AWC ●長編



#475/598 ●長編    *** コメント #474 ***
★タイトル (AZA     )  15/11/30  22:02  (301)
雪密室ゲーム<下>   永山
★内容                                         18/06/24 03:35 修正 第2版
 ミステリなら、ここで単身出て行くような登場人物は、しばらく行方不明になった末
に、殺されるというのがよくあるパターンだけれど、もちろんそんな事件は起こらなか
った。
 戻って来た浅田は、何らかの目処を付けたのか、少し自信を覗かせている――と、私
の目には映った。
 夕食の席は、雪密室ゲームのことは、ほとんど話題に上らなかった。うっかり口を滑
らせて、自信のある答を知られたくない、との意識が働いたに違いない。
 食事が済んで、皆が部屋に戻る前に、急ごしらえの解答用紙が配られた。
「厳密に時間を守る必要はないかもしれないが、まあ、今日中に出してくれ。間に合わ
なかったら問答無用で最下位、いや、失格にするか。余りのプレゼントは最優秀者がも
らえることにしよう」
「今になってのルールの付け足しは感心しないが、まあ賛成。面白いから」
 力丸先輩の急な提案に、折沢先輩が同意した。他の面々にも反対する者はいない。
「他にルールの付け足しはないですよね? だったら、早速書いてきちゃおうかな」
 浅田が用紙をひらひらさせて、宛がわれた部屋に引っ込んだ。「もうかよ」と驚くよ
りも呆れた風な力丸先輩。その横で、四津上先輩がまたアルコールを摂りながらふと呟
く。
「解答用紙の保管はどうするんだ? みんなぎりぎりに出すもんだとばかり思ってたか
ら、考えてなかったようだが」
「そこまで厳密さを求めるか。気になるのなら、封筒に入れて、封蝋でもするか。蝋燭
は、どこかに転がってたし」
「割り印かサインでいいでしょう」
 殿蔵先輩の案が採用された。みんながみんな、印鑑を持って来ているはずもなく、ベ
ロ(フラップ)の折り返しに、自身の名前及び他の部員二名に名前を書くことに決定。
 私は念のため、浅田にこのことを伝えておこうと、彼の部屋に行った。ノックをし、
了解を得てから入る。
「ルールの付け足しを口実に、探りを入れに来たか」
「違うって」
 笑いながら説明すると、それを聞いた浅田は「なるほど」と得心したように首肯し
た。
「推理小説的には、三人以上による“共犯”も疑うべきなんだろうが、ここは妥協する
としよう」
 三人が組んでお互いのサインを書けば、早く提出したふりをして、ぎりぎりまで考え
ることができるという意味だ。
「プレゼントが具体的にどんな物か分からないのに、そこまで悪知恵を働かせるメリッ
トはないね。ばれたときのデメリットの方が大きいし、“共犯者”が多いのも不安にな
る」
「――いや。三人だけでグループを作ったつもりが、一人が抜け駆けして、残るの四人
とも二人ずつ、三人組になる、なんていう手口を取れば、全員の解答を盗み見た上で、
自分の答が書けるんじゃないか」
「漫画の影響を受けてるな〜」
 これを機に出て行こうとしたのだけれど、呼び止められた。
「真面目な話、お宝をゲットするために、組むのも悪くないと思ってる」
「三人組を?」
「じゃなくて、確率を上げるだけだよ。俺ら二人で共同戦線を張って、最高と思える解
答二つを出すんだ。どちらかが最優秀になれば御の字」
「プレゼントは、山分けにできるような物じゃないだろう、多分」
「そりゃあそうだろうが、共同保有ってことで」
「うーん……」
 はっきり言って、気乗りしない。むげに突っぱねるのも、人間関係を悪くしかねない
ので、言葉を選ぼう。と、考える間を取ったのがいけなかったのか、浅田は私がその気
になりかけていると受け取ったようだ。
「俺達のどちらの解答が一位になろうと、プレゼントは志賀の好きな物を選んでいい。
とにかく、俺は勝ちたいんだ」
「……名探偵がコンビを組むっていうのは、格好悪くないかなあ」
「コンビの名探偵だって、いくらでもいるだろう」
「主に、テレビドラマにね。小説ではかなり稀な存在だと思うよ。名探偵とワトソン役
の二人一組というスタイルがスタンダードだから、二人とも名探偵というのはあまりな
いんだろうね」
「うぐぐ……」
 黙ってしまった浅田を見て、ちょっと気の毒になってきた。
「君さえよければ、なんだけど。相談するのはありだと考えてる。相談と言うよりも、
ディスカッションかな。その過程で出た案のどれを書いて出すのかは、各人の自由。こ
れなら、偶然同じ案を選ばない限り、君の言ったこととほとんど変わらない」
「お宝は?」
「それはまあ、どんな物があるのかを見てから、決めればいいんじゃない? 必要であ
れば、今度は二人だけでゲームをやって、買った方がもらうことにしてもいいし」
「よし、乗った」
 気が変わらない内にと思ったのか、返事が早い。そのまま、ディスカッションに突入
する。椅子とベッドの縁にそれぞれ腰を下ろし、スタート。
「実を言うと、問題文の文言をどう受け止めるべきか、迷ってるんだ。そこを相談した
くてしょうがなかった」
 浅田がそう切り出したが、すぐには意味が飲み込めない。こちらが首を傾げると、彼
は話を続けた。
「『雪に足跡を付けることなく』とあっただろ? あれって、馬鹿正直に受け取るな
ら、足跡以外は付けてもかまわないってことになる」
「ああ、言われてみれば」
「もしそう解釈していいとしたら、逆立ちするとか、自転車に乗るとかもありか?」
「自転車は、この別荘にないみたいだけど」
「たとえだよ、たとえ。他にも、足跡を靴跡と同じ意味と見なしていいのだとすれば、
スキーや竹馬なんかもOKになっちまう」
「さすがにそこまでは、認められないような。足を使って歩いたことが明白なんだか
ら、それがたとえスキーや竹馬の跡だったとしても、足跡だよ」
「そうだろうなあ。でも、逆立ち案はキープしておいていいと思ってるんだ、今のとこ
ろ」
「そうだね。こればかりは、先輩達に尋ねる訳に行かないし」
 二人してメモを取る。尤も、現時点で逆立ち案を採用するかと問われれば、私は否と
答えるだろう。とんちや謎々的な面白味はあるが、ミステリとしての面白味に欠けると
思うから。売れっ子推理作家・内藤隆信からの出題に、こんなとんちめいた答は似合わ
ない。
「さて、ここからはまともな方法を考えよう。飯前に見てきた感じでは、ジャンプして
届く距離ではないのは確かだ。ははは」
「そりゃまあそうだろうけど」
 ちっとも笑えないのだが、浅田は自分で言った冗談に笑っている。仕方なしに、こっ
ちも冗談を挟んでやった。
「本館の屋根に登り、てっぺんから駆け下りてジャンプすれば、届くかもな」
「それは無理」
 何でまともに返してくるんだよっ。
「万が一を考えて、屋根を観察して見たのさ。ここらは豪雪地帯だから、急角度の三角
屋根で、とてもじゃないが、駆け下りるなんてできない」
「……それはよかった」
 実験しないで済んで、本当によかった。
「他に考えられるのは、ロープを渡す方法だな」
「ロープを渡すって、カウボーイよろしく投げ縄? とてもできそうにない。どこかに
引っ掛かったとしたって、そのロープをレンジャーみたいにするすると手繰って移動す
るのは、難しいだろう」
「たとえば、弓矢の矢にロープを結わえて発射するとか」
「現実味がないなあ。しっかり突き刺さるような材質なのかい、離れの壁って。あ、そ
もそも、この別荘に弓矢はないんじゃないか」
「俺の記憶では、離れにはあったぞ」
「うん? そうだったかもしれないが、離れにある物を使うのは、ありなのかな?」
「離れも別荘の一部には違いない」
「それは分かる。だけど、本館から足跡を付けずに離れに行こうってのに、そのために
離れにある弓矢をどうやって取ってくるのかという……」
「雪が降る前に、持ち出したと」
「うーん。本末転倒してるような」
 事前に弓矢を持ち出したのなら、お宝も併せて持ち出しとけばいい。
「一応、離れには弓矢を始めとして、色んな物があることだけは留意するよ」
「そうか。俺はこれもキープ」
 ロープの次は、橋を架ける方法を検討する。橋と表現するのが大げさなら、足場だ。
「途中までは、本館から続く飛び石があるから、その上を行けばごまかせる可能性があ
る。無論、石の上に痕跡が残るが、雪を被せれば隠せなくはない」
「無理がありそうだけど、仮に飛び石伝いに最接近したとして、離れまでは残り何メー
トル?」
「目測で、五メートル強。ジャンプすれば届く可能性が出て来た」
「届いたとしても、雪が積もっているから、着地点に痕跡が残るんじゃないか」
「うん、そうなんだ。離れの玄関先に大きな庇でもあればいいんだが、なかった」
「じゃあ、無理だ」
「だが、ここで俺は思い出したね。玄関を入ってしばらく行くと、右手に大きな絵が掛
けられていることを」
「玄関て本館の玄関か。絵はあった気がするが、それをどうする?」
「足場にする」
 得意げに言う浅田。私の方は、どんな顔をしていただろう。
「あの絵の横幅は、五メートル近くあった。額縁の枠内に板を敷き詰めて固定し、一枚
の大きくて頑丈な板にする。それを飛び石から離れの方向にひょいと放ってやれば、足
場になる」
「……大きくて平たいから、荷重が分散され、雪に残る跡が目立つことはない、という
理屈だね」
「そういうこと」
「敷き詰める板はどこに?」
「まだ見付けていないが、こんな山に建つ別荘なんだから、どこかにあっても不思議じ
ゃない」
「あったとしても、後始末はどうするのさ。恐らく、絵がぼこぼこになる」
「放っておけばいいんじゃないか?」
「いや、だって、絵を元の場所に掛けておかないと、怪しまれる」
「そこなんだよ。俺が感じた、問題文に対するもう一つの疑問。雪密室のトリックを使
ったとして、そのことを他人から隠さねばならないのか?」
「……推理小説的には、隠すべきだろう」
「しかし、犯罪じゃないんだぞ。プレゼントをくれるというからもらうために考えただ
けだ」
「そんなことを言い出したら、雪に足跡を付けずに離れに行く方法なんて考えずに、鍵
の場所を内藤さんが教えてくれるまで待って、みんなで仲よく取りに行けばいいことに
なる」
「ゲームはゲームとして尊重したい。ゲーム内でのことを言ってるんだ、俺は」
「分かった、理解した。じゃあ……犯罪でもないのにトリックを使うのは、トリックに
よって他人を驚かせたいからだろう。それなのに、どんなトリックを使ったか、あから
さまに証拠を残すのは、その精神に反しているとは思わないか?」
「おお、なるほど。真理だな。そうなると、さっき俺が言った絵を使うトリックは、だ
めだな。絵を元の場所に戻せない。絵を焼却して、盗まれたように偽装しても、トリッ
クのヒントになることには変わりがない」
「絵を足場にするくらいなら、スキー板を利用する方がましだ」
「ほう。たとえばどんな風に」
「たとえば……多分、ここにはスキー板が何組もあるだろうから、重ねてブリッジ状に
するんだ。橋脚になる物さえあれば、恐らく渡れる。長さ的に足りないけど、ブリッジ
自体が可動式だから、何とかなるだろ」
 これは口から出任せの即興だ。色々と穴はあるが、とりあえず橋脚をしっかり固定す
る手段がないだろう。しかし、浅田は真剣にメモを取った。「物干し竿も使えるかも
な」等と呟きながら。
「ジャンプやロープや橋の他に、何か方法があるかな」
「あとは……空中浮遊ぐらいしか。ドローンみたいなスマートヘリがあればの話だけ
ど」
「だよな」
「密室殺人じゃないんだから、時間差を利用するトリックも応用が利かないし」
「時間差ねえ……。雪が降り出すまでに離れへ行き、そのまま留まって、雪が止んだあ
とどうにかして本館に帰るっていうのは、問題文の条件から外れるか」
 浅田の言う通り。雪が降り止んだあと、足跡を残さず、“行き来”しなければならな
いのだ。
 このあとも少しの間、ディスカッションは続けられたが、もう出がらしのようなネタ
しか残っていなかった。適当なところで切り上げ、私は自分の部屋に戻った。

 結局、七人全員、提出がぎりぎりになった。言い換えると、サイン云々の保管対策は
行使されなかった。
 リビングに集まると、テーブルを囲む。そのテーブルの中央には、四折りにされた用
紙が七枚、重なって山になっている。
「では、ランダムに見ていくとするか」
 ここでも力丸先輩がイニシアチブを取る。現部長が来ていないのだから、当然だ。
 前の部長は、一番上の用紙を取り上げた。
「おっと、いきなり自分のを引いた。何かトップバッターは気恥ずかしいな。えー、
『他人に行かせる』が俺の答だ」
「え?」
 どよっ、と部屋の空気がざわめく。
「他人に行かせるって、つまり、自分の足跡さえ付かなければいいっていう解釈です
か」
 私が尋ねると、力丸先輩は皆の反応に満足したように、にやりと笑った。
「ああ。他にも候補はあったんだが、これが一番ユニークだと思ったんで書いた」
「そ、そんな」
 殿蔵先輩が、開いた口がふさがらないとばかり、ぽかんとしている。
 力丸先輩は「先に全員のを見てしまおう」と、二枚目を手に取った。
「二枚目は、殿蔵だ。犯人当てにかかり切りだったから、こっちはお疲れかな? どれ
どれ……『自分以外の関係者を招く前の段階で、本館を白い布で覆って隠す。また、離
れの窓から別の離れがあるのが見えるよう、小屋を建てておく。やって来た皆には、離
れがさも本館であるかのように案内する。この間にお宝を頂く。その後、一度全員で外
出。戻ってきたら、今度は本館に入る』――長いな」
「長い上に、いまいち意味が掴めない。分かるような分かんないような」
 四津上先輩の批評に、殿蔵先輩は捨て鉢な反応を示した。
「頭がこんがらがった状態で書いたんです。犯人当ての推敲が終わったばかりだったん
で。あー、そうですとも、自分の責任ですから仕方ありません。でも、まさか、『他人
に行かせる』なんてのがありだなんて……真面目に考えた自分は、とほほですよ」
「疲れてるな〜。いいぞ、今は無礼講だ、ぐだっとなって休め休め。よし、次は」
 上から三つ目。ちらっと見えた名前は、浅田だった。果たして、どの案を選んだの
か、少々気になる。彼の顔を窺おうとすると、ちょうど目が合った。慌ててそらす。
「浅田だな。一年の答は……『逆立ちして往復した』」
 結局、最初に思い付いた案を選択したのか。浅田らしいと言えばらしい。
「足跡を付けたらだめっていうなら、手なら文句あるまいってことで」
「一見するとうまく裏を掻いたようだが」
 四津上先輩が、何やら意地悪げな目をしている。
「もしほんとにお宝を持ち出すとしたら、逆立ちで運ぶのは一苦労しそうだな。重量の
ある物だったら、リュックに入れて背負ったとしても、バランスを崩しそうだ」
「そのときは、重たい物はあきらめて、軽めの初版本でも頂いていきます」
 浅田は笑いながらではあるが、真面目に反論した。勝ちたいという言葉に、嘘はなか
ったようだ。ただ、この答でその目的が達成できるかどうかは、心許ない。
「で、次は四枚目になるのか。えー、柿谷」
「はいはい」
 名前を呼ばれたせいか、返事をする柿谷先輩。
「オリジナリティでマイナスになると分かってしまったので、しょんぼり」
「というと、誰かと被ったか。どれ、『雪が凍るよう、予め水を撒く。凍った後、ゴム
ボートに乗って、氷の上を滑るようにして離れと本館を行き来する』――被ってるか
?」
「浅田君のと同工異曲でしょ。雪に足跡以外の痕跡が残るという点で」
「えらく自分に厳しいな」
「それよりも、この別荘のどこにゴムボートがあるのかを聞きたい」
 折沢先輩が言った。
「近くにボートを使うような水場もなさそうだし」
「去年来たとき、物置部屋の片隅で見たんですよ。膨らませてないから確証はないけれ
ど、あの色合いと質感はゴムボートで間違いありません」
 柿谷先輩がそう話しても、他の先輩方はぴんと来ないようだ。あとで見に行こうとな
って、五枚目の用紙を開くことに。
「四津上、おまえだ。字が酷いな。酔いが抜けないまま書いたな、これ」
「すまんな。内容の方も酔っ払ってるが、勘弁してくれ。読みにくければ交代するが」
「うんにゃ、どうにか読める。『そこいらにいるであろう昆虫を一匹捕らえ、その体に
細くて軽くて丈夫な糸を結わえる。釣り糸がよろしいが、ここにあるかどうかは不明な
り。なき場合は、衣服の端をほどけば事足りる。糸を結わえた昆虫を、窓から離れに向
けて放ってやる。一度でうまく行く保証はなき故、成功するまでチャレンジするがよろ
しい。首尾よく、昆虫が離れまで飛んでいった暁には、糸を引き、本館まで戻ってくる
よう、導いてやるがよろしい』……驚いたな、俺よりもひねくれた答があるとは」
 力丸先輩自身、『他人に行かせる』と答えた手前、この四津上先輩の昆虫を利用する
答を否定できないらしい。それにしても、問題文に言及されてないとはいえ、昆虫を飛
ばして往復とは……。
「俺のは忘れてくれ。気を取り直して、六枚目に」
「そうするか。えっと、残ってるのは二人で、次は……折沢」
「『最後から二番目の真実』になるかな」
 折沢先輩は薄く笑って、ミステリのタイトルを口にした。そういえば、『雪密室』と
いうミステリもあるなあ。
「『オランダのスポーツ運河跳び――フィーエルヤッペンの要領で、本館から離れへ跳
躍する。帰りも同様。ポールは周囲に生えている竹を使う』とは、また特殊なネタを持
って来たもんだ」
「雪に一点だけ、ポールを着いた跡が残るが、まさか“犯人”がフィーエルヤッペンの
名手だとは、誰も思い至るまいというトリックさ」
 台詞とは異なり、特に誇る様子もなく、淡々と語る折沢先輩。
「最初は、もっと本気で考えていたんだけれどね。内藤さんの用意したプレゼントが七
つのはずがないと気付いたから、ちょっとやる気が削がれた」
「え? でも、人数分を用意したとあったじゃないですか」
 浅田が問い返すと、折沢先輩は首を横に振った。
「お忘れかな。僕は冬合宿に飛び入り参加なんだよ。内藤さんは、事前に六人参加と聞
いた上で、プレゼントを用意したはずだろ」
「あ、そうか」
 言われてみれば、である。でも、数が足りないなら、最下位になった者がプレゼント
なしという取り決めにしてもよかったのに。
「お宝の数の問題は、棚上げするとしてだ。最後の一枚、志賀の分を読むぞ」
 手を叩き、全員の注意を惹く力丸先輩。静かになったところで、読み上げ出す。
「えー、志賀の答は――こりゃいい。『雪解けまで待つ』」
 静寂に覆われていた室内が、一転して沸いた。「気が長いな」「再び雪が積もれば、
確かに」などという感想が飛び交う。
「おまえ、そんなこと考えていたとは。ディスカッションのときは、おくびにも出さな
かったくせに。やられたぜ」
 浅田に背中をばんばん叩かれた。
 順位はどうなるか知らないが、受けがよかったので、私はほっとした。

 その後――十二月二十六日になると同時に、内藤さんからのメールが着信した。これ
に鍵の在処と、雪密室の解答例が記載されている。私達推理研のメンバーは、息を殺す
ようにして文面に目を走らせた。
 だが、鍵の在処も解答例も、はっきりとは書かれていなかった。
 ゲームに関係のある文言としては、台所の床にある貯蔵庫に下りてみなさい、これだ
けである。
 私達七人は揃って台所に行き、床に設けられた観音開きの扉を開けた。よくある貯蔵
庫だ。根菜類や味噌などを保管していると聞いた覚えがある。
「意外と深いな。それに、広い。これなら下りられる」
 力丸先輩が懐中電灯を持って下りた。懐中電灯は他に二つしかない。全員が下りて酸
欠になったら洒落にならないし、ここは四津上先輩(今は酔っていない)が加わるのみ
とした。万が一、悪い意味でのトラブルやハプニングが起きた場合、残る一本の懐中電
灯を持って、助けに行く。
 が、そんな緊迫感とは無縁の、力丸先輩ののんびりした声がやがて聞こえてきた。
「面白い物があったぞ。扉だ」
 扉? 残された五人は顔を見合わせた。クエスチョンマークがいくつも浮かぶ。
「扉には、目の高さにプレートが貼り付けてあって、そこにはこう書いてある」
 今度は四津上先輩の声。若干、反響しているが、充分に聞き取れる。
「『離れまでの秘密の地下通路はこちら』だとさ」
「ええー?」
 売れっ子推理作家が、秘密の通路を使うなんて……あり得ない。

――終わり




#476/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  15/12/30  22:42  (358)
稚児の園殺人事件 1   永宮淳司
★内容                                         16/01/01 14:43 修正 第2版
「姉を助けてください」
 可憐なその少年が言った。ほっそりとしているから、髪を伸ばせば少女にも見間違え
るであろう。詰め襟をきっちりと留め、いかにも真面目な印象がある。身体の大きな小
学六年生といった風貌だ。
 事務所に入って来た当初は、目に落ち着きがなく、おどおどしていた彼は、金尾幸治
と名乗った。誰も要求しない内から、生徒手帳を出してみせた。進学校として知られる
高校の一年生と分かった。
「警察は姉の話をほとんど信じてないみたいだし、弁護士さんは熱心じゃないように見
えたし、このままだと殺人犯人にされてしまうんじゃないかって思えて、心配で、どう
したらいいか分からなくて、それで僕、地天馬鋭さんの噂を聞いたから」
「分かったよ。順序立てていこう。まず、お姉さんの名前は」
 我が友・地天馬鋭は、彼にしては優しい物腰で言った。
「金尾夏江と言います。僕より八つ上で、今年二十四歳になります。私立草高幼稚園の
先生をしています」
 幸治少年はなかなか利発そうな外見をしていたが、中身もギャップがないようだ。依
頼内容に関係することを聞かれる前に話し始めた。
「草高幼稚園はどこにあるんだろう? 残念ながら僕は知らない」
「Y県の方です。詳しい住所はここに」
 と、少年はメモ用紙を胸ポケットから取り出し、開いてから地天馬の前に差し出し
た。地天馬は紙を一瞥してから、私によこしてきた。データ入力しておく。
「こちらでは報道されてませんが、だいたい一ヶ月くらい前に、この幼稚園で殺人事件
がありました」
 幼稚園で殺人とは穏やかでない。私は思わず口を挟んだ。
「まさか、子供が殺されたのかい?」
「いいえ。江内ローンという金貸しの社長が被害者です。江内省三、五十九歳と聞きま
した。幼稚園は老朽化がひどくって、その改修費用を江内ローンから借り、大変な額に
膨らんでしまったそうです」
「お金が動機と見なされているんだね」
 再び地天馬が聞く。
「だと思います。詳しくは……」
「お姉さんは幼稚園の経営にタッチしていたのかい?」
「していませんが、子供達や幼稚園の将来を思う心は、園のみんなが同じように持って
いるって……」
 姉を思い起こしたのか、しばし言葉を詰まらせ、幸治は唇を噛みしめた。若干、頬が
紅潮したようだ。色白の肌が朱に染まる。
「すみません。僕にとって、姉は母親代わりの存在だったから」
「かまわない。ゆっくり、落ち着いて喋ってくれればいいよ」
「でも、少しでも早くしたいから」
「そうか。では――夏江さんがどうして容疑者にされたのか、知っていることを全て話
してくれないか」
「それなら、警察と国選の弁護士さんから、粗方聞いています。殺人現場の状況が、姉
にしか行えないことを示しているって」
「うん。もっと具体的に。先に、状況を説明してほしい。事件のニュースはこちらでは
どうやら流れていないらしい。僕らは全く知らないんだ」
「はい。江内社長が幼稚園の庭で死んでいて……あ、洗濯物を干すロープで、首を絞め
られていて。ロープはベランダの柵に掛けてあった物で、誰にでも使える状態でした。
ううん、背の低い子供には無理ですけど」
 さすがに殺人の説明に差し掛かると、話し方がおぼつかなくなる。人から聞いた話で
あること以上に、やはりその非日常性が少年を動揺させるに違いない。
 地天馬は両肘を机につき、組んだ手の甲に顎を乗せる格好で、辛抱強く聞き役に徹し
た。
「事件が起きたのは、大雨が降った翌日の土曜でした。実は、僕も姉のアパートに行っ
ていたんです」
「え?」
 さすがに地天馬も意外に感じたのか、声を上げた。
「電話したとき、姉がとても落ち込んでいるように思えたから、金曜の夜、思い切って
行ってみたんです。泊めてもらうつもりで、あらかじめ連絡を入れておきました。土日
と休みだし」
「事件直前のお姉さんの様子に、何か不自然なところはあったのかな」
「あるというかないというか……依然として落ち込んでいる風でしたが、聞いても何も
教えてくれなくて。それ以外の話題には明るく応じてくれるんです。僕が冗談を言うと
笑うし、テレビの物まね番組で派手なかつらを被ったタレントを見て、急に姉もかつら
を引っ張り出してきて被って、おどけたり。あとで思ったんですけど、僕を心配させま
いとして、姉は無理をしてそんな振る舞いをやったのかもしれませんよね。
 結局、金曜の晩、姉は早めに布団に潜ってしまいました。それで、僕も仕方なく眠っ
たんですが、まさか次の朝、あんな知らせを聞くなんて」
 声を詰まらせる金尾幸治。我々は先を急かさずに待った。
「在来線を乗り継いでいった疲れで、僕は寝坊してしまいました。起きると八時二十五
分ぐらいで、姉が用意してくれたコーンフレークとハムサラダの食事があって、それを
食べてるとき、急に訪問者があったんです」
「お姉さんがいつ出て行ったのかは、分からないんだね?」
「はい……」
「思い出すのは辛いかもしれないが、殺人事件そのもののことを聞かせてくれないか。
他に必要と感じれば、君のことも聞くよ」
「分かりました……土曜日は朝から曇りで、地面がぬかるんだままで……そうだ、写真
を見せてもらったんですけど、水たまりがほんの小さな物ですがあっちこっちに残って
いるくらいの状態でした。そんな泥の中に、社長は仰向けで倒れて亡くなってた」
「凶器のロープはどこに?」
「遺体の首に巻かれたままだったとか。それで、ロープから指紋が……姉の指紋が出た
のが、証拠の一つにされました。でも、他の人のだって、着いてるんです。当然ですよ
ね、普段から園で使っている物なんだから」
「恐らく、夏江さんは遺体発見時にロープに触ったんじゃないか」
「そ、そうです。あの、まだ言ってないと思うんですが。姉が第一発見者だってこと
を」
 目を大きく開いて、それから瞬きを幾度もした幸治少年。一方、地天馬はわざとなの
かどうか、驚いた顔つきをする。
「ああ、推理が当たったようだね。よかった」
「推理って……」
「ロープに多人数の指紋が残っているにも関わらず、君のお姉さん一人が特に疑われる
としたら、その理由は何かと考えてみたんだ。前日、大雨に降られたんだから、それま
でに着いたロープの指紋は薄くなったはず。夏江さんの指紋だけが鮮明に残るとした
ら、事件後、ロープに触れた可能性が高い。ロープに触れるには、第一発見者でなけれ
ば難しいだろう……と」
「す、凄いですね。その通りなんです」
 見開かれていた少年の目が、ほっとした光を帯びる。地天馬に全幅の信頼を置くこと
に決めた――そんな様子に見えた。
 地天馬は椅子の上で腰の位置を直すと、次のことを付け加えた。
「ただ、第一発見者という理由だけじゃない気がする。幸治君は地面のぬかるみを強調
していたから、恐らくは事件に関係があると見たんだが、どうかな」
「は、はい。当たってます。凄い、本当に……」
「君が知っていることを言い当てても意味がない。事件の真相を射抜かないとね。さ
あ、続きを」
 地天馬に先を促され、少年は居住まいを正し、両手を膝上に揃えた。畏敬の念を態度
で示そうというのか、傍目から見ていると面白い。
「足跡が、姉のものしかなかったんです」
「ふむ。被害者の足跡もなかったのかい?」
「あ、いえ。間違えました。姉さんの他に、死んだ社長さんのもありました」
 小さな間違いでも恥ずかしいのか、うつむいて、頭頂部を地天馬に向ける格好になっ
た。ずっと「姉」で通してきたのが、初めて「姉さん」に変化したことからも、動揺が
窺える。
「気にしないで、僕にもっと教えてくれよ、事件のことを」
 私は依頼人と地天馬の様子を目の当たりにして、何だか先生が児童に接しているみた
いだな、と内心で苦笑した。
 この金尾幸治少年、今時珍しいタイプの高校生ではないか。いや、本当はいつの時代
にもいるのだが、目立たないだけなのだ。
「は、はい」
 顔を半分ばかり起こし、幸治少年は唇をなめた。詰め襟に指をやって息苦しさを緩和
し、深呼吸を挟むと、話を再スタートさせる。
「姉さんが、じゃなくて、姉が言うには、その朝七時、幼稚園に一番にやって来て、庭
で遺体を発見したとき、地面には社長さんの足跡だけがあったって。それでびっくりし
て駆け寄って、首に絡まっていたロープを外し、何度も揺さぶったけれど、社長さんは
意識を失ったまま。恐くなったけど、それでも脈とか心臓の音とかを探って、死んでる
みたいだって……警察と救急車を呼ぼうとしたら、ちょうど他の先生達が姿を現したん
だそうです。その中の一人に通報を頼んで、姉は社長さんの身体から離れて。そうした
ら急に震えが来て、その場にしゃがみ込んだって言ってました」
「幼稚園の敷地内の見取図、ないかな。君に書いてもらってもいいんだが」
 地天馬が求めるのへ、少年は慌てたように首を横に振った。
「絵は、全然駄目なんです。見取図をもらっていればお渡しするんですが、あいにくと
……」
「ん、分かった。こちらで何とかするとしよう。では、そうだな。金尾君は、直接その
幼稚園に行ったことは?」
「姉に会いに行ったとき、何度かあります。事件のあとなら、一度だけですが。そのと
き、事件の説明をされたんです。全然納得できなかった」
「結構。足跡が残らない領域が、当然あったと思う。たとえば幼稚園の建物のベランダ
や、コンクリートブロック、短い芝を植えたスペースがあれば、そこも該当するかもし
れないな。そういった足跡が付かないであろう場所と、被害者が倒れていた位置との距
離を思い出してほしい」
「あっ、ジャンプできるかどうか、ですね。それなら警察の人がすでに実験したそうで
す。まず無理だろうって。ジャンプしても届かないか、ぬかるんだ地面に足を取られ
て、派手に転ぶのが落ちだとかどうとか」
「さすがにこの程度は、警察も調べているか。ついでにもう一つ、空想の可能性を潰し
ておくか。園内にブランコはある?」
「ブランコ? 確か、箱型の四人乗りのやつが置いてあったと思います。ただ、安全面
で問題が取り沙汰されているとかいう理由で、使用中止になっていましたよ」
「ほう。その“使用中止”とは、警告だけなのかな? それともブランコ自体が動かな
いように、針金か何かで固定していると?」
「固定されてました。太い針金で揺れないようにして、さらにブランコの真下の地面に
クッションみたいな物を置いて、空間をなくしているというか……」
「クッション?」
 これは私の発言。野外に布製のクッションなんか置いたら、すぐにぼろぼろになって
しまうだろうと感じたのだ。
「あ、あの、クッションというか、空気の入った直方体のブロックみたいな代物です。
えっと、ビニール製で、そう、ビーチボールと同じ材質じゃないでしょうか。あれの直
方体版という感じです。一個が抱き枕ぐらいありそうな」
「ああ、なるほど。理解できたよ」
 正式名称を知らないが、教育テレビの幼児番組で見掛けたことがある。ビニール製の
大きな積木といった趣だった。各面が赤や青や黄色など、異なる色で塗り分けられてお
り、なかなかカラフルだったのを覚えている。
「ブランコがそんな状態では、横揺れを利して勢いをつけてのジャンプもあり得ない訳
だな」
 地天馬は真面目な調子で言ったあと、相好を崩してくすくすと笑った。
「金尾君、話してくれたことに感謝するよ。このあとは僕の方で動くから、心配しなく
ていい」
「あ、あの、地天馬さん。僕の依頼、引き受けてくださるんでしょうか?」
 不安いっぱいの眼差しで、低いところから見上げるかのように、恐る恐る、地天馬を
見る少年。
 名探偵は力強く首肯した。
「もちろんだとも。ここまで事件について聞いておきながら、何もしない訳が無いじゃ
ないか」
「あ、ありがとうございます。で、でも……僕……」
 またもやうつむいてしまう。彼は、学生ズボンの尻ポケットに手を持って行こうとし
てはやめる、という仕種を何度か繰り返した。
 もしかすると、この子は……。
 しばらく静かな時間が続いたので、私は地天馬に近付き、耳打ちした。
「地天馬。彼は依頼料の心配をしているんだよ、きっと」
「ん? ああ、そうか。仕事であるのをすっかり忘れていた」
 地天馬は席を立つと、背後のロッカーから、この間作ったばかりの木製のドアプレー
トを取り出してきた。「本日休業」と彫られた、素朴な味わいの板だ。地天馬自身はチ
ェーン部分が気に入らないらしく、他の物を買ってきて付け替えようと主張していた。
 地天馬はそのプレートを手に、一旦部屋の外に出ると、ドアノブに引っかけ、また戻
って来た。名探偵のこの突然の振る舞いに、私だけでなく、少年も一緒になって怪訝な
顔つきをした。
「なに妙な顔をしてるんだ?」
 我々の前で、地天馬は両腕を横に大きく開いた。
「金尾君。君は、休業中の探偵事務所に来て、雑談をした。その話に僕が勝手に興味を
持ち、調べる気になった。いいね?」
 ……また私を当てにする気だな。しょうがない奴。

 金尾夏江についた国選の弁護士は、我々との協調どころか、会うことさえ拒否した。
容疑者の弟からの依頼を受けたとは言え、探偵という存在は胡散臭く映るに違いない。
弁護士としての義務を遵守するなら、第三者の民間人に介入させないのは当然の態度
だ。充分に予想できる事態であり、ショックはない。
 幸い、Y県警には旧知の早矢仕刑事がいる。地天馬にとって本意ではないかもしれな
いが、彼を頼らざるを得なかった。むしろ、早矢仕刑事の存在が頭にあり、算段を立て
ていたのだと思う。
「お久しぶりです」
 駅前まで迎えに来てくれた早矢仕刑事は、短いながら顎髭を蓄え、イメージが多少変
わっていた。若々しい感じは薄れたが、代わりに精悍さを得たと言ったところか。知ら
ない人が見れば、社会人スポーツ選手と思うかもしれない。
「お世話になります」
 警察が好きでないらしい地天馬も、このときばかりは礼を尽くす。握手を交わし、お
互いに軽く頭を下げた。
「お世話と言っても、大したことはできないと思いますよ。今回、地天馬さんは我々の
見解とは異なる立場をお取りだそうですね。下田さんから聞きました」
「いがみ合うつもりは毛頭ない。真相を知りたいだけです」
「何でも、容疑者の弟から依頼を受けたとか。私も会いましたが、かわいらしい感じの
少年で、探偵に依頼を出すなんてことをするようにはとても見えなかったな。姉のため
を思って、懸命なんでしょうねえ」
 刑事の口ぶりには、同情する響きがあった。事件の構図は警察が掴んだ一通りしかな
い、と自信を持っているのであろう。
「とにかく、車にどうぞ。現場を見るにしても、資料を見るにしても」
 早矢仕刑事が示した車両は、黄色の軽四だった。記憶を掘り起こした私は、このとき
微苦笑を浮かべていたろう。
「ひょっとすると、あれは早矢仕さん自身の車で?」
「ええ。よく分かりましたね。警察車両だと、地天馬さんに文句を言われることを学習
しましたから。今回のように意見の相違がある場合、こうするしかないでしょう」
「そうなってくると、燃料代が気になるな」
 地天馬が言ったが、多分これは冗談だ。
 全員が車に収まると、早矢仕刑事はエンジンを掛ける前に、我々の方を振り返った。
「天気がよくて何よりです。で、どうします?」
「早矢仕さんはこの事件の捜査に携わっているのですか」
「無論です。携わってなければ、ここまで勝手はできません。携わっていても、かなり
冷ややかな目で見られますがね」
「お骨折りには感謝しましょう。捜査に携わっているのなら、事件のあらましの説明は
問題ないですね」
「ええ。話せる範囲で、お話ししますよ」
「では、現場に向かおう。足跡がポイントになっているようだから、早めに見ておきた
い」
 地天馬の決定に、早矢仕は黙ってうなずき、車をスタートさせた。ロータリーを出
て、ハンドルを左に切る。ビル群が少しだけ続き、程なくして風景が開けた。住宅街ら
しき区画に入る。
「近いんですか」
 私が尋ねると、「まあ、近いですね」と返事があった。
「日を指定させてもらったのは、今日明日と幼稚園が休みだからでして。心置きなく、
現場を見ることができるでしょう」
「保存状況は、期待しない方がいいでしょうね。幼稚園の運営がある」
「はあ。充分に捜査しましたし、写真などで記録も取ったので、フォローは万全かと」
 やがて草高幼稚園に着いた。事前の想像では、さほど広くない土地を最大限有効活用
した、こじんまりした施設を描いていたが、実際は違った。建物自体は確かにこじんま
りしているが、広い庭付きだ。塀は低いようだが、生垣が作られ、道路との距離を充分
に取っている。幼児を思う存分遊ばせることができるし、親も安心感を持てるだろう。
「鍵を、事務長の草高均氏から預かってきました」
 門をくぐり、足を踏み入れる。門から園舎の玄関まで、コンクリートの白い道が続く
が、我々が今目指すのはそちらではない。
 左脇に逸れると、やはりコンクリートで固められたごく緩やかな坂がある。そこを下
ると、幸治少年が言っていたように、ビニールブロックを三つ載せた箱型ブランコを真
左に見ながら、殺人現場である庭に出た。園舎の前からは、コンクリートが途切れ、地
面になる。刑事が言った。
「庭は遺体発見時の状況を再現してます。写真を元に再現したから、間違いありませ
ん。無論、足跡と遺体そのものを除いて、ですがね」
 鰻の寝床のように細長い庭だ。広くはあるが、遊具や砂場、プールなどが道路側の塀
際にまとめて設置されているせいもあり、土が露出したスペースのみを取り上げると長
辺と短辺の長さが極端に違う長方形に見える。
「江内省三が倒れていたのは、あそこです」
 早矢仕刑事は一方向を指差しながら、我々を先導する。すでに地面はぬかるんでいな
いし、足跡も残っていない。だが、それでも足下を注意してしまう。
 刑事は立ち止まると、改めて「ここです」と言った。門から見て、最も奥まった地点
と言えた。
「塀に頭を向け、足はこっちでした」
 頭の位置を示す早矢仕刑事。隣家側の塀から一メートル近く離れていた。道路側の塀
へ一メートル行くと、ブランコがあった。こちらの方は一人乗りのブランコが二つだ
が、やはり使えないように針金で縛ってあった。事故防止なのだろう。
「足跡は二種類のみ。どちらも門のところからここまで続いていた。被害者と容疑者・
金尾夏江のものです。幸いにもほとんど重なっておらず、識別は大変容易でした。他の
足跡を消した形跡はなし」
「念のため、足跡に沿って、歩いてみてくれますか」
 リクエストを、早矢仕刑事は気安く引き受けた。何度も現場に立って記憶に鮮明なの
か、迷う様子もなく二往復した。先に被害者、次に金尾夏江の足取りを再現する。
 被害者の方が、道路寄りのルートを取ったと分かる。対する夏江は、被害者の足跡と
園舎のベランダのちょうど中間辺りを通ったらしい。
「金尾の供述では、被害者の足跡を避けて歩いたのは、何となく嫌な予感がしたからだ
と。まあ、門のところに立てば倒れた江内の姿が目に入るでしょうから、不自然とは言
い切れませんがね」
「洗濯紐による絞殺だと聞いています。凶器となった紐は、どこに掛かっていたんで
す?」
「ベランダの両サイドに柵があるでしょう。その向かって右側の方です」
「そうですか。ちょっとおかしいな」
「え。な、何がですか」
 うろたえぶりが激しい早矢仕刑事。以前の事件で地天馬の探偵能力を目の当たりにし
たせいだろうか。
「紐を手に取るのに、金尾さんが歩いたルートでは、やや遠いように思える」
「何だ、そんなことですか。手を伸ばせば届かない距離じゃないでしょう。金尾夏江に
会えば分かりますが、背の高い、すらりとした美人ですよ。ああ、美人は余計でした
ね」
 安堵の息のあと、笑みを浮かべた早矢仕刑事。だがそれも束の間。
「何故、わざわざ手を伸ばしたのかな。ベランダのすぐ前まで近付いて、紐を取ればい
い」
「……なるほど。理屈だ」
 言いながら、首を捻った刑事。地天馬の見解に疑問があると言うよりも、認めたくな
かったのかもしれない。
「しかし、それだけでは覆せませんよ」
「でしょうね」
 地天馬は淡々と認めると、庭をぐるりと見渡した。
「話を先に進めますよ。塀越しに、道路からこちらに遺体を投げ込むことは、不可能で
すか」
 地天馬の問い掛けに、刑事は目を見開いた。だが、そんな驚きの表情はほんの一瞬
で、すぐに微笑を浮かべた。
「一応、警察でも考えましたよ。ダミー人形を使った実験では、よほどの怪力無双か、
あるいは重機を使うかでなければ無理との結論が出ました。機械の類を持ち込むと、近
隣で気付く人が大勢いていいはず。実際はそうでありませんでしたから」
「車高の高い、たとえば大型トラックやバスから遺体を投げ落とせば、届くのでは?」
「実験はしていませんが、そんな高さから落とせば、遺体に何らかのダメージが出ま
す。そのような報告は受けていません」
「ふむ。園舎内を通って、遺体をあの位置まで放るのも無理だろうな……。納得しまし
た。説明の続きを」
 地天馬に促された早矢仕刑事は、小さく咳払いをした。
「えー、先にも触れましたが、金尾夏江は江内を絞殺するのに充分な身長を持っていま
す。首にはほぼ平行に絞殺痕が残っており、身長の点で問題はありません。腕力の方
は、火事場の何とやらと言いますし」
「ちょっと待った。早矢仕さん、いちいちそんなことを断るからには、何かあるね。た
とえば……被害者の首が折れていた?」
「い、いえ。とんでもない。折れてはいません。わずかにひびが入った程度で、女性の
力でも充分ですよ」
「随分断定的だなあ。相手が無抵抗だったら、そうかもしれないが」
「その点はこれからお話しします。動機にも絡んでまして……さっきから、私、被害者
を呼び捨てにしてると思うんですが、江内っていう男は正直言って、いけ好かない野郎
なんですよ。金貸しというだけで悪徳のイメージがあるかもしれませんが、そういうん
じゃなく、女に手が早い。返済期限の延長を餌に、女をものにしてきたようなところが
あります」
 刑事の力説を聞いて、私はつい、聞いてみたくなった。
「被害者の年齢は割と行っていたんじゃなかったですか」
「今年で六十。周りの人間の噂によると、全く衰えていなかったようですよ。もうご想
像できてると思いますが、江内は金尾夏江を狙っていた。ここへの融資を続行し、返済
期限を延ばしてやる代わりに、自分のものになれっていうやつですね」
「草高幼稚園の経営は、そんなに苦しいんですか」
 私は幼稚園のあちこちを眺めながら、不思議に感じた。建物は多少老朽化しているよ
うだが、遊具は充実しているし、塀はまだ真新しい。全ては融資のおかげなのだろう
か。
「園長の……違った、事務長の草高均氏は他にもいくつか事業を手がけており、うち、
一つが江内金融に食い物にされている状態です」
「江内が死んだからと言って、借金がなくなる訳じゃないでしょう」
 私が指摘すると、早矢仕刑事からたしなめるような返答があった。
「ですから、江内の女癖の悪さが、本来の動機であると言ってるんですよ」
「それは分かりますが、ロープで殺すって言うのが、ぴんと来ない。計画殺人てことに
なる。これがたとえば、強引に言い寄られたのを拒絶した結果、突き飛ばして死なせて
しまったというような状況なら、まだ分からなくもないんですが」
「僕も同意見だ」
 地天馬が言った。彼と意見の一致を見ると、何故だか嬉しくなる。
「計画的犯行だとすれば、殺害場所に幼稚園を選ぶのは、論理的でない。真っ先に疑わ
れるし、園や子供達に多大な迷惑を及ぼす」
「ごもっとも」
 つぶやき、考え込む刑事。当初の自信が薄らぎつつあるのが見て取れた。
「でも、ですね。その考え方だと、幼稚園の職員は全員、犯人ではあり得なくなりま
す」
「悪徳金融業者を恨んでいるのは、草高幼稚園の人ばかりじゃないでしょう」
「もちろんですが、幼稚園の庭で死んだとなりますとねえ」
「幼稚園の関係者に容疑を向けさせるためかもしれない。江内と関係を持った女性が、
貸付先のリストを盗み見るか聞き出すくらいは、可能だと思いますね」
「あるかないかを論じれば、あるに振れるでしょう。だが警察は――私ごときが言うの
は口幅ったいですが――現実主義者です。最もありそうなことを真実として汲み取って
行く」
 論がかみ合わない。否、早矢仕刑事が故意に避けている。立場上、やむを得ないのだ
ろう。
「建物の中を見たら、ここは立ち去るとしよう」
 地天馬が言った。


――続く




#477/598 ●長編    *** コメント #476 ***
★タイトル (AZA     )  15/12/31  01:31  (413)
稚児の園殺人事件 2   永宮淳司
★内容
 園舎の内部は、いかにも園児達が喜びそうな飾り付けがされていた。折り紙や切り抜
きの動物が壁を飾り、天井から下がる音符のモールが揺れる。庭に面した大きなガラス
窓は、太陽の光を適度に取り入れ、教室を暖かくする。事件に関連しそうな代物は、ほ
とんどなかった。唯一、これら窓の施錠状態が問われたが、刑事によると、いずれもき
ちんと閉められていたらしい。玄関と勝手口も同様だった。
「これからお見せする資料に関しては、口外なしでお願いします」
 あらかじめ机上に用意されていたファイル群を示しながら、早矢仕刑事が釘を差す。
 捜査本部のある署に着くと、地天馬と私は小さな部屋に案内された。人目をはばかる
と言っては大げさになるが、あまり目立たないようにとの注意を事前に受け、どうやら
歓迎されていないらしいと分かる。
「約束を守るのは当然だ。ただし、警察の見解とは異なる真相があった場合、あなた方
警察がそれを隠そうとするのなら、僕も約束を守れない」
「……仕方ありませんね」
 早矢仕刑事は端からあきらめた風だった。地天馬のことをよく知っている。
「私一人が確約しても何の意味もないかもしれないが、真相が別のところにあるんだっ
たら、過ちを改めるにやぶさかでありません」
「OK。ご厚意に感謝します」
 地天馬と私は、一つ席を空けて、腰掛けた。真ん中に資料を置く。正面に早矢仕刑
事。
「全てをどうぞとお渡しできればいいんですが、上がよくない顔をして、ストップを掛
けられました。申し訳ありませんが、地天馬さんの方から要求をお出しください。応え
られる物だけ、お見せします」
「死亡推定時刻を」
「分かりました」
 ファイルを繰ろうとする刑事を、地天馬は手を挙げて止めた。
「覚えているのなら、口頭でかまわない。推定時刻に疑問があれば、報告書を見たいと
思う」
「そうですか。午前四時半から六時半までの二時間です。アリバイも言いましょうか」
「ほとんどの人には、アリバイがないんじゃないか?」
「はい。午前六時以降なら、はっきりしている人も何名かいますが、二時間丸まるとな
ると、誰もいません」
「誰もと言うからには、最初から金尾さんを犯人と決め付けていた訳じゃないようだ
ね」
 多少、皮肉の響きを帯びる地天馬の声。
「ええ、まあ。金尾夏江に重要参考人として来てもらった間に、他の人にも当たってみ
たという形を取りました」
「他の容疑者を列挙してもらえますか」
「容疑者というと語弊があるから、言うなれば関係者のリストになります。これはリス
トをお渡しした方が早いでしょう」
 早矢仕刑事は顔写真付きで手書きのメモをよこした。まさか、正規の印刷した資料は
持ち出し禁止で、特別に計らってくれたのだろうか。
 地天馬はそんなことに思いを巡らせる様子は微塵もなく、リストを受け取るや、目を
通し始める。私も横合いから覗き込んだ。
 トップは金尾夏江になっていた。弟とよく似た顔立ちの美人であるが、姉の方が積極
的な性格のように見えたのは、私の色眼鏡かもしれない。
 次に草高均。これまでに何度か耳にした、幼稚園の事務長で、オーナーでもある。小
太りで、福耳の持ち主。ただ、額に刻まれたしわは、苦労の多さを物語っているかのよ
うだ。
 以降三名は、草高幼稚園の職員が続く。阪口伸吾は園長で、五十キロを切るほどの体
躯に加え、その優男の風の容貌は一見頼りないが、腕力は強い。唯一の男手でもあり、
力仕事全般は彼の受け持ちだそうだ。早矢仕刑事も実際に会って、逆三角形の見事な肉
体を目の当たりにし、驚いたという。
 原田世津子は大柄の、肝っ玉母さんのイメージをそのまま具現化したような体格、笑
顔を持っているとのこと。ふくよかでよく笑う、大きな声の持ち主。
 大家心は原田とは対照的に、小柄で細身の女性。体重は四十キロちょうどぐらいで、
力仕事はもちろん、激しい運動も付いていくのが辛いほどスタミナがないが、子供の受
けはよいらしい。
「幼稚園の教職員の中で、死んだ社長に言い寄られていたのは、金尾夏江だけだったん
ですか」
 リストの途中で、地天馬が早矢仕に聞いた。
「いえいえ。江内の奴は女の好みの幅が広かったようで、全員に、その、穏やかな表現
を使えば、アプローチしていた、と。その中で本命が、金尾だったというのが背景で
す。ああ、全員拒絶していたのは言うまでもありません」
 リストの続きに戻ると、幼稚園関係者は終わって、三河章太郎という五十五の男性の
名があった。玩具店経営とあるから、店主なのだろう。江内に多額の借金があって、ト
ラブルになっていた一人。椎間板ヘルニアの手術を経て足腰を悪くし、杖を手放せない
身体になったのが商売に響き、返済に苦しんでいたようだ。早矢仕刑事の補足説明によ
ると、最近では食事も喉に通らないほど悩んでおり、体重が五十キロを切ったという。
彼が特に名前を挙げられたのは、草高幼稚園の近所に店を構えているとの理由からであ
った。
 江内の妻、江内美子も挙がっていた。言い方はよくないかもしれないが、でっぷりと
太って装飾品をやたらと着けた、成金の典型のような身なりをしている。夫の会社の副
社長に収まっており、実際にも事務的な仕事をこなしてはいるらしい。時折、夫と不仲
になることもあるようだが、殺意に結び付くほどなのか不明。ただ、江内の死で美子が
遺産を手に入れられるのは間違いない。
 最後にあったのは、手塚理緒奈という二十七になる元モデルにして、江内の秘書。も
っとも、秘書とは名ばかりで、愛人であるとの話だ。元モデルだけあって、きれいなな
りをしているが、私個人の感想を述べるなら、癖のある美人といったところか。
「この注釈の、ビニール・ゴム製品にアレルギーありというのは?」
 気になる書き込みを見付け、私は早矢仕刑事に尋ねた。
「手塚は一部の石油製品アレルギーで、少しでも触れると、その肌がかぶれたように赤
くなるんだそうです。私は見ていませんが、寝不足だったり、体調を崩していたりする
と、特に過敏になるそうで。彼女がモデルをやめた理由の一つは、これがあったみたい
ですね。水着や服の材質をいちいちチェックしなければいけないモデルとなると、使う
側が嫌うようです」
「なるほど。江内の秘書という役割は、いい居場所を見つけたつもりだったのかもしれ
ませんね。これからどうするんだろ」
 他人事ながら詮索してしまう。事件に話を戻そう。
 美子が江内と手塚の仲を知っていたかどうかは定かでない。ただ、美子も手塚も、江
内の女好きの性癖をよく知っていた。
「繰り返しになりますが、全員、アリバイなしです」
「殺されるまでの被害者の行動を、判明している範囲で教えてもらえますか」
「午前一時過ぎまでは、はっきりしています。十時過ぎからずっと、知り合いのバーだ
かキャバレーだかで、大勢と飲み明かしていた。あっ、店は閉めて、個人的な付き合い
で飲んでいたとの話です。手塚が午前〇時まで付き合っており、それ以降も多くの証人
がいます。それからタクシーで自宅に戻り、四時半頃まで仮眠。これは妻の証言しかあ
りませんし、当の美子も夫の帰りを出迎えただけで、すぐにベッドに潜り込んだと証言
しています」
「四時半まで寝ていたというのは、どうして分かるんです?」
 当然の疑問を呈す地天馬。
「仮眠を取る場合、三時間であることが常だったから、と美子は言っています。帰宅が
一時半ぐらいだったそうで」
「ふん。確実ではないと」
「そうなります。で、このあと、午前七時に出勤してきた金尾夏江に“発見”されるま
で、全くの不明。何故、朝早くから幼稚園に向かったのかも、はっきりしない。恐ら
く、金尾夏江の甘言に、ほいほいと出て行ったのだろうというのが、捜査本部の読みで
すが……地天馬さんは気に入らないでしょうね」
「金尾夏江の名をかたった手紙で呼び出された可能性はあるんじゃないですか」
「別人が金尾のふりをして江内を呼び出し、これを殺害したと」
「江内が金尾に相当入れ込んでなければ、成り立ちませんがね」
「ええ、ええ、それはありですよ。江内が金尾夏江に執着していたのは間違いない事実
ですから」
「要するに、早矢仕刑事。真犯人を捕まえなくとも、足跡の疑問を解き明かせば、彼女
への疑いは晴れる。違うかな?」
「……足跡が強力な決め手なのは、その通りですが……」
「ひっくり返して見せましょう」
 断言した地天馬。早矢仕刑事はその言葉を待っていたかのように、「ぜひ、やっても
らいましょうか」と即座に応じた。挑戦的な台詞に聞こえたが、その直後、頭を下げる
早矢仕。
「誤りがあるのなら、早めに正さねばならない。これが私の本心です。お願いします
よ、地天馬さん」
 これには地天馬も激しい反応を示した。楽しげに手を叩くと、演説口調で一気に喋
る。
「ああ。素晴らしいね、早矢仕さん! 僕の事務所に近所に引っ越してきてもらいたい
くらいだ。転勤の予定は?」
「さ、さあ? 人事のことは分かりません……」
「そうですか、残念。もしもこちらへの転勤が決まったら、知らせてほしい。よければ
歓迎会を開こう」
「はあ……」
「さて、早矢仕刑事。現場で撮った写真――足跡の写真をここへ」
 自分の前の机を、指で叩いた地天馬。早矢仕刑事は準備していたのだろう、数葉の写
真を手早く取り出し、置いた。靴の裏の模様が地面にくっきりと刻まれており、よく分
かる。
「全体を色々な確度から収めた物と、個別に足跡を撮った物、それに遺体の周りの物で
す。足跡を一つずつ接写した物もあるにはあるのですが、ここへは持ち出してきていま
せん」
「ふん。必要が生じれば頼みますよ」
 そう応えた地天馬は、早くも写真に鋭い視線を投げかけている。
「遺体のすぐそばに乱れた足跡がいくつかあるのが見えると思いますが、それは江内の
足跡です。絞殺される際に、抵抗したんでしょう」
 早矢仕の示唆に、地天馬は生返事をし、やおら質問を発した。
「意外に硬そうな地面だ。もっとぐちゃぐちゃにぬかるんだのかと思っていましたよ」
「あそこの庭の土は元々硬いんです。畑の土みたいに柔らかい物だと、子供が転んでも
安全は安全でしょうが、それでは幼稚園の外の生活において、かえって子供を危険にさ
らすという考え方だそうで。普段から、転ぶと痛いものだと教えてこそ意味があると
か」
「なるほど、結構なことです。それで、遺体発見時の地面の具合は、どうだったんで
す?」
「どうと言われても、写真にあるように……小さな水たまりがそこここにできて、全体
にじっとりと湿った感じの地面ですよ。確かに泥と呼ぶのは無理があるかもしれません
が、靴で歩けば重みでへこみ、足跡は鮮明に着く」
「おおよそ分かりました。いいでしょう。当夜、雨は何時に上がったんですか」
「午前四時十分となっています」
「ふうん。案外、犯行推定時刻に近いな。――この小さな穴は、傘の先で突いた痕跡か
な」
 地天馬が写真の表を刑事に向け、一点を指差す。刑事は身を乗り出し、目を近付け
た。
「ああ、そのようですね。杖代わりに使ったのかな。結構、数が多い……」
「被害者は傘を?」
「ええと。持って来ていなかった、ですね。自宅を車で出た江内は、十五分ほど要して
幼稚園の近くまで行き、そこから三分ほど徒歩だったようです。そう、思い出したぞ。
車の中には置き傘がありましたが、濡れていませんでしたよ」
「四時半頃に出掛けたのだとしたら、雨は上がっているから、話は合う。となると、こ
の傘の跡は犯人の物と見ていいでしょうね」
「はあ、そうなります。しかし、そんなに重要ですか?」
「犯人は午前三時五十分までに、幼稚園に姿を見せた可能性が高いと言える」
「地天馬さん、それは理屈ですが、絶対とは言い切れません。空模様を見て、ひょっと
したらまた降り出すかと考え、念のために傘を持って出たのかもしれない」
「素晴らしいね、早矢仕刑事。ますます気に入ったよ」
 嬉しそうに手もみする地天馬。
「ここで雨は一時的に忘れましょう。あなたは犯人が傘を持っていったと認めるんです
ね?」
「ん? ええ、もちろんです」
「先ほど、杖代わりに使ったのではと推測した。これも認める?」
「はい。確かにそう言いました」
「では、あなた方警察が犯人だと想定する金尾夏江の足跡の、すぐそばに傘の先で突い
た痕跡が全く見当たらないのは、どういう理由からでしょう?」
「え?」
 虚を突かれた様子の早矢仕刑事は、首を前に突き出した。唇をなめ、しばし考慮を重
ねた。
「それは……傘を差していたんでしょう。ああ、前言撤回だ。雨が降っているときに、
金尾は現場まで来た。これに変更します。これなら傘の跡は着かない」
「そう。そして、足跡も残らない」
「あ」
 思わず出たのだろう、舌打ちの音がした。早矢仕刑事は何度も首を傾げ、再び沈思黙
考が始まる。一分近く待たされただろうか。
「こういうのはどうでしょう? 金尾夏江は雨が降っているときに現場に来て、江内を
待った。途中、雨が止んだので傘を閉じ、杖代わりにして立っていた。そして江内が到
着し、犯行に至った。その後、門のところまで、後ろ向きに歩いていった」
「何のためにそんなことを?」
「自分が善意の第一発見者であるかのごとく見せかけるため、足跡を残す……あっ、だ
めですね。これだと、金尾自身が遺体のそばに居られない」
「その通り。この写真を見ると、一度着けた足跡を上からまた踏んでごまかした様子も
ない」
「困ったな。じゃあ……」
 つぶやいたきり、あとが続かない。名案は浮かばないようだ。
「もう一度、現場に戻ろう。一つ、実験を行いたい」
 地天馬が突然そう切り出した。
「も、もしや、足跡を着けない方法を思い付かれたんで?」
「大層な方法ではないけどね」
 地天馬は自信ありげに言うと、私に目配せしてきた。

「犯人は恐らく、午前四時にここで江内省三と出会う約束を取り付けたんでしょう。少
なくとも、江内を呼び出すことに自信があった」
 地天馬は手を広げ、高草幼稚園の庭全体を示した。彼が立つ場所は、ちょうど遺体が
あった付近だ。
 その庭は、水浸しになっていた。事務長に電話で断りを入れ、外付けの水道からホー
スを使って庭に水撒きをしたのである。事件当日の状況になるべく近付けるためである
ことは、言うまでもない。
「犯人は約束の十分前までに着いていた。始めから江内殺害しか頭になかった犯人は、
洗濯用のロープをベランダの柵から外した。傘を差して待っていると、しばらくして雨
が上がる。閉じた傘の先が、地面に小さな穴をいくつか作った。約束の時刻に遅れるこ
と五十分、江内が現れた」
「五十分も待つものか? いくら殺意を抱いていたとしても」
 私はつい、口を挟んでしまった。地天馬は嫌な顔一つせず、また言い淀むこともなく
応えた。
「約束の時刻が四時だとか、江内が四時半まで寝ていたというのは、あくまでも仮定だ
ということを忘れないでくれ。五十分という時間も不正確だ。ただ、真相に与える影響
はないと信じる」
「うん、飲み込めたよ。話の腰を折って悪かった。続けてくれ」
「江内は犯人に対して油断があったのだろう。アルコールがまだ残っていたのかもしれ
ないな。犯人に不用意に近寄り、あっさり絞め殺された。犯人は逃走する段階に至り、
困惑することになる。このまま門から出るには、足跡を庭に残してしまう」
 地天馬は塀の方を見やった。
「自殺に偽装したい訳ではないんだから、足跡を消しながら逃げるとか、足跡がはっき
り残らないようにすり足で逃げるとか、あるいは自分の靴を手に持ち、裸足になって逃
げる、被害者の靴を奪って逃げる等、色々な方法が考えられる。だが、犯人はそうしな
かった。多分、パニックになっていたんだと想像するよ。足跡を着けてはいけない、と
思い込んでしまったんだ。
 足跡を着けずに逃げるにはどうすればいいか。ジャンプ一番、塀を飛び越え、道路や
隣の家に逃げるのは無理がある。何しろ、塀プラス生垣の幅があるからね。雨上がりの
地面は滑るため、なおさらだ。
 同じジャンプをするのなら、ベランダに飛び移る方がまだ可能性がありそうだが、窓
の鍵が掛かっており、ガラスが割られた形跡もない。午前四時半から五時と言ったら、
微妙な時間帯だ。大きな音を立てたくなかったのかもしれない。とにかく、犯人はこの
手段も選択しなかった。
 犯人が選択したのは――それだと思う」
 地天馬は腕を真っ直ぐに伸ばし、我々のいる方角を差し示した。
「何のことだい、地天馬?」
「君の左側にある、ブランコの上に載っている物さ」
「うん? ビニールブロックしかないが」
「それだよ。一旦外に回って、持って来てくれないか。塀越しに渡してくれればいい」
 使うのなら、水を撒く前に持って行けばいいじゃないかと思った。そしてその不満を
口に出すと、地天馬は苦笑顔を横に振った。
「だめなんだ。事件後、ブロック三個がその箱型ブランコの上に移動してあったことを
確かめてもらいたかったのだ」
「移動? どこからどこへ?」
「そのブロックは元は、こっちのブランコのために使われていたんじゃないか。そう考
えるのが自然だろう」
 地天馬は、二連の一人乗りブランコへ顎を振った。早矢仕刑事が察しよく反応を返
す。
「言われてみれば、そっちのブランコも箱型と同じように針金で固定されているのに、
ビニールブロックを下に挟んでいませんね」
 私も幸治少年の話を思い出した。
「箱型の方は、ビニールブロックが多すぎるな。下に詰めるだけでいいのが、ブランコ
そのものに三つ載せてある」
「恐らく、こちらのブランコにあった物を引っ張り出し、運んだんだよ」
 地天馬の言葉に、私がビニールブロックに手を伸ばそうとしたとき、刑事から肩越し
に鋭い声をかけられた。
「ああ、待ってください! 犯行に関わっているのなら、指紋が出るかもしれない」
「いや、時間が経ちすぎている。事件以後、何人もの手が触れているでしょう」
 地天馬が大声で言った。刑事は「それもそうか」とつぶやく。
「早矢仕刑事。日本の警察は優秀だから、きっと最初の現場検証のときに調べている
さ。それに、指紋に過度の期待をしない方がいい。仮に幼稚園の関係者が犯人なら、完
璧な物証にはならない。追い詰める材料にはなるがね」
「はあ。確かにそのようで……」
 私は一応、刑事の承諾をもらい、ブロック三個を抱えた。いずれも空気を入れ直した
のか、焼き立てのパンみたいに膨らんでいる。
 慎重な足取りで門から道路へ出、前方を注意しながら進む。もうじき塀が途切れると
いう地点で、ようやく地天馬の姿を右隣に捉えた。ブロックを放ると、生垣と塀を越え
て、相手の足下に転がった。
「犯人は忍者の気分だったかもしれないな。地面を水に、ビニールブロックを水蜘蛛に
見立てた」
「忍者?」
「冗談だよ。うん、ちょうどいい大きさだ」
 ブロックの一つを手に取り、ぽんぽんと音を立てながら、回す。そしておもむろに、
地面に設置した。地天馬はそれを片足でしばらく強く踏みつけ、すぐまた持ち上げた。
「――よし。これを見てください」
 手招きをして早矢仕刑事も呼ぶ地天馬。刑事は少し迷ったあと、「足跡を着けてもか
まいませんか?」と聞き返した。
「端を通るのなら。そう、道路寄りに」
 それならばと、私も引き返し、早矢仕刑事のあとに続いて、庭を横切り、地天馬のそ
ばまでやって来た。
「ブロックを置いた跡だとは、一見、分からないでしょう?」
 地天馬は再び自分の足下を指差した。私は目を凝らし、感想を述べる。
「跡……本当だ。全然、分からない」
「うむ。わずかに、角の線がある。薄い上に、途切れ途切れで、これは分からないのと
一緒だ」
 早矢仕刑事も納得した風に言い、顎を撫でている。彼は顔を起こすと、地天馬に尋ね
た。
「もしや、そのブロック三つを順繰りに使って、犯人は足跡を着けずに門まで移動でき
た?」
「まず、このブランコの下にビニールブロックを挟んであったかどうかを、幼稚園の誰
かに確認してください。もしブロックの移動が、事件を挟んで密かに行われたのだとし
たら、犯人が使ったとしか考えられない」
 早矢仕刑事は承知すると、連絡を取るべく、外に出て行った。
「地天馬。よく思い付いたなあ。自分は全く見落としていたよ」
「まだ実験していないんだぜ。これが正解とは限らない。いや、実験が成功しても正解
とは言い切れないが」
「そうだな。刑事が戻ってくるまでに、実験しておこうか」
 私はそう言うと、ブロックを三つ集め、長い辺が自分の正面に来るように、手前に並
べていった。カラフルなビニールの橋ができる。地天馬自身がやるとはとても思えない
ので、自ら右足を乗せた。
「この上を歩き、通り過ぎたブロックを前に置いて行けばいいんだな。……おっと」
 右足に力を入れ、左足を地面から離す。ぐらついた。慌てて左足を戻す。
「靴を履いたままじゃあ、難しいようだ」
 地天馬に言い、私は革靴を脱いだ。ブロックの表面がすでに汚れているため、靴下は
どうしようかと思案していると、地天馬が何故か異論を唱えた。
「靴を履いてくれたまえ」
「どうして?」
「僕が支えるから、ブロックの上に両足で立ってみてくれないか」
「それでいいのなら、そうするよ」
 靴を履き直した私は地天馬の手を借り、一つ目のブロックの上に立った。支えてもら
っているにも関わらず、やけに揺れる。ビニール面が沈み、バランスを取るのが難し
い。
「手を離すと、転んでしまうな」
 地天馬の手のひらにも汗が滲んでいるようだ。いや、これは私の汗だろうか。
「ああ。四つん這いで行くか? 服が汚れるが仕方ない」
 しゃがみたい一心で提案してみた。
「頼む」
 地天馬の手を頼ったまま、腰を折り、膝をつく。不安定極まりない。両手を三つ目の
ブロックの上に置いたが、揺れは収まらなかった。
 さらに、私はここまでやってから、重大なことに気が付いた。
「地天馬。これだと、前進のしようがないぞ。三つのブロックに乗るので精一杯だ!」
「そのようだ。まさかブロックを縦に並べた訳でもあるまい。幅が狭すぎる」
 再考を迫られ、黙してしまった地天馬。私はふらつきながらも地面に降り立ち、汚れ
を手で払った。
 早矢仕刑事が引き返してきたのは、ちょうどこのタイミングだった。
「地天馬さん、当たりですよ! 三つのビニールブロック、奥のブランコの下にあった
んだそうです!」

「結局、体重が要だった」
 地天馬が確信溢れる口調で始めた。
「その後の検証により、五十キログラム未満の人ならば、ビニールブロックの上を楽に
渡れると分かった。これ以上だと、ビニール表面の張力の関係で、足が深く沈みすぎ、
どうしても無理だ」
「五十キロない人が犯人と?」
 立ったまま喋る地天馬と相対する形で、幸治少年はパイプ椅子に肩をすぼめるように
して収まっていた。
「だけど、それだけで犯人だと決め付けるには、無理があるような気もします。多分、
五十キロない人なんて、幼稚園に関わりのある人の中に大勢います」
「その通りだ。僕は、足跡を着けずに現場から脱出する方法を示しただけに過ぎない。
とにかく、該当者を挙げてみるとしよう」
 警察が調べ上げた関係者の中で、体重五十キログラム未満に当てはまるのは、大家
心、阪口伸吾、三河章太郎、手塚理緒奈の四名。
「この中で、大家さんは身長が低く、江内を絞殺したとすると、首には下向きの痕が着
く。実際の絞殺痕はそうではなく、ほぼ平行だった」
「……」
「念のために説明を加えると、相手の後ろから首にロープを巻き、犯人は被害者と背中
合わせになる格好で身体を背負う、いわゆる地蔵背負いというやり方ならば、身長に関
係なく、首に平行もしくは上向きの絞殺痕を残すことはできる。ただし、これには相当
の力が必要だ。小柄で細身の大家さんの体力では無理だと断定せざるを得ない。
 その点、同じ女性でも手塚理緒奈さんなら、背が高く、わざわざ背負わなくても要件
を満たす。ところがこの人は、ビニール製品にアレルギー症状を持っていると聞いた。
ビニールブロックでアレルギーが出るかどうかは、触れてみなければ分からないもの
の、そんなリスクを背負ってまで、ブロックによる足跡隠しを実行するとは考えられな
い」
「いよいよ二人に絞られましたね」
「もう長くはない。残る二名の内、三河さんは手術の後遺症により、足腰の調子が万全
でない。歩くにも杖を必要とするため、ブロックの上に乗るだけでも一苦労だろう。よ
って彼も除外できる」
「とうとう最後の一人ですか」
 少年の嬉しそうなつぶやきに、地天馬は黙って首を縦に一度だけ振った。
「ここで視点を変えてみるとしよう。江内が幼稚園に呼び出された正確な時刻は分から
ないが、午前四時から六時と見ていい。そんな早い時刻にのこのこ出て行ったのは、夏
江さんの名前で誘われたからだ。一方、地面に残る足跡と傘の先の痕跡から、犯人は江
内よりも先に現場に着いて、待っていたと推測できる。
 薄暗い早朝、幼稚園の庭の片隅に、犯人の姿を認めた江内の心理を考えてみよう。も
しそこにいるのが、阪口さんのような筋骨隆々とした背の高い男性であれば、近付きは
しまい。門のところを左に曲がって、シルエットを見ただけで分かるはず。『誰だ、貴
様は!』ぐらいのことは叫んでも、正体不明の相手にわざわざ近寄るのは愚行だ。
 にも関わらず、現実に近付いている。それは江内にとって、待っていたのが女性に見
えたからだ」
「女性? じゃあ、最後に残った一人も」
「阪口さんも犯人ではない。これでは、容疑者がいなくなってしまう。不思議なようだ
が、あと一人、関係者がいたのを思い出した。それが、君だよ」
 地天馬は無感情な口ぶりで、相手を視線で射抜いた。
「僕、ですか」
「体重を教えてくれるかな」
「え、それは、確かに、五十キロないです。四十五キロぐらいですが」
 少年の声は裏返っていた。名探偵から名指しをされ、すでに精神状態は恐慌を来た
し、耐え切れなくなったに違いない。
「僕は、でも」
 そう言った切り、口をぱくぱくと動かすだけで、小刻みに震え始めた。特に、机に置
いた腕の揺れが激しくて、机自体が乾いた音を立て始める。
「幸治君。確認したいことが数多くあるんだが、僕はもうお別れしなくちゃならないよ
うだ。警察には君自身の意志で行くんだ。付き添ってくれと言うのならそうしよう」
 金尾幸治はうなだれたまま、ゆっくりと席を立った。
 が、すぐにまたへたり込み、泣き始めた。

 以下は付け足しに過ぎない。
 地天馬の推理によって見つかった真相は、すべて早矢仕刑事の手柄になるはずだった
が、そうはならなかった。早矢仕刑事が幸治少年の自首を認めたためだ。早矢仕刑事は
事前に地天馬の推理を聞き、さらには地天馬の話を幸治少年が聞く場にも、密かに居合
わせたにも関わらず、である。
 今度の事件でよかったことは、早矢仕刑事との再会だけだったと、地天馬は言った。
 幸治少年なら髪型さえ似せれば、姉の夏江になりすませる。身長も体重も、犯人像に
合致する。何よりも、強い動機がある。
 事件前夜、姉のアパートに泊まった幸治は、姉からことの次第を聞き出していた。そ
して、土曜早朝に幼稚園で江内社長と会う約束をしたことも聞いた。金尾は眠れぬ夜を
過ごし、その時間が彼に決意を固めさせた。姉の代わりに幼稚園に行き、江内を殺そ
う、と。
 やはり夜遅くまで眠れずにいた姉の前に起きてきた少年は、喉が渇いたと言って、二
人でジュースを飲んだ。そのとき、姉のグラスに風邪薬を多めに投じた。その効き目が
出たのかどうか、夏江は眠りについたが、それだけでは安心できず、目覚まし時計の時
刻も大幅にずらした。
 それから少年は、姉のかつらを探し出し、被った。さらに、姉がよく着るという赤の
ジャージの上下を着込み、姉になりすました。薄暗い中、脳内を妄想でいっぱいにした
江内の目をごまかすには、これで充分だったようだ。
 夏江が弟の犯行を知っていたのか、あるいはそれとなく感づいていたのかは、誰にも
分からない。

――終




#478/598 ●長編    *** コメント #414 ***
★タイトル (AZA     )  16/01/30  22:00  (  1)
目の中に居ても痛くない!2−1   永山
★内容                                         23/07/17 21:56 修正 第3版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#479/598 ●長編    *** コメント #478 ***
★タイトル (AZA     )  16/01/31  01:32  (  1)
目の中に居ても痛くない!2−2   永山
★内容                                         23/07/17 21:57 修正 第4版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#480/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/03/28  22:15  (271)
既読スルーな犯罪<前>   永山
★内容
 事件発生の通報があったのは、三月中旬、うららかな陽気から一転、冬の最後のあが
きのように冷え込んだ日の夜だった。そんな急な気候変化のためか、殺人現場となった
一軒家の一室に、暖房器具の類は見当たらなかった。
「亡くなったのは玉井貴理子(たまいきりこ)、二十八歳の独身。一応、イラストレー
ターだそうですが、最近はゲームのキャラクターデザイン等で結構稼いでいたようで
す。この若さで家を持てるくらいですから」
 上條刑事の話はもちろん耳に届いていたが、それよりも気になったのは、現場のちょ
っとした奇抜さだ。オレンジ色に溢れているのだ。被害者自身の部屋だというが、床も
壁も天井も全て、沈んだオレンジ色に統一してある。加えて、玉井貴理子の身に付けて
いる服も、ほとんどが橙色系統だ。オレンジ色をしたキャップに長袖シャツ、下はオレ
ンジ色のロングスカートで、縁を鮮やかな黄色の折れ線模様が二本、交差を繰り返すよ
うに彩っている。靴下だけが真っ黒だ。
 そんなオレンジ色大好き人間(多分)が一人暮らしする部屋で、血溜まりが異彩を放
つ。刺殺だった。上條刑事の現時点での見立てでは、逃げようとしたところを背後から
組み付かれ、腹を刃物で数度刺された、となるらしい。
「即死じゃなかったようで、ご覧の通り、自らの血で文字を書き残しています」
「うむ。『白木美弥』だな、どう見ても」
「ええ。間違いありません。読みも、『しらきみや』でよいみたいです」
「というと、被害者の知り合いに白木美弥なる人物がいると、早々に判明した訳かね」
「はい。アドレス帳に載っていたので、簡単でした。割と近くなんで、今、同僚が向か
ってます。日曜だから、自宅にいる可能性が高いでしょう。何の仕事をやってるか、ま
だ分かってませんが」
「……白木美弥が犯人なら、こんな血文字を残されて、そのまま放置して現場を去るか
ね?」
「犯人と決め付けてはいませんよ。参考人です。恐らくですが、犯人が白木美弥に罪を
被せるために、文字を偽装したんだと思うんです。となると、犯人は白木美弥と知り合
いで、彼女に対しても何らかの悪意を抱いていることになる。白木に話を聞くのは当然
です」
「確かに。ただ、犯人が白木美弥に罪を被せようとしたと決め付けるのも、またどうか
と思うがね」
「決め付けたんじゃありませんが……肝に銘じておきます。捜査会議で方針がそうと決
まった訳じゃないですし」
「もう一点、おかしなところがある。何で漢字なんだろう? 平仮名か片仮名で書けば
楽だろうに」
「そう考えると、やはり偽装工作と見なすべきかもしれませんね。いや、まあ決め付け
はよくありません。アドレス帳には、白木美弥の他に白木田(しらきだ)が一人、深山
(みやま)が一人、下の名前で宮子(みやこ)が一人いましたから、その人達と混同さ
れるのを恐れて、漢字で白木美弥と書いた……という見方もできなくはない」
「だとしても、フルネームを漢字というのはなあ。凶器は?」
 唐突な問い掛けに、上條刑事は反応が遅れた。それでもじきに首を横に振る。
「見付かってません。犯人が持ち去り、逃走途中で捨てるというのが一番ありそうな線
ですが、何せその逃走経路が判明していないので、とりあえずこの家の周辺を当たるこ
とになるんでしょう」
「第一発見者は?」
「あ、待ってもらってるんでした。死体のある家にいたくないとかで、車の方にいま
す。会っておきますか?」
「僕の肩書きは何と伝えればいい?」
「お任せします。コンサルタントでもアドバイザーでも」
 思わず苦笑してしまった。真っ正直に「私立探偵です」と名乗らないのがいいこと
は、自分自身、経験上よく分かっていた。

「――ええ。家族の都合で刑事の職を一時退いたのですが、その問題が解消したときに
は中途半端な年齢になってまして。戻りにくかったので、こうして捜査の補助をする仕
事を与えられた訳です」
 警察OBで捜査アドバイザーという自己紹介に説明を補足すると、相手は納得したよ
うだった。首を何度も縦に振り、名刺からこちらへ視線を上げた。その顔色はまだ青ざ
めているようだ。三十歳になる男で、痩身の割に頭が大きく、マッチ棒を連想させた。
「それで……三川宗吉(みかわそうきち)さんは、何の用で玉井さん宅を訪れたんです
か」
 二度も三度も同じことを聞かれてうんざりしているのか、三川は最初、知り合いだと
しか言わなかった。なので、詳しく突っ込んで尋ねる。
「自慢にもならねえから、繰り返し言いたかないんですけどね。借りてた金のことで、
ちょっと話し合いを持つために」
「お金の貸し借りをする仲ですか。ということは、相当親しかったんですね、亡くなら
れた玉井さんとは」
「貸し借りって言うか、借りる一方ですがね。要するに、昔付き合ってたんですよ。は
っきり別れたつもりもないんで、こうして付かず離れずの付き合いをしてたんです」
「どんな話し合いを?」
「話し合いって言いましたけど、実はいきなり電話があって、呼び付けられたんです」
「ほう、呼び付けられた? 電話は何時頃でしたか」
「正午過ぎだったかなあ。何が原因で急にごきけん斜めになったか知りませんけど、貸
した金を一刻も早く返して欲しいと言われまして。十万ちょっと借りてたんですが、す
ぐには用意できないって言ったら、とにかく来いと。それはもう、かなり恐ろしい剣幕
でしたよ。こう、走って追い掛けられるような」
「それを受け、あなたは玉井さん宅に急行した」
「はい、いや、まあ仕事の都合もあるんで、夜にしてもらって。結局、八時半くらいに
ここへ着きました」
 そうして遺体発見に至る訳か。
「三川さんは、何をされてる方なんです?」
「えっと、元はゲームクリエイターだったんですが、だいぶ前に会社からほっぽり出さ
れて、今はギャンブル研究家の肩書きでやってます。その手の雑誌や新聞に文章を書く
のがメインでしたが、仕事は減る一方。糊口を凌ぐため、ギャンブル研究の元手のため
に貴理子の――玉井さんの助けを借りてた次第ですよ」
「返す当てはあったと」
「いや……返すつもりはあったが、今すぐってのはない、という意味です。俺を疑って
るんで?」
「『型通りの質問です』と、型通りの説明をしておきましょう。他の刑事さんにも聞か
れたでしょう?」
「ああ、それは確かに」
 人を食った返事にたじろいだのか、三川は身震いをしたようだった。そうして自ら話
題を換えようとした。
「他の刑事さんと言えば、さっき通り掛かった刑事の一人が、白木美弥とかいう名前を
口にしてたみたいですが」
「していたかもしれません。何かご存知で?」
「ええ、まあ。直接知ってた訳じゃなく、玉井さんの知り合いってことで、間接的に。
揉めてたみたいだし」
「揉めていたとは、玉井さんと白木美弥さんが?」
「詳しくは聞いちゃいませんが、玉井さんのデザインしたキャラクターに、白木さんが
クレームを入れてきたとかどうとか」
「あー、話す前に、ちょっと確認を。白木さんはそもそも何をされている方なんです?
 やはり、ゲーム関係ですか」
「いやいや。彼女は――あれを職業と言っていいのなら、アイドル、になるのでしょう
ねえ、やっぱり」
「つまり、芸能人?」
 白木美弥なる芸能人がいただろうか。知らない芸能人は大勢いるが、それにしても白
木美弥が全国的に有名とは思えない。
「うーん……芸能人とは呼べないか。学生やってるみたいだし。いわゆる地下アイド
ル、それとローカルアイドルの中間みたいな立ち位置で活動してるようだから」
「――」
 耳慣れない職業に多少面食らったが、ニュアンスは伝わってきた。何とかイメージで
きたし、実態とそう懸け離れていないであろう自信もあったので、そのまま素知らぬ態
度で聴取を続ける。
「それなりに人気はあるんでしょうね」
「多分。ステージで唄ったり踊ったりするだけじゃなく、あちこちのイベントに出てた
みたいだし、雑誌に取り上げられたことも何度かあるとか聞いてます。ああ、地元のコ
ミュニティ誌で、同じく地元出身の推理作家と対談したのを、たまたま読んだ覚えが」
「多岐に渡って活動していたと。そんなローカルアイドルがゲームデザイナーに、何の
クレームを入れてきたんです?」
「あ、いや、玉井さんはゲームデザイナーではなく、ゲームのキャラクターをデザイン
するのが主でして」
「そうでしたね」
 低めた声音で短く言い、先を促す。
「クレームは、あるキャラクターの姿形が、白木さんが昔着ていたステージ衣装にそっ
くりだというものだったみたいです。それも一点ではなく、三つか四つも」
「待ってください。白木さんはクレームを付けるために、玉井さんに接近してきたので
しょうかね?」
「いやいや。元から知り合いだった。ほんと詳しくないんだけど、白木さんはだいぶ小
さい頃からローカルアイドルやってたみたいで。玉井さんが白木さんの昔のステージを
観て、知り合ったんですよ。デザインのクレームは、玉井さんがステージを観たとき印
象に残ったのをつい、ほとんど無意識の内に使った、というのが真相なんじゃないかな
あ」
「玉井さんがそんな風なことを、あなたに打ち明けていたのですか」
「はい。完全に認めるという風ではなく、仄めかす程度だったけどね。援助してもらっ
てる身としては、そんなこと聞いても胸の内に仕舞っておくしかない」
 悪びれもせずに言い放つと、三川は苦笑いめいた表情をなした。
「問題の衣装やゲームキャラクターの画像、お持ちじゃありませんか」
「いやあ、ないです。ゲームキャラの方は、彼女の――玉井さんの仕事場を探せばすぐ
に見付かるはずですよ」
「なるほど。――ここまでの話だと、白木美弥というのは芸名なんですか」
「生憎、そこまでは知りません。何となく、芸名だと思い込んでましたが」
 表札もしくは郵便受けの名前が、“白木美弥”ではなかったら、住居を特定するのに
ちょっとだけ手こずるかもしれない。しかし、大きな障害にはなるまい。
「そうですか。話を戻しますが、玉井さんについて、他に誰か殺意を抱くような人物に
心当たりはありませんか。また、白木さんに関してもご存知の範囲で、同じことを考え
てみてもらえると助かります」
「白木さんまで? さっきの刑事さんは、そんなことは言ってませんでしたが」
「すみませんが、質問に答えていただきたい。聞いてるのはこっちなのです」
「あ、はあ、ですね。玉井さんはあれで若くして成功した部類に入るだろうから、やっ
かみはあったと思いますよ、うん。具体的に誰と、名前を挙げるのは無理ですが。あと
は男関係だろうな。俺が言うと説得力ないかもしれないですけど、仕事に没頭してると
きとそうでないときの落差が激しくて、振り回されるんですよ、あいつには。顎でこき
使ってきたりパンチしてきたりと思ったら、優しくしてくれたり尽くしてくれたり。き
っと、今の男にも同じだったに違いない」
「その人の名前は」
「西川嶺(さいかわりょう)。俺とおんなじ、ギャンブル好きで、お馬さんにはまって
る口。ただ、俺と違って料理ができるし、それなりに稼いでいるみたいだった。貴理子
が――玉井さんが俺から乗り換えたのも、納得してる」
 自らは殺意・動機がないことのアピールなのか、三川の声は少し大きくなった。
「お答え、どうも。ところで、玉井さんの部屋、仕事部屋だそうですが、やけにオレン
ジ色が使われているなと。何か理由が?」
「あー、あれは、彼女がオレンジ色好きなのが一番だけど。好きな色に囲まれている
と、気分が高揚して、仕事が捗ると言っていたっけ。割とそういう意識の高い女で、寒
がりのくせに仕事部屋には暖房器具を置いてなかったよ、確か。温かくなると、眠気を
催したり、頭がぼーっとしたりして非効率的だとか言って」
「なるほど。話を戻しまして念のために伺いますが、玉井さんは色覚異常、なんてこと
はなかったんですね」
「全然。ごく自然に色を使ってたと思いますよ」
 三川は何をばかなと言わんばかりに、大きな仕種で首を横に振った。

「西川嶺の名前、アドレス帳にあったのかな? あれば早々に知らせてくれていいんじ
ゃないか」
 三川を聴取から解放したあと、上條刑事を呼んで尋ねた。
「実物を見てないんで何とも言えませんが、きっとあれじゃないですか。西川の名前の
とこに、ハートマークでも書いてありゃあ気付くでしょう。でも単なる名前の羅列だっ
たら、特別な存在に見えないんですから、無理ありません」
「アドレスって、パソコンや携帯電話の類じゃなく、実物の手帳か何かだったのか」
「ええ。ピンク色のファンシーなのが、机の上に放り出してありました。持って来させ
ましょうか」
「いや、いい。必要性を感じたときは、見る機会を作ってくれと頼むから。それより
も、白木美弥はアイドルをやってるらしいぞ。もう聞いたか?」
「え、いや、まだです。第一発見者が言ったのですか」
「そうだ。タイミングが悪かったようだな」
 経緯を伝えると、上條は「本名じゃない可能性もあるのなら、すぐに知らせないと」
と呟き、立ち去ろうとした。その背中に声を浴びせる。
「地下だろうがローカルだろうが、検索すれば写真が出て来るかもしれないぞ。早く見
たいから、頼む」
「え。また持って来てないんですか?」
 立ち止まって振り向いた上條は、一瞬驚いたようだったが、じきにあきれ顔に変化し
た。
「ああ、忘れた」
「――しょうがありません。これでどうぞ」
 懐から個人用の携帯機器を取り出し、手渡してきた上條。だがその動作が完了寸前で
ストップする。
「使い方、覚えました?」
「いや、心許ないな」
「まったく、ほんとにしょうがないですね」
 上條は口の中でぶつぶつ言いながら、使い慣れた機器を素早く操作した。
「……どうやら、これのようです。思っていたよりも若そうだな。被害者より十近く下
かもしれませんよ」
 そう言って向けた画面には、茶髪頭の両サイドに大きな団子を一つずつ付けたような
ヘアスタイルの、二十歳前後の女性の写真がずらりと表示されていた。一番大きな画像
は上半身だけで、他に比べる物もないため、背の高さは分からないが、すらっとした体
型のようだ。目鼻立ちがはっきりしており、ハーフかと想像させる。そしてトレード
マークなのか偶々なのか、たいていの写真では黄色がかったレンズのサングラスを掛け
ていた。
「……」
 何か閃きが訪れそうな気がした。

「お忙しいところを来ていただいて、ありがとうございます」
 上條は白木美弥こと白石美弥子(しらいしみやこ)に礼を述べながら、事務机を挟ん
で、正面に座った。
 相手の白木は、緊張もせず、どちらかと言えばリラックスしているようだった。取調
室のような狭い空間ではなく、会議室の片隅で相対しているからかもしれない。
「知り合いが巻き込まれた事件の捜査に協力できるなら、可能な限りのことをするのは
当然です。早く始めましょう」
 アイドル活動で鍛えられたのか、物怖じしない性格なのだろう。先を促す白木に、固
さは見られない。化粧っ気こそ抑えめだが、写真とほとんど変わりがない。ただ、サン
グラスや帽子を室内でも外さないのは、彼女なりの防御なのかもしれなかった。
「本来なら、女性が当たるべきなんですが、生憎と人手が足りておりませんで、相済み
ませんね」
「かまいません。それよりも、玉井さんが亡くなったと聞きましたけれど、一体どうい
う……」
 ここで初めて不安そうな色を見せた白木。上條はそれには答えず、まず、人定質問か
ら始めた。目の前の彼女が、被害者と付き合いのあった白木美弥であることを確かめた
後、本題に入る。
「いきなりですが、白木さんは昨日の午後二時から晩の八時頃まで、どこで何をされて
いたか、お聞かせくださいますか」
「その時間帯なら……大学近くのファミレスで遅めの昼食のあと、歩いて大学に行き、
サークル棟でみんなで作業をしていた、かな。切り上げたのが七時過ぎで、同じファミ
レスで今度は早めの夕食を済ませてから、確か八時ちょうどにその店を出ました」
「作業とは?」
「衣装作りというかデザインを。私自身の分も含めて、仲間のを作るんです。四月に大
学で新入生歓迎の催しがあるので」
 ここでまた表情が柔らかくなる。嬉しそうに笑った。
 上條は細かな点は棚上げし、「アリバイを尋ねているのはお分かりだと思います。証
明してくれる人はいますか」と直球の質問を続けた。
「ファミレスでの一度目の食事は友達と一緒でしたし、作業はもっと大勢と一緒にやっ
てましたから。二度目のファミレスは一人だったけれども、多分、店員さんが覚えてく
れてるんじゃないかしら。私、目立つ方なので」
 白木は目線を少し上向きにし、上條に訴えるように見つめてきた。なるほど、黄色の
サングラスと帽子がよく目立つだろう。
「昨日も、そのサングラスと帽子を?」
「サングラスはそうです。いつも掛けてますから。帽子は違う物、確かクローシェを」
 上條はアリバイに関する白木の説明を詳しく聞き取り、メモに取った。すぐにでも調
べさせよう。
 そのやり取りが済むと、白木はしばし口ごもり、やがて意を決した風に話し出した。
「私が玉井さんと揉めていたのは、ご存知なんですね、刑事さん?」
「詳しくはまだですが、だいたいのところは」
「揉めていたのは、私も認めます。ですが、それで殺し殺されっていう事態にはなりま
せん」
「我々はまだ何も断定していません。ただ、動機以外の点であなたを調べなければいけ
ない理由があるので、こうして来てもらった」
 上條はダイイングメッセージの件を持ち出すタイミングを計っていた。目の前にいる
年端もいかない女性が殺人犯だなんて、普通なら信じがたい。だが、あまりにも明々
白々なダイイングメッセージが破壊されることなく現場に残っていた事実故に、逆説的
に白木美弥が犯人であるとは考えにくくなっていた。ここでもし彼女が犯人なら、勇み
足からダイイングメッセージのことを口にする可能性、なきにしもあらず。そう、白木
美弥が口を滑らさないか、上條は待っているのだ。もちろん、彼女が今し方、明確なア
リバイを主張した事実も気になっている。
「何があると言うんです? 理由を教えてください」
 上條は躊躇した。頭の中で、信号が点滅している。ここで早々に切り札を切るより、
アリバイの真偽を検討してからの方がよい、と。何しろ、白木が犯人でない場合、彼女
は真犯人から恨まれているはずなのだ。
「捜査上の都合により、今はまだ明かせません。が、この点に関しては二つの見方がで
きるのです。仮にあなたを容疑者のリストから外せたとしたら、逆にあなたの身に危険
が及ぶ可能性、ゼロとはしません。くれぐれも注意してもらいたいのです」
「じゃあ、警察が保護してくださる?」
「現時点では難しい。とにかく、居場所をはっきりさせておいてください」
 上條の言葉に、白木は眉を寄せて不満を垣間見せたが、口に出すことはなかった。

