起きてるの?』と聞くとす
やすやと眠っている。そういう例ならいくつもあるのですが、彼のよう
にはきはきと答える患者は聞いたことがありません」
「目は開いてるんですか?」
「開いてます」
「だったら睡眠時遊行症の方かもしれませんね」
「脳波を測定しました。ノンレム睡眠ではありません」
「そうですか。で、どうだったのです?」
「ただのレム睡眠行動障害だというだけでは説明がつかない、ある事実
が分かったのです」
「どんな?」
「患者の様子は、とにかく異常でした。彼が御見葉蔵として語る事は、
細部にまで渡っていました。彼がイカの塩辛をのせたお茶漬けが好きで
あることや、彼が住んでいる屋敷の部屋の間取り、彼が好きな酒の銘柄
……精神神経科医が次々にする質問に対して、実に自然に答えるのです」
 滝田は短くなった煙草をダイヤモンド型の灰皿に押し付けた。
「倉田さんの演技ではない、という訳ですね。すると彼は多重人格かも
しれませんね。彼はなぜだか知らないが昏睡状態に陥った。時々目覚め
るが、その時には御見葉蔵なるもう一人の人物になっている。レム睡眠
時の脳波と覚醒時の脳波は似ていますからね」
「しかし、事前の兆候が見られません。つまり、頭の中で誰かのしかり
つけるような声がする、といったような類の。全く突然にそうなったの
です。第一、彼の中の御見葉蔵という人格は、あまりにもはっきりとし
すぎているのです。一九六一年生まれ、十九歳で結婚し、二十四の時に
長男をもうけました。子供の名前は弘というそうです。六十六歳にして
やっと初孫が生まれました。名前は晃一だそうです。精神神経科医はそ
の他もろもろのことも聞き出しました。家の周辺のどこに何があったか、
煙草の銘柄、息子の好物と、嫌いなものまで。解離性同一障害は、確か
に自分とは全く別の人格が頭の中に宿るものです。しかしそれはあくま
で人格の話です。記憶まで完璧に全くの他人になれるのでしょうか?
御見葉蔵は青森の生まれだそうで、ずっと東北に住んでいるのだそうで
す。倉田が行ったこともない場所です」
「それでもやはり、全部倉田さんの作り話だという可能性は残るでしょ
う?」
「いいえ。作り話だという可能性は、全くないのです」
 高梨はきっぱりと言いきった。
「ほほう」
「担当した精神神経科医は、このことに個人的な興味を抱きまして。そ
れで、青森まで行ってきたのです」
「つまり、御見葉蔵の家にですか?」
「そうです。倉田から住所を聞いておりましたから、実際に行ってみた
のです。ありましたよ、御見の家が」
「まさか」滝田は新たに一本、煙草をくわえた。今度は自分のライター
で火をつける。「話が出来すぎている」
「その田舎の古い屋敷には、御見晃一という男が住んでいました。五十
三歳です。彼は、確かに父親は弘という名で、七年前に亡くなったと言
っています。そして祖父の名前が葉蔵なのだそうです。あとはもうお分
かりでしょう。全ての事実が、倉田が言ったことと驚くほど一致してい
たのです」
「葉蔵さんももう亡くなっているのですか?」
 生きていれば百歳を超える。
「はい」
「憑き物だな、そりゃ」
 滝田は苦笑した。
「どういうことですか?」
「ええ。大昔は、狐や猫が人に憑きました。しかし現代のように自然と
人間とが離れてしまった時代では、他人が憑いたり、コンピュータが憑
いたり、宇宙人が憑いたりします。御見葉蔵の霊が倉田氏にとり憑いた。
馬鹿げた話だ」
「いいえ。それも違います」
 滝田は顔をしかめた。
「まだ何かあるんですか」
「あります。実は彼が御見葉蔵であったのは、比較的短い期間だったの
です。その後三週間から一ヵ月という長いスパンの睡眠に入りました。
彼は次にインドのアジャンタ……なんとかという人物になりました。そ
れが大変な馬鹿力であるだけでなく、ひどく怒りっぽいのです。一番驚
いたのは、彼が自分のベッドを投げ飛ばした時でした。これは私も見て
います」
「日本語でしゃべったんですか?」
「ええ、日本語です。しかし彼が倉田ではない何者かになっていたこと
は確かです。どう考えても、あんな力が出せる体つきではありません。
そのインドの人物が出現したのはわずかに二度だけです。その次に、こ
れが最後ですが、今度は、自分は古代エジプト人だと言い出しました。
ところが言うことがひどくあいまいとしていまして。自分の職業も、名
前も、年齢も分からないと言います。こうなるともう、彼が一体どうな
ったのか、想像もつきません。彼はそんなにころころと、いろんな霊に
とり憑かれる体質なのでしょうか? 国籍も時代も全く違う。私にはど
うも、彼が憑依されたというだけでは説明がつかないような気がします。
もっとこう、私達の常識をひっくり返してしまうような何かが、彼の体
に起こっているのではないかという気がするのです」
「先程も言いましたが、私に相談されても治療して差し上げることはで
きないと思いますよ」
「いえいえ、治療の方は私達で続行します。私達が興味を持っているの
は、患者に起こった不可思議な現象です。私達はこれを解明する鍵は、
夢だと思っています」
「はい?」
「彼はやはり、レム睡眠行動障害なのだと思っています。つまり、彼が
見ている夢の内容が、そのまま行動に現れているのだろうと」
「そこで、我々の夢見装置に話がつながるわけですね? やっと分かり
ましたよ」
 夢の研究をしている所だったらいくらでもあるが、日本で唯一夢見装
置を持つ滝田研究所を訪ねるとはお目が高い。
「ええ。彼の夢の内容を研究すれば、何かとてつもない事が分かるかも
しれない」
「それが分かったとして、治療に役立ちますか?」
「役には立たないでしょう、たぶん。しかしこれが、医学に、いや医学
だけでなく科学に、一石を投じることになるかもしれない」
 滝田は意地の悪い笑みを浮かべた。
「論文にでもして学会で発表しますか? そうしたらあなたは有名人だ」
 どうやら図星だったらしく、高梨は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「このことはくれぐれも、内密にお願いしますよ」




#537/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:34  (289)
眠れ、そして夢見よ 1−2   時 貴斗
★内容                                         19/03/26 22:37 修正 第2版
   二

 春とはいってもまだ三月なので肌寒い。美智子はジャケットの前を合
わせながら、バス停から三十メートルほど離れた滝田研究所の正面玄関
まで、駆け足に近い速さで歩いてきた。見上げると、まるでイスラム教
の寺院のような、おおげさな造りの建物が、今日も相変わらず鎮座して
いる。前世紀、つまり二十世紀からあるこの建物を買い取って研究所と
したのは、全く滝田の趣味だと言える。エレベーターすらついていない。
入り口から入って右手にある階段の前に立つと、美智子はいつもの習慣
で、「はあっ」とため息をついた。彼女は運動が嫌いだ。三十を少し過ぎ
ただけなのに、もう若くないんだわ、などと思う。
 美智子はしぶしぶ上り始める。三階まで上るのは、結構いい運動にな
る。壁は、昔はもっと鮮やかな色であったに違いないのに、今はすっか
り黄土色に変わってしまっている。
 ロッカーにジャケットをしまいこむと、まずコーヒーメーカーから彼
女専用のカップになみなみと注ぎ込んで飲む。これもまたいつもの習慣
である。彼女の頭はこの一杯でようやく目覚める。それまでは半分寝て
いるのと同じだ。二年前までは七、八杯注ぐたびに豆と水を入れ直さな
ければならない古いタイプだったが、常時一定量が供給されるコーヒー
メーカーに変わった。
 再びロッカールームに戻り、白衣を上から引っ掛ける。着替える意味
はほとんどない。着た方が研究者らしく見える、といった程度だろうか。
実験動物の尿などが服につかないようにするため、ということにはなっ
ているが、実際にはそんなものがつくことはまずない。
 滝田研究室に行ってみると、そこには口髭とほう鬚を生やし、同じよ
うに白衣を着た青年がいた。彼は片手にコーヒーカップを持ち、片手に
リモコンを持ち、それを部屋の中央にある大型モニターに向けて、早送
りと巻き戻しのボタンを交互に押している。
「お早うございます」
 青年は画面を見つめたまま言った。
「あら藤崎君、早いわね」
「徹夜ですよ」
 なるほど確かに、目がやや赤くなっている。
「そう。熱心ね」
 美智子は手近にある椅子を引き寄せて、青年の横に座った。
「で、ハリー君の様子は?」
「なんにも変化なしです。時々小さく光ることはあるんですがね。それ
以外は何も映りません」
 モニターの画面はいくら早送りしても真っ暗なままである。
 隣の部屋は二階と三階が吹き抜けになっている。そこにあるベッドの
上には、哀れにも頭部を器具で固定され、四本の針を突き刺された犬の
ハリーが眠っている。今のところ人間以外で夢を観察することに成功し
たのは、猫と猿だけである。犬はうまくいっていない。猫と猿について
はうまくいったのだとは言っても、それは別にたいした成果ではない。
人間以外でも夢を見ることだったら、とっくの昔にアメリカで実証され
ている。夢見装置があるのは、日本の滝田睡眠研究所だけではないのだ。
「ふぁーあ」
 藤崎青年はあくびをすると、コーヒーを一口すすった。
 日中は分析や文書作成等の仕事をこなし、夜中は実験対象が眠ってい
る間、起きて観察していなければならない。だから睡眠を研究している
くせに、皮肉なことに当の本人は眠ることができない。
 美智子は青年の肩を軽く叩く。
「少し横になったら?」
 立ちあがり、ガラス窓に近寄り、隣室のベッドを見下ろす。動物実験
などというものをする科学者はつくづく残酷だと彼女は思う。犬の頭に
突き刺さった針は、脳の奥深い所にまで達している。そのうちの一本は
夢を見始めた時に活発になる箇所――青斑核と呼ばれる部分に、別の一
本は目で見たものを認識する部分――後頭葉の視覚野に刺さっている。
 人間ではこうはいかない。人に刺すなど言語道断である。脳というの
は例えて言えば、ボウルに入った寒天のようなものだ。そこに針を突き
刺したら、頭部を固定していたとしても、少しの衝撃でも簡単に傷が広
がってしまう。しかしヘルメットを被せて、頭蓋骨と頭皮という分厚い
壁に邪魔されて得られる信号よりも、測定したい部位から直接得られる
情報の方が、はるかに鮮明だ。だから猫や犬が犠牲になる。
 こうして、かわいそうな実験動物を見ながら彼女の朝が始まる。滝田
が来るのは一時間くらい後だ。それまでに昨日の分の報告書をまとめて
おこう、と美智子は思った。

 朝九時半、滝田は車を研究所の裏手の駐車場に止める。ドアを開いて
降り立った彼は、大きく伸びをする。二十一世紀に入ってからもう八十
年がたつ。彼の赤のポルシェは、百パーセント電気で走る超高級車だ。
二十一世紀に入ってから、少なくとも車に関しては格段の進歩があった
と言える。ガソリンから電気への移行は比較的スムーズに行われた。だ
が多くの国産車は、今でも電気八割、ガソリン二割くらいでエネルギー
を消費する。思えば、家庭にあるもの、あるいは外にあるものも、ほと
んど全て電気で動いている。テレビにラジオに冷蔵庫。電気自動車もわ
ずかにあったが、車だけが二十世紀終わり頃までガソリンで動くものが
一般的であったことは、今思えば特殊な例外だったと思う。
「おはよ」
 滝田が研究室に入ると、藤崎青年はモニター画面を見つめたまま、「お
早うございます」というやや不機嫌な返事をした。
「おやおや藤崎君、また徹夜?」
 藤崎青年が徹夜をしたかどうかということは、赤の他人には判別が難
しい。なにしろ普段から髭もじゃなので、不精髭といった要素では判断
することはできない。目のかすかな赤み、顔にうっすらと浮いた脂、「お
早うございます」という短い言葉に含まれる、ほんの少しなげやりな口
調、そういったものは、やはり長い間の付き合いでしか分からないもの
なのだろう。
「今日さあ、高梨っていうお医者さんが来るから」
「はい?」
 青年の目が滝田に向けられる。
「うん。僕達の夢見装置を見たいって言うんだよ」
 滝田はもうすぐ五十代に足を踏み入れようという歳なのに、いまだに
親しい間柄の人間に対しては、自分のことを“僕”と言う。
 滝田は昨日の高梨とのやりとりを、かいつまんで話した。
「本当ですかね、それ」
 青年は半信半疑のようだ。
「常盤君は?」
「自室にこもってますよ。報告書がまだ出来ていないんだとか。だめだ
こりゃ」
 青年はリモコンをテーブルの上に放り投げた。
 滝田は研究室を出た。別に急いでいるわけでもないのに早足で歩く。
滝田の癖だ。
 三人の、それぞれに忙しい一日がスタートした。もっとも、青年に関
しては昨日からぶっ通しだが。滝田研究所には他に十八名のスタッフが
いる。しかし分野ごとに分かれていて、研究所のメインである夢見装置
に直接関わっているのが、この三人である。美智子の報告書のつまらな
い矛盾点を滝田が指摘したことに対して、彼女が猛烈に反論してきたり、
藤崎青年がコンピュータの記憶装置に蓄えられた犬の睡眠に関するデー
タを仔細に検討したりしているうちに、昼がやって来た。


   三

 昼の一時過ぎ、研究室に滝田と、チャコールグレイのスーツを着た長
身の、やや細身の男が入っていった。滝田は白衣も着ず、ポロシャツ姿
だ。藤崎青年がプリンタから印刷されたグラフに落としていた目を上げ
る。
「藤崎君、こちら、小暮病院の高梨先生」
 滝田が手の平を高梨に向けると、高梨は青年の方に歩み寄って名刺を
差し出した。
「はじめまして。小暮総合病院の高梨です」
「あっ」青年は立ちあがって、胸やズボンのポケットを探った。「すみま
せん、持って来てなくて」
「常盤君は?」と滝田が聞くと、青年は「呼んできます」と言って出て
行った。
「いやあ、これはこれは」高梨は手を後ろに組んで、研究室のコンピュ
ータ達をながめ回した。「立派なものですなあ」
「ちょっと待ってて下さい。今コーヒーをお持ちしますんで」
 滝田は部屋を出ていこうとした。
「いやいや、結構です。それより、夢見装置はどこにあるんですか?」
「夢見装置というのはまあ、この部屋にある機械全部のことなんですが、
本体は隣の部屋にあるんですよ」
 滝田と高梨はガラス窓に近づき、下方を見た。そこには黒い、大きな
箱があって、その下から何本ものコードが伸びている。そのうちの、数
本の先端がベッドの上にいる犬の頭に刺さっている。高梨の横顔を見る
と苦々しくゆがんでいる。
「あれはもちろん、犬だからああなっているんですよね」
 表情に笑みを取り戻した高梨が、滝田の方を向く。
「ええ。人間の場合はヘルメットを被せるだけです」
 部屋の扉が開いた。藤崎青年と常盤美智子が戻ってきたのだ。高梨は
慇懃に礼をして、青年にしたのと同じように美智子に名刺を渡した。美
智子は自分も出さなければならない、ということには気がつかなかった
ようだ。もっとも、彼女の名刺は机の引出しの奥にしまったままになっ
ているようだが。
「ええ、さて」滝田は両手を握り合わせた。「何からお見せしましょうか」
 滝田は室内を見まわす。
「犬が寝てくれるといいんですがね。とは言っても、まだ犬の夢を見る
ことには成功してませんが。あ、藤崎君、先生にコーヒーと、あと灰皿
を持って来てくれる?」
 高梨が先を促すように質問する。
「先生はどういった研究をされているのですか?」
「主に人間以外の動物の夢を観察することです。あとは睡眠障害を持つ
人の夢を見ることですね。夢と睡眠障害の因果関係を調べているんです
よ」
「ほう! 動物も夢を見ますか」
「ええ。日本では猫と猿だけ成功していますがね。アメリカやヨーロッ
パではもっといろいろな動物の……犬や、うさぎや、小さいものではモ
ルモットでも成功しています。もっとも、脳が小さいものははっきりと
夢だと確認されたわけじゃありませんがね。ああ、そうだ。それじゃま
ず、猫の夢をご覧にいれましょう。ビデオがあるんですよ」
 滝田は部屋の隅の棚に大量に詰められたディスクの中から一本を抜き
出し、それを大型モニターの下の再生機にセットした。
 リモコンのスイッチを入れると、最初のうち真っ黒だった画面が、ふ
いに明るくなった。
「これが猫の夢ですか」
 そこには赤やら灰色やら緑やらの、大小様々な四角形が入り混じって
うごめいている画面が映し出されていた。
「猫と人間では当然脳の作りが違いますからね。これはまだ人が見て分
かるよう信号を変換しているところですよ」
「人間の場合はどうするのですか?」
「得られる信号が微弱ですから、高度な画像解析処理が必要です」
 そのサイケデリックな模様は、だんだんとボカシを入れたような画面
に変わり、徐々にものの形をとり始めてきた。台所かどこかの床の上す
れすれの様子が、画面に映し出された。テーブルや椅子の脚が立ち並ん
でいる。猫の視点が、滑るように右から左へと動いた。その目の先には
女性の足があって、猫はそこに近づいていく。視点が上に動いて、若い
主婦らしき女性の顔が映し出された。彼女は微笑みながら、キャットフ
ードが盛られた皿を目の前に置く。画面は皿の中のアップになった。猫
が餌を食っているのだ。それが終わると、画面は足元からスカートへ、
そして胸元へ、そして髪を後ろにしばったその女性の顔の前へと上がっ
ていった。女は口を動かしている。「よしよし、良い子ねえ」とでも言っ
ているのだろう。そして画面には女性の後ろの窓ガラスが映し出された。
右横にはポニーテールが見えている。猫が主人に抱っこされているのだ。
画面はそこで急速に暗くなり、元の真っ黒な状態へと戻った。
「ここで猫の夢は終わっています」滝田は言った。「これはその辺にいた
野良猫を拾ってきて見た夢です。きっと飼われていた時の記憶なんでし
ょうね。何度も実験を繰り返して、観測できたのはこの一回だけです。
他は、さっきのごちゃごちゃした四角形だけで終わったり、なんだか意
味がない絵しか出てこなかったりして、これほどまでに鮮明に意味を持
った映像は、これだけです」
「いやいや、たいしたもんだ」高梨は心底感嘆したという顔をした。「こ
れは一体、どういう仕組みになっているんです?」
「ええ、仕組みはですね……常盤君」
「夢というのは日頃見て記憶したもののイメージが、眠っている時に後
頭葉の視覚野に流れ込んで起こるんです。五十年くらい前から明らかに
されてきたことですけど」
 どこの研究所だったかな、と滝田は思う。機能的磁気共鳴画像装置を
使って睡眠中の視覚野の活動を計測し、パターン認識アルゴリズムを使
って夢に現れる物体を高い精度で解読することに成功した。あれからも
う七十年近く経つのか。
「へえ、それは初耳だ。しかしそれをどうやって取り出すのですか?」
「脳の視覚野の情報を、コンピュータで処理して映像にしているのです」
「そんなことができるんですか。それは、なんとも……」
 いんちきくさいですな、という言葉が出そうになるのを押しとどめた
かのような高梨の口元を、滝田は表情を変えずに見つめた。
「二〇五八年にはアメリカが、その翌年にはドイツが、夢見装置を発表
したんですよ。大ニュースになったんですけど、覚えていません?」
「いやはや、私が夢見装置のことを知ったのは、ほんの二ヵ月前なんで
すよ」
 おそらくはあの患者の夢を見たいと考えついたのは、高梨ではなく担
当の精神神経科医だろう。夢見装置に最初に着目したのもその人物に違
いない。
 滝田はうっとりとした口調で言う。
「二十一世紀は科学の世紀だと言われ、科学者や技術者達は猛烈に頑張
りました。自動車は電気で走るようになり、空には宇宙ステーションが
浮かび、他人の夢をのぞき見する装置が誕生しました。素晴らしいこと
です」
「二〇六〇年には動物も夢を見ることが、早くも実証されましたわ。夢
見装置が現れてから、いろいろなことが分かりました。国がまったく違
っても夢には共通の要素があることとか、悪夢の構造、正夢の可能性、
色つきの夢に白黒の夢……、この装置は睡眠研究者にも心理学者にも、
まさに夢の装置ですよ」
 ドアが開いて、藤崎青年が四角い盆に人数分のコーヒーと灰皿をのせ
て入ってきた。
「どこまで進みました?」と青年が聞く。
「まだ猫の夢を見せただけだよ」
 滝田はさっそく胸ポケットから煙草を取り出す。
「人間の夢を見せてあげればいいのに」
「それもそうだな。まずそっちが先か」
「睡眠障害者の夢を見たいですな」
 高梨は青年から受け取ったコーヒーを一口すすった。
「ええ、そうですね。それではレム睡眠行動障害の患者の夢をお見せし
ましょう」
 滝田は棚からさらに一枚のディスクを抜き、セットした。
 真っ黒な画面を早送りすると、ふいに白と黒の点が乱れ飛ぶ砂嵐のよ
うな画面が現れ、徐々にものの形をとり始めた。
 それは、両側を田んぼに囲まれた、一本の道だった。向こう側から一
人の女性が歩いてくる。紺の和服を着たその女は、接近すると微笑んで
軽く会釈をした。しかしそこから妙な具合になる。彼女はしばらくこち
らをじっと見ていたが、その表情は次第に困惑の度合いを増していき、
やがて突然怒り出した。何と言っているのかは分からない。
「音は聞こえないんですか」と高梨が問う。
「はい。今のところ視覚情報だけしか得られないんですよ」滝田はビデ
オを一時停止した。「しかし夢を見ている人がなんと言っているかは分か
ります。『きさま、よくも俺を裏切ったな』と言っているんですよ。患者
はレム睡眠行動障害だから、この場面で実際にそういう寝言を言ってい
るんです」
「なるほど、この女性と口論しているわけですね」
 高梨はうなずく。
「この後すぐに起こし、どんな夢を見ていたか聞きました。道を歩いて
いるとばったり妻と出くわした。彼は奥さんの浮気を責め、けんかにな
ったのだそうです。この男性は離婚しています」
 滝田は一時停止を解除した。
 女性との口論のシーンはほんの五秒ほど続き、画面は急に暗くなった。
「おや?」と高梨がつぶやく。
「夢が終わったんです」
 ビデオには編集をほどこしていて、一瞬ちらついてすぐにまた明るく
なった。
 今度はどこかの家の室内だ。乱雑に散らかった部屋は、書斎か何かの
ようだ。畳の上に本がたくさん散らばっている。画面の両端から患者の
ものであるらしい腕がのびて、一冊一冊を拾い上げて、開いて、また床
に放り出す、ということを繰り返している。不思議なことにどの本のど
のページも真っ白である。
「患者はこの時実際に何かを拾い上げる動作を繰り返しながら、『おかし
いな、ないぞ』というような言葉を発し、隣の部屋を歩き回っていまし
た」
 滝田は窓ガラスを指差す。
 その光景は十秒ほどで終わり、またしても画面は暗くなった。
「浮気の証拠の写真を探したが、見つからなかったのだそうです」
 そしてまた息をふきかえすように明るくなり、今度はどこかのレスト
ランのような風景を映し出した。テーブルをはさんで青のスーツを着た
若い男が座っており、卓の上には二人分のランチとステーキがのってい
る。青年は微笑みながら口を動かしている。
「患者はこの時ベッドに腰掛け、『お前も立派になったなあ』というよう
なことをつぶやいていました。この青年は患者の息子で、二年前に交通
事故で亡くなったそうです。一人暮しをしている息子と久しぶりに会っ
たのでいっしょに食事をしたと言っていました」
 今度もまた、その風景は短い時間で終わった。画面が急速に暗くなる。
「これで終わりです」滝田はビデオを止めた。「この時被験者が見た夢は
この三回です」
 高梨は滝田の言葉を聞きながらも、あまりのことにしばし呆然として
いた。
「実に興味深い。ところで睡眠障害とこの夢との関係は、明らかになっ
たんですか?」
「いいえ、さっぱり。全くどこにでもあるような、普通の夢です。何か
へんてこりんな夢でも見てくれればいいんですがね。なかなか思うよう
になりません。そのかわり、夢の内容とレム睡眠行動障害の行動が、ぴ
たりと一致していることは分かりましたよ」




#538/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:38  (190)
眠れ、そして夢見よ 2−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/03 00:11 修正 第2版
   夢を見る


   一

 三日後、滝田睡眠研究所の玄関の前に救急車が止まった。その中から
救急救命士達が下りてくる。助手席のドアが開いて高梨が姿を現す。
「さあさあ、こちらです」
 待ち受けていた滝田が彼らを誘導する。担架に縛り付けられた痩せこ
けた男が運び込まれる。
「家族には治療方針を決定するために一旦他の病院に移して検査すると
説明してあります」高梨が滝田にささやく。「本当に危険はないのでしょ
うね?」
「夢見装置は被験者の頭から出力される情報を得て、観測するというだ
けのものですよ。何かを脳の中に入力するわけじゃない。いたって安全
ですよ。それに比べれば体の中にX線を入射するレントゲンの方がよっ
ぽど危険ですよ」
 慎重に階段をのぼっていく救急救命士達の表情は、エレベーターもつ
いていないことに辟易しているようだ。
「こっちです」
 藤崎青年が観察室の薄桃色の分厚い扉を開けると、みんなゆっくりと
入っていく。患者を抱え、「せーの」と言ってベッドの上に移した。
 男の様子は異様だった。痩せこけ、髪は八割がた白髪になっている。
目はおちくぼみ、パジャマから出ている手足はまるでミイラのようだ。
「それじゃあ、滝田先生、お願いします」
 高梨は軽く礼をした。
 日に三度、医師が診にくることと、何かあったら小暮総合病院に連絡
するようにということを告げると、彼らはひきあげていった。
 寄付金とひきかえにこの患者の状態を調べること、論文のネタを高梨
に提供することは、もう青年と美智子にも言ってある。汚い仕事だが、
なぜ滝田が引き受けたのかといえば、それは患者の病態に興味をひかれ
たからである。なにしろ夢の中で過去の人物になるのだ。意義あるもの
に違いない。
「さてと、どうしますか」
 滝田は両手を握り合わせた。
「この人……倉田さんでしたっけ? ものすごい怪力で暴れ回ったって
言ってたじゃないですか」美智子は心配そうに眉をひそめる。「ベッドに
しばりつけておいた方がいいんじゃないかしら」
「いや、そう神経質になることもないだろう。もしも何か起こったら、
その時にそういうふうにすればいい」
 滝田はあごをさすりながら答えた。
 患者の顔は、安らかな眠りに落ちているとは言いがたかった。むしろ
苦痛にあえいでいるかのような表情だ。その額にも、ほほにも、深いし
わが刻まれ、くちびるは乾いてひびわれ、とうてい三十代には見えない
のだ。眼球は頭蓋骨の二つの穴に落ちこんでしまっているかのようだっ
た。


   二

 一時間後には患者の頭はそられ、ヘルメットをかぶせられていた。高
梨の話ではレム睡眠行動障害の状態を示すのは一ヵ月に一度程度という
ことだったが、夢自体は毎日見るだろう。ただし信号が微弱すぎる場合
は解読できないため、夢を観測できる機会は毎日というわけにはいかな
い。
 ディスプレイに次々と描き出される脳波を、美智子は見つめている。
こうして何か起こらないかと待ち続けるのは、実に退屈な作業である反
面、ずっと緊張を強いられるものでもある。美智子も青年も、患者のさ
さいな変化も見逃すまいと、ひたすらパソコンのモニターをにらみつけ
ている。そして頻繁に立ち上がっては、窓から患者の様子をうかがうの
だ。美智子が見下ろすその先には、まさにミイラという形容詞が似合い
そうな、倉田恭介が長い眠りについている。その横では点滴が、患者の
生命を維持するために、静かに薬液を送り続けている。患者の様子を見
ていると、かわいそうと思う反面、鳥肌がたってくる。
 そうして二時間ほどたっただろうか。
「疲れたわね。コーヒー飲む?」
 そう言って美智子が立ち上がりかけたその時……。
「あっ!」
 青年が短い声をあげた。
 モニターのうちの一台に変化が起こった。中央に白い十字マークが静
止していたのが、急に左右に動き出したのだ。
「眼球運動だわ」
 アイマスクに仕込まれたセンサーが男の目の動きを感知する。
「常盤さん、脳波はどうです?」
 美智子は慌ててディスプレイに目を落とす。
「レム睡眠よ。夢を見るかも」
 人の眠りには二種類ある。レム睡眠とノンレム睡眠である。レム睡眠
は脳が活性化された状態にあり、ノンレム睡眠は脳が休息した状態にあ
る。レム睡眠ではその名前の由来である急速眼球運動(REM:Rapid Eye
Movement)が起こり、この時に夢を見る。人は眠っている時にレム睡眠
とノンレム睡眠を交互に繰り返す。ノンレム睡眠時にも夢は見るが、あ
いまいでぼんやりしているので夢見装置で捕えられない。
 青年が大型モニターに向かうのに続けて、美智子もその黒い画面の前
に立った。
「あっ、今光ったわ」
 画面の中央にぼうっとした光の点が現れてすぐに消えた。二人が見て
いる前で、ずいぶんと間があって、今度は二度またたいた。
「来ますよ」
 青年の言葉が合図ででもあったかのように、画面が薄っすらと明るく
なってきた。白黒の、何千もの光の点が入り乱れ始めた。美智子はくい
いるように見つめる。
 画像は徐々に、ものの形を現してきた。ぼんやりとした風景、何か、
黄土色の岩のようなものがごろごろしている。大きさはまちまちだが、
どれもきれいな四角形である。あきらかに自然のものではない。その向
こうに、大きな石像らしきものが映っている。なにか、虎のような、ラ
イオンのような像、その左横に、大きくぼやけてはいるが、わずかに三
角形と分かるものがある。
「あっ」
 しかし、その映像は、長い時間待ってやっと現れたのに、あっという
間に消えてしまった。画面は元通りの暗闇に戻った。
「撮れた? どのくらい?」
 美智子は青年に顔を寄せて尋ねる。
「二秒ですね」
「たったそれだけ?」
 美智子は腕組みして考えた。
「どこかで見たことがある風景なんだけど」両手の指を胸の前で組み合
わせる。「どこだったかしら」
「あのライオンのような体は、たしかにどっかで見たような気がします
ね。あまりはっきりと映っていませんでしたけど」
「巻き戻してみてよ」
 青年がリモコンを操作し、映像を少し戻すと、再びあの、うすぼんや
りとした石像が映し出される。もっとはっきりしていれば簡単に思い出
せそうなのだが、なかなか思い出すことができない。それでも美智子は
じっと考え込んだ。
「そうだわ!」
 いきなり大声を出したものだから、青年がびっくりする。
「ちょ、ちょっと、常盤さん」
 青年が止める声も耳に入らず、美智子は部屋を飛び出していった。


   三

「見て下さい」
 翌日、出勤してきた滝田に、いきなり美智子が飛びついてきた。
「ああ?」
 滝田はまだ眠い目をなんとか見開いて、彼女が差し出した「神秘の王
国」という名の、科学雑誌らしきものを見つめた。
「昨日の夢ですよ。やっと見つけたんです」
 滝田は少しばかり思考が混乱したが、すぐに彼女が何のことを言って
いるのか分かった。
「ああ、昨日倉田さんが見た夢のことね。で、何が分かったって?」
「見て下さい。これです」
 ぼんやりとした視点が、彼女が開いたページの上をさまよう。昨日遅
くまで学術誌を読みふけっていたことからくる眠気が、一気にふっとん
だ。
「これは」
 滝田も昨日青年から話を聞いていたし、ビデオも見ていた。しかしそ
のぼやけた映像が何なのか、結局分からなかったのだ。
 そこにあったのはエジプトのギザの、スフィンクスとピラミッドの写
真だった。
「なるほど」滝田はつぶやく。「これか」
「おはようございます」
 室内に元気のいい声が響いた。どうやら藤崎青年は昨夜十分な睡眠が
とれたようだ。
「おや、何です?」
 青年が興味を示して二人が見入っている本をのぞきこむ。
「これは」青年は目を見開いた。「これか」
 何言ってんのよ、というような目で青年を見つめる美智子とは対照的
に、滝田は両手をもみ合わせながら、「さあ、忙しくなるぞ」と言った。
 しかしいったい何が忙しくなるのか、言った本人にも分からなかった。
やることといえば、相変わらず倉田氏が夢を見るのを待ち続けるだけな
のだ。
「これってやっぱり、倉田さんが今古代エジプト人になっているらしい
ことと、関係があるのかしら」
 美智子は小首をかしげた。
「大ありですよ」青年が興奮した声を出す。「これは倉田氏が古代エジプ
ト人になっているという、立派な証拠ですよ。彼は夢の中で、古代エジ
プトをさまよい歩いてるんですよ」
 滝田は口をすぼめた。
「まあ、そんな大げさなもんじゃないけどね。スフィンクスの夢くらい
だったら、誰だって見るだろう? でもまあ、次に倉田さんが起きだし
た時に、はっきりするんじゃないかな。高梨先生の話だけじゃ、分から
ないからね」
 それにしても不思議だと、滝田は思う。夢というのは、その都度ころ
ころと内容が違うものだ。しかし倉田氏が、例えば御見葉蔵氏にある一
定期間変化し続けるためには、その間ずっと御見氏の夢を見続けなけれ
ばならないことになる。そんなことが可能だろうか。
 無論、そういうことができる人々がいることは滝田も知っている。明
晰夢を見る人がそうだ。夢の中で自由自在に行動でき、好きなように夢
の内容をコントロールできるという、そういう人だ。現実の世界ではで
きないあらゆることが、夢の中だったらできるのだ。絶世の美女と食事
をするのも、社長になって人をこき使うのも、思いのままだ。その人に
とっては、夢は抽象的なつかみどころのないものではなく、現実世界と
は独立して、はっきりと存在するもう一つの世界なのである。
 明晰夢が一般的に知られ始めたのは一九六〇年代だが、現在に至るま
で睡眠研究のテーマとしてちょくちょく顔を出してきた。倉田氏もまた、
明晰夢を見る能力を持っているのだろうか? しかも全くの他人の人生
と寸分違わぬ夢を?
「常盤君」
「はい」
 美智子は何かを期待するような、にこやかな顔をした。
「コーヒーくれる?」
 美智子が不機嫌な表情をして向こうへ行くのを、滝田は遠くを見つめ
るような目つきでながめた。
 岩は四角形だった、と滝田は思う。全体的にぼやけた映像だったが、
手前に転がっている岩はかろうじて見えた。きれいな直方体だ。
 もしも、現在のスフィンクスであるならば、その手前に転がっている
岩は、元は四角形だったとしても、風化してもっと崩れているはずだ。
 いずれにせよ、今の段階ではあまりにも情報不足だ。倉田氏が次の夢
を見るまで、忍耐強く待つしかない。




#539/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:40  (266)
眠れ、そして夢見よ 2−2   時 貴斗
★内容                                         19/03/31 18:11 修正 第3版
   四

 土曜日、美智子はバス停に降り立つと、大きく深呼吸した。なんと清々
しい空気だろう。平日は人が大量にいて、どうもいけない。それが、休
日になるとこれほど人がいないものだとは。都会とはいえ、親父達の煙
草の煙や、刺々しい喧騒、舌打ちの音や咳払い、そういったものがある
のとないのとでは、空気のうまさが段違いだ。
 休日、それは美智子のように研究、研究で精神をすり減らす人間には、
とても重要な日である。土曜日にはクラシックを聴きながら読書をする
ことで精神を回復する。日曜日にはスポーツクラブに行ってストレスを
発散する。もっとも、本当はスポーツが苦手なので、エアロバイクしか
やらない。エアロビック・ダンスは嫌いだ。「はい、ワン・ツー、ワン・
ツー」という声に合わせて、脂肪を少しでも排出しようと体をねじるお
ばさん達を見ていると、嫌悪感で胸がむかつく。あの中に混じろうとは
思わない。だからひたすらに、床に固定された自転車をこぐ。ペダルを
がむしゃらに回す。
 別に誰から出てこいと言われたわけでもない。そんな休日を犠牲にし
てまで研究所に来てしまったのは、やはり倉田氏の状態が気になるから
である。
「あれ? 常盤さん?」
 振り向くと、そこに藤崎青年が立っていた。
「珍しいですね、休日出勤ですか」
「おはよ」
 青年は笑顔だったが、睡眠不足からくる疲れが、目の下のくまとなっ
て現れているようだ。本当は土日の患者の観察は青年に任せて、美智子
は家で寝ていればよいはずだった。
 休日に出てくるというのは、普段出勤してくるのとは少し違った気分
だ。なんとなく生真面目に研究に没頭する気になれない、きっと何もな
いのに、何かありそうな、少し浮かれた気分だ。
 美智子はこのまま研究所の玄関をくぐるのは、もったいないような気
がしてきた。腕時計を見る。休日出勤の勤務時間帯は決まっていないが、
藤崎青年の業務開始時刻は定められている。まだ少々余裕があるようだ。
「少し、歩かない?」
 青年は、へ? というような顔をしたが、すぐにうなずいた。
「ええ、いいですよ」
 美智子が歩き出すと、青年が慌てて追いついてきて横に並んだ。
 まだ朝早いせいか空は薄暗く、灰色の雲がおおっている。
 立ち並ぶ高層ビル郡は、いつもの活気をすっかりひそめて、巨大な墓
石のように突っ立っている。通りを行き交う車の数も、歩道の人数も、
平日に比べると格段に少ない。
 美智子が何もしゃべらないので、青年は何と話しかけてよいものかと
気遣っているらしく、時々美智子の方を見る。
「常盤さんって休みの日は何をしてるんですか?」
 歩き出してから一つめの信号が赤に変わった時、青年はようやく口を
開いた。
「あら、お見合い?」
 青年は快活に笑った。そして少しばつが悪そうな顔をする。
「藤崎君、大変ね。ちゃんと寝てる?」
「まあ仕事が仕事ですからね。でも大丈夫ですよ。体力だけが取り柄で
すから」
 美智子も徹夜はするが、青年は人一倍頑張っている。
「そう」
 再び会話がとぎれる。美智子は、珍しいわ、などと考える。つまり、
自分がこんなことをしているのが。
「読書」
「え?」
「読書よ。そこ曲がりましょ」
 通りを右に折れて、細い道に入ると、両側に植込みが並んでいる。し
ばらく歩くと、植込みが切れて、都会の中のほんの憩いの場とでもいう
ような、小さな公園がある。すべり台と、ベンチと、うさぎやライオン
の頭の形をした石の像が、ささやかながら置かれている。美智子はここ
で子供達が遊んでいる姿を見たことがない。
 何も言わずにベンチに腰掛けると、青年は遠慮がちに少しだけ離れて
座った。
「でも休みの日まで本を読んでいたら頭が疲れませんか」
「あら、頭を休めるために読書するのよ」
「はあ、そうですか。でも、体を動かした方がいいですよ。山にでも登
れば、気分がすかっとしますよ」
 スポーツクラブに行っているわよ、と言いたいところだが、秘密にし
ておく。まさか三十分だけエアロバイクをこいで帰っています、とは言
えない。エアロビを踊っているのを想像されるのも不愉快だ。
「どんな本を読むんですか?」
「そうね。遺伝子とか、ブラックホールとか、そういうの」
 青年の笑顔がひん曲がった。
「もっと、普通の本は読まないんですか」
「あら、普通の本だと思うけど」
 青年がようやく明るくなってきた空を見上げる。
「うーん、でもそのくらい勉強しないと、常盤さんみたいな天才にはな
れないんでしょうね」
「あら、藤崎君だって頭いいから、今の研究所にいるんじゃない」
「いえいえ、月とスッポンですよ」
 美智子は天才だと言われても、それを否定しない。それをやるとかえ
って嫌味になる。下を向き、じっと考え込む。そして顔を上げ、遠くを
みつめる。
「天才ってね、あまりいいもんじゃないわよ」
 青年が眉根を寄せる。
「なんだか氷の中にいるみたい。氷の壁に囲まれて、その中から出られ
ないの。そしてその壁は、だんだんと、私に向かって迫ってくるのよ」
「疲れてるんですよ。やっぱり頭を休ませなきゃ」
「知ってる? 論理的な思考ばかりして左脳だけ発達すると、右脳が発
達しなくて、人を愛することができないんだって」
 何かのつまらない本に書いてあった馬鹿げた迷信だ。愛の正体は扁桃
体にあるのではないかとも言われている。それは脳の両側にある。
「常盤さんは人を愛せないんですか?」
 美智子は困った。何でこんなこと言っちゃったんだろう、と後悔する。
「そうね、どうかしら」
 美智子は、自分でもびっくりするくらい乱暴に髪をかきあげた。
「天才っていうのは、何かを創り出すことができる人のことよ。勉強ば
かりできる人間はただの真面目な人だわ」
 自分は夢見装置の主要な開発メンバーとして活躍した滝田にどこか嫉
妬のような念を抱いている、と彼女は感じていた。
 青年はうつむいたまま、しばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「今度、山に行きませんか」
 青年は照れたのか、慌てて付け足す。
「滝田先生と一緒に」


   五

「何も映りませんねえ」
「同じこと何度も言わないの。はい、コーヒー」
 青年にコーヒーカップを渡すと、美智子は窓に近寄って倉田氏を見下
ろした。もう何度こうして、昏々と眠り続ける倉田氏の様子をながめた
ことだろう。今日も朝十時頃医者が来て、点滴を取り替えていった。そ
れ以来全く何の変化もなく、寝返りさえうたず、苦しげな表情のまま眠
り続けている。
「それじゃ、私また自分の部屋にいるから。もう一時間くらいしたら、
交代しましょ」
 そう言って部屋を出ようとした時、青年が大声を出した。
「常盤さん」
 大型モニターの前に駆け寄ると、そこに例の砂嵐のような画面が現れ
ていた。
 美智子は青年が唾を飲み込む音を聞いた。
 画面は徐々に、青と黄土色の色彩を現してきた。
「これは」
「ピラミッドよ」
 今度は、前のようなぼやけた映像ではなかった。はっきりと、三角形
の王の墓が姿を現していた。それは普通ピラミッドという言葉から連想
するきれいな四角錐とは少し違っていて、一つの段が大きく階段のよう
だ。青色の部分はその背景にある空だった。手前には石垣のようなもの
が左右に広がっている。
 そのピラミッドが、右へ行ったり、左へ行ったりしている。
「辺りをながめ回しているみたいね」
 やがてそれは、画面の中央に来て止まった。倉田氏、あるいは倉田氏
に乗り移っている何者かは、その王の墓に見とれているようだった。
 画面は明るくなったり、暗くなったりを繰り返し始めた。
「消えます」
 青年の言う通り、画面は黒くなっていき、そして消えた。
「何秒?」
「十秒です」
 美智子は腕組みして、仁王立ちになって考え込んだ。そして脱兎のご
とく駆けだした。
「常盤さん?」
 しばらくして部屋に戻ってきた美智子が両手に大量の本を抱えている
のを見て、青年は驚いたようだった。
「何です?」
 美智子は大きな音をたててテーブルの上に本を置いた。それは全部エ
ジプト関係の書籍だった。
「いつの間に、こんなに」
「探して」
 青年はきょとんとした顔をした。
「探すのよ。今の映像が、何なのか」
 美智子が猛烈な勢いでページをめくり始めるのを見て、青年はあっけ
にとられたように立ちすくんでいた。
「さあさあ、藤崎君、頑張りましょ」
 青年も本を手にとってめくりだす。
 黙々と作業を進めるうちに、テーブルの上いっぱいに本が散らばって
きた。
「あったわ」
 青年が身を乗り出して美智子が開いているページをのぞきこむ。
「これよ。ジェセル王のピラミッド」
 それは、段々の部分が崩れかけた、溶けかかったアイスクリームのよ
うな写真だった。
「たしかに、これの大昔の姿を想像すると、さっきの映像と一致しそう
ですね」
 美智子は別の一冊を手にとって開いた。アフリカの北東部、古代エジ
プトの地図である。紅海の横に、ナイル川が走っている。ナイル川に沿
って、テーベやテル・アル=アマルナやメイドゥムといった地名が並ん
でいる。アフリカ大陸がシナイ半島につながる付近で、ナイル川が何本
にも枝分かれして地中海に流れこんでいる。美智子はその分岐が始まる
根元のあたりを指差した。
「この間のスフィンクスがギザ、ジェセル王の階段ピラミッドがサッカ
ラにあるから、彼はこのあたりにいることになるわね」
 それにしても、なぜこんな所にいるのかしら、と美智子は思う。ギザ
とサッカラといえば古代エジプトでは非常に重要な地域である。ギザの
クフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッドとスフィンクス
は有名だし、サッカラにも多くのファラオ――つまり古代エジプトの王
のピラミッドや、聖牛アピスの地下墳墓等がある。
 ひょっとすると、彼もまたファラオなのかもしれない。もっとも、た
だの農民なのかもしれないが。
 まだまったく謎のままだが、一歩前進したことは確かだ。


   六

「九時か」滝田は腕時計をのぞきこんで、ため息をついた。「今日も何も
現れそうにないな」
 ジェセル王のピラミッドが現れてから、二日経つ。スフィンクスが現
れてからは五日目だ。だいたい二、三日くらいの間隔で、はっきりとし
た夢を見るらしい。もちろん、その間は全然夢を見ないというわけでは
ない。小さく光ったり、砂嵐のような画面が現れたりすることはある。
ただ、夢見装置で捕えられるほどはっきりとした夢を見ないというだけ
のことだ。
 滝田は美智子と並んで、窓から患者の様子を見守っていた。
「そろそろ、帰った方がいいんじゃないか?」
 美智子は黙ってうなずいた。
 その時青年が、ささやくような、それでいて緊迫感を帯びた声を出し
た。
「先生、眼球運動です」
 滝田は緊張して振り返った。青年の背後に歩み寄り、のぞきこむと、
モニター上で白い十字マークが上下左右に動き回っていた。
「うん。常盤君、脳波は?」
 美智子は慌てて波形を調べる。
「入りました。レム睡眠です」
 青年が椅子を回転させて、その下についているキャスターをころがし
て部屋の中央にあるモニターの前に行くのに続いて、滝田もその前に立
った。美智子も後からついてきた。
 画面は真っ黒なまま何の変化もない。
「十秒経過」
 青年が厳かに告げる。滝田は眉をひそめた。ぬか喜びか。
 しかしその時、画面が静かに明るさを増し、砂嵐が走り始めた。
「夢か」
 滝田は尋ねた。
「夢です」
 青年が答える。
 画面の砂嵐は徐々にものの形をとり始めた。
 滝田は唖然とした。それは、今までのようなエジプトの夢ではなかっ
た。どこかの部屋の中の風景だ。壁に沿って冷蔵庫のようなコンピュー
タの箱とパソコンが並んでいる。だんだんと映像が明瞭になるに従って、
滝田はあほうのように口を開いていった。
 中央には大型モニターがあり、床にはいろいろな機器同士を結ぶ配線
が這い回っている。滝田達もいる。間違いない。それは他でもない、こ
の部屋だった。この室内の風景が映し出されているのだ。
「こんな夢は初めてです」
 背後で美智子が驚きの声を漏らすのが聞こえた。
 ジェセル王のピラミッドの時と同じように、彼は部屋を眺め回してい
た。
 突然、彼は歩き出した。ゆっくりとモニターの右横に近づいていく。
 青年が首を横に向けた。滝田も、おそるおそる、彼が立っているはず
の場所を見た。しかしそこには誰もいない。
「常盤君」
「は、はい」
 美智子は窓に駆け寄った。何も言わずひたすら下方を見つめている様
子から、相変わらず倉田氏は眠り続けているのだと分かった。レム睡眠
行動障害は起こっていないのだろう。
 滝田達が立っている方向に移動してきたので慌てて一歩下がった。倉
田氏、あるいは倉田氏に乗り移っている何者かはモニターの真ん前に来
た。
 滝田は目を真ん丸に見開いた。モニター画面の中にモニターが、その
モニター画面の中にモニターが、延々と続いているのだ。
 なにか金属のようなものが、画面の下から上がってきた。スパナだ!
彼はその血管の浮き出た手に、しっかりとレンチを握り締めているのだ
った。それは、列をなして画面のずっと奥の方まで続いた。
 滝田の頭の中に警報が鳴り響く。やめろ。やめてくれ。
 スパナが上方に振り上げられた。
「わあっ」
 滝田は目をつぶった。ひどい音がした。
 ゆっくりと目を開くと、モニターが割れていた。
 滝田は、呆然として突っ立っていた。一体何が起こったのか、どう解
釈すればよいのか、頭が混乱して整理できない。
 ようやく我に返り、窓に駆け寄る。倉田氏は微動だにせず、眠り続け
ていた。ただ、その口元がかすかに笑っているように見えた。
 美智子がPCに駆け寄る。
「常盤君、脳波は?」
「終わりました。ノンレム睡眠に戻りました」
 長いため息が、自然と口から吐き出される。一気に十年も歳をとった
ようだ。
 青年が見つめているのに気づき、額をぬぐうと、冷や汗で濡れていた。
「こりゃ、いったい」
 喉が乾き、干からびた声が出る。
「倉田さんはエジプトにいるんでしょ? どうしてこんな映像が出る
の?」
 美智子は誰にともなく、怒ったように言った。
「分からん。今までのはまだ、不可思議ながらもつじつまが合っていた。
しかし今度のは、まるでおかしい。今ここに実在していたかのようだっ
た。一体彼は、今度は誰になったというんだ?」




#540/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:44  (326)
眠れ、そして夢見よ 3−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/05 00:50 修正 第2版
   手がかり


   一

 空には雲が浮いている。今日もいい天気だ。青年は大きなあくびをし
た。不規則な形をした綿菓子たちが、おとなしく佇んでいる。ふと目に
とめた一つの形が、猫の顔に見えてきた。青年は愉快な気持ちになって
きた。他にも何かに似ているものがないかと探しだす。そんなふうにし
て見ていると、なんということもない雲が、羊の群れに見えてくるから
不思議だ。
 低くて太い音に気づいて、後ろを見ると、屋上に通じる扉が開いて美
智子が出てきた。
「おや、どうしたんですか」
 美智子は靴音を立てながら青年に近づいてきた。
「ズボン、汚れるわよ」
「構やしませんよ」
 美智子はハンカチを敷いて、青年の横に座った。手の平をコンクリー
トに当て、空を見上げる。
「私も空でも眺めようかと思ってね」
「こうしてると気が落ち着きますよ。僕はよく昼休みにここに来るんで
すよ」
「三度も聞いたわ」
 美智子が目を細める。えくぼができる。
 コンタクトにすればいいのに、と青年は思う。一度だけ、眼鏡をはず
したところを見たことがある。まだ二十代だと言っても通じそうな、か
わいらしい顔だった。もっとも、そんなことは本人には言わない。言っ
たら大目玉だ。
「気分、あんまり変わらないわ。どこがいいの?」
「空ってほら、絵みたいじゃないですか」
「そうかしら。そんなふうに考えたことないわ」
「小さい頃、親父と散歩してて、それで河原の土手に二人で寝ころがっ
て空を眺めてたんですよ。僕が、空って絵みたいだねって言ったら、や
っぱり親父も、常盤さんと同じこと言いましたよ。そんなふうに思った
ことないなあって」
「すごい。よくそんなこと覚えてるわね」美智子の顔に意地悪そうな笑
みが浮かぶ。「今作ったんじゃないの?」
「いえいえ、本当ですよ。そうかあ。そんなふうに思うの、僕だけなの
かな」
 美智子は空を見上げたまま、黙っている。青年は言葉が続かず、ひざ
を抱えていた手を、彼女の真似をしてコンクリートに当てた。
「積乱雲だわ。雨が降るかも」
「え、どれですか?」
「あれよ、あれ」
 美智子は、周辺のビルの群れの中でも、ひときわ大きいやつを指差し
た。その上に、なるほどたしかに山のように立ち上がっている雲が見え
る。
「あれ、積乱雲ですか? 違うと思うけどなあ」
「なんで?」
「だって、夏の雲でしょ?」
「そんなことないわ。寒冷前線があると、その近くにできるのよ」
「へえ、雲にも詳しいんですね」
「科学者たるもの、いろんなことに興味を持たなくちゃだめよ。もしも
被験者が雲の夢を見たらどうするの?」
 青年は視線を美智子から空へと移した。
「僕はただ何にも考えないで眺めている方が好きだなあ。積乱雲とか、
そういうのはどうでもいいんですよ。ああ、綿菓子みたいだな、とかね。
きれいだなあ、とか。常盤さんはそういうふうには感じないんですか」
 怒ったかな? と思い、再び視線を美智子に移すと、意外にも彼女は
少し悲しそうな顔をしてうつむいていた。
 青年の心に、なぜだか彼女が言った「氷の中にいるみたい」という言
葉がよみがえった。
 彼女がいきなり立ちあがったので青年は驚いた。
「雨が降るかもしれないわ。藤崎君も早く中に入った方がいいわよ」
 青年は、足早に歩み去っていく彼女の姿を、呆然と見送った。積乱雲
を見ると、わずかにこちらに移動してきたように感じた。


   二

 呼び鈴を押す。応答がない。もう一度押す。滝田は靴のつま先で地面
を叩き始める。
「はーい」
 間延びした女の声が聞こえる。しばらくして、やっとドアが開いた。
髪の乱れたおばさんの顔が、扉の間からのぞいた。
 滝田は慌てて職業的な笑みを浮かべた。
「すみません。私、小暮総合病院の斎藤先生の紹介で来た、滝田という
者ですが」
 倉田恭介の担当医の名を出し、名刺を渡す。その名刺には「滝田国際
睡眠障害専門病院 院長 滝田健三」というでたらめが刷ってある。
「まあ」
 倉田恭介の妻、倉田芳子は甲高い声を出した。
「まあまあ、主人の……。そうですか。よくいらっしゃいました。さあ、
どうぞ」
 靴をぬぐ間も、そうですか、私もう心配で心配で、などと黒板を爪で
ひっかくような声でしゃべり続ける。いらいらする。
 おばちゃんというのは、大別して二種類いるように思う。甲高い声の
おばちゃんと、だみ声のおばちゃんだ。他の種類のおばちゃんはあまり
見たことがない。どうしてだろう。
 彼女は五十代に入っているように見える。歳の離れた女房だろうか。
髪は長く、目は大きく、どちらかというと色白で、昔は美しかったのだ
ろうにと思わせる顔立ちだ。
 彼女の後について歩きながら、奇妙な症状を示し続ける患者の家をつ
ぶさに観察する。歩くときしむような音が鳴る廊下の奥には二階へと続
く階段がある。両側には薄く黄ばんだふすまがある。築年数は十年、い
や、二十年くらいだろうか。なんということはない。普通の家だ。
 倉田の妻はふすまのうちの一枚を開け、さあさあ、どうぞと滝田をい
ざなう。六畳の和室だ。
「汚い所ですが。そうですか、まあ」
 座布団の上にあぐらをかく。
「今お茶をお持ちしますので」
「いや、お構いなく」
 一人になった滝田は、部屋の中を眺め回す。液晶パネルの、ディスク
再生装置と一体型のテレビはほこりも拭かれていない。髪を銀色に染め
たアイドルの女の子が微笑んでいるカレンダーは倉田恭介の趣味だろう
か。エアコンは元々真っ白だっただろうが今は黄味がかっている。そん
なごく平凡な物達に囲まれながら、つまらない一市民としての暮らしを
営んでいたはずの倉田氏が、なぜ突然にあんなふうになったのか。
 家族の話を聞けば何か分かるかもしれないと思うのは、浅はかだろう
か。それでも、何でもいいから手がかりがほしいのだ。
「まあまあ、わざわざご足労頂いて、すみませんねえ」
 耳障りな声を発しながら、おばさんが戻ってきた。
「私、ご主人が入院している病院から依頼されたのですが、やはりご本
人がああいう状態ですから、原因が分かりません。そこで、ご家族の話
をうかがいたいと思いまして。突然訪問して申し訳ありません」
「いえいえ、まあまあ、よく来て下さいました」
 出されたお茶を一口すする。熱いな、と心の中で舌打ちする。
 その時威勢良くふすまが開いて、男の子が駆け込んできた。
「お母さん、おやつ」
「もう、今お客さんが来てるんだから、あっちに行ってなさい。冷蔵庫
にプリンがあるから、それでも食べてなさい」
 子供は来た時と同じ勢いで走っていった。騒々しい家だなあ、と滝田
は思う。
「小暮病院でいいかと思ってたら、検査のために他の病院に移すってい
うでしょ? 私もうびっくりしちゃって。何にも手につかなくて、夜も
眠れないんですよ」
 そうは見えませんが、と言いたいのをこらえる。
「それで、どうなんですか? かなり悪いんですか? あの人が死んじ
ゃったらどうしようと、そればかり気がかりで」
「いえいえ、大丈夫ですよ。死にはしません」
 まさか死ぬことはないだろうと考えていた。だが、彼が重態なのかど
うかも知らない。ただ、痩せさらばえていることは確かだ。このままだ
と栄養失調で亡くなるかもしれない。そうなっては滝田も困る。結局何
も分からないまま調査が終了してしまうのは避けなければ。
「でも院長先生がじきじきに出向いて下さるということは、かなりの重
病じゃないんでしょうか」
 院長はまずかったかな、と滝田は思う。しかし、相手を信用させるに
はそれくらいした方がいいのだ。人間というのは権威に弱いものだ。例
えば同じ発見を有名な学者がしたのと、町にどこにでもいそうな高校教
師がしたのとでは、学者の方が信用されるに決まっている。
「いえいえ、そんなことはありません。脳に異常が見つかっているわけ
でもありません。ただ、眠り続ける原因が分からないんですよ」
「まあ」
 倉田芳子の眉が八の字になった。
「心配することはありませんよ」
「小暮病院でもいろいろ聞かれたんですよ。普段どんな生活をしている
かとか、お酒はどのくらい飲むかとか、寝るのは何時くらいかとか」
「ええ。それはうちの方でも聞いています」寝るのは何時かしか聞いて
いないが、調子を合わせる。「今日うかがったのは、そういった医者が聞
くような通り一遍のことではなくて、もっと突っ込んだことを聞くため
なんですよ」
「と、おっしゃいますと」
 滝田は身を乗り出し、倉田芳子の瞳をみつめる。
「何か、秘密にしていることがあるんじゃないですか? 医者にも言っ
てないような」
 無論、そんなことは分からない。しかしそれで何か情報が引き出せれ
ばもうけものだ。
 倉田芳子は急に下を向いて考え込み始めた。
「大丈夫ですよ。秘密は厳守します」
 だいぶ迷っていたようだが、やがてしおらしく言った。
「実は、主人は新興宗教にかぶれてまして」
「宗教ですって?」
「言ってましたわ。会社がつぶれるかもしれないって」手の甲で目頭を
おさえる。「自分はクビになるかもしれないって、そう言ってました」
 鼻をすすり上げ始めた。近くのティッシュペーパーの箱から一枚引っ
張り出し、鼻をかんだ。
「ずいぶん悩んでたみたいです。それで宗教にすがったんです。私、や
めろやめろって、何度も言ったんですよ。あんなわけの分からないもの
に入れこむから、たたったんだわ」
「で、その新興宗教というのは何て名前ですか。どこにあるんです?」


   三

 高梨の話には嘘があった。たしか、精神的には何の問題もないと言っ
ていたはずだ。そうではなかった。悩みがあったのだ。
 滝田はそこだけ他の建物のようには道に面しておらず、遠慮がちに引
っ込んだ所に建っている小さなビルの正面玄関の前に立っていた。縦に
トーテムポールのように並んでいる看板を見上げる。「二階 和田幸福研
究所」とある。同じ研究所でも滝田のそれとはだいぶ趣が異なる。中に
入り、小さなエレベーターに乗る。四人も乗れば窮屈に感じられるほど
の狭さだ。降りると、廊下をはさんで正面に銀の枠で囲まれたガラス製
の、観音開きのドアがあった。案内は出ていないが、他に扉がないので
それが和田幸福研究所だろう。
 少し躊躇したが、意を決して中に踏み込んだ。左側に、町の小さな病
院のそれに似た受付がある。誰もいなかったが、「すみません」と声をか
けると黄色いセーターを着た目鼻立ちの整った女性が現れた。
「あの、和田先生に面会を申し込みたいんですが」
「会員証をお持ちですか」
「いえ、私、会員ではないんですが、和田先生とちょっとお話ししたい
ことがありまして」
 女性の顔が怪訝そうな表情に変わる。
「先生は会員ではない方とはお会いしません」
「倉田恭介さんのことについてお話を聞かせていただければと思いまし
て」
 女性がパソコンを操作するのをみつめる。
「こちらの加入者の方ですね。しかしプライバシーをお教えすることは
できません」
 困ったな、と思ったが、このまま帰るわけにはいかない。一か八かだ。
「では、御見葉蔵さんについてお話ししたいのですが」
 女性が滝田をにらみつける。ビンゴだ。
「少々お待ち下さい」
 立ち上がって、姿を消した。そのまま戻ってこない。滝田は靴先を鳴
らし始めた。
 五分近く待たされて、ようやく戻ってきた。
「お会いになるそうです。正面のドアからお入り下さい」
 軽く礼をしてこげ茶色の扉を開けると、そこにまた別の女性が立って
いる。他には誰の姿もない。この女が“先生”なのだろうかと思ってい
ると「どうぞこちらへ」と言って滝田を案内する。「第二応接室」という
札がかかった別の部屋のドアを開け、「先生、お客様です」と中の人物に
告げ、滝田に向かって丁寧におじぎをする。
 中から、「どうぞ、入って下さい」という声がした。入っていくと、ゆ
ったりとしたソファに腰掛けていた男が立ち上がった。ポマードで髪を
オールバックにした、初老の男だ。
「あ、どうも今日は。私こういう者なんですが」
 滝田は倉田の妻に渡したのと同じ名刺を男に手渡した。男は目を細め
てしげしげとながめた。
「ほう、病院の院長先生ですか」男はにこやかな笑みを浮かべた。「私は
ここの所長の和田です。で、今日はどんなご用ですか」
 手の平で男の向かい側のソファを指して、ゆっくりと腰掛ける。滝田
も座った。
「実は、うちの患者に倉田恭介さんという方がいるのですが、その人に
ついてお聞きしたいことがありまして」
「ええ、聞きました。こちらに来られていた人ですね」
「そうです。その方が今実に不可解な病気にかかっておりまして。お聞
きになっていませんよねえ」
「いや、奥さんの方からうかがっていますよ。なんでも昏睡状態と夢遊
病がいっしょになった病気だとか」
 夢遊病とレム睡眠行動障害とは別物なのだが。
「奥さんもこちらに来たんですか」
「ええ、すごい剣幕でしたよ。あなた達が主人をおかしくしたんだって、
そんなことを言うんですよ。まったく、困ったことです」
 滝田はいつも話の核心にふれる時にそうするように、相手の瞳をしば
らくみつめた。
「実を言いますとね、私も、こちらの研究所が倉田さんに何かしたんじ
ゃないかと思っているんですよ」
 和田は柔和な表情をくずさず、少し首を横に傾けた。
「おやおや、奥さんはともかく、病院の偉い先生までそんなことをおっ
しゃる。私達が何をしたのでしょうか」
 倉田芳子の話を聞いた時に直感した。新興宗教といえば……
「洗脳ですよ。あなた達は、例えば倉田さんに、誰か別の人間だと思わ
せるように、思想を改造したんじゃないですか」
 和田は狐につままれたような顔をした。
「ああ、奥さんから聞いたんですね。我々が宗教団体だって」
「違うんですか?」
「私達は、人間が幸福になる方法を研究しているんですよ。しかし宗教
団体ではありません。あなたは、私達が倉田さんを別の人間にしたと言
うが、そんなことが簡単にできるんでしょうか? いったいどうやって。
何のために」
 滝田は困った。洗脳の結果、あんなふうになったのだとすれば、無理
にこじつければ何とか説明がつく。倉田氏が詳細を語ったのは御見葉蔵
氏の人生だけだ。あとの二人はあいまいだ。この研究所がなんらかの方
法で御見氏についての情報を得ていて、その人格を倉田氏に植え付けた
のだとすれば、少なくとも御見氏についての謎は解決する。しかし、洗
脳ではないと言い張られては、どうしたらいいのだろう。たしかに、人
間を全くの他人だと思わせるのは、そんなに簡単にできそうもない。一
つのキーワードが浮かんだ。
「催眠はどうです? あなた達は倉田さんに催眠術をかけたのではない
ですか?」
「私達は悩める人を救うために、催眠を使うことはあります。それはそ
の人の悩みを、より良く知るためです。人は心の秘密を、なかなか打ち
明けないものです。その壁を取り払ってあげる必要があるのです」
「倉田さんにもかけたんですね?」
「ええ、かけましたよ。もちろん事前に本人の了解を得ています。何か
問題がありますか?」
「どんな種類の催眠術ですか。使い方を間違えると、非常に危険な行為
だと思いますが」
 和田の顔が、一瞬くもったように思えた。しかしすぐににこやかな顔
に戻る。
「それをあなたに言う義務があるのでしょうか。私達は倉田さんのプラ
イバシーを守る責任があります」
「別に倉田さんがどんなことをしゃべったか教えてくれと言ってるわけ
ではありません。私はあなた達が倉田さんを人形みたいに操ったのでは
ないということが分かればそれでいいんです」
 和田の笑みがくずれた。目は笑みを保っているが、口元がゆがんだま
ま戻らない。
「退行催眠ですよ」
「え?」
「記憶をどんどん過去にさかのぼらせていくのです。人の悩みは幼少期
にどんなふうに育てられたか、どんな大人達と接したかに大きく関わっ
ていることが多い。それを知るためです。倉田さんを操るためではあり
ませんよ」
「どこまで戻らせたんですか? つまり、何歳頃まで戻ったか、という
ことですが」
 その質問はひらめきだった。まだ何かが明瞭に分かったわけではなか
った。しかし、御見葉蔵氏が過去の人物であることと、退行催眠という
言葉が、瞬時に頭の中で結びついたのだ。
「どこまでって、今言いましたように、幼少期ですよ」
「何歳ですか。それとも」自分でも思いがけない言葉が出た。「生まれる
前ですか?」
 和田の表情がさらに険しくなった。
「これ以上は秘密です。倉田さんのプライバシーに関わります。悪いが、
次の方が私を待っています。もうそろそろお引取り願えませんか」
「退行催眠というのは、そんなにほいほいとかけていいものなんです
か? あなた達はそういう資格なり、免許なりを持っているんですか?
それは法的に問題ないんですか?」
 和田が今までの温厚な態度からは想像もできないような、薄気味悪く
不気味な表情を浮かべた。
「いいでしょう、お話ししましょう。秘密は守っていただけますね」
「ええ、誰にも言いません」
「私達も驚きました。退行催眠で前世の記憶がよみがえったというよう
な話は、いくつも聞いたことがありますが、まさか本当に目にする機会
にめぐり会えるとは。倉田さんは突然、今までの様子とは全く違ったふ
うにしゃべりだしたのです。『ここはどこだ。お前らいったい、こんな所
で何をやっとる』とね。後のことはご存知でしょう。彼は御見葉蔵さん
として詳しくお話を聞かせてくれました。しかし、当然それはその場で
終わらせましたよ。後日、私達は御見さんのお墓参りをさせていただき
ました。それで前世の記憶だと確信するに至ったのです。奥さんからご
病気のことをお聞きした時にはびっくりしました。しかし夢遊病と私達
とは何の関係もありません」
「しかしあなたは恐れている。もしかしたら犯罪者にされてしまうかも
しれない。違いますか?」
 催眠をより高めていけば、洗脳やマインドコントロールも可能なので
はないか?
「あなたは大変な誤解をされているようだ。催眠をかけるのに資格や免
許は必要ありません。会話と同じですよ。『私が合図をすると、もう声が
出ません』というのと、『とても美味しいですよ。買いましょう』という
のはあまり差がありません」
 催眠術を使って詐欺まがいの商売をすることも可能だと言っているよ
うにも聞こえる。
「仮に催眠を使って人に罪を犯させたとしても、法的な場で術者の責任
を追及するのは難しいでしょうね」
 そういうことを裏でやっている、とも取れる発言だ。
 その時ドアが静かに開いた。見ると、いかつい警備員が立っていた。
「次の方が私を待っています。お引取り願えますか?」
 和田は繰り返した。




#541/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:46  (151)
眠れ、そして夢見よ 3−2   時 貴斗
★内容                                         19/03/31 18:17 修正 第2版
   四

「つまりだ」
 滝田は手帳を閉じた。
 青年と美智子は、新たに分かった事実に驚いたようだった。美智子な
どは口が半開きになっている。
「こういうふうに考えられないだろうか。倉田氏は和田幸福研究所の催
眠術によって、前世の記憶を取り戻した。倉田氏は御見氏の生まれ変わ
りだったんだ」
「そんな、非科学的な」
 美智子が疑いの眼差しを滝田に向ける。
「倉田氏が御見氏になったことを科学的に説明するのが不可能である以
上、たとえオカルトチックだとしても、そういうふうに結論づけるしか
ない。催眠術でよみがえった前世の記憶は、催眠を解けばまた脳の底へ
封じ込められるはずだった。ところが、倉田氏の場合はそれがきっかけ
となって、夢を見る時に自由自在に現れるようになったんだ」
「私はそうは思いません。倉田さんは何かの機会に、御見氏の生年月日
や生前の様子を知ったのよ」
 美智子がいつもの勢いで反論する。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただ、倉田氏と御
見氏のつながりは薄いがね」
「先生は都合良く話がつながるように解釈しているんです」
「ああ、そうだよ。御見氏になる能力を獲得した倉田氏は、さらに先祖
帰りを始めたんだ。御見氏の前世であるインド人へ、そしてそのまた前
世のエジプト人へ。そう考えるとつじつまが合う」
「いいえ、全てなんらかの現実的な解釈があるはずです。安易に非科学
的な考えを取り込むのは危険です」
「ではインド人になった時の怪力はどう説明する?」
「それは……」
 美智子はつまった。しかし負けん気の強い美智子が、それくらいで引
き下がるわけがなかった。
「それにしたって、高梨医師がそう言ったのを先生が聞いただけです」
「なるほど。高梨先生の嘘だという可能性もなくはないな。でもそうす
ると他の人達とも口裏をあわせておかなきゃならないね。看護師達も見
たって話だよ。高梨先生はどうしてそんなことをするんだろう」
「こじつけよ。もっと慎重に検討を重ねる必要があるんじゃないです
か? 論理の飛躍です」
 美智子の言うことももっともだ。たしかに、こじつけであって、なん
の確証もない。
「ひとつの考え方を言っているまでだよ。そうでなくとも不思議なこと
だらけなんだ。非科学的な推測であっても、なんらかの論理的な意味付
けをしようと試みるのは、間違った態度ではないと思うんだがね」
「でも、証明のしようがありませんわ」
 そうだ。何かが分かったようでいて、結局何も分かっていないのだ。
しかし、科学というのはえてしてそういうものだろう、と滝田は思う。
さんざん調査をやった上で、こういうふうになっているのではないだろ
うか、というひらめきが浮かぶ。そしてそのひらめきが正しいことを証
明するために、さらに様々な調査や実験を繰り返す。実証さえできれば、
初めて“分かった”といえる。しかしできずにいる間は、全ては単なる
憶測にすぎない。
 黙って二人のやりとりを聞いていた青年が口を開いた。
「次に倉田さんが起き出した時に聞いてみたらいいんじゃないですか?」
 なるほど、それはいい考えだ、と滝田は関心した。だがしかし、すか
さず美智子が反論する。
「どうして? 倉田さんは今古代エジプト人になっているのよ。エジプ
ト人の時にはエジプト人の記憶しか持ってないんじゃないかしら。イン
ド人や御見氏のことを聞いても、分からないんじゃないかしら。それに、
先生の説だと倉田さんがこの部屋に現れたことが、説明がつきませんわ」
「そうだ。そこが一番の難問だよ」
 御見氏からアジャンタなんとかいうインド人へ、そして現在ギザ、サ
ッカラ付近をうろついている古代エジプト人へ、順調に過去へさかのぼ
っていた倉田氏が、なぜ突然現代の、しかもこの場所に現れたのか。そ
こが一番分からないところだ。
 滝田は、これ以上議論しても無駄だと感じた。非難するばかりで自分
のアイデアを出そうとしない美智子にもいらいらしてきた。
「まあいい。倉田さんが起き出した時に、インタビューしてみようじゃ
ないか。彼はいったい何者なのか。どこから来たのか。とにかく、一気
に全てが分かるってことは、あまりないもんさ」


   五

 駅から出た美智子は、疲れを頭の芯に抱きながら歩道橋の階段を下り
る。脇に立って下の方を阿呆のように見続けている浮浪者ふうの男を、
円を描くように避けて通る。
 下りた所で酔っ払いのサラリーマンが四人で馬鹿みたいに騒いで進路
をふさいでいる。どきなさいよと言わんばかりの勢いで真中を割って通
る。おっちゃんの一人がよろけて倒れそうになる。
 歩道橋を下りるとシューズショップや菓子店が並ぶ商店街となる。美
智子が帰る時間帯にはすでにどこの店も閉まっていて、人通りも少ない。
菓子店が閉まるとその前に昼間は見かけない占いの男が陣取っている。
簡素なテーブルの上に「手相」と書かれた行灯が淡く光り、謎めいた雰
囲気を醸し出している。
 美智子がいつも気になっているものがある。男の前の卓にぶら下がっ
ている「八割は当たる」と書いてある紙である。これって、どういう意
味なのかしら。
 美智子が見ていると男が声をかけてきた。
「何か悩みがおありですか」
 思わず背筋が硬くなる。
「いえ、別に」
「そんな事はないでしょう。深い悩みがあるでしょう」
 おかしくなった。きっと眉間にしわを寄せて紙を見つめていたのだろ
う。
「いいわよ。みてもらうわ」
 美智子は粗末なパイプ製の椅子に腰掛けた。
「左手を見せてください」
 右利きなのだが関係ないのだろうか。
 手を出すと、男はその上にレンズをかざした。
「なにか、男の関係ですね」
 まあ、倉田氏のことで悩んでいるのだから、そうだと言えなくはない。
「そうね。確かに男の関係と言われればその通りよ」
 男はしばらく手を見ている。美智子の顔は見ない。よく考えると声を
かける時もずっとうつむいたままだった。
「あまり外には出ないお仕事ですね。しかも非常に頭を使うお仕事のよ
うだ」
「その通り。当たりよ」
「毎日の生活はあまり楽しいものではないでしょう」
「まあ、そうね。でも毎日が楽しくてたまらない人なんて、そんなにい
るかしら。あなただってそうでしょう?」
「いえいえ、私は手相を見て言っているだけです」
 美智子の手を見つめたまま、薄気味悪い笑みを浮かべる。
「悩みは、仕事上のトラブルですね」
「そうね。手相だけでそこまで分かるの?」
「ええ、八割は当たります」
 なんだか不気味な男だ。美智子の顔をまったく見ようとしない。手を
見ただけで、次々と言い当てていく。
「人付き合いは不得手でしょう」
「そうね。得意な方じゃないわね」
 男はレンズを静かに下げた。相変わらずうつむいたままだ。
「あなたは恋愛が苦手のようだ。付近に若い男性がいるでしょう。近い
うちにその方と仲良くなれますよ。それと、お悩みのことですが、あせ
らず、ゆったりと構えることです」
 男は自動で話す人形がしゃべり終わったかのように、それきり押し黙
ってしまった。美智子は立ち上がり、鑑定料金を置いた。足早に立ち去
る。
 不愉快だった。自分のマイナス面をつかれたことも、藤崎青年と自分
の間に恋が芽生えるような言い方をされたことも。立腹しつつも、不思
議に思うのだった。手相ってそんなに当たるものなのかしら。歩きなが
ら自分の手の平をみつめた。
 彼女は分析する。彼はきっと人間観察の能力が優れているのだ。
 彼は見ていないようで、実は毎日通り過ぎる自分の顔をそれとなく見
ている。いつも気難しい顔をしているから、深い悩みがあり、毎日が楽
しくないだろうと思ったのだ。男の関係かと聞いたのは、女なら男に関
する悩みを一つや二つ持っているだろうから。恋愛のことであれ、それ
以外であれ。結婚指輪をしていないからたぶん独身だろうと考えた。も
っとも、結婚指輪をはずしている人妻も存在するが。男の関係と言われ
ればそういえなくもないというような言い方をしたので、恋愛のことで
はないと分かったのだ。男に関することで、恋愛ではないこと、そこで
仕事のことかと聞いた。違うと言われればまた別の、友人関係かとか親
子関係かとか聞けばいい。
 色白で、度が強い眼鏡をかけているので、デスクワークだと思ったの
だ。そういった仕事である上につんけんしたものの言い方をする。だか
ら人付き合いは不得意だろうと思った。
 コンタクトにもせず分厚い眼鏡をかけ、いつも化粧っけがない。だか
ら恋愛にもあまり縁がないだろうと考えた。
 保育士でもない限り、付近に若い男はいるだろう。その男と仲良くな
るというのは、自分を喜ばせるためのおまけだ。自分には逆効果だが。
 いつも足早に歩く自分を見て、あせらず、ゆったりと構えなさいとア
ドバイスしたのだ。
 もっとも、彼の推論は全てがあてはまるわけではない。だから「八割
は当たる」なのだ。




#542/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:48  (315)
眠れ、そして夢見よ 4−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/06 21:54 修正 第2版
   レム睡眠行動障害


   一

「さあ、旅立ちの時がやってきた」
 犬の顔に人間の体を持つ男が薄気味悪く微笑み、滝田を見下ろしてい
る。どうやらベッドの上にしばりつけられているらしい。身動きできな
い。
「待ってくれ、何のことだ」
「決まっておるだろう。お前はこれから旅立ち、オシリス神の支配する
国、アアルに行くのだ」
 男は長い真新しいナイフを胸の前に掲げた。嫌な光を放つ。
「お前は何者だ。私をどうするつもりだ」
「私の名はアヌビス。喜べ。お前をミイラにしてやる」
 アヌビス? どこかで聞いたことがあるような気がするのだが思い出
すことができない。
「ミイラだって! 冗談じゃない。私はまだ生きている!」
「おお、なんという哀れな者だ。自分が死んだことにさえ気づいていな
いとは」
 犬の顔をした男は大きく口を開けて笑った。とがった歯が並んだ間か
ら長い舌が吐き出される。男から顔をそむけると、横に四人の、筋肉隆々
の上半身裸で白っぽい腰布を巻いた男達が、壷を大事そうに抱えて立っ
ていた。それぞれの壷には犬や鳥の顔をしたふたがのっている。
「あれは、何だ」
「あれはカノプス壷だ。お前の肺、肝臓、胃、腸をおさめるのだ」
 滝田はもがいた。だが、太いひもが体にくいこんで逃れられない。
「いやだ! やめてくれ!」
「お前は喜ぶべきなのだぞ。高貴な者でなければ、ミイラになれないの
だぞ」
「なぜ私がミイラになるんだ」
 アヌビスと名乗る男はそれには答えず、意地悪く笑ってみせるだけだ
った。
「お前はお前の生涯において、罪を犯していないという自信があるか」
「な、なんだって? 罪を犯していなければミイラにならなくてすむの
か」
「そうではない。お前の心臓は天秤にかけられ、真実の羽根とつり合い
が取れればアアルへの扉が開かれるであろう。お前の罪が重ければ、お
前の心臓はアメミットに食われるであろう」
 男はナイフを振り上げた。
「さあ!」
「やめてくれ! やめろぉ!」

 滝田はふとんをはねのけ、体を起こした。額に手をあてるといやな汗
で濡れていた。ベッド脇のテーブルの上にあるランプをつける。卓にの
っている数冊のエジプト関係の本を悩ましげにみつめた。これを読みな
さい、と言って美智子からおしつけられたものだ。そのうちの一冊を一
気読みしたから、こんな夢をみてしまったのかもしれない。
 アヌビス神。ミイラ作りの神か。
 立ちあがり、ガウンを羽織り、階下へと下りていく。気分がすっきり
しない。
 台所に立ち、グラスにウイスキーを注ぐ。冷蔵庫から素手でいくつか
の氷をつかみだし、放り込む。和室に入り、妻の仏壇の前にあぐらをか
いた。
 琥珀色の液体を喉にながしこむ。妻が胃癌で亡くなってから、もう二
年にもなる。二人の子供はそれぞれの仕事に忙しいらしくてろくに帰っ
てこない。弟はごくごく平凡なサラリーマンになったが、土曜か日曜の
どちらか休めればいい方のようだ。兄は野心家で、独立して事業を起こ
したが、最近では宇宙開発などというプロジェクトに手を出しているら
しい。こっちの方は正月にすら帰ってこない。
 ついつい感傷的になりそうになるのを、仕事に思考を切り替えて払い
のける。割られたモニター、和田が打ち明けた秘密、そして美智子の反
論。
 ――とにかく、一気に全てが分かるってことは、あまりないもんさ…
…
 自分で言った台詞だ。いくら考えたところで、現時点ではたいして分
からない。もう一口、ウイスキーを飲み込むと、早くも心地よい酔いが
回ってくるのを感じた。
 このごろ悪夢をよく見るようになったな、と滝田は思う。こんなだだ
っ広い家に一人でいることが、精神的によくないのかもしれない。
「心地よい眠りのために」
 一人つぶやいて、グラスの残りを一気に流し込んだ。


   二

 美智子は研究室の椅子に腰かけて、ファイルをめくっていた。背に「明
晰夢関連」と書かれたそのファイルは、美智子が滝田にエジプト関係の
本を渡したのと引き換えに、滝田が彼女に渡したものだった。「明晰夢?」
とつぶやいた時、滝田は生真面目な顔をしてうなずいてみせただけだっ
た。
 滝田という男、なかなか頭がきれるのだが、何を考えているのか分か
らないところがある。たぶん、こんなファイルを渡したのも、今回の件
と明晰夢がなにかしら関係していると考えてのことだろう。理論的に筋
道立ててそう考えたのではなく、たぶん思いつきだろう。そういうこと
が多いのだ。しかしその発想が、案外的を射ていたりする。しかし理論
派の美智子から見ると、滝田のそういう所が受け入れられない。
 ドアが開く音で顔を上げると、藤崎青年がモニターを抱えて入ってき
た。
「大丈夫? 重そうね」
「手伝ってくださいよ」
「あら、男の子でしょ? レディーに重いもの持たせるの?」
「まったく」
 青年はもともと大型モニターが置かれていた箱の上にそのディスプレ
イを降ろした。
「一階の資料室からかっぱらってきました」
「あら、いけないわね」
「いいんですよ。あそこのパソコン、誰も使ってませんもん」
「パソコンのモニターなの? つながるの?」
「ええ、もちろん」
 青年は当然というふうに言った。
 だが、美智子にはPCのモニターが夢見装置につながる仕組みが分か
らない。超新星の爆発や、ブラックホールの近くでの時空の歪みについ
てはよく知っているが、こういうのはまるでだめなのである。
「私、手伝わないわよ。家のディスク再生装置だって、電気屋さんにつ
なげてもらったんだから」
「ええ? 僕だってもう疲れちゃいましたよ。一階からここまでこれ持
ってくるの、大変だったんですから」
 青年はため息をつきながら椅子に腰をおろした。
「ほらほら、こうしてる間にも、倉田さんが夢を見るかもしれないわよ」
「意地悪だなあ」
 青年はしかめっ面をして、面倒くさそうに立ちあがった。モニターの
背面に回り込む。
「常盤さん、そこのHDMIケーブル、取ってくれます?」
「えっ、どれ?」
「足元の、箱から出てるやつですよ」
 床を見ると、箱からこちらに向かって何本かのケーブルが伸びている。
「知らない」
 椅子を回転させて、ファイルをみつめる。
「まったく、もう」
 青年が背後のすぐ近くでかがみこむのを感じた。
「その辺にコンセント余ってません?」
「さあね。探せばあるわよ。頑張って」
 青年はしばらく作業をしていたが、美智子はもう興味を失って資料に
没頭し始めた。
「さあ、やっと終わった。だいぶ小さくなっちゃいましたけど、ちゃん
と映りますから」
 青年がスイッチを押し込む音が聞こえ、続いてディスプレイのかすか
にうなるような音が聞こえた。
「あの……常盤さん?」
「なあに?」
「当たりですよ」
「なにが?」
「さっき言ったじゃないですか。こうしてる間にも倉田さんが夢を見る
かもしれないって」
 美智子は驚いて立ちあがった。青年の後ろからモニターをのぞきこむ。
そこには例によって例のごとく、白と黒の幾千もの点が渦巻いていた。
「グッドタイミングね」
「ええ、間一髪でセーフですよ」
 砂嵐の画面は、ずいぶんと長い間続いた。やがて、点と点同士が集ま
り、像をむすび始めた。
 その時、何か、小さな物音が、背後でしたような気がした。美智子は
振り返ってみたが、しかし何事もなく、機器類が整然と並んでいるだけ
だった。再び、何かを映し出そうとしているモニターを見つめる。
 今度ははっきりと、人間のうめくような声が聞こえ、驚いて後ろを見
た。その声は、隣の部屋の音をひろっているスピーカーから出たように
思えた。
「うーん」
 今度は大きく、人間の低いうめき声がそのスピーカーから聞こえた。
美智子ははじかれるようにして窓辺にかけより、倉田氏を見下ろした。
「藤崎君、大変。すぐに先生を呼んできて」


   三

「どうした」
 滝田は室内に飛び込むなり怒鳴るように言った。時刻は夜の八時を過
ぎ、今日も何の進展もなしかと思いつつ、帰ろうとしていた矢先のこと
であった。
 すっかりかわいらしくなってしまった夢見装置のモニターが目に入り、
その画面をのぞきこもうとした。
「こっちです」
 美智子が青ざめた顔をして窓辺に立ち、手招きするのが目に入った。
滝田は一瞬のうちに、何か今までとは違う現象が起こったのを直感した。
 窓辺に立ち、両の手のひらをガラスにおしつけた。
「あっ」
 今までは、倉田氏が眠っている姿しか見たことがなかった。しかし今
の倉田氏は立ちあがっていた。酔っ払いのように体をゆらめかせながら、
腕から点滴の管をぶらさげたまま、立っているのだった。アイマスクは
自ら取り去ったのか、床に落ちてしまっていた。
 それは予想していたことのはずであった。倉田氏は、現在は一ヵ月に
一度程度の割合でレム睡眠行動障害の状態を示すと、高梨医師から聞い
ていた。そして倉田氏の担当医師が最後にそれを目撃した日からは、と
っくに一ヵ月以上経過していた。
「夢は? 夢はどうなってる?」モニターに駆け寄りのぞきこむ。「人が
映っている」
 ずいぶんと大勢の人間がいる。上半身裸で、下にスカートのような腰
布をつけた、褐色の肌をした男達だ。何か作業をしているようだ。彼ら
は古代エジプト人なのだろうか。何をしているのだろう。
 モニター画面の情景は、右に行ったり、左に行ったりを繰り返してい
る。
「常盤君、倉田さんは何してる?」
「なんだかきょろきょろしています。周りをながめているみたい」
 やはり、倉田氏のレム睡眠行動障害時の挙動と夢の内容とが一致して
いるようだ。
「あ、左の方をじっと見ています」
 モニターの動きが止まった。大きな、四角い石を数人がかりで運んで
いる。石の下に木でできたそりのようなものが敷かれ、それにつないだ
綱を何人もの男達が引っ張っている。その後方にも、別の石を運んでい
る男達が続いている。よく見ると、石の前方で男が水をまいている。巨
石を運ぶ男達の列がはるか彼方まで続いている。
 モニターに映る風景が、わずかに上下しながら移動し始めた。
「倉田さんが歩き出しました」と美智子が言った。「あっ、点滴を抜いた
わ」
 画面の中で、倉田氏はその石を運んでいる男達に近づいていく。滝田
は窓のそばに行き、見下ろした。倉田氏はゆっくりと歩いていき、やが
て部屋の壁につきあたった。
 ヘルメットからは、コードは出ていない。得られた信号は無線で夢見
装置本体へ送られる。レム睡眠行動障害や睡眠時遊行症で動き回ること
を想定してそういう仕様になっているのだ。
 再びモニターの前に戻る。男達と倉田氏の間の距離は、あきらかにベ
ッドと壁の間隔よりも離れていたのに、画面では男達がアップになって
いた。瞬間移動でもしたのだろうか。
 画面の右下から、褐色の肌をした腕が綱をひいている男の一人に向か
ってのびた。
「君達は何をしているんだね」
 隣の部屋の音を伝えるスピーカーから野太い声がした。
「壁に向かって話しかけてます」
「日本語だね」
 滝田は胸の前で両の手の指を組んだ。御見氏の時と同じように、古代
エジプト人の声色に変っているのだろうか。それとも倉田氏自身の声な
のだろうか。本人の声音はまだ聞いていない。
 話しかけられた男は画面に向かって何かわめきちらした。しかし、当
然声は聞こえない。
 映像はその男から離れ、かわりにそりの前に水をまいている男の方に
移動した。
「君達は何をしているのだ」
 男は倉田氏の問いに応じたようで、身振り手振りをまじえて何か説明
している。
「どのファラオだ」スピーカーから倉田氏の言葉が聞こえる。「ヒッドフ
ト王? 知らない名だ」
 男はさらになにか言っている。唇の動きからして早口でまくしたてて
いるらしい。ずいぶんと落ちつきのない男で、さかんに手を動かしてい
る。しかしそのボディーランゲージからも、何と言っているのかは読み
取ることはできない。
「分かった。もういい。邪魔したな」
 男が再び水をまき始めた。その時、画面がふっと暗くなった。
「夢が終わりそうです」
 後ろからのぞきこんでいた青年が言った。
 滝田は慌ててスピーカーの所に行き、その横に立っているマイクのス
イッチをオンにした。
「倉田さん、聞こえますか。倉田さん」
 その音声は隣室のスピーカーユニットから出力される。
 振り向いて画面を見ると、元の明るさを取り戻していた。風景があっ
ちへ行ったり、こっちへ行ったりしている。倉田氏が驚いて辺りを見回
しているのだろう。
「何者だ。私を呼んでいるようだが、私はクラタという名ではない」
「私達はあなたと話がしたいんです。いいですか?」
「寝言と会話してる」
 藤崎青年が呆然としたように言った。
「お前はどこにいるのだ。姿を現せ」
「僕、行ってきます」
 青年が駆け出した。
「私も。先生はどうします?」
「僕はここに残ってモニターを見張っている。さあ、早く行って」
 美智子は青年を追って、すごい音をさせてドアを叩きつけ、出ていっ
た。その時初めて、滝田はマイクを握りしめる手に汗をかいていること
に気がついた。
「倉田さん、じゃなくて、あなたはなんという名前ですか」
「無礼な奴だな。まず自分から名乗るのが礼儀だろう」
「失礼しました。私は滝田という者です」
「タキタ? 私に何の用だ」
「あなたの名前は何ですか」
「私か。それがな、私にも分からないのだよ。なんとか思い出そうとし
ているのだが、どうしても思い出すことができないのだ。だがクラタな
どという変な名前ではないことは確かだ」
「あなたはさっき、何を聞いていたんですか」
「ああ、彼らが何をしているのかということだよ。なんでも、ヒッドフ
ト王のペルエムウスを作るために、石を運んでいるのだそうだ」
「ヒッドフト王? そりゃ誰です」
「さあな。聞いたこともない名前だ」
「あなたは今どこにいるんですか」
 スピーカーから美智子の声が聞こえた。
「なんだ。すぐそばから女の声がしたぞ」
 美智子は倉田氏の近くにいるらしい。
「それは私の仲間です。これからあなたにいくつか質問をします」
 目は開いていたからうまくすると二人が夢の中に入り込まないかと期
待したが、残念ながら姿は現さなかったようだ。
「どこ、と言われても、私にも自分がどこにいるのか分からないのだよ。
君達はいったい何者だ」
「あなたはこの間までサッカラにいました。その前はギザにいました」
 美智子は無視して話を続ける。
「サッカラ? ギザ? 私には何のことか分からないが」
「あなたはこの間スフィンクスを見ていたわ。その次はジェセル王の墓。
違いますか」
「スフィンクス? なんだね、それは」
 滝田が割り込む。
「顔が人間で体がライオンの像のことです」
「ああ、あれか。確かに私はそこにいた。ジェセル王の墓も見た。だか
らきっと私はまだその辺にいるのだろう」
 画面が一瞬暗くなった。
「自分の意志で移動しているんじゃないんですか」
 美智子がとげとげしい口調で聞く。
「分からない。私は自分が誰なのかも、どうしてこんな所にいるのかも、
さっぱり分からないのだ」
「嘘よ。あなたは何か隠してるのよ。あなたどうして私達の研究室に現
れたの? 夢見装置のモニター壊したの、あなたでしょ」
「おお、これはどうしたことだ。まるで罪人扱いではないか」
 モニター画面が二度瞬いた。慌てて美智子を制する。
「常盤君、やめなさい。すみません。この女性の無礼をお許し下さい」
 滝田は、もうあまり時間がないと感じた。
「あなたは、インドに行かれたことはありませんか? あるいは、日本
に来たことはないですか?」
「インド? ニホン? それはどこにあるのだ。聞いたこともない場所
だ」
 モニターを振り返る。画面が徐々に暗さを増していく。
「私は疲れた。もうそろそろ休ませてくれないか」
「最後にもうひとつだけ。ちょっと自分の足を見てくれませんか」
「自分の足?」
 モニターの風景が、ゆっくりと下がった。そして、倉田氏、というよ
りも夢の中のその人物の、胸から下を映し出した。
 半円形の、青や赤や紫の小さな四角形をたくさん組み合わせて作られ
た首飾りが見える。その下には褐色の筋肉質の胸が、そしてひきしまっ
た腹が、さらに下には白い腰布が、そして砂の上に半ば埋まった裸足の
足が見えている。
「先生、もう夢が終わりそうなんですか?」
 美智子が叫ぶように言った。
「ああ、もう限界だ」
 美智子は奇妙な呪文のような言葉をつぶやき始めた。
「あなたはまた、夢の中で目覚める。あなたはまたすぐに、夢の中で目
覚める。あなたはまたすぐに、夢の中で目覚める」
 何言ってんだあいつ、と、滝田は心の中で舌打ちした。
 モニターの風景が急速に暗くなり、そして消えた。
「あっ、倉田さん」
 声に驚き、窓に駆け寄って下を見ると、倉田氏が倒れていた。




#543/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:51  (239)
眠れ、そして夢見よ 4−2   時 貴斗
★内容
   四

「ペルエムウスって何ですか?」と、青年は聞いた。
「あら、知らないの? 英語のピラミッドはギリシャ語のピラミスから
来てるんだけど、ピラミスの語源については定説がないの。唯一の祖先
と考えられる言葉がペルエムウス」
「最後のあれ、なんだったの?」
 滝田は美智子に聞いた。
「催眠術がきっかけでああなったって、先生言ってましたよね。きっと
倉田さんは暗示にかかりやすい体質なんだろうと思って、暗示をかけた
んですよ。次のレム睡眠行動障害まで一ヵ月も待たされたんでは、たま
りませんからね」
「ふーん。うまくいくといいね」
 滝田は青年が持ってきたコーヒーをすすった。
「ヒッドフト王って、誰ですか」
 青年は、滝田が倉田氏に聞いたのと同じことを聞いた。
「ヒッドフトというファラオは本に載ってないわ」
 美智子もコーヒーに口をつけた。
「すごい。常盤さんは全部の王の名前を暗記してるんですか」
 青年は目を丸くした。
「ええ、本に書いてあったのは全部」
 美智子はなんでもないことのように言う。
「きっと歴史の教科書にも載ってないような、名もない王様だったんだ
ろうよ」
「ええ、残念ですね」
「残念? と言うと?」
「もしも名のある王だったら、どのピラミッドを建造している最中か分
かるから、倉田さんがいるおおよその年代が分かったかもしれません」
「少なくともスフィンクスとジェセル王のピラミッドよりは後だね」
 だが、そう言いながらも滝田は、倉田氏が現在どの時代にいるのかな
ど、些細なことだというような気がしていた。
 倉田氏は一体何者なのか。
 あの偉そうな口調の人物のことではない。今ベッドの上で再び昏睡に
陥った倉田氏は一体何者なのか。その方がずっと重要な問題だという気
がする。あきらかに、奇妙な睡眠障害になる以前の、ごくごく平凡な一
般市民にすぎない人物とは違った存在に変わってしまっている。彼は一
体何者なのか。
「先生が最後にした質問、あれは何です? どうしてあんなことを言っ
たのか、理解できませんでしたわ」
「え? ああ、自分の足を見ろってやつね。倉田さんの体を見たかった
のさ。録画されてるはずだから、後で見てみるといい。腰布しか身につ
けていなかった。肌は褐色だったよ。ああ、首飾りもつけていたけどね」
「するとやっぱり、倉田さんは今古代エジプト人になっているんだわ。
当時の一般的な服装です」
「そうだね。首飾りはつけていなかったけど、他の人達もそんな服装だ
った」
 美智子から借りた本の中にも、同じような格好の人物が描かれた壁画
や像がたくさん出ていた。
「首飾りをしているということは、上流階級の人かもしれませんね」
 インド人については不明だが、これで御見氏とエジプト人については、
確かにその人物になったのだということが、断言できそうだ。
「でも、常盤君が言うところの、現実的な解釈だとどうなるんだろうね。
倉田さんは古代エジプトの関係の本を読んで、それが夢に現れた、とい
うことになるんだろうか」
「それにしては情景が緻密すぎますわ。砂との摩擦を減らすために水を
まくところまで再現されています。どうして倉田さんはそんなに古代エ
ジプトのことに詳しいのかしら。それに本で読んだり、ネットで検索し
たりしたとしても、それだけであんなに鮮やかにイメージできるものか
しら」
「ああ、まるで見てきたような風景だったな」
「見てきたんじゃありません。見ているんです。倉田さんが夢の中で実
際に古代エジプトにいることは、確実です」
 倉田氏が古代エジプトにいることは認めるくせに、どうして前世とか
いう言葉を出すと怒り出すんだろう、と滝田は思う。
 その時ふと、ある可能性に気づいてはっとなった。
「とすると、これは大変だぞ。彼は夢を見るだけで実際のその場に行け
る。彼は歴史を変えることができる」
「なんですって?」
「だってそうじゃないか。彼は夢の中で研究室に現れ、そしてモニター
を壊した。すると実際にモニターが破壊されてしまった。彼がエジプト
で何かしでかしたら、それによって歴史が変わってしまうかもしれない」
 分厚い眼鏡の向こうで美智子の目が大きく見開かれた。


   五

「あら、やっぱりここだったの」
 藤崎青年がコンクリートの上に座って、空を見上げている。
「いい天気ね」と言いながら、美智子は近づいていく。
「食事はもう済みましたか」と、青年は雲を見つめたまま言った。
「ええ。五分で済ませたけど」
 白衣のポケットから白いハンカチを出して、青年の横に敷いて座る。
後ろに手をついて空を見上げた。昼休みの屋上からは目をさえぎるもの
のない青空が見渡せる。地上ではこうはいかない。そそり立つビル郡が
目を覆い、行き交う車達が耳を覆う。青年はいい場所を見つけたものだ。
「どうです? 氷の中からは抜け出せましたか」
「あらいやだ。そんなことまだ覚えてたの?」
 美智子は、ため息をついた。
「私ね、中学の時帰宅部だったの」
「はあ、部活で青春燃やしてましたって感じじゃないですね」
「ん? まあ、そうね。それでね、中学の時のあだなが眼鏡」
「それってそのまんまじゃないですか」
 今は度の強い眼鏡でも屈折率を高くして、サイズを小さくした非球面
レンズを使った薄型のものが主流だ。古臭い厚い眼鏡をかけている美智
子は珍しかったのだろう。
 少し風が出てきたようだ。乱れた前髪をはらう。
「ある時私、先生にほめられたの。常盤は頑張ってるって。すごく努力
してるって。そしたら、男の子の一人が言ったの。眼鏡は部活やってな
いから、勉強やる時間があるんだって」
 青年は快活に笑った。
「ひどいですね、そりゃ。だったら自分も部活やめりゃいいじゃないで
すかねえ」
「でもね、私考えるの。もしも自分がバレーか何かやってて、へとへと
になって帰ってきて、それから教科書読む気になるだろうかって」
「天は二物を与えず、ですよ。部活動が楽しい子は、そっちの才能が伸
びるんでしょう。勉学が得意な子は成績が伸びるんでしょう」
「それなら、楽しい方が伸びた方がいいんじゃない?」
 青年は何かを言おうとして口を開いたが、閉じてしまった。
「通ってた塾がね、成績が良い順に三つの等級に分かれてたの。私真中
のAクラスだったんだけど、くやしくて頑張って特Aクラスに上がった
の。最初に編成されたクラスから上の級に上がる子って少なかったから、
塾の先生にほめられたのよ。その時のほめ方がさっきの学校の先生と同
じふうだったの。常盤は頑張ったって。猛勉強して特Aに上がったって。
みんなも頑張れって言うのよ」
「良かったじゃないですか」
「そうかしら。あの時はほこらしかったけど、今は違うわ。勉強ってそ
んなに大事なのかしら」
 自分は学習が楽しかったからやっていたのだろうか、と美智子は思う。
そうではない。いい成績をとると周りの大人達からほめられるからだ。
いい点を取ると他の子達から賞賛を得られるからだ。
 眼鏡すごいね。よくこの問題解けたわね。これ解いたの、眼鏡だけよ。
 眼鏡ぇ、これ教えてくれよ。あ、もういいや。眼鏡に近寄っただけで
分かっちゃった。さすが。眼鏡からは気が出てるんだなあ。
 それがどうだろう。今の自分は青年相手に氷の中にいるみたいなどと
愚痴をこぼしている。
「適材適所ですよ。バイオリンが得意な子はバイオリニストになるんで
す。常盤さんは勉学が得意だったから、科学者になったんですよ」
 そもそもバイオリンが得意であることに意味があるのだろうか。バイ
オリニストになることに、意味があるのだろうか。勉強も科学者も、意
味があるのだろうか。それを言い出すと人間は何のために生まれたのか
とか、人類は何のために発生したのか、といった問題になってしまう。
 音楽家になって、研究者になって、人類の歴史に、文化や科学の進歩
に、ささやかな貢献をするためだろうか。人類は、科学や文化を進歩さ
せて、どうしたいのだろう。生活を豊かにしたいから? 確かにそれも
あるだろう。例えば医学の進歩によって寿命が伸びた。その結果どうな
っただろう。意識が朦朧としながら延々と辛い痰の吸引をされ、機械に
繋がって動けず、語れず、ただ死ぬのを待っている。そんな老人がどん
どん増えていった。
 それともこれは、仲間内の競争なのだろうか。自分はバイオリンが得
意だと思っている。自分は学問が好きだと思っている。他の子達よりも
うまく弾けるようになりたい。いい点数を取りたい。
 他の会社よりも売上を伸ばしたい。他の国よりも文化や科学が劣って
いたら、追いつき、追い越したい。別に人類全体の進歩なんか考えては
いない。相手よりも優位に立ちたい。人々から賞賛を得たい。ただそれ
だけのためにやっているのだとしたら、人類は馬鹿だ。
「藤崎君は、山登りと勉強、どっちが楽しかったの?」
「あ、僕が山登り始めたの、社会人になってからですよ」
「あら、そう」
「山はいいですよ。雄大で。学習がそんなに大事なのかとか、そういう
の、全部忘れさせてくれます」
「忘れていいものなの? 問題意識を持ち続けることって、大事なんじ
ゃないかしら」
「いやいやいや」青年は手を振った。「僕みたいな凡人の場合ですよ。僕
がそんなの考えたって、分かりゃしません。子供はなぜ勉強しなけりゃ
ならないのかなんて、そんなのは偉い人が決めたことであって、僕には
分かりません」
 そうじゃない。そうじゃないのよ。決まっていることだからやる。そ
れじゃあ相手の言いなりだわ。
「あんまり深く、考えない方がいいんじゃないですかね。なぜ山に登る
のか。そこに山があるからだ、ってね」
 青年の言うことも正しいような気がする。働き蟻はなぜ働くのかなど
とは考えない。蟻と人間では違うのではないか? いや、同じなのかも
しれない。やっていることの種類が違うだけで。
 人が生まれて、育って、子供を産んで、歳をとって、死んでいく。そ
れは自然現象だ。人間のやっていること、勉強をしたり、サッカーをし
たり、あくせくと働いてお金をもらって、それで欲しいものを買ったり、
公害で自然を破壊したり、戦争したり。もしも神様がいないとしたら、
そういったことも、全部ただの自然現象なのではないか? 働き蟻が働
くのと同じように、人間も戦争するのだ。ヒトとは、そういうふうにで
きているのだ。
 そう考えると気が楽になる。なあんだ、勉強することも自然現象なの
か。だったらそんなに頑張らなくていいじゃない。
 しかし受験勉強に励む子供達はそうはいかない。親や教師に急き立て
られるからだ。少しでもいい高校に入って、少しでもいい大学に入って、
大企業に入って安定した収入を得るのだ。そういう機構にしばられて身
動きできない。自分のやりたいことを見つけ出せなかった子は、甘んじ
て勉強するしかない。やりたいこともなく勉強もしたくなかったら、安
定もしておらず、厳しい条件の労働を一生やっていくはめになる。
 だから親は子供を急き立てる。「あなたのためを思って言ってあげてる
のよ」という言葉は、たぶんその通りなのだろう。それは母性本能だ。
つまりは自然現象なのである。
 全ては自然の理であっていちいち理由を求めなくていいのだ。だが本
当にそれでいいのだろうか。


   六

 眠れない。滝田は寝返りをうつ。もう何度こうして、ベッドの上で体
を回転させたことか。
 人はなぜ眠るのか? 決まっている。脳を休ませるためだ。ずっと眠
らずにいるとどうなるか。幻覚を見る。それでも眠らずにいるとどうな
るか。死ぬ。
 滝田は起きてゆっくりと立ちあがる。寝室をさまよい、明かりのスイ
ッチを探す。住みなれた家だ。目をつぶったままでも、スイッチを探り
当てることができる。
 不眠に悩む人がいる。一ヵ月も眠っていないと言う。だが、そういう
人は実はちゃんと眠っているのだ。浅い眠り。立ったまま眠っている。
起きながらにして眠っている。目を開いたまま脳は寝ている。だから死
なない。
 明かりをつけ、部屋を出る。
 滝田は階段を下りる。この先にはキッチンがある。台所は主婦の戦場
だ。だがその主婦殿は、もういない。滝田は自分のほほがひきつるのを
感じた。
 そこには何があるか? ウイスキーだ。若い頃はビール派だったのに、
すっかりウイスキー派に転向してしまった。
 人はなぜ酒を飲むか。大人になるためか。子供時代と決別するためか。
いや、そうではあるまい。男の言い分だ。女はどうなる? 女は、酒も
煙草もやらなくても、立派な大人になっている。
 ダイニングの明かりをつける。蛍光灯がしばらく点滅する。もうそろ
そろ交換しなくてはならない。面倒くさいと滝田は感じる。LED照明が
一般的になった現在でも、滝田の家では蛍光ランプを使っている。あの
中には電気を受けると光る気体が封入されているんだとか。はてそうだ
ったかな。学校で習ったような気がする。記憶があいまいだ。確実に歳
をとってる。いやだ、いやだ。電気の刺激を受けて、それで光っている。
交流電流が、行ったり、来たり。
 食器棚の下から、ウイスキーを取り出す。グラスに注ぐ。
 冷凍庫から氷を取り出して入れる。さっそく一口飲みこむ。のどが熱
くなる。腹が熱くなる。
 酒が眠りを誘発するまでの時間、今日も女房殿と過ごすか。そうしよ
う。和室に行こう。
 明かりをつける。こちらの蛍光灯はまだ大丈夫だ。重々しく仏壇の前
に腰をおろす。
 女房殿に乾杯。左手に持ったボトルを畳の上に置く。右手に持ったグ
ラスを口に運ぶ。
 人はなぜ夢を見るか。これは難しい。滝田がずっと取り組んできたテ
ーマだ。夢を見ないと死ぬか? まさか。
 人はレム睡眠の時に眠りが浅くなる。だからこの時に起きるのが理想
的だ。脳が活発になっているから夢を見る。夢は脳の働きの一つの現象
だ。それだけのことにすぎないはずだ。だが倉田氏は違う。夢が、本来
の意味とは全く違った意味を持ってしまっている。
 あれは一体何だ。
 酒を一気にあおる。おかわりをつぎたす。飲酒するとなぜ眠くなるか?
脳の活動が弱まるためだ。アルコールの効用とはまさに、そこにあるの
だ。
 滝田は、急激に酒が効いてくるのを感じた。さて、もう一杯。いいぞ。
脳の働きが弱まってくる。徐々に、眠気を催す。さらにもう一杯。
 滝田は、立ちあがるのが億劫になってきた。仏壇を見つめたまま、横
になる。今夜はこのまま、女房殿といっしょに寝てしまうことにしよう
か。




#544/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:57  (393)
眠れ、そして夢見よ 5−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/07 21:03 修正 第3版
   古代――現代


   一

 高梨様。これまでに分かったことを報告致します。現在、夢見装置で
確認できた倉田氏の夢は四回です。そのうち一回はレム睡眠行動障害の
状態での観察に成功しています。最初の二回は、スフィンクス、ピラミ
ッドの断片的な映像でした。三度目は驚くべきことに、見たはずがない
我々の研究室の夢を見ました。その映像は実に正確であり、なぜ彼がそ
んな夢路をたどることができたのかは謎のままです。
 四度目がレム睡眠行動障害の状態でのものであり、彼は夢の中で古代
エジプト人達と会話をしております。我々は彼にいくつかの質問をする
ことに成功しており、その結果、御見葉蔵氏の時と同様、彼が現在古代
エジプト人になっていることはほぼ確実と思っています。
 今後の研究はさらに期待の大きいものとなる予定です。

 滝田は電子メールの文章をそこまで打って、しばらく考え込んだ。そ
して、ウィンドウの×マークにカーソルを合わせ、マウスをクリックし
た。
 こんな事を高梨医師に報告していいのだろうか、と滝田は思う。学会
で発表していい内容だろうか。
 おそらく一笑に付されるだろう。だが、証拠のデータが揃っている。
高梨が言った通り、医学の世界だけでなく、科学の世界にも大きな波紋
が生じるかもしれない。
 高梨の名誉などというくだらないもののために、どうしてこんな貴重
なデータを渡さなければならないのだろう。
 研究費の援助など断ってしまおうか。そのかわり、何の情報も渡さな
い。おそらくそうはいかないだろう。倉田氏を夢見装置につないでしま
った時点で、すでに後戻りできない状態になっていたのだ。いろいろな
ことを知りすぎてしまった。
 滝田は伸びをした。疲れた。右手で左肩をたたく。
 壁の時計を見るともう十時を過ぎていた。まだ誰か残っているだろう
か。
 ふいに、寂しさを感じる。この下では今も車や人が行き交っているだ
ろう。都会は眠らない。
 部屋を見まわす。本棚には様々な論文やら、本やらがぎっしりと詰ま
っている。楽しむために読むのではない、無味乾燥な資料達。こんなふ
うにふと、自分がいる環境が寂しいと感じることがある。普段は全く気
にしていないのに、何かのはずみに冷静な感覚がゆるんだ時に、長くつ
きあってきたはずの、学術誌や、パソコンや、カーテンが、ひどくよそ
よそしく感じられ、部屋の空気が急に冷たくなったように感じるのだ。
 滝田は立ち上がった。みんな帰っただろうか。倉田氏はどうしただろ
う。所長室を抜け出し、静寂に包まれた廊下を歩く。突き当たりの右手
に、夢見装置のある滝田研究室がある。入り口のドアをみつめる。この
扉もだいぶ古びてきたなと、滝田は思う。
 ドアをゆっくりと開け、中に入る。誰もいない。美智子も青年も今日
は帰ったらしい。明かりがついたままの、誰もいない部屋は、とても不
気味に感じられる。もう十年以上もここにいるのに、この気味悪さだけ
は決して慣れることがない。
 窓の方に行こうとしてモニターの横を通り過ぎた時、なにか、光がう
ごめいているのが目の隅に入った。振り返ると、モニターは例の白と黒
の点がうずまく砂嵐の画面になっていた。


   二

 ディスプレイが何かの像をむすび始める。滝田の胸に研究者の冷静な
感情が戻ってきた。寂しさや不気味さが、心の中から消え去る。だがそ
の冷静な感覚は、すぐさま驚きへと変わった。
 どこだろう? どこかの家のようだ。幸いにして、というべきか、こ
こではないようだ。あきらかに古代エジプトでもない。明かりが灯って
いる。廊下だ。前に見たような風景だ。どこで見たんだろう。現代だろ
うか。それとももっと前だろうか。日本の家屋のように見える。
 滝田はようやく思い出した。倉田家だ。倉田の妻に会いにいった時に
見た、倉田家の廊下だ。倉田恭介は夢の中で、自分の家に戻ってきたの
だ。古代エジプト人として? それとも倉田恭介自身として?
 慌てて窓から倉田氏を見る。眠ったままだ。急いでモニターの前に戻
る。
 夢の中の倉田氏、あるいは謎のエジプト人は、泥棒が盗みに入ったよ
うな感じで廊下を歩いていく。
 倉田氏は、滝田があの時案内された部屋のふすまを開け、中をのぞい
た。室内は真っ暗だ。するともう家族達は寝てしまったのだろうか。滝
田は腕時計を見る。まだ十時二十一分。もっとも、これは現在の倉田家
とは限らないが。
 開けっぱなしにしたまま、そこから離れる。倉田氏は階段の方へ歩い
ていく。
 家族が寝てしまったとすると、廊下の明かりがつけっぱなしなのはお
かしい。倉田氏は階段にたどりついた。真っ暗だ。壁を見て、その明か
りのスイッチをつけた。
 これで合点がいった。廊下の電灯は、倉田氏がつけたのだ。足元を見
ながらゆっくりとのぼっていく。
「あっ」
 滝田は思わず声をもらした。それは、古代エジプト人の褐色の足では
なく、やせ細った青白い裸足の足だった。あれは倉田氏のものだ。前は
古代エジプト人だったのに、なぜいきなり倉田氏自身になるのだ?
 階段をのぼりきるとまたしても廊下があった。倉田氏はその明かりも
つける。かなり大胆な行動だ。倉田氏の夢の中の行為がそのまま現実に
なるとすると、家中の照明をつけて回っていることになる。家族の誰か
が起き出したらどうするのだ?
 左手にある木製のドアを少しだけ開いた。廊下から差し込む光で中の
様子がうっすらと見える。そして大きく開き、入っていく。布団が二つ
敷いてある。倉田氏は二人の人物を交互に見つめる。一人はこの間見た
子供だ。あとの一人はもう少し大きい子だ。たぶんお兄ちゃんだろう。
 しばらくの間、画面は二人の子供の顔を映していた。倉田氏にとって
は久しぶりの再会だ。
 反転し、部屋から出ていく。木のドアをゆっくりと閉める。今度は通
路をはさんで反対側の扉を開けた。中はやはり真っ暗だ。廊下からの光
でかろうじて様子が分かる。倉田氏は室内に入りこんだ。画面がそこに
寝ている人物のアップになる。倉田の妻、芳子だ。
 滝田の頭に、あるアイデアが浮かんだ。実行するには少し勇気がいる
が、声を変えれば大丈夫だろう。携帯電話を持ち倉田の家に行った時に
聞いておいた電話番号をタップする。もしもモニターの情景が現在のそ
れであるならば、うまくいくはずだ。
 風景が反転した。足早に部屋を出る。画面がすごいスピードで動いて
いく。階段へ、そして階下へ。
 うまくいった。電話は一階にあるらしい。倉田氏は台所に飛び込んだ。
廊下から漏れる明かりで薄っすらと情景が分かる。入ってすぐの所にあ
る固定電話の前に立った。
 さすがに、倉田氏が受話器をとってくれることは期待できない。かけ
ている相手は倉田の妻だ。倉田氏はどうしてよいのか分からないという
ふうに、そのまま電話を見つめている。画面が回転し、台所の入り口を
映す。倉田の妻が登場した。眠そうに目をこすりながら、明かりをつけ
る。映像が少し横にずれた。倉田恭介がいた場所に立ち、受話器をとっ
た。彼女には倉田氏の姿が見えていないのか?
「はい、もしもし」
 滝田は鼻をつまんで話し出す。
「あ、奥さん? すみませんが、ちょっとそのまま私の話を聞いてくれ
やせんか」
「あの、もしもし? どなたですか?」
「廊下の電気、ついてたでしょ? 階段も」
「まあ」
 倉田の妻は例の耳障りなきんきん声で驚いた。
「あなたがやったのね? 泥棒!」
「いえいえ、あたしゃ奥さんの家に入ってませんけどね。ちょっと、和
室のふすまも見てきてくれやせんかね。開いてるはずなんですけど」
「ふざけないで! この変態」
「大真面目ですよ。あのちょっと、左を見てくれやせんか」
「えっ」
 彼女がこちらを向いた。そして彼女の前には、彼女の旦那が立ってい
るはずなのだ。
「何か、見えやせんかね。誰か立ってません?」
「何言ってるのよ。気色の悪いこと言わないで。この変態」
 おや? と滝田は思った。モニターの風景が、右に、左に回転し始め
たのだ。辺りを警戒しているらしい。感づかれたかな、と滝田はひやり
とする。
「あ、もうそろそろ切りやすんで。お休みなさい」
「ちょっと、待ちなさいよ」
 携帯を切る。倉田の妻は画面の向こうで何か言っている。だいぶ怒っ
ているらしい。しばらくして、ようやく電話の前から離れた。部屋の電
気が消える。
 一分近くたって、再び台所の明かりがついた。電灯のスイッチが映っ
ている。
 どうする気だろう、と思っていると、電話機の前に戻った。ボタンを
プッシュし始める。しまった。非通知でかけるべきだった。着信音が鳴
る。無視すべきかどうか一瞬迷ったが、ボタンをタップした。背筋の寒
くなるような声がこう言った。
「人の夢をのぞくな」
 モニターが急速に暗くなり、消えた。


   三

「父さん、待ってよ。父さん」
 ビルとビルの間の狭い路地を、父の背が遠ざかっていく。少年の滝田
は、灰色の背広姿の父を追いかける。懸命に走るが、どうしても追いつ
くことができない。父はゆっくりと歩いているのに、たどり着けなかっ
た。父が角を曲がった。滝田も後を追って曲がる。いきなり、父が滝田
の前に立ちはだかった。
「健三、宿題はやったのか」
 滝田は驚くと同時に、後悔の念にさいなまれ始めた。父を追いかける
べきではなかったのか。
「今日は、宿題がなかったんだよ」
 思わず嘘が口をついて出る。
「そうじゃない。お父さんの課題だよ。社会のテストの答案を見て、お
父さんはがっかりした。この間の試験よりも二十点上げることが、お父
さんの宿題だったはずだ」
「父さん、聞いてよ。僕は算数と理科が好きなんだ。社会科は嫌いなん
だよ」
 父は滝田の言葉を無視して、背を向けて再び歩きだした。父は言い訳
を聞かなかった。いつだってそうだった。父は、廃屋となって使われて
いないビルに入っていく。
「父さん、待ってよ。僕の話を聞いてよ」
 絶望感で涙があふれそうになる。いくら懸命に走っても、父はどんど
ん遠ざかっていくばかりだ。
 建物に飛び込んだ時、父は地下へ通じる階段を下りていく所だった。
「父さん、だめだ! その階段を下りると、体がちっちゃくなっちゃう
よ!」
 滝田は下り口に立つ。下へいくほどすぼまっている。壁も、天井も、
縦横の比率は同じまま、徐々に狭まっているのだ。父はすでに、人形く
らいの大きさになっていた。慌てて駆け下りる。滝田の体も、一段踏む
たびに小さくなっているに違いない。
 出口から出ると、そこはまたしても、ビルが立ち並ぶ間にある狭い路
地だった。だが元いた場所よりも全てが小さい世界であるはずだ。
 父がいない。どこだ。見まわすが、どっちに行ったのか分からなかっ
た。あてずっぽうに駆け出す。
「父さん!」走りすぎて、息が苦しい。「父さん!」
 父が、古ぼけた時計屋に入っていくのが目に入った。
「待って! 父さん!」
 時計屋の扉が開かない。取っ手を握って懸命にゆするといきなり大き
な音をたてて開いた。中に駈け込む。チクタク、チクタク。
 こげ茶色の鳩時計、金色の置時計、いろいろな時計が、てんで勝手に
時を刻み、その音が混ざって耳に入りこんでくる。
 店の主人が、椅子に座って新聞を広げている。
「ねえ、おじさん、父さんが来なかった?」
「知らんな。わしはお前の父親がどんな人なのか見たこともない」
「灰色の背広を着た人だよ。背の高い人だよ」
「ああ、その人ならそこの階段を下りていったよ」
 また階段か。滝田は走り出す。思った通り、下にいくほど狭くなって
いた。小さくなった父が下りていく。
「父さん! 行っちゃだめだ!」
 後を追いかける。疲れた。もう走れない。出口が外につながっている。
滝田はよろめきながら歩み出た。そこは地下のはずなのに、またしても
ビルとビルの間の路地だった。いったい何度繰り返せばいいのだろう。
こうしてだんだんと、小さな、小さな世界に入りこみ、最後には点にな
ってしまうのだろうか。
 ひざをさする。父がいない。嫌がる足を無理やりひきずって、再び駆
け出す。
 ふいに、背筋に冷たいものが走った。何者かの気配を感じる。上の方
だ。滝田はおそるおそる空を見上げる。黒雲がおおっていて薄暗い。そ
の雲の隙間から、いつの間に現れたのか、巨大な目が滝田を見下ろして
いるのだった。まつ毛の上にある小さなほくろから、誰なのかすぐに分
かった。父だ。父は、滝田を置いてきぼりにして、自分だけ元の世界に
戻ってしまったのだろうか。そして、この箱庭のような世界をのぞきこ
んでいるのだろうか。その目だけの巨大な父は、威厳ある低い声で言っ
た。
「健三、宿題をやれ」

 わあっ、という自分の声に驚いて、滝田は目を覚ました。
 また悪夢を見てしまった。
 父は、いわゆるエリートだった。いい高校を出て、いい大学を出て、
大学院の博士課程まで行って、一流商社に入った。古いタイプの猛烈社
員だった。土日も家にいないことが多かった。厳しく、恐ろしい父であ
ったという記憶しかない。滝田に、テストで悪い点をとることを決して
許さなかった。
 その父は、滝田が大学生の頃に、ある日突然階段から足をすべらせて
死んでしまった。後頭部強打、即死だったという。
 母は事故だと言ったが、葬式の席で、親戚の人達はささやいていた。
あれは過労死だよ、と。
 記憶の底に沈みこんでしまったと思っていたのに、しっかりと潜在意
識に根をはっていたのだろうか。
 滝田はウイスキーを飲むために、ベッドから抜け出した。


   四

「つまり、今度は倉田さん自身になったって言うんですか?」
 滝田が昨日の話をした時、美智子は目を丸くした。
「ああ、おかげで悪い夢を見てしまったよ」
「しかも倉田さんの夢がテレビ電話になっただなんて」
 青年も驚きの声をあげる。
「記録は残っている。電話の内容も、ちゃんと録音してある」
「倉田さんの家に連絡して、事情を説明した方がいいんじゃないかしら」
「何て言うんだい? 倉田さんが夢の中で古代エジプト人になっている
ことさえ、まだ奥さんには教えてないんだよ。ここで何が起こっている
か教えたら、パニックに陥るだろうね」
 聞きたいことは、山ほどある。倉田氏にも、倉田氏の妻にも、和田幸
福研究所の和田氏にも。しかしそれが聞けないから、もどかしいのだ。
「倉田さんは前にも現代に現れていますよね」と美智子は言った。「あの
時も、倉田さん自身として現れたんじゃないかしら」
 それは滝田も考えたことだ。当然、そういうふうに連想が働く。スパ
ナを振り上げた手は細く青白かった。しかし滝田は、彼女の意見が聞き
たくて、言った。
「どういうことだい?」
「倉田さんはずっとエジプト人で、昨日初めて倉田さん自身になったの
ではなくて、ある時はエジプト人、ある時は自分自身になっているんで
す」
「すると、今までの秩序がくずれるわけだ。順々に過去にさかのぼって
いたのに、今は過去に行ったり、現在に来たり、自由自在に行き来でき
るようになったわけだ」
 それは、昨日から今日にかけて滝田がずっと自問自答してきたことだ
った。だが、答が出ない。美智子なら、何か目新しいことを考えついて
くれるかもしれない。
「それは違います。倉田さんがどうして、順々に過去にさかのぼったっ
て言えるんでしょう。エジプト人よりもインド人の方が過去かもしれま
せんよ。そもそも、倉田さんが前世の記憶をたどって過去に行ったって
いう先生の考えにも、私は賛成できません」
「なるほど。前世案ははずれというわけだ。それじゃ常盤君は、どうし
て倉田さんが自由にいろんな時代に行けるようになったと思うんだい?」
「そんなの分かるわけがありません。今回の現象は分からないことだら
けなんです。現代医学では考えられない睡眠障害も、倉田さんが御見葉
蔵氏にとりつかれたようになったのも、古代エジプトもモニターが割ら
れたのも、すべて人間の理解を超えているんです。私達がちょっとやそ
っと考えたくらいで、分かるわけがありません」
 やれやれ、いつものように非難するだけか。滝田はがっかりした。
 保守的だと滝田は思う。神のみぞ知る。全ては人間に分かるわけのな
いこと、では科学など発展するわけがない。不可知な事象を必死に分か
ろうと努力してきたからこそ、今の科学があるのだ。
 意外にも新しい考えを提示したのは藤崎青年だった。
「ひょっとして、古代エジプトにタイムマシンがあったりして」
 青年は照れて笑った。
「どういうこと?」
 滝田は青年に向かって顔を突き出した。
「あ、いえ、先生の前世案が正しいとして、古代エジプト人となった倉
田さんは、古代エジプトでタイムマシンを見つけたんです。あくまで仮
定ですよ。それで現在にも現れるようになった……なんて」
「馬鹿げてるわ」美智子の顔にありありと軽蔑の色が浮かんだ。「そのタ
イムマシンは誰が作ったの? まさか宇宙人が持ってきた、なんて言わ
ないでしょうね」
「いや、すみません。僕は真面目に言ったつもりじゃ……」
「倉田さんはどうしてギザやサッカラなんていう、古代エジプトでは重
要な場所にいるんだろうね」と、滝田は言った。「宇宙人だか未来人だか
知らないが、彼らはタイムマシンで古代エジプトに行った。そして、ギ
ザかサッカラのピラミッドのどれかにタイムマシンを隠した。それを見
つけた古代エジプト人は、自由に時を越えることができるのを知ったん
だ。古代人は恐れおののき、以来ギザ、サッカラの辺りは聖地になった。
倉田氏はたまたまそのタイムマシンを見つけ、現代にも来れるようにな
った。そんな可能性が、百パーセント絶対にないとは、言いきれないと
思うがね」
「よくもまあ次から次へと、変なことを考えつきますね」
 美智子の眉がつり上がる。
「ピラミッドは必ずしも、王のお墓だったとは限らないそうじゃないか。
常盤君から借りた本に書いてあったんだけど」滝田は口をへの字に曲げ
た。「ギザの第一ピラミッドには、他のピラミッドと違って玄室が地下で
はなく、地上五十メートルくらいの所にあるそうじゃないか。案外そこ
が、実はタイムマシンだったりしてね」
「馬鹿馬鹿しい。知りませんわ」
 美智子はそっぽを向いた。
 だが残念ながら、青年のタイムマシン案は却下になりそうだ。それだ
と、現代に現れた時の痩せ細った手が説明できない。その時には倉田氏
自身になっているのだ。謎の古代エジプト人がタイムマシンを見つけた
のなら、夢見装置に映る手も褐色でなければならない。
「僕の考えを言おうか。藤崎君の考えと似たようなもんだから、怒らな
いでくれよ。倉田さんは記憶をたどって前世にさかのぼったが、古代エ
ジプトくらいに昔になると、記憶もかなりあいまいだ。だから完全に古
代エジプト人になりきれずに、時々倉田氏自身に戻ってしまうんだ。こ
れだと謎の古代エジプト人が、自分は誰で、どこの人間かも分からない
ことも説明がつく」
「御見さんは実在の人間なのに、まるでエジプト人は倉田さんの夢が作
り出した架空の人物のような言い方ですね」
 そうかもしれない。エジプト人の方は実際に存在したその人とは違う
偽者なのかもしれない。待てよ? すると倉田氏が死ぬとエジプト人も
消えてなくなるのか?
「あともう二つ、今回の夢には謎があるんだ。一つは、謎の古代エジプ
ト人の時には周りの人間には彼が見えていたのに、倉田氏の時には奥さ
んからは彼が見えていなかったことだ」
「幽霊じゃないんですか? ほら、幽霊だと姿が見えるのと、見えない
のがいるじゃないですか」
 美智子は皮肉で言ったのだろうが、滝田はさも感心したような顔をし
てみせた。
「なるほど。夢の中の倉田氏は、言ってみれば幽霊みたいな存在だ。自
由に姿を現したり、消したりできる能力があるのかもしれないね」
 美智子のかわいらしいくちびるがゆがんだ。
「もう一つは、『人の夢をのぞくな』という文句だよ。倉田さんは、夢見
装置で我々が彼の夢をのぞき見していることを知っている」
「そうよ。倉田さんは怒っているんだわ。だって、これはプライバシー
の侵害ですもの。モニターを壊したのも、そのせいだわ」
「どうしよう。倉田さんを怒らせてしまった」
 滝田は狼狽した。滝田の心中を察したかのように、美智子が言う。
「彼、今度現れたら、夢見装置を壊してしまうかもしれませんよ。モニ
ターだけでなく、全部」
「大変だ。なんとかなだめないと」
「古代エジプト人やインド人はなだめなくていいんですか?」と藤崎青
年が聞く。
「三人は別人だろう。共通の認識を持っているわけじゃない。エジプト
人はモニターが壊されたことを知らなかったようじゃないか」
 青年は腑に落ちない顔をしている。確かに、別の人物とは言っても一
つの脳で起こっていることだ。
「どうやってなだめます? 夢見装置は彼の視覚情報を得る能力しかあ
りませんわ。彼が何て言ってるのか聞くこともできない。こちらの話を
聞いてもらうこともできない」
「できないことはないさ。彼が彼自身としてレム睡眠行動障害の状態に
なった時がチャンスだ」
「今のところ、御見氏や、インド人や、古代エジプト人の時にはあった
けど、彼自身としてレム睡眠行動障害の状態になったことはないんです
よ」
「入院前にはあったよ。しかし、眠ったままでも話せる方法がある。あ
れだよ」
 滝田は研究室の隅の電話を指差した。
「あれに張り紙をしておくのさ。『どうかこの電話をとって下さい』って
ね。で、携帯でかけて話す」
 なかなかいいアイデアだと思ったのだが、美智子は納得していないよ
うだ。
「だったら電話なんかいらないんじゃありません? 電話で彼の声が聞
こえるのなら、この場で倉田さんがしゃべれば、みんなに聞こえるんじ
ゃありません?」
 姿は現さないのに声だけ発するというのはなんだか変だ。
「この場と言っても、夢の中のこの部屋だよ。現実世界とつながってい
ない。倉田さんが夢の中でしゃべっても、それを聞くことができるわけ
がない」
「それじゃあ、電話だとどうして話せるんですか」
「倉田さんが夢の中の現象を、現実の事象として実現できるからさ。彼
が夢の中の電話で話すと、実物の電話機にもその声が伝わると考えられ
ないかね?」
 また、こじつけだわと怒られるかと思ったが、美智子はあきれたのか
反論しなかった。
「あともう一つ、謎がありますわ」
「なんだい?」
「倉田さんが日本語で話すことです。どうして古代エジプト語や、イン
ド語じゃないのかしら」
「夢の中のエジプト人は古代エジプト語でしゃべった。しかし僕達が声
を聞いたのは倉田さんの口からだ。英語は少しくらい習ってるだろうが、
たぶん日本語しか知らないと思うよ」
 美智子はうなずいたが、納得していないことは明らかだ。
「では、こちらの言葉がエジプト人に伝わるのはなぜなんですか?」
「うーん」これは難しい。「倉田さんはイタコのような状態になってるん
じゃないか? 昔ある番組でアメリカの女優さんの口寄せを行った時、
彼女の霊は下北弁で会話に応じたというのを聞いたことがあるよ」
 美智子は苦虫を噛み潰したような顔をした。全て滝田の仮説にすぎな
い。
 滝田は思いついて付け足した。
「張り紙だが、ここの電話番号も書いておいた方がいいな。倉田さんか
らかけてくる場合もあり得る」




#545/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:59  (322)
眠れ、そして夢見よ 5−2   時 貴斗
★内容                                         19/04/05 00:56 修正 第2版
   五

 藤崎青年に呼ばれて滝田が研究室に駆け込んだのは、二日後、午後八
時十七分のことだった。
 渦巻き流れるモニターの砂嵐が徐々にその勢いを弱めて像を形作り始
めた。
「どこかしら。林のようだけど」
「倉田さんの手か足が映ってない?」
 滝田は美智子と青年の後ろからモニターをのぞきこんだ。鬱蒼とした
林の中、もやが幽鬼のように漂っている。木々の間から薄暗い太陽がの
ぞき、木や草達に栄養分を与えている。倉田氏は林の中を歩いていく。
音は聞こえなくても倉田氏が草をかき分け、踏むのが伝わってくる。
 木々の間を抜けていくと突然視野が開け、モニター画面に幅の広い河
が映し出された。
 倉田氏は河川に沿って下流の方へと歩いていく。のんびりと河をなが
めながら散歩を楽しんでいるのだろうか。
 そんなふうにしてしばらく歩いていると、徐々に流れが速くなってき
た。おや、と滝田は思う。急流の中央部に何かが見える。最初、それは
石か何かに見えた。だが、動いていて浮き沈みを繰り返している。倉田
氏も気を引かれたらしく見つめている。
 その石のようなものの左横から、何かが現れて沈んだ。もう一度水面
から顔を出し、周りに水しぶきをたてた時、滝田はそれが何であるかが
かろうじて分かった。人間の手だ。大人のものではない。子供の腕だ。
滝田は心臓が締め付けられるのを感じた。おそらく美智子も同じ感触を
味わったに違いない。
「ちょっと、あれ、子供がおぼれてるんじゃないの?」
 倉田氏も同じことを考えているだろう。ただひたすら、その方を見つ
めている。水面から子供が顔を出した。苦しそうに目を閉じている。一
旦水面下に沈み、再び水しぶきとともに浮き上がった。そのほりの深い
顔立ちは日本人のように思えない。今までの経緯から考えると、古代エ
ジプト人だ。
「助けなくていいんですか」
 青年が緊張を含んだ声をもらす。
「助けるって、どうやって? 倉田さんがその気にならなければ救えな
いわ」
 滝田は、青年と美智子が驚くようなことを言った。
「いや、ひょっとすると助けない方がいいのかもしれないぞ」
 振り向いて滝田をにらみつけたのは美智子だ。
「何言ってるんです! どうして助けない方がいいんですか!」
「いいかい? あの子供は、名も無い農村の名も無い人間かもしれない。
しかし将来歴史に名を残すようなファラオになるのかもしれない。ある
いはヒトラーのような残忍な人間になるかもしれない。あの子供を救う
ことで、歴史が変わってしまう可能性がある」
「そんな!」
「倉田氏は元々この歴史の流れの中にいなかった人間かもしれない。こ
の映像が、倉田氏の前世の記憶がそのまま映っているのでなければね。
つまりこの人物が倉田氏の夢が作り出した存在だということだが。しか
し、倉田氏は夢の中で行った通りに現実を変えてしまうことができるよ
うだ。彼が歴史の流れにタッチすることは危険だ」
「それじゃあ先生は、あの子供がどうなってもいいんですか! 逆にあ
の子を助けることこそ、正しい歴史の流れなのかもしれないじゃないで
すか!」
 倉田氏はそんな二人の議論をよそに急流に近づいていく。河との長い
にらみ合いが続く。
 突如、モニターの風景が水の上を飛んだ。数秒真っ暗になり、次の瞬
間画面は大量のあぶくに覆われた。大小さまざまの泡が押し寄せてくる。
 顔を水上に出したらしく、今度は大量の水しぶきがディスプレイをお
おいつくし、そのすきまから対岸の土が見えた。映像は水の中に入った
り出たりを繰り返した。子供がだんだんと近づいてくる。
 ついに少年にたどりついた。その顔が画面一杯に映し出される。回転
して後頭部へ、そして頭のてっぺんへと変わっていく。子供を抱きかか
える筋肉質の胸と腕が浮き沈みを繰り返す。水に濡れるそれらは褐色の
肌であった。
 子供を抱えたまま立ち泳ぎで岸へと近づいていく。滝田達が手に汗に
ぎる中、ようやくたどりついた。土の上に少年を寝かした。やはり日本
人ではないようだ。胸をリズミカルに押し始めたところで画面が暗くな
ってきた。
「ああ、いいところなのに」と青年がささやく。
 夢が終わる瞬間、なんとか子供が水を吐き出し、意識が回復するのを
見ることができた。
「終わった」
 滝田がつぶやく。
「あの子は助かったんだわ」
 美智子は、はしゃいだ声を出した。
「何か、変わったか」
 滝田は周りを見回した。
「え?」
「子供を救助する前と後とで変わったことはないか」
「そんな。本気で言ってるんですか。あの子を救ったからと言って私達
の身の周りに変化が起こるわけがありませんわ」
 滝田は美智子に説明する気にもなれなかった。彼女を説得するのは骨
が折れる。たしかに、我々の日常は古代エジプトとはなんら関係のない
ささやかなものだ。しかし、あの少年がエジソンの遠い遠い祖先ではな
いと、どうして言えるだろう。子供を助ける以前はエジソンなる人物は
存在しなかったのかもしれない。救ったその瞬間に、かの発明王が存在
する歴史の流れに、切り替わったのかもしれない。しかし滝田達にとっ
ては幼い頃からエジソンという偉大な人物が実在したはずだ。だが、本
当はそうではなかったのかもしれない。たった今、そういうふうに全て
が塗り替えられてしまったのかもしれない。
 風が吹けば桶屋がもうかる、という論理で、少年の命が救われた結果
第二次世界大戦が起こったのではないと、どうして言えるだろう。彼が
生き残った結果広島と長崎に原爆が落とされたのではないと、どうして
言えるだろう。
 そう考えると、滝田は素直に喜ぶことができなかった。


   六

 アタックザックを背負って、藤崎青年は緩やかな斜面を登っていく。
すでにシャツには汗が大量にしみこんでいる。これぐらいの低い山なら、
デイパックでも構わないのだが、青年はこのザックの方が好きだ。天気
は良く、太陽がよく照っている。予報は晴れ時々曇りで、雨の心配はな
さそうだ。
 空気がうまいと、青年は思う。細い山道の両側には青々しい草がよく
茂っている。久しぶりの登山だ。青年の休日は月火だ。せっかくの休み
なのだから、おおいに活用しなければ。
 都心から電車で一時間程度行ったところに、こんな絶好の登山コース
がある。標高が八百メートル程なので本格的な山登りを満喫するには物
足りないが、日帰りで楽しむ分には十分だろう。青年は気分をリフレッ
シュするためにここに来ることが多かった。だから慣れた山だ。滝田や
美智子も来れば、さぞかし普段の気難しさが晴れてさわやかな気分にな
るだろうに。一緒に行きませんかなどと誘ってはみたものの、よくよく
考えると都合が合わない。年末年始くらいか。いや、滝田は正月も働い
ているだろう。
 登山の良さは経験した者でなければ分からない。肺にたまった、排気
ガスや煙草のけむりにまみれた都会の空気をはき出し、新鮮な酸素を吸
いこむ。体中の血液がきれいになっていくのを感じる。
 そろそろ休憩したいなと、青年は思う。少し斜面が急になって、道が
うねって登りづらかったが、そこを越えると平らになった所に出た。葉
をたわわにつけた一本の木があって、その木陰に、腰かけるのにちょう
どいい岩がある。青年は座って少し早い昼飯を食べることにした。
 帽子をぬぐと、汗ですっかり濡れていた。ザックのポケットから手ぬ
ぐいを引っ張り出し、顔をぬぐう。弁当箱を取り出して開ける。早朝に
起き出して握ったおにぎりが顔を出す。水筒からふたにウーロン茶を注
ぎ、一気に飲み干す。もう一杯注ぎ、おにぎりのうちのシャケが入った
やつをほおばる。疲れた体にエネルギーが戻ってくる。
 ふと見ると、つばの広い帽子をかぶったおじいさんが登ってくるのが
見えた。老人は彼のそばまで来ると軽く会釈をした。
「いいお天気ですなあ」
 おじいさんはのんびりとした口調で言った。
「ええ、全くですね」
 青年は体を横にずらした。だが老人は座る気はないようだ。
「しかしお気をつけになった方がいい。もうすぐ雨が降りますよ」
「え? こんなにいい天気なのに」
 青年は空をふり仰いだ。多少の雲はあるものの、太陽は明るく照り、
降りだしそうな気配はない。
「今日は泊まりの予定ですか?」
「いえ、日帰りですが」
「泊まりになさった方がいい。土砂降りになりますよ。もうあと三十分
も歩いた所に、山小屋がありますんでな」
 その山荘なら青年も知っている。じゃあこれで、と言って去っていく
老人に、青年は礼を言った。見ると、彼はすごい早さで歩いていく。コ
テージまでは青年の足で一時間はかかる。
 おにぎりを食べ終わり、立ち上がった途端に暗雲がたちこめ始め、た
ちまちたたきつけるような雨が降り注いできた。老人の言った通りにな
った。この辺に詳しいのだろうか。ザックから折り畳み傘を出して差す
が、すぐにそんなものではどうしようもない程の土砂降りとなった。合
羽を出して羽織る。
 徐々に歩くペースを上げていくが、道が急速にぬかるんでくる。濁っ
た水流ができ、青年の歩みを邪魔する。
 ようやく山荘に着いた頃には二時間もたっていた。
 丸太を組んで造ったログハウス風の建物は完全に雨に包まれ、屋根か
ら滝のような水が流れ落ちている。
 玄関に立ち、呼び鈴を押し、レインコートをぬいでいると、主人が顔
を出した。
「いらっしゃい」
「すみません。またお世話になります」
「ああ、藤崎さん、久しぶり」
 背の曲がった、頭の両側にわずかに白髪を残したおじいさんである。
さっき道で会った老人よりもさらに歳をとっている。
「藤崎さん、藤崎さんね」と言いながら、主人はいったん奥にひっこみ、
そして宿帳とボールペンを持ってきた。
「部屋、空いてます?」
 一階に二部屋と食堂があり、二階は大きな二枚の屋根に挟まれたよう
な構造なので狭く、やはり二部屋しかない。
 一階のうちの一つは主人の個室である。
「ええ、ええ。もちろん。こんな小さいコテージに土砂降りの中やって
くる人はそういません。藤崎さんの他はあとお一方だけですよ」
「僕も日帰りのつもりだったんですけどね。まさか急にこんな大雨にな
るとは思っていなかったもんですから」
 二階の一室にもう一人の客が泊まっているという。青年は上階の空い
ている部屋に泊めてもらうことにして階段をのぼった。
 室内に入り、ザックをおろす。肩が痛い。もみほぐしながらベッドの
上に腰をおろす。首を後ろにねじ向け、窓にたたきつける雨をみつめた。
これからどうしようか。
 日帰りのつもりでいたから、火曜日を選んだが、失敗だった。用心し
て月曜日に来れば良かった。明日は午後から出勤すると研究所に断って
おかなければならない。いや、この分だと休みになりそうだ。
 携帯は持ってきていなかった。我ながらのんきなものだ。後で食堂の
電話を使わせてもらうことにしよう。
 テレビもない部屋で、本もなく、ぼんやりと雨をながめる。晴れてい
れば、その辺を散歩すれば結構見晴らしが良いのだが、そうもいかない。
濡れた上着とズボンをぬぎ捨て、洋服ダンスにつるし、ベッドに寝転が
ると一気に疲れが出て、体をふくことも忘れて眠りこんだ。
 どのくらい経っただろうか。ドアをたたく音で目が覚めた。
「お食事の用意ができましたよ」
 扉の外で主人の声がした。すっかり暗くなっていた。雨音はすでに消
えていた。
「はい。すぐ行きます」
 青年はかけ布団の上に寝てしまったのですっかり体が冷えきってしま
っていた。ふるえながらアタックザックから替えの服を出して着る。腹
が減った。急いで一階へと下りていく。
 ダイニングに行くと、すでにもう一人の客が来ていて、料理を並べる
主人と話しこんでいた。食堂とは言ってもテーブルが一つに数脚の椅子
が並んでいるだけという質素なものだ。青年の足音が耳に入ったせいか、
その客が振り返った。
「あっ、先ほどの」
 青年は驚いた。それは、昼間出会ったあの老人だった。
「おや、お隣にお客さんが来たというので、もしやと思ったのですが、
やはりあなたでしたか」
 青年は主人にうながされるままに老人の向かい側に座った。主人は食
事の席には加わらず、「皿はそのままにしといてくれればええんで」と言
って自室に引っ込んでしまった。
 二人だけのわびしい食事が始まった。テーブルの上ではシチューとチ
キンがいい匂いをたてている。
「地元の方ですか」と青年は聞いた。
「ええ。ふもとに住んでいるんですよ」
「やっぱり。いや先ほどは、言われた通り大雨になったものですから」
「ああ、山の近所に住んでいれば分かります。雨が近づくと、においで
分かるんですよ」
 青年にはピンと来なかった。そういう雰囲気を敏感に感じとることが
できるのかもしれない。
「はあ。そういうもんですか」
 老人はシチューを一口すすって、青年に聞いた。
「この山はよく登られるんで?」
「ええ。僕は山登りが趣味なんです。仕事の合間に登ると、ストレスが
とれてすっきりします」
「仕事は何をやっとるんですか」
 青年は躊躇した。自分の職業を人に言うと、たいてい珍しがられる。
「ええ、まあ、眠りの研究をやっています。夢の研究です」
 老人の目に好奇の色が浮かぶ。
「夢の? そりゃまた珍しいお仕事ですな」
「ええ。どんな動物は夢を見て、どんな動物は見ないか、ですとか、睡
眠障害と夢の関係ですとか、そういった研究です」
 老人はコップの水を一気に飲み干した。水差しからもう一杯つぎ足す。
「実を言いますとな、昨日の夜、雨の夢を見たんですよ。場所はこの山
だったのか、全然別の草原かどこかだったのか、よく覚えておりません
が、土砂降りの夢を見たんですよ。それで今日、天気が悪くなることが
分かったんですよ」
「と言いますと、どういうことです?」
 青年は眉をひそめた。
「わたしゃよく正夢を見るんですよ」老人はいたって真面目にそう言っ
た。「小さい頃火事の夢を見ましてな。あんまり本物らしかったから、わ
んわん泣きましてな。そしたら近所で本当に火事がありましたよ。火が
移れば私の家も焼けるところでした。高校生の頃、もう一度火災の夢を
見ましてな。見たことのある家だったから、そこのご主人にわざわざ知
らせに行ったんですよ。まったくとりあってもらえませんでしたが、本
当に台所から火が出て、慌てて消し止めたそうです。私の警告があった
から早急に対処できたんだって、感謝されましたよ」
「本当ですか」
「誰も信じちゃくれません。でも、まだまだあります。車とトラックが
衝突する夢を見たんですよ。次の日ある交差点で信号待ちをしてて、ど
っかで見たことがあるなと思ったら、夢で見た場所なんですよ。そして
その通り、直進する車に右折しようとするトラックがぶつかったんです
よ。そんなのが他にもたくさんあります。あなたに分析してもらえると
うれしいんですがな」
 どうも青年をからかっているようには思えない。実際、老人が言った
通り大雨が降っている。しかし、青年は予知夢の実例をまだ見たことが
なかった。
「数ある正夢の中でももっとも恐ろしかったのは」老人は自分の顔に指
を向けた。「私自身が死んでしまう夢です。私は、病院のベッドの上で苦
しげにうめいています。周りにいるのは医者と看護師だけ。私は急に静
かになります。医者は私のまぶたを開き、首を横にふります。家族の誰
も看取らぬまま、死んでしまうんです」
「良かったですね。その予知夢は当たらなかったようです」
「いえいえ、あれは将来起こる事です。夢の中の私は今よりもっと老け
ています。家族は私によくしてくれます。でも死ぬ時はあんなふうにな
るんじゃないかと。そう思うと怖くてたまらんのですよ。もう三回も見
ています」
 青年は老人を安心させてあげたいと思った。
「人の脳は偽の記憶を作ることがあります。あなたの場合も交通事故が
あった後になって、そういえばそんな夢を見たと、脳が勝手に思い込ん
でいるだけかもしれません。天気くらいだったら勘でもある程度当たる
わけですし。今日の雨にしたって、あなたが言った、雨のにおいって言
うんですか? やはりそっちの方で分かったんじゃないでしょうかね。
大丈夫ですよ。死んだりしません」
「そういうもんですかねえ。だといいんだが」
「ええ。予知夢なんてそうそうあるもんじゃありませんよ」
 老人は安心してくれたのか、微笑んだ。しかし、だとすると火事を予
知してその家の主人に告げたことは、どう説明すればよいのだろうと青
年は思い、不安になるのだった。


   七

「あれ? 藤崎君は休み?」と滝田は言った。
「ええ。昨日雨でしたでしょう? 山の方では大雨だったんですって。
それで足止めをくったそうです」
「ああ、そういえば山登りに行くって言ってたな。常盤君はどっか行か
ないの?」
「私アウトドアは嫌いなんです」
「へえ。体に悪いよ。お肌にも良くないよ」
 美智子はキーボードを打つ手を休める。
「あら、日光を浴びると、かえって肌の老化を早めるんですよ。太陽は
有害なだけです」
 日の光を受けた方が、健康のような気がするけどなあ、と滝田は思う。
しかし美智子には反論しなかった。紫外線がどうのこうのと言い出すに
決まっている。
 滝田は黙って研究室を立ち去った。所長室に戻り、ゆっくりと椅子に
座る。机の上にはアメリカの睡眠障害研究連合や睡眠精神生理センター
から取り寄せた資料が大量に積んである。読みきれないうちにどんどん
新しいのが届くのは喜ぶべきことなのだろうか。
 滝田はその中から一番上のやつをつまみ上げた。英文がずらずら並ん
でいるのを見ていると嫌気がさす。こういうのも全部電子メールにすれ
ばよいのだ、と滝田は思う。そうすれば翻訳用アプリケーションで日本
語に訳すことができる。もっとも、そういった類のソフトウェアは未だ
に誤訳が多いから、結局は元の英文と見比べながら読むことになるのだ
が。
 資料を元の場所に放り、パソコンに向かい、メールが届いていないか
チェックする。
 高梨医師から一通来ていた。さっそくクリックする。内容はごく短い
ものであった。「滝田殿、倉田氏の件、状況はどうですか」という、たっ
たそれだけのものであった。しかし、その一文は滝田の心にずっしりと
のしかかってくるのだった。
 返事をしなければ。報告に期限が決められているわけではないが、途
中状況を知らせなければなるまい。スフィンクスとジェセル王のピラミ
ッドの夢のことだけ報告するか。それならば無難だ。しかしそれだけで
も、倉田氏が古代エジプト人になったという確証が得られたと言って、
大騒ぎするかもしれない。
 もうそろそろ倉田氏を返すべきなのだろうか、と滝田は考える。事実
を知りたいという研究者としての欲求と、現実というしがらみとの間で、
うまく折り合いをつけなければならない。第一、滝田の研究所にいる間
に倉田氏の病状が悪化したりしたら、責任がとれない。
 最小限のことだけ教えたとしても、高梨はすっかり喜んで、もっと研
究を続けるよう要求してくるだろう。高梨のあやつり人形になるのはご
めんだ。
 調査を長引かせるのは得策ではない。こんなに長い間調べておきなが
ら、二つしか夢が見られなかったのか、ということにもなりかねない。
やはり、倉田氏にはもうそろそろ病院に戻ってもらった方がいいように
思える。
 しかし滝田は、その日の夜、倉田氏の夢の調査は続行すべきだと考え
を変えた。倉田氏がまた研究室に現れたのだ。




#546/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:01  (163)
眠れ、そして夢見よ 5−3   時 貴斗
★内容                                         19/04/05 00:58 修正 第2版
   八

「先生、来てください!」
 所長室の扉が勢いよく開き、美智子が真っ青な顔をして飛び込んでき
た。
「ん? どうしたの? まさか倉田さんが夢を見て、研究室に現れたな
んて言わないだろうね」
「その通りなんです!」
 滝田は慌てて立ち上がった。美智子はすでに振り向いて走り出してい
た。
「手は? 足は? どんな色だった?」
 美智子を追いかけて廊下を走りながら尋ねる。
「まだ手も足も映っていませんが、倉田さんに違いありません」
「倉田さんは起きてるの? 寝てるの?」
「寝てます」
 美智子に続いて部屋に飛び込む。彼女が道をあけたので、そのままモ
ニターの前まで走った。
 そして、その映像を見た時、背筋を氷でなでられるような感覚を味わ
った。
「ほら、いるでしょ。私達」
 美智子は凍りついた声で言った。
 倉田氏が室内を見回している。その中に、棒のように突っ立ってモニ
ターを見つめている滝田と美智子の姿があった。ということは、姿は見
えないものの、彼は現在この研究室の中にいるのだ。画面から推測する
と、彼は入り口の近くにいるようだ。
 倉田氏は眼球運動をとらえるモニターの前に移動した。白い十字マー
クが右に行ったり左に行ったりしている。
 滝田は体をねじった。実物の眼球運動監視用モニターの十字も、同じ
ように動いている。
「倉田さん、そこにいるんですか」
 無駄だと知りながら彼が立っているであろう方向に問いかける。彼は
何の反応も示さない。
 滝田はマイクのスイッチをいれた。
「倉田さん、聞こえますか」
 これまた、無駄なことだった。枕元で倉田氏に呼びかけるなんていう
試みは、何度もやってみた。
 倉田氏は十字マークを眼で追うことに飽きたらしい。視線がそのモニ
ターから離れ、再び室内をただよいだす。
 夢見用ディスプレイの側面で止まる。そのまま注視している。この間
のより小さくなったな、とでも思っているのだろうか。映像がゆっくり
と移動していく。モニターの前で立ち止まった。倉田氏と滝田が重なっ
た。恐ろしさのあまり思わず滝田は飛びのいた。
 この間と同じようにモニターの中にモニターが延々と並ぶ異常な画面
が映し出された。だが今度は、そのディスプレイの列が静かに左に動い
た。まるで奥に行くほどすぼまっている四角錐があって、その頂点をつ
まんで動かしているかのようだ。倉田氏が視線を右に動かせば、当然モ
ニター達は左に動いていく。そして今度は右に動いた。さらに上に、下
にと、倉田氏はこの奇妙な映像を楽しんでいるようだ。
 やがてそれにも飽きたらしく、見る方向が変わり始めた。ゆっくりと
回転していく。斜め後ろから画面を見ている美智子の姿を映した。
「やだ、こっちに来るわ」
「落ちついて。下手に彼を刺激しないように」
 美智子の顔がアップになった。目と鼻の先に、倉田氏がいるはずなの
だ。モニターの中の彼女の顔がわずかにふるえだし、額に一滴の冷や汗
が流れた。
 さらに彼女に近づいていく。どうするつもりだろう。キスでもするの
だろうか。
 美智子は毅然として腕を組んだまま立っていたが、ついに耐え切れな
くなったらしく、横に飛びのいた。
「きゃっ」
 配線に足をひっかけて転んだ。床にくずれた彼女を映す映像が小刻み
に、上下にゆれた。倉田氏は彼女をせせら笑っているのだ。
 反転し、画面を見つめる滝田を映した。滝田の体中に緊張が走り、石
のように硬くなった。映像が滝田に近づいてくるにつれて、滝田の額に
も冷や汗が流れた。
 もう滝田のすぐそばだ。滝田は彼の方に向き直った。硬い笑みを浮か
べ、左手で拳を作って耳の下にあてがった。右手の人さし指を空中につ
き出し、いくつかのボタンを押す仕草をした。そして部屋のすみにある
電話を手の平で示した。画面が素直にそっちの方に動いていく。
 ライトグリーンの電話機に、「どうかこの電話をとって下さい」という
間の抜けた文句が書かれた紙が貼ってある。滝田はすかさず携帯を胸ポ
ケットから取り出し、かけた。呼び出し音が鳴る。モニターの中で、倉
田氏の青白い腕が伸びて受話器をとった。実物の電話機の受話器が宙に
浮いているのを見て、滝田の全身に鳥肌が立った。
 おそるおそる、声をかける。
「倉田さん、聞こえますか」
「……」
 返事がない。滝田は自分ののどが鳴るのを聞いた。もう一度呼びかける。
「倉田さん、聞こえたら返事をしてください」
「そんなに私と話したいですか?」
 それは明らかに古代エジプト人の声音とは違う、倉田恭介氏本人の声
だった。そのやや低い音声が耳に入った途端、滝田は背中に何百匹もの
ミミズが這い回るような感触を味わった。
「あまり時間がありません。単刀直入に言います。私達は倉田さんの夢
をのぞき見していました。申し訳ありません」
「知っていましたよ」
 ああ、やはり。気まずい感情が滝田の中に流れた。
「私は頻繁にここに来ています。先生方の会話も聞いています。それで、
私の夢をのぞき見しようとしていることを知りました」
 そうだったのか、と滝田は思う。かなりはっきりとした夢の場合にし
か、夢見装置でとらえることはできない。倉田氏はもっと多く夢を見て
いたのだ。
「すると、自分が古代エジプト人になっていることもご存知ですか」
「ええ。最初、誰の話かと思いましたよ。しかしどうやら私のことを言
っているらしい。私はどうも大変な状態になっているようですね」
「古代エジプト人の時の記憶は残っていませんか」
「はい。私にもそんな自覚はありません。正直言って、自分がエジプト
人になっているなんて、信じられないんですよ」
 倉田氏だ。今話しているのは、古代エジプト人とは完全に切り離され
た、倉田恭介氏本人なのだ。
「モニターを壊したのは、あなたですか」
「ええ。しかし私は、悪いことをしたとは思っていませんよ。これ以上、
私の夢をのぞくのはやめてくれませんか。もうそっとしておいて下さい」
 さて、困った。やはり倉田氏には病院に帰ってもらうのが最良の道な
のだろうか。本人がもう夢をのぞいてくれるなと言っているのだ。高梨
を説得することはできるだろう。しかし、あきらめがつかない。なんと
か調査を続けたい。それには理由が必要だ。
「しかし、病院の方ではあなたの病気はまったく原因不明で、それを解
明する鍵は夢だと言っています。私達もなんとかあなたを救いたいんで
す」
 しばらく、言葉はなかった。倉田氏は次に何を言おうか考えているよ
うだ。
「なぜ私を救うんです。私は夢の中でならなんでもできる。私が人間を
殺せばその人は本当に死ぬ。私は銀行の大金庫に現れることもできる。
私は、核ミサイルの施設に侵入し、核を発射することだってできる。そ
んな私を、どうして生かしておくんですか?」
 滝田は困った。そう言われてしまうと、倉田氏の存在は非常に危険で
あると言わざるを得ない。倉田氏が歴史を変えるととんでもないことに
なると考えたのは、滝田自身ではなかったか?
 一つの言い訳を思いついた。
「それは、あなたが大人だからです。子供は未熟だから、平気で殴り合
いのけんかをします。自分の思い通りにならないからといって泣きわめ
きます。大人は、理性によってそれを抑えています」我ながらくさいな、
と思う。「あなたのような特殊な能力を持っていない人でも、罪を犯すこ
とはできるでしょう。警察に捕まるような犯罪はできないが、石を投げ
て窓ガラスを割って逃げるくらいはできるでしょう。どうして大部分の
人はそれをしないんでしょうか? 人間には理性というものがあるから
です。何をしてはいけないかが、分かっているからです。人の迷惑にな
ることをしてはいけないという、自制心が働くからです。倉田さんは今
までいくらでも時間があったはずなのに、どうしてさっき言ったような
罪を犯さなかったんでしょうか? それは、倉田さんがそれをしてはい
けないと、分かっているからです」
 再び緊張に満ちた沈黙が続いた。倉田氏は、つぶやくような低い声で
言った。
「なるほど、分かりました。私も馬鹿ではないから、もしそんな真似を
して後でどうなるかは分かっています。もしも私の病気が治って、目が
覚めたら、そこには刑事が立っているかもしれませんね。約束しましょ
う。私は罪を犯しません。しかし、私の夢をのぞくのだけはやめてくれ
ませんか」
 どうやら夢見装置を破壊してしまうような事態は避けられそうだ。し
かし滝田は再び困った。なんとか調査が続けられるように持っていかな
ければならない。
「しかし、今のところ私達とあなたとをつなぐものは、この装置――夢
見装置と言うんですが、これしかありません。これをやめたらあなたと
のコンタクトが切れてしまいます。そうするとあなたを治してあげるこ
とができなくなってしまいます」
「いいんです。私はね、半分死んでいるようなもんですよ。私はまるで
幽体離脱したみたいに、自分で自分の痩せ細った体を見るたびに、つら
くてたまらなくなるんですよ。私が理性を保っていられる間はいい。し
かし正気を失った時、私は何をしでかすか分かりませんよ?」
「あなたはやけになっているんです。つらいのは分かります。しかし、
あきらめちゃだめです。病院と私達との必死の努力で、必ず助けてみせ
ます」
「いいでしょう。では勝手に夢をのぞいてください。私はもう、ここへ
は現れませんからね。電話もとりません」
 すごい音をたてて電話が切れた。
「先生、夢が終わりました」と美智子が言った。
 滝田は肩を落とした。意気消沈して美智子の方に歩いていく。
 夢を調べたからといって治療できるわけではないと言ったのは、滝田
ではなかったか? 高梨医師は単に名声を得たいがために、滝田達に調
査を依頼したのではなかったか?
「僕って、ひどいやつかな」
 滝田はつぶやいた。




#547/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:05  (242)
眠れ、そして夢見よ 6−1   時 貴斗
★内容
   ピラミッドとエジプト人


   一

「あら藤崎君、遊んでちゃだめよ」
 美智子は目を三角にして青年をにらみつけた。
「いや、ちょっとした気分転換に」
 青年はパズルの本を読んでいた。勤務中にさぼるなど、美智子にとっ
てはもっての他だ。
「常盤さんも少し休憩した方がいいですよ。ほら、これ分かります?」
 青年は開いたページを突き出した。
「なによ」
 そこにはマッチ棒で「1+1=」という図形が描かれていた。
 美智子は青年から本とボールペンを取り上げた。
「あっ!」
 ページのすみに数式を書きつける。
    1+1=10

「一足す一は十ですか?」
「その読み方は正しくないわね。読むとしたら一足す一はイチゼロかし
ら」
 青年は狐につままれたような顔をした。
「これは数字を二進数で表した場合。じゃあこれは?」
    1+1=1

「一足す一はイチ、でいいんでしょうか」
「この場合のプラスは論理和。読むとしたら一オア一は一かしら」
「あはは。常盤さん、数学の先生になれば良かったのに」
 美智子はちぎれんばかりに首をふった。
「いやよ。絶対にいや。私、子供がうるさいの、大っきらい」
「ああ」
 青年は口だけ半笑いで眉は八の字になっていた。
「要するに一とかプラスというのは数字や記号の定義でしかないのよ。
だから一足す一は三でもかまわないし、百でもいいのよ。プラスという
記号をそういうふうに定義すればいいんだわ」
「そんな。普通は一足す一は二じゃないですか?」
「いいえ。同じことよ。それも定義の一つだわ。数学というのは定義の
上に組み立てられた美しい論理なの」
「あの、それ、あくまでも常盤さんの考えですよね」
「そのパズルだってそうだわ。どうせマッチを二本動かして別の文字を
作るとか、そういうのなんでしょうけど、それだってそういう関数の定
義だわ」
「そうかなあ。普通は一足す一は二っていうのは、一つのりんごと一つ
のりんごを合わせると二つになるっていう、そういうことだと思うんだ
けどなあ。そういうふうに習いませんでした?」
 はたしてそうだろうか。美智子はその教え方には昔から疑問を持って
いた。それは物理現象を数学で記述したということであって、数学その
ものではないような気がする。
「じゃあ、二つのりんごと、三つのみかんを持ってきました。あわせて
いくつ?」
「え、五つじゃないんですか?」
「正解。それじゃあ、二つのりんごと、三本のボールペンを持ってきま
した。あわせていくつ?」
「それは……五個じゃないんですか?」
「それはおかしいわ。りんごとみかんの場合は、まだ同じ果物の範疇に
入るからいいけど、りんごとボールペンの場合は、あくまで二つのりん
ごと三本のボールペンにしかならないんじゃないかしら。やっぱり、数
学というのは関数とかそういうものの定義と、そこから導かれる論理な
のよ。一つのりんごと一つのりんごを合わせると二つになるっていう、
“例え”ではないわ」
「そうかなあ。現象を記述する方法として“一足す一は二”という表現
が生まれたという気もしますけど」
「そう? それじゃあね」
 さらに問題を出そうとする美智子の目のすみに、何かちらつく光が映
った。
 美智子はモニターの方に顔を向けた。
「先生は?」
「えっ? 先生? 先生の定義ですか」
「先生は所長室にいるの? 早く呼んできて!」


   二

 滝田が駆け込んだ時、ちょうど砂嵐がおさまるところだった。ぼんや
りとした映像がだんだんとはっきりとしてくる。一つ一つの物体の輪郭
線が、明瞭になってくる。
「倉田氏かな? それとも古代エジプト人か?」
 青空をバックに、大きな三角形が浮かび上がってきた。いや、上の方
が欠けている。どちらかというと台形に近い。それはピラミッドだった。
上半身裸の男達が、その根元に群がっている。すると、古代エジプト人
の方だ。
「この間の続きだとすると、ヒッドフト王のピラミッドを造っていると
ころだわ」
「倉田さんは起きてる? 寝てる?」
「眠っています」
「起きてる?」というのも変な表現だな、と滝田は思う。レム睡眠行動
障害時も目は覚めていないのだから。
 真っ青な空には雲がわき立っていて、白熱した太陽が砂をこがしてい
る。
「かわいそうだなあ、あの奴隷達」と、青年がつぶやいた。
「あら、奴隷じゃないわ。彼らは庶民よ。報酬としてもらえるビールの
ために、自発的に働いているのよ」
 風景が動き始めた。謎のエジプト人は彼ら労働者達に近づいていく。
 労働者のうちの一人が、こちらに向かって手をふった。ちぢれた髪の、
口ひげをはやした男だ。若いのか、年寄りなのかよく分からない。痩せ
て肋骨が浮き出している。画面はその男に近づいていく。
「おや、顔見知りができたようだな」と滝田は言った。
 男が何か二言三言しゃべると、画面が大きく上下にゆれた。うなずい
たようだ。別の、太った男がロープを指差す。画面の両端から腕がのび
てひもを握る。
「倉田さんは労働者の仲間入りをしたようね」
 いったい何のために、と滝田は思う。ただ単にビールを飲みたいため
だろうか。それだけならいいのだが。
 エジプト人は顔を上げた。巨大な斜路が左の方からのびて、人々が石
をピラミッドの上部に運び上げている。
「このピラミッドは、結局はなくなってしまうんでしょうね」と、青年
が言った。
「そうだな。そうなってくれないと困る。残ると歴史が変わってしまう」
「先生はまだその考え方にこだわっているんですか」美智子が例によっ
てつっかかってきた。「これは単に夢の中の風景にすぎないんじゃないか
しら。実際に倉田さんがここにいるという証拠は、何もないんですよ。
これが実際のその場の景色だという根拠は、何もないんです」
 この間は倉田氏が古代エジプト人になっていることは確実だと言って
いたくせに、と滝田は思う。
「そうだな。倉田さんが何か痕跡でも残してくれればな。何世紀も後に
なって我々が見ても分かるような跡を残してくれれば、確かにここにい
たという証しが残るんだがな」
 だが、それは危険な考え方だった。下手をすると歴史が変わってしま
うかもしれない。しかし科学者の立場としては、ぜひ証拠を残してもら
いたい、という思いもある。
 大変な重労働を何万人もの人が何十年もかけて、一つのピラミッドを
造るのだ。当時のファラオの権力がいかに偉大なものであったかが分か
ろうというものだ。
 ロープを引っ張る腕を映しながら、画面が暗くなっていった。


   三

 所長室の扉がすごい勢いで開いて、美智子が駆け込んできた。
「先生、倉田さんが」
 滝田は慌てて立ち上がった。美智子を追いかけながら尋ねる。
「倉田さんの方か。エジプト人の方か」
「倉田さんです。しかも、研究室にいます」
 倉田氏か。そっちの方がよほど気になる。この間の夢ではやけくそに
なっているみたいだった。しかしどうした風の吹き回しだろう。もう研
究室には現れないと言っていたはずだが。
 部屋に飛び込むと、藤崎青年が青い顔をしてモニターの前に立ちすく
んでいた。
 青年を押しのけるようにして画面の前に割り込んだ。ディスプレイに
は倉田氏が映っていた。今までの夢と違う。これまでは倉田氏の視点で
見ていたはずだ。滝田は隣のベッドルームで眠っている彼の姿しか見た
ことがない。それが今は、百歳の老人のようなあの顔が、しっかりと眼
を開けて薄笑いを浮かべているのだった。彼は細長い紙を手に持って、
こちらに突き出していた。その紙には墨で、「電話しろ」と大きくと書か
れていた。
「人の夢をのぞくな」と言った時に滝田の電話番号を知ったのだから、
彼の方からかけてくることもできるはずだが、覚えていないのだろう。
 携帯で部屋の電話にかける。倉田氏がすかさず夢の中の受話器を取る。
「もしもし」
 受話口の底から、怒気を含んだ声が聞こえてきた。
「私の夢をのぞくなと言ったはずだ」
「いえ、倉田さん、この間説明したように……」
「あなた達は自分の頭の中をのぞかれて平気なのか!」
「いえ、あの、その」
 言葉がしどろもどろになる。いったい何と言い訳したらいいのだろう。
「倉田さん、これをやめたらあなたとの連絡方法がなくなってしまうん
ですよ」
「結構だ。早く私を病院に戻すべきだ」
 そんなことまで知っていたのか。
「とんでもありません。病院で治せなかったからこそ、ここに来てもら
ったんじゃないですか」
「へえ、そうかい」
 薄笑いが、ぞっとするような冷たい笑みに変わった。
「あなた達は馬鹿者だ」いつの間に持ったのか、握りしめたとんかちを
滝田に突き出した。「大馬鹿者だ」
 金槌を振り上げた。次の瞬間、目の前が真っ白になった。耳をつんざ
く音が響いた。反射的に顔の前に持ってきた腕に、モニターの破片が襲
いかかってきた。
「先生、大変です。夢見装置が壊れました」
 美智子が金切り声で叫んだ。
 恐る恐る目を開けると、周りがやけに明るかった。なんだか様子が変
だ。
 滝田は呆然として辺りを眺め回した。砂の大地と真っ青な空が広がっ
ている。なんだ、ここは。一体どうしたというのだ。振り向いた滝田は
愕然とした。そこには巨大なピラミッドがそびえ立っていた。
 そんな馬鹿な。研究室はどこに消え失せたのだ。美智子は、青年はど
こに行ったのだ。
「まさか」滝田はつぶやく。「まさかそんなことが」
 ピラミッドに近づいていく。てっぺんの方がまだ完成していないそれ
は、明らかにヒッドフト王のピラミッドだった。
「あなたが声の主か」
 突然聞こえた声に驚いて振り返った。
「とうとうここまでたどり着いたか」
 そこに立っていたのは、褐色の肌に首飾りをつけ、腰布を巻いた男だ
った。
「そんな馬鹿な」
 顔に見覚えはないが、倉田氏の口から聞いたその野太い声から察する
に、謎の古代エジプト人だろう。
 画面に映る風景が割れて、粉々の断片となって飛び散った。そこに一
瞬だけ、真っ黒な空洞が口をあけ、そして真っ白になった。美智子が夢
見装置が壊れたと叫んだ。
 その時の衝撃で滝田が夢の中に引きずり込まれたとでもいうのか。ま
さか。馬鹿げている。
「どうした。顔が真っ青だぞ」
 だが他に考えようがなかった。それ以外にこの状況を説明する方法が
みつからない。絶望が頭の中に広がっていくのを感じた。
 ああ、なんということだ。倉田氏の眠りを観察し続けた結果が、これ
だというのか。この世界に出口はないのか。永遠に囚われ人となってし
まうのか。
 気がつくと、ひざまづき、砂をつかんでいた。
「悲しむことはない。さあ、立ちなさい」
 エジプト人に促されて、ふらふらと立ち上がった。
「こちらへ」
 そう言うと、彼は先に立って歩き始めた。ピラミッドに沿って歩いて
いく。
「どこに行くんですか」
「あなたが本当に見たかったものを見せてあげよう」
 いったい何の事だ? エジプト人は角を曲がった。滝田もついていく。
 地下への入り口にたどり着いた。
「この下だ」
 狭い階段を降りていく。滝田はなんだかひどく、嫌な予感がした。滝
田が本当に見たかったもの? その逆で、滝田が見たくなかったもので
はないか? そんな気がしてきた。
 ついに玄室へとたどりついた。燭台がうっすらと照らすそこは、いか
にも殺風景な場所だった。華やかな壁画や、副葬品といったものがある
わけでもなく、まるで地下牢のようだった。
「あれだ」
 部屋の中央に石棺がある。エジプト人は足早に歩み寄り、いかにも重
そうな石の蓋を、いとも簡単に横にずらした。重い音をたてて、蓋が地
面に落ちた。
「さあ、見なさい」
 のどが鳴った。恐る恐る近寄っていく。
「さあ」
 恐々とのぞきこむ。
 そこには男が横たわっていた。腰布だけを身につけたその人物の肌は
褐色ではなく、青白かった。彼の顔を見た瞬間血の気がひいた。
 それは、滝田の父親だった。父が、そこに納められていたのだ。眠っ
ているのか、死んでいるのか分からない。
「あなたはこれを見たかったのだろう? あなたはこれを、知りたかっ
たのだろう?」
 エジプト人の声が部屋に反響する。
「嫌だ。嫌だ! 私はこんなものを見たくない」
「見るがいい」
 横たわった父の目が、いきなり開いた。
「健三……宿題を……」父の口が震える。「高梨医師に……報告を……」

「嫌だ!」
 滝田はふとんをはねのけた。慌ててあたりを見まわす。外の街灯の明
かりが、カーテンを通してうっすらと差し込んでくる。自分の寝室だ。
胸に手を当てると早鐘をうっていた。
 また悪夢を見てしまった。




#548/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:10  (240)
眠れ、そして夢見よ 6−2   時 貴斗
★内容
   四

 これは私の仮説にすぎませんが、倉田氏はある宗教団体による退行催
眠がきっかけとなって前世の記憶が呼び覚まされ、先祖返りを始め、御
見氏からインド人へ、そしてエジプト人へと変化していったのだと思わ
れます。しかし、古代エジプトともなると記憶があいまいなため不完全
です。そのせいで時々倉田氏自身に戻ってしまうのだと推測されます。

 パソコンの画面をにらみつけながら、滝田は考え込んでいた。ウィン
ドウには電子メールの文章が並んでいる。内容はこの間打ったのとだい
たい同じようなものだ。その後起こったことと、自分の仮説を簡潔に書
き足してある。
「送信」と書かれたボタンに矢印を合わせている。マウスをクリックす
れば、この報告が高梨医師に送付される。
 まったく変な夢だった。確かに、今の滝田にとって高梨への報告が宿
題だとも言える。
 本当にいいのだろうか。分からない。送信ボタンにカーソルを合わせ
たまま、もうかれこれ二十分がたつ。
 何かパソコンと真剣勝負でもするかのごとく、身動きさえせずにらみ
合っている。触れると破けそうなほどの静けさが所長室を満たしている。
吸われないまま灰皿のへりに置かれっぱなしになっている煙草から、線
香のような煙が立ち昇っている。
 突然大きな音をたててドアが開かれた。
「先生、大変です」
「あっ」
 驚いた拍子に指が勝手にクリックしてしまった。ああ、なんというこ
とだろう。本当にこれで良かったのか。
 眉をひそめて青年を見る。
「どうした」
「倉田さんが大変なんです」
 滝田は窓を見た。春の日差しが暖かく室内を照らしている。
「昼間に見る夢か。といっても倉田氏には昼も夜も関係ないが」
「そうじゃないんです。とにかく来て下さい」
 滝田が立ち上がるのも待たずに青年は走り出した。滝田も慌ててつい
ていく。
 青年は研究室の方には行かず、階段を駆け下りた。どうしたのだろう。
倉田氏の夢ではなく、倉田氏本人に何かあったのか?
 青年は分厚い扉を開け中に入っていく。青年に続いて入り、倉田氏を
見た滝田は口を丸く開いた。
 様子がおかしい。呼吸が荒くなっている。元々悪い顔色がいっそう土
気色になり、改めて見ると、来た当時より痩せ細って、骨と皮だけにな
ってしまった。
「病院に連絡した方がいいでしょうか」
「そうしてくれ」
 青年が出て行くと、滝田はベッドの横の椅子に倒れるように座りこん
だ。
「倉田さん、もう結構長いつき合いですね」
 彼がここへ来てから三週間になる。滝田にはかなり時間が経ったよう
に思える。病気の原因はもちろんのこと、彼の夢が何なのかも、結局分
かっていなかった。電話で話もした。レム睡眠行動障害時には、直接話
すことができた。にもかかわらず、分かったのは彼が不可思議な状態に
なっているというだけのことではあるまいか。何かが分かったようでい
て、結局何も分かっていないのだ。
 青年が戻ってきた。
「一時間ほどで来るそうです」
 青年と並んで座って、まるで重病の末期患者を看取るように倉田氏を
見ていた。いや、実際重病人なのかもしれない。きっとあの夢を見る際
に莫大なエネルギーを消費するために、栄養をいくら補給しても足らな
いのだ。いやいや、そんなことではあるまい。倉田氏には彼自身と古代
エジプト人の分の滋養が必要なのだ。しかもここへきて、エジプト人の
方は重労働にたずさわるようになった。余計に栄養分が不足しているの
ではないだろうか。
 一時間半もたって、ようやく若い医師が一人でやってきた。
「失礼します」
 滝田達の間に割って入って、倉田氏のパジャマのボタンをはずして聴
診器をあてた。
 滝田達は医師が診察するのをなすすべもなく見つめた。
「心臓がだいぶ弱っているようです」
 医師はつぶやいた。
「あの、倉田さんは大丈夫なんでしょうか」
 滝田はかぼそく言った。
「なんとも言えません」
「病院に戻さなくていいんですか」
「患者の夢については、何か分かりましたか?」
 医師は落ち着き払った声で言った。
「なんですって?」
「私達は睡眠異常の解明のためにクランケをお預けしているわけですか
ら」
「今分かっている分についてはついさっきメールで高梨先生に報告しま
した。そんなことより、病院でケアした方がいいんじゃないですか」
 怒気を含んだ声で聞く。
「そうですか」医師は道具を鞄にしまい始めた。「それでは、高梨に報告
して検討します」


   五

 ひどいと思った。夢の謎が分かるまで、病院に戻さないつもりなのだ
ろうか。滝田は一日中憤りがおさまらなかった。
 その夜、倉田氏がまた夢を見た。
 砂嵐が消えると、またあのピラミッドが映った。太陽が地平線の近く
にある。すると夕方だろうか。その日の作業は終わったのか、人っ子一
人いない。
「先生、レム睡眠行動障害です」
 青年が叫んだ。
「えっ」
 滝田よりも一足早く、美智子が窓辺へ駆け寄った。三人並んで下を見
る。倉田氏が立ち上がっていた。
「僕行ってきます」青年がドアへと走る。「点滴を抜かないと」
「私も行くわ」
 駆け出そうとする美智子の腕を滝田はつかんだ。
「残っててくれ。残って、僕に知恵を貸してくれ」
 滝田はマイクを握り締め、スイッチを入れた。
「倉田さん、聞こえますか。倉田さん」
 振り向いてモニターを見ると、雲が右に行ったり左に行ったりしてい
る。倉田氏が真上を向いて滝田を探しているのだろう。スピーカーが部
屋の上部にあるので、音声が頭上から出ていることは分かったようだ。
「またあなたか。声だけ聞こえて姿は見えない。いったい何者なんだね」
「私は研究者です。信じられないかもしれませんが」滝田は舌で上くち
びるを湿した。「あなたは今私の研究所にいます。あなたは倉田さんとい
う患者の夢の中にいて、今私は倉田さんに向かって話しかけています」
「先生、もっと筋道立てて話さないと分かりませんよ」
 美智子がささやいた。
「何をわけのわからないことを。私はここにこうしている。あなたの言
い方を聞いていると、私がそのクラタという人物の夢の中にいて、実在
している者ではないかのようだ」
「いや、あなたは存在しているのです。今あなたがしゃべっているのと
同じことを、倉田さんもしゃべっているんです。今あなたがしているの
と同じ動作を、倉田さんもしているんです。倉田さんの耳に聞こえてい
ることを、あなたも聞いているんです」
「つまり、そのクラタという人物を介して、あなたは私と話し合ってい
ると、そう言いたいわけだな?」
「そうです。良かった。あなたは頭がいい方のようだ」
「ほめられてもあまりうれしくないぞ。私に何の用だ」
「倉田さん、でいいのかな」
 スピーカーから青年の言葉が伝わってきた。
「またすぐそばから声が聞こえたぞ」
「その男も私の仲間です」
 マイクを握る手に力が入る。
「お前も研究者か」
「え? ええ。よく分かりましたね」
「何の用だ」
「点滴を抜きにきました」
「テンテキ? それは何だ」
「それは、つまり、今あなたが腕からぶら下げている……」
「何もぶら下げていないではないか」
「藤崎君、いいから抜きなさい」と滝田は命令した。
「これが刺さったまま歩き回ると危ないんです。つまり、その、ごめん
なさい!」
 倉田氏の口から「痛いっ」という声が漏れる。
「なにをするのだ。何の魔法をかけたのだ」
「あなたの腕に見えない蛇がかみついていたのです。彼はそれを取り去
ったのです」と滝田は言った。
 美智子が顔をしかめて首をふる。
「テンテキだの蛇だの、何を言っているのだ。言っておくが私は夢の中
にいるということを信じたわけではないぞ」
「いや、夢の中にはいないのです。あなたはそこに実在するのです。つ
まり、何と言ったらいいのかな」
 滝田は困った。本当に何と言っていいのか分からなかった。
「私達は冥府の国、アアルにいるんです」
 美智子が口をはさんだ。
 おいおい、そんなことを言っていいのかと、滝田は思う。蛇がどうし
たなどと言わなければよかった。
「おや、この間の女性だな? するとあなた達はオシリスの使いだとで
も言うのかな?」
「そうじゃないですけど、似たようなものだわ。倉田さんという、夢を
使って遠く離れた場所の人と交信する能力を持った魔法使いを通して、
あなたと話しているのよ」
「研究所というのも、アアルにあるのかな? 何の研究をしているのだ」
 彼は頭がいい。とてもごまかしきれないぞと、滝田は思う。しかし全
てを正直に説明するには、時間がなさすぎる。こうしている間にも夢が
終わってしまうかもしれないのだ。
「まあいい。あなた達が何者であるにしろ、私と話をしたいのだったら、
つき合ってやろう」
 よかった。滝田はほっとした。


   六

「あなたはなぜペルエムウス造りに協力しているんですか」
 滝田はマイクに向かって言った。
「私は自分の名前も知らない。自分が何者かも分からない。どうやらこ
れは治りそうもない。だからせめて、私がここに存在したという痕跡を
残したいのだ」
 みぞおちに冷たいものが流れた。
「いいものを見せてやろう」
 ピラミッドに沿って歩いていく。さっきまで遠くから眺めていたのに、
また瞬間移動したのだろうか。
「おや、こんな所に見えない障壁がある」
「部屋の壁につきあたりました」
 スピーカーから青年の緊張した声が聞こえる。
 しばらく止まっていたが、なぜか景色が再び動き出した。
「倉田さんが足踏みを始めました」
 なるほど。倉田氏は狭い室内で広大な大地を歩く方法を学んだようだ。
 名無しのエジプト人は角を曲がった。そしてまた積まれた石に沿って
歩いていく。
 風景が上を向いた。少し上がったところに、小さな入り口が開いてい
る。彼は自分の身長の半分程もある石をよじのぼっていく。
「この下に玄室がある。案内しよう」
 地下への階段を降りていく。だんだん日の光が差し込まなくなってい
く。
「暗くてよく見えないな」
 彼の腕が前方に伸びた。次の瞬間、その手にはたいまつが握られてい
た。まるで手品のように。
「これでスパナの謎も解明されたな」
 滝田はあごをなでた。
「モニターを壊した時のことですか?」と美智子が問う。
「そうだ。この部屋にスパナなんかない」
 階段を降りきると、平らな通路になっていた。しばらく行くと広めの
部屋に出た。壁に据え付けられた数本のたいまつに火を移していく。
 画面が一瞬暗くなった。いけない。夢が終わる。
「見たまえ、これを」
 石で囲まれた部屋には、王の前で書記が何か記録をとっているといっ
たような、簡単な壁画が描かれている。床には数体の人形のような像が
無造作にころがっている。
「これが王の墓か? なんというみすぼらしさだ。私はここにささやか
な彩りを加えたいのだ」
「どうするつもりです?」
「あなた達がスフィンクスと呼んでいるもの、あれは大変見事だな」
 嫌な予感がする。
「私はあの像から一部を取り、この玄室に添えたいのだ」
「やめて下さい。そんなこと」
 滝田は悲鳴をあげるように言った。
「なぜだ。素晴らしい考えだと思わないかね。あの偉大な巨像の威光を
借り、この粗末な玄室を輝かせるのだ」
「そんなことをして何になるんです。何が輝くんです」
「スフィンクスの頭部の奥、中心部から石の一片をとり、この壁のどこ
かに埋め込むのだ。私にできることといったらその程度のことだ」
「どうやって取り出すんです。スフィンクスの頭を壊すんですか。あな
た一人で」
「石切り場から切り出すのと同じ要領でやればよい。表面に溝をほり、
くさびを何本も打ち込むのだ。できないことはなかろう。労働者仲間に
話したら、賛同してくれる者が五人もいた」
「やめてください。歴史が変わってしまう」
 血の気が引いた。
「なんのことだ。私には分からないが」
 いっそ「私達は未来人です」と言おうかと考えたが、思いとどまった。
「先生、たぶん大丈夫です」美智子がささやく。「あんな大きな頭部の中
心まで掘り進むなんて、できっこありません。せいぜい頭頂部を壊すの
が関の山でしょう。その時点で彼は捕まります。それに、スフィンクス
は何度も修復作業が行われています」
「そのせいで何人もの人間が処刑されてもいいのか」
 画面が二度瞬いた。
「私は自分がどこの誰かも分からない。私は確かにこの世界に存在した
という証しがほしいのだ。私の決心は……変わら……ない……」
 スピーカーから重い音がするのと、画面が消えるのとが、ほぼ同時だ
った。窓に駆け寄り下を見ると、前にレム睡眠行動障害になった時と同
様、倉田氏は倒れていた。
「もしも彼が死んだら」滝田は独り言のようにつぶやいた。「エジプト人
も消えてなくなるかもしれない」




#549/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:16  (237)
眠れ、そして夢見よ 7−1   時 貴斗
★内容
   スフィンクスの頭


   一

 滝田は立ったまま、長い呼吸を繰り返す倉田氏の顔を見つめていた。
どうしていいか迷うばかりで、何もできない自分がはがゆかった。名無
しのエジプト人が歴史を変えようとしていることも、倉田氏の病状が悪
化していくことも、自分にはどうしようもない。
「先生、来て下さい」
 スピーカーユニットから青年の声が伝わってくる。
「どうした」
「倉田さんが夢の中に現れました。先生を呼んでいます」
 倉田氏の顔を見る。心なしか笑みを浮かべているように見えた。
 階段を駆け上がりながら妙なことに気がついた。「先生を呼んでいます」
だって? 自分のほほをつねってみる。痛みは感じるようだ。また夢だ
ったらたまらない。
「僕を呼んだって? どうやって」
 ドアを開けるなりかみつくように言った。
「電話で話してるんですよ」
 滝田は受話器を握っている青年に足早に歩み寄っていった。振り向い
てモニターを見ると、どこだか分からないが、夕暮れ時の屋外が映って
いた。すべり台がある。すると公園だ。正面にはうさぎの頭の形をした
石像と、ライオンの頭の形をした石像が並んでいる。人が座れそうなく
らいの大きさだ。
 腕時計を見る。五時十七分。するとおそらく過去でも未来でもなく現
在だ。
 映像は下を向いて、パジャマ姿の胸から下を映した。ベンチにこしか
けている。ひざの上の四角く平べったい電話機から、螺旋状のコードが
のび、画面の左端で消えている。
 そうか。あれでこの研究室に電話をかけたのか。
 滝田はおかしな点に気づいた。普通は本体からモジュラーケーブルが
出ているはずだが、それがどこにも見当たらない。
「常盤君は?」
「仮眠室で寝ています。何でも昨日一睡もできなかったんだとか」
 まったく。何をやってるんだ、こんな時に。青年から受話器をひった
くる。
「今晩は、滝田さん」
 やや低い倉田氏の声は、それでも、この間聞いたのと比べていくぶん
穏やかな感じがした。
「倉田さん、どうしたんですか。この間の様子からすると、もうお話し
できないのかと思いましたよ」
「私は、自分の意思で好きなように夢を見られるわけではありません。
今日はたまたま私自身として現れることができただけですよ」
「それでも私はうれしい。倉田さんの方から私に連絡をとってくれるな
んて」
「たぶん、お別れを言いたかったんだと思います」
 倉田氏は意外なことを言った。
「私は、最近は目覚める回数が少なくなっているように感じます。たぶ
んそれ以外の時間は、古代エジプト人になっているんだと思います」
「倉田さんは、自分がエジプト人になっていることを感じるんですか」
 少しの間、沈黙があった。
「いいえ。いや、はいかな。時々ピラミッドの姿が見えることがありま
す」
 実に驚くべき告白だった。倉田氏であるのに古代エジプト人としての
風景が見えるのだろうか。
「どんなふうに見えますか。そのピラミッドは、てっぺんの方が欠けて
いませんか」
「ピラミッドとは何だ」
 急に声質が変わった。滝田は目を、飛び出さんばかりにひんむいた。
 すべり台と動物の頭の像が半透明になって、それと重なって青空とピ
ラミッドが映っていた。
 どういうことだ。倉田氏の意識と古代エジプト人の意識が入り混じっ
ているのか?
「ペルエムウスのことです。というより、あなたは誰です」
「何度も言うようだが私は自分が誰なのかを知らない。あなた達が私を
クラタと呼びたいのならそう呼べばいいだろう」
 頭が混乱する。しかし、いいチャンスだ。この間言いそびれたことを
言うのだ。
「スフィンクスの頭を壊すなんて、そんなことはやめて下さい。あなた
は世界的な遺産を破壊しようとしているんですよ。それであなたは平気
なんですか」
「なるほど、彼はスフィンクスの頭を破壊しようとしているんですね」
 声が元に戻った。画面も公園の風景に戻っていた。
「私はたぶん、どんどん古代エジプト人になっていくんだと思います」
 画面が点滅した。
「もう倉田恭介になることもないでしょう」
 画面がフェード・アウトしていった。最後に小さく、「さようなら」と
言ったように聞こえた。
 滝田は放心していた。青年も、滝田も、何も言わなかった。しばらく
して滝田は口を開く。
「どこだろうね、今の場所」
「さあ、どこかの公園みたいでしたが」
 青年の目と口が、急に丸くなった。
「あ、この場所、僕知ってます」
 青年が駆け出したので、滝田も走った。階段を駆け下りていく。玄関
から飛び出した。太陽は沈みかけ、夜が訪れようとしていた。
「おい、どこに行くんだ」
「こっちです」
 通りをしばらく走った。右に折れて、細い道に入ると、両側に植込み
が並んでいた。少し行くと、植込みが切れて小さな公園があった。
「この間、常盤さんとここに来て話したんです」
「え? 君達そんな関係だったの?」
「違いますよ」
 青年が歩いていく先にベンチがあった。滝田が長椅子の上に手をおく
と、今まで誰かが座っていたかのような温もりがあった。


   二

 倉田氏の病状はかなり悪化しているように見えた。その日も三度、医
師と看護師がやってきて簡単な診察をし、点滴をとりかえていった。
「どうなんです。だいぶ悪いんじゃないですか」
 滝田が何度聞いても返事は同じだった。
「大丈夫ですよ。心配いりません」
 医師達は滝田と話すのが嫌なようだった。決して顔を見ようとしない。
 彼らはまるで治療する気もないかのように帰っていった。
 倉田氏の呼吸はさらに荒く、顔中に汗がにじんでいた。滝田はそばに
座ってふきとっていた。
 かわいそうに。実の妻に看病してもらうこともできない。妻が聞いた
ら卒倒するだろう。命より夢の分析を優先するとは。滝田は自分が犯罪
に加担しているような気がしていた。
 脳の研究から睡眠の調査へと移っていった当時は、意欲あふれる純粋
な科学者だったはずだ。それが悪事を働くようになるなど、どうして予
想できただろう。
 いや、それどころでは済まない。歴史が変わろうとしているのだ。滝
田の頭に悪い考えが浮かぶ。もしも倉田氏が死んでくれたら、あの古代
エジプト人も消えるに違いない。そうしたら過去が変わらなくて済む。
もし亡くならずに、エジプト人がスフィンクスを壊そうとしたら、その
時には高梨に頼んで安楽死の注射を……。いや、だめだ。そんなことは
絶対にできない。
 もしも頭部が欠けたら、どういうふうになる可能性があるだろうか。
きっと元々スフィンクスには頭頂部がなかったのだということになるだ
ろう。あるいは戦乱か何かで失われたという解釈になるかもしれない。
影響があるのは考古学ぐらいではないだろうか。それともこれは大変だ
と思った古代エジプト人達が、すぐに修復してくれるかもしれない。
 その程度で済めばいいが。
 しかし、名無しのエジプト人が河でおぼれている子供を助けた時、そ
のせいで第二次世界大戦が起こった確率はゼロではないと考えたのは滝
田ではなかったか。
 怒ったファラオは、無関係の人々を処刑してしまうかもしれない。あ
るいは何かの祟りだと勘違いして、多くの人間を生贄にするかもしれな
い。もしそうなったら、その人達の子孫は生まれてこないのだ。後に誕
生するはずだった英雄や、政治家が歴史上から抹殺されるかもしれない。
そうした人がいなかったために、ヒトラーのような独裁者が支配する世
の中になる可能性だってあるのだ。
 名無しのエジプト人に説得を試みてはどうか。なんとかしてやめさせ
るのだ。しかし、古代エジプトには電話もない。倉田氏がレム睡眠行動
障害にならずに、夢の中でエジプト人が歴史を変えようとしたら、それ
をただ指をくわえて見ているだけなのだ。
 どうにかしてヒッドフト王のピラミッドがあった場所を探し出して、
そこに手紙を置いてきたらどうだろうか。研究室の電話に張り紙をした
のと同じで、夢の中で彼がそれを読んでくれるかもしれない。自分のや
ろうとしていることがいかに馬鹿なことかを、綿々と書きつづるのだ。
もっとも、彼が日本語を読めなかったら、ヒエログリフで書く必要があ
るだろうが。
 いや、この案はだめだ。手間がかかりすぎるということ以前に、時間
的に隔たってしまっている。
 倉田氏が笛のような音をたてて息を吸いこんだので、滝田の思考はと
ぎれた。
 アイマスクを取ってみると、目の周りはどす黒い紫色に変わっていた。
苦しそうに首を右に、左にねじる。
「倉田さん、倉田さん。大丈夫ですか」
 肩をゆすっても、目も覚まさないし反応もしない。
「大変だ。医者達を呼び戻さないと」


   三

 遅い。何をしているのだ。病院に連絡して、もう二時間も経っている。
今度は高梨も来ると言っていた。滝田のメールを読んだからだろうか。
それとも、この間の若い医師が何か言ったのか。
 ベッドルームの分厚い扉がゆっくりと開いた。
「先生、来て下さい」
 現れたのは青年だ。
「どうした、まさか」
「倉田さんが夢を見ています」
 ああ、なんということだ。よりによってこんな時に。滝田は眉間に縦
皺を寄せて荒い呼吸をしている倉田氏の顔をみつめた。
「先生、早く」
 青年に急き立てられて、腰を上げる。駆け去っていく青年を追いかけ
る。だが、なんだか疲れた。急がなければならないのに。くそっ。
 ようやく研究室にたどり着いた時、滝田は息切れしていた。
「どっちだ」
「エジプト人の方です」
 モニターの前の美智子が返事をした。
 滝田が画面の正面に立つと、そこには夕陽をバックにスフィンクスが
そびえていた。思わず窓に駆け寄り、倉田氏を見下ろす。しかしさっき
まで見ていた通り、彼は苦しげな眠りを続けている。レム睡眠行動障害
の状態にはなっていない。
「だめだ。歴史が変わるぞ」
 ディスプレイの前に戻る。胴の下に小さく数人の人間が見える。また
瞬間移動して彼らのそばに来た。そこにはこの間見たちぢれた髪の、口
ひげをはやした、若いのか年取っているのかよく分からない男と、太っ
た男と、他に三人の男が立っていた。彼らが驚かないところを見ると、
テレポーテーションしたわけではなく、歩いて行くシーンがカットされ
ただけらしい。ちぢれ髪の男が何か言うと、画面はうなずいて上下にゆ
れた。太った男が背中にかついでいた布袋をこちらに突き出した。袋の
口から棒のようなものが何本か顔を出している。画面は再び縦に往復し
た。
 背後でドアが開く音がして、「今晩は」という声が聞こえた。振り向く
と高梨が立っていた。
「いや、お久しぶりです」
 状況が良く分かっていないのか、快活な笑みを浮かべて言った。
「挨拶は後だ。早く倉田さんを診てあげて下さい」
 怒りをおさえて言う。
「大丈夫です。もうやってます」
 窓のそばに行った藤崎青年が報告する。
「医者と看護師が来ています」
「今、夢を見ているところですか」
 高梨は言って、滝田のそばに寄って来た。
「あ、今晩は」と美智子と青年にも挨拶した。
「どんな状況ですか」
 いたって明るい調子で聞く。
「私のメールを読んでくれましたか」
 滝田はモニターを見つめたまま言った。
「ええ、もちろん。あれが全部本当だったら素晴らしい」
 素晴らしいだって? 素晴らしいことなんかあるもんか。
「だったら話が早い。今ちょうどね、倉田さんが歴史を変えるところで
すよ」
 滝田は怒鳴った。
 高梨は呆気にとられた顔をした。
「あの、このヘルメット、取っちゃだめなんですか」
 スピーカーから下の医師の声が聞こえた。
「あ、それ取っちゃだめです。取らないで下さい」と美智子が答えた。
「倉田さんはね、というよりも古代エジプト人はね、これからスフィン
クスの頭を壊して、その石をピラミッドに供えるんだそうですよ」滝田
は高梨をにらんだ。「まったく、馬鹿げたことです」
 高梨は少し動揺したようだ。
「なんとか、やめさせることはできないんですか」
「何もできませんね。私達はただぼーっと見ているだけなんですよ」
 ちぢれ髪の男が前へ進み出て、胴体をよじのぼり始めた。ロッククラ
イミングだ。続いて風景が前へと動いて、岩の表面を画面いっぱいに映
した。壁面が下がっていく。
 頼む。やめてくれ。
「あんな大きな像を登れるのか?」
「スフィンクスの高さは二十メートルです」と美智子が得意の記憶力を
披露する。
 戻ってきて一緒に見ていた藤崎青年が付け足す。
「ボルダリングジムの壁の高さは四メートル程です。素人では一発でク
リアするのは難しいです。これを登ろうというのですから彼は僕達が思
っている以上に身体能力が高いのかもしれません」
 滝田は振り向いてマイクをつかんだ。
「倉田さんの状態はどうですか」
「だいぶ弱っています。脈拍が遅くなっています」と医師が答える。
「藤崎君」
「行ってきます」




#550/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:20  (250)
眠れ、そして夢見よ 7−2   時 貴斗
★内容
   四

 だいぶ時間が経っていた。今までの中で一番長い夢なのではないだろ
うか。とうとうエジプト人達はスフィンクスの背の上にやってきた。首
の後ろに歩いていく。
 続いて、風景はそのまま前進し、さらに後頭部を登っていく。そして
ついに頭頂部にたどり着いた。
 もうだめだ。滝田は拳を握りしめた。
 画面の右端から刃物が現れた。のみだ。やめてくれ。お願いだ。
「大変です。心臓が止まりそうです」
 スピーカーから叫ぶような医師の声が聞こえた。高梨がマイクに口を
近づける。
「強心剤を打ってくれ」
「打っちゃだめだ」
 滝田は周りの人間がびっくりするほどの大声をあげた。
「何を言ってるんですか、先生。倉田さんが死んでしまいますよ」
 美智子は声を荒げた。
「歴史が変わってもいいのか!」
 美智子の顔が歪むのが、視界のすみに映った。滝田は、自分のほほに
涙がつたうのを感じた。
 高梨が下の医師に指示する。
「待ってくれ。打たないでくれ」
「そんな。手遅れになってしまいますよ」
 下の医者が困惑した声を出した。
「とにかく、そのまま待機だ。私がいいと言うまで打つな」
 画面の中に、今度は石のハンマーが映った。のみが岩の表面に押し当
てられる。
「先生、お願いです。倉田さんを助けて下さい。スフィンクスの頭が傷
ついたくらい、どうだっていうんですか」
 美智子が哀願した。
「その事で何人もの関係ない人々が処罰されてもいいのか!」
 賭けだった。ひょっとすると名無しのエジプト人が思いとどまってく
れるかもしれない。それと倉田氏の心臓が止まるのと、どっちが早いか。
しかしエジプト人が考えを変える可能性は、ほとんどなさそうだった。
 その場にいる全員が沈黙していた。まるで息さえ止めているかのよう
に、静かだった。
 突然、スピーカーから看護師の黄色い悲鳴が響いた。
「どうした」
「倉田さんが起きだして、ベッドの上で四つん這いになっています」と
藤崎青年が答えた。
 レム睡眠行動障害だ。説得するなら今がチャンスだ。
「あなた、そんなことをしてばれたら死刑ですよ」
 滝田はモニターの方を向いたまま話しかけた。
 画面に空が映る。
「ばれないようにやる。もし死罪となっても、覚悟の上だ」
「あなたのせいで何の関係もない人達が処刑されてもいいんですか」
「何かを成し遂げるのにある程度の犠牲はつきものだ」
 くそっ。だめか。
「倉田さんが死にそうなんです」
 とにかく思いついたことを言った。
「それが私と何の関係があるのだ」
「あなたは倉田さんの夢が作り出した存在なのです」
「またその話か。私は信じていないと言ったはずだ」
「ではあなたには今までの記憶がありますか?」
「何度も言うようだが私は自分が何者なのかも分からない」
「それが何よりの証拠です」
 エジプト人は黙ったまま返事をしない。
 滝田が話している内容はすべて仮説だが、なにしろ彼に聞こえている
のは天の声だ。うまくすれば信じ込ませることができるかもしれない。
「ではこう言い換えましょう。あなたは倉田さんの分身なのです」
「私にはどうでもいい」
「倉田さんが亡くなれば、あなたの生命の灯も消えてしまうんですよ」
「ならばなおさらだ。そうなる前に私はこれを成し遂げる」
 だめか。何かやめさせる方法はないのか。
「あっ、左腕を振り上げました」と青年が言った。
「その腕を捕まえろ」
 一、二秒の沈黙がひどく長く感じられた。
「捕まえました」
 だが倉田氏の行動を制御しても、エジプト人には関係なかったようだ。
ついに、のみに石のハンマーが打ちつけられた。
「ああ!」
 今ならまだ間に合う。エジプト人を説き伏せるのだ。しかしどうやっ
て。
「あなたは大罪を犯しました。あなたの心臓は天秤にかけられました。
残念ながら真実の羽根より重いです」妙な事を言い出したのは意外にも
美智子だった。「アメミットが、倉田さんが死ぬ瞬間を待ち構えています。
彼が絶命すればあなたも世を去ることを知っているのです。あなたの心
の臓は怪物に食われるでしょう」
「私にどうしろと言うのだ」
 画面に映る風景は、周辺から闇が包み込むように黒くなってきた。も
う時間がない。だが美智子は先を続けるのを躊躇しているようだ。彼女
の意図を悟った滝田が代わって話す。
「自分でけりをつけて下さい。アメミットに気付かれる前に」残酷だが
仕方がない。「アアルで会いましょう」
 エジプト人は迷っているようだった。モニターの像が丸くなってきた。
 滝田はこれ以上何も言えなかった。彼を急かすようなことも。ただ成
り行きに任せるしかなかった。
 滝田の靴のつま先が床を叩き始める。
 袋からナイフが取り出された。胸に先端が押し当てられる。
「うう!」
 深々と突き刺さるのを見て、滝田は強く唇を噛んだ。
 画像の直径が徐々に短くなっていく。その円の中に、腰を抜かしてい
る仲間の姿が映っている。
「お前達ももうやめろ。アメミットに……食われるぞ……」
「倉田さんが倒れました」
 青年の悲鳴に似た声が聞こえた。
「強心剤を打て」
 高梨医師が怒鳴った。