――続く




#481/598 ●長編    *** コメント #480 ***
★タイトル (AZA     )  16/03/28  22:16  (280)
既読スルーな犯罪<後>   永山
★内容                                         18/06/24 03:24 修正 第4版
「アリバイ成立、か」
 上條のまとめた照会結果を眺め、白木美弥のアリバイに穴のないことを嫌でも確認で
きた。思わず、嘆息してしまう。
「成立ですね。大学では常に知り合いと一緒、ファミリーレストランでも友人が同席ま
たは店員がはっきり覚えていたとなれば、認めない訳にいきません」
「となると、捜査班や俺の見込みは外れていたことになるな」
「真犯人の思惑も、じゃないですか」
 上條は警察だけが失敗したとは認めたくないのか、妙な理屈を持ち出した。
「真犯人が白木美弥に罪を着せたかったんだとすれば、アリバイの有無くらい調べるべ
きだった。なのに怠ったおかげで、ダイイングメッセージの偽装工作はあっさり崩れ、
意味がなくなったんですから」
「それが犯人逮捕につながれば、なおいいんだがな」
 こちらとしてもあまり笑ってばかりいられない。このままでは、折角の閃きが、砂上
の楼閣に終わりそうだ。
「他のことで、新しい報告はないのか」
「取り立てて言うようなものは……凶器は未発見、足跡の類も見付からず。ああ、現場
でちょっとした発見がありました」
 手帳のページをめくるや、上條は今思い出したとばかりに早口で言った。
「被害者の家の寝室にも、僅かながら血痕があったんです。ベッドのすぐ横の平らなス
ペース、その隅っこですね。ちょうどベッドの下に隠れそうな位置でした」
「犯行現場は、遺体のあった仕事部屋ではない可能性が出て来たってことか」
「どうでしょう? 仕事部屋における血の飛散具合に、矛盾はなかったようですが。
我々は逆に、凶器が寝室に持ち込まれた際に血が落ちたのかと考え、凶器を探したんで
すが、何も出て来なかったんです」
「滴下血痕だったのか」
「いえ、飛沫の方でした。だから、寝室で刺したと考えてもいいんですが、そうすると
大部分の血が飛び散って周辺を汚すことになりますから、事実に反します。少なくとも
床にビニールシートのような物を敷く必要が出て来る訳です」
「そのような物は見付かってないと言うんだな。だが、犯人が持ち去ったのかもしれ
ん」
「はい、その可能性は認めます。が、もしその説を取るのなら、何のために同じ家の中
で遺体を動かし、殺害場所を偽装しなければいけないのかという疑問に答を見付けねば
なりませんよ」
「そうだな……」
 口ごもると、上條は更に言い足した。
「もう一つ、発見がありまして、ビニールシートではないのですが、毛布が洗濯機に押
し込んでありました。薄手のオレンジ色で、人一人がすっぽりくるまれるほどの大き
さ。これにも被害者の血痕が大量に着いていました。もしかすると、犯人が返り血を防
ぐ目的で使用したのかもしれませんが、現在のところ、被害者以外の痕跡物は出ていま
せん」
「さっき言ったビニールシートの代わりに、その毛布を寝室の床に敷いたとしたらどう
だ?」
「実験はしていませんが、恐らく無意味でしょう。しみ出た血が、床を汚したはずで
す」
「うーん。被害者は寒がりだったそうだから、毛布は仕事部屋で足下にでも掛けていた
のかもしれない。その最中に襲われ、血液が部屋や毛布を汚した。寝室の血痕は、凶器
を持ったまま犯人が入り、何か捜し物でもしているときに、たまたま飛び散った。こう
考えれば、辻褄は合う。だが、何となくしっくり来ない。凶器を持ち歩いたとしたらも
っとあちこち、廊下なんかにも血痕があっていいはずなのにないからだ」
 寝室の血痕に関しては、そこが殺害現場だったと見なす方が、理に適う気がする。凶
器やビニールシートは犯人が持ち込み、犯行後にまた持ち去ったと考えればよい。だ
が、犯行現場を偽装する意味が分からない。
「上條刑事。仕事部屋と寝室を見比べて、大きな違いはあっただろうか? もしあった
なら、印象に残ってると思うんだが聞かせてほしい。何せこちとら、寝室は関係ないと
思って、ろくに観察してないんでね」
「見比べると言っても、そんな意識で見ていなかったですからねえ。仕事部屋にはデス
クが会って、様々な資料があって、パソコンがあって……。寝室の方はベッドとタンス
ぐらいかな。暖かそうなベッドでしたよ。つい先日まで、寒かったですからね」
「……寝室に暖房器具は」
「ありました。壁掛けタイプのエアコンが一台、ファンヒーターが二台、ミニサイズの
電気カーペットが一枚、それくらいでしたか。布団の中に、何かあったかもしれません
が、自分は見ておりません」
「――たくさんの暖房器具を一度に作動させたら、室温は当然、上がるよな」
「え、ええ」
 こちらが切り出した言葉の意味を、上條もすぐに察したようだった。軽く頷き、続け
る。
「そんな部屋にいた人間の身体の温度も上がるに違いない。一方、仕事部屋には暖房器
具がなかった。また、死亡時刻の推定は、遺体発見前日から当日にかけての気温を元に
室温を推測し、それを基準に算出したものだろう」
「でしょうね。それが手順であり、常道です」
「今度の殺人が、暖房を充分に効かせた寝室で行われたと仮定した上で、改めて死亡推
定時刻を計算すれば、最初の推定よりもだいぶ前になるんじゃないか?」
「恐らく……」
「つまり、白木美弥のアリバイは、完全成立した訳ではないと言える。そうだな」
「えっと、ちょっと待ってくださいよ。犯人が誰かは置いとくとして。暖房による死亡
推定時刻をずらす工作が行われたんだとしたら、その犯人は暖房器具のスイッチを切り
に戻り、遺体を寝室から仕事部屋に移したと言うんですか? だったら、あまりアリバ
イ工作になってないような」
「違う。殺す直前まで、被害者を暖めておくんだ。殺してすぐに暖房を止め、遺体を仕
事部屋に移す。ああ、仕事部屋の室温は、前もって窓を開けるなどして、思い切り低く
していたかもしれないな」
「そうか……それなら死亡時刻は、午後二時よりもだいぶ前になりそうです」
「そして、いい頃合いに発見させるために三川を電話で呼び出させた。ん? 犯人は被
害者を脅して、電話させたことになるのかな、ここは。まあ、細かい詰めは後回しだ。
今すべきは死亡推定時刻の再算出と――」
 全部を言い切らぬ内に、上條があとを引き取った。
「白木美弥の、午後二時よりも前のアリバイですね」

 事件のあった日の午後二時まで、白木美弥は自宅マンションにいたと答えたが、それ
を証明するものはなかった。
 彼女の入居するマンションにも防犯カメラは設置されているが、エントランスホール
と各階エレベーター扉のみで、非常階段を使えば、映らぬように出入りする術がない訳
ではなかった。要は、住人が前もって中から非常口の鍵を解錠しておけば、難なくでき
る。
 また、玉井貴理子の死亡推定時刻は訂正ではなく、大幅な追加修正が行われた。午前
十時から午後二時の間に死亡した可能性もある、と。
 この結果を受け、白木美弥に対する上條刑事の事情聴取が行われた。
「無論、アリバイがないというだけで、あなたを犯人と断定はしない。そもそも、こん
な明々白々な手掛かりを被害者が残しているのに、消したり壊したりすることなく現場
を立ち去るなんて、普通はできない」
 ダイイングメッセージについては、ここが切り出し時とみて話していた。その瞬間の
白木の反応は、すぐに声を発することはなく、ただ首を横に振るばかりだった。
「白木さん。あなたが犯人でないというのなら、このようなことをされる心当たりは?
 言い換えると、玉井さんに殺意を持っており、かつ、あなたのことも恨んでいるか、
少なくともあなたと玉井さんとの間のトラブルを知っている人物に」
「……あの男。玉井さんの元彼で、三川さん」
 少し考えただけで、その名前が出て来た。予想していた人物だ。上條はゆっくり首肯
した。
「三川さんにはアリバイがあるんだが、一応、記録しておこう。他には?」
「じゃあ、今の彼氏だった西川嶺さんは? 玉井さんは私が謝罪を要求したことを、西
川さんには話していなかったみたいですけど、彼が私を知っているのは確かです」
「西川さんは、バイクで交通事故を起こし、入院していた。足首を折ってたから、病院
を抜け出すのも無理だろう。だいたい、万が一にも西川さんが犯人なら、あなたより
も、三川さんに罪をなすりつけようとするんじゃないかな。三川さんを犯人と想定して
も、同じだと思う」
「それって、西川さんや三川さんを知る人物が犯人なら、名前を書き残す偽装工作で、
私の名を選ぶはずがないってことですか」
「まあ、そう考えるのが妥当じゃないかな」
「そんな……玉井さんの知り合いで、西川さんの存在を知らない人なんて、多分いない
わ」
「うん、だから犯人はあなたにも恨みを抱いているんだと思われる。そういう人物がい
るのなら、隠さずに話して欲しい」
「……」
 上條は、声を荒げることなく、基本的に優しげな口調に努めつつ、聴取を進めてい
る。それでも白木は追い詰められた気分を味わっているようだ。
「私だけに対するストーカーっぽい人なら、いなくもないです。けれど、その人が玉井
さんを知っていて、しかも殺すだなんて」
「いや、分からないよ。ファンは対象とするアイドルのことなら、何でも知りたがるも
のだろうから。あなたが玉井さんにクレームを入れているのを知ったあなたのファン
が、代わりに殺したのかもしれない」
「あ――そ、それです、きっと」
 救われたような明るい表情になり、白木は座ったまま、前のめりになった。
「保山翔太(ほやましょうた)って言います。あいつを捕まえて、調べてください!」
「保山ね」
 手元のメモ書きを一瞥する上條。
「その男のことなら、警察も掴んでいます。あなたに恨みを持ってはいないが、半ば狂
信的ファンで、白木美弥の気を惹くためならどんなことでもやりかねない」
「は、はい、そういう雰囲気ありました」
「で、昨日、警察へお出で願って、調べてるんです」
「え、じゃあ」
「彼が常時持ち歩いているカメラを調べたところ、あなたの映ったショットがたくさん
ありました」
「それはそうでしょう。そんなことよりも、犯人かどうか……」
「写真の大半は、ステージやイベントでのあなたを写したのではなく、プライベートな
物でした。どうやら、暇なときにあなたをつけていたらしい」
「え……そ、それは気味が悪いですけれど、アイドルしていたら宿命みたいなものです
から、あっても不思議じゃありません」
「でしょうね。ただ、プライベート写真の中に興味深い物がありまして、そいつがこち
ら」
 上條は用意しておいた写真三枚を、机に並べた。三枚とも似たようなもので、一人の
女性が玉井貴理子の自宅に入っていくところを連写していた。
「これ、あなたですよね、白木さん?」
「はい。でも、私が玉井さんの家に出入りするのは、珍しくも何ともないでしょ。知り
合いなんだから」
「問題は日付でして」
 写真の隅にある日付を人差し指で示す上條。そこにある数字は、玉井貴理子殺しが起
きた日と一致していた。
「念のため、カメラ本体のデータや設定も調べましたが、細工の痕跡は皆無でした。日
付に関して、嘘偽りはない」
「でも……」
「このあと、保山は出て来るあなたを撮ろうと待ち構えていたが、いつまで経っても出
て来ないので、あきらめて引き返したと言っている。それは残念なんだけれども、一方
で重要な証言もしてくれた。あの日の朝九時から正午過ぎの間、玉井さん宅に入った人
物は、白木さんしかいなかったと」
「……それだけでは何の決め手にもならない。そうでしょう?」
「はい。他の人物が、だいぶ前からすでにいたのかもしれない。あなたが玉井さん宅を
辞去したあと、殺人が行われたのかもしれない」
「――そうだわ。保山が嘘を言っているのよ。正午過ぎにあきらめて引き上げたのが
嘘。私が出ていくのを見てから、あいつは玉井さんの家に入り、彼女を殺した。そして
ダイイングメッセージを書いた。辻褄が合うわ」
 語る白木の目が輝いているように見えた。だが、上條は首を左右に振った。
「その線も考え、警察は保山のアリバイを確かめた。そして成立した。バイト先に顔を
出している。時間的に、正午過ぎに玉井さん宅前を出発しなければ、間に合わない。ヘ
リコプターでも使ったのなら別だが、まさかそんな手段は現実的でない」
「じゃ、じゃあ……一体誰が」
 上條刑事はそう言う白木をしばらく見つめてから、ふっと、こちらを振り返った。
 それを受けて、交代する。座るや否や、すぐさま言った。
「あなたがやったんじゃないのか」

「写真を見ると、あなたは事件当日も、黄色のサングラスを掛けて玉井さん宅を訪れて
いる」
 先程上條刑事が並べた写真を一枚ずつ、上から指でとんとんとやった。
「黄色のレンズを通すと、当然、全ての物が黄色がかって見えるはずだ。一方、遺体の
見つかった仕事部屋は、内装がほぼオレンジ一色と言っていい。そんな部屋の床、オレ
ンジ色の床に、赤い血で文字を書く。普通なら大変目立つが、黄色のレンズを通して見
た場合、どうだろう? 黄色と赤色を混ぜると、オレンジ色になるんじゃなかったか
な? オレンジ色の床にオレンジ色の文字。これなら、犯人が自分の名前を書き残され
たにも関わらず、気付かずに放置したとしても不思議じゃない。何せ、認識できないん
だから」
 私は得意げに説明してみせた。言い終えると、腕を組んで、相手の返事を待ち構え
た。尊大に、見下ろすように。
「……あはは」
 俯いていた白木美弥は不意に笑い声を立てた。面を起こすと、表情もやはり笑ってい
る。
「ああ、おかしい。刑事さんがあんまりおかしなことを言うものだから、途中から笑い
を堪えるのに苦労しちゃったじゃない」
「私は刑事ではなく、アドバイザーです」
「どっちでもいいじゃない、庶民から見れば同じよ。それよりも、赤と黄を混ぜればオ
レンジ色になる、ですって? 確かにそうよね。でも、絵の具での足し算を、そのまま
実際の景色当てはめていいのかしら」
「というと?」
「確かにね、このレンズで赤い物を見れば、オレンジ色っぽく見えるわ。けれども、色
それぞれには濃い薄いがある。血の赤をこのサングラスで見て、ちょうどあの部屋のオ
レンジ色と同じになるなんて偶然、あるはずないじゃないの」
「全く同じオレンジ色にはならないかもしれない。しかし、字が読みづらくなるのは間
違いない」
「読みづらいだけでしょ。被害者が死の間際に血文字で何か書き残そうとしていること
自体には、絶対に気付く。気付いたら、犯人はそのメッセージを読み取るために、サン
グラスを外すでしょうね。そして血文字をめちゃめちゃにして読めなくする」
「本当にそうでしょうか。現実には、全く同じオレンジ色になった。だからこそ、あな
たは文字を見逃し、立ち去ったんでは?」
「そこまで言うからには、何か根拠がおありなんでしょうね」
「え、ええ。実はテストを行った。同じサングラスを手に入れ、犯行現場の仕事部屋に
立ち、本物の人血を垂らして、どんな色に見えるか。結果は、オレンジ色。全く同じと
言って差し支えないレベルのオレンジ色だった」
「嘘よ! だって私は読めた――」
 その通り。私は嘘を言った。実験を行ったのは事実だが、レンズ越しに見えた血文字
は、床のオレンジ色とはだいぶ異なっていた。
 だが、口元を手のひらで覆った白木は、失言を充分に自覚しているようだ。

「最後まで分からなかったのは、あなたの判断だった。白木美弥さん、あなたはどうし
て自分の名前を示す血文字を、そのまま手付かずで残して行けたのか」
 はっきりと残された己の名前。それを放置していける犯人がいるだろうか。
 なるほど、警察はあまりにもあからさまな“証拠”を目の当たりにし、素直に採用す
ることなく、疑問を抱いてくれる可能性が高い。結果、犯人は容疑の圏外に置かれるか
もしれない。
 だが、たとえそのような計算が成り立つとしても、いざとなると、果たして実行可能
だろうか? そんな賭け、恐ろしくてできそうにない。いかにも偽装工作っぽく、犯人
自身が自分の名前を書いたとしても、不安は強く残るに違いない。
「あなたの仕事をつぶさに見ていき、ようやく理解できた気がします」
 言いながら、一冊の冊子を上條から受け取り、机の上にぽんと放った。該当するペー
ジを開けなくても、白木にはそこに何が乗っているのか思い出せたようだ。その証拠
に、唇を噛みしめたのが分かった。
「このコミュニティ誌の企画で、あなたは推理作家の平野年男と対談している。そのや
り取りの中で、平野氏がこんなことを言っていた。『――もしも、犯人が被害者の血を
使って、自分自身の名前を現場に残す勇気を持てたら、案外それが完全犯罪の近道なの
かもしれない――』と。あなたはこれを思い出し、忠実に実行した」
 ある意味、それは勇気と呼べなくはない。蛮勇ではあるが。

 その後、犯行を認めた白木美弥は、アリバイ工作についても詳細を語った。彼女はそ
れを「独り我慢大会」と呼んでいた。
 つまり――デザインの盗作を許して欲しければ、暖房をがんがん掛けた部屋で、毛布
にくるまって半日ほど過ごせ。最低でも六時間やってもらう。許すかどうかは、様子を
見に行って、そのとき私が判断して決める――こんな取引を持ち掛けたという。負い目
があった玉井はこれを受け入れた。季節がまだ冬だったのも、玉井をその気にさせたの
かもしれない。
 寝室で「独り我慢大会」に取り組んだ玉井を、白木はしかし、端から許すつもりはな
かった。当日朝、玉井宅を訪れ、我慢大会を励行しているのを見届けてから、プラスア
ルファとして金を要求した。それも、玉井が三川に貸している分全額という条件を出し
た。そこから言葉巧みに誘導し、玉井に三川へ電話を掛けさせ、夜八時以降に、玉井宅
へ来るように約束させた。
 環境が整うと、白木は玉井を刺した。毛布にくるまったままの彼女を、背後から腕を
回し、腹部にぐさりと。なお、凶器は自宅にあった、いつ入手したかも定かでない、新
品のナイフを持ち込んだ。
 寝室に血溜まりがなかったのは、暖房の利きを強くするためと適当なことを言って、
ビニール(ピクニックで芝の上に敷くような青い物)を前もって敷かせ、その上で我慢
大会をさせていたから。ビニールのサイズが大きかったおかげもあり、寝室には血痕が
ほぼ残らなかった。毛布に血を吸わせると、丸めて持ち運ぶのに支障なくなった。この
ビニールと凶器は犯行後持ち去り、ひとけのない公園に出向くと、そこのトイレの用具
入れに捨てた。
 遺体を寝室から仕事部屋に移動したのは、暖房していたことを気取られないようにす
るため。ビニールに遺体を乗せたまま、引きずるように移動したが、予想以上にうまく
行ったという。移動した段階では凶器を刺したままにしていた。移動後、凶器を抜くこ
とで、血を飛び散らせ、犯行現場が仕事部屋だったとかのように見せた。
 ここで予想外のことが起きる。息絶えていなかった玉井が、血文字を残したのだ。漢
字でしっかりと、「白木美弥」と。それは黄色いレンズ越しでも、ある程度は読めた。
 急いでとどめを刺してから、白木は少しの間思案することになった。この血文字をど
うするべきか。当然、読めなくする考えもよぎったが、それ以上に強く脳裏に浮かんだ
のが、推理作家との対談内容だった。短い逡巡の後、彼女は常識外れの選択をしたので
ある。

 蛇足かつ答のない疑問ではあるが、玉井貴理子が死を意識した中、犯人・白木美弥の
名を漢字で残した心理については不明のままだ。
 己が玉井の立場だったらと置き換えて想像してみるに……なるほど、平仮名・片仮名
で書けば簡単に済むだろう。しかし、そこまで冷静でいられるかどうか。普段から書き
慣れている漢字を使ってしまう可能性も、充分にあるのではないか。
 そんな風に思ったが、結局のところ――そういう状況にならないと、分かりそうにな
い。

――終




#482/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/04/28  22:22  (362)
安息日 <上>   永山
★内容                                         19/01/16 22:54 修正 第2版
 愉快犯なんてものは周囲に一人いるだけでも、空恐ろしい。不気味で得体の知れない
存在だ。それが、ここのところ立て続けに複数名が現れたものだから、混沌に拍車が掛
かっている。しかもそのほとんどが、人を殺しても名とも思わない連中らしい。
 まず、僕・百田充になりすましていた千房有敏だが、取り調べに大人しく応じている
そうだ。中卒で働きに出た千房が、どうやって生計を立て、整形手術を行えたのか。そ
もそも、家族は? 色んな疑問も解決した。母子二人の家庭に育った千房だが、生活自
体は困窮していた訳ではない。別れた父というのがIT事業で成功しており、充分な慰
謝料や養育費をきちんと送っていた。千房の人生に狂いが生じたとすれば、中学二年の
春休み。進路をそろそろ決めようかという頃合いに、母親を交通事故で亡くしている。
保険金プラス父親からの送金で、進学に弊害はない。ただ、面倒を見てくれる家族が簡
単には見付からなかった。父親はすでに再婚しており、その相手というのが他人の子供
とは家族になれない質だった。結局、父親からの養育費増額につられた親戚の女が千房
を引き取ったが、放任主義に徹していたという。そんな環境下で、そんな大人達を見て
育った千房有敏の目に、一年上の十文字龍太郎が眩しく映ったのかもしれない。両親が
揃った幸せそうな家に育ち、天才ともてはやされ、パズルの才能を発揮し、実績を残し
ていた十文字先輩に、いつしか嫉妬し、越えてやろう倒してやろうという考えに取り憑
かれた――。一応、こんな形で、千房の件は落着を迎えそうだ。
 次に、瀧村清治の件。いや、瀧村自身はすでに死亡しているので、彼の起こした事件
の未解決部分と、彼が殺された事件についての進展具合。
 瀧村がホテルでの殺人直前に購入したハンディタイプのコンプレッサー、その用途が
はっきりしなかったが、浴室を密室に仕立てるために必要な道具だったことはある程
度、裏付けが取れた。というのも、瀧村はネットカフェや図書館、ホテル等で備え付け
のパソコンを利用していたのだが、そのネット検索履歴を調べたところ、人体の仕組み
や操り人形の構造に興味を示していたことが窺われた。ここからは想像になるけれど
も、瀧村は死体にコンプレッサーの管を突き刺し、空気圧で死体の腕や手を操ろうとし
ていたのではないか。そして死体の手で浴室のドアを、内側からロックさせるつもりだ
った……。こう書くと全くの絵空事に聞こえるが、瀧村は実行しようとしていた。前も
って実験することもできただろう。それなりに成功の確信を持っていたと思われる。
 一方、瀧村殺しに関しては、大きな進展はない。十文字先輩の知り合いである針生早
惠子さんが、瀧村とも顔見知りで、かつ、偽名を称していた瀧村の本名を知っていたと
いう事実が判明した訳だが、それ以上切り込めないでいた。彼女曰く、偽名を知ってい
たのは、瀧村自ら明かしたもので、「ネット上のハンドルネームだよ」と説明されてい
たという。瀧村本人亡き今、真偽の確かめようがない。ただ、瀧村がインターネットで
件の偽名を用いていた事実は、裏付けが取れていた。無論、瀧村はその人物になりすま
していたのだから、偽名を用いるのは当然とも云えるのだが。
 そんな風に、複数の事件が片付いたり継続したり、あるいは進展なしだったりと、あ
る意味名探偵の日常らしい風景が繰り返されていた。
 繰り返しに変化をもたらすのは、十文字先輩が高校生である以上、学校行事であるこ
とが多い。今の季節なら、十月にある体育祭だ。
「百田君は、体力回復しそうなのかい?」
 体育の授業を休んだ僕に声を掛けてくれたのは、クラスメートの音無亜有香だった。
女子だけど、剣道の腕が立つ。それでいて汗臭さとは無縁の、ポニーテール美人だ。僕
の理想とする異性だし、こうして心配されるのは嬉しい。
「まだ分からない。復活できたとしても、あとから加わるのは難しい団体競技なんか
は、出ない方がいいかもね」
「そんな情けないこと云うとは情けない」
 重複表現ぽい云い回しで割って入ってきたのは、一ノ瀬和葉。同じくクラスメート
で、コンピュータ全般、特にプログラミングの才能を認められた学内有名人かつ天才の
一人。海外生活が長かったせいか、日本語に少しおかしなところがあったが、最近はわ
ざとやっている節が窺えなくもない。
「仮にも探偵の相棒にしちゃ、非常にココロモトナインじゃあ、ありませんか」
 ……“ココロモトナイン”てのは、“心許ない”か。猫型ロボットの秘密道具か、新
しい栄養ドリンクみたいなイントネーションで云うから、すぐには分からなかったじゃ
ないか。
「一ノ瀬の体力だって、心許ないと思うけど。後半、行進に着いて行くのもやっとだっ
た」
「あれは前半頑張りすぎて、ペースがちょっぴり狂ったんだよん。次からは修正するか
ら問題ないから」
 元来がインドア派の一ノ瀬にしては、きっぱり否定した。彼女にとって日本の学校の
体育祭は久しぶりになるはずだから、できる限り頑張ろうと決めているのかもしれな
い。
「分かった。それなら、一ノ瀬が予行演習で徒競走三位以内に入ったら、僕も頑張って
全部出るように努力する」
「努力じゃなく、確約してもらおー」
 そんな無茶な。医師の許可がまだ下りてないんだってこと、把握できてるんだろう
か。

             *             *

「早惠子さんの方から連絡をくれるなんて、珍しいですね」
 携帯電話のメールを示しつつ、十文字龍太郎は待ち合わせ場所に現れた。ターミナル
駅の三つ手前、乗降客が多すぎず少なすぎず、駅周辺に店の類は皆無で、人目もさほど
ない。内緒話をするにはうってつけの場所かもしれなかった。
「ありがとう、来てくれて。そんなに珍しいかしら?」
 ベンチから腰を上げた針生早惠子は、制服ではなく私服姿だった。清楚さや純粋さを
アピールするかのような、白のワンピースに鍔広の黄色い帽子。時間帯から云って学校
帰りと思っていた十文字は、少し意外に感じた。わざわざ着替えたのだろうか。
「珍しいですよ。少なくとも、高校生になってからは、記憶にないな」
「そんなになるのね。――どこかに入る? 十分ほど歩けば、喫茶店があったと思う」
「いや。それじゃ、この駅にした意味がなくなるでしょう。一刻も早く相談したいので
は」
 短いメールにあった。「弟のことで相談したい。都合のいい日を教えて」と。
「そうね。じゃ、隣に座って。ちょうど木陰もできてる」
 ベンチの上を覆うように、木が枝葉を広げていた。隙間を通して雲が臨める。
「徹平が死んでからまだみつきと経っていないのに、随分昔のことのように思える……
十文字君はそう感じてるんじゃない?」
「は?」
 てっきり、早惠子が弟・針生徹平の死について感想を述べるのだと思い、聞いていた
十文字は、一瞬呆気に取られた。体勢を立て直し、答える。
「そんなことはない。事件はあれからもたくさん起きたが、彼が亡くなった事件はまだ
謎が残っている」
「つまり、まだ生々しく記憶に乗っているのね。それなら話が早いわ。私も同じだか
ら」
 十文字は何も答えずにいた。姉が弟を亡くしたのなら、普通はそんなものだろう。だ
が、十文字は早惠子が徹平の死に関わっているのではないかと推測したことがある。今
もその疑念は薄まりこそすれ、消えてはいない。もし彼女が犯人であれば、事件につい
て記憶がいつまでも鮮明なのは、ある意味当然ではないか。
「実は私、狙われているみたいなの」
「……まさか狙われているというのは、その、命を?」
「さすが鋭いわね」
 声なく笑ってみせた針生早惠子を、十文字は素早く観察した。緊張や憔悴、あるいは
恐怖や焦りの色が少しずつ浮かんでいるように思えた。こめかみに浮かぶ小粒の汗、髪
の微かな乱れ、唇の小刻みな震え、いつにない早口等々。
「とりあえず、事情を伺いたい」
「ええ。身内の恥をさらすようだし、死んだ徹平を悪く云うようで気が引けるのだけれ
ど、弟は……人の死や殺人を美化するような主旨のサイトに出入りしていたみたいな
の」
「それだけで恥とは云えませんよ」
「かもしれない。けれども、有名な殺人犯のグッズを手に入れようとしたり、毒物の作
り方を調べ上げて得意げに書き込んだりするのは、どうかと……」
「ふむ。徹平のそういった行為を知ったのは、彼の死後? たとえば、彼専用のパソコ
ンの履歴から分かったとか」
「そうよ。ほんと、鋭いのね」
「常道です」
「徹平は元々パソコンを買い与えられていたのに、わざわざ別のノートパソコンを密か
に購入していた。もちろん中古だけど、自分のお金で。殺人関係のアングラなサイトに
は、そのパソコンでのみ接続していたみたい。一応、徹平自身、隠すべき趣味だという
意識はあったのね」
「その二台目のノートパソコンは、どこに隠してあったんです? そして早惠子さんが
いかにして見付けたのか、興味あります」
「――目の付け所が違うのは、名探偵だから? 隠し場所って云うほどじゃなかった
わ。ノートパソコンを持ち運びするためのバッグがあるでしょ。あれの中にあった」
「隠し場所と云えないんじゃあ」
「一台目のパソコン用に、バッグも併せて買ってもらったのよ。その中に、二台目を隠
していた」
「なるほど。買ってやったパソコンが使われているのなら、普通、バッグは空っぽだと
思うという訳か」
 でも、警察が見落とすだろうか。十文字は疑問に思った。
 針生徹平は、殺人事件の被害者として死んだ。当然、警察は被害者についてよく知ろ
うと、周辺を調べたはず。
 十文字はしかし、疑問を飲み込み、本題に戻るべく、相手に話の続きを促した。
 針生早惠子は少し間を取り、話をまとめ直したようだ。
「徹平は殺人アングラサイトに参加する内に、同じ趣味の人達とつながりができ、さら
には本物の犯罪者とも関わるようになったらしいの。そして、そういった連中の一人と
トラブルになっていた」
「どうやって知ったんです? メールや書き込みの痕跡が残っていた?」
 この質問は合いの手のようなもので、当然、肯定の答が返ってくるとばかり思ってい
た十文字だったが、実際は違った。
「ううん。徹平はその辺りも用心深くて、きれいさっぱり消していた。でも、相手から
もメールは来るでしょう? 弟が死んだあとに来たメールは、誰も削除できずに残って
いたわ。片仮名でフラキと名乗ってる」
「そのフラキが、徹平の死を知り、矛先をあなたに向けてきたとでも?」
「そう。おかしなことになってる。こちらから教えた訳じゃなく、向こうがニュースを
見て把握したらしいのだけれど――」
「一つ質問が。徹平はそんなサイトやメールで本名を名乗っていたのですが」
「分からないのよ、それが。フラキの話だと、本名のアナグラムになっていたらしいの
だけれど、どう名乗っていたかは分からないまま」
「なるほどね、アナグラムか」
 パズル好きな徹平らしい。十文字はひとまず納得し、話の続きに耳を傾ける。
「どうやって調べたのか、九月十一日、私のパソコンメールのアドレスに、フラキから
メールが届いたのよ。そいつと弟の間にもめ事があった大まかないきさつを聞かされた
上、『いずれ徹平君の思い上がりを叩き潰してやるつもりだったのに、“勝ち逃げ”さ
れてしまい、気分が悪い。この鬱憤を晴らすには、彼の身内を壊すしかない』という文
章を送りつけられて……」
「警察に届けましたか」
「無理よ。警察に報せたら、犠牲は一人で終わらないとまで云われたのだから」
「それを信じたんですか」
 十文字からすれば、狙われるのが一人から二人に増えたとしても、大した違いではな
いと感じる。当人やその家族にとっては、大問題だとしてもだ。
「信じるしかないでしょう。元の脅迫に、命を狙うとか殺すという意味の表現は使って
いないのだから、ひょっとしたら命までは取らないということかもしれない。相手を刺
激することはないと、家族で決めたの」
「なのに、僕に相談を持ち掛けてきたのは、どういう風の吹き回しです?
「決まってるでしょう、警察じゃないからよ。誘拐と同じ」
「……早惠子さんは結局、何を僕に依頼したいのですか。命を狙われていると本気で恐
怖を覚えているのであれば、何があっても警察に報せるべきだ」
「それでは、依頼は受けてくれないのね。力不足を認めて」
「……」
 相手の挑発的な物言いに、十文字は若干、鼻白んだ。針生徹平が死んだ件で、その姉
への信頼度が弱くなっていたが、ここに来てますます冷めてしまった。もしかするとこ
の度の依頼そのものが罠なのかもしれない、とまで考えた。
「ええ、僕には無理ですね」
 高校生探偵として名を知られるようになって以降、依頼を断ったことがなかった訳で
はない。だが、嫌な予感がするからという理由で断るのは、今回が初めてだ。
「せめてあなたが同じ学校なら、ある程度は目を配れますが、現状ではとても手が回ら
ない。他を当たってください」
 腰を上げかけた十文字。彼の右腕を、早惠子の細い指が掴み止める。
「待って。話を最後まで聞いて頂戴。ずっと警護して欲しい訳ではないのよ。何も起こ
らない内から、犯人――フラキを見付けてと頼むつもりもない」
「ではどうしろと」
 座り直し、肩をすくめる。すると、相手はピンク色の封筒を取り出した。
「フラキを名乗る差出人から、こんな手紙が届いたの。切手が張ってないから、直接、
郵便受けに入れたのかもしれない」
 一旦、破棄しようとしたのか、くしゃくしゃに丸めた痕跡がある。もう指紋には期待
できまい。そう判断した十文字は手紙を手に取ると、ざっと観察した。表には針生早惠
子が宛名として書かれており、郵便番号や住所も記入してある。裏にはフラキとだけあ
った。封筒の口に軽く息を吹きかけ、中を覗くと便箋が三つ折りになって入っていた。
枚数は一枚きりのようだ。早惠子の了解を得て便箋を引き出し、読んでみた。思ったよ
りもずっと短い文面だった。

『おまえの秘密を知っている。
 公にされたくなければ、十月一日午後八時に、下記の住所まで独りで足を運ばれよ。
 指定した日時に姿を現さないときは、秘密を公開するとともに、かねてよりの予告を
実行する。壊れるのは、あなた自身とは限らないことを忠告するものである。 フラ
キ』

 今時珍しく、雑誌や新聞などから切り抜いた文字を貼り合わせて作られている。フラ
キの名のあとに、指定の住所が記されていたが、どこなのかまでは分からない。
 手紙を受け取った当人を見ると、十文字の考えを察したかのように、「うちの高校の
旧校舎があったところよ」と答えた。
「美馬篠高校の旧校舎……ということは、今は使われていない?」
「使われていないどころか、十年以上前に更地になっているはず。だから、行っても何
もないと思うのだけれど」
「その周辺は? 建物があるのか、人通りは多いのか少ないのか」
「詳しくは知らないし、実際に行ったことはないのだけれど、再開発の予定が立ち消え
になったと噂に聞いたわ。だから、寂れてるんじゃないかしら」
 凶行をなすには向いているということか。十文字は顎に手を当て、考え込んだ。
「……腑に落ちない点が、まだいくつかある。徹平を殺した犯人はまだ分かっていな
い。フラキは有力な容疑者になると思う。そのことを、警察に話すつもりは」
「だから、さっきも云った通り。警察に届ける気はないの。少なくとも、脅しの件が決
着するまではね」
「うーん」
「それに、フラキが弟を殺した犯人だとしたら、もう目的を達成してる訳でしょう? 
なのに私達家族を脅してくるなんて、辻褄が合わない」
「それはそうですが……」
 カムフラージュの可能性も検討すべきだろうか。それとも、最前の嫌な予感の通り、
これも含めて全てが何かの罠なのか。
「立ち入ったことを聞きますが、早惠子さん。この手紙にある、あなたの抱える秘密と
は何です?」
「分からない」
 即答した針生早惠子の表情に、くもりはない。何ら隠し立てするようなことはないと
思えた。
「心当たりがないのよ。宛名の間違いかもしれない。でも、聞く訳に行かないし」
「しつこいようですが、何一つ秘密を持っていないんですか」
「莫迦ね。ないはずないじゃない。でも、公にされて本当に困るようなものじゃないっ
てこと」
「おかしいな。それなら、こんな脅迫なんて無視すればよい」
「でもそれは、殺されかねないような文句が書かれてるから」
「そもそも、この脅迫自体、何だか妙な印象を受けたんですがね。『秘密をばらされた
くなければどこそこに来い』と『来なければ命を狙う』という二つの脅しがあって、そ
れぞれ前後の関係になっている。普通、『来なければ秘密をばらす』で完結するものじ
ゃないのか? これだと、フラキの目的は結局はあなたを害することであって、脅迫す
る必要がないんじゃないか? そんな風に思えるのですよ」
「それは……そんなこと云われたって、私が書いたんじゃあるまいし、知らないわ。フ
ラキを掴まえて、聞いてみればいい」
「のりの乾きがまだ完全じゃない」
「えっ、何?」
「この脅迫文の切り抜き、のりで貼り付けてあるみたいだが、まだ完全に乾き切っては
ない感じだ。作られてから、まださほど時間が経っていないような……」
 とぼけた口調で述べる十文字。鎌を掛けてみることにしたのだ。
「念のため、あなたの家を捜索させてもらえませんか。ひょっとしたら、切り抜いたあ
との新聞や雑誌が出て来るかもしれない」
「何を云うの? つまりそれって、脅迫者は私の家族ってことになるじゃない」
「かもしれないし、違うかもしれない」
「そんな」
「僕に依頼するのであれば、まずそこから始めたい。それも今すぐにです。この条件を
受け入れられないのなら、矢張り、依頼をお断りさせていただきます」
「……分かったわ」
 針生早惠子はベンチから立った。
「手間を取らせたわね。この話は忘れてくれていいわ。聞かなかったことにして」
 そう云い残すと、十文字に返事するいとまを与えることなしに、立ち去った。何故
か、駅とは反対向きの方角に。

            *              *

「だめだったわ。話に乗ってこなかった」
 早惠子は電話口で嘆息混じりに云った。相手は無言のまま聞いている。
「謎をちらつかせれば応じると簡単に考えていたんだけれども、甘かったようよ。思い
付きの計画、急ごしらえの小道具では、すぐに怪しいと見抜かれてしまった。特に、切
り抜きの痕跡を指摘されたときは、冷や汗もの」
「やむを得まい。若いとはいえ、彼は名探偵。つきもあるのだろう」
 相手は平板な調子で感想を述べた。本心からの言葉なのか、判断しかねる。
「彼を盾にするつもりだったのに、当てが外れた訳だが、一体どうするね?」
「次善の策――今風ならBプランで行くほかありません。だから……」
「やれやれ。私が行かねばならないのか」
「仕方がありません。決戦の場として指定してきたのが、カップル限定イベントなの
で」
「どういうつもりなのだろう。ホテルで外界とは隔てられた空間とは言え、そのような
人の集まる場に君を招くとは。敵は、君の正体に当たりを付けているのか?」
「恐らく。疑うというレベルを超えていないと、こんな大胆に接触して来ないはず」
「もしかすると、敵側こそ一般人を盾にするつもりなのかもな。こちらは目的のために
は、何ら躊躇することはないというのに」
「無意味、無駄、徒労」
 三つの単語を云う早惠子の口元に微笑が浮かぶ。自分達が好む遊戯的殺人にこそ、無
意味で無駄である種の徒労が含まれていることに気付いたから。
「私達の同好の士を仕留めて回った人物が、今回の敵と同じだとしたら、何故、いきな
り襲って来ず、こうして招待するのかしら」
「探りを入れるため、かもしれないな。君が君の弟と同類なのか否か、敵方は確信が持
てなかったんじゃないか」
「それでは、素知らぬふりを通して、やり過ごすこともできます? 招待に応じるだけ
応じて、何にも知らない芝居をし続ければ、敵は矢っ張り関係ないと思い、何事もなく
帰してくれる、なんて」
「そう甘くはなかろう。こちらから誘いに乗るのなら、最悪を想定して動くべきだ。逃
亡するのなら、徹底して逃亡する」
「でも、私は復讐したい。徹平のためにも」
「理解している。だから協力はする。ただし、万が一にもどちらかが生命の危機に瀕
し、助けようがないと判断したなら、かまわずに見捨てて逃げる。そう決めておく。お
互いのためだ」
「云われるまでもない。了解よ」
 早惠子はもう笑っていなかった。

 針生早惠子との電話を終えた前辻能夫(まえつじよしお)は、自然と身震いをした。
 彼も遊戯的殺人、快楽殺人者の一人である。ただ、実際に人を殺したことは、十年ほ
ど昔に一度きり。専ら、殺人トリックを案出し、他人に提供することで、己の嗜好を満
足させていた。表立った活動をしてこなかった分、その存在を“敵”に察知されにくか
ったのかもしれない。
 そんな裏方である前辻が、再び表舞台に出て来たのは、同好の士が次々に殺害されて
いるからに他ならない。気が付けば、互いに見知っている仲間は、針生早惠子一人にな
っていた。
「彼女にはああいったものの、敵のテリトリーにのこのこ出て行くのは、避けたいとこ
ろだね」
 独り言を口にし、思案顔になる。通話を終えた携帯端末を握りしめたまま、自分の部
屋の中をうろうろと歩き回る。しばらく経ち、部屋の角に置いた姿見にそんな己の姿を
認めて、前辻は我に返った。犯罪計画を考える自分の表情は、こんなにも恐ろしげであ
るのかと、少々驚いた。
 気を付けねばなるまい。他人にこれを見られたら、何事かと訝しがられること必定。
前辻は独り言をやめた。
(こちらから仕掛けて、相手の反応を見るのは、策略としてありだろう)
 狙いを設定し、計画を組み立てに掛かった。

「針生早惠子君。君には死んでもらうことにした」
 前辻がそう持ち掛けると、針生早惠子は彼が期待したようには驚きはしなかった。一
瞬だけ目を見開いたようだったが、あとは淡々としたものだった。
「どのような方法で? それに、どういった目的で?」
 ストレートに聞き返され、前辻は微苦笑を浮かべた。察しがよくて話が早いのはいい
ことだが、面白味に欠ける。
「あまり凝った工作はしない方が、懸命だろう。何しろ、警察だけでなく、殺し屋連中
の検証にも耐えなければならない。シンプルかつ重要そうでない事件ないしは事故に見
せ掛けるのがベストと考える」
「では、交通事故か何かですか」
「いや、交通事故――車だと、事故とはいえ加害者の存在が必要になるからね。高所か
らの転落死がよいと思う」
「高所……ビルとか」
「うん。今、僕の頭にあるのは、ビルの屋上から転落して、下層階の張り出した部分に
叩き付けられて死ぬという形だ。身元が分からない程度に、外見が潰れてもおかしくな
い」
「指紋は?」
「手の方は、ビルの壁面にしがみつこうとした際に、削れてしまったことにしよう。足
の指紋はどうしようもないが、比較できる指紋が残っていること自体、滅多にないだ
ろ? それとも君は、君の足の指紋だと確実に断言できる痕跡を、家の中にでも残して
いるのか?」
「いや、それはない。では最大の問題は、誰を身代わりにするか」
「そうなる。でも、確か君は以前云っていたじゃないか。身近に自分とよく似た背格好
の同級生がいると」
「厳密には今は同級生じゃなく、別のクラスですけどね。宮迫恭子(みやさこきょう
こ)といって、背格好に留まらず、肉付きも似ているし、血液型は同じ。髪の長さも、
あの子が切っていなければ、多分だいたい同じくらい」
「ちょうどいい。どうせ、君も万が一のときは、その宮迫恭子を身代わりにと考え、目
を付けていたんだろう?」
「利用価値はあると思っていたわ」
「利用すべきは今だ。敵陣に乗り込むくらいなら、こちらが死んだと見せ掛けて、敵を
誘き出し、逆襲する方が勝算がぐっと高まる。百パーセントとは云わないがね。ここま
で話せば、君が用意すべき物事も分かるだろう?」
「身元確認を偽装するために、宮迫恭子の毛髪や爪などを手に入れ、私の部屋や学校の
机といった生活圏に、いかにも私の物らしく置いておく。逆に、私の髪の毛などは、丁
寧に取り除いておく。――そういえば、私はどうなるんです? ことが終われば、また
針生早惠子に戻る?」
「うーん、戻ることを願うとは、予想していなかったな」
 前辻は意識してしかめ面を作り、腕組みをした。
「不可能ではないが……そのまま消えてしまう方がずっと楽だろう」
「願ってる訳じゃありません。戻らなくてもいいけれど……十文字龍太郎とは接点を持
っておいた方がいいと考えていたものだから」
「なるほど。彼の存在は、遊戯的殺人のやり甲斐をアップしてくれるね。まあ、いいじ
ゃないか。名探偵は彼だけじゃないし、改めて知り合うことだってできるさ」
「分かりました。残る問題は、一つだけ」
 ウィンクする早惠子に、前辻は意外なものを見る目つきになってしまった。
「何かな?」
「前辻さんの計画にしては、ちっとも遊戯的殺人らしさがないわ」
 なるほど。これは再考の余地ありかもしれないな。
 前辻は笑みを浮かべると、腕を組み直した。

――続く




#483/598 ●長編    *** コメント #482 ***
★タイトル (AZA     )  16/04/29  00:02  (324)
安息日 <下>   永山
★内容                                         16/12/07 04:44 修正 第3版
             *             *

 その光景を見た者がいたとすれば、摩訶不思議な現象に映ったかもしれない。
 夜の闇の中、街灯の光を部分的に浴びて、高校の女子制服姿の人間が仰向けに横たわ
った姿勢のまま、するすると上がっていく。その人物はぴくりともしない。時折強くな
る風に、スカーフやロングヘアが揺れる程度だ。
 天を目指しているかのようだったが、上昇は突然止まった。建物――ビルの屋上の高
さまで来ると、今度は横移動を始めた。屋上の縁に近付いたところで、腕が伸ばされ
た。人の手により、若い女性の身体は空中から屋上の敷地内へと引き込まれた。
 ここで絡繰りが明らかになる。よく見ると、棒――もしくは枠、あるいは台と呼んで
もいい――が女性の身体を支えていたことに気付く。マジックにおける人体浮遊と原理
は同じ。細くて見えづらいが丈夫なワイヤーを数本、女性の身体の背中側から脇を通っ
て前に回し、引っ張る。それだけだ。ただし、上昇のための動力は、ワイヤーを滑車に
通し、人力とスマートヘリによって引っ張り上げていた。滑車は、元々あった広告設置
のための物を利用した。
 若い女性をビルの屋上に引き込んだ人物は、待機していたもう一人の人物にバトンタ
ッチした。あとを継いだ人物は、今し方空中浮遊をしてきたばかりの女性と同じぐらい
の年齢で、矢張り女性だった。
「まだ死んでいない」
 彼女は僅かな驚きを含んだ声で呟くと、注射器を手に取った。


             *             *

「四日前に都内の空きテナントで見付かった女性の遺体、身元判明したって載ってるよ
ん」
 丸めた新聞紙を振りながら、一ノ瀬和葉が僕らの方にやって来た。
 僕らとは、僕・百田と十文字先輩のことだ。場所は校内のカフェテリア。一ノ瀬のお
ば、一ノ瀬メイさんに会うため、放課後ここで待ち合わせすることになっていた。
「一ノ瀬君でも、紙の新聞に目を通すなんてことがあるのかい」
 今の世の中、必要な情報をネットで調べ、集めるという人は多いだろう。が、一ノ瀬
はコンピュータを手足のように使いこなす割に、意外とアナログなところがあるし、古
い物を大事にする傾向もある。同級生ではない先輩には分からないかもしれないが、一
ノ瀬が新聞を読んでいても不思議じゃない。
「あれれ? 前、この事件の第一報を少し気にしてたはずだけど、その様子だと、まだ
知らない?」
 事件そのものは、僕もしっかり記憶している。遺体が見つかったのは、駅にほど近い
雑居ビル。再開発が狙い通りに進んでいないらしく、テナントがいくつも空いていて、
どちらかというと寂しい区画だ。そんな空きテナントの屋根で、女性の遺体が見つかっ
たのだ。
 テナントの屋根なんて書くと、そのテナントが最上階にあるみたいに聞こえるだろう
けれど、実際は違う。件の雑居ビルは、何フロアか毎に階段状になるように作られてい
た。正確な数は知らないが、たとえば一階部分は五部屋、二階が四部屋、三階が三部屋
という風に、上になるほどフロアのスペースが狭くなる設計だ。遺体が見つかったテナ
ントは五階にあり、そこから上は最上階の十階まで直方体を縦に置いた形になってる。
各階の窓は開かないが、十階の更に上、屋上から見下ろせば、五階テナントの屋根が覗
ける訳だ。
「生憎と、今日の夕刊を手に入れる機会はなかったし、ネットにも触れていないから
ね」
「五代先輩も知らせてくれなかったんですね?」
 テーブルにもたれかかるような勢いで着席した一ノ瀬は、念押ししてきた。
 五代先輩は警察一家の生まれで、高校女子柔道の実力者。十文字先輩とは幼馴染みの
仲で、時折、捜査の情報をもたらしてくれる。
「ああ、何も聞いてない」
「じゃあ、ひょっとしたら同姓同名の別人かにゃ? 知ってる人だと思ったけど、写真
が出てる訳じゃなし」
 深刻な状況から解放されたかのように、口調が軽くなる一ノ瀬。その手から新聞が十
文字先輩に渡された。一ノ瀬の云ったページはすでに開いてあり、先輩は受け取ってす
ぐに記事の内容を把握できたはず。
「――信じられない」
 表情が強ばっていた。見た目にも明らかに動揺が浮かんでいる。十文字先輩のこんな
態度は、初めて目の当たりにした。
 僕はここで初めて記事に目をやった。先輩の肩越し、斜め上から覗いてみる。そこに
は、四日前に発見された身元不明遺体が、針生早惠子さんだと特定された旨が書かれて
いた。
 結果、メイさんと会うのは延期になってしまった。

 十文字先輩は熟考の上、自ら動きははしないと決めたようだった。
 あとから知らされたのだけれど、先輩は一週間前に早惠子さんと会っていた。用件の
詳細は教えてもらえなかったが、掻い摘まんで云うと早惠子さんから身辺警護を依頼さ
れたらしい。しかし真実かどうか疑わしいとの理由で、依頼を拒否した。
 そのことが、この殺人に直結したのかどうか、定かではない。表面上の出来事を素直
に解釈するなら、十文字先輩が警護を拒否したことで、早惠子さんは殺されやすい立場
に置かれ、実際に命を奪われた、となるが……ここに来てまだ、高校生探偵は旧友の姉
を全面的には信じていないのだ。
 全てが罠だとすると、こちらから動くのは得策でない。そういった判断により、早惠
子さんから警護を頼まれた事実を、警察にすら話さないと決めた。
「無論、二つのグループの抗争により、殺害されたという目もある」
 先輩は二人でいるとき、そう説明した。
「以前に話したのを覚えているか? 遊戯的殺人を好んで行う連中が、逆にここ最近で
何名か殺されている。もしかすると、殺人を職業的に行う連中、要は殺し屋が遊戯的殺
人者を邪魔な存在として片付けているのかもしれないと。今度の針生早惠子さん殺しが
本当なら、殺し屋に始末された可能性はある。確証のない、単なる仮説だが」
 もしそうだとすると、早惠子さんが助けを求めたのも、事実、殺し屋を恐れていたか
らとなる。
「でも、そう易々とやられるものだろうか? 前触れなし、不意打ちを食らうのなら話
は違ってくるが、“同好の士”が殺されたことを知っていたはずだし、脅迫文まで受け
取ったのだから、警戒したに違いない。人殺し仲間が皆無だったとも思えない。だから
――だから僕は、この件は遊戯的殺人者側の策略だとみている。下手に動いて流れを壊
すよりも、しばらく静観して、両者をあぶり出すのが得策だ。その上で、誰も犠牲が出
ないのが最善だが、それは高望みかもしれないな」
 こうして、パズルの天才にして名探偵の十文字龍太郎は、一時的に手を引くことを宣
言した。

             *             *

 八神蘭は通常、調査などしない。巡ってきた依頼をこなすだけだ。もちろん、仕事の
現場において、移り変わる状況に即して判断が必要となることは多々あるが、それを調
査とは呼べまい。
 だから今回は特別だ。仲間内のネットワークを通じて、ある人物の正体を探り出すこ
とを込みで始末を頼まれ、引き受けた。引き受けたのには理由がある。そのターゲット
が、自分の周辺にいると予想できたし、正体を隠したままターゲットに接近すること
も、他の者と比べて八神なら容易に可能だったから。
 そもそも、この面倒事の発端は、殺し屋側にいた万丈目が、遊戯的殺人に手を広げて
しまったことにある。趣味に走るのなら走るでこっそりやればまだ見逃せたが、万丈目
は大っぴらにやった。彼自身が利用する電車の沿線でばかり被害者を物色していては、
いずれ警察に捕まるのは火を見るよりも明らか。逮捕された万丈目の口から、殺し屋の
情報が漏れる危険性があった。その恐れを断つためにも、万丈目を早急に処分する必要
があった。その刺客として白羽の矢が立ったのが、八神だった。万丈目の表の職業は高
校の教師。八神は学生に化けることで――いや、化けなくても現役の高校生なのだが―
―、簡単に万丈目へと接近でき、目的を達成した。
 その過程で、高校生探偵を気取る十文字龍太郎や一ノ瀬和葉、音無亜有香らを知っ
た。十文字の周辺を観察していれば、他にも遊戯的殺人者が網に掛かるかもしれない。
そんな目算は、見事に当たった。針生徹平を始めとする“該当者”について、八神は仕
事仲間に知らせた。誰が始末したのかは聞いていないし、興味はない。
 現在、八神の関心は針生早惠子に向いていた。弟に次いで姉までも遊戯的殺人者であ
るなら、一度に片付けるべきだったと思うが、今さら悔いても仕方がない。少し前まで
確証がないどころか、針生早惠子は全く尻尾を出していなかったのだ。針生徹平が死
に、さらに鎌を掛けられたことで、ようやく隙を見せたと云える。
 前辻能夫と接触を持ったことは、既に把握していた。この男もまた、遊戯的殺人者の
嗜好を直隠しにして生きてきたようだった。殺し屋の側でも、前辻とつながりのある者
は何人かいた。依頼された殺しの実行が困難なとき、金と引き替えにうまい方法を案出
してくれるのが前辻だった。いつの頃から遊戯的殺人にまで手を染めるようになったの
かは、判明していない。
(前辻の方は、始末するには惜しいという声が上がっているが……こちらの身に危険が
及ばぬ限り、私も前辻には手出しすまい)
 方針は決めている。ただ、一線を越えたかどうかの基準はフレキシブルだ。あまりが
ちがちにラインを設け、いざというときに命を落としては元も子もない。臨機応変、柔
軟に対処できる必要がある。
 八神はふと、思考を止めた。目を付けていた人物がアパートから出て来たのだ。張り
込みを開始した時点から、神経を研ぎ澄ませていたが、雑多な思考をやめることで更に
磨きが掛かる。信条を異にするとは云え、敵もまた殺しのエキスパートであることは間
違いのない事実。油断禁物である。
 八神は追跡を五分ほど続けた。ひとけが全くない路地に入り込んだ時点で、一層、緊
張感を高めた。
 正直云って、あとを付けている相手は、さほど怖くはない。相手――前辻能夫の実技
は、八神のレベルに全く達していない。恐れるとしたら、前辻の助っ人だ。現れるかも
しれないし、現れないかもしれない。この場に助っ人が来たとして、いきなり襲ってく
るか、どこかで観察をするかも分からない。
 一本道の先に、神社が見えた。時刻は夕方に差し掛かり、辺りは暗くなってきた。
 八神は自ら動くことにした。
「前辻能夫」
 いつでも最終手段が執れる体制を整えた上で、相手の名前を呼んだ。距離は十メート
ルほど。
 前辻は背中をぴくりとさせ、足を止めた。振り返らない。
「前辻さん。申し開きがあれば聞こうと思う。このあとどうなるかは、そちらの気持ち
次第だ」
「君の名前は?」
 乾いた声で質問が来た。まだ背を向けたままだ。それを知っていながら、八神は首を
横に振った。
「残念ながらその要望には添えない」
 万が一に備え、日常的にしているソバージュを解き、化粧で年齢を高く見せ、靴は若
干上げ底にした。突発事に対処できるだけの動きを確保しつつ、変装をしたのに、あっ
さり名前を明かせるはずがない。八神は話を戻した。
「早く意思表示をしてもらいたい。人が通り掛かると、面倒になる」
「君は……普通の人ではないのだね?」
 ここでようやく振り返った前辻。色つきの丸眼鏡を掛け、無精髭を生やし、頬はやや
こけている。手足が長いせいか、痩せて見える。実際、血色はよくないようだ。
 八神は前辻の大まかな問い掛けに、黙って首肯した。
「話のしやすい場所に移動する気はないのか、あるのか?」
「待ってくれ。まず、一つ教えてもらいたい。針生早惠子君を知っているか?」
「知っている」
 その件で来たのだとまでは答えないが、恐らく前辻も察知しているであろう。
「彼女と連絡が取れなくなっているのだが、君達の仕業か?」
「これはおかしな話を。あなたが彼女の死を演出したのでは」
 八神は敢えて意地悪く尋ね返した。
「そう。その通りだ。彼女の死を演出しただけで、本当に殺してなんかいない。死んだ
のは、別の女子高生のはずなのに……連絡が取れない」
「……」
 どうやら前辻は計画を立てただけで、現場には立ち会わなかったようだ。八神はそう
推測した。
 似ているからというだけで殺されかけた宮迫恭子を助け、代わりに針生早惠子を葬っ
ておいた。前辻の計画通りに、ただ死んだのが宮迫恭子ではなく、本物の針生早惠子だ
ったというだけのこと。
 尤も、宮迫恭子を救えたのは偶々運がよかったに過ぎない。八神達のグループからす
れば、針生早惠子の処分が目的で、あとは取るに足りないことだ。ただ、無駄な死を防
ぐチャンスがあれば、積極的に動く。遊戯的殺人の否定につながるからだ。殺し屋が人
命救助をすることがあっていい。
「針生早惠子は、もうこの世にはいない。前辻さんの計画は途中で座礁した」
「……そうか。それで君は、私も始末しに来た訳だ」
「さっきも云った通り、どうなるかはそちら次第。あなたの立案能力を買っている者
は、こちら側にも結構いるということです」
「なるほど」
 前辻の表情に、安堵の色が少し浮かんだようだ。陽光の具合で分かりにくいが、希望
を見出したに違いない。
「ありがたくも勿体ない話だが、果たしてどこまで信用できるのだろう? 確か、万丈
目と云ったかな? 彼は元々そちら側の人間だったが、趣味に走ったばかりに始末され
たと聞いている。彼に、申し開きのチャンスを与えられなかったのか?」
「あれは、大っぴらにやり過ぎた。早急に片付けなければ、我々全体に悪影響が及びか
ねなかった。私が云うのもおかしいだろうが、そちら側の連中にも助かった者がいるの
ではないか」
「理屈は通っているという訳だな」
 そう答えつつ、考える風に首を傾げる前辻。何かを待っている様子ではない。軍門に
降るべきか否か、真剣に検討しているように見える。
「条件を出せる立場でないと分かっているが、敢えて云わせてもらいたい」
「――決定権は私にはないが、聞くだけ聞こう」
 人目を気にせずに話せるよう、場所を移したいのだが、前辻の警戒心はまだ完全には
解けていないらしい。なかなか動こうとしない。
「ある人物に関する情報を持っている。そちらにとっても重要な情報だ。それを手土産
に、この前辻の地位をある程度高いものにしてくれると保証してもらえないか」
 そのような権利は自分にはないし、興味もない。そもそも、一流企業のようなきっち
りと体系だった組織が作られている訳ではないことぐらい、前辻自身承知のはずだろう
に。
「ある人物とは誰?」
 それでも現時点で相手から引き出せる情報は得ておこう。八神は聞いた。
「そちらから云わせれば、遊戯的殺人者の親玉、かな。不可能犯罪メーカー、冥府魔道
の絡繰り士」
「冥、ですか」
 噂に聞いたことはある。文字通り神出鬼没の怪人物で、冥の仕業と思しき犯罪が日本
各地で起きている。ほんの一時期、隣の幌真市で立て続けに殺人を起こし、人前にも姿
を現したが、捕まることなくすぐにいなくなったという。遊戯的殺人者の親玉とはぴっ
たりの呼称で、冥は中でも劇場型犯罪を好む傾向があるらしい。不可能犯罪を大衆に披
露する、そんな感覚なのだろうか。
「前辻さんは冥と会ったことがあると?」
「二度だけ。電話でも二度ほどある。ただ、こちらからつなぎを取るのは無理なんだ。
でも、いくらか時間をもらえれば、より詳しい情報を手に入れられる。正体を掴むのは
厳しいが、冥が次にどこで何をやらかそうとしているか、とかなら」
 八神は沈思黙考した。魅力的な話である。冥を捕らえるか殺すことが叶えば、遊戯的
殺人者達は勢いを失うだろう。結果、殺し屋の仕事もやりやすくなる。遊戯的殺人者の
側に寝返っていた面々も、戻ってくるかもしれない(同業者が増えすぎるのは、八神と
しても歓迎したくないが)。
「今、冥について知っていることを、全て話してもらいたい。情報を持ち帰って、上に
諮るとしよう。それができないのであれば、これから一緒に来てもらい、直接話すか
だ」
 八神が提案すると、前辻は表情を曇らせた。いや、最早辺りは帳が降りつつあり、相
手の顔はほとんど見えない。気配や雰囲気で感じ取っただけである。
 やがて前辻は、決断を下したかのように気負った声で云った。
「冥の声を録音したディスクがある。それを取りに行きたい」
「ならば、同行しよう」
 八神が歩を進めると、前辻は後退した。
「だめだ。まだ完全に信じ切れていない。音声データの他にも、もう一つ手掛かりがあ
る。それも同じ場所に隠してあるんだが、自宅ではない」
「隠し場所を知られたくないということか」
 八神はつい、舌打ちした。ここで無理強いしても、埒は明くまい。かといって、前辻
を一人で行かせるのも不安要素が多い。逃げられでもすれば、その失敗はいつまでも八
神のプライドを傷付けるだろう。
「――前辻さん。もしあなたが約束を違え、戻ってこなかった場合、あなたが冥を我々
に売ろうとしたことを、冥に知らしめる。冥はネットのチェックを欠かさないそうだか
らな。ネット上に噂を流せば、じきに冥は把握する。噂の真偽がどうであろうと、冥は
あなたをただではおくまい」
「……かまわない。そうだな、午後八時にこの場に戻ってくる。まだお疑いなら、味方
を大勢引き連れてくればいい」
 どうにか合意にこぎ着けた。普段、し慣れていないことをやると、肉体的にも精神的
にも強く疲労する。八神は改めて実感した。

 だが、前辻能夫は二度と姿を現さなかった。

             *             *

 体育祭のリハーサルを終え、僕らは街のファミリーレストランに来ていた。先延ばし
になっていた、一ノ瀬メイさんとの再会を果たすためだ。
 約束の時間にはまだ早いが、先に来て好きな物を食べていていいとメイさんから云わ
れていたので、遠慮なく注文する。
 僕らというのは、前と違って今日は四人に増えている。僕・百田と十文字先輩、一ノ
瀬和葉に、音無亜有香が加わった。
「ご心配をお掛けしましたが、どうやら体育祭には間に合いそうです。一ノ瀬の順位に
関係なく」
 そう報告すると、先輩は嬉しそうに目を細めた。本当に心配してくれていたんだと、
改めて分かる。ちらと横の席を伺うと、音無も同様に安堵の笑みを浮かべていた。憧れ
の女子にこんな反応をされると、天にも昇る心地になる。いやまあ、純粋に心配されて
いただけなのだが。
「朝一番に復活宣言を聞いちゃったから、気合いが入らなかったよん」
 一ノ瀬がこう言い訳するのは、もう何度目だろう。予行演習での徒競走で、彼女は結
局五位になった。七人中の五番目だから、一ノ瀬としては大健闘と云えるかもしれな
い。
「ところで十文字先輩。しばらく探偵を休んでる間に、大きな事件が起きましたね」
 僕が話題を振ると、しかし先輩は特に気のない風にふんふんと頷くばかりだった。
 高校生名探偵を自認する先輩が、あの事件に興味を抱かないはずがない。にもかかわ
らず、今のような反応をするのは、針生早惠子さんの事件が影を落としているのだろ
う。十文字先輩はまだ、早惠子さんが殺された件に関して、何ら行動に移していない。
少なくとも、僕の知る範囲では。
「多分ニュースで見た事件だと思うが、詳しくは知らないな。百田君、話してくれない
か」
 音無に促され、掻い摘まんで伝える。
 その殺人事件が起きたのは三日前。被害者は男性で、午後四時から同六時の間に死亡
したと推定されている。発覚は同じ日の午後八時十五分で、身元や死因はまだ判明して
いない。年齢は三十から四十辺り。手足が長く、やせ形だが、胴回りは結構だぶついて
いた。肌に日焼けが見られないことからも、あまり出歩かない生活をしていたと考えら
れている。
 重要かつ名探偵が興味を惹くであろう事柄は、その死に様だ。端的に表現するなら、
遺体はばらばらにされていた。頭、両腕、両足、胴体に切断され、更にそれぞれが二つ
に切り分けられていた。頭は左右に割られ、右腕は手首から、左腕は肘から、右足は膝
から、左足は踝から、そして胴体と腹部に切断されていた。都合十二の部位に分割され
ていたことになる。
 発見された場所も異なっており、頭部は私立大学に隣接する学生寮の駐車場に無造作
に置かれ、腕はスポーツジムの裏口にある青のごみバケツに放り込まれ、足は商店街に
ある古着屋の試着室に立て掛けられ、胴体は山道のすぐ脇に積み重ねられていた。いず
れも防犯カメラのない場所だった。
 不可解な点は他にもある。死亡推定時刻に入っている当日午後四時頃、市内で被害者
の目撃情報が複数出ているのだが、距離を考慮するとあり得ないほど離れているとい
う。ワイドショーの解説によると、目撃場所と遺体発見場所は最大で車で五時間を要す
るほど離れているとか、同じ時間に二箇所で目撃されているとか、俄には信じがたい話
が出回っている。
「――聞きかじっていた以上に陰惨な事件だ。まともな理由があって起こした殺人なの
だろうか」
「さあ。僕に問われても……」
 十文字先輩に目をやると、多少は興味を持ったらしく、一ノ瀬に何やら検索を頼んで
いた。端末を触る一ノ瀬が、何らかの結果を表示し、先輩の方にその画面を見せる。
と、そのとき、一ノ瀬がひょいと首を伸ばし、レストランの出入り口の方を向いた。
「来た! メイねえさん、こっちこっち!」
 遅れてドア方向に視線をやると、一ノ瀬メイさんの姿があった。白のTシャツに緑と
黄のタンクトップを重ね着し、下は細いジーンズが足の長さを強調している。確かに目
立つ人だが、出入り口に背を向けていた一ノ瀬和葉がいち早く気付いたのは、さすが親
戚、血縁のなせる業と云うべきか。
 挨拶のあと、「相変わらず、お綺麗ですね」と云うべきかどうか僕が迷っている(音
無がいるから)と、当のメイさんが「相変わらず――」と口火を切ったので、びっくり
した。
「相変わらず、殺人が多いようだね、君らの周りには」
「ええ」
 十文字先輩が居住まいを正した。メイさんは音無からメニューを受け取りながら、十
文字先輩の話を待っている。程なくして、先輩が尋ねた。
「殺人事件が多いことと関係しているかもしれないんですが……メイさんは何か噂を聞
いていませんか。職業的殺し屋のグループと遊戯的殺人者のグループが争っている、と
いうような」
 メイさんはちょっと唇を尖らせ、検討するかのように二、三度首を縦に振った。それ
からウェイターを呼んで、注文を済ませた。ウェイターが立ち去ったあと、声を潜めて
高校生探偵に答える。
「殺し屋のグループについてはあまり知らないが、遊戯的というか愉快犯というか、そ
の手の殺人者に関してなら、情報がある」
 お冷やを呷り、続ける。
「そいつは私がずっと追っている相手でもある。腹立たしいことに、名前の読みが私と
同じなんだ」

――終わり




#484/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/07/31  21:47  (  1)
アイドル探偵CC <前>  永山
★内容                                         20/12/31 10:24 修正 第4版
※都合により一時非公開風状態にします。




#485/598 ●長編    *** コメント #484 ***
★タイトル (AZA     )  16/07/31  21:48  (  1)
アイドル探偵CC <後>  永山
★内容                                         20/12/31 10:24 修正 第4版
※都合により一時非公開風状態にします。




#486/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/08/30  22:50  (364)
崩れる欲望の塔 <前>   永山
★内容
 退屈さのあまり、盛大にあくびをしたところで、ドアをノックする音がした。
「こちらは探偵の江口さんの事務所で間違いないでしょうか。ご依頼したいことがあ
り、伺わせてもらったのですが」
 続いて聞こえてきた声は、なかなか渋く、落ち着いていた。年齢層は絞りづらいが、
豊年(中年の別の言い方として提唱されるも、定着しなかった用語だ)なのは間違いな
い。
 江口は目元を指先で拭うと、咳払いをして喉の調子を確かめた。
「どうぞ。開いております」
 回転椅子を軋ませ居住まいを正し、待ち受ける。
「失礼をします」
 ドアを開けて軽く一礼して入ってきたのは、一見すると人品卑しからぬ紳士。身長1
70センチ前後、グレーのスーツを着込んだ身体は恰幅よく、胸板の厚さは昔スポーツ
をやっていたと思わせる。小さな目と鼻髭が特徴的。後ろに撫で付けた髪は豊かで、白
髪はほとんどない。ただ、顔の肌および皺から五十代半ばと推測された。
「そこのソファにお掛けください。生憎、助手は外出しており、何もお出しできません
がご勘弁を」
 事務机を離れた江口は、自分もソファに収まる前に、ドアの方を指差した。
「施錠した方がよろしいでしょうか」
「はい?」
 唐突な質問と感じたのか、訪問者は初めて頓狂な声を上げた。が、すぐに意味を理解
したようで、「ああ、鍵ですか。念のため、掛けておいてもらいましょう」と答えた。
 言われた通りにすると、江口は訪問男性の前に座った。間にはテーブル。その上には
ガラス製の灰皿がある。
「ご用件を伺う前に、どちらでここのことを?」
「『捲土重来』というバーで飲んでいるとき、どこかクラブから流れてきたらしいグ
ループ客が入ってきて、彼らの会話が耳に入ったのですが……ここは紹介状が必要なの
で?」
「いえいえ、そのようなことはありません。積極的な宣伝広告は打っていないので、ど
うやってうちに辿り着かれたのか、気になるのです」
「はあ、それならよかった」
「さて、ご依頼は? わざわざうちを選ばれたからには、ご存知と思いますが一般部門
か、それともAV部門でしょうか」
「その、後者の方です」
 男性は少し俯き、早口で言った。
「どうしてもちゃんと観てみたい、AVがあるのです」
「なるほど。詳しい話を聞かせてください」
 江口は受付用の紙を取り出し、メモを始める構えをした。
 眼前にいるような紳士がAV部門の依頼を持ち込むことも、もうすでに意外には感じ
なくなっていた。

「サイトを持てとまでは言わない。せめて、メールぐらい導入しましょーよ」
「いや、何だかな。簡単手軽に依頼できるシステムがあると、捌ききれなくなる」
 江口は数字をメモすると、計算機のアプリを閉じた。
「特に、AV部門に依頼が殺到するかもしれない」
 江口は探偵を生業としている。推理小説に登場するような、殺人事件を主に扱う探偵
だ。だが、それだけでは生活が成り立たないので、副業としてこれまた探偵――アダル
トビデオの探偵をやっている。依頼者が朧気にしか覚えていない、でもどうしても観て
みたいアダルトビデオ作品を特定する。そして希望があれば、入手方法も示唆するのが
主な仕事だ。
 と言っても、江口の知識はたいしたことない。自身が興味を持っていた昭和時代が中
心で、それよりあととなると守備範囲に入るのはせいぜい一九九五年辺りまで。加え
て、真っ当なアダルトビデオしか見てこなかったため、裏物はほぼ分からない。また、
レズやゲイ、スカトロといったジャンルはたとえ表の作品だったとしても、全く詳しく
ないどころか、見ると気分が悪くなってしまう。SM物でも血が出るようなのはだめだ
し、強姦物はあまり真に迫っていると途中で停止する。
 かように一般市民的な江口には、何名かサポーターがいる。その内の一人が、助手の
占部あきらだ。さっきメールぐらい導入しよう云々は、占部の台詞。若いくせに結構詳
しい。若さ故の好奇心と言える。ただし鑑賞経験はさほどなく、ネットを駆使してデー
タとして把握している。ジャケット写真を見れば、たとえその作品を知らなくても制作
年をプラスマイナス一年の範囲内で言い当てるという特技?の持ち主だが、今のところ
役に立った経験はない。
「殺到して欲しい〜。ここのところ、両部門とも依頼がさっぱりないじゃないのさ」
「しばらく困らない程度には稼いだはず。この間の、満田蔵之介氏からの依頼をこなし
て、礼金を弾んでもらっただろう」
 満田蔵之介はIT業界で成功した事業家・投資家で、江口の上得意でもある。金を持
て余したのか、それとも元々性的欲求が強いのか知らないが、五十才にしてアダルトビ
デオのソフトを密かに集め始めた。それも、本人が中高生の頃に見て印象に残っている
作品を中心に。
 中学生や高校生でアダルトビデオを見たとは、ネット全盛の昨今ならまだしも、昭和
五十年頃では難しいはず、と感じた向きもあるかもしれない。だが、当時はある意味非
常におおらかな時代であった。地上波で、アダルトビデオが流れていたのだ。無論、作
品を丸々流すことは滅多になかったが(「滅多に」という注釈は、とある噂に因る。某
ローカル局が誤ってオンエアしたことがあるらしい)、深夜のアダルト番組の一コー
ナーとして、アダルトビデオのダイジェストを流して紹介するのは当たり前のようにあ
った。一度に紹介するのは2〜3作品。長さは五分程度で、見せ場となる“よいシーン
”が含まれている。いいところで切れるのもお約束。
 そんなお預け状態の映像でも、普通の中高生には刺激的で、強烈に印象に残ることも
あろう。でも、夜遅くに音量を下げたテレビの前で一人スタンバイし、「今週はどんな
エッチなビデオが紹介されるんだろうか」とわくわく?して待ち構えている青少年が、
将来を見越して作品のタイトルやメーカー名、女優名なんかをわざわざメモに取るだろ
うか。いや、取らない。好みの女優の名前ぐらいは覚えることもあるだろうが、その他
のデータは雲散霧消。残るのは、印象深いシーンに決まっている。
 さて、成長した元青少年は、ふと思い立つ。あのときのアダルトビデオの全編を見て
みたい、と。だが、脳裏に染みついたように残る作品のデータ全てを思い出すのは不可
能だ。断片的な記憶を拾い集め、そのプレー内容で検索してみても、世の中には同じ趣
向の作品なんて星の数ほどあろう。
 大っぴらに問い掛けてみるのも一つの手かもしれない。ネットの掲示板なり質問箱な
りで、これこれこういうシーンのあるアダルトビデオご存知ありませんか?って。確実
に見付かるとは限らないが、期待はできる。ただ、いい年した大人になると、こういう
質問をネットに書き込むことに、慎重になるものだ。個人情報の流出が頻発する昨今、
怖くて書けやしない。
 そんな大人を手助けしようとの趣旨で開設されたのが、江口探偵事務所のAV部門。
千客万来とはとても言えないが、口コミで一定の利用者が現れる。ただ、部門設立のき
っかけは、警察の人が持ち込んだ依頼だった。
 元から顔見知りだった多倉刑事は当時、連続絞殺事件の捜査に携わっていた。三人の
被害者は若い女性ばかりで、遺体発見時、いずれも本人の物ではない服を着用してい
た。関係を持った男がプレゼントした服だと推測されたが、それにしてはおかしな事実
が浮かび上がった。どの服も既製品ではあったがデザインが古めかしく、一九八八年辺
りの物だと判明。実際、販売ルートを探ってみると、既に新品・正規品としては流通し
ておらず、オークションやバザー、リサイクルショップの類でしか見当たらないだろう
と考えられた。そういった衣服の入荷照会は困難で、地道に聞き込みを続けるも成果が
上がらないでいた。行き詰まった多倉刑事は、江口を訪ね、何の事件かは明かさずに、
かつ、さもうっかり見せてしまったかのように振る舞って、遺体や凶器の写真及び現場
周辺の簡単な地図を示した。いつものことなので江口も承知の上で、意見を述べる。
「この人達って……どこかで見たような」
「見た? 見たって、まさか江口君。被害者の中に知り合いがいるってのか?」
「そうじゃない。そうじゃないのは明らかなんですが、記憶に残ってる。個人の顔とか
ではなく、全体の印象が……あ」
 ふわふわと頼りなく漂っていた記憶の断片を掴まえた。江口は刑事の顔を見て、若
干、顔を赤くした。
「僕も若い頃、人並みにアダルトビデオは見ました。ま、何を持って人並みと判断する
のかは横に置いておきます」
「何を言い出すんだ?」
「彼女ら被害者は、どれもアダルトビデオのパッケージ写真を模倣しているんじゃない
かと思います。この写真、発見時のままを撮影したんですよね?」
「ああ、そうだと聞いている」
「ポーズを取らせている節がある。大きく開脚して右手で髪をかき上げたり、何かに両
腕をついて腰を突き出したり、胸を強調するように自らを抱きしめたり」
「確かにそうだが。しかし、こんなポーズ、アダルトビデオなら極当たり前にあるんじ
ゃあないか?」
「独創的ではないかもしれませんが、服のデザインや色まで一致しているのは、偶然で
は片付けられないでしょう」
「言ってる意味が分からん」
「この被害者達の格好は、一人の監督が撮った特定のシリーズのパッケージ写真を模し
ているのだと思います」
「ええ? ……そんなことが言えるとは、江口君は意外と助平なんだな」
 信じていないのか、多倉刑事は茶化すように言い添えた。江口は真顔で応じる。
「若い頃に見たアダルト作品は、強い印象を残すものです。それに一つ、傍証を挙げま
しょうか。えっと、確か、**シリーズの、監督名が出て来ないな。一人の監督が撮っ
たのは間違いないんですが。とにかく、このシリーズは行為の最中に首を絞めるプレイ
が必ずあるんですよ」
「うむむ。分かった、調べてみよう。だが、こんなことが手掛かりになるかね」
「衣装を揃えてるんですよ。犯人の執念というか執着を感じませんか。恐らく作品にも
拘りを持ってコレクションをしている。ネットで購入していたら、辿れるんじゃないで
すか? それにシリーズは確かあと四作ありました。次の犯行の準備をしているのだと
したら、警察側が先手を打つことだってできるかもしれない」
「なるほどな」
 結果的に、この江口の気付きが端緒になって、犯人は捕まった。ちなみに、男女の二
人組で、男の方の性的欲求及び殺人衝動を満たすために、女が手伝っていた。衣服の購
入も二人が手分けして行っていたため、簡単には把握できなかったという。

 きっかけは大事件で、ある意味なかなか華々しいスタートを切った訳だが、その気に
なってAV部門を起ち上げて以降は、刑事事件に結び付くような依頼はほとんどない。
あっても多倉刑事を通じた持ち込みで、見返りは金一封程度。稀にまとまった額が入る
こともあるが、基本的には小遣い稼ぎのような部門だ。ただ、本業の方も大して依頼の
ない昨今、重要な食い扶持になっているのもまた事実。
「江口さんは、ああいうのはやらないの? ほら、出演してるAV女優の身元を特定す
るの」
 資料の整理を終えた占部が、ファイルを閉じながら言った。
「必要があればやるかもしれないが、興味本位の依頼なら受けるつもりはないな。問題
は、身内を始めとする親しい人間からの依頼だよ。連れ戻したい気持ちは理解できる一
方で、女優当人の事情も把握しておきたい」
「あー、そういう態度なら、最初から受けないのが賢明ですねー」
「そうだな。――よし、と」
 江口の方も紳士からの依頼を片付け、報告書の区切りが付いたため、お茶を飲もうと
立ち上がった。が、ポットのお湯が足りない。水を少し入れて沸かし直す。
「占部君も飲むか?」
「あ、はい。いただきます。――全然ヘルプなしでしたけど、依頼、簡単だった?」
「ああ、検索だけで済んだ。多分、間違いない」
 依頼人が覚えていたのは、ざっくりとした内容とAV女優の顔立ち、媒体は地上波テ
レビ番組のAV紹介コーナーだったということくらい。だが、話を聞く内に、見た時期
を思い出した。一九八六年の四月以降、年内だった。
 テレビ番組で紹介されたからには、正規品であり、新作である。つまり一九八六年発
売。依頼者にこの年活躍した女優一覧を示し、有力な候補を挙げてもらい、五人に絞り
込んだ。ここで依頼者はお役御免、帰らせる。
 江口はこれまで積み重ねた調査実績により、その番組と特に結び付きの強かったAV
メーカー二社が分かっている。その二社から一九八六年四月以降に発売された女優五名
の作品をリストアップし、依頼者の説明した内容に合致する物を拾っていく。三つにな
った。あとは、依頼者の記憶していた場面と重なるかどうかを調べなければならない。
普通、ここが一番面倒で手間が掛かる(作品を入手することも多々ある)のだが、幸い
にも依頼者はその場面で女優が身につけていた下着を、色からデザインから詳細に覚え
ていた。ネット上の中古AV店でパッケージ写真を参照すると、ある一作の裏側のワン
カットがビンゴ。下着の色や形状が見事に一致した。
「こんなのでお金をもらっていいのかねえ。発売年さえ覚えていたら、時間は掛かって
も依頼者が自力で辿り着けただろうに」
「いやいや、そこは江口さんの話術があってこそ。エッチな思い出でも話しやすい雰囲
気に持って行くのがうまい」
「探偵に必須の能力ではないような」
 くさり気味に呟いたところで、ポットのお湯が沸いた。
 が、お茶を入れようという動作は中断させられた。またドアがノックされたからだ。

「職務中は、お茶一杯もらうのも慎重にならないといかんので」
 訪ねてきたのは多倉刑事だった。彼が建前を述べ、お茶を断ったので、江口と占部だ
けでコーヒーを摂る。
「どんな事件なんですか」
 AV部門以外の依頼なら何でもかまわない、ましてや多倉刑事からとなるとれっきと
した犯罪だろう。江口は腕が鳴るのを覚えた。
「ある意味、君ら向けの事件と言えるかもしれん」
 江口が顔をしかめたのは、コーヒーが苦かったからではない。君ら向けという言い回
しに、嫌な予感を覚えた。
「殺人なんだが、犯人らしき男はもう分かっている。天口利一郎という私立の大学生
だ。被害者はその知り合いで、同じ大学の尾藤寛太。ともに二年生で、年齢は一浪して
いる尾灯が上。大学に入ってから知り合ってる。一応、友人だったらしい。実際、動機
が分からない」
「本人が口を割らないのですか」
「割ろうにも割れないんだよ。死んでるんだ」
「え? つまりは犯行後に自殺したということですか?」
「違う。まだはっきりしていない。直接の死因は後頭部を強打したことによる脳内出血
と聞いてるんだが、現場の状況がな。他殺かもしれないし、事故死かもしれない」
 刑事の話を聞き、江口は、被害者が滑って転んで机の角にでも頭をぶつけたか、階段
を転がり落ちた可能性があるのだろうと思った。
「死んでいたのはアパートの一室。被害者の部屋で、ビデオテープが山のようにあっ
た」
「ビデオテープ……もしや、アダルト物ですか」
「ああ」
 それでここに来たんだなと合点する。嬉しくない。
「山のようにって、どのぐらい?」
「俺は実際に数えてちゃいないが、三百四十一本あったらしい。全部積み上げれば九十
センチ近くになる」
「三百四十一本、床に積み重ねてあったんですか?」
「それが崩れていて分からなかった。多分、いくつかに分けていただろう。あと、床に
あったかどうかも不明だ。本棚の上にも数本残っていたから」
「推測すると、テープの山が崩れて、天口の後頭部を直撃し、死に至らしめた可能性を
考えている?」
「そうだ。何せ、部屋は内側から施錠された、いわゆる密室状態だった。しかも、死亡
推定時刻には震度四の地震が起きている」
 それを聞いて、おおよその日時が見当づいた。十二日前の午前二時半頃だったろう。
土曜から日曜に掛けての出来事で、夜更かししていた江口は割と鮮明に覚えている。同
レベルの余震が今も続いている。
「正式な死亡推定時刻はその前後二時間なんだが……ちょうど頭を低くしているときに
地震が発生し、ビデオテープが崩れ落ち、打ち所が悪かったとしたら死ぬかもしれな
い。一本一本の重量はさほどないが、まとめて、あるいは連続して直撃すれば、可能性
はあると見ている」
「尾藤の死因は?」
「こちらも後頭部を強打している。ただし、死亡推定時刻は、地震発生の三〜五時間前
だ」
 頭の中で簡単な計算をする。前日の午後九時半から十一時半までの二時間か。
「尾藤も事故死の可能性あり?」
「ありかなしかと問われれば、ありだ。現場に転がっていたトロフィーの台の角と、頭
部の傷が合致しており、トロフィーは全体がきれいにぬぐい去られていたがね」
「蓋然性を鑑みて、何者かが尾藤をトロフィーで殴ったあと、指紋を拭ったと考えるの
が妥当という訳ですね」
「そうだ。そしてその何者かってのが、天口なのかどうかが問題だ。アパートには防犯
カメラがなくて、人の出入りの記録はない。目撃証言も、今のところないから、天口が
いつ尾藤の部屋を訪れたのか、不明なんだよ」
「尾藤を殺害した犯人が、天口も殺したのかもしれないと」
「そうなる」
「うーん。まだまだ気になる点がたくさんあるんですが。たとえば、何で今時、ビデオ
テープなんでしょう?」
「分からん。が、生活安全課の人間が言うには、三百四十一本のほとんどが珍しい裏物
らしく、DVDの形で出回っていない物もあったそうだ。ネット上にも流れていない、
超レア物だとさ。ビデオにはラベルの記載がほとんどなく、メモ書き程度だったんで、
いちいち確認するのに骨が折れたと言っていたよ。とにかく、被害者はそういった物を
コレクションしていたんだな。いつ、どこで購入したのか分かってないが、ネットでの
記録は見当たらないから、実店舗で買ったんだろう。小まめに回っているのを見掛けた
知り合いもいる」
「被害者はビデオからDVDにコピーしていなかったんでしょうか? 違法でしょうけ
ど、それを言うなら裏物自体、コピーが多いはずだし」
「今のところ、コピーしたと思しきDVDは、本棚の隅から少しだけ見付かっている。
ただし、三百四十一本あるビデオとのダブりはなかったようだ」
「へえ。じゃあ、片端からコピーして、ビデオテープは処分していたのかな」
「そこまでは分からんなあ。部屋に機械はあった。ビデオデッキとDVDレコーダーが
一体になったのが一つ、ビデオデッキ単体が一つ、DVDレコーダーが一つ。いずれも
ダビング中だったらしい。らしいというのは、捜査員が乗り込んだ時点では、三台とも
停止していたからだが、ファイルが作られた時刻はそれぞれ午前二時二十二分、午前一
時五十分となっていた」
「……時刻から考えると、そのコピー作業をしていたのは、天口ですね」
「うむ、気付いたか。メーカーや機種によって差があるかどうか知らんが、尾藤の部屋
にあったレコーダーは、どちらも録画を始めた時刻をファイル作成時刻として記録する
タイプだった」
「じゃあ、天口は珍しい裏物をコピーしたいがために、尾藤を殺害したんでしょうか」
 どんな条件を出しても尾藤がコピーさせなかったとしたら、あるいはあり得る?
「そのくらいのことで知り合いを殺すか? 第一、殺害現場に居残ってダビングを続け
るのも異常だぞ。目当てのビデオテープだけ選んで持ち出し、自宅でゆっくりやればい
い」
「メモ程度なら、選別できなかったのかも」
「あん? ああ、そうか。再生してみないと分からないという訳か。しかし、冒頭数十
秒で分かるんじゃないのか。タイトルぐらい出るんだろう?」
「それは物によります。テロップの類を一切入れていないやつもあるだろうし、色んな
作品から短いシーンをつぎはぎにした物もあります」
「うーん、そうか。となると……三百四十一本全部を持ち出すのは、難しいか」
「そこですよね。何往復かする必要があるものの、慎重になるべく物音立てずにやれ
ば、他の入居者や近所に気付かれることなく運び出せるでしょう。あ、天口は車を持っ
ているんでしょうか?」
「有名私立に通うぐらいだからと言っていいのか、持ってたよ。親が買い与えた物だが
ね。現場近くの駐車場に駐めてあった」
「それなら運べるか……。うん? 尾藤も同じ大学に通ってたんですよね? お金持ち
の家の子なら、防犯カメラもないようなアパートに何で……」
「ああ、すまん、言い忘れていたな。アパートは言ってみれば、尾藤のセカンドハウ
ス、ビデオ部屋なんだ。大量にあるビデオテープを保管するのが主な目的で、あとは鑑
賞だな。それだけのために、尾藤自らアパートを探して契約を結んでいる。防音だけは
完璧な物件をな」
「し、信じられんことをするなあ」
「同感だ。かなり古びて埃っぽくて、掃除機も何もない環境なのに、よく鑑賞できるも
んだ。まともな家具は棚以外には、冷蔵庫だけだった。それでいて尾藤の本来の住居
は、大学にも近い立派なマンションでね。そこに女性を呼ぶこともあったという話だ。
というか、マンションに女を連れ込むから、趣味のアダルトビデオを置いておけなく
て、アパートを借りたのかもしれん」
「尾藤って学生、普通に恨みを買っていそうだ……」
「アダルトビデオ好きという趣味は、よほど親しい男の知り合いにしか話していなかっ
たようだがな。天口を含めて四人、同好の士って奴だ」
「もし天口が殺人犯でないとしたら、残りの三人の中の誰かの仕業でしょうか」
「無論、その線も検討している。内一人には、アリバイがあった。旅行中――寝台列車
で移動していたんだ。連れがいたから間違いない」
「残る二人は……」
「現時点で引っ張る要素はないから、それぞれ一度ずつ事情を聞かせてもらっただけ。
一人は神坂伸人といって、尾藤と高校が同じで、学年は一つ上だった。進学せずに、実
家の電器店に入っている。もう一人は渡辺光三郎といって、尾藤や天口と同じ大学の同
学年。ちなみにこの三人は学部も同じ社会学部だ。事件当夜は二人とも、自宅で寝てい
たと語っている。現場の部屋を前に訪れたことがあると言っているのは神坂だけで、渡
辺はそんな部屋があることすら知らなかったと申し立てているが、信じていいのやら」
「こういうのはどうでしょう? 犯人が、尾藤のコレクションから超レアな裏ビデオを
奪って手に入れたとしたら、自分と犯行を結び付ける物であっても恐らく捨てられな
い」
「だから何か理由を付けて、家宅捜索をやれと? いやー、現段階では難しいな。わい
せつ画像を大量に所持してる可能性はあるが、そんな見込みだけではまず無理だ。現場
周辺で事件の前後、似たような男の目撃証言でもあれば、話は違ってくるが」
「そうですか……。天口も現場に来ていたのだから、犯人は天口とやり取りしているは
ず。携帯電話の記録を調べれば」
「天口の携帯電話なら、とうの昔に調べたさ。割と新しめのスマートフォンだったが、
案外使いこなしていない感があったな。殊に、AV趣味に関することには使った形跡が
ない。形跡を残すのを警戒して、敢えて使っていなかったのかもしれない。それはとも
かく、天口が神坂や渡辺と連絡を取り合って、尾藤の部屋に行く話になった様子はな
い。連絡自体も皆無ではないが、事件発生の何週間も前だ」
「その口ぶりだと、尾藤と天口の間でも、連絡を取り合った跡はなし?」
「ああ。恐らく法に引っ掛かるような物も扱ってたんだろうから、慎重に事を運んでい
たんじゃないか。こちとら違法なアダルト物ってだけでいちいち相手をしていられるほ
ど暇じゃないんだが」
 苦笑いを浮かべた多倉刑事は、占部の方を向いて、やっぱりコーヒーをもらおうかと
言った。喋る内に喉が渇いたらしい。
「いつものように、砂糖ちょびっと、ミルクたっぷりですかー?」
 席を立ちながら占部が聞くと、刑事は少し考え、今日は砂糖抜きでいいと答えた。
「天口の部屋も見たんですよね? アダルト物のコレクションはどのくらいあったんで
す?」
「二十作ぐらいだったかな。全部DVD。そういえば、レコーダーがなかったな。パソ
コンで済ませていたんだろう」
「レコーダーを持ってなかったとしても、DVDの扱いには慣れていたでしょうね。目
当ての作品がDVDにコピーされているのなら、そっちをさらにダビングした方が早
い。ビデオテープからダビングした物なら、コピーガードは掛からないのが普通ですか
ら、DVDからコピーできないってこともない。なのに、ビデオからダビングしようと
していたのだから、被害者の尾藤もビデオテープの中身をまだDVD化していなかった
……」
「理屈は分かった。だが、それが事件解決につながるのか?」
 疑問を呈した刑事の元に、コーヒーカップが届く。すぐに口を付け、満足げに頷い
た。
「分かりません。でも、根本的な疑問として、天口が尾藤を殺したのなら、やはり、犯
行現場に長々と留まって、ダビングを続けるというのは理解に苦しみます。尾藤と天口
以外に少なくとも一人、神坂が部屋の存在を知っていたんです。深夜だろうと何だろう
と、いつ来るともしれない」
「休み前だしな。運び出せる手段がありながら、留まっている理由……ああ、ダビング
するための機械がないじゃないか」
 多倉刑事はこれだとばかりに、膝を打った。
「天口の家にはDVDレコーダーすらなかった。パソコンでコピーしようにも、ビデオ
デッキがなければ話にならない」
「うーん、どうでしょう? ビデオデッキも、尾藤のを持っていけばいいじゃないです
か」
「そうか。配線が分からん、てこともないだろうし」
「第一、本当にビデオデッキはなかったんですか? 同じ家宅捜索でもどういう目線で
するかによって、見えてくる物が違ってくるもんです」
「……あとで聞いておく」
 多倉刑事の返答に、占部が横合いから突っ込みを入れる。
「あれ? 多倉さんて前に、個人の携帯電話の公的利用とかなんとかいう申請、したん
じゃなかった?」
「した。よく覚えてるな」
 渋い顔をする刑事。
「じゃあ、すぐにでも問い合わせよーよ」
「単独行動してるだけでもまあまあ異例なのに、また一般市民に助言を求めていると知
られたら、立つ瀬がない」
「もしかして、居場所を知られたくないから、電源オフにしてるとか?」
「そういうことだ」
 緊急の連絡があったらどうするのだろう、と疑問が浮かんだ江口だったが、聞かずに
スルーした。