   五

 滝田は倉田氏の病室に入っていった。前に会った倉田恭介の妻、倉田
芳子とその二人の息子がいた。といっても兄の方は夢の中で見ただけだ
が。
「まあまあ先生、御無沙汰しております」
「どうも、今日は」
「主人の診察ですか?」
「いえ、その後どうしているかと思いまして、ご様子を拝見させていた
だくために来ました」
「お父さん、こちら滝田、ええとなんとか病院の」
「滝田国際睡眠障害専門病院の滝田です」
 滝田は倉田氏を見て驚いた。この中肉中背のおっさんが、あのミイラ
のような倉田氏と同一人物とは思えない。
「倉田さん、今日は」
「ああ、今日は」
 ぼんやりしたやや低い声が発せられる。
「私が誰だか分かりますか?」
「いいえ。でも、滝田先生ですよね」
 その目はまるで滝田の後ろにある何かを見つめているようだった。
「では、私の声を覚えていますか?」
「いいえ」
「私は倉田さんの睡眠障害について検査をしていました。その時に見た
夢は覚えていますか?」
「いいえ」
 だとすると聞くことは何もない。滝田は安心した。
「お父さん、先生のおかげで目が覚めたのよ。体が治ったのよ」
「いえ、治療をしたのはこちらの病院ですから」
 そうだ。滝田は結局何もしていない。
「先生、それでね、主人の会社、なんとか持ち直しそうなんですよ。こ
れでミケにもご飯を食べさせられます。あ、ミケというのは野良猫でし
てね。いやあ医療保険に入っていて良かったですよ。入院とかいろいろ
かかりますでしょ」
 滝田はなんとなく、一刻も早くここを立ち去りたくなった。倉田氏が
恐ろしい事を言い出しそうな不安にかられた。このおばちゃんもやかま
しいし。
「あ、私は高梨先生に呼ばれて来たものですから。ちょっとお顔を拝見
させていただきたくて立ち寄らせてもらいました。今日はこの辺で失礼
します。いやあ、健康そうでなによりです」
 足早に病室を立ち去る。
 高梨医師からの報告では、あの後倉田氏は小暮総合病院で目覚めたと
いう。最初は二十時間程寝ていたが、一回の睡眠時間も徐々に短くなっ
て、消灯、起床時間に合わせて眠れるようになった。起きた直後どんな
夢を見ていたかの聞き取りは欠かさなかった。高校時代の同級生に会っ
ていた、空を飛んでいた、熊に追いかけられていた、等ありふれた内容
だ。
 滝田はエレベーターに乗り、受付で聞いた通り副院長室がある五階の
ボタンを押した。
 古代エジプト人になったり、滝田睡眠研究所に現れたり、小暮総合病
院の中を歩き回ったりといったことはなかったそうだ。
 廊下に出て高梨医師の部屋に向かう。
 その後レム睡眠行動障害も起っていないという。
「副院長室」と書かれたプレートがあるドアをノックする。
「どうぞ」という声が聞こえたので「失礼します」と言いながら入って
いく。
「お待ちしていました。滝田先生」
 高梨医師は快活な笑みを浮かべ、デスクの椅子から立ち上がった。
 彼には今もいい印象を持っていない。
 手で指し示されたソファに座ると、テーブルを挟んだ向かい側に高梨
も腰かけた。
「これから、どうなさるのですか」と滝田は聞いた。
「どうもしやしません。治ったら退院させて、おしまいです」
 この男は何の責任も感じていないのだろうか。滝田は腹がたってきた。
「学会で発表しますか? 研究の成果はお渡ししますか?」
 鞄の中にある三テラバイトのUSBメモリには、倉田氏の夢から抜粋
した映像と、その分析と考察が入っている。倉田氏に関する資料のうち
のかなり重要な部分だ。倉田氏の顔はモザイク処理し、文書にはK氏と
書いてある。音声のうち「倉田」の部分は「ピー」という自主規制音に
変えてある。高梨に預けるかどうかは今日の話し合いで決めるつもりだ
った。
「今日ご足労願ったのは他でありません。その件ですが、私どもの方で
慎重に検討を重ねた結果、公表はしないと結論付けました」
「ほう、そりゃまたどうしてですか?」
「古代エジプト人になってスフィンクスの頭を壊そうとしたなんて、そ
んなのはただの夢かもしれませんよ。実在したという根拠がありません」
「しかし、倉田さん自身として我々の研究室に現れたのはどう説明しま
す? 彼はあの部屋を見たことがないんです。証拠の映像も残っている
んですよ?」
「起こったのはすべてオカルト現象でしょう。合理的に解釈することな
んて所詮無理なんです。しかし、寄付金は約束通り提供させていただき
ますよ」
 最初に訪ねてきた時と、言っていることが違っていた。医学や科学の
世界に一石を投じるかもしれない。そう話していたのではなかったか。
「それは結構です。結局私達は何の役にも立っていませんから」
「とんでもない。先生方が睡眠障害の元凶である古代エジプト人を殺し
てくれたから、倉田は治ったんじゃないですか」
 頭に血が上った。
「いりませんよ、そんなの」滝田は自分の口調がきつくなるのを感じた。
「あなたは倉田さんが重態なのに夢の解明を優先させた。自分が名声を
得たいがために。責任を感じないんですか」
 高梨は急に能面のような顔になった。
「私達はわらにもすがる気持ちだったんです。倉田の夢に、病気の本当
の原因が隠されているかもしれないと考えたんです」
「私は後悔しているんです。倉田さんをまるで、実験動物みたいにして」
「先生に罪はありません。先生は昏睡状態の患者と夢見装置を通してコ
ミュニケーションを取ろうとしたんです。クランケとの会話は重要です。
先生は決して、倉田を実験台にしたのではありません」
 そんな大それたことではない。滝田にしたって、最初は興味本位では
なかったか。
 滝田は踏ん切りをつけられずにいた迷いに対して決断した。
「倉田さんの資料はすべて破棄します」
「そんな、もったいない」
「こんなものが公になったら、倉田さんはどんな目にあうか分かったも
んじゃありません」
 モザイクをかけたところでやっぱり安心はできない。
「先生、余計なお世話かもしれませんが、くれぐれもこの件は口外なさ
らないようお願いします」
 高梨との取引のことだろう。
 高梨は胸元に手を突っ込み、分厚い茶封筒を取り出した。それをうや
うやしく滝田に差し出す。
「では謝礼だけでも」
「いらないと言ってるでしょうが!」
 手を振って払い落とす。高梨は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。
 滝田は憤って立ち上がった。
「先生、夢と睡眠障害の関係について調査をされているのでしたよね。
その研究は、深めて下さい。睡眠異常に悩む人が減ることを祈っていま
す」
 滝田は返事もせず、副院長室を飛び出した。
 足が勝手に倉田氏の部屋に向かう。何かをしなければいけないような
気がした。全部彼にぶちまけてやろうか。
 すべては終わった。これからは普通の生活に戻るのだ。かわいそうな
犬や猫の頭に針を刺し、モニターの波形に一喜一憂し、美智子とくだら
ないことで口論するのだ。そうだ。それがいい。
 倉田氏の病室の前に戻ると子供が廊下の窓から外をながめていた。弟
の方だ。少年は滝田を見ると不安そうな顔をした。
 滝田はしゃがんで少年に微笑みかけた。
「退屈かい?」
「うん、つまんない」
 滝田は迷った。手に持った黒い鞄を見つめる。資料を取っておくべき
か捨てるべきかについてはずいぶん悩んだ。そして破棄すると決断した。
だが本当にそれでいいのだろうか。バッグを開き、USBメモリを取り出
した。
「これを」言葉がつまる。こんなことをして大丈夫なのだろうか。「これ
を、君にあげよう」
「なあに?」
「これはね、お父さんの病気について記録したものなんだ」
「僕にくれるの?」
「でもね、他の人に言っちゃだめだ。お母さんにも言っちゃだめだ。そ
れくらい重要なものなんだ。約束できるなら、君にあげる」
 少年はほほに人差し指をくっつけて首をかしげた。
「おじさんは、これを君に託したいんだ。託すって、分かるかい? 大
事なものを人に預けることだ」
 そうだ。この少年なら適任のような気がする。彼がこの内容を理解で
きるほどに成長した時、父親に起こった事実を知るだろう。後は、どう
するかは彼次第だ。少年はなおも考え込んでいた。
「うん、いいよ。僕が預かってあげる」
「そうか。誰にも内緒だよ。君とおじさんだけの秘密だよ」
「男の約束だね」
「そうだ。そうだよ。君は良い子だな」
 少年がUSBメモリを受け取るのを、複雑な思いで見ていた。




#551/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:25  (378)
眠れ、そして夢見よ 8−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/15 23:37 修正 第2版
   新たな夢


   一

 太陽の光がカーテンの隙間から漏れている。滝田はゆっくりとまぶた
を開く。何万光年も宇宙を旅してようやく目指す恒星にたどりついた宇
宙船の乗組員が、冷凍睡眠からたった今覚めたかのように。ゆっくりと
体を起こし、ベッドサイドテーブルの上にある目覚まし時計をつかむ。
まだ五時だ。セットしている時間は六時だが、最近ではこの時計が鳴る
のを聞いたことがない。
 歳とともに目覚める時間が早くなっていくのを感じる。大きくあくび
をし、頭をかく。元は真紅に近い色だったのが、すっかり薄桃色に変わ
ってしまったじゅうたんの上に足をおろす。
 カーテンを開くと薄い青色を帯びたような街が、もうすぐ起き出しそ
うな気配を見せていた。
 一段踏むたびに軋んで音を立てる階段を下りていく。だいぶ老朽化し
てきたな、と滝田は思う。滝田が老けていく早さに合わせて、この家も
また老いていく。売ってマンションでも買おうかと考えていた時期もあ
ったが、何を今更と思う。
 台所に立ち、水が入れっぱなしになっているやかんがのったクッキン
グヒーターのスイッチを押す。冷蔵庫を開け、きゅうりの漬物と卵を一
個取り出す。テーブルに置いてお新香のラップをはがすと、途中でちぎ
れて少しだけガラスの器の端に残った。それをはがして、大きい方と小
さい方を合わせて丸めてごみ箱に放った。急須をたぐり寄せ、ふたを開
けて中をのぞくと、湿ったお茶の葉が茶こし網にこびりついている。か
えようか、とも思ったが、昨日一度しか使っていないことを思いだし、
そのままにした。食器棚から小皿と湯のみと茶碗を取り出す。炊飯器を
開け、昨日の残りをよそう。椅子に座り、卵を割り小皿に落とし、醤油
の小瓶を握り、しずくをたらす。二滴、三滴。箸で混ぜると、黄味と白
味と醤油とがだんだんとその境界をなくし、それぞれの意味を失ってい
く。ご飯の真中に穴をあけ、流し込む。
 そうこうしているうちにやかんから湯気が吹き出してきた。滝田は笛
を開けたまま湯を沸かす。あの小うるさい音が嫌なのだ。
 座り込んでしまうともう一度立つのは面倒くさいと感じる。勢いを増
す蒸気に急き立てられて仕方なく立ち上がる。
 熱湯を急須にそそぎ、ケトルをクッキングヒーターの上に戻し、ほっ
として椅子に座る。しばらく待って湯のみにつぐと、ようやく朝飯の準
備が終わる。ご飯と卵をよく混ぜてほおばる。きゅうりをかじり、お茶
をすする。
 二年前までは、炊飯器など使わずコンビニで買ってきたレンジで温め
るだけの米を食べていた。五年前はトーストと目玉焼きだった。
 この国の人間は歳をとるほど日本人に帰るのかもしれない、と滝田は
感じる。どうして欧米化がいくら進んでも白米はなくならないのか。な
ぜレトルトご飯は味気ないと感じるのか。かまどで炊いていた頃の記憶
は、しっかりと遺伝子の中に残っていて、歳をとるに従ってよみがえっ
てくるのかもしれない。蒸らしたお米こそ、日本人の原風景なのかもし
れない。
 今では洋食、和食、中華、様々な料理が、安いものから豪華なものま
で、レンジで温めたりお湯を注いだりするだけでできる。二十一世紀に
入って猛烈に科学技術は発展し、それはこの国の食生活も変化させたよ
うだ。科学が進歩するほど、日本人は原風景から離れていくような気が
する。
 だがその繁栄も、最近になってようやく落ちついてきたようだ。新し
い世紀に入って続いた勢いも、さすがに終わりに近づくと萎えてくるの
かもしれない。
 しかし一旦沈静してしまうと今度は停滞期に入る。睡眠研究の分野に
おいても目新しい話題は出てこず、今までの大発見、大発明をつついた
り、いじくり回したりするばかりだ。
 滝田は自分の身の周りがどんどん老いていくのを感じる。つまらない
事を考えているうちにだんだんとまずくなっていく食事をやっと終え、
顔を洗いに行く。
 洗面台に立ち、鏡に映る髪が真っ白になってしまった自分の顔を、滝
田はぼんやりとながめた。


   二

「おはようございます」
 滝田が研究室に顔を出すと、宮田洋次が元気良く挨拶した。この真面
目だけが取り柄の小男は、夢見装置のプロジェクトに加わってから五年
目になる。天才型ではないが、何事もこつこつと忍耐強く続けるこの男
の最大の成果は、夢見装置で視覚情報だけでなく、聴覚の情報まで受信
できるようにしたことだろう。おかげで夢の映像だけでなく、音声まで
観測できるようになった。もっとも、音を得ることに先に成功したのは
アメリカだったが、こっちの方が、性能がいい。より明瞭に聞こえるの
だ。美智子のようなとげとげしさがなく、いい奴なのだが、なんとなく
物足りない。
 美智子か。
 あれから十年! 時間の矢は恐ろしいスピードで飛び去っていく。こ
の十年間にいろいろなことがあった。滝田には孫が生まれ、滝田研究室
のメンバーは入れ替わった。美智子はアメリカに、藤崎青年はイギリス
に移っていった。いずれも夢見装置を持つ研究所だ。新たにこの宮田と
いう男と、藤崎青年と同じくらいの歳なのだが、学生気分が抜けきれな
いまま大人になったような井上という青年がプロジェクトに加わった。
変わらないのは滝田だけだ。
「クラタさんという方から電話があって、先生にお会いしたいと言って
いました」
 滝田ははっとして宮田を見つめた。
「クラタ? 下の名前は?」
「いえ、苗字しか聞いていません」
 倉田恭介や倉田芳子とは別人だろう。彼らは滝田がこの研究所の所長
だということを知らないはずだ。だが、何かの機会に知った可能性はあ
る。
「年齢は? おじさん? おばさん?」
「若い男の方のようでした」
 滝田は目を伏せた。
「あ、そう」
「先生は九時半頃に出勤すると言いましたら、ではそのくらいに伺うと
いうことでした。お断りしますか?」
「いや、一応会うよ」
 廊下に出てゆっくりと歩く。
 何を期待したのだろう。倉田氏の件はもうずっと昔の話なのだ。今に
なって彼らが滝田に何の用があるというのか。
 所長室に入り、エアコンのスイッチを入れる。涼しくなるまでにはし
ばらくかかる。もうそろそろフィルターの掃除をしなければな、などと
思う。このクーラーももうだいぶ古くなってしまった。コーヒーメーカ
ーから一杯注ぎ、いつものように論文や学術誌の山とパソコンがのった
机の前に座る。ポケットから煙草とライターをもたつきながら引っ張り
だし、眉を八の字にして火をつける。顔を仰向けて空中に紫煙の矢をふ
く。
 出勤してしばらくの間は何もやる気がしない。もう頭脳労働をするの
は限界なのかもしれない。頭が働き出すまでに二時間や三時間は平気で
かかる。午前中はまるで仕事にならない。パソコンの電源を入れ、煙草
を持った腕をだらりとたらして起動画面を見つめる。起動するまでの間
は休憩時間だ。もっとも、立ち上がったからといってしばらくはぼんや
りしているのだが。
 煙草をたっぷり根元まで吸い終わると、それをくすんだ銀色の灰皿に
すりつけ、今度はゆっくりとコーヒーを飲む。初夏の日差しは研究所に
着くまでの間に体を幾分汗ばませていたが、滝田はホットコーヒーを飲
む。煙草の後のアイスコーヒーは腹の調子が悪くなる。
 パスワードを入力したがメールをチェックする気にもなれず、たいし
て読む気もない論文の字面をおっているうちに一時間ほどたっただろう
か。いきなりノックもなく部屋のドアが開いた。そんなことをする人間
は一人しかいない。思った通り、井上が顔を出した。
「先生、お客さんっすよ」
「あ、そう」
 長く伸ばした髪を茶色に染めているのはとても研究者には見えない。
頭もたいして切れないのだが、性格がのんきなのだけが救いだ。
「応接室に待たせてますんで」
「うん。すぐ行く」
 井上が扉を開け放したまま行ってしまうのを見て、滝田は苦々しく顔
をしかめた。
 近頃の若いもんは、などと考え始めている自分に気づいた。


   三

 応接室に入っていくと、水色と白のチェック柄のTシャツにジーパン
というラフな格好の若者がソファから立ち上がって会釈をした。
「こんにちは」ととりあえず挨拶する。
 若者は滝田の顔を見ると満面の笑顔になった。
「あ、こんにちは」
「あの、面会の場合はアポを取ってくれないと困るんですけど」
「先生、僕のこと覚えていませんか」
 奇妙なことを言う青年に滝田は不信感を抱いた。見覚えのない顔だ。
「僕、倉田志郎といいます。倉田恭介の息子です」
 あっ、と驚いた。そうだ。倉田という名で若い男といえば、倉田の息
子がいたではないか。突然の再会にびっくりすると同時にうれしくなっ
た。
「弟さん? それともお兄さん?」
「弟の方です」
 すると、USBメモリを渡した子だ。
「いやあ、大きくなったなあ。まあまあ、とにかく座って」
 青年が座るのに続けて滝田も腰掛けた。
「久しぶりだなあ。今、何やってるの?」
「大学生です。先生はお元気ですか」
「ああ、元気でやってるよ。今日は何の用?」
「まずはお礼を言いたくて。先生から頂いたUSB、もらった当時は何な
のかさえ分かりませんでした。高校生になった時に父がパソコンを買っ
て、中身を見て、難しい用語は分からなかったのですが、父がどういう
状態だったのかなんとなく知ることができました。有難うございます」
「だったら、今はもっとよく分かるだろう?」
「はい、検索して調べましたから」
 記録に余計なことを書かなかっただろうか、と滝田は心配になった。
大丈夫だ。夢の観察はあくまで病気の原因を探るためということになっ
ていたはずだ。
「どうしてここが分かったの?」
「滝田国際睡眠障害専門病院は見つかりませんでした。滝田研究所のホ
ームページを見て来ました」
 サイトには滝田の名前も顔写真も載せているから、渡した名刺がまだ
あれば分かるだろう。
「お父さんは今どうしてる?」
「父は二年前にクモ膜下出血で亡くなりました」
「そうか。お気の毒に……」
「僕は秘密を守りました。だから父は何も知らずに死にました。その方
が幸せだったと思います」
「そうだね。お父さんは自分に起こった事を覚えていないようだったか
らね」
 滝田は倉田氏を見殺しにするつもりだった。だが美智子の機転によっ
て助かった。しかし結局は死去してしまった。まああの悪夢のような状
態で亡くなるよりはマシだろう。
「先生の考えはおもしろいですね。前世の記憶をたどって過去にさかの
ぼったなんて。僕、すごく興味を持ちました」
「ああ、あくまで推測だけどね。しかしあの睡眠障害はなんだったのか、
前世に戻るとしても、どうしてそんなことができたのか、全く分からな
いままなんだ」
「僕も結論を出すまでに時間がかかりました。僕達の症状はいったい何
なのか。最近になってようやく僕なりの考えがまとまってきたんです」
 僕達? 滝田は聞きとがめた。この青年は何を言っているのだ?
「実は僕、毎日の睡眠時間が二時間くらいなんですよ。中学の時からず
っとです」
 あまりにもさらっと言ったものだから、滝田は目をむいた。青年は笑
顔のままだ。日に焼けたその快活な表情は、とても病気には見えない。
「君は、不眠症なのか」
「そうなんです。でも、先生。僕は大丈夫なんです。昼間居眠りをする
わけでもないし、どこか体が悪いわけでもないんです。それでも母は心
配して、あっちこっちの病院に連れていきました。でも、どこでも同じ
です。薬をもらって、それでおしまいです。生活にも支障はありません。
結局母はあきらめました」
 久しぶりの再会の喜びが、早くも不吉な疑念へと変わり始めた。父親
の睡眠障害は複雑怪奇なものだったが、息子の症状も変わっている。睡
眠時間が二時間だって? それでどこにも異常がないって? 中学から、
大学まで。
 もっとも、八時間は寝るべきなどというのは、人が勝手に決めこんだ
ことであって、短い時間の眠りでも平気な人間は存在する。ナポレオン
が毎日三時間しか寝なかったのは有名だし、エジソンも短眠者だった。
もっとも、ナポレオンは居眠りの天才であったとも言われているが。
「記録を読むまで、僕は自分の不思議な病気がなんなのか分からなかっ
たんですよ。この症状が始まってから時々見るようになった夢のことも」
 どうやら不吉な予感が当たりそうだ。この青年も、父親のような夢を
見るというのか。
 彼は少しも不安な様子を見せず、いきいきとした調子で続ける。
「僕は、父とは反対に未来が見えるんです。少し先のことから、遠い将
来のことまで。中学の頃は本当に時々でしたが、今は確実に見ることが
できます。見る、というより、行くといった方がいいかもしれません」
「つまり君は、予知夢を見るというんだね。君はそれが本物だって証明
できるかい?」
「証明、というとちょっと難しいんですけど、よく当たるんですよ。遠
い未来は実証できませんけど、近い将来ならまず当たります。先生は明
日危ない目に会いますよ。先生がびっくりした顔をして急ブレーキを踏
むのを、昨日夢で見ちゃったんですよ。僕は横にいました。もう少しで
大事故ですよ」
 まさか、と滝田は思う。父親が特殊な能力を持っていたからといって
その息子にもそんな力があるなんて。作り話ではないのか?
「で、君の考えはどうなの? お父さんや君の能力は、何だと思うんだ
い?」
「タイムトラベルの一種です」
「超能力っていうこと?」
「そうです。僕は父とは違って、睡眠時間は短いものの普通に生活する
ことができます。僕らの力は夢が大きな役割を果たします。だから、発
現できるようになる時に、代償として眠りに異常が起こるんだと思いま
す」
 それは滝田もこの十年間考えていたことだった。滝田は青年の意見を
もっと聞きたいと思った。
「お父さんの睡眠異常は何だったんだろう?」
「父は無意識に試行錯誤したんだと思います。自分の望む最適な状態は
何なのかを。そしてクライン・レビン症候群にたどりつきました。いつ
でも好きな時に夢の中で出現できますからね」
「じゃあ、レム睡眠行動障害は?」
「眠りっぱなしだと、外界との意思疎通が遮断されてしまいます。夢の
中に閉じ込められてしまうんです。そこでコミュニケーションの手段と
してレム睡眠行動障害という形を取ったんです」
「それはお父さんが意識して望んだものではなく、あくまでも潜在意識
下での願望なんだね?」
「そうです」
 滝田も同じように考えていた。ただし、滝田の見解が仮説であるのに
対し、青年の言い方は確信に満ちている点が違うが。
「じゃあ君の不眠症は?」
「僕は、何をするにも集中力を維持するのが、二時間が限界なんです。
予知夢を見るのも同じです。人は眠ってから一番深いノンレム睡眠に達
して、その後眠りの浅いレム睡眠になるんですよね。かかる時間は九十
分。でも個人差がありますよね。僕の場合は二時間なんです。普通なら
この周期を繰り返すんでしょうけど、僕はそれ以上注力することができ
ませんから、目が覚めてしまうんです」
「夢を見るのに集中力が必要なのか。それは興味深い話だね。しかしそ
んな能力のために君やお父さんが睡眠障害を抱えなければならないなん
て、なんだかかわいそうだなあ」
「とんでもない。これは素晴らしいことなんですよ」
 素晴らしいだと? 歴史を変えてしまうような恐ろしい力が輝かしい
ものであるはずがない。
「私はね、エジプト人はお父さんの夢が作り出した架空の存在であるか
のように思っていた。だがあのエジプト人は実在した本物だったのかも
しれない。だとしたら私は人殺しをしてしまったことになる。それでこ
の十年悩み続けてきたんだよ」
「本人ではないと思いますよ。だって高貴な人物なんでしょう? そん
な人が記憶喪失になったからといって砂漠をさまよっているでしょうか。
僕には不自然に思えます」
 滝田にはなぐさめのようにしか聞こえない。
「じゃあ君は何だと思うんだい?」
「アバターのようなものだと思います。ほら、オンラインゲームで髪型
や顔や服装を自分好みにカスタマイズした分身を作るでしょう? 同じ
ように夢の世界の中で自由に動けるアバターが必要なんです。父はその
分身にまず御見葉蔵の記憶を植え付け、インド人の記憶を植え付け、エ
ジプト人の記憶を植え付けていったんです」
「どうしてそんなに確信を持って言えるんだい?」
「僕がそう感じるからです。夢の中で行動する人物は僕自身だという気
がしません。あくまでも複製なんです」
「本物とは別に偽者がいたっていうこと?」
「そうです。おそらくエジプト人だけでなく、御見葉蔵も、父自身も」
「でもエジプト人もインド人も君のお父さんとは別人だろう?」
「御見葉蔵は前世の自分、インド人も前世の自分、エジプト人も前世の
自分、全部自分であることに変わりはないでしょう?」
 なんだかうまく言いくるめられた気分だ。察しはついたが、一応聞い
てみる。
「なるほど。君の意見は分かった。で、もう一度聞くが、今日は何の用
だい?」
「先生にお願いがあるんです。夢見装置で僕の夢を観察してほしいんで
す」
 冗談じゃない。倉田氏でもうこりごりだ。その息子をまた興味本位に
実験台にするなんて。
「それは困るよ。夢見装置は君の助けにはならないと思うんだ」
「いえ、助けるとか、そういうことではありません。僕は、最近はかな
り先の未来の夢ばかり見ます。それは、人類が月に進出した時代なんで
す。僕はある人物の名前を耳にしました」
 青年の瞳が滝田を直視する。
「本当のことを言うと、僕は先生に会いに来るつもりはなかったんです。
今頃になって来たのは、先生ならその人が誰なのか分かるかもしれない
と思ったからなんです」
「もったいぶらずに言ってくれないか。それはどんな人物なんだい?
私に関係あるのか」
「タキタという人なんです」
 なんだと?
「下の名前は?」
「分かりません。月面の日本人基地で、会話の中にその名が出てきただ
けなんです。詳しいことは分からないんです」
「しかし、タキタという姓は別に珍しくもないだろう」
「そうです。ですからここに来るべきかどうか迷いました。だから、ぜ
ひ先生自身に確かめてほしいんです。そのためには僕を夢見装置につな
ぐしかありません」
 滝田は苦笑した。
「その人物を見られたとしても、未来の話なんだろう? 私の家族か親
戚だとしても、判別できるかどうか……」
「分からないかもしれません。しかし分かるかもしれません。僕は先生
に関係あるという気がしてならないんです。これはもう僕の第六感を信
じてもらうしかありません」
「それも超能力なのかい?」
「いえ、そういうわけではありませんが」
 青年の話を信じるべきかどうか。いずれにせよ装置を使わなければ確
かめられない。
「そうかい。それじゃあとにかく、明日また来てくれ。一度だけなら夢
見装置につないであげてもいい。あれはおもちゃじゃないんだ」


   四

 論文の字面を漫然と追う目を、滝田は壁の時計に向けた。夜の九時を
十分ほど回ったところだ。
 遅い。何をやっている。
 再び視線を紙に戻す。読んでなんかいない。ただながめているだけだ。
滝田は一日中落ち着かなかった。今朝起こった事件のためだ。まさかと
思ったが、倉田志郎の予告が的中したのだ。いきなり横から飛び出して
きた車に、もう少しで衝突するところだった。
 青年と約束していた時間は九時だ。だがまだ来ない。
 ドアをノックする音にはっとして顔を上げた。
「どうぞ」
 しかし現れたのは井上だった。がっくりと肩をおとす。
「先生、昨日の人が来てますよ」
 再び息をのんで身を乗り出す。
「入ってもらって」
 立ち去ろうとする井上に声をかける。
「宮田君は? もう帰ったの?」
「ええ。僕も帰ります。んじゃお先に」
 ひどい音をたててドアを閉めた。
 滝田は胸の前で両手の指を組み合わせる。井上は最初から当てにして
いなかったが、宮田も帰ったとなると他の研究室から応援を呼ぶか、滝
田一人でやるか、どっちかだ。
 再びノックの音がして、穴があくほどドアを見つめた。
「どうぞ」
 倉田志郎がにこやかな表情で現れた。
「こんばんは」
「ああ、こんばんは」
 慌てて職業的な笑顔を作る。
「どうでした? 僕の予知夢は当たりましたか」
「ん? ああ、驚いたよ。まさか本当に起こるとは思っていなかったか
ら」
「そうですか。良かった。少しは信じてくれる気になりましたよね」
 青年はかぶっていた帽子をとった。滝田が指示した通り、丸坊主にな
っていた。
「それじゃあ、行こうか」
 青年の脇をすりぬける時、かすかにいい匂いがした。近頃の若者は男
でも香水をつけるのか。あらためて自分が年寄りになってしまったこと
を感じる。
 滝田が先に立って階段を降りていく。歩きながら考える。自分は単な
る興味から倉田志郎の夢を見ようとしているのだろうか。青年がタキタ
という人物に何かしようとしたら、そのアバターを殺したいのではない
か。
 そんなことを考えているうちに、被験者を寝せるベッドルームに着い
た。分厚い扉を開け、先に入れと手で示す。青年は臆することなく堂々
と入っていった。
「へえ。ここで父の夢を観察したんですか」
 滝田は答えずベッドの脇に立った。
「仰向けになって。服はそのままでいい」
 滝田は言われた通り横になった青年にヘルメットをかぶせた。
「すぐに眠れそうかい?」
「いえ、いつも眠くなるのが三時くらいなんですよ」
 錠剤が入ったシートの銀紙を破る。ポットから水をコップに注ぐ。
「睡眠導入剤だ。飲んで」




#552/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:27  (293)
眠れ、そして夢見よ 8−2   時 貴斗
★内容
   五

 午後十時過ぎ、脳波にシータ波が現れ始めた。青年はようやく眠りに
入ったようだ。彼の言う通りだとすると二時間後には夢が見られるだろ
う。
 隣の部屋は青年が寝やすいように、観察できる最低限の明るさにして
ある。
 滝田はまだ何も映さないモニターをじっと見つめ、息をひそめて彼の
眠りが深まるのを待った。
 十一時を少し過ぎた。立ち上がり、脳波計を見る。デルタ波の状態へ
と移行しつつあった。深い睡眠状態だ。
 滝田まで眠くなってきた。首を激しくふり、両手で頬をたたく。
 何かを待ちつづけるというのは、根気のいる作業だ。やたらと腕時計
をのぞきこむ。九十分をすぎたが、何も起こらない。
 十二時二十分、今日はもう無理か、と思い始めたその時、大型モニタ
ーの画面がゆっくりと明るくなっていった。砂嵐のような画面が現れ、
何かの像をむすび始めた。
 上半分が黒、下半分が灰色に分かれ、徐々にどこかの風景であること
が分かってくる。それは、夜の砂漠のようだった。だがそうではあるま
い。青年は、最近は月の夢ばかり見ると言っていた。これがそうなのだ
ろうか。
 青年の夢もまた、カメラで撮影する風景のようだった。視線は右の方
へと動いた。白い板が四本の脚に支えられている。クレーンがつり下げ
た銀色の巨大な筒をそのテーブルの上に降ろそうとしている。二人の人
間らしきものが運転席に向かって合図を送っている。大きな四角いバッ
グを背負い、ヘルメットをかぶった白っぽいそれは、一見ロボットのよ
うだがおそらく宇宙服を着た人物なのだろう。
 青年は傾斜の上の方にいて、彼らを見下ろす形になっている。
 風景がそちらの方に向かって移動し始めた。だんだんと二人に近づい
ていく。
「すべて順調だ」
 突然スピーカーから声が聞こえた。乾いた、電気的に変換されたよう
な声だった。倉田志郎が聞いている音声だ。
「着陸船は二時間後には出発できるだろう」と男は言った。「三時間後に
は輸送船とドッキングだ」
 たぶんもう一人の人物に話しかけているのだろう。男達は青年の方を
向かない。
 青年は、それが未来の風景だと言った。しかし滝田にはまるで映画か
ドラマの一シーンのようにしか感じられなかった。
「念のために第二タンクのチェックをもう一度やっておこう」と、もう
一人の男が言った。
 二人の会話は滝田にはチンプンカンプンだ。青年には理解できている
のだろうか。というより、今この二人を見ているのは青年自身なのだろ
うか。それともアバターなのだろうか。二人は彼に気付いていないよう
だ。
「もうそろそろ交換した方がいいかもしれないな」
 画面が二度瞬いた。
「誰に……だっけ?」
「ああ……言えば……」
 声がとぎれとぎれになってきた。画面がだんだん暗くなっていく。夢
の終わりだ。
「じゃ……任せた」
 風景が静かに消えていった。


   六

 滝田は自販機で缶コーヒーを買い、自分用に所長室でカップに注いで
ベッドルームに戻ってきた。
「どうでした? 撮れましたか」
 手帳にメモを取り終えた青年ははつらつとした顔で言った。夢は見た
直後でないと忘れてしまうから、習慣になっているという。
「ああ、ちゃんと録画してある。見るかい?」
 滝田はベッドに腰掛けた青年と向かい合って座った。滝田がアイスコ
ーヒーを渡すと青年はうまそうに飲んだ。滝田も一口すする。
「また今度にします。早く帰らないと母が心配するんで」
 いい子だな、と滝田は思う。
「私は君が寝ている間に見たけど、なんだかよく分からないな。ありゃ
いったいなんだい?」
「ああ、月の土を火星に持ってくんですよ。火星基地の建設計画がスタ
ートしてるんです」
 青年はこともなげに言った。
「いったいいつの話だい? 何世紀頃なんだろう」
「さあ、何年かはまだ聞いたことがありません。ただ、そんな遠くの未
来の話ではないと思いますよ。おそらく二十年後くらいだと思います。
たぶんそのタキタという人物は……」
「何だね?」
 思わず身を乗り出す。
「いや、やめときましょう。第六感ですから。それに、僕は先生自身の
目で確かめてほしいのです」
 なんて奴だ。もっと夢見装置につないでほしくてかけひきをしている
のだ。だが、滝田はそれ以上問い詰めるような真似はしなかった。
「僕は先生が心配しているようなことはしませんから、安心して下さい」
「私が心配してること? さあ、なんだっけ」
「僕が未来の歴史を変えてしまうことです」
 たしかに、過去を変えるのは重大だが、未来の歴史を変えるのも問題
だ。
「しようと思ってもできないんです。僕は、夢の中でしゃべれません。
ものにもさわれません。夢の中の人物は、僕を見ることができません。
魂みたいなもんですよ」
 未来を見る者。それは大変役に立つ。もしあの映像が本物であるのな
らば、将来の様子を現在の者達に伝える役目を果たす。だが、このビデ
オもまた闇に葬り去ることになるだろう。もし公にすれば、倉田志郎は
どんな目にあうか分からない。
「月に進出した人類だって言ってたね。ところが今度は火星に行くんだ
という。あと、二十年で。宇宙開発はもうそんなに進んでいるんだろう
かね。僕には信じられないけど」
 青年は握った缶コーヒーを見つめたまましばらく身動きしなかった。
「分かりません。ただ、あれは実際に見てきた風景ですから、将来ああ
なることは確実です。先生は予知夢だと言いましたけど、ちょっと違い
ます。僕は予知なんかしていません。つまり、どう言ったらいいのかな」
青年はりりしい眉を少しゆがめた。「あれは、行って観察してきた事実な
んです」
 二十年も先の話だが青年にとっては既製の事実なのだ。
 もちろん、それはまったくのでたらめなのかもしれない。ごくごく近
い将来については、確かに青年の言う通りになった。しかし遠い未来は、
青年が言ったように、証明することができない。
「夢で見るのはあのクレーンだけかい?」
「いえ、月にはもう立派な基地ができていて、着々と開拓の計画を進め
ています。僕も何度も出入りしています。僕は見たり、聞いたりできる
だけですけど。もうあと十年もすれば、一般の人も月に住めるようにな
るみたいですよ」
 やはり、青年にとっては既製の事実なのだ。彼の言う十年後は滝田に
とっては三十年後だ。
 こんなに科学の発展が停滞しているのに、たったそれだけの期間で地
球人が月面に移住するようになるのだろうか。滝田は、たまに帰ってく
ると自分が手をつけ始めた宇宙開発事業の自慢をする長男の言葉を思い
出した。
「これからは宇宙の時代だよ。狭い地球から飛び出そうっていう時にさ
あ、親父みたいに人が寝ているとこばっかり研究してちゃだめだよ」
 ニュースでは静止軌道上の人工衛星が過密状態になっていることが問
題になっていると報道されている。はるか上空で組み上げられた宇宙ス
テーションは十基もあり、それこそあと八年後には人が住めるようにな
るという。だから結構早いうちに、青年の夢の風景がその通りになるの
かもしれない。
 青年はもう缶コーヒーを飲み終わったらしく滝田のカップを見つめて
いる。
「今日は何で来たの?」
「電車です」
「終電には間に合いそうもないな。送っていこう」
「はい。お願いします」
 青年は立ち上がって頭を下げた。
「明日もまた来ていいですか」
「ああ、もちろん」
 滝田の方が頼みたいくらいだ。


   七

 翌日、今度は九時ちょうどに青年はやってきた。昨日の夢を青年に見
せてやると大いに感心した様子だった。滝田達はベッドルームに行った。
青年が眠りについて二時間、滝田は何か暇つぶしをするでもなく、真っ
黒な画面を見つめていた。するとモニターに夢が現れた。
 車のフロントガラスにたたきつける暴風雨のように踊り狂う光点達が
やっと静まると、対照的に凍ったような月面が映し出された。
 それは、まるで一枚の絵画を見ているかのようだった。漆黒の空に砂
糖を一つまみとってさらさらとまいたような星々が鮮やかだ。きっと地
球と違って大気がないから、そんなに鮮明に見えるのだろう。地平線の
上に、ここではお月様のかわりに青い地球が浮かんでいる。地上には灰
色のかまぼこのようなものが放射状にのびている物体がある。それぞれ
の先端に箱が付いている。あれがたぶん青年が言うところの基地なのだ
ろう。なにやら四角い板が斜めに傾いて縦横にきれいに並んでいるのは
太陽電池だろうか。
 未来に行った青年は、それを見晴らしのいい丘に立ってながめている。
それは、滝田も見ていることを意識してサービスしてくれているのかも
しれない。
 青年は下を向いた。一部緩やかな坂になっている。彼は動き始めた。
放射状のかまぼこがだんだんと大きくなってくる。そのうちの一本の端
が口を開けていて、中から光が漏れている。
 明かりに吸い寄せられる羽虫のようにその中に入っていく。
 オレンジ色のライトが照らすそこはまるで巨大なトンネルのようだっ
た。アニメに出てきそうな月面走行車が陣取っている。その横を抜けて
奥に少し進むとすぐに頑丈そうなドアに道をはばまれた。青年は躊躇す
ることなく進んでいく。扉が目の前に迫ってきた。
 ところがどうだろう。風景は一瞬にして切り替わり、今度は白い明か
りが照らす壁も床も真っ白な部屋に出た。青年はドアを開けることなく
すり抜けたのだ。
 その狭い空間はいったい何だろう。
 ああ、分かった。外は真空に近い空間だ。人間が出入りする際に、圧
力を調整するための場所が必要だ。そこはエアロックなのだ。
 青年は前方の扉もすり抜け、施設内に入りこんだ。外側から見ると半
円形の筒だったが、中は四角い通路だった。
 紺色のジャンパーを着て野球帽のような帽子をかぶった二人の男がい
て、一人はホースらしきものを片づけ、もう一人は壁のパネルを調べて
いるようだった。
「おい、Aチームの人間が一人まだ戻ってないらしいぞ」
 ホースの方がもう一人に向かって言うと、画面が揺れた。青年は男の
言葉に動揺したようだ。
「本当か。おいおいマジかよ。規則違反だぞ」
 パネルの方の男が答えると、青年は突然駆け出した。
 いったいどうしたのだろう。Aチームという言葉に反応したようだが。
 半球形のホールに出た。内壁がにぶく光るその場所はいかにも殺風景
だ。取り囲むように扉が並んでいる。どうやらそこから放射状に広がる
通路に通じているらしい。風景が左右に動いて、青年は正面から左に数
えて二つ目の入り口に走りこんだ。
 音は聞こえているはずだが、静かだ。青年の足音は聞こえない。人気
のない不気味な白い通路を走っていく。
 突然騒がしくなった。たくさんのテーブルが並んでいて、大勢の人間
がプラスチックのトレーにのったサンドイッチやロールパンを食ってい
る。紺や緑のジャンパーを羽織った男達が食べ物を持って歩き回ってい
る。女性の姿も見える。ここは食堂だ。
 外国人はいないようだ。なるほど。日本基地というわけか。
「地球ではもうすぐ人口爆発が……」
「メンデレーエフ・クレーターじゃ今……」
 様々な声が入り混じって聞こえる。その中から「Aチーム」という単
語が聞こえた。風景はその声が聞こえた方向に移動していく。
 頭のてっぺんがはげてその周りからちぢれた白髪をはやした爺さんが、
若い背が高い男に向かってしゃべっている。彼らは青年の方には見向き
もしない。
「一人まだ帰ってきてないそうだが。Aチームの連中は心配してるけど
大丈夫かね」
 若い男が答える。
「タキタさんですよね。何か事故にでもあったんでしょうか」
 これか! 滝田の知っている人物か、全然関係ない人間か分からない
が、何かトラブルに巻き込まれているらしい。
 画面が点滅し始めた。なんてことだ。
 爺さんがフランスパンをかじる。
「もう八時間も外に……」
 若い男が答える。
「タンクのエア……大丈夫でしょうか……」
 画面が暗くなって、消えた。
 滝田は、今日の夢はもうおしまいだと思った。だが考え込んでいるう
ちに、再び画面が明るくなるのに気づいた。砂嵐がおさまった後現れた
のは、雨が降り注ぐ滝田睡眠研究所だった。それは、ほんの二秒ほどで
消えた。


   八

 今日も夜の九時をすぎた。雨はまだ降り続いている。滝田は青年が来
るのが待ち遠しかった。
 ノックの音が聞こえた。「どうぞ」と声をかける。
「こんばんは」
 青年が顔を出した。
「昨日の最後のやつは、おまけかい?」
 滝田は吸っていた煙草を灰皿に押しつけた。
 昨晩は聞かなかった。的中するとは思わなかったのだ。
「ええ。見ようと思って見たわけじゃないんですけど」
 青年が予知夢を見ることは確定的になった。
「今日は昨日の続きが見られるのかい?」
「たぶん今日あたり、会えるような気がします」
「ふうん、そりゃ楽しみだ」滝田は立ち上がった。「それじゃあ、行こう
か」
 薄暗い廊下を歩き、階段を降りる。
 もう三日目か、と滝田は思う。こんなに遅くまで残っているのは、最
近ではないことだ。
 ベッドルームに入ると、青年はもう慣れて自分からベッドにのぼる。
 青年に眠剤を与えてから研究室に行く。そしてまたしてもモニターと
にらめっこを始める。待っている間論文なり学術誌なり、何か読んでい
ればいいのだろうがそんな気分にはなれない。
 一時間が経過する頃、画面に砂嵐が現れた。いつもより早い。白黒の
点の集合が像を結び始める。
「おーい、タキタ!」
 凍った砂漠のような大地を、何人もの人間達が歩いている。宇宙服に
身を包んだ彼らの様子を見ても、これが未来に必ず起こるのだという実
感がわかない。どこか映画のようで非現実的だ。それは月面という、滝
田の日常生活からかけ離れたものであるせいだろうか。
「おーい、タキタ! どこだあっ!」
 青年は彼らの無線通信を傍受できるのだろうか。真空に近い空間でそ
んな大声を出しても当然伝わらない。信号がタキタの耳に届いているこ
とを想定しての行為だろう。
 画面が動き始めた。だんだんとその人物達に近寄っていく。青年は彼
らの中に遠慮なく入っていった。
「だめだ。確かにこっちの方に行ったのか」
「ああ。間違いない」
 ヘルメット同士が顔を向き合わせる。
「もう酸素残量が少ない。二次酸素パックのエアと合わせても、もう切
れているかもしれない」
 なんてことだ。Aチームのタキタは、今日青年の夢の中で死んでしま
うのか。滝田は自分とは全く関係がない人物であることを祈った。
「峡谷の方に行ってみよう。そこに落ちたとしか考えられない」
 先頭の人物が進行方向をやや左の方へと変える。
「おおい、タキター!」
「タキター、いたら返事をしてくれ!」
 タキタを呼ぶ、複数人の声。ただひたすら歩き続ける。三分、六分…
…
 やけに時間がかかる。その峡谷というのは遠いのか。滝田の手の平に
汗が浮かぶ。早くしてくれないと青年の夢が終わってしまう。
 八分が経過。願いむなしく、画面が点滅を始めた。
「おーい……タ……」
 声が途切れる。画面が暗くなっていく。そして夢のストーリーは尻切
れとんぼのまま、消えた。
「ああっ」
 滝田は頭をかかえこんだ。今日もまたおあずけか。まるでいいところ
で終わってしまうドラマのようだ。誰か、滝田にとって大事な人かもし
れないのに。その人物が重大な危機に直面しているのに。
 青年はこれまで、一度の眠りで一回の夢しか見なかった。いや、雨の
夢を入れれば二回か。するとまだチャンスはある。
 いずれにせよ、青年が起きるまでは滝田も観察を続けるのだ。このま
ま待つことにしよう。
 立ち上がり、脳波を記録しているPCを見る。だんだんと深い眠りへ
と戻っていく。
 真っ暗な夢見用モニターをいらいらとながめ、箱から煙草を抜き出し
て火をつける。久しぶりに靴を踏み鳴らしていることに気づいた。
 一連の物語を形作る青年の夢。それはまさに連続もののドラマのよう
だ。「続く」という文字が出そうな雰囲気で消えていく。こんなことは普
通の人間ではあり得ない。青年は今後も月面を漂い続けるのだろうか。
 十分もたつと、緊張感を維持するのが難しくなってきた。うとうとし
てきた。頭をふり、立ち上がって脳波を見る。デルタ波が出ている。熟
睡状態だ。
 椅子に座り、背を丸め、両手で膝をしっかりとつかんでモニターをに
らむ。
 まぶたが自然と降りてきて、両腕の力がぬけてきた。




#553/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:31  (128)
眠れ、そして夢見よ 8−3   時 貴斗
★内容
   九

 スピーカーのノイズ音で目を覚ます。いかんいかん、いつの間にか眠
ってしまったようだ。画面には砂嵐が現れていた。二時間の間に二度夢
を見ることもあるわけだ。青年が覚えていないだけで。
 それは期待通り、さっきのシーンの続きだった。彼らの目の前には大
きな谷が広がっている。タキタはここに落ちたのだろうか。
 大変なことになった。こんな所に落ちて、助かるわけがない。
「おーい! タキタ!」
 宇宙服の人物達が、崖のふちに手をついて叫んでいる。
「いたぞ! あそこだ!」
 青年は近寄って下をのぞきこんだ。
 かなり深い峡谷だ。その途中の岩場に、骨組みと車輪だけのおもちゃ
のような月面車がひっくりかえっているのが見えた。そしてそこからさ
らに下に、小さく白い人物がうつぶせに倒れているのだった。
 危険だ。彼はかろうじて岩にひっかかっている。このままでは落ちて
しまうかもしれない。
「しっかりしろ! 今行くぞ!」
 ロープが放られ、宙を舞う。
「俺が行く」
 一人がそう言って、縄をつかんで下り始めた。
 ごつごつした岩肌に足をかけながら慎重に下っていく。ヘルメットの
丸にタンクの四角が、だんだんと小さくなっていく。
 月面車の横を通り過ぎた。
「あと少しだ!」
 誰かが叫んだ。
 頼む、生きていてくれ。それが誰であるにせよ。
「あっ」
 誰かが叫ぶのと、モニターの前の滝田が声を上げるのが同時だった。
男は足を岩にかけそこなったらしく、ロープをつかんだまま急速に降下
した。
 ひやりとしたものの、どうにかもち直したようだ。おかげでタキタに
一気に近づいた。
「大丈夫か、ヒラタ」
 ああ、あの男はヒラタというのか。ヒラタと呼ばれた男は、こちらに
向かって手をふってみせた。
 なんとか無事タキタが倒れている岩の上に下り立った。タキタの肩を
揺さぶるがぴくりともしない。もう死んでいるのか?
 ヒラタはタキタを抱え起こしてロープにつかまった。だがタキタを抱
えたままではとてもじゃないが上れない。上げてくれと手で合図した。
 風景が仲間達の方へと動く。彼らは綱引きのようにロープを引っ張り
始めた。ずいぶんと乱暴なことをする。綱がちぎれたらどうするのだ。
 ようやく、崖のふちにつかまる手が現れた。仲間達が手助けする。ヒ
ラタはタキタを地面に降ろした。
 ぐったりとしている。
「おい、大丈夫か」
 太いチューブを背中のタンクに差し込む。エアを送っているようだ。
 タキタの体が動いた。うめき、右手を宙に伸ばす。よかった。彼は助
かったのだ。
 その後に仲間の口から出た言葉は、滝田を愕然とさせた。
「大丈夫か、タツオ!」
 タキタ タツオ! それは他でもない。今年二歳になる、滝田の孫の
名前だった。
「大丈夫……だ……」タツオはかすれた声で言った。「ブレーキが……き
かなくて……」
「あんなポンコツに乗ってくからだ」
「どこが痛い?」と、もう一人が聞いた。
「どこも折れていないようだ……すまない」
 青年はタキタに近づいていく。ヘルメットの中をのぞきこむように顔
を近づける。滝田によく見てみろと言っているようだった。
 左目の下にほくろがある。孫とまったく位置が同じだった。


   十

「ひょっとしたらと思ったんですが、やはりそうでしたか」と、青年は
言った。
 滝田はベッドに腰掛けた青年と向かい合っていた。
「私の孫は将来宇宙飛行士になるのかい?」
「前にも言いましたが、僕のは行って見てきた事実です。今から何年後
かは分かりませんが、必ずそうなります」
「私の孫はまだ二歳だ」
 とは言ったものの、だからどうだというのだ。
 滝田は心配だった。達夫が危険の多い宇宙飛行士になるなんて。しか
も今の青年の夢ではあやうく死ぬところだった。この後もっと危ない目
にあうこともあるかもしれない。
「僕ら、もう会わないほうがいいと思いますよ」
 青年は物憂げに言った。
「え、どうして」
「僕は、おそらくこれからも月の夢を見るでしょう。もしも先生のお孫
さんがとんでもないことになったら、僕はそれを先生にお見せしたくあ
りません」
 青年はまるで滝田の心を見ぬいたかのようだった。
 滝田の心境は複雑だった。達夫の未来の姿をもっと見てみたいという
気持ちと、もしも不幸なことになるとしたら、それを先に知ってしまう
のが怖いという気持ちが混じりあっていた。
「しかし、あのままで終わったら、達夫が大怪我をおったのか、それと
も無事なのかも分からないじゃないか」
 骨は折れていないようだが、他のことは分からない。
 青年は目をふせた。
「先生、僕は間違っていたのかもしれません。僕は、彼らの会話にタキ
タという名前が出た時、ぜひ先生に報告すべきだと思ったんです。でも、
そうするべきではなかったのかもしれません。僕はこんな夢を見てしま
うことを、全く予想できなかったんです。彼が重傷なのかどうかも、も
う先生に知らせるべきではないのかもしれません」
 自分は軽率であったと言いたいらしい。
 過去を変えることには、誰もが危機感を持つ。それに比べて未来を変
えることにはそれほど批判的ではない。むしろ積極的に未来を変えよう
という言い方さえされる。滝田にしても、このまま青年に孫を見守って
もらい、危なくなったら助けてほしいとさえ思う。が、それはできない。
 時間移動をして未来に行く場合、歴史を変えてしまうことよりももっ
と大きな問題がある。それは、知りたくなかった事実を知ってしまうこ
とだ。だが、もしそれが先に分かったのならば、なんとかそうならない
ように回避しようとすることができる。例えば、達夫が宇宙飛行士にな
らないように説得できる。だがここで、「運命」という、やや宗教的な考
え方が出てくる。たとえ避けようと工作しても、結局は同じような将来
になってしまうのではないか。
 それでもやはり、達夫のその後が知りたいのだ。
「せめてもう二、三日、僕につきあってもらえないかい?」
「先生は最初、夢見装置には一度しかつなげてあげないと言っていませ
んでしたか?」
「それはそうだが、今は事情が違う」
「僕の目的は、先生に夢の中のタキタさんを確認してもらうことでした。
もう目的は達成できました。ですが、今では反省しています。僕らの能
力は、人に迷惑をかけすぎます。自分の夢のことは誰にもしゃべらず、
おとなしくしているのがいいんです」
 滝田は言葉につまった。それはないよ。君達の能力は科学の進歩に大
きく貢献するんだよ。君達が沈黙することで、そのチャンスを逃すんだ
よ。
 そんなことを言うつもりはない。科学の発展よりも一人の人間の方が
大事だ。第一、この夢は公表すべきではないと考えたのではなかったか?
 青年がそうしたいのならば、それを尊重する方がいいのだろう。
 二人ともしばらく黙っていたが、やがて滝田が口を開いた。
「さ、送っていこう」
「いいです。今日は僕、バイクで来ましたから」
 青年は立ち上がった。
「気が向いたら、また来ます」
 だが彼は二度と来ないだろうと、滝田には分かった。




#554/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:36  ( 85)
眠れ、そして夢見よ 9   時 貴斗
★内容
   帰省


 今日はうれしい日だ。滝田にとって、いいことがある。長男の浩一と
その妻が、お盆休みで帰ってくるのだ。
 玄関で呼び鈴が鳴っている。滝田は気もそぞろに立ち上がった。
 ドアを開けると、そこに息子と義娘が明るい笑みを浮かべて立ってい
た。その間から、今年七つになる孫がはずかしそうに顔をのぞかせてい
る。
「よっ、親父、元気か」
 浩一は紙袋を振り上げて威勢良く言った。たぶんおみやげの菓子だろ
う。
「こんにちは。お久しぶりです」義娘は頭を下げた。「ほら、たっちゃん、
おじいちゃんに挨拶は」
 孫は母親の後ろに隠れてしまった。
「いやあ、よく来たなあ。さあさあ、上がって。暑かっただろう」
 滝田は妻の仏壇がある和室に三人を案内した。テーブルの上には久し
ぶりに奮発して買った特上寿司が置いてある。
「今ビールを持ってくるからな。ほら、早く座って」
 息子に言ってから今度は孫に笑顔を向ける。
「たっちゃんはオレンジジュースでいいかい?」
 達夫は不安げな顔をしていたがやっとこくりとうなずいた。
 あれからもう五年にもなる。はっきりとは言えないが、年を経るごと
に達夫は倉田志郎の夢の中に現れた男に似てくるような気がする。倉田
青年からはその後一度だけ、一ヵ月くらい経ってから手紙が来た。あれ
から月の夢はあまり見なくなったが、達夫は元気でやっているという内
容だった。
 はずかしがりやで内気な達夫が、将来宇宙で活躍するような人間にな
るのだろうか。
 ビールにグラス、オレンジジュースについでに麦茶も盆にのせて和室
に戻ると、息子はのんきにテレビをつけて野球に見入っていた。
 義娘は滝田から盆を受け取ってかいがいしくコップに注ぎ始める。達
夫は野球に興味がないらしく所在なさげにテーブルを見つめている。
「どうだ、宇宙開発事業の方は」
 滝田は寿司の皿を覆うラップをはがしながら聞いた。
「ああ、ノズルの特許をとったよ」
 浩一は一口ビールを飲んだ。
「ノズルってなあに」
 達夫が初めて口を開いた。
「ああ、ロケットがね、ぶおーって火をふくとこだよ。それで宇宙に飛
んでいくんだ」
 浩一がコップを空けると義娘が瓶を傾けて注ぎ足した。
「達夫が大きくなる頃には宇宙に行けるようにしてやるからな」
 浩一の言葉が滝田の肝を冷やした。倉田青年の話はまだ打ち明けてい
ない。探るように達夫に聞いてみる。
「たっちゃんは大きくなったら宇宙に行きたいのかい?」
 達夫は首を横にふった。滝田は少しほっとした。それでもやはり、孫
の泣きぼくろが気になるのだった。
 倉田青年が滝田の孫の名前を知るはずがなかった。顔のほくろの位置
も。
「親父は? 相変わらず夢の研究をやってるのか」
「ああ、まだ続けてるよ。とは言ってももうあまり役に立ってないがな」
 滝田はまだ所長の身分でいる。しかしお飾りみたいなものだ。研究所
に行ったところで、大した事はしていない。夢見の研究は完全に若い世
代に引き継がれていた。
 義娘が孫のために寿司からわさびを抜いてやっている。さび抜きのや
つを注文すべきだったな、と反省する。
「へえ、暇人なのか」
「ああ、前は休日出勤も当たり前だったけどな。暇を利用して家庭菜園
を始めたんだ。見るか」
 滝田が立つと、息子もしかたねえなというふうに立ち上がった。ガラ
ス戸を開け、サンダルをはいてベランダに出る。二人で並んで庭をなが
める。
「お、プチトマトだな」浩一は持ってきたビールを飲み干した。「一気に
爺臭くなったな、親父」
 少しばかり腹がたったが、まあ確かにその通りだ。
 滝田の研究は、若い世代へ引き継がれていく。滝田の家系も、無事に
息子へ、孫へと受け継がれていくようだ。その孫は、将来月へと旅立っ
ていくかもしれない。
「引退かな」
「もう歳だもんな」
 背後で、「ほら、食べていいのよ」という声が聞こえた。
「お菓子はないの? 僕、お菓子が食べたい」と、達夫が駄々をこねた。
「あるぞ。せんべいも最中もようかんも」
「やっぱり爺臭いな」浩一は振り返った。「持ってきたサブレーでも開け
てやれよ」
 滝田はうーんとうなって腰をのばした。空には雲も少なく、太陽が照
りつけている。ふいに、太陽光線は肌を痛めると言って嫌っていた美智
子を思い出した。今頃どうしているだろう。結婚しただろうか。もう四
十代の半ばをすぎているはずだ。藤崎青年はどうしただろう。彼ももう
四十代だ。みんな歳をとっていく。若い世代が後を受け継ぐ。
 まぶしく照りつける青空に、白い月が浮かんでいた。


<了>




#555/598 ●長編    *** コメント #520 ***
★タイトル (AZA     )  19/07/31  20:14  (429)
そばにいるだけで 68−1:先行公開版   寺嶋公香
★内容                                         19/08/02 20:24 修正 第2版
 いくら何でも待たせすぎだと反省しまして、続きを書いていることの証明にでもなれ
ばと、1msg分だけUPします。後の68全文UP時には直しが入ることもありま
す。
======================================

 週明けの朝、自宅を出発する時点では、相羽は間違いなく決心していた。
(今日、言おう)
 米国留学することを純子に。
 改めて記すまでもないが、闇雲に打ち明けていいものではない。世間話のように、他
にも人がいるところで「九月には日本にいないから」なんてのは論外だ。最低限のシチ
ュエーション、二人だけで、伝えたあと少しは時間が取れる状況が欲しい。
 その決心に対し、のっけから段取りが狂う出来事があった。
 朝の休み時間に鳥越がクラスの席までやって来て、君の九月の予定はどうなってるん
だろうと聞いてきたのだ。やけに唐突な質問だったの訝しんで理由を聞き返す。
 すると、九月になると流星群があるので、学校で観測をしたいと思っているとのこと
だった。納得しかけたが、学校で催すのであれば予定はあまり関係ないじゃないか、と
不思議に感じた。
「その質問は、涼原さんに真っ先に聞くべきじゃあないか」
 相羽自身が答えづらいこともあって、鳥越にそう水を向けると、何故か相手は動揺を
僅かながら覗かせた。しかもすぐ近くに純子がいるというのに、尋ねようとしない。
「まあ、決まっていないんだったら、後日でいいよ。じゃあ、お昼に」
 そう言い置いて、鳥越は逃げるように去ってしまったのだ。
「何だったんだ、あいつ」
 ちなみに本日は朝から曇天で、午後からは雨の予報が出ていた。

            *             *

 二時間目が始まるまでの休み時間、唐沢は鳥越と二人で、校舎の外れの中庭にいた。
「どうしてこんな役を押し付けたんだい。それも急に。そこを説明してくれないと、僕
も納得できないよ」
 鳥越の失敗に多少の文句を言うつもりであった唐沢だが、反駁を食らって、言い返せ
ないなと気付いた。理由を明かさずに無茶をさせたんだから、失敗するのも無理はな
い。尤も、理由を明かした上で芝居させたとしても、果たして鳥越がうまくやりおおせ
たかは怪しく思う。
「わりぃ、俺の想定外だった。理由は言えないんだ」
「まったく。唐沢君が部員勧誘に協力すると言うから、渋々やっただけなのに、恥を掻
かされた気分だ。涼原さんのためだっていうのは、本当なんだよね?」
「そこは保障する。下手すると、部をやめる恐れがある」
「その危機は解消されたんだね」
「いや、まだ」
「何なんだよ〜」
 察してくれと言うのも無理な話か。唐沢は鳥越に両手を合わせて謝った。
「すまん。合宿に二人が参加したら、問題は解決したと思ってくれ」
「分かんないな。全然、仲が悪そうには見えないけれど」
「いいから。あ、あと、俺が頼んだことは絶対に言ってくれるなよな」
「約束は守るよ。唐沢君こそ、約束、忘れないでもらいたいね。来年の春、新入部員の
勧誘には力を入れてもらう」
「ああ。いざとなったら、女の子を大勢引っ張ってきてやる」
 安請け合いし、どうにかこの場を切り抜けた唐沢だった。
(やれやれ。作戦失敗か。同じ手が使えないわけじゃないが、似たようなやり取りを相
羽と涼原さんの前で二度も三度も繰り広げるのは、やっぱりやめておきたいよな。とな
ると、涼原さんの名前を使って、相羽に危機感を持たせる作戦を採るか……。淡島さん
の占いを通じて知らせる作戦も、悪くはないと思うんだ。でも、相羽の口から打ち明け
る方向に持って行くには……淡島さんが涼原さんにじゃなく、相羽に対して占いで言い
当てたみたいにすればどうかな。いや、相羽のことだから、俺が淡島さんにばらしたん
だって勘付くに違いない。どうすりゃいいんだ)

            *             *

 一時間目。
 相羽は、自分が意外と平静さを保てていないんじゃないかと思わされる。
「……あれ?」
 英語の教科書、忘れた。

            *             *

 「あれ?」という声が聞こえ、純子は隣へ振り向いた。相羽が学生鞄をまさぐってい
る。横顔に焦りの色が浮かぶのを見て取った。
(もしかして忘れ物? 珍しい)
 時計を見る。何を忘れたのか知らないが、これからある英語の授業に関わる物だとし
たら、他のクラスに行って友達から借りてくる時間はなさそう。と思う間もなく、始業
を告げるチャイムが静かに鳴った。
 ほとんど間を置かずに、門脇(かどわき)先生が教室に入って来た。女性にしては大
柄で、学生時代は柔道で鳴らしたとの噂だけど、真偽は不明。年齢を重ねた今、膝を悪
くして足取りが遅い自覚があるせいか、何事も行動を始めるのが早い。
「立ってる者、席に着け〜。始める。はい、号令」
 しゃきしゃきした口調の先生。呼応する形で唐沢が号令を掛け、起立・礼・着席を行
った。
 門脇先生が欠席のないことを確認するために教室内を改めて見渡したあと、教科書を
開き掛けた。
「あの、先生。教科書を忘れてしまいました」
 相羽はすかさず、しかしおずおずといった体で挙手しながら申告した。
「何だ、相羽君。らしくもない。浮ついているのかな。今後、気を付けるように」
「は、はい」
「教科書は隣に見せてもらうように。……涼原さんで大丈夫ね」
 大丈夫の意味するところがいまいちぴんと来なかったが、純子は素早く二度頷いた。
 相羽は机を横に動かし、純子の机とぴたりと合わせた。
「ごめん」
「いいよいいよ。気にしないで。困ったときはお互い様」
 朝からある意味うれしい成り行きに、純子は少々気分が高揚して、口数が多くなっ
た。おかげで先生から「こら、喋り続けるんなら戻してもうらよ」と怒られてしまっ
た。二人が肩を縮こまらせたところで、授業スタート。
「早速だが、相羽君。気合いを入れ直す意味も込めて、読んでもらおう。続けて訳も」
 相羽は席を立ち、二つの机の間に置かれた教科書を見下ろす姿勢で、音読を始めた。
声の通りはいつもに比べてよくないが、発音はいい。
(相変わらず凄い。エリオットさんとの日常会話を楽々こなすほどだし、相当勉強して
るんだろうなあ)
「はい、そこまで。ノートは持って来てるんだね? じゃあ、訳を」
 相羽はノートの該当ページを開き、今度は両手に持って答えた。大半の生徒が英訳で
は堅苦しい日本語になりがちだが、相羽はくだけた表現を織り込むのがうまい。翻訳を
思わせるほどだ。意識してやっているのではなく、自然とそうなるのかもしれない。
「――よろしい。ほぼ完璧で怒るに怒れないじゃありませんか。ただ一点、解説を加え
る必要があるのは、ここ」
 先生は“If it isn't broken, don't fix it.”と板書した。
「直訳すると、『壊れていない物は直せない』。相羽君は砕けた感じで、『そもそも壊
れてないのなら、直しようがない』と言ったけど、大体同じだね。で、実はこれ向こう
のことわざで、『すでにうまくいっているものを改善しようとしてはいけない』って意
味がある。教科書の例文ではことわざって言うより、『余計なことすんな』ってニュア
ンスが一番近い」
「知りませんでした」
「しょうがない。辞書を引かなくても知ってる単語で構成された文章は、いちいち調べ
直したりしないもんだから。文章のつながりから浮いた訳になるならまだしも、これな
んか別に違和感ないからねえ。違和感があるのは、ほら、前にやった遊園地で遊んでる
場面で、鍋の話をするやつだ。あれなんかはおかしいと感じて、調べて欲しいと思う。
で、涼原さん、どんな言い回しだったか覚えてるかな?」
「はい?」
 いきなり指名されて、立ち上がる純子。どうやらさっきのお喋りの代償を、ここで払
わされるようだ。
「相羽君は座って。――涼原さんも浮かれていないか確かめるために、ちょっとしたテ
ストだね。これに答えられなければ、机の間を一センチ離すように」
「そんなあ」
 情けない声を上げつつ、思い出そうと記憶のページを必死に繰る。
(遊園地で遊んでいると時間が経つのが早い。その関連で、時間に関係する、鍋の出て
来る慣用表現があったのよ。確か……)
 思い出せたような気がした。面を起こして、でも自信なげに答える。
「見られている鍋は決して沸かない……“A watched pot never boils.”でしたっけ」
「お、正解。だけど、日本語の方がちょいと怪しい。直訳で覚えずに、『焦りは禁物』
『待つ身は長い』等で覚えること」
「はぁい」
 座ろうとした純子だったが、止められてしまった。
「ついでに続き、少し読んで。訳はいいわ」
 いつもの授業と違い、変則的な当て方をする。生徒達は大げさに言えば戦々恐々とな
った。
 この調子での授業が十五分ほど続き、それからテキストにある設問を答えるくだりに
差し掛かった。適当に時間を区切って、各人が解きに掛かる。教室内は一転して静かに
なった。
(こんなに近いと、変に意識しちゃうよ)
 純子はいつもに比べて、集中力を若干欠いていた。好きな人が隣の席にいるというだ
けでも意識するのに、今はもっと近い。相羽の手元を覗こうと思えば覗けるし、逆もそ
うだろう。開いたページとページの間、谷になって見えづらい字を読もうと、顔を近付
けるとお互い息を感じるくらいに接近してしまう。
(相羽君は何とも思ってないのかな)
 盗み見ると、相羽はペンをさらさらと走らせている。次々に解いているのではなく、
教科書を借りている立場の彼は、設問に関連する箇所を本文から写さねばならないとの
理由もあるのだが、それにしても軽快に書いている。一心不乱というよりも、自動筆記
みたいだ。
(普通の集中とはまた違う……ぽーっとして、感情をシャットダウンしてるみたい。私
のことも見えてないのかしら。だとしたら凄いけど。――はあ、いけない。集中集中)
 緩みそうになる頬を軽くつねって、ノートに答を書き始める純子。問題にしばらく取
り組んでいると、不意に「あ」という相羽の小さな声。次に彼の手が純子のスカートを
かすめる風に伸びて来た。
(あ、相羽君、何を)
 気配を感じた純子は、反射的に「きゃ」と悲鳴を漏らしてしまった。何事かと先生や
クラスメートから注目されるのが空気で分かる。
「ご、ごめん、キャッチするつもりが空振りした」
 そういう相羽の視線は、純子の太ももの間、スカートの布地に。そこには相羽の消し
ゴムが乗っかっていた。
「こら、何を話してるの」
 近くまで来て立ち止まった先生が、プリントの束(と言っても十枚もない)で相羽の
頭をぽんぽんとやった。
「いちゃつくのなら、席を離して、反対側の子に見せてもらいなさい」
「すみません」
 相羽が謝罪するのに続いて、純子は同じように謝ったあとに続けた。
「でも違うんです。消しゴムがスカートの上に落ちてきて、私がびっくりしただけで、
いちゃついてたんじゃない。ほんとです」
 未だにスカートの上にある消しゴムを、ほら見てくださいとばかりに示す。
「……分かった。子犬の瞳で訴えなくても信じます。さあ、続けて。残り時間わずかだ
よ。みんなも集中して解いて」
 教卓の方へ引き返す先生を見て、純子はよかったと安堵した。
 それからまた問題に取り掛かろうとした矢先、相羽が純子の方を向き、左手を左右に
小刻みに振って、何かを擦るようなポーズを取るのに気付く。一秒考え、あっと思い出
す。
 純子は相羽の消しゴムを拾い、彼の机の端っこに置いた。

「ありがと、助かった」
 英語の授業が終わって、門脇先生が去ると、相羽は机を元の位置に戻した。
「それと消しゴムのこと、ごめん。肘が当たったみたいで」
「かまわないんだけど、さっき問題を解いてるとき、何だか変じゃなかった?」
「変? そうだっけ」
「周りに誰も見えてない感じだったわよ。矛盾するけど、ぼんやりしつつ集中してるっ
ていうか」
「それは多分、先生に言われたことを気にしていたからかも」
「先生に言われたことって? 何かあったかしら……」
 尋ねたつもりだったが、男子数名が相羽のところへやって来たせいで、有耶無耶に。
「おい、さっき本当に何でもなかったのか」「教科書見せてもらうために、わざと忘れ
物したんじゃないの」「次の数学は何を忘れるのかな」等と冷やかされる相羽だが、特
に反応せずに涼しい顔をしている。
 当事者の一人である純子としては、おいそれと口出しして藪蛇になっても困る。それ
を思うと、相羽の受け流しは賢明な選択と言えそう。
 純子は素知らぬふりで次の数学の準備をしていると、ふと気が付いた。
(うん? 唐沢君が加わってないなんて珍しい)
 いつもなら真っ先に来そうなのに。委員長の用事があるのでもなし、自身の席に着い
たまま、一人でこちらを――相羽の方を?窺っているように見えた。。
(数学の宿題を忘れて、相羽君を頼ろうとしたけど割り込みにくいなと躊躇っている…
…なんてことじゃないわよね。どうしたんだろ。何か言いたそうな、様子を探っている
ような。男同士の約束でもあるのかな)
 そちらに意識を取られたおかげで、先生に言われたことどうこうはすっかり忘れてし
まった。

            *             *

 神村先生の数学が終わると、次は家庭科の調理実習で、移動や準備に時間を取られ
る。まずい、この調子だと打ち明けるのがずるずると先延ばしになってしまう。相羽は
割烹着風エプロンを身につけながら思った。
(本当はすぐにでも――一時間目が終わったら、話があるから昼休みにでもって純子ち
ゃんに言うつもりだったのに。門脇先生に『浮かれているんじゃないか』って……ショ
ックだ。そんな風に見えてるのか)
 英語の門脇先生は、相羽の留学話を承知している教師の一人だった。学科こそ全く異
なるが留学経験があり、いわゆる生の英語に詳しいとあって、折に触れてアドバイスを
頂戴している。
(浮かれてはいないと断言できる。でもまあ、気が散っているところはあるのかもしれ
ない。英語の教科書を忘れたのだってそう。消しゴムが転がったのに気付いたとき、後
先考えずに手を伸ばしたのも)
 落ち着こう。とりあえず、気が散ったまま火を扱う授業を受けていては、事故の元に
なりかねない。こうして気を引き締め直したおかげか、純子と同じ班で臨んだ調理実習
は、特に失敗することもなく、無事に仕上がった。一時間目の一件のおかげで、周りか
ら冷やかしは飛んだけれども。
 ちなみにメニューはミニ揚げパンに春雨サラダ、杏仁豆腐だった。昼前のコマで調理
実習をやる場合、授業が終わったあとも家庭科教室で昼食と合わせて料理をいただくの
が原則。弁当持参でない者は、早く平らげて食堂なり売店なりに行かねばならない。ほ
ぼ確実に列の後方に並ぶことになるため、不評である。生徒側も対策を講じ、弁当を持
って来る者の割合が飛躍的に高くなる。
 相羽も母に時間的余裕があるときは作ってもらっているけれども、あいにくと日曜か
ら仕事があって、今回は無理だった。代わりに、惣菜パン二つと飲み物を通学途中に購
入していた。
「食べない?」
 登校時に一緒だった純子は当然そのことを知っており、お弁当のおかずを勧めてき
た。
「どれでもいいよー。こっちはダイエットのつもりで」
 つみれや唐揚げ、胡麻豆腐にチーズちくわと文字通りのよりどりみどり。だが、相羽
はすぐには手を伸ばさなかった。
「そう言われて僕が食べたら、君が太ってると言ってるみたいにならない?」
「ならない。ほんとの体重、自分自身がよく分かってるから」
 そのお喋りを聞きつけたか、唐沢が近くに移動して来た。「なら、ありがたくちょう
だいしよう」と、相羽より先に箸を出す。
「だめ。唐沢君はお弁当でしょ。結構大きいのに、余分に食べたらそれこそ太るわよ
〜。女の子が悲しむんじゃないかしら」
「うー、それでも食べてみたい」
「まさか、手作りと勘違いしてないか、唐沢?」
 相羽の指摘に、唐沢はぽかんとなった。本当に純子の手作りだと思い込んでいたよう
だ。
「あ、そうか。じゃあ、さっきの春雨サラダか杏仁豆腐をもらいたかった」
「それならここにある」
「いや、おまえの前にある分じゃだめ」
「元は同じなんだが」
 相羽が唐沢とやり取りする横で、純子がくすくす笑い出した。
「もう、話が迷走してる。はい、相羽君。これ食べて」
 相羽の持つ焼きそばパンの切れ目に、唐揚げ一つが置かれた。
「あ、ありがとう、いただきます」
 相羽はお礼を言いながら、気持ちがだいぶほぐれてきて、いつものようになれたと感
じていた。

 昼休みも食事が済んで、教室に戻ると、相羽は純子に話があることをまず伝えようと
した。
 ところがここでまた予想外の邪魔が入った。野球部のエース・佐野倉が純子の元にや
って来て、前の土曜、試合を観に来てもらいたかったと一言。地方予選の真っ只中にど
こでどう聞きつけたのか、土曜日に純子が遊びに行ったことを掴んだらしい。
「ごめんなさい。勝ったんだってね。おめでとう」
 純子が謝ったあとも、佐野倉が「一、二回戦は楽に勝てると思われるてるんだろう
な」とか「本当に決勝だけ観に来る気なのかな」とか言うものだから、周りにいたクラ
スメイト――主に男子の反発を買った。
「おい、謝ってるじゃねえか」「きちんと約束したわけでもないくせに」「スポーツマ
ンらしくないな」云々かんぬんと声が飛び、対する佐野倉もいちいち反論するものだか
ら、収拾が付かなくなりつつあった。
 しょうがない。一緒に遊びに行った身として相羽は仲裁に入った。
「みんな静かにしてくれよ。佐野倉、ちょっといい?」
「かまわん。何」
「誘いに乗って遊びに行った者として、弁明したいなと」
「やっぱり混じってたか。公認の仲だから、驚きゃしないが」
「悪い。誘われたときに、野球部の試合予定日だってのは頭にあった。でも、雨天順延
で日程がずれたんじゃなかったっけ?」
「その通りだが」
「女子達の話を聞いてみたら、遊びに行く予定を立てたのは、そっちの試合の順延が決
まるよりも先だった。みんな時間を調整して、決めた計画を前日になって変えなきゃな
らないとしたら、酷だと思わん?」
「……まあな。しかし、その話が本当だという証拠がない」
「粘るね、佐野倉も。その調子で勝ち続けてくれたら、絶対に応援に行くぜ」
「ごまかすな」
「証拠なら私が。証言だけれどね」
 外野から応援が入った。白沼が人の輪を割って進み出る。彼女は自身がその遊びには
加わっていないことと、VRのプラネタリウムの割引券をこの前の土曜日に使うと、純
子から知らされていたことを伝えた。
「――さあ、これでも疑う? これ以上、無駄に引っ張るのなら、いくら野球部のエー
ス、大黒柱であっても、徹底的に叩くわよ。何しろ涼原さんは今、うちの仕事を手伝っ
てくれている大事なタレントなんだから。変な言い掛かりを付けて、疲弊させないでも
らいたいのよね」
「……分かった」
 そのまま行こうとする佐野倉に、「涼原さんに謝らないのか」とブーイングが上がり
掛ける。それを制して、相羽が再び声を掛けた。
「佐野倉、余計なお世話だけど、いつもと違うように見える。こんなことを気にするタ
イプじゃないだろ。何かあったんじゃ?」
「別に」
「あ、俺知ってるけど」
 知らんぷりを通そうとした佐野倉だが、クラスにいた同じ野球部の男子によって、わ
けを暴露されることに。
「観に来ないなら来ないで、あとで残念がらせようと思ったのか、ノーヒットノーラン
を狙ってたんだよな」
「……」
 同期の部員に言われても、沈黙を守る佐野倉。
「ノーノーどころか完全試合かってペースだったのが、コールドで参考記録になるのが
ほぼ確定して気が緩んだのか、あれ? 最後のイニングで四球を出して、次にあと一人
ってところでポテンヒットを打たれて、パーになった」
 そこまでばらされて、ようやく口を開くエース。
「細かい解説なんかするな。要するに、記録を狙って変な力が入った。その上記録達成
に失敗して、いらついた。それだけだ」
 佐野倉はきびすを返して純子の机まで戻ると、腰を折って頭を下げた。
「要するに八つ当たりだ。すまなかった」
「……う、うん、私は別にいいけれど。それよりも、ノーノーって何だっけ?」
 この純子の発言には、佐野倉のみならず、話を聞いていた男子のほとんどががくっと
来たらしく、中には派手に笑い出す者までいる。
「す、涼原さん。君って……いや、まあ女子では普通か」
「佐野倉君? 悪いこと言っちゃった?」
「いや、言ってないさ。あーあ、おかげでストレス発散できたわ」
 肩のこりをほぐす仕種をする佐野倉。
「これで次の試合に集中できる。ありがとな」
 もう休み時間は残り少なかった。
 佐野倉が立ち去ったあと、相羽は純子から話し掛けられた。
「ねえねえ。私、おかしなこと言った? 佐野倉君に悪いことしちゃったのかなあ?」
「心配無用」
 相羽は次の授業の教科書などを、机に出しながら答える。
「むしろ、あの場では最高の返事だったと思うよ」

            *             *

 午後からの授業中、窓の外を眺めていた唐沢は、曇り続きの天候に嘆息した。
(この分なら明日も屋上に行かなくて済むかもな。おかげで相羽と涼原さんのために考
える時間だけはあるわけだが……もうしぼりかすしか残っていない気がする)
 ここ試験に出るからという教師の声に、はっとする。ノートを取ろうにも、教科書の
どの辺りをやっているのか、把握できていない。ひとまず、板書だけして、あとで照ら
し合わせるとしよう。
(試験か……期間に入ると、人の世話を焼いている場合じゃなくなっちまうなあ。いつ
も通り、相羽センセーを頼りにすることで、どうにか……あれ? もしかして相羽の
奴、次の定期テストって受けないのでは?)
 がたがたっと椅子で音を立ててしまい、教師からじろっと見られた唐沢。すんません
とジェスチャーで応じて事なきを得た。
(留学するんなら、最早この学校でのテストなんか受けなくていいんじゃないのかね。
もう内申書がどうこうって段階じゃないだろ。仮にそれで当たっているとしたら、俺、
ピンチじゃん)
 思わぬところで、相羽の留学が自身によくない影響をもたらすことに気付いた。たと
え今度の定期テストは受けるんだとしても、二学期以降はいなくなるんだからどうしよ
うもない。何とかせねば。
 授業が終わるなり、相羽にとりあえず泣き言をぶつけてやろうかと一歩を踏み出した
が、思い止まった。
(涼原さんに聞かれたら説明できねー。……けど、留学のことを伝えるんなら、こんな
軽い調子でもいいんじゃないかね。いつまでもぐずぐずしてるよりかは、よっぽどいい
だろうに。相羽の方から話を振ってくれりゃあ、俺は乗るぜ)
 てなことを思いながら相羽の後頭部辺りをじっと見ていると、いきなり振り返られ
た。唐沢は急いで視線を外しつつも、様子を窺う。
(――何だ。俺が見ていたのを察したんじゃなくて、涼原さんとどこかに行くのか)
 相羽に続いて純子が席を立つのを見て、ぴんと来た。
(やっと話す気になったか? なら、俺は見守るのみ)
 世話を焼く必要から解放され、あとは自分の勉強のことだけ。そう思うと、ちょっぴ
り気が楽になった。気が緩みもしたのか、白沼までもが席を立ったのを見逃してしまっ
た。

            *             *

 職員室、校長室の前を通る廊下を抜けて、校舎の外に出る。降り出しそうで降り出さ
ない空の下、相羽は純子を壁際に、自らはその正面に立った。
「それで話って何?」
 人のいないところを求めて、うろうろしたおかげで、三分以上を費やしてしまってい
た。残り七分足らず。相羽は心持ち見上げてくる感じの純子を前に、焦りと躊躇の葛藤
を覚えた。
(今日の授業が全部終わるまで待つべきだったかな?)
 弱気とも思える迷いが生じた。首を左右に小さく振る。ここまで来て、もう引き返せ
まい。
「相羽君?」
「純子ちゃん――落ち着いて聞いて欲しいんだけれど」
 そこまで言って、喉がごくっとなった。口の中が乾いてる気がする。と、この一瞬の
間を置いたことで、邪魔が入る。
「――あ、待って。携帯が」
 純子が言った。振動音が微かに聞こえる。機器を取り出しながら、「白沼さんから」
と囁き調で相羽に教える純子。
『はい?』
『どこに消えてるのよっ。追い掛けたのに、見失ったじゃない!』
 相手の剣幕に思わず耳を離す。おかげで、相羽にもその通話が聞こえた。
『どこって……相羽君と話してるところよ』
『戻って。教室と同じフロアの東端にいるから。学校で携帯使うくらいなんだから、緊
急の連絡だって分かってるわよね。お仕事の話』
『えーと、電話じゃだめ?』
『だめ』
 一方的に告げられ、切られた。純子は携帯を仕舞い、両手のひらを合わせながら相羽
に小さく頭を下げた。
「ごめんなさい、急用みたい。話、あとでも大丈夫?」
「う、うん。またあとで。行ってらっしゃい」
 ぎこちない言葉遣いになるのを自覚した相羽だが、純子はそのことを気にする風でも
なく、再度「ごめんね」と言って、スカートを翻した。
(ほっとしたような、これじゃだめなような)
 急ぐ彼女の背中をぼんやり見つめながら、相羽はため息をついた。

            *             *

 唐沢は廊下に出ていた。純子が結構なスピードで走って行くのを目撃したからだが、
すでに彼女の姿は見えない。
(廊下走ると先生に怒られるぞ。……やっぱり、相羽から打ち明けられて、ショックだ
ったのかねえ? 顔はよく見えなかったけれども)
 どうしようもなくてぽつねんとたたずむ。五分近くそうしていたが、純子は戻って来
ない。もうすぐ授業だぞと思い始めた頃、相羽が横を通り過ぎた。そのまま教室に入る
ようだ。
「よ、相羽。待てよ」
 寸前で呼び止め、右腕を引っ張って教室とは反対側に連れて行く。
「何。今、軽く自己嫌悪してるところなんだけど」
 その台詞の通り、相羽は冴えない目付きをこちらに向けてきた。
「てことは、ついに言ったのか。それで涼原さんが」
「何のこと?」
「こいつ、何でまだとぼけるんだよ、この」
 唐沢は相羽の脇を小突いて、「留学の話だよ」と言ってやった。割と大きなボリュー
ムになった。
 その台詞が終わるか終わらないかのタイミングで、廊下の向こうから早足で歩いてく
る純子の姿が認識できた。続いて白沼も。
 ちょうどいいと感じた唐沢だったが、次いで相羽の反応を目の当たりにして、はっと
なする。
「もしかして、まだ、なのか?」
「ああ。タイミング悪く、白沼さんから呼び出しがあって――」
 答えた相羽も、純子が接近中だと気付いたようだ。唐沢は片手で謝るポーズをしなが
ら、ひそひそ声で言った。
「わ、わりぃ。今の聞こえちまったかも」
「……」
 相羽は唐沢を押しのけるようにして一歩前に出た。すぐ先を純子が通ろうとする。
が、眼前を横切る寸前に、教室後方のドアへと足を向けた。
「相羽君、授業始まるよ。唐沢君も」
 純子が言って、微笑みかけてきた。あとを追うように来た白沼が「早く入って、席に
着いてよね。怒られるのは委員長と副委員長かもしれないんだし」と、特に唐沢に向け
た忠告を発した。
「へいへい」
 唐沢は努めて軽い調子で応じながら、内心では盛大に安堵していた。
(セーフだったか〜)

――つづく




#556/598 ●長編    *** コメント #555 ***
★タイトル (AZA     )  19/10/31  20:40  (390)
そばにいるだけで 68−2:先行公開版   寺嶋公香
★内容
 またもや先行公開版のみです。(^^;
 本来なら連載ボードに移行すべきところですが、とりあえずこの『そばにいるだけで
 68』は長編ボードで完結させようと思います。ご了承くださいませ。

======================================

            *             *

 純子は手のひらの中のメモを丸く握りつぶした。
 メモには白沼からの緊急の用件が書いてある。夏の音楽フェスティバル用のテレビ特
番がいくつかあるが、その一つから打診があったという。テラ=スクエアの会場から生
中継で久住淳に唄ってもらうのはどうかと。この件をメールで知らされた白沼は最初、
理解に苦しんだようだが、久住が風谷美羽(純子)と同じ事務所だと思い出して、純子
に伝えるに至ったらしい。純子はその話を聞かされた際に、白沼から「顔を売るチャン
スだから、あなたも何か唄わせてもらえば」と言われ、苦笑いを堪えるのに苦労した。
と同時に、変な勘ぐりもした。もしかして、加倉井さんのところが手を回して、久住を
引っ張り出そうとしてるんじゃあ……と。
 しかし、今の純子は数分前のやり取りを思い返している場合ではなかった。
(留学……って言ってた)
 相羽に話し掛ける唐沢の台詞は、間違いなくそう聞こえた。前後はほとんど聞き取れ
なかったけれども、留学の話をしていたのは確かだ。
 先生が入って来た。唐沢が号令を掛け、起立礼着席。一連の動作に、純子も遅れずに
着いていった。
「試験がそろそろあるのに、遅れ気味だったから、ちょっとスピードアップするよ。緩
急に注意していれば、ここは試験には出ないなと分かるかもしれないよ」
 軽く笑いを取ってから、本日最後の授業、日本史が始められた。純子も表情だけ笑っ
て、板書のための鉛筆を構えた。
(留学って、当然、相羽君のことよね)
 相羽の方をちらっと一瞬だけ窺い、考え込む。
(前に言っていた、エリオットさんがいる学校。J学院のこと? 断ったのに、また持
ち上がった? どうして話してくれないの?)
 そこまで思考が進んで、あっとなった。声に出さなかったのが奇跡的なくらいに、ぴ
んと来た。
(さっきの休み時間のあれが……)
 もう一度、相羽の方を見た。今度は様子を窺うだけでなく、問い掛けたくてたまらな
かった。努力して我慢する。
(あなたは何て言うつもりだったの? 留学するかしないか迷ってる? それともまさ
か、もう決めたとか? だとしたらいつから? 緑星を卒業したあとの進路?)
 色んなことが浮かんできたが、純子自身にとって最悪のケースだけは、心の内でも言
葉にはならないでいる。
(それをどんな風に私に言うの? 明るく、軽くか、反対に深刻な調子? 言われた私
はどうすれば)
 仮定の積み重ねに、答の出しようがない。改めて言ってくれるのを待つのが、今は一
番いいのかもしれない。だけど全く考えずにいようとするのは難しく。
(聞き違いだったらいいのに)
 そう願ってもみたが、自分自身で信じられない仮説だ。残念ながらというのはおかし
いが、鷲宇憲親のレッスンを通じて音楽に携わるようになって以来、耳はよくなった。
音感だけでなく、聞こえも聞き分けも。
(唐沢君と、どんな話をしてたんだろう)
 留学と発言した主を思い浮かべる。
(だいたい、唐沢君が知っているのはどうしてなの。私、まだ知らないのに)
 少し腹が立ってきた。理不尽とまでは言わないが、順番が違うんじゃないのと抗議を
したくなる。
(唐沢君にも黙っていたけれども、ばれたのかしら。だったら、私に言おうとしたのだ
って、他人に知られたから仕方がなく……?)
 純子はかぶりを大きく振った。全くの想像だけでここまで悪く見るなんて、してはい
けない。
「涼原さん、どうかしましたか」
 先生に名を呼ばれ、反射的に立ち上がる。さっきの続きみたいに頭を振りながら、
「いえ、何でもないです」
 と笑み交じりに答えた。
「眠いのでしたら、顔を洗って来てもかまいません」
「大丈夫です、先生」
 ようやく座らせてもらえた。というよりも、元々立つように言われていないのだけれ
ども。
 着席するとき、相羽が振り向いて目が合った。ここでも純子は笑みで返した。

 日本史の授業が終了すると、純子は手早く片付けた。  教科書やノートだけでなく筆
記具も何もかも。そのまま学生鞄を持って、席を離れる。
 机の間を縫って、唐沢の方に向かう。背中に相羽の視線を感じる。そんな気がした。
「あれれ、帰るの? ホームルームは?」
「ごめん。ちょっとだけ早引け。白沼さんを通じて仕事の話が来て、急いで知らせない
といけないから」
 だいぶ嘘が混じっている。恐らく純子が知らせなくても、市川達は把握済みだろう。
対応をみんなで急ぎ考える必要があるのは事実だが、そのために早引けするのではな
い。
(やっぱり、今は聞きたくない。相羽君の話を聞かないで済むようにするには)
 そう考えた結果、導き出した逃げ道だ。
「一応、神村先生にも言いに行くけれども、すれ違いになるかもしれないから、委員長
に言っておこうと思って」
「承知した。――で、その」
 すぐに廊下へ向かおうとした純子は、唐沢の声に立ち止まった。
「うん?」
「いや、なんだ、普通に元気だなあと思って」
「そ、そう?」
 もし元気そうに見えるのなら、精一杯の空元気よと心中で付け加える。
「じゃ、よろしくね」
 唐沢に手を振り、相羽の隣も通った。黙って通り過ぎるのは不自然で失礼だ、さっき
の休み時間にできなかった話について、何か言わなければ、
(『話は、明日また時間があるときにね』)
 というフレーズが喉から出掛かった。だけど、言えなかった。
「相羽君。ばいばい」
 手を振って、今日は別れた。

 仕事の話をするには不安定な心境だったし、行かねばならない理由もない。にもかか
わらず、とりあえず事務所に寄ってみたのは、やはり久住淳としての仕事をどうするの
かが気になるから。
(それに……仕事に集中すれば、ちょっとは気が紛れるかも)
「あのー」
 ドアをこっそり開けると、一人、市川だけがいた。大きなデスクの上に腰掛け、壁掛
けタイプの紙製カレンダーとにらめっこしていた。教師が使うような指し棒を操り、七
月と八月を行ったり来たりしている。
「お。ちょうどよかった。来てくれたんだ」
「はい。久住に来た仕事は特に判断が難しいですから」
「しーっ。ドアを閉め切らない内に、微妙な言い回しをしないように」
 注意を受けドアをきちっと閉めてから、純子は適当な椅子に腰を下ろした。
 市川は腰を軸にくるっと向きを換え、床に立つと、純子の近くの椅子に座った。
「どう聞いてる? その前に、聞いたのは同じクラスの白沼さんからかな」
「仰る通りです。白沼さんがメールを受け取って、教えてくれました。事務所にもテレ
ビ局からの話は届いていたんですか」
「テラ=スクエアさんへ中継を申し入れた件も含めてね。ご挨拶に出向きますってなニ
ュアンスで言われたから、ここに来られるよりはと思って機会があれば局の方でと返し
ておいたわ。当人が行くとの約束はしてないから、どうにでもなる」
 普段に比べると、市川が慎重な態度を取っているようだ。純子はストレートに疑問を
ぶつけた。
「どうしたんですか。いっつも、大きなお仕事は前のめり気味に決めようとするのに」
「うーん。予感がした」
「予感?」
「加倉井舞美の影を感じたんだよねえ。おいしい話にほいほいと乗ったら、彼女のとこ
ろが出て来そうで。加倉井さんと絡むこと自体は注目度が上がるから悪くはないけれど
も、あちらさんの方が事務所の力は圧倒的に大きい。だからといって意のままに操られ
るのは願い下げってこと。その辺を調べるために、杉本君達を動かしてはみたものの、
首尾よく探り出せるかしら」
 話を聞く内に、「私の知っている探偵さんに頼んでみましょうか」などと言いそうに
なった純子だったが、思い止まった。こんなことで手を煩わせるのは申し訳ないし、
(仮に想像が当たっているとして)加倉井にも悪い気がする。
「そもそも加倉井さんのところは関係していないと思うんですが。鷲宇さんが用意した
んじゃあ?」
 白沼から話を聞かされた際、真っ先に思い浮かべた線を聞いてみた。音楽関係の大き
な仕事となると、鷲宇憲親が一枚噛んでいると見なす方が自然だ。
「そう思って問い合わせてみたけれども、相変わらずのご多忙で掴まえられなくてさ。
それに噂で聞くところによると、鷲宇さんは国外での活動が長かったせいもあって、テ
レビ局の知り合いって、想像するほど多くはないみたい。私らを、というかあなたを驚
かせるためだけに、事前の予告なしにテレビ局を動かしてどうこうするっていうのもあ
の人らしくない。外野から見れば、露骨なえこひいきになる」
「言われてみれば確かに、そうですね……」
 鷲宇を疑って申し訳ない気持ちが、純子の声を小さくさせる。両手を握って、気を取
り直す。
「思い切って、ずばり聞いてみるのはどうでしょう?」
「何て」
「たとえば、音楽フェスにうちの久住が出るとしたら、加倉井さんも出ますか?とか」
「どこがずばりなのやら。どちらかと言えば、持って回った感が恋のさや当てに聞こえ
るわよ」
 呆れ顔でそう評されてしまった。
「まあ、ほんとに認められてご指名が来た可能性も当然ある。そのときは受けるつもり
なんだけれども、スケジュールがね」
 カレンダーに顎を振る市川。
「八月中旬なんだけど、すでに決めたスケジュールが立て込んでいて、かなりタイトな
んだ。って言わなくても分かってるでしょうけど」
「はあ」
 天文部の合宿に行く時間を作るために、あれやこれやと調整をした結果である。
「今から合宿なしにしてというのは、無理よね?」
「も、もちろんです。当たり前です」
 即座に答えたものの、内心ではふっと別の感情がよぎった。
(相羽君はどうするんだろう……)

 電話なりメールなり、何らかの形で相羽が連絡を取ろうとしてくるんじゃないだろう
か……という純子の半分希望込みの予想は外れた。疲れているのにしばらく寝付けなか
ったせいで、今朝起きたときは目が腫れぼったい感じがした。鏡の前に立ってみると、
さほどでもなく、少しほっとできた。
(きっと、直接会って言ってくれるんだよね。電話やメールで済ませることじゃないっ
て。それが今日の学校で)
 考える内に、心の中に重石を入れられたみたいに落ち込んでくる。一晩明けて、聞き
たくないという気持ちの方が強くなっていた。できれば会いたくない。今日はまだ知ら
せたくない。休みたい。
 一瞬、仮病を使おうかという思いがよぎった。だが、首を左右に振って吹っ切る。髪
と髪留めのゴムに手をやり、朝の支度に取り掛かる。
(こんな嘘はよくない。それに、相羽君を試してるみたいになる)
 しっかりしなくては。弱気を追い出そう。昨日は一刻でも早く事情を知りたがってい
たのに、今は怖がっている。
 気持ちの上ではそう努力しているのだが、実際には簡単にはいかない。何かにつけて
足取りが重くなり、全体の動作ももたもたとスローに。結果、いつもの電車を逃したせ
いで、学校に着いたのは始業ぎりぎりになってしまった。
(――いる)
 教室の戸口のところで、隣の席に相羽が来ていることを視認し、すっと目線を逸らす
純子。自分の席に向かう途中、結城らから「おはよ。遅かったね。何かあった?」等と
声を掛けられたが、曖昧に「うんちょっと寝坊」と返すにとどまる。
「おはよう。大丈夫?」
 着席するタイミングで、相羽から言われた。
(大丈夫じゃないように見えるとしたら、あなたのせいよ)
 純子が涙ぐみそうになるのを堪え、軽く頭を振った。悪意に取り過ぎたと反省する。
(今の言葉は、遅刻しそうになったのを心配してくれただけのこと。相羽君は私が留学
話に勘付いたって知らないんだから)
「おはよう。寝坊しちゃった」
 今できる精一杯の笑顔で返事しておく。一コマ目の授業の準備をしているとベルが鳴
って、じきに先生がやって来た。授業がこれほどありがたく思えるのは滅多にない。

            *             *

 二時間目が終わって、この日二度目の休み時間を迎える。その頃には、相羽も「おか
しいな?」と思い始めた。
 一時間目が終わってすぐ、純子に話し掛けようと名前を呼んたのだが、返事をくれる
ことなしにすーっと席を離れ、廊下に出てしまった。トイレか何かかなとしばらく待っ
たが、結局次の授業が始まるぎりぎりまで帰って来なかった。
 そして今し方話し掛けようとすると、手のひらでやんわりと壁を作られてしまった。
「あとでね。――マコ!」
 声を結構大きめに張り上げ、結城の方へ行く。何か話しているが、内容までは分から
ない。
 その後も、昼休みを含めた全ての休み時間で、まともに話す機会は訪れなかった。都
度、純子は淡島と話をしたり、白沼と話をしたり、あるいは一年生の教室に遠征してみ
たり(多分)と、相羽を遠ざける。
 唯一、天文部の太陽観測に顔を出す際にチャンスがありそうだった(唐沢も含めた三
人による移動になるが)。が、これもまた、純子が突然、お腹の具合がよくないみたい
と言い出して、離れてしまう。
「……」
 何とも言えぬまま見送った相羽が嘆息し、前を向くと唐沢と目が合った。
「涼原さんと何かあったのか」
「いや、別にない」
「今日は朝から避けられてるみたいに見えるんだが」
「やっぱり、そう見えるんだ?」
「涼原さんの態度、露骨だぜ。ていうか、普段一緒にいるのが当たり前の二人が、こん
なんだったら逆に目立つ」
「……心当たりがないんだけど、そっちは?」
「待て。心当たりがない? つーことは例の話、まだ言ってないんだな?」
「言ってない。昨日は色々邪魔が入ったし、今日はタイミングが合わない」
「……まずいな」
 唐沢が顎を片手で覆い、呟いた。何がと相羽が聞き返す前に、二人は屋上に到着。そ
のまま観測の手伝いに入ったため、話の続きはできずじまいに。純子はだいぶ遅れてや
って来たが、もちろん私語を交わす暇はなかった。

 完全に避けられているなと自覚したのは、放課後だった。ホームルームが終わるや否
や、相羽が何も言い出さない内に純子が独り言めかして、「もう少ししたら期末試験が
あるから、早めに勉強しておかなくちゃ。あぁ忙しい」と言い置き、さっと教室を出て
行ったのだ。
 またもや見送るしかできないでいた相羽は、肩を叩かれて振り返った。真顔の唐沢
が、ちょいちょいと右手人差し指で手招きならぬ指招きをし、内緒話を求めて来る。
「何?」
 顔を寄せた相羽に、唐沢は耳打ちに近い格好を取る。
「今日一日、様子を見ていて悪い直感が働いた。もしかしたらだが、例の話、涼原さん
にばれたのかもしれない」
「言ってる意味が分からない」
 相羽が重ねて聞くと、唐沢はこのままでは喋りにくいと判断したのか、「時間ある
か? あるんなら場所、移そうぜ」と確認してきた。相羽は黙って頷き、鞄を小脇に抱
えた。
「天文部の誰かに見付かると気まずいから、学校の外がいいな。どっか、ファースト
フードとか」
「あの話をするんだったら、緑星の生徒が来そうにない場所の方が」
「それもそうか」
 唐沢は歩みを一瞬止めたが、場所の選定をすると再び歩き出した。
「芙美の家に行こう。あいつ、帰ってりゃいいんだけどな」
「な? 町田さんのところ? 何で? いや、それよりもまさか」
 これから町田さんに留学話を伝えるのかと聞こうとした相羽。急な展開に困惑気味だ
ったが、唐沢からの答は想像を上回っていた。
「先に謝っておく。すまん、例の話、実はもう芙美に言ってるんだわ」
 それを聞いた相羽は、先を行く唐沢の後頭部に鞄をぶつけたくなった。衝動を我慢す
る代わりに、声をやや荒げる。
「一体何を考えてるんだよっ」
「女子の立場からの意見を聞きたくてな」
「っ〜。唐沢が考えているのは、町田さんが純子ちゃんに教えたっていう線なのか?」
「全然違う。大外れだ」
 唐沢がいきなり立ち止まり、振り返った。勢いづいていた相羽の急ブレーキは間に合
わず、肩と肩がぶつかる。
「相羽。この件で俺を悪く言うのはかまわない。けど、あいつは違うからな。芙美は俺
なんかよりずっと口が堅い」
「……ごめん。ひどいこと言ってしまったな。謝る」
 距離を取り直して頭を下げた相羽に、唐沢は「今の段階なら謝らなくていいって」と
応じた。横並びになってまた歩き出してから、付け加える。
「さっきも言ったが、謝るべきは多分俺の方だし」
「分からん」
 首を傾げる相羽。
「今すぐに推測を話してやってもいいんだが、説明を繰り返すのが面倒だからな。芙美
の家に着くまで待て」
 唐沢に言われて素直に付き従い、町田の家の前まで来た。駅に降り立った段階で電話
を入れ、彼女が帰宅していることは確認済みで、かつ、これからの訪問の了承ももらっ
ていた。ただし、唐沢だけが来ると思われていたようで。
「お――珍しい。おひさ」
 びっくりしたのか、言葉の軽さとは対照的に、町田の表情はちょっと硬くなったよう
だった。

 〜 〜 〜

「――というわけで、廊下で俺が不用意に掛けた言葉が、涼原さんの耳に届いていたと
したら、ばれただろうなって」
 極力、明るく軽い口調で自らの想像を説明し終えた唐沢。喉が乾いたか、町田の出し
たジュースを呷る。
「これやたらと甘いな。毎日がぶ飲みすると、ぶくぶく太り――」
「甘いのは、あんたの脇でしょうが。男がどうこう女がどうこうとか言いたくないけ
ど、敢えて言うわ。男の喋りは格好よくない」
 町田がずばり指摘すると、唐沢は力なく項垂れ、「その通りです、面目ない」と甘ん
じて受け止める。
 町田はしばし唖然としたようだったが、面を起こした唐沢が片目でちらと様子を窺う
素振りを示すと、大半が演技だと気付いた。これ見よがしにため息をつき、今度は相羽
の方に顔を向けた。
「えーっと。まずは、何を言うべきかしら。留学おめでとう? 違うか」
「あ、いや。ありがとう」
 相羽は浮かんだ戸惑いをすぐに消すと、微笑しながら礼を返した。町田も少し笑った
が、すぐにまた表情を引き締めた。
「で、敢えて聞くわよ。何で純にすぐ言わないで、ずるずる引き摺っていたのかな」
「一番いいタイミングを探して、見付からなかった。それと……僕自身、伝えるのが怖
いと思っていたのが大きい」
「――素直でよろしい。でも、純の立場からしたら、ちょっとでも早めに知らせてくれ
るのがどんなにいいことか」
「うん。それに気付かされて、早く知らせようとした途端、こんな事態に陥ったという
か」
 相羽が答えると、町田はむーと唸って、少しだけ考えてから、今度は唐沢に対して言
った。
「公平に判断して、あんたの方により責任があるわ、やっぱ」
「そうかなあ。五分五分だと思うが。って、そんなことを聞きたくて来たんじゃねえ」
 三人が囲むテーブルを唐沢が手で叩こうとすると、町田は飲み物の残るグラスを持ち
上げた。
「分かってる。だいたい察しは付いたわ。大方、私に探りを入れさせようっという魂胆
ね」
「鋭い」
 握った拳を解除して、町田を指差す唐沢。町田はその指を払う仕種をした。
(なるほど。そういう意図があったのか)
 二人のやり取りを目の当たりにして、相羽は遅ればせながら飲み込めた。遅れたの
は、唐沢が町田に留学話を教えていたことを知らされたばかりというハンデがあったせ
い。だが、たとえハンデがなくても、町田にスパイじみた真似をしてもらうのは、相羽
一人では気兼ねしてできなかったかもしれない。
「引き受けてくれるのか?」
 唐沢が手を拝み合わせながら尋ねるのへ、町田は「しょうがないじゃない」首肯す
る。
「引き受けるけれども。もし仮にここで私が、私にはメリットがないとか言って断った
らどうするつもりなのよ、キミ達?」
 “キミ達”と複数形を用いていながら、彼女の両目は相羽に向けられている。相羽は
ほぼ即答を返した。
「町田さんはそんなこと言わない。この話を拒否する理由がメリットがないだなんて」
「――なるほどね。リアリティのない仮定になっちゃったか」
 一本取られたわと続けた町田は、質問をぶつけてきた。
「他人の色恋沙汰にはなるべくノータッチで行きたいところだけど、関わるからには私
にとって望ましい結果になるように、純のためになるように行動するからね。私が探り
を入れた結果、純子が相羽君の留学をすでに知っているとなったら、どうしたいわけ
?」
「……僕の選択肢は元から一つしかないよ。心の準備が違ってくるだけ。あ、純子ちゃ
んがいつまで経っても話を聞いてくれなかったら困るけど」
「そりゃそうよね。じゃ、うまく行く保証は無理だけど、あの子の気持ちが話を聞く方
に向くよう、がんばるわ」
 町田は若干、緊張した面持ちになって請け負うと、学生手帳を開いた。
「それで? 今の純にとって暇な日っていつ?」

            *             *

「芙美!」
 水曜の学校帰り、純子はターミナル駅前のロータリーで町田と待ち合わせをした。運
行の都合で、純子の方が三分あとになるのは分かっていたこと。けれども、なるべく待
たせたくない、ちょっとでも早く会いたい気持ちから駆け足になっていた。
「純!」
 呼応する町田の声や表情が以前と全く変わらないことに、何だかほっとする。
「待った?」
「待った待った。思ってたより早く学校が終わったから、早く来ちゃってさ」
「え、どのくらい?」
「安心して。五分」
 ひとしきり笑って、どちらからともなく出た「会えて嬉しい」「私も」という一連の
言葉が重なった。
「とりあえず、どこかに入って落ち着こうか」
 適当に移動し、近く――といっても裏通りに喫茶店を見付けた。“金糸雀”という名
前のその店は、駅周辺のカフェにしては古びた外見で、窓からちらっと窺える様子も落
ち着いた雰囲気、客層からして大人向けに思えた。
「騒ぐつもりじゃないし、私らだけならここで大丈夫でしょ」
「騒ぐって、もしかしたら唐沢君を想定してる?」
「純、私が常にあいつのことを思い浮かべてるみたいに言わないで。今思い浮かべてい
たのは、久仁香と要よ」
「だよね。わざと言いました」
 店前でお喋りしていると、ちょうど中から三人組のお客が出て来た。入れ替わるよう
にして、純子達二人はドアをくぐった。店員らしき人物は、左手にあるカウンター内に
長めの髭を生やした男性が一人。見た目のイメージよりずっと若い声で「いらっしゃい
ませ」と迎えられ、お好きな席にどうぞと促される。中程の窓際にある二人席に向かい
合って収まった。長めの髭を生やした男性店員、多分マスターがカウンターから出て来
て、純子達のテーブルにお冷やとおしぼりを置いてから注文を取る。長時間の滞在はで
きないこともあって、ともにアメリカンを選んだ。
 マスターがカウンターの向こうに戻ってから、町田が純子に耳打ち。
「冷たい物じゃなくてよかったの?」
「冷たいのって最初から甘い物が多いから。レッスンがない時期は、ちょっとずつ節制
しないと」
「ああ、期末考査があるもんね」
「芙美こそ、遠慮しないでケーキの一つでも頼めばいいのに。よかったらおごる」
「遠慮してるわけでは。それより、おごるって何で」
「だって、誘ってくれて嬉しかったんだもん」
「普通、おごるとしたら誘った側でしょうが。まあ、どっちにしても今日はいらない。
最近、結構食べてるからねえ甘い物」
「じゃあ、次の機会は絶対に」
 話す内に、早々とアメリカンコーヒー二つが届く。単なる薄めのコーヒーにあらず、
香りだけで満足できそう。
「うん、いける」
 一口飲んだところで、町田が言った。コーヒーの味の善し悪しにはたいして拘りのな
い純子も、これは美味しいと感じる。同意を示そうとした矢先、町田が尋ねてきた。
「そういえばさ。純がコーヒー頼むのって珍しくない?」
「えっ、そうかな。そうかも」
 家ではそれなりにインスタントを飲むが、外でわざわざ注文するのは、ほとんどなか
ったかもしれない。この店はコーヒー専門店ではない。紅茶もジュースもある。
「たいてい紅茶だったよね。好みが変わった?」
「変わってはないけど、今日は何となく」
「ま、考えてみれば、紅茶はもういいってくらい普段飲んでるんでしょ? 自宅だけじ
ゃなく、相羽君に入れてもらうとか」
「あ」
 純子は反応できなかった。遅れをごまかすために、スプーンを持ってコーヒーをかき
混ぜる。
(ひょっとして私……相羽君のことを避けようとして、紅茶まで避けた?)