――続く




#487/598 ●長編    *** コメント #486 ***
★タイトル (AZA     )  16/08/31  01:00  (359)
崩れる欲望の塔 <後>   永山
★内容
「ビデオデッキの件は横に置くとして」
 刑事が話の軌道修正を図る。
「仮に天口が犯人ではなく、事故死でもないとしたら、大きな問題を認めなければなら
なくなるぞ。密室だ」
「確かに問題です。地震が起きると予知できるのなら、それを利用したトリックも考え
られなくはありませんが。現場を密室にしたのが犯人の意図だとしたら、その狙いは天
口に罪を被せ、地震による間接的な事故死に偽装したかったんでしょう。そうなると、
地震が発生したあとに、犯人は天口を現場で殺害したことになる」
「なるほどな。となると……常識的に考えて、地震が起きた二時半以降に犯人から呼び
出されて現場に出向くってのは、まずなさそうだ」
「お宝アダルトが地震で偉いことになってるぞ!って言ったら?」
 これは占部の意見。対して江口は即座に否定的な意見を述べた。
「いくらお宝だと言っても、他人の物だし。呼び出すには、天口に大きなメリットがな
いとねえ。加えて、その時点で尾藤は死んでるんだ。犯人自身が電話する訳だけど、声
に気付かれたら、疑われるだけだよ」
「そっかー。納得した」
 占部が引っ込むと、江口は続けて仮説を展開した。
「思うに、天口も最初から現場にいたんじゃないでしょうか」
「同感だ」
「尾藤のコレクション部屋には、尾藤と天口と犯人の三人がいた。まあ、犯人は複数か
もしれませんが、ここでは一人にしておきましょう。多量のビデオテープを鑑賞しつつ
ダビングするために集まった、とでもします。その最中に何らかのトラブルが起き、犯
人が尾藤を殴り殺してしまう。想定外の事態に、犯人も天口も泡を食ったかもしれませ
ん。隠蔽すると決めた二人は、まず、自分達が今夜この場にいた痕跡の消去に精を出し
たでしょう。指紋や使ったグラスの始末、髪の毛なんかを拾っていたら、一時間以上掛
かる。何しろ、掃除機の類がないんだから」
「髪の毛は別に気にしなくても、問題ないんじゃあ。前に一度でも部屋に来たことがあ
るんだったら、落ちていておかしくない」
 占部が言うのへ、江口は首を左右に振った。
「仮定の上に仮定を重ねるのは好きじゃないが、たとえば、散髪してから間がなかった
としたら? 髪先の形状に明確な違いが現れる。嘘がばれる恐れ大だ。他にも、食べか
すが散らばったとしたらどうだろう。その“新しい”食べかすの上に毛髪があったら、
その毛髪は落ちたばかりだと分かる」
「うむむ……分かりました。先へ進めて」
「――仮に尾藤死亡が土曜の夜十一時半だったとすると、最初の混乱と痕跡を消す作業
だけで、午前一時ぐらいになっていたでしょう。その間に、途中だったダビングも済ん
だはずだし、犯人にとっては悪くない時間の使い方です。分からないのは、このあと。
普通なら、一目散に逃走する。まともな感覚の持ち主なら、留まってダビングを続行し
ようなんて考えない。もしかすると、犯人と天口、二人いたから心強かったのかもしれ
ません。一人はダビング作業に没頭し、もう一人は誰か来ないか見張り役をするんで
す。万が一、誰かが訪ねて来るようなら、素早く作業を中断し、息を潜めてやり過ご
す」
「二人いればという心理状態は分からなくもないが、それでもなお、ビデオテープを持
ち出さなかったのは何故かという疑問が残る。二人なら、運び出すのももっと楽だ」
 刑事の指摘に、江口は「そうなんですよね」と首を縦に何度か振った。
「大量のテープを持ち出すのは確かに手間でしょうが、犯罪の現場に留まる危険さに比
べたら、たいしたことじゃない。……ダビング後に、テープを戻す手間を嫌がったのか
な?」
「いやいや、戻す必要はあるまい。手元に残したら証拠になりかねないが、そこいらに
捨てりゃいいだけさ」
「ですねえ」
 行き詰まり、沈黙する江口。他の二人の口からも、何も出て来ない。名案はすぐには
浮かぶものではないようだ。
「……途中からちょっと気になってたんだけれど」
 占部がおずおずとした調子で言った。目は刑事の方を向いている。
「トロフィーって何のトロフィーなんです?」
「は? ああ、尾藤殺しの凶器か。学生の発明コンテストか何かだったな。高校生部門
で優秀賞をもらっていた。自動給餌器や給水器の発展版みたいな物だった」
「ふうん。そんないかにも自慢話に使えそうなトロフィーを、どうしてアダルトビデオ
鑑賞ルームなんかに置いていたんでしょう? 不釣り合いにも程がある」
「確かに」
 多倉刑事と江口は顔を見合わせた。しゃべり出したのは江口の方だ。
「本来なら、自宅に飾っておいて、やって来た女の子に気付いてもらうなり、さりげな
く見せつけるなりするのが普通ですね」
「それが普通かどうかは知らんが、少なくとも男しか来ないであろうアパートの一室
で、埃を被らせておく意味はないな」
「つまり……犯行現場そのものが、アパートではない?」
「考えられる。トロフィーはきれいに拭いてあった。指紋や血痕を消すためだろうが、
そのおかげで拭く前の状態が埃だらけだったか、それともぴかぴかに磨いてあったかな
んて、分かりゃしない」
「元々、尾藤のマンションに置いてあったんだとすると、殺人が起こったのもそこにな
る訳で、そのあと遺体移動が行われたことに……でも、マンションなら防犯カメラがあ
るんでしょう?」
「あ、ああ。そうだった。映像で確認したが、事前前夜の九時過ぎに出て行く尾藤が映
っていた。酔ったみたいな足取りだったが」
「ふらふらしていた?」
「うむ……そうか、江口君。考えていることが分かったぞ。トロフィーで殴られたあと
も尾藤はすぐには絶命せず、病院に行くためか、助けを求めるためか、とにかく外に出
たんだ」
「多分。脳内出血が徐々に進行することで、死が緩やかに訪れるケースはいくらでもあ
りますからね。それよりも、マンションの防犯カメラには、犯人らしき人物は映ってい
なかったんですか」
「それが、身元の確認できない人物なら、何名かいた。特に、尾藤の直前に入っていく
二人が。マンションは基本的に住人でないと入れないシステムを採用していて、鍵とパ
ネル操作で自動ドアが開くんだ。だから、問題の二人組は尾藤に開けてもらって、先に
入った可能性がある」
「出るときは?」
「出るときは、内側のボタンを押すだけで、自動ドアが開く」
「それなら尾藤に出て行かれたあと、追い掛けても問題なくマンションを出られるんで
すね。カメラ映像に、二人組が出て行くところはありました?」
「あった。ただし、二人揃ってではなく、一人が駆け足気味に出て、しばらくしてから
もう一人が出て来た。時間にして五分余りあとってところだ」
「恐らく、先に出た奴が尾藤を足止めして、あとから来た奴と合流し、アパートに車で
向かったんじゃないでしょうか。病院に連れて行くと騙したか、あるいは脅してアパー
トに向かわせたか」
「――畜生、思い出したっ」
 突然、刑事が吐き捨てたので、江口と占部はびくりとしてしまった。
「どうしました?」
「映像で見ていたのに、スルーしてたんだよ。あとから出た奴はボストンバッグを持っ
ていたんだ。その中に、きっとトロフィーが隠してあったに違いない!」
「ああ、だったら病院に連れて行くと嘘をついた可能性よりも、脅してアパートに向か
った可能性の方が高いですね。最初から、アパートを殺人現場に偽装する目的で、トロ
フィーを持ち出した。もっと言えば、その段階で病院に行けば助かったかもしれない尾
藤を、端から始末するつもりでいた」
「犯人達は、マンションに入るところを防犯カメラに撮られたと意識したからこそ、別
の場所で事件が起きたことにしたかったんだな。しかし……尾藤の頭に、殴られた傷は
一箇所しかなかった。改めて殴りつけてはいないことになるんだが」
「そこはやはり、最初の一撃のダメージがゆっくりと進行し、アパートの部屋に入った
時点で死に至ったんでしょう。何にしても、トロフィーは必要だったはずです。多倉さ
んから伺った状況から推して、ビデオテープの山が崩れることでその上に置いていたト
ロフィーが落下し、それを後頭部に食らって死んだと見せ掛けたかったんじゃないでし
ょうか」
「だが、実際はそうじゃなかったぞ。たまたま落下したと偽装するんなら、もっと“ら
しい”場所にトロフィーを放り出しているはずだ。第一、トロフィー全体を拭ったあ
と、改めて尾藤の指紋と血を付ける必要があるのに、そうはなっていなかった」
「気が回らなかったか、他の良策を思い付いたのか……もしかすると、ここで犯人は甘
口に全ての罪を被せることに決めたのかもしれない」
「“ここで”とは、アパートに着いてからという意味かね?」
「うーん、どうでしょう。ひょっとしたら、地震が起きてからかもしれません。地震が
起きて初めて事故死に見せ掛ける計画を思い付き、さらに天口に全部おっ被せることも
思い付いたとしたら……」
「待て待て。すると何か。結局、犯人と天口は地震発生までアパートに留まったと言う
のか、死体を傍らに? 状況がちっとも変わらないじゃないか」
「いえ、違いますよ、多倉刑事。今、我々が想定した状況なら、尾藤を車内に閉じ込め
ておくことができる。加えて、アパートは当初の犯行現場ではないという事実。万々が
一、来訪者があっても安心でしょう」
「まあ、比較的安心というレベルだろう」
「ともかく、二時二十二分まではダビング作業を行っていたんだと思います。正確に
は、DVDレコーダーのハードディスクに録画した分を、今度はDVDディスクにコ
ピーする時間が必要でしょうけど」
「地震発生後、犯人が天口をも始末したと仮定するのはいいとして、そのあとは何でダ
ビングをやめたのかね? 本数から言って、全部済んだはずがない」
「恐らく尾藤をアパートに運び込んだあとだし、天口も殺したとなると、さすがに留ま
っていられないと考えたのかもしれません。あるいはもっと単純に、犯人が欲しい作品
のダビングは終わった、だからさっさと立ち去ったのかもしれない」
「全てを欲しがっていたとは限らない、か。そりゃそうだな」
 一応の合点を得たらしい多倉刑事。顎を撫でながら、「残る問題は密室の作り方と、
物的証拠か」と呟いた。
「トロフィーが元々、マンションの方にあったことが証明できれば、この想定で大きな
間違いはないと思いますよ」
「うむ。尾藤のマンションの部屋に出入りした面々に、トロフィーに見覚えがないか聞
いていけば、割と簡単に証明できるだろう。マンションの部屋を子細に調べれば、最後
に部屋を訪れた人物の遺留物が見付かる可能性も高い。直接的な証拠とは言えないまで
も、落とすには充分強力な武器になる。結局、密室が最後に残る。江口君の柔軟な発想
力が試されるシーンだな」
「現場を見せてもらわないと、何も始まらないですよ」

 まだ解決に至っていない殺人事件の現場に、一般市民がおいそれと入れる訳もなく、
多倉刑事が部屋の写真を持って来ることで、代替案とした。
「写真を見せる前に、報告がいくつかあったな」
「何です?」
 日を改めてやって来た多倉刑事に対し、きょとんとして問い返す江口。今日は占部が
いないので、お茶の類が飲みたければ自分でやらねばならない。
「ビデオデッキの件だよ。天口宅にビデオデッキはなかった」
「そうでしたか。ま、大勢に影響はない事柄なので――」
「続きがある。ビデオとテレビが一体になった家電ならあった。最早テレビとして用は
なさない、単なるモニターだったが」
「へえ? お金持ちにしては物持ちがいいのか、けちなのか」
「入学から間もなく、ネットオークションで買っていた。ところが、半年ほどでビデオ
機能がだめになったらしく、修理のために電器店に持ち込んでいる」
「富裕層が物を大事にするのは、消費の拡大という意味では余り歓迎できないけれど、
基本的にはまあいいことですかね」
「驚くなかれ、その電器店こそが神坂の実家だ」
「――ほう。やはり、つながりはあったんですね。尾藤の知り合い同士」
「尾藤が天口に、神坂の店を紹介したようだ。結局、ビデオは修理不能だったが。
 次に、尾藤のマンションを調べた結果だ。事件前日の消印がある郵便物の上に、天口
及び神坂の毛髪が落ちていた。奴ら、マンションの部屋には以前から来たことがある
し、犯行現場をアパートであるように偽装するつもりだったから、油断したようだ」
「それじゃあ、容疑者は確定ですか」
「神坂だ。もう引っ張れるんだが、万全を期すために、密室の謎を解いてからにしたい
というのが捜査の方針でな。尤も、解けなくても、明日中には神坂を重要参考人として
呼ぶつもりだ」
「できれば解きたいですね。実は、腹案はもう浮かんでいるんですけど、現場写真を見
せてもらってからにします」
 多倉刑事は「期待してるぞ」と声を掛け、用意してきた写真十数枚をテーブルに並べ
た。
 ドアノブのアップが二枚、廊下側と室内側。室内側は、ノブの上にあるつまみを横に
倒すと施錠されるタイプの鍵だと分かる。廊下側には当然鍵穴があった。
「鍵は二本で、二本とも一つのキーホルダーに付けられ、尾藤の尻ポケットに入ってい
た」
 室内の様子は話に聞いていた通り、壁には棚が並び、ビデオテープが散乱している。
一部、床で重なっている物は、せいぜい三巻ぐらいか。大きなテレビはテレビ台に載っ
ており、その下のスペースにビデオと一体になったDVDレコーダーが収まっている。
さらにその手前には、DVDレコーダーとビデオデッキが横並びに置いてあった。前者
の薄さに比べて、後者の大きさが無骨な感じだ。それにレコーダーはディスク取り出し
口が床と平行になるよう、つまりは通常の置き方なのに対して、ビデオデッキはテープ
取り出し口が上向きになうように置いてある。
「付け加えておくと、手前の二台によるダビングが先に終わっており、テープもDVD
も入っていなかった。一体型の方はテープは入ったままで、DVDは抜いてあった」
 トロフィーは床に横倒しになっていた。部屋の奥らしい。すぐそばに、人間も横たわ
っている。これが被害者の尾藤に違いない。
 棚に目をやると、これまた聞いていた通り、一番上に一、二本のテープが乗ってい
る。並べてあるのは、ほとんどがDVDのディスクで、書籍も大量にあるようだ。
「本は写真集が大半だ。言うまでもないが、ヌード写真集ばかりだった。あと、アダル
トビデオの資料的な本があった。この事務所にも同じ本が何冊かあるだろう」
「持っていない物があれば、今後の調査のために欲しいぐらいです」
 冗談を言ってから、江口はビデオデッキの映った数枚に目を凝らした。次いで、ドア
の映った物にも目をやる。
「多倉刑事。この単独のビデオデッキと、玄関ドアとの距離や位置関係は分かります
か?」
「ええっと、そんなに広くない空間だからな。距離は4.5メートル程か、位置関係
は、まあ一直線と言っていい」
「間に障害物は?」
「室内のドアがあるが、発見時、開け放たれていた」
「いいですねえ。で、これが最も肝心。ドアのロックの固さはどんな具合でした? こ
の写真にあるつまみの動きが、スムーズかどうか」
「滑らかだし、大した力を入れなくても動いた」
「じゃあ、あとは方向だけの問題ですね。テグスのような丈夫で細い糸を、五〜六メー
トル分ほど用意して、両端に輪っかを作る。片方をドアのつまみに掛け、つまみを倒す
横向きの力が掛かるように、糸をまずドアの横方向に延ばす。そこから、釘か画鋲を壁
に刺すか、あるいは棚や下駄箱、傘立てなんかもあるでしょうからそれらの突起物を利
用し、一種の滑車とするんです。糸の方向をビデオデッキに向けるためのね。あとはビ
デオデッキまで糸を引っ張り、テープを収める挿入口まで持って来る。そしてもう片方
の輪っかを、テープを走査する軸に結び付ければ準備終了。ああ、もう一つ、タイマー
セットをしなければ。たとえば五分後に録画が始まるようにセットすれば、犯人は部屋
を出てドアを閉めるだけです。録画動作が始まったら、糸が巻き取られ、つまみが倒れ
て施錠されるという次第ですよ」
「……」
 江口のトリック解説を聞いた多倉刑事は、難しい顔をして首を傾げた。江口は言葉に
よる反応を待たずに言い添える。
「壁に釘や画鋲が打ってあった記録は、ないのかもしれません。でも、それはカレン
ダーを掛けておいた名残とか、ポスターを剥がしたあとだと思って、重要視されなけれ
ば記録されないのは当然です」
「いや、そこじゃない。私が、江口君よりビデオデッキを使っていた期間が長いからか
もしれんが、今の仮説には決定的におかしな点があると思う」
「ええ? どこがです?」
 頓狂な声を上げた江口。目が丸くなるのが自分でも何となく分かった。
「ビデオデッキって物は、テープが入っていなければ、録画の動作は始まらないはず
だ。早送りも巻き戻しも、再生も、どのボタンを押したって君の言う軸は動かないぞ、
多分」
「え……そうでしたっけ」
 動揺が露わになり、口の動きがあわあわとおぼつかなくなった。それでも食い下がろ
うと試みる。
「し、しかし。じゃあ、もう一台のデッキを使ったんでしょう。ビデオテープ、入った
ままだったんですよね?」
「うむ。だが、捜査の過程で当然、テープを取り出した。そのとき、機械の中にテグス
が巻き付いていれば、気が付くさ。実際にはそんな物、見付かっていない」
「……では、DVDレコーダーだ。ディスクトレイを開閉する動作を利用したんじゃな
いかな。リモコンを持って廊下に出て、素早く開閉を行えば、一旦開いたディスクトレ
イがまた引っ込んで元に収まる。その間にドアとドア枠の隙間からリモコンを室内に放
り、素早くドアを閉める。トレイの引っ込む力で、つまみは倒れ、鍵が掛かる」
「そのトリックの実現性は分からんが、ディスクトレイは糸を巻き取ってはくれまい。
糸が丸見えなら、やはり捜査員が気付く」
「……だめですか」
 江口はすっかり意気消沈した。自らの勘違い・思い込みで、解けたと思っていた密室
トリックが、再び難攻不落の城となってしまった。
「念のためにお尋ねしますが、テープレコーダーやテープリワインダー、もしくは8ミ
リ映写機の類は、室内にありませんでした?」
「今時珍しい代物だから、あればちゃんと記録するだろう。なかったはずだ」
「では、扇風機は?」
「なかった。エアコンならあったが」
「うーん……」
 しばし黙り込む江口。刑事の方は、並べた写真をどうしようか考えているようだっ
た。江口は仕舞われないよう、手を伸ばして一枚一枚を改めて見直す。
「玄関ドアの下から三分の一ほどの高さに、郵便受けのための取り出し口があります
が、これは?」
「とうの昔に調べたさ。完全に目隠しがされていて、外から内部は覗けない。糸などを
使った操作も不可能だ。万が一、うまく糸を通せたとしても、擦れた痕が錆に残るのは
間違いない」
 厳しく否定した刑事。それでも江口はあきらめなかった。
「――多倉刑事。玄関のたたき付近に、何か落ちていませんでしたか。特別な物じゃな
くてもいいんです。玄関にあって当たり前だが、とにかくそこいらに落ちていた、散乱
していた物」
「ええっと、靴に靴べらだな。靴は相当雑然とはしていたが、三足ほど並んでいた。い
ずれも尾藤の靴だと分かっている。靴べらは、セルロイドか何かでできた安物で、土間
に放り出された感じだった。ちなみにマンションの方にあった靴べらは、水牛の角に本
革を使用した高そうな代物だったのに、こっちには金を掛けたくなかったようだ」
「それだけ?」
「ああ。あとは、靴は三足ともスニーカーだった、くらいかな。一足は紐がほどけてだ
らんと垂れていた」
「靴べらはセルロイド製なら、それなりに反りますよね?」
「多分。下敷きよりは固いだろうな。そうそう、プラスティックの定規って感じだ。長
さも二十五センチから三十センチ見当だろう」
「……多倉刑事。これは実験してみないと断定できませんが、新しい説を思い付きまし
た」
「妙な前置きをしなくても聞くから、遠慮なく話してくれ。第一、最初の仮説だって、
実験しないことには成功するかどうか分からなかったろう」
「そうですね。じゃあ――靴べらには輪っかになった紐が付いているでしょう?」
「ああ、確かそうだったな。壁なんかの突起物に掛けるために」
「それをドアノブに通した上で、板状の部分をつまみにもたせかける風にセッティング
するんです。板を押せば、つまみが横倒しになる位置関係にね」
 江口の話を受け、多倉刑事は上目遣いになった。脳裏に、構図を描いているのだろ
う。
「イメージできた。それから?」
「次に、靴べらの先端に、スニーカーの片方を引っ掛ける。靴紐で輪っかを作れば簡単
です」
「だろうな」
「靴紐は、なるべく長くなるようにしておく。犯人は以上の準備をした後、そっと廊下
に出て、ドアを少しの隙間を残して閉める。隙間の幅は、片手でスニーカーを掴める程
度です」
「掴むとは、上から鷲づかみか、下から支える感じか、それともサイドからか?」
「そうですね、下からがいいでしょう。犯人はドアを完全に閉める寸前に、スニーカー
を上向きに軽く放る。ドアが完全に閉まる頃には、スニーカーは落下運動を始め、靴べ
らを押す力が発生する。靴べらはつまみを倒し、鍵が掛かる。と同時にスニーカーの紐
は靴べらから外れ、靴べらの紐もドアノブからはなれ、それぞれ土間に転がる。……い
かがでしょう?」
 探るような目付きになる江口。多倉刑事は一度口を開き掛け、何も言わないまま再び
閉じた。次に言葉を発すまでに、十秒以上経っていた。
「……言いたいトリックは分かった。できそうな気がしないでもない。実験してみても
いいと思うが、とりあえず、靴べらがノブに引っ掛かったままにならないか?」
「それはどっちでもかまいません。結果的に今回は落ちたんでしょうが、ノブに掛かっ
たままだったとしても、こういう風にして靴べらを用意してるんだなと思われるだけで
す」
「ふむ、なるほどな。状況とも合致している」
 刑事はメモを取り始めた。検討する価値ありと認めた証だった。

 その後、多倉刑事から寄せられた事後報告は、江口の自負心を少し満足させ、少し落
ち込ませた。
 警察署にて本格的な事情聴取を受けた神坂は、かなり早い段階で犯行を認めたとい
う。元々、犯罪をしでかして知らぬ存ぜぬを通せる質ではなかったらしく、防犯カメラ
の映像を見せたあと、マンションからトロフィーを移動させただろうと推理を突きつけ
ただけで、震え出したとのことだ。
 事件の構図は、江口らが想像していた通りと言ってよく、尾藤をトロフィーで殴った
のは神坂で、動機は本人の供述によれば、「金に困っており、冗談のつもりで尾藤に金
の無心を頼み、断るようならアダルトビデオをコレクションしていることや著作権を無
視してコピーしていることを大学で言いふらしてやろうか等と口にしたところ、激高し
て躍りかかってきたため、仕方なく手近にあった物を掴んで応戦した」という。どこま
で事実を語っているかは分からないが、たとえ事実であってもその後の計画的な犯行の
進め方や、天口をも手に掛けた行為から、情状酌量の余地はない。
 そして最後の障壁となっていた密室の作り方だが――。
「君の言うやり方を思い付き、やってみたのは確かだそうだ」
 多倉刑事には、にやにや笑いを堪えている節があった。
「ただ、うまく行かなかったんだと」
「え?」
「天口に罪を被せようという考えは、地震が起きたとき急遽思い付いたものだから、密
室作りも試行錯誤している余裕がなく、言うなればぶっつけ本番で行ったが、成功する
訳がないってことだ。三度ほど試したが、靴べらが早い段階でノブから外れてしまい、
失敗続き」
「でも、実際、部屋は密室になっていたんでしょう? 犯人があきらめたのなら、一体
どうやって密室ができたんだか」
「神坂は最後、仕掛けをそのままにして逃げ出した。本来なら片付けていかないと、天
口の事故死に見えなくなるが、アパートの同じフロアの誰かが起き出した気配を感じた
ので、一刻も早く立ち去りたかったと言っている。で、ここからは全くの推測になる
が、最初の地震から一時間後ぐらいに大きめの余震があったろ?」
「はい。まさか、そのままになっていた仕掛けが、余震の揺れによって作動し、偶然に
も密室が完成したと」
 思わず刑事を指差す江口。その手が小刻みに揺れた。
「そう推測するしかあるまい。室内の二人が虫の息ながらまだ生きていて、施錠したと
も考えられんのだし」
「そう、ですね」
 江口は現実を認め、受け入れることにした。偶然にはかなわない。
「気にする必要は全くないぞ、江口君。真相を見抜くきっかけを作ったのは、君らの手
柄だ。特にトロフィーがアパートにあったのはおかしいと勘付いたところは」
「それは助手の手柄ですよ」
 唇を尖らせて答えた江口は、占部の方を肩越しに見やった。データ入力作業に没頭し
ていたようなのに、今の会話はしっかり聞いていたらしい。にっ、と笑顔を向けてき
た。
「まあ、今回は仕方ないよねっ」
 探偵所長を所長とも思わぬ口ぶりで話し掛けてくる占部に、江口はまだ唇を尖らせた
まま、「慰めてくれてどーも」と応じた。
「いやいや、真面目な話。ぱっと見は似てるけれど畑違いの分野に首を突っ込んだ結
果、勇み足をしてしまったというだけで、基本的にはいつもの探偵能力を発揮できてい
たんじゃないかなと」
「ぱっと見が似てるって、何のことだい?」
 聞きとがめた江口は、椅子ごと向き直った。占部は芝居がかったウィンクをした。
「だってほら、AV探偵の看板を掲げていても、機械の方のAV――オーディオビジュ
アルには弱かったってことじゃない?」

――終わり




#488/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/11/29  21:38  (  1)
広がるアクセスマジック 1   亜藤すずな
★内容                                         21/07/31 10:10 修正 第3版
※都合により一時的に非公開風状態にします。




#489/598 ●長編    *** コメント #488 ***
★タイトル (AZA     )  16/11/29  21:39  (  1)
広がるアクセスマジック 2   亜藤すずな
★内容                                         21/07/31 10:10 修正 第4版
※都合により一時的に非公開風状態にします。




#490/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  16/12/29  20:34  (306)
絡繰り士・冥 1−1   永山
★内容
 『冥府魔道の絡繰り士』を自称する殺人者・冥は、前辻能夫を葬り去った。
 快楽殺人の徒である前辻は、秀れた殺人トリックメーカーでもあった。その才能を惜
しいと思わないでもない。が、裏切りの動きを垣間見せた彼を許すつもりは、元から一
毫もなかった。
 にもかかわらず、殺す直前まで、前辻を救ってやろうという素振りを見せたのには理
由がある。前辻の本気を引き出すためだ。冥は文字通りの“生殺与奪の権利”を握った
上で、前辻に条件を出した。「おまえの考え得る最高のトリックを、今すぐにこの場で
見せよ。その中身が素晴らしければ、おまえが戻ってくることを許す」と。
 前辻は隠し持っていた秘密の手帳を取り出すと、そこから犯罪のためのトリックを
次々と示した。そして殺された。
 冥もまた、不可能犯罪メーカーを自負している。純粋に、前辻能夫よりもトリックの
案出において優れていることを犯罪者の世界に知らしめたい。そんな欲求があった。
 だから、冥はいくつか試してみようと心に決めている。死の間際、生への執着を露わ
にした前辻が選んだトリックを。
 そして、名探偵が解決できるかどうか挑戦させるのだ。世評に高い探偵は無論のこ
と、今までに冥の仕掛けた犯行を一度でも見破ったことのある探偵もすでにリストアッ
プ済み。彼らの居所も掴んでいた。
 あとは、トリックに適した被害者の役を見付けるだけだった。必要ならば、犯人役も
用意しよう。これらも普段より意を留めて探し求めているため、さほど時間は要すま
い。
 むしろ考えておかねばならないのは、探偵達がトリックを解けなかったときのことか
もしれない。冥の考案したトリックを看破した探偵が、前辻考案のトリックを見破れな
かったとしたら、それはそれは冥にとって屈辱だ。探偵を逆恨みするかもしれない。自
らが創出したトリックを用い、その探偵を葬りたくなるかもしれない。世界を見渡して
もさして多くない好敵手を減らしてしまうのは、人生をつまらなくすると理解している
冥だったが、前辻のトリックを解けないような探偵であれば、この際切り捨てることも
ありだと思った。

             *             *

 五日前に発生したその殺人の現場は、一種異様な光景と言えた。
 場所は海浜地帯の中央を外れた区域にある、天井の高い古工場。使われなくなって長
いのか、中はがらんとしていた。機械の類はとうの昔に運び出されたのかほとんどな
く、残っていても錆びて全く使えない代物ばかり。柱にしても、さして太くない、断面
がH字をした無骨な感じのやつが何本かあるだけで、邪魔になっていない。砂だかごみ
だか、とにかく埃が積もっているが、臭いの方は意外としない。
 建物の規模としては、大雑把に見積もって高さ十メートル余り、桁行が二十メート
ル、幅が五十メートルといったところだろう。横に長い直方体の建物、その長辺のちょ
うど中ほどに出入り口として、スライド式の金属扉が設置されている。高さ八メートル
はあろうかという大きな二枚扉で、左右に開くと最大で十メートルになる。これは機械
類や資材等の搬入を見越した設計だという。
 被害者の男性は、左の肩口から胸に掛けてざっくりと切られており、凶器と思しき大
ぶりな包丁が三本、すぐそばに転がっていた。遺体は出入り口から見て正面一番奥、壁
際の柱にワイヤーで縛り付けられていた。足を投げ出してもたれかかるような姿勢だっ
た。彼の名は三谷根八郎と言い、五十三歳になる。仕事はタクシー運転手だが元は会社
員で、部長の椅子に手が届こうかというとき、女で失敗して躓いた。彫りの深い顔立ち
のおかげでよくもてたようだ。出世コースを外れると、何もかも面白くなくなって、会
社を辞め、タクシー運転手に転じる。顔だけでなく喋りも達者だったせいか、なかなか
稼いでいた。そんな男が殺されたのだから、タクシー強盗にやられたのかと思いきや、
当日は休みだった。現場である古工場まで、被害者がどうやって来たのか分かっていな
い。様々な可能性が考えられるが、犯人の車に同乗して来たかもしれないし、あるいは
もう一人の被害者と一緒だったのかもしれない。
 二人目の被害者、豊野茂美は三谷根とはちょうど反対側にて、向き合う形で拘束され
ていた。同じく、長さ三メートル程度のワイヤーで両手首を後ろ手に縛られ、他端を扉
の取っ手に括り付けられていた。姿勢も似ていたが、足を投げ出さず、正座を崩したよ
うないわゆる女座りをしていた。彼女の方の死因は、まだ判明していなかった。遺体は
きれいなもので、少なくとも三谷根と同じ死因でないことは確かだった。毒物の検出な
し。溺れさせられたり、電気ショックを与えられたりといった痕跡も見付かっていなか
った。三十になったばかりの被害者は健康体で、病死もありそうにない。
「残るは窒息死ぐらいだろうってことです。今はその線で詳しく調べていると」
 経過を報告しに来た刑事の言葉に、少女探偵団四名の内の一人、両津重子が反応す
る。
「窒息? 首に絞められた跡が残るんじゃあ……」
「口と鼻を覆うとか」
 応じたのは刑事ではなく、別の団員、江尻奈由。刑事はその意見を肯定も否定もせ
ず、「現在、検査中」とだけ言った。
 少女探偵団は四人全員が中学生である。そんな女子中学生の集まりに、刑事が事件を
報告に来るなんてあり得ない――普通なら。
 彼女達には、実績があった。近所の日常的な悩み事や困り事だけでなく、本物の事件
も解決した経験があるのだ。尤も、数は知れているし、殺人事件となると四つほどしか
ない。それでも充分に凄いと言えるかもしれないが、警察が頼るほどのレベルでないの
も確かだ。
 にもかかわらず、刑事がわざわざ足を運んで知らせに来たのは、この事件が、ある特
異な犯罪者の仕業によるものと見なされたため。
 その犯罪者の名は冥。冥府魔道の絡繰り士を自称するこの人物は、遊戯的殺人を進ん
で手掛ける。推理小説的なトリックを好んで用い、ときに予告をしたり、署名的行動を
したりする。神出鬼没であることに加え、そのやり口が常識外れであるためか、警察も
手を焼いている実態があった。
 一方、少女探偵団は一度きりだが、冥の犯行を解き明かしたことがあった。冥に言わ
せれば遊び相手を見付けるための小手調べのテストで、解明されても痛くも痒くもなか
ったかもしれない。ただ、“テスト”に合格した少女探偵団は、冥から特別扱いされる
ようになってしまった。
 冥が殊更お気に入りなのは、探偵団のリーダー、九条若菜らしい。何せ、最終テスト
だとでも言いたげに、九条の目の前に姿を現したことまであった。以来、冥の犯行声明
や予告状、挑戦状に九条の名前が出されることしばしば。しかも、冥は警察に対し、九
条を始めとする少女探偵団を捜査に加えろという、無茶な要求までしてきたことすらあ
った。応じない場合、死体を増やすという脅しとともに。
 無論、警察が脅迫に屈したのではなく、あくまで冥を逮捕するために最前の手だとし
て、九条ら少女探偵団に事件の情報を明かせる範囲で伝えるようになった。九条は冥を
目撃し、言葉を交わした数少ない人物の一人なのだ。
「現段階で、二人の被害者間にいかなるつながりがあったのかは、判明していない」
「あ、話を進めていただく前に、質問があります」
 九条が肩の高さに手を挙げ、刑事に聞いた。ちなみに、彼ら彼女らが今話している場
所は、警察署内の会議室だ。正確にはその広い部屋の一角をパーティションで区切っ
て、六畳ほどのスペースを確保。建前上、殺人鬼に名前を出されて迷惑している女子中
学生が、警察に相談に来ているとの体を取っている。
「現場の状況は、先程話してくださった分で全部なんでしょうか? 差し支えなけれ
ば、お願いします」
「何か不自然だったかね」
 刑事は特に表情を変えることなく、目玉をじろりと向けた。眼鏡も髭もない、没個性
的な容貌だが、ときに凄みがちらりと覗く。
 対する九条は静かに首肯し、意見を述べた。
「冥の犯行にしては、不可思議さが足りないと感じたものですから。冥の犯行には不可
能犯罪が多く、そうでない場合にも明確な“謎”を提示するのが常。顧みるに、今伺っ
た事件は、奇抜さは感じられても、不可能性はないに乏しく、明白な謎も見当たりませ
ん。強いて言えば、無関係の男女を同じ場所でほぼ同時に殺している点、女性の被害者
の死因が不明である点ぐらいでしょうか。でも、その二点は結果的にそうなったという
印象を受けます。警察の捜査が進めば、じきに分かることだと思えます」
「――なかなか察しがよい」
 刑事は初めて笑みらしきものを見せた。今回が少女探偵団と初めての顔合わせとなる
この刑事、今岡達人は相手の能力を明らかに疑っていたが、少し見直したらしい。
「指摘の通り、現場にはもっと別の細工がなされていた。私が承知しているのは二点。
まず、現場は密室だった。次に、被害者二人に関する事実だ。三谷根は喉に大きなダ
メージを与えられ、恐らく声を出せなくなっていたと推測される。また、豊野はアイマ
スクで目隠しをされていた」
「情報量が多くて、すぐには把握できませんが、とりあえず、密室というのは?」
「現場の工場は元々精密部品を扱っていたとかで、埃をなるべく避けられるように気密
性の高い作りになっていた。だから出入り口は一つだけなんだ。そこは内側からロック
されていた。大きなカムを噛ませるタイプで、外からの操作はできない。外からは別の
鍵を掛けるんだが、そちらの方は手付かずだった。他には窓が多数あったが、いずれも
はめ殺し。ただ、出入り口とは反対側の壁の両隅に、非常時用の開閉可能な窓ガラスが
あったが、ともに内側から施錠されていた」
「……もしかすると、警察はその密室を、大した謎ではないと考えています?」
「ああ、そうだな」
 九条の推察を、今岡刑事はあっさり認めた。
「推理小説のトリックめいた物なんてと馬鹿にしている訳ではないんだ。簡単に作れる
と判断した」
「そうですよね」
 九条が明るい表情をなす。他の団員三名は、きょとんとしていた。
「リーダー、もう分かったの?」
 書記に徹していた蘇我森晶が、その手を止めて九条に聞いた。
「今聞いていた通り、被害者の内、豊野さんは出入り口の扉の取っ手に、ワイヤーで括
り付けられていた。ということは、豊野さんが拘束を逃れようともがけば、取っ手が動
いて施錠される可能性があるのでは、と考えたの。無論、その程度の力で錠が動くかど
うかは分かりませんが、推測するだけなら充分」
「実験の結果、錠は動き、ロックされた」
 刑事の補足説明に、九条は我が意を得たりとばかりに、満足げに頷いた。が、すぐに
表情を曇らせる。
「やはりおかしい。こんなに簡単な密室なんて、冥の仕業らしくない」
「あ、密室そのものは偶然の産物だったのかもしれないよー」
 両津が閃いたという風に、両手をパチンと合わせた。
「被害者二人を、工場の奥と前の位置関係に固定することが目的だったのかも」
「なるほど……。今岡さん、ワイヤーのたるみはどのくらいありました?」
「三メートルと言ったのは解いた状態での長さで、実質的にはまあ、一メートル強だろ
う。しかも相当に固い代物で、普通の紐のような柔軟性はなかった」
「ありがとうございます。だったら、被害者固定説は充分にありそうですね。換言する
なら、被害者の位置こそが一つの謎であり、トリックの要である可能性が高まりまし
た」
「目撃者はいないんですか。結構大掛かりな犯行みたいだし」
 江尻が刑事に尋ねた。
「事件を直接見聞きしたという人物は、見付かっていない。ただ、前日の夜、大型のコ
ンテナ車が行き来したのを見た人がいる。保冷もしくは冷凍機能を備えたコンテナだっ
たらしい。調べた結果、辺り一帯にそのような車両を当日使用した工場や企業はなかっ
た。だからといって、それが即座に殺人と関連があるかは断定不可能だが、怪しむに足
る証言なのは間違いない」
「冷やす必要……遺体を冷やして、死亡推定時刻をごまかすのが定番だけれども」
 江尻は言ったきり、腕組みをして黙り込んだ。本来、彼女は頭脳労働ではなく、腕っ
節に自信がある方なのだ。
「もしくは、氷を使ったトリック、アイストリックだよね」
 今度は両津。甘い物が大好きな彼女は、アイスクリームの方を思い浮かべていそうだ
けれども。
「そちらの検証は後回しにしましょう。今岡さん、喉を潰されていただの目隠しだのと
いうのは」
 九条が詳しい説明を求めるが、今岡刑事は困惑した風に首を傾げた。
「文字通りの意味しかない。目隠しの方は、何かにこすりつけるなり引っ掛けられるな
りできていたら、取れたかもしれないが、実際にはそのままだった。豊野は三谷根より
あとに殺されたとしても、三谷根の死に様を目撃することなく死んだだろう。三谷根は
声を出せない状態だったから、叫び声も聞かなかった」
「犯人は――冥は、三谷根さんが死ぬところを、豊野さんに見せたくなかった? 向か
い合う位置関係に拘束しておきながら? とても変な感じがします。今岡さん、絶対に
何かあります。三谷根さんと豊野さんとの間に何らかのつながりが」
「そもそも、ないと断定した訳じゃない。継続して調べている。三谷根は女性関係が緩
かったようだから、重点的に」
 そこまで答えたとき、今岡刑事の携帯電話が鳴った。捜査情報の連絡らしく、ディス
プレイを見ると通話せずに席を立って、「ちょっと待っていてくれ」と言い残し、出て
行った。
「どう思います?」
 若干、緊張がほぐれた空気の中、九条が三人のメンバーに聞いた。
「冥の犯行らしくもあれば、らしくないところもあるって感じかな」
 蘇我森が真っ先に答える。書記として記録した情報は、既に保存済みだ。
「理論立てて説明するのは難しいけれど」
「私もです。感覚でよければ、こういうのはどうでしょうか。今までの冥は、殺人プラ
ストリック乃至は謎というスタイルが目立ったのに、今回は殺人方法にトリックがある
ような」
「うん、そんな感覚だね。包丁が三本というの気になるし」
「他に大きなポイントっていうと、やっぱり、冷凍車になってくるのかなぁ」
 江尻が言った。
「有力でしょうね。犯人につながる糸を手繰るのなら、その冷凍車の事件前後の動きを
追跡するだけでもなかなかの成果が上がりそうです。でも、それではトリックは分かり
そうにありません」
「女の人の方の死因がまだ分かってないからか、死亡推定時刻を教えてくれてないよ
ね」
 両津が不満げに口を尖らせた。
「せめて三谷根って人のだけでも教えてくれればいいのに。氷で死亡推定時刻をごまか
すような細工があったかどうか、検討したいし」
「氷を運んでいたと決め付けるのはよくないわ。たとえば遺体を直接、冷凍車で冷やす
というやり方だってある」
 九条に指摘され、両津は素直に「そうだったね、えへへ」と先走りを認めた。
「今岡刑事が出て行ったのって、死亡推定時刻のことかな? 豊野さんの死因が判明し
たとかさ」
 蘇我森が想像を口にしたところで、くだんの今岡が戻ってきた。パーティションの隙
間から身体を滑り込ませ、元いた席に着座する。
「一つ、新たに分かったことがある。君らにも教えられる情報だから、言っておこう」
 この前置きに、少女探偵団四名は身を乗り出した。
「三谷根の遺体には、相当に強い力が加わっていたことが判明した。約三メートルの高
さから、凶器を振り下ろされたと見なせば辻褄が合うらしい」

             *             *

 一ノ瀬メイは馴染みの刑事からの呼び出しに応じ、その証拠物を見せられたとき、
(これは予想外の行幸だ。冥の方から接触してくるなんて!)
 とラッキーに思った。しかし、と彼女は心の中で続けた。
(これほどあからさまに、この私を指名するかのような犯行、いや、指名した犯行はか
つてなかった。どういう心境の変化だ、絡繰り士?)
 一ノ瀬メイの手の中には、一個のルービックキューブがあった。ある変死体の着てい
たジャケットのポケットから出て来た物で、六面全てが不揃いだった。特徴的なのは、
この立方体の各升目――3×3×6=54の升目一つ一つに、アルファベットが割り振
られている点。そして六面全ての色が揃うように完成させると、文字の向きがきれいに
同じになり、ITINOSEMEINITUTAEYOKONOTUIRAKUSHI
NONAZOGATOKERUKAbyMEIの文章が現れた。「一ノ瀬メイに伝えよ
 この墜落死の謎が解けるか 冥より」という訳だ。
「一ノ瀬さん、どうです?」
 刑事の宇月黎葉が、職業意識以上に好奇心を露わにして聞いてきた。一ノ瀬メイがど
んな反応を示すのか、興味津々といった体である。
「書いてある通りだろうね。幸い、時間制限はないようだけれど、もたもたしているの
は性に合わない。早速だけど、事件について教えてくれる?」
「新聞なんかでも報じられたんですよ。確かに冥の犯行と言われれば、いかにもという
感じなんですが。何しろ、ここR県で最大の湖、S湖のど真ん中で見付かった墜死体な
んですから。辺りに飛び込み台なんてもちろんなくて、もしやろうと思えば、飛行機か
ヘリコプターで飛んで来なくちゃならない」
「……まだよく分からないけど、よそで墜落死した遺体をボートで運んではだめなのか
な?」
 ぱっと思い浮かんだ、最も簡単そうな方法を口にする。が、宇月刑事は皆まで聞き終
わらぬ内に、首を横に振った。
「司法解剖の結果、墜落死と溺死が同時に起こったような状態だったんですよ、遺体
は。比較検討の結果、墜落の衝撃がより早く死の原因になったであろうという推測の
元、墜落死とされました。別の場所で墜落死させてからどうこうという方法だと、肺に
大量の水が入りませんよ」
「判断の根拠は分かった。けれども、私が今言った方法でも、あとから肺に水を入れる
ことは可能のはず」
「それがですね、生体反応の痕跡から、死後、肺に水を入れたのではないのは確かだそ
うです」
「ならば、先に溺れかけさせてから、墜落死させるという方法だってあり得る。無論、
水は死体を遺棄する湖から汲んでおく」
「うーん、詳しいことは分かりませんが、そのやり方だと、墜落死と溺死がほぼ同時と
いう判断は出ない気がするような」
「分かった分かった。法医学の結論を尊重するわ。それで、何メートルくらいから落ち
たのかは推測できてるのかしら」
 細かな点で議論していても停滞するばかりと見切りを付け、一ノ瀬メイは新たな質問
を発した。
「およそ五十メートル。十二、三階建てのビルに相当する高さになります」
「五十メートルね。クレーンでも届くのはあるだろうけれど、それだけ大きな重機だと
おいそれと用意できる代物でもなさそうか……。冥ならやってのける能力はあるだろう
けれども、考えてみれば、こんな直接的な方法が答だなんて、冥らしくない」
「でしょ? 絶対に何かあるに決まってます、奇抜なトリックが」
 そう語る宇月は、刑事らしからぬ喜色を浮かべていた。警察の属する人間としては珍
しい部類に入るだろう、推理小説が大好きなのだ。それもこてこてのトリック小説が。
だからこそ、冥の捜査に携われていると言えるし、一ノ瀬メイの相方役に選ばれたとも
言える。
「そうなんだろうねえ。直接的というのであれば、飛行機やヘリを利用するのだって、
同じく凡庸と言える。そういった方法を排除するのであれば――」
 同意してから、一ノ瀬メイは考える時間を少し取った。程なくして、再び口を開く。
「被害者についてまだ何も聞いてないけれど、先に確かめておきたいことができた。私
の知り合いが経験した事件に、似た感じのがあった。そのトリックの応用で、この墜落
死体の謎も解明できるかもしれない」
「え、そうなんですか? どんな事件だったんです?」
 驚いてますよと全力で主張するかのように、目をまん丸にした宇月。一ノ瀬メイは笑
いをかみ殺しながら応じた。
「説明の前に、教えて。S湖の水深は? 遺体の見つかった地点の付近でいいから」

             *             *

 本格推理小説を、「不可能を可能にする文学」と言い表したのは誰だったか。
 そして、その言葉を聞いて、「不可能が可能になるもんか。不可能はできないから不
可能なんだ」云々とやり込めたのは誰だったか。ともに有名な探偵作家だったことは間
違いないのだが、名前までは覚えていない。
 年を食ったのを改めて自覚し、探偵の流次郎は嘆息した。続いてまた思い出した。
「名探偵にとって死は恐くないが、老いほど恐ろしいものはない」というようなこと
を、歴代の名探偵の誰かが言っていたはず。いや、あれは確かパロディ作品に登場した
名探偵だったから、本物が口にした言葉とは言えないのか?
 まあ、今はどうでもいい。それに、自分自身の記憶力が、偏りこそあれ、さほど衰え
ていないことを確かめられたように思えて、流は気を取り直した。これで、眼前の事件
に集中できる。
 そもそも、「不可能を可能にする文学」なんていうフレーズを想起したのは、現場の
状況のせいだった。
 展開されていたのは、ミステリにおいては今や古典的な謎と言える、足跡なき殺人。
現場となった一軒家は、別荘と呼ぶのを些か躊躇させる規模と佇まいを持っており、別
邸と呼ぶのがふさわしい。そこの庭に白砂が敷き詰められ、流麗な模様を浮かび上がら
せていた。問題の遺体は、その枯山水のほぼ中央に配された巨大な石――舞台のように
平らな面がある――に、腰掛けるような格好で置かれていた。砂の模様に乱れはなく、
何者も行き来していないように見えた。庭園の枠の外から石までの距離は、一番近いと
ころでも、七メートルはあろう。足元の状態や石の高さなどを考慮すれば、ジャンプし
て飛び移れるものではない。たとえ成功しても、帰ってくることができない。石の上で
は助走距離が全く足りないからだ。
「――そして、これが一番の問題かもしれんのですが」
 刑事の吉野が言いにくそうに間を取った。
「何があったんです?」
「実は、被害者の細木氏は足が不自由で、普段は車椅子を使っていたんですな」
「なるほど。そんな人物をあそこの石までどうやって運ぶのか。少なくとも、自力では
行けそうにない、と」
「ええ。自殺はあり得ないことになる」
 細木海彦の死因は失血死と考えられていた。頸動脈の辺りをすっぱりと切られ、流れ
出た血が石を赤くしている。凶器と思しき剃刀は、細木の右手のすぐそばに落ちてい
た。これが自殺であったのなら、どんなに楽か。

――続く




#491/598 ●長編    *** コメント #490 ***
★タイトル (AZA     )  16/12/29  20:36  (299)
絡繰り士・冥 1−2   永山
★内容                                         19/01/17 02:34 修正 第3版
「この邸宅は細木海彦の所有で、剃刀もこの家にあった物。本邸は二十三区内にある
が、芸術家として名と財をなした細木氏は、気が向いたときにふいっと姿を消して、こ
ちらの屋敷に滞在することがあったという話でさあ。そのときの気分次第で、枯山水を
こしらえるよう、専門業者へ前日に注文が出されることもあった」
「今回はどうだったんです?」
「やや余裕があったな。二日前に注文があって、せっせと作り上げたと」
「その業者が犯行に関わっている可能性は?」
 流は、数多い選択肢を潰す意味で聞いてみた。もし犯人が枯山水作りを得意としてい
るのであれば、足跡のない謎なんて存在しないことになる。
「アリバイあり、動機なし。ついでに言えば、ご丁寧にも、この枯山水の仕上がりを写
真に収めていた。その写真と現場を見比べることで、他人によって枯山水が破壊され、
作り直された可能性はないと判断できた。一度壊してしまうと、細部まで完全に再現で
きるものではないという訳ですよ」
「元々の形がちょっとでも崩れたような箇所は、なかったんですか」
「そりゃまあ、渦巻きの尾根がちょこっと崩れたというような箇所はありました。だ
が、それくらいなら強い風が吹いたり、大きな虫が通ったりするだけでも起こることで
すからな。だいたい、その程度の小さな痕跡があったって、人一人が行き来できるよう
になるはずないでしょう」
「……まあ、そういうことにしておきましょう。被害者は、ここへは一人で滞在してい
たのですか? 足が悪いのなら、世話をする人が一人はいそうですが」
「いや、それが一人だった。芸術家っていうやつなのか、細木氏がここへやって来るの
は、インスピレーションを得るのが目的で、そのためには他人の存在を邪魔に考えてい
たんですな。だから、車でさえ特別しつらえにして、自分で運転できるようにし、本邸
からここまで一人で来たみたいで。食事は、買い込んでおいたインスタントや缶詰なん
かで、充分だったようです」
「掃除は我慢するとして、トイレや風呂はどうするんだろう。一人でできたのかな」
「できたと聞きましたし、実際、出発時は一人だったことは確定しとりますよ」
「途中で誰かを乗せたかもしれない、と」
「まあ、可能性はある。犯人を乗せた可能性がね。だが、被害者の車は残っとりますか
らな。ここまで同乗してきた奴がいて、そいつが犯人なら、ここから立ち去る手段に困
る。タクシーを呼ぶ訳にもいかんでしょうから、恐らく犯人は自前の車で来たんでしょ
うよ」
「なるほど、納得したよ、吉野刑事」
 そこまで言って、流はふっとしゃがみ込んだ。虚を突かれた形になった吉野が、慌て
た風に目線を落とす。
「何か見付けましたか」
「この葉っぱ……」
 流の指は、地面に落ちていた黄色い木の葉を示していた。正確には、木の葉の形をし
ていた物、となるだろう。親指ほどのサイズのその葉っぱは、元の形状を残しつつも、
諸々に崩れていた。わずかに、葉脈のラインが木の葉の骨格のように残っていた。
「その葉っぱが何なんです?」
「こんな崩れ方はおかしいんじゃないか。少なくとも、珍しいと思う。普通の枯れ方で
はないし、腐った訳でもない。虫に食われたのなら、こんなに粉は残らないだろうし…
…」
「うーん、言われる通りかもしれんが、気にするようなことですかね」
 刑事もしゃがみ、指先で葉っぱにちょんと触れた。その拍子に、葉脈の部分までが、
ぽきりと折れた。
「お、随分と脆いな。力ずくで揉み潰したみたいだ」
「――吉野刑事。これは証拠になるかもしれない。保管することをおすすめします」
 流が真剣な口調で告げると、吉野刑事は一瞬、怪訝な顔をしたが、すぐさまその表情
を消すと、言われた通りに証拠袋に問題の葉を収めた。
「何なんです、一体」
「ええっと……事件の状況を聞いて最初に私が思い付いたのは、水を注ぎ入れて庭園全
体を池にして、ゴムボートか何かで遺体を運んだという方法でした」
「そりゃ無理だ」
「ええ。現場を見て、撤回しました。ここまで見事な枯山水だと、水をどんなに静かに
注ぎ入れても、崩れてしまう。第一、水を溜めるだけの枠が、この庭園にはない。注い
でも注いでも、流れてしまうだけ」
「でしょうなあ。それで、この葉っぱを見て、別の方法を思い付いたと」
 流は頷いたものの、「まだ確信は持てませんが」と前置きした。
「この葉っぱ、極めて低温に晒されたんじゃないかと思うんです」
「低温というと……この辺は真冬でもマイナス二、三度ぐらいですかね。ここは高度が
あるから、もう少し下がるかもしれないが、今はまだ秋口だ。そんなに下がるとは思え
ませんな」
「犯人が意図的に低温にしたんです。液体窒素を持ち込んでね」
「液体窒素? ああ、昔、テレビコマーシャルでありましたな。バナナで釘を打つと
か、薔薇の花が粉々に砕けるとか」
「はい、あれからの連想になります。葉っぱは低温のために諸々になったんじゃないか
と考えた」
「ふむ。液体窒素をおいそれと運べるかどうかは調べないといかんが、意見としては面
白い。液体窒素を犯人はどう使ったと?」
 問い掛けに、流は立ち上がりながら答えた。
「枯山水を崩さぬよう、固めるために」
 刑事も続いて腰を上げる。
「ほほう? 果たして、液体窒素を撒くだけで、この枯山水全体が固まるでしょうか
ね」
「全体を固める必要はない。遺体を運び、また戻れるだけのルートを確保できさえすれ
ばいい。被害者の足が不自由だった点から推して、車椅子が通れる幅があれば、事足り
るんじゃないかな」
「しかし、そもそも液体窒素を撒いただけで、砂が固まるもんですかな?」
「水分を含んでいるだろうから、固まるはず。もし足りなければ、加えてやればいい。
霧吹きでも用意して」
「まあ、霧吹きの霧ぐらいだったら、砂は崩れませんな。で、犯人はかちこちに固めた
砂の上を、ゆうゆうと進んで遺体を運んだと」
「いや。直に触れて進むと、さすがに崩れそうだ。固さは脆さに通じるからね。多分、
重量を分散するために、平らで長くて丈夫な板を用意したんじゃないかな。板を渡し掛
けて、その上を進めばいけると思う」
「うむむ。実験をしてみたいところだが……」
 吉野刑事は難しい顔をして、腕組みをした。
「葉っぱ一枚じゃあ弱い。もう一つ二つ、決め手が欲しいな」
「そこいらを掘り返せばいいさ。葉っぱ以上に“冷凍”を窺わせる証拠が見付かるかも
しれない」
「何だ、それは?」
 首を捻った刑事に対し、流はほんの少し笑ってから答えた。
「幼虫やミミズの類ですよ。凍死したのがあるはず」

             *             *

 一ノ瀬メイが逗留している宿に、朝早くからやって来た宇月刑事は、報告書を手に、
嬉しそうに話していた。艶のある長めの髪をかき上げ、弾んだ声で告げる。
「ご指摘の通り、倒産したエア遊具メーカーの工場周辺で目撃者を探したところ、何度
も出入りしていた男がいました。冥もしくは冥の仲間かどうかはまだ分かりませんが、
割と特徴的な顔立ちだったようなので、ひょっとしたら行方を掴めるかもしれません」
「その工場から、遊具は持ち去られていたの?」
 朝食をほぼ終えた一ノ瀬メイは、コーヒーカップを口に運んだ。通常は食堂まで出向
いていただく物なのだが、特別に部屋まで持って来てもらった。捜査中の事件の話をす
るのに、人の出入りが多い食堂はふさわしくなかった。
「はい。幸い、記録が残っていて、何がなくなったか把握できました。なくなった物を
つなぎ合わせると、五十メートルくらいになります。もちろん、直方体なんかは、長い
方を採用したとしてですが」
「湖底に設置しようとすると、アンカーが絶対にいるだろうし、空気を送り込む機械も
必要になる。その辺りは?」
「アンカーは確認できました。さすがに持ち帰ることは難しかったみたいで、湖底を捜
索すると、割と早く見付かっています。方々から集めたのか、大きなコンクリートブロ
ックや金属の球で、回収の方が大変だったみたいですよ」
「送風機は?」
「同じエア遊具メーカーにあるにはあったんですが、会社を畳む直前に売り払っていま
した。だから、そこから持ち出したんじゃあないですね。鋭意捜査中です」
 そこまでは難しかったか。だが、一ノ瀬メイは一定の安心を得た。
 この墜落死事件の犯人、恐らく冥は、S湖の水中に巨大な空気のタワーを用意するこ
とで、墜落死と溺死がほぼ同時に起こる状態を拵えたのだろう。天辺が湖上から覗くよ
うにして、そこへ被害者を横たえた。無論、被害者を眠らせるなり何なりして、意識を
奪っておかねばならない。それから空気のタワーを崩壊させる。膨らんでいた風船を破
裂させるのだ。すると被害者を支えていた足場は瞬時に消失し、結果、被害者は五十
メートルの湖底へと真っ逆さまに落ちる。それとほとんど同時に、周囲の水も流れ込ん
でくる……。
 五十メートルにも及ぶ空気のタワーを作るには、巨大な容れ物がいる。真っ先に思い
浮かんだのが、エア遊具だった。デパートなどが主催する子供向けのイベントでたまに
設置される、ビニールを膨らませた滑り台や、中で飛び跳ねて遊べるような遊具だ。調
べてみると、あつらえたかのように、R県内で倒産したメーカーが見付かった。
「これで決まりと言っていいでしょう。それにしても、こんな大掛かりで馬鹿げた殺害
方法を考え出し、実行する冥も冥ですが、見破る一ノ瀬さんも相当ですね」
「前も言ったように、今回は私一人で思い付いたんじゃないんだけれどな」
 宇月の称賛とも呆れとも取れる言い様に、一ノ瀬メイは肩をすくめた。冷めたコー
ヒーの残りを飲み干すと、懸念も表しておく。
「気になるのは、冥の意図だね。この捜査で捕まるかどうか分からないけれど、正直言
って、私は当てにしていないから」
「ひどいなあ」
「だってそうでしょ? 今回の犯行は、冥らしさとそうでない部分が同居してる感じ
で、気持ち悪い。向こうから私にアプローチしてくるのだって珍しいし、遊具メーカー
の近くで事件を起こすなんて、わざと解かせたがってるみたい。基本的に冥は動機なき
殺人、無差別に被害者を選んでいるはずだから、場所はどこでもいいだろうに」
 そこまで言ってから、一ノ瀬メイははたと思い出した。しきりに納得している宇月刑
事に、改めて聞いてみた。
「そういえばまだ知らされていないんだけれど」
「何をですか、一ノ瀬さん」
「この事件で死んだのって、誰なの」

             *             *

 豊野茂美の死因が特定された。窒息死、それも二酸化炭素によるものだった。
 その情報が新たにもたらされたとき、少女探偵団リーダーの九条は、事件の全貌が見
えたような気がした。
「水曜会議を始めます」
 定期的に開いている、少女探偵団の会議のスタートを告げた九条。今回集まった場所
は、九条の自宅だ。
「議題は当然、三谷根さんと豊野さんが殺された工場の事件です。今岡刑事に考えを聞
いてもらう前に、私達で充分に検討しておきましょう」
「するっていうと、若菜はもう何か思い付いているのね。凄い」
 江尻が感嘆したようにため息とともに言った。九条は九条で、戸惑いを纏った笑みを
返す。
「早いだけで正解でなければ、意味はあまりありません。それよりも、みんなの意見を
先に聞きたいのです。先入観を持つのを避けるのは難しいでしょうが、なるべく公平に
判断するつもりですから」
「私は当然、なし」
 江尻は左隣の二人を見やった。両津が反応する。
「部分的でもいいの?」
「無論です」
「じゃあ……三メートルの高さから刺すなんて、あり得ない話だよね。でも鑑識や司法
解剖で、そうそう誤りが出るとも思えないし。だからあれは、遺体の向きが発見された
ときとは違ってたんじゃないかなって思った」
「刺されたタイミングが、遺体が壁にもたれかかっていたときではなく、別の姿勢のと
きと考えるんですね」
 九条が察しよく答えると、両津は強く首肯した。
「たとえば、完全に横になっている場合とか。床を滑ってきた刃物が刺さったら、三
メートルの高さから刺さったと判断されるかも」
「ちょっと。距離の問題じゃないでしょ」
 蘇我森が指摘する。
「力と角度が重要なんじゃないの? 三メートルの高さから落下したときとおなじくら
いの加速が必要になると思う。今の説だと、角度はともかく、力は弱まりそう」
「じゃあ、あきちゃんは何か思い付いてるの?」
 やり込められて悔しかったのか、両津は食ってかからんばかり有様だ。蘇我森は「私
も部分的だけど」と断ってから、九条へと向き直った。
「冷凍車が使われたんだとしたら、やっぱり、氷を何かに使ったという考えが、頭から
離れなくって。それでね、さっきはあんな言い方をしたけれども、重子の考え方に基本
的には似てるの。つまり、姿勢が違ってたんじゃないかっていうところ」
「あ、分かった」
 両津と江尻がほとんど同時に言った。ここは両津が譲る。
「三メートルの高さを氷で稼いだんだ? たとえば氷で、高さ三メートルの雲梯みたい
な物を作って、上に被害者を横たえる。当然、意識を失わせ、自由を奪っておく。一
方、その真下には、凶器の刃物を立てておく。必要なら、充分に大きな氷で固定すれば
いい。時間が経つと雲梯の氷が溶けて、遺体は落下。肩口に刃物が刺さる――こんな感
じ?」
「ええ、まあ、そんな感じ」
 蘇我森は口調を真似て返事した。そして三人の目がリーダーに集まる。
「二つとも独創的な案で、いいんですけど……」
 九条は言いにくそうにしつつも、程なく、きっぱりと言った。
「どちらも違うと思います」
「うん、それも分かってる」
 蘇我森が苦笑いを浮かべて即応した。
「私が言ったやり方じゃあ、現場が水浸しになるし、三谷根さんだっけ、被害者の姿勢
が発見時とそぐわなくなる。まあ、犯人が遺体を置き直したと考えてもいいんだけれ
ど、それじゃあ何のために自動殺人トリックを用いたのか分からなくなっちゃう。ただ
単に、身長三メートルの大男に刺されたという構図を演出したい、なんてのもなさそう
だし」
 二案にだめ出しがなされたところで、九条はこほんと咳払いをした。
「では、私の仮説を聞いてください。発想の源は、豊野さんの死因から」
「二酸化炭素による窒息死ってやつね」
「はい。二酸化炭素と言えば、ドライアイスです。ドライアイスと言えば、氷の代わり
になります」
 九条以外の三人から、あ、という息が漏れたようだった。
「犯人が冷凍車で持ち込んだのは、大量のドライアイスだったのではないかと考えてみ
ました。気密性の高い建物内で、ドライアイスが解けたために二酸化炭素が充満し、豊
野さんの命を奪った」
「……納得した。けど」
 江尻が三人を代表する形で質問する。
「そのことと高さ三メートルからの刺殺は別物なの?」
「いえ。つながっていると推測しています。犯人はドライアイスを、大きな板状の形で
用意したのだと思います。それも少しずつサイズを変えた板を、何枚も」
「うーん、よく分からない……」
「ドミノ倒しです。ドライアイスの板を何枚も立てて、端っこの小さな板をちょんと押
すと、段々と大きなサイズのが倒れていき、最後には高さ三メートルの板が倒れ、前も
って上端の辺りに埋め込まれていた刃物が、三谷根さんを刺し殺した。その後ドライア
イスは気化して、豊野さんの命を奪いつつ、消え失せます」
「何とも凄い絵面の殺人トリックだわ」
 感嘆と呆然が混じったような感想を漏らす江尻。代わって、両津が口を開いた。
「じゃ、じゃあさ、ドミノを押したのは誰なのよ? 犯人が自分で押したんだったら、
トリックの意味、あんまりなくない?」
「うーん、押したのは犯人かもしれないし、そうでないかもしれない。現時点では、判
断できないわ」
 九条はそこまで言ってから一呼吸置き、やがて思い切った風に付け加えた。
「ただし、誰が押したのかは、想像が付いている」
「どういうこと? 犯人かどうか分からないけれど、押したのが誰かは分かってるだな
んて」
「その誰かが、悪意を持った犯人、もしくは犯人の仲間かどうかは分からないっていう
意味よ。ここまでの話で想像できてるかもしれないけれど、私が思い描いているのは、
豊野さん」
「豊野さん? 拘束されていたのに?」
 再び江尻が聞いた。
「拘束されていたと言っても、足は動かせたはず。豊野さんと三谷根さんとの間に、さ
っき言ったドミノが並べてあったとしたら。最初の小さなドミノに、爪先が当たる位置
にね」
 江尻、両津、蘇我森はそれぞれ上目遣いになった。情景を脳裏に描いているのだろ
う。
 次に口を開いたのは、蘇我森だった。
「その位置関係だと、ドミノを押したのは豊野さんの意志か、それとも拘束を逃れよう
ともがいた弾みかは分からないってことね」
「ええ。豊野さんは目隠しをしていたから、自分の足元に殺人ドミノがあるなんて気付
かなかったのかもしれない。一方の三谷根さんは声を出せなくなっていましたから、彼
自身の危機を豊野さんに伝えることはできなかったでしょう」
「そういうことなら、内側の鍵がロックされたのも、豊野さんの意志かどうか不明にな
るんだ……。でも、最後に死んじゃってるんだから、やっぱり犯人じゃないんじゃな
い?」
 両津が述べたのに対し、九条はまたも首を横に振って、肯定しなかった。
「冥が主犯、豊野さんが従犯の関係で、最後に冥が豊野さんを切り捨てたのかもしれな
い。ドミノがドライアイス製だとは伝えずに、ただの氷製と言っておけば、安心して協
力するでしょうね。後に発見されたとき、三谷根さんは殺されたが、豊野さんは危ない
ところを発見されるというシナリオだったのかも。ドミノが消えることで、豊野さんが
三谷根さんを殺したようには見えない訳ですし」
 九条の推理に、両津達は改めて感心したらしく、それぞれ何度も首肯を繰り返す。そ
れから蘇我森が新たな問題を提起した。
「もしも、豊野さんが三谷根さんを殺したのだとしてよ。動機は? 動機なしに冥に協
力するかしら」
「さっき述べた推理通り、豊野さんが遺体とともに見付かる役目を負うつもりだったの
なら、かなり危ない橋を渡ることになります。普通、動機なしに協力はしないはず。警
察が調査を続けているのですから、きっと動機が見付かると信じています」
 九条は思いを込めて断言した。
「さあ、この推理を私達少女探偵団の総意として、今岡刑事にお伝えするという方針
で、よろしいでしょうか?」

             *             *

 ここ数日の新聞等による報道を見聞きして、冥は満足していた。
 自分が前辻能夫よりも優れていることを、自身の内で証明できた。当たり前のことで
あったが、証明できたことでよりすっきりした。全ては心の安寧のために。
 それと同時に、自分の鑑定眼に狂いはなかったとも確信を持った。好敵手と認めた探
偵達は皆、今度のテストをクリアしたのだ。今後の人生が楽しいものになる。そう保証
された。
 と、一定の満足を得た冥だったが、喜びに浸っている時間はあまりない。次の仕掛け
が待っている。
 この春先からこっち、将来有望そうな若い探偵の存在を掴んでおきながら、彼の実力
を試す機会がなかなか得られなかった。遊戯的殺人の謎を続々と解いていることから、
能力は確かなように思えるが、念には念を入れ、冥自身が直接試しておきたい。そう、
九条若菜を試したときのように。
(十文字龍太郎、か。高校生ということは、九条若菜よりは年上だけれども、まだ若
い。不安材料は、知り合いに一ノ瀬メイがいるという点かな。これまでの十文字の手柄
は全て、彼の独力によるものだったのか。そこを含めて、きっちり査定してあげよう)
 冥は頭の中にある数々のプランから、条件に合うものを絞り込みつつあった。
(できるものなら、被害者には殺し屋さんを選びたいね。私のような者にとって、プロ
の殺し屋は近いようで遠い存在。似ているようで、まるで違う。遠くでうろちょろした
り、すれ違うだけならよかった。でも、ここ最近は前辻の件を含めて目障りになってき
た。警告を発するのに、ちょうどよい頃合い)
 絞り込みや選定にいよいよ熱を入れる冥。テレビをつけっぱなしでいたのだが、消し
た方が集中できるだろう。
 リモコンを向けた先のテレビでは、ニュース番組のキャスターが、殺人事件の詳報を
伝えていた。
<――警察の発表によりますと、豊野茂美の実母が三谷根から――>

――終わり




#492/598 ●長編    *** コメント #479 ***
★タイトル (AZA     )  17/01/25  21:13  (  1)
目の中に居ても痛くない!3−1   永山
★内容                                         23/07/17 21:58 修正 第2版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#493/598 ●長編    *** コメント #492 ***
★タイトル (AZA     )  17/01/25  21:14  (  1)
目の中に居ても痛くない!3−2   永山
★内容                                         23/07/17 21:58 修正 第3版
※都合により、一時的に非公開風状態にします。




#494/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/03/30  22:43  (497)
そばにいるだけで 65−1   寺嶋公香
★内容                                         17/06/08 12:44 修正 第3版
 新学年二日目、学校からの帰り道。唐沢は愚痴をこぼしっ放しだった。「忙しくなけ
りゃ、涼原さんを指名したのに」だの、「こんなことなら、テニス部に入っておけばよ
かったよ」だのと、前の日にも言っていたフレーズをぶつぶつ繰り返す。
 今日中に決めるよう言われていた副委員長のポストを、まだ決められないでいる。先
生に頼んで、もう一日だけ延ばしてもらうのに苦労したらしい。そのため、委員長を引
き受けたこと自体を後悔し始めている。
「修行だと思えばいいじゃない」
 駅に着き、結城が笑み混じりに口を開く。唐沢、相羽、純子達と別れ、反対側のプラ
ットフォームへと向かう間際のこと。
「しゅぎょお〜?」
 どんな漢字を当てはめればいいのか分からない、という風に唐沢が聞き返す。
「敢えて苦手な人を選ぶとか、それができないなら、くじで決めるとか。そうすれば経
験値が上がるってもんよ」
「……何と不謹慎な」
 間を置いてから答えた唐沢。反論を色々考え、最適なものを選び出したらしい。
「そんないい加減に副委員長を選ぶのは、よいことじゃないなあ」
「だったら、まず、自分自身がいい加減じゃないようにしないとね。――じゃ、バイバ
イ」
 駅アナウンスが流れる中、結城はさらに上手を行く切り返しを見せた。そうして、反
対側のプラットフォームへと急ぐ。ちょうど入って来た列車に乗り込む姿が、純子達の
いる位置からも確認できた。
「うるさいのが行ってくれた」
 列車が遠ざかるのを最後まで見送り、やれやれと芝居めいた息をつく唐沢。それから
おもむろに振り返ると、相羽に対して言った。
「という俺自身も、お邪魔虫か。二人で話したいことがあるんなら、今日のところは消
えてやろう」
「別にないよ」
 相羽に続いて、純子が答える。
「そうよ。気を遣われたら、かえって話できなくなる」
 この返事に唐沢が食いついた。
「うん? 話ができなくなるってことは、したい話があるってことじゃ?」
「あ」
 口元を押さえる純子。相羽に聞きたいことがあるのは本当だが、今すぐのつもりはな
かったのだ。
 相羽を見やると、彼も純子の今の台詞に引っ掛かりを覚えた様子。どうしたのと、目
だけで聞いてくる。
「な、内緒話ってわけじゃないし。――あ、ほら。来たわ」
 結局、車内で続きを話すことに。時間帯が早いため、座席は充分に空いていた。他人
の耳をさほど気にすることなく、お喋りできる。
「昨日の朝のことなんだけれど」
 純子は左隣に座った相羽に尋ねた。本当は昨日の下校時に尋ねるつもりだったが、タ
イミングを逃し、聞きそびれてしまっていた。
「教室に来るの、遅かったよね。生徒指導室に行っていたとも聞いたんだけど、何かあ
った?」
「あ、それ、俺もちょっとだけ気になってたんだ。珍しく、叱られるようなことでもし
たのかと」
 右隣の唐沢もまた、相羽へと顔を向けながら軽口を叩く。相羽はそんな質問をされた
こと自体意外そうに、何度か瞬きをした。コンマ数秒の間を取って、口を開く。
「生徒指導室に行ったのは本当だけど、大した話じゃないよ」
「もったいぶらずに言えって。気になる」
「――みんなやることさ。進路とか受験とかの相談」
「もう?」
 声を揃えたのは、相羽の答に驚いた純子と唐沢。乗客が少なめであるせいか、響いた
ような気がする。
「いや。悪い、勘違いさせたみたいだ。二年になったら、じきに三者面談があると聞い
たから、いつ頃なのかを確かめたんだ」
「ん? 何のために」
「五月上旬ぐらいまでだと、母さんの都合の付く日があまりなくて」
「なるほど。理解した」
 声に出してうなずく唐沢。純子も納得していた。一つの疑問を除いて。
「でも、わざわざ生徒指導室でするなんて……職員室で済むのに」
「職員室は始業式で慌ただしい雰囲気だったから、『場所を変えよう』と神村先生が」
「なあんだ。生徒指導室に行ったって最初聞いたときにびっくりして、損した気分」
「そういえば、ついでのときでいいから伝えておいてくれないかと、先生に頼まれてい
たんだった」
 と、相羽が改まって見つめてくる。純子は気持ち、のけぞった。電車の微振動が不安
感を増幅させるような。
「え、何なに? まさか、呼び出し?」
「違う違う。『三者面談のとき、芸能活動について聞くから、そのつもりでいるよう
に。今後在学中の一、二年、あるいはもっと先の将来のことも含めて、考えをある程度
まとめておいてくれ』だって」
「あっ、そういうことなら」
 ほっとした。けど、別の意味でどきどきする。仕事――学校側から見ればアルバイト
――のことに触れられるのは、気が重い。
「考えをまとめるも何も、続けるんだろ?」
 唐沢が口を挟む。視線はよそを向いている(車内の女性に目移りしているらしい)の
だが、友達の会話は逃さず聞いていたようだ。
「……将来、と言われたら、迷っちゃう」
 純子の声は、その言葉通り、迷いの響きを含んでいる。少し前、事務所で市川から言
われたことも思い出していた。
「今は好きでやっていることだけれど、運がよかったというか、周りの人に支えてもら
った結果だものね。他にもしたいことあるし……。改めて考えると、難問かも」
「えー、やめないでよ。続けてほしいな。何ってたって、友達に芸能人がいたら自慢で
きるっ」
「唐沢君たら」
 冗談とも本気ともつかぬ台詞に、純子は気抜けしたような笑いをため息に乗せた。
「純子ちゃん、唐沢に紹介できるような仕事仲間っている?」
「え?」
 相羽のひそひそ声による質問、その意図が分からなくて、純子は首を傾げた。
「いたら、紹介してやって。芸能人の友達がいれば、唐沢は満足できるみたいだから」
「いっそ、唐沢君自身をモデルか何かに推薦してあげて――」
 遅まきながら察し、調子を合わせる純子。声のボリュームは、すでに通常レベルにな
っていた。
「二人とも、それは誤解だ。ボクは悲しい」
 唐沢はしっかり聞いていた。
「相羽の前で言うのも何だが、俺、涼原さんのファンだもんね。応援するし、ああいう
世界でどこまで行けるのか、見てみたい」
「今でもあっぷあっぷなのに、期待されても困るなぁ」
「いやいや。もし学校がなかったらどうよ。仕事に集中できるわけで、絶対に行けるっ
て」
「唐沢、これ以上忙しくさせてどうする。少しは考えろって」
 呆れ口調で、相羽。対する唐沢は、膝上の学生鞄を手のひらでばんと叩き、心外そう
に反論する。
「聞いてなかったのか。学校がなかったらっていう仮定の話だ。今より忙しくなるかど
うか、分からないだろうが」
「今は学校があるという理由で、セーブしてもらっているようなものなんだ。その盾が
なくなったら、忙しくなるに決まっている」
「――知らねえよ、そんなこと。知らなかったんだから、仕方ないだろ。もっと人気出
てほしいと思うのは、悪いことかい?」
 徐々に、だが確実に熱を帯びるやり取り。二人の間に挟まれた純子は、自分に関する
話だけあって、身が縮む思いを味わう。相羽も唐沢も、自分のことを思ってくれるが故
の発言。たまらなくなる。
「やめて」
 小さいがしっかりした声で、きつく止めた。その響きにただならぬものを感じ取った
か、男子二人は静かになる。
「もう。さっきまで普通に話していたのに、どうしてこうなるのよ……」
「分かった。もうやめる。――な?」
 相羽は唐沢へと目線を移した。唐沢も空気を読んだか、即座に調子を合わせる。
「ああ。こんなに仲いいんだから、安心してよ、すっずはっらさん」
 席を立ち、ハイタッチ、と言うよりも“せっせっせ”のような格好で手を合わせる唐
沢と相羽。純子は二人の間で、今度は笑い、和ませてもらった。
「さすが、委員長」

           *           *

 昼休み、電話を終えて教室に戻った白沼は、すぐさま純子の席を目指した。父から仕
事上の伝言を受け、伝えねばならない。
「――ちょっと。何寝てるのよ」
 ハンカチを敷いた机に頭をもたせかけ、顔を横向きにし、腕は下にだらんとさせた姿
勢でいる純子。その姿を見て、白沼はつい声を荒げた。正確には、純子の隣の席で、相
羽が同じ姿勢で休んでいるという理由が大きい。顔はどちらも右向き。見つめ合う形に
なっていない分、許せるものの……今日は朝一番に、精神的にちょっとハードルを越え
ねばならない出来事があったので、どうしても声が刺々しくなる。
「ん? ああ、白沼さん」
「全く。休み時間に熟睡するなんて」
「……眠るなら授業中にしなさいと?」
 本格的に寝入っていたらしく、純子は半眼のまま、ぼんやりと返事をした。
「昔に比べて、また妙に理屈っぽくなったわね。まあいいわ。仕事で忙しいんでしょう
し。パパからの伝言があるの」
「パパ……ああ、白沼さんのお父さん」
 かぶりを振り、頭の中をすっきりさせる風の純子。次いで、自らの身体のあちこち
を、ぺたぺたと触る仕種を繰り返した。
「……何をしているの」
「――あった。お待たせ」
 純子の手には、シャープペンシルと表紙が桜色のメモ帳が。
 白沼は片手を額に当て、純子が完全に目覚めていることを確認してから、用件を伝え
た。
「――いい? 変更したのがまた取り消されたから。分かったわね?」
「うん、了解しました。ありがとう……って、どうして白沼さんが、わざわざ」
 疑問を口にしつつ、純子は持たされた携帯電話のメール機能で、変更の知らせを受け
たことを関係各所に報告する。
「電波の具合が悪いところにいるのか、そっちの人が掴まらなくて、私に連絡してきた
まで。考えてみれば、学校にいる間は、こうする方が確実に伝えられるわけよね」
「じゃあ、これからもこういうこと、あるのかな」
「かもね。まあ、今日はあなた達がべたべたしていなかったから、素直に教えてあげた
けれど――」
 と、通路を挟んで逆側の相羽を一瞥し、また視線を戻す白沼。
「――見せつけられたら、どうしようかしら。教えてあげないか、嘘を伝えるかも」
「そ、そんな恐いこと、白沼さんはしないわよね」
「当たり前でしょうが。責任を持ってきちんと伝えなくちゃ、私が叱られる」
 強い調子で答えると、白沼は改めて相羽の方を見やった。この近距離で、結構声高に
お喋りしたのに、微動だにせず眠っている様子だった。
「涼原さん、あなたがちょっとでも眠ろうとするのは理解できる。でも、相羽君は何
故?」
「何故と言われても、ずっと一緒にいるわけじゃないし」
「……ずっと一緒にいられてたまりますか!」
 目元を赤くした白沼は、急いで叫んだ。“ずっと一緒”で“二人揃って寝不足”、こ
の二つからよからぬ想像をした自分を打ち消そうと、何度か首を横に振る。
「そ、そりゃあ、あなた達はもう公認の仲ですから、ええ、悔しいですけれど、そうな
んですから、いかにもなことに及んでも第三者が口出しする領域じゃありませんわよ。
ですけど、高校生に分相応な」
「白沼さん、何を言っているのか分かんない……」
「ともかくっ。彼氏のことを、把握できてないの? 学校以外で直接会う時間は少ない
でしょうけど、それでも電話ぐらい当然、頻繁にしてるんでしょうに」
「電話ならするわ。でも、頻繁なのかな……。話の中身だって、その日の出来事を互い
に伝え合うのがメインで、あとは、宿題で分からないところを聞くぐらい」
「私が言うのも変だけれど……デートの約束や悩み事の相談、していないの?」
 相羽が目を覚ましていないのを再度確かめ、白沼は聞いた。
「デ、デートは、なかなか都合が付かなくて……。悩みは、なるべく言わないようにし
てる」
「どうして」
「今の私の悩みって、仕事絡みがほとんどだから、相羽君に言っても困らせるだけと思
って。事務所の人に聞けば、だいたい解決するしね」
「なるほどね。あなたがそれだから、相羽君も悩みがあっても、言い出せないのかもし
れない」
「そんな」
「じゃあ、聞いたことあるの? 『最近、疲れているみたいだけど、どうかしたの?』
とか」
「一度だけ。『大丈夫。ピアノのことを考え過ぎたみたいだ。心配させてごめん。あり
がとう』っていう返事だった」
「……」
 二人のやり取りを想像すると、そこはかとなくしゃくに障った。なので、平静になる
ために、しばらく間を取る白沼であった。
「……そう聞いたあとも、この調子なんでしょうが。もっと、何度でも尋ねなさいよ。
心配させて悪いと思っているのなら、こんな風にはならないんじゃなくて?」
「私も気になってるわよ。でも、同じことで繰り返し聞かれるの、相羽君は嫌がるは
ず」
「それにしても――」
 白沼は反駁を途中でやめた。相羽が起き出すのを、目の端で捉えたためだ。彼女の目
の動きを追って、純子も相羽へと顔を向ける。
 相羽は、時計を見やると、安心したように次の授業の準備を始めた。午後最初の授業
まで、あと十分ほどある。
「ねえ、相羽君」
 白沼は、自分の存在をまるで気にかけない様子の相羽を腹立たしく思いつつ、声を掛
けた。純子の最前の言葉――同じことで繰り返し聞かれるの、相羽君は嫌がる――を思
い起こし、私が聞く分には問題ない、と考えたのだ。
「近頃、昼休みに眠っていることが多いようだけれど、どうかしたの?」
 相羽は白沼から純子へと視線を動かし、また戻した。瞼を一度こすって、普段に比べ
て早口で答える。
「単なる寝不足。昨日、観たい映画が深夜にあって、録画予約しているのに、ついつい
観てしまって」
「何ていう映画かしら。私も観てみたいから、教えて」
 即座に次の問いを発した白沼。映画の題名に興味がなかったわけではないが、それよ
りも、質問に対する相羽の答が、純子へしたものと異なっていたことが気になった。無
論、今日と以前とで疲労の理由が違うことはあり得るが。
「『シャレード』だよ。ただし、一九六三年の方」
 題名を復唱しかけた白沼だったが、制作年を言われたおかげで戸惑った。
「年を聞いただけでレトロって感じ。わざわざ断るということは、リメイクでもされた
のかしら」
「うん。二〇〇二年に」
 一九六三年と二〇〇二年なら、メモを取らなくても区別が付くはず。白沼は記憶し
た。主目的は、そんな映画を本当に昨日の深夜に放映していたかどうかを調べるためだ
ったが、ここまで詳しい返答があったということは、まず間違いなく放映されたのだろ
う。
「映画で思い出したけれど、この前言っていた『麗しのサブリナ』、やっと観られた
わ」
「どうだった?」
「途中で、ファッションにばかり目が行っちゃって。最初から観直すことに」
 ふと気が付くと、純子と相羽が話し込んでいる。
「なんだかんだ言って、恋人らしいことしてるじゃないの」
 小さな声で言い置き、白沼はその場を離れた。
 ――と言っても、彼女の席はすぐ近くなので、会話は続いた。
「白沼さん。今日は久しぶりに当たりがきつかったみたいだけど、何かあった?」
 相羽のその問い掛けに、白沼はさっきまでの純子とのやり取りを聞かれていたんだと
察した。
「起きていたのなら、身体も起こしておいてよね」
 抗議調かつ早口でそう言うと、白沼は恥ずかしさを紛らわせるべく、質問に答える。
「何かあったかと言われたら、あったわ。ご存知の通り、副委員長に指名されたこと。
こっちは部活してるのにねっ」
 朝のホームルームで、委員長の唐沢の指名により、白沼が副委員長に決まったと報告
された。唐沢と白沼は仲が悪いとは言わないが、価値観がだいぶ違っているのは傍目に
も明らか。故に、かなりの意外感でもってこの指名は受け止められたのだが、反面、唐
沢のいい加減な部分を補うには、白沼がふさわしいという見方もできたので、納得の人
事と言えなくもない。それでもなお、唐沢自身が白沼を選んだというのは、予想外の選
択だったが。
「元々、性格が合わないのは分かりきっているけれど、先生の方針もあるし、承知した
わ。でも、早速、引き受けるんじゃなかったと思うことがあったから」
「ふうん?」
 相羽の、話を促すような視線に、白沼は少し考え、教室を見渡した。唐沢の姿はな
い。
「二時間目と三時間目の間に、公民の先生に資料を運んでおくように言われて、二人し
てやっていたのよ。その途中、廊下ですれ違った女子と話し込んで、立ち止まったまま
なのよ、あの“色男”は」
 “色男”にアクセントを付けてやった。
「いつまでも動こうとしないものだから、放っておいて、先に行ったの。そうして引き
返して来ると、まだ話していて一歩も動いてないじゃない!」
 思わず、机をばんと叩きたくなったが、さすがに自重した。
「本当ならあいつを蹴り飛ばしてでも行かせるべきだったんだけれど、時間がなくなり
そうだったから、仕方なく、一緒に運んだわ。もう、先が思いやられる」
「お疲れ様だね。唐沢も悪気があってやってるんじゃないと思うけど」
「悪気があってたまるもんですか――と言いたいところだけれど、悪気がないのはよく
分かってるわ。知り合って四年ほどかしら。あれがあの男の地なんだってことは、骨身
に染みてる。だからこそ腹が立つとも言えるわね」
「ちょっとは気を配れって、言っておこうか?」
 相羽の折角の申し出だったが、白沼は首を振って断った。
「そんなのいいわ。我慢できなくなったら、直接、はっきり言うつもりだから。もうじ
き、そうなりそうだけど」
 答えつつも、白沼は多少、気分がよくなったことを自覚していた。純子との仲を認め
たとは言え、相羽からの優しい言葉は、精神衛生の特効薬になる。
 と、そこへ純子の声が。
「あ、戻って来たわよ、唐沢君」
 元の木阿弥になりかねない。白沼は、純子からの「今、言うの?」とでも問いたげな
視線を感じたが、吹っ切った。

           *           *

 新学年が始まって最初の日曜は、昼から春らしくない、じめじめした雨模様になっ
た。
 そんな天気の下、モデル仕事を終えた純子は、帰り支度を手早く済ませると外に出
た。途端に、目をしばたたかせて少々びっくり。迎えの顔ぶれが普段と違ったからだ。
モデル仕事の場合、相羽の母が来てくれることがほとんどなのに、今日は市川までもが
足を運んできていた。
(何かあったんだ)
 直感する。大人達の表情が曇って見えるのは、天気のせいばかりではあるまい。いい
知らせではないらしい。
 労いの言葉もそこそこに、市川が切り出す。「声優の件で、ちょっと。詳しくは車の
中で話すから」と。内緒めかした仕種、言い種に、純子は急ぎ気味に乗り込んだ。
「何か問題が起きたんですね」
 ドアを閉め、エンジンの掛かる音を聞きながら純子は尋ねた。待たされる時間が長い
と、それだけ不安も大きくなる。
「出来映えがよくないとか……」
「いや、評判はいいんだ。概ねわね」
 後部座席の隣に座った市川が、明確に答える。が、「概ね」という表現が気にならな
いでもない。その意味はすぐに明かされた。
「ただ、極一部、原作の熱狂的ファンの中には、気に入らない人もいるみたいなの」
「そう、ですか」
 声が小さくなり、俯く純子。その背中に、市川の手が素早く宛がわれる。
「落ち込みなさんな。まあ、あなたのことだから、こんな感想が出てると伝えたらどう
なるのか、予想はついていたけれども。こっちだって、落ち込ませようと思って言って
るんじゃないよ」
「じゃあ……」
 どうして?という言葉が出る前に、運転席の方から深刻な声が。
「落ち着いて聞いてね、純子ちゃん。万が一に備えての話なんだから」
「ちょっと、詩津玖。そういう前置きだと、かえって恐がらせちゃうじゃない」
「それだけ重大なことだと、認識してもらわなくちゃ。実際、恐い話だし」
 大人達のやり取りに、純子は探るように「あの」と言葉を挟んだ。幸い、二人の耳に
は届いていたらしく、すぐさま会話は収まった。相羽の母は運転に専念し、純子には市
川が応じる。
「あー、落ち着いて聞いて。隠してもしょうがないというか、知らせておかないと危な
そうなんで、はっきり伝えておくことにしようと決めたんだけど……」
 自らそう言いつつも、まだ渋っている感がありありと窺える。市川にしては珍しい態
度に、純子の緊張と不安は膨らんだ。
「は、早く言ってくださいっ」
「うむ。さっき言った熱狂的なファン、いわゆる原作信者って奴になるのかね、そうい
うのが脅かしてきた」
「脅かし……って、どんな風に」
 口元を両手で覆いつつ、冷静に聞き返した純子。自分でも意外なほどだった。かつ
て、ポスターにいたずらをされたことで免疫ができていたのかもしれない。
「封筒で便箋一枚、裏表にびっしり、赤い文字で印刷されていた。現物、ここにはない
んだけどね。もしかしたら、警察に届けることになるかもしれないから」
「警察に届けようかと考えるくらい、ひどい文章なんですか」
 この質問に対し、市川は何故か苦笑いを浮かべた。
「うーん、まあ、ひどいと言ったらひどい。お粗末という意味でね。――その様子な
ら、話しても大丈夫そうだね。最初に『声優』と書いてあって、そのあと便箋いっぱい
に『やめろやめろやめろ』って印字してあるの」
「はあ」
「で、裏返すと、今度は『おりろ』で埋め尽くされている」
「あのー、よくある剃刀とかは入っていませんでした?」
「はは、面白いことを気にする子ね。なかったわよ」
「だったら……警察に届けるまでしなくても」
「こういう手合いは放置するとエスカレートするケース、結構あるんだよねえ。それこ
そ、剃刀入りとか」
「仮にそうなったとしても、通報はそのときでも遅くないと思います。それよりも、警
察に届けたらこの件が表に出て、評判に響きそう」
「おやま。評判を気にするなんて、珍しい」
「そんな。表現は問題あるにしても、折角、私の仕事ぶりに対して意見を送ってくれて
るのに、一方的に悪者扱いしたくないなって思っただけです。こんな些細なことまで警
察に通報していたら、他の視聴者の意見が届かなくなるかも。見てる人の意見、私も聞
きたい。たとえ悪く言われていても」
「――ふふん」
 一瞬ぽかんとし、やがてにやりとする市川。
「ほんと、いつの間にやら強くなっちゃって。以前は、繊細なガラス工芸品みたいだっ
たのに」
「そ、そんなことないですよー」
「ポスターの顔写真に画鋲刺されて、えらく落ち込んでいたのはどこの誰かな?」
「大昔の話は、忘れました」
「四、五年前を昔と言われると、凄く年寄りになった気分がするわ」
 ため息を長くつくと、市川は頬に手を当てた。肌の張りを気にしているのかも……。
「ま、とにかく、だ。わざわざ嫌な話を明かしたのは、注意を促すためなの。念には念
を入れてね」
「と言われても、いまいち、意味が」
「まずないとは思うのだけれど」
 市川から相羽の母へと話し手が替わった。
「その手紙の差出人のような視聴者が、実力行使に出た場合を想定しておかなくちゃい
けない。私達の目の届く範囲なら、まだ対策の立てようがある。けれども、学校の行き
帰りやその他の日常生活までは、手が回らないのが実情なのよ。顔や名前が売れた分、
普段から気を付ける必要も高まってしまったわ」
 真剣さが声の調子からだけでも伝わってきた。ルームミラーで伺うと、相羽の母の表
情はいつもに比べて硬い。次の瞬間、はっとした純子。
「日常生活とか普段からって、もしかして久住だけじゃなく、風谷美羽にも脅迫が?」
 声の調子に緊張感が増す。答えるのは市川。
「ええ。今現在じゃなく、これまでにね。数はごく僅かで、表現も比較的大人しかった
から無視していた」
「え、そうだったんですか」
「ごめんなさい。恐がらせたくなかったし、仕事をやめてほしくなかったから」
 相羽の母の申し訳なさげな声が届く。そこからまた真剣味を強く帯びた声に転じた。
「常日頃より注意しておくと同時に、道を歩いているときや電車に乗っているときに、
少しでもおかしなことがあったら、すぐに知らせて」
「――はい。分かりました」
 純子も真剣に返事した。そのあと、ちょっと考え、相羽の母に尋ねる。
「あの、このこと、相羽君――信一君は知っているんでしょうか」
「それなんだけれど」
 今度は相羽の母が深い息をついた。
「自宅に市川さんから電話が掛かってきて、今度の件について話をしているときに、聞
こえてしまったのね。心配して詳しく知りたがったから、仕方なく教えたわ」
「そう、ですか」
 心配してくれた――勝手に綻ぶ表情を、意識して引き締める。
「じゃ、じゃあ、隠さなくていいですね」
「隠すつもりだったの、純子ちゃん?」
「だって……」
 純子は言いかけてやめ、しばらく口ごもる。冗談めかすことに決めた。真面目に言う
なんて、恥ずかしいにも程がある。
「私の口から知ったら、危ないから仕事をやめてほしいって言い出しそうじゃないです
か。そうじゃなきゃ、一日中ボディガードをするとか。あはは」
「似たようなこと、言っていたわ」
「え」
 笑い声が引っ込む。目を丸くする純子を、隣の市川が面白そうに見ていた。
「羨ましいねえ」
「さすがに、一日中護衛に張り付くのは無理と理解しているらしいわ。私達の方で、ち
ゃんとしたボディガードを雇えないの?って言ってきたからね」
「お、大げさなんだからっ」
 赤面したような気がして、両手のひらで顔をこする純子。そこへ、追い打ちを掛ける
質問が、相羽の母からなされた。
「そうだわ、前から聞こうと思っていたのよ。純子ちゃんは信一と二人きりのとき、信
一のことを何て呼んでいるのかしら?」
 えっと……質問の意図がとても気になって答えにくいです。答につまった純子は、思
わずそんな反応を口にしそうになった。
「名前? 名字?」
 ハンドルを握る相羽の母は、純子の戸惑いを知ってか知らずか、重ねて聞いてくる。
「みょ、名字に君付けです」
「やっぱり。さっきも言い掛けていたし」
 予想していたようだが、その割にほっとした様子も見て取れる。
 純子はしかし、すぐ前にいる相羽の母よりも、相羽自身のことが気に掛かった。
「もしかして、名字で呼ばれることを、何か言ってました……?」
「え? いいえ、特に何も」
「じゃあ、どうしてそんなことを」
「私が言い出したのかって? 年頃の息子を持つ親の立場としては、あなたとの仲が
今、どのぐらいなのかはとても気になる。それを測る物差しに、呼び方を教えてもらう
のがちょうどいいと」
「もしかして、恋愛禁止とか……ですか」
「え? ううん、そんなことは全く考えてないわよ」
 純子の反応がよほど意外だったらしく、相羽の母の目が一瞬だけ後ろを向こうとした
のが分かった。もちろん運転中だから、実際の時間はコンマ0何秒もなかっただろう。
 安堵する純子に対し、今度は市川が口を開く。
「本音を言えば、私はできることなら恋愛禁止にしたいよ。異性からの人気が違ってく
るだろうからね」
「そういえば、プロフィールにはどう書いてあるんだったかしら?」
 相羽の母の問い掛けに、市川は「デビュー当初に使った資料上では」と前置きをして
から答えた。
「好きな人はいる、とだけにしておいたはず。恋人だとか両想いだとかには触れずに
ね。確か、親御さん、特にお父様の強い希望で、余計な虫が付かないよう、予防線を張
ったんだわ。実態とは無関係に。その頃はまだ付き合ってなかったんでしょ?」
「全然」
 ぶんぶんと頭を振る純子。それよりも何よりも、父がそんなことを頼んでいたとは知
らなかった。多分、娘に知られるのは恥ずかしかったから、伏せていたのだろう。
「今は特に明記していないけど、いないと思われているかもしれないわね。さっきみた
いな脅しがあるくらいだから、早めに公表した方がいいに違いないんだけれど」
「名前を出すのは反対よ」
 即座に相羽の母が言った。ちょうど赤信号で停まったのを機に、市川へ振り向き、さ
らに純子へと視線を移してから続ける。
「本当にごめんなさいね。あなたにはこんな仕事をやらせておいて、自分の子供のこと
になると、できるだけ隠そうとするなんて」
「そんな。好きでやっていますし、付き合っている人がいることだけならともかく、信
一君の名前まで大っぴらにされるのは、私も嫌です。知っているのは、周りの人達だけ
でいい」
「――そういうことだけれど?」
 相羽の母が再び市川に視線を合わせる。市川は一つ嘆息してから、右の人差し指で前
を示した。
「詩津玖、前。青信号だよ」
「――いけない」
 一度慌ててみせてから、落ち着いて車を発進させる。
「まあ、今のところは、聞かれない限りは現状維持でいいと思ってるんだ。聞かれたと
きは……好きな人ならいるって言っておけばいいのかねえ。正直、うちはまだ小さい
し、歴史もないから、ノウハウに乏しくて。スキャンダルになったら、自力で押さえ込
めるのかどうか。火消しを頼むとしたら、鷲宇さんのルートぐらいしかないし」
「スキャンダル……」
 過去のあまりよくない思い出が脳裏によみがえる。あのときは、相手が一方的に悪か
ったせいもあり、世間的には大きなニュースにならずに済んだ。
「恋愛なんて興味ありませんてなふりをして、ボディガードの少年と恋仲!なんてすっ
ぱ抜かれたら、多少のイメージダウンは免れない」
「ボ、ボディガードって」
「たとえばの話だよ。さっき言っていたのを、例に取ったまで。ま、今問題なのは、あ
なたの彼氏の話じゃないわ。脅してくるような手合いの対策をどうするか。これこそが
重要」
 市川は問題の便箋が手元にあるかのように、ひらひらと振る仕種をした。
「本職のボディガードは難しいにしても、マネージャーに護身術というか護衛術を習わ
せるとか」
「……私のマネージャーさんて、誰になるんでしょう?」
「……」
 素朴な疑問に、大人達は少しの間、沈黙した。
「決まった人はいないわね、考えてみれば。杉本君を含めて、私ら三人の内、都合のい
いのが付く。あと、仕事の内容にもよるけれども」
「警護というイメージなら、男性になりそう。でも、杉本君ではちょっぴり心許ない」
 相羽母の言葉を、市川は声のボリュームを上げて否定した。
「彼では、ちょっぴり心許ないどころか、まるで頼りにならないって言った方が適切だ
わ」
 きつい表現を、純子は笑いをかみ殺して聞いていた。杉本には申し訳ないが、腕っ節
が強いようには見えないし、暴力沙汰からは真っ先に逃げ出しそうなタイプに思えた。
(でも、習えば違ってくるのかも。確か、弱い人、普通の人が身を守るための技術が護
身術なのよね)
 相羽ら男子がしていた会話を思い起こしながら、そんなことを考えた純子。そこから
の連想で、ふと思い付きを口にしてしまった。
「杉本さんだけだと心細いから、私自身も習っておけば、少しは安心できるかなぁ」
「――いいかも」
 市川が呟き、相羽母に意見を求めた。
「私はそんなにいい考えとは思えない。でも、最終手段として、身に付けておくのはマ
イナスにはならないでしょうね。モデル業に支障が出ないのであれば、習得しておくの
も悪くはない」
「それに、護身術や武道が使えたら、演技の幅が広がるわね」
 市川は話を聞きながら、計算も働かせていたようだ。次に純子の顔を見たときには、
本気になっていた。
「ちょうどいいわ。護身術、習いに行こうか」
 軽い気持ちで口走っただけなのに、一気に具体化しそうな流れに、純子は無言で首を
横に振った。
「全然、自信ないです」
「やってみないと分からないじゃない。運動、得意なんだし」
「いえ、その、モデルに支障が出るかもしれないという意味で……。怪我をするか、そ
うでなかったら筋肉が付いちゃうか」
「うーん、大丈夫じゃないの? 詳しくないけど、護身術の人って、筋肉ムキムキのイ
メージはないし、怪我は注意すれば防げるだろうし、ここは一つ、レッスンの一環のつ
もりで」
 市川は随分と楽観的だ。演技の幅を広げるという目的の前に、判断を甘めにしている
のかもしれない。
 純子は押し切られるのを既に覚悟した。こうなったら、要望を出しておこう。
「もし習うんだったら、私、信一君から習いたいです」