――つづく




#557/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  20/03/05  22:20  (177)
クリスマスツリーは四月に解ける 上   永山
★内容                                         20/03/09 19:43 修正 第3版
 小学校では二年ごとにクラス替えが行われた。だから、高校生になった今、希にあの
出来事は小三のときだったかな、それとも四年生のときだったかなと迷うことがある。
けれども、あの出来事はいつだったか、絶対に間違えない。六年生の十二月だ。
 当時、小学校ではふた月に一度ぐらいのペースで、お楽しみ会なる催し物が各クラス
単位で行われていた。外でひたすらドッジボールをやることもあれば、クイズ大会(単
に出題するのではなく、知力体力時の運てやつ)もあった。班単位に分かれてレクリ
エーションの進行を受け持つイベントでは、よくあるハンカチ落としや“箱の中身は何
だろな?”、笑い話を一斉に聞かせて笑った者から脱落なんてのもあった。
 そして十二月はクリスマスが定番。もちろん二十四日には学校は冬休みに突入済みの
ため、上旬に行うのだけれど、なかなか雰囲気があってよかったと記憶している。
 最終学年である六年生ともなると、力の入れ方が違ってくる。でもはっきり覚えてい
るのはそれだけが理由じゃない。
 その年の四月、一人の転校生がクラスに来た。北浦拓人《きたうらたくと》という男
子で、見た目も中身もおとなしい子だった。背はクラスで真ん中ぐらい、色白で運動は
苦手みたいだったけど、かけっこと水泳だけは早かった。顔は……頼りない感じの二枚
目、かな。
 特に目立つタイプではないけれども、大勢に埋没するでもなし。さっき言ったおとな
しいというのは、私達女子から見てのことだったらしく、男子同士では普通に話してい
たみたい。で、いつの間にかクラスに溶け込んでいた。
 北浦君を初めて意識したのは家庭科。同じ班になっていたからあれは二学期。エプロ
ンを縫う課題を、手早くかつ丁寧にやり遂げた。私は裁縫が苦手で、うらやましく思う
気持ちが表に出たのか、北浦君に「分からないところがあったら言って。できる限り教
える」と言われてしまった。ありがたいんだけど恥ずかしいって感じがして、私の方が
ちょっと素っ気ない態度を取っていたかもしれない。それでも、彼が縫うのを見てい
て、その細くて長い指が器用に動くのが印象に残っている。

 十二月のお楽しみ会は、プレゼント交換やキャンドルサービスの他、クラスのみんな
がそれぞれ五分から十分程度の持ち時間で、出し物をやることになった。要は隠し芸大
会みたいなもの。
「えっ。手品、できるの?」
 事前に全員が自己申告した上で作られたプログラムを見て、私は北浦君に思わず聞い
た。
「うん」
 彼は照れたみたいにほんのり頬を赤くして答えた。その頃にはかなり仲よくなってい
た。
「お、自信あるんだ? 『一応……』とか言わないくらいだから」
 私が笑いながら指摘すると、彼は慌てて「あ。一応」と付け足した。そんな風だった
から、あんまり期待しないでいたんだけど、本番で私は、ううん、私達クラス全員はび
っくりすることになる。
 当日、会場の理科室にはクリスマスらしい装飾が施された。黒板にサンタクロースや
トナカイのそり、クリスマスツリーに雪だるまといった絵が描かれ、窓はスプレーの雪
が吹き付けられ、折り紙でできたリングチェーンが彩る。本物ではないけれどもクリス
マスツリーも用意して、教室の上座の隅を飾る。実際の天気は晴れで、雪が降らないど
ころか、この季節にしては暖かいほどだったが、ムード作りはばっちりだ。
 出し物は歌が一番多く、半数を超えるくらいいたからちょっとしたカラオケ大会にな
った。ちなみに参加は単独でもペアでもグループでもいい。歌そのものよりも振り付け
を頑張った口も結構いた。歌とは別に、ダンスを披露したグループがいれば、ものまね
を披露した男子もいた。そんな中でも漫才をやった二人組は素人離れしていて、大いに
受けて大いに盛り上がった。
 この流れを受けてとりを務めたのが北浦君の手品。こういう順番になったのは期待値
の大きさではなく、単に手品は色々散らかるから、最後にするのがいいという判断。当
然、私は内心、大丈夫かなと心配していたわけ。この日までに北浦君の手品を見た人が
クラスにいたのかどうか、定かでない。でも先生はチェックしたと思う。会場がいつも
なら自分達の教室なのに、今回に限って理科室になったのは、北浦君の手品に関係して
いるらしいから。
 廊下で準備を終えて入って来た北浦君は、普段と違って芯が通ったように見えた。典
型的な手品師のイメージである燕尾服にシルクハットではなく、ジャケットを羽織っ
て、いつもの半ズボンがジーパンになっただけなのに、ちゃんとマジシャンらしく見え
る。ただ、プロマジシャンと違って、色んな道具をデパートの大きな紙袋に入れて自分
で運んで来たのが、そこはかとなくおかしい。
 それでも、わずかの緊張と自信が表れていて、何て言うか凄くいい顔をしている……
と見とれてしまった。それは一瞬だけで、我に返って赤面を自覚しつつも、成り行きを
見守った。これでこけたら承知しないからって気持ちになってた。
 北浦君は荷物を教卓の陰に置いてから一礼すると、背中側からステッキを取り出し、
いきなり始めた。バトントワリングのような手さばきを短く見せたかと思うと、ステッ
キをふいっと宙に浮かせる。「おお」って声が上がる。最初は両手のひらで包む格好
で、いかにも見えない糸で吊っていますって感じだったのが、段々と手を離れていき、
上下左右に大きく動くように。驚きの声が大きくなったところで、北浦君はぴたりと動
作をやめる。と、左手からステッキがぶら下がるみたいに浮かんでいる。それから左手
のステッキの間の空中に、右手をチョキの形にして持って行き、はさみで切る仕種をす
る。同時に、ステッキが床に落ちて、からんからんと乾いた音を立てた。
 何だやっぱり糸かという声が聞こえたけれども、北浦君、意に介した様子はない。逆
にその声に応えるみたいに両手を動かすと、再びステッキが宙を飛ぶように浮いて、右
手でキャッチした。観ているこっちがまた「おおーっ」となっている目の前で、ステッ
キを四、五本の花に変えてしまった。矢継ぎ早の技に驚きの歓声が止まらない。
 皆が落ち着いたところで、改めて北浦君が口を開く。「受けてよかった」とほっとし
た顔つきで言って、笑いを誘う。
「続いては……その前に、この花、造花で再利用するから仕舞っておかないと」
 持参した袋に造花を戻す北浦君。次に振り返ったとき、突然、何かが飛んできた。み
んながびっくりしてその物体をよける。びっくり箱に入っているような下半身が蛇腹の
ピエロの人形だった。
「あ、ごめん」
 とぼけた口調になるマジシャン北浦。
「びっくりした? こういうことも入れておかないと、すぐにネタが尽きて間が持たな
いので。次に進む前に、身体の緊張をほぐしましょう。簡単なストレッチを一緒にどう
ぞ。これから僕のする通りにやってください。やりにくかったら立ってもいいよ」
 手のひらを開き、両腕をまっすぐ上に挙げる。次に両手を頭上で交差させ、手のひら
を握り合わせる。そのまま胸の高さまで下ろす。
「ここまではいい? 分からない人、自信のない人はいない?」
 さすがにこれくらいは誰にでもできる。でも北浦君は「そこ、加治木《かじき》とか
坂口《さかぐち》とか大丈夫?」と仲のいい男子を名指し・指差しして、確認を取る。
ようやく安心できたのか、続きに戻った。
「みんな準備できたところで、最後にこうしてください」
 言いながら、ねじれた状態で組んでいた両手を離すことなくねじれを解消し、手のひ
らを私達観客側に向けた。
「え?」
 そこかしこで、戸惑いの反応が出る。誰も北浦君と同じようにできていないようだっ
た。ざわつく私達に向けて、「時間が余ったら種明かししまーす。てことで次行くよ」
と告げた。満足げで調子が乗ってきた様子。
 もうあとは彼の独壇場。取り出したスカーフを両手でぴんと張り、その縁を小さな
ボールが左右に移動し、二つになり、最後には重なって雪だるまになる。
 先生が鉛筆や物差し入れにしていた空き缶を受け皿に、お金(おもちゃのコインだけ
ど)を次から次へと生み出して投じていくが、最後に缶を見ていると空っぽのまま。が
っかり――と思ったら、両手でも余るような特大の硬貨が教卓の上にどんと置かれる。
 三つの金属のわっかが、つながったりまた離れたりを繰り返す。私達もわっかを触ら
せてもらったけど、切れ目が見つからない。
 そのわっかのチェックをした流れで、トランプのカード当ての相手に選ばれた。自分
がサインしたハートの四が、トランプの山のどこに入れても一番上から出てくるという
のはテレビなんかで見たことあったけど、目の前でやられるとまた格別で魅了される。
最後にはサインしたカードは自分の両手の間でしっかり持っていたはずなのに、やっぱ
り山の一番上になっていて、じゃあ持っていたカードは何?と確かめてみるとスペード
の八で、そこには北浦君のサインまであった。スマイルマークと「みまちがえたでし
ょ?」という台詞付きで。
「見間違えてなんかないわよ。でも……」
 カードを見つめながら考え込んでしまう。
「考えたいならそのカードとハートの四はあげるよ」
「あ、ありがと。だけど、二枚のカードをにらんで考えて、種が分かるもの?」
「うーん、無理」
 なんだと肩すかしをされた気分だけど、まあ記念にもらっておこう。お楽しみ会の間
は、他の子から見せて見せてと言われたので貸したけれども、終わったら大事に仕舞う
んだ。
「名前を書いたカード同士、ひっつけておくのは占い的に何かあるかもしれないんで、
ようく剥がしておいてね」
 手元に戻って来たとき、北浦君から謎の念押しをされた。

 北浦君がフィナーレを飾るマジックの前に、カーテンを閉めてと言い出した。皆率先
して、校庭側、廊下側の両方ともカーテンをきっちり閉める。普通教室と違って黒くて
分厚い布地のおかげで、部屋はほぼ真っ暗になった。
 北浦君は一旦教室の電気を点けると、「暗いと見えなくなるだろうから、今の内に僕
が何も持ってないことを確認しといて」と両手の裏表をゆっくりと見せた。先生が電灯
を消す。
 やがて始まったマジックは、それまでとひと味違う、幻想的な物だった。昔の、小さ
な宇宙生物が主役の映画についてちょっと語ったかと思うと、その映画の象徴的なシー
ンを再現するかのように、彼の人差し指の先端が光を放つ。まぶしくはない。豆電球レ
ベルの光だけど、そのオレンジ色は温かく映る。マジシャンが右人差し指を左手に向け
て振る、と、光が左手の人差し指に移動した。そこからは自在に光は指先を移動を始
め、ややくどくなりかけたところで、色が変化した。緑になったり黄色になったり赤く
なったりする。しかも、一つの指が一色ではないのも驚きだ。
「そういえばこの部屋にクリスマスツリーがあったけど」
 指先の光を教卓の端っこに移して、北浦君が口上を述べる。
「一目見て、がっかりしたことがあったんだ。ツリーのてっぺんに星がない」
 言われてみれば……そんな囁きがいくつか上がった。
「ツリーのてっぺんの星、ベツレヘムの星って言うらしいんだけど、イエス・キリスト
ととても深い関係のある星なんだって。だから思った。クリスマス会なのにあのままじ
ゃ寂しいので、この光を星の代わりにしてみようかなと」
 なるほど。指を離れて机の端っこに点せるくらいなら、ツリーのてっぺんも光らせら
れる?
 北浦君は机から光を拾うと、ツリーに向けて指を弾く動作をした。けど、光は移らな
い。
「あれ?」
 何度か同じ仕種で試すがうまくいかない。最後に来て失敗? 勘弁してよ〜。と、心
中で祈る気持ちだったけど、当人は平気な様子で、すたすたとツリーまで近づいてい
き、そのてっぺんを光で照らした。何と、指先全てが光っている。それくらい明るい
と、彼の手元もそれなりに見えるのだけど、細工は分からない。たとえば豆電球を貼り
付けてはいないようだ。
「うーん。クリスマスツリーらしくなったけど、僕だっていつまでもここで照らす訳に
いかないので」
 マジシャンは一瞬だけ十指の光を消した。次に点ったときには、ツリーには星が付い
ていた。
「星に来てもらうことにしたけど、いいよね?」
 おお、とも、うわーともつかない驚きの声がみんなの口からこぼれ出る中、彼はさら
っと言って一礼した。
「これにておしまいです。ありがとうございました」
 先生がカーテンを開け始めるよりも早く、私達は立ち上がって北浦君に大きな拍手を
送った。
「種明かしはー?」
 誰か男子のその声で思い出した。手を組むマジックの種、教えてくれる約束だった
わ。
 北浦君は早々に道具を片付けつつ、「ごめん。時間オーバーしちゃったから、切り上
げたんだけど」とぺこぺこした。
「いいよ。今言ってよ」
 当然、そういうお願いが出る。それは先生にも向けられ、
「はいはい、分かりましたから、早く済ませてね」
 と許可を引き出すのに時間は掛からなかった。きっと先生も種を知りたかったに違い
ない。

 つづく




#558/598 ●長編    *** コメント #557 ***
★タイトル (AZA     )  20/03/05  22:22  ( 90)
クリスマスツリーは四月に解ける 下   永山
★内容

 二学期終業式の日。学校が終わって帰る間際、私は児童昇降口を見通せる位置で一人
待ち構え、北浦君が通りかかるのを待った。他の男子と一緒に下校することもそれなり
にある彼だけど、今日は幸い、職員室で先生と長話をしている。ということは一人で帰
る可能性が高い。ただ、余り長話されると、私が寒くてたまらないんだけどね。
 と、それから五分しない内に北浦君が現れた。思惑通り一人だ。今日これからしたい
話は、どうしても二人きりでなければいけない。
「北浦君!」
 私の隠れていた柱の前を通り過ぎた彼を、小さな声だが元気よく鋭い調子で呼ぶ。相
手はびくりとして振り返った。
「な」
「長話し、やっと終わった?」
「お終わったよ。な何、待ってたの? 何か用?」
「うん。手品の話をしたくて」
「……種明かしはもうしないよ」
 外靴に履き替えながら返事してきた。私も少し離れた位置で履き替えつつ、「そうい
えばあの手を組む手品の種って、あんな単純だったのね」と思い出しながら応じる。
「がっかりした?」
「ううん。簡単にだまされて悔しいけど、凄く楽しい」
「そう」
 頬が緩み、彼の横顔がうれしげになる。私達は並んで校舎を出た。
「話というのはそれじゃなくって。私、気付いちゃったんだけど」
「え。お楽しみ会でやった手品の種が分かったと?」
 焦った様子になる北浦君。表情がくるくる変化して、こっちはおかしくなってきた。
「ふふ。違うって。あなたがくれたカード」
「――まじか」
 北浦君がこんな言葉遣いをするのは初めて聞いたかもしれない。それだけ、今の彼は
慌てているはず。
「種を見破るのは無理と言われたけれども、ヒントにはなるんじゃないかと思って、
ハートの四のカード、念入りに調べたの。それに北浦君、ようく剥がしてとかどうと
か、変なこと言ってたのも思い出したし。そうしたら表の絵柄が薄く剥がれてきてびっ
くりしたわ」
「……」
 そっぽを向いた北浦君。色白さはどこへやら、耳が真っ赤になっている。それはそう
よね。私だってカードの秘密を見付けたときは驚いたし、赤くなっただろうし、こうし
て話している今でも恥ずかしさは多少ある。
「大事なカードだから持って来なかったけど。あの剥がれたシールの下に書かれていた
ことは本気?」
「……」
 聞こえないふりなのか、さっさと行こうとする彼を、校門を出てすぐの辺りで掴まえ
た。腕を引いて、こっちを向かせる。
 そしてしばらく逡巡した後、思い切って言った。
「先に言っておくけど、私の返事は『はい』だよ」

 何で直接じゃなく、手紙でもなく、気付かれない可能性大である手品用トランプの内
側を使って告白してきたのか。
 あの日、私は北浦君に続けて聞いた。
 三学期になるといなくなるから、と彼は答えた。四月の転校も親の都合で急だったそ
うだけど、今度はもっと急に決まったらしい。その分、先行きは逆にほぼ確定してお
り、四年後には戻って来るという。
 こんな事情があったから、たとえ相手がOKしてくれても、すぐに離ればなれになっ
てしまう。それなら別に気付かれなくたっていいからカードに託そうと思った、とい
う。
「……それって……気付かれた場合はどうなるの?」
「……考えてなかった」
 おーい。何だか知らないけどちょっぴり感動していたのに、力の抜けることを言って
くれるわ。私は決めた。こちらも一瞬ではあっても心を奪われた弱みがある。
「よし、運命ってことにするわ」
「はい?」
「遠距離恋愛になっても、私は我慢する。離れていることを楽しむくらいに」
「それは……凄く、嬉しい」
「四年後というと、高校一年、二年?」
「多分、高二の春」
「じゃ、そのときは絶対に会う約束をしましょうよ。そうね、忘れないように何か強い
理由付けを……」
 少し考え、すぐに思い付いた。
「四年後に会ったとき、クリスマス会でやった手品の種、全部教えてね」

 そして今日が、その四年後、再会の日。
 私は駅まで出てきて、プラットフォームで待っていた。
 実を言うと、小学校を卒業してから今日までの間に、北浦君とは年に一度か二度くら
いのペースで会うことができた。会う度に私はねだったものだ。手品の種明かししてよ
って。
 彼は――拓人は首を横に振るばかりだった。
「だって、高校二年生の春に教えるって、約束しちゃったもんな」
 当時、約束したことは守ってよと念押しした私は、そう言われるともう黙るしかな
い。
 けど、それも今日で終わり。
 北浦拓人の名は高校生マジシャンとして業界内ではそれなりに知られているそうだ。
けど、種明かしは滅多なことではしない。私だけの特別だと思うと嬉しくなる。指先が
光るなんてほんとの魔術師みたいに見えたけど、その種を知ったら魔法は解けてしまう
んだろうか――なんて愚問。解けようが解けまいが、気持ちは変わらない。
 私は時計を見て、次にフォームの電光掲示を見上げた。家族分の指定席券の都合で、
遅めの号に乗ることになったと聞いている。家族とは別行動になってでも、一刻も早く
私に会いたいとは思ってくれないのね。不満じゃないけど、恨めしい。
 彼が乗るのは、十三時四十分着ひかり464号。もうすぐだ。
 あ――光のマジックの種明かしをする人が乗って来るにはお似合いよね、と気付い
た。

 おわり




#559/598 ●長編
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:19  (127)
条件反射殺人事件【1】
★内容
林田式という神経症の精神療法を知っている人はどれぐらい居るだろうか。
林田式といったらまず“ありのまま”だ。
“ありのまま”というのは、「だるいからやらない」というのはダメで、
「だるいなら、だるいなりに今を受け入れて、やるべき事をやる」
という姿勢である。
これを“恐怖突撃”という。
この“ありのまま”と“恐怖突撃”で病気を陶冶していくのである。
もっともこんなに厳しいのは入院林田式なのだが。
入院はちょっと、という人の為に、生活の創造会という全国組織の
自助グループがあるのだが、そこは、“ありのまま”やら“恐怖突撃”
などはなされず、林田式がむしろ禁止している、
愚痴と慰め合いの場に成り果てているのであった。

時任正則の住んでいる八王子地区では毎週土曜日に労政会館で
創造会の集まりがあった。
時任は何時もは立川の創造会に参加していたのだが、
今週は八王子のに参加していて、今まさに、みんなの前で
愚痴を披露しているところだった。

「僕は本当に、IT長者みたいなのが嫌いで…」
□型に配置されているテーブルには一辺に五人ぐらい座っていた。
つまり二十人ぐらいの前で時任は話していた。
まだ三十に充たない、TOKIO松岡似の男。
「ホリエモンとかひろゆきとか、楽天の社長とかアメブロの社長とかが
嫌いで嫌いで、見た途端に、ばりばりばりーっと心にヒビが入るんです。
自分はアパートに住んでいて派遣社員なのに、
なんであいつら楽して金儲けしているんだろう、と。
でも、それは、自己受容が出来ないからだと最近気づきました。
なんでか、自分は、この自分の体と心でいいや、と思えなくて…。
そうすると比較しだすんですよねぇ。
例えば、クラブでナンパする時だって、自分は自分だと思えないから、
ありのままの自分をさらけ出す事が出来なくて、
ちょっと見劣りのする友人に行かせて、
あいつでも相手にされるんだったら俺だって、と比較する。
それと同じで、テレビやスマホでIT長者を見ると比較するから、
殺したくなるんですよね。殺しちゃまずいけど、ははは。
という訳で、僕の当面の目標は、
“ありのまま”に自分を受け入れて、“恐怖突撃”する事だと思います」
オーディエンスの内、比較的若い層は、そうかもしれない、
リア充って難しいものねぇ、などと頷いていた。
中高年は、自分と他人の区別がつかないとはどういう事か、
みたいな視線を送っていたが。
とにかく、時任正則としては他言無用を条件にありのままを語る場と
なっているので、本当の事を告白したのだった。来週の目標も付け添えて。
「それでは次の方」と司会役のおっさんが言って、ノートに何やら書いたが、
書痙で激しく鉛筆を震わせていた。
その隣には、創造会に協力している病院から、臨床心理士が来ていた。
佐伯海里(さいき かいり)とネームプレートに書かれている。
喜多嶋舞似の、ちょっと顎がしゃくれた花王ちゃん。
「萬田郁恵といいます」まだ二十歳そこそこの、
若い頃の榊原郁恵と安室奈美恵を足して2で割った様な
可愛らしい感じの女の子が言った。
「不潔恐怖症で悩んでいます。
ばい菌とか大腸菌なんですけど。
別に、自分だけが綺麗という訳じゃないんですけれど。
外から帰ってきて、とりあえずスマホとか全部消毒するんですけれども、
手を洗う時に蛇口をひねると蛇口にばい菌がつくし、
蛇口をスポンジで洗うとスポンジにうつるし、
そのスポンジから皿に伝染するからそのスポンジは捨てないと、って。
ウェットティッシュで拭いてもゴミ箱に伝染するから
ゴミ箱も使い捨てのにしないと、とか。
そうやってキチガイみたいに、あっちに伝染した、こっちに伝染した、
と騒いでいます。
むしろ、指で舐めちゃえば平気なんです。
汚れ自体よりも、伝染していくのが嫌なんです。
という訳で、私の目標は、一通り手洗いをしたら、そこで気持ちを切り替えて、
“ありのまま”に“恐怖突撃”をする事だと思います」
「はい、どうもありがとう。それでは、今の萬田さんで自己紹介は終了なんで、
ここで少し休憩にしたいと思います」と書痙オヤジが言った。

みんな、椅子をギーギー鳴らして立ち上がった。
一部のおばさん達は、部屋の後部に行って、お茶とお茶菓子の用意を始めた。
他は廊下に出て行く者、トイレに行く人もいる。

時任が廊下に出ると、窓のところで萬田郁恵が外の空気を吸っていた。
ニヤッと笑みを浮かべて歩み寄った。
「君、えーと名前は」と話しかける。
「萬田郁恵」
「ああ、萬田さんかぁ。さっきの話だけれども、萬田さんの不潔恐怖って、
自分は自分と思えないからなんじゃない?」
「はぁ?」
「僕は、自己受容が出来ないから、だから自分は自分と思えなくて、
それで、人から人へと転々と比較しちゃうけれども。
汚れも同じで、その汚れはそれだけなんだ、と思えないから、
手から蛇口へ、蛇口からスポンジへ、と伝染していく感じなんじゃない?」
「えー、私は別にホリエモンとか羨ましいとは思わないもの。
関係ないと思える。ばい菌は関係あっても」
「同じだよ。対象をありのままに受け入れないから比較しだすんだよ」
「えー、違うよ」
その時、風に乗ってユーミンの『守ってあげたい』が流れてきた。
これは、市の防災無線放送で 毎日午後2時になると市内四百十八箇所の
スピーカーから木琴で演奏された『守ってあげたい』が流れてくるのだった。
「あー、これ、嫌いなんだ」と萬田郁恵は顔をゆがめた。
「なんで?」
「ユーミンのミンが嫌いで…。ミンミン蝉みのミンみたいで。
セミってゴキブリみたいだから、それを潰したら手もゴミ箱も汚れるから、
という感じで伝染していく」
「僕もユーミンは好きじゃないけど。
何しろホリエモン的成功者が嫌いなんだから、ユーミンとか嫌いだよ」
「元気そうじゃない。久しぶりー、と言っても一週間ぶりか」
と言って別の女性が割り込んできた。
「ああ、亜希子さん」
亜希子さんは、歳は萬田郁恵と同年代だが、吉行和子似で、老けてみえる。
「初めまして。時任さんだっけ。安芸亜希子といいます。
症状は、摂食障害で、『人体の不思議展』を見てから肉が
食べられなくなったの。だって同じ哺乳類でしょう」
と聞いてもないのに、自分の症状を語りだした。
「いやー、聞きたくない。伝染るから」と萬田郁恵は耳を塞いだ。
「時任さんって、あんまり見ない顔じゃない?」
「何時もは、立川とかに行っているから。知っている人に会うと嫌だから。
今日は何気、地元の会に来たけれども」
「本当? ナンパできたんじゃないの?」
「え」
「あんたは、自分がいじけ虫だから、メンヘラ狙いなんでしょう」
(ずけずけ言う女だなあ。アスペルガー入っているんじゃないのか。
そういうの林田式の適応外だけれども)と時任は思った。

休憩後は、4つのグループに分かれて、おやつ(ブルボンのアルフォート)
を食べながら、どうやって、自分の“ありのまま”を実践に移すかなどの
話し合いが行われた。
時任は萬田さんと一緒のグループになりたかったのだが、残念、
おじさんおばさんの神経症の愚痴を聞かされる事になり、
あっという間に五時になった。
「それでは二次会に行きましょうか。今日は中町の焼肉屋に予約してあるから」
書痙オヤジが元気に言った。
「わー、焼肉ひさびさ」などの声があちこちから上がる。





#560/598 ●長編    *** コメント #559 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:20  (161)
条件反射殺人事件【2】
★内容
会に参加した内、二次会にまで行ったのは十名程度だろうか。
彼ら彼女らは、京王八王子からJR八王子方面の繁華街に向かって歩いた。
JR八王子駅から放射線状に伸びている、西放射線通りに入ると、
ドンキ、マック、ベローチェ、BIGECHOなど、若者仕様の街並みが続く。
やっぱり学生が多い感じ。あちこちに男女が屯っていて、
どこの居酒屋に入ろうか相談している。
ティッシュやピンクチラシを配っているあんちゃんもいた。
人々の間をスケボーに乗った男が高速で走り抜けていった。
カラカラカラーっというローラーの音が通りに響いた。
傍から見れば自分らもメンヘラ御一行とは分らないんだろう、と時任は思った。

焼肉屋の座敷で、時任はすかさず萬田さんの隣をキープ。
トイメンに安芸亜希子が座った。
「あれ、安芸さん、肉、食べられないんじゃないの?」
「野菜を食べるから」
(嫌に、絡んでくる感じがする。なんで邪魔したいんだろう。
レズで萬田さんを狙っているのかなあ)と時任は思う。
しかし、真ん中に置かれているコンロに火が入って肉を焼き出すと、
ジューっと煙が出て、なんとなく前後は分断されて、
左右と語る感じになって、萬田さんと多いに語れた。
「萬田さんは、肉は平気なんだよね」とカルビやロースを網に乗せながら
時任が言った。
「もちろん平気だよ」
「でも、胃の中に入ったり、大腸から出ると、うん○だから、
汚いものになるのか」といいつつ。カルビやロースをジュージューいわす。
「養老孟司が、脳は自己中だからペッと唾を吐いた瞬間に汚いと思うのだ、
と言っていたわ。口の中に入っている間は綺麗なのに」
「養老孟司は甘いね。脳の構造で言うなら尾状核的という事だよ」
「は?」
「脳の構造しりたい?」
「は?」
「脳の構造が分かれば、何で、強迫神経症になるのかも分かるんだけれども」
「ふーん」
「脳には、つーか大脳辺縁系と大脳基底核には海馬と尾状核というところが
あるんだけれども、海馬は空間把握をするところで、
尾状核は反復記憶みたいな場所なんだけれども…、
これ、もう焼けているよ、食べたら」
「あ、いただきまーす」と萬田郁恵は肉を取り皿にとるとタレに浸して
口に運んだ。「むしゃむしゃ。柔らかくて美味しい」
「それで、海馬と尾状核の話だけれども、
海馬は空間認識だから、海馬がでかいと空間認識に優れるんだ。
だから、ロンドンのタクシードライバーは海馬がでかいんだけれども
…そのロースも、もういいんじゃあない」
「いただきまーす。むしゃむしゃ」
「タクシーの運ちゃんに限らず、ネズミでも、
迷路の真ん中に餌をおいておいてネズミを放すと、
海馬があれば、餌の位置を俯瞰的に一発で当てるんだよね」
「ふむふむ、もぐもぐ」
「ところが実験で、ネズミの海馬を損傷させると、尾状核を使う様になる。
そうすると、迷路の角から入っていって、たどり着けないと戻ってきて、
又次の角、というように、トライ&エラーを繰り返す。そのカルビも行けるよ」
「えー。時任さんも食べたら」
「じゃあ、いただきまーす」言うと、時任は、タレに浸して、食う。
「むしゃむしゃ。美味しいね。こんな旨いもの食わないなんて、
亜希子さんてかわいそうだね。
ところで、その実験で海馬を損傷したネズミと同じで、
僕も海馬が小さくて尾状核で生きているから」
「えーー」
「海馬があれば、瞬間的に、自分は自分人は人、と認識出来るのだけれども、
尾状核を使っているからそれが出来ないから、
反復的に比較するんだと思うんだよね」言うと焦げた肉を口に運ぶ。
「もぐもぐもぐ。君だって、あの汚れはあの汚れ、
とは思えないのは海馬が萎縮しちえるからで、
転々と伝染していく感じなのは尾状核を使っているからじゃない? 
その肉、焦げてきているよ」
「あ、じゃあいただきまーす。もぐもぐ。でも、なんでそんな事知っているの?」
「SNSに知り合いがいるんだよ。脳科学に詳しい。リアルじゃないけれども」
「へー、色々勉強しているんだね。もぐもぐ」
「結構、知りたくなるからね。ただ症状を言うだけじゃなくて、
病理を知らないとね」
「考えるのが好きなんだね。もぐもぐ」
上座の方で、書痙オヤジが立ち上がった。「えーー、それではみなさま、
宴たけなわではございますが、そろそろ時間の方も迫ってまいりましたので、
ここらへんで、おひらきにしたいと思いますが」
「えー、もう?」
「飲み足りない方はこれからカラオケに行きますんで、そちらでどうぞ」
「カラオケ、行く店決まってんの? ビックエコーなら+一五〇〇円で、
アルコール飲みほだよぉ」
「カラオケ館の方が設備も料理もいいし、あたし、VIP会員だから」
など、中高年が盛り上がっていた。

焼肉屋からビッグエコーに移動したのは中高年6、7名だった。
「私、JRだから」と焼肉屋の店先で安芸亜希子は言った。
「じゃあ、私、京八だから」と萬田郁恵。
「僕も京八の方の駐輪場に原チャリを止めているから」
「じゃあねえ」名残惜しそうに安芸さんが去って行った。

そして時任は萬田郁恵と来た道を労政会館の方に戻りだしたのだが。
時任は(どうやって誘おうかなあ)と思っていた。
「さっきの尾状核の話、興味あった?」ととりあえず言ってみる。
「もっと話したいなあ」
「えー」
「あそこのベローチェでお茶していかない?」
「いいけど…」
萬田郁恵はあっさり応じた。
二人はまたまた折り返して来た。
ベローチェはやりすごしてドン・キホーテもこえて、
放射線通りをどんどん奥に行って、裏道に入ろうとする。
「えー、どこ行くの?」
「あそこ」と時任は顎でラブホをさした。
「えぇー、だって」その後萬田郁恵が言った台詞は意外だった。
「焼肉を食べたばっかりだし」
「そんな事だったら無問題だよ。平気だよ、こっちも食べているし」
「嫌だぁ」
「じゃあ、ドンキに戻って、チョコミントのピノでも買ってくれればどうかなあ」
「それだったらいいかも」
二人でドンキに戻ると、ピノとついでにメントスも購入した。
歩きながらピノを食べ終えると、メントスをなめなめラブホに入った。

『ジェリーフィッシュ』という、紫の照明、アクリルの椅子とテーブル、
壁紙も紫、という、確かにクラゲの中にいるような部屋に入る。
お茶を飲む間もなく、紫のシーツに倒れこむと、
Gパン、パンティーを脱がすが早いか、重なり合った。
「今日会った時からいいなぁと思っていたんだ。
セックスは反復運動だから尾状核的なんだよ」
前戯もそこそこに、さっさと挿入するとピストン運動を開始する。
やっていて、時任は、
(いやにぬるぬるするな。もしかして生理中じゃあ)と思った。
果てた後に体を離してみると、シーツに直径1メートルぐらいのシミがあった。
「なんじゃこれは」
「私、すっごい濡れやすいの」
「水浸しだなあ」
「ちょっと待ってよぉ。私のGパン、濡れているじゃん」
脱ぎっぱなしのGパンにまで郁恵の膣液は到達していた。
「これで電車で帰るの平気かなあ」
「じゃあ、バイクで送って行ってあげようか」
「えぇ?」
「どこに住んでいるの?」
「大塚」
「もしかして大学生?」
「そうだけど」
「帝京とか中央とか」
「帝京だよ」
「それで下宿しているのか」
「そうじゃないよ。学生は学生だけれども、
父親があそこらへんの田んぼ屋なんだよ。アパート経営もしているけれども」
「へー。多摩モノレールの下あたりかあ」
「そうそうそこらへん」
「じゃあ、送ってってやるよ」

京八の駐輪場に戻ると、時任はアドレス110のメットケースから
フルフェイスを取り出して被った。
トップケースからドカヘルを出すと萬田郁恵にも被せてやる。
バイクに跨るがると、いざ出発。ブゥーーーン。
北野方面に向い、16号バイパスに出て、野猿街道で峠越えをした。
片側三車線中央分離帯付きの幅広の道に出ると更に加速する。
しかし、堀之内を超えたあたりで、メットをごんごん叩いてきた。
「止めてー」と言ってくる。
路肩に寄せてサイドスタンドを出すが早いか、郁恵は飛び降りて行って、
歩道を横切って、雑草の生えた空き地に向かってかがみ込む。
げぼげぼげぼーーーと嘔吐した。
(あれー、運転が荒かったかなあ)と時任は思った。
しかし見ているうちに、自分もこみ上げてきて、空き地に走ると嘔吐した。
げぼげぼげぼー、げぼげぼげぼーーー。
「焼肉とメントスのゲロだ」一通り吐き終わって時任が言った。
「おかしいなあ。お酒なんて飲んでいないのに」と郁恵。
「コーラを飲んだから、メントスコーラみたいになったのかも。
まあ、でもスッキリしただろう」
「うん」
二人はバイクに跨ると再スタート。
多摩モノレール下の萬田郁恵の家の田んぼ屋まではすぐだった。




#561/598 ●長編    *** コメント #560 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:21  ( 70)
条件反射殺人事件【3】
★内容                                         20/11/07 17:42 修正 第2版
次の一週間は、時任は夜勤があった為に、萬田郁恵に会う事は叶わなかった。

待ちに待った土曜日、時任は、労政会館の創造会に行った。
前半は何時もの様に、自分の症状を自己紹介風に語り、来週の目標を語る、
というコーナー。
休憩時間になると、萬田郁恵がおやつの準備を手伝っていたので、
時任もいそいそと手伝った。
萬田郁恵と臨床心理士の佐伯海里が、紙の皿に、ブルボンホワイトロリータ、
ハッピーターンを盛り付ける。
時任は、ドリンクの三ツ矢サイダーを紙コップに注いでいった。
「うえー」と郁恵がえずく。「このニオイ大嫌い。時任君平気? 
私、このニオイ大っ嫌いになったのよ」
「え、何で?」
「ほら、このラムネのニオイがメントスみたいな感じがしない? 
先週焼肉屋の帰りに焼肉とメントスを吐いたんです。そうしたら
ミント系のニオイが大嫌いになりました。歯磨き粉もダメになったんです」と、
佐伯海里に言った。
「それはガルシア効果だわね」
「はぁ?」
「ガルシア効果といって、カレーを食べて乗り物酔いをすると
カレーのニオイをかいだだけで吐き気がするようになっちゃう
という様な条件付けね。パブロフの犬みたいな」
「へー」
「普通の条件付けは一回では出来ないんだけれども。
パブロフの犬だって何回も肉とブザーで条件付けをして、
条件反射が出来たんだけれども。
でも、ガルシア効果だけは一発で条件付けられるのよ。
あと、音や光だとトリガーにはならなくて、味覚情報じゃないとダメなの」
「でも、僕はサイダーを飲んでもなんともないけど」と時任は一口飲んだ。
「人によりけりなんじゃないかしら。
不潔恐怖症の人は連鎖しやすいのかも知れない」

窓の外からユーミンの「守ってあげたい」が流れてきた。
「二時かあ」
「来週は、みんなで高尾山だよ」と書痙オヤジが言ってきた。
「毎年晩秋になると、八王子の創造会では、リクレーションで
高尾山に行くんだよ。
行きはケーブルカーで行って、山頂で昼ご飯。帰りは4号路を下ってくるから、
ちょうどこの放送が聞こえるのは吊り橋を渡っている頃かなあ」
「萬田さんも行くの?」と時任。
「みんな行くのよ。海里先生も」
「僕も行こうかなあ」
「当たり前じゃない。これも“ありのまま”の“恐怖突撃”の一種なんだから」

休憩時間の後は四つのグループに分かれての話し合いが行われた。
今日は時任は萬田郁恵と一緒のグループになれた。
ブルボンのお菓子を三ツ矢サイダーで流し込みながら萬田郁恵の悩みを聞く。
「私の父は大塚の田んぼ屋なんですけれども。
多摩モノレールが通った時に、地上げにあって、すごい大金を得たんです。
それはいいんですけれども。
多摩モノレールの下に通りが出来て、
その左右にアパートを建てて大家になっているんですけれども、
アパートの管理なんて不動産屋に任せればいいのに、
草刈りとかゴミ出しの後の掃除とか、父がやっていて。
それで、ゴミ捨て場に指定の袋に入っていないゴミがあると、
市の収集車は持って行ってくれないんですけれども、
それをカラスが荒らすといって、父が家に持ってくるんですね。
それで、ハエやゴキブリが出て。
それが不潔恐怖症の私の悩みなんです」
時任は、聞いていて、ばりばりばりーっと心にヒビが入るのが分かった。
殺意さえ感じる。
スマホニュースのガジェット通信やzakzakで
IT長者の話題を目にした時に感じる殺意だった。

会が終わって、労政会館から出てきたところで、時任は
「今日は帰る」と宣言した。
「えー、今日はお好み焼き屋に行くんだよ」と萬田郁恵。
「昨日まで夜勤で昼夜逆転しているから眠いんだ。帰るよ」
言うとそそくさと一人で駐輪場に向かった。
アドレス110に跨ると一人で寺田町のアパートに向かった。




#562/598 ●長編    *** コメント #561 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:22  (101)
条件反射殺人事件【4】
★内容
その日の晩、時任はスマホで某snsを開けた。
友達一覧の中から『浦野作治』にタッチする。
スケキヨマスクのプロフィール画像の下に自己紹介が表示される。
「心理学マスターがメンヘラちゃんにアドバイスします。
神経症というのは、梅干しを想像すれば唾液が出てきてしまう、
という条件反射にほかなりません。
電車に乗ると吐き気がする、というのも条件反射。
それを“乗り鉄”の様に、電車に乗れば幸福に感じる様に
条件付けしなおすのです。
古典的条件付けで神経症を克服しよう。
メンヘラちゃんは気軽にメッセージ下さい」
メッセージのアイコンに触れるとメッセンジャーが起動した。

時任:今、います?
浦野:いるよ。
時任:いやー、今日は滅入った。つーか腹がたった。
僕の愚痴、聞いてくれます?
浦野:聞いてあげるよ。
時任:創造会の女に、親が土地持ちでアパート経営している、
というのが居るのだが、
その親父が、居住者のゴミを家に持ってきて、
それで、ハエやゴキブリがわく、とか言ってその女が嘆いている。
ふざけやがって。百姓の癖に。
こっちは派遣社員で賃貸アパートに住んでいるというのに、
貧乏人をハエやゴキブリの様に思っているんだ。
しかし、前から田んぼ屋というのは知っていたのだが、
何故か今日突然吹き上がった。
こんなに簡単に殺意を抱く僕って変ですか?
浦野:他人は他人、自分は自分と思えなかったんだよね。君は。
時任:つーか、同じ人間なのに、制度に守られていて、
それで威張っている感じ。IT長者も百姓も。
浦野:制度に守られている、とは?
時任:典型的な例が医者ですかね。
林田式の総本山は慈敬医大だけれども、
あそこの医者なんて威張りまくっているが、
あれは制度に守られているからでしょう。
制度に守られているから、人と人とも思わない事をやってくるでしょう。
昔、慈敬医大病院医師不同意堕胎事件、とかあったけれども。
妊娠した彼女の同意なしに中絶しちゃうなんて、
人と人とも思っていない感じで。
それは、医療という制度がバックにあるからそういう事が出来るんだ。
そういう感じで、アパートの大家も俺様だし。あの女は俺様大家の娘って感じ。
浦野:それはお仕置きをしなくちゃいけないかもね。
その大家の娘というのはどんな性質の女なんだい?
時任:強迫神経症の女でなんでも結びつく女ですね。
八王子市では、ユーミンの曲が防災放送のチャイムで流れるんですが、
ユーミンのミンからミンミン蝉を連想して、
蝉はゴキブリに似ているから、だからユーミンは嫌いだ、とか。
あと、バイクで2ケツで酔って吐いたんだけれども、
その前にメントスを舐めていて、メントス味のゲロを吐いた。
そうしたら、サイダーを飲めなくなったとか。
浦野:ガルシア効果だね。
時任:そうそう、ガルシア効果っていうって聞きました。
浦野:誰に?
時任:創造会の臨床心理士の女に。
浦野:へー、そんな女がいるんだ。他には何か特徴は?
時任:すごい潮吹きですね。一回セックスしたが
1メートルぐらいの染みをベッドに作りました。
浦野:そうすると、なんでもつながる、という事と、ユーミンと潮吹き、
というのが、その女に関する情報かな。
時任:そんな感じ。
浦野:だったら、ユーミンの放送と潮吹きを条件付けしてやれば面白いよ。
時任:そんな事、出来るんですか?
浦野:だって、メントスのニオイで胃粘膜が刺激されるってあるんだろう。
だったら、ユーミンのメロで膣壁が刺激されてもいいだろう。
時任:でも、ガルシア効果なんていうのは、味覚情報のみで、
音や光をトリガーにするのは無理と創造会の臨床心理士が言っていたけれども。
浦野:君は『時計じかけのオレンジ』を見なかったのかい? 
あの映画でアレックスは『第九』を聞くと吐き気がするという条件付けを
されたじゃないか。
だから、メロで膣壁が刺激されるという条件付けも出来るんだよ。
時任:ユーミンを聴く度に潮吹きかあ。
そんな事が出来るんだったら毎日2時には潮吹き、
いや、もっと面白いお仕置きが出来るかも。
浦野:ユーミンと潮吹きの条件付けは教えてあげるから、
どんなお仕置きをするかは自分で考えなさい。
時任:で、どうすればユーミンをトリガーにして潮吹きをするという
条件反射を植え付けられるの?
浦野:セックスをしながらユーミンを聞かせれば、
潮吹きとユーミンが条件付けされるかも知れないが、より効果的なのは…。
例えば、自転車。
初めて自転車に乗った時には全神経を集中させて漕いでいるだろう。
でも慣れてしまえばスマホをいじりながらでも運転出来る。
そういうのは、無意識が自転車を漕いでいる状態だが。
そういう状態の時には、トランスのチャンネルが一個開いているから、
そこから無意識につけ込むことが出来る。
そういう状態の時にはトリガーを埋め込みやすい。
ところで、セックスも自転車漕ぎみたいな反復運動だろう。
だから、女性上位で女に反復運動をさせれば、
自転車を漕いでいる時と同じ脳の状態になる。
しかもその時ちょうど女は潮を吹いているんだろう。
その状態でユーミンを聞かせれば、
ユーミンのメロと潮吹きが条件付けされる可能性は上がるかもね。
時任:さっそくやってみます。
浦野:鋭意邁進したまえ。しかし、そのガルシア効果を指摘した
臨床心理士というのは気になるな。
時任:でも、1週間は会わないから。
それまでに条件付けしちゃえばいいんでしょう。
浦野:1週間後に会うのかい?
時任:そうだけど。それまでに条件付けは可能かな。
浦野:まあ、君の熱心さによるだろうね。成功を祈るよ。




#563/598 ●長編    *** コメント #562 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:24  (232)
条件反射殺人事件【5】
★内容
翌日、時任は、夜勤明けで眠たかったが、萬田郁恵を誘い出すと、
前回と同じラブホにしけこんだ。
『ピカソ』という名前の部屋。
「新宿の目」の様なアメーバーの様なオブジェが壁にあって
そこが間接照明になっている。
時任は萬田郁恵とベッドに寝そべると、いきなり脱がせたりしないで、
スマホを取り出した。
「君は、ユーミンを好きになるべきだよ」と時任は言った。
「ユーミンが嫌いなんてひねくれているよ。
僕もそうだけれども。
ユーミンとかサザンなんて恋愛資本主義には付き物なんだし、
それに毎日放送で流れてくるんだから好きになるしかないよ」
言いながらスマホをいじくって、LINEを開くと萬田郁恵の名前にタッチした。
「『守ってあげたい』をプレゼントするよ。今送るから。はい、送信」
「私、誕生日が近いんだよ」
「じゃあ誕生日プレゼントも用意しておくよ。もう曲、行ったんじゃない?」
ぽろりんと、萬田郁恵のスマホが鳴った。
「あー、来た来た」スマホをいじくりながら郁恵が言った。
「聞いてみな。案外いいものだよ」
郁恵はポーチからコードレスイヤフォンを取り出すと耳に突っ込んで再生する。
曲に合わせて首を振っている。
「じゃあ、そろそろ行きますか」言うと、ズボンやシャツを脱がせだした。
「今日は腰が痛いから女性上位でやってくれない? 聞こえている? 女性上位でー」
郁恵は曲をききながら、ふがふがと頷いた。
素っ裸になると、前戯もそこそこにいきなり騎乗位にまたがってきて挿入する。
こっちの臍のあたりに、心臓マッサージでもするみたいに手をつくと、
♪you don't have to worryのメロディに合わせて腰を動かす。
1曲終わらない内に果ててしまった。
それでも膣液でビシャビシャである。
郁恵はバスルームに行くと股間を中心にザーッとシャワーを浴びた。
戻ってくるとバスタオルを巻いただけの格好でベッドに腰掛けて、
セブン限定タピオカミルクティーを飲みながらリラックスした。
ベッドに寝ていた時任は、スマホを出すと、『守ってあげたい』を再生した。
果たして今のセックスで条件付けは出来たであろうか。
じーっと郁恵の背中を見つめる。
しかし、ピクリとも反応しなかった。
これは、スマホのスピーカーだと音質が悪くてダメなのか。
それとも、やっぱり一回セックスしたぐらいじゃあ条件付け出来ないのか…。

時任は寺田町のアパートに帰ってくると、さっそく、スマホで、
浦野作治に報告した。
時任:上手くいかなかったよ。全然効果がなかった。
浦野:ただ、こすっただけじゃあ、条件付けなんて出来ないよ。
時任:そうなの?
浦野:そうだよ。
パブロフの犬だって、ベルが鳴ってから肉が出るというのを繰り返すと
ベルが鳴っただけでヨダレが出る、という訳でもないんだよ。
ベルがなって肉が出るというのにビックリして、
ビックリするとシナプスの形状が変わるから、それで記憶になるんだよ。
これをシナプスの可塑性というが。
シナプスの形状が変わって、それで流れる脳内化学物質の質と量が変わる、
それが記憶の正体だよ。
だから、シナプスの形状を変化させないと。
それにはビックリする事が大切だから、ビックリしやすい状態、
つまりシナプスが変形しやすい状態にしておかないと。
それは、脳内化学物質が潤沢に分泌されている様な状態だから、
何かドーパミンの出るものを与えておくと条件付けしやすいんだがなあ。
ニコチンとかカフェインとか。
ニコチンとカフェインを大量に与えて、シナプスの先っぽに
脳内化学物質が大量に分泌されている状態で条件付けをすれば、
ユーミンと潮吹きは結びつくかも知れないのだがねえ。
時任:じゃあやってみる。

翌日の午後、時任は又郁恵を誘い出した。
何時ものホテルの『レッドサン』という部屋。
1メートルぐらいの日の丸の様な赤い間接照明の下に、
これまた赤い丸いベッドが置いてある。
いきなり脱がせないで、ベッドに寝転ぶと、
時任はレジ袋の中からパッケージを取り出した。
それを開けると、アイコスのポケットチャージャーが出てくる。
「なに、それ」と郁恵。
「電子タバコ。高かったんだから」
「いくら?」
「5000円」
時任は、ポケットチャージャーからホルダーを取り出すと、
そこにアイコス専用タバコステックを差し込んだ。
「吸ってみる?」
「えー」
「これだったらそんなに害はないしし、すっごく感度がよくなるから」
「本当に?」
ホルダーが振動すると、ライトが点滅するまで長押しした。
ライトが2回点灯したので、もう吸える状態。
「ほら、吸ってみな」と郁恵の方に差し出す。
郁恵は受け取ると両手で持って、口にくわえると、
シンナーでも吸う様に吸った。
「すーーーはーーーー。キター、クラクラするわ」
「あとこれも」とレジ袋からモンスターエナジーを取り出すと
リングプルを開けた。
「それも飲むの?」
「カフェインも感度がよくなるんだよ」言うと
口元に持っていってごくごくと飲ませる。
「あー、オレンジ味かあ。いやー、いきなりドキドキしてきた」
今や郁恵は、左手にモンスターオレンジ、右手にアイコスを持ちながら、
交互に飲んでいる。
「ああ、目が回って気持ちいいわあ」
「どんな感じ?」
「低気圧が迫っていて自律神経失調症になって、
動悸息切れがする様な気持ちよさ」
「それじゃあその状態で、ユーミンを聞いてみな」
言われるばままにイヤフォンを装着すると、ユーミンを聞き出す。
そしてベッドに横になると、白目をむいて 上目遣いで目を潤ませた。
時任は郁恵を脱がせる。
約5分のセックス。
セックスの後、郁恵は何時もの様にシャワーで膣液を洗い流して、
戻ってくるとバスタオルを巻いた状態でベッドでごろごろした。
「今日は体力消耗したわ」
「ほんま?」
横目で郁恵の様子を見ながら時任はスマホのスピーカーでユーミンを再生してみた。
「♪you don't have to worry worry まもってあげたい〜」と
チープのスピーカーのせいか、ユーミンの声質なのか、乾いた音が響いてくる。
「ん?」と郁恵は眉間にシワを寄せる。「あ、バスタオルが濡れるかも」
「え、本当?」
「なんか、まだ感じているのかなあ」
「本当かよ」

寺田町のアパートに帰ると、さっそく、浦野作治に報告した。
時任:今日は効果があった。ユーミンの曲で、湿らせる事に成功しました。
浦野:本当か。それは大躍進だな。
時任:なにしろ、アイコスとモンスターエナジーでバッチリ刺激しましたからね。
浦野:ニコチンとカフェインで、
相当、シナプスの間に脳内化学物質が出ていると思われる。
ここで止めをさすには、シナプスのつなぎめに持続的に大量の
脳内化学物質が漂う様にする為に、
セロトニン再取り込みを阻害する薬品=向精神薬を飲ませるという事だが。
時任:林田式では向精神薬とか使わないからなあ。
浦野:だったら、君、バイクで彼女が吐いたと言っていたなあ。
だったら、バイクに乗る為に酔い止めだといって、
アネロンとかトラベルミンとかの市販薬を飲ませてみろ。
それらには、ジフェンヒドラミンを含むので、
セロトニンの再取り込みを阻害するから。

翌日、又又誘い出すと例のラブホに行った。
『ネスト』という名前の部屋で、
壁全体にビーバーの巣の様に木が積んであって、ベッドも木目調だった。
ベッドにごろりとなって肩など抱きながら時任は言った。
「今日、バイクでツーリングしようか」
「嫌だぁ。又酔っちゃうから」
「だから今の内に酔い止めを飲んでおけよ」
アネロンを取り出すと通常1回1カプセルのところを3カプセルも飲ませる。
「じゃあ、折角、ビデオもある事だから映画でも見てみるか」と時任。
壁面には50インチ程度の大画面テレビが備え付けられていた。
リモコンでVODを選択して映画を選ぶ。
「何を見るかなぁ。ユーミンづくしで『守ってあげたい』を見るか。
薬師丸ひろ子の」
「何時の映画?」
「わからん」
「そんなに古いのあるの?」
「『守ってあげたい』はないなあ。
原田知世の『時をかける少女』ならあるけど。
まあ似た様なものだからこっちでもいいか。
『守ってあげたい』はツタヤで借りてきて君んちのでっかい液晶画面で見よう」
二人は『時をかける少女』をしばし観賞。
「なんでこの映画、さっきから同じシーンが繰り返し流れるの?」と郁恵。
「何をボケた事言っているんだよ。時をかけているんじゃないか」
「あー、そうなの。あー、なんか退屈。ふあぁ〜〜」と大きなあくびをした。
そろそろ薬が効いてきたか。
それに退屈だったらそろそろいいか、と思って、時任は脱がせにかかった。
そしてセックスに移行する。
が、その前に、
「そうだ、ユーミンを聞かないと。
イヤフォンを出して『守ってあげたい』を再生して」
「なんで何時もあの曲を再生しないといけない訳?」
「そりゃあ、好きにならなくちゃ。八王子市民なんだから」
「私なんて大塚だからほとんど日野市民なんだけれどもなぁ。まあいいけど」
郁恵はイヤフォンを出すと耳に突っ込んで再生した。
そして約5分のセックス。
コイタスの後、例によってシャワーを浴びると、
バスタオルを巻いてベッドに戻ってくる。
まだあくびを噛み殺していた。
時任は、じろりと横目で観察しながら、スマホでユーミンを再生した。
♪you don't have to worry worry まもってあげたい〜
「う、やばい、何故か漏れてくる」と郁恵が尻を浮かせた。
「本当かよ」
「やばい、やばい、まだ感じているのかなあ」
時任は内心ガッツポーズで、スマホを掴んだ。

ホテルから出てくると時任は言った。
「じゃあ、折角酔い止めも飲んだことだし、天気もいいので、
ひとっぱしりしてくるか」
バイクに跨るがると、いざ出発。ブゥーーーン。
ホテルのある中町から16号線に出る。万町のマックの角を右折して、
八王子実践高校を通り過ぎるとすぐに富士森公園が見えてきた。
「あそこで一休みしよう」
富士森公園の駐輪場に止めると、二人は陸上競技場に入っていった。
芝生の観客席に座り込むと、後ろ手に手をついた。
都立高校の生徒が陸上競技をやっている。
屋外用ポール式太陽電池時計を見ると、1時59分。十数秒後、2時になった。
例の放送が、マイクが近いせいで、大音響で響いてくる。
♪you don't have to worry worryのメロディが木琴で流れる。
「あれ? 芝生が湿っていない?」言うと郁恵は尻をうかして
芝生と自分の尻を触る。「違う。自分が湿ってきたんだー。なんで〜?」
(キターーーーーー!!)時任は心の中で正拳三段突きをする。

翌日、金曜日、親が居ないというんで、大塚の萬田郁恵の家に行った。
ツタヤで『ねらわれた学園』を借りて持っていく。
郁恵の家は、如何にも田舎の豪邸といった感じのお寺の様な家だった。
二階の彼女の部屋は、欄間に龍の彫刻がある十畳の和室で、
ピアノ、オーディオセット、ベッド、ソファ、50インチの液晶テレビ、
壁一面に漫画とノベルスが並んでいた。
(こういうのもみんな店子から巻き上げた銭で買ったんだろう)と時任は思う。
「じゃあ、DVDを借りてきたから見ようか」
言うと時任はソファにふんぞり返った。
郁恵がDVDをセットするとすぐに再生が開始される。
まずは、写真とアニメの合成の、宇宙のビッグバンの様な映像が流れる。
続いて、スタッフクレジットが流れるオープニングでいきなり
『守ってあげたい』が流れた。
♪you don't have to worry worry…
「うっ」と小さく唸ると、郁恵はぎゅーっと股を締めた。
「うっ。ちょっとトイレ行ってくる」言うと、障子を開けて出て行ってしまった。
(もう完璧だ)と時任は思う。(完成したよ)。

しばらくすると、なんと郁恵は安芸亜希子と一緒に戻ってきた。
「あれ、亜希子さん、家に来たりする間柄なの?」
「そうよ」
「ちょっとちょっと」と郁恵に引っ張られて、
二人は部屋の隅の勉強机の所に行くと、何やらひそひそ話しを始めた。
「実はね、ヒソヒソ、ヒソヒソ…」
(何を話しているんだろう。
まさか、セックスの時にユーミンを聞かされていたら、
♪you don't have to worry と聞くだけで潮を吹くようになった、
とでも言っているのでは。
しかし、既に条件付けは完了しているので、今更何を言おうと。無問題)。

その日の晩、浦野作治はチャットには居らず、時任は一方的に報告をタイプした。
時任:条件付けはバッチリですね。
何時でも、ユーミンの曲が流れてくれば濡れる様になりましたよ。
富士森公園の放送であろうと、映画の挿入歌であろうとね。
あとは場所を危険なところに移してあのメロディーを聴かせるだけ。
そうすると何が起こるか。
潮吹きだけじゃあ滑落しないと思ったから、僕は特別な仕掛けを考えましたよ。
へへへ。どんなお仕置きをするかは乞うご期待ですね。
又リポートしますよ。へへへ。




#564/598 ●長編    *** コメント #563 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:25  ( 46)
条件反射殺人事件【6】
★内容
高尾山ハイキングの当日、集合時間の1時間も前に高尾山口駅で待ち合わせをした。
ロータリーを出てきたところに知る人ぞ知る『ホテルバニラスィート』があった。
巨大なチョコレートケーキの様な建物を見上げて、
「ここを通る度に、あそこで楽しい思いをしている人もいるんだろうなぁ、
って思っていたんだ。入ってみようか。まだ1時間もあるし」と時任は言った。
「えー、又ラブホ?」
「今日はすっごくセクシィーな気分なんだよ」

部屋に入ると一応あたりを見回す。
でっかりWベッドの上に浴衣が2枚。
テーブルの上にはお茶菓子と缶のお茶。
風呂場を覗くと、ジャグジー風呂になっていた。
全体として、田舎のモーテルみたいな風情。
そんなのには大して興味をしめさず、「さぁさぁ」と言うと、
さっそくベッドに倒れ込んだ。
「今日はとにかくセクシィーな気分で我慢出来ないんだよ」
パンティーを脱がすのももどかしくセックスに移行する。
セックスの間、パンティーはベッドの上に丸まっていた。
約5分で終了。
案の定、膣液が1メートル程度のシミを作っていた。
その上にパンティーが丸まっていた。
「ちょっとぉ、濡れちゃったじゃない。これからハイキングだっていうのに」
と郁恵。
「ちょうどよかった。つーか、今日誕生日だろう? 
プレゼントを用意してきたんだよ」
言うと、ナップサックから包を出して、渡す。
郁恵が包を開けると中からパンティーが出てきた。
ランジェリーショップで売っている様なセクシィーなパンティーが。
「なぁにぃ、これ」パンティーを広げてひらひらさせながら言った。
「誕生日のプレゼント…。嘘嘘、本当のプレゼントはこっちだよ」
言うと、スウォッチを渡した。メルカリで落札した二千円の
キティーちゃんのスウォッチ
「あ、これ、いいじゃない」と郁恵は喜ぶ。
「こうやって、パンティーの後の時計を渡すのは『アニー・ホール』
みたいでやりたかったんだ」
「え、なに? 『アニー・ホール』?」
「まあ、そういう映画があったんだよ。とにかく、その時計でも、
もう十一時近いだろう。そろそろ集合時間だから行かないと。
さあ、早くそれを履いて」
郁恵はセクシーパンティーに脚を通した。
「お弁当どうしよう。高尾山口に売っているのかなあ、
それとも山頂に蕎麦屋とかがあるのかなあ」
「弁当はもう買ってきたよ。君の分も。今日から物産展だったんだなあ。
セレオ八王子で」
「へー。なんのお弁当?」
「それは山頂でのお楽しみだよ」




#565/598 ●長編    *** コメント #564 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:25  ( 91)
条件反射殺人事件【7】
★内容
やたら蕎麦屋と饅頭屋のある参道がケーブルカーの始発駅、
清滝駅につながっているた。

清滝駅の前には、書痙オヤジ、安芸亜希子、佐伯海里先生、
その他おじさん、おばさんが集合していた。
それに合流する。
「それじゃあみなさん集まった様なので出発しまーす」
ツアー客でも案内するように、海里先生がみんなを引き連れて行く。
片道四八〇円の切符を買うとカチャカチャ切符きりで切られて改札を通過する。

ケーブルカーに乗り込むと、安芸と郁恵は先頭でキャッキャしている。
時任はニヤリとほくそ笑んだ。
「高尾山行きケーブルカー、これより発車です」というアナウンスと共に、
車体が引っ張られて上がり出した。
「このケーブルカーは標高四七二メートル地点にございます
高尾山駅までご案内致します」というアナウンス。
(人が転落死するには十分な高さだな。ちょっと足を滑らせれば一巻の終わり)。
「高尾山薬王院は山頂高尾山駅より歩いて15分程のところにございます。
薬王院は今から約一三〇〇年以上前、行基菩薩により開山されたと伝えられ、
川崎大師、成田山とともに関東の三大本山の一つとなっております。」
(そんな由緒あるところでやったらバチが当たるかな。
あのメロディーを聴いて潮を吹くのは向こうの勝手だとしても、
潮吹きだけじゃあ滑落しないので、
確実に滑落する様な仕掛けを仕組んだのは僕だしなぁ)。

ケーブルカーを降りて、ぞろぞろ歩いていくと、
新宿副都心が見える展望台、サル園、樹齢四百五十年のたこ杉、と続き、
浄心門という山門をくぐるといよいよ境内に入る。

書痙オヤジやおじさん、おばさん連中が先頭と行き、萬田郁恵と安芸亜希子、
そして臨床心理士の佐伯海里先生が続く。
時任はほとんどしんがりを歩いて行った。

左右に灯篭のある参道を更に進んでいくと、
男坂と女坂というコースにY字型に分岐している。
男坂に進んで、煩悩の数だけの石段を上ったが、これにはばてた。
茶屋があって、ごまだんごと天狗ラーメンのいい香りが漂ってきた。
「お弁当買ってきた?」と佐伯海里先生が振り返った。
「うん、駅ビルで買ってきた」。
「何を?」
「牛タン弁当」
「ふーん」言うと尻をぷりぷりさせて参道を進んで行った。
参道を更に進むと四天王門という山門があって、又石段があった。
その先に、薬王院の本堂があって、そこを裏に回ると又石段。
権現堂というお堂があって、裏に回って、更にきつい石段。
奥の院というお堂があって、裏に回って、木のだんだんを上って行く。
くねくねと舗装された道を行くと、軽自動車が2台止まっていた。
(なんだよ、車で来れるのかよ)と時任は思った。
しかし、もうちょっと行ったら山頂に着いたのであった。
展望台から「富士山、丹沢が見えるー」と、書痙オヤジ、
おじさん、おばさん連中は喜びのため息をもらしていた。
「じゃあ、みなさん、ここでお昼の休憩にします。出発は一時四十五分です」
と佐伯海里先生。
おじさん、おばさん連中は、ベンチに陣取ると弁当を広げだした。
「丹沢や富士山を眺めながら食べると旨いぞー」などと言っている。
「僕らもどっかで食べる?」と時任。
「ばてすぎちゃって食べたくない」と郁恵。
「じゃあ、俺もいいや」
安芸と海里先生は「私たち、そばを食べてくる」と言って茶屋に入っていった。
何気、時任と郁恵は展望台の先っぽに移動する。
ベンチに腰掛けると、富士山を見る。
時任は、横目で、萬田郁恵のシャツの上からでもむちむちしているのがわかる
腕をガン見した。
(さっきやってきたばっかりなのに、まだ未練がある。
これを崖下に放り捨ててしまうなんておしい。
しかし、貧乏人をハエだゴキブリだと言った女だ、お仕置きしなくっちゃ。
つーか、何時も中田氏しているから妊娠しているかも。
そうしたら自分の子供もろとも崖下にって事か? 
それでもいいや。中絶の手間が省けて。
慈敬医大病院の医師みたいに同意なしに中絶しちゃうなんていう手間が省けて)。
「前に、会で、ホリエモンやひろゆきがムカつくのは
自己受容が出来ていないからだって言ったでしょう」
時任は富士山を見ながら語りだした。
「だから、尾状核的になっていて、比較するんだって。
でも、やっぱり、ホリエモン的な奴らがおかしいと思う時もある。
ずーっと前、慈敬医大の医者が看護師を愛人にして、
妊娠したからビタミン剤と偽って子宮収縮剤を飲ませて中絶させた、
という事件があったけれども、そんな酷い事が出来るのは、
制度に守られていいるからだと思うんだよね。
人間なんてでかい車に乗っているだけで威張るし、
体がでかいだけで威張るし、
制度にのっかっていれば威張るものだと思うけれども。
IT長者がツイッターで威張っているのも、同じだと思うんだよね。
だから、カーっとしてお仕置きしてしまうかも知れない」
「何をするの?」
「さぁ。今に分かるさ」

しばしベンチで堕落していたら、すぐに時間は経過した。
「それではそろそろ出発しまーす」という佐伯海里先生の声。
時計を見るともう一時四十五分。
よーし、いよいよだ。




#566/598 ●長編    *** コメント #565 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:26  ( 75)
条件反射殺人事件【8】
★内容
生活の創造会八王子支部御一行は、
おじさん、おばさん連中、書痙オヤジ、佐伯海里、時任、
しんがりに萬田郁恵と安芸亜希子という順番で来た道を引き返した。
浄心門まで戻ってくると左側の4号路に入り、高尾山の北斜面を下る。
鬱蒼としたブナなどが左右から道を覆って筒状になっている。
しばらくは丸太と盛る土の階段を下っていた。比較的幅広で手摺もあった。
しかし、すぐに道は 上りの人とすれ違えない程の、かなり細い下り坂に変わった。
右手からは樹木の根が迫っていて、老婆の手の静脈の様に見える。
左側は切れ落ちている。
「これ落ちたら死ぬで」
樹木の生い茂った崖下を見下しながら書痙オヤジが言った。
「こんなところ死体が上がらないぞ」
後ろでは、安芸亜希子と萬田郁恵がよろよろしている。
「スニーカーじゃあ危なかったかも」
「季節的に道がぬかるんでいるのかな」
(ちょっとつついてやれば崖下に転落するかな)と時任は思う。
時計を見ると、まだ一時五〇分。

しかし、丸太の階段と下り坂が交互に続いた後、道幅は急に広くなってしまった。
4号路と、いろはの森コースという別ルートの交差点の先には、
丸太のベンチまで設置してあって、休憩出来る様になっている。
(こんな幅広の道じゃあ、安全すぎる)と思う。
「休憩します?」と書痙オヤジと佐伯海里が言い合っている。
時計を見ると一時五三分。
こんなところで休まれたら予定が狂う。
「行こう、行こう、一気に行った方が楽だから」
時任は前のみんなを押し出す様に圧をかける。

しかし、丸太の長い階段を下ると、急に道幅が狭まったかと思うと、
左手は切れ落ちの崖の斜面に出た。
ここでもいいが、時計を見ると、まだ放送までには時間がある。

少しして、左手の崖下はブナなどの木で見えなくなってしまったが、
しかし川のせせらぎがきこえてくる。
あれは「行の沢」のせせらぎだ。
樹木が生い茂っていて見えないのだが、崖下には「行の沢」が流れている筈。
吊り橋も近い。
(ここだ)と思った。
時計を見ると、一時五八分。
(あと二分か)。
時任は、歩調を弱めると、立ち止まり、そしてしゃがみこんで、
靴ひもを結ぶふりをした。
「早く行ってよ」後ろで安芸亜希子が言った。
「お前ら、先に行けよ」と、亜希子と郁恵を先にやる。
紐を結びながら時計を見る。一時五九分五九秒、二時!
吊り橋の向こうから、
♪you don't have to worry worry『守ってあげたい』の
木琴Verの防災放送が流れてきた。キター。
時任はしゃがんだまま(どうなるか)と三白眼で前を行く女を睨む。
萬田郁恵がもじもじしだした。
そしてすぐに、蛙の様に飛び跳ねだした。
かと思うと、安芸亜希子にしがみついた。
二人共バランスを崩した。
(あのまま二人共落ちてしまえ!)。
しかし、郁恵だけが崖から転落していった。
ああぁぁぁぁぁー、と、悲鳴ごと吸い込まれていく。
ボキボキボキと枝の折れる音。
かすかに水の音が。
「郁恵ぇーーーー」と叫ぶ安芸亜希子。
「どうしたぁー」と書痙オヤジが振り返った。
「萬田さんが落ちました」と安芸亜希子。
「えーーーー」とか言って、佐伯海里先生だの、おじさん、おばさん連中が
崖下を見下ろす。
「郁恵ぇーーーー」と崖下に叫ぶ。
しかし、沢のせせらぎが聞こえてくるだけだった。
「降りて行ってみよう」と書痙オヤジ。
「危ないですよ。警察を呼びましょう」と海里先生。
スマホを出すと110番通報した。
「4号路の吊り橋の手前です。はい、そうです。はいはい。そうです」
他のメンツは、心配そうに崖下を覗いていた。
「一体何が」と書痙オヤジ。
「突然もじもじしだしたと思ったら、飛び跳ねて、
そして、私にも抱きついてきたんですけれども、
一人で、一人で、崖下に…。私が突き飛ばしたんじゃありませんから」と亜希子。
「それはもちろんだよ」




#567/598 ●長編    *** コメント #566 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:28  ( 52)
条件反射殺人事件【9】
★内容
たった15分で、赤いジャージに青ヘルの屈強そうな
一五、六名の救助隊が到着した。
背中に黄色い文字で『高尾山岳救助隊』と刺繍されている。
「山岳救助隊、隊長の新井です」日焼けした馬面の中年が言った。
「どうされましたか」
「突然メンバーの一人が暴れだして、ここから沢に落下したんです」
見ていたかの様に書痙オヤジが。
隊長は、しばし、崖下を見下ろす。
すぐに背後の隊員のところへ戻ると、円陣を組んで、隊員達に言う。
「これより。滑落遭難者の救助を行う。
それでは任務分担。
メインロープ担当、山田隊員、
メインの補助、今村隊員、
バックアップロープ担当、江藤隊員
バックアップの補助、池田隊員、
メインの降下要員、椎名隊員、
補助要因、豊田隊員。
以上任務分担終わり。
準備が出来次第、降下を開始する」
「はーい」と隊員らは声を上げる。
隊員らは、太い木を探して、ロープを巻き付ける。
ロープに、カラビナや滑車などを取り付けると、降下用のロープを通す。
それを降下する隊員のカラビナに縛り付ける。
降下要員にメインとバックアップの2本のロープがつながれた。
「メインロープ、よーし」
「バックアップよーし」
「降下開始ーッ」
「緩めー、緩めー、緩めー」の掛け声で、降下要員が後ろ向きに、
崖下に消えて行った。
「到ちゃーく」と茂みで見えない崖下から隊員の声がする。
続いて、補助隊員も降下していった。
既に垂らされたロープをつたって、するするすると崖下に消えていく。
「隊長ーー」崖下から声がした。「要救助者、心肺停止の状態。
これより、心臓マッサージと人工呼吸による心肺蘇生を行います」
数分経過。
「隊長ーー。心肺蘇生を行いましたが、効果ありません。
斜面急にて担架は使用不可能。よって背負って搬送したいと思います」
しばしの静寂。
「隊長ーー。ただいま、要救助者、背負いました。引き上げて下さい」
「よーし。これより、降下要員引き上げを行う。メインロープを引っ張って」
「メインロープ、引っ張りました」
「ひけー、ひけー、ひけー」
の掛け声で、降下要員が、崖下から姿を現す。
背中にはぐったりとした萬田郁恵を背負っていた。
引き上げられた萬田郁恵は、担架に移されると、
ベルトで固定されて毛布をかけられる。
4人の隊員が担架を持ち上げる。
「これより、要救助者、下山させる。いっせいのせい」で持ち上げた。
先頭に4人、担架の4人、後ろに4人の体制で、
それこそ天狗の様な速さで下山していった。
それを見ていた時任は心の中で
(ミッションコンプリート)と思う。




#568/598 ●長編    *** コメント #567 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:28  (225)
条件反射殺人事件【10】
★内容                                         20/11/04 13:27 修正 第2版
残ったのは馬面の新井隊長とあと二人。
「なにがあったんですか?」と新井隊長が聞いてきた。
「事情聴取をするんですか?」と書痙オヤジ。
「我々は高尾警察の警察官なんですよ。
私は警備課の新井警部です。
こちらは、生活安全課の山田巡査、あと交通課の江藤巡査」
狐顔の山田と狸顔の江藤が敬礼をした。
「はぁ、そうですかぁ」と書痙オヤジ。
「…どんな感じだった?」と亜希子の方を見る。
「突然、一人で、あばれだしたと思ったら、飛び跳ねて、
一回は私に抱きついたりしたんですけど、
勝手に離れると転落していったんです」と亜希子。
「その時に何か変わった事は」
「変わった事?」
「どんなに小さな事でもいいから」
「えー、」と亜希子は考え込む。
「そういえば、八王子市の放送がちょうど流れてきていました」
「放送?」
「ほら、ユーミンの♪you don't have to worry 『守ってあげたい』の
メロディーの放送です」
「えっ」と佐伯海里先生が顔を出した。「もしかして、そのユーミンと
何かが条件付けされているって事、ありませんか?」
「はぁ???」新井警部と二人の巡査は頭の周りに?マークを浮かべている。
後ろの方からそのやりとりを時任は睨んでいた。
(あの女、何を言い出す積りだ。そういえば、snsの浦野作治も、
臨床心理士には気をつけろ、と言っていたが)。時任は動揺してきた。
「私たち一行は、生活の創造会といって、神経症患者の集まりなんですけれども。
私は臨床心理士の佐伯海里と申します。
それで、神経症患者というのは、すぐに何でもトラウマにしちゃんですよ。
パブロフの犬みたいに。
例えば、メントスを食べた後に嘔吐して二度とミント味のものが
食べられなくなるとか。
同じ様に、ユーミンの放送で何か暴れるように条件付けされていたんじゃ
ないですかね」
「それ、今関係あるんですか」と隊長。
(そんな事は、関係ない、関係ない)時任は祈る様に心の中で呟いた。
じーっと考えていた、安芸亜希子が、顔を上げた。「そういえば、
郁恵ちゃん、ユーミンを好きにさせられているって言っていたわ」
「え?」
「あの、時任さんに」と時任の方を見た。「八王子市民ならユーミンを
好きにならないといけないと言われて、曲をプレゼントされて
何回も何回も、、、、」
「何回も?」
「えっ。うう」
「何回も何?」
「その、セックスの時に、繰り返しユーミンを聞かされたって。
しかも、こんなの恥ずかしいんですけれども、
重要な事だと思えるので言いますけれども、
郁恵は結構濡れやすくて、すごく濡れやすいんだと言っていました、
それで、最終的には、ユーミンを聞くだけで濡れてくるようになったと」
(くそー。萬田郁恵の家でちょっと話していたと思ったら、
そんな事までべらべら話していたのか)。
「という事は、ユーミンの放送が流れてきて、それで膣液を分泌して、
その後、あばれだして滑落した、という事ですか?」と新井警部が言った。
「そういう事は有り得ると思いますね」と佐伯海里先生。
「で、被害者は誰と付き合っていたんですか?」と新井警部。
「あの人です」と亜希子は時任を指さした
佐伯海里先生、安芸亜希子、書痙オヤジ、おじさんおばさん連中、
警部と巡査2名が時任を見ていた。
「へ、へへへ」と時任は笑う。「僕が、ユーミンと潮吹きを
条件反射にしたって? へっ。想像力がたくましいな。
つーか股間が濡れたら足が滑るとでもいうのかよ」
じーっと海里先生は時任を睨んでいた。
その視線は時任のツラからリュックに移動する。
「ちょっとリュックの中身を見せてくれない?」
「なんでだよ」
「警部、あのリュックの中に重要な証拠があるかも知れません」
「何?」と警部も時任を睨む。
「見せてくれよ」と書痙オヤジがリュックに手を伸ばした。
そして、警部と書痙オヤジに両肩を抑えられる格好になり、
そのままリュックがズレ落ちてしまった。
それを海里先生が奪うと中を見る。
「これは、さっき山頂で食べなかったお弁当ね」
と二つの弁当を取り出した。
「それが今なんの関係が」と警部。
「この牛タン弁当は、この下の紐をひっぱると、温まるんです」
言うと海里先生は紐をひっぱった。
「この弁当は、電車の中で旅行者が食べる時に温める為に、
底に生石灰だかが入っていて、この紐を引っ張ると水が出てきて、
それが生石灰と反応して熱が出るのね。
それで温まるのね。5分ぐらいで」
海里先生は弁当を手の平に乗せてみんなに見せた。
「さあ、もう温まった」
海里先生は、温まった弁当を開くと、箸を出して牛タンと米粒をつまんだ。
「さあ、時任さんに食べてもらおうかしら」
「なんで今そんなもの食わないといけないんだ」
「いいから食べてみて。いいから」
と、牛タンと米粒をつまんだ箸をもって迫っていく。
時任は警部と書痙オヤジが両肩を抑えられていて、羽交い締めにされた状態で、
ちょうどダチョウ倶楽部の上島竜兵が肥後と寺門ジモンに押さえつけられて
熱いおでんを食わされる様な格好になっていた。
海里先生は、牛タンとご飯を時任に食わせた。
「モグモグ、う、うえー」と時任は吐き出した。
「なんだ」と警部。
「ガルシア効果だわ」と海里先生。
「ガルシア効果?」
「この時任さんと郁恵さんは、先々週の土曜、
焼肉を食べた後メントスを舐めて、その後バイクで車酔いをして吐いたんですね。
一回そういう事があると当分ミント味は嫌いになる、というのがガルシア効果。
実際、萬田郁恵さんは、先週の創造会の時にサイダーが飲めなかった。
しかし、このガルシア効果の条件付けは、ミントだけじゃなかった。
焼肉も、食べると吐き気がするという条件付けがなされていたのね。
それで今時任さんは吐き出した。
さあ。ここで疑問だわ。
時任さんは、何故食べられもしない牛タン弁当を買ってきたのかしら」
海里先生は、腕組みをすると顎を親指と人差し指でつまんだ。
安芸亜希子や、両肩を抑えている書痙オヤジ、警部も首をひねっている。
「何で食べられもしないのに牛タン弁当を買ってきたのよ」と亜希子。
「なんでだ。言ってしまえ」と書痙オヤジ。
「ふん」羽交い締めされたまま時任はそっぽを向いた。
「なんで?」
「なんでなのよ」
「なんでだ」
「なんでですか」
みんなの「なんで」の嵐が巻き起こる。
時任は。なんで攻撃を無視して黙り込んでいた。

「言いたくないみたいね」と海里先生。「だったら私の想像を話すわ」
海里先生は腕組みを解くと、吊り橋の方を指差した。
「さっき、ユーミンの放送が聞こえてきた時、
急に萬田郁恵さんがあばれだして、そして滑落した。
それは、ユーミンの曲を聞くと膣液が分泌される
という条件付けがなされていたから。
でも、膣液が出たぐらいじゃあ、足を踏み外すとは思えない。
それだけじゃない何かの仕掛けを仕込んでおいたのね。
それはどんな仕込みなのか。
それは、非常に非常に児戯的な感じはするんですが、
それは、この牛タン弁当の底にあった生石灰、
それは水分を吸収すると熱を発するのですが、
それを、郁恵さんのパンティーに仕込んでおいたんじゃない? 
それで膣液が出て、それを石灰が吸収して、発熱して、
それで、あちちちちとなって飛び跳ねて滑落した、と」
「へへへっ。そんな事」時任は顔を引きつらせた。
「どうやって、パンティーに生石灰を仕込むんだよ」
「それは、潮吹きだから、替えのパンティーが必要で、
それに仕込んでおいたんじゃないの?」
「想像力たくましすぎだね」
「じゃあ、警部に調べてもらいましょう。
警部、連絡して調べてみてもらって下さい。郁恵さんのパンティーを」
「了解」警部は携帯を出すと電話した。
「こちら、新井です。要救助者の下着になんかの細工がしていないか
調べてもらいたいんだが。そう、そうです。はい。それではお願いします」
電話をしまうと警部はこっちに言ってきた。
「今調べてもらっていますから」
今や時任は2人の巡査に押さえ込まれて、膝を付いた状態になっている。
書痙オヤジ、安芸亜希子、海里先生、おじさん、おばさん連中全員が
取り囲んでいた。
警部の携帯が鳴った。
「はい。はい。なにぃ。そうかあ。出てきたかあ。了解」
携帯をしまうと語気を強くして、警部は時任に言った。
「お兄さん、ふもとの交番に来て、話を聞かせてもらいたいんだがね」
「それ任意だろ」
「なにぃ」
「任意だったら行かなくってもいいんじゃね? 
よくユーチューブとかでもやっているけれども」
「物証が出てきちゃっているじゃないか」
「物証が出てきたって現行犯じゃないだろう。
証人が言っている事だって嘘かも知れないし」
「物証が出てきているんだから、任意で応じないなら逮捕状請求するだけだな」
「だったら、札、もってこいや」
「じゃあー、そうだなあ、保護だ」と警部が言った。
「吐いたし、この人はふらふらしているから、滑落する危険がある。
これよりマルタイを保護する。ほごーー」
その掛け声で二人の巡査は、時任を片腕ずつ抱え込んだ。
「待て、ゴルぁ、離せこら、離せ」
など言うが、強引に、巡査二人に引き上げられる。
時任は、ほとんどNASAに捕まった宇宙人状態で、
足を空中でばたばたさせながら、下山していった。
嗚呼哀れ、時任正則もこれで年貢の納め時。
これにて事件はあっけなく一件落着。

「それではですねえ」と警部が言った。
「代表者の方のお名前と連絡先を教えていただきたいんですが」
「はあ」と書痙オヤジが前に出る。「私ら、生活の創造会、八王子支部の者で、
私は代表世話人の佐藤と申します。連絡先は090********です」
警部は手帳にめもっていた。
「分かりました。又、後ほど事情にお伺いするかも知れませんがその時は
よろしくお願いします」
「はあ」
「それではご一緒に下山しますか」
「いやいや、お先にどうぞ」
「それでは私はこれで失礼します」
敬礼をすると警部は天狗の様なスピードで下山していった。

「あー、よかった。名前を書いてくれって言われるんじゃないかと
ヒヤヒヤしたよ」と書痙オヤジ。「まさか、参考人の調書なんて
とられるのはいいけれども、署名しろなんて言われないだろうなあ」
「そういえば、警察の取り調べではカツ丼が出るというけれども、
そんなの食べられないわ」と亜希子。
「ベジタリアンだから天丼にしてくれって言えばいいじゃない」
「でも、警察のメニューはカツ丼しかないって言うから」
「マスコミが騒いだりしないだろうなあ。みんなあの会に参加しているのは
秘密なんだから。テレビなんかで、この人達は神経症ですよーなんて
全国報道されたらたまったもんじゃない」
(全く神経症の人って、最愛の人の葬式でも、
線香を持った手が震えないか心配しているんじゃあないかしら。
でも、神経症の人って神経症自体の苦しみ以外に、
それがバレる事の恥ずかしさとも戦っているのね)と佐伯海里は思った。

「それじゃあ我々も下山するか。日が暮れるから」と書痙オヤジ。
「そうね」と安芸亜希子。
御一行は、書痙オヤジを先頭に、おじさんおばさん、亜希子、
そしてしんがりに佐伯海里の順番でとぼとぼ下山していった。
吊り橋を渡っている時に、『夕焼け小焼け』の鉄琴のメロディーが流れてきた。
八王子市では夕方五時に防災無線でこのメロを放送している。
『夕焼け小焼け』を聞きつつ、
(ユーミンのメロとの条件付けなんて誰が思い付いたんだろう)
と佐伯海里はふと思った。
(ユーミンと膣液の条件付けは鮮やかな感じはするのだが、
パンティーに生石灰を仕込むというのは如何にも鈍くさいと感じる。
せっかく遠くから聞こえてくるユーミンのメロに反応するという
遠隔操作的条件付けをしておきながら、
当日牛タン弁当を買うなんてアホすぎる。
動かぬ証拠を持ち歩いてる様なもので。
それは、犯人がアホだからではないのか。
もしかしたら、条件反射に関しては、
誰か入れ知恵をした者がいるのかも知れない。
これは、もし事情聴取があったら、あの警部に言ってやらないと)
など思いつつ、海里は吊り橋を渡った。
吊り橋の底を覗くと、海里はぶるっと震えるのであった。
(水が少ししかない。あれじゃあ痛かっただろうなあ)と思ったのだ。
後ろを振り返ると闇が迫っていた。
西の空には宵の明星が姿を現していた。

【了】




#569/598 ●長編
★タイトル (sab     )  20/11/07  17:44  (378)
条件反射殺人事件【10】別ver
★内容                                         20/11/07 17:51 修正 第2版
【10】

残ったのは馬面の新井隊長とあと二人。
「なにがあったんですか?」と新井隊長が聞いてきた。
「事情聴取をするんですか?」と書痙オヤジ。
「我々は高尾警察の警察官なんですよ。
私は警備課の新井警部です。
こちらは、生活安全課の山田巡査、あと交通課の江藤巡査」
狐顔の山田と狸顔の江藤が敬礼をした。
「はぁ、そうですかぁ」と書痙オヤジ。
「…どんな感じだった?」と亜希子の方を見る。
「突然、一人で、あばれだしたと思ったら、飛び跳ねて、
一回は私に抱きついたりしたんですけど、
勝手に離れると転落していったんです」と亜希子。
「その時に何か変わった事は」
「変わった事?」
「どんなに小さな事でもいいから」
「えー、」と亜希子は考え込む。
「そういえば、八王子市の放送がちょうど流れてきていました」
「放送?」
「ほら、ユーミンの♪you don't have to worry 『守ってあげたい』の
メロディーの放送です」
「えっ」と佐伯海里先生が顔を出した。「もしかして、そのユーミンと
何かが条件付けされているって事、ありませんか?」
「はぁ???」新井警部と二人の巡査は頭の周りに?マークを浮かべている。
後ろの方からそのやりとりを時任は睨んでいた。
(あの女、何を言い出す積りだ。そういえば、snsの浦野作治も、
臨床心理士には気をつけろ、と言っていたが)。時任は動揺してきた。
「私たち一行は、生活の創造会といって、神経症患者の集まりなんですけれども。
私は臨床心理士の佐伯海里と申します。
それで、神経症患者というのは、すぐに何でもトラウマにしちゃんですよ。
パブロフの犬みたいに。
例えば、メントスを食べた後に嘔吐して二度とミント味のものが
食べられなくなるとか。
同じ様に、ユーミンの放送で何か暴れるように条件付けされていたんじゃ
ないですかね」
「それ、今関係あるんですか」と隊長。
(そんな事は、関係ない、関係ない)時任は祈る様に心の中で呟いた。
じーっと考えていた、安芸亜希子が、顔を上げた。「そういえば、
郁恵ちゃん、ユーミンを好きにさせられているって言っていたわ」
「え?」
「あの、時任さんに」と時任の方を見た。「八王子市民ならユーミンを
好きにならないといけないと言われて、曲をプレゼントされて
何回も何回も、、、、」
「何回も?」
「えっ。うう」
「何回も何?」
「その、セックスの時に、繰り返しユーミンを聞かされたって。
しかも、こんなの恥ずかしいんですけれども、
重要な事だと思えるので言いますけれども、
郁恵は結構濡れやすくて、すごく濡れやすいんだと言っていました、
それで、最終的には、ユーミンを聞くだけで濡れてくるようになったと」
(くそー。萬田郁恵の家でちょっと話していたと思ったら、
そんな事までべらべら話していたのか)。
「という事は、ユーミンの放送が流れてきて、それで膣液を分泌して、
その後、あばれだして滑落した、という事ですか?」と新井警部が言った。
「そういう事は有り得ると思いますね」と佐伯海里先生。
「で、被害者は誰と付き合っていたんですか?」と新井警部。
「あの人です」と亜希子は時任を指さした
佐伯海里先生、安芸亜希子、書痙オヤジ、おじさんおばさん連中、
警部と巡査2名が時任を見ていた。
「へ、へへへ」と時任は笑う。「僕が、ユーミンと潮吹きを
条件反射にしたって? へっ。想像力がたくましいな。
つーか股間が濡れたら足が滑るとでもいうのかよ」

じーっと海里先生は時任を睨んでいた。
その視線は時任のツラからリュックに移動する。
「ちょっとリュックの中身を見せてくれない?」
「なんでだよ」
「警部、あのリュックの中に重要な証拠があるかも知れません」
「何?」と警部も時任を睨む。
「見せてくれよ」と書痙オヤジがリュックに手を伸ばした。
そして、警部と書痙オヤジに両肩を抑えられる格好になり、
そのままリュックがズレ落ちてしまった。
それを海里先生が奪うと中を見る。
「これは、さっき山頂で食べなかったお弁当ね」
と二つの弁当を取り出した。
「それが今なんの関係が」と警部。
佐伯海里は、牛タン弁当を乱暴に開封すると、
箸を出して牛タンと米粒をつまんだ。
「さあ、時任さんに食べてもらおうかしら」
「なんで今そんなもの食わないといけないんだ」
「いいから食べてみて。いいから」
と、牛タンと米粒をつまんだ箸をもって迫っていく。
時任は警部と書痙オヤジが両肩を抑えられていて、羽交い締めにされた状態で、
ちょうどダチョウ倶楽部の上島竜兵が肥後と寺門ジモンに押さえつけられて
熱いおでんを食わされる様な格好になっていた。
海里先生は、牛タンとご飯を時任に食わせた。
「モグモグ、う、うえー」と時任は吐き出した。
「なんだ」と警部。
「ガルシア効果だわ」と海里先生。
「ガルシア効果?」
「この時任さんと郁恵さんは、先々週の土曜、
焼肉を食べた後メントスを舐めて、その後バイクで車酔いをして吐いたんですね。
一回そういう事があると当分ミント味は嫌いになる、というのがガルシア効果。
実際、萬田郁恵さんは、先週の創造会の時にサイダーが飲めなかった。
しかし、このガルシア効果の条件付けは、ミントだけじゃなかった。
焼肉も、食べると吐き気がするという条件付けがなされていたのね。
それで今時任さんは吐き出した。
さあ。ここで疑問だわ。
時任さんは、何故食べられもしない牛タン弁当を買ってきたのかしら」
海里先生は、腕組みをすると顎を親指と人差し指でつまんだ。
安芸亜希子や、両肩を抑えている書痙オヤジ、警部も首をひねっている。
「何で食べられもしないのに牛タン弁当を買ってきたのよ」と亜希子。
「なんでだ。言ってしまえ」と書痙オヤジ。
「なんで?」
「なんでなのよ」
「なんでだ」
「なんでですか」
みんなの「なんで」の嵐が巻き起こる。
しかし時任は、羽交い締めを振りほどくと立ち上がり、
地面からリュックを拾うと担いだ。
「バカバカしい。俺は帰らせてもらうぜ」言うと一人で山頂の方へ逆戻りしだした。
「ケーブルカーで帰る積りかぁ」と書痙オヤジ。
「捕まえないんですか」と海里は警部に言った。
「さあ、牛タン弁当を持っていたというだけでは、どうにもねぇ」
腕組みをして時任の背中を見ている。
その背中はどんどんと小さくなり、やがてブナなどの茂みの中に消えていった。
「ふー」と警部はため息をつく。「それじゃあ、我々もこれで下山しますが。
ご一緒に下山しますか」
「いやいや、お先にどうぞ」
「それでは我々ははこれで失礼します」
敬礼をすると馬面警部と狐顔巡査、狸顔巡査は天狗の様なスピードで
下山していった。
「それじゃあ我々も下山するか。日が暮れるから」と書痙オヤジ。
「そうね」と安芸亜希子。
御一行は、書痙オヤジを先頭に、おじさんおばさん、亜希子、
そしてしんがりに佐伯海里の順番でとぼとぼ下山していった。
吊り橋を渡っている時に、『夕焼け小焼け』の鉄琴のメロディーが流れてきた。
八王子市では夕方五時に防災無線でこのメロを放送している。
吊り橋の底を覗いて、海里はぶるっと震えた。
(水が少ししかない。あれじゃあ痛かっただろうなあ)と思ったのだ。
後ろを振り返ると闇が迫っていた。
西の空には宵の明星が姿を現していた。