――つづく




#495/598 ●長編    *** コメント #494 ***
★タイトル (AZA     )  17/03/30  22:48  (485)
そばにいるだけで 65−2   寺嶋公香
★内容                                         17/06/07 22:51 修正 第3版

「聞いたかもしれないけれど」
 翌月曜日の学校。純子は昼休みの時間に、相羽と二人だけで話せる機会を得た。廊下
に出て、護身術の件をすぐに伝えた。
「都合が付いたら、護身術を習いに行くかもしれないから、そのときはよろしくお願い
します」
 話の流れ込みで事情を伝え、ぺこりと頭を下げる純子。相羽は片手を自分の頭にやっ
た。
「そんなことをしなくても、僕が一緒にいれば」
「ボディガードはなくて大丈夫よ。万一に備えてのことなんだから。相羽君だって忙し
いでしょ」
「……まあ、確かにそうだけどさ。うーん、登下校は僕もだいたい一緒にいるからいい
として、問題はそれ以外のとき」
「だからそうじゃなくって」
 真顔で応じる相羽に、純子は苦笑いをなしたが、じきに気が付いた。相手が視線を外
しがちなことに。
「――相羽君、話をそらそうとしてる?」
「……いくら純子ちゃん相手でも、いや、君だからこそ、教えづらいような予感がして
まして」
「そう、かな」
「べ、別に、変な意味で言ってるんじゃなく、周りの目があるから。特に、僕らが付き
合っていると知ってる奴に見られていると、凄くやりにくい」
 情景が目に浮かんだ。これは恥ずかしい。
「でも、私達のことを知っている人って、道場にいた?」
「望月が知ってる。特段、口止めなんてしていないから、他のみんなにも伝わってる可
能性がある」
「えー、ちょっと嫌かも。誰も見てないところで、二人きりで教えてもらえたらいいの
に」
「えっと、それも別の意味でまずいんじゃあ」
「……そ、それもそうだね。あはは……」
 変な方向に走ってしまった思考を取り繕おうと、笑い声を立ててみせた。相羽も同じ
ようにする。
「と、とりあえず、決まってから考えよう。道場には大勢いるんだから、僕らがああし
ようこうしようと予め決めていたって、多分、思い通りにならない可能性が高いよ」
 純子は黙ってうなずき、承知した。
 それから、教室の方をちらりと見やって、ついでに別の話を切り出した。
「変なこと聞いてるかもしれないけれど……稲岡君て、私のこと嫌ってる?」
 純子にとって、高校二年生の春は、ほぼ最高のスタートを切ったと言える。
 好きな異性――相羽と付き合い始めて三ヶ月あまり、彼と同じクラスになれただけで
なく、席まで隣同士。クラスには仲のいい友達も大勢いるし、反りが合わなかった白沼
とも、純子のタレント仕事を通じて、仲は随分と好転した。その仕事も順調だし、クラ
ス担任の神村先生は理解のあるタイプだから安心して打ち込める。
 だったら何がどう不満で“ほぼ”なのかというと……新しく知り合った一人の同級生
の存在が少なからず気になるのだ。
 真後ろの席を占める稲岡時雄。勉強なら学年で十指、いや五指に入る優等生。学校期
待の一人と言えよう。主要科目以外に目を向けると、家庭科は人並み(男子として)だ
が、体育や音楽などもそつなくこなす。外見は、レンズが厚めの眼鏡で損をしているよ
うだが、それでも充分に整った顔立ちだ。
 さて、稲岡がいくら優等生でも、純子が気になるのは心変わりしたとかではもちろん
違う。気を遣うと表現した方が近いかもしれない。
 稲岡は、ガリ勉とまでは行かずとも、時間が少しでもあれば勉強に充てたいらしく、
休み時間も暇さえあれば参考書や問題集を開いている。そういう風にされると、周りの
者は騒ぎにくい。折角、相羽がすぐそばにいるというのに、お喋り一つしづらい。
 実際には、多少うるさくしても、稲岡が常に抗議や文句を言ってくるわけではく、ほ
とんどは黙々と勉強している。だけど純子にとって、新学年最初の日に注意をされたこ
とが、案外と重くのし掛かっているのだった。
「うん? 後ろの席にいるんだから、直接聞けば?」
 気楽な口調で相羽。純子は左右にきつく振った。
「できるわけないでしょ。だから、あなたにこうして聞いてるの。こっちは真剣なんだ
から、冗談で返さないで欲しい」
「ごめんごめん。純子ちゃんが嫌われるって、想像できないものだから、つい」
「でも、稲岡君とは全然話をしないし、たまに口を聞いても、私達がうるさいっていう
注意ばかり。そりゃあ、お喋りに夢中でうるさくしていたこともあったかもしれないけ
れど、最初に注意されてからはかなり気を付けているつもりよ。だいたい、休み時間の
ことなんだから、とやかく言われることじゃないと思うの、本来は」
「それは僕も思う。ただ、だからといって、どうして君が嫌われてるってことに?」
「この前、気付いたのよね。周りの席には私達よりも騒いでいるところがあったとして
も、そっちには滅多に注意しない。不公平に感じちゃう。ひょっとしたら、私が嫌い
で、殊更に注意してやろうと、鵜の目鷹の目でチャンスを探してるんじゃないかしら」
「ないと思うけどなあ」
「根拠があって言ってる? 稲岡君が何か言っていたとか」
「そういうのはないけれど。うるさくて勉強できないって言うなら、図書室にでも行っ
てるだろうし」
「移動時間が惜しい、とかじゃないの」
「どうなんだろ? あいつが歩きながら参考書を読んでるのを、見たことあるよ」
「歩きながら……凄い。うーん」
 それならそれで、稲岡の態度をどう受け取ればいいのか、困ってしまう。
 純子の困惑に、ある程度の答が与えられたのは、その日の午後最初のコマが終わった
あとだった。
 数学の授業を少しばかり早く切り上げると、神村先生は純子の名を呼んだ。「はい」
と小走りで教卓前まで行く。先生は、他の生徒には終業ベルまで自習を言い付けてか
ら、「ちょっといいか」と純子に廊下に出るよう促した。相羽らの目線を背中で何とな
く感じつつ、教室を出た。
 さらに、先生は人のいない場所が必要なのか、階段の踊り場まで移動した。
「時間もあまりないことだし、率直に伝えるぞ。実は今朝、稲岡の親御さんから話があ
ってだな」
「稲岡君の?」
「うむ、母親の方だ。今の席だと周りがうるさくて勉学に差し支えがあるようだから、
できれば席替えをしてもらいたいと」
「えっ」
「ああ、深刻に受け止めなくていいんだ。今は、向こうさんの言い分を伝えているだけ
だよ。その辺、涼原なら分かると思って率直に言ってるんだが」
「あ、はい、分かります」
「よかった。それでだな、僕も納得しかねたので、一応、今朝から機会があればちらち
ら見ていたんだ」
 言われてみて、思い当たる節があった。今日は授業がないときでも神村先生、やたら
に来るなあ、と。
「可能な限り客観的に見て、涼原と涼原の友達が特別うるさくしているようには思えな
かった。どちらかと言えば、稲岡からもっと離れた席だが、四倍も五倍も騒がしい連中
がいたと感じたよ。だから、この件は稲岡の過剰反応、思い込みだという気がするんだ
が……涼原は稲岡から直接、何か言われていないか? 静かにしてくれ的なこと以外
に」
「えっと」
 頬に片手を当てて、思い起こそうと努める純子。だが、何もなかった。答えられない
でいると、先生が補足する。
「言葉じゃないかもしれん。小さく舌打ちするとか、椅子の脚を軽く蹴ってくるとか」
「そんな、まさか。全然ありません」
「そうか。念のために聞いておくが、涼原は香水を付けて学校に来てはないだろうな?
 この年頃の男子はそういうのに惑わされやすい――」
「ないです!」
 心外な言われように思わず、声が大きくなった。校内での香水の使用は、原則的に校
則で禁じられている。ただでさえ芸能活動をしていることで目立つのに、香水をしてく
るなどという違反をして、目を付けられても何の意味があるのやら。
「すまん。疑っているんじゃなく、おまえのやってる仕事で使ったのが、何らかの形で
残ってしまっていたなんてことを想定したんだ」
「そういうのもありませんから。だいたい、二年の一学期が始まってから学校のある日
には、今のところ仕事を入れていません。先生も知ってるはず」
「すまんすまん。ただ、細かな可能性を、日曜に仕事で香水を使ってそいつが残るとか
の可能性を考えてしまうんだ、数学教師をやってるせいかな」
「……分かりましたけど、日曜日の匂いが残るなんて、お風呂に入らないとでも?」
 怒ってみせたが、話の脱線にも気付いているので、この辺で矛を収める。
「それより先生、稲岡君本人は何か言ってきてないんですか」
「うむ、何もない。あとで直に聞くつもりだ。案外、デリケートな問題のようだから、
より気を遣う……ああ、いや生徒の前で言っても始まらんな」
 神村先生は口元を隠しながらも、苦笑いをこぼした。
「よし、分かった。わざわざすまなかったな。戻っていいぞ。一分もしない内に休み時
間になるだろうが、静かに戻れよ」
 これに肯定の返事をしてから立ち去ろうとした純子だったが、ちょうど終業の合図が
鳴った。感じていた以上に時間が過ぎていた。
「――あ、先生。今のこと、稲岡君には言わない方が?」
「まあそうなる。でも、必要があると思ったとしたら、話すのは自由だ。止めんよ」
 去り際に尋ねたたことに対する先生からの返答内容が、ちょっと意外だった。生徒同
士で話をして決着するのであれば、それが一番よいと考えているのかもしれなかった。

 三日が過ぎた。その後、神村先生が担任として稲岡から話を聞いたのかどうか、まだ
分からない。とりあえず、また席替えをするというような不自然な事態にはなっていな
い。
(先生からはああ言われたけれど)
 背後の席に稲岡がいないことを確認してから、純子は前を向いたままため息をつい
た。
(気になるからって、稲岡君に直接聞くなんて、やっぱりできないし)
 大型連休に入る前に、すっきりさせておきたかったのだけれど、ことはうまく運びそ
うにない。
(先生に聞いたら、分かるのかなぁ。でも……席替えが行われていなということは、稲
岡君の希望、というか稲岡君のご両親の希望は通っていないわけで……)
 稲岡の側に譲歩してもらったのではないかと考えると、それはそれで気が重い。
 一方で、明るい材料もある。あれからさほど時間が経ったわけではないが、稲岡がう
るさいと注意してくることはなくなっていた。逆に、稲岡と会話をする回数は増えた
(元がほぼゼロに等しかった故、微増に過ぎないのだが)。朝夕の挨拶や、実験の授業
で分からない点を教えてもらう、その程度ではあるけれども、進展には違いない。
(相羽君は普通に話せてるみたい)
 男子と女子の違いはあるだろうが、相羽がより積極的に稲岡に話し掛けるようになっ
た結果、反応もよくなってきているようだ。
(ひょっとしたら相羽君、私が前に相談したから、稲岡君と仲よくなろうと話し掛ける
ようにしたのかしら。私も努力しなくちゃ、かな)
 頭ではそう思うのだが、忙しい身の純子。掛かりきりになれない理由があった。
 目下のところ、ゴールデンウィーク中に催されるミニライブが一番の山。テレビとは
無関係なところで、観客を入れて唄うのは初めてなのだ。しかも久住淳として、つまり
男の格好をしてとなると、より緊張感が強まるに違いない。
 次にアルファグループ関連の仕事。白沼の父が関係しているだけに、普段以上にプレ
ッシャーを感じる。そうでなくても、モデル撮影やテラ=スクエアのキャンペーンガー
ル等々、多岐に渡っているだけに、目が回りそうだ。明日もコマーシャルの撮影が入っ
ていて、今夜の内から移動しないといけない。
(連休明けに仕事が一段落したら、アルバイトをしたいと思ってたんだけど、無理か
な)
 手帳を取り出し、スケジュールを確認した純子は、さっきとは別のため息をついた。
 芸能関係の仕事で、高校生にしては充分にもらっている純子が、どうして他にアルバ
イトをしたいのか。
 純子は右隣の席を見た。相羽の姿はあるが、こちらには背を向けている。何を話題に
しているのか、他の男子達四、五人と盛り上がっていた。
(休みが終わってから誕生日まで、三週間くらい。短い!)
 五月二十八日は相羽の誕生日。当日、誕生会のような催しは無理だとしても、プレゼ
ントを直接手渡したい。そしてプレゼントを買うために、アルバイトをしたい。
(モデルやタレントは、何か違うもんね。元々、相羽君のお母さんの縁で始めたことだ
し。私の力だけでもらったお金で、感謝の気持ちを表したいな)
 気持ちは強いのだが、時間が厳しい。相羽の誕生日が過ぎれば、すぐに中間考査に突
入だ。勉強時間を確保しつつ、アルバイトできるだろうか。校則で、テスト一週間前に
はバイト禁止が原則なので、ますます時間が限られる。
(いかにもバイトって感じの、飲食店でやってみたい。もし叶うのなら、あそこのパン
屋さんがいいんだけど、短期じゃ嫌われるだろうなあ)
 三回目のため息。小学生の頃から贔屓にしているパン屋に、だめ元でお願いに行くつ
もりなのだが、いつから入れるのかはっきりしない内は言い出しにくい。タレント仕事
が、本当に連休明けにきちんと終わるのか、確実性がないのだ。定期試験が近いのは向
こうも承知しているのだから、配慮はしてくれるに違いないのだが。
(あんまりぎりぎりになってもまずいし、断られた場合も考えて、早めに動かないと)
 手帳に備わったカレンダーをじっと見据え、動ける日を選びにかかった。
 予鈴が鳴る寸前に、どうにかこうにか決められた、が。
(そうだわ。護身術を習う日も決めないといけないんだった!)

 次の日、純子は朝も早くから走っていた。
 コマーシャルの仕事はこれまでに回数をこなし、慣れたところはあった。だが、今回
のように朝が早いのはやはりつらい。
 きれいな朝日がほしいというスポンサーサイドの希望に沿って、実際の日の出に合わ
せて撮影が行われた。わざわざ本物の朝日を捉えなくても、他にやりようはいくらでも
あるが、スポンサーと撮影監督のこだわりというやつだ。ついでにロケ地にもこだわっ
た。桜の花の咲き誇る中、“文明開化”をイメージさせる橋の架かる川という、少し変
わった注文だ。
 おかげで前日の夜遅くに現地近くの宿を取り、早朝まだ暗い内に発つと、河川敷にス
タンバイ。小さな照明の中、リハーサルを何度か重ね、天気予報を信じてじっと待つ。
やり直しが利かない(無論、厳密には失敗しても別の日に再チャレンジできるが)とい
う緊張感の中、川に平行する道をダッシュし、橋を駆け抜け、通行人や飛行機などに邪
魔されることなく撮影を終えた。そして首尾よくOKが出た。
「はい、お疲れ〜」
 六時前には撤収できたが、ロケ地が遠かったため、自宅に戻るほどの余裕はない。学
校へは車で送ってもらえることになっていたが、その前に朝食をお腹に入れなければ。
車内で仮眠を取りつつ、一時間近く揺られ、早くから開いているファミリーレストラン
に到着した。
「何でも食べていいよ」
 マネージャーとして着いてきた杉本が正面からこちらに向けたメニューは、ステーキ
のページが開いてあった。
「無理」
 普段でさえ、朝から肉はまず食べない。ましてや、全力疾走をリハーサルを含めて幾
度もやった身では、見るだけでも胸が悪くなりそう。
「この、朝がゆセットがいいかな」
 記載のカロリーを確かめてから、各テーブル備え付けのタッチパネルを通じて注文す
る。
「そんなのでいいの?」
 隣に座るメイクのおねえさんが言った。彼女は先に、ミックスサンドとレモンティー
とフルーツゼリーを頼んでいた。
「そりゃあカロリーを気にするのは分かるけれど、このあと学校があるっていうのに、
若者がこの程度で大丈夫?」
「はい。折角だから、普段食べないような朝ご飯にしてみようと思って」
 そもそも、撮影の一時間ばかり前に、朝一番のエネルギー補給としてバナナとゆで卵
とチョコレートを少しずつ食べているのだ。摂ったエネルギーの大部分はもう使った気
がしないでもないけれど、全体の量を考えると今食べるのは、朝がゆくらいがちょうど
いい、と思う。
 お客が少ないせいか、注文した料理が全て揃うまで、十分も掛からなかった。尤も、
撮影スタッフ全員が入店した訳でなく、別ルートでとうに帰った者も大勢いる。
「――あ、おいしい」
 おかゆは予想していた以上の味だった。フレーク状にされたトッピングが六種類容易
されており、甘い、塩辛い、ピリ辛、ごま風味等々、どれも特長があって変化を楽しめ
る。純子が個人的に嬉しかったのは、そのどれでもなく、箸休め的に付されたコウナゴ
とクルミの和え物だったが。
 食べ終わったのが七時半で、店を出たのが十分後。それでも八時四十分の予鈴までに
は、余裕を持って学校に着けるはず――だったのだが。
「おっかしいなあ」
 杉本は思わずクラクションを押しそうになる右手を、左手で止めた。
「渋滞、ですね」
 時計と外を交互に見ながら、純子が言った。
「じ時間帯は朝の通勤ラッシュと重なってるけれども、ほ方角が違うから大丈夫のはず
なんだよ。じ実際、何度もこの辺をこの時間に走ってるけど、こんなに混雑してたこと
なんてなかった」
 焦りを如実に表す早口の杉本。普段から割と早口なので、油断すると聞き逃してしま
いそうだ。
「事故でしょうか」
「かもしれない」
 ラジオの交通情報はまだ何も言ってくれない。しょうがないので、ネットで調べてみ
る。すると今まさに進もうとしている市道の先で、車三台が絡む衝突事故が起きたばか
りと分かった。発生場所は、学校までの順路の手前で、事故現場を過ぎればスムーズに
流れている可能性が高い。
「まずいなあ。回り道しようにも詳しくないし、ナビは載せてないし」
「……ここからだと、いつもならどれくらい掛かるか、分かりますか、杉本さん?」
「ええっと。十分ぐらいかな?」
「歩きだと?」
「ええ? 分かんないけど、最低一時間は掛かると思うよ」
「そうですか……。予鈴から十分間は朝のホームルームだから、一時間目の授業は八時
五十分開始。最悪でも授業には間に合わせなくちゃ」
 独り言を口にする純子。状況任せなので計算して答が出るものではないが、一応の目
処は立てておきたい。
「ぎりぎり八時二十分までは車で進んでもらって、そこからは降りて走る。杉本さん、
これで行きましょうっ」
「君がそれでいいのなら、そうしよう。はっきり言って、判断付かないよ。くれぐれも
気を付けてね」
「杉本さんも運転、気を付けてくださいね」
 そこからは時計とにらめっこになるつもりだったが、はたと思い出したのが携帯電
話。仕事用という意識で持っているので、それ以外で使うことは頭になかったが、学校
の誰か――担任か相羽にでも電話で今から伝えておくのはどうだろう。事故渋滞で遅れ
るかもしれないと。
「電話しますね」
 杉本に断ってから、短縮ダイヤルのボタンを押そうとした。が、そのとき、車窓の外
に、道路と平行して走るレールを捉えた。
「あっ――。杉本さん、ここから一番近い駅って、行けそうですか?」
「うん? ああ、駅ね。確かすぐそこの、いや二つ目の十字路を左に曲がったらじきに
着くはず」
「だったら、そっちの方が早くないですか? 電車に乗って、最寄り駅まで行く。いつ
もとは反対方向だから詳しい時刻表は知りませんけど、多分、同じような間隔で列車は
走ってるだろうから」
「なるほどっ。その方が確実だね!」
 何だか興奮した口ぶりになった杉本は、首を左斜め方向に伸ばした。曲がる箇所の状
況を見極めようとしているようだ。
「いいぞ。行けそうだ。五分か十分で曲がり角までは行けるだろう。その先もこの道ほ
ど渋滞しているとは思えないし」
 方針をあっさり変更。
「電車賃はあるかい?」
「あ、定期じゃだめなんだ。あります」
 距離から推測して、さほど大きな額にはならないはず。
 電車を利用するという思い付きのせいか、電話のことはすっかり忘れてしまったが、
とにもかくにも近くの駅には七分半で乗り付けられた。道路渋滞とは無縁らしく、駅は
いつもと変わらぬ程度の混み具合のようだ。
「念のため、時刻表を見てきて。もしいいのがなくて、車の方がましなようだったら、
すぐに戻って来て」
「はい。五分で戻らなかったら、もう行ってくださいね。ありがとうございました」
 降りながら急ぎ口調で言い、ドアを勢いよく閉める。車は駅前のなるべく邪魔になら
ない位置に移動した。
「さあて、と」
 純子はほんの心持ち身を屈め、駅舎に歩を進めた。初めて利用する駅なので、様子を
窺うような感じになる。大きくもなければ小さくもない、ごく平均的な規模の駅だと分
かる。普段使っている最寄り駅と似ている。
「次が三分後でその次がさらに六分後」
 時刻表から壁掛け時計に目を移し、時刻を確認。早い方に乗れたとしても、学校の最
寄り駅に到着する時間は、いつもよりは約十分遅くなる。学校へは、ホームルーム中に
なるだろうか。
 と、そんなことを考えている時間も惜しい。切符を買って改札を通った。少し迷っ
て、跨線橋を渡らなくていいんだと確認した。
(こういうときのためにも、電子マネーにした方がいいのかな?)
 手にした切符の感触が、何となく久しぶりで、持て余し気味になる。取り落としそう
になったところを、宙で素早く拾い上げた。
(おっとと。危ない危ない。とにかく、無事に着きますように!)
 心の中でお願いをしてから、やって来た電車に乗り込んだ。

 学校に着くや、純子は職員室に直行した。そこで遅刻届の用紙を受け取り、記入して
から教室に向かい、担任なりそのときの授業を行っている先生なりに渡すのだ。今はま
だホームルーム中だから、担任の神村先生に渡すことになるだろう。
 職員室を出ると急ぎ足で離れ、階段を駆け上がる。誰もいないから、走りやすくはあ
る。学生鞄の角が太ももの辺りに当たって痛いが、気にしている暇はない。踊り場で方
向を転じ、またステップを上がって、二階に。教室横の廊下を行くときは、さすがに走
れない。それでも可能な限り早足で急ぎ、教室の扉まで辿り着いた。開ける前に呼吸を
整えつつ、中からの音に耳をそばだてる。まだまだホームルームの最中だ。
 先生の声が聞こえてきたのは当然だが、内容の方ははっきり聞き取れない。状況は分
からないが、緊張を強いられる場面ではないようだ。ここに来てようやく、電話をし忘
れていたことを思い出す。
「――すみません、遅刻しました」
 がらりとそろりの中間ぐらいの勢いで扉を横に引くと、こちらを見る神村先生と目が
合った。クラスメートからの視線も感じながら、純子は届けの紙を先生に差し出した。
「どれ」
 どんな遅刻理由なのかなとばかりに用紙に見入る先生。
「『寝坊しました』?」
 先生は書いてあることを読み上げ、純子の顔を改めて見た。
(あれ? 面倒だから寝坊ってことにしたんだけど、疑われてる? と言うより、仕事
だってばれてる?)
 収まりかけた呼吸の乱れがぶり返し、心臓の鼓動もペースを上げた気がした。
「目は腫れぼったくないな」
「そ、そうですか?」
「仕事だと聞いたぞ。それにさっき調べて、近くで事故渋滞が起きていることも把握済
みだ」
「え」
 今日、仕事があるとは先生に伝えていなかったから、誰かが言ったことになる。とな
るとそれは相羽か白沼しかいない。
 二人のいる方向をそれぞれ見て、白沼が言ったんだと分かった。
「すみません。少しでも早く来ようと思って、適当に書きました」
 この答は半分だけだ。もう一点、間接的に仕事のせいで遅れたということを皆の前で
言いたくなかった。
「まったく。書き直して、あとでまた出すように。さあ、席に着いて」
「わ、分かりました」
 怒られると覚悟していたが、どうやら最小限の注意で済んだようだ。
「あと、涼原、大丈夫か? 何か知らんが、結構な汗だぞ。はぁはぁ言ってるし」
「え? あ、はい。これは走ってきたからで。暑いです」
 自嘲気味に笑いながら、ハンカチを取り出して額に当てる。今日の天気予報による
と、四月にしてはかなり高い気温になるという。
「言ったことを繰り返している余裕はないので、あとで他の者から聞いておくように。
――さて諸君。このあと一時間目は僕の授業だが、ここで予告しておく。抜き打ちの小
テストをするからな」
「ええーっ!」
 純子の遅刻でざわざわしていた教室内が、これで一気に騒がしくなった。「聞いて
ねー」「先生、ずるい」なんのかんのと抗議のブーイングが起きた。
「何がずるいだ。抜き打ちテストを予告してやったんだから、感謝してくれてもいいだ
ろうに」
「抜き打ちテストを予告したら抜き打ちじゃなくなるよ」
「屁理屈をこねてないで、残りのホームルームの時間をやるから、復習でもしとけ。で
は、お楽しみに」
 にこにこ笑顔で神村先生は教室を出て行く。皆、慌てて数学の教科書やノートを机に
広げ始めた。
「散々だね。渋滞に巻き込まれて遅刻するわ、抜き打ちテストはあるわで」
 隣の相羽が話し掛けてきた。余裕なのか、焦って教科書を見ることはしていない。
「ほんと、厄日かしら。――ね、上着って脱いでもいいと思う?」
 尋ねつつ、学校指定のブレザーの襟口をつまみ、ぱたぱたさせて自身に風を送る純
子。数学の復習も気になるが、先に暑さをどうにかしないと、頭に効率的に入らない。
「別にいいんじゃないか」
「まだ冬服の季節なんだけど」
「――唐沢、委員長としての見解は?」
 相羽は唐沢に聞いた。
「あ? 問題ないんじゃねえの? 去年確か、体育のあとやたら暑かったときは、ブレ
ザーを着ずにしばらくいたぞ。そんなことで煩わせてくれるなよ。余裕のおまえと違っ
て、俺はこれから暗記せねばならんのよ」
「悪い悪い」
 相羽が再び純子の方を向き、促す風に首を軽く傾けた。純子は一応の了解を得たと捉
え、安心してブレザーを脱ぎ、自分の椅子の背もたれに掛けた。
 その動作の途中、振り向いたときに後ろの稲岡と目が合った。
「――少し静かにしてくれ」
「ごめん」
 久しぶりに言われてしまった。テストがあるのだから仕方がない。前を向くと純子
は、舌先をちょっぴり出して無理に笑って見せた。朝から失敗続きで滅入りそうになる
のを、どうにか吹っ切る。それから教科書とノートを取り出し、新学年になってから進
んだ分を見直しに掛かった。

 ちょっとした“異変”が発覚したのは、小テストの採点のときだった。
 通常のテストと違って、小テストはその場ですぐに採点が行われる。先生が一旦回収
して行う場合もあるが、今回は答案用紙を隣と交換し、先生の解説を聞いて採点する形
式が採られた。
 全問の説明が終わって、三問六十点満点での配点も示されたので、各自、隣のクラス
メートの点数合計を書いて、当人に返すのだが。
「稲岡君、これどうしたんだよ」
 純子のすぐ右後ろの席で、平井(ひらい)という男子生徒が心配げな声を上げるのが
聞こえた。気になって肩越しに伺ってしまう。
「単純な計算ミス、ケアレスミスだけど、らしくないな」
「――調子が今ひとつ上がらなかった」
「それにしたって、一つならともかく、二問も落とすなんて」
「言うなよ」
 そう答えながらも、得点を隠すつもりはないらしく、26という数字が見えた。三問
中正解が一つで二十点。残り六点は、やり方が合っていたからおまけの三点ずつを加え
たということになる。
「――稲岡君、あの」
 純子は後ろを向いて、声を掛けた。
 そのとき先生から、答案用紙を集めるようにと号令が掛かる。集めるのは、各列最後
尾の生徒の役目だ。稲岡はすっくと立つと、無言で手を出してきた。
「うるさくしたせい?」
 渡しながら、つい尋ねる純子。だが、受け取った稲岡は返事をせず、機械的に答案を
重ねた。
(わ〜、怒ってる? うるさくしたつもり、ないんだけれど……朝から遅刻騒ぎを起こ
しちゃったのもあるし)
 稲岡の後ろ姿を見送っていた純子は、頭を抱えた。と、そこへ人の気配が。相羽だっ
た。
「僕からは見えなかったんだけど、稲岡の点数、悪かったの?」
「……平井君に聞けば」
「『言うなよ』って一言を気にしたみたいで、もう言う気はないみたいなんだ」
 苦笑交じりに言って、平井の方を見やる。
 純子も稲岡の態度が気に掛かっているので、もう言いたくない心持ちだ。
「悪かったとだけ言っておくわ。ねえ、やっぱり私のせい?」
「考えすぎ。さっきだけじゃなく、このところはうるさくしてなかったじゃないか。誰
だって調子のよくないときはあるんだよ」
 教室の前方を見ると、稲岡は自分から低い点数になったことを申告したらしく、神村
先生と何やら話し込んでいた。
「そうなんだったら、気が楽になるんだけれど」
 ぶるっと震えを覚えて、腕をさすった。
「上着、もう着ていいんじゃない?」
 相羽に言われて、思い出した。汗が引いてきて、一転して寒気を感じたようだ。授業
が再開されない内にと、立ち上がってブレザーの袖に腕を通した。

「アルバイトの希望?」
「はい」
 純子がこくりと頷くと、パン屋・うぃっしゅ亭の店長――職人兼オーナーのおじさん
は、一度大きく瞬きをした。昔は鼻下に髭を蓄え、どちらかと言えば丸顔で、某アニメ
に出て来そうなイメージ通りのパン屋さんだった。今は髭がきれいに消え、少し痩せた
結果、ダンディな雰囲気に変わっている。調理帽の縁から覗く髪は、白髪が圧倒的に増
えていた。
「確か……二、三年前までよく来てくれていたお嬢さん? 胡桃のパンが好きな」
 覚えられていた。嬉しいような恥ずかしいような。そして凄いとも思う。店で対面す
るのはレジの女性がほとんどで、こちらのご主人とは数えるほどしか言葉を交わした記
憶がない。
「最近は来られないから、どこか遠くの学校に行かれたんじゃないかと、残念に思って
ましたよ」
 懐かしむ口ぶりで店長が続ける。時間帯は夕方で、ぼちぼちお客が増え始めるであろ
う頃合い。純子も後ろのドアを気にしつつ、話に乗る。
「緑星に通ってますが、自宅通学なので、来られないことはないんです。でも、ちょっ
と忙しくて……」
 あれ? 話の行き先がまずい方に向いているような。慌てて修正を試みようとする
が、接ぎ穂が見付からない。
 店長は声を立て、短く笑った。
「いいよいいよ。高校生にもなれば、色々と交友関係が広がるものだろうからね。緑星
の生徒さんだということは、制服ですぐに分かった。あそこは進学校だし、忙しいのも
無理はない。それで、その忙しい生徒さんが、アルバイトする余裕ができたと?」
「えっと。忙しいことは忙しいんですが、どうしてもこちらでアルバイトをしてみたい
んです」
「今現在、特に募集を掛けてないんだけどね。仮に採用するとして、いつからどのくら
い入れるの?」
「それが、確実に大丈夫なのは、ゴールデンウィーク明けから、五月二十七日までで、
そのあとは試験の期間に入ってしまって、試験が終わったあともどうなるか、今は分か
りません……」
 だめ元で来たとは言え、声が小さくなってしまう。それでも俯いてしまわぬよう、し
っかりと前を見る。
「正味三週間ほどかあ。うーん。一日に何時間ぐらいできそう? それと、これまでの
バイト経験は?」
「曜日によって違ってきますが、早いときは、午後四時半頃にはお店に到着できるはず
です。夜は八時か九時。父と母とで意見がぶつかっていて……はっきりしなくて、申し
訳ありません。それから」
 アルバイト経験について、どう切り出そうか、ゆっくりと始めようとしたそのとき、
背後でベルがからんと鳴り、お店のドアが意外と勢いよく開けられた。
「ちーっす。寺東(じとう)入りまーす」
「寺東さん、入るときは勝手口からってお願いしてるのにまた。それにその言葉遣い」
「いいじゃないっすか。裏まで行くのは遠回りだし、お客さんの前では直しまぁす」
 最後だけかわいらしく媚びた声色になった。振り向いて様子を窺う。細い顎ととろん
とした目が特徴的な、同い年か少し上ぐらいの女の子だった。アルバイトの人らしい
が、髪が茶色のショートというのは、純子にはちょっと驚きだった。
 と、ふと気付くと、寺東の方も何やら驚いている様子。口をぽかんと開け、純子の方
を指差してきた。
「あんた――」
 とまで言って、一度口をぎゅっと閉め、腕組みをして考え込む。肩に掛けたマジソン
バッグ風の?バッグがずり落ちた。
「こんなとこにいるわきゃないと思うんだけど」
 呟いてから、改めて純子を見た。視線を上から下まで、サーチライトで照らすかのよ
うに。頭のてっぺんから爪先まで、というやつだ。
「ねえ、あんた。いや、お客様かな。あなた、風谷美羽に似ているって言われたことは
ないですか?」

――つづく




#496/598 ●長編    *** コメント #495 ***
★タイトル (AZA     )  17/03/31  01:14  (477)
そばにいるだけで 65−3   寺嶋公香
★内容                                         17/06/07 22:53 修正 第4版
 どきっとした。久しぶりにずばりと言われ、自分がそれなりに有名になっているのだ
と、今さらながら実感する。
「あ、あの。ありません。ほ、本人です」
「へ? って、へー! 信じられない。何してるの、こんなところで!」
 遠く地方で別れた旧友に会ったかのごとく、寺東は反応した。手にバッグを持ってい
なかったら、そのまま抱きついてきて、肩の辺りをばんばんと叩きそうな勢いだ。言葉
遣いも元に戻ってしまっている。
「アルバイトをここでしたくて」
「へー? バイトって、何で? いや、まあ何でもいいわ。今は聞かなくてもいいや。
店長、もっちろんOKしたんでしょうね!」
「あ、いや、まだだが。話の途中だったし」
 戸惑いの色が明らかな店長は、帽子のずれを直しながら、寺東に尋ねた。
「君はこの子と知り合いなのかい?」
「違いますよ。知り合いじゃなく、一方的に知ってるだけ。結構知ってますよ〜。私、
彼女がCMをしてるのをみて、飲み物や化粧品なんかは美生堂を贔屓にしてるんだか
ら」
「よく分からないが、こちらのお嬢さんは広告に出ているのかね」
「出てます出てます。ファッションモデルもしてるし、ドラマにも出たし、他にも色々
と。まあ、全体に露出は抑えめだから、店長みたいな男の人が知らなくても無理はない
ですけどね」
「ふ、ふーん」
 店長もまた、純子をまじまじと見つめてきた。さすがに視線に耐えきれず、下を向い
た。
「言われてみれば、きれいな顔立ちをしてるし、すっとしたスタイルだな。あんまり言
うと、ハラスメントと取られるか」
「い、いえ」
 純子は素早くかぶりを振った。横に立った寺東が、とうとう純子の手を取った。
「ほらほら、店長もそう思うでしょ。だったら雇いましょう。看板娘かマスコットガー
ルってことで、風谷美羽を目当てに来るお客が増えますよ、きっと」
 ええ? そういうのはちょっと……。
 寺東の盛り上がりに、すぐには言い出せなかった純子であった。

「あはは、そいつは傑作」
 鷲宇憲親は、純子からアルバイトを頼みに行ったときのエピソードを聞き、快活に笑
った。
「笑いごとじゃなかったんですよ、そのときは」
 マイクスタンドを握りしめ、力説する純子。姿はひらひらが多く付いているとは言
え、男物のズボンにシャツにジャケット、そしてウィグと、久住淳仕様。今いるのは、
ミニライブで使う会場のステージ上だ。開催まで日にちはもう少しあるが、本番と同じ
場所で雰囲気・空気感を掴んでおこうというわけ。鷲宇のスケジュールの都合で、今
日、土曜しかできないので集中的に取り組んでいる。
 三時間ほどレッスンを兼ねたリハーサルを重ねたあと、休憩中の息抜きに、アルバイ
トの話をしたところだった。
「結局、採用された?」
「めでたく採用していただきました。短期間で時間も不確定っていう悪い条件なのに、
寺東さんの猛プッシュがあったおかげです。だから、その意味では感謝なんですが、客
寄せパンダになるのだけはお断りしました」
「そりゃあ、ルークさんとことしても事務所の断りなしに、そんな営業めいたことをさ
れちゃあ面目丸つぶれだ」
「はい。それに、私がアルバイトをする目的って、さっき言いましたように、相羽君の
誕生日プレゼントのためなんです。だったら、風谷美羽の名前を利用するのは、避けた
いなあって」
「確かに。風谷美羽、来たる!というようなやり方なら、普段と仕事と大きな違いはな
い。わざわざアルバイトをする意味が薄まるね。相羽さんところの影響力がない、自分
自身で勝負してみたいと」
「そうなんです。でも、会って間もない人達に、そこまでの事情を話すのは躊躇われち
ゃって。寺東さん、ミーハーなところあるみたいでしたしね。一応、事務所の意向って
ことで押し切りました」
「納得してもらったの?」
「あー、それがですね。風谷美羽の名前で人を集めるような行為はしないけれども、噂
に立つくらいならいいんじゃないかっていうのが妥協点でした。気付いた人が広める分
には、かまわないという」
「凄く、玉虫色ですな」
 また笑う鷲宇。純子は急いで、「事務所の許可はちゃんともらったんですよ」と言い
添えた。
「分かったよ。それにしてもよくアルバイトまでしようっていう気になれるね。相羽さ
んと市川さんから君のスケジュールを教えてもらったけれど、かなり詰まってるじゃな
いか。明日もどこだっけかイベント広場で、握手会とか」
「あ、それ、握手はなくなりました。サインだけです。限定で先着百名、整理券配布方
式で。あとは歌」
「どっちで唄うのかな?」
「え? ああ、明日は久住淳ではなく、風谷美羽としてです。アニメ『ファイナルス
テージ』のエンディング曲だから。放送開始して間もないし、百人も来てくれるのかし
らって心配で心配で」
「甘く見ない方がいいよ。僕も昔――っといかん。こんなに時間が経ってる」
 鷲宇はお喋りをすっと切り上げ、リハーサルに戻ることを宣言した。
「次はいよいよ、お待ちかねの曲、いや、リレーメドレーを行ってみよう」
「鷲宇さんの持ち歌ですね……ほんとに鷲宇さん、一緒に出るんですか」
「何ですか、その嫌そうな言い種は」
 からかうような口ぶりになる鷲宇。純子は少しだけ迷って、正直に答えることにし
た。
「嫌ですよ。気が重い。鷲宇さんの持ち歌を、鷲宇さんと一緒に唄うなんて」
「しょうがないでしょう。ミニライブとは言え、ショーとして成立させるには曲が少な
く、話術も心許ない。そこで応援出演どうでしょうっていう市川さんからの依頼があっ
たんだ。僕は快く引き受けた。感謝してもらいたいくらいなんだけどな」
「サプライズとして出てくださるのには、光栄すぎていくら感謝してもしきれないって
思っています。でも、それとこれとは別です。普通に鷲宇さんお一人で唄ってくださる
のが、ファンの人達にとってもいいんじゃないですか」
 本気でそうしてもらいたい。けど、言って、聞いてもらえるとは期待していないか
ら、一生懸命練習するほかなかった。
「ばかなこと言わない。当日は久住ファンが集まるんだよ。この会場いっぱいに。大き
くはない箱だけど、一人一人の熱狂が近くに感じられるはず。それに対して全力で応え
ることに集中しなさいな、久住君」
「それはもう覚悟できています」
 力強く言い切る。
 純子のそんな様子を見て、満足かつ安心したのか、微笑を浮かべて軽く頷いた鷲宇。
「その意気込みついでに、一曲まるまる、僕の歌を唄ってみないかな」
「拷問に等しいですよ、それ」

「また寝てる」
 頭上からの声に目を開けると、白沼の手が見えた。ふと、「手だけで白沼さんだと分
かるなんて、親しくなれた証拠かな」と思った。
 それとも、声で察したのかしら等と考えながら、「何、白沼さん?」と応じる。机の
上には、携帯できるミニ枕。
「それだけ眠りたいくせに、よく授業中、起きていられるわね」
 しゃがみ込んだ白沼が、机の縁に両腕をのせて話し始める。
「授業で眠らないように、休み時間に休んでるんだよぁ」
 あくびをかみ殺しながら、身体を起こす。ミニ枕を机の中に仕舞い込んだ。
「疲れが溜まってるんじゃないの。確か、昨日の日曜はスケジュールが入っていたけれ
ど、土曜は何もなかったんでしょ」
「え、そんなこ……」
 そんなことないわ、土曜もリハーサルがあったと答え掛けて、慌てて口をつぐむ。
(危ない危ない。白沼さんには、久住淳としての活動は秘密なんだったわ。でも、レッ
スンて言うだけなら、まあいっか)
 覚醒したばかりの頭をフル回転して、それだけのことを考えた。
「何? 言い掛けてやめるなんて気持ち悪い」
「ううん、くしゃみが出そうになっただけ。で、そんなことないのよ。白沼さんの方に
渡しているスケジュールは仕事絡みだけで、レッスンなんかはほとんど省いているか
ら」
「そうなの? じゃあ、空いていると思ったら実際は埋まっている場合もあるのね」
「うん、まあ、時々は。だいたいは空いてる」
 あまり歓迎できない方向に話が進むので、純子は切り替えに掛かった。
「心配してくれてありがとう! 凄く嬉しい」
「ば、ばか。心配するわよ。パパの評価にも関係があるんだから」
「それでも嬉しい」
 純子がにこにこして見せると、白沼の方は耐えきれないという風に、横を向いた。
「変なこと言い出すから、本題を忘れそうになったじゃない」
「ということは、また仕事関係の連絡が?」
「そうじゃないわ。完全にプライベートなことよ。あなた、相羽君から何か聞いてな
い?」
「うん? 何のことやら……」
 答えながら、白沼の肩を視線でかすめて、相羽の席を見る。今は空っぽ。教室内にも
いないらしい。
「いないわよ。まだ職員室にいるんじゃないかしら」
 探す仕種に勘付いた白沼が言った。
「職員室って、神村先生のところ?」
「ええ。クラス委員の用事で職員室に先生を訪ねたら、相羽君が先にいて。何か相談事
をしていたみたいなんだけど、私が近付いたらぴたっとやめちゃって。先生が手にして
いた資料、ぱたんて閉じるくらいだから、結構個人的な話なんでしょうけど」
「成績かなあ。でも、相羽君、下がってはないはず」
「でしょ。第一、普通とちょっと違う感じなのよね。ぴりぴりしてるというか、緊張感
が高いというか」
「ふうん」
「だから、あなたなら何か知ってるんじゃないかと思って聞いてみたんだけれど……そ
の様子だと特に何もないみたいね」
「うん……」
 ここ数日のことを思い出してみるが、これといって思い当たる節はない。もちろん、
純子が忙しいということもあるけれど、少しの時間でもあれば相羽は一緒にいてくれる
し、楽しい会話も普段と変わりない。
「そういえば、始業式の頃、相羽君が先生に三者面談の日について、お願いしたみた
い。お母さんの都合がどうなるか分からないので、この日にしてほしい、という風な感
じで」
「その話だったのかしら。あんまり詮索することじゃないから、直に聞くのもしにくい
し。涼原さん、恋人として、うまく聞き出しておいてよ。気になるわ」
「や、やってみる」
 恋人という言い方に赤面するのを自覚した。

 駅近くのファーストフード店はほどよく混んでおり、騒がしい。内緒話をするのには
うってつけと言えるかもしれない。
 相羽も純子も飲み物だけ注文して、奥の二人掛けのテーブルに着いた。
「――それじゃあ、当日の格好について。一番上に着るのは、伸びたり穴が空いたりし
てもかまわない服にすること。上下ともにね。あと、靴も」
「靴まで? 畳の上でやるんじゃないの?」
 この日の下校は、結城達や唐沢には悪いが、仕事関係の話があるからと言って、二人
きりにしてもらった。実際には、護身術を教えてもらう日を決めるのとその段取り、そ
して純子からすれば白沼から言われて気に掛けていたことを確かめるためであった。
「護身術を実際に使わざるを得ない状況になったとして、その状況になるべく近い形で
練習するのがいいんだってさ」
「なるほど。って、畳に靴で上がっていいの?」
「専用のマットを用意して、その上でやるみたいだよ。女性の指導員が付いてくれるか
ら、ちゃんと系統立って教えてもらえると思う」
「え、相羽君は?」
「補助が必要なときは協力することになってる。最初からいた方がいいのなら、そうす
るけど」
「もちろん、いてほしい」
 こんな具合にして、護身術を習う日は決まった。連休の最後の日だ。一日で完璧に身
に付けるのはどだい無理があるだろうけど、とりあえず第一歩。仕事だってその日まで
にとりあえず片付いているはず。身体の方は悲鳴を上げているかもしれないが。
「これでよし、と」
「よろしくお願いします」
 お互いにメモ帳を閉じ、飲み物のストローに口を付ける。先に飲むのをやめた純子
は、次の話題に移ろうと、軽く息を吸った。
「このあと、まだ大丈夫よね?」
「うん。何かあるの?」
「特別に何ってわけじゃなくて、もっと話していたいなあって」
「どうぞどうぞ。愚痴でも悪口でも夢でも、何でも聞きましょー」
 おどけた口調になる相羽。純子はつられて笑ってから、切り出した。
「ちょっと前から気になってたの。二年になって、相羽君、神村先生のところに行く機
会が増えてない? 今日も行ってたみたいだし」
「増えたかも」
「数学の質問、とか?」
「いや、質問に行くことはほとんどない。前に言ったと思うけど、三者面談をね。早め
にしてもらうことになりそうなんだ。こちらの都合でわがままを聞いてもらって、特別
扱いは気が引けるんだけど、凄く助かる」
「……」
 純子は短い間だが、相羽の様子を観察した。嘘を言っている風には見えない。
「へえー。普通は中間考査のあとでしょ。それを前にやるなんて、よっぽど成績がいい
人じゃないと、認められないんじゃない?」
「そんなことないって。成績とは関係なしに、先にしてくれたんだと思うよ」
「またご謙遜を」
「いや、ほんとに」
「それじゃあ、先生のところに何回も通ったのは、お願いを聞いてもらうためってわけ
ね」
「うん。こちらも事情を説明するために、証明書って言ったら大げさになるけれど、
色々と出す必要があったしね」
「わぁ〜。お母さんが忙しいと、大変だ」
「忙しいのは純子ちゃんもでしょ。休み時間になると、たいていは机にもたれかかって
寝ちゃう。みんな気を遣って、話し掛けられないみたいだよ」
「そうなんだ?」
 白沼さんは平気で話し掛けてきたけれど、と思った。でも、結城や淡島といった女子
に、唐沢までも話し掛けてこないということは、相当気遣われている。
「起こしてもらったら、いくらでも付き合うのに」
「君のやっていることを知っていたら、無理に起こそうなんて考えもしないよ」
「白沼さんは起こすわ」
「仕事関係でしょ、それも」
「そっか」
 答えてから、心の中でそっと付け加える。
(今日は違ったけれどね。相羽君も心配されているのよ、気付いていないみたいだけ
ど)
 純子はいつの間にかにんまりしていた。
「相羽君。私ね、とっても幸せな気分よ、今」
「え?」
「友達がいて、みんなそんなにも私のことを心配してくれてる。友達だけじゃないわ。
周りの人達大勢に支えられてるんだなって、改めて実感した。感激して泣けて来ちゃ
う」
「――そうだね」
 戸惑い気味だった相羽の表情がほころんだ。
「僕もその輪の中に入ってる?」
「何を言うの。相羽君が一番よ。あ、順番は付けにくいけど、でも相羽君は特別なの
っ」
「よかった。同じだ」
 顔を赤らめながら言った純子の前で、相羽がまた微笑む。
「僕も色んな人に支えられているけれども、君が一番」
 純子は相羽をまともに見つめ直し、そして安心した。相羽も、目元付近に朱が差して
いたから。

 ゴールデンウィークを目前にした、最後の学校の日。校舎内でも各教室でも、それこ
そあちらこちらで、生徒は遊びに行く話題で盛り上がっている。
「分かっていたことですけど」
 昼食の時間、集まって食べ始めるや、淡島が言い始めた。
「やはり、さみしいものです。お休みなのに、自宅に留まるというのは」
「みんなで遊びに行けないこと?」
「ああ、結城さん。折角ぼかして言っておりましたのに」
 この場にいる誰もが、ぼかしていないのでは……と心の中で突っ込んだかもしれな
い。
「ごめんね」
 いただきますのために手を合わせていた純子は、そのままのポーズで頭を下げた。
「私抜きで計画を立ててくれて、全然平気だったのに」
「そんなつもりは毛頭ございません。――ほら、結城さん。こういうことになりますか
ら」
「分かった分かった、分かりました」
 結城は面倒くさいとばかりに肩をすくめた。
「それじゃ、この話題は打ち切り?」
「いえ。一度、話題に出たからには、続けましょう。涼原さんは、いつなら暇になるの
でしょう?」
「遊びに出掛けるとなると……中間試験が終わってからかな」
「一ヶ月以上先の話!」
 結城は心底驚いたらしく、食べている物が口から飛び出さないようにと、急いで手で
覆った。もぐもぐと咀嚼してから、「やっぱり、忙しいんじゃないの」と呆れた風に付
け足す。
「一応説明しとくと、仕事の休みが全くないわけじゃないんだよ。ただ、中間考査前ま
では連続で休める日はなかなかなくて、あっても宿題や完全休養に充てたいなって」
「一つ、抜けています」
 淡島は箸を置いて、右手の人差し指を上向きにぴんと伸ばした。
「な、何が」
「デートをする日も必要なはずです」
 さらっと言ってくれる。当事者の立場からすれば、前置きなしにいきなり冷やかされ
ると、顔が熱くなる。
「い、いえそれは、まあ、ゼロってことはないけれども、相羽君の方も忙しいし。ほ
ら、ピアノのレッスンとかで。だからお互いに無理をしないで、行けるときに行こうね
って合意ができてるの」
「先は長いですから、それでも充分なんでしょう。これからの人生、思う存分に楽しむ
といいですわ」
 淡島は占いを趣味としているせいか、この手の言い種をよくする。純子はお茶を飲み
かけていたが、吹きそうになって、すぐさまコップから口を離した。それでもけほけほ
と咳き込んでしまう。
「もう、淡島さん、今日は飛ばしすぎ!」
「そのような意識は全くないのですが……自重します」
 箸を構え直し、小さな煮豆を器用に一粒ずつつまみ上げてはぱくつく淡島。
「デートって、どんなところ行くの?」
 今度は結城が聞いてきた。純子が答を渋ると、補足を入れてくる。
「根掘り葉掘りはしないからさ。今後の参考までに」
「月並みだよ。映画館とか遊園地とか。最近では、お花見」
「月並みでも幸せなんだから、いいよね。極端な話、二人でいられればどこだっていい
んじゃない?」
「それはまあ……って、そっちから聞いておいて、ひどい言われようだわ」
 純子が怒った素振りを見せると、結城はまあまあとなだめてきた。ひとしきり笑って
いるところへ、淡島がぽつりと。
「噂をすれば、です」
 廊下側に顎を振るので、つられて振り向くと、相羽と唐沢、鳥越の男子三人がこっち
に来るのが分かった。今日は学食に行っていたようだ。
「鳥越が、そろそろ顔を出してくれないと、新入部員にしめしがつかないって」
 前置きなしに、相羽が純子に言った。鳥越は天文部で、夏以降は副部長に収まる予定
だとか。相羽と純子も籍を置いているが、幽霊部員度は似たり寄ったりだ。強いて言う
なら、相羽の方が参加している。
「忙しいのは分かってるけど、そこを何とか。三十分でもいいからさ」
 鳥越は、何故か両手を拝み合わせて下手に出た。
「そんな。悪いのは私の方なのに」
 残りわずかになったお弁当を前に箸を置き、純子は両手を振った。
「気にすることはないぜ、涼原さん」
 唐沢が口を挟む。彼は天文部とは関係ないが、稀に昼の太陽観測に付き合っているら
しい。
「こいつ、今年の新入部員を勧誘するときに、モデルをやってる風谷美羽も在籍してる
よってのを売り文句に、何人か獲得したみたいだから」
「えー、まじ? 星好きにあるまじき行為」
 純子より早く、結城が反応した。続いて淡島も、彼女は無言だったが、じとっとした
“軽蔑の眼”を鳥越に向けた。
「ほ、ほんの少しだよ。入るかどうか揺れ動いてる人を、こっちに傾いてくれるよう、
ちょっと押しただけ」
 言い訳がましく、汗をかきかき説明する次期天文部副部長。
「でもその少しの人数から、風谷美羽さんはどこにいるんですかって突き上げを食らっ
たんだろ」
「ま、まあ、それに近いものはある。――こんなわけで、偉そうに頼めた義理じゃない
んだけど、近い内に一度、部室に来てよ、涼原さん」
 また拝まれた。純子は十秒ぐらい間を取って考え、そして答えた。
「行くのは全然かまわないけど。万が一、その一年生が私を見るだけが目当てだった
ら、すぐにやめちゃうかもしれないよ? 私が言うのもおかしいけれど、その子は真面
目に参加してる?」
「それは……」
 言い淀んだ鳥越。
「……凄く熱心とまでは言えないけれど、たまにさぼるのは、こっちが嘘ついたみたい
になってるせいかもしれないし……ああ、ごめん!」
 大声を出したかと思うと、鳥越は深々と頭を下げた。
「この言い方だと、涼原さんのせいみたいにも聞こえるよね。本当にごめんなさい。そ
んなつもりはないんだ」
「いいの。行かないのは、私が絶対悪いんだし。参加できないくらい忙しいのなら、最
初から入るなってことよね」
「いやそれは、誘ったのは僕らの方だし。それに、だからといって、今さら退部されて
も困るんだ」
「許されるのなら、籍は置いておきたいの。今年はちょうど夏に皆既日食があるでし
ょ? 観られる地域は限られるけれども、それに合わせて合宿をするんだったら、行き
たいなあって思うし」
「分かった。その線で合宿をするように持って行くよ」
 だから部室に顔を出して、と言いたげな鳥越だったが、言葉をぐっと飲み込んだ様子
だ。
「私、まだ先のスケジュール分からないよ? だから参加するって約束もできない…
…」
「いい、いい。たとえ不参加になっても、涼原さんの魂は現地に持って行く」
 魂って何だそれはと、相羽と唐沢、左右両サイドから鳥越に突っ込み。
 鳥越は頭を掻きながら、気持ちだけでも来て欲しいってことさと答える。そうして、
改めて純子の方を向いた。
「とにかく、さっきまで僕が言ったことは忘れて。暇なとき、活動に来て欲しいんだ。
説明するまでもないだろうけど、とっても面白くて楽しいから」
「うん。行く」
 笑顔で返事した純子。
「いついつになるって約束できないのが申し訳ないけれど、絶対に行くから」

 明日からはきゅうきゅうのスケジュールで、ミニライブに撮影にインタビュー、歌や
振り付けのレッスンと目白押しだ。休みも二日あるにはあるが、撮影の予備日に充てら
れているため、天候や進行具合に左右される。
 そういう状況なので、純子にとって今日は学校があるとは言っても、貴重な休みとも
言える。
 明日以降のために早く帰って休息を取りたい反面、友達付き合いも大事にしたいと思
う。だからというわけではないが、下校途中、みんな――相羽、唐沢、結城、淡島、そ
して白沼――と一緒にちょっと寄り道をすることに。
 元からそう決めていたのではなく、相羽が買いたい本があるのだけれど、近くの書店
にはないので、駅ビルの大型書店に寄ってみたいと言い出したのが始まり。六人で列車
に乗り、ターミナル駅までやって来た。
 書店までの道すがら、白沼に問われて相羽が買いたい本のタイトルを口にすると、唐
沢が反応をした。
「なぬ? 『トラ・慰安婦』と『ちん○は、ちん○』だって?」
 相羽はぴたりと足を止めると、唐沢の方を向いた。他の者が引き気味になる中、思わ
ず立ち止まった唐沢の真ん前で、右の握り拳に息を吐きかける相羽。
「いー加減にしろっ。わざと聞き違えるにしても、ひどい。ひどすぎる」
「わ、分かった。悪かった。茶化すつもりはないんだが、もう条件反射みたいに」
「なお悪い」
「いや、だから、今後は気を付けるって。で、もういっぺん言ってくれよ、本のタイト
ル」
 唐沢の懇願に、相羽はため息をついてから、ゆっくりはっきりと答えた。
「『マジック:応用とギミック トライアンフとチンク・ア・チンク』だ」
 純子は歩き出しながら、そのフレーズを頭の中で繰り返し唱えてみた。
(確かにひどかったけれど、唐沢君が下ネタに走るのも、分からないでもないかも)
 そう考える自分が恥ずかしくて、頬が赤くなるのを感じた。両手で覆って隠す。
「トライアンフやチンク・ア・チンクというのは、マジックの演目の名前だよ」
「どんな現象なのかしら」
 白沼が聞いた。彼女はさっきの下ネタの後遺症は浅かったらしい。
「トライアンフはカードマジックで、様々なバリエーションが考案されてるけれども、
基本は、順番も表裏もばらばらになった一組のトランプが、マジシャンの手に掛かると
あっという間に順番も向きも揃うという現象。チンク・ア・チンクはコインを使ったマ
ジックで、基本は……四枚のコインを四つの角において、手のひらをかざしていくと、
コインが一瞬にして別の角に移動し、最終的には一つの角に全部が集まるという現象、
と言えばいいかな」
「相羽君はできる、その二つ?」
「うーん、どちらも簡単なものならいくつか」
「今度見せて」
「いいよ。マットがなくても、何とかできるかな」
 相羽と白沼が話し込むのを目の当たりにした結城が、純子の脇をつついた。
「いいの? 喋らせておいて」
「え? 私、そこまで嫉妬深くないよ〜」
「それじゃあ相羽君の今言ったマジック、観たことあるの?」
「多分ね。名前だけじゃ分からなかったけれど、説明を聞いたら、観たことあると気が
付いたわ」
「そう、それならいいのかしら。随分、絆がお強いようで、うらやましい」
「うふふ」
 素直に受け取って、にやけておこう。
 と、そんな会話が聞こえていたのか、相羽が隣に着いた。
「それじゃあ純子ちゃんにも興味を持ってもらえるよう、新しいのを覚えてから、みん
なの前で披露するよ」
 目当ての書店は、意外と混雑していた。会社の終業時刻にはまだ早いだろうに、乗降
客がよく立ち寄るのか、場所によっては身体の向きを横にしなければ通れないくらい。
この光景だけを見ると、本が売れないなんてどこ吹く風だ。
「どうせ他の本にも目移りするんだろ? 俺、コミックのところにいるわ」
 唐沢はいち早く輪を離れた。結城と淡島は顔を見合わせた。先に口を開いたのは淡
島。
「では、私は占いのコーナーにでも」
 皆にそう告げると、淡島はすたすたと足音を立て、でも何故かゆっくりしたスピード
で進んだ。結城は少し迷った表情を浮かべたが、同じ方向に歩き出した。
「淡島さんとはぐれたら、見付けづらそうな気がする。引っ付いといた方がいいかも」
 何となく納得する理由だったので、その役目を彼女にお願いすることに。
 残った白沼は、純子と同じように相羽に着いて行くつもりなのだ――と、純子自身は
思っていた。しかし、白沼は意外なことを言い出した。
「私は、週刊誌と写真集のところに行くわ。確か、あなたに出てもらった広告の一つ
が、週刊誌に載っている頃のはず」
「き、聞いてない」
 焦りと冷や汗を同時に覚えた。純子は、まさかと思って、続けて尋ねた。
「じゃ、じゃあ、写真集というのは? 私、それこそ全然知らないんですけど!」
「写真集は写真集よ。あなた、前に撮ったんでしょ。それが今も残っていないか、チェ
ックしてあげる」
「えー、入れ替わりが激しいから、きっともうないって」
 今度はほっとすると同時に、白沼の感覚が理解できなくて戸惑った。
「本人が通う学校や自宅に近い書店なら、大量に仕入れて在庫が残ってるんじゃないの
かしら。リサーチよ」
「そんなことないって。返本するって」
 ねえ相羽君も説明してあげてよと、振り返ったが、そこにはもう相羽の姿はなかっ
た。少し先の通路にて、向こうもこっちを振り返っていた。
「多分あっちの方だから、探してるよ。どうぞごゆっくり」
 行ってしまった。人目がなければ、がっくりと膝と手を床につきそうだ。
「さあ行くわよ」
 そして何故か一緒に行くことになっているらしい。白沼に引っ張られ、まずは雑誌
コーナーに来た。
「えーと。白沼さん、何の広告だっけ?」
「『スマイティR』よ」
「ああ、美容健康食品……」
(コマーシャルだけでなく、静止画媒体向けにも撮ったんだっけ。『毎日食べてます』
っていうフレーズがなくなって、肩の荷が軽くなった気がする)
 そんな感想を抱く純子の前で、白沼は女性週刊誌を何冊か選び取り、次から次へ、ぱ
らぱらとめくっていく。手にした内の二誌で純子の出ているチラシを見付けたようだ。
一誌を純子に渡し、もう一誌は自らが見る。
「同じ物だけど、色ののりが違う感じ」
 純子の手元も覗いてから、白沼が言った。商品の魅力が上手に表現されているか、モ
デルがどう映っているかよりも、まず先に色調の差が気になるとは。広告のデザインを
決めた段階で分かりきっていることには興味ない、実際に紙面に載った広告の状態が肝
心だというわけなのだろう。
 映っている当人としては、そう割り切れるものではなく、純子は恥ずかしさを我慢
し、自らの映り具合を確かめた。
(あっ。ちょっと大人っぽく見えるかも? って、私が言うのもおかしいかな。でも、
『ハート』のときに比べたら、落ち着いている感じが出てるような。服かメイクの違い
かしら)
 ロングスカートのワンピースは、紫と群青の間のような色合いで、今までに自分がや
って来たはつらつとしたイメージに比べると、かなり大人びて見える。製品を持って微
笑んでいるだけ。言ってしまえばそれまでの広告なのに、無言の説得力が備わっている
ような気がしないでもなし。
(自分で自分の仕事を、ここまで肯定的に感じられるのって、珍しい)
 意外さから、舞い上がっているのかなと我が身を省みる心持ちになる。
「期待に応えてくれた、いい仕事をしてると思うわよ」
 心中を読み取ったかのように、白沼の声がそう話し掛けてきた。思わず目を見張った
まま、相手の顔を見返した。
「同級生の意見じゃ心許ない? 違うわよ。私だけじゃなく、会社のみんながいい出来
映えだって誉めてたんだから」
「本当に? う、うれしいよー」
 少なからず感動して、涙がにじみそうになる。ごまかすために、ちょっとおどけた声
を出した。
「あとは『スマイティR』が売れてくれればいいだけ」
 現実的な話をされて、涙は引っ込んだみたい。
「さあて、時間を取ってる暇はないわ。次、写真集よ。早く調べて、相羽君のところに
行かなくちゃね」
「見なくていいよ〜」
 置いているはずないと信じているが、もしあったらやっぱり赤面してしまうだろう
し、なかったなかったでちょっと寂しい。
 渋る純子だったが、またも引っ張られてしまった。抵抗むなしく、写真集の置いてあ
る一角に差し掛かる。
「今日は男性アイドルはお呼びじゃない、と――あら」
 横を向いていた純子の耳に、白沼の訝るような響きの声が届いた。何事かとそちらの
方を見ると、顔見知りの男子生徒が立っていた。
(稲岡君?)

――つづく




#497/598 ●長編    *** コメント #496 ***
★タイトル (AZA     )  17/03/31  01:15  (494)
そばにいるだけで 65−4   寺嶋公香
★内容                                         17/06/07 22:54 修正 第4版
 意外なところで意外な顔を見た。白沼が怪訝がったのも頷ける。稲岡のイメージは、
勉強一筋でお堅くて、芸能界や女性に興味関心全くなし、だったのだ。それが今、写真
集のコーナー前に立っている。その位置から推して、女性写真集が並べてあるのは確か
だ。
 稲岡に、純子や白沼がいることを気付いた様子は全くない。と言って、写真集に見入
っているのでもない。何せ、全ての写真集は透明なビニールでパッケージされて、開く
ことができないのだから。品定めしているのか、表紙と裏表紙、そして背表紙をためつ
すがめつしている模様だ。あるいは、視力がよい方ではなさそうな稲岡だから、ビニー
ルに蛍光灯の明かりが反射して、文字がよく見えないのかもしれない。
「い――」
 名前を呼ぼうとした純子を、白沼が手で遮った。
「なに?」
「察しなさいな。あの稲岡君がこんな意外なとこにいるのだから、声を掛けたら逃げ出
しかねないわ」
「まさか」
「とにかく、両サイドから挟み撃ちの態勢を取る。声を掛けるのはそれから」
「えー」
 ひそひそ声で話したので勘付かれた気配はまだない。しかし気乗りしない純子は、改
めて名前を呼ぼうとした。
「待って。じゃあ、彼が何を手にとっているのか、それだけ確認させてよ」
 意地悪げな笑みを浮かべた白沼は、返事を聞かずに行動を開始した。白沼も成績優秀
な方だから、稲岡をライバル視していて、その相手の弱点を見付けた気になっているの
かもしれない。忍び足で稲岡の背後へ近付くと、そっと首を伸ばして、彼の手元を覗い
た。
「あっ」
 声を発するつもりはなかったのだろう、白沼はしまったという風に口元を手で覆っ
た。が、もう遅い。稲岡が振り返る。
「あ」
 稲岡も似たような反応を示して、しばらく動きが止まった。けれど、次の行動に出た
のは稲岡が早い。持っていた写真集一冊を書棚にぐいと押し込んで戻すと、俯き加減に
なって立ち去ってしまった。呼び止めるいとまのない、あっという間のことだった。
「ほらあ、白沼さんがびっくりさせるから」
 純子がしょうがないなあと苦笑いを我慢しながら近寄る。立ち尽くしていた白沼は、
その声にくるっと力強く向き直った。真正面から両肩に手を置き、言い聞かせるような
口ぶりで始める。
「涼原さん」
「な、なに」
「稲岡君が成績を落としたとしたら、その原因はやはりあなたにあるみたいよ」
「はい? どうしてそんなことが今、言えるの?」
 うるさくしたことを悪いとは思っている。しかし、そのことだけで小テストの赤点の
原因とされては、理不尽だ。
「素早く棚に戻されたけれども、私しかと見たわ。そこにあるのはあなたの写真集でし
ょ?」
「え、まだあるの?」
 白沼が指差した先に目を凝らす。何段かある本棚の中程、若干左上の隅に収まった書
籍の背表紙に、風谷美羽写真集という文字が読み取れた。
「ほ、ほんとだ。びっくり」
「私がびっくりしたのは、稲岡君がそれを手に取っていたことよ」

 相羽が目的の本を見付けて購入したのを機に、純子達六人は書店を離れた。そして白
沼の提案で、隣接するカフェに入る。普通、喫茶店に入るのは保護者同伴でなければい
けない校則があるが、そこはブックカフェという名目故。校則の適用外とされていた。
本を購入した客がすぐに読めるよう、場所を提供するのが主目的で、飲食物は極簡単な
物のみ用意されている。
「偶然じゃねえの?」
 丸テーブルに全員がついたところで、稲岡の一件を白沼が話す。すぐに反応したの
は、唐沢だった。
「あいつがアイドル写真集に興味を持つところが、想像できん」
「アイドルじゃなくて、クラスメート」
「それにしたって、なあ」
 相羽に同意を求める唐沢。だけど、そのクラスメートと付き合う相羽は、どう答えて
いいのやら、困り顔を露わにした。
「偶然なわけないわ。あの稲岡君が女性アイドルの写真集を置いているコーナーにい
て、この子の写真集を手に取っていた。私はこの目で見たのだから」
 白沼は純子の方を示しながら力説した。これを受けて、淡島が分析的に答える。
「事実として受け止めるとしましょう。つまりは、稲岡君は涼原さんに好意を抱いてし
まい、それが成績低下につながったと」
「まさかぁ」
 笑い飛ばそうとする純子だが、あんまりうまく行かなかった。周りの賛同も得られて
いないらしい。
「おかしいわ。仮に、淡島さんの言ったことが当たってるとして、どうしてそれが成績
低下につながるのか」
「気になる異性ができて、勉強に身が入らないというのは、ありがちではありません
か。もしや、涼原さんはそのようなタイプではないのでしょうか」
「……うん、そうなのかな。えっとね、好きな相手とうまく行っていたのに、何かのき
っかけで仲が悪くなった、とかなら、何も手に付かなくなるかもしれない。でも、気に
なる人ができただけなら、それは幸せなこと、嬉しいことだわ」
「なるほどね」
 結城が腕組みをして頷いた。それから腕を解き、純子を軽く指差した。
「けれども、今の場合は、純の状況を当てはめなきゃいけない。稲岡君からすれば、彼
氏持ちの女子を好きになりかけてるんだよ。声を掛けたくてもできない。悶々としたと
しても当然よ」
「少し、分かった気がする」
 そう返事したものの、まだ不明点が残っている。つい、首を傾げた。
「私、どう考えても稲岡君からは嫌われてると思ったんだけど。嫌うって言うのが強す
ぎるのなら、避けられてる、疎まれている感じ。こんなので、実は好意を持ってますな
んて、あり得ないわ」
「小学生ぐらいなら、好きだからこそちょっかいを出すというのがあるかもしれないけ
ど、さすがにねえ。いくら勉強の虫でも」
「好意を少しでも持ってくれてるなら、席替えの希望を出すとも思えない」
 稲岡の親から席替え希望が出された経緯は、皆に打ち明けてある。
「実際に成績が下がり始めたのは、いつ頃なんだろうな」
 唐沢が問い掛けを出すが、誰もすぐには答えられない。
「はっきりと表面化したのは、この間の数学の小テストね。二十六点」
 白沼の声は、何とはなしに弾んで聞こえる。と言っても、ライバルの失敗を喜んでい
るんじゃあなく、こうして大勢で分析して原因を探るのが面白いようだ。
「あの日、起きたこと。きっかけになるような、何か特別な……」
 相羽が口元にぴんと伸ばした右手人差し指を当て、心持ち瞼を下げ、宙を見つめるか
のようにじっとした。他の者が見守る中、十秒ほどしてからつぶやく。
「あ――あった」

 学校が始まるまで待てない。それに、学校では話しにくいかもしれない。そんな考え
から、純子は白沼と連れだって、稲岡の家を訪れた。
 当初、白沼には「何で私まで」と拒まれ掛けたが、書店での目撃者として相手に知ら
れているのだからと、連れて来た。
(相羽君に来てもらうわけにいかないしね)
 稲岡宅の住所等を調べる必要があったので、出直しの形になった。そのため、書店で
稲岡を見掛けてから約一時間半が経っていた。
「案外近くで助かったね」
「近いと言っても、電車で反対方向に十分。そこから歩いて五分強。楽じゃないわ」
 角を曲がると、目的の家が見えた。
「大きいわね。私の家ほどじゃないけれど」
 付き合わされている意識がまだ残っているせいか、白沼はそんな憎まれ口を叩いた。
 家の門のところまで来ると、見上げながらまた白沼が口を開いた。
「さあて、まともに呼び出しても、出て来てくれるかしら」
「任せておいて」
 純子はインターフォンを見付けると、レンズに顔を通常よりもかなり近付け、躊躇す
ることなしにボタンを押した。
「どちらさまでしょう?」
 すぐに声がした。女の人の声だ。両親とも仕事を持っている――それぞれ病院と化粧
品メーカー勤務――ことを、事前に把握しておいたので、母親ではないだろう。稲岡は
一人っ子だし、お手伝いさんかもしれない。
「初めまして、稲岡時雄君のクラスメートです。忘れ物を届けに来ました。直に渡した
いのですが、時雄君はいますでしょうか」
「はい。わざわざすみません。しばらくお待ちください」
 お手伝いさんと思しき女性の声は、すんなりと受け入れてくれた。
 が、純子の隣では、白沼が目を白黒させている。それもそのはず、純子は今し方、男
子の声色でインターフォンのやり取りを行ったのだ。
「す、涼原さん。あなた、そんな声、出せたの?」
「うん。ボイストレーニングをやっている内に身に付けた特技」
 しれっとして答えた。本当のところは、久住淳として活動するために、低い調子で喋
る練習を重ね、その結果、今では何種類か男性の声を操れるようになった。もちろん、
喉を傷めてはいけないので、大絶叫するなど出せないトーンはあるが。
「将来、文化祭や何かの打ち上げをやるときは、それ、披露しなさいな。大受け間違い
なしだわ」
 唖然とした状態から立ち直った白沼は、どうやら本気で感心してくれたようだ。
「いざというときに取っておきたいんだけど――あ、来たみたい」
 一応、門扉の影に隠れる二人。姿を見た途端、稲岡が中に引っ込んでしまう可能性、
なきにしもあらずだ。
 門とは反対側の塀越しに、植え込みの隙間から見ていると、稲岡が靴を片足ずつとん
とんとさせてから進み出てきた。校則をきっちり守りたい質なのだろう、制服姿だ。ブ
レザーの上着こそ着ていないが、普段学校で見るのとあまり変わらない。
 門の格子を通して、その向こう側に誰もいないのを、稲岡は怪訝に感じているよう
だ。それでもやがて門を開け、外に出て来た。
「稲岡君。こっちよ」
 純子と白沼は期せずして声を揃えた。お互い、予想外のことについ噴き出してしま
う。
 一方、稲岡は口を半開きにして、呆気に取られている。これは学校ではなかなか見ら
れない、赤面した上に間の抜けた表情だ。男子が来たと思っていたのが、女子だったと
いうだけでも充分に戸惑いの原因になるに違いないが、さらに書店で見られたくないと
ころを見られた白沼と、純子が来たとなると、頭の中が真っ白になったとしてもおかし
くない。
 が、それでも中に戻らなかったのは、今、純子と白沼の二人が噴き出したおかげかも
しれない。場の空気が緩んだ。
「な、何だよ、君達。男子は?」
「ごめんね、私達だけなの。直接会って、話がしたかったから、ちょっと声色を」
 稲岡は疲れた風に片手を門柱につき、もう片方の手を自らの額に当てた。
「忘れ物というのも嘘なんだ?」
「ごめん」
 純子は再び謝罪したが、白沼は首を傾げて見せた。
「一つ忘れていたんじゃあない? 書店に、買うつもりだった写真集を置いてきたのか
と思ったのだけれど」
「……やっぱり、見られていたか」
 一瞬にして赤面の度合いが上がる。が、すぐにあきらめがついたのか、嘆息した。
「どこまで見えた? いや、それよりも、涼原さんもあの場にいたの?」
「うん」
 稲岡は額の手をずらし、顔全体を隠すようにした。それだけでは足りないと、もう片
方の手も門柱から離して、顔を覆う。眼鏡に指紋が付くだろうに、お構いなしだ。
「だめだ。物凄く恥ずかしい」
「いいじゃないの。勉強にしか興味のないガリ勉かと思ってたのが、普通の男子と変わ
りないと分かって、安心したわよ」
 白沼が気軽い調子で言った。彼女なりのエールなのかは分からないが、気まずくなる
のを避ける効果はあったようだ。
「わ、私も恥ずかしさはちょっぴりある。けれど、手に取ってくれたのは、嬉しい。フ
ァンが増えるんだもの」
 純子も調子を合わせる。ちょっぴりどころか、かなり恥ずかしい。
「だから、稲岡君からうるさいとか静かにしてくれって言われると、落ち込んじゃう。
席替えまで言われた、なおさらよ」
「ああ、いや、あれは、僕の言葉をお母さんが極端に受け取ったせいで、僕はそこまで
思ってない」
「そうなの? それなら少し救われた気分」
 手を合わせ、顔をほころばせる純子。後を引き継いで、白沼が指摘する。
「でも、邪魔になっているのは事実よね? 成績、下がったんだから」
「うぅ、あれは……」
 口をもごもごさせ、続きの出て来ない稲岡に対し、純子は「やっぱり私のせいなの
?」と尋ねる。
「君のせいというか、違うというか」
「折角聞きに来たんだから、はっきり言っておけば?」
 白沼は悪役を引き受けるつもりになっているようだ。本心を引き出すために、きつい
言葉を投げ掛けつつ、稲岡を促す。
「涼原さんを間近で見て、一目惚れみたいになったんでしょう? おかげで勉強に身が
入らなくなった」
「……いや、我慢していたんだ」
「そうみたいね。でも、小テストで悪い点を取った日は、我慢できなくなった」
「あれは別の原因が」
「隠さないでいいのに」
 白沼のこの台詞には先走りを感じた純子。急いで割って入る。
「稲岡君。突き詰めれば、私のせいなんだよね? あの日、私が遅刻してきたせい」
「え。分かってたの、か」
「ううん、分かってなかった。相羽君に言われて、気が付いたの」
「相羽が。そうか。相羽なら気付くな、うん」
 どこかほっとした様子になる稲岡。そこへ、白沼が改めて尋ねた。
「一応、確認させてもらうわよ、稲岡君。あの日、遅刻してきた涼原さんがブレザーを
脱いだことで、ブラジャーのバンドが透けて見えた。そのことが気になって、テストに
集中できなかったのね?」
「そ、そうだよ」
 また顔を赤くする稲岡の前で、純子も少し頬を染めた。
 あの日は朝から走り通しだったから、汗をかいた。結果、透けて見えやすくなってい
ただろう。加えて、撮影のときはシンプルなスポーツブラ着用だったが、終了後に着替
えて、若干華美なデザインの物に変えたことも影響したかもしれない。
(気を付けなくちゃいけないなぁ。相羽君も気付いていたわけだし)
 胸中で反省する純子。
 白沼は白沼で、双方に呆れた視線をくれてやっていた。
「去年も周りの女子には、何人か無防備なのがいたでしょうに、気にならなかったのか
しら?」
「全然。変な風に受け取らないで欲しいんだけど、涼原さんだからこそ、意識してしま
ったというか。だから、克服しようと思って、写真集を探したんだ。水着の写真があれ
ば、それを見て慣れるかもしれないだろ」
「はあ、まったく、おかしなこと思い付くものね。それで、今後どうする気よ、稲岡君
は」
「どうするって」
「これから暑くなるのよ。夏服になるのよ。ブレザーを着なくなるの。毎日、目の前で
見えるのよ」
 畳み掛ける白沼に、たじたじとなる稲岡。純子は二人のやり取りを前に、「な、なる
べく見えないように気を付けるから」と小声で訴えた。
「完全に見えなくするのは無理でしょうが。付けないわけにいかないでしょうし」
「そ、そりゃあ、私だって昔と違って」
 ブラジャーの初使用が周りの友達よりも遅かったのを思い出し、内心、汗をかく心持
ちになる。
「やっぱり、席替えしてもらいなさい」
 白沼が断定的に言った。
「クラス全員がやらなくても、あなた達二人が入れ替われば済む話よ。理由はまあ、稲
岡君、あなたの視力がちょっと落ちたってことにすればいいんじゃない?」
「……そうだね。席替えしたって言えば、お母さんも納得する」
「なぁに、そんなに厳しいの?」
「いや、厳しくはない。心配性なんだ。学校側に希望を伝えたのに、通らないでいる
と、ずっとやきもきしている」
「それなら、席替えがあったことのみ伝えれば、解決ね」
 白沼と稲岡の間で、どんどん話が進む。最初はそれを聞き流していた純子だったが、
はたと気付いた。
「ま、待って!」
「何?」
 白沼が振り向いたが、純子は稲岡の方に言った。
「席替えしてもらうんだったら、隣の平井君も説得してくれないかなあ」
 このお願いに、いち早くぴんと来たのは当然、白沼。
「ははあ。あなたが一つ下がったら、隣が相羽君じゃなくなると。それが嫌なのね」
「あ、当たり、です」
 しゅんとなった純子の背後に回った白沼は、相手の肩を上からぎゅっと押し込んだ。
「また仲よくお昼寝するつもりね」

 大型連休中、最大の仕事であるミニライブの現場は、恐らく最大となるであろうトラ
ブルの発生に、幕開け前から混乱を来していた。
「え? 来ない?」
「正確には、来られないかもしれない、だけど、見通しが立たないのなら同じことだ
ね」
 シークレットゲストとしてスタンバイしてもらう予定の鷲宇憲親が、開演の三十分前
になっても、まだ会場入りできていないのだ。飛行機の遅れだという。
「車の流れは順調みたいだから、本来の出演時刻には間に合いそうなんだけれど、最終
チェックなしにやるのは、結構リスキーだよね」
 鷲宇サイドから派遣されたスタッフの一人・牟禮沢(むれさわ)が、平静さを保ちな
がらも緊張感のある声で述べる。
「一応、間に合う前提で諸々準備を進めますが、気持ち、遅らせ気味に願えます?」
「遅らせると言われても、うちの久住はトークは無理なんですよ」
 市川が懸念を表する。その隣やや後方で、純子――久住淳も黙ってうなずいた。ハプ
ニングに、ともすれば震えが来そうになるが、どうにか堪えている。
「司会役を用意していればよかったんですがね」
 別のスタッフが言った。この度のミニライブ、もちろん歌だけでは数が足りず、つま
りは時間がもたないので、喋りも予定されてはいる。でもそれは鷲宇が舞台登場後のこ
とで、要は全て鷲宇頼みなのだ。他には短い挨拶くらいしか考えていなかった。
「演奏のテンポを1.1倍ぐらいまで延ばす、なんて荒技もありますが、余計に無理で
すよねえ」
 恐らく冗談なのだろう、牟禮沢が言ったのだが、誰も笑わない。
「それよりはましな、でもやっぱり無茶な提案が一つあるのですけど」
 市川が反応を伺いながら、小出しに喋る。牟禮沢が伺いましょうと、身を乗り出す。
可能であれば、この打開策を話し合う現状を、鷲宇本人にも携帯電話を通じて聞いても
らいたいところだが、バッテリー切れが恐いので、必要なタイミングになるまで取って
おく。
「牟禮沢さんもご存知だと思いますが、芸能人の方を何名か、お招きしたじゃありませ
んか」
「ええ。彼――久住と同世代で、多少なりとも親交のある人数名に」
(え。そうなの?)
 後方で聞いていた純子は、小さく飛び跳ねるぐらいびっくりした。聞かされていなか
った。思わず、女の子の声で叫びそうになったけれども、これも何とか我慢。
「実際に来られた方がいるはずです。その方に助っ人をお願いするというのは、どうで
しょうか」
「どうなんでしょう……たとえ親友同士でも、事務所を通すのが常識です。今から言っ
て受けてもらえるかどうか。ギャラの問題も発生する。でもまあ、だめ元で頼んでみま
しょうか。マネージャー同伴で来てる人がいれば、比較的話が早いんだが」
 打診する前に鷲宇と相談する必要があるとのことで、席を外す牟禮沢。内緒話がした
いのではなく、使っている大部屋がざわついているため、静かな場所に移動するのだ。
 三分足らずで戻って来た牟禮沢は、落ち着く前に「ゴーサイン出ましたよ」と告げ
た。
「手配は任されたが、どちら様が来てくれているかを把握しないといけませんね。さっ
き、確認に行かせたんですが、まだ戻ってこないな」
 呟いてドアの方を振り返ろうとした矢先、ノックの乾いた音が。この緊急事態に呑気
にノックするとは、スタッフではなく、訪問者だろう。
「どうぞ!」
「お忙しそうなところをすみません。控室を訪ねたら、今、こちらだと聞いたもので」
 腰の低い、柔らかい口ぶりで入って来たのは、招待した一人だった。
「あ、星崎さん」
 純子は久住として声を上げた。パイプ椅子の背もたれを持って回り込むのももどかし
く、駆け寄る。
「やあ。お招きを受けて、来てみたんだけどね。空気がざわざわしていて、知っている
顔のスタッフさんが何人も走り回っているから、どうなってるのかと心配になってさ」
「それが」
 事情を話そうとして、シークレットゲストの存在を言っていいのか、迷ってしまっ
た。星崎は芸能友達とは言え、お客さんだ。
 そこへ市川と牟禮沢が加わり、代わって説明を始めた。事態を飲み込んだ星崎は、と
りあえずは勧められた椅子に腰を下ろした。そして「鷲宇さんに貸しを作るのは悪くな
い話ですね」と、苦笑交じりに始めた。
「二人でユニットの曲も唄えるかもしれないね。ただ、事務所の許可がいるので、ちょ
っと時間をください。マネージャーに言えば、多分OKが出ると思います」
 早い方がいいので、また席を立って出て行こうとする星崎。が、「あ、そうだ!」と
足を止めて、牟禮沢に言った。
「加倉井舞美ちゃんも来てましたよ」
「ほんとですか!?」
「ええ。彼女、マネージャーさんと一緒だったから、出てくれるかどうかは別として、
判断は早いと思います。ええと、席は」
 壁に掛かる会場全体の座席表を見て、加倉井のいる位置を指し示した星崎。そのま
ま、携帯電話を取り出しながら退室して行った。
「よし、すぐにコンタクトを」
「でも、女性ってどうなんでしょう? 久住のファンが集まってるところへ同世代の女
の子が登場して、受け入れられるかどうか」
 声を小さく、低くして思案がなされる。
「そうだな。星崎さんに出てもらえると決まったら、一緒に登場することで、変な目で
見られることもないだろうが……。背に腹はかえられない。声を掛けておく」
(何だか知らないけれど、勝手にどんどん進む〜)
 再び座ることも忘れ、成り行きを見守っていた純子。開演まで十五分です!という声
に、スイッチが切り替わる。
(あー、もうっ、覚悟決めた。なるようにしかならない。最善を尽くすのみ! それ
に、このままなら、鷲宇さんの歌を本人と一緒に唄わなくて済むかも? なんちゃっ
て)
 気休めに、いいことを一つでも見付けて、肩の荷を少しでも降ろす。いよいよスタン
バイに掛かろうと、部屋を出ようとしたところへ、市川が言ってくる。
「幕が上がる前に、どう変更するかを決めたかったんだけど、無理かもしれない」
 市川の話に、黙ってうなずく。
「休憩時間までには決まるはずだから、それまでは気にせずに、段取り通りにやって。
いいね?」
「はい」
 久住になりきった声で応えた。
「久住淳の初ライブ、飾りに行ってきます!」

「えっと? サプライズゲストが来ているそうです、カンペによると」
 休憩開けに一曲、カバーソングを歌ったあと、純子は、否、久住は切り出した。
「正直に言います。僕が最初に聞いていたサプライズゲストとは違います。だから、僕
にとっても本当にサプライズになってしまいました」
 観客席からの反応が、どういうこと?という訝るものから、笑い声へと変化する。
「お待たせしては問題ですし、早速お呼びします。かつて映画で共演し、勉強させてい
ただきました、加倉井舞美さんに星崎譲さんです」
 思っていた以上に、大きなどよめきがあった。加倉井か星崎、どちらか一人ならまだ
想像できたが、二人揃ってというのが予想外だったのかもしれない。新作映画の宣伝で
もない限り、普通はない華やかな組み合わせなのだ。
 二人はそれぞれ、舞台袖の両サイドから現れた。客席から見て左が星崎、右が加倉
井。久住は順番にハイタッチしてから、女性である加倉井に真ん中を譲ろうとした。
が、やんわりと拒まれてしまい、思わず苦笑い。仕方なく、中央に収まり、三人で肩を
組む。
「何を引っ込もうとしてるの? 今日の主役は久住淳でしょう」
「そうそう。楽をしようたって、そうはいかない」
 加倉井、星崎の順に早速やり込められた。大雑把な流れしか決められていないし、聞
かされていない。手探り状態で、トークを続ける。
「そのつもりだったんですが、お二人の芸能人オーラを目の当たりにして、怖じ気づい
ちゃいました」
「怖がらなくていいじゃない。久住君のオーラだって、負けてない」
 さも、オーラが見えているかのように、指差す仕種の加倉井。つい、振り向いて背後
を見上げてしまった。笑いを取れたからOKとしよう。
「真面目な話をしますけど、本当に急な話で出演してくださって、感謝しています。加
倉井さん、星崎さん、ありがとうございます」
 深々とお辞儀。あまり丁寧だと女性っぽく映る恐れがあるので、上体を起こすときは
やや粗っぽく。
「いやいや、どういたしまして」
「真面目な話は面白くないよ。ほら、お客さんがあくびしてる」
 さすが慣れていると言うべきか、星崎が客いじりを始める。そのあとしばらくは、先
輩二人の独壇場だった――二人で独り舞台というのもおかしいかもしれないけれど。
「――あ、星崎さん、時間みたいです。一曲、歌ってもらわないと」
「ああ、そうだった。でも、お客さん、いいの?」
 星崎が耳に片手を添える。即座に、観客全員が声を揃えたのではないかと思えるくら
い大きな「いいよ−!」という答が返って来た。ここに至るまでに充分に温め、客席と
のやり取りで心を掴んだ成果が出た。
「よかった。じゃあ、何がいいかな。今日は収録がないから、何を唄っても大丈夫と聞
いたんだ。リクエストがないなら、久住君とは畑の違うところで、演歌を」
「えー? 演歌、ですか」
 イメージにないので、心の底から驚いてしまった。まあ、演歌なら比べられることも
少ないだろうから、安心ではあるけれども。
「演歌を歌う星崎さんなんて珍しい姿、ファンの人に取っておけばいいのでは」
「そんなに勿体ぶるもんじゃないよ。えっと、このところはまっているのが、『氷雨』
なんですが、皆さん、特に若い人は知ってる?」
 半数ぐらいが知っていたようだった。

 星崎が『氷雨』を朗々と?見事に歌い上げると、期せずして拍手が起こった。どちら
かといえば大人しめの容貌の星崎だから、女性になりきったような歌い方をするのかと
思いきや、芯のしっかりした男っぽい声でやり通した。
 あとを受けてマイクを握った加倉井は、「一番得意なのが持ち歌なのは言うまでもあ
りませんが、今日は宣伝に来たんじゃないし、先に星崎君に演歌なんて面白いことをや
ってしまわれると、私も何かしなくちゃいけないのかなと考えて」云々と前置きした挙
げ句、『すみれ September Love 』を振り付けありで力一杯やってくれた。星崎と違
い、独自色をなるべく消し、物真似に徹したような唄いっぷりで、これまた見事だっ
た。
「この曲も結構昔、大昔の曲だった気がするんですが」
「それが?」
 久住が話し掛けると、加倉井はほんの少し息を切らしながらも、髪を軽く振って答え
る。
「いや、加倉井さんがどうして知っているのかなって。物真似できるほど」
「カラオケの十八番の一つなの。それより、久住君だって物真似だと分かってるってこ
とは、つまり知ってるんじゃない」
「あはは、ばれましたか」
 軽妙なやり取り。ようやくこつが掴めたかなという頃合いだったが、時間の都合でそ
ろそろ切り上げねばならない。
 先に思い付いていた星崎とのユニットは、加倉井が参加してくれたことで、なしとし
た。どちらか一方を特別扱いはしたくないし、あといって加倉井と二人で唄うのも練習
なしでは難しいというわけ。
 ゲストの最後の見せ場ということで、三人で唄う。ぶっつけ本番で三人揃って唄える
ほぼ唯一の歌というと、共演した映画の主題歌になる。緊急事態の割に、意外と感覚で
記憶しているもので、まずまず聴ける物になっていた。さすがに歌詞はうろ覚えだった
ため、歌詞カードを見ながらになってしまったが。
「――では、残念ですが加倉井さんと星崎さんはここまでということで」
「もう? あら、ほんとだわ。マネージャーが時計を指差して、頭から湯気を立てて
る」
 冗談を言う加倉井の口調は、実際、まだまだやりたそうな響きを含んでいた。が、時
間切れというのも事実。星崎とともに、登場したのとは反対方向にそれぞれ下がった。
「ほんっとうに、ありがとうございました。ピンチのときは、また来てください」
 舞台袖にそんな呼びかけをすると、「次からは一人で!」と反応があった。
 とにもかくにも大きな山場は乗り切った。久住は一安心すると同時に、気を引き締め
直しもした。
(さあ、ラストスパート!)
 脳裏にこのあとの進行を改めて思い描き、切り出す言葉を考える。
「また一人になってしまいました。寂しい気もしますが、がんばります。次は――」
 曲名を伝えようとしたそのときだった。
 場内が暗転し、次の瞬間には、舞台上手にスポットライトが当てられる。ほぼ同時
に、
「寂しいと言ったか? ならばもう一人、僕がゲストになりましょう!」
 鷲宇憲親の声が轟いた。
「鷲宇さん?」
(間に合ってたの?)
 いつもなら、というか通常の状態なら、鷲宇憲親ほどのビッグネームであれば大歓声
がわき起こっておかしくないのだが、今のは唐突すぎた。声だけでは誰か分からない人
もいたようだ。
 若干外し気味だったが、鷲宇が姿を現すと一挙に空気をひっくり返した。観客に向か
って満遍なく手を振ると、次いで久住を指差した。
「え? え?」
 わけが分からない。間に合っていたのか、今し方到着したのか知らないが、これから
唄うつもりらしい。伴奏が流れ出している。
「メドレーで行くよっ」
 元々のセットリスト通りにやる、ということだ。
(急な変更の対応だけでもくたくたなのに、ここで鷲宇さんとデュエット……)
 久住は純子に戻りそうになるのを踏み止まった。力を込めて拳を握り、応じるサイン
を鷲宇に返す。
(最後まで全力で、楽しんでやる! こんな経験、普通できないんだから!)