【11】
翌日の日曜日、一日中、佐伯海里は考えていた。
(あの時ユーミンのメロがトリガーになって郁恵は暴れだした。
ユーミンと潮吹きの条件付けしたのは時任に間違いない。
でも、股が湿ったぐらいじゃあ滑落しないだろう。
そこで出てきたのが牛タン弁当だ。
なんでガルシア効果で食べられない牛タン弁当なんて持っていたんだろう)。
考えても考えても、これらの点が線になる事はなかった。

夕方になって、書痙オヤジから電話がかかってきた。
「実は、萬田郁恵さんの葬式の事なんだが、今日通夜で明日告別式なんだよ」
「えー、検死とか解剖とかはしないんですか?」
「それが、事件性がないというんで事故として扱われたらしんだよ。
それで、お寺さんやら斎場の都合もあって明日が告別式になっちゃったんだよ。
で、海里先生にも来てもらいたいんだがねえ」
「それはいいですけど」

翌日の昼頃、海里は告別式の行われる市の斎場に着いた。
火葬場併設の式場で、四十五名収容と狭い為、
入りきれない弔問客はロビーで待っていた。
手首に包帯を巻いた書痙オヤジがいた。それ以外に安芸亜希子や
何時も見るおじさん、おばさん連中もいる。
なんと時任がきていやがった。犯人が犯行現場に戻るというのはこの事か。
相当飲んでいるらしくふらついている。
あんな事件をやってしまった後ではシラフではいられないのだろう。
それ以外に、新井警部と狐顔巡査、狸顔巡査の姿も見える。
やっぱり事件性があるのだろうか。

親類縁者などの焼香が終わると、弔問客が4人ひと組でお焼香をする。
お焼香の時に郁恵の遺影を見たが、まだ高校生の面影を残している。
さぞかし無念だったろう。この無念を晴らしてやりたい、と海里は思った。

焼香が終わると、又ホールに出てくる。
暖房のないホールはひどく寒かった。
十一月中旬は、晩秋ではなく完全に冬だ。
葬儀社の人が「これをどうぞ」とホッカイロを配っていた。
海里も一個もらって拝む様にもんで手を温めた。
となりにいたオバタリアン二人組が、
「この前、寒くてさあ、ホッカイロを下っ腹に入れて寝ていたのよ。
そうしたら下の方にずれて、お股が低温火傷しちゃった」
「あらあら、当分おあずけね」
などと、下卑た笑いをあげていた。
お弔いの席で不謹慎なおばさんたちだ、とは思ったが。
(何かひっかかるものを感じる)と海里は思ったのだった。

又反対側には地方から来たらしいおっさんが二人いて、
ホッカイロだけでは足りないらしく、
「お清めだから酒を飲もうか。体も温まるしさ」などといって、
缶入りの酒を取り出していた。
「これ、面白いんだぜ。この底のボタンを押すと酒があったまるんだよ」
「へー、底にヒーターでもついているの?」
「違うよ。ここに、生石灰と水が入っていて、
この缶底のボタンを押すと中で生石灰と水が混ざって、
それで熱が出るんだよ」
「へー」
「酒だけじゃないんだぜ。今日、八王子の駅ビルで物産展をやっていて、
そこで牛タン弁当を買ったんだが、それも底に生石灰が仕込んであって、
紐を引っ張ると温まる仕掛けになっているんだよ。見せてやるよ」
言うとおっさんはカバンから牛タン弁当を取り出した。
「この紐を引っ張ると中で生石灰と水が反応して熱を出すんだよ。
ここにそう書いてあるだろう」
あれは、時任が高尾山にもってきたのと同じものだ。
あの時はあわてて乱暴に開封したので、あんな温め装置には気付かなかったが…。(何
かひっかかるものを感じる)と海里は思った。

ロビーに、葬儀社の人間が出てくると「それではお別れの時間です」と告げた。
遺影や位牌をもった親類縁者がぞろぞろと出てくる。
親族の最後尾に続いて、火葬場に向かった。
別棟の火葬場に行くと、既に、火葬炉の扉の前に萬田郁恵の棺は置かれてあった。
「それでは最後のお別れでございます」
棺の小窓が開けられる。父母や兄弟が覗き込み、そして嗚咽して泣くのであった。

火葬炉の扉が開けられた。
中を覗き込んで、(あそこに入ると、火にくるまれて燃えてしまうんだわ)
と思ったその刹那、海里は思い付いた。
生石灰で牛タン弁当を温めるイメージと、ホッカイロで股間を温めるイメージから
ひらめいたのである。
キターーーー!!
「ちょっと待って」海里は声を上げるた。
弔問客を押しのけて、棺のそばまで行く。
「ちょっと待ってください。郁恵さんの無念を晴らす為に、
ちょっとみなさんに言いたい事があります」
「な、なにかね」と親族の一人が言った
「もう一回、高尾山での滑落の事件について考えてみたいんです。
あれは事故なんかじゃない。事件なんです」
「なにを?」と親族。
後ろの方では、新井警部らも見ていたが何も言わない。
「ここで言わないと、本当に郁恵さんの無念が晴れません。
だから、言わせて下さい」
「何をだね」
「じゃあ言います。
一昨日、高尾山の4号路の下りの、吊り橋手前で、郁恵さんは滑落しました。
その時にはユーミンのメロ、八王子の防災放送のメロが流れていた。
そのメロで突然暴れだしたんですが、
時任に、あの後ろにいる、あの男です、あの酔っ払っている男に、
ユーミンのメロを聞くと股間が濡れるという条件付けをされていたんです」
「何を言っているんだ、君は」
「でも、これは本当なんです。そしてこれを言わないと、
真相が明らかにならないし、郁恵さんの無念は晴れないんです。
だから言わせてください。
郁恵さんは、ユーミンのメロを聞くと股間が濡れる様に条件付けされていた。
パブロフの犬の様に、ブザーを聞けばヨダレが出る様に、
ユーミンのメロを聞けば股間が濡れるという条件付けを」
「何を言っているんだ、不謹慎な」
「不謹慎でも何でも本当の事を言わない方が郁恵さんは無念だと思います」
「だいたいどうやってそんな条件付けっていうのか、それをしたというんだ」
「それは、セックスの時に繰り返しユーミンを聞かせたりして」
「不謹慎な事を言うなッ」
「でも、真相を言わない方が郁恵さんは無念だと思います。
とにかく、郁恵さんは、ユーミンのメロを聞くと膣液を吹く、
という条件付けをされていた。
そして山中でユーミンのメロが流れてきた。それで潮を吹いたんです。
でも、それだけでは、滑落しない。股間が湿っただけでは足を滑らせたりはしない。
そこで出てきたのが時任の持っていた牛タン弁当です」
「一体、なんの話をしているんだね」
「時任が牛タン弁当を持っていたんです」
「それが何の関係が」
「関係あるんです。時任が牛タン弁当をもっていた、という事が。
しかも、彼は、先々週、焼肉を食べてバイクで酔って吐いてから、
もう焼肉系は食べられなくなっていた。だのにそんなものを持っていた。
それが謎でした」
「…」もはや親族は何も言わなかった。
「ここまでを整理すると、あの時、ユーミンのメロで股間が濡れた、
その条件付けをしたのは時任、でもそれだけじゃあ滑落しない、
そして時任は食べられもしない牛タン弁当をもっていた、という事です。
そして、今日、ここに来て、私は二つの事からひらめいたんです。
一つは、ホッカイロを股間にあてておくと低温火傷をするという事。
これがひっかかりました」
「き、君は、郁恵の最後を侮辱する積りか」
「そうじゃないんです。とにかく、ホッカイロを股間にあてるという事と、
それから、もう一つは、あれです」
言うと海里は、田舎からきた風のおっさんのところに行くと、
さっきの牛タン弁当を奪ってきた。
「これです。この牛タン弁当。今日ここで、偶然にも、
時任があの日もっていた牛タン弁当に出くわしたんです。
それがこれ。
そうでしょう。時任さん」と後部にいる時任に言うが、時任は返事はしない。
「まあ、いいわ。…それで、この牛タン弁当の底には生石灰があって、
この紐を引くと水と反応して熱が出るんです。
同じものを時任は事件の日に持っていた。
以上の2点から、私はひらめいたんです。
もしかしたら、時任は、生石灰を郁恵さんのパンティーに
仕込んでおいたんじゃないか、と。
それで膣液が出て、それを石灰が吸収して、発熱して、
それで、あちちちちとなって飛び跳ねて滑落した、と」
「き、きみ」とは言ったものの、親族一同は、今度は時任の方を見た。
「へへへっ。そんな事」時任は顔を引きつらせた。
「どうやって、パンティーに生石灰を仕込むんだよ」
「それは、潮吹きだから、替えのパンティーが必要で、
それに仕込んでおいたんじゃないの?」
「想像力たくましすぎだね」
「それじゃあ、新井警部」
「はいよ」
「調べてみて下さい。この棺の中の郁恵さんのパンティーを。
これは不謹慎でもなんでもないんです。
火葬にしてしまったら証拠は消えてしまうんです。
もしパンティーから、この牛タン弁当の生石灰と同じものが出てきたら
ビンゴじゃないですか。ねえ、警部」
「分かった」言うと、警部が親族の方に進み出てきた。
「それじゃあ、親族のどなたか、郁恵さんの下着を
取り出してもらえないでしょうか。それとも湯灌でもしちゃいました?」
「いえ、傷がひどいのでそのままでと」
「じゃあ、ご親族の方、ご遺体からパンティーを」
父親らしき男がため息をつくと、隣にいた若い娘、郁恵の姉妹であろうか、
に目で合図した。
そして娘が棺の蓋をずらすと、しばらくごそごそやって、そして、
ハンケチにブツを包んできて警部に渡す。
「江藤、山田、その牛タン弁当の底から生石灰を出してみろ」
それから3人は唸りながら、牛タン弁当の生石灰とパンティーのを比較する。
待つこと数分、新井警部が顔を上げた。「こりゃあ、調べてみる価値ありだな」
そして時任の方を向いて言う。
「時任さん、署に来て話を聞かせてもらいたいんだがね」
「それ任意だろ」
「なにぃ」
「任意だったら行かなくってもいいんじゃね? 
よくユーチューブとかでもやっているけれども」
「物証が出てきちゃっているじゃないか」
「物証が出てきたって現行犯じゃないだろう」
「物証が出てきているんだから、任意で応じないなら逮捕状請求するだけだな」
「だったら、札、もってこいや」
「何を言っているんだ、お前は、協力しろ」
「いやだね」
「協力しろよ」
「いやだね」
「なんでだよ」
「協力する義務がないから」
こういう言い合いがしばらく続く。
最後に時任が「俺は帰るぜ」と宣言すると踵を返そうとする。
が、酔っているせいでよろけた。
「危ないっ」と警部が叫んだ。「危ない、危ない。転ぶかも知れない。
保護だ。保護ーッ!」
その掛け声で二人の巡査は、時任を片腕ずつ抱え込んだ。
「待て、ゴルぁ、離せこら、離せ」
など言うが、二人の巡査に完全に脇を固められる。
時任は、ほとんどNASAに捕まった宇宙人状態で、
足を空中でばたばたさせながら、火葬場から連れ去られていった。
嗚呼哀れ、時任正則もこれで年貢の納め時。

ここより事件は警察が捜査する事となった。
火葬は中止になり、郁恵の遺体は警察がもっていく事となった。
近親者は複雑な思いでロビーに佇んでいた。
佐伯海里、書痙オヤジ、安芸亜希子、その他の生活の創造会メンバーは
とぼとぼと斎場から出て行った。
「参考人の調書なんてとられるのかなぁ」と書痙オヤジ。「とられるのは
いいけれども、署名しろなんて言われないだろうなあ。手が震えちゃうよ。
今日は包帯をして誤魔化したけれども、何時も包帯をしていたらバレるしな」
「そういえば、警察の取り調べではカツ丼が出るというけれども、
そんなの食べられないわ」と亜希子。
「ベジタリアンだから天丼にしてくれって言えばいいじゃない」
「でも、警察のメニューはカツ丼しかないって言うから」
「マスコミが騒いだりしないだろうなあ。みんなあの会に参加しているのは
秘密なんだから。テレビなんかで、この人達は神経症ですよーなんて
全国報道されたらたまったもんじゃない」
(全く神経症の人って、愛する人の葬式でも、
線香を持った手が震えないか心配しているのね。
でも、神経症の人って神経症自体の苦しみ以外に、
それがバレる事の恥ずかしさとも戦っているのね)と佐伯海里は思った。

斎場から通りに出たところで、ちょうど二時になり、
例のユーミンの曲が流れてきた。
(ユーミンのメロとの条件付けなんて誰が思い付いたんだろう)
と佐伯海里はふと思った。
(ユーミンと膣液の条件付けは鮮やかな感じはするのだが、
パンティーに生石灰を仕込むというのは如何にも鈍くさいと感じる。
せっかく遠くから聞こえてくるユーミンのメロに反応するという
遠隔操作的条件付けをしておきながら、
当日牛タン弁当を買うなんていうのもアホすぎる。
動かぬ証拠を持ち歩いてる様なものだから。
それは、犯人がアホだからではないのか。
もしかしたら、条件反射に関しては、
誰か入れ知恵をした者がいるのかも知れないな。
これは、もし事情聴取があったら、あの警部に言ってやらないと)
など思った。

とにかく海里は、自分は郁恵の無念を晴らしてやったのだ、とは思っていた。
そして空を見上げると初冬の空も晴れていた。

【了】









#570/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  21/02/04  20:23  (  1)
期間限定UP>凶器は嵐の夜に飛ぶ   永宮淳司
★内容                                         21/02/15 19:47 修正 第2版
※都合により非公開風状態にしております。




#571/598 ●長編    *** コメント #570 ***
★タイトル (AZA     )  21/02/04  20:24  (  1)
期間限定UP>凶器は嵐の夜に飛ぶ【承前】   永宮淳司
★内容                                         21/02/15 19:48 修正 第2版
※都合により非公開風状態にしております。




#572/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  21/06/19  21:22  (170)
計算すると不利かな<前>   永山
★内容                                         22/09/25 03:41 修正 第2版
 君は力コンなるものを知っているかい?
 小説投稿サイト大手の一つで“読むは力、書くも力”をキャッチフレーズにする力ワ
ヨムは毎年秋口から年末にかけて、登録ユーザーを対象にしたコンテストを催す。その
名も力ワヨム・コンクール、略して力《りき》コン。

 いくつかの部門に分かれていて、登録ユーザーは自分に参加資格のある部門の中か
ら、自分に合ったものへ作品を投じることになるんだ。
 まず力コン大賞と力コン短編賞とがある。大賞の方は長編で、締め切りの時点で字数
は十万字以上が必要、かつ、嘘でもはったりでもいいから完結済みにしなければならな
い。
 純粋な意味での長編でなくとも、一つのシリーズとして連作短編形式で十万字以上に
達していれば、長編と見なされる。ただし、最後に各短編がつながるような芯が通って
いることが望ましいとされ、実際単なる短編集形式が受賞に至ったことはない。
 一方の力コン短編賞は文字通り短編を対象としたもので、字数は五千字から二万字ま
で、完結済みが必須条件となっている。

 力コンにはもう一つ大きな区分けがあって、それは自費出版を除いて一度でも単著出
版(媒体は問わない)の経験がある者はプロと見なし、長編・短編ともに別枠で募ると
いう線引きさ。
 尤もこのプロ部門、大いに賑わっているとは言い難い。受賞の際の賞金額や出版条件
はアマチュアと変わらない上、結果に“プロ”同士の実力・人気の差が如実に表れるた
めか、わざわざ挑んでくる本当の意味でのプロはごくわずか。一、二作出して長らく音
沙汰なしのクリエイター達が参加者の大半を占めてる。

 僕? 僕はもちろんアマチュアの方に参加している。大昔、まだ小説投稿サイトなん
て存在しない頃、素人作品ばかりで編む推理小説のアンソロジーに拙作を拾ってもらっ
たことがあるから、そこそこ行けるんじゃないかと思ってたんだけど、前回初めて出し
てみて、全然だめだった。
 念のため聞いとくけど、君も出すならアマチュア? ああ、そうだよね。いや、ライ
バルが増えるなあと思って。あっ、でもジャンルが被るかどうかは分からないか。

 それぞれの区分けの下には、より細かなジャンル分けが設けられてる。
 第一回はファンタジー、恋愛・ラブコメ、ミステリ、SF・ホラー、その他エンタ
メ、純文学という六つに分けていたが、各部門間で応募数の差が著しくあり、またそう
いった過疎部門にカテゴリーエラーと承知の上で敢えて自作を投じる者が幾人か出て、
いささか混乱した状況を呈していたそうだよ。え? ああ、僕はその頃はまだ参加して
ない。それどころかそういうサイトがあることすら知らなかった。で、第二回から、コ
ンクール期間中に一旦エントリーしたあとは、カテゴリ変更や部門変更は一切禁じられ
ることになる。
 翌年の第二回から毎回、ジャンルによる部門分けは変わり、今でも迷走と揶揄される
ことしばしばだ。そもそも部門が互いに重なっている感があって、部門変更禁止のルー
ルが厳し過ぎるとの声もある。
 運営サイドのガイドラインによれば、複数の部門に跨がりそうな作品――たとえば異
世界で名探偵が幽霊殺しを調査する――は、作者自身の判断で一つの部門のみに投じな
くてはいけない、となっている。作者自身の判断が間違っていたら、部門違いで遠慮な
く落とすんだってさ。なお、同一あるいは極めてよく似た作品を複数の部門に投じるの
は御法度だから。
 その辺りはさておき第七回目の今年は、別世界ファンタジー、日常ファンタジー、学
園・ラブコメ、恋愛・現代ドラマ、SF・ホラー・幻想、ミステリ・知略バトルとなっ
ている。他にも細かな但し書きがあり、応募に際してよく読まなくちゃいけないよ。
 たとえば恋愛・現代ドラマ部門には異世界要素のある作品はNG。架空の国を設定す
る場合も、現実離れしたものは一律アウトに処するとのこと。
 また、学園・ラブコメ及び恋愛・現代ドラマの各部門では、過度な性描写や残酷な描
写をしてはならない等々。

 参加する作家にとって重要な項目の一つは、選考方法だろうね。
 これがつまびらかにされていない。募集要項には大まかに記されているのみ。
 予選として、読者選考がある。その上位作品が本選に進み、ここで初めてプロの編集
者が目を通して受賞に値する作品の有無をジャッジする、らしい。
 では読者選考とはいかなる方法で行われるのか。僕が初めてこの項目を読んだとき、
投票ボタンはどこにあって、一人何票分の権利があるんだろうって探したんだけど、思
ったのとちょっと違ってた。
 調べてみると、部門分けほどではないが、マイナーチェンジを繰り返している。
 第一回コンクールでは“星”と呼ばれる読者による評価がそのまま反映された。一人
につき一作品に三つまで星を付けられ、コンクールの開催期間中は一度付けた星を増減
させてはならない。期間中に得た星を集計し、上位から一割足らずを本選に上げる。一
見、うまく機能したようだったが、応募総数が膨大故、ネット上で有名な作者が多少有
利な形式であることは否めなかったようだよ。加えて、後に公募の伝統ある賞で大賞を
獲る作品が読者選考の段階で落ちていたことが判明し、内外から問題視されてる。力コ
ンのカラーが定まっていなかった頃の話なので、「そういう作品は最初から公募に出せ
よ」的な論調はほぼなかった。

 第二回では読者選考のシステムは同じだが、コンクール期間中、星の数及びランキン
グを非表示としたそうなんだ。が、顕著な改善は見られず。それどころか、主催社によ
る不正(出来レース)が行いやすくなったといらぬ誤解を招き、不評を買っているね。

 第三回でも読者選考の方式は基本的に変えず、星の数は非表示のまま、ランキングは
出すようにした。
 そして大きな変更として、マイナスの星を投じることが可能になった。単純にプラス
の星数からマイナスの星数を引くのではなく、ある程度の傾斜――パーセンテージは非
公表――を付けてマイナスし、順位付けした。
 が、これはコンクール史上に残る混乱をもたらしたんだ。星を計算するとマイナスに
なる作品が続出したんだってさ。贔屓の作家を勝たせようと、固定読者がライバル作品
に、いや贔屓作家以外の作品全てにマイナスの星を目一杯付けたようなんだちょっと考
えればこういう事態も起こり得ると、予測ができそうな気がするんだけど、何故かゴー
サインが出たんだろうね。無論、マイナスになろうとランキングは作成可能だけど、い
びつな結果になったのは火を見るよりも明らかだった。

 第四回ではマイナスの星は取りやめた一方、一人の読者がコンクール期間中に投じら
れる星は各部門三十個までとされた(一つの作品には三つまで)。この回は第三回がひ
どかったせいもあって、比較的穏便に終わったと言えるかもしれない。ただ、証拠は全
くないが、投じない、つまり余った星の“取り引き”が裏で行われたのではないかとい
う噂が立ったらしい。

 第五回。一読者がコンクール中に投じられる星の数は、各部門十個までと大幅に減ら
された。ここまで手持ちの星が少ないと、なかなか余りは生じないらしく、最も妥当な
結果になった回と評されている。たまたまかどうか分からないが、後年大ヒット作にな
るあの『殲怪《せんかい》の忍び』を輩出したのはこの第五回だよ。

 第六回は、前回の選考方法を踏襲しつつ、さらなる改善が行われた。作品に星を付け
たのがどのユーザーなのか、期間中は分からない仕組みになった。本選の結果が出たあ
とには、投票者もオープンになる。
 このやり方は、一部の作家とその固定読者との間に緊張関係をもたらしたってさ。こ
れもちょっと考えれば分かる。読者からすれば推しの作家や作品が一つとは限らないの
に、作家側は「当然、私を推してくれるよね?」となってもおかしくない。本当に星を
投じたのかどうか判明するまでタイムラグがあるため、疑心暗鬼が強まったのんじゃな
いかな。
 尤も、そのような作家はほんの少数で、大勢に影響はなかった、とされてる。これを
機会にその手の作家と縁を切った読者も多数いたとかいないとか。

 そして今度迎えるのが第七回。前回、前々回となかなかうまく機能したのに、何故か
またもや追加の変更があった。さっき言ったように前回までは一度投じた星は変更不可
だったのが、今回はいくらでも付け替えられるとなってるんだよね。さらに、完結状態
にならないと星を付けられないとも決まった。代わりに、作者にのみ見える応援メッ
セージなら完結前でも送れる仕様になった。
 どうやらスタートダッシュによるアドバンテージを軽減したい狙いがあるようだ。悪
くない改訂だと思う反面、想像も付かない事態が起きるかもしれない。根拠がないであ
ろう噂によれば、応援メッセージの多寡も読者選考に少なからず影響を及ぼすのではな
いかと、もっともらしく囁かれている。
 作者だろうと読者だろうとユーザーとしては、「余計なことをして……」とならない
のを祈るばかりだよ。

 〜 〜 〜

 実を言うと、僕が今回力ワヨムに誘った子が主にミステリを書くのは知っていた。力
コンについて説明したとき、知らんぷりしたのはあとで嫉妬したくなかったから。それ
だけ、彼はいいミステリを書く、と僕の鑑識眼は判断してるんだけど。

 ウェブ小説、特に小説投稿サイトではミステリは不人気部門の一つに数えるのが定
説。ネット上だと特に、話の序盤から読者を引き込む必要がある。その点、ミステリは
死体を転がして密室か不可能犯罪か不可思議な状況を描けばいいような気もするのだ
が、なぜか読まれない。魅力的な謎を掲げても、その直後から地道な捜査や関係者の紹
介などに入らざるを得ず、失速してしまうからか? よほどキャラクターが立っていな
い限り、とにかく続けて読まれることは希のようだ。
 そうしたネット小説としての勢いのなさ故か、ミステリが関連する部門は、SFが関
連する部門と並んで、僻地・番外地扱いされるのが当たり前になっている。その評判が
外部にまで伝わっているせいなのかどうか、参加作品数は多いと言えず、勢い、優れた
作品も集まりにくいようだ。結果、受賞作なしで終わることが多い部門と言える。
 僕はミステリ書きとして残念に思う一方で、そんな現状をわずかでも変えたいと常々
考えていた。その策の一つとして、若くて実力のある彼を引き入れることにしたんだ。
 彼の書くミステリなら、あるいは状況を好転させられるかもしれない。何年かぶりの
ミステリ作品受賞作が生まれておかしくないと信じている。
 もちろん不安もある。玄人はだしの傑作ミステリではあっても、ネット小説向きの作
風とは言えないからだ。第一回力コンで埋もれた後のプロ作品、あれのジャンルは推理
小説だった。あれから選考方法などに手を加えて、良作を逃すことのないよう網の目を
小さくして来たとはいえ、一抹の不安は残る。
 ――何にせよ、他力本願なことばかり考えるのは、後ろ向きでしかない。僕は僕で、
今回も作品を出すつもりだ。彼は文字通りライバルなんだが、彼が受賞するならあきら
めが付く。

 コンクールの開催期間に入ったが、例の彼は作品を出さないでいた。
「基本、読者からの星で予選は決まるから、早めに出した方がいいんだって分かってる
よね」
 確認のために聞いてみると、分かっているとの返事。じゃあどうして。すでに書きた
めた作品の中から合う物を出してくればいいじゃないかと、僕は思っていた。
 でも彼は、「挑戦するのなら新作で」と、こだわりがあると分かった。僕はその意志
を尊重しつつ、「どうしたって出遅れた分は損だから、とりあえず一本は旧作から出し
ておきなよ」とアドバイス。それでもなかなか聞き入れてくれないのを、どうにかこう
にか説得して、ようやく一本、旧作『ホック城の怪事件 〜 アレッシャンドリ見聞録』
で参加してくれた。中世ヨーロッパの架空の国アレッシャンドリを舞台とする、古典的
な本格ミステリで、凝った作品であるのは間違いない。日本人のササキ・ミヤモトがア
レッシャンドリを旅したときの記録、との体を取っているが実はそれ自体が真っ赤な嘘
で……という重構造で、ウェブ小説っぽいかと問われればうーんとなる。
 字数を見ると、十万八百。どこかの国の消費税みたいだった。
「十万文字以上あって、一番短いのを選んだんだ。短い方が最後まで読んでもらえる確
率、高いかと思って」
 彼の思惑通りに多数に読了してもらえることはないだろうが、ちょっとでも彼の名前
を露出させておくためには、まあよかろう。

 <後>につづく




#573/598 ●長編    *** コメント #572 ***
★タイトル (AZA     )  21/06/20  14:56  (187)
計算すると不利かな<後>   永山
★内容                                         22/09/25 03:47 修正 第3版
 その後、僕は『ホック城の怪事件』がどのくらい読まれているかを気にして、ちらち
らと様子見に行った。
 少しだけ読まれているようだったが、出足は案の定にぶい。それ以上にまずいなと思
ったことが。彼は力ワヨムを事前に使っていなかったのか、それとも彼なりの信念があ
ってのことか、十万字超の作品を分割せずに掲載していたのだ。読んでもらうには、な
るべく三千〜五千字程度に分けて少しずつ更新していくのが吉だとされているけれど
も、彼にそれを言うのを忘れていたのだ。かといって、今さら一旦削除して改めて分
割・公開するのはコンクールの規定違反になる。
 別の作品を分割して、連日上げていかないかと水を向けたが、彼は新作の執筆に集中
しているからと取り合わない。
 僕は僕で忙しく、それ以上彼に無理強いはできなかった。そもそも、僕も自作を完成
させる必要があった。完成させた作品を期間中、連日更新していくつもりだったのが、
先月、体調を崩しがちになってまだ仕上がっていないのだ。
 もちろん、作品の公開はコンクール初日から始めて、更新も進めている。何としてで
も完結させないと。

 と思っていたのだが、だめだった。身体が着いてこず、入院の憂き目に遭った。
 毎夜遅い時間帯を執筆に当てていたのだけれども、体調悪化に拍車を掛けてしまった
ようだ。冬の寒さも堪えたのかもしれない。
 異変を感じた時点で自主的に診察を受けていればまた違ったんだろう。仮に入院した
としても病床で執筆を続けられたはず。
 ところが現実の僕は無理を重ねた挙げ句、自宅の二階から降りるときにふらつき、階
段を転げ落ちた。身体のあちこちをぶつけ、脳しんとうを起こし、何箇所か骨を折っ
た。内臓疾患と合わせて、しばらく完全看護の下に置かれるほどだった。痛みがピーク
を過ぎて下り坂に入ったのを機に執筆再開しようとしたが、両手の骨に異常を抱えてい
ては、難しい。音声入力で執筆するのは他の人に聞かれるのが何となく嫌だし、不慣れ
でもあったので……あきらめた。
 今回は若い彼に望みを託そう。見舞いに来てくれたときに、新作を公開してコンクー
ルに応募したことは明言していったのだ。タイトルは『三千人の容疑者』で、総文字数
は十万五千ちょっとになったという。
「舞台は現代の日本で、三千を超えるキャラクターを用意し、その内の四分の三、つま
り少なくとも七百五十人ほどを濃淡の差こそあれ書き分けて登場させた上で、ロジック
によって殺人事件の犯人を絞り込んでいくんだ。初っ端に死体を出して、すぐさま探偵
が推理に入る」
「えっと。その内容で十万と五千字ちょいで収まったのかい?」
「うん。序盤で利き手を理由に約三分の一になるからね。ははは。そこから怒濤のロジ
ック連打で、どうにか読者の興味をつなぎ止めようという作戦」
「出足は? 狙い通りに行った?」
「いや〜、なかなか厳しいものがありますね。けれども先にアップした『ホック城の怪
事件』に比べたら、段違い。読み始めた人はほぼ全員、ちゃんとついて来てくれている
らしいっていうのも分かるし。ああ、分割してちょっとずつ更新しなさいっていうアド
バイスの意味、分かってきた」
 彼は屈託のない笑みを浮かべ、感謝の言葉を述べてくれた。ほんとに小説投稿サイト
ビギナーなんだな。他のユーザー(作家)の動向もまるで参考にしていないってことだ
ろう。そういえば知り合って間もない頃、買ってきた炊飯器を説明書をまったく読まず
に使おうとして、悪戦苦闘してたっけ。その性質は今も変わっていないに違いない。
「退院したら読めると思う。問題は開催期間中に退院できるかどうかだけど」
「いいですよ。あなたからの星があるかないかで当落が決まるくらい際どい位置に付け
ていたら早く読んでくれと懇願するかもしれませんが、今のところそこまでのレベルに
は届かないような気がしています」
 僕と彼はお互いに、読んだ上で面白いと感じなければ星を投じることは断じてない
と、固く誓い合っている。第三者から見れば「そんなもん口先だけだろ!」で片付けら
れるレベルだろうけど、本当なのだ。現に、僕は彼の完結済み作品『ホック城の怪事
件』をサイトに上がる前から読んで知っており、高めの評価をしているけれども、まだ
星は付けていないし、彼もまた僕の連載途中の作品に応援メッセージ一つ寄越してくれ
ない。それもこれも、他によい作品があればそちらに星を入れるのがしかるべき投票行
動というものだと信じているので。……ただ今回は自由に星の付け剥がしができるよう
になったのだから、ひとまず付けてもいい(その方が人目に付く可能性がわずかでも高
まるはず)んだけど、最終的にやむなく剥がすことになったとしたら、気まずくなるか
もしれないので後回しにしている。
「現段階でどのくらいの星? あ、星はまだか。最後まで更新してないだろうから」
「うん。応援メッセージなら今朝までに十七件あった。好意的なものばかりだったけ
ど、大半は連載開始してすぐに来たからなあ。これって多分、あなたの言っていた見返
りを求めてのあれじゃないのかな」
「そうかも。三千人の容疑者って題名なら、本編を読まなくても応援メッセージを書き
やすそうだ」
「そんな嫌なことをあっさり言わなくても」
「はは、ごめんごめん。入院生活が長引いて、ちっとばかし苛々してる。許してくれ」
「ああ、作品、まだ書き上げてないんだっけ。……あなたさえよければ、僕が代筆と代
理更新しますけど」
「……うーん……ありがたい申し出だけど、厳密に言えば規約に抵触する行為だろうか
ら」
 自己のIDを他者に貸与してはならない的な文言があったと記憶している。複数名で
小説をこしらえる共作行為も原則的に禁じられていて、やるのならサイト側に申請して
認めてもらった上で、IDを取得しなければいけない。ただしこれは新規の場合で、す
でにユーザーである者同士が組みたいときはどうすればいいのか、あいにくと知らな
い。
「ま、やめといた方が無難かな。あきらめた訳じゃないしさ。あと一万字くらいだか
ら、退院が予定通りなら間に合う計算なんだ」
「そうですか。希望的観測込みのようにも聞こえますが、何かあったら言ってくださ
い。お手伝いできるところはします」
「ありがとう。気持ちだけで充分だ」
 隊員を前にそういう大見得を切った僕は、絶対に間に合わせてみせようと基本的なリ
ハビリを頑張り、予定よりも二日早く、出られることになった。コンクールの読者選考
期間終了までちょうど一週間あることになる。この分ならどうにかなる、してみせる。
 さて、退院が急に早まったため、出迎えは誰もなしとなり寂しくないと言えば嘘にな
るかもしれない。だけど身軽に動けるのはいい。昼過ぎに自宅アパートに戻るなり、僕
は昼食もそこそこにネットを始めた。真っ先にアクセスするのはもちろん力ワヨムだ。
自作にちょこちょこと応援が付いていることに感謝しつつ、そちらへの返事は後回しに
させてもらって、彼の『三千人の容疑者』のページに行ってみた。この作品に少し目を
通して、あとは自分の応募作品を完成させることに全力を注ぐ。
 『三千人の容疑者』は、本格ミステリとして定番の型で幕開けしていた。山中の一軒
家に作家を訪ねた知り合い達が、返事がないのを訝しんで庭に回る。すると広い庭に面
したダイニングキッチンで家の主が赤く染まって倒れているのが、大きな窓ガラス越し
に見えた。この段階で家の鍵は全て施錠され、密室状態にあることは推測済みであるた
め、来訪者の一人が大慌てでガラスをぶち破り、怪我をしながらも中に入った。しかし
時すでに遅く、主は死亡していた。密室殺人の謎に加え、現場には何かの会員証らしき
カードが一枚あり、また、196と読める血文字が床に書かれていた。
 あまりに型通りで適当に飛ばし読みしたくなるが、私は彼の伏線や暗示の配置の仕方
を知っているので、丹念に読んだ。
 読んでいて、段々と違和感に囚われる。読み易い文体なのに、どことなく引っ掛かる
というか、目障りな物があるというか。やがて気付いた。
 一ノ瀬昭彦(いちのせあきひこ)、二階堂可菜(にかいどうかな)、三鷹佐由美(み
たかさゆみ)、四谷民恵(よつやたみえ)、五代尚子(ごだいなおこ)、六本木春也
(ろっぽんぎはるや)、七尾誠(ななおまこと)、八神保仁(やがみやすひと)、九条
蘭丸(くじょうらんまる)……古典的な某有名漫画に合わせたのか、途中まではこの調
子で付けられた名前が続くのだが、そんなことよりも違和感の正体はここにある。
 振り仮名だ。彼は丸かっこで表す方式を採っているのか。でもこのサイトには、振り
仮名をするための記法があって、仮名を振りたい一連の漢字の直後に《》で括って読み
を記すのが基本である。これに慣れている僕は、丸かっこが久しぶりだったため、妙な
印象を受けたのだった。
 彼はこのサイトも説明を読まずに、ほとんど感覚だけで使っているらしい。しょうが
ない奴だ。あとで連絡して仮名の振り方を教えてあげようと心に留め、もう少しだけ読
んでおくかと目を走らせていると、五分ほどしてはたと大事な点に思いが至った。
 ちょっと恐ろしいその思い付きを、僕は否定したくて、でも確かめずにはおられな
い。
 登場人物の名前の読み方、平均の文字数はどのくらいだろう? ざっと数えて、六文
字くらい? 丸かっこを含めれば八文字か。
 彼は、この作品は日本を舞台にしたと言っていた。登場人物はほぼ日本人で占められ
ているに違いない。そして登場人物の数が三千。名前が付けてあるキャラクターが、彼
の言っていた七百五十名だとして、丸かっこを含めた振り仮名の総数は750×8=6
000ほどと推計される。
「やばい」
 思わず呟いた。
 『三千人の容疑者』は今はまだ完結していないので、総文字数は分からないが、作者
の彼は十万五千字ちょっとだと言っていた。そこからさっきの振り仮名分を差し引く
と、九万九千、規定の十万字に届かなくなる!?
 えらいこっちゃ。たとえどんなに傑作で面白かろうと、規定を満たしていないのはだ
め。即失格だ。読み仮名の振り方を知らないことにどうして気付かなかったのか、思い
返してみると、彼が先にアップした『ホック城の怪事件』には日本人というか漢字表記
の名前を持つキャラクターが一人も出て来なかったんだ。失敗したな〜。
 彼の力なら、千字程度の穴埋め、楽にこなすと思うんだが……。
 ところが連絡が付かない。そういえば元々の退院予定日を伝えたとき、「あっ、ちょ
うどいいですね。その前日に帰ってきますんで」と反応していたな。学者のフィールド
ワークに同行して、旅に出ると言っていた。行き先は聞いた気もするが、忘れてしまっ
た。電話でもネットでも連絡が付かないということは、外国の僻地? まあそれでもか
まわない。彼は明日には帰国予定なんだ。それから伝えても遅くはあるまい。
 と、悠長に構えていたら、翌日になっても彼から連絡はない。他人事だというのに焦
りを覚え始めた。SNSで連絡を取ろうとあれこれやってみても、無反応が続く一方、
力ワヨムの小説の更新は毎日正午(日本時間)に行われているから、自動更新設定をし
ているようだ。そこだけはちゃんと説明を読んだのね。
 やきもきして、彼の作品の続きを読むどころか、自作まで危うくなりつつある。僕は
外部情報をシャットアウトして、隙間時間の全てを執筆に当てた。そしてコンクール最
終日、どうにか十万文字オーバーを達成し、一挙に公開。当初の目算とは違う更新頻度
になったが仕方がない。
 自分の事が片付いてやっと余裕が生じた。彼への連絡を試みると――電話に出た、あ
っさりと。
「すみません、退院祝いに行けなくて」
 存外元気そうな声が聞けて、ひとまず安堵した。
「どうしてたんだ。今、どこ?」
「今、関空からのバスを降りたところです。ニュースで流れてませんでした? サンド
リテ国の国際空港が、一万年に一度レベルの大雨に見舞われて、使用できなくなったっ
て。復旧して、やっと戻って来ました」
 サンドリテ? どこだそれは。まあいい、とにかく帰って来られたのならいい。安心
した。
 安心すると今度は少々腹が立ってくる。僕は不機嫌な口調になって、おまえの『三千
人の容疑者』、振り仮名を丸かっこで表しているが、ちゃんと振り仮名に直すと文字数
が足りなくなるぞと指摘した。
「へえ、そんな便利な書式があるんですか」
「いや、落ち着いている場合じゃない。コンクールのために書いた作品、無駄になって
もいいのか? 表面上は十万五千字あっても、事実上、約九千文字となったら、たとえ
星をたくさんもらえていても、予選通過することなく落とされる可能性大だぞ」
「あのー、申し訳ない、言いそびれてしまって」
「あん? 落ち着いてないで、今からでも千字、いや余裕を見て二千字ほど書き足せ。
描写を詳しくすればそれくらい稼げるんじゃないか?」
「いえ、それは大丈夫なんです。実はお見舞いに寄せてもらったあと、帰ってから間違
いに気付いたんです。でわざわざ電話なんかで知らせるほどでもないかなと、放置して
いました。すみません」
 神妙な声になり、謝ってくる。彼が電話の向こうで、実際に頭を下げる様子が目に浮
かんだ。
「どういうこと? 大丈夫っての書き足さなくても大丈夫って? 何で? あきらめる
んじゃないよね?」
「ほんと、そこまで心配していただいて、非常に心苦しく、言いにくくもなっているの
ですが……あれ、十万五千字は僕の見間違いで、実際は一千五万字ありました」
「……え?」

 考えてみれば、三千人の容疑者がいて、少なくとも七百五十名を書き分けるとなる
と、結構な分量が必要になるに決まっている。十万五千字だと七百五十人を描写するの
に、一人当たり百四十文字しか使えない。それで本格推理小説の体をなすなんて、ほぼ
不可能だと気付くべきだったのだ。
 その約百倍となる一千五万文字が七百五十人を描くのに多すぎるのか少ないのか、は
たまた妥当なのかは凡人たる僕には判断が付かなかったが……とりあえず、最後まで読
んでくれる人は少なそうだなぁ。

 あ、更新頻度、物凄いことになってる。

 おしまい




#574/598 ●長編
★タイトル (sab     )  21/10/31  08:51  (448)
「仏教高校の殺人」1    朝霧三郎
★内容

 第1章


 極楽寺高校は東京都下八王子市にある私立の仏教系高校である。
 今は授業が始まる前で、佐伯海里は3年8組の教室の一番後ろの廊下側の席に
だら〜んと突っ伏していた。
 ちょっと受け口で目が離れていて垂れ目。
 ファニーといえばファニーだが、可愛くなくもない。
 そこに後ろの入り口からV系バンギャルメイクの女子が寄ってきた。
「おはよー」
「おは、」
 思わず息を呑む。
「つーか、あんた、誰、だれー、…リエラか」
 2ケ月前から不登校になっていた江良リエラ。
 不登校になってからもチャットとかはしていたが、リアルがこんなになっていた
なんて。
「なんでそんなに」
 と海里はリエラをまじまじと見た。
 耳の軟骨にストレートバーベルのピアスが5つ並んでいる。
 極細眉毛にもピアス。
 髪の毛は黒に赤のヘアカラー。
 ブルーっぽいアイシャドーに、瞳にはグレーのカラコン。
 肌の色は青白く毛細血管が浮き出ていた。
「今日はファンデはつけていないから。
 つーか、もうスッピン捨てているから」
「2ケ月前はあんなおたふくだったのに」
「これには深い理由があるんだよ」
 リエラは隣の空いている席に座った。
「実は夏休みに抜け駆けして代ゼミに行ったんだよ」
「それはチャットでも言ってたじゃん」
「そうしたら、すごいストレスで。
 都内って凄いストレスじゃん。
 山手線なんて乗車率190%とか。
 教室もすし詰め状態で」
「うん」
「しかも教室はシリコンの清潔な感じで。
 そうすると、自分が臭いんじゃないか、って思えてくるんだよ」
「えー」
「厭離穢土(おんりえど)だよ」
 厭離穢土とは娑婆の全てを穢れたものとみなす仏教の考え方である。
「…白い歯、赤い唇といえども、一握りの糞に粉をまぶしたようなもの…」
 とリエラは授業で暗記させられた『往生要集』の一節を言った。
「みたいな気持ちになる。
 吹き出物が気になって、便秘の予感がして、脂肪とかが超気になりだして」
「へー」
「しかも吐き気がしてきてさぁ。
 こんなところでゲロ吐いたらやばい、と思って、屋上に逃げたら」
「うん」
「屋上の金網ごしに、遠くの方に浄土が見えたんだよ。
 ピカピカの10円玉みたいにピカピカの平等院鳳凰堂が見えた。
 うん」
「そこらへんまではチャットで見ていて知っているよ。
 つーか、だからってなんでV系になったのかという」
「だあら、ストレスで自分が厭離穢土になって、遠くに浄土が見えてって、世界が
まっぷたつに分かれたんだけれども、同時に、あれは『スッキリ』のEDだったか
なあ、それで『in The BLOOD EYES』を聞いて、これだ、と思って、ユーチューブ再生
しまくって、一気にクリムゾンまで遡って」
「えぇ」
「厭離穢土で身体は否定したんだけれども、脂肪のない皮膚に、タトゥーとかピアス
とかすれば、一気に逆方法に振り切って、一気に浄土を目指せる」
「えー、なんだよ、それ」
「だから、ストレスで厭離穢土になったんだけれども、そんで浄土が見えたんだ
けれども、V系で浄土に至る道が見えた」
「だからなんでV系なんだよ」
「それは、仏教でも、菩薩だとか如来だとか色々な偶像があって浄土に至る様に、
V系の曲とかファッションとかコスメとか、そういうのでニルヴァーナに至ると実感
しただよ」
「ふーん」
 ここまで喋ると、チャイムが鳴った。
 キーンコーンカーンコーン
「え、もう時間」
「じゃあ、又後でね」
「こりゃあなかなか一回じゃあ説明できないから、おいおいね」
 リエラは隣の7組に行く。
 わざわざ色々言いに来たのは、地元が一緒だからというのもあるし、催眠・瞑想
研究会という一緒の部活のメンバーでもあるというのもあるのだろうか。
 それにしてもびっくりした。
 リエラがひきこもってからチャットではやりとりしていたが、リアルがあんなに
変わっているとは思わなかったから。

 リエラが出ていくと同時に、前の扉が開いて若い女の教師が入ってきた。
「教壇に向かって一同、起立、礼、着席」
「それでは朝拝を始めます」
 と教師。
 ここは仏教系の高校で朝拝がある。
「係りの人、聖歌をお願いします」
「はい。
 法の深山(のりのみやま)を歌います」
 前の方の日直が言った。
「いちにーのさん、
♪法のみ山のさくら花
昔のまーまに匂うなり
道の枝折(しおり)の跡とめて
さとりの高嶺の春を見よ」
「それでは次に般若心経を唱えます」
 と教師。
 一同「観自在菩薩 行深般若波 羅蜜多時 照見五蘊皆〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜」
「それでは最後に瞑想1分間」
「瞑想はじめー」
 と日直が言う。
 退屈だぁ、と海里は思った。
 海里の家も尼寺なので、この手の事には慣れている筈だったが、退屈した。
 海里は薄目を開けるとあたりを見回す。
 窓際の後ろの方では、金井妃奈子が机の下で『JJ』をめくっていた。
 家は豊かなお寺で、服でも靴でも何でも買って貰えるらしい。
 見た感じは教師に言わせると『雁の寺』の若尾文子的エロさがあるという。
 なんだそりゃ。
 髪も茶髪のロン毛でしょっちゅう美容院に通っている感じ。
 隣の席から腰巾着の太古望花が覗いていた。
 見た感じは松たか子か。
 望花の家は丸ビなので指をくわえて見ているだけ。
 この二人は催眠・瞑想研究会の部員だ。
 窓際前の方には、剛田剛が座っている。
 家はお寺ではないのだが、仏教原理主義的なやつで、見た感じも金剛力士像みたいな
感じで、声も太くて、明王様だったらあんな声か、と思わせる声だ。
 彼によれば、楽しいこと、気持ちいいことをすると“なまぐさ”がたまると言う。
 例えば、妃奈子みたいに欲しい洋服を買ったりしても“なまぐさ”がたまると言う。
 真ん中の列の前の方には、クラスのマドンナ、否、如来、遊佐蓮美が座っていた。
 グレース・ケリーよりも美人。
 取り巻きの猿田だの雉川だのの男子が近くに座っているが、休み時間になると
下敷きで仰いで風を送っている。
 そんな蓮美も、中学校の頃に東北地方から引っ越してきたのだが、東北の大震災で
親類縁者の多くを亡くすという暗い過去があった。
 そして廊下側の前の方には萬田郁恵がいた。
 これも美形だが、グレース・ケリーとは違って、萌え系の可愛い顔で
『アルプスの少女ハイジ』と安室奈美恵を足して2で割った感じ。
 眉尻の下の骨がコーカソイドの様に出ていて、あれ純粋に日本人か、
ハーフかクオーターなんじゃあないの? と言われていた。
 郁恵の家は、海里んちの尼寺の系列の僧寺の大きなお寺だった。
 それに比べて尼寺なんて、檀家も少なく、僧寺の法事のお茶くみだのなんやらの
手伝いをして糊口をしのぐという感じだった。
 という訳で海里は郁恵とは幼少の頃から付き合いはあったのだが、自分ちが貧しい
尼寺なので、密かに羨ましいと思っていた。

 退屈な授業が始まった。
 1限目は英語。
 「He is a so-called bookworm
 本の虫ってなんですか? 辞書をあけると小さい虫がいますよね。
 あれが本の虫ですか」
 と教師。
 教室の中では、衣替えしたばっかのブレザーの背中が、無邪気に揺れていた。
 わーっはっはっは
 窓の外を見ると、校庭の向こうの木々が風でざわざわと揺れていた。
 二限目はじじいの教師のやる日本史。
 白衣を来たじじいの教師が教壇でポケットに手を突っ込んでいた。
 ポケットの先に穴が開いていていんきんをかいているという噂だった。
 それから3時間目は袈裟を着た僧侶の教師の古典。
 お布施と教員の給料のWで稼いでいる“なまぐさ”坊主。
 それもあっという間に終わった。
 キーンコーンカーンコーン、とチャイムが鳴ると教室はざわついた。
 4時限目は体育だったが休講だった。
 となりの7組も休みだった。
 V系リエラが後ろの入り口から顔を突っ込んできた。
「部室に行こうか」


 北側に校舎を背にして、南側の部室棟に向かって、海里とリエラは、プールだの
体育館の横を歩いて行った。
 体育館の角まで行くと左に曲がって欅の下の小道を歩く。
 部室棟の階段を2階に上って、外廊下を真ん中辺まで行くと、催眠・瞑想研究会は
あった。
 鉄の扉に『催眠・瞑想研究会 梵我一如研究会』という看板が張り付けてある。
 扉を開けて中に入った。
「こんちわーっす」
 とリエラ。
 正面に窓があり、左手はロッカーで隣の部室と仕切られていて、床にはビニール製
の畳が敷き詰められていた。
 その上に、小暮勇と乾明人、城戸弘が座っていた。
 乾明人はK−POPのイケメンみたいな顔をしている。
 小暮勇は山田孝之似。
 城戸弘は神田正輝か三浦友和みたいな感じ。
 この3人はナンパ師三羽烏と言われている。
 みんな3階の3組の男子だった。
「リエラ。
 おめー、変わりすぎだよ」
 と乾明人。
「あれ、あんたらも自習?」
 外履きを脱いで畳に上がりながらリエラが言った。
「おお、教師がノロウィルスに感染しやがってよぉ」
 と乾明人。
 小暮勇と城戸弘は立て膝をしてにやけていた。
 鉄扉が開いて、3階4組の伊地家益美が顔を突っ込んできた。
 名の通りいじけた感じがする女子で、フィギュアの村主章枝に似ている。
「あれー、篠田君は?」
 と部室を見回す。
「いないの? じゃあ帰る」
 と言って行ってしまう。
 篠田亜蘭というのが催眠・瞑想研究会のリーダーだ。
 伊地家が行ってしまうと、城戸弘がが突然リエラに言った。
「リエラ、お前、解脱しないとやばいよ」
「えーっ」
「お前、代ゼミだかどっか、都市的な空間に行って、自分の身体が厭離穢土の様に
なって、拒食症患者みたいに脂肪を嫌って、同時に、遠くに浄土が見えてきたん
だってぇ?」
「なんでそんなの知ってんのよー」
「みんな知っているぞ。
 お前、チャットでべらべら喋っていただろう」
「そっかー」
「まあ、そういうのは、全くありがちなんだけれどもな。
 ただそういう場合、たまに解脱して浄土に触れる様にしないと、自分の厭離穢土
にやられてしまって“なまぐさ”がたまりだす」
「解脱ってどうすればいいのよ」
 リエラは畳にしゃがみこんだ。
「まず、こうやって、人差し指をピーンと立ててみな」
 言うと城戸弘は、リエラの顔の前で人差し指を立てて見せた
 リエラも真似して人差し指を立てる。
「じゃあそれをこうやって曲げてみな」
 と、城戸弘は万引きのサインの様にコの字に曲げてみせる。
 リエラもかくっと曲げた。
「今、自分で曲げたと思っただろう。
 だが脳的には、曲げた0.2、3秒後に曲げろと命令しているんだよ」
「えー、そんな事あるのぉ」
「あるんだよ」
「えー」
「じゃあ、今度は、指を繰り返しコの字にカクカクやってみな」
「リエラはカクカクと指をコの字曲げては伸ばすを繰り返した。
「もっと早く」
 カクカク、カクカク、カクカク、カクカク
「カクカクやりながら、般若心経を唱えてみな」
「かんじーざいぼーさつ ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー
 しょうけんごーうん かいくう どいっさいくやく〜〜〜〜」
「できるだろう。
 今お前の脳は般若心経読経をやっている。
 だったら、カクカク指を曲げているのは誰なんだよ」
「えっ」
「それは、脳というより神経というか、それは無意識がやっているんだよ。
 まあ受動意識仮説、というか、トランス状態、つーか変性意識状態に近いんだが。
 その時、無意識にアクセスしやすんだよな。
 つーか、飛べる可能性があるんだよ。
 つまり瞬間的に解脱する可能性があるんだよ」
 二人のやり取りを黙ってみていた小暮勇が口を開いた。
「その変性意識状態って、たとえばチャリを漕いでいてもそういう事が起こるんだぜ」
「は?」
 と城戸弘が小首を傾げる。
「チャリって、乗れない人が初めて乗る時には、大脳を使ってよろとろ乗るだろう。
 しかし慣れればスマホをやりながらでもこげる。
 その時は、実は、無意識につけこむチャンスなんだよ。
 その時スマホから催眠でもすればスーッと無意識に作用できるという。
 それを使ってナンパが出来るんじゃないかと」
「ナンパぁ? どうやって」
 と城戸弘。
「俺は考えたんだが、具体的には、こうだ。
 自転車置き場に、いやにサドルの高いドロップハンドルのサイクリング自転車が
放置してあるだろう。
 あれに乗らせると股間を刺激して、女は感じると思うんだよなあ。
 と同時に自転車をこぐという行為をしているから変性意識状態になっている。
 つまり、トランス状態で股間に刺激がいっている。
 そこでだなあ、その女の斜め前に、誰か、例えば乾、お前が走っていて、そして、
お前はウルトラマリンか何か強めの香水をつけていて。
 そうすれば、洗脳でいえば、股間で感じるのがアンカーに、ウルトラマリンが
トリガーになっている。
 そうやっておいて、サイクリングから帰ってきた時に、更衣室で俺がウルトラマリン
をつけて登場する。
 俺のコロンの匂いをかいで、ターゲットは欲情する。
 そこで俺はジッパーをおろして、オカモト0.01を装着するという訳さ。
 はっはっはっはっは」
 と小暮勇は笑った。
「それって、催眠でも瞑想でもなく、条件反射じゃない」
 と海里が目を細めて言った。
「かもな」
「で、ターゲットは」
 と城戸弘。
「とりあえず8組の遊佐蓮美だな」
「えー、そんな事したら、犬山君が発狂しちゃう」
 とリエラ。
 犬山というのは7組の生徒で、催眠・瞑想研究会と一緒にアマチュア無線部にも
入っていて、宇宙からのメッセージが如来である遊佐蓮美に届くだのと、とにかく
電波なやつで、猿田、雉川らの信者と共に蓮美の三銃士を結成しているのだ。
「犬山みたいなスクールカースト下位の野郎が遊佐蓮美みたいな鮮度のいい女と
仲良くしているのか」
 と乾明人。
「前に、女の眼球にキスするのが流行って、結膜炎が蔓延したとかあったが、
それって犬山なんじゃない?」
 城戸弘が変な事を言った。
「えーなんで。
 犬山君にはそんな事、出来そうにないよ。
 つーか、だいたいなんでそんな事したいの?」
 とリエラ。
「犬山にしてみれば遊佐蓮美なんて星野鉄郎におけるメーテルだろう。
 鉄郎っていうのは不細工でモテないから、そうすると、リエラの平等院鳳凰堂
みたいに、如来が立ち上がってくるんだよ。
 それがメーテルで。
 その時メーテルに求める愛の形は完璧な愛なんだよ。
 性愛とかじゃなくて、自分の全てを包み込んでくれるような愛。
 乳児の愛というか、子供が求める愛は、赤ん坊はおぎゃーとしか泣けないから、
おっぱいが欲しい、とか、オムツを換えて、とか言えないから、常に母親が最大限の
気配りをしてくれなければならない。
 それが子供の相手への万能感で。
 だから、それは、性的なものじゃないんだよ。
 だからメーテルには性器がないんだよ。
 母に性器があったら、他のオスがよってくるから。
 自分への完璧な愛がなくなってしまうから。
 そんな感じで、自分だけを見て、というんで、眼球にキスしたんじゃないの?」
「なんか難しい話だな。
 そんなに難しい事考えているのか。
 お前は変態だからな」
 と小暮勇。
「とにかく、犬山みたいなうらなりが、あんなに鮮度のいい女を相手にしているのは
許せないな」
 と乾明人が言う。
「こっちはストリートに出て、すれっからしのずべ公ばかり追っかけているって
いうのに」
「お前はすれっからしに縁があるからな」
 と小暮勇。
「乾は去年卒業した一個上のヤンキーの姉ちゃんにまだつきまとわれているんだっけ」
 と城戸弘。
「俺は最近つくづく、スクールカーストの嘘、というのを感じてるよ」
 と乾明人。
「『アメリカングラフィティー』っていうジョージ・ルーカスの昔の映画を
ネットフリックスで見たんだけれども、あれでも、不良は街に出て、追っかけている
女はすれっからしで。
 でも、学校ではプラムがあって、ロン・ハワードみたいな、スクールカースト下位の
野郎が鮮度のいい女子を相手にしている」
「それにストリートは危ないしな。
 海里、お前の地元でも、ひと夏で3人も死んだんだって」
 と小暮勇が言った。
 海里の地元の日野市立2中の卒業生で、違う高校に行ったり就職したりしていたOB
が3人もこの夏から秋にかけて、バイク事故で亡くなっていたのだった。
「甘いね。
 つーか、古いね」
 とリエラが言った。
「昔は、禁止するのはPTA教師やPTAだったから、禁止をやぶってストリートで
遊ぶすれっからしがいて、片方で、大人しい“鮮度のいい女”が教室に残っていたん
だよ。
 ところが禁止が変わって、今は、地域の大人が禁止をしているんじゃなくて、
今や身体が禁止の理由になっているんだから。
 身体が厭離穢土になって、自由を禁止しているんだから。
 だから、教室に行っても、“鮮度のいい女”はいないよ。
“鮮度のいい女”と思っても、だぼだぼなカーディガンを脱がせてみれば、
その下にはきっとリスカの痕と、ボディーピアスとタトゥーがあるんだよ。
 現代のすれっからし、だよ。
 そうじゃないのは、芋姉ちゃんなんじゃないの?
 蓮美も芋姉ちゃんなんじゃないの?」
「ナマイキ言うじゃん。
 ビョーキになって少しは考えたか」
 と小暮勇は睨んだ。
 リエラをシカトして、乾明人や城戸弘の方に向いて言った。
「まあ、ともかく、前哨戦として、明日の文化祭で催眠をかけてやるか」
 催眠・瞑想研究会の文化祭の出し物は催眠だった。
「あのグレース・ケリーにS&Bの練りからしを食わせてやるよ」
 と小暮勇言い切った。
 海里は3人を見て思った。
(この3人は言うなればこんな感じか。
 乾明人。
 ストリートですれっからしに凝りている男。
 小暮勇。
 ストリートでインポテンツになった黄昏た男。
 城戸弘。
 変態。)
 鉄扉がギューッと音をたてて開いた。
 篠田亜蘭が剛田剛と部室に入ってきた。
「よぉ、おつかれさん」
 などと言って、乾明人と城戸弘がさっと立ち上がると、小暮勇もよっこいしょと、
立ち上がって上座をあけた。
(なんでこの三羽烏、亜蘭に気を遣っているのだろう)
 と海里は思った。
(多分こうだ。
 亜蘭の祖父が三鷹の方ででっかいお寺を営んでいるのだが、…亜蘭の父は
サラリーマンで後を継がなかった。
 だから亜蘭がいきなり住職になるかも知れない、…そのお寺が最近ボヤを出した。
 そんで、本堂修復の為に、宮大工だの仏具屋だのに大量の発注をするのだが。
 小暮勇んちは仏具屋、乾明人んちは宮大工で、城戸弘は石材店。
 それで気を遣っているいるのでは。
 この三羽烏は国立府中周辺に住んでいるので三鷹と近いし。
 嫌だね、業者は。)
 そう思って三羽烏と上座にどっかと腰を下ろした亜蘭を見比べていた。
 亜蘭の横では弁慶か明王の様に、如来を守る様にして、剛田剛があぐらを
かいていた。
「さてと、お経でもあげるかな」
 と剛田が片膝を立てて、お香だの数珠だのがしまってある共用のロッカーに手を
伸ばして扉をを開けた。
 すると、扉の裏に、曼荼羅が貼ってあった。
「何、それ、誰が貼ったの」
 と海里。
「昨日までそんなの無かったよ」
 亜蘭も身をよじって見て、首をかしげる。
「わー綺麗、万華鏡みたい」
 とリエラ。
「万華鏡じゃねーよ、曼荼羅だよ」
 と剛田。
「知っているけど」
「つーか、お前なんてお寺の娘じゃないから、こういうの詳しくないんじゃない?
 こういうの、意味分かる?」
「意味? わかんなーい」
「じゃあ説明してやろうか」
「うん」
「それじゃあまず」
 剛田はロッカーの前にずれていってしゃがみ込むと扉の裏を指さして説明した。
「まず上の曼荼羅は、これは、こうやって月輪状の絵が3×3に並んでいるが、
これは、金剛界曼荼羅といって、これは、大日如来の智慧や道徳を表しているんだよ」
「ふむふむ」
「それから下のこれー。
 これは胎蔵界曼荼羅といって、この真ん中のが大日如来。
 この絵を中心に9つの仏像がキューピーちゃんみたいに並んでいるでしょ。
 これは胎内の胎児を表していると言っていいだろう」
「胎内?」
「おお、まあね。
 でへへ」
 剛田はがちがちの原理主義者なのだが、“でへへ”と笑う癖があった。
「金剛界曼荼羅は宇宙のお父さんで、胎蔵界曼荼羅は宇宙のお母さん。
 お父さんのダイヤモンド的な智慧が、お母さんの胎内にぴゅぴゅぴゅっと
発射されて、9体の仏像が懐胎し、生まれると娑婆に出て行く、という感じ
だろうか」
「娑婆行って何するのよ」
「それはねえ、この9体の子供は宇宙の智慧を持っているのだが、“なまぐさ”
も持っている。
 だから、何十年かの娑婆での生活で、それを減らす、というのが この9体の
人生の目的だな。
 そうすれば、曼荼羅に帰った時に、宇宙全体の“なまぐさ”も減るだろう。
 それが娑婆にきた目的だな」
「ふーん」
「しかーし、宇宙に“なまぐさ”が少しでも残っている間は、輪廻転生が
繰り返される。
 だがやがて、宇宙全体に一点の“なまぐさ”もなくなったならば、
この輪廻転生は終わって、宇宙全体が解脱して極楽浄土が完成するのである」
「じゃあ、その×はなによ」
 3×3段に描かれているキューピーちゃんの様な仏像の、上の段と真ん中の
大日如来に×印がしてあった。
「えぇ? 誰かがいたずら書きしたんだろ」
 と剛田。
「何で宇宙の“なまぐさ”を娑婆で減らさなきゃならねーんだよ」
 乾明人が脇から突っ込んできた。
「そりゃあ、油でないと油はとれないから。
 油性のマジックインキなんて油でないととれないだろう。
 それと同じで、下等な人間でないと“なまぐさ”は消せないんだよ。
 だから、胎蔵界曼荼羅の仏像が人間に姿を変えて、“なまぐさ”を背負って
この世に降りてきて、“なまぐさ”を減らすんだよ。
 増やすやつもいるけどね」
「何すると“なまぐさ”が増えるの?」
 と小暮勇。
「そうだなあ、例えばストリートでジャンクフードを食ってナンパするとか。
あと、それに飽きてあろうことか、平和な教室で女子を誑かしたりすること」
「俺はそうは思わねーな」
 と小暮勇。
「そんなよぉ、精進料理食って禁欲生活してりゃあいい、なんて発想は浄土宗
みたいで貧乏っくせえや。
 俺はむしろ、平安時代の貴族みたいに、やりたい放題やって、1日に一回だけ
禅や瞑想で解脱して、又やりたい事をやってみたいに、自力本願がいいよ。
 俺も乾明人も城戸弘も、催眠で瞬間的に解脱すれば“なまぐさ”は減るだろう、
と思ってんだよ。
 別に女と遊んでもさ」
「そうそう、私の話はどうなった? 厭離穢土になってしまったら、解脱して
“なまぐさ”を減らした方がいい、とかいうのは」
 とリエラ。
「まあ、それは、明日の文化祭の後だなあ」
 と城戸弘が言った。




#575/598 ●長編    *** コメント #574 ***
★タイトル (sab     )  21/10/31  08:52  (257)
「仏教高校の殺人」2    朝霧三郎
★内容


 翌日の昼下がり、8組の教室で、小暮勇による蓮美への催眠が行われていた。
 6組では、クラブ、7組ではねるとんパーティーをやっていて、その雑音が微か
に響いてきていたが、8組では、アマチュア無線部が無線体験をやっているのと、
鉄道研究会の模型が走っているだけで静かだった。
 パーテーションで区切られた薄暗い一角が催眠・瞑想研究会のコーナーだった。
 お香が焚かれていて、googleアプリでダウンロードしてきた、電子音楽にハープの
調べ、水の流れる音、小鳥のさえずり、などがのった、瞑想音楽が流れていた。
 職員室から借りてきた長椅子に遊佐蓮美を座らせるとその前で小暮勇が前かがみに
なって、顔を覗き込む
 パーテーションの裏からは、剛田剛と海里、三羽烏の残りの二人の乾明人と城戸弘、
あと、蓮美の信者の犬山、猿田、雉川の三銃士が覗いていた。
 犬山は謎の中国人、ヨーヨーマとかマイケルチャンみたいな顔、猿田は幽霊っぽい
雰囲気、雉川は老け顔だった。
「それじゃあこれから催眠をかけて、このレモンを食べてもらうよ」
 と小暮勇は長椅子の前に屈みこんで、皿の上に乗ったスライスしたレモンを見せた。
「えぇー」
 という怪訝そうな顔をする蓮美。
「本当はチューブの練りからしの予定だったのだけれども、それじゃあ、8組の
如来さまに似合わないというんで、急遽レモンに変更した」
 蓮美はつんと乙にすました顔をする。
 当たり前じゃない、とでも言いたそうに。
「それじゃあまず、催眠の理屈を説明するよ。
 別に騙す訳じゃないから、そっちにも理屈を知ってもらっていて協力してもらった
方がいいんだよ」
「いいわよぉ」
「このレモンを見て、君はすっぱい、って思うよね」
「当たり前じゃなーい」
「それは、意識の場に、目や鼻から入ったレモンの知覚情報がいって、脳の中から、
すっぱいという記憶を呼び起こしてきて、すっぱいと判断するから。
 わかる?」
「うん」
「でも、そこで、催眠で、知覚を遮断してしまって、それから、耳元で、無意識に
直接、レモンは甘いんだよという情報をささやいてやれば、それが君のリアルになる」
「どうやってそんな事をやるのよぉ」
「それにはまず、君が、催眠になんてかかる訳ない、インチキだ、と思っていたら、
ダメなんだよね。
 もしかしたら催眠にかかるかも知れない、と思ってもらわないと」
「どうやって?」
「それには、君と僕との信頼関係、これをラポールというのだが、それを作らないと」
「あなたと信頼関係?」
「いや、まあ、本当に催眠にかかるかも知れないと思ってもらえればいいんだよ。
 いいね」
「いいわよぉ」
「それではリラックスして」
 言うと、小暮勇は蓮美の後頭部を左手で押さえると頭頂部を右手で鷲掴みに掴んだ。
 パーテーションの後ろでは犬山がものすごい目力でガン見して歯噛みしていた。
「如来さまの首すじに触れやがって」
 小暮勇とて、ストリートで鍛えているとはいえ、如来さまに触れるのには緊張した。
(ストリートの女とは違う。
 売春婦のこーまんに価値がないように、素人の女には価値がある。
 つーか、コーマン自体が想像できない、この蓮美には。
 コーマンなんて遺伝子情報の一部から合成されたタンパク質にすぎないが、
蓮美の顔には遺伝子そのものが浮き出ている感じがする。
 タレントで言えばUQモバイルの満島ひかりとか平手友梨奈の顔ってなんか遺伝子
が浮き出ている様な、何か不思議なシンメトリーを感じるが、蓮美はもっともっと
綺麗だが、そういう遺伝子そのものの美を感じる)
 と思いつつ、薄暗い中で蓮美の顔を見詰めていた。
(こうやってこっちが見ていても、安心して目をつむっている。
 超美形だからどこから見られても安心ってか?
 見とれている場合じゃない。
 催眠だ。)
 小暮勇は、蓮美の頭をゆっくりと回した。
「はい、リラックスして。
 だんだんと、だんだん、力が抜けていきます。
 リラックスして、はい、力が抜けていきます」
 頭部から手を放すと、蓮美を見据えて、
「目をつむって」
 と言った。
 言われるがままに目をつむる蓮美。
 小暮勇は蓮美の額に人差し指をあてた。
「さあ、ここを意識して。
 さあ、ここに意識を集中しましょう。
 はい、123というとあなたは目を開こうとします。
 はい、いち、にぃ、さん、開けてみて」
 そして蓮美は瞼を開けようとするが開かないで白目を剥いている。
「ほーら、かかったぞ。
 ほら、あなたはもう目が開けられない」
 と小暮勇。
「それじゃあ今度は自分の右手をにぎって。
 ギューッと握って。
 ギューッと握って。
 じーんとするでしょう。
 熱くなってくる。
 だんだん熱くなってくる。
 さあ、それではぼくが123と言ったらもう開かない。
 いちっ、にぃ、さん、はいもう開かないよ」
「開かないっ」
 と蓮美が唸った。
(カタレプシーに入ったな)
 と小暮勇は思った。
「それじゃあ今度は握ったこぶしを緩めます。
 123といったら、ゆっくり緩めます。
 それでは、いち、にい、さん、はい、緩めてー。
 ゆっくり緩めてー」
 言いながら、小暮勇は蓮美を手を取って腹のあたりに戻した。
「それではリラックスしてくださーい。
 はい、リラックスしまーす。
 体の力が抜けていってリラックスしまーす。
 さあそれじゃあ目をつむったまま聞いてねぇ。
 それではこれからエレベーターに乗ります。
 ふかーくふかーく下がっていくエレベーターに乗ります。
 イメージしてください。
 僕の言うことを想像して下さい。
 僕が10から数を数えます。
 数が減る度にエレベーターは下がっていきます。
 そして、エレベーターが下がるほど体の力が抜けます。
 はい、ぼくの言葉を聞いて。
 10から数が減っていきます。
 10、…9、…8、…7
 さあ、だんだんエレベーターは下がっていきます。
 そしてあなたは気持ちいい眠りの世界に入っていきます。
 6…5…4、さあ、もうウトウトしています。
 ぼーっとしています。
 とてもいい気持ちだ。
 3…2…1、さあ、1階につきました。
 そのままふかいー眠りの中に入っていきます。
 もう眠っています。
 さあ、君の無意識に囁きかけてみよう。
 レモンは甘いと。
 さあ、甘いよ。
 さあ、このレモンは甘いよ。
 まるで桃かナシの様に甘い。
 さあ、それでは、目を開いて。
 それではこれを食べてみて」
 言うと、小暮勇は、一枚のレモンスライスをつまんで、蓮美の口に滑り込ませた。
 全く平気な顔で咀嚼すると、「あまーい」
 と蓮美は言った
「そうでしょう、そうでしょう。
 甘い桃のようです。
 咀嚼して飲み込んで下さい」
 言われるがままに蓮美は飲み込んだ。
「さあ、これで催眠は終了です。
 じゃあ、このまま終わりにしたらまずいから、ちゃんと覚醒させまーす。
 じゃあ、今度は催眠をとくよ。
 さあ、それじゃあ、123というと、催眠がとけるよ。
 いち、にぃ、さん、はいっ」
「うう、酸っぱい」
 と言って蓮美は口をおさえる。
 しかしもう嚥下していたので吐き出すことはなかった。
 そして酸っぱさがひと段落すると言った。
「わー、すごーい。
 催眠術ってあるのね」
 パーテーションの裏で剛田剛が海里に言った。
「何が起こったか分かる」
「ええぇ?」
「最初に額に指をつけて、目が開かなくなるのは、別に、人間の体の仕組みが
ああなっているからであって、不思議でもなんでもないんだよ」
「へー」
「元々人間は眼球が上を見ている状態では瞼を開けないんだよ。
 でも蓮美は催眠にかかったと思いこむ。
 フラシーボ効果っていうんだけれども。
 そうやって信じ込んだところで、今度は手を握らせて、開かない開かないと
硬直、カタレプシーを起こさせる。
 こうなるともう催眠にかかっていると思っているから、イメージ法で眠りに誘う。
 エレベーターでおちーる、おちーる、って。
 そして最後に無意識に語りかける。
 レモンは甘いよーって。
 そうすると、レモンが甘く感じる。
 そして最後に完全に覚醒させる。
 それでおしまい。
 でへへ」
 と笑うと、下膨れの顎が膨らんで、濃い髭が出ているのが見えた。
「オウムも、ああやって催眠で弟子を増やしたのかなあ」
 と海里。
「いやあれは“転移”だろう」
「“転移”?」
「ああそうだよ」
「“転移“なにそれ」
「何か道を求めている人に、技を、チラッと見せると、これだー、と飛びつく
感じなんだけれども。
 病気で死にそうな人が、医者に、チラッと治療法を言われて、これだー、って
飛びつく様に。
 そういう時は騙されやすいでしょう。
 オウムはそれと同じだよ。
 迷える信者に、教祖が、チラッチラッと奇跡を見せると、これだーって
思っちゃうんだな」
「へー、そうなんだ」
 と海里は素直に関心してやった。
 実は海里も似た様な施術をされたことがあった、亜蘭に。
 椅子に座らされて、額に指をあてられて、「さあ、あなたはもう立つことが
出来ない」と言われて、実際に立とうと思っても立てなかった。
 その時は、海里は、催眠やら瞑想について知りたかったので、そんな技を
チラッと見せられただけで「亜蘭は何でも知っているに違いない、すごい人だ」
と思えたものだった。
 後から、人体の構造上、立ち上がる時には前かがみにならなければならず、
額に指をあてられていたら立つに立てないのだと知った。
(あれは“転移”だったのか)
 海里は思う。
(という事は、亜蘭は自分を、何か、陥れる為にあんな事をしたのか。
 そんな訳ない。
 というのも、亜蘭は兄の死にただならぬ自責の念をもっていたから、
そんな事をする訳はないのだ。
 命をかけて私を守らないとと思っているのだ。
 私には双子の兄がいた。
 小学校3年の頃、兄や私、亜蘭他5、6人で、多摩川に魚とりに行った時だった。
 中央線の多摩川橋梁付近から河原に降りていくと、橋脚のところが深くなっていて、
滝つぼの様になっていて、ハヤだかが飛び出てきていて、きらきらと光っていた。
 亜蘭は、危ないからやめろというのに、網でそれを狙う。
 そして足を滑らせて川の深みに飲み込まれていった。
 そして、兄が飛び込んで助けた。
 みんなで亜蘭を引き上げて、さあ兄も上がるか、という時に、突然兄の顔色が
変わり、何かに足でも引っ張られるみたいに川の深みの中に引き戻されてしまった。
 次に上がってきた時には、頭を水につけたまま肩甲骨を上にして浮き上がってきた
のだった。
 そして兄は死んだ。
 以来、亜蘭は生涯私を守ると誓ったのだった。
 だから、私を陥れる為に“転移”を起こさせる様な事をする筈がない。)


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 グループチャット『比丘尼の小部屋』
リエラ:という訳で、又よろしくたのんみます
妃奈子:何が起こった
リエラ:健康な人は味噌と糞を一緒にするが
妃奈子:は?
リエラ:医者によれば、健康は人は「ちょいとおまいさんおしょうゆ取って」
(by伊藤比呂美という詩人)といいながら、セックスをするらしい
妃奈子:萎えー
リエラ:しかし猛烈なストレスがかかると、分裂する
「ごめんね、お母さんも女だったの・・・」(byどっかのAV)的チェックを
母親にして
宇宙に、メーテルという理想が現れる
妃奈子:意味不明
郁恵:分かる
クラスの女子にダメだしされると、男子はしゅんとしちゃって
ビッチとうん〇もしないアイドルに分裂するのよ
(うちの出ていった兄がそうだった)
リエラ:そうそう、そういう感じ
私の場合、「厭離穢土」と浄土に
分裂した
しかし、「厭離穢土」が、V系、タトゥー、ピアスに置き換わり、浄土を目指す
妃奈子:つか、なんでそういうストレスがかかるの?
リエラ:医者によれば、その医者が小学校の頃は、コークスのだるまストーブに、
床も木で、ワックスを塗っていた
そういう空間ではオナラをしても許された
だからジャガイモを食っていた
ところが、今や、エアコンになって高気密住宅になったから、オナラが許されない
そこで、ジャガイモは食べないで、ポテチの味の素だけ舐める様になった
全てにそういう事が起こる
昔はウールの制服を着ていたからパラゾールの匂いがしたりして
体臭も許された
それがポリエステルになると、banだの8×4だが必要になる
そういうストレスから身体を否定する様になる
海里:身体だけではなく心でもそういうのが起こっている
ジャガイモ食ってオナラをしている時には身体がある=自己がある
でも味の素を舐めるリエラはオナラをしない
つまり、自己がない
自己がないというのは、エクスタシー、というか、ぼーっとした状態だから、
催眠にかかりやすいんだよ
郁恵:リエラ、気をつけてください
何しろ、催眠・瞑想研究会だからね
妃奈子:なんか意味不明





#576/598 ●長編    *** コメント #575 ***
★タイトル (sab     )  21/10/31  08:53  (379)
「仏教高校の殺人」3    朝霧三郎
★内容

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『優波離の手記』
 これからオレがやる事を、この秘密のブログに記しておく。
 これは、誰に見せる為でもなく自分の覚書だが、退屈しない為に、臨場感たっぷり
に書こう。

 文化祭の日の午後、8組のテラス(テラスのある校舎で5〜8組までテラスで
つながっていた)のバルコニーの手すりにリエラが退屈そうに寄りかかっていた。
「文化祭を楽しんでいないの?」
 とオレは言う
「厭離穢土だから青春を楽しめない時がある。
 自分には見えないがニキビやアトピーがあるの、皮膚の下に。
 だから世界に接しられないの。
 だからこそ世界は美しい、平等院鳳凰堂の様に」
 とリエラは訳の分からない事を言っていた。
「楽しめなくても美しいなら見ておけばいいんじゃない? 思い出になるから。
 コンパには行かないの? 焼肉屋に行くらしいよ」
「それって8組のでしょう?」
「平気だよ。
 催眠・瞑想研究会のうちあげって感じで」
「ふーん」
 と言いつつ、手すりに胸をつけて、身を乗り出すと秋の空気を吸っていた。
「元気そうじゃない。
 久しぶりー。
 ずーっと休んでいたんだよねえ」
 と言って7組の樋上今日子が割り込んできた。
 無線部で蓮美の腰巾着だ。
 1年の時リエラと一緒のクラスなので腐れ縁。
「ああ、今日子」
 とリエラ。
「私も適応障害があるからさあ」
 と樋上は言い出した。
「小学校の頃、『人体の不思議展』を見てから肉が食べられなくなったの。
だって同じ哺乳類でしょう」
 と聞いてもないのに、自分の症状を語りだした。
「いやー、聞きたくない。
 伝染るから」
 とリエラは耳を塞いだ。
「君、なんで8組まで遠征してきているの? 来た事ないじゃない」
 いきなりこっちに矛先をむけてくる。
「今日は、催眠・瞑想研究会の出し物があったから」
「本当? ナンパできたんじゃないの? 
 蓮美は小暮君にとられそうだからリエラを狙っているんじゃないの?
 こっちならメンヘラだからやりやすい、とか思って」
 ずけずけ言う女だなあ、アスペルガー入ってんじゃないのか。
「リエラは焼肉行くの?」
「うーん、行こうかなあ。
 今日子は?
「無線部の打ち上げを兼ねているから行こうかなあ、と。
 じゃあ、後でね」
 と言うと、樋上今日子は7組に帰って行った。
 その背中を見て、
「樋上、ダっサーーーーい」
 とリエラ。
「えー」
「かつては友達だったから話すけど、“鮮度のいい女”ってああいう女子の事?
 単なる芋姉ちゃんじゃない」
「えー」
「彼女は、無線部兼フォークソング部で、なんていうか、ロハスな感じで、
つーか今の私には似合わない。
 今の自分は、ピアスにタトゥーみたいなファッションでV系のライブの会場に
並んでいる感じなのに、ウールのセーターにロングスカートにロングヘアーみたい
なのがそこに一緒に並んでいたら似合わわないでしょ」
「うーん」
「ああいうのは、フォークギターでポールマッカートニーを歌っているんだろうなぁ。
 つーか、ビートルズがクリムゾンに負けたのが分かる気がする。
 別に言わないけれども、評論家じゃないから。
 それに自分には症状があるから、能書き垂れないでも分かっているんだから」
「え、何で? 何でビートルズはクリムゾンに負けたの?」
「ビートルズはエロスで、クリムゾンはタナトスだからだよ。
 世の中タナトスになってんだから」
『ペルソナ』だと、エロスって性と愛の神で、タナトスって死神だよな、
など校庭を見つつ考えていた。
 その時、風に乗ってユーミンの『守ってあげたい』が流れてきた。
 これは、市の防災無線放送で 毎日午後2時になると市内四百十八箇所の
スピーカーから木琴で演奏された『守ってあげたい』が流れてくるのだった。
「あー、これ、嫌いなんだ」とリエラは顔をゆがめた。
「なんで?」
「苗場でユーミン、茅ケ崎でサザン、というのはいかにも健康的で、
それこそエロスで、自分とは反対だだら」
「そう思うだろうな。
 ユーミンを聞いている女は、ハンバーガーとかがばがな食ってぶっというん〇
しそうで。
 その点、メンヘラの女なんていうのは、食う段階で脂肪があったらダメなんだから
真逆だよな。
 だから、うん〇の成分で言うと、メンヘラの方がユーミンファンよりかは、
“なまぐさ”は少ないかも知れないが、しかし、ユーミンファンは快食快便だから、
如何にうん〇に“なまぐさ”が大量に含まれていようとも、本人は気が付いていない
から、穢れていないんじゃないの?
 つまり、ユーミンサザンをカラオケで歌っている方が“なまぐさ”はたまらないん
じゃないの?」
「君、面白い事言うね」


 8組と、催眠・瞑想研究会、無線部、とかで、焼肉屋に行ったのは、
30名程度だろうか。
 オレらは、京王八王子からJR八王子方面の繁華街に向かって歩いた。
 JR八王子駅から放射線状に伸びている、西放射線通りに入ると、ドンキ、マック、
ベローチェ、BIGECHOなど、若者仕様の街並みが続く。
 やっぱり学生が多い感じ。
 あちこちに男女が屯っていて、どこの居酒屋に入ろうか相談している。
 ティッシュやピンクチラシを配っているあんちゃんもいた。
 人々の間をスケボーに乗った男が高速で走り抜けていった。
 カラカラカラーっというローラーの音が通りに響いた。
 焼肉屋の座敷で、オレはリエラの横に座った。
 前に、伊地家と、如来の蓮美と、三銃士がはりついている。
 何故かトレンチコートの雉川。
 ボディーガードか。
 あと、犬山、猿田はブレザーの制服で。
「あれ、肉、食べられないんじゃないの?」
 リエラが対面の伊地家に言った。
「野菜を食べるから。
 肉は蓮美が食べる」
 やっぱり蓮美は綺麗だ。
 がばがば肉食ってあんなんでもうん○をするのか。
 確かに、「…白い歯、赤い唇といえども、一握りの糞に粉をまぶしたようなもの…」
だな。
 これは仏教の授業で暗記させられた『往生要集』の一節だが。
 真ん中に置かれているコンロに火が入って肉を焼き出すと、ジューっと煙が出て、
なんとなく前後は分断されて、左右と語る感じになって、リエラと多いに語れた。
「リエラ、肉は平気なんだよね」
 とカルビやロースを網に乗せながらオレは言った。
「もちろん平気だよ。
 ホルモンしか食べないけど。
 レバー、ハツ、ミノ、とか脂肪のないものだけ」
「肉も脂もあるからうまいんじゃん」
 とカルビを網にのせる。
 じゅ〜っと脂が焼ける。
「医者もそういう。
 じゃがいもに味の素をかけるんだったらいいけれども、味の素だけを舐めて、
ドーパミンを出しているようじゃあ嗜癖だって」
 言いつつハツ、ミノを網の上でころがす。
「でも、それは、学校給食の時代の禁止で。
 同じ釜の飯を食わなければ友達になれない、みたいな。
 そういう時代だったら、問題になるのは、食うか食わないか、だろうけれども。
 だから、じゃがいも丸ごと食えって事になるんだろうけれども」
 と、ぱさぱさのハツ、ミノを網の上でころがす。
「でも、今の禁止は肉体の厭離穢土なんだから。
 問題になっているのは、肉体内部の脂肪か筋肉か、なんだから。
 だから、味の素やサプリだけだったらいいし、脂肪の少ないハツ、ミノだったら
いいのよ。
 そんで、薄い筋肉にタトゥー、ピアスをやって、浄土に至るのよ。
 現代の即身仏よ」
 と、ぱさぱさのハツを摘まんで食うと、箸を人の鼻先に近づけた。
「分かる?」
「分かるよ。
 でも、不思議だよな。
 リエラは、シリコンみたいな教室で失調したんだよな。
 シリコンという工学の発達のせいで摂食障害になったお前が、工学の発達で出来
た味の素やサプリに救われるというのは、都合よすぎないか?
 もし、昔ながらの サプリのない、素材を丸ごと食う、みたいな時代だったら
どうした積り?」
「でも、サプリはあるんだから、ちょうどいい」
「ちょうどよくても、サプリは嗜癖的で、リスカ的で、そういうのが“なまぐさ”
をためるんだよ。
 そのレバー、もう焼けているよ、食べたら」
「あ、食べよっと」
 とリエラはレバーを取り皿にとるとタレに浸して口に運んだ。
「むしゃむしゃ。
 柔らかくて美味しい」
「即身仏なんて辛いだけだよ。
 貴族みたいに、なんでも食って、後で解脱すればいいんだよ。
 平安仏教では普段はロースを食って“なまぐさ”して、後で瞬間的に解脱するん
だろう。
 それが、平安貴族の仏教だろう。
 これ自力本願。
 そのミノ、もう焼けすぎなんじゃない?」
「いただきまーす。
 むしゃむしゃ」
「やりたい事やって、青春を謳歌して、1日一回だけ解脱して救済されれば
“なまぐさ”はたまらない」
「どうやって?」
 かみかみしながらリエラは言った。
「固いなあ、ミノは」
「例えばだよ」
 オレは立て膝して体勢を変えると顔を近づけると言った。
「立川流って知っている?」
「立川流?」
「例えばで言うんだけれども、江戸時代の真言宗にセックスで解脱するというのが
あったんだよ」
「へぇー。
 そっちも食べたら」
「じゃあ、いただきまーす」
 言うと、俺は、ロースをタレに浸して、食う。
「むしゃむしゃ。
 美味しいね。
 こんな旨いもの食わないなんて、樋上っててかわいそうだね。
 で、立川流っていうのは、それは、部室で指を曲げて受動意識仮説的になるのとか、
やっていたじゃん。
 あれに似ているけれども」
「そういえば城戸弘君がそんな話をしていた」
「指を曲げて受動意識仮説みたいになるみたいに、セックスの時の反復運動で
変性意識状態になれば、そしてお経を唱えれば、その瞬間に解脱出来るんじゃないか、
と。
その肉、焦げているよ」
「あ、じゃあいただきまーす。
 もぐもぐ。
 でも、セックスで反復運動するのは男でしょ?」
「だから、女が解脱したいなら、女性上位でピストン運動して、変性意識状態に
なったらお経を唱えれば解脱できる」
「へー」
「なんか、それって、V系の曲やファッションでトリップして解脱するのに似ている
でしょう。
 あのライブの空間だって、酸欠で、アルコール飲んで、変性意識状態なんだから」
「そうねー。
 まあ、だから、興味ない事ないよ」
 上座の方で、8組幹事が立ち上がった。
「えーー、それではみなさま、宴たけなわではございますが、そろそろ時間の方も
迫ってまいりましたので、ここらへんで、おひらきにしたいと思いますが」
「えー、もう?」
「1時間食い放題なんだよ。
 食べたりない方はこれからカラオケに行きますんで、そちらでどうぞ」
「カラオケ、行く店決まってんの? ビックエコーなら+一五〇〇円で、ドリンク
飲みほだよぉ」
「カラオケ館の方が設備も料理もいいし、あたし、VIP会員だから」
 など、女子が盛り上がっていた。


 焼肉屋からビッグエコーに移動したのは鉄道研究会 無線部、8組、合わせて
6、7名だった。
「私、京八だから」
 と焼肉屋の店先で樋上が名残惜しそうに言った。
 少し向こうで蓮美が待っている
「じゃあ、私、JRだから」
 とリエラ。
「僕もJRの方の駐輪場に原チャリを止めてあるから」
「じゃあねえ」
 名残惜しそうに樋上が去って行った。
 そしてオレはリエラと来た道を駅ビル裏の方に戻りだしたのだが。
 オレは(どうやって誘おうかなあ)と思っていた。
「さっきの立川流の話、興味あった?」
 ととりあえず言ってみる。
「あの事、もっと話したいなあ」
「えー」
「あそこのベローチェでお茶していかない?」
 と放射線通り出口あたりで言う。
「いいけど…」
 リエラはあっさり応じた。
 オレらはまたまた折り返して放射線通りの中に入って行く。
 ドン・キホーテもこえてベローチェはやりすごして、放射線通りをどんどん奥に
行って、裏道に入ろうとする。
「えー、どこ行くの?」
「あそこ」
 とおれは顎でラブホをさした。
「えぇー、だって」
 その後リエラが言った台詞は意外だった。
「焼肉を食べたばっかりだし」
「そんな事だったら無問題だよ。
 平気だよ、こっちも食べているし」
「嫌だぁ」
「じゃあ、ドンキに戻って、チョコミントのピノでも買ってくれればどうかなあ」
「それだったらいいかも」
 二人でドンキに戻ると、ピノとついでにメントスも購入した。
 歩きながらピノを食べ終えると、メントスをなめなめラブホに入った。

『ジェリーフィッシュ』という、紫の照明、アクリルの椅子とテーブル、壁紙も紫、
という、確かにクラゲの中にいるような部屋に入る。
入ったところで、リエラは躊躇っている。
「今更なんだよ」
 ベッドに寝そべってオレは言った。
「軽い女って思わないで」
 と入り口の暖簾の向こうで言っている。
「ええ?
「私は軽い女じゃないけれども、セックスの事は軽く考えているの」
 とリエラは暖簾の向こうで語った。
「私、こう思うのよ。
 昔は、共同体のおじさんが禁止していたから、そういう時代には、女なんて産む
機械だから、女は女らしく、多少太っていた方がいい、という感じだった。
 そういう時代には、“鮮度のいい女”が求められた。
 そして、セックスは、セックス、出産、育児という一連の流れの中でのセックス
だったと思うの。
 でも今の禁止は、自分の身体が厭離穢土になるという事だから、セックスも味の素
と同じで嗜癖的になって、愛を確かめる訳じゃなくて、気持ちいいからやるという
ものになると思うの。
 じゃあ、妊娠や出産はどうするのか、というと、宇宙的に、人工授精や代理母み
たいな感じになると思うの」
「なんとなく分かるよ。
 でも不思議だよな。
 リエラは、シリコン的な空間で失調を起こしたんだろう。
 それで、もう、妊娠、出産、育児みたいなセックスは出来ないっていうんだろう。
 ちょうどそういう時代に、人工授精とか代理母というものがあるというのは、
都合がよすぎないか」
「でも、あるんだからちょうどいい」
 と言いながら暖簾をくぐってきた。
「認めるよ。
 お前の価値観は」
「ラブホに来たって誰にも言わないで」
 といいながら、リエラはこっちに来た。
「誰にも言わないよ。
 俺の事も言わないでくれよ」
「分かった。
 それじゃあ見せてあげる」
 リエラはベッドの脇に立つと、脱ぎだした。
 ブレザーを抜いて、ダブダブカーディガンを脱いで、ブラウスを脱いで、
ブラも自分で外した。
「すっげー」
 とオレは声を出したよ。
 肌は青白かったが、胸の周りに、ぐるり一周、梵字のタトゥー。
 両腕にはアームバンドみたいなタトゥー。
 それに、へそピー。
 それに、髪は黒髪に赤のメッシュで、目はシャドーにカラーコンタクトで、
眉ピー、耳軟骨ピーだから。
「すげーなぁ。
 まるで菩薩」
 とは言ったものの、まるでゴスロリのドールの衣装をはぎ取ったみたいで、
メンヘラだー、と思わざるを得なかった。
「もっと近くで見せてくれ」
 近寄ってきたところを、引き寄せて、紫のシーツに押し倒した。
 タトゥーをじーっと見る。
「これ、どこで入れたの?」
「原宿」
「ふーん」
 近くで見ると、なんだろう、猫のスフィンクスの柄みたい。
 手で梵字のタトゥーをなぞってから、おっぱい、へそピーの横、と下の方に
移動させて、パンティーを脱がせた。
 太ももを押して開いてみると…、マンピーが。
「こんなところにまで」
「引く?」
「こういう体も不思議な感じがしていいよ。
 それじゃやさっそく反復運動をやってみるか、女性上位で。
 でもまず正常位で」
 前戯もそこそこに、さっさと挿入するとぬるっと入った。
(いやにぬるぬるするな。
 もしかして生理中じゃあ)と思った。
 ピストン運動を開始する。
 ところが、ストリートのナンパで成果が上げられずにたまっていた事もあり、
あっという間に果ててしまった。
「ああああ」とため息をつきつつ、体を離す。
 すると、シーツに直径1メートルぐらいのシミがあった。
「なんじゃこれは」
「私、すっごい濡れやすいの」
「水浸しだなあ」
「ちょっと待ってよぉ。
 私のスカート、濡れているじゃん」
 上体を起こすとリエラが言った。
 脱ぎっぱなしのスカートにまでリエラの膣液は到達していた。
「これで電車で帰るの平気かなあ」
「じゃあ、バイクで送って行ってあげようか」
「えぇ?」
「家、どこだっけ?」
「豊田」
「みんな日野2中だものな。
 多いよな。
 亜蘭とか海里とか」
「あの中学校で、バイクで3人も死んだ。
 バイクで送って行くって大丈夫?」
「平気だよ。
 バイクっていっても110ccの原チャリだから」


 JRの駐輪場に戻ると、オレはアドレス110のメットケースからフルフェイス
を取り出して被った。
 トップケースからドカヘルを出すとリエラにも被せてやる。
 バイクに2ケツで跨るがると、いざ出発。
 ブゥーーーン。
 16号バイパスに出て、北野街道を左折すると豊田方向へ。
 すぐに平山付近に着いて左折すると、平山陸橋を渡る。
 平山橋を渡ったあたりで、メットをごんごん叩いてきた。
「止めてー」
 と言ってくる。
 路肩に寄せてサイドスタンドを出すが早いか、リエラは飛び降りて行って、
歩道を横切って、雑草の生えた空き地に向かってかがみ込む。
 げぼげぼげぼーーーと嘔吐した。
(あれー、運転が荒かったかなあ)とおれは思った。
 しかし見ているうちに、自分もこみ上げてきて、空き地に走ると嘔吐した。
 げぼげぼげぼー、げぼげぼげぼーーー。
「焼肉とメントスのゲロだ」
 一通り吐き終わっておれが言った。
「おかしいなあ。
 お酒なんて飲んでいないのに」
 とリエラ。
「コーラを飲んだから、メントスコーラみたいになったのかも。
 まあ、でもスッキリしただろう」
「うん」
 オレらはバイクに跨ると再スタート。
 豊田の駅近のマンションにリエラを送り届ける。




#577/598 ●長編    *** コメント #576 ***
★タイトル (sab     )  21/10/31  08:54  (392)
「仏教高校の殺人」4    朝霧三郎
★内容


 翌日、部室で、文化祭の催し物の反省会があった。
 部員8割がたが参加して、部室に車座に座って侃侃諤諤やった。
「もっと催眠ショーみたいにして、大勢の前でカタレプシーにして
ヒューマンブリッジでもやってやればよかったのに」
「催眠ショーにするんだったら、練りわさびを食べさせればよかったんだよ」
「そんな事してかからなかったらどうするんだよ」
 などの意見が出る。
 途中、おやつの時間になって、車座の真ん中に、チップスターとオレオが
並べられた。
 佐伯海里、金井妃奈子やら太古望花が、三ツ矢サイダーを紙コップに注いで
いった。
「うえー」
 とリエラがえずく。
「このニオイ大嫌い。
 私、このニオイ大っ嫌いになったんだよ」
「え、何で? 平気」
 と海里ら。
「げー、吐き気がする」
 言うとリエラは部室を出て行ってしまった。
 その後、なんとなく、反省会も散会みたいになったので、俺もそそくさと、
ついていったのだが。
 リエラは保健室に行っていて、胃散を飲んでいた。
「おい、どうしたんだよ」
 とオレ。
「ほら、サイダーのがメントスみたいな感じが」
 とリエラはオレに言ってきたが、保健室の女の先生に向かって言った。
「昨日焼肉屋の帰りに焼肉とメントスを吐いたんです。
 そうしたらミント系のニオイが大嫌いになりました。
 歯磨き粉もダメになったんです」
「それはガルシア効果だわね」
 と保健室の先生。
「ガルシア効果といって、カレーを食べて乗り物酔いをするとカレーのニオイ
をかいだだけで吐き気がするようになっちゃうという様な条件反射ね。
 パブロフの犬みたいな」
「へー」
「普通の条件付けは一回では出来ないんだけれども。
 パブロフの犬だって何回も肉とブザーで条件付けをして、条件反射が
出来たんだけれども。
 でも、ガルシア効果だけは一発で条件付けられるのよ。
 音や光だとトリガーにはならなくて、味覚情報じゃないとダメなんだけれども」
「でも、オレはサイダーを飲んでもなんともないけど」
「人によりけりなんじゃないかしら。
 リエラさんみたいに摂食障害の人はなりやすいのかも」
「そういえば事故った3人も、カーブを曲がりきれず、とか言っても、寸前に
吐いたらしい」
「え、あの3人も、ガルシア効果に関係があるの?」
 とリエラ
「なんの話し?」
 と保健室の先生
「いやぁ、こっちの話し」
 窓の外からユーミンの『守ってあげたい』が流れてきた。
「ダっサい曲。
 童謡かしら」
「二時かあ」
 保健室の先生はサッシを開けた。
 ユーミンの防災放送が一段と大きくなり、カラスの鳴き声がして、冷たい風が
入ってきた。
「はぁー、もう晩秋だ」
 とリエラ。
「来週は、みんなで高尾山だよ」
 と保健室の先生、
 毎年晩秋になると、この高校ではリクレーションで高尾山に行く。
「行きはケーブルカーで行って、山頂で昼ご飯。
 帰りは4号路を下ってくるから、ちょうどこの放送が聞こえるのは吊り橋を
渡っている頃かなあ」
 と保健室の先生。
 リエラは窓の外を見ながらまだげっぷをしている。
 顔色も悪いし痩せているし。
 髪は赤メッシュで、耳には5連のバーベルのピアス。
 あのカーディガンを脱がせれば梵字のタトゥーだし。
 あーー、ストリートののジャンキーを思い出すなぁ。
 例えばそれはこんな女達。
 18歳なのに砂掛けババアみないな顔をしていて、虫歯かシンナーで前歯が
全部ないJK。
 出会い系でナンパしたのだが、放射線通りのドンキの前で待ち合わせをしていて、
原チャで行ったらガードレールに寄りかかっている砂掛けババアが原チャのライト
に浮かんだ。
 まさかあれじゃねえだろうなあ、と思ったらあれだった。
 向こうも何故かこっちが相手と気付いて、断るのもなんなんで、勢いでやったが。
 携帯貸してくれというんで貸したら、どっかの女に電話して、友達がAIDSに
なったよー、とか。
 死ねよ。
 あともう一個思い出した。
 電車の終わった後、駅ビルの前で突っ立ている女をナンパした。
 その女も歯が悪くて、ガムが噛めない、とかいう癖に、駅前のペッパーランチに
いったら、一度口に入れた肉をぬるっと出して、唾液が糸を引く。
 ウェーっ。
「何、このすじ肉、こっちは虫歯だっていうのに」とか言っていたが。
 それから、マックやらファミレスやらで、朝方3時4時まで粘って、
「いい加減しけこもう」、つったら、
「いいよ、先輩の友達とかにもみんなやらせてやっているから、みんなやりたいん
でしょう。
 でも私とやるとみんな真っ黒になっちゃうんだよ、正露丸みたいに、肝臓悪いから」
 ふざけんな!
 そんなのを思い出しつつ、窓の外を見ているリエラを見ていたら、うんざりした。
 何がエロスじゃなくてタナトスだ。
 ただのすれっからしのジャンキーじゃないか。


 その日の晩、オレは家に帰ると自室で、スマホで某SNSを開けた。
 友達一覧の中から『梵天』にタッチする。
 メッセンジャーが起動した。
優波離:今、いる?
梵天:いるよ
優波離:いやー、やっぱりあのリエラっていうのはひでー女だった。
オレの愚痴、聞いてくれる
梵天:聞いてあげるよ
優波離:リエラって女は、メンヘラのすれっからしで
オレのイメージとしては、ストリートにいる東電OLのイメージかな
そもそも、セックスだって、妊娠→出産→育児という全体性があって意味があるのに
じゃがいもを食うのだって、タンパク質とか炭水化物とか色々な栄養素があって意味
があるのに
だのにあのリエラは、クリトリスにシャブを塗れ、みたいな感じ
或いは、味の素だけを舐める
人間なんて全体で意味があるのでって、ある人の目が可愛いからって目玉だけとって
きてもしょうがないと思うんだよね
梵天:たまたま、味の素を摂取した時にドーパミンが出たからそれだけをとるという
嗜癖だね
優波離:サルのマスターベーションみたいなものさ
ジャンキーだよ
ストリートの
じゃがいもを食わないから栄養にならない
子供も産まないから何も増えない
ただ、“なまぐさ”がたまるだけ
梵天:それはお仕置きをしなくちゃいけないかもね
その東電OLというのはどんな性質の女なんだい?
優波離:まず摂食障害で、自分の体を厭離穢土だと思っている
どっか遠くに浄土を感じている
平等院鳳凰堂が綺麗だとか
V系とかピアス、タトゥーでその浄土にいたるとか
菩薩みたいにw
ユーミンの曲が防災放送のチャイムで流れるんだが、ナチュラルな感じで気に入らない
あと、バイクで2ケツで酔って吐いたんだけれども、その前にメントスを舐めていて、
メントス味のゲロを吐いた
そうしたら、サイダーを飲めなくなったとか
梵天:ガルシア効果だね
優波離:そうそう、ガルシア効果っていうって聞いた
梵天:誰に?
優波離:保健室の先生に
梵天:あー、臨床心理士の女ね
他には何か特徴は?
優波離:すごい潮吹きだね
一回セックスしたが1メートルぐらいの染みをベッドに作った
梵天:そうすると、メントスでガルシア効果になるような条件反射にかかりやすい
女で、あと、ユーミンと潮吹き、というのが、その女に関する情報かな
優波離:まあ、そんなところ
梵天:だったら、ユーミンの放送と潮吹きを条件付けしてやれば面白いよ
優波離:そんな事、出来るの?
梵天:だって、メントスのニオイで胃粘膜が刺激されるってあるんだろう
だったら、ユーミンのメロで膣壁が刺激されてもいいだろう
優波離:でも、ガルシア効果なんていうのは、味覚情報のみで、音や光をトリガー
にするのは無理と保健室の先生が言っていたけれども
梵天:君は『時計じかけのオレンジ』を見なかったのかい?
あの映画でアレックスは『第九』を聞くと吐き気がするという条件付けをされた
じゃないか
だから、メロで膣壁が刺激されるという条件付けも出来るんだよ
優波離:ユーミンを聴く度に潮吹きかあ
そんな事が出来るんだったら毎日2時には潮吹き、いや、もっと面白いお仕置きが
出来るかも
梵天:ユーミンと潮吹きの条件付けは教えてあげるから、それを利用してどんな
お仕置きをするかは自分で考えなさい
優波離:ああそうするよ
で、どうすればユーミンをトリガーにして潮吹きをするという条件反射を植え
付けられるの?
梵天:何か日常生活で、条件づけみたいな経験はないかね
ラジオ体操第一を聞けば自然と体が動くみたいな事はないかね
優波離:そういえば、
チャリを漕ぐのも、反復運動で、受動意識仮説みたいな状態になるから、
条件づけしやすいとか
だったら、セックスも自転車漕ぎみたいな反復運動だから、女性上位で女に反復運動
をさせれば、自転車を漕いでいる時と同じ脳の状態になる、その時にお経を唱えれば
解脱出来るとか
梵天:ほー
だったらそこでお経でなくてユーミンをきかせれば、その女、ちょうどその時潮を
吹いているんだろう、ユーミンのメロと潮吹きが条件づけされるかもね
優波離:そうだね
さっそくやってみる
梵天:鋭意邁進したまえ
上手く行ったら報告しにきて
優波離:もちろん


 翌日、バイトの金を出して、前回と同じラブホにしけこんだ。
 休憩2750円。
 バイトの金が減る。
『ピカソ』という名前の部屋。
「新宿の目」の様なアメーバーの様なオブジェが壁にあって、そこが間接照明に
なっている。
 オレはリエラとベッドに寝そべると、いきなり脱がせたりしないで、スマホを
取り出した。
「お前は、ユーミンを好きになるべきだよ」
 とオレは言った。
「なんで」
「お前の聞いているV系っていうのは、とげとげしていて、強迫性障害みたいな
感じだよ。
 ちょうど、うん〇が気になって、必死に手を洗っている感じ。
 自分じゃあ、自分の禁止は厭離穢土だ、とか言っているけれども。
 そんなのは、清潔な空間にいるからだよ。
 実際、シリコンっぽい教室で発作を起こしたんだろう?
 しかし、キャンプとか、野グソもやむを得ない状況に置かれれば、出す事に
主眼がおかれて、手につくかどうかなんてどうでもいい事になるよ。
 つまり、食うか死ぬかという給食おじさん的なものが禁止になってくる。
 つまり、禁止が悩みを変える。
 だから、ユーミンというのはキャンプで歌っていそうだから、ユーミンを聞けば、
ハツやミノだけじゃなくてロースやカルビも食いたくなるよ」
「そーんなの戸塚ヨットスクールの理論だわ」
 オレは喋りながらスマホをいじくっていて、LINEを開くとリエラの名前に
タッチした。
「『守ってあげたい』をプレゼントするよ。
 今送るから。
 はい、送信」
「私、誕生日が近いんだよ」
「じゃあ誕生日プレゼントも用意しておくよ。
 もう曲、行ったんじゃない?」
 ぽろりんと、リエラのスマホが鳴った。
「あー、来た来た」
 スマホをいじくりながらリエラが言った。
「聞いてみな。
 案外いいものだよ」
 リエラはポーチからコードレスイヤフォンを取り出すと耳に突っ込んで再生する。
 曲に合わせて首を振っている。
「じゃあ、そろそろ行きますか」
 言うと、スカートやブラウスを脱がせた。
 胸元に梵字タトゥー。
 腕輪タトゥー、へそピー。
 パンティーも脱がすとマンピーが光った。
「今日は腰が痛いから女性上位でやってくれない? 聞こえている? 女性上位でー」
 リエラは曲をききながら、ふがふがと頷いた。
 前戯もそこそこにいきなり騎乗位にまたがってくると、ぬるっと入った。
 こっちの臍のあたりに、心臓マッサージでもするみたいに手をつくと、
♪you don't have to worryのメロディに合わせて腰を動かす。
 空気が入る角度でブチュウ〜ブリッ ブリッ ブリッとチナラ(マンペ)の音がする。
 1曲終わらない内に果ててしまった。
 それでも膣液でビシャビシャである。
 リエラはバスルームに行くと股間を中心にザーッとシャワーを浴びた。
 戻ってくるとバスタオルを巻いただけの格好でベッドに腰掛けて、「紅茶花伝」
を飲みながらリラックスした。
「ドリンクだってなんでもいいって訳じゃないのよぉ。
 ダライ・ラマ法王が飲んでいたから、もしかしてスジャータに関係あるのかと
思って飲んでいるのよ」
 と能書きをたれるリエラの背中のタトゥーを見つつ、
 ベッドに寝ていたオレは、スマホを出すと、『守ってあげたい』を再生した。
 果たして今のセックスで条件付けは出来たであろうか。
 じーっとリエラの背中を見つめる。
 しかし、ピクリとも反応しなかった。
 これは、スマホのスピーカーだと音質が悪くてダメなのか。
 それとも、やっぱり一回セックスしたぐらいじゃあ条件付け出来ないのか…。


 オレは家に帰ってくると、さっそく、スマホで、梵天に報告した。
優波離:上手くいかなかったよ
全然効果がなかった
梵天:ただ、こすっただけじゃあ、条件付けなんて出来ないよ
優波離:そうなの?
梵天:そうだよ
 パブロフの犬だって、ベルが鳴ってから肉が出るというのを繰り返すとベルが
鳴っただけでヨダレが出る、という訳でもないんだよ
 ベルがなって肉が出るというのにビックリして、ビックリするとシナプスの形状が
変わるから、それで記憶になるんだよ
 これをシナプスの可塑性というが
 シナプスの形状が変わって、それで流れる脳内化学物質の質と量が変わる、
それが記憶の正体だよ
 だから、シナプスの形状を変化させないと
 それにはビックリする事が大切だから、ビックリしやすい状態、つまりシナプスが
変形しやすい状態にしておかないと
 それは、脳内化学物質が潤沢に分泌されている様な状態だから、何かドーパミンの
出るものを与えておくと条件付けしやすいんだがなあ
 ニコチンとかカフェインとか
 ニコチンとカフェインを大量に与えて、シナプスの先っぽに脳内化学物質が大量に
分泌されている状態で条件付けをすれば、ユーミンと潮吹きは結びつくかも知れない
のだがねえ
優波離:じゃあやってみる


 翌日の放課後、オレは又リエラを誘い出した。
 何時ものホテルの『レッドサン』という部屋。
 1メートルぐらいの日の丸の様な赤い間接照明の下に、これまた赤い丸いベッドが
置いてある。
 いきなり脱がせないで、ベッドに寝転ぶと、オレはレジ袋の中からパッケージを
取り出した。
 それを開けると、アイコスのポケットチャージャーが出てくる。
「なに、それ」とリエラ。
「電子タバコ。
 高かったんだから。
 わざわざ追分のばばあのやっているたばこやで仕入れてきたんだから。
 年齢チェックされないから」
「いくら?」
「5000円」
 オレは、ポケットチャージャーからホルダーを取り出すと、そこにアイコス専用
タバコステックを差し込んだ。
「吸ってみる?」
「えー」
「これだったらそんなに害はないしし、すっごく感度がよくなるから」
「本当に?」
 ホルダーが振動すると、ライトが点滅するまで長押しした。
 ライトが2回点灯したので、もう吸える状態。
「ほら、吸ってみな」
 とリエラの方に差し出す。
 リエラは受け取ると両手で持って、口にくわえると、シンナーでも吸う様に吸った。
「すーーーはーーーー。
 キター、クラクラするわ」
「あとこれも」
 とレジ袋からモンスターエナジーを取り出すとリングプルを開けた。
「これも飲むの?」
「カフェインも感度がよくなるんだよ」
 言うと口元に持っていってごくごくと飲ませる。
「あー、オレンジ味かあ。
 いやー、いきなりドキドキしてきた」
 今やリエラは、左手にモンスターオレンジ、右手にアイコスを持ちながら、
交互に飲んでいる。
「ああ、目が回って気持ちいいわあ」
「どんな感じ?」
「低気圧が迫っていて自律神経失調症になって、動悸息切れがする様な気持ちよさ」
「じゃあ、そろそろ」
 と下着に手をのばして、ふと言った。
「何でやらせてくれるの?」
「禁止があるから」
「禁止?」
「試験期間になると、西村京太郎とか読みたくなるでしょう。
 あれと同じで、やっちゃいけないと思うとやりたくなるんだよ」
「じゃあ、俺も頭の中で、お経でもとなえながらやるかな。
 あれは禁止だろうから。
 じゃあ、お前、それを吸いながら、ユーミンを聞いてみな」
 リエラは言われるばままにイヤフォンを装着すると、ユーミンを聞き出した。
 そしてベッドに横になると、白目をむいて 上目遣いで目を潤ませた。
 オレはリエラを脱がせる。
 例によって、胸まわりの梵字タトゥー、腕タトゥー、へそピー、マンピーが
あらわに。
「じゃあオレにまたがって」
 言うと、勃起したちんぽにぬるっとおさまって位置が決まる。
「じゃあ、恥骨だけをグラインドさせて」
「ええ?」
 言うとイヤホンを外した。
「その音楽に合わせて、フィットネスのロディオマシーンにでも乗っている積りで、
恥骨だけをグラインドさせて、くねくねと。
 はい、♪you don't have to worry worry〜」
 最初の内はこっちも腰を使ってリードしてやる。
 その内、リエラだけが腰を使って動き出す。
 音楽に合わせて

♪you don't have to  worry   worry
 ブリッ  ブリッ  ブリッ   ブリッ
 かんじー ざいぼー さーぎょー じん 

 mamo    tte   age   tai
 ブリッ   ブリッ ブリッ  ブリッ
 はんにゃー はらー みーたー じーしょー

♪you don't have to  worry  worry
 ブリッ  ブリッ  ブリッ  ブリッ
 けんごー うんかい くーどー いっさい

 mamo   tte    age   tai
 ブリッ  ブリッ  ブリッ  ブリッ
 くーやく しゃりー しーしき ふーいーくう

 約5分のセックス。
 セックスの後、リエラは、何時もの様にシャワーで膣液を洗い流して、
戻ってくるとバスタオルを巻いた状態でベッドでごろごろした。
「今日は体力消耗したわ」
「ほんと?」
 横目でリエラの様子を見ながらオレはスマホのスピーカーでユーミンを再生
してみた。
「♪you don't have to worry worry まもってあげたい〜」
 とチープのスピーカーのせいか、ユーミンの声質なのか、乾いた音が響いてくる。
「ん?」
 とリエラは眉間にシワを寄せる。
「あ、バスタオルが濡れるかも」
「え、本当?」
「なんか、まだ感じているのかなあ」
「本当かよ」

 家に帰ると、さっそく、梵天に報告した。
優波離:今日は効果があった
ユーミンの曲で、湿らせる事に成功した
梵天:本当か
それは大躍進だな
優波離:なにしろ、アイコスとモンスターエナジーでバッチリ刺激したからね
梵天:ニコチンとカフェインで、相当、シナプスの間に脳内化学物質が出ていると
思われる
 ここで止めをさすには、シナプスのつなぎめに持続的に大量の脳内化学物質が漂う
様にする為に、セロトニン再取り込みを阻害する薬品=向精神薬を飲ませるという
事だが
優波離:そんなの手に入るかなあ
ストリートに行けば脱法ドラッグがあるかも知れないが
梵天:だったら、君、バイクで彼女が吐いたと言っていたなあ
だったら、バイクに乗る為の酔い止めだといって、アネロンとかトラベルミン
とかの市販薬を飲ませてみろ
それらには、ジフェンヒドラミンを含むので、セロトニンの再取り込みを阻害する
から




#578/598 ●長編    *** コメント #577 ***
★タイトル (sab     )  21/10/31  08:54  (362)
「仏教高校の殺人」5    朝霧三郎
★内容

 翌日、又又誘い出すと例のラブホに行った。
『ネスト』という名前の部屋で、壁全体にビーバーの巣の様に木が積んであって、
ベッドも木目調だった。
 ベッドにごろりとなって肩など抱きながらオレは言った。
「今日、バイクでツーリングしようか」
「嫌だぁ。
 又酔っちゃうから」
「だから今の内に酔い止めを飲んでおけよ」
 アネロンを取り出すと通常1回1カプセルのところを3カプセルも飲ませる。
「じゃあ、折角、ビデオもある事だから映画でも見てみるか」
 壁面には50インチ程度の大画面テレビが備え付けられていた。
 リモコンでVODを選択して映画を選ぶ。
「何を見るかなぁ。
 ユーミンづくしで『守ってあげたい』を見るか。
 薬師丸ひろ子の」
「何時の映画?」
「わからん」
「そんなに古いのあるの?」
「『守ってあげたい』はないなあ。
 原田知世の『時をかける少女』ならあるけど。
 まあ似た様なものだからこっちでもいいか。
 『守ってあげたい』はツタヤで借りてきて君んちのテレビで見よう」
 オレらは『時をかける少女』をしばし観賞。
「なんでこの映画、さっきから同じシーンが繰り返し流れるの?」
 とリエラ。
「何をボケた事言っているんだよ。
 時をかけているんじゃないか」
「あー、そうなの。
 あー、なんか退屈。
 ふあぁ〜〜」
 と大きなあくびをした。
 そろそろ薬が効いてきたか。
 それに退屈だったらそろそろいいか、と思って、オレは脱がせにかかった。
 ぺろーんと脱がすと、おなじみの梵字に腕輪タトゥー、へそピーにマンピーが
現れた。
 梵字の間からつーんと突き立った乳首を指の根っこにはさみつつ揉む。
 さあ、やろうか、と、背中に手を回して、体を持ち上げて女性上位の体勢に移行
しようか、と思った。
 が、その前に、
「そうだ、ユーミンを聞かないと。
 イヤフォンを出して『守ってあげたい』を再生して」
「なんで何時もあの曲を再生しないといけない訳?」
「そりゃあ、好きにならなくちゃ。
 八王子市民なんだから」
「私なんて豊田で日野市民なんだけれどもなぁ。
 まあいいけど」
 リエラはイヤフォンを出すと耳に突っ込んで再生した。
 そしていつものようにずるっと挿入すると、騎乗して、グラインド開始。
「はい、はい、♪you don't have to worry worry〜」
 最初の内はこっちも腰を使ってリードしてやる。
 何時もはぺたんこ座りで騎乗位になっていたのを、両踵をこっちの肋骨のあたりに
乗っけて、両手をついて腰をグラインドさせてきた。

♪you don't have to worry   worry
 ブリッ  ブリッ  ブリッ  ブリッ
 くーふー いーしき しきそく ぜーくう

 mamo   tte    age    tai
 ブリッ  ブリッ  ブリッ   ブリッ
 くーそく ぜーしき じゅーそー ぎょーしき

♪you don't have to worry   worry
 ブリッ  ブリッ  ブリッ  ブリッ
 やくぶー にょぜー しゃりー しーぜー 

 mamo   tte    age    tai
 ブリッ  ブリッ  ブリッ   ブリッ
 しょほー くーそー ふーしょー ふーめつ

 セックスは7、8分で終了。
 コイタスの後、例によってシャワーを浴びに行く。
 バスタオルを巻いて戻ってくると、ベッドに横になった。
 まだあくびを噛み殺していた。
 オレは、じろりと横目で観察しながら、スマホでユーミンを再生した。
「♪you don't have to worry worry まもってあげたい〜」
「う、」
 とリエラが尻を浮かせた。
「やばい、何故か漏れてくる」
「本当かよ」
「やばい、やばい、まだ感じているのかなあ」
 オレは内心ガッツポーズで、スマホを掴んだ。

 ホテルから出てくるとオレは言った。
「じゃあ、折角酔い止めも飲んだことだし、天気もいいので、ひとっぱしりして
くるか」
 バイクに跨るがると、いざ出発。
 ブゥーーーン。
 ホテルのある中町から16号線に出る。
 万町のマックの角を右折して、八王子実践高校を通り過ぎるとすぐに富士森公園
が見えてきた。
「あそこで一休みしよう」
 富士森公園の駐輪場に止めると、二人は陸上競技場に入っていった。
 芝生の観客席に座り込むと、後ろ手に手をついた。
 都立高校の生徒が陸上競技をやっている。
 屋外用ポール式太陽電池時計を見ると、1時59分。
 十数秒後、2時になった。
 例の放送が、マイクが近いせいで、大音響で響いてくる。
「♪you don't have to worry worry」のメロディが木琴で流れる。
「あれ? 芝生が湿っていない?」
 言うとリエラは尻をうかして芝生と自分の尻を触る。
「違う。
 自分が湿ってきたんだー。
 なんで〜?」
(キターーーーーー!!)
 オレは心の中で正拳三段突きをする。

 翌日、金曜日、親が居ないというんで、豊田のリエラの家に行った。
 ツタヤで『ねらわれた学園』を借りて持っていく。
 リエラのの家は、豊田の駅近の分譲マンション。
 昼間共稼ぎの両親は不在だった。
 間取りは3LDKで、リビングダイニングにはダイニングテーブル、ピアノ、
ソファー、50インチの液晶テレビなど、一通りの家具調度品が揃っていた。
「じゃあ、DVDを借りてきたから見ようか」
 言うとオレはソファにふんぞり返った。
 リエラがDVDをセットするとすぐに映画が再生される。
 地球に火の鳥、そしてビッグバンという角川映画のオープニングが流れる。
 いきなり『守ってあげたい』が流れた。
「♪you don't have to worry worry…」
 画面では、ベビードール姿の薬師丸ひろ子が勉強部屋ごと空を飛んでいて、
窓の外には、『アルプスの少女ハイジ』のアルプスみたいな風景がはめ込まれている、
という、スキゾ感たっぷりのコラージュ映像が流れている。
 リエラはどうか、と見てみると。
「うっ」と小さく唸って、ぎゅーっと股を締めていた。
「うっ。ちょっとトイレ行ってくる」
 言うと、リビングのドアを開けて出て行ってしまった。
(出たんだ、膣液が、このオープニングの曲で。
 もう完璧だ)
 とオレは思う。
(完成したよ)。

 その日の晩、梵天はチャットには居なかった。
オレは一方的に報告をタイプした。
優波離:条件付けはバッチリだね
何時でも、ユーミンの曲が流れてくれば濡れる様になったよ
富士森公園の放送であろうと、映画の挿入歌であろうとね
あとは場所を危険なところに移してあのメロディーを聴かせるだけ
そうすると何が起こるか
潮吹きだけじゃあ滑落しないと思ったから、オレは特別な仕掛けを考えたよ
へへへ
どんなお仕置きをするかは乞うご期待だね
又リポートするよ
へへへ

 高尾山ハイキングの当日、集合時間の1時間も前に高尾山口駅で待ち合わせをした。
 リエラは黒地にスケルトンのパーカー、革ジャン、ダメージジーンズという
いで立ち。
 これじゃあ誰かに見られたら一発でバレる、とひやひやしたが。
 ロータリーを出てきたところに知る人ぞ知る『ホテルバニラスィート』があった。
 巨大なチョコレートケーキの様な建物を見上げて、
「前に原チャでこの前を通った時、何でこんなところに来たのか忘れたけれども、
クリスマスか何かの寒い季節で、こっちは寒いのに、あの部屋の中は暖かくて、
すっ裸でいちゃついている男女がいるんだろうなぁ、って思っていたんだ。
 入ってみようか。
 まだ1時間もあるし」
 とオレは言った。
「えー、又ラブホ?」
「今日はすっごくセクシィーな気分なんだよ」
 部屋に入ると一応あたりを見回す。
 でっかいWベッドの上に浴衣が2枚。
 テーブルの上にはお茶菓子と缶のお茶。
 風呂場を覗くと、ジャグジー風呂になっていた。
 全体として、田舎のモーテルみたいな風情。
 そんなのには大して興味をしめさず、「さぁさぁ」と言うと、さっそくベッドに
倒れ込んだ。
「今日はとにかくセクシィーな気分で我慢出来ないんだよ」
 とV系ファッションを脱がす
 またまた、梵字タトゥーに腕輪タトゥー、へそピー、マンピー。
 またか。いい加減飽きたこの体。
 革ジャンやパーカーはベッドの下に散乱していたが、パンティーだけはベッドの
上にあるのを確認する。
(あそこまで膣液を広げるには5分のピストン運動が必要だろう。
そこまで持つか。
いささかこの体には食傷気味で。
禁止があればどうにかなるか)
 オレは心の中でお経を唱えつつ、とりあえず勃起しているペニスを挿入して
ピストン運動開始した。

 ブリッ  ブリッ  ブリッ   ブリッ
 かんじー ざいぼー さーぎょー じん 

 ブリッ   ブリッ ブリッ  ブリッ
 はんにゃー はらー みーたー じーしょー

 ブリッ  ブリッ  ブリッ  ブリッ
 けんごー うんかい くーどー いっさい

 ブリッ  ブリッ  ブリッ  ブリッ
 くーやく しゃりー しーしき ふーいーくう

 やっと5分が経過したぐらいに、フィニッシュ。
 案の定、膣液が1メートル程度のシミを作っていた。
 その上にパンティーが丸まっていた。
「ちょっとぉ、濡れちゃったじゃない。
 これからハイキングだっていうのに」
 とリエラ。
「ちょうどよかった。
 つーか、今日誕生日だろう?
 プレゼントを用意してきたんだよ」
 言うと、ナップサックから包を出して、渡す。
 リエラが包を開けると中からパンティーが出てきた。
 ランジェリーショップで売っている様なセクシィーなパンティーが。
「なぁにぃ、これ」
 パンティーを広げてひらひらさせながら言った。
「誕生日のプレゼント…。
 嘘嘘、本当のプレゼントはこっちだよ」
 言うと、スウォッチを渡した。
 メルカリで落札した二千円のキティーちゃんのスウォッチ。
「あ、これ、いいじゃない」
 とリエラは喜ぶ。
「こうやって、パンティーの後の時計を渡すのは『アニー・ホール』みたいで
やりたかったんだ」
「え、なに? 『アニー・ホール』?」
「まあ、そういう映画があったんだよ。
 とにかく、その時計でも、もう十一時近いだろう。
 そろそろ集合時間だから行かないと。
 さあ、早くそれを履いて」
 リエラはセクシーパンティーに脚を通した。
「お弁当どうしよう。
 高尾山口に売っているのかなあ。
 それとも山頂に蕎麦屋とかがあるのかなあ」
「弁当はもう買ってきたよ。
 君の分も。
 今日から物産展だったんだなあ、セレオ八王子で」
「へー、なんのお弁当?」
「それは山頂でのお楽しみだよ」

 ホテルを出てから、見られるとまずい、と言って、二人は別々に、ケーブルカーの
駅に向かった。
 やたら蕎麦屋と饅頭屋のある参道がケーブルカーの始発駅、清滝駅に
つながっていた。
 清滝駅の前には、ワンダーフォーゲルの恰好をした英語の女教師、普通の
スラックスにジャンパーのじじいの日本史教師、輪袈裟を体操着にぶら下げた
古典の教師、など引率の教師がいて、生徒が列を作っていた
 自分のクラスの列に並ぶと、担任が点呼を取り出した。
 しかし、クラス毎に点呼だけ済ますと後はクラス単位では移動せず、好きな
友達と行動していい。
 点呼が終わると、みんなが蜘蛛の子を散らす様にばらばらになり、又好みの
仲間で集まる。
 リエラ、腐れ縁の樋上今日子、如来さま、三銃士、あと何故か保健室の先生、
そして部活のみんなあたりが一つの集団を作った。
 もちろん俺もそのグループに紛れていく。
 三々五々歩く感じで、駅に向かう。
 片道四八〇円の切符を買う。
 カチャカチャ切符きりで切られて改札を通過する。
 ケーブルカーに乗り込むと、リエラ、樋上今日子らは先頭でキャッキャしている。
 オレはニヤリとほくそ笑んだ。
「高尾山行きケーブルカー、これより発車です」
 というアナウンスと共に、車体が引っ張られて上がり出した。
「このケーブルカーは標高四七二メートル地点にございます高尾山駅まで
ご案内致します」
 というアナウンス。
(人が転落死するには十分な高さだな。
 ちょっと足を滑らせれば一巻の終わり)。
「高尾山薬王院は山頂高尾山駅より歩いて15分程のところにございます。
 薬王院は今から約一三〇〇年以上前、行基菩薩により開山されたと伝えられ、
川崎大師、成田山とともに関東の三大本山の一つとなっております」
(そんな由緒あるところでやったらバチが当たるかな。
 あのメロディーを聴いて潮を吹くのは向こうの勝手だとしても、潮吹きだけ
じゃあ滑落しないので、確実に滑落する様な仕掛けを仕組んだのは僕だしなぁ。)

 ケーブルカーを降りて、ぞろぞろ歩いていくと、新宿副都心が見える展望台、
サル園、樹齢四百五十年のたこ杉、と続き、浄心門という山門をくぐると
いよいよ境内に入る。
 如来さまと三銃士が先頭を行き、リエラと樋上今日子、そして保健室の先生が続く。
 オレは部活のメンバーに紛れて歩いて行った。
 左右に灯篭のある参道を更に進んでいくと、男坂と女坂というコースにY字型に
分岐している。
 男坂に進んで、煩悩の数だけの石段を上ったが、これにはばてた。
 茶屋があって、ごまだんごと天狗ラーメンのいい香りが漂ってきた。
「お弁当買ってきた?」
 と保健室の先生が振り返った。
「うん、駅ビルで買ってきた」。
「何を?」
「牛タン弁当」
「ふーん」
 言うと尻をぷりぷりさせて参道を進んで行った。
 参道を更に進むと四天王門という山門があって、又石段があった。
 その先に、薬王院の本堂があって、そこを裏に回ると又石段。
 権現堂というお堂があって、裏に回って、更にきつい石段。
 奥の院というお堂があって、裏に回って、木のだんだんを上って行く。
 くねくねと舗装された道を行くと、軽自動車が2台止まっていた。
(なんだよ、車で来れるのかよ)
 とオレは思った。
 しかし、もうちょっと行ったら山頂に着いたのであった。
 展望台から「富士山、丹沢が見えるー」と、ワンダーフォーゲルの恰好の
女教師やら日本史のジジイ教師と生徒複数名が、喜びのため息をもらしていた。
「じゃあ、みなさん、ここでお昼の休憩にします。
 出発は一時四十五分です」
 と英語の教師。
 今十二時半。
 1時間15分も昼休みか。
 教師やら、多くの生徒達が、そこかしこにシートを敷いて、弁当を広げだした。
 途端にあたりが難民キャンプの様になる。
 如来さまと三銃士、腰巾着の樋上今日子は
「私たち、そばを食べてくる」
 と言って茶屋に入っていった。
 弁当持参じゃなくてもいいのかよ。
 催眠・瞑想研究会も、地面に固定されているテーブルの上にナップなどを
バサバサ下ろす。
「じゃあ、オレらもここで食うか」
 と誰かが言った。
 みんなベンチにぎゅうぎゅう詰めになって、おにぎりなどを食いだす。
「あれ、リエラは食わないの?」
 と誰か。
「ばてすぎちゃって食べたくない」
 とリエラ。
「なーんだ。
 まだ、摂食障害が残っているのか」
 と誰かが言うと握り飯を食う。
「ここは修験道の霊山でもあるから、我が催眠・瞑想研究会でも、そういう修行
でもして解脱するか」
 と言っておにぎりを食う。
「修行って何するのよ」
「断食、断水、断眠、断臥して、琵琶滝で滝行を」
 といっておにぎりを食う。
「人一倍健康でないと解脱出来ない。
 真言宗の水行」
 と言っておにぎりを食う。
「健康でないと解脱出来ないというのは皮肉だな」
「でも、ランニングハイみたいなのもあるのかも」
「ランニングだったらまだいいけれども、山だと危ない。
 人一倍神経を研ぎ澄ませていないと危ない。
 実際に琵琶滝の方で滑落事故があったんだから」
「そんなで解脱出来るのかなあ。
 催眠・瞑想とは違う感じだな」
 食い終わると全員だらけて、その場で堕落したり、あちこちに移動したり。
 何気、リエラは展望台の先っぽに移動する。
 オレもみんながバラバラになっているので目を盗んでついていった。
 ベンチに腰掛けると、富士山を見る。
 オレは、横目で、リエラの体を、革ジャン、V系パーカーの上からガン見した。
(さっきやってきたばっかりなのに、まだ未練があるのか。
 こんな痩せぎすの棒っ切れ。
 しかし、タブーを冒す楽しみも教えてくれたしなー。
 しかもあの体、あの菩薩みたいな体、あんなの二度とお目にかかれない。
 これを崖下に放り捨ててしまうなんて勿体ないんじゃないのか。
 しかし、味の素を舐める様ななジャンキーだものなあ。
 お仕置きしなくっちゃ。
 つーか、何時も中田氏しているから妊娠しているかも。
 そうしたら自分の子供もろとも崖下に捨てるって事か? 
 それでもいいや。
 中絶の手間が省けて。
 どうせ妊娠したら公衆便所で出産してママチャリの籠に捨ててくるタイプだろう。)
「部室のロッカーの扉の裏に胎蔵界曼荼羅が貼ってあるでしょう」
 オレは富士山を見ながら語りだした。
「胎蔵界曼荼羅が仏像を孕んで娑婆に産むというのだって、“なまぐさ”
といえばそうだけれども、それはしょうがないと思う。
 そうしないと“なまぐさ”は消えないんだから。
 油性のマジックインキは油でないと消えないから、“なまぐさ”は“なまぐさ”
でないと消えない。
 だから、セックスして、子供を産んで育児をするというのも“なまぐさ”
だけれども、それはやむ得ないよ。
 しかし、それを、ポテトは食わないけれども味の素だけ舐めるっていうんだったら、
もう、嗜癖化していると思うんだよね。
 そういうのは、やむを得ぬ事情もなくて、“なまぐさ”がたまるだけ。
 だから、お仕置きが必要だ」
「何をするの?」
「さぁ、今に分かるさ」
 しばしベンチで堕落していたら、すぐに時間は経過した。
「それではそろそろ出発しまーす」という英語の教師の声がした。
 時計を見るともう一時四十五分。
 よーし、いよいよだ。




#579/598 ●長編    *** コメント #578 ***
★タイトル (sab     )  21/10/31  08:55  (161)
「仏教高校の殺人」6    朝霧三郎
★内容

 生徒達はアリの様にぞろぞろと山道を歩いていた。
 オレの前後では、如来さまと三銃士、保健室の先生、オレと部活のメンバーが少し、
その後ろに樋上今日子とリエラ、という順番で来た道を引き返していた。
 浄心門まで戻ってくると左側の4号路に入り、高尾山の北斜面を下る。
 鬱蒼としたブナなどが左右から道を覆って筒状になっている。
 しばらくは丸太と盛り土の階段を下っていた。
 比較的幅広で手摺もあった。
 しかし、すぐに道は 上りの人とすれ違えない程の、かなり細い下り坂に変わった。
 右手からは樹木の根が迫っていて、老婆の手の静脈の様に見える。
 左側は切れ落ちている。
「これ落ちたら死ぬで」
 樹木の生い茂った崖下を見下しながら三銃士の一人が言った。
「こんなところ死体が上がらないぞ」
 後ろでは、樋上今日子とリエラがよろよろしている。
「スニーカーじゃあ危なかったかも」
「季節的に落ち葉があるから滑るのかも」
(ちょっとつついてやれば崖下に転落するかな)とオレは思う。
 時計を見ると、まだ一時五〇分。
 しかし、丸太の階段と下り坂が交互に続いた後、道幅は急に広くなってしまった。
 4号路と、いろはの森コースという別ルートの交差点の先には、丸太のベンチまで
設置してあって、休憩出来る様になっている。
(こんな幅広の道じゃあ、安全すぎる)
 と思う。
「休憩する?」
 と保健室の先生と如来さまが言い合っている。
 時計を見ると一時五三分。
 こんなところで休まれたら予定が狂う。
「行こう、行こう、一気に行った方が楽だから」
 オレは前のみんなを押し出す様に圧をかける。
 しかし、丸太の長い階段を下ると、急に道幅が狭まったかと思うと、
左手は切れ落ちの崖の斜面に出た。
 ここでもいいが、時計を見ると、まだ放送までには時間がある。
 少しして、左手の崖下はブナなどの木で見えなくなってしまったが、
しかし川のせせらぎがきこえてくる。
 あれは「行の沢」のせせらぎだ。
 樹木が生い茂っていて見えないのだが、崖下には「行の沢」が流れている筈。
 吊り橋も近い。
(ここだ)
 と思った。
 時計を見ると、一時五八分。
(あと二分か)
 オレは、歩調を弱めると、立ち止まり、そしてしゃがみこんで、
靴ひもを結ぶふりをした。
「早く行ってよ」
 後ろで樋上今日子が言った。
「お前ら、先に行けよ」
 と、樋上今日子とリエラを先にやる。
 紐を結びながら時計を見る。
 一時五九分五九秒、二時!
 吊り橋の向こうから、「♪you don't have to worry worry」、
『守ってあげたい』の木琴Verの防災放送が流れてきた。
 キター。
 オレはしゃがんだまま(どうなるか)と三白眼で前を行く女を睨んでいた。
 リエラがもじもじしだした。
 そしてすぐに、蛙の様に飛び跳ねだした。
 かと思うと、樋上今日子にしがみついた。
 二人共バランスを崩した。
(あのまま二人共落ちてしまえ!)
 しかし、リエラだけが崖から転落していった。
 ああぁぁぁぁぁー、と、悲鳴ごと吸い込まれていく。
 ボキボキボキと枝の折れる音。
 かすかに水の音が。
「リエラぁーーーー」
 と叫ぶ樋上今日子。
「どうしたぁー」
 と保健室の先生が振り返った。
「リエラが落ちました」
「えーーーー」
 とか言って、保健室の先生だの、如来さまと三銃士が崖下を見下ろす。
「リエラぁーーーー」
 と崖下に叫ぶ。
 しかし、沢のせせらぎが聞こえてくるだけだった。
「降りて行ってみよう」
 と三銃士。
「危ないからダメ。
 警察を呼びましょう」
 と保健室の先生。
 スマホを出すと110番通報した。
「…4号路の吊り橋の手前です。
 はい、そうです。
 はいはい。
 そうです…」
 他のメンツは、心配そうに崖下を覗いていた。
「一体何が」
 通報が終わった保健室の先生が言った。
「突然もじもじしだしたと思ったら、飛び跳ねて、そして、
私にも抱きついてきたんですけれども、一人で、一人で、崖下に…。
 私が突き飛ばしたんじゃありませんから」
 と樋上今日子。
「それはもちろんだけれども」

 たった15分で、赤いジャージに青ヘルの屈強そうな一五、六名の救助隊が
到着した。
 背中に黄色い文字で『高尾山岳救助隊』と刺繍されている。
「山岳救助隊、隊長の新井です」
 日焼けした馬面の中年が言った。
「どうされましたか」
「突然メンバーの一人が暴れだして、ここから沢に落下したんです」
 見ていたかの様に保健室の先生が。
 隊長は、しばし、崖下を見下ろす。
 すぐに背後の隊員のところへ戻ると、円陣を組んで、隊員達に言う。
「これより。
 滑落遭難者の救助を行う。
 それでは任務分担。
 メインロープ担当、山田隊員、
 メインの補助、今村隊員、
 バックアップロープ担当、江藤隊員、
 バックアップの補助、池田隊員、
 メインの降下要員、椎名隊員、
 補助要因、豊田隊員。
 以上任務分担終わり。
 準備が出来次第、降下を開始する」
「はーい」
 と隊員らは声を上げる。
 隊員らは、太い木を探して、ロープを巻き付ける。
 ロープに、カラビナや滑車などを取り付けると、降下用のロープを通す。
 それを降下する隊員のカラビナに縛り付ける。
 降下要員にメインとバックアップの2本のロープがつながれた。
「メインロープ、よーし」
「バックアップよーし」
「降下開始ーッ」
「緩めー、緩めー、緩めー」
 の掛け声で、降下要員が後ろ向きに、崖下に消えて行った。
「到ちゃーく」
 と茂みで見えない崖下から隊員の声がする。
 続いて、補助隊員も降下していった。
 既に垂らされたロープをつたって、するするすると崖下に消えていく。
「隊長ーー」
 崖下から声がした。
「要救助者、心肺停止の状態。
 これより、心臓マッサージと人工呼吸による心肺蘇生を行います」
 数分経過。
「隊長ーー。
 心肺蘇生を行いましたが、効果ありません。
 斜面急にて担架は使用不可能。
 よって背負って搬送したいと思います」
 しばしの静寂。
「隊長ーー。
 ただいま、要救助者、背負いました。
 引き上げて下さい」
「よーし。
 これより、降下要員引き上げを行う。
 メインロープを引っ張って」
「メインロープ、引っ張りました」
「ひけー、ひけー、ひけー」
 の掛け声で引っ張り上げて行く。
 すぐに降下要員が、崖下から姿を現した。
 背中にはぐったりとしたリエラを背負っていた。
 引き上げられたリエラは、担架に移されると、ベルトで固定されて
毛布をかけられる。
 4人の隊員が担架を持ち上げる。
「これより、要救助者、下山させる。
 いっせいのせい」
 で持ち上げた。
 先頭に4人、担架の4人、後ろに4人の体制で、それこそ天狗の様な速さで
下山していった。
 橋のたもとには、保健室の先生、如来さまと三銃士、取り残された樋上今日子、
あと山道には、しゃがみ込んだり突っ立ったりしている生徒達が残された。
 それを見ていたオレは心の中で(ミッションコンプリート)と思う。
『優波離の手記』終了。




#580/598 ●長編    *** コメント #579 ***
★タイトル (sab     )  21/10/31  08:56  (238)
「仏教高校の殺人」7    朝霧三郎
★内容

||||||||||
 事故のあった翌日の朝拝は、担任の英語の先生は寝込んでしまったので、
浄土宗系のお寺と教職でWで稼いでいる古典の教師が教室にきて、説教をした。
「釈迦が自分で語っているいるのですが。
 それは、城の中は乱れていて、酒を飲んでだらしなく寝ている人が居るし、
権力争いも絶えない。
 又、一歩外に出れば、病気で苦しむ老人、痩せた子供などが沢山いる。
 こんな貧富の差の中で釈迦がある弟子に語ったのは、この世で何があっても
そんな事は死んだ時にチャラになり、極楽浄土で修行が始まるんだよ、という事です。
 だから、リエラ君が厭離穢土だと言って苦しんでいたとしても、浄土に行けば
そんなのはちゃらになって、又みんなと一緒に修行するのだから、むやみやたらと
悲しむものでもない、という事です」
 と、『阿弥陀経』的な事を言う。
(それはおかしい)
 と海里は思った。
(釈迦国での貧困は行政の問題で、厭離穢土とは関係ないだろうが。
 だいたい釈迦は王子だったんだから、貧困を行政の面から救済出来たん
じゃないの?
 それを、裕福な自分も厭離穢土、貧しい衆生も厭離穢土として、
浄土でいちから始まると説くこのお経はなんなん。)
 と貧しい尼寺の海里は思ったが。
 とにかく、クラスメートの死に対してこの手の説教は退屈だった。

 催眠・瞑想研究会の部室で、亜蘭、剛田、3組の三羽烏、妃奈子、望花、
海里、郁恵、伊地家はうなだれていた。
 樋上今日子と犬山はいなかった。
 みんながぼーっとしているところで、いきなり、緊急地震速報に全員の
スマホが一斉に鳴ったので、びくんとする。
 犬山からの一斉メールだった。
 無線部でもある犬山は、校内のWi-Fiをすべて傍受していた。
>誰が書いたのかは分からないが、今回の事件の手記らしきものを
見付けたので送る。by inu
 全員で、その手記を読んだ。
「ふむふむ、ふむふむ、うー」
 と頷いたり、唸ったりしながら全員しばし読む。
「これが本当なら、事故じゃないぞ。
 事件だぞ」
 と剛田。
「この手記は条件づけの事がでれでれ書いてあるけれども、前に、
蓮美にチャリで条件づけする、とか言っていたわよねえ」
 と海里。
「だから小暮勇が怪しい」
「俺じゃないよ。
 だいたいリエラになんて興味ないし」
「リエラを嫌っていたのは誰よ」
「テキストにはすれっからしが嫌いと書いてある。
 だから三羽烏の誰かなんじゃあないの?」
「何でいっつも俺らを疑うの?」
 と城戸弘。
「つーか、実行犯のそばにこんなにいたのだから。
 焼肉屋でリエラの隣に座ったのは誰か。
 保健室にリエラと一緒に行ったのは誰か。
 保健室の先生に牛タン弁当と言ったのは誰か。
 靴ひもを結ぶふりをして、しゃがんだのは誰か。
 それを調べればいいじゃないか」
 と剛田。
「事件の時に一緒に歩いていたのは樋上さん、樋上さんは焼肉屋でも対面に
座っていたし。
 まず樋上さんに連絡をしたら?
 剛田君連絡してよ」
 と海里。
 剛田はスマホを出すと電話をかけた。
「もしもし、樋上?
 あ、樋上さんのお宅でしょうか。
 ちょっと樋上さんに伺いたい事が、…え、でも、感染?」
 しばらくもにゃもにゃ話していたが電話を切ると、
「コロナに感染して今はそれどころじゃないって、母親が」
「じゃあ、次は、保健室の先生は連絡とれないの?」
「わかんないなあ」
「犬山君達は? 彼達、焼肉屋でも山道で靴ひもを結ぶ時にも近くにいたんだから。
 剛田君、犬山君にも電話してみてよ」
 剛田が電話する。
「ふむ、ふむ、えーなに? 濃厚接触者?
 それで、あの時焼肉屋に…えー、分からない? 高尾山の事件の時は? えー」
 電話を切ると剛田が言った。
「犬山は、濃厚接触者だって。
 それでPCR検査は陰性だけれども自宅待機だって。
 あと、焼肉屋でリエラの隣に誰が座っていたかは、みんながとっかえひっかえ
座っていたから、分からないというんだよなあ。
 あと、高尾山の山道では催眠・瞑想研究会のみんなもいたんだから、
みんなも分かるだろうって」
「三銃士は?」
「三銃士も、PCR陰性でも自宅待機だって。
 ついでに、保健室の先生も濃厚接触者だって。
 しかも陽性」
「じゃあ何で俺らは濃厚接触者じゃないんだよ」
 と城戸弘。
「そりゃあ感染した人、樋上今日子が申告しなかったからだよ」
「如来さま、蓮美は?」
「蓮美は田舎に行っているってさ」
 と剛田。
「チャットとかで連絡とれないのかよ」
 と城戸弘。
「私、聞いてみる」
 と郁恵が言った。
「えーと。
>如来さま、実はリエラなんだけれども、何者かに何らかの方法で突き
落とされたんじゃないかという疑惑があるの
>山道でリエラが転落する前に誰かがくつひもを結んでリエラ達を先に行かせたの
だけれども、それを見ていなかった?
>あと、コンパの焼肉屋でリエラの隣に座っていたのは誰だか分かる?」
 と郁恵は音読しながらタイプした。
 すぐにメッセージが帰ってくる。
>高尾山では、催眠・瞑想研究会のみんなが一緒にいたじゃなーい
>焼肉屋ではみんなが入れ替わり立ち代わり座っていたから分からない
「うーん」
 と、一同黙ってしまう。
「証言は得られないのか」
「この昼食の箇所、こんな琵琶滝の滝行の話なんてしたっけ」
 と城戸弘。
「したよ。
 これだけ再現できるという事は、犯人はこの中にいるんじゃないか」
 と剛田。
 全員、顔を見合わせた。
「こんなかにいるのかよ。
 誰だ言え」
 と剛田。
「そういうお前かもな」
 と城戸。
 そして、鬱陶しい空気になりつつも、みんな黙っていた。
「つーか、こんな条件づけ可能なの?」
 と海里。
「ガルシア効果は可能なんじゃあ。
 食あたりで食わず嫌い王決定戦みたいになるものな」
 と亜蘭が言った。
「バイク事故もガルシア効果的で誘発させたんじゃないのか」
 と剛田。
「そりゃあ分からないけれども」
 と亜蘭。
「じゃあそれを膣液に応用する事は?」
 と妃奈子。
「それよりも前に、膣液だけで滑り落ちるわけない、別の罠を用意していると
言っているけれども、それってなんなん」
 と海里。
「……」
「てか、何で食べられない牛タン弁当を持参したのよ、この優波離は」
「わかんないなあ」
 と剛田。
「牛タン弁当が別の罠に関係あるんじゃないかしら。
 あの時牛タン弁当なんて食べていた人はいなかったけど」
 と海里。
「セレオ八王子で駅弁大会をやっていた」
 と剛田。
「詳しいじゃん」
 と城戸。
「その梵天というのが教えたんじゃないの? 条件づけを」
 と海里。
「そいつは条件づけを教えただけ? それともそいつが主犯?」
 と剛田。
「わからない……」
 しばらく沈黙した後、
「線香でもあげようか」
 と郁恵が言って、ロッカーのところに行くと、扉を開ける。
「曼荼羅の×が一個増えている」
 と郁恵。
 大日如来の左側のキューピーちゃんにも×がついていたのだ。
「一個増えたのはリエラの分だ」
 と海里。
「バイク事故の3人が上の3つの×。
 真ん中の大日如来のはXさん。
 そしてその左のがリエラの×か」
 と郁恵。
「バイク事故の3人も2中だよなぁ。
 リエラも2中。
 後2中は妃奈子もそうか」
 と剛田。
「そんな事言ったら海里や亜蘭も郁恵も。
 2中じゃない」
 だいたい一クラスに4人ぐらの割合で2中卒の生徒がいる。
 仏教高校とはいえ一クラスに3人もお寺の娘がいるのは珍しい。
 妃奈子、海里、郁恵と。
 しかし、日野の市立中学の生徒が八王子の高校に一クラス4名程度いるのは
普通だろう。
「なんで私らが狙われるのよ」
 と妃奈子が言った。
「お前ら2中時代に何か恨みをかうことでもしていたんじゃないの? いじめとか。
 それで2中の誰かが今頃復讐しているんじゃないの」
 と城戸弘が言った。
「危ないのは、亜蘭、海里、妃奈子、郁恵だよな。
 警察なり教師なりに保護を求めた方がいいんじゃないか」
 と剛田。
「なんて言って保護してもらうの?
 この胎蔵界曼荼羅を見せて? そんなもの信用してもらえる?
 それに、×印は5個ついているし。
 バイク事故の3人とリエラじゃあ4人だから数が合わないし。
 催眠・瞑想研究会の妄想と言われるだけだよ」
 と郁恵。
「じゃあ、座して死を待つのか」
 と剛田が言った。
 そういう会話には加わらず、妃奈子はカー雑誌をめくっていた。
「お前、何を読んでいるんだよ。
 そんなもの読んでいる場合じゃないだろう
 と、剛田がとがめる。
「いいじゃない。
 私、これ買うんだ」
 言うと、妃奈子は、雑誌を開いてアルファロメオの写真を見せた。
「免許とっていきなりアルファロメオかよ」
 と城戸弘。
「つーか危ないよ。
 バイク事故で3人も死んでいるのに」
 と郁恵。
「バイクじゃなくて車だから平気だよ。

||||||||||
 グループチャット『比丘尼の小部屋』
妃奈子:リエラに唱えます
オン アボキャ ベイロシャノウ
マカボダラ マニ ハンドマ
ジンバラ ハラバリタヤ ウン
郁恵:リエラは、厭離穢土による禁止があって、V系、タトゥー、
ピアスで平等院鳳凰堂という浄土に行く
妃奈子も、ヴィトンだエルメスだで飾って、聖地は東京ならやっぱり表参道や銀座?
だったら、妃奈子にも、コンプレックスがあるんじゃないの?
妃奈子:違うんだよ
リエラは代ゼミで身体を厭離穢土と思ってV系ファッション
私にも似た様な経験があった
入学そうそうのコンパでウィスキーなんて飲んで深夜の駅のホームでゲロった
その時に思った
こりゃあ、修学旅行のバスのゲロとは違う
ウィスキーのニオイもしたし、こりゃあ大人のゲロだ、と
その時、性も生も自分でコントロールできるんだなあと思った
まだ寒い春の夜のホームの水銀灯を見てそう思ったんだよ
海里:ゲロはゲロじゃん
妃奈子:違うんだよ
汗臭いのだって香水をつけると、いい香りになるみたいな
食うんだって、ガキの頃、給食なんて、カロリーだろう、栄養士の考えた
大人になれば、カロリーの為に食うんじゃない
食う事で自分をコントロールする、みたいな
オヤジのこのわたとかカラスミとか
別に栄養の為に食っているんじゃない
キャラメルマキアートだろうがスイーツだろうがそうでしょ
海里:それはリエラの味の素と似ている
妃奈子:そうじゃない
めいっぱい運動した後に、サーティワンでアイス食って
あくまで身体をコントロールしているんだよ
ブランド品を身に着けるのも同じ
分かるかなあ、この気持ち




#581/598 ●長編    *** コメント #580 ***
★タイトル (sab     )  21/10/31  08:57  (395)
「仏教高校の殺人」7    朝霧三郎
★内容

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 第2章
『大迦葉の手記』

 折角第一の施術者が記録を残したのなら、俺も自分の為にも記録を残しておくよ。
 もっとも、犬山でも分からない様な裏の裏のそのまた裏の掲示板に載せるけれども。

 事件が起こって、舌の根も乾かぬ内に、スノッブ、物欲の塊の妃奈子が、
免許を取るのにコンタクトを作るので、検眼に連れて行ってくれ、と言ってきた。
 だから、軽バンで日野市の眼科医に検眼に連れていってやった。
 妃奈子に「アッシー君になってもいいけれども誰にも言うな」と約束させて。
 大きいクリニックで、待合室もお洒落で、床なんてオーク材で出来ているような
空間、カリモクで買ってきたみたいなソファ、ところどころに観葉植物があったり、
ピカソの鳩がかけてあったり、アンティークのガラスキャビネットの中におもちゃの
兵隊が並べてあったり。
 待合室からガラス越しに大きな検査室でやっている検眼の様子が見えた。
 眼圧のテストをするのに、ふっと眼球の空気を吹きかけられて、苦手らしく、
妃奈子はいちいち頭を反らしていた。
 全くお洒落な空間で、有線のかわりに、J−WAVEなんてかかっていた。
♪エーリィワンぽいんスリー、ジェーウェーブ
 全く、事件の舌の根も乾かぬ内に、こんなお洒落なクリニックで、検眼して、
コンタクトを買って、車も買うというのが、スノッブというか、J−WAVE的で。
 J−WAVEってスノッブな感じがしないか。
 滝クリとか別所哲也とか。
 俺はあきれた感じで、妃奈子から目をそらして、あたりを見回した。
 カリモクのソファの間のマガジンラックにさしてある『MONOマガジン』や
『カーグラフィック』や、あと『JJ』が目に付く。
 あの『JJ』は医者の娘が見ているのか。
 このクリニックの医者は、ヨーロッパ車に乗って、『MONOマガジン』に
載っている時計をして、つまりスノッブなのだ。
 あのマガジンラックを見ただけで、びりびりびりーっと心にヒビが入る。
 この感覚なんだろう。
 そういう感覚はいくらでも言える。
 例えば、六本木の防衛省の反対側の店、ヴェルファーレ跡地の雑居ビルの
箱から出てきて、路地裏を歩いていると、チラッチラッっと六本木ヒルズが
雑居ビルの谷間から見える。
 あんなところから衆生の楽しみを見下ろしている金持ちがいる。
 ZOZOの社長とかユーセンの社長とかアメブロの社長とか。
 そう思った六本木午前2時、心にびりびりびりーっとヒビが入る。
 そんなこといったら、ヴェルファーレの社長はグッドウィルの社長だし、
avexだって金まみれ欲まみれで、そういうのを考えている内に発狂しそうになる。
 そういう感覚はいくらでも言える。
 六本木のマックの2階から芋洗坂の方を見下ろしながらチーズバーガーを
食っていたら、下の方からベンツBMベンツBMの車列が。
 箱乗りみたいにして虎マークの旗を出しているので、
「今日は巨人阪神戦でもあったのかな」
 と言ったら。
「あれは『陸の王者』だよ」
 と妃奈子が言った。
「陸の王者。
 何それ」
「慶応だよ、慶応、慶応未熟大学。
 あんないい車乗っているんじゃあ医学部なんじゃない。
 早慶戦でもあったんじゃない、神宮で」
 それを聞いて、俺の心にはびりびりーっとヒビが入る。
 妃奈子は平気でチーズバーガー(200円)を食っている。
「何でお前は平気なんだよ。
 何で不公平だと思わないんだよ。
 俺らと2つ3つしか違わない奴らがベンツやBMに乗っているっていうのに」
「関係ないじゃん、関係ねいでしょ」
「何で関係ないんだよ」
「気になるんだった勉強して慶応に行けばいいじゃん」
「行ったって軽バンじゃあ相手にされない」
 何で普通の人は平気なのか。
 何でみんなはいらつかないのか。
 普通の人はそうならない?
 普通の人は、そういうのを見ても、自分は額に汗して働いて、100ローや
業務スーパーで買い物をする様な生活をしてもなんとも思わないのだろうか。
 なんとも思わないんだよ。
 サラリーマンになってもう自分の仕事の事以外は考えないとか、一家の
お父さんになって自分の家族の事以外は考えないとか、そうなるともうなんとも
思わない。
 脳のニューロンの中に貧乏労働者のイオンがツーっと通っているので他の事は
気にならない。
 しかし、それが突然気になりだすのが、リエラ、それはリエラが代ゼミに行った
時みたいに、経験の非連続が発生して、脳の状態が変わって、イオンが止まって、
そのかわり脳のあちこちに、記憶エリアから何かがにじみ出してきて。
 それがリエラの場合には、厭離穢土という身体の醜さ、吹き出物、便秘の気配、
脂肪、であって、その醜さが、猛烈に求める仮想のイオンの流れがきっと、
平等院鳳凰堂みたいな浄土なんだろう。
 それと同じで、滝クリとか別所哲也とかスノッブに脳のイオンの流れを
止められると、脳のあちこちに、六本木芋洗坂、早慶戦、神宮外苑、
六本木ヒルズ、などが浮かんできて、それらが猛烈に求めている浄土は、
伊勢神宮だの天皇家だのかなあ。
 それは俺も猛烈に憧れるのだが、しかし、そにこには滝クリ的や別所哲也がいて、
俺が軽バンで行っても中には入れない。
 だったら、平安時代には、片方にスノッブな源氏物語があっても片方には
空海の立体曼荼羅があったんだから、現代だって、J−WAVEじゃなくても、
仏像やお経や曼荼羅やお香から、平等院鳳凰堂を思って満足する事は
出来ないのだろうか。
 滝クリ的や別所哲也や包茎未熟大学の医学部のやつらが絵画館、銀杏並木、
神宮外苑や伊勢丹メンズ館や表参道から、伊勢神宮や天皇家に至るなら、
こっちだって、立体曼荼羅や、弥勒菩薩半跏思惟像、阿弥陀三尊像や、
ファッションだって小倉百人一首の坊さんみたいな恰好で音楽だって密教の
お経があるし、香水だって塗香があるのだから、その先に、平等院鳳凰堂とか
法隆寺とか、三十三間堂があれば、それで満足できないのだろうか。
 それに魅力を感じないではないが、あのひりつくような感じにはならないな。
 ちょうど今なら黄色く色づく神宮外苑の銀杏並木を歩く、スノッブの美しい
男女にひりつくような。
 何故仏教では萌えないんだろう。
 寺院には禁止がないから、ひりつかない、のか。
 禁止があるからこそ、そこにはお前なんて入れてやらないよ、と言われる
可能性があるからこそ萌えるんだ。
 そこいらのクラブだったら40歳以上ダメとかドレスコードがあってダサい
ファッションのやつは入れないとかあるけれども、ブスだからダメ、
デブだからダメ、身体が醜いからダメ、吹き出物、便秘、脂肪、ダメ、
という禁止がないと萌えないんじゃないか。
 しかし、お寺には禁止がない。
 なんたって死者だって入っていいぐらいだから。
 神社の鳥居は生理でもくぐれない。
 そういうところだ。
 だからJ−WAVEでも神宮外苑でも表参道でも萌えるんじゃないのか…。
「何、考え込んでんだよ」
 と肩に手を置かれて、はっとして顔を上げる。
 太陽でも見るみたいにまぶしそうな目つきで妃奈子が見ていた。
 これだ、この目付き。
 日本史の教師など、『雁の寺』の若尾文子に雰囲気が似ているというが。
 エロいけれども人懐こい、だから勘違いしてみんな近寄る。
 女郎蜘蛛。
「ちょっと会計を済ませてくるから」
 と言うと、妃奈子は会計にいって、でっかい財布を取りだした。
 出てくると、妃奈子は、
「全くコンタクトを作るのに処方箋がいるなんて。
 それに検眼したのコンタクト屋の店員じゃない。
 あのクリニックと眼鏡屋はつるんでいるんじゃない」
 などとぶつくさ言っていた。
 出てくると、俺の軽バンの中で、『LaLaBegin』なるファッション雑誌を
読みだす。
「おい、俺は運転手じゃないんだぞ、俺とトークしろよ」
「じゃあ話してあげる。
 この靴いいと思わない?」
 言って広げた雑誌を見せてくる。
「これ買ったんだ。
 立川の伊勢丹で」
「それ、いくらするんだよ」
「10万だよ。
 フェラガモのローファー」
「それ学校に履いてくるつもり?」
「制服に合うでしょう? リーガルとは違うんだから」
 軽バンの中でも、チープなスピーカーの乾いた音質でJ−WAVEがなっていた。
 ジェジェジェ、J−WAVE、とジングルが鳴る。
「わー、目のところがこちょばゆくなってくるわ」
 と妃奈子。
「ふっと機械で空気をかけられたのを思い出す」
 それから軽バンは、妃奈子の家のお寺に向かったのだが、これは甲州街道日野坂の
下から細くて急な坂を日野大阪上まで上って行くのだった。
 ところが、何を思ったが妃奈子が、こっちにもたれかかって、ふっとこっちに息を
かけてきた。
「さっき検眼の時にこうやって目に空気をかけられたのよ」
 とか言って。
 その瞬間ハンドルを切り損ねて、あやうく崖っぷちから転落しそうになった。
「危ねーじゃねーか」
 と怒鳴る
「そんなに怒鳴らないでよ」
 言うと、まぶしそうな目をして口をとんがらせた。
「だってお前、あそこから落ちたら、命がないぞ」
「ちょっとふざけただけだよ」
「それにしても、あの崖は危ないな。
 ガードレールも劣化しているし」
 と俺はルームミラーで見て冷や汗が出た。
 細い上り坂の中腹に路肩と腐りかけのガードレールがある、20メートルぐらいの
崖っぷちになっている。
 あんなところから落っこちたら『テルマ&ルイーズ』のラストシーンだ。

 翌日学校に行って、ちょっと8組に遊びに行ったんだが、俺は貧乏人の悲しさを
見たねえ。
 妃奈子はいなくて、腰巾着の望花がいた。
 机のところに行ってみると上履きのサンダルを履いた横にフェラガモのローファーが
おいてあった。
「なんでそんなものそこに置いてあるの? 下駄箱に入れないで」
「盗まれるから。
 買ったばかりだし」
 いうと、蒙古襞の厚い一重でじろりと睨まれた。
 アトピーっぽいりんごほっぺ。
「へー、それって、妃奈子とお揃いだろう」
「これ、コピー商品なんだ、本物は高くて買えないから。
 妃奈子のもっているのは、本物だけれども」
「コピー商品はいくらすんだよ」
「3万ぐらい」
「10万出せば買えるんだったら買っちゃえばよかったのに」
「踵が減るし。
 それにお金はあっても、本物を専門店で買うなんて出来ないよ。
 ああいう店で商品に触れると自分の手油が付いちゃって悪いから出来ない。
 コピー商品なら手油がついてもいいし。
 それに、専門店なんて。
 店自体が綺麗すぎて。
 居ずらいのよ」
 丸で望花って、リエラの厭離穢土みたいな感じをもっているんだな。
 リエラが平等院鳳凰堂を目指したみたいに、望花の浄土って銀座のフェラガモ
だったりするんだろうなぁ。
 でも、自分の手の油がつくから触れられない。
 丸で厭離穢土。
「でも、妃奈子はそういうの平気で消費していて、そんなの見てどう思うんだよ」
「妃奈子のお寺はお金持ちでうちとは違うから…」
 と蒙古襞の目で又睨む。
“なまぐさ”はたまっていると思う。
 たとえ妃奈子が、全く無邪気に、フェラガモだのを消費しようとも、衆生の望花が
嫉妬をしているので、そこで“なまぐさ”がたまる。
「ドンキホーテに行けばいいんだよ。
 ドンキホーテでもブランド品を扱っているだろう」
 と俺は前の机に腰掛けて言った。
「銀座のフェラガモのありがたみってどこから来ているか分かる?」
「さあ」
「禁止があるからだよ」
「禁止?」
「例えば、リエラで言えば、普通につーっと生活していて、つーっと脳内の
ニューロンにイオンが流れていたのに、代ゼミなんて言ったものだから、
イオンが突然止まって、脳内に色々なイメージがわく、厭離穢土、便秘の気配、
吹き出物の気配、脂肪の感じ、みたいな身体的なものが。
 そうすると遠くに平等院鳳凰堂が出てくる。
 でもそれには触れられない。
 自分は厭離穢土という禁止があるから。
 つーか禁止があるからこそ平等院鳳凰堂が輝いて見えるんだよ。
 その禁止こそが神の意味なんだが
「…」
「それと同じで、銀座のフェラガモも、望花の手油がつくからというのが禁止に
なっていて、その禁止こそが魅力になっている。
 そして輝いて見える」
「へぇえ」
 と蒙古襞の厚い目で見る。
「でも、ドンキホーテには、その禁止がない。
 神がいない。
 だから商品に手油をつけても平気」
「ドンキだったら平気そうだよねぇ。
 ヤンキーがいっぱい来ているし。
 店員もDQNだから」
「だろう。
 でなければ、仏教の修行をするしかないな。
 仏教だったら気だの縁だので、手の油も、銀座の専門店もドンキもなくて、
みんな解けて気になるから」
「ふーん」
 そこに、妃奈子が、戻ってきた。
 今度はファッション雑誌じゃなくて、『カーグラフィック』を小脇に抱えている。
 こっちにくると、ばさーっと広げる。
「こんど、これを買ってもらう」
 アルファロメオ ジュリエッタ 399万円〜
「なんだ、こんなコアラの鼻みたいなフロントグリル」
「可愛いじゃない」
「まだ仮免許をとったばかりなのに」
「世田谷にディーラーがあるんだけれども、君の軽バンで乗っけてってよ」
「親と行けよ」
「親は法事で忙しいんだよぉ」
「お前よお、そんなに次から次に欲しいものかって、“なまぐさ”が過ぎるんじゃ
ないの?」
「なんでいいじゃない、フェラガモとかアルファロメオとか、そういうの集めると、
丸で、立体曼荼羅みたいで、“なまぐさ”じゃないじゃない」
 俺は望花の方を見やった。
 相変わらず腫れぼったい目でこっちを見ている。
 こいつが“なまぐさ”をためてくれるよなー。

 翌日、誰にも言わないという約束で、妃奈子と腰巾着の望花を、乗っけて世田谷
に行った。
 軽バンで府中街道を、ひたすら聖蹟〜稲田堤〜登戸と、二子玉川方向に走る。
「お尻が痛い」
 だのの文句を言われつつ。
「おめーらのケツが重いんじゃないの」
 二子玉の橋を渡って環八に入ると、カーナビにディラーがちかちかと表示された。
 YanaseBM、フォルクスワーゲン、メルセデスベンツ世田谷、フィアット。
 世田谷通りに入ると、アルファロメオはすぐにあった。
 壁面から突出したAlfa Romeoのロゴ。
 十字と蛇のエンブレムはファラオの王冠を連想させる。
 中に入ると、御影石や大理石の床に、3台も赤や白のアルファロメオが置いて
あった。
 一番目につくガラス張りの道路側にジュリエッタはあった。
「あれだ、あれ、あれでいいと思ってんだ」
 と妃奈子。
「どうもいらっしゃいませ」
 と高校生に揉み手をしながらにこーっと笑みを浮かべて迫ってくる店員に、
「あの中を見てみたい」
 と妃奈子は言う。
 ドアを開けさせて平気で乗り込んで行くと、あそこちさわる妃奈子。
 車に近寄ってみると、ボンネットに通りの街路樹がうつっている。
「ピカピカだなあ」
 と望花に言った。
「お前も助手席に乗ってみれば?」
「いいよ、手の油がつくから」
 と望花。
 厭離穢土的なんだなあ。
 そんなにビビるほどの車じゃないよ。
 こんなのあのファラオのエンブレムがなければ、マツダの5ドアと変わらない
「じゃあ俺が乗ってみる」
 と、助手席に乗ると、ぷ〜んと、総革張りのレザーのにおいが鼻を衝く。
「なんじゃ、こりゃ、おい、妃奈子、こんなの、“なまぐさ”の極みじゃないか。
 こんなのポールマッカートニーやステラマッカートニーだったら卒倒するぞ。
 こんなのお寺にもっていって檀家になんか言われないのかよ。
 お前のお父さんの袈裟だって絹は使っていないんだぞ、蚕が死ぬからって。
 こんなレザーのにおいがする車をお寺に持って行く気か」
「平気だよ。
 檀家の前では乗らないから」
「かーっ」
 と俺は頭を振った。
 望花はその“なまぐさ”レザーに手の油がつくというので、外でポツンと
立っていた。
 乗って手油をつけてもいいんじゃないの? こんな“なまぐさ”レザー。
 そう思ったが。
 俺は助手席から片足を出すと望花に言った。
「このシートに手油がつくというんだったら、お前は、オートバックスに行けば
いいんだよ」
「えぇ?」
「いいか、あのピカピカのボンネットやこのつやつやのレザーのシートにありがたみ
があるんじゃない。
 お前が、手油をつけちゃうかも知れないという、汚しちゃうかも知れないという
禁止が、このアルファロメオを近寄りがたいものにしているんだよ。
 ところがオートバックスにはそういう禁止がない、神がいない。
 だから気楽だよ。
 タイヤやカーステがばらばらにおいてあって。
 あのゴムの匂いと芳香剤の匂いがいいんだよなあ」
「だって、オートバックスには車は売っていないじゃない」
「車だったら町田のケーユー本店に行けばいいよ。
 5階建ての立体駐車場でふきっ晒しだし、なんの禁止もないよ。
 セコハンだから既に人の手油はついているけどな」
「ふーん」
 と不満そうにかすかに、アトピーのりんごほっぺを膨らました
 俺は、“なまぐさ”がたまっていると思ったんだが。

 その日の晩、俺は家から、裏snsで梵天とチャットした。
大迦葉:いる?
梵天:いるよ
大迦葉:やっぱ、あの女はやるっきゃないよ
梵天:ふむ
大迦葉:高校生の分際でアルファロメオに乗って、フェラガモの靴で
アクセル踏んで、カーラジオからはジェジェジェJ−WAVE、みたいな感じでさ
本人は、あっけらかんとしているが、それを見て嫉妬を燃やす腰巾着がいるからなぁ、
結局“なまぐさ”はたまる
梵天:JJJ、J−WAVEというジングルを聞いた瞬間にフェラガモでアクセルを
思いっきり踏む、とかいう条件づけを何気思い付いたが、無理だな
大迦葉:いや、まって
そういえば、コンタクトを作るんで検眼に行ったのだが、
その時に、眼圧を計るのに空気を目に吹き付けられて、
その時ちょうどJ−WAVEのジングルが流れていたんだが、
後でジングルを聞くと、目がこちょばゆくなるとか言っていたなあ
梵天:だったら、ジングル→まばたき、という条件反射が思い付くがね
サルを椅子に座らせて、スピーカーから音を出すと同時に、エアノズルから目に
空気刺激をあたえて瞬きさせると、やがて音だけで瞬きをする様になる、
という実験があるんだが
同じ方法で、J−WAVEのジングル→瞬きという条件づけが思い付くのだが
しかし、どうやって目に空気刺激を与えるかだよな
何回も眼圧の検査をさせるなんて出来ないから
大迦葉:それには俺にアイディアがあるから
梵天:ほお、そうかい
大迦葉:詳細は割愛するがね
梵天:まあ、想像はつくが
ただ君のアイディアで、条件づけをするとしても、変性意識状態の時にやならないと、
なかなかうまくいかない
ドラッグでらりっている時とか
大迦葉:それにもアイディアがある
実は妃奈子の元彼が城戸弘なんだか、そいつの情報によると妃奈子はアナルで
やらせるというんだよね
アナルで行くというのは、野郎の場合だと、ドライオーガスムとか
メスイキなんていう感じだと思うのだが、そういうのは、トランスだって
いうんだよね、変態の城戸弘が
ペニスでぴゅぴゅぴゅっと射精するのは、顕在意識だけれども、
勃起しないままドライオーガスムでところてん(アナルから前立腺の奥にある
精嚢を刺激して、たら〜んと精液があふれてくる)は潜在意識だというんだよ
野郎でもそうなんだから女でもアナルを刺激すればトランス状態、
つまり変性意識状態になるって
そこで、J−WAVEをかけながら目に空気を吹きかければ、
J−WAVEを聞いただけで瞬きするという条件づけは出来ないかな
梵天:そんな複雑な事、出来る?
大迦葉:まあ、やるさ
梵天:J−WAVE→瞬き、という条件づけが出来たとして、
そこから先はどうするの?
大迦葉:それにもアイディアがあるよ
でも今は言わない
仕上げは見てを御覧じろ

 翌日8組のテラスに行くと、妃奈子が、ディーラーからもらってきた
パンフレットを広げて望花と見ていた。
 望花は本物の車のみならず、パンフレットにさえも指をくわえている。
 俺は近寄ると、妃奈子のブレザーの肩のところをひっぱって、引き寄せる。
「ちょっとこっちこいや」
 そして俺はテラスのすみで説教した。
「いいかお前、衆生たるもの一度は、自分なんて白粉でまぶした糞だ、
と思って、滅私しなくちゃならない」
「はぁ?」
「リエラだって、自分が白粉をまぶした糞に過ぎない事に気が付いて、
即身仏的に拒食症になったじゃないか。
 なのにお前は、自分の厭離穢土に気が付かないで、着飾ったり、
フェラガモを買ったりアルファロメオを買ったりする」
「いいじゃない、別に。
 平安時代の貴族みたいに、一日一回座禅か何かで瞬間的に解脱して、
あとは好きかってにやっていれば。
 自力本願で」
「お前はそれでよくても、望花が嫉妬して“なまぐさ”が発生している。
だから、お前が解脱しないといけない」
「なんで私が解脱するのよ。
解脱するのは望花の方じゃない」
「そうじゃない。
 お前が原因を作っているんだから。
 これは縁だよ。
 縁の上位の方が解脱しなければ」
「どうやって」
「ここじゃあ言えない。
 体育館倉庫に来て」




#582/598 ●長編    *** コメント #581 ***
★タイトル (sab     )  21/10/31  08:58  (369)
「仏教高校の殺人」8    朝霧三郎
★内容

 放課後になって、妃奈子はのこのこと、体育館倉庫に現れた。
 よく来たな、と思ったが、あれだけアッシー君をやってやったのだから
当たり前か。
 俺は、半地下になった体育館倉庫に入って行くと、マットの上を指さして、
「さあ、そこに腰を下ろして」
「やだ、こんなところ、スカートが汚れるじゃん」
「そう思って、俺がシートを用意してきたよ」
 ダイソーのレジ袋からブルーシートを出すと、バサーっと広げてやった。
「さあ、座れ」
 そして俺も座ると瞳を覗き込んだ。
 なんでこんなに薄暗いところで、まぶしそうな目をしているの?
 全く厭離穢土を知らない顔だ。
 リエラや望花とは真逆。
「お前も解脱しなければならないが、その為には滅私しなければならない」
「えぇ?」
「リエラみたいに、拒食症になって、即身仏的に滅私するのは分かりやすいが、
お前みたいに、平安仏教みたいに、やりたい放題したまま瞬間的に解脱するには
まず滅私…」
「何で滅私するのよ」
「それは…滅私しないと解脱出来ないだろう」
 こっちの企みは、滅私、つまり自己の無い状態、つまり変性意識状態にして、
無意識に働きかけて、その瞬間に条件反射を入れてやろう、というものなのだが。
「それは、自分っていうのは“なまぐさ”みたいなものだろう。
 それを捨てて自分の胸にある仏性と宇宙のオウムを一致させるのが解脱なんだから、
自分の“なまぐさ”は捨てないと。
 だから、まず第一段階として、自分を捨てないと。
 では、自分を捨てるにはどうするか」
 俺は妃奈子のまぶしそうな目を見詰めた
「ちょっと変な話しだけれども、セックスのときに、マッチョな自分がいて、
勃起したちんぽがあって、相手の女もそれを求めているというんじゃあ、
そんなノンケのセックスでは、明らかに自分があるので、滅私出来ないんだよない。
 逆に、LGBTの人なんて、自分が醜いと感じてインポになるのか、
とにかく萎えているんだよ。
 だから相手の女に美しい男性のペニスを受け入れるコーマンがあったら
ダメなんだよ。
 コーマンはない、そういう状態で結ばれるとしたらどこに入れるか、
…アナルに入れる。
 だから、アナルに入れるようなセックスをする時には滅私しているんだよ。
 ゲイは、自分が彼で、彼が自分でとかいうでしょう、彼のペニスが自分の
ペニスだ、とか。
 あれは、主体を失っているんだね。
 まあ、城戸から聞いた話だけれども。
 だから、アナルでやる時には主体がなくて滅私している。
 これは、オスのゲイの場合だけれども、女がアナルでやる時もそうなんだよ。
 その時コーマンは空っぽで、女としての主体は意識されていないんだから。
 だから、アナル周辺をマッサージすれば…、そうすれば、滅私出来る」
 と、ブレザーの上から、肩から二の腕あたりに触れながら語った。
「アナル」とか話しても特に拒否反応を示さない。
 やっぱり城戸弘の情報は正しかったのか。
「お前、アナル、平気?」
「えぇ?」
 俺は腕から手を滑らせて、手を握った。
 かすかに握り返してくる。
 OKサインだろうか。
「こんな倉庫はムードがないな」
 とスマホを出した。
「音楽でも聴く? ラジオでもかけるか、いや、俺、J−WAVEのジングルが
好きなんだ、それだけコピペした録音があるから、それ聞こうよ」
 ブルーシートの上にスマホを置いてスイッチを押すと再生されだした。
「エーリィワンぽいんスリー、ジェーウェーブ
ジェジェジェ、J−WAVE
ジェイ ウェーブ ジャム・ザ・ワールド on81.3
JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE」
「さてそれじゃあ解脱を開始するか」
 と、俺は、妃奈子をマットレスに押し倒す。
 妃奈子はなんら反抗しないで、横を向いていた。
 ブレザーの前をはだけて、ブラウスを脱がせると、ブラが出てくる。
 フロントホックのブラを寄せて外すと、ぶるぅ〜んといって白い乳房、
色素沈着していない乳首が露出したが、おっぱい星人ではなくケツフェチの
俺にはなんとも思わない。
 スカートのホックとファスナーを下ろして、スカートを下ろそうとすると
ケツを浮かせて協力してきた。
 そして、パンツをぺろりん。
 見たくもない陰毛が現れる。
 しかし、両膝の裏を手で押してまんぐり返しの状態にすると、なんとも綺麗な、
杏仁豆腐かババロアの様な白い尻に、かすかにピンクのアナルがあって、
綺麗にシワがよった肛門があった。
「ちょっと自分でおさえてて」
 と妃奈子にもたせる。
 俺は両ケツのほっぺを掴むとひろげた。
 綺麗なアナルの皺がのびる。
 とれから閉じては又開き、閉じては又開き、と肛門を開閉する。
 指を入れる寸前まで肛門に近づける、と又広げた
「どう感じる」
「う、うん」
 だんだん肛門を開け閉めしているうちに、ねとねとと粘度が出てきた感じもする。
 何か分泌しているんじゃないだろうなあ。
 しかしそれは生々しくも感じる。
 頭上からはJJJJ−WAVEのジングル。
「JJJ、J−WAVE
 JJJ、J−WAVE
 J−WAVE トラフィックインフォーメーション
 J−WAVE ウェザーインフォーメーション ブロートゥーユー バイ
 JJJ、J−WAVE
 JJJ、J−WAVE」
 突然俺は、がバーッと覆いかぶさると、妃奈子の頭の横に肘をついた。
 後頭部に手を回して顔を引き寄せると
「こっちを見て」
 と言った。
 ぎょっとしてこっちを見る妃奈子。
 俺は、妃奈子の目に舌先を伸ばす
「ちょちょちょ、なにぃぉ、する気」
「キッスは目にして!」という昭和の流行歌が脳内再生される。
 それから俺は眼球に舌先を入れる。
「ひぃー」
 と顔をそらす妃奈子。
「なにするのぉー、もしかして、結膜炎を蔓延させたのはあなた?」
「違うよ」
「じゃあ、なんで」
「そりゃあ、俺だけを見ていてほしいから。
 メーテルが他の野郎とやったらダメだろう。
 だから、メーテルにはコーマンはないし、だからアナルでやって、そして、
俺だけを見ていて」
 と舌を目に入れようとする。
 頭上でJ−WAVEのジングルが鳴っていた。
「JJJ、J−WAVE
 JJJ、J−WAVE
 エイティーワン、ポイントスリ〜〜〜〜、ジェ〜〜〜イ、ウェ〜〜〜ブ
 ジェイ、ウェーブ グルーヴライン」
「そんな事したら、集中出来ない、解脱も出来ない」
 又顔をそらす。
「それでもリラックスしてこそ、本当の解脱で、さあ、目は気にしないで肛門に
意識を集中して」
「無理ぃ」
「さあいいから」
 瞼をやっとこ開いたところで目に舌を入れる。
「さあ、リラックスして、肛門に集中して」
 と右手でお尻のほっぺをひらいた。
「JJJ、J−WAVE
 JJJ、J−WAVE
 おはようございます。Good morning. It's five o'clock, from 
the J-WAVE Singin' Clock」
 それから5分、いや7分か、目をなめつつ、片手で尻のほっぺを開閉していた。
 スマホからはJJJ、J−WAVEのジングルが流れ続けていた。

 行為の後、妃奈子は腰を浮かしてパンティーを上げたりスカートを履いたり、
ブラウスのボタンをはめたりしていた。
 衣服を直し終わると、ふぅーとため息。
「どう、行った」
「うーん。
 マッサージだけじゃあ。
 それに目の方に気をとられていたし」
「それでもちっとは」
「うーん」
「何%ぐらい?」
「そうだなあ」
 と親指と人差し指を大きく広げてから縮めて
「このぐらいかな」
 と10%ぐらいの幅にした。
「10%かぁ」
 既に再生は終わっていた、スマホを握ると、ディスプレイを操作して、
もう一回再生させる。
「エーリィワンぽいんスリー、ジェーウェーブ
ジェジェジェ、J−WAVE
ジェイ ウェーブ ジャム・ザ・ワールド on81.3
JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE」
 妃奈子の耳元に近づけた。
「お前、今、コンタクトしている?」
「してるよ」
「ふーん」
 そして瞳を見つめた。
 向こうはじーっとこっちを見ていた。
「なに」
「コンタクト、ズレたりしない?」
「別に」と妃奈子は言った。
「つーか、目が痛くなっちゃったよ。
 あんなに舐めるから、それとも、こんなアンモニア臭いからかなあ」
 と倉庫の低い天井を見渡す。
「ここ、アンモニアくさくない?」
「え」
 というと俺はあたりを見回した。
 体育館の北にはプールがあって倉庫との間に更衣室とトイレがある。
「トイレの配管がどっかにあって、そこからアンモニアが漏れているのかなあ」
「いやぁねえ。
 つーか、君の瞳も充血している感じだよ」
「え。
 マジ?」
 と俺は目をこする

 家に帰ると、さっそく裏snsにアクセスして梵天に報告した。
大迦葉:条件づけをした積りだったが、全然反応しなかったよ
梵天:君、何をやったの?
大迦葉:片手でアナルをマッサージしつつ目にキスをしたよ
キッスは目にして!
梵天:多分君はこんな事を思ってやっていたんだろう
母やメーテルの愛は完璧なもの
何時でもおっぱいをくれる完璧な愛
だからメーテルには性器が無い
だって性器があれば他の男とやっちゃうから
他の野郎とやっている間は、おっぱいをくれなくなる
だから、何時でもこっちを見ていて、キッスは目にして!
大迦葉:図星だ
梵天:だけれども、食べたり食べなかったり、おっぱいをくれたり
くれなかったりする、というのは、有機体的で、浄土教的な感じがする
霊験あらたかな密教では、人が完璧を求めるのは、母の完璧な愛がほしいから、
ではなくて、完璧な宇宙の真理と無機的つながりたいから、なんだよ
何故なら、人間も微小なレベルでは元素であり宇宙も元素だから、
つながりたいんだね
そしてつながる時には、ツーっと気が通電する感じだ
通電的、無機的、電気的
そして、通電する箇所は、それは、どこかというとチャクラ
本当にトランスして宇宙のオウムと合一するとしたら、肛門じゃなくて、
チャクラ、腺を刺激しないと
大迦葉:ふむふむ
梵天:チャクラは上から
第六、第七は脳
第五チャクラはのどの腺
第四チャクラは胸腺、乳腺
第三チャクラは肝臓
第二チャクラは膵臓
第一チャクラは、尾骨とか言われるが、実は、前立腺
宇宙のブラフマンと人間のアートマンに気のやりとりの、人間側の受容体が、
この前立腺のチャクラだから、そこを刺激しないと、宇宙には通じない
女には前立腺はないが、いわゆるGスポットが前立腺相同だから、肛門側から
Gスポットのあたりを刺激してやれば、第一チャクラを刺激出来るかも知れない
そうすれば、宇宙との交信状態になって、その時にはトランス状態になる
可能性がある
そのいう状態は、変性意識状態だから条件づけがしやすい
大迦葉:よっしゃー!

 翌日も放課後、体育館倉庫に行くと、ビニールシートを敷いたマットの上に
座って俺は語った。
つーか説教。
「前に、望花が言っていたが。
 妃奈子なんて、推薦で仏教系の大学に行くんだろう。
 望花は、高卒で就職して家に金を入れなくちゃしょうがない。
 それで、面接に行ったんだって、立川の方のオフィス街に。
 帰りに、立川の高島屋でコート、秋物のコートを眺めていたんだって。
『来年、就職して賞与が出たら、こういうのを買えるだろうか』と値札を見て、
いち、じゅう、ひゃく、せん、まん、三〇万円の値札に目を剥いていたら、
DQNな店員が出てきて、
『手がでないっしょ。
 貧乏人には。
 それ、ユニクロ?』
 と望花の着ているコートを指さしたんだって。
 バカにしやがって。
 ショップの店員の癖に。
 それでもう疲れちゃって、デパ地下であんみつでも買って帰ろうか、
とエスカレーターで下ってあんみつ買ってふらふら歩いていたら迷ってしまって、
気が付いたら、地下駐車場に出たんだって。
 そうしたら、車寄せで、ドアマンのユニフォームを着た警備員が車を誘導していて、
ベンチに妃奈子、お前とお前の母親が腰掛けて車を待っていたというんだよねえ。
 そうしたら7シリーズクラスのBMがすーっと入ってきて、停車すると、
ドアマンが、トランクに、靴の箱だの帽子の箱だのを4個も5個も積んでいたと。
 それを見て、自分の買った榮太郎のあんみつ1ケ500円がとっても惨めな
気がして、涙が滲み出てきたというんだよねえ。
 これが最大の贅沢で、普段はいなげやのイカフライと薄い味噌汁とご飯、
ぐらいの食生活。
 それだけ、お前もお前の両親も7シリーズのBMも“なまぐさ”の原因に
なっているっつーの。
 だから、なんとしてもお前は解脱しないと。
 だから今日は、挿入だ」
 言うと俺はきっと睨んだ。
「えっ?」
 と一瞬たじろぐ。
「平気だろう。
 やった事ない?」
「うーん」
 首を斜めに傾ける。
「便秘してないだろう」
「う、うん」
「じゃあ、まず、雰囲気を出すために」
 俺はスマホを出してJ−WAVEのジングルを再生した。
「エーリィワンぽいんスリー、ジェーウェーブ
ジェジェジェ、J−WAVE
ジェイ ウェーブ ジャム・ザ・ワールド on81.3」
 俺は立ち上がると、がばーっとズボンを下ろす。
 ゆっくり皮を剥いてから2、3回しごく。
 それでもう勃起していた。
 コンドームを取り出して、自分で装着する。
「さて、入れるか」
 妃奈子を押したおすと、前をはだけさせて、しばらく乳房を揉んでから、
パンティーをぺろりと脱がした。
 うんすじはついていなかった。
 まんぐりがえしの状態にすると、はんぺんかマシュマロの様な白い尻が現れた。
 かすかに桃色の肛門に綺麗な皺がよっている
 オカモトペペ2、3センチをその桃色の肛門にたらす。
「冷たい」
「我慢して」
 俺は人差し指で、まんべんなくひろげた。
「じゃあ、行くよぉ」
 言うと、鬼頭を白い肌の桃色の皺にくっつけた
 少し突くと、ぬるっと滑り込む。
「ああっ」
 とため息をもらす。
 前立腺相同部はこーまんのGスポットの裏側あたりだから、鬼頭を挿入して更に
数センチのところだろう。
 そこまで挿入すると、上の方を擦るようにゆっくりとピストン運動させた。
「ああーっ」
 といいながら妃奈子は上三白眼でこっちを見ている。
 頭上のスマホからはJ−WAVEのジングル。
「JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE
エイティーワン、ポイントスリ〜〜〜〜、ジェ〜〜〜イ、ウェ〜〜〜ブ」
「どう?」
「ちょっといい」
「じゃあもっとやるから」
「JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE」
「どう?」
「よくなってきた」
 俺はゆっくりとペニスをこすりつけ続けた。
「うーわあーーー」
「JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE」
 俺も興奮してきた。
 興奮すると、「キッスは目にして!」が脳内再生される。
 なんでだ。
 俺は妃奈子に覆いかぶさると、両手で耳のあたりを抑えて、またまた眼球を
舐めようとした。
「またぁ? なんでー」
 妃奈子、は首を振った。
「メーテルの愛がほしいといったけれども、それは銀河的な、宇宙的な愛なんだよ。
 おっぱいをくれたりくれなかったり、という感じじゃなくて、胎内でへその緒が
つながっていて、常に栄養素が通電しているって感じで。
 通電するのはここなんだが」
 言うと俺は鬼頭を、Gスポット裏側にこすりつけた
「ここでつながっているんだから、だから、じーっと俺を見ていてくれる
筈なんだよ。
だから、キッスは目にして!して!して!」
 その状態で顔を近づけると、肘をついた手を伸ばして、瞼を指で開いて眼球を
舐めたり、息を吹きかけたりした。
 舐めると同時に肛門からペニスを挿入して入念にGスポットの裏を
こすっていたので、妃奈子は半ば行っている感じで、目がうるませていた。
 しかし、瞬きはしていたが。
 そういうのを6、7分間、続けただろうか

 終わってから、「今日はどうだった」と言いながら、精液入りコンドームを外すと、
うん〇がついているかもしれないので、結んだりしないで、コンビニ袋へ。
「どうだった?」
「うーん」
 指でメモリを作って、
「このぐらい」
 と60%ぐらいの幅を作った。
「そんなに行った」
 妃奈子は自分でウェットティッシュで拭くと、こっちのもっているコンビニ袋に
入れてきた。
 妃奈子はパンティーを上げてスカートを履くと、ブラウスのボタンをはめる。
 コンビニ袋の口を結んで放り投げると、スマホで、J−WAVEのジングルを
もう一回再生して、妃奈子の耳に近づける。
「JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE
J−WAVE トラフィックインフォーメーション
J−WAVE ウェザーインフォーメーション ブロートゥーユー バイ」
「あれれれれれ」
 と瞬きする。
「あらららら、コンタクトがズレた。
 目の裏に入った」
 と妃奈子。
(キターーーーーー!)

 家に帰るとさっそく梵天に報告。
大迦葉:今日は上手く行った
梵天:でも、ペニスを入れて擦っただけだろ
大迦葉:そうだよ
この調子で明日もやれば上手く行くかも知れない
梵天:いやいや、甘いね
ペニスで擦るなんていうのは有機体的で
気を送るのだから、通電させなくちゃ
大迦葉:通電? どういう
梵天:バイブレーターで
LGBTだって、最後には、エネマグラだのバイブレーターだのを使わないと
オルガスムは得られないのだから
射精のオルガスムはあってもね
バイブを使っていかせるしかないね
そうすればトランスして、その間に条件づけが出来るかも知れない




#583/598 ●長編    *** コメント #582 ***
★タイトル (sab     )  21/10/31  08:59  (129)
「仏教高校の殺人」8    朝霧三郎
★内容

 翌日、駅前雑居ビル5階にあるラムタラ八王子店で、ポルチオバイブ5000円
を購入。
 これはスウェーデンのLELO社製で、高いのだが、何しろ、なまぐさ寺の
強欲娘に挿入するんだからしょうがない。
 その日の放課後も、体育館倉庫に呼び出す。
 何にも嫌がらないところを見ると、やっぱり妃奈子はアナルでやられたいん
じゃないのか。
 俺はビニールシートに体育座りしている妃奈子の横に座って、顔を見る。
 肌が綺麗で、吹き出物の気配もない。
 勿論ファンデーションなんて塗っていないから、すっぴんが綺麗で。
「お前は健康そうだよねえ」
「なにぃ、又何か説教?」
「そうじゃないけど、望花なんて、お前ら一家を見かけた立川で、ああいう所で
疲れるのは、バーバリーのコートとかフェラガモの靴とか、そういうのに触れると
自分の手油がついて、それで疲れる、とかいうのもあるんだけれども、それ以前に、
高島屋という空間自体に疲れるというんだよねえ。
 望花曰く、ファーレ立川なるビジネス街を歩いていたら、スタバだかタリーズ
だかから、3人ぐらいテイクアウトのOLが出てきて、パンパンのタイトスカートに
12センチぐらいのヒール履いて、あの人達、キャラメルマキアートだ、
カプチーノだ飲んでビスケット食って、うんにはちゃんと出るんだろうか、
吹き出物とかできたりしないのだろうか、だって。
 お洒落な都市空間に厭離穢土的な、糞に白粉をまぶしたみたいな身体でいるのが
つらくはないのか、と思うんだと。
 立川あたりでそうなんだから、まして青山だの六本木だったら、そこで平気で
住んでいる人、はどういう人なんだろう。
 表参道を颯爽と歩くのはどういう人?
 例えば、疲れない人って、J−WAVEのナビゲーターとか、滝クリとか
別所哲也とか。
 そういうのの類似品で、フェラガモでもアルファロメオでも平気で消費する
妃奈子は強いといえば強いって。
 なんでお前は平気なの? と俺も思うよ。
 まぁ、俺が思うには、一つは、たまたま宝物として生まれた、って事かな。
 人間ブランド品としてね。
 顔や身体が左右対称とかね。
 脚が長いとか。
 本人はナルシストで、自分にフェチなんだよ。
 もう一つは、なんでだろう、家が金持ちだから世襲議員や世襲経営者が
威張っているような感じかな。
 人間、体がでかいだけで威張るし、でかい車に乗っているると威張るからね。
 BMの7シリーズに乗っていれば俺の軽バンなんてなんとも思わない様に。
 あれに乗っていれば、高島屋でも伊勢丹でも、青山でも表参道でも平気だろう」
「生きているだけで辛い人もいるんじゃない?」
 と妃奈子が言った。
「マツキヨとか行くと、便秘薬とか、新ビオフェルミンだのエビオス錠だの、
そんなので棚3メートルぐらいあるものね。
 あと、湿疹、かぶれ、ニキビだのアトピーだので1メートル。
 そういう人達こそ胎蔵界曼荼羅でおかしくなったちゃった人達で、
“なまぐさ”をためているんじゃないの?
 そういう人こそポアすればいいのよ。
 私、ニキビって生まれてこの方出来た事ないよ」
「便秘とかしないの?」
「私は快便クイーンだからね」
「快便クイーンなら今日はこれだ」
 と、いきなりバイブを突き付けた。
 既にパッケージから出されていて電池も入れてある。
 俺はスイッチを入れてみせた。
 うぃ〜ん、うぃん、うぃん、うぃん、とバイブは振動した。
「それ買ってきたの?」
「そうだよ、スウェーデン製の高級品だぞ」
「ふーん」
「じゃあ、行きますか」
 その場に押し倒すと、スカートをたくし上げ、パンツを下ろして、
まんぐり返しの状態にする。
 あんまんか雪見だいふくの様な白い尻、かすかに、撫子色の肛門、
そして綺麗な皺。
「お前、自分でおさえていろ」と膝の裏を両手で引っ張る様な恰好をさせる。
 それから、スマホでJ−WAVEを流す。
「エイティーワン、ポイントスリ〜〜〜〜、ジェ〜〜〜イ、ウェ〜〜〜ブ
JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE」
 アナルにローションを塗りたくるとさっそく挿入。
 うぃーん、うぃん、うぃん、うぃん、と音をたてるバイブを皺のところに
あてがってから、にゅるんと挿入。
 入ると肛門の内側で振動しているのが分かる。
 妃奈子は目をつむってじっとしている。
 少し深めに入れて、コーマン側、つまり、Gスポット側にあててみた。
 うぃーん、うぃん、うぃん、うぃん。
「はっ、はっ、は〜〜」
 妃奈子はすぐに口を半開きにすると、ため息をもらしだす。
 両手で膝をひっぱりながら、足の指をきつく丸めている。
 うぃーん、うぃん、うぃん、うぃん
 うぃーん、うぃん、うぃん、うぃん
「エイティーワン、ポイントスリ〜〜〜〜、ジェ〜〜〜イ、ウェ〜〜〜ブ
JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE」
「はぁ、はぁ」
 とだんだん息が荒くなって、白目を剥くと、ウミガメの産卵の様に涙が
出てきている。
 突然、「キッスは目にして!」が脳内再生された。
 俺はバイブをハンズフリー状態に突っ込んだまま、妃奈子に覆いかぶさる。
 こめかみ当たりを抑えて目を舐めだした。
 今はウミガメの目の様にうるんでいるせいか、抵抗しない。
 そのまま舐めたり、眼球に息を吹きかけたりする。
 瞬きしたがいやがらない。
「JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE
ジェイ、ウェーブ グルーヴライン
ジェイ、ウェーブ グルーヴライン
JJJ、J−WAVE
ジェ〜〜〜イ、ウェ〜〜〜ブ」
5,6分で妃奈子昇天。

 行為の後、ローションをウェットティッシュで拭いて、こっちに押し付けてきた。
 残骸はバイブの入っているレジ袋に入れる。
 妃奈子はパンティーを履いて座ると、つぶやくように言った。
「最後には私、殺されるんじゃないかなぁ」
「へえ?」
「引きこもりが母親を殺す様に、「ごめんね、お母さんも女だったの・・・」
とお母さんを殺すみたいに。
 あとは、オタクが地下アイドルを殺す様に。
 恋人が出来たからって。
 だって、私、メーテルみたいに清潔じゃないもの」
 妃奈子の不安を無視して、俺はスマホを手にすると、J−WAVEの
ジングルを再度再生した。
 妃奈子の耳に近づける。
「JJJ、J−WAVE
おはようございます。Good morning. It's five o'clock, from the 
J-WAVE Singin' Clock」
 妃奈子は、瞼を蝶の様に高速で瞬きさせた。
「あららららら、なんだ、瞼が勝手に、あらららら、わー、コンタクトが外れた」
「え、ほんと?」
「あー、」
 といいつつ、ブルーシートに顔を近づけて探す。
「使い捨てだからいいけれども。
 なんで外れちゃったんだろう。
 目が乾燥しているのかなあ、今いったんでうるんでいる感じなんだけど」
(やったー、完成だ)
 とオレは思う。




#584/598 ●長編    *** コメント #583 ***
★タイトル (sab     )  21/10/31  08:59  ( 88)
「仏教高校の殺人」8    朝霧三郎
★内容

 翌週、妃奈子はすぐに、教習所の卒検に合格した。
 週中には学校をサボって府中の試験場で試験を受けて免許が交付される。
 その週末には世田谷通りアルファロメオ正規ディーラーから、
アルファロメオ・ジュリエッタが届く。
 妃奈子の寺は、山門から参道を行くと左右に塔やら金堂、奥にでっかい講堂
のある法隆寺式で、裏に庫裏だのがあり、その裏の駐車場がある。
 そこに赤いジュリエッタが止まっていた。
 ピッカピカのジュリエッタにバーバリーのコートを着てエルメスのスカーフを
頭に巻いて、もたれかかる妃奈子。
「どう? 決まっているでしょう、写真撮ってよ」
「おお」
 俺は、スマホを出すと、数枚撮った。
 カシャカシャ。
 妃奈子は、ジュリエッタのドアを開けると、ハンドルからシートから
シフトレバーまで総革張りの“なまぐさ”のかたまりに乗り込んだ。
 ブランドロゴの型押しされているヘッドレストに頭をつけると、あーっと
伸びをする。
 それから、電動シートをいじくったり、インパネをいじくったり、
ギアシフトをなでたりハンドルにもたれかかったり、している。
「やっぱりイタリア製の曲線美というか、エロテックでさえあるわ」
 エンジンスタートさせて、2、3回アクセルを踏み込む。
 ファィ〜ン、ファイーーーン
 そしてにんまりと微笑。
「そんじゃあ、これからお前、試し運転してみろよ、オレが写真をとってやるよ」
 いうと俺はスマホを翳した。
「この望遠レンズで、あの急坂の真ん中の土手のところで構えているから」
 日野大阪上からの急な下り坂を俺は示した。
「その恰好で走り降りてこいよ、バーバリーのコートきて、エルメスのスカーフ
をまいて、こんな坂を下ってくるんじゃあ、モナコのグレース王妃みたいじゃないか」
「あら、8組のグレースケリーは蓮美なんじゃないの? でも、アルファロメオは
似合わないけど。
 チャリが似合いで」
「じゃあ、お前、グレースケリーとか言っても坂で事故るなよな。
 まだ免許取り立てだから気を付けて」
「分かってるって」
 そしてアクセルを更に2回、3回をふかした。
 ファイーーーン、ファイーーーン
「あっ、CD忘れた。
 曲がないのが寂しいなあ」
 と妃奈子。
「じゃあ、オレのダップ貸してやるよ」
 言うと俺は軽バンの助手席に行って、自分のDAPをとってきた。
「何、これ」
 とさっそく耳にイヤホンを突っ込んで再生する。
「普段俺が聞いているいい曲が入っているから。
 こんなイタリア車にばっちりな曲だよ。
 イタリア車だからってオペラじゃないよ。
 普段俺が聞いている、90年代2000年代の定番で、Hip Hop Hoorayとか
Cupid Shuffleとか」
「ふーん、いいじゃん」
 妃奈子は首を振ってのっている。
「じゃあ、俺が先に行って、カメラの準備が出来たらスマホで連絡するから、
そうしたらこいや」
 そして俺は、軽バンで坂を下ること、3分、この前妃奈子に抱き着かれて
転落しそうになった崖のちょっと先の、中腹の土手に停車。
 そして、スマホで連絡する。
「降りてこいや」
 そして俺はスマホを構えてアルファロメオを待った
 1分、2分…2分30秒、3分後、赤いジュリエッタが見えた。
 妃奈子は窓全開でスカーフをなびかせつつ、いい調子で運転している。
 俺はスマホをそっちに向けた。
 写真を取るんじゃない。
 DAPに『HiByLink』というアプリで信号を送って遠隔操作する為だ。
 このアプリで信号をおくればタップの曲を選択することが出来る。
 妃奈子が例の崖の手前数十メートルに来た。
 俺は『HiByLink』のボタンを押して、遠隔操作する。
 妃奈子の聞いているダップは曲が飛んでJ−WAVEのジングルが再生される筈。
 JJJ、J−WAVE
 JJJ、J−WAVE
 J−WAVE トラフィックインフォーメーション
 JJJ、J−WAVE
 JJJ、J−WAVE
 エイティーワン、ポイントスリ〜〜〜〜、ジェ〜〜〜イ、ウェ〜〜〜ブ
 JJJ、J−WAVE
 JJJ、J−WAVE
 今、妃奈子のイヤホンからはJ−WAVEのジングルがまとめて流れている筈。
 そして目を凝らして妃奈子を見ると、目を瞬かす妃奈子が見えたーーーー。
 そして目を押さえた、かと思ったら、ハンドルを右へ左へと切り出す。
 妃奈子は完全にパニクっている感じだ。
 車はどんどんと坂道を加速して降りてくる。
 わーーーーっていう顔をして両手をハンドルから離しちゃって耳を押さえた。
 そして、ブレーキ音もしないまま、ピッカピカのアルファロメオは、
錆びて朽ちかけたガードレールを突き破ると、崖から飛び出していった。
『テルマ&ルイーズ』のラストシーンみたいに綺麗な放物線を描いて落下していく。
 最後にガッシャーんという音が微かに聞こえた。
 あっけない最期だった。
 モナコでグレースケリーが事故った時もこんな感じ?