 ミニライブの翌日は、午後から比較的負担の少ないインタビューの仕事があるだけだ
った。なので、空き時間を使って、星崎と加倉井それぞれの事務所にお礼に行くつもり
でいたのだが……身体が動かなかった。心身ともに疲れ切っていた。
 ありがたいことに、双方の事務所からは、「今は当人(星崎または加倉井)も仕事で
不在ですし、後日落ち着いてからで一向にかまいません」的な対応をしてもらった。お
言葉に甘えて、後日に回すことに。
「いいのかなあ」
 早めに迎えに来た市川は、上がり込んできて、しばらく話をすることに。
「いいのかなあって、後回しにしてもらうと最終的に決めたのは、市川さんじゃないで
すか」
 身支度を終えて、仕事モードに入る努力をしつつ、純子は指摘する。
「それはその通りで、別に心配してない。ただ、借りを作った形だからね。鷲宇さんの
方がより大きな借りだけど、だからといってこちらが頬被りしていいもんじゃない」
「助けてもらったんです。お返しをするのは当たり前です」
「それは同意。けど、ネームバリューから言えば、同じ状況のとき、久住淳がゲスト出
演したって、釣り合いが取れない」
「う。それは仕方ありません。か、数でこなしましょう」
「私は、数よりも質を求められる可能性ありと踏んでいるのよ。どうだろう?」
「どうだろうって……具体的に言ってもらわないと」
 市川がこういう喋り方をするときは、どことなく嫌な予感が立つ。経験上、当たって
いることが多い。
「思い当たらない? 何にも?」
「はあ、そうですね……」
 考えるつもりの「そうですね……」だったのだが、市川は「思い当たらない?」とい
う質問に対しての返事と受け取ったようだ。すぐに言葉を被せてきた。
「星崎君はともかくとして、加倉井さんは前に言ってたんでしょうが」
「前と言いますと、映画のとき、ですか」
「そうそう。覚えてるじゃない。彼女、あなたに――久住淳に、また共演したいって持
ち掛けてきてたじゃないの」
「あ。そうか、そうでした」
 言われるまで忘れていた。そして言われた途端、鮮明に蘇る記憶。九割方リップサー
ビスだと信じているのだが、加倉井が「久住君、まだしごいてあげるわ」なんて気でい
るとすれば、可能性ゼロではない。
「うわ−、一緒にできるとしたら光栄なんだけど、どうしよう、今から考えただけで疲
れが」
「こらこら。このあと仕事だってのに。だいたい、私の勝手な想像に対して、そこまで
思い巡らせるっていうことは、もしも話があったとしたら、受ける気満々てことじゃな
いのかな」
「うーん。分かんない」
 頭を抱えた純子に、市川は別の方向から追い打ちを掛けてきた。
「それで、お礼の件なんだけどね。ゴールデンウィークの最終日に入れちゃおうかと思
う。何だっけ、護身術の日と重なるけれども、大丈夫ね?」
「ふぁい?」
 もうどうとでもしてください……。

――『そばにいるだけで 65』おわり




#498/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/04/24  20:27  (368)
偽お題>書き出し指定>告四(前)   永山
★内容
 僕は告白したあと、その日が四月一日だと気付いた。あとになって気付いても、もう
遅かった。
 勇気をありったけ振り絞って告白したのに、目の前に立つおねえさんは真面目に受け
取らず、てんで相手にしてくれなかった。
「ははーん。綿貫君、それってエイプリルフールだよね?」
 こう言われて、僕はただただ動揺しただけなのに、恐らくおねえさんには「嘘がばれ
た、しまった」という顔に見えたに違いない。
「ち、ちが」
「だめだよ、大人をからかっちゃあ。こんなことして許されるのは、子供のときだけだ
からね。小学五年、いや、今日からは六年生か。小六って結構微妙だよ。私だからよか
ったようなものの、他の人相手だったら叱られてる。それどころか、ぶっ飛ばされてい
たかもしれないよ」
 文字通り、小さな子に言い聞かせる口ぶりで、おねえさん――正田義子おねえさんは
僕の頭に手をのっけた。そして僕の髪をくしゃくしゃにする勢いで撫でながら、続け
た。
「遊びたい年頃なのは分かるよぉ。だけど、私もこうしてお仕事があるからね。次のお
休みの日まで待ってて、いい子だから」
 僕はそれでも、告白を続けようとしたんだ。でもそのとき、おねえさんにはお客さん
が来て、そちらの応対が始まってしまった。こうなるともうだめだ。終わるまで、他の
ことには関心を向けない。経験で分かっている。
 僕はあきらめ、その日は家に帰った。休みの日まで待つつもりはなかった(そもそ
も、休みの日では意味がないのだ)ので、翌日にでも出直そうと思っていた。
 ところが、そうするには行かなくなる事情が、夜の内に起きてしまったのだ。それは
一本の電話から始まった。僕は携帯電話の音に起こされた。時間は、0時を回ったとこ
ろ。つまり、日付が変わったばかりのタイミングだった。
「誰?」
 寝床から気持ち上半身を出して携帯電話を握りしめ、ディスプレイを見たが、そこに
は数字が表示されていた。名前が出ていないということは、登録されていない人からの
電話だ。拒否設定は非通知のみ。基本的に、こういう電話にはなるべく親に先に出ても
らうのだけれど、夜中だったし、ベッドから出るのが面倒だったのもある。四月に入っ
たばかりで、夜はまだ冷える。
 一応迷ったのだが、僕は電話に出た。
「もしもし、どなたですか」
 不機嫌な調子になってしまった声で誰何すると、相手は「綿貫君?」と聞いてきた。
それが女の声だったから、驚いた。
「綿貫一郎ですが……」
 再度、どなたですかと問う前に、答が返って来た。
「夜遅くにごめんなさい。同じクラスの吉原です」
「よ、吉原さん?」
 思わずどもった。クラスの女子から電話なんて初めてだし、しかもこんな時間に掛け
てくるなんて何事だ? 一瞬、思い浮かんだのは、僕と親しい男子の身の上に何かとて
つもない不幸が降りかかり、そのことを知らせる役が吉原さんになったのではないかと
いう流れ。吉原さんはクラス委員長なのだ。
 けど、それにしては、口調が明るい。おかしい。いいことが起きたからってこんな時
間に電話連絡があるはずないし、一体何なんだろう。
「今、話をしてもかまわない? 時間ある?」
「うん」
 彼女は、明らかにひそひそ声だった。僕は同じように声の音量を絞り、低めた。
「こんな時間に、本当にごめんね。寝てた?」
「寝てた」
「わ、私はいつもは眠ってるんだけれど、今日は眠れなくて。日付が変わるのを待って
いたから」
「日付って、四月二日になるのを待ってたってこと?」
 誰かの誕生日なのかなと、漠然と考えた。心当たりはないけれども。
「そう。昨日だと、嘘だと思われる可能性があるもの」
「……あのさ、そろそろ話してよ」
「じゃ、じゃあ言う。大きな声を出さないで聞いてよ」
「? うん、分かった」
「――綿貫君。私とお付き合いしてください」
 滅茶苦茶早口で言われた。でも、ちゃんと鮮明に聞き取れた。
 僕は電話を持つ手が震えるのが分かった。かさかさ音を立てて、みっともない。左手
を右手で押さえて、それでも止まらないので、右手に携帯電話を持ち替えた。
「……あの……だめ?」
 吉原さんの不安な響きの声。僕は黙ったまま、首を横に振った。それでは伝わらない
と気が付いて、遅ればせながら口を動かす。
「だめじゃないよ! ぜひぜひ」
 みっともない返事になったが、誰も僕を責められないだろう。吉原さんは僕が一番好
きな女子であり、クラスの男子全体からの人気も高い。
 瞬時にして有頂天になった僕は、ありとあらゆる嫌なこと面倒ごとを忘れ、それらか
ら逃れようと決意を固めた。
 だから僕は、出直そうと思っていたおねえさんへの告白も、やめることにした。

 ――大人になるのを目前に控えた今になっても、当時のこの判断が正しかったのかど
うか、僕は非常に迷う。本来、二股に掛けるべくもない、全く異なる物事を天秤の左右
の皿それぞれに載せたのだ。揺れは収まらず、いつまで経っても結果が出ない。
 尤も、現状を思うと、正解を選んだと言える。僕は希望する大学に入り、充実した
日々を送れている。吉原との付き合いは今も続いている上に、同じ大学の同じ学部に入
ったという相性のよさを誇る。将来、一緒になるかもしれない。可能性は高い。
 小学六年生のあのときもし、おねえさんに告白していたら、現在の幸せはないことに
なる。断言できる。
 何故なら、僕はあのとき、人を殺してしまったことを、婦警である正田おねえさんに
打ち明けるつもりだったのだから。

 もちろん僕は殺人鬼ではない。殺したのは一人だけで、それも計画的な犯行ではな
く、多分、過剰防衛の類に入るんじゃないだろうか。
 告白しようと考えた日の前々日は、日曜日だった。僕は、町の中心部から見て小学校
とは反対側に位置する山にいた。正式名称か知らないが、松城山とみんな呼んでいた。
大きな山ではないが、学校からは遠くて、自転車でも一時間半はゆうに掛かったろう。
子供らがしょっちゅう足を運ぶような場所ではなく、わざわざ遊びに行きたくなるよう
な施設がある訳でもない。植物や昆虫採集の“聖地”として認識されているくらい。だ
から、僕が問題の日にあの山に行って、あれを目撃したのは何の必然性もない、偶然の
産物だった、はず。
 詳しいいきさつは忘れたが、あの日曜日は朝から、僕の家の近所に住む叔父に着いて
行って、車で出掛けた。叔父は松城山の近くの神社か何かに用があったんだと記憶して
いる。僕は麓で一人、遊んでいた。何故、着いてきたのかというと、用事のあと、映画
を見に行くから一緒に来ないかと誘われたんだった。
 はじめに聞いていたよりも遅くなりそうだと叔父に言われたのをきっかけに、僕は山
に踏み行ってみた。ほんの少しだけ登るつもりが、薄気味悪い沼や廃屋や蔦やらを見て
回る内に、意外と楽しくて、いつの間にか中腹まで来ていた。中腹には平らかでミニサ
ッカーができる程度のスペースがあり、そこからは町が一望できたのだが、僕の興味は
背後にある鬱蒼とした林に向いた。季節は秋を迎え、徐々に葉が色づき始めていた。足
元に落ち葉が溜まっていたが、それは去年までの物と思われ、腐葉土とほとんど変わり
がなかった。
 僕の目当ては、さっき目撃した沼や廃屋がまたないかということにあり、そういった
ちょっと不気味な雰囲気の物を探して、歩き回った。
 最初は見付からなかったが、少し奥まったところに、沼を発見した。規模から言え
ば、池と呼ぶのがふさわしいのかもしれなかったけど、緑色に濁ったような水面は、い
かにも沼といった風情に感じられた。
 その先は行き止まりだったので引き返す。途中、不意に人の声がした。僕は反射的に
身を木陰に隠した。足元に丸くて平べったいフリスビー大の石があって、ぐらついた
が、何とか堪える。
 人の声とがさがさという音のする方を覗くと、セーラー服姿の中学生か高校生が、大
人の男に後ろから掴まえられているのが見えた。男の腕は、片方が女生徒の口元を覆
い、もう片方は胴体をがっちり抱えていた。身長差がだいぶあるみたいだけど、男は膝
を曲げ気味にしているため、正確なところは分からない。と、見ている間に男が女生徒
を仰向けに引き倒し、馬乗りになる。よく見ると、口を押さえている手には、白い布が
あった。薬を嗅がそうとしているのだと推測できたのは、だいぶ後になってから。リア
ルタイムでは、目の前の出来事にただただ唖然として、息を殺していた。
 薬が効いたのか呼吸困難に陥ったのか、やがて女生徒が静かになり、ほとんど動かな
くなった。男は馬乗りのまま、女生徒の首に両手をやった。
 それを見た僕は、唐突に思い出した。当時、僕らの住む県南部では、連続殺人事件が
広範囲に起きていた。最初の殺人から三ヶ月ぐらい経っており、僕らの市内ではまだ起
きていなかったが、隣接する複数の都市でも二件、発生していたと思う。
 その犯人は一部マスコミから「ロガー」なる名前を与えられた。無差別に老人や女子
供、つまりは弱者ばかりを狙う卑劣な快楽殺人鬼と認識され。殺害手段は様々だった。
それまでに起きていた八件の中では、扼殺を含む絞殺が半数を占めており、あとは刺殺
と撲殺、溺死させる、墜死させる手口が一件ずつ。何故、同一犯の仕業とされたか? 
小学生の僕はその正確な理由まで把握していなかったが、後年になって知ったことと合
わせて説明するなら、前の被害者の持ち物を次の被害者の服に忍ばせる点と、偶数番目
の被害者の身体のどこかに白墨で丸い印を残す点が挙げられる。
 被害者同士の関係は、ほとんどなかった。唯一、最初の被害者と次の被害者とは、同
じ小学校に通ったことのある女子中学生だった。ただ、中学は別々で特に親交が続いて
いる様子はなく、小学校時代にしても三、四年生時にクラスが一度同じになっただけと
いう、頼りないものだった。
 話を戻す。
 僕は恐かった。すぐそこで女子生徒を襲っている男が、殺人鬼ロガーに違いないと思
い込んだ。冷静になって考えれば、そんな根拠はまるでないと分かる。裏を返せば、そ
のときの僕は冷静ではなかったし、現在よりもなお子供だった。
 僕は逃げることすらできず、気付かれないようにと息を潜めていた。そのつもりだっ
た。
 だけど次の瞬間、男が僕の方を一瞥した。そう思えた。僕は顔を引っ込め、木陰に全
身を隠した。そのとき足元がまたぐらついて、少し音を立てた。男に聞かれたかもしれ
ない。だが、恐怖からすぐにまた覗き見るなんて真似はできなかった。
 どのぐらいの時間が経ったか分からないが、多分、五分と過ぎていなかっただろう。
男が僕の方へやって来る気配はなく、女子生徒の悲鳴一つ聞こえず、ただただ男が何か
しているらしい物音だけがしていた。僕は思い切って、顔を再び覗かせた。さっきとは
反対側からにしたのは、子供じみた対応策だった。
 が、またもや男に見られた。目が合ったような気がしたのだ。
 もうだめだ! このままここにいたら、殺されるっ。かといって逃げ出せない。パニ
ック寸前だった。あの女の人が殺されたあとは、僕なんだ。
 そこからあとの行動は、自分でもよく記憶していない。結果から推測した僕の行動
は、足元のフリスビー状の石を取り上げると、なるべく足音を殺して、男の背後から近
付き、そして男の頭部を殴打したらしい。何度も、何度も。男が女生徒に意識を向けて
いる間に、不意を突くのが唯一の勝ち目だと思ったに違いない。ともかく、僕は無我夢
中で殴っていた。
 手応えがなくなるまで、続けていたように思う。気が付いたときには、僕は宙を石で
漕いでいた。男は俯せの姿勢のまま、真下に倒れ伏していた。地面に沈み込むかの如
く。
 不思議だったのは、女生徒の姿が消えていたことだ。最初は、男の身体の下敷きにな
って、見えないだけだと思ったが、違った。誰もいなかった。
 よく見ると、男の頭の先に、向こうへと地面を何かが這ったような擦った痕跡ができ
ていた。最前までなかったものだ。つまり、女生徒は僕が男を殴打している間に、意識
を取り戻して逃げたらしい。痕跡は二メートルほどで途切れている。そこからは立ち上
がり、一目散に走り去ったということか。
 と、冷静な風に描写しているけれども、これは今現在の僕が、状況を整理して書いた
からこそで、小学生の僕はここまで落ち着いてはいられなかった。
 まず男が動かないのを見て、次に返り血を浴びた自分自身を見た。死んだ、殺したと
直感し、その場を飛び退いた。女生徒がいないのも把握して、混乱しつつも血塗れでは
出歩けない、どこかで洗い流そうと考えた。思い出したのが沼だ。僕はがくがくと震え
る膝を何とか操って、沼の畔まで辿り着くと、波紋のできていた水面に両手を突っ込
み、じゃばじゃばと音を立てて、目に付く限りの血を洗い落とした。さらに顔も洗っ
た。水を鏡代わりに見てみようとしたが、濁ってしまって全然役立たなかった。念のた
め、上着のジャンパー脱いで見てみると、ぱっと見では分かりにくいが、細かな赤い
点々が前面に残っていると分かった。しょうがない。沼に落としたことにしよう。僕は
ジャンパーを丸ごと沼に漬け込んだ。
 叔父の存在を思い出したのはその直後。今日は映画は無理だ。沼に僕自身が落ちたこ
とにして、連れて帰ってもらおう。そこまで知恵を働かせると、尤もらしく見えるよ
う、慎重に自らの身体を部分的に濡らした。
 皮肉なことに、その途端、空から雨粒がぽつぽつと落ちてきて、じきに土砂降りにな
った。でも、これは好都合だ。男の周辺の血までもが、雨で洗い流されていく。

 それなりに人が往来する場所であるはずなのに、遺体発見のニュースはなかなか流れ
なかった。僕はまんじりともせずに翌日の三月最後の日を過ごし、夜を迎えた。
 そして、家族で二時間サスペンスを見ているとき、はっと気付かされた。画面では、
大人の男女がテントの中でセックスしていた。見ているこっちは、親子で気まずくなる
時間。けれども、僕は別の発見もあった。
 女の人が嫌がっていなくても、口では嫌と言う場合があることを、このドラマを見る
まで知らなかったのだ。
 途端に、恐ろしい考えが閃いてしまった。もしかすると、僕が木陰から目撃したあれ
は、男が女生徒を襲っていたのではなく、合意に基づいた性交渉だったのではないか。
だとしたら、僕は勘違いをして男の人を死なせたことになる。女生徒がいなくなったの
は、きっと、必死の形相の僕を見て、恐ろしくて逃げたのだ。
 殺人鬼をこの世から消したのなら、まだ救われる。それが全くの的外れで、勘違いか
ら人殺しになったのだとしたら、どうしようもない。最低だ。
 無口になった僕を、父と母はいつもの恥ずかしさから来るものだと思ったろう。僕は
それを受け入れ、そのままテレビのある部屋を出た。自分の部屋に入るとドアをしっか
り閉める。鍵が付いていないから、いきなり開けられないように、勉強机から椅子を持
って来て、ドアの前に置いた。これで少しは落ち着ける。深呼吸をし、どうすべきか真
剣にじっくり検討を重ねた。
 結果、通学路の途中にある交番勤務の制服警官、正田義子おねえさんに全てを打ち明
けようと決心したのだ。男が罪人であろうとなかろうと、小学生が背負い込むには重す
ぎる事態だったから。
 そもそも、冷静になって思い返すと、僕が目撃した一連のシーンが、全て演技だった
とはとても考えられない。外で演技する意味が理解できないからだ。特殊な状況で演技
したいのであれば、もっと人目に付かない場所を選ぶものでは? 松城山は観光地では
ないが地元の人が割とよく訪れるし、ましてや現場となったスペースは休憩するのには
ちょうどいい場所のように思う。本当に演技――つまり、映画か何かの撮影だとして
も、僕が石をふるった時点で関係者が飛び出してくるだろう。
 もちろん、反対のことも言えなくはない。あれが犯罪行為なら、犯人の男は何故、人
がいつ来るか分からないような場所で、女生徒を襲ったのか?と。ただ、この疑問は演
技説のそれよりは、遙かに納得しやすい説明が可能だ。犯人は我慢できなかった、もし
くは、犯人は被害者を押し倒したあと、茂みに引きずり込むつもりだった、という風
に。
 以上の考察から、僕は(小学生当時においても)、男は犯罪者であり、女生徒を襲っ
たのだと判断した。それにやはり、僕は間違いなく、男を殺したのだということも。
 そうして覚悟を決め、告白したのだが――相手にされなかった。エイプリルフールじ
ゃなくても、同じだったかもしれない。小学生が殺人を告白したって、簡単には信じて
もらえまい。それでも再度、日を改めて言おうと踏み止まった。なのに、まさかこんな
タイミングで、好きな子から告白されてるなんて。
 僕は決意を放り捨て、保身に転じることにした。
 そのためにまずやらねばらないのは、死体の隠蔽か、女生徒の発見か。僕はとりあえ
ず、ある予感もあって、現場に戻ってみることにした。犯罪者は現場に戻るという格
言?通りの行動になるけれども、他に選択肢がない。
 最初、叔父にまた乗せて行ってもらえないかと考えたが、そうそう都合よく行くはず
もなし。自力で、つまりは自転車で行くことにした。
 吉原さんとサイクリングならどんな長距離でも楽しい道のりなのだろうけれど、目的
が目的だけに、気が重い。足も重かった。松城山のすぐ近くまで来ると、警戒心が働い
て、一層のろのろしたスピードになった。もうすでに発見されていて警察が来ているん
じゃないかという恐れから、しばらく様子見のため、ぐるぐると周辺を何度か行き来し
た。が、異状は見られない。大人からすれば今日は平日、行楽に来る人もいないようだ
った。僕は自転車を適当な茂みに隠すと、思い切って現場に向かった。上り坂は所々き
つかったが、くだんのスペースには意外と早く到着した。人がいない今の内にと、気が
急いていたのかもしれない。
 僕は問題の現場を見渡せる位置に立つと、息を飲んだ。
 遺体が見当たらなかったのだ。

 あれは夢だったのか、なんて希望的観測に満ちた甘い夢は、小学生のときの僕だって
見やしない。
 頭の片隅で予感はしていたため、パニックに陥って叫び声を上げるなんて真似はせず
に済んだ。
 女子生徒が無事に逃げ出したのなら、ここに他殺体がある(少なくとも、流血沙汰が
あった)ことを認識しているのだから、警察に通報するはず。女子生徒が何らかの理由
で口をつぐんでいる可能性は低いと思うし、仮に口をつぐんだとしても、三日の間、他
の誰も現場を訪れないなんて、なさそうだ。
 なのに、現実には、丸三日が経過しても全くニュースに出ない。普通はあり得ない。
 そうなってくると、考えられるのは一つだけ。男の遺体が消えたのだ。
 かような分析に基づく“予感”通り、遺体は消えていた。凶器に使った平らな石すら
ない。
 僕はしかし、予感の的中を喜ぶよりも、新たな問題に実際に直面し、困惑していた。
死体が独りでに動くことはないのだから、誰かが動かしたに違いない。
 なお、男は実は死んでおらず、息を吹き返した後、去ったなどということはあり得な
い。僕が血を落とそうと奮闘し、十五分は経過していただろうけど、男の身体は微塵も
動いていなかった。確実に死んだのだ。
 では遺体を隠したのは誰か? 何が起きたかを知っている女生徒か。彼女にとって僕
は命の恩人だろうから、かばってくれるということはあり得る。警察が動いていないら
しいのも、辻褄が合う。
 これが正解だとして、女子中学生だか高校生だかが、大の男を移動させるには制限が
掛かる。単独ではほとんど動かせないはず。かといって、普通に考えるなら、知り合い
に協力を求められる状況でもない。
 僕は改めて広場を見回した。すぐに目がとまったのは、例の沼。あそこまでなら、女
生徒一人でも引きずっていけるのではないか。最後は足で蹴飛ばして、沼の底に沈めれ
ばよい。
 僕は沼の畔に立った。相変わらず濁っていて、底どころか水中がどうなっているのか
も分からない。
 遺体があるのならいつか浮き上がってくるだろうけれど、その頃には、色んな証拠は
流されて、人の記憶も曖昧になっていると期待できる……と、ここまで考えたものの、
だからといって楽観視できるものでもなし。せめて、本当に男の遺体が沈められている
のか、確かめたいと思った。
 無論、潜る訳に行かない。片膝をついてしゃがむと、水面に顔を近付ける。目を凝ら
すが、視界は変わらなかった。しょうがないので、手を入れて、少しかき分ける仕種を
してみたが、結果は同じ。いや、むしろ逆効果だったかもしれない。
 あきらめて手を引っ込めようとした瞬間、指先が何かに触れた。固くもなく柔らかく
もない。ゴムかプラスチックの感触に近い……?
 生き物だったら気持ち悪いなと思いつつ、もう一度同じ場所に右手を、恐る恐る入れ
た。さっきと違って、ゆっくりゆっくり水をのけるように手を動かす。すると、不意に
それは浮かんできた。
 ぷかりと浮かんだのは、黒っぽい色をした靴だった。サイズはそんなに大きくない。
僕ぐらいにちょうど合いそうな、でも女物らしく見えた。水に落ちてまだそう日が経っ
ていないのか、乾かせば使えそうな感じがする。
 と、突然、その靴に見覚えがあることに気付いた。飾り気のない、色も地味な、いか
にも学校指定の靴……もしや、これは。
「あの女子の?」
 思わず、呟いていた。
 まさか、あのときの女生徒は、男の身体の下から逃げ出したあと、行くべき方向を誤
って、沼に落ちたのか? 靴がそのままあるっていうことは、彼女自身、今も沈んだま
まなのか?
 背筋に戦慄が走った。全身が総毛立った気もする。
 がたがた震える自分を自分で抱きしめ、立ち上がろうとしたが、くずおれてしまっ
た。尻餅をついた格好で、しばらく動けなかった。口の中はからからだったが、唾を飲
み込んで、いくらか後ずさる。姿勢を立て直して、震えが収まるのを待つ。が、待ちき
れなくて、膝に意識的に力を入れてやっと立ち上がった。五秒ほど考え、靴は拾得する
ことにした。
 子供が行方不明になっても、誘拐事件である可能性を考慮して、すぐには報道されな
いケースは結構あるだろう。女生徒の場合もそれに当てはまっているのか。
 しかし、女生徒が沼で溺死したとすると、男の遺体を消したのは一体、誰なんだ?

 僕は自転車を目一杯漕いで、家を目指した。安全運転に努める余裕はほとんどなかっ
たが、どうにか無事に帰り着いた。それから帰路を行く間にずっと考えていたことを、
自分の部屋に籠もってまとめようと思った。
 それは、男の遺体を隠したのは、やはり女生徒だったのではないかという考えだ。詳
しく言うと、女生徒が男を遺棄する過程で、誤って自身も落ちてしまったという仮説。
ないとは言えない。
 ただ、何となく心理的になさそうな気がした。何故かというと――僕が放置した凶器
が、あの現場には見当たらなかった。凶器と遺体の両方を沼に沈めるとして、先にやる
のは遺体の方を選ぶんじゃないかと思う。凶器を先に始末したあと、万が一にも男が蘇
生したら、女生徒には武器がなくなるし。
 いくら考えても推論は推論でしかなく、結論は下せない。男もしくは女生徒の遺体が
浮かび上がり、警察によって沼が浚われるのを待つしかないようだった。でも、女生徒
には生きていて欲しい。だからこそ、靴を持ち去ったのだ。彼女が生きているなら、靴
は脱げ落ちただけということになる。現場に残しておくと、男の遺体が発見されたと
き、男を殺した犯人につながる手掛かりと見なされるだろう。
 僕はそのときが来るまでは、せめて忘れていようと、小学生最後の一年間をいかに充
実したものにするかに意識を向け、そして吉原さんとの付き合いに力を入れた。
 が、それを妨げるかのように、気に掛かることが持ち上がっていた。春休み中に見た
朝のワイドショーでの特集だった。
 ロガーによる犯行が、ぴたりと止んだのだ。
 およそ十週の間に八人を殺したロガーが、音沙汰梨となってからもうすぐひと月にな
る。犯人はどうしたのか。どこで何をしているのか。分かりもしないことを、ゲストの
タレントや専門家と称する複数の男女がああだこうだと言い募って、特集は終わった
が、僕はこの事実を突きつけられ、嫌でも思い起こした。
 あの男がやはりロガーで、女生徒を九人目の犠牲者にしようとしていた? ロガーが
死んだから、犯行は止まった?
 そう解釈すれば、何もかもがぴたりとうまく収まる気がした。殺人鬼を葬り去ったの
なら、僕の精神も比較的安定するだろう。
 だけど、一方で、二ヶ月あまりで人を殺すような殺人鬼が、僕のような子供にあんな
にあっさりとやられるものなのだろうか。疑念は消えない。

 四月の十五日になって、動きがあった。ある意味待望の、である。
 松城山中腹の沼に遺体が浮かんだのだ。
 男性だった。
 速やかに警察の捜索が入り、一両日中に沼を完全に浚ったらしい。その結果、他に遺
体が上がることはなかった。
 沼には、長い間に投げ込まれたり落としたりした物が、大量に沈んでいたそうだが、
女子生徒の持ち物らしき遺留品はなかった、と思う。発表されていないだけで、見付か
った物があっても伏せられているのかもしれないが、とにかくニュースや新聞では何も
言っていなかった。
 一方で、男については、比較的多くの情報が出て来ていた。名前は大家延彦と言い、
三十五歳の独身、アパートに一人暮らし。二十八で結婚するも三十三で離婚。ビジネス
用品メーカー勤務でトップクラスの営業マンだったが、身体を壊して昨年末に休職。別
れた妻との間には子供が一人いるが、会うようなことはしていない。養育費はきちんと
払い続けており、生活に困っている様子はなかったという。
 アパートの部屋からは、ロガーに殺された被害者との関連を裏付ける物が複数発見さ
れたそうだが、ほとんどは明かされていない。正式発表されたのは、八人の被害者名を
書き記した手帳と、最初の被害者の皮膚組織が検出された革紐。特に後者は、有力な物
証と言える。もちろん、大家が紐を触ったという証拠も見付かっている。
 動機が不明だが、離婚や休職をきっかけに、少しずつ精神的に弱っていたんじゃない
かという説明がなされていた。小学生だった当時は、その説明ですんなり納得していた
けれど、今考えると随分と乱暴な話だ。
 結局、容疑者が死んでしまったせいもあり、大家が八件の殺人全てをやったという証
明は難しかったらしく、半分の四件で、容疑者死亡の不起訴処分という処置がなされ
た。僕が大家延彦を殺したがために、事件の完全解決ができなかったのだとしたら、ま
た僕の重荷が増えるが……。あの女生徒の命を守るためにやった正当防衛だと思い込む
ことにする。それに、大家延彦は少なくとも四人殺したと認められたも同然なのだか
ら、三人殺せば死刑と言われる日本の刑罰に照らせば、先んじて刑を執行してやったと
も言える。とにかく、そう思い込むことで、僕は心の均衡を保つことができた。
 夏休みに入る頃合いには、ロガー事件は決着を見たような空気になった。あとから思
うと、世間はロガーという殺人鬼に飽きて、次の大事件を求めていたような気がする。
 僕は吉原さんとの付き合いを深めた。と言っても、小学生のできることなんて、たか
がしれていたけれども。遊びに行くのも二人きりになることは滅多になく、グループで
出掛けた。
 松城山には足が向かなかった。だけど、そちらの方面になら行くことがたまにあっ
た。そのときだけは、忘れかけていた重荷とか緊張感とかを嫌でも思い出した。確率は
低いかもしれないが、あのときの女生徒とばったり出くわすという偶然が、起こらない
とは言えないのだ。相手が僕に感謝していて、秘密を公にする気がないとしたって、会
わない方がいい。そうに決まっている。


――続く




#499/598 ●長編    *** コメント #498 ***
★タイトル (AZA     )  17/04/24  20:28  (466)
偽お題>書き出し指定>告四(後)   永山
★内容
 そして――七年後の今。
 僕と吉原は揃って大学に入り、上京した。さすがに住居は別だが、距離にして一駅と
違わないマンションに入った。同じマンションに入れなかったのは、吉原が家族の意向
もあって女性専用のそれを選んだからだ。結婚云々は別としても、互いの家族とも小さ
な頃から顔を合わせ、行き来もしており、公認の仲と言えるだろう。
 二人の時間を大切にするため、大学では、なるべる緩いクラブかサークルに入ろうと
考え、僕らは都市伝説研究会というサークルを選んだ。原則的に掛け持ち自由なので、
登録者数は百を超すが、サークル室に姿を見せるメンバーとなると二十人前後、さらに
そこからサークル名通りの活動に参加している者は、十人ぐらいだろう。
 僕と吉原は、都市伝説に興味がなくはないといった程度で、さっきの分類に従えば、
サークル室に姿を見せるが活動参加はあまり積極的でないタイプ。テストやイベントな
どの情報収集が目的のメインだった。
 ところが、ひょんなきっかけから、僕と吉原は活動の中心に躍り出る、いや、出され
る羽目になった。夏休みの合宿先を、先輩方が検討しているときのことだ。
「そういえば、君ら」
 部長(サークルだから会長と呼ぶべきかもしれないが、部長で通っている)の名倉絵
里さんが、部室中央の丸テーブルを離れ、僕らのいる長机の方にやって来た。
「何でしょう?」
 そう応じつつ、合宿先の意見を求められるものと思い、ホワイトボードに書き出され
た候補をちらっと見やった。
 しかし、予想に反して名倉部長はもっと個人的なことを聞いてきた。
「ロガーの事件が起きた地域の出身じゃなかったっけか」
「は、はあ」
 吉原も僕も似たような反応をした。厳密に言えば、僕の方がコンマ五秒ほど遅れたか
もしれないが。
「連続殺人事件のことですよね」
 吉原は笑顔でさらりと言った。怪談話でも始めそうな雰囲気だ。
「うん。えっと、七、八年になるかな」
 指折り数え、自ら納得したように頷く部長。僕も何か言わねば。鼓動の高まりを意識
しながらも、平静を装って、ゆっくりと口を開く。
「正確に言うと、出身って訳じゃないんです。隣接する市で発声しただけですから」
「それでも、話題にはなったろう? 小学生の頃なら、学校だってぴりぴりするだろう
し」
「はい。それはもう」
 笑みを絶やさない吉原。横目で見ていた僕も、つられて笑う。
「集団下校するようになったんですけど、登校のときと違って、上級生と下級生とで時
間を合わせるのが難しいから、すぐにやめになって。保護者が迎えに来るのをOKにし
たり、登校時にやってる交通安全見守り活動を、下校のときにも行うようになったり。
でも、子供の方は、距離的な実感なんてないから、家に帰ったら勝手に遊びに行ってま
したけど」
 彼女の思い出話を耳にして、僕も思い出した。隣の市まで殺人鬼が現れるようになっ
ていた割に、叔父は僕を一人で遊ばせていた。危ないとは考えなかったんだろうか。そ
ういえば、僕の親もあの日服を濡らして帰ってきた僕を、あんまり叱らなかった。叔父
を責める様子もなかったと記憶している。でもまあ、僕が見ていないところで、無責任
な叔父をきつく注意したかもしれないが。
 でも……。それなら後日、僕が自転車で遠出したのを、両親はよく許可したなと思
う。いや、嘘をついて出掛けたんだったかな? あのときは自分のことだけでいっぱい
いっぱいで、嘘をついている余裕すらなかったかもしれない。
「新年度になったら、全児童に防犯ブザーを持たせようっていう話まで出ていたらしい
んですけど、その四月中に犯人が分かって」
「犯人の遺体が見つかった沼だか池だかってのが、吉原さん達の地元でしょ」
 別の先輩が言った。妹尾という二年男子で、普段はあまり出て来ないが、合宿前にな
ると姿を現すそうだ。続けざまに、部長に尋ねる。
「ロガー事件で都市伝説って、何かありましたか?」
「メジャーじゃないし、都市伝説っぽさには欠けるかもしれないが、あるにはある。ロ
ガー生存説だ」
「ああ、それですか」
 その場にいるメンバーのほとんどが納得した風に頷いたり手を打ったりしたが、僕は
「えっ」と声に出して驚いていた。
「何だ、知らないの?」
「し、知りません。初めて聞きました」
「ふうん。吉原さんは」
「私もよく知りません。何か噂みたいなのは聞いたかもしれませんけど、地元はやっぱ
り、事件が身近だった分、決着したんだ、もうこれ以上は言うなって雰囲気があったの
かも」
「なるほどね。じゃあ、生存説の詳しい理由は知らないんだ? よろしい、話してあげ
よう」
 揉み手をしかねないほど嬉しそうに頬を緩めると、部長は資料を参考にすることな
く、以下の内容をそらで喋った。
 ロガー生存説をより厳密に表現するなら、二人による共犯説になる。つまり、ロガー
の犯行は、二人の人間の仕業であり、大家延彦はその片割れに過ぎない。もう一人は生
きており、今も犯行再開の好機を待っている。
 この説の根拠は、いくつかある。大家の犯行として認定された四件の殺人は、ロガー
の犯行八件の奇数番目のものばかりだったこと。一番目と三番目と五番目と七番目の殺
しが、大家の犯行で、二、四、六、八の偶数番目は共犯の犯行だとする見方。
 また、殺害方法が多岐に渡る点も、共犯説を補強する。大家の自室から紐状の凶器が
見付かったことで、考察や扼殺は大家が好んで用いた方法であり、他の手口は共犯の仕
業と推定される。
「あ、待ってください。ちょっといいでしょうか」
 突然、吉原が先輩の話を遮ったので、びっくりした。
「何?」
「記憶が朧気なんですけど、確か殺し方は、絞め殺すのが前半に集中していたような」
「その通り。奇数番目が絞殺や扼殺なんていう風にはなっていなかった」
「じゃあ、おかしい……」
「うん。そこがこの説の弱いところでね。だからあんまり話題にならず、今では風化し
ているのかもしれない」
「当時の警察の見解では――」
 名倉部長のあとを受けて、妹尾先輩が話す。
「ロガーは大家の単独犯行で、前半に絞殺や扼殺が集中し、後半は手口が変化したの
は、絞め殺すのに飽きて、新しい方法を試したくなったということだったかな。連続殺
人だと分からせるためのサインは、所持品のリレーとチョークで事足りる」
「絞殺が決め手じゃないのなら、どうして奇数番目が全て大家の犯行と認定されたんで
しょう?」
 僕も会話に加わっておく。長い間黙っていると、何となく不安を覚えるから。
 部長が反応する。
「地元で起きた事件なのに、頼りないな。この分じゃ、合宿先にしてもあんまりおいし
くなさそう」
「私達の地元を合宿先にして、ガイドさせるつもりでした? 無理ですよ、そんなの」
 吉原がこう応じた結果、僕らの地元を合宿先の候補にする案はあえなく没となったら
しく、そのまま話題が変わった。
 奇数番目が大家延彦の犯行と認定された理由は、聞けずじまいだった。なので、僕は
マンションに戻ってから、調べてみた。本当は帰宅を待たずとも、いくらでも検索する
手段はあったのだけれど、吉原と二人でいるときまで殺人事件のことを考えたくはなか
ったから、後回しにしたのだ。
「――なるほど。五番目と七番目の被害者の所持品の一部が、大家の部屋から見付かっ
ていたのか」
 独り言が出た。ノンアルコールビールを片手に、検索結果の画面を見ていく。
 所持品は順にハンカチとイヤリングで、ハンカチはきれいに半分に切り裂かれていた
という。部屋から見付かったのは半分だけで、もう半分が六番目の被害者の衣服に押し
込まれていた。イヤリングも部屋から出て来たのは片方のみ。もう片方は、八番目の被
害者の口の中にあったらしい。
「うん? こういう状況なら、六番目と八番目も、大家の犯行と見なせるんじゃないの
か」
 そもそも、一番目と三番目が大家の犯行と認定された上で、それぞれの被害者の持ち
物が、次の被害者の遺体のそばで見付かっているのなら、二番目及び四番目も同一人
物、つまり大家の犯行と見なしていいのでは。
 なのに、そうなっていないのには理由があるのか。
 検索結果を追ってみたが、警察の発表という形では、特に何もないようだった。
 ただ、芸能週刊誌やスポーツ新聞レベルの噂話として、大家にはアリバイがあったん
じゃないかという記事が見付かった。何番目の殺人かという言及はないものの、駅や商
店街、銀行などの防犯カメラ映像に、大家延彦らしき男が映っていたという。大家なの
か肯定も否定もしがたい画像でアリバイとは認められなかったものの、八件全部を大家
の仕業とするのにも引っ掛かりを覚える材料だったため、四件での書類送検に留まった
という経緯らしかった。
 改めて知ってみると、ロガーは二人いるとする説には、頷けるものがある。100
パーセントの肯定はまだ無理だが、あり得ない話じゃないという気になってきた。
 もし、ロガーがもう一人いたとして、そいつは共犯者を殺され、何を考えただろう?
 断るまでもないが、大家延彦の死は殺人事件として扱われ、今も捜査は継続してい
る。そのはずだ。これまで、僕の元を刑事が訪れることは一度もなかった。警察の方針
は知らないが、世間の大半は、ロガーは犯行中に反撃を食らって死んだ、自業自得だと
思われている。今度の検索で知ったが、ごく一部の人達、つまりロガー二人説を採る人
達は、仲間割れをして殺されたという見解らしい。どちらにせよ、世間一般は、大家延
彦に同情なんてしていないし、このまま犯人は捕まらなくてかまわないという風潮があ
った。だから警察も本腰を入れてないのではないか。そういう風に僕は考え、一応安心
して暮らしてきたのだが。
 本当にロガーがもう一人いて、共犯者を殺されたことや、その犯人だと思われている
ことに怒りを覚えているとしたら、そいつは僕を見つけ出し、落とし前を付けさせたい
と考えているではないだろうか。
 とは言え、そんな想像から、僕がぶるぶる震えているかというと、そうでもない。ロ
ガーは、共犯者を殺した人物を特定するために、どんな方法を採れる? まさか警察に
駆け込む訳に行くまいし、警察以上に捜査能力のある組織は、恐らく日本にはない。絵
空事の名探偵が入るなら、話は変わってくるかもしれないが。
 唯一、恐いのは、僕が大家を打ち殺すところを、もう一人のロガーが目撃していた場
合だが、七年も経ったのだから、心配の必要はない。いや、あの場にもう一人のロガー
がいたのなら、僕は即座にやられているに決まってる。
 意識することもなく、楽観的な考えに浸った僕は、その後も検索結果を適当にピック
アップしては、ざっと読む行為をだらだらと続けていた。やがて、瞼が重たくなってき
た。飲んだのはノンアルコール飲料のくせに。そろそろ寝る頃合いか。僕は最後のつも
りで、適当に検索結果をクリックした。
 それは誰かのツイッターらしかった。****年に@@市等で発生したロガー事件に
興味あります、みたいなことが書いてある。何か特別な情報や噂を知っている様子はな
く、逆に募集をかけている感じだ。名前は“きあらん”となっていた。
 プロフィール画像に目を凝らすと、イラストではなく、女の子の顔写真だと分かっ
た。小学生高学年ぐらい。細身と言うよりも痩せていて、面長に見える。後ろに映る電
柱や木の高さから判断すると、身長は結構ありそうだ。こんな小さな子が、七年前の事
件に興味を持つのかと怪訝に感じたが、プロフィールを読んで納得した。具体的な校名
はなかったが、東京の大学に通う学生で、年齢は二十一とある。当時なら十四歳。連続
殺人事件が近辺で起こったら、強烈な印象を残しても不思議じゃない。小さな頃の顔写
真にしているのは、プライバシーを守るため、今の写真を使いたくないからだろう。
 ――自分は今、どうしてこの女性の近辺で事件が起きたと思った? プロフィールを
見直して、すぐに答は見付かった。出身地が、僕と同じだった。
「あっ」
 次の瞬間、叫んでいた。
 髪に片手を突っ込み、がりがり掻きながら、目を細めて改めて顔写真に見入る。確信
を持てた。
 あのときの女生徒だ……。
 僕はみたび、プロフィールを読み直した。事件についての記述はなし。検索でヒット
した呟きに目を移す。彼女がロガー事件に興味を持った理由までは触れられていない。
情報を広く募る旨が書いてあるだけだ。始めたのが今年の四月からで、まだほとんど知
られていないらしく、リプライなんかも大した数じゃなかった。有益な情報が集まった
とは思えないが、一応目を通すと、怪しげな書き込みがいくつかあると分かる。「特ダ
ネを持ってるが、ネットで話す気はない。実際に会って、証拠ごと渡す」というニュア
ンスのものが、三つほど確認できた。まともに考えれば、ツイート主の女性に会いたい
だけの書き込みと思うのだが、きあらんは割と真摯に反応していた。と言っても、「会
います。日時はお任せしますから、待ち合わせ場所は※※警察署でお願いします」なん
ていう返しをするくらいだから、身を守る意識はちゃんと働いているらしい。無論、面
会が成立した様子はなかった。
「だからって、連絡を取る訳にいかない」
 ふっ、と息を細く短く吐いた。この女性が命の恩人を見つけ出し、礼を言いたいがた
めにこのつぶやきをしたのだとしても、僕には応じられない。勘繰るなら、警察の罠と
いう可能性だって、完全否定はできない。
 僕はネットを切断した。パソコンの電源をさっさと落とし、就寝の準備をする。
 何とも言えない、もやもやしたものを見つけてしまった。そんな気分では、布団を被
っても簡単には寝付けなかった。

 事態が急展開を見せたのは、僕がそのツイッターに気付いてから、四日か五日ぐらい
過ぎていたと思う。
 きあらんが殺されたのだ。
 最初にテレビのニュースで一報を見聞きしたときは、僕にとっては無関係な殺人事件
が起きたんだな、程度の認識だった。その後、ネットで改めてニュースを読み、ようや
く被害者がきあらんだと把握した。あの女生徒の本名は、荒木蘭子だと分かった。
 ロガー事件に関して情報を求めていたことも、関係者筋からの話として既に報じられ
ており、過去のロガー事件は瞬く間に注目されるようになった。
 翌日の続報では、さらに詳しいことが判明した。殺害方法は絞殺で、凶器は未発見。
遺体の傍らには、御影石の欠片が置いてあったという。八番目の被害者の所持品がどこ
にも見当たらなかったことから、ロガーが蘇って犯行を再開したのではなく、別人の仕
業だとする分析を、犯罪学者がワイドショーのスタジオでとくとくと語っていたが、午
後になって一変する。警察が八番目の被害者の入る墓を調べたところ、墓石の角が少し
壊されていたことが判明したのだ。鑑定待ちだが、恐らく遺体のそばにあった御影石
と、組成が一致するに違いない。
 僕は、大学をしばらく休むことにした。外出も控えねば。荒木蘭子は、もう一人のロ
ガーに見付かり、七年前の続きとばかりに殺されたのだ。そうに決まっている。
 ロガーが荒木蘭子の居所を突き止められたのは、きっとあのツイートが発端なんだろ
う。七年前、大家が九番目の犠牲者として荒木蘭子を襲うところを、共犯者は見守って
いたのではないか。八件の殺人も同様だったかもしれない。片方が実行犯で、片方が見
張り役。恐らく交互に殺人を行い、被害者の所持品を手に入れては、共犯者に渡してい
たのだ。
 ああ、そうか。僕は違和感の正体と理由に気が付いた。大家は九番目の殺人が未遂の
まま、死んだというのに、八番目の被害者の所持品を持っていなかったと思われる(持
っていれば、絶対に報道される)。犯行の時点では、共犯者が持っていたんだ。殺しの
あと、物を受け取るか、共犯者自身が物を遺体の懐に入れる算段だった……。
 だが、九番目はハプニング起きた。僕の介入だ。見守っていた方は、慌てたに違いな
い。飛び出して小学生の僕を排除するくらいできただろうが、その前に、どこの誰とも
分からぬ女子生徒に逃げられてしまった。下手に動くと、共犯者は捕まるリスクがあ
る。僕だけでも始末するという選択肢を選ばなかったのは、何故か。留まるリスクの方
が大きいと見て、早々に現場を立ち去ったのか。
 一人になったロガーは、長い潜伏期間を持つことになる。共犯を失ったことも大きな
理由かもしれないが、それと同時に、女生徒と僕の居場所を突き止める手掛かりを得る
必要があった。だけど、僕も女生徒も警察には行かなかったし、警察は大家殺しの犯人
を見付けられないでいた。名前の漏れようがない。長期戦を覚悟した犯人は、八番目の
被害者の所持品を、廃棄したのだろう。持ち続けていると、容疑を掛けられた際、物証
とされるから。犯人自身が市内の学校を中心に張り込みをすれば、僕や荒木蘭子を見付
けられたかもしれない。そうしなかったのは(しなかったはずだ)、やはり慎重を期し
たからに違いない。
 七年が経ち、犯人は荒木蘭子のツイッターに着目する。もちろん、全く無関係である
可能性もあったが、子供の頃の顔写真で確信を持てたのだろう。一方の荒木蘭子は、既
にロガーは死んだと思っているから、無防備になっていた。恐らく、他のツイートで上
げた写真に位置情報を含んだ物があって、ロガーは荒木蘭子の居場所を特定したのでは
ないか。仮にそうじゃなくても、市の中学校の卒業アルバムをどんなことをしてでもか
き集め、きあらんの子供のときと同じ顔がないか、当たっていけばいずれ本名が分か
る。本名が分かれば、あとはどうにでもなるのではないか。ロガーが殺人以外の犯罪に
どこまで精通しているかは分かりようがないが、一度狙った獲物は逃さないという執念
があれば、何としてでも調べ上げるのではないか。
 執念。
 脳裏に浮かべたその単語に、僕は身震いを覚えた。
 荒木蘭子の身に降りかかったのと同じことは、僕自身にも当てはまる。ロガーの次の
獲物は、恐らく僕だ。
 そのときから僕は、ネットをしなくなった。関係ない、意味のない行為とは思うが、
そうせずにはいられなかった。
 外出時には、色の濃い眼鏡とマスクを欠かさないようになった。帽子を被ることもあ
った。大学へもその格好で行ったが、周りの評判はあまりよくなかった。特に、吉原か
らは呆れられてしまった。理由を話せないのだから仕方がないが、これでもう彼女とは
別れるかもしれない。一緒にいて、彼女が巻き込まれるようなことになれば申し訳が立
たないという気持ちもある反面、別れたくない気持ちも当然あるので、現状では成り行
きに任せるとしよう。
 狙われてびくびくしているだけでは始まらない。対策も講じようとした。ロガーの顔
や姿を前もって知ることができればいいのだが、そんなことは無理に決まってる。だ
が、不審者の目星を付けるくらいなら、可能じゃないか? そこで思い付いたのが、荒
木蘭子の葬儀に足を運ぶことだったのだが……ロガーが姿を見せる確証がない上、自分
は危険を冒している。荒木蘭子の関係者でもないのに葬儀に顔を出せば、怪しまれる。
もしも警察が張り込んでいたら、注意を惹いてしまうだろう。天秤に掛けるまでもな
い。自らが不審人物であることを忘れてはならない。この程度の策ではだめだ。

 叔父から電話をもらったのは、僕が訪ねてきた家族に素っ気ない対応をしたしばらく
あとのことだった。
 叔父と話すのは、二年ぶりぐらいになる。直に会ったのは、もう五年ほど前になるの
ではないか。
「元気か? 何かあったんじゃないかって、みんな心配してるみたいだぞ」
 叔父の若々しい声は、うるさいくらいだった。僕は電話を耳から少し離し、応じた。
「うーん。ちょっとね。たいしたことじゃないんだけど、僕にとってはたいしたこと
で」
「何だ何だ、思わせぶりだな。家族や友達に言えない悩みか」
「でもないんだけど」
 曖昧にかわして終わらせるつもりだったけれども、ふと嘘の理由を思い付いたから、
そっちの方に叔父や家族の意識を向けさせておこう。
「まあ、叔父さんにだったら、話してもいいかな。昔、小さなときにはよく相手しても
らったし」
「こんな冴えない中年男でよければ、聞き手になってやるよ」
 叔父は自分では中年ぶるが、見た目は声と同様に若々しい。去年か一昨年にもらった
年賀状に、旅先での写真が載せてあったが、一つ上の父が、白髪が増えて老け込んだ印
象なのとは正反対に、IT企業の若社長って雰囲気を持っている。まあ、飽くまでイ
メージだけれど。今の実際の職業は――以前聞いたときから変わっていないとして――
カメラマンだ。と言っても、芸術家じゃないし、記者でもない。ありとあらゆる様々な
物事を撮影して、素材写真として提供する。そんな企業に所属している。
「実は今、仕事で東京まで出て来てる。今は無理だが、暇なときは相手してやれるぞ」
「会わなくても、電話で充分だよ。それがさ、ずっと付き合ってきた彼女と最近、すれ
違いが増えてきた感じでさ」
「それって、えっと吉原さんて子のことかい? 勿体ない」
「別れたい訳じゃないよ」
「理由というか、心当たりあるの?」
「なくもない。こっちはこの頃、あんまり出歩きたくないのに、向こうは外に行きたが
るとか、僕が都会の空気が汚れてる感じがして嫌だから、マスクとサングラスを掛ける
ようにしたら、不審人物だ何だとひどい言い方をされたんです」
「はは、そんなくだらないことで! 気に病む必要なんてないだろ。自然に元通りにな
るさ。ならないようなら、君が少し妥協すれば済む」
「妥協、ですか。男から折れた方がいいんですかね」
「まあ、いくら平等が唱えられても、そういうことになるかな」
 乾いた笑い声を立てる叔父。ようやく音量が調整された。耳を近付けたところで、話
題を少し変えられた。
「実はもっと深刻なことで悩んでるんじゃないかと思って、気になってたんだよ」
「深刻ですよ」
「だから、もっと、さ。ほら、そっちであれが起きたじゃないか」
「あれ?」
「ロガー事件だよ」
 一瞬だけ、どきりとした。心臓の鼓動が早まったようだ。鼻で強く息をして、整え
る。
「ああ、あれですか。完全に同一犯なのか、模倣犯なのかは分からないんじゃないです
か。第一、ロガーは七年前、沼で死んだのだから」
「そうだけどさ。まことしやかに囁かれていたロガー複数犯説を採用するなら、生き延
びたロガーがまた犯行を始めたように見えるだろ。君にとっちゃ、地元を離れたのに事
件が引っ付いてきたみたいで、いい気分はしないだろうと思ってね」
「それはまあ」
「ロガーが沈んでいた沼にも、遺体が見つかる直前と言っていいくらいに、出掛けたも
んな。覚えてるよ。あのときは君が沼に足を滑らしたとかで、服を濡らして一騒動だっ
たけれど、まさか殺人犯の遺体が浮かぶとは」
 僕は再び電話を遠ざけた。腕の長さ分いっぱいに。聞く内に、頭を締め付けるような
感覚に襲われた。何でこんな。他の人とロガー事件について話しても、ここまで不快な
気分になったことはなかった。僕が大家を殺したあと、最初に会った人物が叔父だから
か?
「まあ、何ともないのならいいよ。――聞こえてるかい?」
「あ、はい。聞こえてます」
「君の彼女は、事件について、何か言ってた?」
「吉原さんですか。うーん、楽しい話題ではないので、彼女との会話にはほとんど出て
来ません。ただまあ、サークルで話題に出たことがあって、そのときは割と平気な感じ
で話してましたよ」
「聞いたのは、吉原さんの話した内容なんだけどな。ロガー事件が起きてからの」
「ああ。そうですね……何言ってたっけ。印象に残らないくらい、ごく普通でしたよ。
また始まったのかしらとか怖いねとか」
「特段、トラウマが出てるようではないと。それならよかった」
 出ているとしたら、僕の方だ。
「しかし何だな。大家延彦の死亡推定日時ってのは、幅があるけども、僕らが松城山に
行った日も入ってるんだよな。ど真ん中に。だから、ひょっとしたらひょっとして、す
でにもう沼には死体が沈んでいたかもしれない訳だ。その沼の水に濡れたと思うと、君
だって平気でいられないんじゃないか?」
「や――やめてくださいよ」
 僕は無理矢理笑った。自分の声なのに、少し遠くに聞こえる。
「そんなことあり得ませんよ。あったとしても、死にたてなら水に混じってはいないで
しょう、その、体液とか」
「ははは、死んだばかりかどうかは分からんぜ。幅があるんだから、最も早い時期に死
んでいたとしたら、得体の知れない物が沼の水に溶け込んでいたかもな」
 叔父の声は明るい。だが、呪いのように僕の耳に届く。
「もしかすると、そのせいかな? 君の身体に染みついたロガーの体液や血液やらが、
今になって呪いの執念みたいなものを爆発させてさ。その結果、君の近くでロガー事件
が再開したのかもしれん。犯行に及んだロガーはかつての共犯なんかじゃなく、ロガー
の霊が乗り移った人間なんだよ」
「――」
 僕は何事かを叫んで、電話を切っていた。

 一眠りして、目が覚めて、飲み物と食べ物を軽く入れて、しばらくすると落ち着いて
きた。時計を見ると、深夜三時過ぎだった。
 冷静になったところで、ふとした疑問が頭の中をよぎった。
 叔父は何故、電話であんなことを言ったのか。いい年した大人が、悪ふざけにしては
度が過ぎるのではないか。
 想像を逞しくし、さらに七年前を思い出そうと試みる。
 七年前のあの日。松城山の近くまで、叔父の車に乗って連れて行ってもらったとき、
叔父は一体何の用事があったんだ?
 子供だったから詳しく聞かされていなくても当然だと思っていたが、本当は何もなか
ったんじゃないか? いや、言えなかったのでは?
 たとえば、叔父こそがもう一人のロガーであり、大家の犯行を見守ることこそが用事
だった――。
 証拠はない。根拠もゼロに等しい。妄想レベルだろうか。
 反証ならすぐに挙げられる。叔父がロガーなら、犯行現場の近くまで僕という子供を
連れて来て、自由に遊ばせたりするものか? 普通はしない。
 だが、殺人鬼は普通じゃない。たとえば、僕を十番目の犠牲者にするつもりだったと
考えれば、連れて来たことに説明が付く。身内を犠牲者に選ぶのは、犯人にとってリス
クを高める行為だろうけれど、最後のつもりならあり得るんじゃないか。犠牲者の数が
十で打ち止めならきりがよい。
 だとしたら、僕の早すぎる反撃は、ロガー達にとって予想の埒外だったのかもしれな
い。だから、僕を止めることすらできず、荒木蘭子には逃走を許し、大家は命を落と
し、叔父は立ち去るしかなかった。
 この仮説を肯定するなら、叔父は共犯者を殺したのが僕だと知っていながら、ずっと
放って置いたことになる。いつでも殺せるから? いや、むしろ、順番に拘ったのか。
九番目の犠牲者として荒木蘭子を見つけ出し、殺してから、最後に僕を殺そうという当
初の計画に拘った。
 すると――どうなる? 今や、ロガーにとって残す標的は僕だけ。叔父はロガーの片
割れとして、最後の“仕事”を遂行しようとする。さっきの電話は、殺しに行く前の様
子見だった? そういえば、こっちに出て来ていると行っていた。悪趣味な話を聞かせ
てくれたのだって、僕を恐怖させ、追い詰めるためにやったのでは。いや、そうに違い
ない。そしてじきに、ここへ来る。外出の機会がめっきり減った僕を、いつまでも待た
ないだろう。叔父なら、訪ねる理由を作れる。拒んで先延ばしにすることは、恐怖の先
延ばしにつながる。だったらいっそ、迎え撃った方が賢明なのでは。
 僕は椅子から立ち上がった。嘱託を離れ、台所を見渡す。キッチン下の扉の裏には、
包丁が何本かある。他に武器になりそうな物……修学旅行のとき、若気の至りで購入し
た木刀。あれを持って来たはずだ。どこに仕舞ったか……。
 僕は小学生のとき、吉原と付き合うために、秘密を抱える決心をした。彼女と別れな
い内は、秘密が増えるくらい、何ともない。

            *             *

「――ええ。大家延彦とは全く関係ありませんでした。他人の犯罪に便乗して、連続殺
人を起こせるかどうかという、一種の実験みたいなものを試みたかった。ただ、それだ
けです。だから、最初の方は私も彼と同じ殺害方法、絞殺を選んだんです。でも、自分
の犯行だという証拠も欲しかったので、チョークで白い印を残しました。
 最初の被害者? 最初とは、私にとって最初という意味ですね。大家が起こした最初
の殺人、桑間さんを殺した現場に行って、一人で冥福を捧げている女の子の中から物色
したんです。桑間さん同じ学校の子になると面白くないから、制服で区別しました。そ
うして選んだ三島さんが、まさか桑間さんと小学校時代同じクラスになったことがあ
り、しかも密かに付き合っていた仲だったとは、予想外の結果でしたが。ただ、その事
実を警察は掴めなかったみたいですね。それだけ慎重に、周囲に隠して付き合っていた
んでしょう。私だって、三島さんが持っていた手帳を見て、初めて知ったんです。おか
げで、大家と私が別々に起こした殺人なのに、期せずして連続殺人の様相を呈してしま
った。はい、生前、桑間さんが使い古した腕時計を三島さんにプレゼントしただけなん
でしょう、きっと。
 そのことを知った僕は、次第に面白いと思いました。大家が次の殺しを行うのなら、
何とかして三島さんの所持品を渡してやろうと考えた。最悪でも、次に大家が殺した被
害者の懐に、三島さんの手帳の一部を押し込んでやろうと。でも、大家がもう殺す気が
ないのなら、僕が自分でやるか、別の殺人を見付けるしかない。迷ったんですが、賭け
てみることにしました。大家は、自身の殺しを、誰だか分からない奴に勝手に連続殺人
に仕立てられたと思ってる。憤慨してるか面白がってるかは分からないが、乗ってくる
に違いない。そう考えたんです。こっちからコンタクトを取れないかと、新聞広告やネ
ット上に簡単な暗号文を載せてみたり、桑間さん、三島さんそれぞれの殺害現場に足を
運んだりしたんですが、なかなかうまく行かない。そうこうする内に三件目と言うべき
か二件目と言うべきか、殺人が発生した。絞殺で、しかも三島さんのアクセサリーが遺
体の上に置かれていたというじゃありませんか。大家の仕業だと直感しましたね。あ、
もちろん、その時点では大家なんて名前、分かってないですよ。最初の奴がまたやった
んだ、っていう認識です。
どうやって手に入れたのかは知りませんが、想像するなら、弔問客を装って三島家に上
がり込んで、うまくやったんじゃないですか。
 で……ですね、こうなったら私も続けなければいけない。今言った想像の通り、三人
目の被害者の、ええっと福木家の葬式に行ってみたんです。そのとき、ちょっとしたい
たずら心から、手に白のチョークを持ってみたんですよ。一見、煙草に見えるように。
 そうしたら――驚きましたよ! あの瞬間ほど驚き、そして嬉しかったことはない。
 声を掛けてきたんです、大家延彦が。さすが、同好の士だ。私達は最初の数分こそ互
いに警戒しましたが、じきに分かり合えました。このときになって初めて、私と大家は
共犯関係を結んだんです。
 それからは簡単でした。所持品を入手するのが楽になりましたから。私は大家から、
福木さんの身に付けていたシャープペンを受け取り、次の殺しのときに置いてきまし
た。あとはこの繰り返しです」

            *             *

 床にばったりと倒れた叔父の左手が、いつの間にかテーブルから落ちていたテレビの
リモコンに当たった。次の瞬間、テレビが入った。ニュースをやっていた。
 僕は返り血を浴びた顔を、用意しておいたトイレットペーパーで拭いながら、何の気
なしにアナウンサーの声に耳を傾けた。
<ただいま入りましたニュースです。ロガー事件の再開とも言われる女子大生殺人事件
の容疑者として、**署警察は自称・心理学者の男を逮捕しました。男の名は江畑栄
介。四十歳。警察に捜査協力した経験も幾度かあるとのことです>
 足元から、う゛ぉとんという音がした。僕の手から、木刀がこぼれ落ちていた。
 視界が揺らぐ、世界が揺らぐ。耳の中で何かがぐるぐる回って、脳の奥に入り込んで
くる。
「じゃあ……叔父は何だったんだ?」
 電話からほぼ二十四時間後、僕の部屋を訪ねてきた叔父は、もう二度と動かない。

            *             *

「普段、どうやって大家と連絡を取り合っていたのかと問われましても……何が不思議
なんです? 携帯電話を使った形跡がない? そりゃ当然です。使っていないのだか
ら。その気になれば、秘密裏に連絡を取ることは難しくはない。急ぐ必要がないのな
ら、一定間隔をおいて、決められた場所にメモを残すだけでも事足ります。尤も、私達
も多少は警戒していましたから、毎回、伝達方法は変えていました。
 大家が殺されたときのこと、ですか? いえ、残念ながら、たいしたことは何も知り
ません。現場の近くにはいなかったので。大家がターゲットを殺害後、所持品を交換す
る約束で、麓にて車で待機していたのですが、明らかに襲われたらしい少女が逃げ出し
てきた。これは大家がミスをしでかしたと直感したので、私はさっさと逃げることにし
ました。ただし、少女の顔はしっかりと記憶に刻みましたよ。大家が仕留め損なったの
なら、狙う価値があると感じたので。どこにいるのか突き止めるのに、思いの外、時間
が掛かってしまったな。こうして捕まったのは、ブランクがあったせいかもしれませ
ん。まさかあんな古寺の墓場に、あんな最新式の防犯カメラがカモフラージュの上、設
置されているなんて、まるで想像できなかった。
 えっ、恨み? ああ、大家を殺した犯人に、復讐しようとは思わなかったかってこと
ですか。特にしようとは……。共犯関係を結んだと言っても、助け合うというのではな
かった。相方がミスをしても、我が身の安全確保を第一に考え、行動を選択することを
原則としていました。
 ただ、今になって思えば、私が捕まったのは、大家という共犯を失ったのも大きかっ
たのかな。そういう意味でなら恨んでいます。七年ぶりに」

            *             *

「そうか……」
 時間の経過とともに、何とかして論理的な思考を取り戻した僕は、あり得べき一つの
新説に辿り着いた。テレビを消し、木刀をきれいに拭き、包丁を仕舞った。
「ロガーは三人の共犯だったんだ」
 間違いない。そうでなければいけない。

――終




#500/598 ●長編    *** コメント #491 ***
★タイトル (AZA     )  17/05/30  23:09  (498)
絡繰り士・冥 2−1   永山
★内容                                         19/01/16 22:49 修正 第4版
 冥は、計画の一部変更を余儀なくされ、些かご機嫌斜めだった。
 次に巻き起こす殺人は、名探偵を自称する高校生・十文字龍太郎を試すものであるの
と同時に、自分とは信条を異にするプロの殺し屋をその被害者に選ぶ腹づもりでいた。
だが、肝心の被害者が定まらない。
 無論、殺し屋連中の心当たりがなくはない。だが、それはいずれこちら側に引き込め
る可能性ありとみて、意に留めている者ばかりで、無碍に殺すのは“勿体ない”。
 それに、当初の思惑では、辻斬り殺人の犯人を始末した奴か、前辻を再び裏切らせよ
うとした殺し屋、そのいずれかを被害者にしようと考えていたのだ。しかし、どう手を
尽くしても見付けられない。唯一の手掛かりは、辻斬り殺人犯を殺した場所から推し
て、十文字龍太郎の通う高校・七日市学園の関係者であることはほぼ確実と云える程
度。そこから調査を進めても、はっきりしなかった。その殺し屋が十文字のそばにいる
と仮定すれば、腕の立つ生徒が二、三人いるようだが、確実さに欠ける。冥が見た限り
では、真っ当な人間ばかりに感じられた。
 仕方がない。
 冥は被害者に関する拘りを捨てた。代わりに、容疑者に拘る。殺人の疑いが、十文字
龍太郎の親しい者に掛かるよう、仕向けるのだ。
(今までの経緯を考慮し、高校での知り合いに限るとしよう。自ずと候補は絞られてく
る。一ノ瀬和葉は、一ノ瀬メイの関係者でもあるから、選ばぬ方がよい。十文字個人の
力を量るためには、できることなら、一ノ瀬メイを遠ざけておきたいくらいだ。同じ理
由で、警察一家の五代春季も選ばないでおく。音無亜有香は剣道だけでなく、剣の腕も
立つようだが、探偵能力そのものには関係あるまい。候補の一人になるが、普段の生活
パターンが判で押したように一定では、容疑を掛けづらい恐れがある。三鷹珠恵は、も
っと厳格だ。運転手付きで移動することも多い。その点、百田充という男子生徒は、か
なり自由だ。問題は最近、事件に被害者として巻き込まれたらしく、以来、家族の心配
が増している。保護者が放任主義と思われるのは、四谷成美と六本木真由の二人か。と
もに、十文字とのつながりは比較的薄いのが難である。七尾弥生は、趣味のマジックに
よる交友関係が広く、矢張り容疑を掛けるためには余分な手間が必要となろう。これま
で見てきた中で、容疑者を選ぶなら……)
 被害者選定との兼ね合いも頭に入れ、冥は一人に絞り込んだ。

             *             *

 寝てしまっていたらしい。あるいは、意識を失っていたのか。最悪の気分の覚醒だっ
たのは、確実に云える。頭痛と胸焼け、そして軽い吐き気が同時に来た。
 床に横たわっていた状態から身体を起こし、辺りを見渡す。教室だ。自分のクラスで
はない。特別教室で、窓から見える景色は二階……多分、家庭科室?
 僕・百田充は、夕日でオレンジ色に染まった室内をぼーっと眺めた。何でこんなとこ
ろに寝転んでいたのだろう? 教壇のすぐ横、段差に身を寄せるようにして倒れていた
ようだ。こうなるまでの経緯を思い出そうとしたが、頭がずきずき痛くなったので一旦
中止。様子を見つつ、立ち上がる。教卓に腕をついて、姿勢を保つ。
 と、不意に、非日常的な物を視界に捉えてしまった。
 ぎょっとして声を上げそうになったが、我慢してそれに近付こうと、机の間に歩を進
めた。
 女子が倒れている。教室後ろの少し広いスペースに。こちらに背中を向ける格好だ
し、逆光ということもあって、誰だかすぐには分からないが、制服を着ているのだか
ら、うちの生徒なのは間違いない。
 彼女まであと二メートルくらいになったとき、僕ははっとした。息を飲む。心臓がば
くばく云い出した。
「音無さん……?」
 見覚えのあるポニーテールに後ろ姿。背格好も同じ。
 確証はまだ持てなかったが、とにかく声を掛ける。
「大丈夫? 僕もあんまり大丈夫じゃないんだけど」
 さらに近付き、彼女の顔が見える方へ回り込む。矢っ張り、音無亜有香その人だ。
 僕の心臓の鼓動は一段と早くなった。何故なら、彼女のお腹の辺りからは、赤い血の
ような液体が流れ出ていたのだから。
 僕は彼女の身体を起こそうと、手を伸ばした。でも――動かしていいのか? 返事が
ないのは、気を失っているだけなのか、それとも命が危ないのか。今は助けを呼ぶのが
先だ。
 僕は床を蹴って、駆け出した。後方の扉に張り付き、思い切り横に引いた。
 が、動かない。鍵が掛かっている。ねじ込み錠を開けるのがもどかしく思え、僕は前
方の扉へ向かった。しかし、そちらの鍵も施錠されていた。後方と違って、前の扉は金
属のバーを上にスライドさせるだけで、解錠できる。僕は、教室が密室状態だったのが
引っ掛かったが、ともかく助けを求めるのを優先した。
 扉を開け放ち、廊下に飛び出した。同時に僕は「誰かー! 救急車を!」等と叫びな
がら、職員室を目指そうとした。その途端に、後方から二人組の女子生徒が通り掛か
り、「どうかしたの?」とか何とか云ったようだった。
 僕が受け答えする前に、彼女達は家庭科室の中を覗いた。途端に、悲鳴が上がる。
「あなたがやったの?」
 一人はきつい目付きに、緊張した口調。もう一人は怯えた目で室内と僕を順番に見
て、歯の根が合ってない風にかちかち音を立てながら、「し、死んでるんじゃない…
…?」なんて云っている。
「僕じゃないっ。とにかく、今は救急車を呼ばないと!」
 言い捨てて、ダッシュしようとしたが、「待って」ときつい目付きをした方に止めら
れた。彼女はもう一人に耳打ちし――と言っても声が大きくて漏れ聞こえたが――、そ
の子に職員室へ向かわせた。
「まだ信じられるかどうか分からないから、私と一緒にいてもらうわよ。名前は?」
「……百田充、です」
 遅ればせながら、相手が一年先輩だと気が付いた。極々簡単に自己紹介している間
に、彼女は家庭科室に入った。
「応急処置」
 呟きつつ、室内をぐるりと見回すと、窓際の棚に置いてあった、一抱えほどある段
ボール箱を覗き込んだ。手を突っ込み、また出すと、小さな布がいくつも掴んであっ
た。授業で使った余りらしい。
「止血するには、もっと大きい布か何かがほしい」
「――だったら」
 僕はカーテンに飛び付くと、力任せ引き剥がした。カーテンレールのコマが、たくさ
ん散らばった。
「これを」
 先輩の女子は、面食らった様子は一瞬で消し、僕からカーテンの布を受け取ると、ぐ
るぐる丸めて、横たわったままの音無の腹部に宛がった。
「百田君、だっけ? あなた、脈とか診た?」
「い、いえ」
 云われてみれば、どうして僕は具合を見ようとしなかったのだろう。いくら動転した
にしても、曲がりなりにも探偵助手を務めてきた者として、血を流して倒れている人が
いたら、何らかの措置を講じられるぐらいのレベルに達していなければならないのに。
「……おかしいわ。血はもうほとんど止まってるみたい」
「え?」
「止血したって意味じゃないわよ」
 面を起こした先輩女子。その顔色は白みがかりつつあった。手首に触れていた指を引
っ込め、さらに告げる。
「脈も弱い……ないかも。それに、体温が凄く下がってる」
 こういうとき、どうすればいい? 一刻の猶予もならない、いや、もう手遅れかもし
れない。けれど、担いででも病院に向かうべきなのか? 救急車が来るのなら、ちょっ
とでも近くまで運んでおくのがいいのか?
「あなたはこの人、知ってるの?」
「あ、ああ。音無亜有香さん、だと思う」
 僕が答えると、先輩女子は叫ぶような大声で呼び掛けた。
「音無さん! 音無亜有香さん! しっかり!」

             *             *

「百田充君。調子はどうだね?」
「刑事さん、調子と言われましても」
「だいぶ、冷静さを失っていたように見えたからな。覚えてないか」
「そう、でしたか」
「まあ、今はだいぶ落ち着いたように見える。だからこそ、こうして事情聴取の再開と
なった訳だが」
「僕も何が起きたか、知りたいです」
「結構な心掛けだ。他の人間がいると話しづらいこともあるようだから、弁護士の付き
添いをなしにしたが、本当にいいんだね」
「ええ、多分」
「繰り返し念押ししておくと、これは取り調べではないし、君は逮捕された訳でもな
い。とにかく、ことのあらましを知りたいから、知っていることを話して欲しいだけ
だ。いいね?」
「はい……」
「それとね、以前聞いたのと同じ質問をするかもしれないが、面倒臭がらずに答えても
らいたい。では、百田充君。まずは、倒れていた彼女について、話して」
「クラスメイトの音無さんです。音無亜有香さん」
「ふむ。何人かから聞いたんだが、君はその音無さんのことを好いていたようだね」
「――ええ、まあ」
「付き合っていた訳ではないと?」
「も、もちろんです。多分、向こうはこっちが好意を持っていたことさえ、知らなかっ
たと思います」
「じゃあ、当日はどうしてあんな場所で、二人で?」
「それは……あんまり、はっきり覚えてないんです」
「あんまりと云うからには、少しは思い出しているんだろう?」
「……あの日は、前日の体育祭の打ち上げで、クラスで有志が集まっていました。で
も、音無さんは急な用事ができて来られないと聞いていました。だから、校内で音無さ
んを見掛けたときは、ちょっと驚いて」
「見掛けたというのは、君達の教室に入ってきたのかい?」
「違います。午後三時前だったと思いますが、トイレに立ったとき、渡り廊下を歩いて
いるのをたまたま見たんです。遠ざかる方向でしたけど、見間違えじゃありません」
「来てないはずの彼女を見付けて、君はどうした?」
「もう少しで打ち上げは終わるけど、用事が終わったから来たのかなと思って。僕はそ
のときまだトイレを済ませてなかったから、急いで済ませて、元の場所まで引き返した
けれど、すでに音無さんの姿はなくて。教室に入ったのかもしれないと考えて、僕も教
室に戻りました。でもいなかったから、また教室を出て」
「ちょっと待った。そのとき、クラスのみんなに音無さんのことを尋ねなかった?」
「いえ。名前を出すと、冷やかして来そうなのがいたし、黙ってました。それで、あ
あ、少しの間、教室にいたんだ。でも結局気になって、出たのが十分ぐらい経っていた
と思います」
「そして探しに行ったと」
「はい。とりあえず、音無さんが向かっていた方に行って。家庭科室とか化学室とかが
集まっている棟でした」
「探している間、誰かとすれ違ったり、見掛けたりは?」
「ない、です、多分。すみません、覚えてなくて」
「いや、かまわんよ。それから?」
「信じてもらえないかもしれないんですが、急に電話が鳴って、それが音無さんから
で」
「信じるよ。記録が残ってるしね。百田君は、音無さんに番号を教えていたのかな」
「えっと、教えたというか、伝わったというか。僕の先輩で二年生の人が、その、探偵
をやっていて、万が一のときに備える意味でも、知り合い同士いつでも連絡は取れるよ
うにしておくべきだという考えで。音無さんは一度、その先輩に世話になったせいか、
敬意を払っているところがあって、云う通りにしたんです」
「経緯はどうあれ、知っていたんだな。掛けてきたのは、音無さんの携帯電話からだっ
たかい?」
「それが違いました。だから、電話に出て初めて、『百田君? 音無だが』って云われ
て、音無さんからだと分かったんです」
「なるほど。携帯電話が違うことについて、尋ねたかい?」
「いいえ、そんな質問をするいとまもなく、『今すぐ、下駄箱を覗いて来て』と云わ
れ、電話を切られたので。何が何だか分かりませんでしたが、下駄箱まで一目散に行き
ました。そして下駄箱の中に、破り取ったノートの紙があったんです。『読んだらこの
紙は燃やすか、ちぎって流して。家庭科室にすぐに来て欲しい』と」
「その紙は、前に聞いたメモのことだね。細かくちぎって、トイレに流したという。残
念ながら、まだ見付かっていない。よほど細かくちぎったのかと思ったが、もしかする
と水溶性の紙だったのかもしれないな」
「恥ずかしいから、処分して欲しいのかと思ったんです。それに、すぐさま行きたかっ
たから、あとのことは考えていなかった」
「責めてる訳じゃないんだ。ただ、証言を信じるために、強力な裏付けが欲しいんだ
よ」
「……」
「そのあとは?」
「えっと、玄関から一番近い一階のトイレで紙を処理したあと、家庭科室に駆け付けま
した。ドアは閉じてあったけれど、手を掛けてみるとすっと開いて」
「このときも、誰にもすれ違わなかったんだ?」
「え、はい、多分。認識しなかっただけかもしれませんが。それで……ドアを開けて前
から入ると、いきなり左の方向から強い衝撃を受けて、気が遠くなって意識をなくし
た。と思います」
「衝撃というのは、何だか分かる? 傷はないようなんだが」
「分かりませんけど……最初、後頭部に重たい物を食らった感じがあって、そのあと電
気でしびれたみたいに、身体が動かなくなった気がしました」
「なるほど。で、意識を取り戻したときには、女生徒が刺されて倒れていた、と」
「はい……」
「鍵を自分で掛けた覚えはあるかね?」
「ありません」
「ふむ。君は音無さんから呼び出されて、どんなことを考えた?」
「何か、こう、内緒の話があるんだろうなって」
「それは恋愛関係か、それとも他に内緒話に思い当たる節があったのか」
「そりゃあ、前者を全く考えなかったと云えば嘘になりますが、以前、音無さんは気に
なることを口にしてたから、そっちの方かなと」
「説明を詳しく」
「詳しくと云っても、そもそも曖昧であやふやなんですが……霊の存在を信じるかどう
かとか。音無さん、“視える”体質らしくて。ただ、幽霊と断定してるんでもなくっ
て、霊っぽい物が視えるそうです」
「何だ、そんな話か。女子中高生によくあるやつじゃないのかね」
「よくあるかは知りませんが、音無さんが云うには、人は他人の生死に関わった数だ
け、霊が憑くことがあるんだとか。そして、身近には大変な数の霊をしょった人物がい
て、そいつは十文字先輩に――あ、さっき云った探偵をやってる先輩です――、害を与
えるかもしれないっていう警告みたいなことを云ってたんです」
「うーん。その警戒すべき人物って誰?」
「まだ確証がないことだからと、名前までは教えてくれませんでした」
「警戒を呼び掛けておいて、それか。矢張り、事件とは無関係のようだ」
「はあ。確かに、この話がしたいのなら、十文字先輩に直に伝えるべきだし」
「音無さんが狙われるとしたら、どんな理由が考えられると思うね?」
「何にも思い浮かびません。だいたい、あの音無さんが簡単にやられるなんて、あり得
ない。刑事さんもご存知なんでしょう? 音無さんの剣道の腕前」
「無論だ。尤も、剣道は武器のありなしで、戦闘能力は大きく違ってくると思うが」
「音無さんは、他の武道も一通り身に付けているはずです」
「うんうん、分かった。今は、殺される動機の話をしている。一応聞いておくが、百田
君はやってないんだよな?」
「ばっ、莫迦なことを! やってないに決まってる! 僕が音無さんを殺すはずない
っ」
「しかし、いくら好きな異性でも、袖にされたら、感情が裏返ることはあるんじゃない
か。職務上、そういうのをよく見てきたしねえ」
「絶対にありません! 僕には殺せないんだから。心理的にも、体力的にも」
「確かに、さっきも云った通り、身体能力は彼女の方が圧倒的に上だ。聞くところによ
ると、油断して隙を見せるようなタイプでもないらしい。そもそも、現場の状況という
ものがある。密室内にいたのは、被害者の他には君一人。普通に考えるなら、やったの
は君だとなるが、決め付けられないのは凶器が見当たらないからだ」
「……思い出しました。そんなことを云ってましたよね。何が凶器かは教えてもらえな
かったけれど、校庭の周りにある溝に落ちているのが発見されたって。じゃあ、どうし
て僕を疑うようなことを」
「密室の方が片付かないからさ。襲われた君が、身を守るために意識朦朧となりながら
も施錠した、なんてことはないか?」
「ないです。ありましたって云いたいですけど、嘘は吐けない」
「探偵助手としての矜持って訳かね」
「そんな立派なものじゃありません。嘘を吐いたら、真相に届かなくなる恐れが高ま
る、それだけです」
「真理だ。そんな百田君には、こちらもきちんと手持ちのカードを出すべきだな。凶器
が何かは明かせないが、代わりにいいことを教えてやるとしよう」
「いいこと? そんな、殺人事件が起きてるのに、いいことなんて」
「文字通り、朗報だよ。なに、この部屋を出れば、誰かがすぐにでも教えてくれるだろ
うがな」
「みんなはもう知ってるってことですか? 一体、何の話を」
「これだよ。被害者が身に付けていた物なんだが」
「――」

             *             *

 僕・百田充は、この事件で半狂乱めいた状態に、二度も陥ったらしい。
 一度目は、云うまでもないが、音無が死んだという事態を、はっきりと自覚し、認識
したとき。最初の頃は、参考人としての事情聴取もままならなかったという。
 そして二度目が、つい今し方だ。同じ半狂乱めいた状態と云っても、一度目とはまる
で正反対の、信じられないことが起きた驚きと嬉しさによる。
「百田君」
 その声に、僕は目を覚ました。自分の家の自分の部屋、自分のベッドでさっきまで眠
っていた。
「――ああ、よかった。本当に無事だったんだ」
 上体を起こし、泣きそうになりながら、それでも僕は笑った。
 音無さんが、ベッドの傍らに片膝をつき、真剣な顔つきでこっちを見ている。
 あ、この機会に呼び捨てで記述するのはやめにした。今までは、好意的感情が溢れて
しまわぬよう、制御する意味でも、地の文では「さん」付けせずにいたけれど、もう気
にしない。別にいいじゃないか。
「その様子なら、正真正銘、落ち着いたようだな。安心した」
 音無さんは安堵を隠さず、穏やかな表情になった。
 と、見舞いに来てくれたのは彼女だけかと思っていたが、その後ろにまだ二人いた。
「君はつくづく、巻き込まれやすいタイプのようだな。まあ、無事で何よりだ」
 十文字先輩が云った。腕組みをしてこちらを見下ろす目に込められた感情は、しょう
がないなとだめな弟子に対する師匠のようだ。尤も、僕は弟子になったつもりは微塵も
ないけれど。
「鯛焼き、食べる?」
 猫の手の形を作って鯛焼きを差し出してきたのは、一ノ瀬和葉だ。お見舞いに鯛焼き
というセンスは、彼女が外国生活が長かったことと無関係ではない気がする。でも、嬉
しい。ありがたく尻尾の部分をもらっておく。
「起きたばかりのところを悪いが、事件の話をしても平気か? 君の家族からの承諾は
得た。残り、二十分ほどだが」
 先輩が名探偵モードに入った。僕は鯛焼きの皮とあんこを飲み込むと、しっかり頷い
た。
「問題ありません。ただ、その前にいくつか教えてください。死んでいたのは誰だった
のか、判明したんですか?」
「その点から始めるつもりだった」
 僕があの日、家庭科室で見た被害者は、音無さんに外見をよく似せた偽者だった。刑
事に。被害者が身に付けていたという特殊なマスクを見せられたとき、しばらくはその
意味するところが全く飲み込めなかった。
 背格好や髪型を同じにし、七日市学園の制服を着込み、顔には映画撮影で使われるメ
イキャップにプラス、特殊マスク。じっくり観察しなければ分からないほどの出来映え
だったという。実際に目の当たりにした僕ですら、あれが変装だったなんて信じられな
い。
「まだ判明してないが、うちの生徒じゃないのは確かだ。指紋を残すことを警戒したの
か、全ての指先には透明なマニキュアを塗っていたと教えてもらった。年齢は僕らと同
世代で、もちろん女性。顔写真を見せてもらったが、僕は会ったことがない」
「ミーも」
 一ノ瀬が甲高い声で云った。今日は比較的大人しい。その隣で、音無さんも静かに頷
いた。
「百田君にも後日、刑事が見せてくれるだろう」
「早く見せてくれればよかったのに」
 僕が不満をあらわにすると、十文字先輩は首を横に振った。
「さすがに無理というもんだ。残念ながら、君は最有力容疑者だった。警察が簡単に手
の内を晒すものか。今になって、やっと容疑が薄まったから、こうなったんだよ」
「完全に容疑が晴れた訳ではないと云うんですね」
「それもまた仕方がない。密室状態の殺人現場に、被害者と二人きりだったという事実
は大きい」
 改めて断るまでもないが、家庭科室の鍵は職員室にあった。先生が図書室にいた間
も、各教室の鍵を保管する壁掛け式のボックスはちゃんとロックされており、こっそり
持ち出すことは不可能だ。
「気になってたんですけど、密室状態だってことはどうやって客観的に証明されたんで
しょう? 僕が第三者に事態を知らせた時点で、鍵は解錠されてたんだから、飽くまで
僕一人の証言になるのでは」
「自らの不利益になることを偽証するはずがない、というのがまず一点。加えて、百田
君が助けを呼ぼうとする前に、もっと云えば、意識を取り戻すよりも前に、家庭科室に
鍵が掛かっていたことを把握していた人物がいるんだ。君が助けを求めた二人の女子だ
よ」
「うん? どういうことでしょう?」
「彼女達は先生に頼まれて、各教室の施錠具合を見て回っていたんだ。そろそろ閉めよ
うという頃合いだったからな。君が廊下へ飛び出してくるおよそ十分前に、家庭科室の
ドアに手を触れ、鍵が掛かっていたことをチェックしている」
「……人を無闇に疑うのはよくないと分かってますけど」
 前置きしてから仮説を口にしようとしたら、先輩は名探偵っぽく、先回りした。
「二人にはアリバイがある。君が襲われたのは、午後三時過ぎだろ? その時間帯、女
子二人は自身のクラスの打ち上げの席にいた。証人はいくらでもいる」
 それなら違う。
「犯人が被害者と僕を密室に閉じ込めたのは、矢っ張り、僕に濡れ衣を着せるためなん
でしょうか」
「だと思うんだが、凶器を現場に置いていかなかったのは、不可解だな」
「不可解なら、他にもあるよん、十文字さん。七日市学園の生徒じゃない人を被害者に
選んでいるところとか、その人が剣豪の変装をしていたこととか」
 “剣豪”とは、一ノ瀬が音無さんに付けたニックネームだ。当人がいてもお構いなし
に使ってる。
「音無君は元々は、打ち上げに参加するつもりだったんだね?」
 十文字先輩が尋ねると、音無さんはまた無言で頷いた。一拍おいて、口を開く。
「体育祭のあった日の夜、家の方に連絡が入り、昔、音無家が所有していたされる刀の
行方が分かったから、確認を求める旨を受け取ったんです。通常なら、祖父か父が参る
のですが、生憎と祖父は体調がすぐれず、父も外せない所用を抱えていたため、自分が
代理で向かうことになった次第」
「なるほど。一応、聞いておこう。刀発見の話は、本当だったのかな?」
「無論です。終戦の頃に米軍に接収された業物の一つで、長らく行方知れずだったので
すが――」
「ああ、いい。事実であればいいんだ。今回の事件の犯人が、何らかの意図を持って、
音無君を遠ざけたかった可能性を考えてみたんだが、どうやらないようだ」
「自分に化けた者は、どういう狙いがあったと考えていますか?」
 音無さんの不意の質問に、名探偵は「うーん」と唸った。
「仮説ならたくさんあるが、まるで絞り込めない。たとえば、被害者は自らの意思で化
けたのか、誰かに命じられてやむを得ず化けたのか。殺人犯の意志が働いているのか、
全くの無関係の事柄が偶然にも同時に起こったのか。これらの点のどれ一つ取っても、
可能性は多岐に渡るだろう」
「いずれにしても、殺人犯の本来の狙いは、音無さんだった?」
 僕は、あまり言葉にしたくないことを、がんばって声に出した。
「100パーセントではないが、可能性は高い。百田君に罪を被せるべく、音無君を狙
ったつもりが、そのそっくりさんを殺してしまったというのは、流れとしてはおかしく
ない」
 僕が音無さんの命を狙うはずないんですが。そこを抗議すると、十文字先輩からは刑
事に云われたのとほとんど同じ指摘をされた。その辺のやり取りは敢えて記すほどでは
ないため、ばっさりカットする。
「さて、もうすぐ時間切れだ。たいして話を聞けなかったな。今、早急に議論しておく
べきことはあるかな?」
「じゃあ、ミーが」
 招き猫みたいな挙手をした一ノ瀬。
「剣豪を狙った犯行だということを決定事項とすると、少なくともミーや充っち(僕・
百田充のこと)のクラス全員は容疑から外れにゃいかにゃ? 今日、ターゲットが来ら
れなくなったことはみんなが知っていたのだから」
「多分ね。犯行計画を中止したが、たまたま音無君のそっくりさんを見掛けたから、矢
っ張りやってみた、なんていうのは乱暴に過ぎる」
「でしょでしょ。それともう一つ。春に起きた辻斬り事件と関係あるのかないのか、気
になってるにゃ」
 無理に猫っぽい語尾をつけなくていい。
「辻斬り事件の犯人は、判明しているが」
 怪訝そうに皺を作った十文字先輩。一ノ瀬は「あれ? 気付いてにゃい?」とこちら
も怪訝そうに、いや、不思議そうに目を丸くした。
「辻斬り犯は七日市学園内で殺害されて、事件は未解決。あれから半年も経たない内
に、今度の事件。関係ある可能性を探るのは、当然だと思ったです」
「そ、そうだな」
 若干、動揺したようにどもった十文字先輩。一ノ瀬に云われた可能性を考えていなか
ったのか? そんなことはないと思うんだけど。
「犯人は、辻斬り犯殺しと同一人物と云うのか?」
 音無さんはすっくと立ち上がり、一ノ瀬に詰め寄らんばかりの勢いで云った。辻斬り
事件は、音無さんとも関係があったから、居ても立ってもいられないのかもしれない。
「可能性にゃ。飽くまで可能性。二つの事件の犯人が学校関係者なら、比較的やり易い
に違いないって意味だよん」
「理解した。――相当な手練れと推測するが、十文字さん、助っ人が必要なときはいつ
でも云ってください。遠慮は無用です」
「ああ。体力勝負になりそうだったら、ぜひ頼むよ」
 苦笑を浮かべた先輩は、腕時計を見た。
「これ以上長居すると、百田君のお母さんから叱られてしまうな。お暇するとしよう」
「百田君、明日は出て来られそうか?」
 音無さんに問われ、僕は首を縦にこくこくと振った。
「もちろん。病気じゃないんだ」
「よかった。変装していた輩のせいとは言え、多少の責任は感じていたところだから」
 少し笑ってくれた。心配してもらったのは嬉しいが、申し訳なくもある。
「鯛焼きの残り、ここに置いとくよん」
 一ノ瀬が最後に云った。

             *             *

「正直な気持ちを云おう。恐いのだ」
 十文字龍太郎は柔道着に袖を通し、帯を固く締めた。色は白だが、実際の腕前が初段
以上であるのは確実である。
「辻斬り事件の捜査中、校内で何者かに襲われたとき、ああ、終わったと感じた。助か
ったと分かったときは、恐怖がベールのように頭の上から被さってくる気がした。取っ
ても取っても、被さってくるんだ」
「その恐怖心を取り除くために、私に稽古を付けてもらいたいと」
 五代春季は、ため息をついた。十文字と同い年の幼馴染みで、柔道の強化選手に選ば
れるほどの剛の者だ。
「こっちもはっきり云うと、感心しない。高校生が探偵業に精を出すのは」
 ここは七日市学園の柔道場。かつては他の武道と共同使用の格技場があったが、学園
が各武道の選手育成に力を入れた結果、独自の練習場所を持つまでになった。
「でも、こうして練習が終わるまで待っていて、稽古を付けてもらおうという気概は買
うわ」
 半ば諦めている風に微苦笑をつなげてから、五代は一転、自身の頬を軽く叩いて気合
いを入れた。
「本気でやっていいんだ?」
「ああ。技術面よりも精神面を鍛えたいから。投げられ続け、こてんぱんにやられた
ら、少なくとも恐怖心はなくなる気がする」
「――聞くところによると、あの音無さんから剣術を少し教わったそうね」
「基本だけな。代わりに、こっちは柔術の一種を教えた。シャーロック・ホームズ流の
制圧術をね」
「ふうん。異種格闘技戦でもかまわないよ。どれだけ通じるか、試したいんじゃない
の? 通用すれば、自信になるだろうし」
「さすがに柔道と剣道で異種格闘技はまずいだろう。という以前に、成り立つのか?」
「無論、双方ともに竹刀を手にして試合をする。私も試してみたいんだ。用意スタート
で始める試合なら、自分は弱くないことを確かめるために」
「……何かあったのか」
 十文字の問い掛けに、五代はまともには答えなかった。
「仮に、何でもありの決闘のような勝負をすれば、恐らく私は強くない。せいぜい、中
の上ぐらい。音無さんにも負ける可能性が高い。そして音無さんと互角の勝負をした八
神という子は、試合では音無さんに敗れたが、実際はもっと強いんじゃないかと思う」
「その話、知ってたのか」
「最初、一ノ瀬さんからね。そのあと、音無さんから詳しく聞いた。伝聞だから完全に
は掴めていないけれど、強いと感じたわ。だから、一応の注目はしていた。なのに、や
られた」
「やられた? 君が?」
 信じられないと、表情で語る名探偵。五代は今度は自嘲の笑みを浮かべた。
「言葉で説明するのは大変難しい。多分、無理。廊下ですれ違った直後、生殺与奪の権
利を握られたって感覚になったのよ」
「生殺与奪の権利って、この場合は、本当の生き死にって意味か」
「ええ。殺気のとても鋭いやつ。気が付いたときには終わってる、みたいな具合だっ
た。私、立ち止まって、振り返ったんだけれど、もう遠ざかっていて、曲がり角の陰に
消えるところだった」
「……その後、八神君と接触は?」
「全くない。試されただけなのかもしれない。その上で、わざわざ勝負するに値しない
と判断されたのかもしれない」
「おいそれとやり合って、無駄に怪我をしたくないと考えたんじゃないか」
「へえ。ありがとう。そういう気遣い、できるんだ?」
 意地悪げに笑った五代。十文字は目をそらし加減にして応じた。
「トップクラスのアスリートの身体能力を、高く評価しているまでさ。正面からやり合
えば、そこいらの喧嘩自慢なんて相手にならない」
「ふむ。では、そろそろトップアスリートの力を、直に味わってみる? さっき云った
異種格闘技戦をやるなら、竹刀や木刀や刺叉がこの道場にも備えられているけれど」
 数ヶ月の間に殺人事件が繰り返し起きた事実を重く見て、学校側がとりあえず侵入者
対策として導入した物だ。なお、防犯カメラを大量に設置しようという案も出ている
が、さすがにハードルが高いらしく、即時の決定には至っていない。
「八神君との件があったから、そっちがやってみたいだけなんじゃないか? まあ、一
度だけなら、竹刀を使ってみるか」
 合意がなった。防具がないため、肩から上を狙うのは禁じ手とし、また、竹刀の鍔よ
りも先の部分を直に持つ行為はなしとした。勝敗の決定方法は、柔道のそれに加えて、
相手の竹刀による攻撃によって自らの竹刀を取り落とすことが二度あれば負けとする。
(狙えるのは小手と胴。イレギュラーな試合なんだから、足なんかも狙っていい。ある
いは、胴体への突き。でも、そんなにうまく行くとは思えん)
 通常の柔道の試合と同じように、相手の五代と正対しつつ、十文字は考えていた。当
初は投げられに来たつもりだったが、この変則的な試合だけは、十文字も勝つ気で行か
ねばなるまい。それが五代の望みだと分かる。
(掴まえられたら終わり。竹刀で距離を取って、ペースを先に握るのが理想。成功する
か否かは別として、立ち上がりの速攻がいいか?)
 各方向への一礼を済ませ、改めて正対する。竹刀を構える。様になっているのは、十
文字の方だろう。
「開始の合図はそちらに任せるからね」
 五代が云った。
 十文字は、ならばと、かけ声を発することなく、いきなり動いた。
 竹刀を最小限の所作で振りかぶり、小手と突きどちらも狙えるような構えで前に出
た。
「おっと」
 五代も警戒していたのか、身を引いて構えを保つ。かわされた十文字は、距離を取る
という最低限の目的を果たし、竹刀を構え直した。
 と、五代の方から詰めてきた。打ち込むつもりの感じられない、防御のためだけの竹
刀の角度。
 十文字がおかしいなと思った刹那、五代は竹刀を野球のバットのように、水平方向に
フルスイングした。
 竹刀が消えた。
 次の瞬間、十文字の腰の辺りをかすめるようにして、竹刀が飛んで行った。
(な何てことを。自分から手放すなんて、ありかよ?)
 柔道技を認めているから、竹刀を自らの意思で手放すのは当然ありなのだが、まさか
投げつけてくるとは想像の埒外だった。
 怯んだ十文字に対し、五代はあっという間に接近し、懐に潜り込むタックルを決め
た。
 十文字の身体が宙に浮く。風に舞い上げられた木の葉の如く、軽々と。そして一秒も
しない内に、畳の上にずしんと叩き付けられた。
「――」
 悲鳴を上げないだけで精一杯だった。いや、むしろ逆で、声すら出なかったとすべき
か。呼吸が詰まったような感覚が、しばらく続く。もう動けなかった。
「一本だと思うけど、念のため」
 そんな五代の囁き声が耳に届いたと思ったら、袈裟固めでがっちり極められてしまっ
た。「参った」と叫んだつもりだったが、全然声にならない。手で五代の背中を弱々し
く叩き、降参の意思表示をした。
「ごめんねー。八神さん対策で色々と考えていたことを、試してみたんだけれど、大丈
夫かな?」
(そりゃあ確かに、柔道部の部員同士でこんな変則試合はやれまい)
 十文字は思った。思っただけで、声はまだ出せなかった。

――続く




#501/598 ●長編    *** コメント #500 ***
★タイトル (AZA     )  17/05/31  01:39  (474)
絡繰り士・冥 2−2   永山
★内容                                         18/06/03 03:13 修正 第4版
             *             *

 木部逸美(きべいつみ)。それが、音無さんに化けて七日市学園に入り込み、死亡し
た女性の本名だった。
 東北の出身で、年齢は十八。地元の公立高校を一年で辞め、家族と離れて上京。俳優
志望で、数多ある小劇団の一つに入っていた。が、最近は稽古に出て来なくなり、幽霊
団員と化しつつあった。その矢先の事件である。
「若い団員達は劇団の用意したシェアハウスに入るパターンが多くて、木部もそこに入
っていた。が、年始にそこを出て三ヶ月ほど経った頃から、段々と足が遠のくようにな
っていったらしい」
 すっかり顔なじみになった八十島刑事が、捜査の進捗状況を話してくれた。もちろ
ん、明かせる範囲に限られているんだろうけど、これまでの十文字先輩の実績や、五代
家の口添えのおかげか、ハードルが比較的低い気がする。
「シェアハウスを出た木部は、どこに行ったんです?」
 十文字先輩が聞いた。ここは八十島刑事が指定したラーメン屋だ。雑然としている上
に、カウンター席もテーブル席も間仕切りがあるので、秘密の会話もしやすいらしい。
 今日は放課後、捜査本部のある警察署に出向き、木部逸美のものだという音声データ
を聞かされた。事件当日、僕の携帯に電話をしてきたのが木部逸美に間違いないか、確
認を求められた次第だ。僕の返答は「似ている気はするが、断定まではできない」とい
うレベルに留まった。尤も、電話の音声の仕組みからすれば、これは無理もないことら
しいが。
 ともかく、その調べが済んだあと、情報をもらうためにこの店に寄った。署内でやる
のは、さすがにまずいという訳だ。
「まだ分かってない。劇団員の証言で、男がいたのは間違いないんだ。前髪を茶色くし
た痩身だが高身長。見掛けた者の証言では、ゆうに一八五センチはあるそうだよ。バタ
臭いというか洋風の顔立ちに薄い色のサングラスをだいたい掛けていて、ハンサムに入
る部類らしい。具体的な容貌はさっぱり掴めないし、どこで何をやっているかも分から
ない。名前は苗字だけ、ウエダと。そいつの家に転がり込んだんじゃないかっていうの
が、大方の見方だが、捜査はまだまだこれからだね」
「想像を逞しくして、ウエダが事件に大きく関与しているとします。恐らく、俳優や映
画、ドラマ業界に関する何らかの美味しい話を持ち掛け、木部を連れ出し、手元に置い
たんじゃないでしょうか。実際、業界に詳しい可能性が高い。木部に特殊メイクを施し
たのが、ウエダの手配だとしたら、ですが」
「ウエダが木部の変装に力を貸したのは、まず間違いないだろうと、我々も見ている。
だが、木部殺しに関わっているかとなると、何とも云えない。わざわざ変装させ、木部
とはまるで関係のない学校に入り込ませ、そこで殺害するという行為に意味を見出せな
いからだ。仮に、百田君を陥れ、十文字君に事件を解くよう仕向けるためだとしたっ
て、やり方が迂遠すぎるじゃないか」
 店に入ってから、先輩と僕はラーメンを、八十島刑事はチャーハンを注文したのだ
が、僕らが早々に平らげたのとは対照的に、刑事のチャーハンはほとんど減っていな
い。残すのなら、タッパーにでも詰めて一ノ瀬に持って行ってやろうか。
「仮に、ウエダが木部を騙していたとして」
 十文字先輩が、議論の焦点を変えた。
「『音無亜有香という女子高生に変装し、七日市学園潜入しろ』という命令を、木部が
素直に聞くものでしょうかね」
「うーん。『演技テストだ。うまくやったら、映画に出られるようにしてやる』なんて
云われても、鵜呑みにするとは思えんね。ウエダが本物の業界人でない限り、じきに嘘
がばれるだろう。今の時代、調べれば割と簡単に分かるはずだ。ましてや、学校に無断
で入るのは、明らかにおかしな行為だし」
「……木部は、どんな俳優を目指していたんです? 音無君に化けられたのはマスクと
メイクのおかげで、木部の素顔は際だって美人と云うほどではなかったような。だか
ら、性格俳優?」
 辛口批評をずけずけと云う名探偵。
「いや、違う。意外にも、アクション俳優だったそうだよ。日本の女優には激しいアク
ションのできる人はあまりいないから狙い目だと考えていたみたいで、当人もスポーツ
は得意だったようだ」
「アクションですかぁ。ますます分からなくなった。変装しての演技テストという想定
から、遠くなってしまった」
「アクションの演技テストを受けたけど、何らかのハプニングで凶器が刺さり、死んで
しまった、というのはどうでしょう?」
 僕は思い付きを口にした。深くは考えない。間違っていても、先輩や刑事達の頭脳を
刺激する材料になれば御の字だ。
「事件ではなく、事故だと?」
「侵入行為そのものの説明は付かないけれども、アクションの相手をしていたウエダが
黙って出て行った理由にはなってるでしょう? 予想外の事態に動転して、木部を見捨
てて行った」
「一見、筋が通っているようだが、密室は?」
 八十島刑事が当然の疑問を口にした。引き継いで、先輩がはっきりと表現した。
「動転しているのに、わざわざ現場を密室にしてから逃げる訳がない、か」
「それを言い出したら、僕を陥れるための殺人だったとしても、密室を作っていくのは
やりすぎって印象受けるんですが」
「まあ、君を気絶させて、被害者と同じ部屋に置いておくだけでも充分効果的だとは思
うよ」
 応じたのは刑事。チャーハンは相変わらず、ほぼ手付かずだ。お冷やのグラスに着い
た水滴が、テーブルに小さな水たまりを作りつつある。
「一応容疑者の君に、ここまで喋っていいのか分からないが、密室だったせいで、かえ
って君への疑いは薄まったとも云えるんだ。犯人が死体とともに密室に籠もるなんて、
心理的にはまずあり得ない」
 そこで言葉を区切ると、八十島刑事は十文字先輩を見た。さあ名探偵はどう判断す
る?とでも問いたげな視線だ。
「勇み足のようですよ」
 まず、先輩の一言。
「整理するために、少しだけ話を戻しましょう。予想外のハプニングで木部は死んだと
いう仮説は、そもそも成り立ちそうなのか? ここから考えなければいけない。重要な
のは、百田君、君が気絶させられたという事実だ。電話とメモを使って家庭科室まで呼
び出されたのだから、君が関係したことは偶然じゃない。木部もしくはウエダが望んだ
んだ。ならば、アクション演技のテストだとすると、君はどういう役回りをさせられた
んだろう? 君を殴って電気ショックで気絶させることまでが、テストなのか?」
「い、いえ、それはないですよ、多分。テストなら、あそこまで強く殴らない」
 痛みが甦った気がした。思わず、頭に手をやっていた。
「だったらハプニング説は捨てよう。これは殺人だ。殴ったのがウエダにせよ木部にせ
よ、演技テストなんかじゃないこともまず確実だ」
「あー、ちょっとストップしてもらっていいかな」
 八十島刑事が口を挟んだ。ようやく、チャーハンが減っていた。
「なかなかの論理展開だと思う。ただ、気になったのは、ウエダなる男がその場にいた
と決め付けて語っているようだけど、どうなのだろう?」
「と、云いますと……もしかして、男の不審人物は七日市学園に出入りしていない証拠
でも見付かったんですか」
「証拠って程じゃないが、学校へ通じる周辺の道路には、いくつか防犯カメラがあるか
らね。それを全て当たった結果、事件前後の近い時間帯に、正体不明の男が出入りする
様子は確認できなかった」
「しかし、木部逸美は」
「被害者の方は、女生徒のなりをしていたから、紛れ込むのは簡単だったろう。現段階
では、いつの時点で入り込んだのか掴めてないんだけどね。マスクを着けている子が多
くて、手間取っている」
「だったら、ウエダも男子か先生に化けて」
「それは厳しいだろ。ウエダは目立つくらい背が高い。出入りしたのなら、我々がカメ
ラの映像の中から見付けている」
「そうでしたか。早く教えてくれればよかったのに」
 両肩をすくめると、先輩は気を取り直した風に笑みを浮かべた。
「あれ? でもさっき、ウエダが木部殺害犯の可能性どうこうって云ってませんでした
か、刑事さん?」
「実行犯ではなくとも、関与しているケースは考えられる。木部の行動をある程度コン
トロールできるとしたら、ウエダだろうからね」
「なるほど。じゃあ、ついでに伺いますが、木部以外に学校関係者じゃない者が入り込
んでいたという可能性は? 情報の小出しは勘弁してください」
「飽くまでも今のところだが、見付かっていない。知っての通り、当日は基本的に休み
だから人が少ない方だが、大勢の中から特定の一人を探し出すのならまだしも、不審人
物がいないか生徒や教職員らの顔写真と照らし合わせながらだと、どうしても時間が掛
かるんだ。マスクも厄介だしな」
「それでも、木部の他に校内に潜入するとしたら、犯行時刻の直前か、せいぜい一時間
前ではないでしょうか。生徒らに見られて、不審がられたらアウトだ」
「無論、犯行時刻と思しき午後三時から四時を中心に、範囲を広げながらチェックして
いるよ。そうした上での話だ」
「つまり、変装して入り込んだのは、木部一人しかいなかったと考えても?」
「私的判断では、かまわないと思う」
「では、その前提で進めるとしましょう。木部を手引きした学校関係者がもしいたな
ら、また話がややこしくなるが、変装させて学校に呼んで殺害するメリットがない。少
なくとも、僕には思い付かない。音無君に見せ掛けるのも、ほんの短い間しか効き目が
ない。百田君に濡れ衣を着せるのも同様。だからここは、当日、木部は単独行動してい
たと仮定します。大前提と云ってもいい。さて、変装は何のためにやるか。百田君、ど
う?」
「え? えっと、他人になりすますため」
「そうじゃなくて、なりすますのは何のためかってことさ」
 呆れたように鼻で笑われてしまった。さすがにしゅんとなったが、僕は頑張って答を
探した。
「普通なら、悪事をなすためでしょう。自分のやりたくないような」
「同意する。木部も恐らく、何らかの悪事を働こうとしていた。それが、君を呼び出し
ての襲撃だ」
「そこまでは納得できます。でも、そのあとが……」
 僕は口ごもった。まさか、僕が正当防衛で死なせたって云い出すんじゃないですよ
ね? 凶器の件があるし、大丈夫だと信じていますが。
 からつばを飲み込んだ僕の横で、先輩はしかし、続きの推理を語らなかった。
「八十島刑事。木部が望んでいた職業が、本当にアクション俳優なのか、調べられませ
んかね?」
「ああ? それが事件に関係あるって?」
「分かりませんが、多分、あります。状況証拠ないしは傍証になる程度ですが」
「まあ、被害者と犯人をつなぐ線は当然、調べているが、被害者の過去、それもかなり
幼少期となるとねえ」
「幼少期じゃなくてもいいんです。元々、憧れの職業として俳優とは全く異なるものを
言葉にしていた可能性があるんじゃないかと」
「十文字君。君は一体、何の職業を思い描いているんだ?」
 刑事からの率直な問いに、先輩は名探偵らしくもったいを付けた。
「正規の仕事とは云えません。裏稼業の一つで、僕らも何度か事件を通じて見知ってい
ると云えるでしょう」
「殺し屋か」
 この単語が日常会話で飛び出したら、荒唐無稽、絵空事で片付けるに違いない。しか
し、僕らにとって「殺し屋」や「遊戯的殺人鬼」は、日常語になっていた。
「ええ。木部はその行動原理から推して、職業的な殺し屋ではなく、遊戯的な殺人鬼の
方だと思いますが」
「行動原理?」
「真っ当な動機なしに、まるで関係のない者を殺そうとしたんですよ、木部は。百田君
をね」
「え?」
 そうなのか? こうして助かったから、感覚が鈍くなっているのかもしれないが、ま
さか殺されかけていたとは。
「先輩の推理が当たっているとして、じゃあ、どうして僕は殺されずに済んだんでしょ
う? 意識を失っていたんだから、自由にやれただろうに」
「助けられたんだろうねえ」
 十文字先輩は云ってから、にやっと笑った。
「誰にですか」
「木部を殺した犯人に、さ。助けるために、木部を殺したと云えるかもしれない」
 いつの間にか、僕は椅子からずり落ちそうになっていた。力が抜けて、改めて入れよ
うにもうまく行かない。そんな感覚がずっと続いた。
「誰が百田君を助けたかは、目処が立っているのかい?」
「いえ、そこまでは」
 刑事の質問に、探偵はあっさり首を横に振った。八十島刑事は手帳に何やらメモをし
てから、場を促す。
「では、ひとまず整理しよう。木部逸美が何をしようとしていたか、だ。動機は斟酌し
ない」
「待ってください。強いて云えば、動機は、音無君を窮地に陥れ、恐らくは僕に謎を解
かせるためだったかもしれません」
「つまり、以前、君に挑んできた連中と同類ってことかい」
「高い確率で、当たっているんじゃないかな。七日市学園で殺人事件を起こすことは、
すなわち、十文字龍太郎の介入を覚悟しているも同然。しかも、僕の親しい知り合いで
ある音無君を容疑者に仕立てようとしたのだから」
「音無さんを窮地に陥れるとか、容疑者に仕立てるとか、その辺りの説明をしてくれな
いか」
「簡単ですよ。音無君に変装した木部は、百田君を殺害した後、第三者にある程度目撃
されつつ、立ち去るつもりだったんでしょう」
「そうか。殺害現場から立ち去ったのが音無さんの姿形をしていれば、音無さんに疑い
が向くのが当然の流れだ」
「実際は、急用で音無さんが来られなくなり、おかしな状況になってしまいましたが。
いや、そもそも、殺人を失敗した挙げ句、自分自身が命を落としたことが大誤算だ」
 八十島刑事はまたメモを書き付け、顎をさすってしばらく考える姿勢になった。その
間に僕は先輩に質問をぶつけた。
「音無さんが学校に来ることを見越して、木部は計画を実行したんですよね? おかし
くないですか。罪を被せる以前に、鉢合わせの危険性があります」
「いや、殺人実行まで身を潜めていれば、鉢合わせする危険はさほどあるまい。侵入か
ら殺人実行までの時間は、なるべく短くするに越したことはないが」
「それでも、音無さんがクラスにずっといたらアリバイ成立するから、濡れ衣を着せる
のだって難しくなるような」
「そこは仲間がいて、恐らくウエダが手を打ったんだと思う。予め打ち合わせしておい
た時刻になったら、ウエダは音無君の携帯番号に電話して、呼び出す算段になっていた
んじゃないか。連中がどこまで音無家について調査したかは知らないが、それこそ、刀
が発見されたという理由付けで呼び出すことを思い付いたかもしれない。あ――」
「どうしたんだい?」
 八十島刑事が云った。考えている間もちゃんと話を聞いていたらしい。
「もしかすると、本当にそうやって呼び出したんじゃないかと思ったんですよ。だが、
音無君の方はちょうど刀を確認しに行くところだったから、再確認の電話と受け取っ
て、何となくおかしいと感じつつもスルーしたんじゃないかな。ウエダはウエダで、呼
び出しに成功したと信じ、木部に最終的なゴーサインを送ったと」
「想像力たくましいな。実際、木部の所持していた携帯電話には、事件の直前と思われ
る時間帯に、四度鳴っただけで切れた着信記録が残っていた。非通知だったから気に留
めなかったが、ウエダの合図だった可能性はあるな」
「念のため、音無君にそういう電話がなかったか、聞いてみればいいのでは? もしイ
エスなら、彼女の携帯電話の着信を調べる」
「木部やウエダの犯行計画を炙り出すには、必要かもしれん。手掛かりとしては期待で
きないだろうがね。十中八九、いや、百パーセント非通知か公衆電話からだろう。木部
の携帯電話に残っていたのも、念の入ったことに公衆電話からの非通知だった」
 と、ここで時刻を確かめた刑事は、慌てたように席を立った。
「こりゃいかん、長居しすぎた。密室の検討がまだだが、しょうがない。あー、追加注
文するのなら、ひとまず自腹で頼むよ」
 八十島刑事は一方的に喋ると、伝票を持って急ぎ足でレジに向かう。チャーハンの大
部分が残された。

             *             *

 どんなによい計画でも、人任せにすると無惨な結果に終わることがある。
 冥は改めて肝に銘じた。
 十文字龍太郎を試すための犯罪なのだから、その絡繰りを見破られるのは一向にかま
わない。だが、計画した犯罪そのものが不発に終わるのは無惨としか云いようがなかっ
た。計画通りに行かない上に、貴重な同胞を失うわ、誰にやられたのか分からないわと
来た。これを無惨な失敗と云わずして、何を云うのか。
(洗い出して、けりを付けるべきか、それとも優れた探偵達をピックアップするのが先
か。悩ましい)
 問題はもう一つある。上田(ウエダ)をどう遇するか。この度の計画の実行を任せた
のだが、この有様では続けて重用するのは難しい。系統だった組織がある訳ではない
が、それでも示しが付かないであろう。一方で、上田当人からは挽回の機会をと必死の
アピールがあり、かつてないほどのやる気を見せている。
(木部を屠った輩を見付けるよう、命令を下してもいいのだけれども……あれの年齢や
風貌では、七日市学園に潜入調査するのは難しかろう。今一度、百田充を襲うことで、
おびき出せるか? 最悪でも、上田を当て馬に、木部をやった者の正体を突き止められ
ればいいのだが、確実性を欠く。
 春先でも、辻斬り殺人の件で、やられているからな。同一人物による仕業だとする
と、矢張り、無差別な遊戯的殺人を嫌う職業的殺人者が最有力。そんな奴をおびき出す
には、無差別殺人や遊戯的殺人を起こすのが手っ取り早い。上田には、七日市学園の人
的・地理的周辺で、殺人を起こさせるとするか。十文字龍太郎が食いついてきたら、そ
ちらの方は私自らテストをしてやるとしよう)

             *             *

「おまえ、最近何かやったか?」
 行き付けにしている数少ない食堂で、カウンター席に着くなり店の主人から問われ
た。
 上田は表情を変えないように努めつつ、サングラスのブリッジをくい、と押し上げ
た。
「誰か訪ねて来たとでも?」
「警察と警察じゃないのが来たよ。それより注文、早くする」
 唐揚げとビールを頼むつもりだったが、やめた。とりあえず、早く食べ終われそうな
丼物の中から、天津丼を選んだ。
「それだけ? お酒なし? 給料日前か」
「いいから、早くしてくれ。どんな奴が来たのか、話してくれたら、倍払うよ」
「ああ。警察は若いのと中年のコンビ。名乗られたけど、忘れたよ」
「いや、そっちはいい。刑事じゃない方が気になってるんだ」
「何だ。――ほいよ」
 天津飯の丼を受け取る。割り箸立てに手を伸ばし掛けたが、レンゲを頼んだ。
「警察じゃないのは、女が来たね。派手で華やかな感じで、三十前ぐらい? ファッシ
ョン雑誌から抜け出したようなきれいななりなのに、腕っ節は強そうだったね」
「美人の女か……」
 心当たりはなかった。
「どんなことを聞かれた?」
「警察も女も、似顔絵を見せてきて、『このウエダって男を知らないか』って。どちら
の絵も、そっくりだったよ」
 手に持った玉じゃくしで、上田を示してくる店長。上田は飯をかき込んでから、くぐ
もった声で聞いた。
「で、何て答えた?」
「知らないと云っておいたよ。だって、おまえ、『ウエダ』じゃないもんね」
「ああ」
 上田は水を飲んだ。通常は香取と名乗っている。趣味の殺しに関係している場合の
み、上田と称しているのだ。
「けど、あの調子じゃ特定されるのは時間の問題よ。ほんとにまずいのなら、覚悟しと
くか、逃げるかしたらいいよ」
「ご忠告、ありがとさん」
 財布を引っ張り出し、天津飯二杯分の金をカウンター上に置いて、座り直す上田。
(予想以上に早いな。どうやって絞り込んだのか。それとも、ローラー作戦か。でも、
警察はともかくとしても、女ってのは何者だ? 単独で動いているとは思えない。まさ
か、殺し屋グループの一人か)
 殺すのは好きでも、殺されるのは御免被る。
(冗談抜きで逃げたい気分だ。だがしかし、冥からの指示を受け、新たな計画に着手し
たばかり。今度しくじれば、冥の信頼は最早得られなくなるに違いないし、俺も途中で
投げ出すのはプライドが許さない。殺し屋連中が俺を探しているのなら、むしろ好都合
じゃないか。おびき出した上で、処分してやる)
 食事を短時間で終わらせると、上田はそそくさと店をあとにした。
 およそ一時間半後、わざと遠回りをしてから“根城”に戻った上田は、計画の段取り
を再確認した。
 今回、上田がやろうとしているのは、フラッシュモブを利した無差別殺人だった。
 想定しているのは、イベント企画会社が仕掛けるそれではなく、ネット上での呼び掛
けにより有志が自由勝手に集まって行うタイプ。突然始まった“お祭り騒ぎ”に足を止
めて見入る観客の中から犠牲者を選んでもよいし、フラッシュモブの内容によっては、
参加者を犠牲者にすることもできるだろう。
 問題は、上田にとって都合のよい、条件にぴたりと当てはまるフラッシュモブが近々
行われるかどうか、である。なるべくなら、自らが呼び掛けて発起人になる事態は避け
たい。
 幸運にもこの週末は、条件に合うフラッシュモブが二つ予定されていた。七日市学園
と同じ市内か、隣接する都市が地理的な最低条件だが、今週末の二つは、いずれも近
い。一つは、新しく開発の始まった駅前の噴水広場、一つは廃止された遊具施設の跡地
となかなか対照的だ。
 できれば、その場所に七日市学園の関係者を誰でもいいから来るように仕向け、犠牲
者とするのが一石二鳥の妙手。自分の仮の名前を使えば、エキストラとして選んだ人間
を、ある程度意のままに操ることはできる。が、警察が動き出した今、表に名前を出す
ような行動は取るのは賢い選択とは云えない気もする……。

             *             *

「非通知と云ったって、実際には記録されている訳だから、特別な事情があれば、情報
の開示は可能なんだ。公衆電話も基本的には同じ」
 八十島刑事の説明を受けて、僕らは捜査の過程をよく理解できた。
「それでウエダがどこの公衆電話から発信したのか、特定できたんですか」
「そう。あとは、その周辺で聞き込みを掛けて、目撃証言を集めたり、知っている者が
いないかを当たったりした結果、香取丈治と名乗っている男が問題のウエダらしいと分
かったんだよ」
「木部は殺人に成功し、現場から無事逃走するつもりだったのだから、着信履歴にさほ
ど頓着していなかった。通常の連絡を非通知にしておけば充分だと考えていたんでしょ
うね。それが仇となった訳か」
 十文字先輩が補足説明するかのように云った。上田発見に関して、探偵能力を発揮す
る機会がほとんどなく、せめてここで意地を見せておきたかったのかもしれない。
「それで、上田を拘束したんですよね? 事情聴取では何て云ってます?」
「だんまりを決め込んでいる。名前や年齢、職業すら口を割らない。実は、しばらく泳
がせていたんだがね。次の殺人を計画している節があり、上田の他に実行犯がいて連絡
を取り合うかもしれなかったから」
「次の殺人?」
「雑踏の中で殺しをやらかそうと考えていたことは、木部とのメールのやり取りで分か
ったんだが、具体的な情報が掴めない。拘束に踏み切って、奴さんのパソコンや携帯端
末やらを浚った結果、フラッシュモブの人混みを利用しようとしていたと推察された」
「わざわざフラッシュモブじゃなくても、混雑しているところならどこでもできるだろ
うに。通勤ラッシュの駅とか夏休みのプールとか」
「その場にいても不自然じゃない状況が欲しかったんじゃないかな。通勤ラッシュなん
かだと、日常的にその路線を利用していないと不自然だろ」
「上田が映画業界、ドラマ業界に詳しいとしたら、フラッシュモブにも何か理由があり
そうですが。エキストラとして選んだ人物をフラッシュモブの現場に送り込む、といっ
た」
「なるほど。その手口なら、被害者をある程度は選べそうだ。無差別殺人に見せ掛け
て、狙った人物を始末する。口を割らせるのに役立つかもしれないな。お見通しだぞっ
ていう圧力を掛ける」
 殺人を未遂に食い止めた喜びからか、いつにも増して軽い口ぶりの八十島刑事だ。事
件の話をしないのであれば、豪華なレストランに連れて行ってくれたかもしれないと期
待させるほど。現実は、いつものラーメン屋もしくはファミレスのどちらかだが。
「僕らとしては、木部逸美が死んでいた事件の方が気になってるんですが」
 十文字先輩が云ってくれた。なかなかその話題に移らないので、やきもきしていたと
ころだ。
「さっきも云ったように、上田の奴がだんまりなんで、新たに判明したことは少ない。
ただ、上田は木部に、ターゲットから逆襲されたときや邪魔が入ったときの心構えとし
て、防御か、一撃を加えた後の逃亡を説いていたと分かった」
「……それって、有益な情報ですか? 当たり前の対処法のような」
 僕が疑問を呈するのを、十文字先輩は止めた。
「いや、案外、真相を突いているかもしれないよ」
「どういう訳です?」
「要するに、殺人鬼として追い詰められたときの対処法だろう。殺しが好きでも、自害
するってのは矢張りないようだ」
「そりゃそうでしょう」
「でも、考えてみるんだ、百田君。防御をした上で、当人が死んでしまったらどうなる
か」
「え? 防御したあと、死ぬ?」
 何で死ぬんですかと聞きそうになったが、さすがに分かった。致命傷を負った者が、
死ぬ前に何らかの行動を取るケースを云ってるんだ。
「木部逸美は、家庭科室に呼び付けた君を襲って、自由を奪ってから殺すつもりだっ
た。が、そこを目撃した何者かに邪魔された。その何者か――面倒だからXと呼ぶよ、
Xは恐ろしいほど素早く行動を起こしたんだろう。凶器を取り出し、家庭科室のドアの
ところで、中にいる木部を刺した。受けた木部は、これはまずいと理解したかもしれな
い。していなくても、とにかく逃げよう、防御しようとする。だが、逃亡は無理だ。廊
下はXが立ち塞がっている。できることは、ドアを閉め、鍵を掛け、傷の具合を見て、
可能であれば二階の窓から外へ脱出するぐらいだろう」
「あ。鍵」
「そう。密室は木部自身が作ったんじゃないだろうか。逆に、施錠されたら、Xとして
もどうしようもない。いや、鍵を取りに行けば追撃可能だが、現実的でない。それに多
分、手応えがあったんだと思う。どうせ動けないはずだという確信が」
 先輩は刑事に目をやった。
「もう解決間近だから、教えてくださいよ。凶器は何だったのか」
「……T字型をした金属の棒だよ」
 八十島刑事は一段低くした声で教えてくれた。
「コルク栓抜きみたいなやつさ。横棒を手のひらに握り込んで、指の隙間から出した縦
棒の先端で相手の急所を刺す」
「凶器と云うより、特殊な武器だな。使い慣れた者なら、一突きで仕留められるんじゃ
ないですか」
「その辺はよく分からないが、犯人は――木部を殺した犯人は、一突きではなく二突き
していた。極短い間隔で、連続的に刺したという見立てだ。二突き目から逃れようと、
木部は手で払ったらしく、そのせいで傷口が大きく開いた。そこから大量出血につなが
り、動けなくなったと推定されている。たとえ窓から逃げようとしても、無理だったろ
うね。十文字君の推理が当たっているとして、鍵を掛けるだけで精一杯だっだと思う」
「Xが凶器を捨てたのは、捜査が入ることを見越し、手元に置いておきたくなかった
と。Xの行動からすると、いつでも取り出せるようにしておいた、手に馴染んだ武器だ
っただろうに」
「足が着かない自信があったんだろう。指紋も汗も、何も検出されていない。お手製み
たいだから、流通ルートを辿ることもできない」
 まさにプロの殺し屋の仕業。そう感じたが、一方で、信じられない気持ちもまだ残っ
ている。この七日市学園に殺し屋がいるって? 殺人鬼がいたというだけでも驚きなの
に。
「七日市学園は一芸に秀でた生徒を多く集めていると、前に聞いたけれど」
 そこまで喋った八十島刑事は、最後のひとすくいを口に入れてから、話を続けた。今
日はカツカレーをきれいに平らげた。
「まさか、殺しの得意な生徒も入れてるんじゃなかろうね」
 冗談と分かっていても、笑えない。
「八十島さんは七尾弥生君とも親しいんでしたよね?」
 先輩が聞いた。頷いて水を飲む刑事。
「彼女の前で、同じ話をしたことあります?」
「まさか。ないよ。あの子が学園長の身内というのとは関係なく、今の冗談は思い付い
たばかりだから」
「そうですか」
「何だい、高校生探偵。本気で可能性を考えているのか、殺人の得意な生徒を集めてる
んじゃないかって」
「ふふふ。まあ、思考実験と云いますか、ありとあらゆる可能性を考えておきたいんで
すよ」
 十文字先輩は声では笑いながらも、表情は真顔のままだった。

             *             *

 冥は実験結果に満足していた。案出した殺人トリックの一つを使うと決め、ミニチュ
アを調達して、思った通りに動くかどうかを確かめたのだ。
(ミニチュアで成功したから、実物でも成功するとは限らないが……これで目処は立っ
た。あとは、実行役だけれども)
 冥は大きく息を吐いた。満足していた気分がしぼむ。
(上田に任せてやろうと思っていたのに、あっさり捕まって……文字通り、使えない奴
になってしまった。さあ、どうしたものか。ここ最近、人材不足を感じる。殺し屋側の
人間に、こちらの面々が次から次へとやられているから。全く、忌々しい)
 冥の心中の呟きでは、一方的に押されているようなニュアンスだが、実際には冥ら遊
戯的殺人者の側も、殺し屋サイドへ被害を与えている。ただ、遊戯的殺人者の犠牲は、
いずれもそこそこ大物であるのに対し、殺し屋側で命を落としたのは総じて小粒。考え
てみればそうなる理由があって、遊戯的殺人が世間で騒がれ、目立ったからこそ、殺し
屋サイドから目を付けられたのだ。反対に、遊戯的殺人者が狙える殺し屋は、過去につ
ながりがあった顔見知りの連中がほとんどで、大物に行き当たらない。
(七日市学園関係者に殺し屋がいるのは、ほぼ確実。それも、学校内での事件にちょっ
かいを出してくる傾向があるようだ。それはイコール、十文字龍太郎が絡んだ事件でも
あるか。不確定要素は可能な限り排除したいから、十文字へのテストとする殺人は、学
校の外で起こすのが吉かな。――それにしても、木部をやった奴は、どうして木部を怪
しんだんだろう? 完璧に化けたと聞いたのに。警察発表を信じるなら、犯人は音無亜
有香に変装した木部を目撃してすぐに見破り、一瞬の内に仕留めたみたいじゃないか)
 しきりに首を傾げる冥だった。

             *             *

 土曜の午後、八神蘭は電車に揺られながら、そのニュースを知った。
 木部逸美の密室死亡事件が一応の解釈がなされ、犯人の正体に関しては依然として不
明であると分かり、まずは安心できた。
(自分が捕まらない自信はある。けれども、百田充に迷惑を掛ける意図は全然なかった
から気になってはいた)
 電車のシートに放り出されたスポーツ新聞から視線を外し、八神は目を軽く閉じた。
(積極的に助けるつもりもなかったが、どうやら大した怪我もなく、生きながらえた様
子)
 八神は百田充を助けに入ったのではなかった。
 あの日、学校で木部逸美を見掛けた刹那、何だこいつはと感じた。音無亜有香そっく
りの格好をして、何を企んでいる?と。
(あのとき、瞬時に変装を見抜けたのは、矢張り、音無亜有香を好敵手と認めているか
らかな。技術的に私の好敵手たり得る音無亜有香を、つまらぬことで貶めるのは許せな
い。そう思ったからこそ、身体が自然に動いた)
 木部のあとを尾けた八神は、百田が殴り倒されるのを見た時点で、おおよその察しが
付いた。どんな事情があるか知らないが、音無に殺人の濡れ衣を着せるのはやめてもら
おうか。思ったのとほぼ同時に、手が凶器を握り、日常動作の中に織り込んだ仕種で、
木部を刺していた。
(あいつが遊戯的殺人者の一人だったとは、全く想像できなかった。結果オーライとは
云え、あまり目立つのは殺し屋としてよくない。敵側に何か知られたら厄介だ。まあ、
十文字龍太郎の周囲で網を張っていれば、何人かが出て来るはずとの読みは、見事に当
たっているし、継続することになるだろう)
 頭の中で考えていると、急制動により身体が大きく傾いた。乗客はさほどなく、席も
だいぶ空いているが、電車が停止するとさすがにざわざわする。
 程なくして、人身事故発生のアナウンスがあった。長くなるかもしれない。
 八神蘭は、再び目をつむった。決して、緊張感は緩めない。神経を張り詰めておく。
(――私が乗っているから、事故が起きて死人が出る、ということはあるまいが)
 ふっと、妙な想像が浮かんだ。
(もしも音無亜有香が、人を殺す経験をすれば、今よりもさらに優れた剣士になるだろ
うに。そう考えると、あの木部逸美の邪魔をしない方がよかったか。殺人容疑を掛けら
れた音無が、どう変化するのか。ちょっと見てみたかった)

――終わり




#502/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/07/29  22:57  (  1)
魔法医ウィングル:刻印と移り香(前)   永山
★内容                                         21/03/26 12:13 修正 第2版
※都合により非公開風状態にします。




#503/598 ●長編    *** コメント #502 ***
★タイトル (AZA     )  17/07/30  00:08  (  1)
魔法医ウィングル:刻印と移り香(後)   永山
★内容                                         21/03/26 12:13 修正 第3版
※都合により非公開風状態にします。




#504/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/08/30  23:02  (413)
そばにいるだけで 66−1   寺嶋公香
★内容
「身を守る一番の方法は、危険に近付かないこと。だけどまあ、これは土台無理という
もので、危険が向こうから近付いてくる場合を想定しなければいけない」
 柔斗の師範代だという浅田沙織(あさださおり)は、年齢で言えば純子の十ほど上だ
った。しかし、身長はほぼ同じ。さすがに肉付きは、日頃から鍛えている浅田は“分厚
い”が、太っている感じはしない。詰まっている感じだ。それでいて柔軟性があること
は、事前の準備運動で見せつけられた。
「二番目は逃げる。逃げられるのならとっとと逃げる。周りに助けを求める。これらが
できないとき、初めて相手の身体に触れて、逃げるための道を開くわけだ」
 喋り口調は男っぽいが、声の質自体は女性らしい、高いものだった。ひっつめにした
髪をまとめるのも、ピンク色のゴム。
「さて、涼原さん。聞いた限りでは、あなたにとって最も想定される危機的状況は、フ
ァンを装って近付いてきた相手が、いきなり襲ってきた場合だと思うのだけれど、ど
う?」
「どう、と言われましても」
 考えていなかった純子は、正直に戸惑いを露わにした。
「恐らく、そうでしょう」
 代わって答えたのは相羽。女性二人が私服なのに対し、彼だけ白の道着だ。靴はス
ニーカーを、相羽を含めた三人ともが履いている。道場の一角に敷かれたマットの上
で、護身術教室は進められていた。
「あるとしたら、刃物か長い棒のような物を振るってくるか、何かを投げてくるか」
 そこまで答えて、相羽は純子に目を合わせた。
「怖い?」
「怖い。けど、その対策に、護身術を習うんだから、状況を想定するのは当然て分かっ
てる」
 純子は胸の高さで、両拳をぎゅっと握った。
 浅田は頭を掻きながら、「投げてくるのは、厄介だな」と呟く。
「石のような固い物かもしれないし、液体の劇物かもしれない。何か投げられたと思っ
たら、両腕で、頭と顔、特に目を守るぐらいか。ただし、亀の姿勢になるのはだめだ」
「亀?」
 内心、怖さがいや増すのを覚えながら聞いていた純子は、いきなり飛び出した生物名
に首を傾げた。そこへ相羽がフォローを入れる。
「浅田先生、噛み砕いてお願いします」
「先生と言われると歳を取ったと実感するから、『さん』付けでいい。ついでに、君が
説明してあげて」
「――亀の姿勢というのは、地面にひれ伏して、頭を両手で抱える格好で……やった方
が早いか」
 相羽はその場にしゃがみ、爪先を立てた状態で正座をすると、上半身を前向きに倒し
た。そのまま、両手で後頭部を覆う。
「そう、これが亀の姿勢。こういう風にしゃがみ込むのはまずい。相手に距離を詰めら
れ、さらなる攻撃を受ける」
 相羽のすぐ近くに立った浅田は、蹴りを入れるポーズだけをした。
「液体なら、真上から掛けられる恐れもある」
 やはり仕種だけやってから、浅田は相羽に立つように言った。
「逃げられる内は、とにかく逃げて離れる。相手と距離を取る。近くに何か物があれ
ば、利用してもいい。傘とか椅子とか。
 ここまでは術と言うより、心得だね。距離を詰められてからが術。闘いのプロでもな
い限り、攻撃の動作はだいたい、二段階から三段階からなる。そのことを分かっていれ
ば、第一撃をかわすことはさほど難しくない」
「そ、そうですか?」
 信じられないとばかりに口走った純子。
 と、浅田はいきなり右手を大きく振り上げた。
 頭の上の手刀が振り下ろされる前に、純子は後ろに飛び退く。
「ほら。こういうこと」
「あ――理解しました。でも、毎回、うまく行くとは限らない気がします」
「そりゃあ、当てようと思えば当てられる。たとえば」
 浅田の話の途中で、相羽が突然、「あ、浅田先生!」と叫ぶ。純子はびっくりして両
手を握り合わせ、硬直してしまった。次にきょとんとした。浅田がにやっと笑って、相
羽に対して片手を上下に振っているのだ。
「分かってる分かってる」
「寸止めでもだめですよ!」
「何で」
「驚いてよろめいて、足首をくじくかもしれないじゃないですか」
「なるほど。モデルやら何やらをやっている人に、そいつはよくない、な」
 浅田は「な」を言い切ると同時に、ハイキックを放った――相羽に。
 純子が息を飲んで状況を理解したときには、浅田の右足の甲が、相羽の頭のすぐ横で
停止していた。相羽は左腕を上げてガードをしていたが、その腕とほぼ重なる位置にあ
る。
「お、反応、早くなったねえ」
 足を戻す浅田。にこにこしている。
「浅田先生!」
「だから、『さん』付けしなさいって。今のはいつまでも先生先生と言い続けた罰」
「じゃあ、浅田さん。浅田さんが靴を履いてなかったら、多分、ここまでガードできて
ません」
「かもね」
 そう言ってから、やっと純子の方に意識を向けてきた浅田。
「今やったみたいに、技を修めた者になると、一見、ノーモーションで攻撃を繰り出せ
る。完全なノーモーションは達人レベルじゃないと無理だから、一見と言ってるけれ
ど、とにかく経験者が素人に当てることは、割と容易い。でも、あなたが想定している
のはそういう空手の有段者みたいなのじゃないでしょう?」
「……」
「うん? 聞こえてる?」
「あ、はい」
「びっくりさせちゃったかしら。彼氏が蹴られそうになったのを見て」
「そ、それもありますけど。凄く、きれいだなあって」
「きれい?」
「ぴたっと止まった形がきれい。一連の動きも素早くて、目にも止まらない……美しい
流れ? そういう風に感じたから。私もやってみたいくらいです」
 純子の返事に、浅田は最初、目を丸くしていたが、やがて笑い声を立てた。
「はははっ、これはいいね。相羽君、彼女は意外と才能があるかもしれないよ」
「……もしくは、美的感覚が鋭いからかもしれませんね」
 相羽は淡々とした調子で言ってから、道場の先輩女性に微苦笑を返した。
 浅田は少し考え、ピストルの形にした右手で、純子の方を指差した。
「聞いた話だと、運動神経はいいんだよね。バク転ぐらいは楽にできるとか」
「楽じゃありませんよ〜。それにしばらくやっていませんし」
 と言うや否や、二人から五歩ほど離れた純子は、バク転をやってみた。
「あ、できた」
 よかった、と笑う純子に、浅田が感心した風に息をつく。
「その分ならバク宙だってやれそうだね。蹴りにしても、まあ威力は別として、型だけ
ならじきにできるようになるんじゃないかしら」
「あの、今日一日だけの予定なんですが」
「そうか、そうだったわね。まあ、本当にやりたいのなら、型は追々ね。では、本題に
戻るとしましょう。どこまで言ったっけ?」
 問われた相羽が「ほとんど進んでません。亀まで」と答えると、「まさしく亀の歩み
だ」と自嘲する浅田。
 純子もつられて笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「まずは逆関節の取り方から。最初、私が相羽君を相手にやるから、よく見ておいて。
次に格好だけの真似でいいから、同じく相羽君に技を掛けてみる。いい?」
「はい。お願いします」
 浅田は相羽に対して一つ頷き、相羽も同じ仕種で応じた。それから相羽は右手を振り
かぶり、いかにも暴漢が襲ってきたような動きをする。いつの間に用意したのか、ボー
ルペンを握っていた。その攻撃を浅田は右肩を引いてかわすと、相羽の腕を脇で抱える
風にして捕らえた。総じて、ゆっくりめに行われているのは、素人目にも分かる。
「ここで肘を逆方向に極めながら、手首を内側に折り込み、得物――武器を落とさせ
る」
 相羽はボールペンを落とした。本当に極められて痛かったのかどうかは、純子には分
からなかった。浅田はすぐには解かず、続けて相羽の右手首を巻き込むように捻る。も
ちろん、形だけだ。
「肘を極めるのが無理そうなら、相手の手首を外向きに捻る。相手との距離は縮まる
が、武器を手放させるのが第一だ。そしてさらに続けて」
「ま、待った、浅田さん。ここで区切りましょう。一度に覚えるのは大変だろうし、こ
っちも怖くてひやひやものですよ」
「それもそうか。了解した」
 手をゆっくりと放す浅田。相羽は自由になった右手を二、三度振ると、先程のボール
ペンを拾い上げる。
「さてと。準備はどう?」
 純子へと向き直った相羽は、口ぶりこそ軽やかだったが、真剣な眼差しで尋ねた。
「手順は頭に入ったわ。すぐにできるとは思えないけど」
「私がフォローを入れていくから、とにかくやってみよう」
 浅田に促された純子は深呼吸をした。また「お願いします」と言って、身構える。す
ぐさま避けられる態勢を取ったのだが、それはだめだと首を横に振られた。
「あくまでも日常の中、不意に襲われたことにしないと」
 純子は当初の想定を思い出し、サイン会か握手会でもやる体で、相羽に身体の正面を
向けた。浅田の合図で、相羽が腕を振りかぶった。
 純子はさっき見たままに、右肩を引こうとした。その動きを続けながら、思わず質問
を発した。
「どうして右肩なんですか?」
「え?」
 声を上げたのは浅田で、相羽は動きを途中で止めていた。
「相手が右手に武器を持って襲ってきたら、左肩を引いた方が、避けやすい気がしたん
ですが……おかしいですか?」
「なるほど。これは本当にセンスがあるかもしれないぞ、相羽君」
「ええ」
「じゃ、先にその理屈を教えましょう。もういっぺん、相羽君が振りかぶるから、左肩
を引いて避けてみて」
 真正面、向かい合って立つ純子と相羽。相羽は同じ動作で、右手を振り上げた。
 純子は下ろされる右腕の動きに合わせ、左肩を引いた。自然と、左足も斜め後ろに退
がる。
 と、よけたと思った相羽の右腕が、まだ追い掛けてきた。ボールペンの先が、純子の
みぞおちのやや上に、ちょんと当たる。
「あ、ごめん、当てるつもり、なかったのに」
「ううん。それより、理由の方を……」
「――浅田さん、僕から言っていいですよね? まず、今みたいに、よけてもその攻撃
をかわしきれない可能性が高いこと。人間は通常、脇を開く動作が苦手なんだ。バラン
スが悪くなるというか、力を入れにくくなるというか。相手の右手による攻撃を、右肩
を引く動作でかわした場合、相手から見ればターゲットは右、つまり脇を開く方向に逃
げたことになるよね。そこを追撃しようとしても、力を入れにくいからうまく行かな
い。逆に、左肩を引いてかわすと、相手にとって脇を締める方向に逃げることになる。
だから追撃しやすい」
 純子は相羽の説明を聞きながら、自分でもやってみた。確かに、脇を開く動作の方
が、狙いを定めにくく、力も比較的入りにくい気がする。
「武器の持ち方が順手と逆手とで若干違うけれども、脇を開く方がやりにくいのは一
緒。そしてもう一つの理由は、右肩を引いてよけないと、相手の肘関節を極めるのが難
しい」
 相羽がそこまで言ったところで、浅田が手を一つ打った。
「そういうことで、さっきの動作の続き。先に右肩から引いてみて」
 純子は実際に試してみて、よく分かった。右だと逃げる動作のまま、スムーズに肘を
極められるのに対し、左ではとてもじゃないけれど無理。逆に、襲撃者から抱きつかれ
そうで怖い。
 理解したところで、何度か反復練習をし、次に反対の手で襲撃された場合も同じよう
にやる。
「無論、咄嗟の判断が間に合わなくて、逆の反応をしてしまう恐れだってある。そんな
ときは臨機応変に、相手の突き出してきた方の腕――手首と肘の辺りをしっかり握り、
相手の勢いも利用して投げる、というのもある」
 浅田の追加説明を受けて、またやってみたが、今度も怖かった。投げること自体は、
相羽の身体の重さをほとんど感じずにできたものの、手に持っているのが刃物だったら
と思うと、実践は心理的に難しそう。
「次にやるのは、相手を怯ませ、近付けないやり方になる。まあ、相手が西洋人なら、
空手のポーズをしただけで、逃げ出してくれる場合もなくはないそうだけれど、一般性
に欠けるのでやめときましょう。ということで定番中の定番、金的を」
 浅田が言った最後のフレーズを、純子はすぐには理解できなかった。

 あれは小学六年生の二月だったから四年ほど前になる。スケートに行ったときのこと
を否応なしに思い出しつつ、純子は色々な護身術を通り一遍ではあるが、教わった。身
に付いたと言えるレベルではまだなかったものの、落ち着いた状態なら問題なく技を掛
けることができる。
「じゃあ最後に、人を相手に練習するわけに行かないから取っておいたのを、言葉だけ
で説明しようかな」
 浅田が言った。純子は心中、密かに「金的だって試せません」とつっこんでおいた。
「涼原さん。目突きと言ったら、どんな風に攻撃する?」
「目付き?」
 浅田の問い掛けに対し、純子は根本的なところで単語の意味を取り違えた。
「浅田さん、無理ですよ。武術や格闘技をやっている人か、日常的に喧嘩のことを考え
ているような人じゃない限り、“めつき”と聞いて目を突くことを連想する女性は、な
かなかいないんじゃあ……」
 相羽がこう言ったので、純子も飲み込めた。浅田はと言えば、片手を頭にやって、
「だろうねえ」と自嘲気味の笑みを浮かべていた。
「しかし、秘訣の教え甲斐がないなあ。――涼原さん。漫画なんかで見たことないかし
ら。目を突くと言ったら、立てた人差し指と中指をこうして開いて――」
 右手で作ったVサインを寝かして水平にする浅田。そのまま自身の両目に、それぞれ
の指の先端が当たるよう、ゆっくりと向ける。
「目を潰す勢いで、突く」
「アクション映画で、何となく見た覚えがあるような気がします」
「それはよかった。で……実戦だと、二本の指を二個の目玉に当てるなんて、確率の悪
いことはしない。わざわざ二本指を立てるよりも、五本指で狙う方が当たる確率は高く
なるっていう理屈」
 喋りに合わせ、右手を開いて五本指を見せる浅田。爪のある獣のような手つきだ。
「不審者というか襲撃者に抱きつかれときなんかに有効だろうね。くれぐれも、普段の
喧嘩で使わないように」
「使いませんてば。喧嘩自体、しないし」
「彼氏とはしない?」
 もう指導は終わりという意識が出たのか、浅田は頬を緩めている。
「しません」
 相羽と声が揃った。神棚脇の壁掛け時計を見ていた浅田は不意に、くっくっくと笑い
声を立てた。
「確かに、息ぴったりだ。喧嘩なんて、口論さえしそうにない」
「い、いえ、口喧嘩ぐらいはします、するかも」
 恥ずかしさから、そんなことを口走ってしまった。相羽がどんな表情をしたのかまで
は、見る余裕がなかった。
「あははは。では、これまでのおさらいをして、締めとしましょう」
 浅田はそう言ったが、純子は気持ちを引き締め直すのに結構時間を要した。

 用意してきた服に着替えた純子は、女子更衣室を出ると、先に支度を済ませて待って
いた相羽と合流した。
「このあと、どうするの? もし時間があるのなら、どこか近場でもいいから」
 そう尋ねた純子の方は、時間があった。ミニライブで、急な要請にも快く協力してく
れた二人――星崎と加倉井へのお礼は午前中に終えていた。
「えっと。少しだけなら」
「あ、何か予定があるのなら、無理しなくていい」
「無理ってわけじゃない。ただ、そのぅ」
 言いにくそうにする相羽。純子は待った。道場を完全に出たところで、やっと答えて
くれた。
「今日は五月の第二日曜だから」
「……ああ」
 遅まきながら察した純子は、申し訳ない気持ちで一杯になった。
「ごめん、相羽君。早く帰らなくちゃいけないわよね。自転車? 歩きだったら、呼べ
ば杉本さんが車で来てくれるかも。ここまで送ってもらったとき、このあとは暇だって
言ってたから」
「純子ちゃん。そんな心配顔、すんなって」
 思いのほか、笑顔で相羽が言った。一瞬、ぽかんとした純子の頬を、左右から両手で
軽く引っ張る。
「笑って笑って。悲しむ日じゃないでしょ」
「――それはそうだけど」
 手を放してもらって、今度は自分の手で頬を撫でる純子。
「いいの? お母さんと一緒にいなくて。お休みなんでしょう?」
「うん。でも、ちゃんと言ってきたから。そうだな、一時間半は時間ある」
「いいのかなあ」
「不安なら、母さんに電話する? 『母の日ですが、ちょっとだけ息子さんをお借りし
ます』って」
「い、いえ、そこまでは」
「それじゃ、決まり。短いけどデートしよう。と言っても、何の案も持ち合わせていな
いし、荷物もあるし。あ、そう言えば君の方こそ、母の日、大丈夫?」
「え? ああ、そっか。はい、忘れてたくらいだから、何にも考えていなかった」
「もしプレゼントを買うっていうのなら、付き合うよ」
「――うん、そうする。時間もちょうどよさそう」
 この時点で二人とも徒歩だと分かっていたので、並んで歩き出す。とりあえず、駅の
方向へ。
「何かある?」
「ちょっと前に欲しがっていたのは、ミントンだけれど……何かのアンケート結果で、
聞いたことあるのよね。母の日に、家事をしなくて済むとしたら一番助かるっていうの
が多数回答だったとか何とか。ミントンなんて贈ったら、家事を頑張ってくださいと言
ってるみたいで」
「家事……今からじゃ間に合わないね。できるのは、料理を手伝うぐらい?」
「そうよねえ。まさかケータリングや出前を取るなんて、できないし。あの、相羽君は
何するか、聞いてもいい?」
「特別なことは何も。準備は前からしたけどね」
「詳しくは教えてくれないのね」
「だって、教えたら純子ちゃん、また言い出しそうだから。『早く帰らなくちゃ』っ
て」
「う。そう聞いて、今また言いたくなったわ」
 駅に着くと、程なくして目当ての電車が入って来た。今日、時間があまりない二人に
とって、非常にラッキーだ。初めて利用する駅だったので、ターミナルまでの所要時間
の目安は分からなかったが、電車に揺られつつお喋りをしていると、あっという間だっ
た。ロッカーを探し、中に荷物を預けて身軽になってから、候補の店を目指す。
「そういえば、持ち合わせは? 少しだけど協力できるよ」
「ありがとう、でも平気。元々、高価な物にするつもりじゃないから」
 やや慌て気味に断ったのは、パン屋でのアルバイトのことが頭に浮かんだから。今こ
こで少しでも借りたら、誕生日プレゼントを渡すとき、様にならない気がした。
「目当ての店、どっち?」
「新しくできたお店で、私もまだ入ったことがなくて」
 言いながら、フロア入口の壁に掲げられた案内板を見る。じきに分かって指差した。
同じフロアの端っこ。少し距離があったので、早足になる。
「あれって……ファッションの店?」
 見えてきたショップの外観から、すぐに当たりを付ける相羽。一般高校生が入るに
は、少し勇気がいりそうな、黒くて渋い店構え。ショーウィンドウを視界に捉えたとこ
ろで、有名(かつ高級)ブランドを扱っているのが分かった。
「ミントンはなさそうだ……いや、あるかもしれないけど」
 後ろの相羽が呟くのを耳にして、純子は笑顔で振り返った。
「『家事で楽をさせられないのなら、せめて出掛けるときのお洒落を!』作戦よ」
「今思い付きました感が満載のネーミング」
「実際、今思い付いたんだもの。でも、悪くないと思わない?」
「悪くない。いいと思う。そうなると、父の日にはお父さんにお出かけファッションア
イテムを贈らないとね。夫婦仲よく」
「そこまではまだ決めかねますが」
 店先でごちょごちょやっていると、店員からじろっと見られたような気がした。無
論、そんなことはないのだろうけれど、他のお客さんを入りにくくさせたとしたら申し
訳ない。
「すみません。アドバイスをしてほしいんですが、かまいませんか」
 時間がないのに加え、店員に怪訝がられぬ内にと、純子は先に声を掛けた。了解の返
事をもらってから、要望を伝える。
「母の日に、外出時のアイテム、アクセサリーを贈りたいんです。予算は――、年齢は
――、あ、それから金属アレルギーはありません」
 セレクトに役立ちそうな情報をすらすらと並べる。心得たもので、店員もカウンター
を兼ねたショーケースの上に、専用の用紙を取り出し、前もって印刷された選択肢に
次々と丸を付けていった。このときになって初めて、店員の名前が伊土(いづち)さん
だと分かった。左胸にネームプレートがあったのだが、よく見えていなかったのだ。
「――そうですね」
 記入の終わった用紙を見返しながら、伊土は言った。
「具体的に何とお決めでないようでしたら、先に色味を見てみるのがよいかもしれませ
んね。これからの季節、夏に向けてというイメージを加味すると、こちらの」
 純子達から見て右側に数歩移動し、ショーケースの一角を手で示す。
「青系統の物をおすすめします。いかがでしょう」
 言葉の通り、青系統の色を持つアクセサリーが並ぶ。指輪とブローチばかりのよう
だ。指輪が4×4、ブローチが3×4のマトリクスをそれぞれなしている。他のタイプ
のアクセサリーは、また別のところにあるらしい。
 一口に青系統と言っても、様々なバリエーションがあると分かる。ざっと見て、藍色
から水色まで、比較のしやすいように並べてあった。もちろん、同じ色合いのデザイン
違いもある。
「瑪瑙にトルコ石。あこや真珠はちょっと」
 張り込んだ予算額を伝えたせいか、結構高額な物までおすすめされていた。実際、真
珠を施した品は、どれも予算を若干オーバーしている。
(まけてくれるのかな? これと決めたわけじゃないし、聞きにくい)
 なんてことを逡巡していると、一歩退いて立っていた相羽が、呟くような調子で質問
を始めた。
「トルコ石は衝撃や水分に弱くて、特に扱いが難しいイメージがあるんですが、そうい
った普段使いの面で言えば、どういった物がいいんでしょう?」
「そうですね。まず、お断りしておかねばならないのは、宝石はどれもお手入れに手間
を掛けてこそ、本来の美しさを保ちます。この石は大変だけどあの石は楽、というよう
な大きな差は実はございません。普通に手間が掛かるか、とても手間が掛かるかぐらい
の違いとご認識ください」
「はい、分かります」
 純子も相羽と一緒になって頷く。伊土店員は、聞き分けのいい生徒を前にした教師の
ように、にこりと微笑んだ。そして若干柔らかい物腰になって、真珠には真珠の、瑪瑙
には瑪瑙のお手入れの仕方があることを簡単に説明した。
「――青系統ですと、青サンゴもありますね。天然の物と着色した物があって、お値段
はかなり差がありますが、天然物でもご予算内に収まると思います。お手入れの面を考
えると、特別なコーティングをした物がし易いとされています。ただ、強く拭くと、そ
のコーティングが剥離してしまう恐れもあります」
 青サンゴの商品も見せてもらったが、純子の想像とは違って、あまり好みの色合いで
はなかった。
「それでは……ラピスラズリはいかがでしょう」
「あ、宇宙から見た地球みたいな加工をした物を見たことがあります。私、好きです」
「君が好きかどうかより、お母さんが好きかどうかが大事なんじゃ……」
 斜め後ろから、相羽のぼそりとした声が聞こえて、瞬時に赤面したのを自覚する。で
も、店員は優しい口ぶりで応じた。リラックスさせようという心遣いなのか、より一
層、砕けた口調で。
「お母様と好みは被ることが多いですか? たとえば、服を着回しできたり」
「服はさすがにないですけど、好みは近いと思います。あー、でもそれを言い出した
ら、母の一番の好みはオレンジ色や紫色かも。青色はその次ぐらい」
 急な新情報に、伊土店員は丁寧に対応してくれた。オレンジ色ですとこちら、紫色で
すとこちらになりますという風に、流れるように商品を見せてくれる。
「ただ、衣服や帽子といったベースとなる物がオレンジや紫でしたら、同じ色では使い
にくいかと」
 念のために申し添えておきますといった調子で、伊土。純子は「そっか、そうですよ
ね」と首肯する。
(モデルをやるようになってだいぶ経ったし、デザインとかコーディネイトとか、ファ
ッションには結構自信が付いたつもりでいたのに。いざ贈るとなったら、迷っちゃう)
 時間も気になり始めた。相羽を振り返る。
「どうしよう?」
「僕が選ぶのも変だから、口は出さないよ。まあ、難しく考えすぎなんじゃないかとは
思う」
「え、そうかなあ。だって、折角の機会なんだから、ぴったり合う物を贈りたいじゃな
い」
「気持ちは分かる。でも、純子ちゃんのお母さんて、センスはとてもいいと思うよ。君
のお母さんだけに」
「……〜っ」
 むずむずするようなことをさらっと付け足さないで!と叫びそうになった。お店に来
ているのだと意識が働き、寸前で堪える。
「要するに、何が言いたいわけよ」
「母親のセンスを信じてみれば。純子ちゃんはいいと思った物を贈る。君のお母さんは
どんな物であっても、うまく使いこなすよ、きっと」
「む」
 意見を受け止め、考えてみる。母の姿を思い描こうとすると、家庭で主婦をしている
ところが優先的に浮かぶけれども、たまにお出かけするときや参観日に来てくれると
き、どうだったろう。
(私ったら、モデルや芸能人と接する機会が増えて、何て言うか一般的じゃない、華や
かできらびやかなファッションに基準が傾いていたかも。お母さんなら、ここにあるど
んな物だって、自分に似合うように使うわ、うん)
 気持ちが固まってきた。
「相羽君、ありがとう。決めた」
「え。急すぎるんじゃあ……」
「いいの」
 純子は伊土の方へ向き直った。ショーケースに改めて近寄ると、波をモチーフにした
と思しきラピスラズリのブローチを指差す。
「これが一番いい気がします」

 母の日用にプレゼント包装をしてもらって、店のロゴ入り紙袋ごと渡された。ブロー
チのサイズに比べて少し大ぶりな袋だが、包装を衝撃から守るためのものらしい。
「ありがとうございました」
 店員と言葉が被ってしまって、思わず吹き出しそうになる。でも、一層気持ちよく帰
路に就けそうだ。
「相羽君、アドバイスをありがとね」
「そんなつもりは……少しでも早く終わって欲しいとは思っていたけど」
「あ、退屈だった?」
「そうじゃなくて……残念ながら、もう時間がなくなったってこと」
「え、あ、ほんと」
 首を巡らし、駅ビル内の電光表示時計を目の端に捉え、少々びっくり。こんなに時間
が経過していたなんて。
「ごめんー! お茶を飲む時間くらいあるかなって思ってた」
 両手を拝み合わせる純子に、相羽は「いいよいいよ」と手を振って応じた。それから
片手を自動販売機に向けた。
「中途半端だけど、缶ジュースでよければ飲んでいく?」
「うう、実は少し、カロリー制限をしようと思ってて」
「へえ? 必要なの?」
 あれだけ運動しているのにというニュアンスが、言外に含まれているようだった。
「必要というか、これから必要になるかもしれないっていうか」
 笑ってごまかす。理由を話すわけにはいかないんだった。
「ねえ、それよりも少しでも多く、お喋りしたい。でも相羽君には少しでも早くお母さ
ん孝行して欲しいし」
「――分かった。では、帰るとしますか」
 相羽は詮索することなく、元来た道を戻りだした。


――つづく




#505/598 ●長編    *** コメント #504 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/30  23:03  (433)
そばにいるだけで 66−2   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:14 修正 第2版
「じゃあ、最初は慣れてもらうために、パンを並べることからやってください。こうし
て」
 店主は実際にやりながら、説明を続ける。
「まるごと入れ替えるだけ。注意するのは向きだね。こういう風に、お客にパンの顔が
見えるように置く。すると見栄えがいい」
「この、バスケットにパンを一つ一つ並べるのは、誰がやるんでしょう?」
 話の切れ目を捉えて、純子は尋ねた。すでに店のユニフォーム――三角巾にエプロン
姿になっている。髪の毛がじゃまにならないようまとめるのに、ちょっと手間取った。
抜け毛が多いようなら、透明なビニールのキャップを被るように言われている。
「今日は最初、僕か寺東さんがやるから、それを見て覚えてください。明日からは――
明日、来られるの?」
「あ、はい」
「よかった。明日からは、涼原さんが最初からやってみてください。並べ方はそんな難
しいものでないし、今日これから見ていれば分かるでしょう」
「はい」
「今のは通常の話で、人気のあるパンは臨時に補充することがある。焼けた分を並べる
んだけれど、そのとき残っている分があれば、手前の向かって右側に移す。新たにでき
あがった分は、少し間を取って並べる。お客も分かっているから、古い方が残ることが
多いんだけれどね」
「そうなんですか」
 知らなかった。お客として来ていた頃に知っていたら、新しい方を取っていただろう
か。
「まあ、お客がいるところで並べる場合でも、焦らなくていいから。ゆっくり落ち着い
て。お客にぶつからないようにする。あとは……そうそう、型が崩れたり、切れ端が出
たり、あるいは売れ残ったりした分を安売りに回すんだが、その詰め合わせを作るの
も、やってもらおうかな」
 店主がそこまで言ったとき、店のドアの開く合図――ベルがからんからんと鳴った。
「寺東、少し遅れました。すみません」
 寺東は純子が初めて会ったときよりは、幾分丁寧な物腰で入って来た。裏に回らない
のは一緒だが。
「まだ大丈夫だよ。でも準備、急いで」
 店主の言葉に頷きつつ、寺東はこちらに近寄ってきた。唇の両端をにんまりと上げ
て、凄く嬉しそうな顔になった。
「よかった。本当に来てくれたんだ?」
「え、ええ」
 純子の手を取った寺東は、「これからよろしくね」と言った。こちらこそと返そうと
した純子だったが、それより早く、「先輩として、びしびししごいてあげる」と寺東が
付け加えた。
「寺東さん、早く」
 店主が促すが、今度はその店主に向けて話し始める寺東。
「思ったんですけど、早いとこ彼女にパン作りにタッチさせたらいいんじゃないかっ
て。風谷美羽が作ったパンとして売れば、新規のお客さん獲得!」
「寺東さん」
「――はーい。分かりました、着替えてきまっす」
 奥に引っ込む寺東を見つめていた純子だったが、店主の言葉に注意を引き戻される。
「客足の傾向を言うと、今日これからの時間帯、ぼちぼち増え始めるのが通例だから。
曜日や天気もあるから、一概には言えないが、だいたい君達の年代の子が第一波で、第
二波は買い物のついでに寄るお母さん方かなあ。サラリーマンは少ない」
 ということは……純子は頭の中で考えた。
(風谷美羽を看板娘にするのって、効果が期待できないような)
 元々、本意ではないから、かまわないのだが。とにかく頑張ろう。意を強くした。
 しばらくして寺東が出て来た。ユニフォーム姿になると、少し印象が変わる。髪が隠
れるせいかもしれない。
「……うーん」
 と、横に並んだ寺東が、顎を撫でつつ、難しげなうなり声を上げた。
「店長。これって罰ゲームじゃないですかあ」
 そしていきなり、そんなことを言い出した。当然、店主はきょとんとし、次いで「何
のことだい?」と聞き返す。
「こんなスタイルのいい子と一緒に働くってことは、常に見比べられるってわけで」
 寺東は純子を指差しながら答える。
「精神的苦痛がこれからずっと続くと思うと、モチベーションが激減しちゃいそ。せ
め、て、時給を少しでもアップしてもらえたら、やる気を維持できるんですけど」
 昇給交渉のだしに使われたと理解した純子だったが、黙っていた。まだそこまで店の
雰囲気に馴染んでいない。
「……」
 一方、店主もしばらく黙っていた。怒ったのかと思ったが、そうではないらしい。や
がて、呆れたように嘆息すると、右手で左の耳たぶの辺りをちょっと触った。
「寺東さんはよくやってくれてるしねえ。仕事の前後の言動や態度はちょっとどうかな
と思うことはあるけれども。いざ始まると集中してるし、熱心だし。考慮はする。が、
すぐには無理。新しく人を入れたばかりなんだから分かるでしょう」
 言い終えて、店主が純子の方をちらと一瞥。今度は、昇給を遅らせる理由付けに使わ
れてしまった。
「へいへい。気長にお待ちしまーす。さあ、がんばろうっと」

 聞かされていた通り、高校生から小学生ぐらいまでのお客の波がまずやって来た。途
切れたところで補充に動く。人気は甘い物及びかわいらしい物に偏っている。それを店
主も当然把握しており、追加で焼き上げる分の八割方はそのタイプだ。
 パンの並べ方は、簡単そうだった。全種のパンをまだ見たわけではないけれども、一
度見れば覚えられる。一方、パンを運ぶ段になってちょっとびっくりしたのは、予想外
の重さ。数が集まれば重たくなるのは道理だが、家で食べる分には軽いイメージしかな
かったから、最初は力の加減のギャップから「う?」なんて声が出てしまった。
「いらっしゃいませ」
 ドアのベルが鳴るのに呼応して、寺東と純子の声が響く。始めたばかりの純子は、慣
れるまではとマスク着用。普段の音量だとぼそぼそした声になってしまうので、気持
ち、声を張り上げた。
 その声から一拍遅れてドアの方を振り向いた純子は、入って来たお客さん――女性一
人――を見て、あっと叫びそうになった。思わず、顔を背ける。
(白沼さんのお母さん? このお店で買うんだ? もっと高級なところへ足を延ばすの
かと……って、これは店長に悪いわ。味は最高なんだから)
 などと胸の中でジタバタやっていると、真後ろを白沼の母が通った。幸い(?)、向
こうは純子に気が付いていない様子。マスクのせいもあるだろうが、こんなところにい
るなんて、考えもしていないのかもしれない。
(お仕事のこともあるし、挨拶すべき? でも、アルバイト中に私語はよくない気がす
るし……気付かれたら挨拶しよう)
 レジには寺東が立つことになっている。でも、その他の接客は、声を掛けられた方が
応じる。無論、必要が生じれば、声を掛けられなくても動かなければいけない、が。
(できることなら、アルバイトをしてるって白沼さんに伝わらない方がいい)
 そんな頭もあるため、ついつい、距離を取りがちに。
(しばらく運ぶパンはないし、トレイは片付けたばかりだり、焼き菓子の整頓くらいし
かすることが)
「おすすめはある? 甘さ控えめの物がよいのだけれど」
 突然の質問に、純子は反射的に振り返った。と同時に、意識のスイッチを切り替え
た。自分は久住淳なのだと。
「売れ筋ベストスリーはこちらにある通りですが、この中で甘さ控えめは、胡桃クリー
ムパンになります。酸味が大丈夫でしたら、ヨーグルトのサワーコロネやいちご本来の
味を活かしたストロベリーパンもおすすめです」
 低めにした声で答える。店内のポップを活用しつつ、如才なくこなしたつもり。
「そう、ありがと。どれも美味しそうだから、全部いただこうかしら」
 白沼の母は呟き気味に言って、トングを操った。どうやら純子には気付かずじまいの
ようだ。
 寺東からは、うまくやったねというニュアンスだろうか、ウィンクが飛んできた。純
子はマスクを直しながら、目礼を返した。
(それにしても、今の様子だと来店は初めてなのかしら。気に入ってもらえたらいい
な。あっ、だけど、頻繁に来られたら、じきに私だってことがばれる!)
 あれこれ想像して、頭の痛くなる純子だった。
「お買い上げありがとうございます。――八点で1300円になります」
 寺東の、対お客様用の声が軽やかに聞こえた。

(いけないと思いつつ、もらってしまった)
 午後八時過ぎ、アルバイト初日を終えた純子は白い買い物袋を手にしていた。中身は
売れ残ったパン。人気のパン屋だけあって数は多くないが、どうしても売れ残りは出
る。しかも初日サービスと言って、純子の大好物である胡桃クリームパンをわざわざ一
個、取り分けておいてくれていた。恐縮しきりである。
(これがあると聞いていたから、普段はカロリーを抑えめにしようと決めたんだけど、
だからといってぱくぱく食べていいもんじゃないし)
 自転車置き場まで来ると、先に出ていた寺東が待っていた。自然と頭を下げる。
「お疲れさまでした」
「お疲れ〜。さっきも聞いたけど、このあと暇じゃないんだよね? だったらせめて、
行けるところまで一緒に帰ろうと思ってさ。それともモデルか何かの仕事が入ってて、
絶対にだめとか」
「全然そんなことないです。いいんですけど、確か正反対の方向って言ってませんでし
た?」
「いいのいいの。興味あるから、少し遠回りしていくのだ」
 自転車に跨がり、早く早くと急かせる寺東。
「あ、別に家を突き止めようとか、芸能界の裏話を聞き出そうとかじゃないから、安心
してよ」
「はあ」
 調子くるうなあと戸惑いつつ、純子も出発できる態勢に。漕ぎ出していいものか躊躇
していると、「遠回りするのは私なんだから、あなたが先行って」と寺東に促された。
 ライトを灯しているとは言え、夜八時ともなると暗い。街灯や建物、行き交う自動車
のライトを助けに、比較的ゆっくりしたスピードで進む。
「あんま時間ないだろうから、さっさと聞くね」
「え? あ、はい、どうぞ」
 後ろからの寺東の声に、純子は遅れながら応えた。
「何であんなパン屋でバイトしたいと思ったわけ? 正直なとこ、他のことでがっぽり
稼いでるんじゃないかって思ってたけど、そうでもないとか?」
「えー……っと」
 いきなり、答えに窮する質問だ。一から説明すると長くなるのは確実だし、知り合っ
て間もない人に理由を話すのも恥ずかしい。
「言いたくなかったら言わなくていいし、他言無用だってんならそう付け加えてよ。こ
れでも口は堅いと自負してるんだ。そりゃまあ、バイト面接に来てたあなたのこと、店
長にぺらぺら喋っちゃったくらいだから、無条件に信用してくれなんて言わないけれ
ど。あのときは興奮しちゃって、つい」
 寺東の話を純子は、よく口が動くなあと感心して聞いていた。
(お店では肩の凝りそうな喋り方に徹していたから、今は解放されたってところなのか
しら。まあ、今日だけでもお世話になってるし、これくらいは答えてもいいと思う、う
ん)
 決めた。ただし、多少はオブラートに包もう。
「隠すようなことじゃないんですけど、一応、他言無用で」
「ふんふん、了解」
「お世話になっている人がいて、その人の誕生日が近いんです。プレゼントをして感謝
の気持ちを表そうと思ったんだけど、モデルの仕事とかを始めるきっかけを作ってくれ
たのがその人なんです」
「お、読めた。その人とは関係のない仕事で稼いで、プレンゼトを買いたいってこと
だ?」
「え、ええ。当たりです」
「うんうん、気持ちは分かる。私がその立場だったら、実際に行動に移そうとはこれっ
ぽっちも思わないだろうけどねえ」
 信号待ちで停まったところで、純子は振り返った。気付いた相手は「うん?」という
風に目をぱちくりさせ、次に横に並んだ。
「何?」
「質問、もう終わりかなと思って」
「お、いや、一個聞いたから、次はそっちから質問出るかなと思って。興味ないなら、
パスしてくれていいよー」
「あっあります」
 手を挙げそうになったが、信号が青に切り替わった。寺東に気付かされ、進み始め
る。
「そんで、質問は何?」
「デ、デートではどこへ行って、どんなことをします?」
「――わははは。意表を突かれた。まさかの質問だわ。いるの、彼氏? あ、言えない
か」
「今はまだ……大っぴらには」
 ごまかして答える純子。
「将来、彼氏ができるのはだいぶ先になるかもしれない。それまで全然経験がなくて、
いきなりだと、どうすればいいのか困ってしまいそうで」
「なるほどねー、分からない苦労があるもんなんだ。でも、今は自分もいないからな
あ」
「え、ほんと?」
「こんなことで変な見栄を張ったりしないよ。髪を染めるくらいだから、いると思った
とか?」
「そういうわけじゃないです。寺東さん、とてもさばけていて、男性客の接し方も慣れ
てるように見えたから……」
「それこそ接客に慣れただけ。ま、確かにちょっと前はいたんだけどさ」
「……悪いことを聞いてしまいました……?」
 声が強ばる。知り合ってまだ日が浅いのに、ちょっと突っ込みすぎたろうか。
「気にしない気にしない。別れたばっかなのは事実だけど、引きずってないから。歳は
相手が上で、まだ大学生のくせして、いっちょこ前に起業してさ。私より事業に夢中。
で、時間が合わなかったんだ。まあ、他にも色々あって、しゃあなかったんよ」
「はあ」
「風谷さん……じゃないや、涼原さんも仕事持ってるわけだから、付き合う相手を高校
で探すのは大変と思うよ、多分」
「そ、そうですね」
「そんなわけで、前彼との経験でいいのなら、さっきの質問、いくらか答えられるかも
だけど」
 上目遣いになる寺東。次の信号は青だが、スピードを落とし始めた。
「さすがにもう引き返さなきゃ。今夜はここまでってことで、いい?」
「もちろんです」
 純子も自転車を漕ぐのをやめた。信号は黄色に変わり、ちょうどいいのでストップす
る。
「その内、芸能界の話、少し聞かせてちょうだいね。今日は楽しかった」
「こちらこそ。今日はお世話になりました。しばらくの間、ご迷惑を掛けるかもしれま
せんが、よろしくお願いします」
 頭をぺこり。すると、「固いな〜」と寺東の声が降ってきた。
「普通、逆っしょ? 私が緊張して固くなるのなら分かるけど」
「生まれつき、こんな感じで……じきに柔らかくなると思います」
「うん、期待してる。じゃーねー」
 自転車に跨がったまま、器用にその場で方向転換した寺東は、手を一度振ってから前
を向いた。
「気を付けて!」
「そっちもね!」
 夜の街路に二人の声が結構響いた。

 パン屋でのアルバイトのことは当然、学校に届け出ているが、周りのみんなには内緒
にしておくつもりでいた。
(相羽君が知ったら変に思うだろうし、わけを聞いてくるに決まってる)
 だが、状況は変化した。積極的には宣伝しないとしても、“風谷美羽があそこでバイ
トしている”という噂が流れる程度に知られることで、売り上げに貢献する。本意では
ないが、そういう話になってしまったのだから。
「おばさまにも伝わっているはずなんだけど、相羽君には私の口から言いたくて」
 学校の一コマ目と二コマ目に挟まれた休み時間、純子は相羽一人を教室から、校舎三
階の屋上へと通じる階段踊り場まで連れ出した。念のため、唐沢ら仲のいい友達には仕
事の話だからと、着いてこないように心理的足止めをした。
「うぃっしゅ亭って、あのパン屋さん? アルバイトをって何のために?」
 予想通りの質問を発した相羽に、純子は前もって考えておいた答を言う。
「市川さん達との話で、演技の幅を広げるためには、社会経験を一つでも増やしておく
といいんじゃないかって意見が出てさ。だったら高校生らしいバイトをしてみたいです
ってリクエストしたら、意外と簡単に通って」
「何も仕事を増やさなくてもいいのに」
「もちろん、邪魔にならないペースで、よ。期間も短いし。じきに定期考査があるでし
ょ。その手前でやめる」
「……まあ、君が判断すべき領域の事柄だから、君が必要なことと思ったのなら、僕は
口出ししない」
 相羽がため息交じりに固い口調で言った。ここで終わりかと思ったら、続きがあっ
た。迷いの後、急遽付け足そうと決めた風に。
「でも、時間があるなら、学校の外でももっと会いたいのに――なんてね」
「……」
 相羽の(ほぼ)ストレートな恋愛表現は珍しい。嬉しいのと、本当のことを言い出せ
ない申し訳なさとで、しばし言葉を出せなくなる。
「純子ちゃん?」
「あー、ううん、ごめんね。休める日がないかと思ったんだけど、始めたばかりで、し
かも短期バイトだから言い出せないかも」
「決めたからにはやる方がいいよ、きっと。僕のことは気にしなくていいから。ただ、
学校にモデル仕事にアルバイト、三つを平行してするのは無理だと感じたときは、いつ
でも言って。母さん達に言い出しにくくても、僕が何とかする」
「うん」
 頼もしくさえある励ましの言葉に、純子の返事にも元気が戻った。そして、アルバイ
ト経験を演技に活かすという嘘も、いつか本当に変えてやろうと思った。
「ところで、僕だけを呼んでアルバイトの話をしたのは、何か意味があるのかなあ。み
んなには言ってはいけないとか?」
「あ、それはね、言ってもいいんだけど、万が一にも噂が広がることで、お店に迷惑が
掛かるといけない。例の脅しの手紙は、久住淳宛てだから関係ないと信じてるけれど、
風谷美羽でもアニメのエンディングを唄ってるから、ひょっとしたらがないとは言い切
れないし」
「……うん? 結局、言わない方がいいってこと?」
 時間を気にして戻り始めた二人だったが、すぐに足が止まった。
「虫のいい話なんだけど、ほどよく噂が広まって、それなりに売り上げアップしてくれ
たらいいなって」
 純子は舌先を少しだけ覗かせ、自嘲した。相羽はしょうがないなとばかりに苦笑を浮
かべ、
「だったら、友達みんなで行く方が早くて効果的かも。よし、そうしよう」
 と早々と決めたように手をぽんと打った。
「一度に大勢来られたら緊張して、凄く恥ずかしい気がするけど、がんばるわ」
「平日の放課後、みんなで遠回りしていくのは大変だから、土曜がいいかな。あ、で
も、純子ちゃんは土曜日、バイトよりもルーク関係だっけ?」
「ううん。そっちの方は、テストが近付いてるから、土曜どころかほぼ休み。なまらな
いように、レッスンを日曜にやってもらって。あ、あと白沼さんのところと一度、ミー
ティングがあるくらい」
「充分忙しそうだけど、まあよかった。じゃ、今度の土曜にでも。学校が終わって一緒
に行くのと、バイトに勤しんでいるところへ押し掛けるのとじゃ、どっちがいい?」
「……考えさせて」
 小さいとは言え頭痛の種を抱えつつ、今度こそ教室へ向かう。チャイムまであまり間
がないと分かっていたので、小走りに近い早足になった。

(バイトできるかどうかで頭がいっぱいになっていたけれど)
 午前の授業で出された古典の宿題をどうにかやり終え、昼休みの残り少ない時間を仮
眠――と言っても正味数分しかないので目をつむって頭を横たえるだけだ――に当てよ
うとしたき、ふと思った。
(誕生日プレゼント、何がいいんだろ?)
 宿題に集中していたおかげで、今、隣の席に相羽がいるのかどうかさえ知らない。目
をぱちりと開けて、気配を探りながらゆっくり振り向いてみた。
 いなかった。
(男子の友達はいるみたいだけど。トイレかな。じゃなければ、また先生のところと
か)
 いや、今考えているのはそんなことじゃなく。
(前に、母の日の買い物に付き合ってもらったとき、ついでを装って聞けばよかったか
もしれない。でも、あのタイミングで聞いたとしたら、誕生日プレゼントのことだって
絶対にぴんと来るはず)
 あげるのなら欲しがっている物をあげたいけれど、多少のサプライズ感も残したい。
相反する希望を叶えるには、普段から相手のことをよく見て、知っておく必要がある。
だからといって確実に成功するとは断言できないが、そうしなければ始まらない。
(ういっしゅ亭のバイトでもらえる範囲で買える、相羽君の欲しい物……)
 再び頭を机に着ける。いや、今度は腕枕を作って、そこへ額をのせて沈思黙考。
(お家にピアノがあるのなら、譜面ホルダーって思うんだけど。それ以外となると……
何にも浮かんでこない。一緒にいる時間は前より減ったかもしれないけど。基本的に相
羽君、物欲が薄いというか欲しい物を言葉にするなんて、滅多になかった気が)
 少し方針を転換する必要がありそう。
(似合うと思う服か何かを贈るのもありよね。私服の日なら、学校にも着てこられる
し。腕時計はいらないかなあ)
 予鈴が鳴った。身体を起こす。午後一番の授業の準備に掛かる。
(うーん、音楽以外に相羽君が興味関心を持っているのは、マジックと武道? 武道の
方はさっぱり分からないから、絞るとしたらマジック。マジック道具で、相羽君が持っ
ていない、手頃な商品てあるのかしら。手先の技で魅せる演目が多いから、逆にいかに
もっていうマジック道具、意外と持ってないみたいだし)
 テキストとノートを机表面でとんとんと揃えていたら、相羽が教室に入ってきた。自
身の席に駆け付けた彼は、少し息を弾ませていた。
「気付いたらいなかったけど?」
 先生が来る前にと、省略した形で尋ねる。
「宿題に夢中だったから声掛けなかったけど、神村先生のところに」
「また? 保護者が忙しいと大変ね」
 以前の話を思い起こした純子。
「うん、まあそうなんだけど」
 某か続けたそうな相羽だったが、ここでタイムアップ。始業のチャイムにぴったり合
わせたかのように、神村先生が入って来た。
 委員長の号令で、起立、礼、着席。約一ヶ月が経過して、唐沢の委員長ぶりも、よう
やく板に付いてきた。
「授業に入る前に、今日は用事があってホームルームができないから、今、三分ほども
らう。最近、中高生を狙ったカンパ詐欺が起きているそうだ。たとえば、インターネッ
ト上で『名前は明かせないが在校生の一人が妊娠した。親に内緒で中絶したいが、手術
費用が足りないので、力を貸してほしい』というような名目で金を集め、消えてしま
う」
 妊娠だの堕胎だのの単語が出たところで、教室内がざわついた。神村先生は静かにと
注意してから、話を続ける。
「集金の手口は様々で、プリペイド式の電子マネーを購入させてIDを送らせたり、代
理を名乗る者が直に集金に来たり、指定した口座に振り込ませたり。大胆なのは学校の
一角に募金箱を設置した事例もあった。金額こそ小さいが実際に被害が出ていて、まだ
一部しか解決していないそうだ。この手の犯罪は巧妙化する傾向があるから、早めに注
意喚起しておく。また、間違っても知らない内に片棒を担いでいたなんてことにならな
いように、充分に気を付けること。分かったな」
 以上、と話を打ち切って、授業に入ろうとした先生だったが、生徒の一人が挙手しな
がら「先生、質問〜」と言い出したため、教科書を戻した。
「何だ、唐沢」
「委員長なんで代表して、みんなが聞きたいだろうことを聞こうかと」
 真顔でありながら、どことなく笑みを我慢しているような体の唐沢。神村先生の表情
を見れば、嫌な予感を覚えているのが窺えた。
「前置きはいいから、早く言うんだ」
「詐欺には気を付けるけど、もし仮に、本当に中絶手術カンパの話が回ってきたら、生
徒はどうしたらいいのかなって」
 さっきとは少々異なるニュアンスで、クラスのみんながざわつく。
「まったく、何を言い出すかと思えば。みんなが聞きたいことか、それ?」
「まあ、半数ぐらいはいるんじゃないですか」
「しょうがないな。そりゃあ学校側としては、報告しろって話になるだろな。ついで
に、誰も知らないようだから教えておくと、うちの校則に、妊娠したら退学というよう
な決まりはない。生徒手帳を読め」
「まじで?」
 先生の言葉を受けて、実際に生徒手帳を繰る者もちらほら。
「ああ。明記している学校もあるが、我が校はそうではない。認めてるわけじゃない
し、高校生らしからぬ逸脱した行為を禁ずる条項があるから、それを名目に妊娠を退学
に結び付けることも可能だ。だけど、緑星学園史上、適用例はない」
「でも、そういう妊娠騒動を起こした生徒がいなかっただけなんじゃあ……」
「そうよね。進学校なんだし」
「あったとしても、表面化してないだけで」
 主に女子からごにょごにょと声が上がる。堂々と質問するのは、さすがに気後れする
様子だ。これらにも神村先生は応じた。
「個人情報に関わり得るから、そこはノーコメント。ただ、歴代校長の方針は、妊娠し
た生徒がいればできる限り学業が続けられる方向でサポートするっていうのが、慣習と
いうか不文律だ。――さあて」
 腕時計を見た神村先生は、教科書で教卓をばんと叩いた。
「三分のつもりが、五分になった。授業、始めるぞ」
 静かになった。それでも空気が落ち着きを取り戻すには、もうしばらく掛かった。