#585/598 ●長編    *** コメント #584 ***
★タイトル (sab     )  21/10/31  09:00  (234)
「仏教高校の殺人」9    朝霧三郎
★内容

||||||||||
 白衣を着たジジイの日本史の教師が教卓に手をついて、妃奈子の死に関して、
何やら、般若心経の様な説教をたれていた。
「全てのものは、ただひたすら空でなんだね。
君たちの身体も心も、空でなんだね。
だから、真偽、善悪、美醜などもない。
空でもぐーっと圧縮すると、冷蔵庫の氷みたいに、物質の様になって、それが、
意識の正体で、それは色々悩むのだが。
だから、意識も悩みも実在するんじゃないかと思うが、それもやがて空気のように
ふわーんとして、なんでもなくなってしまう。
だから、あんまりこだわりをもたず、全ては流れていくと考えるのが良いのです」
(あんなに残酷な死に方をしたのに、あんまりこだわるな、だって)
と海里は思う。
(もっともリエラは、浄土教的で、この世の貧富の差とか老病死みたいなものも
浄土に行けばリセット、みたいな感じだが、妃奈子には、そもそも全ては空、
空即是色、般若心経的なのが似合いかも。
それに、世間の葬式でも坊主はこんなの唱えているんだなあ。)

 部室に、海里、亜蘭、伊地家、郁恵、剛田剛、3階の三羽烏、
そして自宅待機から復活した犬山が集まった。
 みんなでスマホをみている。
 なんと、絶体に破れない筈の裏サイトを、犬山がハッキングして容疑者の
手記を見られる様になったのだ。
 しばし、全員で、ふがふがいいながら黙読。
 読み終わると、剛田がまず
「こんな条件付け、うまく行くのか」
 と言った。
「でもここに、猿を椅子に座らせて、スピーカーから音を出して、
エアノズルから空気を目にあてると、音を聞いただけで瞬きする、って書いてある。
 ググってみると、これはちゃんとした心理学的な実験みたいよ。
 瞬目反射条件づけ、といって」
 と海里
「そうすると、そういう条件づけをした後に、DAPをつけさせて、スマホから
信号を送ってJ−WAVEのジングルを流せば瞬きするのかな」
 と剛田。
「そうなったんでしょう」
「へー、怖いねえ。
 バイクだけじゃなく、車だって怖いんだね」
 とまるで他人事の様に城戸弘。
(リエラは、元彼だろう、情が移ったりはしないのかよ)
 と海里は思った。
「そんで、この梵天と、今度の実行犯、大迦葉は誰なんよ」
 と犬山。
「この、キッスは目にして!のあたり、小暮勇があやしい」
 と海里。
「その話をしたのは城戸だろう。
 それにそれはみんな知っている話だよ。
 3組の俺らは特に」
 と小暮勇は乾明人、城戸弘に同意を求める様に視線を送った。
「望花に聞けば? ずっと一緒にいたんだから」
 と乾明人。
「案の定、自宅待機になったよ。
 お父さんだかが感染して、自分はPCR陰性でも自宅待機だってさ」
 と郁恵。
「連絡してみれば?」
 と亜蘭。
「チャットで呼びかけても応答しないのよ」
 と郁恵。
「ふーん」
「都合よく、いや、都合悪く感染するんだなあ」
 と乾明人。
「お線香あげる?」
 と郁恵が言った。
「ああ、やってよ」
 と亜蘭。
「じゃあ、ロッカー開けるよ」
 と線香だのが入っている共用のロッカーに手を伸ばす。
 そして扉を開けると、裏に貼ってある胎蔵界曼荼羅の×が一つ、
「増えている」
 と剛田が言った。
 3×3段の仏像の上の段と真ん中の段の全部に×印が。
「上の段の×3つがバイク事故の3人、中段の左側がリエラ、真ん中がX、
そして右側が妃奈子」
 と海里。
「バイク事故の3人も2中、リエラも妃奈子も2中、その胎蔵界曼荼羅が2中
というのは疑い入れないな」
 と剛田。
「何で私らが狙われるのよ」
 と郁恵。
「“なまぐさ”を増やしている、から」
 と剛田。
「そりゃあ、エラはいじけ虫で、社会不適合者だとしても、妃奈子は違うでしょう」
 と郁恵。
「妃奈子は“なまぐさ”を増やさなくても望花が嫉妬して増やす、とこの手記にある」
 と剛田。
「そんな事言ったら誰だって“なまぐさ”を増やしてしまう」
 と海里。
「絶望して“なまぐさ”を増やすリエラ。
 絶望に気が付かなくて、嫉妬されて“なまぐさ”を増やす妃奈子」
 と剛田。
「その事と2中となんの関係があるのよ」
 と郁恵が、可愛い顔をゆがめるとか。
「2中って多摩平の森のど真ん中にあるじゃん。
 クラスの半分ぐらいが団地から通っているんだよなあ」
 と剛田。
「あの団地って、みんな3DKで、それなりにお洒落らしいけれども、
超画一的で、旦那はみんなJRで都内に通勤するサラリーマン、子供は一人、
母親は教育ママゴンだろう。
 そんなんだから、同調圧力というか、嫉妬心がすごいと思うんだよねえ。
 だから、金持ちなお寺なんていうのは嫉妬されていたかもな。
 だから、そういうのの一人が、妃奈子を狙ったのかも知れない」
「つまり、団地の居住者がみんな望花の様に“なまぐさ”をためていたと?」
 と海里。
「じゃあリエラは? リエラなんて豊田の分譲マンションだよ」
 と郁恵。
「それだって、UR賃貸に比べれば嫉妬の対象になったかも知れない。
 とにかくだな、この胎蔵界曼荼羅の上の2段は、2中のバイク事故の3人と
リエラと妃奈子とあとX君に決定。
 とにかく2中だわ。」
 と剛田は決めつけた。
「そうすると下段の3体は、私、亜蘭、郁恵。
 逃げた方がいい」
 と海里。
「どこに逃げるんだよ」
 と剛田。
「うちの実家の寺はボヤで修理中だし…。
 郁恵の家がいいんじゃないか? 
 毎年、体験座禅みたいなのやっているのだけれども、このご時勢、体験座禅は
中止だから、みんなでお寺に行けば。
 道場もあるし」
 と亜蘭。
「おお、じゃあ俺らも行くよ」
 と3組三羽烏の小暮勇、乾明人あたりが言った。
「みんなが行くんじゃあ逃げる意味がないじゃん」
 と海里。
「なんだよ、俺らを疑っているのかよ。逆に守ってやるよ」
「誰が来るのよ」
 と郁恵。
「俺は行きたい」
 と小暮勇。
「俺も」
 と乾明人。
「俺も」
 と城戸弘。
「俺も」
 と剛田。
「僕も」
 と犬山。
「亜蘭君は勿論行くんでしょう」
 と伊地家が言った。
「ああ」
「私も行っていい?」
「じゃあ、催眠・瞑想研究会全員ね。
 望花を除いて」

||||||||||
 グループチャット『比丘尼の小部屋』
妃
郁恵:妃奈子に唱えます
観自在菩薩
行深般若波羅蜜多時
照見五蘊皆空
度一切苦厄
舎利子
色不異空
空不異色
色即是空
空即是色〜〜〜〜
海里:まるで妃奈子の為にある様な言葉
郁恵:梵我一如的に、リエラの場合に、我がV系で梵が浄土でしょう
妃奈子の場合には我がブランド品で梵は表参道や銀座
海里:菩薩がアクセサリーを求める様な感じで、ボトムアップ
郁恵:如来になって教えを言いたい人もいる
海里:誰?
郁恵:うちの家出した兄
海里:はあ
郁恵:うちの兄、最初、株やfxで生きていくとか行って、出て行った
トレードのセミナーの神みたいなのに、株の必勝法を見せられて、30万とか
50万とか払う
次に自己啓発セミナーにはまった
これも、これだ、という教祖みたいなのにはまって
「こうすれば人生開ける、脳の残りの90%を使える」とか見せられて、50万、
100万はらう
あれは、聖地の側から、何かちチラ見せさせられた感じだな
その兄が、何を思ったか自分が教祖になると言って、お寺に帰ってくるというんだよ
住職になって檀家を啓発するとか
それはそれでいいんだけれども
というのもうちには仏教大学卒の寺男がいて
そいつはうちのお寺を乗っ取ろうとしていて
父に取り入っていて
父も気に入って
私と結婚させるとか
そんなの嫌だから
兄が帰ってきてお寺を継げば
でも揉めるだろうなあ
だから、そこで、揉めた時に、
「こっちは一人じゃない」
というのを見せたいんだよねえ
海里:だったら、亜蘭が言う様に、
催眠・瞑想研究会のみんなを連れて乗り込むというのは、最強じゃない
剛田とか三羽烏が行くんだから、そんな寺男怯える
郁恵:亜蘭、怖い
やばいよ
海里:何が?
郁恵:前に、亜蘭に、ふしぎ、かんたん、からだを使ったマジックみたいな事を、
された
指をクロスさせて鼻を触ると鼻が二つあるような気がする、とか
焼肉屋でやられて
それは、兄が自己啓発セミナーで見せられた、脳の残りの90%を使う方法、
みたいな
聖地によるチラ見せみたいな感じがして
ああいうのは”転移”っていうんだよ
海里:知っている
郁恵:何か道を求めている人に、ちらっと技を見せて
「この人は神だ尊師だ」と思わせる方法
亜蘭にはその気がある気がする
伊地家とか、今、そういう対象になっている気がする
伊地家、狙ってんのが不思議だが
全く分からないよ、亜蘭の趣味は
かつては望花を狙った事があるんだから
海里:亜蘭はきっと天上界にいて能書きたれたいんだろう
郁恵:え、何で
海里:ある時からそうなった。
亜蘭は、ある時、自我体験みたいな事があって
それはうちの兄の事故の時かも
誰でも普通に感じるでしょう
はなたれ小僧がある時ヘアースタイルを気にしだしたり
この顔でこの頭ならこんな一生かと、自分に出会う時
その時に
この自分の顔と頭は当たり前に自分と思うか
はたまた
「自分の乗り物はこれか」と感じるか
亜蘭は後者だったんだよ
自分はどっかからインストールされた何者かだと感じたんだよ
どこからインストールされたか
胎蔵界曼荼羅みたいなところから
そうすると
自分の体はロボットで
自分の心は宇宙からインストールされた仏性みたいな感じだから
ここで梵我一如的な発想になる
郁恵:ふーん
むずいわ
寝る




#586/598 ●長編    *** コメント #585 ***
★タイトル (sab     )  21/10/31  09:01  (352)
「仏教高校の殺人」10    朝霧三郎
★内容
||||||||||
 第3章


 日野市の豊田駅北口を出て少し行ったところの交差点を右に行くと多摩平緑地通り、
という通りに入る。
 左手に公団住宅やイオンモールのあるエリアが広がっている。
 右側に長さ数百メートル、幅百メートル程度の斜面の雑木林がある。
 その下に十幾つもの湧き水が出ている黒川公園がある。
 郁恵の家の竜泉寺は黒川公園の南側に位置する東豊田3丁目にあった。
 海里の尼寺も同系列だったので、5分と離れていなかった。
 竜泉寺の配置は、南から門を入って、塔、金堂、講堂、という四天王式の順番で、
北の講堂の裏に、寝泊りの出来る道場と、台所、その裏に墓地、背後には黒川公園の
丘が広がっていた
 その道場に催眠・瞑想研究会のみんながおしかけた。
 まず、全員で道場備付の作務衣に着替えると、掃き掃除をして、それから雑巾がけ。
 郁恵、海里、伊地家ら女性陣は、道場の押し入れの布団を出して外に干す。
「きゃー、ゴキブリ」
 と伊地家が尻もちをついた。
 犬山がほうきで叩き殺そうとする。
「まて、殺生はいかん」
 と剛田。
 そして剛田は手のひらを丸めて蓋をする。
 そのまま掴んで外に逃がしてやった。
 時刻はまだ午前10時だった。
 犬山の携帯が鳴った。
「蓮美だ。
 はい、はい、うん、えー、市ヶ谷?」
 電話を切ると、犬山が言った。
「実は蓮美のおじいさんが田舎から上京して、靖国神社に行きたいんだけれども、
蓮美も中学になってから越してきたばっかりだし、土地勘がないんだって。
だから案内してくれっていうんだよ」
「それだったら海里が詳しい」
 と郁恵。
「あの近所に系列のお寺があって、そこに夏休みの間とか研修に行っていたでしょう」
「えー、市ヶ谷から靖国神社なんて誰でも行けるよ」
 と海里。
「いやー、東京の人はそういうが、蓮美の様に東北から出てきた人にゃあそうは
いかねーだよ」
 と犬山。
「えー」
 と海里は難色を示す。
「行ってこいよ」
 と亜蘭まで。

 という訳で、海里は犬山と市ヶ谷に行く羽目になった。
 現地につくと、猿田、雉川も来ていた。
 やがて蓮美と、杖をついて眼鏡をかけた枯れ木の様な老人が現れた。
「こんなおじいさんだけれども、特攻隊の生き残りで、本当は玉砕しているところを
エンジントラブルで帰還したところで終戦を迎えたのよ」
 と蓮美。
 蓮美とおじいさん、海里、三銃士で、靖国通りをよろよろと歩く。
 蓮美はおじいさんを支えて歩いていたが、それが、枯れ枝の様なじじいの腕を、
まるで瑞々しいコラーゲンたっぷりの手で支えてやっていて、
(人間って乾燥していくんだなあ)
 と海里には思えた。
 靖国神社へは南門から入ると鳥居を右手に見ながら左手の拝殿へ。
「お賽銭はいくら?」
 と犬山。
「正式参拝じゃないから気持ちでいいよ。
 5円とか50円とか穴があいているのがいいらしい」
 と海里。
「じゃあ、50円だな」
 と犬山。
「50円じゃあ失礼だよ、500円だよ」
 と蓮美。
「じゃあ100円」
 チャリーンと賽銭箱に投げ入れると、二礼二拍手一礼。
「あっちに行ってみるか」
 とじじいが杖で鳥居の方を指した。
 鳥居のところで、ホームレスが軍手で鷲掴みで握り飯を食べていた。
 食べ終わると軍手についた米粒をばたばたばたーっとばらまく。
 それに鳩が群がった。
 そこを通り越して、遊就館へ入る。
 入るやいなや、洞窟にでも入ったみたいに背筋がすーっとする。
 ゼロ戦や人間魚雷が展示してある。
 特攻隊員の遺影、遺書などを見ながら歩いて行く。
「ここにはA級戦犯も祀られているんですよね」
 と雉川が言った。
「ばか、余計なことを言うな」
 と犬山が言っても、毅然という。
「どうして分祀出来ないんですか、悪い奴と英霊は別々にした方がいいでしょう」
 と雉川。
「それは同期の桜だからだよ。
 ♪貴様と俺とは同期の桜ー、同じ兵学校の庭に咲く、咲いた花ならぁ散るのは
覚悟…、死んで靖国で会いましょう、って約束して突っ込んだんだからねぇ。
 でも、ありゃあ、身体があったらびびってできない。
 体があって、びびっちゃって虜囚になった人もいたが。
 それでも死ねば魂になるから、そこには罪はない。
 みんなが一体化して、あの世に行きましょう。
 だから、みんなが死ぬまでは、成仏出来ない浮遊霊がそこらへんに漂っているぞ、
みんなそこらへにいるぞ、おーい、みんな待ってろー」
「ひえー」
 と猿田、犬山は震えていた。
 雉川は聞いた手前じっとしていたが。
 遊就館から出てくると、鳥居のところで、さっきのホームレスが、腹をさすりつつ、
ため息をついていた。
「お腹が減っているのかなあ」
 と海里。
「そうだ、お弁当があったんだ」
 と言うと、蓮美はナップから弁当を二つ出した
「牛タン弁当。
 これ、仙台駅で買ったんだけれども、新幹線の中でじいちゃんは寝ちゃうし
食べなかったんだ。
 あのホームレスにあげよ」
 言うとホームレスのもとへ。
「これ、あまりものですけれども、どーぞ」
 と2個もホームレスに差し出す。
「ありがとう、じゃあ一ついただきます」
「でも、賞味期限は17時なんで、夕食にも食べられますよ」
「いやー、一個でいいよ」
「これ、この紐をひっぱると」
 と、蓮美は弁当の隅っこから出ている紐を指で示した
「弁当の底に仕込んである生石灰と水が反応して温まりますから」
「あー、ありがとう」
 言うとホームレスは一個受け取った。
「一個余っちゃった」
 戻ってくると、蓮美が言った。
「私がもらうよ」
「えー、こんな“なまぐさ”いもの修行僧が食べるの」
「一応もらっておくよ」
 海里は言うと受け取って自分のナップに閉まった。
 鳥居の外まできたところで、
「もう鳥居は出たな」
 おじいさんが言った。
「ところで、田舎の震災で死んだお前の従兄弟らだが、あいつらも浮遊霊に
なっちゃっているんだよ」
「えっ」
 と蓮美。
「お前以外はみんな死んだ。
 だからお前も死んで、一緒にならないと成仏出来ないんだよ」
 言うとポケットから黄色いカッターナイフを出した。
 カチカチカチと刃を出す。
 杖を放り出していきなり切りかかってきた。
 が、足腰が弱っているので、ふらふら、がくがくしていて、カッターは空を切って、
じじいはその場にこけた。
 蓮美はさっと、後退りする。
 雉、猿、犬がじじいを取り押さえる。
 途端に警備員がかけつけてきた。
「どうしたんですか。
 大丈夫ですか」
「いや、ちょっとふらついただけです」
 と蓮美。
「さあ、行こう行こう」
 三銃士がじじいを抱えると、全員で移動する。
「本当に大丈夫ですかー」
「大丈夫でーす」
 いぶかる警備員をよそめに、そそくさと全員であとにした。
 大鳥居を出ると九段下の出入口のところ。
「じゃあ、東京駅におじいさんを送ってくるからね。
 海里、ありがとうね」
「本当にそのおじいさん、大丈夫?」
「大丈夫だよ」
「又襲われたりしない」
「大丈夫、三銃士もいるし」
「そう。じゃあ気を付けてねえ」
「うん、ありがとう」
 蓮美と三銃士に抱えられたじじいは地下鉄に降りていった。
 海里は、市ヶ谷に向かって踵を返した。

 海里は、思い当たる事があって、竜泉寺には直接帰らないで、自分ちの尼寺に行く。
 自分の部屋に行くと 本棚からアルバムを抜いて、開いた。
(第一幼稚園自体の誕生会の写真は…)
 と呟きながらめくる。
(これだ。
 9人の4歳児が写っている2L版の写真。)
 それをもって、茶の間の母のところへ。
 詰め寄る様に母に迫っていく。
「お母さん、これ見て」
 とアルバムを差し出す。
「このグループってどんな関係なの?
 ただ誕生日が同じなだけ?」
「ああ、この子達はねえ、それだけじゃない。
 あれは折鶴産婦人科だっけっか。
 同じ病室にいて、同じ日にみんな生まれたんだよ。
 満月の晩でねえ。
 みんな産気づいて。
 だのに、島崎君、川上君、小林君はバイクの事故で亡くなっちゃうし。
 リエラちゃんと、妃奈子ちゃんもあんな事に」
「そしてお兄ちゃんもでしょう」
 言うとアルバムをパタンと閉じた。
(これは同期の桜だわ。
 否、胎蔵界曼荼羅の同期だ。
 一緒に咲いたなら一緒に散らないと成仏出来ない。
 先に亡くなった6体が成仏する為には、自分と郁恵、亜蘭が死ななければならない。
 という事は次は、自分か郁恵か亜蘭。
 亜蘭は私を守るって?
 じゃあ私は郁恵を守らないと。)
「竜泉寺に行ってくる」
 言うと、脱兎のごとく走り出た。

 竜泉寺の道場に戻ってみると、すっかり綺麗になった床の上に、亜蘭、郁恵、
剛田、小暮勇、城戸弘、が正座していて、乾明人 伊地家益美が目隠しをして、
棒の様なものを持って、気配を探る様に、忍び足で動いていた。
 突然、乾明人が棒を振り回したが空を切った。
「何やっているの?」
 海里は郁恵に聞いた。
「気配ぎり。
 でも、金木犀の匂いはしているのよ。
 目隠しのハチマキに金木犀がさしてあるでしょう」
 なるほど、額のところにオレンジ色の小花が出ている。
「あの香りで相手を探って気配ぎりするの。
 負けたチームが便所掃除をするので、必死にやっているのよ」
「それだけじゃないんだよ」
 と小暮勇が言った。
「花の香りをかいでから斬るまでのスピードは、転ぶ時に手を付くぐらいの速さ、
つまり無意識的にやるから、つまり受動意識仮説的になるから解脱も出来るかも
知れないし」
「シーっ」
 と亜蘭。
 気配切りの方は、伊地家がクンクンしながら乾明人の方に向いたところ。
 そして棒を振り上げると思いきり振り下ろした。
 ぽかーんとヒットする。
「一本」
 と剛田。
「伊地家は人を斬る才能があるなあ」
 と小暮勇。
「じゃあ、乾明人と小暮勇、城戸弘の三羽烏は便所掃除だな。
 残りはマキ割」
 と亜蘭。
 道場から小道をはさんで台所の建屋がある。
 その前には、生垣があってその前がマキ割場。
 建物の脇には屋根付きの薪置き場があって、丸太が積んである。
「じゃあ、お前ら便所掃除ねー」
 と亜蘭。
「おっけーおっけ」
 言うと三羽烏は台所のすりガラスを開ける。
「どこだか分かる?」
 と郁恵
「あー、多分ね」
 と三羽烏。
「じゃあ、僕らはマキ割だ」
 と亜蘭。
 まず亜蘭、剛田が、台車に丸太を積んで、マキ割場までもってくる。
「それじゃあまず1本取り出しまして」
 と亜蘭は丸太をマキ割台に立てた。
 そんきょの姿勢でナタをかまえる。
 そして振り上げると、一気に振り下ろす。
 ぱかーんとマキは割れた。
「こうやればいいんだよ。
 じゃあ、伊地家、やってみな」
 言うと、マキ割台に1本立ててやる。
 伊地家は見よう見まねで、そんきょの姿勢から、両手でぐらぐらとナタを持ち
上げると振り下ろした。
 丸太の端っこにチップして、丸太が倒れる
「目を離さないで。
 ナタの重さを利用して、振り下ろすんだよ」
 真顔で頷くと、丸太をたてる。
 そんきょの姿勢でマキを凝視し、ナタを振り下ろす。
 ぱきーんといい音がしてマキが真っ二つになった。
「よっしゃー」
 そしてもう一個。
 ぱきーん。
 順調にマキは割れていった。
 マキ割の台の向こうは金木犀が植わっていて、甘いにおいがただよってきていた。
 そして伊地家はひたすら、ナタを振り下ろす。
「こっちはよさそうだから、風呂でも洗いにいこうか」
 と郁恵。
「そうね」
 と海里。
(そうだ、郁恵と一緒にいて守らないと。)
 台所の建屋のすりガラスを開けると土間があって、右手に、木をくべて焚く
風呂の釜があった。
 左の上がり框を上がると台所だった。
 台所を抜けて先の廊下を行くと、風呂場と便所が隣り合わせにある。
 小暮勇、乾明人、城戸弘の三羽烏が便所掃除をしていて、何故か、
犬山以下三銃士が居た。
「あれー、あんた達。
 蓮美は大丈夫?」
 と海里。
「大丈夫だよ。
 じいさんを新幹線に乗せて、蓮美も家に帰ったところ」
 と犬山。
「ふーん」
「じゃあ、掃除するか」
 と郁恵。
 脱衣所の奥のすりガラスを開けると、タイルで出来た大きな風呂場が見えた。
 洗い場の蛇口だけで3つもある。
 郁恵がデッキブラシとホースに洗剤をもってくる。
「海里、その風呂桶で洗剤を薄めたら、適当にまいてよ、私がこするから」
「おっけー」
 海里が洗剤、ホースを受け取ると、郁恵は腕まくりをして、髪を束ねると
かんざしでさした。
 それには金木犀の髪飾りがついてる。
「あれっ、それ、誰に」
 と海里。
「亜蘭君に」
「へー、何時の間に」
(亜蘭は郁恵が好きなのかなあ。
 いやに伊地家に張り付いていた気もするが、あんなさえない伊地家益美。
 人は見た目が90%)
 と海里は思う。
 そのさえない伊地家が台車にマキとナタを乗せて土間に入ってきた。
 釜の前に台車を停車させるとあたりを見回して、
「郁恵ー」
 と怒鳴る。
「郁恵ー、マキはどこにおけばいいの? 郁恵ぇー」
 風呂場でデッキブラシをかけようとしていた郁恵が気付いて、
「呼んでいる。
 ちょっとこれお願い」
 言うと、デッキブラシを海里に預けて、台所の土間の方に行った。
 そして、上がり框から首を出して、伊地家に、
「マキは、その釜の前に下ろしておいて。
 あとナタはその棚の上に戻しておいて」
「分かった」
 とナタを持ち上げると伊地家はぼーっと郁恵を見た。
 風呂場の方から土間の方へと隙間風が流れて、郁恵の髪飾りの金木犀の香りの
粒子が伊地家の鼻腔に到達した、その瞬間、
「ぎゃー」
 という物凄い声をともに伊地家がナタを振り下ろした。
 ナタは郁恵の眉間に食い込んで、脳漿炸裂。
 ぷしゃーっと真っ赤な液体が噴出させながら、郁恵は、台所の板の間から
土間に倒れ込んでいった
 その物音に気付いた海里は
(しまった)と思った。

 それからは大騒ぎ。
 救急車が来て、明らかに死んでいる郁恵が搬送された。
 郁恵の両親と寺男もついていった。
 その場にへたり込んでいる伊地家を警察官が取り囲んだ。
「君、いったいなんだってこんな事を」
 と初老の警察官が言った。
「私はわたしは、ワタシは」
 宙を見ながら宇宙人の様に話す。
「奇跡を見せられて魅せられてしまった。
 あなたはもう椅子から立てなくなる、と言われて本当に立てなかったから」
「なんお話だね」
「だから、この人は催眠の事はなんでも知っていると思って」
「訳がわからんな。
 とにかく署に連行して詳しく聞こう」
 3、4人の警察官と一緒に伊地家は連れていかれた。
 それでも、まだ土間には7人ぐらいの警官がいて、うんこ座りで写真を撮ったり
凶器のナタをジップロックに入れていたりしていた。
 台所の中には、剛田、小暮勇と乾明人、城戸弘の三羽烏、犬山、猿田、雉川、
の三銃士、そして海里がいた。
「亜蘭は?」
 つぶやくように海里が言った。
「ああ、黒川公園の丘に行くって。
 あそこからは、遠くに浄土が見えるとか言って」
 と犬山。
「じゃあ、行かなくちゃ」
 言うと、海里は土間にあったナップを背負った。
「みんなも来て」
「なんで?」
 と剛田。
「私、分かったの、全部分かった」
 年かさのいった警官が上がり框に近寄ってきた。
「あなた達にも聞きたい事があるんですがねえ」
 とその警官が言った。
「後にして」
 言うと海里は押しのけて土間に降りると、そのまま出て行った。
 そして他のメンバーもぞろぞろとついていった。




#587/598 ●長編    *** コメント #586 ***
★タイトル (sab     )  21/10/31  09:02  (395)
「仏教高校の殺人」11    朝霧三郎
★内容

 全員で、標高十数メートルの黒川公園の緩やかな段丘崖の遊歩道を走って
上がって行った。
 一番上まで行くと、団地沿いの多摩平緑地通りに出た。
 黒川公園の方に下っている崖は、大抵は緩やかなのだが、一か所、湧き水の
出ている岩場まで真っ逆さまに落ちる箇所があって、そこだけ鉄柵で塞がれていた。
 その鉄柵によりかかる様に亜蘭は立って西側からさす夕陽を見ていた。
 海里は東側から亜蘭に近付いた。
「何みているの?」
「ほら、見てみな。
 ダイヤモンド富士」
 呟く様に亜蘭は言った。
 西に沈む夕陽がちょうど富士山にかかって、オレンジ色に輝いていた。
「ありゃあまるで浄土の様だよ」
「そんな事より、とうとう、あの曼荼羅で残ったのは亜蘭と私だけになったわね」
 と海里は言った。
 亜蘭はこっちを見たが西日で逆光になり表情は分からない。
「でも、私には分かった。
 リエラの事、妃奈子の事、そしてさっきの郁恵の事も。
 みんなに教えてあげる」
 海里は振り返ると、剛田と三羽烏と三銃士に言った。
 みんな西日でオレンジ色に染まっている。
「まず最初に、リエラの事から言うわ。
 あの事件は、犬山君の送ってきれたテキストを見た時から、
なんとなくわかっていた。
 きっとストリートですれっからしにひどい目にあわされて、
すれっからしが嫌いになった人、それは」
 リエラは夕日に照らされていた内の一人を指さした、ズームイン。
「優波離、それって、乾明人じゃないの?」
「何をいきなり言い出すんだよ」
 と乾明人は手のひらで西日を避けながら海里を見た。
「じゃあ、動かぬ証拠を見せてあげるわ。
 つーか、不思議だったのは、何であの高尾山の日に牛タン弁当を
買ってきたかって事。
 何で?」
「は? 俺に聞くなよ」
 と乾明人。
 海里は、牛タン弁当をナップから出した。
「何で、そんなものもってんだ」
 と乾明人。
「今日偶然にももらったのよ。
 仙台から帰ってきた蓮美に。
 賞味期限は17時だからまだ食べられる。
 優波離こと乾君、食べてみてよ」
「なんで今そんなもの食わないといけないんだよ」
 海里は弁当を乱暴に開封すると、箸を出して牛タンと米粒をつまんだ。
「いいから食べてみて。いいから」
 と、牛タンと米粒をつまんだ箸をもって迫っていく。
「みんなおさえて」
 言うと、三銃士の猿田、雉川が両肩をおさえて、羽交い締めにして、
ちょうどダチョウ倶楽部の上島竜兵が肥後と寺門ジモンに押さえつけられて
熱いおでんを食わされる様な格好になった。
 この状態で海里は、牛タンとご飯を乾明人に食わせた。
 モグモグと数回咀嚼してから、
「ううっ、うえー」
 と乾明人は吐き出した。
「なんだ」
 と一同。
「ガルシア効果だわ」
 と海里。
「ガルシア効果?」
 と剛田が言った。
「そう、ガルシア効果。
 この乾明人とリエラは、あの焼肉屋のコンパで、焼肉を食べた後
メントスを舐めて、その後バイクで車酔いをして吐いた。
 一回そういう事があると当分ミント味は嫌いになる、というのがガルシア効果。
 実際、リエラは、文化祭の反省会の時にサイダーが飲めなかった。
 しかし、このガルシア効果の条件付けは、ミントだけじゃなかった。
 焼肉も、食べると吐き気がするという条件付けがなされていたのね。
 それで今乾君は吐き出した。
 そうでしょう?」
「知らねーよ」
 言うと、ペッっと唾を吐いた。
「それにしても不思議だわ。
 何で乾君は、何故食べられもしない牛タン弁当を高尾山に持って
行ったのかしら」
 海里は、牛タン弁当をもったまま腕組みをする。
 三銃士も剛田も首をひねっている。
 小暮勇、城戸弘は神妙な顔をしていた。
 亜蘭の顔は逆光で見えない。
「何で食べられもしないのに牛タン弁当を持って行ったのよ」
 と海里は問うた。
「知らねーよ」
 と乾明人。
「なんでだ。
 言ってしまえ」
 と三銃士。
「知らねえーよ、ってんだろ」
「あのテキストにはこう書いてあった。
 リエラは、ユーミンのメロを聞くと股間が濡れる様に条件付けされた。
 パブロフの犬が、ブザーを聞けばヨダレが出る様に。
 でも、それだけでは、滑落しない。
 股間が湿っただけでは足を滑らせたりはしない。
 だから特別な仕掛けを用意したって。
 それがなんだかは書いてないけれども。
 そこにポツンと出てきたのが、この牛タン弁当。
 これで何をしたの?」
「知らねえよぉ」
「じゃあ私の想像を言ってあげる」
 と海里は言った。
「今日、蓮美に聞いたんだけれども。
 この紐、これを引っ張ると、生石灰と水と反応して熱が出るの。
 それを聞いた時に私は思った。
 もしかしたら、乾君は、生石灰をリエラのパンティーに仕込んでおいたん
じゃないか、と。
 それで膣液が出て、それを石灰が吸収して、発熱して……。
 それで、あちちちちとなって飛び跳ねて滑落した、と」
「バカ言ってんじゃね」
 と乾明人は手を打って笑った。
「想像力たくましすぎだね」
「だって、あの日、『アニー・ホール』の真似をして、パンティーを
プレゼントしたって、テキストに書いてあったじゃない。
 あんたが仕込んでおいたんじゃない?」
「馬鹿馬鹿しくて付き合ってらんねーな」
「そんなの警察が後で調べれば分かるんだから」
「じゃあ、調べてから文句言え」
「そんな事、ありえんのかなあ」
 と、剛田や三銃士らは、ざわついていた。
 小暮勇、城戸弘は沈黙。
 亜蘭は相変わらず西日の逆光の状態。
 海里は牛タン弁当を足元に置くと、大きくため息をついた。
「次に第二の事件。
 妃奈子の件だけれども。
 これも、犬山君の送ってくれた裏掲示板の書き込みで分かるのだけれども。
 それは、ストリートでインポテンツになって肛門性愛に目覚めた変態。
 変態といえば、城戸弘だけれども、今回の変態は…」
 言うと海里は又指さした。
 ズームイン。
「小暮君、あなたじゃないの、大迦葉は」
「おいおい、何で俺に矛先が向いてくる」
 と小暮勇。
「だって、部室で、眼球を舐めてほしいのは、メーテルに自分だけを
見てほしいからだ、とか言っていたのは城戸君だけれども、
小暮君もそう思ってから、だから、8組のメーテル、或いは如来さまの蓮美に
催眠をかけたんじゃないの?」
「はぁ?」
「は、じゃねーよ。
 星野鉄郎は男としてはメーテルにはもてない。
 だからメーテルに女性性器があったら他のオスがきて星野鉄郎は完璧な愛を
得られなくなってしまう。
『ごめんね、お母さんも女だったの…』みたいになってしまう。
 だからメーテルには女性性器はないから、肛門性愛しかない。
 そして、自分だけを見ていて、という事でしょう」
「なにを、精神分析医みたいな事を言っているんだよ」
「すっとぼけるんだったら、あんたにも、動かぬ証拠を突き付けてやる」
 言うと海里はスマホを出した。
「あんたは妃奈子に、J−WAVEのジングルを聞くと瞬きをするように
条件づけした。
 この私のスマホにもJ−WAVEのジングルを入れてあるの。
 今から、このスマホでJ−WAVEのジングルを小暮君に聞かせるわ。
 何が起こるかしら。
 さあ、三銃士、おさえて」
「おりゃあ」
 またしても上島竜兵の様におさえられる。
 海里は、小暮勇、に迫って行くと、スマホを小暮勇の耳に当てて再生した。
「JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE
エーリィワンぽいんスリー、ジェーウェーブ
JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE
ジェイ、ウェーブ グルーヴライン
JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE
JJJ、J−WAVE」
「ほら、ほら、見て見て、目が赤くなっていく」
 と海里。
「本当だ」
 剛田が覗き込んで言った。
「はなせっ」
 と三銃士を振りほどくと、小暮勇は目をおさえた。
「何が起こったか説明する。
 小暮君は妃奈子に、J−WAVEのジングルを聞くと瞬きするという条件づけ
をしたんでしょ。
 J−WAVEのジングルという刺激を与えつつ、キッスは目にして!
という刺激で瞬きをするという反応を引き出す。
 その内、J−WAVEのジングルを聞くだけで瞬きするという条件反射が完成する。
 でも、あの体育館倉庫はアンモニア臭かったのよ。
 つまり、あの時、アンモニアで目が染みるという刺激で、目が充血する反応が
起こっていたから、知らない間に、J−WAVEのジングルを聞くと目が充血する
という条件反射が完成していたのよ。
 それが、あなたが体育館倉庫にいたという動かぬ証拠よ」
「そんな事が起こるのかよ」
 小暮勇は目を擦っていた。
「じゃあ、どうして目が赤いのよ」
「そりゃあ…夕日のせいじゃないの」
 小暮勇は言い捨てるとそっぽを向いた。
 海里は、ふぅー、と大きくため息を一個。
「これで2つの事件は説明したわ。
 そして、最後に郁恵の事件」
 言うと遊歩道に立っている亜蘭を睨む。
 夕陽の逆光で相変わらず表情が見えない。
「あれも、条件づけだったの?」
 亜蘭は何もしゃべらない。
「条件反射なんて、腺、涙腺とかバルトリン腺とか、あと筋肉でも瞼とか
そういうところにしか出来なくて、腕を振り上げてナタを振り下ろすなんて
条件づけはあり得ない。
 そんな条件反射はないのよ。
 あれは、伊地家さんが意思をもってやったこと。
 でも、どうやってそんな事をさせたのか。
 それは、“転移”よ。
 そうでしょう?」
 言うと海里は手のひらをひさしにして亜蘭を見た。
「それを私は、警官に取り調べられる伊地家さんの言葉から思い付いた。
 伊地家さんは、指で額を押されて、深く椅子に座っていれば立てないのだ、
というトリックで騙されて亜蘭のいいなりになったって言っていた。
 私も、かつて、それと同じ事を同じ事をされていたの。
 私も額を指で押さえられて立ってみろって言われた事があるの。
 私もあの時、亜蘭はなんでも知っていると思ったもの。
 それは”転移”でしょう?」
 夕陽が陰ってきて、亜蘭の顔の輪郭が浮かびだした。
「それで分かった。
 梵天は亜蘭、あたなでしょう」
「じゃあ、なんで、乾や小暮が亜蘭のいいなりに?」
 と三羽烏の変態、城戸弘が言った。
「それは、彼の祖父のお寺がボヤを出して、修復に宮大工や仏具屋が必要に
なったから。
 乾君の家や小暮君の家は宮大工と仏具屋だから言いなりになったのよ」
「そっか、石屋の俺には出番はなかったのか」
 今や、海里と剛田、変態城戸弘と三銃士が亜蘭を見詰めている。
 乾明人、小暮勇、は項垂れて下を向いていた。
「あの胎蔵界曼荼羅の絵を貼ったのも亜蘭でしょう。
 バイクの3人もまさかあなたがやったの?」
 亜蘭は足元のじゃりを靴でじゃりじゃりやっていた。
 一回大きく蹴るとこっちを向いた。
「あれは事故だよ。
 ただあそこで、あと3人死ねば、あとは僕と君だけとは思ったよ」
「リエラも妃奈子も郁恵も、幼馴染じゃない」
「ああそうだよ。
 でもああした方がよかったんだよ。
 どうせあの胎蔵界曼荼羅のメンツは出来損ないで、娑婆に“なまぐさ”
をためるばかりだったから。
 さっさとみんなポアして、あの世に帰った方がよかった」
「なによ、“なまぐさ”を増やすって」
「リエラは、絶望して“なまぐさ”を増やす。
 妃奈子は、絶望に気が付かなくて、望花に嫉妬されて“なまぐさ”を増やす。
 そして、郁恵は、何もしらないけれども、伊地家に嫉妬されて“なまぐさ”
を増やす」
「ちょっと待って。
 バイクの3人だろ。
 あと、リエラ、妃奈子、郁恵の3人だろ。
 生き残りが亜蘭と海里の2人としたら、1体合わないじゃないか」
 と城戸弘が言った。
「そうよ」
 と海里。
「亜蘭がやったのは、“なまぐさ”が増えるあらポアした、なんていうの以外に
理由があるの。
 あの大日如来のXは誰?」
「そうだよ」
 こっちを向いて亜蘭が言った。
「君が想像している通りだよ。
 君の兄も成仏できるからだよ」
「私の兄が浮遊霊みたいなものでかわいそうだから、だから、みんなを殺したの?
 私の兄を殺してしまったという自責の念からみんなを殺したの?」
「そうだよ。
 みんな、生きていたって、“なまぐさ”を増やすだけだったら意味ないし。
 それだったら君の兄を成仏させる為にリセットしても、と思ったんだよ」
「その理屈で行くと、自分も死なないとならないのよ」
「そうだよ」
「じゃあ、私も殺す気?」
 亜蘭は鉄柵を掴むと、険しい形相でこっちを睨んだ。
「いや、まず僕がここで胎蔵界曼荼羅の中に戻るから。
 君もついてきて」
 いうと、亜蘭は西日のあたる鉄柵によじのぼった。
「おいおいおい、危ない危ない」
 と剛田が近寄ろうとする。
「来るな」
 と亜蘭。
「お前とは違って、僕は本当に“なまぐさ”をポアしてやるんだよ」
「なにぃ」
「いいか、見ていろ」
 言うと、鉄柵を上り切った。
 みんなを一瞥すると、またいで…。
 飛び降りていった。
「あっ」
 と剛田、三銃士らが声を上げる。
 0.数秒して、ぐしゃっと音がした。
 みんな、鉄柵にへばりつくと、下を見下ろした。
 上から見上げると、崖下で卍の様な恰好になっている。
「ありゃあ、死んでいるな」
 と三銃士と変態城戸弘。
 海里も鉄柵をつかんで、ぼーっと崖下の卍を眺めていた。
 それから、顔を上げるとみんなの方をぼーっと見てから、まだかすかに
オレンジ色に染まっている富士山を見た。
(自分も飛び降りれば、胎蔵界曼荼羅は全部揃うのか。)
 と海里は思った。
(そして、兄も成仏するのか。
 私だけ娑婆にしがみついているのがいい事なのか。)
 そして海里は突然、鉄柵に両手をかけて、右足をかけた。。
「何する気、ちょっと待って」
 と剛田は海里の足首を掴んだ。
 海里は足首を引っ込めると逆に剛田を蹴り返した。
「私らのことは放っておいて」
 言うと鉄柵に左足をかけた。
(よし、思い切って、)
 と左足で鉄柵をまたごうとした時、突然左腕と左足がしびれた。
「あっ」
 と短い声を出すと海里は道路側に転落した。
 そのまま失神した。
 剛田や三銃士が車座になって見下ろした。
「だいじょーぶか?」

 海里の家、後泉庵は小さな尼寺だった。
 玄関を上がると、書院、その隣に便所と台所、その隣がもう庫裏で、
茶の間と海里の部屋がつながっていた。
 玄関を右手に行くと、客間と塔婆置き場があった。
 その先の渡り廊下を行くと本堂があった。
 塔婆置き場には、修行中の尼僧が住み込んでいた。
 名を、恵妙と言った。
 じゃりン子チエみたいな感じ。
 恵妙の場合、修行とはいっても、日々精進料理を作っていて、
『やまと尼寺 精進日記』の様な生活をしていた。
 恵妙は、格別に、海里を可愛がっていた。
 だから、日々、海里の為に、消化のよい粥などを作った。
 しかし、月、火、水、3日間、海里は寝たきりだった。
 4日目に往診の大野医院のじいさんがきて、ぶどう糖液の点滴をした。
 点滴を終えて、茶の間に来ると、大野先生はコタツに足を入れた。
「まあ、若いから、1週間ぐらい食べなくても平気でしょう。
 その内食べますよ」
「そうですかあ。
 一人なくしているものですから、あの子は」
 と母親は言った。
「ほう、仏教では、死んでもあの世があるんじゃないんですか?
 お兄さんはあの世に行ったんじゃあ」
「個別の霊魂はないです。
 スピリチュアルじゃないから。
 人間は全て空です」
「そもそも、空というのはなんですかな。
 どう考えても実在している」
「空とは、真空パックをぐーっと引っ張ったようなエネルギーだけの空間ですかね。
 それを、ぎゅーっと圧縮すると、個体になって、ある様に感じる。
 でも、何もないんです。
 でも、そこにはそこかしこに汚れ“なまぐさ”がたまっていて。
“なまぐさ”も出てくる」
「“なまぐさ”とはなんですか。
 自然の事ですか。
 自然は美しくもあり醜くもあり。
 自然は美しいが排泄物は汚い」
「“なまぐさ”といったら、宇宙にただよっている汚れの事です。
 その汚れがこの娑婆に生まれた人間にも伝わってくるんですよ」
「宇宙と人間とはつながっているんですか」
「とかげのしっぽみたいなものですよ。
 宇宙がとかげの本体で、個体というのはしっぽみたいなものですよ。
 だから、ちょんぎれて死んでも、そもそも個体の意識とは宇宙の意識なんだから
悲しむ事もないし。
 又別のしっぽが生えてくるし。
 生まれ変わりといえば生まれ変わりだけれども、死んだとかげのしっぽが
生まれ変わる訳じゃない。
 そのしっぽのさきっぽである人間一人一人が生活の中で“なまぐさ”を
減らせばとかげ全体の“なまぐさ”も減らす事が出来るんですがねえ。
 若ければ“なまぐさ”を減らすチャンスもあるので、若くして死ぬのは残念です」
「まあ、若いから、じきによくなるでしょう」

 海里は5日目にやっとこ起き上がると、恵妙の作ったミルクでゆでた粥、
スジャータの乳粥を食べる。
 クラムチャウダーみたいな味がした。
 土曜も日曜も、恵妙は料理を作って、海里はよく食べた。
 翌週の月曜日に登校した。

 まだ誰もいない朝。
 もうすっかり冬の朝だった。
 冷たい空気でが鼻腔にすーっとした。
 身が引き締まる様な気分だった。
(今日は自分が日直だ。)
 黒板のところに行って、チョークを取り上げると、チョークのニオイまで
鼻腔で感じられた。
(病み上がりで神経が敏感になっているのかなあ。)
 黒板の日直のところに名前を書こうとした。
 すると又左手がしびれだした。
(まだ治っていないのか。)
 しかし、左手は勝手にチョークを握りしめ黒板にこう書いた。
「天寿全うするべし。あに」
 そして、チョークを落とすと、すーっとしびれはなくなった。
(これは、胎蔵界曼荼羅の兄からのメッセージだ。
 兄の魂は生きている。)
 人の気配がして、後ろの扉があいて、誰かが入ってきた。
 海里は急いで黒板消しで板書を消す。
 入ってきたのは蓮美だった。
「やあ、おはよう。
 ひさしぶりだね、もう大丈夫なの?」
 と蓮美。
「大丈夫だよ。
 今、ちょっとしびれたけれども、もう全然大丈夫だよ」
「ふーん、よかった」
 蓮美は前の方の自分の席についた。
 海里は廊下側の後ろの席に着くと蓮美の背中を見た。
「あいつも、胎蔵界曼荼羅には戻らないで娑婆に残っているのか。
じゃあ私もそうするか」
 それから海里はスマホを出して、グループチャット『比丘尼の小部屋』に
タイプした。
 海里:「そして 誰も いなく ならなかった」

【了】





#588/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  22/10/08  19:56  (  1)
期間限定UP>屋根の墜ちた家:愛及屋烏   永宮淳司
★内容                                         23/01/01 13:11 修正 第2版
※都合により、非公開風状態にしております。




#589/598 ●長編    *** コメント #588 ***
★タイトル (AZA     )  22/10/09  19:19  (  1)
期間限定UP>屋根の墜ちた家:愛及屋烏(承前)   永宮淳司
★内容                                         23/01/01 13:12 修正 第2版
※都合により、非公開風状態にしております。




#590/598 ●長編
★タイトル (sab     )  22/11/11  11:39  (299)
あるトラニーチェイサーの死1    朝霧三郎
★内容
(作者コメント。未校正です。使い回しが多いです)。

登場人物一覧

小川浩二 警備員。佐藤浩市似。30歳。
大川 警備員。柄本時生似。32歳。アニメオタク。
蛯原 マンション管理員。立川志の輔似。60歳。
北野 警備員。62歳。
石松美也子 コンシェルジュ。藤谷美和子似。28歳。趣味はサーフィン。

小林達也 池袋署の巡査部長。江口洋介似。35歳。
加藤凡平 池袋署の巡査部長。高木ブー似。33歳。
佐伯明子 池袋署の巡査。渡辺満里奈似。私立大学(院)で心理学を専攻していた。
25歳。

アリス。ニューハーフ風俗のシーメール。目元が蒼井優似。20歳。
マキコ。ニューハーフ風俗の受け付け。マツコ・デラックス似。28歳。


【本編スタート】

 小川が警備員をやっている池袋のマンションは、24時間友人管理だのコンシェ
ルジュが居るだのと、マンション管理のクオリティの高さを売りにしていたが、中
身的には、去年竣工したばかりで、管理会社は施主の子会社(本通リビング)の更
に下請けの清掃会社に丸投げされていて、管理員もコンシェルジュも、その清掃会
社がかき集めてきたパートにすぎなかった。

 小川ら24時間警備員も、マンションの新築工事の時に交通誘導警備をやってい
た人間が、そのままスライドしてきてマンション警備員になっただけで、施設警備
に関しては全くの素人で、火災報知器の消し方も防犯カメラのデータの巻き戻し方
も知らなかった。
 ただ、下請けの清掃会社に言われた通り、定時巡回をする程度だった。
 もっとも、夜中の2時、丑三つ時に、自走式駐車場の壁面緑化の為に、駐車場の
壁面のU字溝に仕込まれている砂漠でも枯れない草、が入ったビニール袋につなが
ったビニールチューブ、に水を流す為に、駐車場一階の水道の元栓を開けに行かな
ければならないという面倒な作業もあったのだが。

 しかし、このバカバカしい水やりも、居住者の車は濡らすわ手間ばかりかかるわ
で、撤去する事になっていて、昨日もその足場を業者が来て組んで行ったのだった
。しかし、安普請の足場の為か、すぐに一回崩れて、再度組み直したものの、今は
、赤いカラーコーンとトラ柄のバーで、立ち入り禁止になっていた。
 今宵も、小川が、このバカバカしい水やりが終わって、管理室に戻ってくると、
時刻は3時だった。キンコンと管理室内のアイホンのチャイムが鳴った。防犯カメ
ラのモニタを見ると、新聞屋だった。モニタの隣にある盤の中にあるスイッチを押
して正面玄関の自動ドアを開けて入れてやる。新聞屋は朝日、読売、産経、毎日と
4人通さなければならなかった。

 新聞屋を通してしまうと、やっと人心地ついた感じで、小川は管理員室の真ん中
に置いてあるデスクの椅子に座ると、がーっとのびをした。
(これで朝までは何もないだろう)
 考えてみると、深夜の管理員室はまったりする。
 家電量販店並の明るさ。右手に玄関ポーチに続く鉄扉、左手にカウンターに続く
鉄扉がある。正面に監視カメラのモニタや防災盤があって、そっち側からファンの
音が響いてくる。後ろにはNTTの盤が並んでいる。右側にホワイトボードがあっ
て1ケ月分のスケジュールが書かれている。左奥がキッチンになっていて、冷蔵庫
だの電子レンジだのがあるのだが、パーテーションで隠されていて見えない。
 デスクの上にはネットの使えるPCが1台あった。
 小川は、加熱式たばこをふかしながらyoutubeで「ゆず」などを再生した。
(まったりするわー)
 突然「キンコン、キンコン、キンコーン」とアイホンのチャイムが鳴り響いた。
 監視カメラのモニタで見ると誰かがエントランスの自動ドアに寄りかかっている。
 フロント側から出て行って、自動ドアの内側に立つと、ドアが開いた。
「いやー、酔っぱらっちゃって、鍵をどっかにやっちゃったんだよ。ナルソックを
呼んでくんない? マスターキーみたいなの、持ってないの?」スーツを着た酔っ
払いが酒臭い息を吹きかけてきた。
「管理室の壁にナルソックしか開けられないキーボックスが埋め込んであるんです
よ」
「それはお前らは開けられないの?」
「そりゃあ、ホームセキュリティーの契約をしているのは、居住者様とナルソック
ですから」
「じゃあ、お前はなんだよ。ただのカカシか。カラスでも追っ払う」
「でも、ナルソックだって、管理室に入るには私らが付いていないと駄目なんです
けどね」
「なに言っていやがんだ。いいから早くナルソック呼べ」
 言うと、フロントのカウンターにもたれかかってタバコを吸いだした。

 10分でナルソックが到着すると、免許証で本人確認を行う。
 小川はナルソックを管理室に入れてやった。
 ナルソック隊員は、ホワイトボードの後ろの壁に埋め込まれたキーボックスの前
に行くと、磁気カードをかざした。ブーっと音がして、赤いランプが点滅する。素
早くキーボックスの扉を開けて、鍵を取り出すと、扉を閉める。もう一回ブーっと
音がして、ガシャンと扉が施錠される音がした。
 ナルソック隊員と酔っ払いサラリーマンを、二重オートロックの2つめを通して
やる。
「すみませんねえ、酔っぱらっちゃって」と、酔っ払いも、ナルソックには全然態
度が違っていた。

 ほんの10分でナルソックが帰ってきた。
「あの居住者、鍵、持ってましたよ」
「あ、そう。じゃあ、眠いからさっさと帰って」
「ちょっとすみません、作業がありますんで」と言うとナルソック隊員は、なにや
ら作業を開始した。
 使用した合鍵の先端部をビニールで覆い、その上を10桁の数字の書かれたシー
ルで封印し、シールの半券を封印台帳に貼り付けてアタッシュケースにしまう。封
印された合鍵は、再度キーボックスを磁気カードで開けると、そこにしまう。
 そういう作業の間にも、例えばアタッシュケースを開ける為に腰に付いているキ
ーホルダーに手を伸ばすなど、隊員が体をよじっただけで、防弾チョッキの様なダ
ウンベストにぶら下がっている特殊警棒だの無線機だのががさがさ音を立てるのだ
が、(あれは何か「ロボコップ」のオムニ社の隊員の様で、クールじゃないか)。
 小川も紺の上下の制服を着ているが、どっちかというと菜っ葉服っぽい。
 小川の眼差しは羨望の眼差しに変わっていた。
「お前なんてどうせナルソックの正社員じゃないんだろ」と小川は言った。
「そりゃあ、雇用形態は色々ありますけれども、ナルソックの隊員です」
「どうせどっかのアパートで待機していて連絡があると出向いてくるんだろう。つ
ーか、俺の事、キーボックスも開けられないパートだと思ってバカにしてない?」
「していませんよぉ」
「しているよ。ぜってー。見下している」
 などというどうでもいいやりとりがあって、ナルソック隊員は引き上げて行った。

 結局その日は朝まで一睡も出来なかった。
8時になって次の24時間警備員の福山が出勤してきた。
 着くなり、警備員にあてがわれている一番上の引き出しから太田胃散を出すと一
匙口に含んで、キッチンコーナーに駆け込む。これは、夜勤明けと同時にアニメを
見ながら次の出勤まで酒を飲むという生活をしているので二日酔いなのであった。
「福ちゃん、着替えたら見せたいものがあるから来て」
「んー」と寝ぼけた顔でこっちを見ながら、福山は、フロント側のドアから出て行
った。ラウンジから裏口に続く廊下の途中に半地下のボイラー室があって、そこが
警備員の更衣室になっていた。といっても、プラの収納ボックスが一個ずつあるだ
けだが。
 福山が、警備服風作業着に着替えてくると、小川は彼を連れて玄関側の鉄扉から
ポーチに出た。
 空模様はところどころ青空が透けて見えるものの全体としては雨雲に覆われてい
た。
「もう梅雨だな」と小川。
「うん」
 左に旋回して、ゴミ箱置き場と自走式駐車場の入り口のシャッターを見やりなが
ら、裏エントランスに通じる通路に入る。10メートル程度、駐輪ラックが設置し
てあって、その先は駐車場の壁面が露出していた。壁面緑化の効果は全く不十分で
、砂漠でも枯れない草は、あちこちぼぞぼぞと生えている程度だった。壁面には足
場が組んであって、下部には赤いカラーコーンとトラ柄のバーがあって、立ち入り
禁止になっている。
「福ちゃん、ここ絶対に入らないでよ。一回倒壊して作業員がケガしているから。
又何時崩れてくるか分からないからね」
「うん」
「分かったのかよ」
「分かったよ。でも、居住者は大丈夫なの?」
「だから、このトラ柄のバーで立ち入り禁止になっているんだよ。まあ、すぐに、
あの緑化の草が撤去になって、足場もなくなるけれどもな」
「あの草なくなるんだ」
「ああ」
「じゃあもう水やりは無くなるね」
「ああ、仕事が減っていいや。しかしその前に」と言うと小川は足場に手をかけた
。ぐらついて、カンカンと鉄パイプのぶつかる音が聞こえてくる。「俺が、足場の
下敷きになって死ぬかもな」
「何で?」
「俺、死んでもいいやと思ってんだよ。お前、そう思う事ない?」
「ある訳ないじゃん」
「俺は時々思うよ。殉職するのは恰好いいとか。ずーっと「太陽にほえろ!」のマカ
ロニの殉職の回を見ていたけど、夕べナルソックがきて思ったんだけど、オムニ社
のロボコップみたいに、こういう鉄骨の下敷きになって死ぬのも恰好いいかなあと
思って。つーか「ロボコップ」に似たシーンがあるんだよ」
「止めてくれよ。やるんだったら、俺のいない時にやってくれよ」
「まぁ、お前には迷惑かけないから」

 管理室に帰ると、コンシェルジュの石松が3人前コーヒーを入れていた。福山の
と小川のと自分のと。
 主任管理員のは入れてあげない。意地悪からか。それとも、そもそもコーヒーな
んて自分で勝手に入れるものだから、たまたま福山と小川が居るから一緒に入れた
だけで、主任管理員のはまだ出勤していないから入れないだけか。
(でも、何で俺にも入れてくれるんだろう。無視している癖に。福山と二人分じゃ
あ露骨すぎるからか)
 石松は、コーヒーをスチールデスクの上に置きながら「おはようございます」と
こっちに微笑してきた。
 しかしあの微笑は福山にであって自分は無視されている、と小川は思っていた。
(今日こそシカトの動かぬ証拠を掴んでやる)
 3人でコーヒーを飲むと、なんとなく世間話をする感じになった。
 小川は見えない様に、手で隠しつつ、Apple WatchのボイスメモAppを開いてボタ
ンをタップした。
「だんだん梅雨っぽくなってきたけれども、洗濯とかどうしてます?」と小川。
「福山さんは、洗濯、どうしているの?」と石松。
「部屋干しだな」
「IKKOが「おったまげー」とか言っているのが凄いらしいよ。でも梅雨なんてすぐ
終わるよ。すぐに夏本番だよ。石松さん、サーフィンとか行くの?」
「福山さんは、オタクの夏休みは?」
「夏はコミケだよ」
「コミケに似ているけれども、レインボープライドっていうLGBTのイベントが
あって、もうすぐ終わるって、ニュースでやっていた」と小川。
「「マツコの知らない世界」で、オタクが経済支えてるって言っていたわよ。「ら
き☆すた」の聖地巡礼で経済効果30億円とか」と石松。
「でも、オタクが聖地に殺到するのって、ウザいって言われているんだよね」と福
山。
「旅行だって、LGBTの市場規模は20兆円とか言われているんだよね。LGB
Tにフレンドリーになれば、LGBTインバウンドが増えるよ」と小川。
「アキバのオタクツアーのインバウンドがすごいんですってね」と石松。
「あんまりグローバル化されても荒らされちゃうよ」と福山。
「そんな事ないよ。サンフランシスコみたいにオープンになればいいんだよ。あそ
ここそLGBTの聖地だからなあ。♪夏には愛の集いがあるでしょう…」
「夏になったら、コミケだものね。コミケに行く人って、みんな単身者なの? 家
族連れもいるの?」
「コミケなんてみんな独り者だよ」
「最近、Eテレの「バリバラ」でLGBTが好きな人と好きな場所で暮らしたいと
かやっていたけれども、そういう系の番組が多いよ」と小川。
「福山さんは家族はいらないの? 生涯未婚だと67歳で死んじゃうんだよ。やっ
ぱちゃんと家族をもった方がいいんじゃないの? 今度紹介してあげようか。ねえ
、どう? その気ない?」

 ここまで話したところで、主任管理員の蛯原が登場した。
 真っ黒に日焼けしていて、肝臓でも悪いんじゃないかと思えるぐらいだ。
 髪の毛がイノシシ並に濃くて、自分でカットするから、毛足が豚毛歯ブラシみた
いになっている。
 Yシャツのボタンを3つぐらい外して、ネクタイをぶら下げて、ニットのベスト
を全開にして、開店前のスナックのマスターみたいないでたち。
 まずデスクにスマホとタバコを置く。俺の領土、みたいに。
 石松と福山は監視カメラのモニタの下へ、小川はフロントへ、と、蜘蛛の子を散
らす様に離れて行った。
 蛯原は、キッチンコーナーでインスタントコーヒーを入れると持ってきて、タバ
コの横にどんと置いた。
(こぼさないかなあ)と小川は思った。(こぼせばいいのに。そうすればPCの裏
から吸い込んでおシャカになる)
 蛯原はスチールデスクに半けつを乗せると、ばさっと新聞を広げた。
(ありゃ何気取りだ)カウンターから眺めつつ小川は思う。(デカ部屋の刑事コジ
ャックみたいな積もり? しかもタンソクだからつま先しか床に付いていないし)
「早く引き継ぎ、やってよ」と福山。
「じゃ、やっちゃいましょう」ネクタイを締めながら蛯原が集合を掛ける。
「おはようございます」と蛯原。「じゃあ、まず、コンシェルジュの石松さん、何
かありますか」
「何もありませーん」
「じゃあ、警備員の小川さんは」
「何もありませーん」
「じゃあ、私の方から。まず大ニュース。本通リビングのフロントから連絡があっ
て、管理会社が変わるかも知れないって」
「えっ。じゃあ俺らは」と福山
「まあまあ、経緯から聞いて。
 管理組合に山田というマンション管理士が入り込んでいたろう。
 あれが、管理会社を変えれば管理費が70%に抑えられるから、かわりに節約で
きた分の1年分の半分をよこせ、という提案をしていて、それを管理組合がのんだ
らしいんだよね。
 それで、多分、本通リビングから四菱地所コミュニティというところに変わるら
しい。
 もっとも、四菱地所コミュニティだって正社員に管理員やコンシェルジュをやら
せる訳じゃないので、どうせ派遣社員を採用するなら、今の主任管理員とコンシェ
ルジュ、私と石松さんを採用するかも、っていう話です」
「警備員は?」と福山。
「それが、四菱地所コミュニティは西武系の警備会社を使っているっていうんだよ
ねえ。だから、四菱地所コミュニティの口利きで、その西武系の警備会社のパート
にでもなれれば、警備員も雇ってもらえるかも」
「ずりーな。管理員とコンシェルジュだけスライドして、警備員はお払い箱かよ」
と福山。
「だから、警備員もスライドして採用されるかも、って」
「どうだか」
「とにかく、近々連絡があるって言っていたよ」
「ふん。又交通整理のバイトかなあ。あれ、夏場にやるとゴキブリみたいに焼けち
ゃうんだよなあ」

 小川がボイラー室に着替えに行くと、これから1回目の定期巡回に行く福山もつ
いてきた。
「やっぱり、石松はシカトこいていたな。今日は動かぬ証拠をつかんだから、お前
にも聞かせてやるよ」
 左腕を付き出してApple Watchを袖から露出させると、ボイスメモAppを操作して
再生する。
「「だんだん梅雨っぽくなってきたけれども、洗濯とかどうしてます?」と俺が問
いかけているだろう。だけれども無視してお前に、
「福山さんは、洗濯、どうしているの?」と聞く。
「IKKOが「おったまげー」とか言っているのが凄いらしいよ。でも梅雨なんてすぐ
終わるよ。すぐに夏本番だよ。石松さん、サーフィンとか行くの?」
「福山さんは、オタクの夏休みは?」
 な。俺が石松に問いかけているのに、シカトして、お前に話しかけているだろう」
「そんなの偶然だよ」
「偶然じゃない。」
 更に再生。
「「サンフランシスコみたいにオープンになればいいんだよ。あそここそLGBT
の聖地だからなあ。♪夏には愛の集いがあるでしょう…」
「夏になったら、コミケだものね。コミケに行く人って、みんな単身者なの? 家
族連れもいるの?」
 ほらな、俺が石松に問いかけているのにシカトしてお前に言うだろう」
「それはお前が、LGBTとか言うからだよ。そんなのセクハラだよ」
「あー、俺、LGBTになっちゃおうかなあ。そうすれば、職場での人間関係も、
性的マイノリティの悩みであって、オスの悩みじゃないから、女々しくはない感じ
にならない?」
「へぇ?」
「お前、西武系の警備会社の話はどうするんだ」
「俺は、西武になるなら行くよ。ナルソックに威張れるかも知れないじゃない」
「俺は嫌だね。高校の時に居たんだよ、西武なんとか台に住んでいて、親が西武線
で西武の会社に通っていて、買い物は西武で、野球も西武、休日の行楽は西武園、
みたいなやつ。何でそこまで社畜にならないといけないのかって思っていたけど。
 俺は実家が西武ひばりヶ丘だから、そんなのが多くてね。
 あー、俺、警察官になればよかったな。桜田門なら西武より格上だろう?」
「分からないよ。でも、山口県の方には民間委託の刑務所もあるっていうし、その
内ナルソックとかが警察を兼ねるんじゃないの? オムニ社みたいに」
「自衛隊はどうなんだよ。ワグネルとかになるんじゃないの」
「もう除隊したし」
「自衛隊にはLGBTっているのかよ」
「いないよ」
「韓国の軍隊でトランスジェンダーが自殺したよな。あれは可愛そうだと思ったよ
。泣きながら記者会見する彼女を見て。それで思ったんだけど、ナショナリズムよ
りもLGBTの連帯の方が優先されるんだなーって。普段嫌韓、ネトウヨでも、L
GBTなら連帯出来るんだよ。つまり、トラニーになれば、もう、石松は勿論、西
武とも戦わなくていいってことだ。だって韓国と戦わなくていいんだから」
「トラニー?」
「お前、トラニーって知らないの?。女より可愛いんだぜ」
 小川はスマホ取り出すと、porntubeで、Ellahollywood(エラハリウッド)の動画
を見せてやった。
「すげーだろう。上半身はエマワトソン、そして下半身には白っぽいペニスが生え
ていて、いいと思わない?」
「…」
「お前には無理かもな。自衛隊員だものな。
 あー。いっそのこと、女性ホルモンを飲むかな。トラニーになればもう戦わなく
ていいから。
 でも、これトラニーに言うとすげー怒るんだよな。ホルモンを遊びに使うなって」




#591/598 ●長編    *** コメント #590 ***
★タイトル (sab     )  22/11/11  11:40  (300)
あるトラニーチェイサーの死2    朝霧三郎
★内容
 梅雨入り前で、蒸し蒸ししていて、駅まで歩くのがだるかった。
 ダイヤゲート池袋のアンダーパスにもぐりこんところで、ホームレスが、ビッグ
イッシューを売っていた。スニーカーがボロボロだ。
 こんな貧しい人がいるのに、西武はこんなにごついビルを建てる程銭があまって
いる。
(そんなに同情していられない。あとちょっとで俺もビッグイッシューを配らない
とならなくなる)
 駅の近くまで行ったら、偶然、靴の量販店にナルソックのワンボックスが到着す
る場面に出くわした。売上金の回収に来たらしく、警備員の一人がジュラルミンの
ケースを抱えて店内に入って行くと、もう一人が特殊警棒をカシャ・カシャ・カシ
ャと伸ばして、通行人を威嚇するように反対側の手の平を打っていた。
(この野郎。警察でもない癖に格好つけやがって。ちょっと因縁つけてやろうか。
でもやめた。ナルソックも裏で警察とつるんでいるかも知れないから。何しろ刑務
所を経営するぐらいだから。オムニ社と同じだ)

 池袋駅から埼京線に乗り、赤羽で京浜東北線に乗り換えた。
 電車はすぐに荒川橋を渡りだした。
 レールのつなぎ目の音がコツンコツンと鉄橋に響いていた。
 電車が徐行すると、車窓から緑地で野球をしている人達が見えた。
 窓の上半分が開放されていて、なまぬるい6月の風が入ってきていた。
 何時も小川はここで妄想を開始する。
 突然、連結部のシルバーシートのあたりに、「太陽にほえろ!」の関根惠子巡査が
浮き出てきたのだ。
 窓から、緑地のグラウンドの方が見ている。
 陽の光受けた惠子巡査の横顔は、ローマのコインに彫刻してもいいぐらいの美形
だった。
 日差しに目を少し細めていて、髪の毛が窓の上半分から入ってくる風になびいて
いた。
 電車は徐行していて、トラス構造の鉄橋の斜材の日影が惠子巡査にカシャ、カシ
ャっと差していた。
 突然連結部のドアが勢いよく開くと、な、なんと悪役商会、丹古母鬼馬二と八名
信夫が乱入してきた。
 丹古母が勢いをつけて惠子巡査の隣に座り込む。
 そして、匂いでもかぐように顔を近づけて、目をぎょろぎょろさせながら迫って
いく。
 惠子巡査は体を小さくした。
 つり革にぶら下がっている八名が言う。
「よぉ姉ちゃん、真っ直ぐ帰ったってつまんねーだろう、これから俺たちとどっか
行こうじゃねえか、カラオケでも行こうじゃねえか、よお」
 そして丹古母は考えられる限りの下品な笑い方で笑うと、首筋あたりをめがけて
、べろべろべろと舌を出す。
 電車ががくんと揺れた。
 八名が、「おっーっと」と言って身を翻すとそのまま惠子巡査の膝の上に座って
しまう。
「電車が揺れたんだからしょうがねえや」
「やめろーッ」叫ぶと小川は敢然と立ち上がった。
 二人は、一瞬あっ気に取られた様にこっちを向く。
 なーんだ兄ちゃんか、という感じで、惠子巡査を放置すると肩をいからせてこっ
ちに迫ってきた。
「なんだこのあんちゃん。スポーツでもするか」
 言いつつ八名がこっちの襟を掴みにくる。
 すかさず小川は手で払った。
 おっ、猪口才な、みたいな顔をして更に手を突っ込んでくる。
 それを又払う。
 ネオ対エージェント・スミス、みたいな組み手をしばらくやるのだが、丹古母が
、遠巻きに小川の背後に回ると、懐からドスを抜いた。
 そして卑怯にも背後からドスで小川の背中を袈裟切りに切り付ける。
 白いワイシャツが裂けて背中の肉もざっくりと切れる。
「キャーッ」と悲鳴を上げて惠子巡査が顔を覆う。
 しかし小川はがっばっと丹古母の方に向き直ると、超人ハルク並のパワーを発揮
して、まるで紙袋でも丸める様にぐしゃぐしゃにるすと放り投げてしまう。
 今度は八名に向き直ると、「ちょっと待ってくれ。話せば分かる」
 などと泣きを入れてくるのを無視して、同様にぐしゃぐしゃにして放り投げる。
 ……電車が反対方向の電車とすれ違って、窓ガラスが風圧でバーンと鳴った。
 妄想から覚めた。
 電車が行ってしまって静かになっても、もう妄想の続きはなく、惠子巡査は現れ
ない。
 なんとなく背中に手を回したがシャツが切れているわけもない。
(あのまま妄想が続いていたら、俺は殉職していただろう。
 シャツが切れて肉もさけて、そっから出血して出血死する。
 惠子巡査が覆いかぶさる。
「死なないで、死なないでー」
 しかし俺は息を吹き返す事はなかった。
 …萌える。
 自分の死に萌える。
 何でだろう。
 何で俺は殉職したいんだろう)
「京浜東北線の南浦和行きです。次の停車駅は川口です」
 という車内アナウンスで我に返った。
 しかし、何故殉死したいのかという謎はしばらく脳内を駆け巡っていた。

 西川口駅で降りるて、駅前通りから陸橋通りに入って、陸橋とは逆方向に5、6
分行った、中山道に近い辺りに、小川のヤサはあった。
 1階が布団屋で2階から上が1Rアパートになっている。
 誰も居ない部屋に入ると、玄関脇のキッチンの冷蔵庫からペプシを取ってきて、
居室に入った。
 机に腰掛けると、引き出しからアイコスを取り出して、タバコステックを差し込
むと、すーっと吸い込んではーっと吐き出す。
 吐き出された煙はエアロゾルですぐに霧散した。
 とりあえずコーラを飲みながら一本吸い尽くす。
 吸い殻は、薬瓶に入れてギュッと蓋を締めた。
 さて、小川はベッドに移動すると、造り付けのクローゼットを開けて、ダンボー
ルを出した。「自分が死んだら開けずに捨てて下さい」とマジックで書かれている
。それを開けると数々の大人のおもちゃが入っていた。みちのくディルド、アナル
プラグ、アネロスなどの中から、アナルビーズ(8連。先端のビーズは1センチ、
根元のは2.8センチ)を取り出した。
 とじ紐を3本つなぎ合わせて、アナルビーズのコックリングに結びつけた。
 机の中にあったコンドームを取り出すと、アナルビーズにかぶせた。
(こういうことをするのはこれが初めてじゃない)と小川は思った。
(そもそも最初から、精通の時から、俺はおかしかった。
 精通したのは中二だったが、あの頃は性に関しては全くの無知で、俺のペニスは
、包皮がカリんところに溜まった恥垢にひっかかって剥けないでいたのだが、あれ
を無理に剥くと、えんどう豆の様に脱落するんじゃないかと思っていた。
 それでも入浴の度に、少しずつ溶かしていって、そしてとうとうある晩剥け切っ
た。
 生後十四年にして、とうとう外気に触れた自分の亀頭。
 最初は皮を剥いて突っ張らせて膨張させることだけで快楽を得ていた。
 ただ、あの頃から 肛門の疼きはあって、自然とアナルをいじるようになった。
 それがエスカレートして、ペンやらドライバーやらリコーダーを枕元に並べてお
いて、夜な夜なアナルへの挿入を楽しむ。
 そうしてとうとう或る晩射精したのだが、それは包皮を強く剥く事と肛門への刺
激のみによる精通だった。
 だからって別にホモじゃない。
 じゃあどういうプレイがいいのか、というと…)
 追憶から目を覚ます様に頭を振ると、小川は、アナルビーズを持って、ベッドに
移動した。
 ベッドの向こう側の真ん中へんにクローゼットの取手あるのだが、そこに紐を縛
り付けた。
 ペペのローションをアナルビーズにたらすと、指先で入念に塗りつけた。
(これで準備オッケーだ)
 ベッドに横になって、仰向けに寝て両足を開いてみたり、左横向きに寝て左手で
ハンケツを掴んで右手で挿入をこころみたり、結局、左横向きに寝て金玉鷲掴み、
右手の人差し指でアナルビーズの一個目を肛門に押し付けた。
 括約筋がビーズを押し戻そうとするが、力を入れると、ヌルッっと吸い込まれて
いった。二個目以降は、アナルビーズを引っ張れば括約筋が吸い込もうとするので
、その勢いで吸い込む様にする。そうやって、とうとう8連の全部を直腸に入れる。
 両手を前に回して、右手でペニス、左手で睾丸を握った。
 そういう状態で、腰の動きだけで、アナルビーズを抜こうとしては、括約筋を締
めて肛門内に吸い戻す。
 アナルビーズの丸みが括約筋を刺激するたびにペニスがびくびくするのを更に手
で揉む。
 そして小川は妄想の中へ沈んでいった。
(ここはどこだ。
 ここは京浜東北線の駅の医務室か。
 俺は丹古母鬼馬二に切られた背中の傷の為にここにいるのか。
 いや違う。
 ここは警察病院だ。
 俺は、京浜東北線で瀕死の重傷を負ったが、そこで、殉死する筈だったが、奇跡
的に助かったのだ。
 薄暗い警察病院のカーテンの向こうから、ナイチンゲールの格好をした関根惠子
が現れた。
 惠子はかがみ込んで俺の顔を覗いた。男前な顔が間近に見える。
「包帯の交換にきました」
 ピンセットやガーゼの乗ったトレイをもったまま惠子は背後に回った。
 それから、かちゃかちゃ音を立てて準備をしていたが、やがて、傷口に詰め込ん
であるガーゼを取り出す。
「いたッ」
「我慢して」言うと、惠子は背中で処置を続ける。
 それが終わると、こっちの二の腕に手を乗せて耳元で
「まだまだ肉が盛り上がってくるまでには時間がかかりそうだわ」とささやいた。
「じゃあ体を拭きます」
 惠子に背中を拭かれる。腰のあたりから、尻の膨らみのあたりまで拭かれる。
「あ、お尻の刃物の傷跡も消毒しないと。でも、大量の出血で肛門に血が流れ込ん
でいる。これだけ入っているとお湯で拭いただけでは無理ね。捲綿子で取り除かな
いと」
 惠子はまず、尻のほっぺを広げて肛門を露出させて、大雑把に肛門周囲をタオル
で拭いた。
 それから、親指と人差し指で、ぐーっと肛門を広げると、捲綿子を挿入してくる。
 血で汚れた捲綿子は鉄の皿に捨てられた。
 惠子は更に指に力を入れて思いっきり肛門を開くと、二本目の捲綿子を突っ込ん
でくる。ぐりぐりぐり。
 そして、汚れた捲綿子を捨てる。
 やがて血は綺麗に取り除かれて、ピンクの直腸粘膜が現れた。
 丸で十四年ぶりに恥垢が取り除かれた亀頭の様に綺麗なピンク色をしている。
「ほら、こんなに綺麗になった」惠子はこっちの二の腕に手を乗せると俺の顔を覗
き込んだ。
「それじゃあ肛門の内側にクリームを塗っておきますからね。必要な処置ですから
くすぐったがらないで」
 言うと惠子は、クリームを乗せた指2本を肛門に滑り込ませてきた。
 ずぶずぶずぶ。
「ああーっ」
「我慢して」
 クリーム擦り込ませるために、肛門の内側にぐるり一周指を這わせた。
 ぬるぬるぬる。
「あっ」
 更にもう一周、ぬるぬるぬる。
「あーーーッ」
「はい終わりましたよ。今度は奥の前立腺の方にも塗りますからね。これは、治療
上必要なことだから恥ずかしがらないで」
 言うと指2本を付け根まで挿入させると、前立腺側を、ぐりぐりぐり。
「あーーーー」
「もう少し我慢して」ぐりぐりぐり〜。
「おおーーーー」)
 そしてリアルの小川は大量の射精をした。
 ぴゅっぴゅっ、とペニスが痙攣する度に括約筋が閉まって、アナルビーズがギュ
ーッと吸い込まれる。
 しかし既にそれは性的な快楽ではなくて、排便の際の肛門の感覚に成り果ててい
た。
 はぁーと小川はため息をついた。
 ティッシュの上に放射線状に撒き散らされた精液からは、かすかな栗の花の匂い
が立ち上ってくる。
 肛門からアナルビーズを取り出してコンドームを外した。便はついていなかった。

 机のところに戻ると、丸で一仕事終えたみたいに、又タバコに火をつけた。
 スーッと一吸い。
 PCを立ち上げたるとyoutubeを開いた。
 射精の後は何故か、プロラクチンが分泌されるからか、賢者タイムで、芸術的な
気分になった。
(音楽でも再生しようか。でも今日は…)
 再生したのは、「ロボコップ」一場面「Movie CLIP - Sayonara, RoboCop!」。
 何時もこういうタイミングで見るのは、女の為に殉死するという類のものが多い
。例えば「タイタニック」でローズの身代わりになって冷たい海に沈んでいくディ
カプリオとか。「砲艦サンパブロ」で揚子江の上流にキャンディス・バーゲンを助
けにいって中国の兵隊に狙撃されて死ぬスティーブ・マックイーンとか。
 しかし今日はより血なまぐさいのが見たくて「ロボコップ」の廃工場のシーンを
再生した。
 廃工場の水たまりにアン・ルイス隊員がケガをして尻餅をついている。
 そこに銃をもった悪党のボス、クラレンスが迫る。
「バイバイベイビー」と銃口を向けるが…。
 しかし、ロボコップ参上「クラレンス!」
 と思いきや、子分のレオンが高所で、クレーンの操作室へ走って行くではないか。
 アン・ルイスは対戦車砲バレット82に近付くが、
 クラレンスは銃を捨ててニヤつく。「OK、ギブアップだ」
「もう逮捕したりはしない、処刑だ」
 しかし、クラレンスはロボコップをおびき寄せていたのだった。
「まあまあ、ちょっと待て」
 何も知らないロボコップは近付いて行く。
 操作室のレオンが、モノレバーを操作して、UFOキャッチャーのクレーンみた
いなのに掴まれている鉄骨をロボコップの頭上に移動させる。
「まあまあ、ちょっと待て」と更におびき寄せる。
 ちょうどクレーンがロボコップの頭上に。
 操作室でモノレバーを引くレオン。
 大量の重量鉄骨がロボコップを直撃する。
「やったぞ、クラレンス、ロボコップをやった」
 しかし、操作室のレオンはアン・ルイス隊員の放った対戦車砲で木っ端みじんに。
 クラレンスは驚くが、とがった鉄パイプをもつと鉄骨の下敷きになっているロボ
コップを襲いにくる。
 鉄パイプを振り下ろすクラレンス。
 最初の2発3発は腕で跳ねのけるが、クラレンスは両手で握って振りかぶると、
とどめを刺す様に胸部にぶっさしてて、ぐりぐりぐり。
「うぉーーーーー」と絶叫するロボコップ。
「さよならロボコップ」
 ロボコップ絶命か。
しかし、ロボコップはデータアクセス用ニードルを手の甲から突き出すとクラレン
スの頸動脈をぶっ刺す。
 血しぶきがぷしゅー。
 クラレンスはのたうち回って絶命。
 あのままロボコップは殉職するのだろうか。アン・ルイスの見ている目の前で。
(俺も、関根惠子、或いはナンシー・アレンの見ている目の前で、絶命したい)

 小川はスマホを出すと、トラニーのアリスにショートメールを送った。
>貸してくれた「ロボコップ」返さないと。
>youtubeでロボコップが、廃工場でクレーンで、
>鉄骨を落とされてぶっ潰れるシーンを見付けた。
>繰り返し見ている。
>そういえば、勤務先のマンションに崩れそうな足場がある。
>あれの下敷きになれば同じ様に死ねるのか。

 高田馬場にあるニューハーフ風俗、リブレ高田馬場は、賃貸マンションの一室を
事務所兼店舗にしていた。
 マンションの玄関を開けると受け付けのカウンターがあって、その向こう側にリ
ビングがあって、突き当りの引き戸を開けると、トラニー達の詰め所の和室になっ
ていた。
 和室の外にベランダがあって、トラニーのアリスは、加熱式たばこを吸いながら
スマホで喋っていた。
「そもそもこっちはちんぽを切って女になりたいんだから、元々は女でしょう? 
それをトラニーチェイサーというのは、ちんぽのついている状態を求めてくるんだ
から」
「うん」
「もう、歪んだ性欲をこっちに向けてくる段階でムカついているのに、それに加え
て、遊びでホルモンやってみたい、なんて言っているのよぉ」
「えー」
「ノンケの癖にホルモンやろうなんて輩は許せないわよ。こっちはホルモンですご
い苦労しているのに」
「私だって、タチのトラニーチェイサーに散々やられて、どうしても性転換手術で
お金が必要だったから我慢していたけれども、アナルローズにされちゃって人工肛
門になっちゃったんだから、あいつらは憎いわよ。だから、そいつを突きまくって
、アナルローズにしてやればいいんだ」
「その前に、足場の下敷きになって死ねばいい、とか思っているのよね」
「えぇ、なにぃ?」
「そいつは警備員なんだけれども、現場に足場があって、崩れそうだって言うのよ
。その下敷きに出来ないかなぁと思って」
「そんなの無理でしょ」
「でも、そいつは自殺願望があって、「ロボコップ」でも「ターミネーター2」で
も「タイタニック」でもみんな死ぬから、死にたいのが普通でしょう、とか言って
いて。プレイでも、「太陽にほえろ!」とかの殉職シーンを使っていたんだけれど
も、今は「ロボコップ」のDVDを貸していて、それをプレイに使っているのね。
そうしたらさっきショートメールが来て、鉄骨の下敷きになるシーンみたいに足場
の下敷きになって死にたい、とか書いてきたんだから」
「だったら、メスイキの状態とか、”ところてん”とかだったら、トランス状態で
無意識の扉が開けっ放しだから、そこに、ロボコップが、鉄骨の下敷きになるシー
ンを埋め込んでやればいいのよ。そうすれば自分から下敷きになりに行くかも知れ
ない」
「そんな事出来るの?」
「だって自殺願望があるんでしょう?」
「そうだけれども」
「特攻隊だって、そうやって背中を押されて死んだんじゃないの?」
「じゃあ、どうやってご指名ご来店してもらうかが問題ね。だって、まだこの前来
てから1週間もたっていないもの。あいつはパートの警備員で給料も安いから、そ
う何回も来られないのよ」
「そこを来させるのよ」
「どうやって?」
「ドタキャンが入ったから今日なら遊べます、これを逃すと1ケ月は無理、旅行も
行くし当分無理、とか言って」
「ふーん」
「なかなか手に入らないものほど欲しくなるものなのよ。売り切れ寸前のところで
、1個だけ在庫がありました、とかいうと欲しくなるでしょう? ハードトゥゲッ
ト。簡単な恋愛心理学よ」
「じゃあ、ショートメール打ってみるか」
「やってみな」




#592/598 ●長編    *** コメント #591 ***
★タイトル (sab     )  22/11/11  11:41  (341)
あるトラニーチェイサーの死3    朝霧三郎
★内容

>今日、まぐれに近い、キャンセルが出ました。
>それ以外は1週間先まで埋まっているし、
>その後は、タイに下見を兼ねた旅行に行くので、なかなか会えないよ。
>もしかしたらそのままタイで性転換しちゃうかも。
>そうしたらもうやってあげられなくなるし。
>どうする?
>今日来れない?

小川は西川口のアパートでショートメールを確認すると、
スマホで“リブレ高田馬場”を検索した。
“リブレ高田馬場”は一番上に表示された。

>ニューハーフ風俗リブレ高田馬場ニューハーフヘルス
>コンパニオンのほとんどが現役OLや学生という23区内の超穴場優良店です。
>”彼女”達は元女優でも元モデルでもないから初々しいったらありゃしない。
>その癖テクは極上というからおったまげー。
>そんな男の娘とニューハーフがあなたを…

 そこをタッチすると店のhpが表示された。
 在籍一覧、スケジュール、料金…というメニューの中から、在籍一覧をタッチ。
 AKB48メンバー一覧の様に画像がつらーっと表示される。
 アリスのパネル写真をタッチ。
 プロフィールのページが表示された。
(目元が蒼井優に似ている。それなりに顎がしっかりしているから、歯並びがいい
。顎の細い女は歯が収まりきらなくて歯並びが悪くてよくない)
 大きめのパネル写真は数秒ごとに切り替わっていたが、その1枚は、バックで片
足をテーブルに乗っけている写真で、ビキニ姿なのだが、股間にふくらみがこんも
りとあり、ぺろりを脱がせばちんぽがでてくると思えて、小川は萌えた。尻周辺も
ホルモンをやっているせいか、女性的なふくらみがあり、色も白いのでアナルもピ
ンクかも知れない。
 喉がカラカラになってきた。
 スマホを擦ってスクロールさせる。
【スペック】
名前:アリス
年齢:22歳
T:170
B:90 (Dカップ)
竿:有り 玉:有り
Pサイズ:15
タイプ:ニューハーフ/地毛
【オプション】
AF:◎
逆アナル:◎
3P:◎
生フェラ:◎
射精:○
ソフトS:◎
ソフトM:◎
「パネルの通り、月夜のごとく澄んだ目元が印象的なアリスさん。
引き締まった抜群のスタイルにホルモンも効いてきて、
ピンクのびーちくがでてきばっかり。
でも、ペニクリはまだびんびんという、
トラニーチェイサーにはたまらない状態。
しかも、プレイに関してはまだ修行中の未熟者、
かえっていろんな事ができちゃうかも。
とにかく元気なので、カマなしでも逆AFok。
もちろん透明射精つき。
こんなトラニー現在進行形のアリスを逃す手はありません。
本当にこの旬な時を逃すなんて、ありえませんyo----」
出勤スケジュール
6/7   14:00〜 空 残り1名様
6/8   満員御礼
6/9   満員御礼
6/10  満員御礼
6/11  満員御礼
6/12  タイ旅行
6/13  タイ旅行
6/14  タイ旅行
6/15  タイ旅行

 堪らなくなって、福山に電話した。
「福ちゃん金貸してくれ」
「えー、この前も貸したじゃん」
「ちゃんと返しただろう。それに、利子替わりに、そっちの自衛隊時代の漫画をス
キャンして、youtubeにうpしてやったじゃないか。あれだって、一コマずつに分
割するに結構苦労したんだから。あの漫画がバズればお前だって銭が入ってくるん
だから、今ちょっとぐらい貸してくれてもいいじゃないか」
「幾らだよ」
「2万。paypayで送って。頼む」
「じゃあ、今回だけだぞ」
 paypayで入金を確認すると、アリスの90分コース2万円に予約を入れた。

 シャワーを浴びてから、コミネのシングルライダースジャケットを着こむ。これ
だってこだわりが無い訳じゃない。松本人志がクロムハーツの60万の革ジャンを
買ったと聞いて、安くてもブランド価値のあるものを、と思ったのだ。
(何で松本人志が関係あるんだろう。人は人なのに。西武は西武なのに)
 階下に降りて、ホンダ N-BOXに乗り込んだ。昔はアコードに乗っていたが、所ジ
ョージの世田谷ベースだの、ヒロミの八王子なんたらだのを見ている内に車に金を
かけるのがバカらしくなったのだ。
(何で所ジョージやヒロミが気になるんだろう。他人は他人なのに。西武は西武な
のに)
 そんな事を思いつつ、キーを回す。
 ナビに店の住所を入力すると案内開始ボタンにタッチした。
「ルート案内を開始します。実際の交通規制に従って走行して下さい」
 というナビの音声案内に従って、車を発進させた。
 SHOの”ヤクブーツはやめろ”を大音量で流す。
 表通りの中山道に出ると、ひたすら南下。高島平からは池袋線の下を走っていっ
て、山手通り、新目白通りと走っていって、山手線の高架をくぐって右折すると目
的地だった。
 走行距離キロ15.5キロでも全然疲れない。犬は獲物を追いかけている間は全
く疲れを知らないというが、トラニーチェイサーもトラニーを追いかけている間は
疲れないのか。

 高田馬場1丁目パーキング3時間1500円に駐車する。
(高田馬場というのは、坂が多くて路面電車が走っていて、丸でサンフランシスコ
みたいだな。変態が似合う街だ)などと思いながら、一通の裏道を歩いた。昼間な
のに、人通りはまばらだった。途中セブンで2万円を引き出す。
 到着すると、オートロックで部屋番号を押す。
「14時から予約している小川ですが」
 アイホンのライトが付いてから、無言のままオートロックが解錠された。
 504に入るとそこが受け付けになっていた。
 玄関先にカウンターが据え付けてあって、身長180センチ体重100キロの巨
漢のオカマが手をついていた。
「いらっしゃい」
 玄関右手には三段ボックスがあって、DVDが積まれている。裏DVDを売って
いるのだ。
 カウンターの向こうはダイニングで、応接セットがある。
 その奥に引き分け戸があって、向こう側が和室になっている。
 左手にもドアがあって洋間がある。
 その手前が洗面所で洗濯機が回っている。
 その左側がキッチンコーナー。
 マドンナの「Live To Tell」が流れていた。
 和室から、一人若いトラニーが出てきて、キッチンコーナーの冷蔵庫からドリン
クを出すと持って行ったが、途中で止まって、ちらっとこっちを見た。
 そのトラニーが和室に帰ると、別のトラニーが顔を出してこっちを見る。顔を引
っ込めると、部屋の中から、キャッキャッ聞こえてくる。
「誰が指名されるんだろう」とか話しているのでは。
 トラニー達の柑橘系の香水の香りが漂っている。
 目の前の巨漢オカマはチョコレートの香水を付けていた。
 それからマドンナの「Live To Tell」。
 一気に気分が高揚してくる。
 どんなに陳腐な景色でも若い性的な人間と、良い曲、マドンナの「Live To Tell」
とか、と、香水の香りとでドーパミンが出るのではなかろうか。
「あんた、あの子をご指名ね」と巨漢オカマがタブレットを見せてくる。「それじ
ゃあ20000円になります」
 さっき引き出してきた1万円札2枚を渡した。
 それと引き換えに、キーボックスから出した鍵を渡される。
「それでは206号室でお待ち下さい」

 206は504とは違ってリビングもなく、純然たるワンルームだった。
 真ん中にベッドがあるだけで後は造り付けのクローゼットがあるだけ。
 ちょっと蒸し暑い気がして、小川は自分でエアコンを入れた。室温はドライ24
度。
 キンコーン。
「おじゃましまーす」
 鼻にかかった声で言いながら、アリス嬢が玄関を開けて入ってきた。
 ユーチューバーの元男の子の青木歌音が言っていたが、元男の子は女の声を出す
為に「ワレワレハウチュウジンダ」と鼻声を出してだんだん高くしていくのだ、と
。それで鼻声なんじゃなかろうか。
 一週間ぶりだが、見た瞬間(いい)と思った。
 顎はともかく、目が蒼井優似の切れ長で、しかも鼻すじは通っている。
 走ってきたのか、息が荒く、小鼻が収縮している。
 息のニオイはピーチとかフルーツの香り。
 ベッドに一緒に腰掛けると、こっちの太ももを撫でてきた。
「今日は”ところてん”やろうか」
「”ところてん”?」
 小川もアリスのぴっちりデニムの太ももを撫でた。
「前立腺のそばの精嚢をつつくと、たらたら精液が垂れ流すの。勃起しないまま。
そうすると、プロラクチンが出ないから賢者タイムにならないからオーガズムが続
いてトランス状態になるの。その時に、何かをイメージすれば、その世界にトリッ
プ出来るから」
「ふーん。気持ちよさそうだなぁ」
「ねえ、さっきショートメールで、足場の下敷きにになりたいなんて言ってきたけ
ど、なに?」
「いやー、西武系の警備会社に入るかも知れないんだよねぇ。入れないなら追い出
されるんだけれども。
 俺、西武って大嫌いなんだよねぇ。公園通りは西武セゾンが作ったなんて聞いた
だけで渋谷に行きたくなくなるんだよね。今いる池袋も、ダイヤゲートだのサンシ
ャインシティだの西武色が強いけど。とにかく西武が嫌いだからさ、西武系の警備
会社に入るぐらいだったら、あの足場の下敷きになって死んだ方がマシだ、と思っ
たんだ」
「へー、珍しいわね、つーか偶然ね。そういうお客さんが居たわよ。60歳ぐらい
で、警察官なんだけれども、西武が大っ嫌いなんだって。
 その人が20歳の頃、埼玉のfラン大学の食堂のテレビで、西武の堤オーナーが
ライオンズの広岡監督を公開処刑したのを見たんだって、記者会見で。広岡監督は
、選手に、肉は食べたらいけないとか言っていて、野球選手によ。そんな独特な食
事療法を押し付けておいて、その癖自分が痛風になったうえに成績もふるわなくっ
て。それで、記者の前で、オーナーに、「痛風になる人は精神がぶったるんでいる
そうですなぁ」と言われたんだって。それが、すっごい動物的な迫力があったっん
だってさ」
「それでそのおっさん、桜田門に入ったのか。桜田門なら西武より格上だからな。
俺も桜田門に入っていればよかったよ。そうすれば西武系の警備会社に入る事なん
てなかったのに。あんな警備会社に行くんだったら死ぬよ。ロボコップみたいに。
鉄骨の下敷きになって。西武の警備会社に反乱するロボコーップ」
「あのDVD早く返してよ」
「今度持ってくるよ」
「あの映画、私大好きなんだから」
「へー」
「じゃあ、今日はそういうプレイにする?」
「え?」
「あの、廃工場の水たまりで鉄骨の下敷きになるシーンからスタートして。マーフ
ィは、修理をしないといけないのね。特殊合金で隠れているけれども、顔とお尻だ
けは、人間のままなの。お尻を手術しないと…みたいな展開」
「ああいいよ」
「じゃあ、私脱ぐよ」
 アリスは、デニムジャケットを脱ぐとクローゼットに入れた。
 ぴっちりとしたカジュアルシャツに、スリムなジーンズ。
 ほんのりと乳房のふくらみもわかる。
 それも脱ぐと、ブラとパンティになった。
 おっぱいはかすかに膨らんでいるのに、股間は盛り上がっている。
 喉がカラカラになってきた。
 クローゼットからバスローブを出すと、「小っちゃんもこれに着替えて」と渡し
てくる。
「なんか飲むものないかなあ」
「なんで? 喉乾いてきちゃった」
 アリスは冷蔵庫から、ジャスミン茶のペットを2本だしてきてくれた。
 バスローブ1枚でベッドに座るとブラにパンティのアリスが横に座った。
「じゃあ、上、脱ぐよー」と言うと、ぺろんとブラを外す。
 白い水泳選手の様な肌にかすかに膨らんでいる乳房、そしてピンクの乳輪がある。
「いいなあ」
 アリスはうずくまる様にしてパンティも脱ぐ。ダビデ像の様な包茎が現れた。ま
さにダビデの包茎。
「アリス、最高!」
「小っちゃんも脱いで」
 小川はバスローブを脱ぐ。
 小川は「いいねえ」を繰り返しながら、アリスの背中をまさぐると、胸の方に手
をまわして、微かに膨らむ乳房を手のひらでおおい、ピンクの乳首をつまむ。
 手を尻にまわすとお尻のほっぺを開こうとする。
「ああ、まだシャワーを浴びていないから」
「いいよ、そんなもの」
 ここで、ひらりと身をかわすとアリスはベッドの上で四つん這いになった。
 猫の伸びのポーズ。
 色素沈着していない肛門と、股にはさまれた金玉とペニスをいいと思う。
「いいねえ」
「どこが?」
「顔と、ちょっと出たおっぱいと、大きすぎないダビデのペニスが」
 四つん這いで、肛門が見えていて、股間に金玉を挟んだ状態で、蒼井優似のアリ
スがこっちを見ている。
(俺は何をいいと思っているのだろう。顔がいいと思うっているのか。絶対にマッ
ド・ディロンじゃダメだから、女を求めているのか。みんなボーイ・ジョージに何
を求めているんだろう。しかし、絶対にそこにまんこがあったらダメだから、女を
求めている訳じゃあない)
「マッド・ディロンみたいなのはごめんだからな」小川は呟いた。
「えー、なに、それ」
「いやー、エロ動画のシーメール物で、マッド・ディロンみたいに顎の長いのがズ
ラをかぶったのがあって、ああいうのはかなわないな、と」
「ふーん。ホルモンが遅かったのね。かわいそうに。私もエラはっているから気に
しているんだけど」
「そんな事ないよ。ちょうどいいよ。つーかそれより細かったら歯並びが悪くなる
よ」
「じゃあ、小っちゃん、”ところてん”希望だよね」
「”ところてん”、やられたい」ジャスミン茶を飲みながら言った。
 興奮して喉はカラカラだった。
 アリスは前面に立つとペニスを見せた。
「じゃあ、逆AFしないと…」と言って自分の股間を見下ろす。「あー、どうしよ
う、まだ私の立っていない」
 勃起していない包茎のペニスをこちらに寄せてくる。
「ちんぽおおきくして」とアリス。
 アリスのを見ると、勃起はしていないが、立ったら小川のより2、3センチはで
かかろうというサイズだった。
(舐めたい)と小川は思う。(肛門性愛だけじゃない。包茎のちんぽも好きなのだ
。何でだろう。何で包茎のちんぽが好きなんだろう)
 謎が脳内でうずまいて、それでテンションが上がる。
 最初手で持ち上げてみたが、触らないまま空中にある状態のダビデの包茎を口で
受けてみたい、と思った。
 アリスの前に跪くと目の前に包茎ペニスがあった、朝露に濡れる朝顔の蕾の様な。
「じゃあ、吸うよ」
 アリスのペニスを口に含む。
 口の中で徐々に勃起してくると、包皮が剥けるのも分かった。
 勃起してくると、アリスは手を伸ばしてきて、こっちの乳首を強めにつまんだり
、なでたりした。
 完全に勃起すると、ハモニカみたいに横を舐めたり、リコーダーの様に縦に舐め
たりする。
 今やアリスのペニスはぎんぎんにいきり立っている。
 そして上半身には小さい白い乳房とピンクの乳首があるのだ。
「じゃあ、逆AF行く?」とアリス。
「行く」
「じゃあ、最初、ほぐしてあげる」
 アリスは体を離すと、トートバッグから短めのアナルビーズとローションを出し
てきた。
「じゃあ、お尻にこれ塗らないと」
「え、何それ、新しいやつ?」
「これ教えてもらったの。SODローション ロングバケーションタイプ。これが
一番いいんだって」
(SODってそんな物まで作っているのか。「マネーの虎」の高橋がなりは。そん
なものを作るんじゃあ生産設備も必要だろう。そんな資産があるのか。それともO
EMで名前だけ貸しているのかなあ。なんか、西武の堤一族みたいな勢力の大きさ
を感じて、嫌だなあ)
 そんな事を考えている間に、ローションは塗られて、アナルビーズの一個目は既
に吸い込まれていた。
「ほら一個吸い込んだ」とアリス。「お尻を緩めて、緩めて。ほら、又一個吸い込
んだ」
 そうやって、すぐに5個まで吸い込む。
「じゃあ、抜くわね」
 ずるずるずるーと引っこ抜かれる。
 そして、指2本でアナルをぐりぐりする。
(感じるー)
 しかし不思議な事に、ちんぽは萎えていた。
「さあ、お尻の方はバックオーライ」
 アリスは、コンドームを取り出すと、器用に装着した。
 小川のちんぽを見て、「あれぇ、勃起していないのにお汁がたれている。勃起し
ていないのに感じているの?」と言う。
 手を伸ばしてきて、こっちのちんぽに指を絡めてくる。
「じゃあ、四つん這いと正常位とどっちがいい?」
「四つん這い」
 言うと小川はベッドに手をついて尻を出した。
 アリスが尻のほっぺを広げてじーっと視姦する。
「丸見え」
 SODを内部にまで塗りたくった。ぐりぐり、ぐりぐり。
「さあ、じゃあ、あなたはマーフィ巡査ね。あの廃工場でクレーンで鉄骨の下敷き
になって修理が必要なの。特殊合金で見えないけれども、顔とお尻だけは人間の肉
体のままなのよ。じゃあ、肛門の治療をしないと」
 言うとアリスは指を突っ込んできた。ぐりぐり。
「これじゃあダメだわ。こっちの道具で」
 と、ペニスを入れてきた。
 SODの協力な粘度のせいか、ずるんと入ってくる。
「はぁ」と小川は息を漏らした。
 アリスは、一回深めに入れてから浅めにして、鬼頭で前立腺の位置を探す。
「ここでしょう? ここをペニスで擦ると漏れるんだから」
 ゆっくりとピストン運動が始まる。ずぶずぶずぶ、ずぼずぼずぼ。
「は〜ぁ、いい」
 入れる時には、精嚢を擦る様に入れる。
 勃起していないちんぽから本気汁が垂れている。
「いい、すげーいい」
 本気汁に混じって精液がにじみ出てきた。
「ほら、たらーんと出てきた」
「あ〜あ、いい」
「ほら、突いた時に出るんだから。いいでしょう」
「いー」
「トランス状態よ。
 さあ、マーフィは記憶を失った訳じゃないのよ。クラレンスの一味に、鉄骨の下
敷きにさせられた時の事が脳裏によみがえるの。どんな感じだった? 鉄骨が、足
場が落ちてくる時の感じは」
 ずぶずぶずぶと挿入する。
 ちんぽの先から精液が垂れてくる。
「あー、いい。でも、死ぬんだ、アン・ルイスを守る為に。アン・ルイスはアンヌ
隊員に似ているな。「ロボコップ」の元ネタは「ウルトラセブン」なんじゃあにの
? モロボシダンも死ぬでしょう。あ〜あ、いい」
 ずぶずぶずぶと突いてくる。
 たらーりと精液が垂れてくる。
「ほら、鉄骨が胸の上に落ちてくるのよ」
「あーあー」
 精嚢を突かれる度に、たらーりと、”ところてん”をする。
 長いオーガズムが続いた。
 もう十分だ、という頃なると、アリスは後ろから右手で小川のペニスを掴んでし
ごき出した。
「あっ、あっ、あっ、行く、行く」
「さあ、治療は終わりよ、行っちゃって」といいながらピストン運動を激しくする。
「あっ、あっ、行くー」
 そして小川ははてるのであった。




#593/598 ●長編    *** コメント #592 ***
★タイトル (sab     )  22/11/11  11:42  (277)
あるトラニーチェイサーの死4    朝霧三郎
★内容
 シャワーを浴びてもまだ時間が余っていた。
 ベッドに腰掛けてジャスミン茶を飲む。
「俺は、何を求めているのかなあ。女を求めているのにペニスを求めている。何で
ちんぽが欲しいのかぁ」
「3つ説があるの。
 第一の説は、ペニスをクリトリスに見立てている感じ。
 ペニクリっていって、バイブを鬼頭に当てて、行きそうになると離して、おさま
ると又当てて、って、何回もやると、じわーっと精液が滲み出てくるっていうプレ
イもあるんだけれども。
 第二の説。女にペニスがあるのは面白いという説。
 第三の説。女性性器嫌悪説。気持ち悪いじゃん、おまんこって。内臓みたいで」
「インターフェースが変わったって事かな。つまり、相変わらず女を求めてはいる
のだが、つながる箇所が女性性器から男性性器に変わったという事?」
 何気、関根惠子巡査のナニを想像してみたら、内臓が剥きでている様で(嫌だな
)と思えた。
(という事は第三の説かも知れない。いやー、それがペニス羨望の理由とは思えな
いなぁ)

 N-BOXに戻った頃には、すっかり賢者タイムになっていた。
(何時もこうなると、殉死したくなる。惠子巡査を守って殉死したい。何か見るも
のはないか)
 スマホでyoutubeを開いた。
 いきなり、「Movie CLIP - Sayonara, RoboCop!」が再生される。
 廃工場でクラレンスに胸を刺されてぐりぐりされるロボコップ。
「さよならロボコップ」ぐりぐりのシーンを繰り返し見る。
(今日は、サウナにでも行こう)と小川は思う。(新大久保の大泉でいいや。あそ
この休憩室から見える歌舞伎町の空は、なかなかおつなもの。水族館(ライブハウ
ス)でビールでも飲んでから行こう)

 翌朝、中1日で小川は出勤した。もう一人いる24時間警備員の北野が休みだっ
たので。
 ボイラー室で、警備服風作業着に着替えてくると、フロントに突っ立っている福
山に行った。
「福ちゃん、”ところてん”って知っている」
「つるつるーって食べるやつ」
「そうじゃなくてよぉ、アナルにちんぽを挿入して、その先っぽで、前立腺のそば
にある精嚢をつくと、勃起していないのに、精液が出てくるんだよ。たーらたらと
。ずーっとだぜ。その間中行きまくっているんだから、すげーオルガスムスだよ。
普通の10倍だよ。もう、トランスしちゃってさぁ、プレイ中にインストールされ
たものが脳裏に焼き付いている」
「何が焼き付いたんだよ」
「まあ、「ロボコップ」のシーンだけれどもな。ロボコップが廃工場で鉄骨の下敷
きになるシーン」
「お前、俺の貸してやった2万円で、そんなところに行っていたのかよ」
「今度、福ちゃんにも案内してやるよ」
「嫌だね。俺はそんな変態じゃない」
「やっぱ自衛隊は固いなぁ」

 ここまで話したところで、ラウンジの向こうから、ハイヒールの踵を鳴らして石
松が登場した。
「おはようございます」と目を合わせてにっこりと微笑する。
(なんだなんだ、今日は無視しないのか)
 石松はキッチンコーナーでコーヒーを入れると、管理室のスチールデスクにおい
た。
「コーヒー入りましたよー」
 と呼ばれるので、福山と言ってみる。
「全く梅雨でムシムシして嫌ですね」ずずずずーっとコーヒーをすする。
(何で無視しないんだろう。どうせお別れだからだろうか。主任管理員と石松だけ
採用されて警備員はお払い箱かなあ)
「管理会社が変わる件だけれども、蛯原さん、なんか言ってた?」と聞いてみる。
「あー、それだったら何か動きがあったみたいですよ。さっき更衣室に入って行っ
たからすぐに来ますよ」
 言う前もなく、Yシャツのボタンを2つ3つ外してネクタイをぶら下げた蛯原が
登場した。
「蛯原さん、管理会社の件、決まったの?」
「決まったよ。昨日言った通り四菱地所コミュニティが後釜に座るらしい」
「そんで俺らの扱いは?」と福山。
「今度の水曜日に、サンシャインシティ会議室で会社説明会があるんだって。まず
それに参加して、希望者は面接だってさ。でも、基本、パートなら雇ってくれるら
しいぞ」
「ずるいよな。自分で一からやるのが面倒くさいからって俺らを雇うのは」と福山。
「何言ってんだよ、福ちゃん。今いる土方の警備会社に比べたら西武系の警備会社
なんて雲の上の存在だぞ。たとえパートでも採用されれば、もしかして行く行くは
正社員という事だってあり得るだろう。特に福ちゃんなんて元自衛官なんだから」
「小ちゃんはどうするの?」と福山が降ってきた。
「俺かぁ。俺は分からないな」
 言うと、小川はふらふらと、正面玄関側のドアの方に歩いて行った。
「あれ、どこ行くの?」
「辞めるかも知れないから、見納めに一回りしてくるわ」
 言うと小川は鉄扉を開けて出て行った。

 駐車場奥の裏エントランスに通じる通路を行くと、足場の前に行った。
 カラーコーンとトラ柄のバーの前から見上げる。
 上の方で微かに揺れている様に見える。
(やるっきゃねーな)
 小川は、カラーコーンを蹴飛ばした。トラ柄のバーが外れて転がった。
 小川は肩をいからせてパイプに掴みかかると、揺らしだした。
 カンカンと鉄パイプがぶつかる音がして、上の方で、揺れている。
 しかしジョイント部が固くて、崩れる気配はない。
 更に揺らしても、揺れは大きくなるものの崩れない。
 小川は踏み台の1段目に飛び乗ってしがみつくと、オラウータンの様に揺さぶっ
た。
 足場が、組立ったまま、ギーーーーっという音と共に、こちら側に傾いできた。
 ガッシャーんという轟音と共に完全に倒壊する。
 1段目の踏み台の縁が小川の胸部に食い込んだ。
「うぅぅぅぅー」唸ると白い泡を吹いた。
 肋骨が折れて肺を潰しているようだ。
 息が詰まってすぐに意識が薄らいできた。
(ロボコップみたいに鉄骨の下敷きになるのとはちょっと違ったな)それが最後に
小川の脳に浮かんだ観念だった。そのままブラックアウトして意識を失った。

 蛯原が通報して救急車と警察が来た。
 ガイシャは、足場の下敷きになっていて、既に死んでいるのは明々白々だったが
、警察と消防で引きずり出して死亡を確認した。
 救急搬送は行われず、警察が現場検証を始めた。
 事件の可能性もあったので、刑事課に連絡が行った。
 刑事課の小林達也巡査部長、加藤凡平巡査部長、佐伯明子巡査が臨場した。
「こりゃひでーな」遺体を見下ろして小林が言った。
「スマホもめちゃくちゃ」と加藤。
 右のズボンのポケットから飛び出しているスマホはバリバリにヒビが入っていた。
「上着のポケットから何かの破片が飛び出しているな、なんだ」と小林。
 加藤が片膝をついて摘まみだしてみる。
「DVDですね。「ロボコップ」。割れているんで見られませんね…、ん?なんか
名刺みたいなのが挟まっている。なんだ、これ。風俗の割引券ですね。ニューハー
フリブレ高田馬場」
 小林、加藤が遺体を見ている間、佐伯巡査は事情聴取を行っていた。
「絶対に近づくなって言っていたのに」と福山。
「小川さんがそう言っていたんですか?」と佐伯明子巡査。
「でも、ここで下敷きになって死にたいって言っていたんだ」
「え、そんな事言っていたのか」と主任管理員蛯原が顔を突っ込んできた。
 その背後から石松が覗いている。
「あなたはいいから、ちょっとこちらの方に話を伺いたいから」
 言うと、佐伯明子巡査は福山の袖を握って、規制線のところに突っ立っている制
服警官の向こうまで引っ張って行くとそこで聞いた。
「どっちなの?。下敷きになりたいと言っていたの?。それとも、近づくなって」
「近づくな、でも自分はガレキの下敷きになって死にたい、ロボコップみたいに」
「映画の「ロボコップ」?」
「そう」
「何時そう言っていたの」
「昨日かな」
「それから」
「うーん ホルモンをやりたいと言っていた」
「ホルモン? 焼肉のこと」
「そうじゃなくて、ニューハーフのやるホルモンだよ」
「あの人、ニューハーフだったの?」
「そうじゃないけど、そういうのが好きだったんだよ。こういうのだよ」
 福山はスマホを出すと、シーメールの画像を表示した。
「Ellahollywood(エラハリウッド)っていうんだよ。顔はエマワトソンだけれど
もちんぽが生えていて。これがニューハーフの中では一番いいらしい」
 小林と加藤もこっちにくるとスマホを覗いた。
「それで、自分もそうなりたいからホルモンを?」
「そうじゃないけど、ホルモンをやれば、石松さんや西武と戦わなくて済むからっ
て」
「石松さん?」
「あそこにいるコンシェルジュだよ」福山は規制線の向こうで野次馬をやっている
石松を指さした。
「西武というのは」
「今度ここの警備会社が西武系に変わるんだけれども、俺らもそっちに雇われる予
定なんだよ。だけれども小川は西武を嫌っていたんだ」
「何で?」
「分からない。石松を嫌っていたのは無視するからだって。アップルウォッチで録
音までしていたよ。シカトの動かぬ証拠だと言って」
「ふーん。それが昨日の事ね? 昨日はそれで退勤したの?」
「あ、電話がかかってきた」
「なんて」
「金を貸してくれって。ニューハーフヘルスに行くから。好きなニューハーフがド
タキャンされて急に会える事になったって」
「それでお金を貸したの」
「うん」
「いくら?」
「paypayで2万。それで夕べ風俗に行って”ところてん”でトランスしたって」
「”ところてん”?」
「”ところてん”というのは勃起しなくても精子が出てくる技らしくて、それでト
ランスして、「ロボコップ」のシーンをインストールされたって」
「どういうシーン?
「ああやって、ガレキの下敷きになるシーン」福山は倒壊した足場を指さして言っ
た。
「ふーん。それで」
「それだけだよ。俺の知っているのは」
「分かった、ありがとう」

 証人を返してしまうと刑事3人になった。
「ロボコップが鉄骨の下敷きになるシーンを風俗でインストールされて、それを自
分でやったって?」と小林が言った。
「後催眠といって、催眠が解けた後にも催眠の効果が残っているのがあるんです」
と佐伯明子巡査。
「それじゃあ、これは自殺じゃなくて、風俗嬢が催眠をかけたって事か」
「分かりません」
「臨床心理士、佐伯明子巡査の出番だな」
 佐伯明子は、私立大の心理学科院卒で、臨床心理士の資格を取得していた。
「どうするんですか?」明子巡査が聞いた
「ガイシャのヤサに行ってみよう。免許証から住所が分かったよ。西川口だ」と小
林。
「ニューハーフ風俗の方は?」と加藤。
「西川口の後だな。令状なしで任意の事情聴取だな」

 西川口のアパートの1階には青山ふとん店という店舗があって大家が経営してい
た。事情を話すと大家立ち合いの下で中を見せてくれるという。
 ワンルームの居室に入ると、押し入れというかクローゼットの横にベッドがあっ
て、反対側にデスクとその上にPCがあった。
 クローゼットの取っ手にはとじ紐がついていて”大人のおもちゃ”らしき何かが
つながっていた。
「なんだ、ありゃ」と小林。
「アナルビーズです」と加藤。
「詳しいな。何で紐でしばってあるんだ」
「ああやって縛っておいて、ケツを動かして抜きながら前をいじる」
「変態だな」
 言いながら部屋の中へ入って行く。
「pcがスリープ状態ですね」と明子巡査。
「立ち上げてみな」と小林。
 電源ボタンを押す。パスワードは設定されていなかった。サインインすると
youtubeの画面だった。「Movie CLIP - Sayonara, RoboCop!」
「再生してみな」と小林。
 再生してみると、ロボコップの頭上に鉄骨が落ちるシーンだった。
「ガイシャは、これをやったのか?」と小林。
「多分、そうですよ」と明子巡査。
「何で?」
「分かりません」

 ニューハーフリブレ高田馬場に向かう途中、池袋署の近所で、明子巡査が言った。
「ロサ会館のツタヤに寄って下さい」
「何で」と加藤
「「ロボコップ」を借りて行くんですよ」
「なんでそんなもの」
「よく観たいんです」
 TSUTAYA池袋ロサ店に立ち寄って、「ロボコップ」を借りると、警察車両
はリブレ高田馬場に向かった。
 店のあるマンションに到着すると、表のオートロックから「池袋署のものだ、ち
ょっと聞きたい事が」と言う。
 504室のカウンターまで行くと、巨漢オカマと対峙した
「あら、なんですの」と巨漢オカマ。「うちはいわゆる本番行為はやっていないお
店なんですよ」
「そういうんで来たんじゃないんだよ。生活安全課じゃないんだ、刑事課だ。おた
くの客の一人が事故で亡くなったんだ。その事でおたくの風俗嬢に聞きたいんだよ」
「まあ、玄関に突っ立っていてもなんなんで、じゃあ、あがります?」
「じゃ、あがらせてもらうよ」
 刑事3人は、リビングに上がり込む。
「この向こうに女がいるの?」小林は引き戸を指して聞いた。
「そうよ」と巨漢オカマ。
「話しを聞きたいから、全員出てきてもらえないかなあ」
「しょうがないわねえ」
 言うとオカマは引き戸をあけて中のトラニーに言った。
「みんな、ちょっとでておいで」
 トラニー6人が引き戸の前に勢揃いした。
「こりゃあすごいなあ、完璧な女だな」小林はにやけた。
「そうですかぁ。よく見れば男っぽいのもいますよ」と明子巡査が小林に小声で言
った。「そんな事より、誰がガイシャに「ロボコップ」のシーンをインストールし
たか調べないと」
「ああ」
「誰がやったか私に突き止めさせて下さい」
「そうだな、臨床心理士だものな」

「じゃあ、みなさーん」明子巡査は引き戸の前に立っているトラニー6人に言った
。「何が起こったのか説明します。
 みなさんのお客さんが一人が勤務先マンションの足場の下敷きになって亡くなり
ました。
 自分で足場を揺らして倒壊させたそうです。
 しかも、ここでのプレイの最中に後催眠をかけられてそうやったって噂です。
 そんな事、あり得ると思いますかー?」
「え、なんのこと」などいいながら、トラニー達は顔を見合わせている
「じゃあ、何が起こったのかを最初っから私が説明します。
その前に、みなさんの荷物をもってきて、このテーブルの上において」
「え、荷物?」
「カバンの事?」
「そうじゃなくて、プレイの時に使う道具とか」
「そんなもの…」
 トラニー達は、指図を仰ぐように巨漢オカマの方を見た」
「いいから、もってらっしゃい」と巨漢オカマ。
 トラニー達は和室に入ると、トートバッグに入った商売道具をもってきた。
「はい、ここに並べて、ここに」と、明子巡査は「ロボコップ」のDVDを持った
手でテーブルを指図した。「ここに置いたら、どっか適当なところに座って。話は
長くなるかも知れないから」
 トラニー達はソファーやひじ掛けやカーペットの上に座った。
 明子巡査はDVDでトートバッグをつつくと中身ちチラ見した。
「これは何?」と、SODのローションをつつく。
「ローションよ。男のアナルに塗るのよ、はっ、ははっ」とトラニーの一人が冷や
かす様に笑った。
「う”ん、う”−ん」と咳払いをしてから、全員の前で明子巡査は言う。
「それじゃあ、これから何が起こったかを説明します。
 何で自分で足場を崩したか。自殺ですが。「死への欲動」とも言いますが。
 それと同時になんであの人は肛門性愛者なのか。
 あと、何故トラニーが好きだったのか。つまり、何故ペニス羨望があったのか。
 つまり、一つは、「死への欲動」、
 もう一つは「肛門性愛」、
 そして、もう一つの謎は、ペニス羨望、トラニーが好きな理由、
 この3つについての謎解きですね。
 この3つを謎と思わないんだったら、この謎解きを聞いてもつまらないけど」




#594/598 ●長編    *** コメント #593 ***
★タイトル (sab     )  22/11/11  11:43  (196)
あるトラニーチェイサーの死5    朝霧三郎
★内容

 明子巡査はトラニー達を見渡した。
「それじゃあ、まず、「死への欲動」から。
 みなさん、フロイト博士って知ってますか?
 フロイト博士によれば、人間にはそもそも原初の状態に戻ろうとする傾向がある
との事です。原初の状態とは、生まれる前の、原子の状態、つまり死の状態です。
そこに戻りたいと思っている。これを、タナトスといいます。
 でもみんながみんなそう思っている訳じゃない。この世で成熟した女性と上手く
行っている人は、いちゃいちゃするのは楽しいから、ここにいたいと思う。快感原
則ですね。これをエロスといいます。
 では、どういう人が、エロスを捨ててタナトスに向かうか。
 それがこの世で成熟した女性との関係が上手く行かない人。
 どういう人が上手く行かないかっていうと、赤ちゃんの時に母親の無限の愛を得
られなかった人ですね。
 人って、胎内、母子関係、世界での男女の関係、と、人間関係を広げていきます
が、このこの母子関係のところで、無限の愛が得られるか得られないかが重要なん
です。
 母子関係の愛って、無限の愛なんですね。だって赤ちゃんは言葉が喋れないから
、何が欲しいとは言えないから、母親の方が「おっぱいが欲しいのかな、それとも
オムツが濡れているのかな、それとも何かな」と、無限の愛をくれないとならない
んです。赤ちゃんは無限の愛が欲しいのだから、何をくれても泣く、泣く、だって
おっぱいが欲しい訳でも、オムツを換えて欲しい訳でもなく、無限の愛が欲しいの
だから、何をくれても泣く訳です。
 でも、ここで無限の愛を得られたと感じれば泣き止む。そして、母は自分を愛し
ている、だけれども、おっぱいはでない時もあるんだなあ、と納得するんですね。
 ところが、この無限の愛が得られないと泣き続ける。おっぱいをやってもオムツ
を交換しても、無限の愛を求めて泣き続ける。そしてとうとう無限の愛を得られな
いままの赤ちゃんも居る。
 こうやって、大人の世界に行くと、無限の愛を得た人は、例えば女が変な態度を
とっても、「変な女だな、まあ、女にも色々あるからなぁ、つーか、女だって何時
でも濡れている訳じゃないからなぁ」ぐらいに思うんですね。母は愛してくれてい
るよ、でも何時でもおっぱいが出る訳じゃない。女だって何時でも濡れている訳じ
ゃない。こういうのはエロス的ですね。
 一方、母子関係で無限の愛が得られなかった人はどうなるのか。大人になっても
、基本的に愛はないから、何時までも愛があるか調べ続ける、赤ちゃんの時に泣き
続けた様に。こういうのはタナトス的なんですが。
 どうやって調べるかというと、昔、岸田秀という心理学者が居たんですが、その
人は、自分は母親に愛されなかった、と50歳になって言い出すんですね。母親と
は20歳の頃に死別しているのに。母親は自分を家業の跡取りとしか考えておらず
、愛してはいなかった、利用する事だけを考えていた、と言うんです。だから、ギ
ターでも何でも買ってくれたが、勉強に関するものは買ってくれなかった、それは
、学業の道に進まれると跡取りに出来ないからだ、とか。それで、50歳になって
、ノートに線を引いて、左に「母は愛している」、右に「母は愛していない」と、
昔の言葉を思い出して書くんですよ。そして愛していなかったと結論する。
 心理学者でも、赤ちゃんの時に無限の愛を得られないとタナトス的になっちゃう
、と気が付かないんですね。
 さて、今回の事件のガイシャも、なんと、同じ事をしていたんですね。職場のコ
ンシェルジュの言葉をアップルウォッチに録音して、愛はあるか、ないか、とチェ
ックしていたんです。まったくタナトス的ですね。
 こういうタナトス的な人間がどうなるかというと、この世での男女関係に上手く
行かないものだから、母子関係、胎内へと逆行するんですね。更には生まれる前の
状態、つまり死の状態に戻りたいと思う。これが「死への欲動」という奴です。
 でも、実際には、タナトス的な愛って、録音でチェックする様なカチャカチャし
たもので、おっぱいを吸う様なねっちょりしたものではないから、なんとなく臨場
感がないから、それで鉄骨の下書きになって臨場感を出していたのかも。拒食症患
者がリスカして臨場感を出すみたいに。
 とにかくこれが「死への欲動」の解決編です。みなさん、「そうだったのかー」
と膝を打ちました? まるでミステリー小説を読むみたいに。

「じゃあ、肛門性愛は?」とトラニーの一人が聞いてきた。「死への欲動と肛門性
愛になんの関係があるの?」
「それは、成熟した男女の関係から、母子関係、胎内へと退行しているのだから、
フロイト博士的に言えば、性の男根期から性の肛門期に退行した、って感じだけれ
ども。
 或いは、タナトスというのはアップルウォッチで録音してチェックする、みたい
な厳密なものだから、排便の時の快楽を厳密にコントロールしたかった、とも言え
るし。
 でも、実際には、コンシェルジュに愛される事に絶望して、もう女はいらない、
女性性器ではなく肛門がいい、と思ったのかも。

「じゃあ、ペニス羨望は?」と別のトラニーが聞いてきた。
「このオトコは、成熟した男女の関係から母子関係に退行したわよねえ。この時こ
の赤ちゃんが欲望しているものは、自分の欲望ではなくて、母親が欲望しているも
のなのね。じゃあ、母親が何を欲望しているかというと、それは父親のペニスなの
。だから赤ちゃん、つまりトラニーチェイサーにはペニス羨望があるのよ」
「ふーん」

「「死への欲動」と肛門性愛とペニス羨望は分かったわよ」とアリスが言った。「
でも、実際には小っちゃんはロボコップみたいに鉄骨の下敷きになって死んだんで
しょう? そんな洗脳が可能なの?」
(語るに落ちた。誰もロボコップなんて言っていない。こっちは、足場の下敷きに
なって死んだと言っただけだ。こいつがホシだ。もう少しせめてみよう)
「そうねぇー」明子巡査は腕組みをして右手で顎をつまんでみせた。「もともと「
死への欲動」があったから「ロボコップ」のイメージだけであんな事をやっちゃっ
たのかしら。
でも、プレイでトランスしている時に、無意識に、ロボコップが鉄骨の下敷きにな
るシーンを埋め込むなんて出来ないわ。そんな後催眠みたいな事はあり得ない。
それより重要なのは、さっき言ったペニス羨望って事なんだけれども。あの客はも
の凄い勢いでペニスを羨望していたと思うんだけれども。
それはもう、母子関係に退行したらもの凄い勢いでペニスを羨望しちゃうんだけれ
ども。
そのペニスの代わりにポケモンがきたら、そこいらの子供がポケモンカードに萌え
ている様になるし、ブランド品がきたらOLの様にブランド品に萌えるし、お経が
来たらカルトの様に宗教にハマるし。そして、ペニスの代わりに「ロボコップ」の
あのシーンが来たら、それはもう激しくあのシーンを羨望する。だから、洗脳とい
うより、ペニス羨望の代替でロボコップ羨望した、って言えるかもね。

「分かったわ。ハウダニットは」と巨漢オカマが口を挟んできた。「じゃあ、誰が
それをやったのよ」
「それは多分この中にいるんじゃないの」明子巡査はトラニー達を見渡した。
「誰?」
「まず、みなさん、自己紹介してよ。はしから」
「はるなでーす」と左端のトラニーが言った。
「ちょっと待って。スペックも言ってよ。このお店のhpに、竿アリ、玉ナシとか
、ニューハーフとか男の娘とかあるでしょう。ニューハーフっていうのはホルモン
をやっていて、男の娘というのはホルモンをやっていない人の事?」
「そうよ」
「それも言って。左から」
「はるなです。竿アリ、玉無しです。玉無しだから当然ホルモンはやってます」
(これは完全は女だな)と思った。
「しのぶです。竿アリ、玉あり。ホルモンはやっていません。男の娘です」
(kpopのアイドルより男っぽい。ジャニーズのタレントレベルかな)
「アリスです。竿アリ、玉あり、ホルモンはやってます。ニューハーフです」
(これは微妙だな。ジャスティン・ビーバーがズラを被った様にも見える)
「しおりです。竿アリ、玉あり、ホルモンはやってます。ニューハーフです」
(こりゃあ、背は高いが、顔は女っぽい)
「ゆきです。竿アリ、玉あり、ホルモンはやってます。ニューハーフです」
(デブっているが、顔は女っぽい)
「なつきです。竿アリ、玉あり、ホルモンはやっていません。男の娘です」
(これも結構男の娘だな)
「マンションの警備員の証言によると、ガイシャは、ドタキャンされたからと誘い
出された。早く買わないと、最後の一個だから、みたいに。心理学では、ハードト
ゥゲットとかゲインロス効果とか言われるけれども。
でも、こんなのにひっかかるのは、そもそもガイシャが、愛はあるんか、と、何時
でも愛に飢えていたからなのね。コンシェルジュの言葉に愛はあるんか、みたいに。
だから、簡単にひっかかってしまう。
「ロボコップ」の洗脳をしたのはその人。その日にプレイをした人。
それって分かるんでしょう?」と明子巡査は巨漢オカマの方に言った。
「さぁ、令状がなければ言えないわ」
「hpに出ているスケジュールも、店でいくらでも調整出来るんでしょう?」
「そうね」
「じゃあ、こっちで当てなくっちゃ」明子巡査はトラニーの方を見た。「ガイシャ
は愛に飢えていたからひっかかったのだけれども、トラニーの方にも、自分は愛さ
れていない、おちょくられているだけだ、という気持ちがあったんじゃないかしら
。ガイシャが、遊びでホルモンをやろうとしたら激怒した、という情報もあるわ。
トラニーの憎しみはホルモンに関するものね」
明子巡査はトラニー達を見回した。
 はるな。竿アリ、玉無し。ホルモンはやっている。
 しのぶ。竿アリ、玉あり。ホルモンはやっていない。男の娘。
 アリス。竿アリ、玉あり、ホルモンはやっている。ニューハーフ。
 しおり。竿アリ、玉あり、ホルモンはやっている。ニューハーフ。
 ゆき 。竿アリ、玉あり、ホルモンはやっている。ニューハーフ。
 なつき。竿アリ、玉あり、ホルモンはやっていない。男の娘。
(まず、男の娘は除外される。ホルモンをやっていないのだから。
あと、玉無しのはるなも除外。玉無しまで行っていれば、相当に女だろうから。
残るは、アリス、しおり、ゆき。
さっき語るに落ちたのはアリス。でも、トラニー同士で情報交換していたかも知れ
ない。だから、ゼロから想像しないと。
この3匹の中でホルモンで苦労していそうなのは…)
「ずばり、言うわ。アリス。あなた」
「何で私?」
「直観よ。つーか、ちょっと顎が長いからホルモンが遅かったんじゃないの? だ
からホルモンをもてあそんでいたガイシャが気に入らなかったんじゃないの? 結
構エラも張っているし。これが本当のエラハリウッド」
「そこまで言うううう。でもそんなの状況証拠もいいところだわ」
「ところがこれ」明子巡査は「ロボコップ」のDVDをかざした。「ここにはホシ
の指紋がべっとりついている筈。それと、そのトートバッグの中のSODのチュー
ブについている指紋を照合すれば物証だわ」
 突然アリスは、自分のトートバッグに飛びかかるとSOD ロングバケーション
を引き抜いた。
「ほーら、ひっかかった」と明子巡査。「この「ロボコップ」のDVDは、さっき
借りてきたものなんだから。ガイシャのは足場で木っ端みじんになっちゃったんだ
から」
「そんな…。だましたの?。そのDVD私のじゃないの?」
「まんまとトラップにひっかかったわね」
「だとして、犯罪になるの? 小っちゃんは死にたかったんでしょう? しかも後
催眠でもないんでしょう。ペニス羨望みたいに死への羨望があっただけでしょう。
それ、私に関係あるの? そんなんで起訴出来るの」
「それは分からない。ブランド品に夢中になるように洗脳するのは罪か、お布施を
する様に洗脳するのは罪か、分からない。でも、死ぬ様に洗脳するのは問題がある
んじゃないの?。たとえ、もともと死にたい人だったとしても。そこらへんはそれ
は検事さんが決める事だわ」
「とにかく署には来てもらうよ」と小林が言った。「ローションをひったくったか
らね。刑訴法221条、警察官は被疑者が任意に提出した物を領置することができ
る。それをひったくったんだから、公務執行妨害だ」
「勾留されるの?」と巨漢オカマ
「多分な」
「何日ぐらい?」
「最初10日、更に10日」
「留置場って、男と一緒なの? それとも女?」
「さあ、独居が空いているんじゃない」
「そうしてやって? 男と一緒になんて出来ないわよ」
 加藤がアリスに手錠をかけた。
 アリスと刑事3人は504から出て行った。
 通りに出ると、警察車両に、ぽつりぽつりと雨が落ちていた。
 梅雨明けまでにはまだ1週間はかかるだろう。アリスの勾留期間は恐らく20日
間。
 彼女が出てくる頃には、からっからに晴れているだろう。

【一応 了】










#595/598 ●長編
★タイトル (sab     )  22/11/23  14:57  (486)
【本格】の積り『スキーマンションの殺人』1朝霧三郎
★内容

『スキーマンションの殺人』朝霧三郎
(作者コメント。例のごとく使い回しが多いです)。

●1
 斑尾高原スキーマンションは、長野県飯山市にある、総戸数200個のマン
ションである。
 間取りはリゾートマンションの為1LKから2LDKと小さ目なのだが、共
有施設が充実していて、天然温泉の温浴施設があり、スタジオがあり、フィッ
トネスルームがあり、地下にはスキーロッカーもある。これは、居住者が、こ
こでスキー靴に履き替えて、歩いて行ける距離のゲレンデでひと滑りして、帰
って来るとひとっ風呂浴びる、という行動を想定したものである。
 もっとも、竣工は2018年10月で、竣工と同時に販売代理店も開設され
、翌2019年春のスキーシーズン終了までに約半数が売れ、19年下期にな
ってスキーシーズンが到来したら又売れ出し、この調子だったら本シーズン終
了までに完売するのではないか、と思えたのだが、2020年を迎えて、コロ
ナが直撃、販売も、スキー客もばったりと途絶えてしまったのだった。
 という訳で、管理組合法人も正式には発足しておらず、現状マンション管理
は、施主の子会社(本通リビング)の更に下請けの清掃会社に丸投げされてい
て、管理員や清掃員も、その清掃会社(AM社)がかき集めてきたパートにす
ぎなかった。
 このマンションで働いているAMのパートは次の9名である。

 チーフ管理員  蛯原敏夫(♂62歳)(立川志の輔似)
         勤務時間:8:00〜17:00(火曜休み)
 コンシェルジュ 高橋明子(本通リビングからの出向)(♀26歳)
(渡辺満里奈似)
         勤務時間:同上(日曜休み)
 24時間管理員 大沼義男(♂60歳)(いかりや長介風)
         斉木清(♂32歳)(佐藤浩市似)
         鮎川徹(♂31歳)(高木ブー似)
         勤務時間:8:00〜翌8:00
     (一名が24時間常駐勤務を3名が交代で行う)
   清掃員   山城鉄郎(♂63歳)(夏井いつきを男にした感じ)
         額田勇(♂64歳)(でんでん似)
         大石悦子(♀60歳)(由美かおる似)
         沢井泉(♀23歳)(渡辺直美風)
         勤務時間:8:00〜17:00
     (日曜休み。但し午前中、浴室清掃は行う)

 マンションの平面図は次の如くである。

                               裏エントランス
                                 ・―・
 ゲレンデ側(東)                        | |
・――――――――――――――・―――――――――・―――――――・ ・―・
|              |         |  スロ―プ | | |
| ・――――――――――・ |         |   ――――| ・―・
| |          | |         |       | |↑
| |          | |         |       | |不燃物
| |          | |       ・―・       | |置き場
| |          | |       |エ|自走式駐車場 | |
| |          | |       |レ|(屋上を含めて| |
| | 居住棟      | |       ・―・ 4階建て) | |
| | (10階建て。  | |         |       | |
| |  1フロア20戸)| |         |       | |
| |          | |         |       | |
| |          | |         |       | |
| |        ・―・ |         |       | |
| |        |エ| |         |       | |
| |        |レ| |         |       | |
| |        ・―・ |         |       | |
| |          | |     ・ーー・・―=====―・\|
| |          | |     |  |  リモコン式   |
| |          | ・―――・/・  |  シャッター   |
| |          | |共用棟| |  |←ゴミ箱      |
| |          | |   | ・ーー・ 置き場      |
| ・――――――――――・ |   | |             |
|              |   | |             |
・――――――――――――――・―――・ ・

共用棟詳細(1階)。
・〜〜〜ガラス〜〜〜〜・――――・――――・――・――・
|          |    |    |更 |更 |
|  吹き抜け    |清掃準 |共用部 |衣 |衣 |
|          |備室  |トイレ |室 |室 |
|          |    |    |男 |女 |
・――・       ・―/――・ ・――・/―・/―・
|エレ|             /          /
|  |       ・―――――――・/――――――・
・――・       |               |
|階段|   ラウンジ|               |
|  |       |    ボイラ―室      |
・――・   ・―・―・               |
|      |フ| |               |
|      |ロ| |               |
|      |ン| |               |
|      |ト| |               |
住居棟入口  ・―・  |               /
           |               |
|      ・―\―・               |
|エントランス|   |               |
|      |   |               |
|      |管理室|                |
|      |   |               |
|      |   |               |
・―正面玄関―・/――・―――――――――――――――・

共用棟詳細(2階)。
・〜〜〜〜ガラス〜〜〜〜・――――・――――――・
|           |    |      |
|  吹き抜け     |スタジオ|フィットネス|
|           |    |ル―ム      |
|           |    |      |
・――・――――――――・――/―・――/―――・
|エレ|                    |
|  |        ・―――――――――――・
・――・        |           |
|  |        | 浴場        |
|階段|        /           |
・――・        |           |
|           ・―――――――\―――・
|           |           |
|休憩スペ―ス     | 露天        |
|        暖簾 |           |
・――――――・〜〜〜〜・―――――――――――・
|           |           |
|           | 露天        |
|           |           |
|休憩スペ―ス     ・―――――――/―――・
|           |           |
|           |           |
|           |           |
|           / 浴場        |
|           |           |
・―――――――――――・―――――――――――・

 尚、地階にはスキ―ロッカ―がある。

 本日は2月23日で、朝までの24時間管理員の担当は鮎川だった。
 鮎川は、夜明け前の4時半頃から、3時間かけて、正面ポーチの車寄せから
、マンションが公道に面している入り口までの緩やかな下り道の雪かきをして
いた。昨夜は積雪はなかったのだが、その前から降り積もった雪に、車が通る
度にワダチが出来て、氷の様に固まっていたのだった。
 そもそも、雪かきは自然災害だから、マンション管理の範囲外と管理規約に
もある為、他の管理員は誰もやらないでいたのだが、新聞配達員が、ワダチに
ハンドルをとられてこけそうになったからどうにかしてくれと、主任管理員に
言っていて、それでも誰もが無視していたのだが、今朝3時の配達時に、新聞
屋が再度こけそうになり、鮎川を捕まえて、即刻雪かきをしろと怒鳴ってきた
のだった。
 それで夜中の4時半頃から3時間かけて雪かきをしていた。雪かきした雪を
路肩に寄せるだけでは又ワダチになるので、猫車に乗せては公道でばら撒くと
いう作業をしていた。やっと、7時過ぎになって、大方終わったところだった。
 鮎川は空を見上げた。
 雲の流れが速く、時々切れ目から青空が見える。でも今夕から又大雪との事
だった。
 チャリン、チャリンとベルを鳴らされて視線を水平に戻した。
 清掃員の山城が自転車でこっちに迫って来る。
「シャッター開けてくれ」と山城。
 鮎川はポケットをまさぐって、自走式駐車場のシャッターのリモコンを押し
た。
 山城は、鮎川を通り越して正面玄関を通り越して、左に旋回して自走式駐車
場に向かう。又、チャリン、チャリンとベルを鳴らす。
 左手にゴミ箱置き場を見ながら、自走式駐車場に入って中ほどまで行くと、
エレベーターの前で降りる。
 自転車を立ててエレベータに乗り込むと、最上階のボタンを押した。AM社
の自転車置場は最上階のスロープの下にあったのだ。
 最上階でエレベーターを降りて漕ぎだす。ところどころに車が駐車してあっ
て、影に残雪があったが、真ん中へんはグリーンのウレタン床が広く見えてい
た。その上をすいすいと漕いで行く。
 突き当りまで行くと右折してスロープで下る。その瞬間、残雪の塊で滑りそ
うになった。
「あぶねっ」と声を出した。(なんであんなところに凍った雪があるんだろう
。昨日は積雪ゼロだし、前の日の雪は昼間の内に溶けている筈なんだが)
 しかし、こける事もなく、スロープを降り切って、Uターンすると、スロー
プ下の駐輪場に自転車を止めた。

●2
 山城に続いて、到着したのは、コンシェルジュの高橋明子だった。
 ジムニーで鮎川とすれ違う時に、プッとクラクションで挨拶して、駐車場の
シャッターをリモコンで開けると、1階の来客場エリアに駐車する。
 AM社のパートは、自転車通勤しか許されていなかったが、明子は、本通リ
ビングの事務員であるのを、コンシェルジュ不在の為、緊急のピンチヒッター
で来ていたので、飯山市内のビジネスホテルに泊まりながら、自動車通勤をさ
せてもらっていた。
 ジムニーから降りると、もう一回シャッターを開けて、右手にゴミ箱置き場
を見ながら正面エントランスに向かう。冷たい空気を鼻腔から吸い込んで。
 玄関のところまで行ったら、車寄せのロータリーを、どこから来たのか、小
学生3人が覗き込んでいる。
(なんだろう)
 近寄ってみると小学生が言ってくる。「見て見て、お姉さん、このXmas
の字。こんなに芝生の真ん中に書いてあるのに足跡がついていないよ。どうや
ってこれを書いたんでしょう」
「さー。なんでだろう」
 確かに直径2メートルぐらいのロータリーの真ん中に足跡もなく”Xmas
”の文字が。
「多分、棒で遠くから書いたんじゃない?」
「ブー。そんなんじゃ書けないよ」
「じゃあ、考えておくわ。早く学校に行きなさーい」
「はーい」と言ってガキどもは行ってしまう。「ジングルベル、ジングルベル
、すずがなる♪」と歌いながら。

 明子は管理室には入らず正面玄関からオートロックを暗証番号で解錠して入
ると、フロントの前を素通りして、ラウンジ、共用トイレを通り過ぎて更衣室
へ行った。
 コンシェルジュの制服に着替えてくると、カウンター側の鉄扉から管理室に
入った。
「おはようございます」
 管理室内は家電量販店並の明るさ。
 真ん中にスチールデスクがあって、清掃の山城がふんぞり返って座っていた
。机の上に、スパイラルコード付きの鍵を並べていた。
 右手にはホワイトボードがあって1ケ月分のスケジュールが書かれている。
 正面に監視カメラの盤や防災盤がある。
 真ん中のアイホンの盤に主任管理員の蛯原が首を突っ込んでいて、受話器に
向かってしきりに恐縮していた。右前腕にはギブスを嵌めていた。凍結した路
面で転倒してヒビが入ったのだった。
 左奥がキッチンになっていて、冷蔵庫だの電子レンジだのが置いてある。そ
こから、次の24時間管理員の斉木がインスタントコーヒーを入れて出てきた
。既に作業着に既に着替えていた。
 正面玄関側の鉄扉があいて、清掃員の額田が、出勤してきた。
「おはようございます」といって、山城の並べた鍵の内、1本を取る。
 共用部の出入りの為に、清掃員には鍵が貸し出されていたが、こうやって鍵
を取ると同時に挨拶をすると、山城に深々を挨拶をする恰好になるのだった。
「おはよう」と山城が言った
 それから他の清掃員も次々と出勤してきて、深々と山城に頭を下げる。
 最後に鮎川が入ってきた。「ばてたー」
「いやー、理事の土井さんから電話で、駐車場最上階の車の周りの雪が凍って
いるから、
除雪しておけってさあ」と蛯原が言った。
「スロープのところにも、雪の塊があった。俺は滑りそうになったんだ。あれ
も取り除いておけよ」と山城。
「嫌だね。雪かきはやらなくていいって管理規約にも書いてあるだろう」と斉
木。
「じゃあ、お前、やっておけ」と山城は鮎川に言った。
「俺はもう上がりだよ」。言うと、ポケットから鍵の束を取り出して、腰のベ
ルト通しからスパイラルコードを外すと斉木に渡した。
「早く引きつぎやってよ」と斉木。
「じゃあ、引きつぎやっちゃいましょう」と蛯原が集合を掛ける。
 山城は立ち上がると「じゃあ、雪、どうにかしておいてくれよな」というと
、管理室から出て行った。

「おはようございます」蛯原は斉木、鮎川、高橋明子に言った。「今日は12
月23日で」とホワイトボードを見る。「それじゃあ、鮎川さんから何か」
「ありませーん」
「高橋さんは」
「ありませーん」と手帳に目を落としたまま。
「分かりました、と。私の方からは、と」蛯原はホワイトボードを見る。「引
越しは無し」と、新しい居住者の入居予定を言う。
(あるわけないじゃないか)と斉木は思った。(もうマンションは売れていな
いんだから)
「あと、そうそう、ごらんの通り、防犯カメラが復旧しました」と蛯原は監視
カメラのモニタを指し示した。先日落雷で破損したのだった。「ただし、ハー
ドディスクは10分の1しか動いていないから16時間しか録画出来ないそう
です。あとは、そうそう、今日ヤマダ電機から遠赤外線ストーブが届く予定で
す」
「へー、よかった。じゃあもう清掃のみんなはボイラー室で休憩しないんだな」
 清掃員には清掃準備室という部屋があてがわれていたのだが、寒くて居られ
ず、ボイラー室で休憩を取っていた。しかし午後からここで仮眠をとる24時
間管理員には邪魔だったのだ。
「あとは、雪かきだ。今夜から又大雪だというし。理事の車のところだけでも
除雪しておかないと」
「俺の方見て言わないでよ」と斉木。「蛯原さんが自分でやったらいいじゃな
い」
「私は、この手だから」と右手のギブスをさする。
「清掃の奴らにでもやらせたら」
「彼らはめいっぱいスケジュールがあるから」
「俺だって遊んでいる訳じゃないんだよ。風呂焚きだの巡回だの、色々忙しい
んだから。高橋さんやったら?」
「私は、ヘルプで来ているだけですし」
「とにかく、管理規約にないんだから、やる事ないよ。理事にそう言ったらい
いんだよ。文句あるならフロントに言ってくれって」と斉木。
「しかし、スキーマンションだしなあ」
「そんじゃあ、俺は、温泉沸かしてくるよ」
 ここの温泉は冷泉をボイラーで沸かすものだった。とにかくそう言って斉木
、鮎川はボイラー室に向かった。鮎川は帰り支度だけれども。

●3
 24時間管理員は、ボイラー室で着替えてきた。そこにロッカーがある訳で
もなく、プラスチックの衣装ケースを1個ずつをあてがわれて。
 衣装ケースの私服を出して着替えている鮎川に、ボイラーの制御盤をいじり
ながら、斉木が話しかけた。
「帰ったら漫画読みながら飲むのか?」
「漫画なんて読まないよ、アニメを見るんだよ」
「ああ、そうか。お前の自衛隊時代の漫画だけれども、今夜あたりにでも、ス
キャンして、youtubeにうpしてやるからよぉ」
「ああ、ありがとう」
「それでバズればお前もユーチューバーだからな」
「ああ」
「分け前は半分半分だからな」
「ああ」
 鮎川を帰してしまうと、制御盤のスイッチを入れて温泉を循環させた。うぃ
ーん、とモーターが駆動して、配管の中を冷泉がめぐりだす。ボイラーのとこ
ろに行くと、ボイラーのスイッチも入れた。冷泉はここで温められて、上の浴
槽に戻って行く。沸き上がるまで2時間半はかかるだろう。
(暇だ)と思った。(巡回がてら、裏エントランスから外に行って無人のゲレ
ンデでも眺めながら加熱式たばこで一服するか)

 ボイラー室から出ると、共用棟の裏口から屋外に出る。
(寒いなあ)
 そこは、ゴミ箱置き場の裏で、ゴミ箱置き場の向こうには自走式駐車場が見
える。
 右側に歩いて行くと、正面玄関から駐車場に向かう道に出た。
 駐車場方向に歩いていって、駐車場奥の裏エントランスに向かう通路を歩い
た。
 裏エントランスに近付くと、清掃員の額田と大石悦子が不燃物置き場の扉を
見ながら腕組みしたり頭を抱えたりしていた。
「なに、どうにかしたの?」い言いつつ斉木が近付いて行く。
「あらー、見つかっちゃった。見てこれ」と大石悦子は扉を指す。
「うん?」と斉木は扉を見た。
「分からない?」
「うーん、うん。キズがついている」
「分かるでしょう。実はね、ここに鳥の糞がべっとりこびり付いていたのでヘ
ラでこじったらこんな傷を付けてしまったの」
「あーあ」
「そんで、私らパートと言っても請負契約社員だから、物損を出せば損賠賠償
になるでしょう? あんなドア、業者に塗らせたら3万も5万も取られてしま
う。月に8万しか貰っていないのに5万も取られたらもう何も買えなくなって
しまう。週末にお父ちゃんと卸売りセンターでウニ丼を食べる積もりだったん
だけれども、それも諦めるようかねぇ、うぅーーー」
「斉木君、塗ってやってよ」と額田が言った。「ボイラー室にここを建てた時
のペンキの残りとかあるだろう」
「そんだったら、張り紙でもしておけばいいんだよ」と斉木。「雪で滑ります
、とか、足元注意、とか書いて貼っておくんだよ。それも蛯原の前でこれみよ
がしに書くんだよ。そうすればあいつがオスのマーキングで、すぐにパウチの
張り紙に交換するから。そうしたら又それを引っ剥がして、又自分の張り紙を
しておくんだよ。そんなの一週間もやっていれば、傷だらけになって元の傷な
んて分からなくなるから。ガード下の電柱みたいに」
「本当かい?」と大石。
「本当だよ。俺は、ここに来て蛯原のこの習性をすぐに発見したんだから。
 俺がここに就職した頃は、共用部の鍵なんかも誰も管理していなくて、俺が
夜間の暇な時に、本数をチェックして、鍵台帳を作成したんだけれども、次回
の勤務日に来てみたら、ベニヤ板に鍵がぶら下がっているし、鍵台帳も作り直
してあったんだよ。
 あと、割れたままの蛍光灯のカバーがあったので、取り外して、サランラッ
プで雨水が入らない様に養生しておいたら、次の勤務日には、アロンアルファ
で直したカバーが取り付いていたんだよ。
 それから、雨で滑ります等の張り紙をすると、すぐにワープロとテプラで作
った張り紙に貼り替えられる。
 なんだこいつは。犬か。小便した後に又小便を掛ける、みたいな真似しやが
って。
 でも、この習性を利用すれば、隠蔽工作に使えるなーって思ったんだよ。鮎
の友釣りみたいな」
「本当?」と大石悦子。
「それだけじゃないよ。あいつのこの習性を利用して、実は、今、額田さんに
もあるミッションを仰せつかっているんだぜ」
 額田は舌を出すとデヘヘと笑った。
「何、何、それ」と大石は興味津々である。
「まぁ、もうすぐミッションコンプリートだから、お楽しみだな。とにかくそ
の傷は、その上に張り紙をしておけばいいから」


●4
 フロントでは、高橋明子が気をつけの姿勢で立っていた。居住者は誰もたず
ねてこないのだが。
 蛯原は、フロントから出て行ってラウンジをうろついたり、又戻ってきたり
と、落ち付きがなかった。
 盤から防寒着(ブックオフで500円で購入)を出すと着込んで「ちょっと
温泉を見てくる」と階段を上がっていった。
 温泉の開店は12時なので、それまでだったら露天風呂に行けば一服出来る
と思ったのだ。斉木の居ない日はボイラー室で吸えるのだが、斉木が嫌煙権を
主張しているので今日はあそこでは吸えない。さりとて、わざわざ正面玄関か
ら出て行ってマンションの敷地外に行くのも面倒くさいので。
 浴室に上がって行って男湯を覗いてみたら、山城が洗い場の掃除をしていた
。そこで女湯の露店で一服しようと、女湯に行ってみる。
 電気はついていなかった。薄暗い女湯の引き戸を開けると、入って左手の石
造りの壁の向こうが洗い場なのだが、シクシクという泣き声が聞こえてくる。
(誰だろう、どうしたんだろう)と思って行ってみると、真ん中へんの洗い場
のところで、照明のカバーを持ったまま泉がしゃくりあげていた。
「どうしたの」
「電球が切れいているから交換しろって言われて、これ、外したら、割れてい
たんです」
「最初っから割れていたんじゃしょうがないじゃない」
「でも、私のせいにされる」
「ちょっとかしてみな」というと、蛯原は、ブツを受け取った。
 ガラスのカバーは、ねじ込み式のもので、ねじ込み部分まで全てガラスで出
来ている。ねじ込み部分から本体の一部にかけて割れている。
「だいたい、こんなところにガラスのカバーを使うのがおかしいんだよなあ。
プラにすればいいのに」
「これ、弁償したらいくらぐらい…」
「これ、割れやすくて前にも誰かが割ったんだが、2万だったかな」
「えー、2万? 私8万しかもらっていないのに。うちの母のC型肝炎の治療
費なんですけど、高額療養費を使っても年60万はかかるから、月5万は最低
医療費にかかっちゃうんです。あと、母の国民年金が5万だから、2万ってい
ったら大きいんですよねぇ」
「そうだよなあ。趣味や健康の為に働いているんじゃないものなあ。じゃあ、
これをよぉ」と鏡の前のカウンターに割れたガラスカバーを置くと、防寒着の
ポケットからアロンアルフアを出した。「これでくっつけりゃあ直るんじゃな
いか」
 断面に点々とアロンアルフアをたらして、割れた部分を本体にくっつける。
「これでいいよ。これでハメておこう」と言うと、鏡の上の照明のところにね
じ込んでしまう。「今度外したらダメかも知れないけれども、当面はこれで大
丈夫だよ」
「本当ですか?」
「ああ、平気だよ。さあ、行っちゃいな。バレない内に」
「ありがとうございます。ありがとうございます」といって泉は出て行った。
 その後、蛯原は、露天で一服した。
 真ん中に竹の仕切りがあって、男風呂を掃除している山城の出す音が聞こえ
る。
 音が止まった。
(こっちにくるかな)
 パッと女湯の電気がついて山城が入って来た。
「なんだよ、電球交換してないじゃないかよ」
 言うと、一回脱衣所に出て行く。そこにはミストサウナの蒸気発生器の設置
してある小部屋があって、ポリシャーやデッキブラシなどもそこに突っ込んで
あるのだが、そこから電球をとってくると又戻ってきた。
 洗い場に行くと、さっきねじ込んだカバーを開けた。
 途端に、「わー」と叫ぶ
「どうした?」携帯灰皿にタバコを押し付けながら何食わぬ顔をして蛯原が来
た。
「割れてんじゃないかよ」と山城。
「飛び散ったなあ。居住者がそこらへんで足の裏でもケガしたら大事だぞ。と
にかく、その割れたのを始末しないと」と、ポケットからレジ袋を出すと、
「ここに破片を入れろよ」
「いやに用意がいいじゃないか」
「昔、バタヤをやっていたからな」
 本体と破片を慎重にレジ袋に回収する。
「あんた、床に掃除機をかけときな。俺はここを養生するビニール袋とかガム
テープをもってくるから」
 蛯原は、フロントに行って、高橋明子に「山城さんが物損を出した」と言う
と、管理室に入って行って、流しの下に、ガラスのカバーの入ったレジ袋を置
いた。
 流し下部の収納スペースから、ビニール袋だのガムテープだのを出すと、2
階浴室に戻って行った。
 女湯の洗い場に戻ってみると、掃除機をかけ終わった山城が、途方にくれた
感じで突っ立っていた。
「この上から養生しちゃわないとしょうがない」言うと蛯原はビニール袋を照
明のところにあてた。「あんた、ここ、持っていて」
 と山城に指示して、ビニール袋を持たせると、ガムテープを四方に貼る。
「今日はこれで営業してもらうしかしょうがないなあ。割れたものの手配は、
俺から本通リビングに連絡しておくから」
「それ、高いのか」
「2万ぐらいだな」
「2万かあ。3日分の給料がすっとんだな」
「あんたは金持ちだからいいだろう」

●5
「どうしたんですか?」戻ってきた蛯原と山城に高橋明子が言った。
「風呂場の照明、割っちゃった」と山城。
 二人は管理室の中に入って行った。山城がデスクのチェアにどっかりと腰を
下ろす。
「コーヒーでも入れますか」と明子。
「ああ、入れてくれ、濃いのを」と山城。
 明子はキッチンコーナーに行って二人分のインスタントコーヒーを入れてく
ると、デスクの上においた。
「あーあ、全く損したな」と言って山城はチェアにふんぞり返ってコーヒーを
すする。
 主任管理員の蛯原が立ったまま、コーヒーをすする。
 山城はじーっと監視カメラの9分割の画面を見ていた。
「あのモニタだけれども、巻き戻せるのか」
「そりゃあ、そうだよ」
「何時間?」 
「今は16時間だな。本来は160時間なんだけれども」
「そこに映っているのは、駐車場の屋上からスロープの方へ行くところだよな」
「ああ」
「スロープのところは映っていないのか」
「あそこは死角になっているんだよ」
「スロープの手前でもいいけれども、昨日の夜中のとか見られないの? あそ
こで、滑りそうになったから。みんな俺の事を嫌っているからなあ、金がある
からって。だから、誰かが盛る土ならぬ盛る雪でもしたんじゃないかと思って」
「昨日まで故障していたから映ってないよ」
「カメラは全部で何台あるんだよ」
「24台だよ」
「残りの15台の映像は見られるのかよ」
「ああ、見られるよ」
 言うと蛯原はモニタの下に行くと、デルのPCから出ているマウスをいじく
りだした。
 山城も近寄ってきて、モニタを覗く。
「ここのボタンをクリックすれば画面が切り替わるんだ」蛯原はカチャカチャ
と画面を変えた。
「あ、泉だ」泉がエレベーターカメラに映った。「何やってんだ。さぼってい
やがるのかなあ」
 泉はエレベーターから降りて行くと画面から消えた。
「何であいつは真面目に働かないのかなあ。どうせ拘束時間は同じなんだから
、ちゃんと働いた方が時間が早く経つし、人の役にも立つのに。一ケ所にじー
っとしていないで、すぐに飽きて別の場所に移動する」
 蛯原が得意気に更にカメラを切り替える。
「あ、又泉が移動している。こいつ、ダメだなあ。首にするかなあ」
「そういうなよ。彼女はお前みたいに、遊びで働いている訳じゃないんだから
。家が苦しくてさあ。お母さんがC型肝炎だろ。年金も国民年金で、本当に爪
に火を点す様な生活をしているんだから」
「その割にゃあえらく太っているな」
「そういえば、もうすぐ飯の時間だな。あんた、どこで食うの?」
「清掃準備室」
「今日から、あそこにはみんなが帰ってくるぞ。遠赤外線ストーブが入ったか
ら」
「えー、本当かよ。あいつら貧乏人と一緒に食いたくないな。銭湯の休憩所で
食うかな」
 この会話をフロントで聞いていて、明子はムカっ腹を立てていた。
(首にする権利なんてあるわけないじゃないか。自分だって同じ時給のパート
なのに、何言ってんだろう。今度本社に帰ったら、ああいうのがリーダーだと
全くパワハラ、モラハラ、セクハラのブラック企業になってしまうと報告して
やろう)








#596/598 ●長編    *** コメント #595 ***
★タイトル (sab     )  22/11/23  14:58  (181)
【本格】の積り『スキーマンションの殺人』2朝霧三郎
★内容
●6
 ボイラー室の斉木は制御盤を計器をチェックしていた。循環している湯の温
度が41度になっていた。設定値も41度だ。
(あと15分で開店だから、ちょっと風呂場を見てくるかな。昼飯は昼休みに
は食わないで、14時から18時までの仮眠時間に食うかな。しかしそうやっ
て休憩時間がやたらとあってその時間は賃金が発生しないんだからひでーよな
あ。特に18時から一人勤務になるのに、8時間も休憩時間があって賃金が出
ないのはひでー。それでも、客は24時間有人管理だと思っているあら用をい
いつけてくるし。まあ、いいや、ここをやめる時に、そういうのも全部労働時
間だと言って労働審判を起こしてやるから)
 斉木は、ボイラー室から出てラウンジに向かったが、ふと、清掃準備室の前
で止まった。
 ノックをして開けると覗いてみる。
 額田、大石悦子、泉の3人が遠赤外線ストーブにあたっていた。
「お、あったかそうだな。ミッションコンプリートだな」
「なに、なに?」と大石と泉。
「じゃあ、今回のミッションについて、説明するよ」斉木はドアを閉めて遠赤
外線ストーブの横に立った。「今回のミッションは、清掃グループの独裁者山
城を追放し、自由と民主主義を回復するというものであった。
 このミッションは2つの作戦行動により完了する。
 まず最初のミッションは、清掃準備室を綺麗にするというものだったんだよ。
 俺は、清掃員の為にあの部屋を綺麗にする、と宣言して、小汚いモップにビ
ニール袋を掛けたりした。
 そうすれば蛯原が犬のマーキングで真似をすると思ったから。いやもっと大
掛かりな事をするだろうと期待して。
 そうしたら蛯原は、まず、清掃準備室の清掃用具をボイラー室へ移動させた
。わざわざ本通リビングの許可を得て。
 そうやって、一度清掃用具がボイラー室に移されて、清掃員の出入りが自由
になると、ボイラーを焚いている時には暖かいものだから、だんだんそこに屯
するようになるし、しまいには休憩もそこでとるようになる。
 それが昨日までのあんたらだよ。独裁者からの解放はまず移動の自由からだ
。まあ、ボイラー室は難民キャンプみたいなものだよ。
 だけれども、あんたらは故郷に帰らないといけない。それがミッションその
2」言うと斉木は人差し指と親指の2本立てた。外人みたいに「蛯原には風説
を流布する悪い癖があるんだよ。誰々がこう言ってましたよーって。額田さん
が、清掃準備室は寒いって言ってましたよー、隣の農家の豚小屋には、ここが
建ったら日当たりが悪くなったからといってストーブが入ったのに、ここの更
衣室には何にもない。俺たちゃ豚以下だ、俺たちは豚以下だと連呼して、」
「俺、そんな事、言ったっけ?」
「実際に言ったかどうかはどうでもいいんだよ。現代戦は情報操作だから。と
にかく蛯原がそう言って、とうとう遠赤外線ストーブをせしめただろう。本通
リビングから。これで、ミッション2がコンプリートだよ。
 まぁ、みんながボイラー室で昼飯を食う様になった段階で独裁者山城はハブ
にされた様なものなんだけれども。一人で清掃準備室で食っていたんだから。
 今度は大通リビングがストーブを買ってくれたんだから、みんなは清掃準備
室で昼飯を食わざるを得ない。そうなると今度は独裁者が追い出される番だ。
 山城のおっさん、どこいっているの?」
「2階の休憩スペース」

●7
 斉木が2階休憩室に行くと、山城がソファーに座って、見るでもなくテレビ
を眺めつつ、弁当を食っていた。
「あれ、こんなところで飯食ってんの? もうすぐ居住者様が来るんじゃない
の?」
「何で俺の居場所が無いんだ。ボイラー室はお前が仮眠しているし、清掃準備
室では額田らが飯を食っている。あいつらは俺の兵隊じゃなかったのかよ」
 テレビのチャンネルは地元のケーブルテレビ局だった。飯山の新幹線新駅が
映し出される。
 山城は、弁当を持ったまま身を乗り出した。
「俺はあの近所に2ヘクタールの田んぼを持ってんだ。売れば億になるが売ら
ない。米も売らない。みんな親戚に配るんだ。皆にそう言ってやった。それで
皆、俺を妬んでいるのかも知れないな。いや、額田だって、土地を持っている
ものな。やっかむとしたら、大石悦子、泉、公団住まいの蛯原、あと、24時
間管理員のぷーたろーどもだろうな。特に、おめーだよ。おめーなんて、飯山
から更にバイクで20分も行った原野でアパート暮らしをしているんだろう。
おめーみたいな持たざる者が人民主義者の扇動家になったりするんだよ」
「ふん。まあ、俺と鮎川は近い将来ユーチューバーで成功して、ユーチューバ
ー長者になるかも知れないけれどもな」
「ああ、精々頑張んな」
(ムカつくな、死ねばいい)そう思って斉木は踵を返した。

●8
「本当に土地持ちっていうのはムカつくよな」
 管理室に入るなり、斉木は弁当を食っている蛯原に言った。アルマイトのド
カベンに満杯のご飯、その上に、ワラジみたいに大きいメンチカツを卵でとじ
たものがあふれんばかりに乗っている。12時から1時間蛯原が休み、13時
から1時間高橋明子が昼休みだった。だから今はフロントに立ってそば耳を立
てている。
「なに、なに」と弁当を食いながら蛯原が言った。
「蛯原さんの事も、公団住まいの貧乏たれって言っていたぞ」
「なんだって」
「俺とかも、どっかから流れてきた馬の骨とでも思ってんだろう」
 それからしばらく斉木の愚痴が始まった。
「全く、あのジジイは最初っからそうだったからなあ。思い出すなあ、ここが
竣工した頃、AM社の懇親会も兼ねて、飯山雪祭りを見物に行った事があった
じゃん、あの時、俺と山城が、管理員と清掃員をそれぞれ代表して、早い時間
に行って場所取りに行ったんだよね。山城の野郎、もう、電車の中で、ワンカ
ップと柿ピーで一杯やっていた。だから言ってやったんだよ、こんなに混んで
いるのに、目の前に子連れの妊婦が立っているのに、つーっと飲んでんじゃね
えよ、丸で朝マックの時間帯に、朝刊を広げる散歩帰りの年金生活者みたいじ
ゃないか、とかね。
 そうしたら、俺の方が先に座っていたのに何で譲らないといけない、とか言
って、それにあの女は豊野駅で急行から乗り継いできたので県外のよそ者なの
だ、それが証拠に、ガキの鼻水を拭いたティッシュをそこらに捨てて行ったじ
ゃないか、とか。それを拾って、ワンカップの空き瓶と一緒に捨ててたけどな
、掃除夫が。
 会場に着くと、雪中花火大会に備えてジジイはビニールシートを広げて場所
取りをしてよお、夜になるとだんだん混んできて、押すな押すなになって来て
、後から来た奴が羨ましそうに見ていたが、あれは、俺の畑の周りに住んでい
る団地族の視線だとか言っていたよ。その内、子供を抱っこしていた母親が、
すみません、ちょっとここに座ってもいいですか? 気分が悪くなって、とか
なんとか言ってきたら、あんたら甘いんだよ、こっちは昼間っからここで頑張
っているのに、今更のこのこ出て来て座れると思ったら大間違いだ、とかなん
とか言ってよぉ。だから俺は言ってやったね、おーい、みんな、ここは誰の土
地でもないんだぞー、って。そうしたら、周りに居た群衆がざーっとなだれ込
んできた、ぐじゃぐじゃ状態になったな。それでも、結局、みんな、飲んだり
食ったりしたものを片付けて行かないで、最後に山城が一人で掃除をしていた
から、あいつな天性の掃除夫だぜ」

●9
(こりゃあ、空気が悪い。ここから歩いて200メートル、車で数分のところ
に、ペンション兼喫茶があって、ベジタリアンフードとケーキを出している。
昼はそこに行こう)と高橋明子はフロントで思っていた。
 昼休みになると実際ジムニーでペンション喫茶に行く。
 ソイパティ(モスかよ)のハンバーガーとヴィーガンバナナケーキ、コーヒ
ーなど食べてまったりしていたら、いきなり、本社から電話が入った。
「高橋くーん、居住者名簿をエクセルに打ち込んで、こっちにメールしてくれ
ない?」
「えー、そんなの入居する度に本社に送っているんじゃないんですか?」
「それが、メールに書かれているだけで、エクセルになってないんだよ」
「えー、それをこっちで打ち込むんですかぁ?」
「頼むよぉ」
「何時までに」
「急がないから」
「コンシェルジュの仕事はどうするんですか」
「それは、蛯原さんにやってもら様に電話しておくから」

 高橋明子は管理室に帰ると、室内のデスクの上にある古いFMVにバインダ
ーにファイルされている居住者名簿を1枚ずつ入力しだした。
 フロントの内側に新しいレノボがあるのだが、蛯原が立っていると、バイタ
リスの強烈なニオイが漂ってきて耐えられない。髪の毛がイノシシ並に濃くて
、自分でカットするから、毛足が豚毛歯ブラシみたいになっている。
 集中しているとすぐに時間が経過した。
 3時頃にフロントに泉がきて、何か蛯原に指図されている。
「さっき助けてやったから、かわりに…」
 そっから先は、こちらに聞こえない様に小声で話す。
(何を指図したんだろう)耳をそばだてて聞いていても分からなかった。
 明子は、PCを見つつ、防犯カメラのモニタを見ていた
 数分後、駐車場屋上の映像に泉が出てきた。
 屋上出口を出てすぐ左手に止めてある理事の車の周りの雪かきを開始した。
最初プラの雪かきでやっていたが、その内、柄の方で突っつきだした。9分割
のディスプレイでも見える。
 それから、スロープの方へ歩いて行った。スロープに入ると死角になって消
えた。そのまま歩いて降りるならば、直ぐに、駐車場3階の映像に出る筈だが
、映らなかった。3階駐車場の映像で映っているのは、駐車場の真ん中の通路
と左右に駐車してある車のトランクあたりまでだ。もし、スロープから降りた
らすぐに、駐車している車の影に入って、そのまま、リアバンパーのあたりを
しゃがみ歩きしてくれば映らないですむ。そうやってエレベーターのところま
で行って、エレベーターに乗ればエレベーターカメラに映るから、非常階段で
降りてきて、居住棟エリアに入って、共用棟の裏口からラウンジあたりに行け
ば、次に映るのは、今蛯原がつったっているフロントの前あたり。
 居住者名簿を電子化しながら、ちらちらと防犯カメラを見ていたら、突然フ
ロントの映像に泉が現れた。

●10
 リアルのフロントに泉が来て、蛯原に何か言っている。
「え、本当かっ」と蛯原は強い調子で言った。「それじゃあ」
 と言ってチラッとこっちを見ると、管理室の中に入ってくる。
(おいおい、何しにくる)と思ったが、入ってすぐ左に置いてあるスチールキ
ャビネット下部の事務用品の引き出しから何かを出すと、フロントに行った。
 それを泉に渡して、「これで…、その後で…、分かったか」と小声で、しか
し強い調子で言っていた。
(何を言っているんだろう、つーか、何を渡したんだろう)
 明子は、わざとらしく「あ、そうだ、定規で押さえないでポストイットを使
えば便利だわ」というと、キャビネットのところに行ってしゃがみ込むと事務
用品の引き出しを開けた。
 ボールペンだのマジックだのの引き出しは特に変わりはない。その下の引き
出しを引いてみる。ホッチキスの弾やPiTが入っているのだが、すかすかだ。
(ここに何が入っていたんだろう)
 デスクに戻ると、又、PCを見ながら防犯カメラのモニタを見る。
 やっぱり、泉が屋上出入口左の理事の車のところに来た。しかし、しゃがみ
込んで何かをしているので、何をしているのだか分からない。
 ちらちら、モニタを見ていると、30分ぐらい経過してから、泉は、スロー
プの影へと隠れていって。それからどこに行ったのか、分からない。もう蛯原
のいるフロントには戻って来なかった。
「コーヒーでも飲もうかなあ」明子はわざとらしく言うと、キッチンの方に行
った。
 ふと気になって、しゃがみ込むと、レジ袋に入っている割れたガラスカバー
を見てみる。
 よーく見ると割れた断面にセメンダインみたいなものがついている。(もし
かしたら山城さんが割る前に誰かが割って養生していたのでは)




#597/598 ●長編    *** コメント #596 ***
★タイトル (sab     )  22/11/23  14:59  (224)
【本格】の積り『スキーマンションの殺人』3朝霧三郎
★内容
●11
 5時になると、山城がフロントに来て「帰るぞー」と怒鳴った。
 山城は作業着の上にドカジャンを着てそのまま帰るので、早い。
 カメラで見ていると、山城は駐車場3階で降りて、スロープ下の自転車置き
場に行った。
 スロープの上には上がらないで、3階のエレベーターから乗り込んだ。
(スロープを上れば、そこが除雪されているのか確認出来たのに)
 高橋明子は諦める様に、ため息をつくと、エクセルもバインダーも閉じて、
キャビネットに戻すと、更衣室に向かった。
 代わりに、斉木が来て、デスクのチェアに座り込む。
 明子も含めて、蛯原、額田、大石、泉が着替えて、管理室に戻ってくる。
「さあ、帰るぞ」と、蛯原がこれから朝まで一人の斉木に言う。
 玄関側の鉄扉を開けて、「おい、もうだいぶ積もってきたぞ」と額田が言っ
た。
「ジムニーで送っていってあげましょうか」と明子。
「俺は足腰が強いから歩いて帰れるよ」額田。
「俺もバスで帰るよ」と蛯原。
「私は旦那が迎えにくるから」と大石。
「あら羨ましい」と泉。
「泉ちゃん、乗っけていってあげようか」と明子。
「えー、いいんですか?」
「そんじゃお先に」「お先に」とみんなが一声かけて、鉄扉から出て行く。

 駐車場でジムニーに乗り込むと、明子はシートベルトをかけながら「寒いね
、すぐに温まるからね」と言った。
「はい」と泉。
 エンジンをかけるとすぐに車を出した。
「飯山市内でいいんだよね」と明子。
「はい」
「いつもはどうやって帰るの?」
「コミュニティバスで」
 カーラジオからは、地元のFM局の天気予報が流れていた。
「気象速報です。長野県北部を中心に大雪警報が発表されています。長野市、
中野市、大町市、飯山市、白馬市、小谷市、高山村などとなっています。5時
の大町市からのリポートでは、すでに2センチ程度の積雪で、しんしんと降り
続いているとの事です。このあと1時間の降雪量は、飯山市では8センチ、積
雪の急激な増加に要注意です。この後の雲の動きは、日本海側より発達した雲
が流れ込んでくる見通しで、深夜から明け方にかけて雪の降り方には注意が必
要です。ウェザーニュースのアプリからは最新情報が確認できます。チェック
してください」
 斑尾高原スキー場を出て、ペンションが左右に立ち並ぶエリアのくねくねし
た道をコーナー取りしつつ、明子は言った。
「これじゃあ、明日の朝も、歩いて来るのは大変だから、乗っけてきてあげよ
うか」
「いいですよ。私、歩くスキーをもっているから、あれでバス停まで行くから
。ダイエットにもなるし
「いいわよ、遠慮しないで。こんなに降っているんじゃあ、大変だから」
 それから泉は、斉木の計画で、額田が山城を追いだした事などを話した。
「へー、そんな事やっているんだぁ」と明子。「それにしても、こんなに降っ
ているんじゃあ、折角除雪しても、又積もっちゃうわね。
 さっき理事の車の周りを除雪している様子を防犯カメラで見たけれども、あ
れは蛯原さんに頼まれてやったの?」
「そうじゃなくて、除雪も清掃の一部だと思って」
「それから、スロープの方に行ったけれども」
「そこには何もなかったよ。溶けていたんじゃない。昼間は晴れていたから。
…やっぱり、明日の朝は、歩くスキーで自力で行きます」ときっぱりと言った。
(女湯の照明のカバーを割ったのは実は泉ちゃんでしょう、とは聞けないな。
それをアロンアルフアで蛯原が助けてくれた。その見返りに何かをやらされた
。理事の車の周りの除雪と、あと何かを…。あー、こんな事だったら、泉なん
て乗せないで、スロープの様子を見て来ればよかった)

●12
 夜間、斉木は、管理室で、レトルト食品とココアで腹ごしらえをした。
 それから、鮎川の自衛隊時代の漫画の電子化作業に着手した。これから夜中
の12時の温浴施設閉店までは暇だった。鮎川の漫画の原画を、管理室の複合
機でスキャンしては、ペイントでコマごとに分解する作業をしていた。結構面
倒くさかったがこれでバズれば銭になる。半分は斉木にくれるという約束だか
ら。
 鮎川は27、8まで、アニメージュの裏にあった募集広告から応募したタツ
ノコプロに就職していた。しかし、アキバ加藤の事件でオタクの息子に不安を
感じた親が自衛隊に放り込んだ。2年で満期除隊して、自衛隊時代の事を漫画
にして、コミケに出品したのだが、全く売れなかった。
 12時に温浴施設の営業が終わると、風呂の栓を抜いて湯を抜くと、新しい
冷泉を入れた。本当は洗わないといけないんだけれども、そんな事はしない。
満タンになれば勝手に止まるからこれで今日の業務は終了。
 夜中の3時に新聞配達を通す為に一回起きなければならないが、6時までは
眠れる。斉木はアラーム時計を3時にセットすると、うとうとしだした。
 3時になると一回起きて、新聞屋を待った。しかし3時半になっても4時に
なっても新聞屋は来ない。結局来たのは5時半だった。
 正面玄関の自動ドアを開けてやると、フロントに入って来るなり新聞屋の一
人が怒鳴った。
「雪かきしておけって言ったじゃないか」
「雪かきなんてするかよ」
「じゃあ主任管理員に言っておくからいいよ。昨日もそうして命令してもらっ
たんだから」
「別にあいつに使われている訳じゃないよ。あいつだってただのパートだ」
「俺らだって、何時もより3時間も時間超で頑張っているのに、そっちはぬく
ぬくとして」などとぶつくさ言う新聞屋を、二重オートロックの二つ目のドア
を通してやる。
 その背中を見て、(あいつらも、搾取されているんだなあ)と思う。
 斉木は、ボイラー室からプラの雪かきを取って来て、正面入り口から雪かき
を始めた。
 雪は止んでいたが、鼻水が凍ってつららが出来た。
 7時半頃までに、駐車場から正面玄関を経由してマンションの出口まで、や
っと歩行者の通れる30センチ幅の通路を確保した。
 くねくねした道を見ると、自分の汗が雪を溶かしたぐらいに思えた。
 その苦労の跡を、チャリン、チャリンとベルを鳴らしながら山城が走って来
た。
 こっちに迫ってくると「シャッター開けてくれ」と言って通り過ぎていく。
(あんな野郎の為に雪かきをしたんじゃねー)と思ったが、ポケットの中のリ
モコンでシャッターは開けてやった。

●13
 山城は、チャリン、チャリンとベルを鳴らしながら左に旋回して、駐車場に
入る。
 駐車場の中ほどまで行くと、自転車を立ててエレベータに乗った。
 屋上に降りると、一面に真綿の様な雪が降り積もっていた。まだ全然足跡が
付いていない。
 山城は、嬉々として自転車を漕ぎ出した。
 真っ直ぐスロープには向かわずに、あちこちを旋回しながら、オリンピック
の輪の様にタイヤの跡を付けていった。
 何故か、『雨に唄えば』のジーン・ケリーを思い出した。
 あの映画はリバイバル上映を妻と見に行ったのだった。
(妻は処女だった。雪のように白く清かった)
 『雨に唄えば』を口ずさみながら、山城は雪の上にタイヤの跡を付けて行っ
た。
(俺だけが汚していいのだ)と山城は思った。(後で、泉だの鮎川だのに汚さ
れてたまるか。あいつらほんとうに豆腐に指を突っ込むようなガキなのだから)
 散々ぐるぐる回ってから、階下に向かうスロープに向かった。
 その時になって、今自分が口ずさんでいるのは『雨に歌えば』じゃなくて、
『明日に向かって撃て』でポール・ニューマンがキャサリン・ロスを籠に乗っ
けて漕いでいる時の歌だ、と気が付いた。
 次の瞬間に、自転車の前輪がスロープに差し掛かったのだが、突然、ハンド
ルを取られるのが分かった。
 焦って斜面を見ると、積もったばかりの雪の下にボブスレーのコースみたい
なワダチが出来ていて、左側の壁に向かってカーブしている。
(あれッ)と思った時には、ずずずずーーっと滑り出していた。(壁に激突す
る)と思ったのだが、激突と同時に壁が外れて、自転車もろとも地上に転落し
た。
(こりゃあ死ぬぞ)ともがいている内に、自転車と自分が入れ替わり、自分が
先に背中から着地した。かなりの衝撃だったが、雪がクッションになって(助
かった)と思った。しかし次の瞬間、自転車が落ちてきて、ブレーキレバーが
右腹部の肝臓付近をざっくりとえぐった。その衝撃で自分はうつ伏せの状態に
なり、自転車は回転して、脇の小道に飛んでいった。

●14
 正面玄関で雪かきをしていた斉木は、ぎゃっ、という短い悲鳴の後に、ちゃ
りーんという音を聞いた。
(自転車でコケたのかなあ)と考えて、しばらくじっとしていたのだが、ハッ
と気が付いた様に、雪かきを持ったまま走り出した。
 駐車場の真ん中を突っ走って、裏側の柵まで行く。
 舗道に自転車が落ちているのを発見した。
 植え込みの手前には、山城が卍みたいな格好をしてへばりついていた。
 斉木は、柵の扉を開けて、山城に近寄ると、周辺をうろつきながら様子を見
た。
 綺麗に雪が積もっている所に落っこちているので、もしかしたら生きている
かも知れない。
 雪かきの柄で、山城の腹部をぐーっと押してみる。腹の下から、どろーっと
血が流れ出してきた。
(うぇー)グロ耐性がないので、口の中が酸っぱくなった。
 フェンスの外側の松の木で、カラスがくっ、くっ、と咽を鳴らせて羽をばた
つかせた。
 雪かきを振り回してみたが、カラスは微動だにしなかった。
 斉木は携帯を取り出すと119番通報した。

●15
 救急車よりも先に警察が到着した。
 シャッターを開けてやると、7人8人と警官が入ってくる。
 すぐにkeepoutと書かれた黄色テープで現場の5メートルぐらい手前
に規制線が張られた。
 斉木はの警官にそこまで引き戻されてしまった。
 現場では、ヘアキャップに足カバーの鑑識が、舗道にへばり付いた遺体を取
り囲んだ。その中の偉そうなのが「首吊りと一緒だ。ひっくり返さないと検視
できない」と言った。
 鑑識二人で、一斉のせいでひっくり返す。その拍子に裂けた腹から内臓が飛
び出してきた。
「うわー、こりゃあ又ど派手に裂けたもんだ」
 言うと偉そうなのは、手にはめたゴム手袋を引っ張ってパチンと鳴らした。
遺体の脇にしゃがみ込んで、腹の辺りに触れてみたり、瞼を持ち上げてみたり
、口を開いてみたりする。
 他の鑑識は、写真を撮ったり、メジャーで、駐車場壁面から遺体までの距離
、その他を測っている。
 救急隊も既に到着していたが、ストレッチャーの上に、オレンジ色の毛布だ
の、オレンジ色のAEDのケースだのを積んだまま、待たされていた。
 2人の刑事が、駐車場の柵の近くから最上階を見上げていた。飯山警察署の
警部補、服部雅彦(近藤正臣似 55歳)と、巡査部長、小林達也(江口洋介
似。35歳)である。
「あそこから転落したのか」と服部が言った。それから「おい、あなた、ちょ
っとこっちに来て」と斉木に手招きした。
 そして、服部と小林とで質問してくる。
「まず名前は」と小林。
「斉木清」
「どういう字を書きます?」
「斉藤由貴の斉に木曜日の木、大久保清の清」
「さいとうって4種類ぐらいあって、どれだか分からない」
「まあ、いいよ、とりあえず」と服部。「それで、あのガイシャの名前は?」
「山城なんとか」
「ここの管理員ですか」
「清掃員だな」

 出勤してきた、蛯原、明子、次の24時間管理員の大沼、清掃の額田、大石
悦子、泉らが規制線の所まで来た。
「俺がここの責任者だ、まず俺に聞けー」蛯原が規制線のところに立っている
お巡りを押しのける様に刑事2人に言った。「おい、斉木君、余計な事を話す
必要はないぞ」
「うるせーんだよ、おめーは」斉木は睨み返す。
 山城の遺体は既にブルーシートで目隠しされていて見えなかった。
「ガイシャは、山城さんか」と蛯原。
「うるせーんだよ」
「じゃあ、上に行ってみようか」と服部
「はい」と小林
「あなたもついてきてくれます?」
「別にいいけど」
 規制線のところで、蛯原が迫ってくる。「弁護士を呼んでやろうか」
「うるせーよ」
 3人はエレベーターで屋上に向かった。
「おい、我々も屋上に行くぞ」と蛯原。
 エレベーターは4人乗りなので2回に分かれて屋上に上がった。一回目は、
蛯原、明子、大沼、額田。
 降りるなり、理事の車を見て、明子は、(あれ)と思った。
 一面雪なのに、理事の車の周り一周、雪が溶けてグリーンのウレタンが露出
している。
 それをちらっと蛯原が見て、
「こんなにむけたんじゃあ、スロープの方と合わせて、物損が大変だ」と言っ
た。
「えっ?」と明子。
「とにかく、向こうに行ってみよう」
 と、4人でスロープの方に行った。
 おっつけ、大石悦子と泉も来た。
 そこにも規制線が張られていて、制服警官が立っていた。その向こうでは、
鑑識4人と刑事1人が現場検証をしていた。
 刑事2人と斉木が規制線から一歩中に入る。
「黙秘権があるからな」と蛯原が言ってきた。
 斉木は嫌な顔をしてこっちを見ただけ。




#598/598 ●長編    *** コメント #597 ***
★タイトル (sab     )  22/11/23  15:00  (275)
【本格】の積り『スキーマンションの殺人』4朝霧三郎
★内容
●16
 刑事二人と斉木はスロープを見渡した。
「なんだ、こりゃ」と服部。
 スロープの真ん中から左側壁面に向かって、半径1.5メートルぐらいのワ
ダチがあった。
「どうもおかしいんですよ」上に居た警部補の三木(渡辺哲似。60歳)が言
った。「足跡がないんです」
 ワダチの両側はこんもりと新雪が降り積もっていて、なんの跡もなかった。
 ワダチにはうっすらと雪があって、ところどころ、自転車のタイヤで擦れた
のだろう、グリーンのウレタンが見えていた。
 壁面を見ると、はめ込みボードは脱落した訳ではなく、下一箇所のボルトで
ぶら下がっているのが分かった。
「おーい、下の人。何時壁が落下するか分からないぞ」と服部が地上の鑑識に
怒鳴った。 それからワダチを指し示して言う。「ここでハンドルをとられれ
ば落下する仕掛けになっている」
「こりゃ、一体どういう事なんだ」と三木。
 服部はワダチを見ながら首を捻った。
 小林が、斉木の脇に付いていた。
「いっつも、山城という人が最初に出勤するんですか?」と服部が聞いてきた。
「そうです」
「その前にここに来た者は」
「居ません」
「見てたのか」と三木。
「そういう訳じゃあ」
「じゃあ何で分かる」
「防犯カメラを再生すれば分かると思います」
「カメラは何処にあるんです」言うと服部は辺りを見回した。
「あそこにあります」斉木は屋上西側の監視カメラを指差した。
「何日分録画してあるんだ」
「本当は160時間だけれども、今は壊れていて16時間だな。それに、ここ
は死角になっているから映らないよ。日も当たらないしね」
「小林君、下に行ってチェックしてきてくれないか」
「はい」というと規制線のところまで行ってAM社の面々に警察手帳をかざし
て見せた。
「飯山署の小林といいます。捜査の必要上、あのカメラの映像を見たいのです
が、見せてくれませんか」
「じゃあ、大沼さん、見せてやってよ」と蛯原。
「俺がか。お前が自分で行ったらいいやんか」
「私はここを離れる訳には」
「まあ、大沼さん、それじゃあ連れていって下さいよ」と小林刑事にうながさ
れて二人はエレベーターで下へ降りて行った。

 走査線の内側では、服部と三木が話していた。
「事件だよな」と三木。
「誰かがワダチを作っておいた。足跡もつけないで」
「うーむ。事件性は否定出来ないから、とりあえず職場の人間関係だけでも聞
いておいた方がいいんじゃないの?」
「そうですね」
 服部は規制線のところに来ると、AM社の面々を見渡した。そして、高橋明
子に、「あなた達がこのマンションを管理している人達ですか?」と聞いた。
「そうです。私がコンシェルジュの高橋です。こちらが主任管理員の蛯原さん
。あと、清掃の額田さん、大石さん、沢井泉さん。あと今下に行ったのが24
時間管理員の大沼さん。あと、彼が斉木さん」
「それで全部ですか」
「あと一人、24時間管理員で非番の人がいますが。鮎川さん」
「それで、そこから転落した山城さんの職種は?」
「清掃です」
「それで全部かあ」
「そうです。それで…、山城さんはみんなに嫌われていたんです」
「何を言いだすんだ、突然、この女は。自分が本社の人間だからって」と蛯原。
「そうじゃないんです。私、昨日泉ちゃんに聞いちゃったんです」
「イズミ?」
「沢井さんです。沢井さんを車で送っていって、その時に…」
 そして、高橋明子は、斉木の描いた絵図で額田が山城を清掃準備室から追い
出した事、
その為に蛯原を使って本通リビングに遠赤外線ストーブを買わせた事、山城は
、大石悦子、泉、蛯原、斉木を貧乏人だといってバカにしていた事、などを喋
った。
「それじゃあ俺には動機がないな」の額田。
「そうじゃないんです。額田さんは、マンション内の居場所の取り合いで山城
さんを嫌っていて、斉木さん達は、そもそも貧乏アパートだから、土地持ちの
山城を嫌っていたって感じです」

「面白くなってきたなぁ、ここにいる全員に動機があるって事か」と斉木。
「じゃあ、足跡がないっていうのはどういう事なんだ」と刑事の三木が言って
きた。
「そんなの、一本橋を渡る様に、雪の中を歩いていって、ワダチを作ってバッ
クしてくればいいだろう。その点に関して、額田さんは怪しいんじゃないの?
 この人は、田んぼ5枚も6枚ももっていて、田植えをしているのを見た事が
あるけれども、歩行型の田植え機で、あんなぬかるんだ泥の中で、あんな機械
を押して行くんだからなあ、とび職みたいにバランスがいいんだから」

「そんな、足跡をつけてバックして戻ってきたなんて、古臭いやり方じゃない
よ」と額田が言った。
「おやおや、額田さんに何か思い付いた事でもあるの?」と斉木。
「俺は、何時もキッズルームの掃除とかしているんだが、蛯原は、自分ちの孫
のおもちゃを平気でここにもってきて置いておくんだよなぁ、公私の別がつか
ない人だから。その中に、リモコンのブルドーザーがあるんだよ。あれを使え
ば、遠隔操作で足跡をつけないでもワダチが作れるよ」
「えっ、俺がやったっていうの? ただ単にキッズルームにリモコンのおもち
ゃを置いただけで」
「そういう可能性もあるって言うの」と額田
「そういう可能性はないよ。あんなリモコンのおもちゃ、キュル、キュル、キ
ュルーって素早く動くんだから、実際の除雪なんて出来る訳ないよ。それに、
俺が思うに、あのワダチは、人の足跡やおもちゃでつけたものじゃなくて、何
かぶっといタイヤの様なもので付けたんだと思うんだな。それで俺が思い付い
たのは、鮎川なんだが。あいつはよく猫車を使っているから、あいつが、朝方
に忍び込んで猫車でやったんじゃないのか? ここの管理員は全員オートロッ
クの暗証番号を知っているんだから、裏エントランスからでも入り込めば出来
るだろう。それに鮎川は元自衛官だから、北海道雪まつりで雪の扱いに慣れて
いるんじゃないの」

「待って下さいよ。田植え方式にしろ、リモコンのおもちゃにしろ、猫車にし
ろ、そんなやり方でやったんだったら、あの西側のカメラから映りますよね」
と服部まで謎解きに参加してきた。
「それが、死角になる場所があるんですよ。このスロープから降りていって、
3階の駐輪場から車のトランクの下の方を歩いてくれば映らないで済むんです
」と明子。
「しかし、マンションに入ったならエントランスや裏エントランスには映るで
しょう」
「それはそうですが」
「じゃあ、それを下にいる小林刑事に確認してもらいましょう」言うとスマホ
を出して電話した。「ああ、あのねえ、昨日の5時以降、このマンションにA
M社の人間の出入りがあったかどうか監視カメラ映像で確認してもらえないか」
 15分経過。
「なに、そうですか。わかりました。ありがとう」そしてスマホを切る。「1
7時に退社以降、AM社の人間の出入りはない、又、深夜0時以降は、明け方
の5時半に新聞配達が来た以外に人の出入りはない、との事です」

「振り出しか」と斉木。
 服部と三木はワダチに近付く。
「どう、何か変わったもの落ちていない」と服部が鑑識に聞いた。
「それが、このワダチなんですけれども、ウレタンがところどころ出ていて、
それは、自転車のタイヤ痕だと思うのですが、ウレタンがめくれているんです
よ」
「なにぃ」と三木。
 服部と三木は鑑識のところに行ってしゃがみ込むとウレタンを凝視した。
「ここのところとか、ここのところです」と鑑識が指差す。
「本当だ。大人の親指ぐらいの大きさのめくれが、点々と、ワダチにそってつ
ながっている」と服部。
「清掃で使っている雪かきの柄は、みんな鉄パイプがむき出しになっていて、
あれで、がりがりやれば、こんな傷がつくかもな」と斉木。
「ありゃあ、どのデッキブラシも雪かきもああなっちゃっているんだよ。凍っ
た雪をつつくだろう、一階の通路の脇とか。そうすると、ああなっちゃう」と
額田。
「そういえば、昨日の朝礼で、蛯原さんが、理事の車の所に凍った雪があるか
ら除雪しておけって言っていたよなあ。あと、山城に言われて、スロープにも
凍結した雪があるって。蛯原さんが、清掃員の誰かにやらせたんじゃないの?
」と斉木。
「そんな事はやらせていないよ。管理規約にないから。嘘だと思うなら、防犯
カメラを見ればいい」
「だってあれには16時間しか残らないんだろう。だったら、昨日の4時以降
は映らないんだぜ」
「その理事の車というのはどれですか?」と服部。
「あれです」と、エレベーター出口の脇の車を明子が指差す
「見に行ってみよう」
 全員で、ぞろぞろと、理事の車の方へ移動した。
「こっちは完璧にウレタンが露出しているね。多分日当たりがいいからだろう
が」
 服部、三木、斉木が膝に手をついて中腰でウレタンを見る。
「ほら、こっちにも、点々と親指ぐらいのめくれがあるね」と服部。

 さらにしゃがみ込むと、服部はめくれを指でつまんで「これは、何か、接着
剤の様なものでくっつけてあるな」と言った。
「そりゃあ、アロンアルフアよ」と大石悦子が言った。「アロンアルフアとい
えば、蛯原さんよ。だって、蛍光灯のカバーだってそうやって直すと言ってい
たもの」
(浴室の電灯のガラスカバーもアロンアルフアで養生していたんだわ)と明子
は思った。
「ええっ。これを養生したのは、あなたなんですか?」と服部。
「しらないね」と蛯原。
「あなた、何か隠していませんか?」
「別に、アロンアルフアぐらい誰だって使うでしょう。」と蛯原。「そんな事
よりも、足跡がついていなっていうのは、解決したの?」

 その時、「ジングルベル、ジングルベル、すずがなる♪」という子供達の声
が、風にのって聞こえてきた。
(あれ、あれは子供達が歌っているんだろうけれども。今日は、土曜か。学校
は休みか。謎が解けた)
「謎が解けました。私に喋らせて下さい」と明子が言った。
「なんだ、君ら、素人が」と三木。
「まあ、いいじゃないですか。聞いてみましょうよ。高橋さんだったね。聞か
せて」
「いいですか。じゃあ喋ります。
 今日は24日ですよね。23日の朝に、山城さんは、ここで凍った雪を発見
していますから、その前の日の夕方あたりだと思います。犯人ミスターXが、
雪のないスロープの真ん中に、半径1.5メートルに左カーブに、雪を盛って
行ったんじゃないでしょうか。
 そうすれば翌日には、そのカーブの箇所だけが凍結すると思います。それに
山城さんは滑りそうになった。そして蛯原さんに除雪しておけ、と文句を言っ
た訳です。
 ミスターXは、それを誰か、例えばですが、泉あたりに、あの凍った雪をと
っておけと命令する。でも、清掃部隊の雪かきはプラのだから、取れない。だ
ったら柄の方でがりがりやれ、あの氷で居住者が滑ったりしたら損害賠償10
0万円だぞ、とかと脅かしてやらせる。
 脅かしが効いて、泉が必死にこじったら、ウレタンがぺらぺら剥がれてしま
った。
 泉はミスターXのところに行って、屋上のウレタンが剥がれちゃった、と言
う。
 そりゃあ弁償かもしれないな、と脅かす。張り替えたら何10万もするかも
知れない。でも、最低賃金で働いているのにそこまで弁償させられたらたまら
ない。だから、アロンアルファで養生しておけばいい。そうやって誤魔化して
おいて、秋になれば5年点検があるから、それまでばれなきゃあ、ちゃんと点
検したのかよ、って言えるから。
 だから、来年の秋になるまでは、二度とウレタンの剥がれた箇所をこじられ
ない様にしなければならない。
 それには雪が降る度に、塩化カルシウムを撒いておけばいい。でも、塩化カ
ルシウムにも限りがあるので、スロープ全面にまくってわけには行かない。だ
から、ウレタンがはがれている所にだけまいておけばいい。
 そうすれば、翌日には、1.5Rのワダチが壁に向かって出来てる。
 そうやって、やったんじゃないでしょうか。
 ついでに、雪が吹雪くと、あそこの壁面にも吹き積もる。それが凍結して落
っこちたら危険だから、あの枠のところに塩化カルシウムを撒いておけ、と言
っておけば、枠のボルトも錆びるだろうし。そうしたら、ああなった。
 それでミスターXは誰か。それは蛯原さん、あなたでしょう」
「な、なんで?」
「さっきこの最上階に来た瞬間、理事の車を見て、こことスロープのめくれと
で、物損が大変だって言っていたじゃないですか。理事の車の所のウレタンが
めくれているからって、何でスロープの方にもめくれがあるって分かったんで
すか? それは、両方とも、柄でこすって、めくれを作って、その上に石灰を
撒くという事をさせたからじゃないですか? 語るに落ちたんじゃないですか」


「ちげーねえや」と斉木が言った。「思い出したが、今朝新聞屋が、ワダチに
ハンドルをとられてコケそうになったから、雪かきしておけ、って、蛯原に頼
んでおいた、って言っていたよ。それが22日の事。その時に、こんないたず
らを閃いたんじゃないの?」

「くうっ くっくっ ううっ うっうっ、うーーーーー」突然、泉が泣き出した
「だって、お母さんが病気だから、お金がいるから、弁償なんて出来なかった
んです」
「泉、余計な事を言うな」と蛯原が手で制した。
「だけれども、私は、山城さんが滑り落ちるなんて知らなかったんです。ただ
、雪かきをしろって言われて、そうしたらウレタンがはがれちゃって、今度は
アロンアルフアで貼って、その上に石灰を撒いておけ、って言われたから、そ
うしただけなんです」
「誰に言われたんだ」と服部。
 泉は黙って蛯原を指した。

「くっそー。だけれども、俺だって、山城が滑るなんて事は知らなかったとも
言える。というか、知らなかったんだよ。そうだ、俺は知らなかった。だたウ
レタンを守る為に石灰を撒いただけだよ。それが罪になるのか?」
「それは分からないな。検事にでも言って下さいよ」と服部。「とにかく、蛯
原さんと、沢井泉さんは署に来てもらいます。いいですね」
制服警官が二人を押さえた。
「はなせっ、はなせっ」両脇を押さえられても蛯原は暴れていた。
「さぁ、さぁ、いいから」と警官。
「離せ、誤認逮捕だ」
「さぁ、さぁ、これ以上暴れると手錠はめるぞ」
「はなせー」と嫌がって尻込みする蛯原は、強引に両脇を固められて、エレベ
ーターに乗せられていった。
 泉はうつ向いたまま、しゃくりあげて、両脇を絡められて連行されていく。
 少しして、ウゥゥゥウゥゥゥ〜〜〜〜とパトカーのサイレンが響いた。
 回転灯を付けたパトカー2台が北の出口から出て行く様子が、駐車場屋上か
らでもよく見えた。

●17
「はぁーあ、全く、後味の悪い話だよな。」と斉木が言った。「それは、貧乏
人が金持ちを退治したのに処罰されるからなんだよな。ひでー話だ。貧乏な泉
が更に貧乏になる。
 額田さん、次はあんたが狙われるかも知れないぞ。そうならない為に、コメ
20キロ、30キロずつ、泉の家と蛯原の家に贈与しろよ。
 全く、百姓なんて、そりゃあ江戸時代200年ぐらい苦労していたかも知れ
ないけれども、戦後みんなが飢えている時に銀シャリ食っていたんだものなあ
。そんなのが新幹線が出来て土地成金になってさあ。全く不公平ったらねーよ」
「だからって、人を殺していいって事にはならないだろう」と額田。
「そうかねぇ。フランスじゃあ貧乏人がルイ16世もマリーアントワネットも
殺したんだぜ。何で日本でそれをやったらいけないんだよ。意識が低いから、
格差社会のままなんだよ」
「全くあんたはナロードニキみたいな男だよな。まあ泉んちには米の20キロ
ぐらいやってもいいけどな。それは、職場の仲間だからだよ」
「ふん」
 斉木は、ゲレンデの遥か彼方に見える妙高山を見た。
 雄大な自然を見たところで心は晴れなかった。それどころか、
(北陸新幹線なんて必要だったのか)と思えるのだった。(そんなもの出来な
いで、山城も泉も貧乏なままだったら平和だったのに)と、斉木は思うのであ
った。

【了】










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