「真面目な話――」
 放課後、大掃除の時間。女子は男子、男子は女子の目を盗んで、こそこそと内緒話に
花を咲かせていた。
「学校は許したとしても、スポンサーは許さないからね」
 白沼の言葉を理解するのに、純子は十数秒を要した。
「わ、分かってるって」
 手にしたモップの柄をぎゅっと握りしめる。同じくモップを持つ白沼は、柄の部分を
純子の持つそれに押し当て、ぐいぐい押してきた。
「信頼していいの、ねっ」
「いい、よっ」
 負けじと押し返して距離を取る。と、間に入ったのは淡島と結城。
「まあまあ、熱くならない。二人とも、らしくないよ」
「熱くもなるわ。もしものことを思うと」
 嘆息混じりに言った白沼の前に淡島が立つ。
「白沼さんたら、何も妊娠だけを言ってるのではありませんね? 多分、タレントのイ
メージを気にしてのことです。恋人がいるといないとじゃ大違い」
「そう、なの?」
 先に純子が反応を示す。白沼はもう一つため息をついた。
「そうよ。友達の内では公認でも、世間的にはまだなんだから、充分に注意してもらわ
なくちゃいけないの」
「それくらいなら、弁えている。これでも何年かプロをやってるんだから」
 純子は自信を持って返した。白沼は気圧されたみたいに、上体を少しだけ退いた。
「だからってことじゃないんだけれど、相羽君とは――」
 一旦言葉を切って、クラスの中に相羽を探す純子。窓ガラスを拭いていた。周りには
唐沢達もいて、お喋りが弾んでいるようだが、相羽自身はあまり口を開いていない。
「彼とは、まだなーんにもありません」
「……そう。よかった」
 白沼は、ばか負けしたみたいに肩をすくめた。が、少し経って、よい返しを思い付い
たとばかりににやりと笑むと、ちょっとだけボリュームを戻して言った。
「さっき、友達の内では公認とか言ったけれども、私はまだ隙あらば狙っているから。
何にもないと聞いたから、なおさらね」
「うわ、それはあんまりだよー、白沼さん。板挟み過ぎるっ」
 純子も調子を合わせ、芝居めかして応じると、じきに笑いが広がった。
 何事かと、他のグループから注目されたのに気付いて、すぐに引っ込めたけれども。
その落ち着いたところへ、今度は淡島が爆弾発言をしてくれた。
「これまでのところ何もないのでしたら、私の予想は大外れになります」
「えっと、何の話?」
「てっきり、今度の誕生日にでも捧げるものと推し量っていましたが、段階を踏まずに
いきなりはない――」
「! しないしない!」
 モップを放したその両手で、淡島の口の辺りを覆おうとした。淡島はそれ以上続ける
気は元からなかったらしく、すんなり大人しくなる。反面、モップが床に倒れた音が大
きく響いた。
「そういえば、相羽君の誕生日、近かったわね」
 白沼が意味ありげにモップを拾い、渡してくれた。受け取る純子に、質問を追加す
る。
「何をあげるつもりなのかしら」
「考えてるんだけど、決めかねてて」
 また声の音量を落として、相羽の方をこっそり見やる。いつの間にか唐沢と二人だけ
になっていた。
(探りを入れてみるつもりだったのに、聞けてないわ)
 神村先生のあの話のおかげで、プレゼントをどうしようと悩んでいたことが一時的に
飛んでしまった。
「悩む必要なんてないってば。何をあげたって喜ぶよ」
 請け合う結城に、純子はつられて「それはそうかもしれないけど」と答えた。すかさ
ず、「背負ってるわねえ」と白沼から指摘される始末。この辺で反撃、もしくは転換し
ておきたい。
「私のことは散々言ってきたから、飽きたでしょ。みんなはどうなの?」

            *             *


――つづく




#506/598 ●長編    *** コメント #505 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:19  (471)
そばにいるだけで 66−3   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:16 修正 第2版
「もしかして、自分の身に降りかかるかもしれないから、聞いたんじゃないよね、あれ
って?」
 ちりとりをほったらかしにした平井はそう聞きながら、唐沢の脇腹付近をぐりぐりや
った。不意を突かれた唐沢はオーバーアクションでその場を離れ――こちらはほうきを
放り出してそのままだ――、「何がだよ」と問い返す。
「だから、神村先生にした質問。あんなこと聞けるなんて、ある意味すげーって感じた
けど、ひょっとしたら唐沢君自身がそうなんじゃないかって思ってしまったのだ」
「ばーか。そんなことあるかい」
 唐沢は普段のキャラクターをここぞとばかりに発揮する。
「俺はそんな下手は打たない。基本、広く浅く。万々が一にも深くなったとしたって、
一線は守る」
「おー、意外」
「尤も、高校に入ってから勉強に時間を取られがちなんだよなあ。あんまり遊べてない
のが悔しいし、さみしい。相羽センセーに教えてもらって、どうにか時間を作ってる有
様だから情けない」
「いや、唐沢は前よりもずっとできるようになってる」
 近くの窓を拭いていた相羽は聞きとがめ、本心からそう評した。しかし、当人は額面
通りには受け取らなかったようで。
「ばかやろー、それは以前の俺と比べてってだけで、客観的にはまだまだだろ、どう
せ。そうじゃなけりゃ、成績を維持するのにこんなに苦労すはずがない!」
「みんな苦労してるよ」
「苦労してるようには、とても見えん」
 唐沢は平井に同意を求めた。
「まあ、確かに、相羽君が苦労してるようには見えない。稲岡君みたいに年がら年中勉
強優先て感じでないのに、成績いいのは納得しがたいよ」
「だよな。その上、彼女持ちで。あ――涼原さんと特に進んでいないのは、勉強に時間
を回してるせいとでも言うのか」
「か、勝手に話を作るなよ」
 唐沢の“急襲”に、思わずぞうきんを取り落としそうになった相羽。内側を拭いてい
るときでよかった。
「お互いに忙しいし、今の時点では無理して進める必要がないって二人とも思ってるし
……」
 相羽の声が小さくなる。唐沢とは前に似たようなことを話題にしたが、他の男子には
初めてなので、言いづらい。幸い、平井らものろけを聞かされてはたまらんと思った
か、他の男子グループに呼ばれて行ってしまった。
「そういや、天文部の話、鳥越から聞いたか?」
 二人だけになったところで、唐沢がいきなり尋ねてきた。
「何で部員じゃないのに、天文部の話題を。まあいいや。それって、合宿のこと?」
「うむ。鳥越が言うには、皆既日食に合わせて、K県K市に行くという希望が、ほぼ確
実に通る見込みだと」
「僕もぼんやりとは聞いてたけど、本決まりになるなら行ってみたいな。夏休みか…
…」
 少し伏し目がちになって考え込む相羽。
「え? 何か予定あんの?」
「――ん? まさか。そんな先のことは分からない」
「だよな。今の時期に夏休みのスケジュールが決まっているとしたら、海外旅行いく奴
か、仕事のある涼原さんくらいだろ」
 そう言った唐沢が、肩越しに振り返る。つられて、相羽も純子達のいる方を向く。何
だか知らないが、モップを持って楽しげに“攻防”しているのが見えた。
「他にもいるだろ。夏期講習を受けるとか」
「嫌なことを思い出させてくれる。補習があるとしたら、皆既日食に被るんだっけか
?」
「知らないよ。まず、補習を受けずに済むように考えないと。ていうか、唐沢がどうし
て皆既日食との被りを心配するのさ?」
「おまえらが――相羽と涼原さんが行くのなら、楽しそうだから着いて行こうかなと思
ったんだ。無論、俺も天文部に入って」
「冗談だろ?」
「割と本気だぜ。まあ、夏までに本命の彼女でもできれば、話は違ってくるかもしれな
いがな」
「……他人のことに首を突っ込む気はあまりないんだけど、町田さんはどうしてる?」
 聞いてから、別の窓ガラスに移動する。
 が、唐沢の方は、その質問をスルーしたかったのか、はたまたクラス委員長として役
割をはたと思い出したのか、ほうきとちりとりを持って平井を追い掛けた。
(やれやれ)
 短く息を吐いた相羽に、背後から声が掛かった。
「ねえねえ、相羽君」
 相羽は手を止めずに、そちらに目だけをやった。湯上谷(ゆがみたに)、西野中(に
しのなか)、下山田(しもやまだ)の女子三人組。彼女ら自身、名前の共通項を意識し
ており、上中下トリオと呼ばれるのをよしとしている。相羽や純子らとは、今年初めて
同じクラスになった。
「さっき話しているのが耳に入ったんだけど、天文部の合宿に参加するの?」
 代表する形で、西野中が聞いてきた。
「うーん、多分ね」
「唐沢君の話も聞こえたんだけど、今からでも入部できる?」
「え? ごめん、僕は幽霊部員に近いから、詳しいことは分からないんだ。クラス違う
んだけど、鳥越って知ってる? あいつに聞けばいいよ」
「えー、知らない。ねえ、知ってる?」
 お下げ髪を振って、左右の二人にも聞く西野中。返事は二つとも否だった。
「悪いんだけれど、相羽君から確かめてくれないかなあ?」
「しょうがないな。どさくさ紛れに、今、行って来ようかな」
 一斉清掃だから、特別教室に回されていない限り、鳥越を掴まえて話をちょっとする
くらいは容易だろう。
「うん、お願い」
 声を揃える三人組。下山田は手を合わせてまでいる。相羽はまた密かにため息をつい
て、窓から離れかけた。が、ふと浮かんだことがあって、足を止めた。
「――思い過ごしだったらごめん。一応、聞くけど、唐沢目当てとかじゃないよね? 
唐沢は今のところ部員じゃない」
「やだ」
 三人は申し合わせたかのように、口元を片手で覆って笑った。それから湯上谷が日焼
けした健康的な肌に、白い歯を見せる。
「唐沢君も格好いいけれど、そんなんじゃないよー、私達。こう見えても星に興味ある
の――というのは大げさになるけど」
「正直に言うとね、思い出作りしたいなとみんなで話してたんだ」
 あとを受けて、西中野がわけを語り出す。
「高校の思い出作りで、何かロマンチックなことをって考えたら、天文部の合宿の噂話
を聞いて」
「噂話って?」
「何年かおきに、合宿でカップル誕生しているとか、流星群の観察で二人きりになると
盛り上がるとか」
「はあ」
 聞いた覚えないなあ、女子の間だけで広まっているのかなと思った相羽。
(いかにも唐沢が好みそうなシチュエーションではあるが、今年予定されているのは、
皆既日食だし)
 多かれ少なかれ星に興味関心を持っているのなら、入部動機に全然問題ないだろう。
好意的に解釈し、鳥越に聞いてみることにした。
 相羽は「ちょっと待ってて」と言い残し、教室後方の戸口を目指した。
(――純子ちゃんは合宿の件、まだ知らないのかな? 伝えて、参加できそうなら、早
く鳥越に教えてやろう)
 爪先の向きをちょっぴり調整し、純子のいる方へ立ち寄る。ちょうど純子達もこちら
を見ていた。

            *             *

 純子の「みんなはどうなの?」の問い掛けに、まともに反応したのは白沼だった。
「私の方から告白したくなるようなフリーの男子はいないわね。逆に前、一年生に懐か
れて困ったような、戸惑ったことはあったけれども」
 もてるアピールなのか、そう付け足した白沼。どことなく自慢げだ。
「その一年生の話、聞きたい」
 純子は意識的に食いついた。話題をそらせれば何でもいいという気持ちはあるが、白
沼に懐く(告白したってこと?)一年生男子に興味がなくもない。
 だけど、今度は白沼の反応が鈍い。その視線が、純子の肩口をかすめて、相羽のいる
であろう方に向いている。
「白沼さん?」
「相羽君、女子に囲まれているわよ」
 その言葉に、急いで振り返る。囲まれていると表現でいるかどうかは別にして、西野
中、湯上谷、下山田の三人と話している相羽の姿を捉えた。
(何の話をしてるのか、気になる……)
 日常の一場面だけを切り取って無闇に詮索したり嫉妬したりはしないよう、心掛けて
いるつもり。それでもなお、気になってしまう。純子が聞き耳を精一杯立てようとした
矢先、相羽が一人、窓際を離れた。こっちに来る。
「デートのお誘いですわね、きっと」
 淡島が適当なことを口にすると、結城が「ぞうきん片手に?」と笑いながら混ぜ返
す。
 そんな中、相羽は自然な形で輪に加わった。
「ちょっといいかな。純子ちゃん。天文部の合宿の話、聞いてる? 皆既月食観察の線
で、ほぼ決まりだって」
「ほんと? まだ聞いてなかった。日程はどうなるのかしら」
「そこまでは決まってないみたい。例年だと二泊三日か三泊四日って聞いてるし、日食
が二日目か三日目に来るようにするんじゃないかな」
「きっとそうね。うん、分かった。スケジュールはまだもらってないけれども、もし重
なっていたら、調整を頼んでみる」
 純子が期待感いっぱいの満面の笑みで言うのへ、横合いから白沼が口を出す。
「具体的にいつ? 万が一、うちの関係している仕事が入っていたら、影響あるから聞
いておきたいわ」
 質問先は相羽だったが、彼は慌てたように両手を振った。
「悪い、今すぐ鳥越のところに行かないと。純子ちゃんが知ってるから」
 言い置くと、すぐさま教室を出て行く。ぞうきんを持ったままなのは、先生に見咎め
られた際、どうにか言い逃れするためだろうか。
「そういうことだそうだけれど」
 白沼が目を向けてきた。純子が答えようとすると、淡島が「皆既日食の日ぐらい、私
でも答えられますのに」と不満げに呟いた。無意識なのかどうか、場を混乱させてい
る。純子は返答を急いだ。
「七月二十*日よ、白沼さん」
 白沼はメモを取るでもなく、二度ほど首を縦に振った。「分かったわ、覚えた」とだ
け言うと、掃除に戻ろうとする。
(ひょっとして、わざと仕事を入れてくるなんて、ないよね?)
 白沼の後ろ姿を見つめ、そんなことを思った純子。
 と、いきなり白沼が向き直った。
「安心しなさい。なるべく協力してあげるつもりだから」
「え、ええ。……ごめんなさい」
 思わず謝った純子に、白沼は左の眉を吊り上げ、怪訝さを露わにした。
「うん? 今言ってくれるとしたら、『ありがとう』じゃないのかしら」
「あ、今のは――無理をさせることになったら申し訳ないなって気持ち込みで。感謝し
てます」
 内心、冷や汗をかくも、どうにかごまかせた。
「感謝してくれるのなら、芸能人の男の一人でも紹介して。付き合いたいってわけじゃ
ないけれど、世の中には相羽君よりもいい男がいるんだって実感を持たないと、次に進
めないのよね」
 白沼は口元に小さな笑みを浮かべた。本気なのか冗談なのか分からない。
「それなら白沼さんも、蓮田秋人に一緒に会いに行かない?」
 結城が言い出したのを聞いて、純子もすぐに思い出した。
「マコ、遅くなっててごめんね。少ない伝を頼って、ご都合を伺ってるんだけれど、伝
わってるのかどうかも、ちょっと心許ない状況なの」
「いいって。確か今、映画の海外ロケのはずだし。――白沼さん、蓮田秋人は知ってる
わよね?」
「当然、知ってるけれど。結城さん、あなたって随分と渋くて年上好みなのね」
「やだなあ、タレントとして見て好きなだけで、異性の好みとか関係ないから」
「そうなの? それなら分かるけれども。蓮田秋人ね……一般人相手には線引きが厳し
そうなイメージがあるわ。大丈夫なの?」
 と、再び純子に質問を向ける。
「わ、分かんないけど、お会いしたときは、好感を持ってもらえたみたいだった」
「いやいや、あなたは素人じゃないでしょうが」
 的確なつっこみだったのに、自覚の乏しい純子は首を傾げた。

 それは三度目のアルバイトの日のことだった。
 純子は短い時間ではあるが、店番を一人で任されていた。
 経験の浅い純子がどうしてそんな役目を仰せつかったかというと、偶然が働いた結果
だった。この日、シフトでは寺東も入る予定だったが、当日になって連絡が店長に入っ
た。前日、英語教師が車上荒らしに遭い、金銭的被害は小さかったものの、アタッシュ
ケースに入れていた採点済みの答案用紙を、鞄ごと盗まれてしまった。定期考査ではな
く小テストだったが、成績を付けるには必要なものであり、再テストせねばならない。
英語教師は己の不注意を該当する生徒達に深く詫びた上で、放課後に再テストを受ける
よう求めた。求めたと言っても、生徒側には拒否権はないわけで、受けざるを得ない。
その影響により、一時間ほど学校を出るのが遅れる見込みとなった寺東は、昼過ぎにな
って遅れることを伝えてきた次第である。
 では店長はどうしたのかというと、午後三時半頃に起きた震度三の地震に驚いて、卵
を大量に床に落とし、だめにしてしまった。パン作りに重要な材料だけに、残った僅か
な個数では心許なく、アルバイトが入るのを待って急遽買い足しに出ることに。卵ぐら
いなら純子でも買いに行けそうなものだが、何でも拘りの銘柄があって、車で遠くまで
足を延ばさねばならない。よって、店長もしばし抜けることになってしまった。
(四十分ぐらいと言っていたけれど)
 時計を見ても、なかなか時間が進まないことにじりじりするだけなのに、あまり見な
いようにした。それ以上に、お客がほぼ途切れずに来るので、時刻を気にしている余裕
がなかった。レジを受け持つのはまだ二度目。手際は決して悪くないのだが、非常に緊
張する。
「――レシートと三十円のお釣りです」
 女子中学生二人組に、まとめて会計を済ませて送り出す。その次に並んでいたお客
が、「あ、やっぱりそうか」と言うのが聞こえた。
「いらっしゃいませ。トレイとトングをこちらへ――」
 マニュアル通りに喋る純子にも、相手が誰だか分かった。以前は学生服姿だったの
が、今回は私服なので気付くのが遅れたが、真正面から顔を見て思い出せた。でも私語
は極力、慎まねば。
「胡桃クリームパン好きが高じて、とうとう就職か」
 その男性客――佐藤一彦が、ややからかうような口調で言った。
「就職じゃありません、バイトです、バイト」
 たまらず、早口で答えた。パンを個別に袋に入れる動作も、いつも以上に速くなる。
「分かってる、冗談さ。ええっと、四年前になるんだっけ? あのときは、本当に悪か
った」
「そのことならちゃんと謝ってもらいましたし、もういいんですよ。――五百円になり
ます」
「ほい」
 五百円硬貨をカルトン――硬貨の受け皿に投げ入れる佐藤。角度がよかったのか、ゴ
ムの突起物の間に挟まって、五百円玉が立った。
「おっ」
「五百円ちょうどをお預かりします。――はい、レシートですっ」
 後ろに並ぶお客がまだいないことを見て取り、純子はレシートを押し付けるようにし
て渡した。悪い人じゃないのは分かっている。でも、今は早く帰って欲しいという意思
表示のつもり……だったが、佐藤もまだ他の客が並んでいないことを知っている。
「他に店の人、いないの?」
「一時的に外しています」
「そうか。じゃあ、あんまり邪魔できないな。相羽の近況も聞きたかったんだが」
 パンの入った袋を摘まみ持ち、がっかりした様子の佐藤。
(……あの頃はまだ、私と相羽君、付き合ってなかったのに)
 訝る純子だったが、敢えて聞く必要もないと黙っていた。
「過去のお詫びがてら、友達連中に宣伝しとくわ。多少は売り上げに協力しないとな」
「――あ、ありがとうございます。お待ちしています」
 自然とお辞儀していた。風谷美羽としてでなく、涼原純子としてお客を増やすのに貢
献できるとしたら、こんなに嬉しいことはない。
「あ、そうだ。宣伝するとき、『涼原っていう、すっげーかわいい子がいる』って付け
加えてもいいか?」
「だ、だめです。かわいくなんかありませんっ」
 大慌てで否定する。佐藤は笑いながら出て行った。
(つ、疲れる。でも、今何をされているかぐらい、聞けばよかったかな。忘れてたわ)
 ほっとしたのも束の間、程なくして次のお客がレジ前に並んだ。
 そんなこんなで客足が途切れたのが、午後五時十分頃。あと十分ほどで店長が戻る予
定だし、二十分後には寺東も来るはず。がんばろうと気合いを入れてパンを並べている
と、ショーウィンドウの外、道路を挟んだ向こう側にたたずむ男の姿が目に止まった。
(あの人、五時になる前からいたような)
 忙しい最中でも何となく記憶していた。五月も半ばを過ぎ、ぼちぼち暑さを意識し始
める頃合いに、その男は黒い手袋をしているように見えたから、印象に残ったのかもし
れない。
(バイクに乗る人でもなさそうだし、ほとんど同じ位置に立ってる)
 道路工事を予告する立て看板の横、まるでこちらの店からの視線を避けるかのような
ポジション取り。
(――まさか)
 不意に浮かんだ悪い想像に、一瞬、身震いを覚えた。ショーウィンドウに背を向け、
カウンターの内側に駆け込む。
(脅しの手紙の主?)
 呼吸を整え、ゆっくり、自然な感じで振り返る。ショーウィンドウのガラスには、白
い文字で店名などが施されている。それが障害になって、反対側の歩道にいる人とじか
に目が合うことはなかなかない。でも警戒してしまう。
(……いなくなった?)
 目線を左右にくまなく走らせる。男の姿は消えていた。三十分近くいて、何をするで
もなしに立ち去ったことになる。
(気のせいかな? 分かんない)
 脅しは久住淳に宛てた物だった。普段の格好をしている今の純子は風谷美羽であっ
て、久住ではない。ならば、基本的に心配無用となるはずだが、ことはそう単純でもな
い。風谷もアニメ『ファイナルステージ』には歌で関与しているわけで、その線から度
を外した原作ファンから嫌われている恐れはある。さらに言えば、久住淳の居場所を突
き止めるために、風谷美羽に近付いて問い詰めるなんていうケースも、考えられなくは
ないだろう。
「用心するに越したことはない、かな」
 呟いて、護身術の型をやってみた。店のユニフォームを着ていても、案外動けると分
かって、多少は安心できた。
 と、そのとき店のドアの鐘が鳴った。型の動作を止め、急いで服のしわを伸ばす。店
長は裏口から入るはずだし、寺東が来るにはまだ早いから、お客に違いない。
「いらっしゃいませ」
 声を張ると同時に、笑顔を入口の方へ向ける。
「あれ? 相羽君」
 今度の土曜に来るはずの相羽が、何故かいた。学校からの帰り道なのか、ブレザー
姿。でも、ここまで来るには自転車じゃないと不便だろうから、一旦帰宅しているは
ず。どちらにせよ、今は一人のようだ。
「急にごめん。今、大丈夫?」
「お客さんはいないけれど、私一人だけだから……手短になら」
 どぎまぎしつつも、気は急いている。
「急用ができて、土曜日は来られそうにないんだ。だから、僕だけ今日来てみたんだけ
ど、驚かせちゃったね」
「え? え?」
 唐突な話に、すぐには思考がついて行けない。相羽の方は、言うだけ言ってパンの物
色を始めそうな気配だ。
「待って。相羽君だけ来られなくなったって子とは、他の人は土曜に来るのね?」
「うん。唐沢に言っておいた。君がここでバイトしていることをいつ教えるかが、悩み
どころで」
「そっか、まだ言ってないんだ? だったら……当日がいいのかな」
 そこまで考えて、細かいことを気にしすぎと思えてきた。事情を知る相羽が皆を連れ
て来る形ならまだしも、彼が来られなくなった現状で、友達をコントロールしようとし
ているのは、いい気持ちではない。
「やっぱり、早めに言おうかしら。そうして、来たい人は好きなときに来てくれればい
い。来たくない人や来られない人は、それでかまわない。元々、そういうもんじゃな
い?」
「君がそう言うのなら、分かった。噂が一瞬にして第三者にまで広まって、千客万来っ
てことにはまあならないだろうし」
「よかった。よし、これで少し気が楽になったわ。土曜日、緊張するだろうなあって覚
悟してたから」
 純子が両手で小さくガッツポーズするのを見届け、相羽は今度こそパン選びに専念す
る。見ていると、胡桃クリームパンの他、レーズンサンドや野菜カレーパンを取ってい
くのが分かった。出たぱかりの新作、桃ピザはスルーされてしまったけれど。
「そうだ、さっき、佐藤さんが来たんだったわ」
「佐藤さん?」
 さすがに思い出せない様子の相羽。あるいは、人口に占める比率の高い佐藤姓だか
ら、多すぎて特定できないといったところか。純子は、中学生のときのパン横取り事件
を示唆した。
「ああ、あの人。へえ、今もここで買ってるんだ」
「誰のために買っていくのかは、聞かなかったけれどね」
 トレイにパンを五つ載せて、相羽はレジに戻って来た。会計を済ませて、純子がレ
シートを渡すと、「これ、記念に取っておくべきかな」と言った。
「えー、おかしいよ、そういうの」
「そう?」
「だって、記念になることなら他にもっとあるはず。これから先、ずっと」
 純子が答えたところで、店の裏手にある勝手口の方から音が聞こえた。ドアの開け閉
めに続いて、「ただいま。少し遅くなりましたが、店番、大丈夫でしたか」という店長
の声が届く。
「はい。結構お客さん、来ました。というか、今も来てます……友達なんですけど」
 どう紹介しようか急いで考える純子を置いて、相羽は店長に目礼した。
「涼原さんのクラスメートで、相羽と言います」
「うん? 君も見覚えがある。涼原さんがよく買いに来てくれていた頃、よく、同じよ
うに胡桃クリームパンを買っていったから、記憶に残ってる。同じ高校に進学したんだ
ね」
 店長の言葉に、相羽は瞬時、はにかんだ。
(相羽君も買いに来てたなんて、知らなかった。あのとき食べて、気に入ってくれたの
かな)
「凄いですね。常連客全員の顔と好みを一致させて覚えてるんですか」
 興味ありげに尋ねる相羽。店長は首を横に振った。
「全員は無理だろうなあ。何せ、毎回違うパンを買って行かれて、好みがさっぱり掴め
ない人もいるから。おっと、こうしちゃいられないんだった」
 店長は相羽に礼を言うと、いそいそと奥に引っ込んだ。新しくパンを焼かねば。卵を
追加購入した意味がない。
「忙しくなりそうだね。そろそろ帰るよ。送っていけなくてごめん」
「あ、うん」
 もう少し待ってくれたら、寺東が来て紹介できる――そんな考えが浮かんだ純子だっ
たが、引き留めるのはやめた。寺東に相羽を紹介すれば、「なーんだ、彼氏いるんじゃ
ないの。付き合ってどのくらい?」なんて風に聞かれそうな予感があった。うまくかわ
す自信がない。
「気を付けてね」
 笑みを浮かべて手を振っていると、ちょうどお客が入って来た。慌てて笑みを引っ込
め、手を下ろした。

「昨日、言うのを忘れていたんだけれど」
 純子はそう前置きして、アルバイト中に目撃した、店の外にしばらく立っていた男に
ついて、ざっと説明した。
「うーん」
 聞き手は相羽と唐沢。ちょうど、相羽が純子のバイトのことを唐沢に伝えたところだ
ったので、ついでに話しておこうと思った。
「それだけじゃあ、何とも言えないな」
 怖がらせたくないのか、本当に何とも言えないと感じたのか、唐沢が答えた。相羽も
一応、同意を示す。
「たまたま待ち合わせをしていて、立っていただけかもしれない。急にいなくなったの
は、迎えの車が来て乗り込んだか、来られなくなったからと連絡が入って立ち去ったと
か」
「仮にそのパン屋の方を見ていたとしても、危ない奴とは限らないしなあ。『あ、かわ
いい子がいる。声を掛けたいけど勇気が出ない。どうしよう』ってだけかもしれない
ぜ」
 唐沢は茶化し気味に言った。やはり、怖がらせたくない気持ちが強いようだ。
「まあ、最初は無害でも、悪い方へエスカレートする場合、なきにしもあらずだけど」
 対する相羽は、楽観的な見方ばかり示さない。これはもちろん、脅しの手紙の存在を
相羽が知っているからであって、知らない唐沢とは差が出て当然かもしれなかった。そ
のような手紙の存在なんて、昼食を終えたばかりのこんな場所――学校の教室で、第三
者に話すことではなかった。
「気になるのは、手袋かな。指紋を残したくないから、これから暑くなる季節でも手袋
を付けている、とか」
「おいおい、相羽。何でそんな風に、悪い方へ考えるんだよ。怖がらせて楽しんでると
かじゃないよな、まさか」
 小声だが不満を露わにする唐沢。
「当たり前だ、そんなんじゃない。大事だからこそ、最悪の場合を想定するよう、癖を
付けている。それにこんなことまで言いたくないけど、純子ちゃんに何かあったら、母
さんや他の大人に、影響があるから」
「それもそうだ。納得した」
 あっさりと矛を収めた唐沢は、続いて「じゃあ、学校の行き帰りもなるべく一緒にい
ないとだめだな」と二人に水を向けた。にんまり笑って、ボディガードにかこつけての
のろけ話でも何でも聞いてやるぜという態度を示す。それは純子でも分かるくらいに明
白なサインだった。
 しかし、相羽は真面目に答えた。
「百パーセントというわけに行かなくて、困ってる。僕が無理なときは、誰か代わりに
付いていてほしいよ」
「……こっちを見るってことは、俺でもいいのかいな」
 唐沢は自身を指差し、最前のにんまり笑みのまま言った。相羽は相羽で、真顔を崩さ
ずに応じる。
「ああ」
「……まじ、なんだな。俺、腕は結構筋肉着いていて太いが、これはテニスのおかげ。
護身術なんて知らないぞ。喧嘩もなるべく避ける平和主義者だぜ」
「それでもいい。近くに男がいるだけで、だいぶ違うはずだから」
「盾になって死ねってか」
「冗談を。盾になりつつ、逃げて生還しなきゃ意味がない」
 二人の間で、やり取りを聞いていた純子は、心理的におろおろし始めた。黙って聞い
ていると、息が詰まりそう。
「も、もう、やだなあ。相羽君も唐沢君も、万が一のことについて真剣になりすぎっ。
心配してくれるのは嬉しいけど。わ、私だって、少しだけど対処法は教わったんだか
ら」
 相羽らの通う道場で護身術を習ったことまで唐沢に伏せておく理由はなかったはずだ
が、今は話がちょっと変な方向に行ってしまっている。相羽がそのことを言わなかった
のを、唐沢は不審がるかもしれない。だから強くは言わずにおいた。
「ま、すっずはっらさんを守るってのは、悪くない。護衛名目に、お近づきになれる。
相羽クンのいないところでも、な」
「……しょうがないことだ。でも、唐沢が不純な動機オンリーでやるって言うのなら、
道場の誰かに頼もうかな」
「もー、二人とも、いつまで続ける気よ。ほんとにやめてよね。居心地悪くなっちゃう
じゃない。私が大げさに心配したせいね。はい、これでこの話はおしまい。いざとなっ
たら、車で迎えに来てもらうことだってできるんだから」
「なるほど」
 唐沢は合点がいった風に、大げさに首肯した。そろそろ収拾を付けるべきだと考えた
のだろう。一方の相羽も、疲れたような嘆息をしながらも、「とりあえず、うぃっしゅ
亭に行ってくれたらいい」と結んだ。
「そうだ、涼原さんのバイトのこと、白沼さんにも言っていいのか?」
「何で気にするの」
 聞き返しつつも、純子は白沼の存在を気にした。確か、何かの委員会に顔を出さなき
ゃいけないとかで、早めにお昼を済ませて、教室を出て行った。まだ戻っていないよう
だ。
「いやほら、詳しくは知らないけどさ。白沼さんの親父さんか誰かが、仕事のオファー
を涼原さんに出してるんだろ? そんな最中に、他の仕事にまで手を出してるなんて知
ったら、彼女の性格からして怒る……は言い過ぎだとしても、不愉快に思うんじゃない
か。うちの仕事一本に絞ってよ!って」
「契約では、オファーされた期間中、他の仕事をしていいことになってて。もちろん、
被るというか競合するようなのはだめだけれど」
 純子は相羽を見た。一人で判断していいものやら、決めかねたため。
「別にいいんじゃないか。秘密にしておいて、あとで知られる方が、よっぽど決まりが
悪いよ。何なら、今日にでも唐沢が誘って、一緒にういっしゅ亭に行けばいい」
「前もって目的を告げずに、か? それ、ハードル高すぎだろ」
 片手で額を抱えるように押さえた唐沢。だが、腕の影から覗く表情は、面白がってい
る節も見受けられた。
「びっくりする顔が見たい気もするな」
「唐沢君が誘うだけでも、充分にびっくりされそうだけど」
 純子の呟きに、そうかもなと男子二人も頷く。
「あ、でも、白沼さん、店のこと知っているかもしれない。一度、白沼さんのお母さん
が買いにいらしたから」
「ははあ。その情報は……誘いやすくなったのか、逆なのか。ていうか、そもそも今
日、シフト入ってるの、涼原さん?」
「うん。なるべくたくさん入れてるわ」
「何でそんなにがんばるかねえ。絶対、コレの問題じゃないんだから」
 右手の親指と人差し指でコインの形を作る唐沢。相羽がその腕を叩いた。
「その手つき、やめ。何だか下品だ」
「じゃ、はっきり言う。お金が目当てじゃなく、体験が目的なら、そんなにいっぱい働
かなくても、充分じゃないの? 違うか?」
「それは」
 純子は人差し指を伸ばした右手を肩の高さまで上げて、答えようとした。が、相羽の
前で本当の理由を話すのは、やはり躊躇われる。無理。
「……それは?」
「ち、父の日のためよ。お父さん、表面的には許してくれてるけれど、芸能関係の仕
事、ほんとはやめてほしいみたいだから。だから、父の日のプレゼントを買うのは、ア
ルバイトで稼ごうかなって」
 咄嗟の思い付きでペラペラと答えた。心中では、予定にないことを口走って、頭を抱
える自分の姿を描いていたが。
(ああー、何てことを! これじゃあ、色々説明しなければないことが増えるし、下手
をしたら、相羽君に勘付かれる?)
 唐沢に向いていた目を、ちらと相羽に移す。特段、何かに気付いたとか閃いたとか、
そんな気配は彼から感じ取れない。ただただ、急に顔つきを曇らせ、
「純子ちゃんのお父さん、反対してるの?」
 と聞いてきた。
「え、えっと、全面的ってわけじゃなく、たまーにね。一時あったでしょ、水着の仕事
とか」
 適当な返事を続けざるを得ない。実際のところ、父が内心どう思っているかは聞いて
いないが、応援してくれているのは間違いない。ごく稀にだが、会社の上司の娘さんが
ファンでサインを頼まれた、なんてことを笑顔で言ってくるぐらいだから、悪い気はし
ていないはず。
「そんなら分かる。よし、売り上げに協力しましょう。白沼さんに声を掛けるかどうか
は別として、なるべく早く行くよ」
 唐沢が胸を叩くポーズをした。ちょうどそのタイミングで、白沼が教室に入ってくる
のが、純子の位置から見えた。すぐさま、唐沢にもジェスチャーで知らせる。
 唐沢は、胸を叩いた腕ともう片方の腕を組むと、首を傾げた。
「さて、どうすっかな」

――つづく




#507/598 ●長編    *** コメント #506 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:21  (451)
そばにいるだけで 66−4   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:19 修正 第2版
            *             *

「あそこのパンは美味しいから、私もおしなべて好きよ。最近は全然行ってなかった
し、今日はまだ時間があるから行くのはいいわ。でも」
 白沼がういっしゅ亭に行くことに同意したのは、誘ったのが唐沢でなく、相羽だった
からというのが大きいようだった。
「どうして私だけなのかしら。涼原さんは? テストが近付いているから、ほとんど仕
事を入れていないはずよね」
「ほとんどってことは、ゼロじゃないからね」
 相羽はバスのつり革を持ち直してから言った。
 バスでも行けることを教えてくれたのは、白沼だった。通学電車の帰路、いつもとは
違う駅で降りれば、そこから路線バスが出ており、ういっしゅ亭の近くのバス停に留ま
る。
「それじゃあつまり、今日、あの子は仕事関係で忙しいと」
 正面のシートに座る白沼は、得心がいった風に見えた。しかし、程なくしてまた首を
傾げた。
「何かおかしいのよね。そんな日に私を誘うなんて。涼原さんが忙しくない日に、二人
で行けばいい話だと思うの。違う?」
 なかなか鋭い状況分析だなと相羽は感心した。
(純子ちゃんを誘わないことがそこまで不自然に思われるとは、予想外。このままだと
到着前に白状させられそう。仕方がない、少しだけ嘘を混ぜよう……)
 相羽は素早く考えをまとめ、それから答えた。
「実は、その仕事関係で、白沼さんと話をするように母さん達から言われてさ。それ
も、じゅん――涼原さんがいないところで」
「別に下の名前で呼んでも気にしないわよ。学校でも呼んでるじゃない」
「今のは仕事の話をしてるんだという意識が、頭をよぎったんだ」
「まあいいわ。かわいいから許してあげる」
 うふふと声が聞こえてきそうな笑みを作る白沼。
「それで、一体どんな話をしてくれと言われたの?」
「白沼さんもアドバイザー的な立場で関わってるんだったよね? 女子高校生の視点か
らの感想を出すっていう」
「とっくに承知でしょうけど、それは名目上ね。涼原さんの仕事ぶりを直に見られるよ
う、私が無理を言ったの。全然アドバイスをしないわけじゃないけれど、ほんの参考程
度よ」
「影響がゼロじゃないなら、話を聞く意味はあるでしょ。名目上でも何でも割り込めた
んなら、それだけで影響力があると言える」
 相羽は窓の外を見やり、バスの進み具合を確認した。じきに到着だ。
「これまでのところで、風谷美羽の仕事ぶりをどう感じているのか、率直な感想を聞い
てくるのが、僕の役割」
「……パン屋さんに足を運ぶ理由は?」
「パンでも食べながらの方が、リラックスできて、本音が出る。多分ね」
 車内アナウンスが流れた。降車ボタンが目の前にあるので押そうとしたら、誰かに先
を越された。
「私の家が、うぃっしゅ亭のパンを好んで買って食べていること、話したことあった
?」
「うーん、他の人から聞いたのかもしれない」
 どうにかごまかしきって、バスを降りた。相羽は下りる間際、料金の電光掲示板の脇
にあるデジタル時計で時刻を確かめた。
(これなら純子ちゃんと唐沢、先に着いてるよな)
 唐沢には純子の“護衛”を兼ねて、二人で先に行ってもらった。確実に純子達の方が
先に着いていないとまずいので、相羽は学校で白沼を足止めしたのだが、バスで行ける
と聞かされたときは、それまでの苦労が水泡に帰すのではと焦ったものである。
(そういえば唐沢、どんな顔をして待つつもりなんだろう……)
 ふと気付くと、店への方角を把握している白沼は、どんどん歩を進めていた。

            *             *

「一応、聞いとこ」
 うぃっしゅ亭なるベーカリーを知らなかった唐沢は、純子のあとに付く形で、自転車
を漕いできた。店の看板が見て取れたところで、横に並ぶ。
「にわかボディガードとして。涼原さんが前に見掛けた、変な奴はいるかい?」
「いないみたい」
 純子の返事は早かった。彼女自身、注意を怠っていない証拠と言える。
「そうか。なら、一安心だな。自転車はどこに?」
「お店の前のスペースに。手狭だから、従業員用の駐車場はなくて、私も同じ場所に駐
めるから」
 そんなやり取りをしたのに、自転車を駐めたのは純子のみ。
「唐沢君?」
「俺も一緒に入りたいところだけど、よしておくよ。店の人に、男をとっかえひっかえ
しているイメージを持たれたらまずいだろ?」
「そ、そんなことは誰も思わない、と思う……」
「ははは。その辺で時間を潰して、相羽達が来たら、偶然を装って合流する。涼原さん
はバイトがんばって来なよ」
「分かった。あの、店に入ったら、くれぐれも騒がないでね。普通の会話はもちろんか
まわないけど」
「しないしない、するもんか。君に話し掛けるのも極力控えるとしよう。それがボディ
ガードの矜持、なんちゃって」
 唐沢はハンドルを持つ手に力を込め、自転車の向きを換えた。この時間帯、住宅街に
通じる道は、下校の生徒児童らが途切れることなく続くようだ。唐沢はゆっくりしたス
ピードでその場を離れる必要があった。
 それから十分と経たない内に、白沼の姿を目撃して、唐沢は内心驚いた。
(はえーよ。だいたい、何でそっちの方向から、歩きで……。あ、相羽もいる。他の交
通手段で来たってわけか)
 こうなった状況を想像し、深呼吸で落ち着きを取り戻したあと、唐沢は予定通りの行
動に移った。

            *             *

 店に立ってしばらくして、入って来たお客に声で反応する。次いで、顔を向けると、
そこには相羽と唐沢と白沼の姿があった。
(えっ、もう来た!)
 もっとあとだと思っていた分、焦る。演技ではなく、本当に驚いてしまった。今日は
寺東が来ない日なので、しっかりしなければいけないのだが、意表を突かれてどきど
き。今日からマスクもしていないため、顔は隠せない。
 そもそも、友達の来店に気付いている、というか知っているのに声を掛けないのも不
自然だと思い直した。まずは無難な線で、行ってみよう。
「あ、相羽君。また来てくれたんだ。ありがとう」
「うん。友達も――」
 相羽が、店長の目を気にする様子で言い掛けたが、途中で白沼が割って入る。
「す、涼原さん? 何してるのよ、こんなところで」
 叫び気味に言って詰め寄ろうとしたが、そこで彼女も店長の視線に気付いたようだ。
レジの横に立つ店長の前まで行き、カウンター越しではあるが礼儀正しく頭を下げる。
「騒がしくしてすみません。知らなかったものですから、本当に驚いてしまって」
「いえいえ、かまいません。弁えてくだされば、大丈夫です」
 逆に恐縮したように店長は返す。訓示めいてしまうのが苦手なのか、特に必要でもな
さそうな商品棚の整理を始めた。
「すみません。それでは少しだけ……」
 純子の方へくるりと向き直り、白沼はやや大股で引き返してきた。
「説明して。これ以上、私が恥を掻かない程度の声で」
「えっと。難しいかも」
「何ですって」
 純子は相羽に目で助けを求めた。しょうがないという風に肩をすくめ、唐沢相手に目
配せする。それから、店長に一言。
「お騒がせしています。一度出ますが、また戻って来ますので」
 そうしている間にも、白沼は唐沢に背を押されるようにして、外に連れ出された。相
羽も続く。
「ごめん、純子ちゃん。悪乗りが過ぎたみたいだ」
「え、ええ。まあ、だいたい分かっていたことだけれどね。私もあとで、店長さんと白
沼さんに謝らなくちゃ」
「――唐沢がやられてるみたいだから、応援に行ってくる」
 外から白沼のものらしき甲高い声が、わずかだが聞こえたようだ。純子は相羽を黙っ
て見送った。
 たっぷり五分は経過しただろうか。クラスメート三人が戻って来た。白沼を先頭に、
相羽、唐沢と続く。
 白沼はさっきの来店時と同様、純子へ接近すると、耳元で「隠す必要ないっ。以上」
とだけ言って、トレイとトングを取った。そのトレイを唐沢に、トングを相羽に持たせ
る。
(――女王様?)
 純子は浮かんだ想像に笑いそうになった。堪えるのが大変で、しばらく肩が震えてし
まったくらい。
 それとなく見ていると、白沼はとりあえず自分が好きな物をどんどん取っているよう
だ。正確には、相羽に指示して取らせ、そのパンが唐沢の持つトレイに載せられる、で
あるが。
「ところで、あなたのおすすめは何?」
 通り掛かったついでのように、白沼が聞いてきた。トレイを一瞥し、考える純子。
(胡桃クリームパンはもう選ばれているから、ストロベリーパンかサワーコロネ……
あ、でも、確かこの間、白沼さんのお母さんが買って行かれたのって)
 被るのはよくないように思えた。そんな思考過程を読んだみたいに、白沼がまた言っ
た。
「前に母が買って帰った物も美味しかったけれども、とりあえず、新作が食べてみたい
わ」
「でしたら、少し季節感は早くなりますが」
「待って。その丁寧語、むずむずする」
「……季節の先取りと、遊び心を出したのが、この桃ピザよ」
 言葉遣いを砕けさせ、純子は出入り口近くの一角を指差した。薄手のピザ生地に、三
日月状にカットした桃とチーズ、アクセントにシナモンを振りかけた物。六分の一ほど
にカットされているが、試食の際、意外と食べ応えがあると感じた。
「あまり売れてないみたいだ」
 唐沢が店に来て初めてまともに喋った。その言葉の通り、今日は一つか二つ出ただ
け。新発売を開始して間がないが、確かに売れていない。
「名前から受けるイメージが、甘いのとおかずっぽいのとで、混乱するんじゃないか
な」
 これは相羽の感想。興味ありげではあるが、先日と同様、買うつもりはないらしい。
「どの辺が遊び心?」
 小首を傾げ、質問をしてきた白沼。
「……」
 純子は真顔を作ると、桃ピザのバスケットの前まで行き、身体を白沼に向けた。そし
て沈黙のまま商品名を指差し、次に自分の太もも、さらに膝を指差していった。
「……ぷ」
 コンマ三秒遅れといったところか。白沼は駄洒落を理解すると同時に、盛大に吹き出
しそうになる。超高速で口を両手で覆うと、身体を震えさせて収まるのを待つ。顔の見
えている部分や耳が赤い。
「なるほど。ももひざとももぴざ」
 背後で唐沢が呟いた。それが白沼の収まり掛けていた笑いを呼び戻したらしく、丸め
ていた背を今度はそらした。その様子に気付いた唐沢が、調子に乗る。
「じゃあ、ひじきを使ったピザなら、ひじひざだなー」
「――っ」
「あごだしを使ったあごひざ、チンアナゴを使った――」
「待て、唐沢。それは止めろ」
「なら、ピロシキとピザを合わせて、ぴろぴざ」
「最早、駄洒落でも何でもないよ」
 相羽がつっこんだところで、白沼は男子二人を押しのけるようにして、またまた店を
飛び出して行った。からんからんからんとベルの音が通常よりも激しく長く鳴る。
「だめじゃないの、二人とも」
 純子がたしなめるのへ、相羽は心外そうに首を横に振る。
「え、僕は違うでしょ。言ってたのは唐沢だけ」
 指差された唐沢はにんまり笑いを隠さず、純子にその表情を向けた。
「何言ってんの、涼原さん。大元は、涼原さんの説明の仕方だぜ、絶対」
「だって、ああでもしないと、面白味が伝わらないんだもの」
 確かに、桃ピザの形が太ももや膝の形をしている訳でもなし、口で説明したら単なる
つまらない駄洒落である。
「しっかし、意外とゲラなんだな、白沼さんて。笑いのつぼがどこにあるのか、分から
ないもんだわさ」
 ふざけ口調で唐沢が言ってると、白沼が戻って来た。一日で三度の来店である。当
然、唐沢をどやしつけるものと思いきや、店内であることを考慮したのか、何かを堪え
た表情で、彼の背後をすり抜ける。純子の前で、一度大きく息を吐いてから、短く言っ
た。
「ピーチピッツァ」
「え?」
「商品名、ピーチピッツァとでも変えてもらえないかしら。でないと、お店に来る度に
思い出して、大笑いしてしまいそうだから」
「心配しなくても、今の売れ行きだと、ひと月後にはなくなってる可能性が高そうだっ
て、先輩の人が言ってたよ」
 白沼の目尻に涙の跡を発見した純子は、でも、そのことには触れずにいた。
「……味見してみることにする。相羽君、その――ピーチピッツァを一つ取って」
 相羽は苦笑を浮かべ、言われた通りにした。

 店は徐々に混み始めていた。白沼が多めに買い込み、売上増にそれなりに協力できた
ということで、そろそろお暇しようということになった。
「帰り道のボディガードをやるって言うんなら、俺の自転車、貸してやるけど」
 唐沢の申し出に対し、相羽が反応する前に、白沼が口を開いた。
「じゃあ、何? 唐沢君は帰り、どうするの。私と一緒にというつもりなら、お断り
よ。今日は特に、一緒にいたくない気分」
 ぷんすかという擬態語が似合いそうな怒りっぷりである。
「ご心配なく。ルートさえ分かれば、一人で帰るさ。相羽は自転車、明日の朝、駅まで
乗ってきてくれりゃいいから」
 そう言う唐沢の目線を受けて、相羽は純子の方を向いた。接客の切れ目を見付けて、
純子は先に答える。
「いいって。まだ二時間ぐらい待たなきゃいけなくなるから。相羽君は早く帰って、お
母さんのために明かりを付けておく。でしょ?」
「うーん」
 迷う様子の相羽。窓から外を見る素振りは、空の明るさを測ったのだろうか。
 と、そのとき、相羽の目が一瞬見開かれる。大きな瞬きのあと、若干緊張した面持ち
になった。
「純子ちゃん。ひょっとして、あれ」
 レジに立っていた純子に近寄り、囁きながら外の一角を指差す。
「あ、あの、今、お客さんが並びそうなんだけど」
「君が言ってた怪しい男って、あれじゃないか?」
「え?」
 指差す方角に目を凝らす。記憶に新しい、黒手袋の男が立っていた。今回は看板の影
ではなく、手前に出て来ている。
「うん、あの人。多分同じ人」
 短く答えて、レジに戻る。気になったが、もう相羽達の相手をする余裕はない。
 相羽は唐沢と二言三言、言葉を交わしてから、白沼にも何か言い置いた。そして男子
二人は、店を出て行った。
(いきなり、直に問い詰めるの? だ、大丈夫かな)
 不安がよぎった純子だったが、レジ待ちのお客をこなすのを優先せざるを得なかっ
た。

            *             *

 相羽と唐沢はうぃっしゅ亭を出ると、謎の男に直行するのではなく、一旦、別の方向
へ歩き出した。道路を渡って、反対側の歩道に着くと、くるりと踵を返し、男のところ
へ足早に行く。
「すみません。ちょっとお尋ねしたいんですが」
 声を掛けると、相手は明白に動揺した。全身をびくりと震わせ、頭だけ動かして相羽
と唐沢を見る。
「な、何か」
「俺達、あのパン屋の関係者なんですが」
 唐沢がやや強めの調子で言い、自らの肩越しに親指でうぃしゅ亭を示す。打ち合わせ
た通りの“嘘”だ。相手から一定の距離を保つのも、打ち合わせ済み。
「数日前から不審な男が現れるようになって、客足に悪い影響が出てるんです」
 男の後ろに回り込み、相羽が言った。これで男も簡単には逃げられまい。それから再
び唐沢が口を開く。
 男は頭の向きをいちいち変えるのに疲れたか、足の踏み場を改めた。左右に唐沢と相
羽を迎える格好になる。
「それで注意していたら、あなたの姿が視界に入ったものだから、一応、事情を聞いて
おきたいなと思いまして」
「いや、ぼ、僕は、何もしていない。ここで立っているだけだ」
 漠然と想像していたよりも若い声だ。それに線の細さを感じさせる響きだった。
「何もしてないって言われても、客足が落ちているということは、恐がっている人がい
るみたいなんです」
 相羽が穏やかな調子に努めながら尋ねた。
「お客に説明できればまた違ってくるので、何の御用でこちらに立たれるのか、理由を
お聞かせください。お願いします」
「……」
 急に黙り込んだ男。そのままやり過ごしたいようだが、ここで逃がすわけにはいかな
い。
「お話しいただけないようでしたら、本意ではないんですが、しかるべきところに連絡
を入れてもいいですよね? 少し時間を取られると思いますが……」
 携帯電話を取り出すポーズをする。それだけで男は慌てて自己主張を再開した。
「だ、だめだ。それは断る」
「だったら、事情を聞かせてください」
 ここぞとばかりに、鋭く切り込むような口ぶりで相羽が聞く。唐沢も「そうした方が
いいと思うぜ」と続く。
 く〜っ、という男の呻き声が聞こえた気がした。たっぷり長い躊躇のあと、男はあき
らめたように口を割った。
「話す。話すから、大ごとにしないでくれ」
 黒い手袋を填めた両手は拝み合わされていた。

            *             *

 相羽から事の次第を聞いた純子は、驚きを飲み込むと、店長に許可をもらって、寺東
に電話を掛けた。
「木佐貫(きさぬき)? あー、確かに私の別れた相手だけど、何で名前知ってるの
さ。言ったっけ? ――何だって! あのばか、そっちに現れてたの。うわあ、何考え
てんのやら。ごめーん、ひょっとしてじゃなくて、ほぼ確実に迷惑掛けたよね?」
「いえ、結果的にはたいしたことには」
「木佐貫のぼんぼんはまだいる? いるんなら引き留めといてくれない? 私、今から
そっち行くから」
「時間あるんですか? それよりも、会って大丈夫なんですか」
「平気平気。覚悟しとけって言っておいてね。そんで、涼原さん、あなたにも謝らない
といけない」
「私の方はいいんですー。勝手に勘違いしてただけで、恥ずかしいくらいですから」
 等とやり取りを交わして、電話を終える。それから通話内容を、外で待っている相羽
達に伝えた。
「裏付けは取れたわけだ」
 この段階でようやく安堵する相羽。唐沢は、意気消沈気味の謎の男――木佐貫に対し
て、「元カノが来るみたいだけど、そんな具合で大丈夫かい?」と気遣う言葉を投げ掛
けた。
「いやー、まー、話せるだけでありがたいっていうか」
 木佐貫は斜め下を向いたまま、力のない声で答えた。
 分かってみれば、ばかばかしくも単純な事態だった。
 純子が気になった怪しい人物は、大学生の木佐貫要太(ようた)で、寺東の別れた交
際相手であった。別れたと言っても、木佐貫は納得していなかったというか未練があっ
たというか、とにかく寺東と話し合いを持ちたいと考えていたようだ。だが、携帯端末
からは連絡が全く取れなくなり、寺東の住む番地も通う学校も知らないという状況故、
コンタクトがなかなか取れなかった。そんな折、パン屋でアルバイトをしているという
話をたまたま聞きつけた木佐貫は、時間さえあれば店の前に立って、出入りする寺東に
接触しようと考えた。だが、まず寺東が店に出て来る日や時間帯を把握するのに一苦労
し、把握できたらできたで、店に入るところを呼び止めるのはそのあとのバイトを邪魔
しかねないし、仕事終わりまで待つのは、木佐貫にとって都合の悪い日ばかり続いた。
 それでも、ようやく夜の時間の都合が付き、今日こそはと待つ決意をしていたのが、
昨日のこと。ところが、寺東の方にアクシデント――臨時の再テストのせいで店に入る
のが遅れた――が発生したため、木佐貫はやきもきさせられる。そんなところへ、店の
中から他の店員(純子のことだ)にじっと見られてしまった。決意が萎えた木佐貫は、
一時退散することに決めた。もう少し待っていれば、寺東が来たというのに。
 なお、木佐貫が友人らと興した事業は、ウェアラブル端末の研究開発で、彼が常に着
けている黒の手袋は、その試作品の一種だという。
「これを開発するのに時間を取られて、彼女と会える時間がどんどん減っていったん
だ。ようやく試作機が完成し、時間に余裕ができた。でも、手袋は実験のためにずっと
着けてるんだけど……それが誤解を招いたみたいで申し訳ない。デザインを再考しなく
ちゃいけないかなあ」
 木佐貫の研究者らしいと言えばらしい述懐に、純子も相羽達も脱力した苦笑いをする
しかなかった。
「あっ、来た。タクシーを使うなんて」
 純子が言ったように、寺東はタクシーに乗って現れた。料金を支払って領収書を受け
取ると、急いで下りる。真っ直ぐにこちら――ではなく、木佐貫の方へ進んで、その領
収書を突きつけた。
「とりあえず、これ、そっち持ち」
「わ、分かった。今の手持ちで足りるはず……」
 財布を取り出そうとする動作を見せた木佐貫を、寺東は静かく重い声で、きつくどや
しつけた。
「あとでいい、金のことなんて。とにかく――まず、謝ったんだよね? 店にも、彼女
にも」
 ビシッと伸ばした右腕で、うぃっしゅ亭と純子を順番に示した寺東。木佐貫は物も言
えずに、うんうんと頷いた。
「ほんと?」
 この確認の言葉は、純子らに向けてのもの。迫力に押されて、こちらまでもが無言で
首を縦に振った。
「よかった。でも、あとでもう一回、私と一緒に謝りに行くから。涼原さんには、今謝
る」
 親猫が仔猫の首根っこを噛んで持ち上げるような構図で、寺東は木佐貫を引っ張り、
横に並ばせた。そして二人で頭を深く、それこそ膝に額を付けるくらいに下げた。
「怖い思いをさせてごめん!」
「えっと、電話でも言ったですけど、もういいんです。昨日の今日のことだし、実害は
なかったし、こちらの思い込みでしたし」
「そういうのも含めて、怖がらせたのは事実なんでしょ? だから謝らなきゃ気が済ま
ない」
「わ、分かりました。許します。謝ってくれて、ありがとうございました」
 収拾を付けるためにも、純子は受け入れた。こういう場は苦手だ。早く店に戻りたい
気持ちが強い。
「このあとお話しなさるんでしたら、ここを離れて、喫茶店かどこかに入るのがいいか
と思いますが、どうでしょう」
 助け船のつもりはあるのかどうか、相羽が言った。
「そうさせてもらう。――あなた達がこのぼんぼんを問い詰めてくれたんだね」
「必死でしたから」
「俺は痛いの嫌いなんで、内心ぶるってましたけど」
 そんな風に答えた相羽と唐沢にも、寺東は木佐貫共々頭を垂れた。
「では、これから話し合って来るとしますか。巻き込んだからには後日、報告するから
ね。楽しみじゃないだろうけど、待っといて」
 言い残して場を立ち去る寺東。着いて行く木佐貫は、一度、純子達を振り返り、再び
頭を下げた。その顔は、寺東と話ができることになってほっとしたように見えた。
「よりを戻す可能性、あんのかね?」
 唐沢が苦笑交じりに呟くと、相羽は「あるかも」と即答した。
「少なくとも、別れる原因になった、直接の障害は取り除かれたはずだよ。試作品を完
成させるまでは会う時間がないほど多忙だったのが、完成後は実際に使ってみてのテス
トが中心になるだろうから、ある程度は余裕が生まれる」
「なるほど」
「でも、今日みたいな行動を起こしたことで、嫌われてる恐れもありそうだけど」
「だよなあ」
 興味なくはない話だったけれども、純子は店内へと急いだ。
(よりを戻せるものなら戻してほしい気がするけど、あの男の人とまた顔を合わせるこ
とになったとしたら、気まずくなりそう)
 裏手に回ってから店舗内に入り、売り場に立つ。すると、騒動の間、ほぼ店内で待機
状態だった白沼がすっと寄ってきて、待ちくたびれたように言った。
「お節介よね、あなたも、相羽君も。唐沢君までとは、意外中の意外だったわ」
「そうかな。乗りかかった船っていうあれかな」
「忙しい身で、余計なことにまで首を突っ込んでると、いつか倒れるわよ。で、おおよ
その事情は飲み込めているつもりだけど、念のために。仕事に影響、ないわよね」
「ええ」
「よかった。それさえ聞けたら、早く帰らなきゃ。パン、新しいのと交換して欲しいぐ
らい、長居しちゃったから。あ、もうボディガードとやらはいいわよね」
「うん。大丈夫と思う」
「じゃあ、相羽君と一緒に帰ってもいいのね?」
「……うん」
「そんな顔しないでよ。別に今のところ、取ろうなんてこれっぽっちも考えてないか
ら。難攻不落にも程があるわ。だいたい、あなたに仕事を頼んでいる間、あなたの心身
に悪い影響を及ぼすような真似、私がするもんですか」
 たまに意地悪をしてくる……と純子は少し思ったが、無論、声にはしない。
「それじゃ。まあ、がんばるのもほどほどに頼むわよ」
「ありがとう。――ありがとうございました」
 まず友達として、次に店員として、白沼を送り出した。

            *             *

「唐沢君。あなたの行動原理って、どうなってるのかさっぱり分かんないわ」
 バス停までの道すがら、白沼は後ろをついてくるクラスメートに向かって言った。
 自転車を相羽に貸した唐沢は、結局、白沼と一緒に帰ることになった。
「そうか?」
 心外そうな響きを含ませる唐沢。
「俺ほど分かり易い人間は、なかなかいないと自負してるんだけど」
「どの口が……。さっきだって、私が相羽君と一緒に帰れそうだったのに、わざわざあ
んなことを言い出して」
 白沼は振り返って文句を言った。
 うぃっしゅ亭を出る直前、唐沢は相羽に聞こえるよう、ふと呟いたのだ。
「サスペンス物なんかでさあ、こんな風に勘違いだったと分かって一安心、なんて思っ
ていたら、本物が現れて……という展開は、割とよくあるパターンだよな」
 この一言により、相羽は多少迷った挙げ句ではあったが、純子の帰り道に同行すると
決めた。
「邪魔して楽しい?」
 聞くだけ聞いて、また前を向く白沼。
「邪魔も何も、白沼さんはもう相羽を狙ってないんだろ」
「完全に、じゃないわよ。それに、完全にあきらめたとしても、二人きりでしばらくい
られるのがどんなに楽しいことか、分かるでしょ」
「そりゃもちろん」
「だったらどうして。あなただって、涼原さんに関心あるくせに。バイト終わりまで待
つことはできないから、一緒に帰れない。だったら、私の方を邪魔してやろうっていう
魂胆じゃなかったの?」
「うーん、その気持ちがゼロだったとは言わないけどさ」
「殴りたくなってきたわ」
 立ち止まって、右の拳を左手で撫でる白沼。彼女にしては珍しい仕種に、唐沢は本気
を見て取った。
「わー、待った」
「何騒いでるの。バス停に着いたわ」
「あ、さいですか」
 時刻表に目を凝らし、「遅れ込みで、十分くらいかしら」と白沼。そしてやおら、唐
沢の顔をじっと見た。
「言い訳、聞いてあげる。さっきの続き、あるんでしょう?」
「う。うむ」
 バス停に並ぶ人は他にいなかったので、ひとまず気にせずに喋れる。
「何となくだけど、相羽の奴、何か隠してると思うんだ」
「え、何を?」
「分からんよ。だから何となくって言ったんだ。前にも、似た感じを受けたとき、あっ
た気がするんだが。それで、そのことが涼原さんと関係してるのかどうかも分からない
が、なるべく一緒にいさせてやりたいと思うわけ」
「おかしいわね。だったら今日、涼原さんと一緒にあのパン屋まで行ったのは、どうい
うこと」
「やむを得ないだろ。俺が白沼さんを誘っても、断られる確率九十九パーセント以上あ
りそうだったから」
「百でいいわよ」
「それは悲しい。委員長と副委員長の仲なのに」
「くだらない冗談言ってないで、要するに、あの子と一緒にいたかったんじゃないのか
しら」
「それもあったのは認める。あと、涼原さんが相羽のこと、何か聞いてないかと思って
探りを入れるつもりだったが、うまく行かなかった。ていうか、多分、涼原さんは相羽
に違和感を感じてない」
「感じてる方が間違ってるんじゃないの。私もぴんと来ない」
「うーん。そうなのかねえ」
「――でもまあ、今日は少し見直したわよ」
「何の話」
「あなたのことをちょっとだけ見直した。相羽君に言われて、すぐに不審者のところに
行ったじゃない。私、てっきり逃げるもんだとばかり」
「ひどい評価をされてたのね、俺って」
「見かけだけの二枚目と思ってたもので」
「いや、本当に怖かったんだよん。万が一にも乱闘になって、この顔に傷が付いたら
どーしようかと」
「……取り消そうかしら。あ、来たわ、バス」
 白沼はそう言うと、プリペイド式の乗車カードを取り出した。

――つづく




#508/598 ●長編    *** コメント #507 ***
★タイトル (AZA     )  17/08/31  01:22  (315)
そばにいるだけで 66−5   寺嶋公香
★内容                                         17/09/01 03:21 修正 第2版
            *             *

 いつもなら、夜道で安全確保するために自転車のスピードは抑え気味だったが、今夜
はそれだけが理由じゃなかった。
「相羽君、本当にこんなゆっくりでいいの? おばさまが心配されてるんじゃあ」
「さっき言ったでしょ。電話して事情を話したから、問題なし」
 好きな人と自転車で行く帰り道は、自然とその速度が落ちてしまう。安全の面で言う
なら、注意散漫にならないように気を付けねば。
 尤も、相羽の方は借りた自転車に不慣れだということも、多少はあったに違いない。
サドルの調整は僅かだったが、やはり自分自身の自転車に比べれば段違いに乗りづらい
だろう。なお、警察官に呼び止められるようなもしもの場合に備え、自転車を貸したこ
とを唐沢に一筆書いてもらい、メモとして持っている。
「純子ちゃんの方こそ、よく許可が出たね、アルバイトの。ご両親は反対じゃなかっ
た?」
「え、ええ。本業、じゃないけど、タレント活動に役立つ経験を得るためって言った
ら、渋々かもしれないけど、認めてくれた」
「仕事関係なら、車で送り迎えをしてくれてもいいのに」
 過保護な発言をする相羽。
「平気だって。何のために護身術を習ったと思ってるの」
「うん……まあ、こうして実際に道を走ってみると、明るいし、人や車の往来もそれな
りにあると分かった。開いている店も時間帯の割に多いし、ある程度、不安は減った
よ」
「そうそう。安心して。相羽君に不安を掛けたくない」
 前後に列んで走っているため、お互いの表情は見えないが、このときの純子は思いき
り笑顔を作っていた。一人で大丈夫というアピールのためだ。
「ところで、待ってくれている間、どうしてたの?」
「お腹が減るかもと思って、近くのファーストフードの店に入ったんだけど、結局、ア
イスコーヒーを飲んだだけだった。だいぶ粘ったことになるけど、店が空いていたせい
か、睨まれはしなかったよ。ははは」
「コーヒー飲んでいただけ?」
「宿題を少しやって、それから……ちょっと曲を考えてた」
「曲? 作曲するの?」
 初耳だった。振り返りたくなったが、自転車で縦列になって走りながらではできな
い。
「うん。ほんの手習い程度。作曲って呼べるレベルじゃない。浮かんだ節を書いておこ
うって感じかな」
 手習いという表現がそぐわないと感じた純子だったが、あとで辞書を引いて理解し
た。その場ではひとまず、文脈から雰囲気で想像しておく。
「それってピアノの曲?」
「想定してるのはピアノだけど、なかなかきれいな形にならない。テクニックをどうこ
う言う前に、知識がまだまだ足りないみたいでさ」
「そういえば、エリオット先生の都合が悪くなってから、別の人に習ってたんだっけ。
作曲は、新しい先生からの影響?」
「そうでもないんだけど」
 やや歯切れの悪い相羽。一方、純子は話す内に、はっと閃いた。
(誕生日のプレゼント。五線譜とペン――万年筆ってどうかな?)
 すぐさまストレートに尋ねてみたい衝動に駆られるが、ここはぐっと堪えた。黙って
いると、相羽から話し始めた。
「ついでになってしまったけれど、実はエリオット先生は昨年度までで帰国されたん
だ」
「え、あ、そうなの? 昨年度ということは、三月までか。ずっとおられるものだとば
かり……。残念。相羽君と凄くマッチしていたと感じていたのに」
「――僕も全くの同感」
「せめて、きちんとお見送りしたかったのに。相羽君も何も聞かされなかったの?」
「うん。急に決まったことだったらしくて、僕の方でも都合が付かなかった」
「うー、重ね重ね残念。次の機会、ありそう? 私にはどうすることもできないけれ
ど、もう一度会って、お礼をしたり、相羽君のことをお願いしたりしたいな」
「機会はきっとあるよ」
 この間、寺東と一緒に帰ったときと違って、今日は赤信号に引っ掛からない。すいす
い進む。思っていたよりも早く、自宅のある区画まで辿り着けた。
「ここでいい」
 家の正面を通る生活道路を見通す角、純子は言ってから自転車を降りた。あとほんの
数メートルだが、自宅前まで一緒に行くのは、やはり両親の目が気になる。
 自転車に跨がったまま足を着いた相羽は、「分かった」と即答する。
「今日は結果的に何事もなくて、よかった。凄く心配だった。全部が解決したわけじゃ
ないけれど、君に何かあったらと思うと」
「平気よ、私。そんな心配しないで。どちらかというと、みんなが来てくれたことの方
が気疲れしたくらい」
「とにかく、早く帰って、早く休んで。また一緒にがんばろ、う……」
「うん。相羽君も。帰り道、気を付けて、ね……」
 互いに互いの口元を見つめていることに気付いた。
(どどどうしたんだろ? 急に、凄く、キスしたくなったかも?)
 口の中が乾いたような、つばが溜まっていくような、妙な感覚に囚われる。
(相手も同じ気持ちなら……で、でも、往来でこんなことするなんて。万が一にでも、
芸能誌に知られたら)
 言いつけを思い出し、判断する冷静さは残っていた。
「相羽君、だ――」
「大好きだ」
 相羽は自転車に跨がったまま、首をすっと前に傾げ、純子の顔に寄せた。
 近付く。体温が感じられる距離から、産毛が触れそうな距離へ。じきに隙間をなく
す。
 ――唇と唇が短い間、当たっただけの、ただそれだけのことが。さっきの相羽の一言
よりもさらに雄弁に、彼の気持ちを伝えてくる。
 もうとっくに分かっていることなのに、もっともっと、求めたくなる。
「じゃ、またね」
 相羽は軽い調子で言ったものの、顔を背けてしまった。さすがに不慣れな様子が全身
ににじみ出る。おまけに、他人の自転車であるせいか、漕ぎ出しがぎこちない。
「うん。またね」
 純子も言った。いつもの気分に戻るには、今少し掛かりそうだ。

 週が明けて月曜日。
 うぃっしゅ亭でのアルバイトは今週木曜までで、金曜日に買い物。そしてその翌日、
相羽の誕生日だ。
(――という段取りは決めているものの)
 純子は朝からちょっぴり不満だった。先週の土曜に急用ができたと言っていた相羽か
ら、その後の説明がなかったから。電話やメールはなかったし、今朝、登校してきてか
らはまだ相羽と会えてさえいない。
(そりゃあ、全部を報告してくれなんて思わないし、おこがましいけれども。最初の約
束をそっちの都合で変えたんだから、さわりだけでも話してくれていいんじゃない?)
 会ったら即、聞いてやろうと決意を固めるべく、さっきから頭の中で繰り返し考えて
いるのだが、その度に、キスのシーンが邪魔をしてくる。
(うー、何であのタイミングで、急にしたくなったのかなあ)
 唇に自分の指先を当て、そっと離して、その指先を見つめる。
「おはよ。何か考えごと?」
 背後からの結城の声にびっくりして、椅子の上で飛び跳ねそうになった。両手の指を
擦り合わせつつ、振り向く。
「そ、そう。でも、全然たいしたことじゃないから。お、おはよ」
 動揺しながらも、結城の横に淡島の姿がないことに気が付いた。
「あれ? 淡島さんは?」
「あー、朝、電話をもらったんだけど、今日はお休みだって。頭痛と腹痛と喉痛、同時
にトリプルでやられたとか」
「ええ? じゃあ、お見舞いに」
「純は気が早いなあ。たまにあることだから、一日休んでいればまず回復するって言っ
てたよ」
「それなら、まあ大丈夫なのね」
「様子見だね。それよか、相羽君どこにいるか知らない?」
「ううん、今日はまだ見掛けてない」
「そっかあ。淡島さんから短い伝言を頼まれたんで、忘れない内に伝えとこうと思った
んだけど」
「伝言? 珍しい」
「お? 彼女の立場としては気になるか、そりゃそうだよね。何で相羽君のことを占っ
てんだって話になるし」
「わ、私は別にそんなつもりで。って、占い?」
「知りたい? 伝言といっても、他言無用じゃないんだ。淡島さんが言ってたから、問
題ないよ」
「……知りたいです」
「素直でよろしい。でも、聞いたってずっこけるかも。全然、たいしたいことないし、
それどころか意味がよく分からないし」
「勿体ぶらずに早く」
「はいはい。『前進こそが最善です。何も変わりありません』だってさ」
「前進……? ぼやかしているのは、いかにも占いっぽいけど」
「私が思うに、これってあんたとの仲を言ってるんじゃない?」
「――ないない」
 赤面するのを意識し、顔の前で片手を振る純子。
(キスでも一大事なんだから。これ以上前進したとして、何も変わらないってことはあ
り得ないと思う……)
「違うかなあ。淡島さんが、『他言無用ではありませんけれども、相羽君に伝えるのは
涼原さん以外の口からにしてくださいませ』ってなことを念押しするもんだから」
(私の口からではだめ……?)
 気になるにはなったが、それ以上に疑問が浮かんだ。
「淡島さんが直接、電話で相羽君に伝えれば済む話のような」
「ぜーぜーはーはー言ってたから、男子相手では恥ずかしいと思ったんじゃない?」
「うーん」
 そういうことを気にするキャラクターだったろうか。淡島のことはいまいち掴めない
だけに、想像しようにも難しかった。
「とにかく、そういうわけだから、純は今の話、相羽君には言わないように」
「はーい、了解しました」
 悩んでもしょうがない。今は、土曜の急用とやらの方が気になるのと、それ以上に相
羽への誕生日プレゼントが大きなウェイトを占めていた。

 その日、相羽が登校したのは、昼休みの直前だった。
「もう、休むのかと思ってた」
 朝からアクティブに探していただけあって、結城の行動が一番早かった。午前最後の
授業が終わるや、相羽の席に駆け付け、メモ書きにした淡島からの伝言を渡すと、「邪
魔だろうから」とすぐに立ち去った。
「何これ」
 メモから視線を起こし、何となく純子の方を向く相羽。
「う、占いの結果じゃないかな。淡島さん、今日は休みで、どうしてもそれだけは伝え
たかったみたい」
「ふうん」
 そう聞いて、考え直す風にメモの文言に改めて読み込む様子。口元に片手を当て、思
案げだ。
「相羽ー、遅刻の理由は?」
 唐沢が弁当箱片手に聞いた。格別に気に掛けている感じはなく、物のついでに尋ねた
のか、弁当の蓋を開けて、「うわ、偏っとる」と嘆きの声を上げた。
「土曜の昼から、ちょっと遠くに出掛けてさ。日曜の夜に帰って来られるはずだったの
が、悪天候で予定が。結局、今朝になったんだ」
「大型連休終わってから、旅行? どこ行ったんだよ」
「宮城のコンサートホールに」
「おお、泊まり掛けでコンサートとは優雅だねえ。テストも近いってのに」
 余裕がうらやましいと付け足して、唐沢は昼飯に取り掛かった。
「相羽君、ちょっと」
 純子は開けたばかりのお弁当に蓋をし、席を立つと、相羽の腕を引っ張った。
「うん? 僕は早めに食べてきたから、食堂には行かないんだけど」
「話があるの」
「この場ではだめ?」
「だめってわけじゃないけれども」
 純子は腕を掴んだまま、迷いを見せた。
(明らかに嘘をついてる……と思ったんだもの。嘘なら、きっと何か理由があるんでし
ょ? だったら、他の人には聞かれたくないんじゃないの? せめて私にはほんとのこ
と言ってほしい)
 どう話せばいいのか、決めかねていると、相羽の腕がふっと持ち上がった。彼が席を
立ったのだ。
「いいよ。どこに行く?」
 純子はいつもよく行く、屋上に通じる階段の踊り場を選んだ。昼休みが始まって間も
ない時間帯なら、他の人達が来る可能性も低いだろう。長引かせるつもりはなかったの
で、お弁当は置いてきた。
「気を悪くしないでね。相羽君、土曜に急用ができたって言ってたわ」
「……ああ。そうか。そうだね。コンサート鑑賞が急用じゃ、変だ」
 ストレートな質問に、相羽は柔らかな微笑みで応じた。
「うん。行けなくなった人からもらったとか、サイトの再発売の抽選に当たったとか、
急遽チケットを入手できたという事情でもない限り、急用でコンサートっておかしい
わ。でも、そもそも急にコンサートに行けるようになったとしても、その内容を私達に
伏せておく理由が分からない」
「なるほど。推理小説やマジックが好きになったのが、よく分かる」
「あなたのおかげよ、相羽君」
 さあ答えてと言わんばかりに、相手をじっと見つめ、両手を握る純子。相羽は頭をか
いた。
「参ったな。調べたらすぐに分かることなんだけど、宮城でのコンサートっていうの
が、エリオット先生のお弟子さんを含む外国の演奏家四名に、日本の著名な演奏家一名
が加わったアンサンブルで、ピアノ三重奏から――」
「ちょ、ちょっと待って。内容はいいからっ。今、エリオット先生って。先生が日本に
また来て、会えたの?」
「いや、日本にお出でになってないよ。ただ……エリオット先生のレッスンを受けられ
るかどうかにつながる、大事な話が聞けると思うという連絡を先生からいただいてね。
もし来られるのであれば、開演前と終演後に、みなさん時間を作るって聞かされたら、
行くしかないと思った」
「それで、どうなったの?」
「話の具体的な内容、じゃないよね。……まだ話を聞いただけで、どうこうっていうの
はないんだ。近々、と言っても八月に入ってからだけど、エリオット先生に来日の予定
があるそうだから、そのときに教わるかもしれない」
「……相羽君にとって、それはいい方向なのよね」
「ま、まあ。とびとびに指導を受けたって、即上達につながるとは考えにくいけれど
も、先生の教えに触れておくのは大事だと思う。ずっと前から、毎日ピアノを触ってお
くように言われて、音楽室のピアノを使わせてもらって、できる限りそうしてきたけ
ど、全然不充分だって痛感してたところだったんだ。プロの人達の話を聞けて、少し前
向きになれた」
 相羽の言葉を聞いて、純子はひとまずほっとするとともに、別に聞きたいことがむく
むくと持ち上がった。
(音大を目指すの?)
 聞けば答えてくれると思う。でも、聞けなかった。何となくだけど、大学も同じとこ
ろに通って、普通のカップルのように付き合いが続くんじゃないかと想像していた。
(私の選択肢に、音大はない、よね。芸能界での経験なんて、似て非なるもの。似てさ
えいないのかな? かえって邪魔になるだけかもしれない。だからって、相羽君に音大
に行かないで、なんて言えないし)
 考え込む純子に、相羽が「どうかしたの?」と声を掛けた。
「何でもない。よかったね。その内、ネットを通じてレッスンしてもらえるようになっ
たりして」
「はは。それが実現できたらいいけどねえ。時差の問題はあるにしても。――時間で思
い出した。そろそろ戻らなくていいの? 食べる時間、なくなるよ」
 相羽に言われ、教室に戻ることにした。誕生日の予定を聞けなかったけれども、そち
らの方はあとでもいいだろう。

          *           *

 音楽室の空きを確認したあと、ピアノを使う許可をもらい、一心不乱に自主練習を重
ね、それでも多くてどうにか二時間ぐらい。よく聞く体験談を参考にするなら、倍は掛
けたいところだが。
(才能あるよって言われたのが、お世辞じゃないとしても、積み重ねは必要だもんな
あ)
 多少、心に乱れが生じたのを機に、しばし休憩を取るつもりになったが、時計を見る
と、下校時刻まで三十分足らずだった。中途半端に休憩するより、続けた方がいいかと
思った矢先、音楽室の扉が開いた。あまり遠慮の感じられない開け方だった。
「おっす。音が途切れたみたいだったから、覗いたんだが」
 唐沢だった。
「今、いいか?」
「しょうがないな」
 廊下で待っていたらしいと察した相羽は、残り時間での練習をあきらめた。唐沢がこ
の時刻になるまでわざわざ待つなんて、何かあるに違いない。
「片付けながらになるけれど、いいか」
「かまわない。話を聞いてくれりゃいい」
 片付けると言っても、そんなにたいそうな作業ではないから、じきに終わる。それで
も唐沢は待たずに始めた。
「昼のことなんだが、いや、土曜のことと言うべきかな」
「どっちだっていいよ。指し示したいことは分かったから」
「相羽、おまえが学校を休んでまですることと言ったら、俺には一つしか思い浮かばな
い。宮城県のコンサートって、おまえのピアノのことと大なり小なり関係ありと見た」
「中学のときのあれと結び付けたわけか」
「そうそう。外れなら言ってくれ。話はそこで終わる」
「いや……外れじゃないよ」
 片付けが終わった。あとは鍵を閉めて出て行くだけだが、二人はそのまま音楽室で話
を続けた。唐沢は適当な椅子に腰を下ろした。
「コンサートのこと、涼原さんに言ってなかったみたいだが、相羽ってさあ、ピアノと
涼原さん、どっちが大事なわけ?」
「比べるものじゃないと思うが……ピアノを単なる物と見なすなら、涼原さん」
 唐沢の呼び方につられたわけでもないのだが、相羽は彼女を下の名前で呼ぶのを今は
やめた。
「何だか当たり前すぎてつまらん。けどまあ、ピアノを弾くことと涼原さんとを比べた
としたって、最終的には涼原さんを選ぶだろうよ」
「確信がありそうな言い方だ」
 相羽が水を向けると、唐沢はあっさりとした調子で答えた。
「理由? なくはない」

            *             *

 唐沢は自信を持って答えた。
「理由? なくはない。あれは始業式の帰り、いや二日目だっけ。俺が、涼原さんを応
援してるとか仮に学校行ってなかったらとか言ったら、結構むきになって俺のこと非難
してきただろ」
「……」
「おまえがあれほどむきになるなんて、驚いた。予想もしてなかったからな」
「むきになっていた、か」
「そう感じた。だから何があっても、最後は涼原さんを取る。そういう奴だ、おまえ
は。ただなあ、彼氏に収まったおまえと違って、俺はもうあんな形でしか、涼原さんに
サインを送れないんだからさ。大目に見ろよ。それとも、そーゆーのも許せないって
か?」
 唐沢としては、相羽と純子の仲が順調であることを再確認するのが目的だったので、
すでに山は越えていた。だから、今は話し始めよりも、だいぶ軽口になっていた。
 が、対照的に、相羽は若干、顔つきが厳しくなった。厳しいというよりも、深刻な雰
囲気を纏ったとする方が近いかもしれない。
「そんなことない。あのときは……任せられるのは唐沢ぐらいかなって考えていたか
ら。なのに、ああいうことを言い出されたら」
「――うん? 任せられるって何の話だ?」
「これから説明する。ただし、涼原さんにはまだ内緒で頼む」
「よく分からん。内緒にしておくなんて約束できないって、俺が言ったらどうなる?」
「……僕が困る」
「何だそりゃ。しょうがねえなあ。約束してやる。明日の昼飯、相羽のおごりな」
 学食のある方向を適当に指差しながら、唐沢は作ったような微笑を浮かべた。
 正面に立つ相羽は真面目な表情のまま、「いいよ」と答える。
「何なら、今週の分を引き受けたっていい。多分、それくらいなら出せる」
「おいおい、やばい話じゃないだろうな」
「僕と涼原さんとの話で、どんなやばい話があり得るって?」
「たとえば、妊娠――いててっ!」
 思わず叫ぶ唐沢。鼻の頭に拳をぐりぐり押し当てられたのだ。
「毎度のことながらひどいぜ。二枚目が崩れたらどーしてくれる」
「ひどくない。冗談でもそんなこと言うなよ。だいたい、ちゃんと聞いていれば、冗談
ですら思い付かないはずだ。涼原さんには内緒にしてくれって言った段階で」
「あ、そうだな」
 複雑な事情を考え付かないでもなかったが、唐沢はあっさり認めた。そして態度を改
め、座り直す。
 そんな様子に相羽も話す決心を取り戻したらしく、通路を挟んだ反対側の椅子に座る
と、「実は」と低めた声で始めた。
「留学、決めた。出発は八月に入ってからになると思う」

――『そばにいるだけで 66』おわり




#509/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/10/31  22:09  (389)
ほしの名は(前)  永山
★内容                                         17/11/03 17:56 修正 第2版
「全天で一番明るい天体がシリウスで、全天で一番遠い天体がさんかく座銀河で、全天
で一番好きな天体が地球で、そして、世界で一番好きな人が君」
 それは夜、皆から離れ、ペンションの広いベランダに出て、彼の好きな星の話を聞い
ているとき、突然起きた出来事だった。
 突然だったので、もちろんびっくりしたけれども、それ以上に笑ってしまいそうにな
った。笑いと涙を堪えながら、聞き返す。
「何それやだ。ただでさえ涼しくて肌寒いくらいなのに、寒い冗談やめてよね」
「ほんとに嫌か? それならやめるけど……こっちは本気で付き合って欲しいと思って
るから」
「――か。考えさせて」
 言ってしまった。即OKでもよかったんだ。ただ、軽いと見られたくなかったから、
少し引っ張ることにした。
「どのぐらい?」
 そう質問してくる方に顔を向けると、彼――君津誉士夫(きみづほしお)は、斜め上
を見たままだった。こっちが黙っていたせいか、彼はまた言った。
「どのぐらい考えるんだ? 何光年とかじゃないことを願う」
「光年は距離の単位でしょうが」
「そこはニュアンスで。それで、どのぐらい?」
「うーん、三日ぐらい」
「それでも長い。実は自分、この間、他の人から告白されてさ」
 えっ、と思うより、ぎょっとした。あっさり言うようなことかしら。
「好きな人がいるからって断ったんだけど、まだ告白してないのを知ると、さっさと告
白しろと言うんだ。ふられたら、またアタックしてくるつもりだってさ」
「誰から?」
「それはルール違反だろっ」
「クラスにいるかどうかぐらいなら、言えるんじゃない?」
 室内の方を肩越しにちらっと見て、すぐに視線を戻す。夏休みに入って、私達は林間
学校に来ている。ほぼ全員が参加しているけれども、その中に、君津へ告白した子がい
るんだろうか。
「だめだ」
 君津は案外、頑なだった。
「それより、林間学校が終わるまでに返事、くれないか」
「……いいよ。すぐ返事するから。OKだよ」
 私は気持ちに勢いを付けてそう言った。相手の顔を見る余裕はなかったけれども、も
し見ていたら、鳩が豆鉄砲を食らったような表情を観察できたかもしれない。
「え……っと、急展開過ぎるんだけど」
 急な告白をしてきたくせに、どの口が言うか。
「君津に告白してきた相手に、結果を早く知らせといてよ。変に隠しておいて、恨まれ
ちゃかなわないわ」
 明るい調子で要求して、その場を離れた。みんなのいるところに戻っても普段通りで
いられる自信は、ある。

           *            *

 告白から十年近くが過ぎた。時代は平成になっていた。
 君津はヨーロッパにいた。高校二年時に交換留学の形で渡ったのが、きっかけになっ
た。グループ単位の自由研究の授業で、太陽光電池のアイディアを発表すると、その効
率性が高く評価された。担任教師がその手の企業に伝があり、地元企業と協力してのプ
ロジェクトがあれよあれよとまとまった。君津も参加を条件に飛び級での大学進学も可
能だと言われて、迷った末にやってみることに決めた。その時点で両親とも天に召され
ていたのも大きかった。恋人のことを除けば、迷う要素は、天文学の道を断念するのが
惜しいと感じたくらいだった。
 遠距離恋愛を強いられた君津誉士夫だったが、連絡は定期的にしていたし、回数こそ
少ないが日本に帰れるときには必ず帰った。付き合いは順調で、お互いの家族にも、そ
の存在を仄めかす程度にまで進んでいた。
 だから、彼女と急に連絡が取れなくなったときは、ほんの短い間だというのに焦りに
さいなまれた。折悪しく、プロジェクトが山場に差し掛かって多忙を極めたため、帰国
はおろか、知り合いに彼女のことを尋ねる暇すらなかった。
 そして八日後。どうにか時間を見付け、電話や電子メールで知り合いに聞いてみた
が、まともな情報は返って来なかった。電話の相手は素っ気なく、電子メールの文面は
意図的に話題をそらしている節があった。そして返ってくる答は最終的にいつも「分か
らない」「知らない」だった。
 輪を掛けておかしいのは、実家暮らしの彼女の自宅固定電話に掛けても、常に話し中
なのだ。送受器を外しているとしか思えない。
 不可解さが解消されぬまま、再び仕事に戻らなければならない、その直前のタイミン
グで、電話が掛かってきた。小学校のときから付き合いのある、荒田勇人からだった。
「まだ何も聞かされていないんだな?」
 お互いの近況を報告する間もなく、本題から入った。
「ああ。何が起きてるんだ?」
「それは……直に教えるのは、俺もきつい」
「どうしてだよ。わざわざ電話をくれたのは、教えるためじゃないのか」
「……そっちに、日本のニュースは伝わってないのか」
「全然ない訳じゃないけれど、大きなニュースじゃないと。おい、何だよ。新聞種にな
るようなことに巻き込まれたとでも言うのか」
「……しょうがないか。誰でも嫌がるよな、こんな役目。俺が言わなきゃ、いつまでも
このまんまだ」
「そうだ、言ってくれよ!」
「今、一人だな? 周りに人がいないなって意味だ」
 君津は思わず無言で頷いた。五秒ほどして気が付いて、「誰もいない」と答えた。
「そうか。――最悪を想像して、心構えをしろ。それと、俺は事実を伝えたあと、すぐ
に電話を切るからな。細かいことを聞かれても、俺もほとんど知らないし」
「分かった。電話代も掛かるだろう」
 早くなる心臓の鼓動。緊張感で汗ばむ手のひら。せめてジョークの一つでも言って、
僅かでも落ち着こうとしたが、全く変わらなかった。
「一回しか言わない。録音できるならした方がいい。できないなら、メモを取ってく
れ」
「待ってくれ――準備できた」
 極力、平静さを保とうと努める君津に、荒田はニュースキャスターみたいな抑揚で、
早口に言った。
「――え?」
 聞き直した君津。荒田は一回きりのはずが、もう一度だけ繰り返して話してくれた。

 きっかけになったのは、小学校の同窓会だった。
 六年三組の一クラスだけの集まりだから、さほど大規模ではなかった。ただ、開催前
からかなりの盛り上がりを見せ、参加OKは九割超え。当初は適当な居酒屋で行うつも
りだったのが、あれよあれよと話がまとまり、ホテルの宴会場を借りるまでになった。
さらに、泊まりたい者はそのまま宿泊できるオプション付き。
 そして、事件は泊まりになったクラスメートの間で起きた。殺人だった。
 死んだのは村木多栄。小学生時は小柄だが活発で、勢いに任せて好きなことなら何で
もチャレンジしてみたがるタイプだったが、大学生になった今は、正反対なまでに大人
しくなったように、かつてのクラスメートらの眼には映った。昔が活発に過ぎたせい
で、極当たり前の分別を身に付けただけなのが、殊更おしとやかに見えたのかもしれな
い。
 だからという訳でもないが、村木多栄を殺すような者が元同級生の間にいるなんて、
俄には信じられない。それが素直な感想……になるはずだった。
 実際は違った。何故なら、村木多栄はダイイングメッセージを遺したのだ。
 いや、正確に言い直そう。村木多栄がメッセージを残すところを、大勢が目撃したの
である。
 夜の十一時を回った頃、ホテルの裏庭に当たるスペースで、村木多栄は倒れていた。
仰向けだが、やや身体の右側を下にする格好で、弱い外灯に照らされていた。
 第一発見者は、酔いさましに出て来たという財前雅実と、財前と交際中だと宣言・報
告した綿部阿矢彦。大学が異なる二人が再会し、付き合いだしたきっかけは、大道芸の
サークルに入った綿部が、往来でセミプロ級の技を披露しているところへ、財前が通り
掛かったという偶然だった。
 そんないきさつはさておき……倒れている村木を見た財前が、盛大に悲鳴を上げたた
めに人が一挙に増えた。その衆目のただ中、綿部が村木を抱え起こそうとした。が、一
瞬、彼の動きが止まる。村木多栄の口から下が赤く染まっていた。それでも綿部の躊躇
はすぐに消え、片腕を村木の背中側に回し、上体を起こしてやった。そうする間にも、
財前が村木に声を掛け続ける。
 やがて話し疲れたのか、財前が静かになると、今度は綿部が村木の名前を呼ぶ。この
頃になると、半径二メートル以内に、元クラスメートが十人前後集まっていた。綿部が
「誰か救急車を!」と叫ぶ。
 そのとき、村木多栄の口が動いた。そして彼女が喋り出す。
「刺さ、れた」
「え、刺された? 誰に?」
 思わず聞き返した様子の綿部。本来なら、意識があると確認できた時点で、無駄に体
力を使わせるべきではない状況と言えそうだが、かまっていられなかったようだ。
 村木の生気の乏しい眼を見返しながら、身体を少し揺さぶる綿部。
「しっかりしろ、村木さん!」
「きみにやられた」
「君?」
 ぎょっとした風にしかめ面をなす綿部。周りにも聞き取れた者がいたらしく、多少ざ
わついた。
「星川希美子が、刺した」
 最後の力を振り絞るような響きで、その声が告げた。
 星川希美子。小学六年生のときに副委員長を務めた彼女は、同窓会には間違いなく出
席していたが、今この周辺に姿は見当たらなかった。
「――村木さん? おい、しっかり」
 先程よりも激しく村木を揺さぶる綿部。その行為の原因は明らかで、村木多栄の頭が
ぐにゃりと力なく下を向いたのだ。
「安静にした方が」
 そんな声が周りから飛んだ。手を貸そうとする男も現れた。その内の一人、戸倉憲吾
と綿部、そして財前雅実の三人でゆっくりと村木を横たえていく。
「うん?」
 途中で綿部が、続いて戸倉がやや驚いたような声を発した。
「首の後ろに、何かある」
 男二人は言った。
 横たえる動作を中断し、村木の身体の左側を下にする形でキープし、彼女のうなじを
確認した。
「これは」
 戸倉はそれきり絶句し、綿部も息を飲んでいた。財前が悲鳴を上げ、それはほとんど
時差なく、周囲の者達にも伝播した。
 村木多栄のうなじからは、二本の細い串のような物が突き出ていた。照明を浴びて、
銀色に照り返していた。

 同窓会が開かれた頃、日本では、無差別と思われる連続殺人事件が世間を騒がせ、話
題になっていた。
 殺人鬼のニックネームは牙。バーベキューで肉を刺して焼くのに使うような鉄串を二
本、被害者の身体のどこかに突き刺すのがトレードマークで、その対の鉄串を蛇や猛獣
の牙に見立てたのが由来とされる。くだんの鉄串は大量生産の流通品で、誰にでも買え
る代物。持ち手の部分が何度か捻ってあり、持ちやすいとはいえ、凶器としては扱いに
くい。実際、牙の殺害方法は絞殺がほとんどで、串を刺すのは犠牲者が死んだあとだっ
た。半年ほどの間に五人の被害者が出ていたが、犯人の逮捕には至っていなかった。
 そんな折に、同窓会で発生した村木多栄殺しは、牙の犯行のように見えた。死因は絞
殺ではなく腰部を背後から刺されたことによる失血死だったが、これまでの牙の犯行に
も刺殺はあったので、それほどおかしくはない。絶命前に串を刺している点が、大きく
異なるが、ホテルという限られた敷地を現場に選び、しかも同窓会開催で人の行き来も
そこそこあったのだから、さしもの牙も死亡を確認する余裕がなかったと捉えれば合点
がいく。
 問題は、村木多栄が死の間際、「星川希美子にやられた」という意味の言葉を言い遺
したと、大勢が証言したことである。
 部屋で休んでいた星川希美子は、通報により駆け付けた捜査官により、程なくして身
柄を確保された。事情聴取において、彼女は当然のことながら犯行を否認した。無論、
殺人鬼の牙ではないかという疑いについても、完全に否定した。
 凶器は未発見かつ不明。鉄串から不審人物の指紋は検出されず、また、足跡や毛髪と
いった、具体的に星川を示す物証が現場にあった訳でもない。警察にとって、攻め手は
ダイイングメッセージだけだった。
 ただ漫然と星川希美子を取り調べるだけでは、進展が望めない。捜査陣はまず、今ま
でに起きた牙の仕業とされる殺人事件について、星川希美子が本当に犯行可能だったの
かを検証した。犯行推定時刻が割り出されているので、それらの時間帯のアリバイの有
無を調査するのだ。
 その結果、五件の内の三件において、アリバイが成立。加えて、残る二件の内の一件
は、体格的にも体力的にも星川希美子を大きく上回る男性が被害者で、星川に限らず、
並みの女性に絞殺できるとは考えにくかった。
 そうなると浮上したのが、模倣説。星川が行ったのは村木多栄殺しの一件のみである
が、牙の犯行に見せ掛ける目的で、鉄串二本を突き刺したのだろうという見方だ。
 この説を星川にぶつけると、これまた当然であるが、否定が返ってきた。当初に比べ
て冷静さを取り戻した彼女は、「無差別殺人鬼の真似をするのであれば、今度の同窓会
のような限られた場所で行うなんて馬鹿げている。誰もが出入りできる、開けた空間で
やらないと意味がない」とまで言い切った。
 星川の反論には首肯できる部分もあったが、容疑者当人が言い出したせいで、一部の
捜査員にはかえって疑惑を強める逆効果となった。
 村木多栄殺しに関して、白黒を見極められぬまま、警察は捜査を進めざるを得なかっ
た。

            *             *

「早速で悪いんだけど」
 電話口でそう切り出した君津。続きを口にする前に、相手が言った。
「全然、悪くないわよ。多栄の事件のことでしょう? 遠慮なしに聞いて頂戴。知って
ることは何でも答える」
 相手は財前雅実である。電話では顔が見えないし、想像しようにも小学生時代の容貌
しか浮かばない。君津はイメージをなるべく膨らませて、脳裏に今の財前の顔を思い浮
かべた。
 だが、時間は余り掛けられない。恋人のためとは言え、国際電話に費やせる金には限
度がある。他にも何人かに電話することになるのは確実だ。
「まず、財前さんに言う筋合いではないかもしれないけど、みんなはどうして事件のこ
とを知らせてくれなかったんだろう?」
「それは……」
 言い淀む財前。君津は五秒だけ待つと決めた。五秒経過する寸前に、相手からの声が
届いた。
「やっぱり、いい知らせじゃないし、知らせたってあなたを動揺させるだけで、どうし
ようもない。みんなそう思ったんじゃないの」
「そういうものか。全てを投げ出して、飛んで帰るかもしれないのに」
「実際問題、まだ日本に帰ってきてないんでしょう?」
「それはまあそうだけれど」
「あなたがそっちで成功してるっていう彼女の自慢話、結構広まっててね。その邪魔を
したくないっていう気持ちもあったのよ、きっと」
「ふうん。まあ、分からないでもない。でも、僕が電子メールで問い合わせたなら、真
実を話してくれていいんじゃないか」
「……言えないわよ。他の誰かが言うだろうって、逃げたくなる役目だわ」
「なるほどね。荒田の奴も、似たようなことを言っていた。よし、じゃあ次。事件のと
きのことをなるべく詳しく教えて欲しい」
 気持ちを切り替え、いよいよ本題に入る。
「詳しくと言われても、私はそばでおろおろしていただけよ。多栄が倒れているのを見
付ける前に、何か目撃した訳でもないし」
「目撃してないっていうのは、怪しい人物とか妙な出来事とかはなかったっていう意
味?」
「そうなるわね」
「じゃあ……串は何センチぐらい突き出ていた?」
「えっと、五センチぐらい? ど、どうしてそんなことを知りたがるのよ」
「突き刺さっていた部分は、何センチぐらいなんだろう?」
「分かんないわよ、そんなことまで。全体の三分の二程じゃないの」
「そうだとしたら十センチか。なあ。うなじから五センチ、異物が飛び出ている人を仰
向けの状態から抱き起こそうとしたら、その異物に手が触れるのが普通と思わないか
?」
「――何それ? まさか、綿部を疑ってるの?」
 声が甲高くなる財前。付き合っている相手を悪く言われそうなのだから、当たり前だ
ろう。この質問はまだ早かったかと悔やんだ君津だが、もう後戻りはできない。
「疑ってるんじゃないよ。不自然さを少し感じただけ。綿部は首の後ろ側に腕を回さな
かったのかな」
「……回さなかったんでしょうね、鉄串に気付かなかったんだから」
 そう返事してから数拍間を取り、財前はさらに言葉を重ねた。
「多栄の顔面は、口の辺りから下、ずっと血塗れだったのよ。その血が首の側に流れて
きていた。首に腕を回すと、血で汚れてしまうとほとんど無意識で判断して、別のとこ
ろに腕を入れたのよ、多分」
「そうか。あり得るね。全然、不自然じゃない」
 一旦、相手の言葉を認め、穏やかな口調に努める。財前の安堵の息を聞いてから、別
の質問をぶつける。
「財前さんは、この殺人事件が牙の犯行だと思ってる? それとも、模倣だと?」
「そりゃあもちろん、模倣よ。希美――星川さんが無差別に人を殺してるなんて、さす
がに信じられないし、以前の事件ではアリバイもあるっていうし」
「模倣だとしたら、村木さんを殺す個人的動機があったことになる。それについて、何
か思い当たる節はある?」
「思い当たる節、ねえ……。二人は確か中学まで一緒だったけど、仲が悪いようなこと
はなくて、どちらかと言えば仲良しに見えた。私は村木さん、苦手だったけど、星川さ
んは誰とでも仲よくなれる、一種の才能みたいなものがあった。だから人気もあって…
…」
 答が脱線していることに気付いたか、財前はぴたりと黙った。が、じきに再開する。
「そうね。妬まれて殺されるとしたら、星川さんの方ね。だめだわ、何にも思い付かな
い」
「そうか。君でも分からないか」
 君津は応じながら、先程浮かんだ疑問を持ち出すことにした。
「さっき、口から首の方へ血が流れていたと言ったよね」
「ええ、そういう意味のことをね」
「仰向けだったんだから、出血は口からあった。刺されたのは腰の辺りだから、関係な
い。ということは、鉄の串はうなじを通って、口の内側にまで突き抜けていたんだろう
か」
「確かそうなっていたと聞いたわ。さ、参考になるかどうか知らないけれど、うなじの
方の傷はきゅって閉まっていて、血はほとんど流れ出ていなかったって」
 刺さったままの串が栓の役割を果たしたに違いない。口腔内は外の皮膚に比べれば柔
らかいだろうから、出血を止めるほどには収縮しなかったのだろう。
「うなじから口に串が突き抜けたなら、即死するんじゃないだろうか? 延髄って、そ
の辺りにあるんじゃなかったっけ? 確か、延髄に強い衝撃を受けると、死亡すると聞
いた記憶があるんだけど」
 プロレス技の一つ、延髄斬りに纏わるこぼれ話を、君津は思い浮かべていた。プロレ
スのテレビ中継で散々聞かされたものだ。延髄を蹴られたら普通の人間は死ぬ、とかど
うとか。
「延髄は滅茶苦茶太いもんじゃないし、うなじだって延髄と重なっていない部分は結構
あるわ。串が延髄を傷付けずに口の方へ貫通することは、充分にあり得るんじゃないか
しら」
「……財前さん、医大とか看護学校に入ったんじゃないよね」
「え、ええ。あ、今さっき喋ったのは受け売り。私達の小学生の頃ってプロレスが流行
ってたでしょ。特に男子の間で。そのせいで、延髄を蹴られたら死ぬっていう話を、事
件のときも誰かがその場で言い出したのよ。それを聞いた刑事さんだったかお医者さん
だったかが、今みたいな説明をしてくれたの」
 納得しかけた君津だったが、あることに気付いて、電話口にもかかわらず首を傾げ
た。自らのうなじを触りながら、その気付きについて言ってみる。
「一般論として、犯人が相手を殺すつもりなら、うなじに串を二本刺すつもりでも、一
本目はど真ん中を狙うんじゃないかな? わざわざ延髄を避けるような位置に刺すのは
おかしい気がする。だいたい、牙の仕業なら、あるいは牙の仕業に見せ掛けたいのな
ら、被害者が絶命後に刺すものだろう。それができない状況だったら、串を刺す行為自
体で絶命させようとするのが殺人犯の心理だと思うが」
「ああ、もう、知らないわよ。犯人じゃあるまいし、そんなことまで分かるはずないじ
ゃない。模倣犯なんだから、まだ殺せていないのに殺したと信じちゃったんじゃない
の?」
「……そうかもしれないね」
「君津君、やっぱり悪いけど、もういいかしら。思い出す内に、気分が悪くなって来ち
ゃって」
 そう言ってすぐにでも電話を切りそうな口調に、君津は慌てて反応した。
「あと一つだけ。事件そのもののことじゃないから」
「事件じゃないなら、何?」
「君が付き合ってる相手のこと。僕が君からの告白を断ったあと、君が選ぶくらいだか
ら、綿部の奴、よほどいい男になったんだろうなって思ってね」
「ま、まあね」
「確か、綿部の一つ上のお姉さんと仲よかったんだっけ? それがきっかけ?」
「全然。きっかけはもっとあと。大学に入ってから、彼の路上パフォーマンスを見たか
らだけれど、今は内面で通じ合ってるっていうか」
 財前は照れたのか、早口になった。
「そう言えば、その路上パフォーマンスっていうか大道芸って、どんなの?」
「それは……」
 答えそうになりながら、何故かしらやめた財前。
「彼から直に聞くといいわ。どうせ、綿部にも電話をするんでしょう?」

 財前雅実に続いて、綿部阿矢彦にも電話した。間を空けなかったのは、財前から綿部
に前もって通話内容が伝わるのを防ぐため。君津の腹づもりとしては、先入観の排除が
目的なのだが、こうして嗅ぎ回るのは犯人捜しと受け取られる面もあると、財前への電
話で自覚した。
「連絡しなくて、済まなかった」
 簡単な挨拶のあと、綿部が開口一番に言ったのがこれだった。財前から話が伝わって
いたのかと疑った君津だったが、すぐに払拭した。
「別に気にしちゃいない。だいいち、連絡方法がなかったろう、そっちからは」
「それもそうだ。だけど、そっちこそ俺が自宅暮らしじゃなかったら、この電話、どう
するつもりだった?」
「親御さんにお願いして、新しい番号を教えてもらうつもりだった。それでもだめな
ら、他の友達を当たる」
「すまん。俺はそこまで必死になれないだろうな。事件は悪いニュースだから、わざわ
ざしなくてもって思ったろう」
「気にすんな。それよりも、早いとこ用件に取り掛かりたい」
「分かった。何が聞きたい?」
「最初に断っておくと、これは疑ってるんじゃなく、確認のために聞くんだ。村木さん
を抱え起こしたとき、首の後ろの串には気が付かなかったのかどうか」
「うむ……うーん」
 しばらく黙る綿部。いや、唸り声だけは小さく続いていた。
「気付かなかったとしか言いようがない。ひょっとしたら、ちょっとくらい触ったかも
しれないが、だとしても、アクセサリーか何かだと判断したろうな。それくらい緊迫し
た状況だった」
「うん、そういうこともあるかもしれないな。言われて初めて思い当たった」
 君津は一応、疑問を引っ込めた。完全に合点が行ったのではないが、一つの捉え方と
して受け入れた。
 このあとも基本的な質問をした。怪しい人物は見掛けなかったか、何かおかしなこと
は起きていなかったか。いずれも、綿部の返答はノーだった。
「ところで綿部はこの事件、模倣説を支持している?」
「殺人鬼・牙の真似をしたっていう? ああ、まあそう解釈するのが妥当じゃないか」
「だったら、村木さんが殺された動機は何だと思う。聞かせてくれ」
「うーん。映画やドラマなんかだと、子供のときに友達同士で、二人だけの秘密を持っ
ていて、大人になった今ではその秘密が公になると非常にまずい、だから口封じのため
に殺す、なんてのがあるけれど」
「そんな検証のしようがないことを言われても、だな」
「そうだよな。うーん」
 唸ったきり、綿部の口から次の仮説は出て来なかった。君津は動機に関しては切り上
げることにした。
「何にも浮かばないってことは、財前さんとうまくやってるんだろうな。はは」
「そ、それとこれとは話が別だ」
「うまく行ってないのか?」
「そんなことはない。だから、話の次元が違うってんだよ」
「大道芸の技を見せてやったり、教えてやったりしているんだろ?」
「……のろけてもいいのか? 君津の方は恋人がこんなことになってるっていうのに」
「少しぐらいなら。あ、いや、その前に、どんなパフォーマンスができるんだよ? ブ
レイクダンスとかか」
「違う違う、ほんとにいかにもな大道芸ばっかりさ。ジャグリングとか物真似とか、あ
と筒乗りとか」
「筒乗りって?」
 一瞬だが、焼き海苔の入った筒を想像してしまった君津。
「玉乗りの変形バージョンって言うのが分かりやすいかな。金属製の筒状の物体を寝か
して、上に板を載せて、その板の上に俺が立ってバランスを取るんだ」
「あ、分かった。テレビで見たことある」
 しばらく事件とは無関係な話題を選び、相手の気持ちと口がまたほぐれるのを待つ。
頃合いを見て、改めて事件の話に戻った。と言っても、残る質問は少ない。
「もう少し発見が早かったら、助けられたと思うか?」
「……いや。難しかったと思う。現実には助けられなかったから、俺がそう信じたいと
いうのもあるかもしれないが、実際問題、村木さんの身体はかなり冷たく感じたんだ。
あれは恐らく、少々発見が早かったくらいじゃ、助からない」
「ということは、犯行からはだいぶ時間が経っていたと」
「い、いや、そこまでは分からねえよ。そんな気がしただけだ」
「時間がだいぶ経っていたと仮定して、どうして星川さんは逃げなかったんだろう?」
「それは……逃げたら怪しまれるからじゃないか」
「動機が見当たらないのに、か」
「だったら……ああ、星川さん、ホテルに宿泊をすることにしていたから。宿泊をキャ
ンセルして逃げ出したら、怪しまれて当然だ」
「いや、根本的な疑問として、何故、宿泊を決めてたんだろう? 鉄串を用意していた
ってことは、計画的な殺人だ。殺したあと、のうのうと犯行現場のホテルに泊まるだな
んて、普通じゃない。最初から日帰りにすればいいんだ」
「……俺にはもう分からん。頭が痛くなってきたよ」
 急に弛緩したような軽い口調で言い、綿部は笑い声を立てた。頭痛というのは事実な
のか、どことなく疲れた笑いに聞こえる。
 潮時と判断した君津は、相手に礼を述べて通話を終えた。

――続く




#510/598 ●長編    *** コメント #509 ***
★タイトル (AZA     )  17/11/01  00:08  (395)
ほしの名は(後)  永山
★内容                                         18/06/24 03:53 修正 第3版
 死に瀕した村木多栄に触れた最後の一人、戸倉憲吾にも電話をした。
 君津と戸倉は小学生時代はさほど親しくなかったが、中学に入ってから変化が生じ
た。ともに頭はよい方だが、君津が閃きを重視するタイプであるのに対し、戸倉は論理
を一から積み上げるという違いがあった。そこが互いに魅力に映ったのだろうか、何か
と馬が合い、以後、付き合いは長く続いた。君津の海外留学を機に、さすがにやや疎遠
になったが、それでも電子メールでのやり取りぐらいはたまにあった。現在、戸倉はコ
ンピューターで様々な音を合成することを研究テーマにしているらしい。
「伝える役をしなければならないとしたら、自分だったんだろうな」
 戸倉は些か自嘲気味に、そして後悔を滲ませた口ぶりで始めた。君津は本題と余り関
係のない話が長引くのを嫌って、「それはもういいから」と言った。
 しかし、戸倉は意外な頑なさを見せた。
「躊躇したのには理由があるんだ」
「理由って、どうせあれだろ。知らせてもどうしようもないし、日本にすぐさま帰って
来られる訳じゃないしっていう。聞き飽きたよ」
「違うんだ。言いたいのはそんなことじゃなくて、もっとちゃんとした理由さ。事件が
起きた、村木さんが殺されたと知ったとき、僕はすぐに思ったんだよ。もしかしたら財
前さんが殺したんじゃないかって」
「え? 何でまた?」
「知らないみたいだな、やっぱり。財前さんから告白されたことがあるって聞いてたか
ら、ひょっとしたら君津も知ってるのかなとも思ってたんだが」
「おい、分かるように話してくれよ」
 送受器を持ち替え、握る手にも声にも力が入る。君津は手のひらに多めの汗を感じ
た。
「ちょっと頭の中で整理するから、待ってくれ。――よし。今から話すのは、僕が中一
のときに、女子の会話を立ち聞きして知ったことだ。噂話みたいなもんだったし、わざ
わざ言いふらすようなものじゃなかったので、誰にも言ったことはない。それから、財
前さんの立場からの話だということに、注意して欲しい」
 承知したという意味で、君津は「ああ」と短く言った。
「財前さんが小学生のとき、君津に告白したのって、何だか急じゃなかったか?」
「ううん、急かどうか分からないけれど、バレンタインとか卒業とかのイベントにかこ
つけた告白ではなかったな。急な告白に意味があったっていうのか?」
「意味というか、理由だな。財前さん、他の人から告白されて、それを断るために急い
でおまえに告白したらしいんだ」
「それって僕自身と同じ……」
「状況は同じようなもんだったろうな。違うのは、財前さんが告白された相手っていう
のが、同性だったってことだ」
「はあ、女子から告白されたってか?」
 さすがに驚いた。小学生で同性から告白されるってのは、どんな気持ちになるものな
んだろうか。
「そう聞いた。その相手が、村木さんなんだ」
 村木多栄が財前雅実に告白を。
 それは確かに隠された事実かもしれない。が、だからといって、財前が村木を殺害す
る動機はどこから生じるのだろう。逆なら、つまり告白してふられた村木が、財前を憎
んで殺すのなら――どうして今さらという疑問は残るが――まだ理解できなくもない
が。
「何で、財前さんが殺したと思った?」
「おまえにふられた財前さんは、村木さんの告白を断れなかった。好奇心もあって付き
合ってみたらしい。だが、一年ほど経って後悔した。村木さんの方が飽きて、関係は自
然消滅したんだ。財前さんにとったら、いい面の皮だよな。これは僕の勝手な想像だ
が、文句を言うなり、秘密を暴露してやるなりしたくても、彼女自身にとっても相手に
秘密を知られている状況だし、言えなかったんじゃないか。唯一人、愚痴をこぼした相
手が綿部千代、綿部のお姉さん」
「え」
「その二人の会話を、僕が偶然、立ち聞きしたって訳。これなら、財前さんが根に持っ
ていてもおかしくはないだろ」
「分かるけど、今になって、わざわざ殺す程には思えないな」
「そこは同感。だからこそ、僕も警察には何も言わなかった。ただ、同窓会に出たなら
分かると思うんだが、財前さんは綿部と交際中の割には、幸せオーラがたいして感じら
れなかった。どちらかというと緊張していてさ。まあ、冷やかされるのを覚悟していた
せいかもしれないが」
「同窓会で、自分達よりも幸せそうな村木さんを見て、昔の恨みが殺意までに強まった
と?」
「そこまでは言ってない。村木さんの方も特に幸せそうに見えた訳じゃないし。犯人は
鉄串を用意していた、つまり犯行は計画的。動機は、同窓会当日に作られた殺意じゃな
いはず」
「だよな」
「このことを警察に言っていれば、星川さんがあんなあっさり逮捕されることはなかっ
たなじゃないか。そう思うと、おまえに連絡する勇気が出なかった」
 やっと理屈がつながって、君津は納得できた。
(星川さん――僕の彼女が警察に拘束されたのは、村木さんが名前を言い遺したのが大
きな理由だろ。それなのに、細かいことを気にするなんて。戸倉らしいっちゃらしいけ
ど)
 ちょっぴり感動しつつ、それ以上に厄介な性格だなと笑い飛ばしたくなった君津。だ
が、恋人が逮捕されたままという現実の前に、笑っている暇はない。
「計画犯罪なら、動機も以前からあったに違いない。その条件に、星川さんが当てはま
るとは思えないんだ」
「知る限りじゃ、動機がありそうなのは、さっき言った財前さんだけだぜ。しかし、財
前さん以外に動機のある人物がいようがいまいが、ダイイングメッセージが全てを否定
してしまう」
 そうなのだ。いくら他の容疑者を挙げようとも、星川希美子の名を言い遺した事実が
立ちはだかる。君津と星川を苦しめる。
「君津、こっちはとことんまで付き合えるが、そっちは大丈夫か」
「ああ。仕事、いや、明日は大学の方だっけ。それが始まるまでは、徹夜も厭わない
よ」
「じゃあ、まず……星川さんは犯人ではないと決め付ける。そこから出発だ」
「言われなくても、そうしてる」
「もっと積極的に、かつ、論理的に活用するんだ。閃き型のおまえには難しいかもしれ
んが」
「論理派を自認するのなら、分かり易く言ってくれよ」
「つまりだな。星川さんが犯人でないなら、何で村木さんは、犯人は星川さんだと告発
したのか。この謎を解き明かす必要があるってことさ」
「そういう意味か。確かにな。――見間違えた、とか」
 早速、閃いた仮説を、大した自己検討もせずに口に出す。
「犯人は星川さんとそっくりの格好・変装をして、村木さんを襲った。村木さんは当
然、星川さんに刺されたと思い込む」
「うーむ。理屈だけなら成り立つだろうが、実際のところはどうなんだろうな。この場
合、本当にそっくりに化けなければ、星川さんの名前を出すまでには至らないはず。と
なると、何はともあれ、顔を似せねばならない」
「よくできたゴム製の被り物なら、かなり本物っぽく見えるんじゃないか。前に、映画
で見たんだ。犯行はあっという間に終わるし」
「いや、難しい気がする。まず、犯行はあっという間と言うが、刺すのは一瞬で済んで
も、鉄串が残っている。二本続けて刺すのは、結構時間を要するんじゃないか。見ただ
けで被り物に気付かれるか否かは五分五分ぐらいとしても、村木さんの反撃に遭って被
り物に触られる可能性が高い」
「戸倉の言いたいことは分かるけれど、それだけでは否定の根拠として認められない」
「まだある。当日、村木さんと星川さんは顔を合わせている点だ。長い間会っていなく
て、いきなり犯行に及ぶのであれば、変装は適当なレベルで大丈夫だろう。しかし、当
日会ったとなると、話は違う。顔だけでなく、化粧の具合や背格好、全体から受ける印
象、髪型や服装、靴まで揃えないと、村木さんに違和感を与える恐れがある」
「……化粧に髪型、服装は、当日にならないと分からない、か。泊まるつもりで来てい
るのなら、着替えて別の服になっていてもおかしくはないが、化粧と髪型をその日の内
に変えるのは相当不自然。よって、見間違い説、いや、変装説は除外される」
「ちなみに、単なる見間違いも起こらなかったと思う。当日の星川さんとそっくりの姿
形をした出席者は、女性にせよ男性にせよいなかったと僕が保証しよう」
 こんな場合に男まで含めて論じるのも、戸倉らしいと、君津は思った。
「論理展開は頼もしいが、謎の解明には近付いていない。まあ、変装説等が間違ってい
たと分かったのは、前進と言えるけれども」
「もう仮説はないか?」
「ない。時間が経てば閃くかもしれないし、閃かないかもしれないが、現時点では手持
ちはゼロだ」
「こっちも大した説はないんだが、気になることが一つできた。村木さんがはっきりと
星川さんの名前を出したということは、真犯人は星川さんに濡れ衣を着せる意図が明確
にあったと言えるんじゃないか?」
「それは要するに……犯人は他の誰でもなく、星川さんに罪を被せたかったという意味
だな。言い換えると、犯人は村木さんだけでなく、星川さんにも恨みを抱いていた」
「その通り。そして星川さんに恨みを抱くという条件にも、財前さんは当てはまる」
「そうなるのか」
 ぴんと来なくて、君津は問い返した。
「自覚がないのか。おまえは財前さんを振ったんだろう。彼女にしてみれば、君津誉士
夫を手に入れた女、星川希美子に対して敗北感を感じたかもしれない。憎く思ったとし
ても、不思議ではあるまい」
「恨むなら、僕自身を恨むものだと思ってた」
 率直な感想を述べた君津に、戸倉は少しだけ笑い声を漏らした。
「そう思ってるのなら、一応、注意しとけよ。このあと、財前さんがおまえも刺しに行
くかもしれないぞ」
「まさか」
「言ってる自分も、どこまで冗談のつもりなのか、測れてないんだぜ。今の時点で、星
川さんを除いた犯人の最有力候補は財前さんなんだからな」
「僕の記憶にある財前さんは、そんなことする人には全然見えないな」
「当たり前だ。僕だって、信じられん。第一、君津が今思い浮かべてる財前さんての
は、大方、告白してきた小学生の頃の姿なんだろう」
「当たらずとも遠からず、とだけ言っておく。けど、仮に財前さんが犯人だとして、こ
んな大胆な犯行ってやれるもんかな?」
「大胆とは、同窓会で殺すっていう点か」
「それもあるが、襲ってから間もない段階で、彼氏と一緒に発見役を演じるなんて。他
に適当なアリバイ証人が見付からなかったのかもしれないが、だからといって、好きな
男を巻き込むかね」
「そりゃあ、ばれない気でいるからだろう」
「あるいは、端からアリバイ証人にするために付き合い始めた、なんて……」
 他愛もない思い付きを言葉にしただけのつもりだった。だが、何かが君津の脳裏によ
ぎり、引っ掛かった。
「君津?」
 押し黙った君津の耳に、戸倉の声が届く。
「――最初っから、綿部も承知の上だった、共犯だったと考えれば」
「え? 何だって」
 一段と大きな声量になった戸倉。君津は興奮気味に、負けないくらいの大きな声で返
事した。
「そうだ、そうなんだ。綿部が技を彼女に教えたとしたら、謎は解ける!」

            *             *

 空港に降り立ったときは、あいにくの雨だった。折角の連休も予定が多少狂う人が大
勢いるに違いない。
 手続きを済ませ、多くない荷物を受け取ると、都心まで直行する。小さな子供の頃に
はまずくてとても飲めなかったブラックの缶コーヒーで、眠気を少しでも飛ばしてお
く。
 駅の改札を出たところで、三人の姿が視界に入った。
「やあ。久しぶり」
 軽く手を挙げてから、平常心に努めつつ言った。
 三人の中から真っ先に駆け寄ってきたのは、財前雅実だった。
「久しぶり! だけど、感動の反応が薄いわね」
「少し疲れてるし、帰ってきた理由が理由だから」
「そうね。……まあ、思っていた通りのいい男に育ってるわね。見た目だけでも元気そ
うで、安心したわ」
 財前は後ろを振り返り、綿部を手招きした。
「今の彼氏の方がもっと上だけど」
「そりゃそうじゃないと困る」
 応えてから、君津は目線を綿部に合わせた。髪を伸ばしてパーマを掛けているのは、
大道芸人として目立つためだろうか。そして、思い描いていたよりも大きい印象を受け
る。鳩胸のせいかもしれない。
「よおっ。路上パフォーマンス、頑張ってるんだって?」
「まあな。おまえには全然負けてるけど」
「比べるもんじゃなし。将来はプロでやっていくの?」
「分かんねえ。でも、日本じゃ無理かな」
 二人の会話が一段落すると、三人目――戸倉が声を掛けてくる。ここしばらくよく連
絡を取り合ったので、挨拶抜きだ。
「君津、どうする? どこか落ち着いて話せる場所……喫茶店かファミリーレストラン
か」
「ファミレスは騒がしいイメージがあるけど、腹も空いている」
 時間は午後三時。迎えの三人は、とうに昼食を終わらせていることだろう。
「機内食はどうした」
「食べた。でも、足りないし、日本食が食べたいんだ」
「だったら、ちゃんとした店に入ろう。ファミリーレストランの日本食なんて、メニ
ューが少ないだろ」
 そう言ってくれたものの、近くに適当な店がなかったので、蕎麦屋に入った。甘い物
も少し置いてあるらしい。
「寝泊まりするとこはあるの?」
 四人掛けのテーブルに案内され、注文を済ませるや、財前が聞いてきた。僕が急遽帰
国した理由が殺人事件にあることは承知しているはずだが、とりあえずは当たり障りの
ないところから話題にしたいようだ。
「うん。今日と明日はホテル泊まりだけど、明後日からは親戚の家に泊めてもらう。墓
参りするから、方角的にもちょうどいいんだ」
「ああ、そうだったな」
 綿部が気まずそうに反応した。両親がいないことは、このテーブルに着いた全員が知
っている。
「てことは、明日は弁護士さんのところか」
 隣に座る戸倉が話題を換える。と言っても、人の生き死に関係している点は同じだ
が。
「会う約束はできたんだが、長い時間は無理だと言われてるんだ。いくら依頼人の彼氏
でも、真相解明に役立つ何かを持ってる訳じゃないし、しょうがない」
「真相解明って……星川さんが犯人ではないとまだ思ってるの?」
 財前が言った。辺りを気にする風に、声のボリュームを落としている。
「そうだよ。そのために無理に調整して、帰って来たんだ」
「やっぱり。戸倉君を通じて呼び出されたときから、そういう予感はしてたんだ」
 早々にざる蕎麦が来た。穴子天ぷらのミニ丼も付けた。他の三人は、そば粉を使った
和菓子とお茶のセットだ。
「とりあえず、食べながらでいいかな」
 承諾を求めると、曖昧な答が返って来た。
「食べるのはもちろんかまわないけど、何が『いいかな』なのよ」
「事件のことで、新たに確かめたいことができてさ。戸倉にはざっと伝えたんだけれど
も、二人にも聞いてもらいたい」
 手を合わせてから割り箸を割って、まず蕎麦のつゆにわさびを溶く。薬味を散らした
ところで、前に座る二人にも食べるよう促した。
「楽しくないことを思い出しながらだと、まずく感じるかもしれないけど」
「どうせ食べ始めたらすぐに終わっちまう。そっちがあらかた片付くまでは、このまま
待機してるさ」
 綿部が笑いながら言って、腕組みをする。木の椅子の背もたれに身体を預け、聞く体
勢になった。財前の方はお茶ではなく、お冷やを一口飲んで、テーブルの上で両手を組
んだ。
「大前提として、僕は彼女が――星川さんが犯人ではないと決めている」
「……当然よね。あなたの立場なら」
「星川さんが犯人じゃないなら、村木さんはどうして星川さんを犯人だと言い遺したの
か。最初に考えたのは、犯人を何らかの理由で星川さんと誤認した可能性なんだけど」
 以下、犯行が計画的であることを軸に、この説は成り立たないことを説明し終えた。
 黙って聞いていた綿部が、湯飲みを手にしてから、ゆっくりと口を開く。
「何だ、結局、証明ならずか。俺達に聞いてもらいたいことって、これか?」
「まだ続きがある。次に僕が閃いたのは、音による欺瞞だ」
「ぎまん?」
 どういう意味の単語で、どんな字を書くのか分からないと言わんばかりに、横目を見
合わせた様子の二人。僕は「トリックと言い換えても通じるかな」と付け足した。
「同窓会に出た大勢が、村木さんが星川さんの名前を言うのを聞いている。特に近くで
聞いたのが、君達と戸倉だ。三人には、検証してもらいたい、僕がこれから話すトリッ
クが成り立つかどうかを」
「……分かった」
 綿部と財前は、今度ははっきりと互いに目を見合わせてから頷いた。
「村木さんが犯人ではない星川さんの名前を言うとしたら、どんな場合があるか。シン
プルに考えることにした。言ってない、と」
「言って……ない?」
「意味が分からないわ。私達は確かに聞いた」
 きょとんとする綿部に、捲し立てる財前。戸倉が止め役に入ってくれた。
「まあまあ、検証はあと。最後まで聞こう」
「……」
 不満そうだが、財前は黙った。僕は結局、食事には箸を付けずに話を続けていた。
「村木さんは星川さんの名前を言っていない。これも決定事項とする。では、何故、周
りのみんなには声が聞こえたのか。声は作り物だったんじゃないか。僕はそう考えて、
入手できた事件の状況を再検討してみた。最初は録音しておいた音声を流せば何とかな
るだろうって思っていたが、そう簡単じゃないと分かった」
「そうよ。あのとき、村木さんの口は動いてたんですからね」
 思わずという風に、財前が身を乗り出して反証を挙げる。僕は一つ首肯した。
「そう、それがネックだった。他の方法を考えなきゃならない。たまたま村木さんが声
を出せずに、口を動かしただけのタイミングに、犯人が幸運にも音声を合わせられたの
か。そんな偶然は認められない。僕は発想を少し変えてみた。村木さんの口を動かした
のも、犯人の仕業だったとしたら?」
「ば、馬鹿な」
 今度は綿部が“思わず”反応したようだ。
「死んでる人の口を動かすなんて、リモコンでも仕掛けたって言うのか?」
「ん? 変なことを言うね。君らが見付けたとき、村木さんはまだ息があったんじゃな
かったか?」
 僕は綿部、財前の順番に顔を凝視し、それから戸倉を見た。戸倉は「うむ。息があっ
たように思えた。あのときは」と答えた。彼だけが、注文した品を消費している。
「言い間違えただけだ。結果的に死んでしまったのだから」
 取り繕うことなく、ストレートに訂正する綿部。その隣では、財前が居心地悪そうに
もぞもぞ動いて、座り直した。彼ら二人が何も言わなくなったので、戸倉が口を挟んで
くれた。
「でもよ、君津。生きてる人間の口を、他人が自由に操るのは、死人の口を操るよりも
難しいんじゃないか? 死んでるなら、さっき綿部が言ったみたいにリモコンを取り付
けたら、曲がりなりにも動かせるだろうけどさ」
「同感だ。その人が生きていたら、偽の音声に、本物の音声が重なる可能性もある。犯
人にとって、絶対に避けたい状態だろう。そこで僕は考えを推し進めた。発見されたと
き、既に村木さんは亡くなっており、犯人は外的な力で村木さんの口を動かすととも
に、偽の音声を周りに聞かせることで、まだ村木さんが生きていると思わせようとし
た。これなら、全ての説明が付く」
 言い切った僕は、前の二人を見やった。しばらくの沈黙のあと、財前が切り出した。
「どうやって? 具体的にどうすれば、村木さんの口を動かし、声を出せるのよ」
「そこを説明できなければ、絵に描いた餅だな」
 財前の台詞を引き継ぎ、綿部も言った。
「だから、先に君達の話が聞きたいんじゃないか。村木さんの口を動かすような仕掛
け、村木さんの声を流すような仕掛け、そういったものが彼女の身体のどこか、あるい
は近くになかったのかなってね」
「そんな物、ある訳ないじゃない。あったら警察が気付いてるだろうし、私達は間違い
なく、村木さんの口から声を聞いてるのよ」
「――戸倉は、そこまで断言できる?」
「無理無理。声がどこから聞こえたなんて、判断のしようがない。極端な話、村木さん
の口の中に、スピーカーを仕込まれていたら、どこから聞こえようが関係ないってこと
になるしな」
「だから! そんなスピーカーなんて、見付かってないでしょ!」
 当初の囁き声はどこへ行ったのか、財前は大声で主張した。さすがにまずいとすぐに
気が付いたらしく、息を整えつつも肩を窄ませる。
 落ち着くのを待ってから、僕は推理の続きを話し始めた。
「スピーカーなんてなくても声は流せるし、リモコンを仕掛けなくても口は動かせる。
僕はそう思うんだ」
「どうやって」
 穏やかな口調で、綿部。額に汗の縦筋ができていた。どこかしら緊張しているよう
だ。
「もう一つ、僕が着目したのは、犯人が牙なる殺人鬼の手口を模倣しようとしたこと。
無差別殺人として牙に罪をなすりつけるにしては、同窓会の場はふさわしくない。だっ
たら、何故? 犯人にとっていかなるメリットがあるのか。牙の犯行で特徴と言えば?
 そう、二本の鉄の串だ。犯人は村木さんの遺体に鉄串を刺す必要があったんじゃない
か。このように考えることで、見えてきた。犯人は、うなじから刺した二本の鉄串を持
って、遺体の口を動かした――」
「そんな、あり得ない……」
 財前は両手で口を覆っていた。対照的に、綿部は鼻息を荒くした。
「その説だと、俺が一番怪しいことになりそうなんだが?」
「もちろん、鉄串をリモコンで動かしたのでなければ、最も怪しいのは、村木さんを抱
え起こしていた綿部、君になる」
「は! 馬鹿らしい。冗談も休み休み言え」
「冗談のつもりはないよ。こうして披露するからには、本気だ」
「そうかい。だったら、声は? 俺が裏声を使って女の声を出したってか? いくらパ
フォーマーでも、そんな芸当は身に付けてないぜ。第一、俺はずっと村木さんに呼び掛
けていたんだ。同時に女声を出せるはずがないだろ。声はカセットテープとでも言う
か?」
「いや」
 長い反論に対し、僕は短い返事でまず応じた。
「先に聞いておく。綿部は声に関するパフォーマンスで、何かできることがあるよな
?」
「……ああ。腹話術だ。簡単なやつで、男の声しかできないぞ。それにさっきも言った
ように、俺は村木に声を掛け続けていた」
「その腹話術のこつを、彼女に教えたんじゃないのか」
 僕は綿部の隣に目を移した。口を覆ったままの財前が、こちらを見る。
「偽の声で、星川さんの名前を言ったのは、財前さん、君だろう?」

 〜 〜 〜

「証拠はない」
 しばらくしてから、どちらかが言った。僕は戸倉に目配せしてから、“犯人”達の説
得を試みた。
「鉄串に、綿部の指紋が付いている」
「付いていて当然だ。助け起こしたときに、触ってしまうことはあるだろう」
「だけど、口を操るために触ったのだとしたら、指紋の付き方が随分違ってくるはずだ
よ。元々、刑事達は何か変だなと感じているかもしれない。僕の推理を警察に伝えた
ら、どうなるだろうね? 君か財前さんの同窓会前の買い物を警察が調べれば、鉄串を
買ったことが明らかになるんじゃないか」
「……いや、証拠にはならない。絶対的なものじゃない」
 自らに言い聞かせるような口ぶりの綿部。僕はわざと哀れむようなため息を吐いた。
「仕方がないね。戸倉、あれを出して、説明してあげよう」
「うむ。了解した」
 戸倉がジャケットの内ポケットをまさぐり始めると、綿部と財前は表情に怪訝さを浮
かべた。程なくして、戸倉はその物――小型のテープレコーダーを引っ張り出した。
「同窓会の席で、僕の現在の研究テーマは音の合成だと話したよな。研究材料を集める
ために、テープレコーダーを持ち歩いて適宜、録音しているんだ。今も録ってたんだ
が、証拠云々はそれじゃなく」
 と、録音をストップし、中のカセットを別の物と入れ替える戸倉。
「こっちのテープは、同窓会のときに使ったやつだ」
「まさか……」
「うむ。村木さんを助けようとしていた場面で、録音していたんだよ。これにはあのと
きの声もばっちり入っている。聞いてみるか? 警察に声紋を調べてもらう前に」

 自首の形を取りたいという二人のために、弁護士に事情を話して来てもらい、後は全
て任せることになった。恋人と対面できるのは、もう少しだけ先になる。
「本当のところはどうなんだ、戸倉?」
 駅のプラットフォームの中ほど、横並びに立っているときに、聞いてみた。
「うん、何がだ」
 煙草を吹かしながら、戸倉は聞き返してきた。喫煙するとは意外だ。蕎麦屋では我慢
していたらしい。
「本当に録音できていたのかってことさ」
 風向きを気にしつつ、僕は質問の意図を明確にした。隣を見ると、特段、表情に変化
はない。
「無論だ。僕はこれでも研究熱心だからね。ま、多少は聞き取りにくい部分はあるかも
しれないが、いざとなったら合成してやるよ」
「それはだめだろう」
 苦笑いが出てしまった。
「いつまでいられるんだ?」
 吸い殻入れに一歩近づき、煙草の火をもみ消す戸倉。
「日本に? うーん、実を言うと、真犯人が捕まったら、すぐに戻ってこいと言われて
るんだけれどな」
「馬鹿正直にその約束を守ってたら、彼女と会う時間がないな」
「だな」
「そもそも、窮地を救いに万難を排して帰国したってことを、星川さんはまだ知らない
んじゃないか」
「多分ね。弁護士先生も伝えてないだろうな」
「じゃ、やっぱり、会っていかねばなるまい。ついでに、向こうの家族にも」
 家族と言われ、あることにふっと合点がいった。星川さんと連絡が取れなくなったあ
と、自宅に電話してもつながらなかったのは、マスコミの電話攻勢に悩まされていたの
が原因なんだろうな。
「そうするよ。それに、できるだけ日本の星空を見ておきたい」
「星か。昔から好きだったんだよな」
 ライターを弄んでいた戸倉は、急に「あ」と叫んだかと思うと、こちらに勢いよく振
り向いた。
「な、何だ、どうした」
「重大なことに気が付いた。おまえと星川さんが結婚したら、どちらの姓を名乗るつも
りか知らないが――」
「ああ、そのこと。ずっと前から、とっくに気付いているよ」
 君津希美子であろうと、星川誉士夫であろうと、その程度のこと、気にならない。

――終




#511/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  17/11/28  22:59  (499)
カグライダンス(前)   寺嶋公香
★内容                                         18/02/01 03:41 修正 第3版
 それは成人式を迎えたことを祝して行われたインタビューだった。もちろん、出演し
た新作映画の宣伝も兼ねていたけれども、名目は飽くまでも二十歳になったこと。ス
ポーツ新聞の芸能面におけるシリーズ企画で、加倉井舞美は三人目に選ばれた。前の二
人はアイドル歌手とバラエティアイドルで、女性が続いている。加倉井は女優代表の形
だ。ちなみに四人目以降は、グラビアアイドル、お笑い芸人、声優、作家……と予定さ
れている。
「子役でデビューして人気が出たあと、大人になってからも大成した人は少ないとされ
ているけれども、舞美ちゃんはその少ない方に入れそう?」
「え、本人に答えさせますか、その質問?」
 加倉井は困った表情を作って見せた。場所は新聞社の地下にある喫茶店の一角。白く
て正方形をしたテーブルの向こうにいるのは、カメラマンと女性記者。幸いと言ってい
いのか、記者の浦川(うらかわ)とは顔なじみで、関係は良好だ。
「自信があると答えたら生意気に映るし、ないと答えたらかわい子ぶってるとか軽く見
られる。どちらにしたって評価が下がりそう」
 マネージャー抜きのインタビューなので、余計な口出しが入らない分、自分の言葉の
みが反映される。普段以上によく考えて受け答えをしなければ。
「確かに。でもこちらとしては、難しい質問にも率直な答が欲しいわけ」
「じゃあ、評価は周りの人に委ねますってのもだめ?」
「だめではないけど、面白くない感じ」
「だったら……周りの皆さんの支えでここまで来られたのだから、今後も信じて進むだ
けです、ぐらいかな」
「おお、大人な回答ですなー」
 それ採用とばかりに、メモ書きに丸印を入れる浦川記者。インタビューの受け答え自
体は録音されているのだが、文章に起こすときの道標としてメモを取るのだという。
(ほんとにこんなインタビュー、面白くなるのかしら。そもそも、アイドル系の人達の
間に挟まれているのが、若干、不本意だし)
 内心では多少の不平を浮かべつつ、これもお仕事、そして宣伝のためと割り切って笑
顔で応じてきた加倉井。が、次の質問には、笑みがちょっと固まった。
「大人と言えば、大人になったのを記念して、こういう質問も解禁と聞いたから」
「何です?」
「ずばり、恋愛関係。好きな人はいるのか、これまで付き合った人はいるか等々」
「――子役からやっていると、付き合う暇なんて。芸能人の友達ばかり増えただけ」
「やっぱり。昔の雑誌のインタビューを見返したら、クラスの同級生と話が合わなくて
困る、みたいな受け答えしてたんですよね。あれって、噂では、同級生の男子がガキ過
ぎて話にならない、みたいな過激な答だったのを、マネージャーさんの要請で直したと
か」
「……小学生の頃の話ですから」
 思い出すと、小学生だったとは言え我ながら考えなしに喋っていたものだと、冷や汗
ものの反省しきりだ。
(あのときはマネージャーじゃなく、確かお母さんが言ったような記憶が。二人ともだ
ったかな?)
 妙に細かいことまで思い出してしまい、苦笑いを浮かべた加倉井。
「それじゃ質問を変えて、好きな男性のタイプは?」
「え?」
「聞いてなかった? 好きな男性のタイプ。具体的な名前は出さなくていいから。これ
くらいなら大丈夫でしょ」
「ああ、好きな男性のタイプ……。そんなこと考えて生活してないもんね。うーん、そ
う、細かいことに口うるさい人は嫌い。だからその逆。大雑把じゃなくて。器の大きな
人になるのかしら?」
「なるほどなるほど。舞美ちゃん自身は、仕事――ドラマや映画の撮影では細かいこと
に拘るみたいだけど」
「仕事では、ね。仕事だったら、細かいことを言うし、言われても全く平気。ただ、言
われるときは納得させて欲しいとは思います」
「昔、二時間サスペンスに出たとき、犯人ばればれの脚本にけち付けたんだって?」
「いやだ、十歳の頃の話ですよ。みんな正解が分かってるのに、そこを避けるようなス
トーリーに感じたから。真面目な話、小学四年にばればれって、問題あるでしょう」
「結局、どうなったの?」
「事務所の力もあって、穏便に済みました。あ、台本は少し直しが入ったかな」
 加倉井は話しながら、現在の事務所の状況に思いを馳せた。彼女の所属する事務所“
グローセベーア”は、分裂したばかりだった。企業組織として大きくなりすぎた影響が
出たのか、先代の社長が亡くなるや、その片腕として働いていた人の何名かが、方針に
異を唱え、所属タレントを引き連れて飛び出してしまった。契約上の問題は(お金のや
り取りもあって)クリアされている。問題なのは、飛び出した側の方が質量ともに上と
見られている点。人数面ではほぼ二分する形なのだが、会社に不満を抱いていた人の割
合はキャリアを重ねた人達に多かった。つまり、タレントならベテランで確実に仕事の
ある人、事務方なら仕事に慣れてしかも業界にコネのある人が大勢、出て行ってしまっ
た。無論、残った側が若手や無能ばかりということはないが、先代社長に気に入られて
いたおかげで、仕事がよりスムーズに回っていた者が多いのは事実だ。
(人気のある人はこちらにもいるから、勢力は五分五分。ただ、無用の争いが起きて、
仕事がやりにくくなる恐れはあり、か)
 マネージャーの言葉を思い出す加倉井。これまではテレビ番組やドラマ等で当たり前
のように共演していたのが、こうして事務所が別々になった結果、一緒に出られなくな
ることもあり得る。言い換えれば、起用に制約が掛かるわけだ。共演者のどちらを残す
かは、番組のプロデューサー次第。あるいはスポンサーの意向が働く場合もあろう。
(“ノットオンリー”……だったかしら、向こうの事務所名。元々は、能登(のと)さ
んと織部(おりべ)さんの二人だけで始めるつもりだったそうだけど、反主流派が尻馬
に乗った感じね)
 能登恭二(きょうじ)と織部鷹斗(たかと)はともに三十過ぎ。出て行ったタレント
の中では若い方だが、人気は絶頂と言ってもいい程に高い。アイドル歌手としてデビ
ューし、俳優として地位を固めた。人気のある分、仕事が先々まで決まっており、グ
ローセベーアをやめるに当たって一番揉めた二人と言える。そのあおりで、今期は露出
が減って、連続ドラマの出演記録も途切れていた。四月から巻き返すのは間違いない。
(能登さんとは共演せずじまい。織部さんとも、同じシーンに出たことはなかった)
 個人的には親しくもらっていたし、青臭い演技論を戦わせた末に、将来の共演を約束
したことすらあった。当分、もしかすると永遠に果たせないかもしれないが。
「じゃあ、共演したい人は誰? テレビ番組でもドラマ・映画でもいいけど」
 インタビューは続いていた。頭の中で考えていたこととシンクロしたせいで、つい、
能登と織部の名を挙げそうになったが、踏み止まる。
「外国の人でも?」
「それは……つまらない気がするから、NGにしましょう。ハリウッドスターの名前を
出されてもねえ」
「日本に限るなら、憧れ込みで、崎村智恵子(さきむらちえこ)さんと大庭樹一(おお
ばじゅいち)さん。同年代でキャリアも近い人なら、ナイジェル真貴田(まきた)君と
一緒にやってみたい。あとは……風谷美羽」
 大御所女優に渋いベテラン、売り出し中の日仏混血、そして。
「最後の人って、あんまり聞かないけれども……」
 浦川の顔には戸惑いが出ている。芸能畑ばかり歩んできた記者なら、知らなくても無
理はないかもしれない。名前を売るのに協力する義理はないので、四人目の名はカット
してもらっても結構ですと告げる。その上で説明する。
「ファッションモデルをメインに活動している子。演技はまだまだ下手。でも多分、何
でもできる子だから、早い内に私達のフィールドに引っ張り込みたい。他人にかまって
られる身分じゃないけれど、あの子に関しては別。引っ張り上げれば、面白くなりそう
な予感が凄くする。以上、オフレコでお願いします」
「えー?」
「私がちょっとでも誉めたと知ったら、彼女に悪い影響を与えると思ってるので。ごめ
んなさい」
「さっきのは誉めたというか、期待してるってニュアンスだったけど……ま、いいわ。
オフレコ、了解しました。引き続いて、出演してみたい監督を」
 来た来た。新作映画の監督名を真っ先に言わねばなるまい。

 インタビューを受けてから約二週間後。スポーツ紙に掲載されたのは、映画の公開前
日に合わせた形になっていた。しかも、事前に聞かされていたのと違って、一面の見出
しにまで使われるというおまけ付き。一面にあるとは思っていなかったので、他の芸能
面から読んでしまった。おかげで、多少縁のある俳優、パット・リーの軽いスキャンダ
ル記事が目にとまり、わずかに苦笑してしまった。
 ついでに、小学生時代の頃まで思い出して――。

            *             *


 小さな子供の頃から、自分は他の子とは違うという意識があった。
 早くから個人というものを意識していただけのことなのだが、周囲にはそれが傲慢に
映ったらしい。拍車を掛けたのは、彼女――加倉井舞美は勝ち気でこましゃくれてて、
そして美少女だった。何より、彼女が芸能人であることが大きな要因かもしれない。
「あら珍しい」
 六年五組の教室に前の戸口から入るなり、すぐ近くの席に座る木原優奈(きはらゆ
な)が呟いた。いや、聞こえよがしに言った、とする方が適切であろう。
「二日続けて、朝から登校なんて」
「そうね」
 聞き咎めた加倉井は、ついつい反応した。でも、冷静さはちゃんと残している。
「前に二日以上続けて来たのは、二週間前だから、珍しいと言えば珍しいわ」
 嫌味を含んだその言い種に対し、座ったまま、じろっと見上げてくる木原。加倉井は
一瞬だけ目を合わせたが、すぐに外し、自分の席に向かった。廊下側から数えて一列
目、最後尾が加倉井の席だ。後ろから入ってもいいのだが、木原を避けているように思
われたくないので、こうして前からに拘っている。
「ねえ、宿題見せて」
 自分の席に着くなり、加倉井は隣の男子に声を掛けた。
「分かった」
 田辺竜馬(たなべりょうま)はすんなり承知した。国語のプリントと算数のドリルを
出し、該当するページを開くと、重ねて加倉井の机の上に置いた。
「字がきれいで助かるわ」
 田辺の宿題を手に取った加倉井は、自らの宿題を出すことなく、まずは算数ドリルの
該当するページに目を通す。宿題を見せてもらうのは、自分がやっていないから書き写
そうという魂胆からではない。芸能活動をやっているとは言え、加倉井は学校の宿題は
きちんとやる質だ(時間の都合でどうしても無理なもの、たとえば植物の生長観察日記
なんかは除く)。少ない時間をやりくりして急ぎ気味にこなした宿題。その答が合って
いるかどうか、確かめておきたいのだ。
「言っとくけど、間違ってるかもしれないからな」
 田辺は横目で加倉井を見ながら言った。彼は副委員長で、小学六年生男子にしては身
体は大きい方である。勉強、体育ともにできる。図画工作や家庭科もまあまあだが、音
楽だけは今ひとつ。真面目な方で、クラス担任からの信頼は厚い。だからこそ、加倉井
のような芸能人の隣の席を宛がわれた。宿題を見せてと初めて頼んだときは、有無を言
わさず拒まれた。でも、理由を話すと、半信半疑ながら見せてくれるようになった。こ
のクラスになっておよそ三ヶ月になるが、現在では疑っていないようだ。
「はいはい」
 いつもの台詞を聞き流し、加倉井は記憶にある自分の出した答と照らし合わせてい
く。
 田辺も加倉井の答合わせにまで付き合う理由はないので、残り少ない朝の休み時間、
他の男子達とのお喋りに戻った。
「――うん?」
 自分の答と違うのを見付けてしまった。算数だから、正解は基本的に一つと言える。
少なくともどちらかが誤りだ。加倉井は計算過程を追い、さらに二度見三度見と確認を
重ねた。そうして結論に達する。
(計算ミスだ。私ではなく、彼の)
 計算の最後のところで、6×8が48ではなしに、46としてあった。
 実際のところ、再三の確認を経ずとも、途中でおかしいと気付いていた。これまで田
辺が算数でミスをすることはなかったため、念を入れたまで。
「た――」
 田辺君、ここ間違えていない?
 そう聞くつもりだったが、ふっと違和感を覚えて、口を閉ざした加倉井。再びドリル
に視線を落とし、むずむずと居心地の悪い、妙な感覚の正体を探る。
 やがて思い当たった。46の箇所だが、一度、消しゴムを掛けて改めて書いてあるよ
うなのだ。6の下、最初に書かれていた数字は、8と読めた。加倉井は口の中でぶつぶ
つ言いながら考えた。それからやおら国語のプリントに移った。
 ざっと見ただけでは分からなかったが、じきに気付いた。欄外に、不自然な落書きが
あった。文章題の本文のところどころに、鉛筆で薄く丸が付けてある。順に拾っていく
と、「貯 召 閉 照 五面」という並びだった。
(「ちょ しょう へい しょう ごめん」……じゃなくて、本文で使われている通り
の読みを当てはめると、貯めた、お召し、閉める、照り返し。五面はごめんのままで、
「ためしてごめん」か)
 おおよそのところを把握できた加倉井は、そのまま宿題のチェックを続けた。
 休み時間の終わりを告げる予鈴が鳴ると同時にチェックも終了。ドリルとプリントを
返す段になって、田辺に言葉を掛けた。
「毎回、ありがと。あとで顔を貸してよね」
「え、な、何?」
「それと、算数の授業が始まるまでに、戻すのを忘れないように」

 二時間目は理科の実験があるため教室移動、三時間目は二コマ続けて隣の組との合同
体育で、休み時間は着替えに当てられた。だから田辺と話をするには、合同体育の合間
に設けられる休憩まで待たねばならない。と腹を据えた加倉井だったが、体育の授業
中、隙を見て?田辺の方から話し掛けてきた。授業内容は五十メートル走などの記録測
定で、暇ができたのだ。
「さっきのことだけど」
 体育座りをしてぽつんと一人いた加倉井の左横、一メートル弱の間隔を取って田辺が
座った。二人とも、前を向いたまま会話に入る。
「今やる? 事の次第によっちゃあ、ただで済まさないつもりなんだけど」
 周りに人がいたらやりにくいじゃないの、という意味で言った加倉井。
「てことは、やっぱり、ばれたか」
「私を相当なアホだと思ってる? げーのーじんだから」
 つい、田辺の方を振り向いた。田辺も気配を感じ取ったか、振り向いた上で、首を横
に素早く振った。
「いやいや、思ってないよ、全然。頭いいのはよく知ってる」
「だったら、何でわざと誤答を書いてたのよ、算数の七問目」
 前に向き直る。6×8を計算ミスすることはあり得ても、一旦、48と正解を出して
おきながら、それを46に書き直すなんてことはあり得ない。少なくとも、田辺くらい
普段から成績のいい者が。だからあの46はわざとである。加倉井はそう結論づけてい
た。
「そんなことを聞くからには、国語の方には気付いてないのかな」
 田辺の方はまだ加倉井を見たまま、呟くように言った。
「気付いたわよ。あんな分かり易い印に、分かり易い暗号」
 本文の読み通りに、続けて読むと「ためしてごめん」となる。
「何で試すような真似をしたのかってことが、聞きたいわけ。分かる?」
「それは……」
 途端に言いづらそうになる田辺の声。いらいらした加倉井は、先に予想を述べた。
「大方、私が本当に丸写ししていないか、確認したかったんでしょ? 間違いに気付か
ずに写して、恥をかけばいいと思った」
「ち、違う。疑ってなんかない」
 よっぽど焦ったか、田辺は体育座りの姿勢を崩し、右手を地面について、少しにじり
寄ってきた。
「じゃあ、どうして」
「うーん、誰にも言わないと約束してくれるなら」
「約束なんて無理。それでも、君には答える義務があるわよ、田辺クン」
 口ごもった田辺に、加倉井は追い打ちを掛ける。
「そもそも、条件を出せる立場じゃないわよね。わざと間違えた答を見せるなんて、普
通に考えて悪気があるとしか」
「……ある人から頼まれた。加倉井さんが宿題をちゃんとやって来ているかどうか、分
かるように嘘の答を混ぜろって」
「ある人って、誰よ」
「それは勘弁してよ」
「まったく。まさか、先生じゃないわよね。宿題を見せてもらっていること、知らない
はずだし。そうなると、クラスの誰か」
 言葉を切り、田辺の表情を見て反応を伺う。相手は何も言うまいと誓うかのように、
口をすぼめていた。
「さっき、田辺君は『ある人』って言った。対象が男子なら、そんな言い方はしないん
じゃない? そう考えると女子。君に指図してくるぐらいだから、結構親しい。なおか
つ、私にいい感情は持っていない……」
 すぐに浮かんだ名前が三つくらいある。ただ、今朝、いきなり突っかかってきた印象
が強いため、一人の名前がクロースアップされた。
「木原優奈でしょ?」
 大した理由なしにかまを掛けただけなのに、田辺の顔には動揺の色が意外とはっきり
浮かんだ。肯定のサインだ。
「返事はしない。読み取ってくれ」
 それだけ言うと、真っ直ぐ前を向く田辺。
「まるで脅されてるみたいよ」
「そんなことない。僕がいくら言っても聞き入れないから、証明のつもりで引き受け
た」
「? 何を」
「そ、それは」
 またたじろぐ田辺だったが、言い渋る内に走る順番が回ってきた。名前を呼ばれて、
急ぎ足で立ち去る彼を、加倉井はしばらく目で追った。
(これは逃げられたかな。でも気になるから、逃がさない。あとで聞こう。と言って
も、今日はこのあと、給食食べずに午後から早退なのよね。忘れないようにしなきゃ)

 子供の立場で言うのもおかしいかもしれないが、今、加倉井のメインの仕事は、子供
向けのドラマである。ゆる〜い探偵物で、タイトルは「ゲンのエビデンス」という。頼
りない大人の探偵ゲンを、助手の小学生二人が助けるのが基本パターン。加倉井はその
助手の一人だ。もう一人は男子で、香村綸という子が受け持っている。
「ねね、聞いたかい?」
 風が止むのを待つため撮影が中断したとき、香村が近寄ってきたかと思うと、唐突に
切り出した。
「何て?」
 風による葉擦れの音のせいで、加倉井は耳に片手を当てながら聞き返した。
「この番組、もうすぐ抜けるから、僕」
「ふうん。人気急上昇で仕事殺到、忙しいアピール?」
「そうそう」
 答えながら、へし口を作る香村綸。加倉井の反応の薄さが気に入らない様子だ。察し
た加倉井は、どうせ暇があるんだしと、しばらく付き合ってやることに。
「香村君が抜けると、大きな穴があくわね。誰か新しく入るのかしら」
「僕の抜けた穴を埋められる奴なんて、そういない……って言いたいけれど、もう決ま
ってるんだってさ。知らない名前だった」
「もう聞いてるんだ? 誰よ」
「だから、知らない名前だったから、印象に残ってなくってさ。えーと、確か……服部
みたいな名前」
「何なの、それ。服部みたいなってことは、服部ではないという意味?」
「うん。そうそう、外国人の血が混じってるんだっけ。だから片仮名」
「それを早く言いなさいよ」
 ため息をつきつつ考えてみると、じきに一人の名前が浮かんだ。
「まさか、パット・リーかしら」
 日英混血で、日本名は圭。加倉井達より一つか二つ年上で、英米及び香港での映画や
ドラマ出演多数。見た目はかわいらしい子役なのに、アクションをこなせるのと日本語
と英語、そして中国語(の一部)を話せるのが強みとなっているようだ。今年度下半期
辺りから活動の主軸を日本に移すとの芸能ニュースが、少し前に報じられた。
「そうだ、確かにパット・リーだった」
「香村君は知らないの、パット・リーを?」
「外国で何か出てるってのは知ってたけれども、大して意識してなかったから。日本に
来てライバルになるんだったら、これからはちゃんと覚えるさ」
 口ではそう説明するも、わざと知らなかったふりをしていた節が、どことなく感じら
れた。
「香村君の退場は、どんな脚本になるのかしらね。爆死か何かで壮絶に散るとか」
「子供番組なのに。まあ、そんな筋書きにしてくれたら、伝説になる可能性ありだか
ら、僕はかまわないけど。あ、でも、再登場がなくなるのは惜しい」
「あ、いい案を思い付いたわ。パットが演じる新入り助手に、こてんぱんにやっつけら
れるの。心も体も傷ついたあなたは、海外修行に旅立つ」
「踏み台かい。優秀さを認められて、海外支部に派遣の方がいい」
「そんな設定ないじゃない。探偵事務所の海外支部って、後付けしようにも無理ね」
 想像を膨らませて雑談を続けていると、撮影再開の声が掛かった。いつの間にか風が
収まっていた。

 川沿いの坂を香村がスケートボードで下るシーンの撮影中に、“お客”がやって来
た。黒縁眼鏡に帽子、白マスクと完全防備の訪問者は、パット・リーその人(とマネー
ジャーに、日本での所属先となる事務所の人)だった。予定にない参上に、撮影スタッ
フらの動きが慌ただしくなる。
 幸い、香村のシーンはちょうどOKが出たところだったので、撮影の邪魔にはならな
かったが、ぎりぎりのタイミングとも言える。香村がふくれ面になるのを、加倉井は見
逃さなかった。
「香村君、冷静に。抑えてちょうだい」
 本来、香村のマネージャー辺りがすべき役割だろうが、パット・リー登場に浮き足立
ったのか、姿が見当たらない。
「分かってるって」
「嫌味な口の利き方もなしよ。彼と一緒に仕事する私達のことも考えてね」
「分かった分かった。僕だって、一話か二話、共演する可能性残してるし」
 主役クラスの二人が離れたところでごにょごにょやってる内に、パットはマスクだけ
取った。この現場の責任者に挨拶を済ませる。
「見学に来ました」
 パットはイントネーションに若干の怪しさを残すも、流暢な日本語を使えるようだ。
にこやかな表情で、主なスタッフ数名と握手をしていく。
「主役の一人で探偵役は郷野寛之(ごうのひろゆき)さんなんですが、今日は来られて
ないので、助手役の二人を紹介します」
 監督自らの案内で、パットは加倉井達の前に来た。
「はじめまして。パット・リーです。見学に来ました。よろしくお願いします」
 予め決めてあったような口ぶりだったが、気持ちはこもっていた。さすが俳優と言う
べきなのかもしれない。
 近くまで来ると、パットの背の高さが分かった。二つほど年上なのだから、パット自
身が際立って高身長というわけでもないが、香村は小柄な方なので比較すれば差があ
る。一方、加倉井とは同じくらい。それでもパットの方がやや上か。
「舞美ちゃんにはまだ言ってなかったけど、十月から彼、パット・リーが出演者に加わ
るんだ」
 監督が簡単に説明する。加倉井は初耳のふりをして聞いておいた。最初に驚いてみ
せ、次に関心ありげにタイミングよくうなずく。
 実際、関心はある。眼前の混血俳優が、一体どういうつもりで、外国でのスターダム
路線を(一時的なのかずっとなのかは知らないが)外れ、日本の子供向けドラマに出て
みる気になったのか。
 と言っても、初対面かつ撮影中の現場では、突っ込んだ話はできまい。ここは大人し
くしておく。香村が暴走しそうだったら、手綱を引き締めなければいけないし。
 ところがパット・リーは西洋育ちのせいか、女性である加倉井に対してより関心と気
遣いを見せた。
「加倉井さん、あなたが出ている作品、これともう一つ『キッドナップキッド』を観ま
した。同じ人とは思えない、演じ分けていましたね」
「どうもありがとう。ほめ言葉として受け取ってもいい?」
「もちろんです。これなら自分もよい芝居ができると思いました」
「私も楽しみです」
 それからパット・リーの出演作で視聴済みの物を挙げようとしたのだが、香村が会話
に割って入ってきた。
「ねえねえ、リーさん。僕は?」
「香村君の出ている作品ももちろん観ました。勘のいい演技だと思いましたね。よくも
悪くも、香村綸という個性が際立っていますし」
 これもほめ言葉なのだろうか。微妙な言い回しだと受け取った加倉井だが、当の香村
は好意的に解釈したらしい。ふくれ面はどこへやら、にこにこしている。
(香村君は台詞覚えは早くて、言葉だけは知っていても、言葉の意味までは大して知ら
ないものねえ。もうちょっと勉強にも力を入れた方が)
 心中でアドバイスを送る加倉井。声に出して言ったことも何度となくあるのだが、改
まった様子はない。
「短い期間だけど、僕とも共演することになるだろうから、仲よくやろうよ」
 香村は右手を出し、握手を求めた。相手は年上だが、このドラマでは先輩だし、日本
国内でもしかり。そんな意識の表れなのか、香村の言動はフレンドリーを些か超えて、
上から目線の気が漂う。
 パット・リーは(まだ子供だけど)大人の対応を見せる。眼を細めて微笑を浮かべる
と、右手で握り返した。
「よろしくお願いします。センパイ」

 思わぬ見物人が来た撮影の翌日は、金曜日だった。今日は学校でフルに授業を受け、
土日はまた撮影に当てられる予定である。
 そして加倉井は、朝から少々憂鬱だった。また木原につっかかられるんだろうなとい
う覚悟に加え、前日の撮影の醜態に頭が痛い。撮り直しの連続で疲れた。と言っても、
撮影でミスをしたのは加倉井自身ではない。
(香村君、パットを知らないと言ってた癖に、意識しちゃって)
 思い出すだけでも、疲労感を覚える。
 パット・リーが見ていると力が入ったのか、香村は動作の一つ一つに文字通り力みが
出て、固くなっていた。台詞はやたらとアドリブを入れるし、声が必要以上に大きくな
る場面もしばしばあった。使えないレベルではないものの、これまで撮ってきた分との
差が明らかにあるため、リテイクせざるを得ない。
(番組を出て行くあなたが、意識過剰になってどうするのよ)
 心の中での言葉ではあるが、つい、香村と呼び捨てしたり、あんたと言いそうになっ
たりするのを堪える加倉井。心中の喋りは、実際のお喋りでも、ふっと出てしまいが
ち。そこを分かっているから、少なくとも同業者やスタッフの名前は、声にしないとき
でも丁寧さを心掛ける。そのせいでストレスが溜まるのかもしれないが。
「あ、来た」
 気が付くと、教室のドアのところまで来ていた。声の主は、木原優奈。加倉井がおか
しいわねと首を傾げたのは、その声がいつもと違っていたから。
(何だか弾んでいるように聞こえたけれど……さては、新しい悪口でも思い付いたのか
しら)
 警戒を強めた加倉井が立ち止まると、木原は席を離れ、近寄ってきた。これまたいつ
もと異なり、邪気に乏しい笑顔である。
「どうしたの? 入りなよ」
「……何か企んでいる眼だわ」
 隠してもしょうがない。感じたままをはっきり言った。
 指摘に対し、木原はより一層笑みを増した。
「やーね、企んでなんかいないって。ただ、お願いがあるんだけれどね」
 と言いながら、早くも手を拝み合わせるポーズの木原。加倉井は別の意味で、警戒し
た。相手のペースから脱するために、さっさと自分の席に向かう。
 木原は早足で着いてきた。
「聞くだけでもいいから、聞いてよ〜」
「はいはい聞いてます。早く座りたいだけよ」
 付け足した台詞が効いたのか、木原はしばし静かになった。席に収まり、机の上に一
時間目の準備を出し終えるまで、それは続いた。
「で? 何?」
「昨日までのことは忘れて、聞いて欲しいのだけれど」
「忘れるのは難しいけれども、聞く耳は持っているわ。とにかく言ってくれなきゃ、話
は進まないわよ」
「そ、それじゃ言うけど、加倉井さんは今度、あのパット・リーと共演するって本当
?」
 この質問だけで充分だった。
(情報解禁したのね。というか、私の耳に入るの遅すぎ。きっと、情報漏れを恐れてぎ
りぎりまで伏せておきたかったんでしょうから、別にかまわないけれど。それはさてお
き、この子ってば、パット・リーのファンだったのね。それも相当な)
 ぴんと来た加倉井は、どう対処するかを素早く計算した。「内定の段階ね。まだ本決
まりじゃないってこと」と答えた上で、相手の次の言葉を待つ。
「それじゃ、正式決定になった場合でいいから、パット・リーのサインをもらってきて
欲しいのですが」
 木原はその場でしゃがみ込み、手を小さく拝み合わせて言った。
 後半、急に丁寧語になったのがおかしくて、無表情を崩しそうになった。だが、そこ
は人気子役の意地で踏み止まる。
「私も一度会ったきりだから、何とも言えない」
 若干、冷たい口調で応じた。サインをもらってきて欲しいとお願いされるのは予想し
た通りだったが、これを安請け合いするのは避ける。今後、木原との関係を優位に運ぶ
には、ここは色よい返事をすべきかもしれないが、万が一、もらえなかったら元の木阿
弥。それどころかかえって悪化しかねない。
 しかし、そういった加倉井の思惑なんて関係なしに、木原は違う方向からの反応を示
す。
「え、もう、会ったことあるの?」
「それはまあ」
 向こうが勝手に見学に来ただけだが。
「いつ? どんな感じだった、彼?」
 加倉井の机の縁に両手を掛け、にじり寄る木原。このまま加倉井の手を取るか、さも
なくば二の腕を掴んで揺さぶってきそうな勢いだ。
「話すようなことはほとんどないけど」
「それでもいいから、聞かせて! ねえ」
 おいおいいつからこんなに親しくなったんだ、私達は。そう突っ込みを入れたくなる
ほど、木原はなれなれしく接してくる。
「分かったわ。話す。でも、その前に」
 両手のひらで壁を作り、距離を取るようにジェスチャーで示す。木原は一拍遅れて、
素直に従った。
「さっき言ってた忘れるどうこうだけど、やっぱり無理だから。けじめを付けたいの」
「わ、分かった。悪かったわ」
「ちょっと、ほんとにそれでいいの? 目先の利益に囚われてるんじゃないの」
 謝ろうとする木原をストップさせ、加倉井は問い質した。そのまま受け入れておけば
すんなり収まるのは分かっていても、性格上、難しい。
「じゃあ、どうしろって……」
「言いたいことがあるんじゃないの? もしそれが文句ならば、はっきり声に出して言
って」
 加倉井の圧を帯びた物言いに、木原の目が泳ぐ。明らかに戸惑っていた。どう反応す
るのがいいのか分からなくて、困っている。
「私は好き好んで喧嘩したいわけじゃないし、そっちも同じじゃないの? だったら―
―」
 チャイムが鳴って、加倉井の言葉は中断された。このまま続けても、相手の答まで聞
いている時間はないに違いない。一旦切り上げる。
「またあとでね」

 一時間目の授業で、先生から当てられた木原が答を間違えたのは、休み時間における
加倉井とのやり取りのせいかもしれない。二時間目以降もこんな調子ではたまらないと
考えたのかどうか、授業が終わるや、木原は加倉井の席までダッシュで来た。
「答をずっと考えてた」
 前置きなしに始めた木原。対する加倉井は、次の授業の準備を淡々と進める。
「悪口を言ってたのは、うらやましかったから。別に、加倉井さんが悪いっていうんじ
ゃないわ」
 木原は普段よりも小さめの声で言った。こんなことを認めるだけでも、一大決心だっ
たのだろう。加倉井はノートと教科書を立てて、机の上でとんとんと揃えた。そして聞
き返す。
「――それだけ?」
「……悪くはないけど、いらいらする。あんた、何を言っても、落ち着いてるから」
「それが嫌味で上から目線に見えたとでも?」
「そ、そうよ」
「分かったわ。できる限り、改める。できる限り、だけね。それと言っておくけど、私
だって悪く言われたら泣きたくなることあるし、わめき散らして怒りたいことだってあ
るわよ」
「……全然、見えない」
 それは私が演技指導を受けているから。言葉にして答えるつもりだった加倉井だが、
すんでのところでやめた。
 代わりに、それまでと打って変わっての笑顔をなしてみせる。勝ち誇るでも見下すで
もなく、嘲りやお追従とももちろん違う。心からの笑み――という演技。
「木原さんも知っての通り、パット・リーは日本語が上手よね」
「う、うん」
 急激な話題の転換に、ついて行けていない様子の木原。だが、パット・リーの名前を
認識して、じきに追い付いたようだ。その証拠に「決まってるじゃない。ハーフなんだ
し、日本で過ごしたこともあるんだから」と応じる。
(これで戻ったわね)
 加倉井は心中、満足感を得た。
「私が会ったときの彼、思ってた以上に日本語がうまかった。ニュアンスまで完璧に使
いこなしてたわ」

 日々過ぎること半月足らず、金曜の下校時間を迎えていた。
 加倉井が校門を出てしばらく行ったところで、斜め後ろからした「へー」という男子
の声に、ちょっとだけ意識が向いた。聞き覚えのある声だったが、呼び止められたわけ
ではないし、自分と関係のあることなのかも定かでない。結局、ペースを落とさずに、
さっさと進む。
「待って」
 さっきの声がまた聞こえた。加倉井を呼び止めようとしている可能性が出て来たけれ
ども、名前が入っていない。だから、相変わらず歩き続けた。すると、ランドセルのか
ちゃかちゃという音とともに、声の主が駆け足で迫ってくる気配が。
「待ってって言ってるのに」
 そう言う相手――田辺と、振り向きざまに目が合う。不意のことに急ブレーキを掛け
る田辺に対し、加倉井は前に向き直ると、そのまますたすた。
「私に用があるのなら、名前を呼びなさいよ」
 一応、そう付け加える。と、田辺が再度、駆け足で短い距離をダッシュ、横に並ん
だ。
「言っていいの?」
「……何で、だめだと思ってるわけ?」

――続




#512/598 ●長編    *** コメント #511 ***
★タイトル (AZA     )  17/11/29  01:15  (500)
カグライダンス(後)   寺嶋公香
★内容                                         18/02/01 03:56 修正 第4版
「外で名前を叫んだら、みんな気付いて、集まってくるんじゃあ……」
 なるほど。納得した。そこまでの人気や知名度はないと自覚している加倉井だが、田
辺の小学生なりの気遣いには感心したし、多少嬉しくもあった。
 しかし、感情の変化をおいそれと表に出しはしない。
「ばかなこと言わないで。私なんか、まだまだ」
「そうかぁ?」
「そうよ。名前で呼べるのは今の内だから、どんどん呼んで。人気が出たらやめてね」
 返事した加倉井は、田辺が目を丸くするのを視界に捉えた。
「何その反応は」
「びっくりした。そういう冗談、言うんだね」
「結構本気で言いました。さっき、『へー』っていうのが聞こえた気がするんだけど、
あれはどういう意味?」
「何だ、ちゃんと聞こえてるじゃん」
「だから、そっちが名前を呼ばないからだと」
「へーって言ったのは、歩いて帰るのが珍しいと思ったからで」
「私が? そんなに珍しがられるほど、久しぶりだったかしら」
「前がいつだったかなんて覚えてないけど、とにかく久しぶりだ」
「覚えていられたら、気色悪いわね」
「……加倉井さんのファンが聞いたら泣きそうなことを」
「そういう田辺君は、いつまで着いてくるつもりなのかしらね」
「えっ。ちょっと。忘れてるみたいだから言うけどさ、登校は同じ班だったろ」
 朝、登校時には地区ごとの子供らで列になって学校へ行く。正確を期すなら、同じ班
と言っても男女は別だが。
「通学路は同じ。つまり、ご近所」
「そうだったっけ……だったわね」
 さすがにこれは恥ずかしいと感じた。表情のコントロールができているのか自信がな
くなり、さっと背けた。頬に片手を宛がうと、熱を少し感じたので赤くなっているのか
もしれない。加倉井は思った。
「朝、登校するときはほとんど車だもんね。忘れられてもしょうがないか」
 田辺の方は、さして気にしていない風である。変わらぬ口調で、話を続けた。
「少し前にさ、加倉井さんと木原さんが長いこと話していたのを見たけれど、あれは何
だったの? 僕が木原さんの言うことを聞いて宿題に間違いを混ぜていたせいで、もっ
と仲が悪くなったんじゃないかって心配してたんだけど、そうでもなさそうだから、不
思議なんだよなー」
「あれは田辺君のしたことと、直接の関係はないわ。だから心配する必要なし。木原さ
んとの関係は……冷戦状態だったのが、お互い、物言えるようになった感じかしら。あ
る俳優さんのおかげだから、今後どうなるか知れたものじゃないけれど」
 パット・リーが参加しての撮影はすでに何度か経験していた。漠然と想像していたよ
りは、ずっと自己主張が少なく、与えられた役を与えられた通りにそつなくこなす、そ
んな印象を受けた。加倉井ともすぐに打ち解け、スタッフ間の評判もよい。加倉井は折
を見てサインを色紙にしてもらった。まだ木原に渡すつもりはない。当分の間、引っ張
ろう。
「それならいいんだけど」
「もしかして、木原さんから頼み事をされなくなって不満なの?」
「そ、それだけは絶対にない!」
 声だけでなく全身に力を込めて否定する田辺。加倉井はちょっとした思い付きを言っ
ただけなのに、ここまで大げさに反応されると、逆に勘繰りたくなる。ただ、他人の好
みを詮索する趣味は持ち合わせていないので、これ以上は聞かない。
 しかし、田辺にしてみれば、逆襲しないと気が済まない様子。
「そういう加倉井さんは、学校の友達付き合いあんまりないし、誰某が嫌いっていうの
はあっても、好きっていうのはないんじゃないのか。仕事場に行けば、年上の二枚目が
いくらでもいるんだろうしさ」
「うーん、確かにそうだけどさ。芸能界にも好きな人はいないかな。憧れるっていう
か、尊敬する人なら一杯いても、田辺君が言うような意味での好きな人はいないな、う
ん」
 一応、本心を答えている加倉井だが、恥ずかしい思いがわき上がってくるので、喋り
は若干、芝居がかっていた。

 そのシーンに関して言えば、加倉井は台本に目を通した時点で、少しだけ消極的な気
持ちになった。
 加倉井が演じる笹木咲良(ささきさら)は、パット・リー演じる新加入の探偵助手、
服部忍(はっとりしのぶ)といまいち反りが合わず、ぎくしゃくが続いていたところ
へ、服部のふと漏らしたジョークにより、咲良が彼を平手打ちする――という、いかに
もありそうな場面展開なのだが。
(叩くのは気にならない。でも、これがオンエアされたあとの木原さんの反応を想像す
ると、ちょっと嫌な感じがするわ)
 幸か不幸か、パットは本気で平手打ちされても一向にかまわない、むしろ手加減せず
に来いというスタンス。もちろん、彼自らも頭を逆方向に振って、ダメージを逃がす
し、叩く音はあとで別に入れるのだが。
「でも、手首の硬いところはくらくらするから、ちゃんと手のひらでお願いします」
 笑いながら言う。リハーサルを繰り返す内に、加倉井も芝居に入り込む。一発、ひっ
ぱたいてやりたいという気分になってきた。そして本番。
『取り消して!』
 叫ぶと同時に右手を振りかぶり、水平方向にスイング。ほぼ同じ背の高さだから、姿
勢に無理は生じない。だけど、パットが首を動かすのが若干、早かった。相手の頬を、
指先が触れるか触れないかぐらいのところで、加倉井の右手は空を切った。
 派手に空振りして、バランスを崩してしまった。
「おっと」
 よろめいた加倉井を、パットが両腕で受け止める。そしてしっかり立たせてから、
「大丈夫でした? ごめんなさい。早すぎました」と軽く頭を垂れる。その低姿勢ぶり
に、加倉井もつい、「私も遅かったかもしれません」と応じてしまった。両者がそれぞ
れミスの原因は自分にあると思ったままでは、次の成功もおぼつかない。
「いや、やはり、僕が早かった。大変な迫力で迫ってきたので、身体が勝手に逃げてし
まったんですよ」
 パットは冗談めかして言いながら、首を振るさまを再現してみせた。結局、パットの
動き出しが早かったということになり、再トライ。
『取り消して!』
 ――ぱしっ。
 今度はうまく行った。それどころか、加倉井には手応えさえあった。事実、音もかな
りきれいに出たように思う。もちろん、そんな心の動きを表に出すことはしない。即座
に監督からOKをもらえた。
 演技を止め、表情を緩める。そして目の前のパットに聞く加倉井。
「痛くなかったですか」
「平気。痛かったけど」
 オーバーアクションなのかどうか知らないが、彼の手は左頬をさすっている。その指
の間から覗き見える肌の色は、確かに赤っぽいようだ。
「今後、気を付けますね」
「それはありがたくも助かります。ついでに、このドラマで二度も三度も叩かれるの
は、勘弁して欲しいです」
 台詞の後半に差し掛かる頃には、彼の目は監督ら撮影スタッフに向いていた。

 明けて日曜。早朝からの撮影では、仲直りのシーンが収録されることになっていた。
 事件解決を通じて格闘術の技量不足を痛感した笹木咲良(加倉井)が、服部に教えを
請い、実際に指導を受けるという流れである。
 朝日を正面に、河川敷のコンクリで座禅する服部。衣装は香港アクションスターを連
想させる黄色と黒のつなぎ。その背後から近付く咲良。こちらは小学校の体操服姿。足
音を立てぬよう、静かに近付いたまではよかったが、声を掛けるタイミングが見付から
ない。と、そのとき、服部が声を発する。まるで背後にも眼があるかの如く、『何の用
ですか、咲良?』と。
 これをきっかけに、咲良は服部に頭を下げて、格闘術を教わる。そこから徐々にフ
ェードアウトする、というのが今回のエピソードのラスト。
 殺陣というほどではないが、格闘技の動きは前日とつい先程、簡単に指導を受けてい
る。リハーサルも問題なく済んだ。あとは、日の出に合わせての一発勝負だ。
『何の用ですか、咲良?』
 名を呼ばれたことにしばし驚くも、気を取り直した風に首を横に小さく振り、咲良は
会話に応じる。そして本心を伝えると、服部は迷う素振りを見せるも、あっさり快諾。
『実力を測るから掛かってきなさい』という台詞とともに、咲良に向けて右腕を伸ば
し、手のひらを上に。親指を除く四本の指をくいくいと曲げ、挑発のポーズ。
 咲良を演じる加倉井は、飽くまで礼儀正しく、一礼した後に攻撃開始。突きや蹴りを
連続して繰り出すも、ことごとくかわされ、二度ほど手首を掴まれ投げられる。最後
に、左腕の手首と肘を決められ、組み伏せられそうなところへさらに膝蹴りをもらうと
いう段取りに差し掛かる。当然、型なのだからほとんど痛みはないはずだったが、組み
伏せられる直前に、パットの右肘が胸に当たってしまった。
「うっ」
 ただ単に胸に当たっただけなら、気にしない。強さも大してなかった。だが、このと
きのパットの肘は、加倉井のみぞおちにヒットしたからたまらない。暫時、息ができな
い状態に陥り、演技を続けられそうになくなる。パットは気付いていないらしく、その
まま続ける。台本通り、組み伏せられた。元々、あとはされるがままなのだから、一
見、無事にやり通したように見えただろう。しかし、カットの声が掛かっても、加倉井
は起き上がれなかった。声が出ない。代わりに、涙がにじんできた。
 女性スタッフの一人がやっと異変に気付いて、駆け寄ってきた。場を離れてタオルを
受け取ろうとしていたパット・リーも、すぐさま引き返してきた。
「大丈夫ですか? どこかみぞおちに入りましたか?」
 答えようにも、まだ声が出せない。頷くことで返事とする。そこへ、遅ればせながら
マネージャーが飛んできて、事態を把握するや、加倉井を横にして休ませるよう、そし
てそのために広くて平らかで柔らかい場所に移動するよう、周りの者にお願いをした―
―否、指示を出した。大げさに騒ぎ立てるなんて真似は、決してしない。
「アクシデントでみぞおちに入ってしまったみたいですが、後々揉めることのないよ
う、診察を受けてもらった方がいいかと」
「そうさせていただきます」
 仰向けに横たえられ、普段通りの呼吸を取り戻しつつある加倉井の頭上で、そんなや
り取りが交わされていた。
(当人が具体的に何も言ってないのに、どんどん進めるのはどうかと思う。けど、妥当
な判断だし、ここは大人しくしておくとするわ。第一――)
 加倉井は自分の傍らにしゃがみ込むパット・リーを見上げた。左手を両手で取り、ず
っと握っている。表情はさも心配げに目尻が下がり、眉間には皺が寄る。
(こうも親切さを見せられたら、受け入れとくしかないじゃない)

 幸い、診察結果は何ともなかった。薄い痣すらできていなかった。
 くだんの「ゲンのエビデンス」がオンエアされたのは、それからさらにひと月あまり
が経った頃。前回で香村綸は去り、パットが物語に本格的に関わり始め、加倉井と衝突
するエピソードである。
 その放送が終わって最初の学校。加倉井は午前中最後の授業からの出席になった。昼
休みに待ち構えているであろう、木原優奈らからの質問攻め――恐らくは非難を含んだ
――を思うと、授業にあまり集中できなかった。
 ちょうど給食当番だった加倉井は、おかずの配膳係をしているときも、何か言われる
んじゃないかしら、面倒臭いわねと、いささか憂鬱になっていた。ところが、木原にお
かずの器を渡したとき、相手からは特に怒ってる気配は感じられなかった。どちらかと
言えば、にこにこしている。
「あとでパットのこと、聞かせてちょうだいね」
 木原からそう言われ、マスクを付けた加倉井は黙って頷いた。
 給食が始まると、加倉井がまだ半分も食べない内に、木原はいつもより明らかに早食
いで済ませると、席の隣までやって来た。そして開口一番、言うことが奮っている。
「もう洗っちゃったわよね、右手」
「は?」
 いきなり、意味不明の質問をされて、さしもの加倉井も素で聞き返した。
「パットの頬に触れたあと、右手を全然洗っていないなんてことは、ないわよね」
 理解した。
「残念ながら、洗ったわ」
 どういった機会に洗ったかまでは言わなくていいだろう。木原はさほどがっかりした
様子は見せなかったが、視線が加倉井の右手の動きをずっと追っているようで、何とは
なしにコワい。
 その後も食べながら、問われるがままに答えられる範囲で答える加倉井。木原の質問
のペースが速いため、加倉井の食べるペースは反比例して遅くなる。その内、他のクラ
スメートもぽつぽつと集まってきた。もちろん、女子がほとんど。やがて彼女らの間で
論争が勃発した。
「香村綸もよかったけど、パット・リーも案外、早く馴染みそう」
「私はカムリンの方がいいと思うんだけど」
「断然、パット! カムリンは小さい」
「これから伸びるって!」
 おかげでようやく給食を終えることができた。加倉井は食器とお盆を返し、ついでに
給食室までおかずの胴鍋を運んだ。教室に戻って来ると、論争は終わりかけていたよう
だ。香村派らしき女子が、加倉井に聞いてくる。
「カムリンが降板したのって、何か理由があるの?」
「具体的には聞いていないわ。人気が出て他の仕事が忙しくなったみたいよ」
「ほら、やっぱり。カムリンは“卒業”。下手だから降ろされたんじゃないわ」
「途中で抜けるのは無責任だわ」
 終わりそうだった論争に、また火を着けてしまったらしい。加倉井はため息を密かに
つき、机の中を探った。次の準備をしようとするところへ、男子の声が。田辺だ。
「僕からも聞いていい?」
「遠慮なくどうぞ」
 何でわざわざ確認をするのと訝しがりつつ、加倉井は相手に目を合わせた。
「最後のシーン、遠くからで分かりにくかったけど、ほんとに倒れてなかった?」
「――ええ、まあ」
 「ほんと」のニュアンスを掴みかねたが、とりあえずそう答えておく。
 普段、自分の出演した作品のオンエアを見ることはほとんどしない加倉井だが、この
回の「ゲンのエビデンス」は別だった。ラストの乱取りが、どんな風に編集されたの
か、多少気になったから。
 田辺の言ったように、そして当初の台本通り、加倉井が組み伏せられた遠くからの
シーンでエンドマークを打たれていた。大画面のテレビならば、加倉井がみぞおちへの
ダメージで、膝蹴りを食らう前にがくっと崩れ落ちる様子が分かるだろう。
「じゃあ、ミスったんだね、どちらかが」
 田辺の使った「ほんと」が、「本当に強く攻撃が入った」という意味だとはっきりし
た。加倉井は頭の中で返事を瞬時に検討した。
(肘は予定になかった。だから、ミスは私じゃない。でも今この雰囲気の中、真実を話
すのは、恐らくマイナス。かといって、私一人が責任を被るのも納得いかない)
「ミスがあったのは当たりだけれども、どちらかがじゃなくて、二人ともよ。何パター
ンか撮ったのだけれど、あまりにバリエーションが豊富で、私もパット・リーも段取り
がごちゃごちゃになってしまった。だからあのラストシーンは、厳密にはNGなの。で
も、見てみると使えると判断したんでしょうね、監督さん達が」
 と、こういうことにしておく。すると、女子同士で言い争いが再び始まった。
「カムリンが相手だったら、そんなミスはしなかったのに」
「それ以前の問題よ。香村綸に、パットのような動きは絶対無理!」
「そうよね。身長が違うし」
「関係ないでしょ!」
 耳を塞ぎたくなった加倉井だが、我慢してそのまま聞き流す。平常心に努める。
「それで加倉井さん、大丈夫だったのかい?」
 田辺が聞いてきた。心配してくれたのは、彼一人のようだ。加倉井はまた返事をしば
し考えた。あのときを思い起こすかのように一旦天井を見上げ、次いで胸元を押さえな
がら、俯いた。そうしてゆっくり口を開く。
「物凄く痛かった。息が詰まって涙が出るくらい」
「え、それは」
 おろおろする気配が田辺の声に滲んだところで、加倉井は芝居をやめた。満面の笑み
を田辺に向ける。
「心配した? ほんの一時だけよ。念のため、病院に行って、ちゃんとお墨付きをもら
ったから」
「何だ。脅かしっこなし」
「だいたい、撮影はだいぶ前よ。一ヶ月あれば、少々の怪我なら治るわ」
「ふん、そんなこと知らねーもん」
 小馬鹿にされたとでも思ったのか、田辺は踵を返して、彼の席に戻ってしまった。
(あらら。心配してくれてありがとうの一言を付け足すつもりだったのに、タイミング
を逃しちゃったじゃないの)

 次の日の学校で、加倉井はある噂話を耳にした。
 パット・リーはアクション、特に武術の動きが得意とされている割に、撮影中の軽い
アクシデントが結構ある、というものだ。話をしていたのは当然、香村綸ファンの女子
達である。昨日、下校してからパットの粗探しに時間を費やしたと見られる。
「アクシデントと言ったって、たいしたことないじゃない」
 パット派の女子も負けていない。攻撃材料がないため、否定に徹する格好だが、勢い
がある。
「今よりも子供の頃の話だし、ある程度はしょうがないわよ」
「付け焼き刃の腕前でやるから、こんなに事故が多いんじゃないの」
「大げさなんだから。怪我をしたりさせたりってわけじゃないし、ニュースにだってな
ってない」
「それはプロダクションの力で、押さえ込んでるとか。ねえ、加倉井さん?」
 予想通り、飛び火してきた。加倉井は間を置くことなしに、正確なところを答える。
「少なくとも、前の撮影で、パット・リーの側から圧力や口止めはなかったわよ。みん
な、妄想しすぎ」
「ほら見なさい」
 パット派がカムリン派を押し戻す。休み時間よ早く終われと、加倉井は祈った。
「でもでも、パット・リーのキャリアで、三回もあるのは異常よ、やっぱり」
 作品名や制作年、アクシデント内容の載った一覧を示しながら、カムリン派の一人が
疑問を呈する。
(なるほどね。小さい頃から始めたとしたって、アクション専門じゃないんだし、周り
も無理はさせないだろうから、三回は多い。ううん、私の分も含めれば、四回)
 少し、引っ掛かりを覚えた。加倉井は、パット派の代表的存在である木原が反駁する
のを制しつつ、最前のリストを見せてもらった。
(全部じゃないけど、二つは観ている。……ううん、似たような内容が他にも多いから
ごちゃ混ぜになって、はっきり覚えてないわ。でも、この二作品て確かどちらも)
 記憶を手繰ると、徐々に思い出してきた。一方はカンフーマスターを目指す少年の役
で、劇中、しごかれまくっていた。もう一方では、学園ラブコメで、二枚目だが女子の
扱いが下手でやたらと平手打ちされたり、教師から怒られる役。
(もしかすると)
 加倉井はあることを想像し、打ち消した。パット・リーはまだ若いとは言え、国際的
に活躍しようかという人気俳優だ。いくら何でも想像したようなことがあるはずない。
(……と思いたいんだけど、私より年上でも、子供には違いない)
 完全には払拭できなかった。加倉井はリストを返して礼を言うと、どうすれば確かめ
られるかを考え始めた。が、程なくして木原の声に邪魔された。
「ねえ、加倉井さんはどっちが相手役としてやりやすいのよ?」
 まだ火の粉は飛んでいるようだ。

「見学に来ているあの人は、何者ですか」
 休憩に入るや、パットが聞いてきた。加倉井の肩をかすめるようにして投げ掛ける視
線の先には、その見学者が立っている。やや細身の中背で、歳は四十代半ば辺りに見え
よう。本日はスタジオ撮影なのだが、この中にいる誰とも異質な空気を放っている。
「加倉井さんと親しく話していたようですから、お知り合いなんでしょう?」
「親しいとまでは言えませんが、知り合いです。私のプロダクションの先輩が、コマー
シャルで共演したことがあるんです」
 答えながら、振り返って見学者の方を向いた加倉井。
「役者やタレントではなくて、格闘技の指導者なの」
「道理で。よい体付きをしていると思っていました」
 格闘技と聞き、パットの目が輝いたよう。加倉井は気付かぬふりをして続けた。
「私は全然詳しくないけれども、空手とキックボクシングの経歴があって、ストライク
という大会でチャンピオンになったこともあるって」
「凄い。その大会、知っています。名前も知っているかもしれない。映像や写真がほと
んどなく、あまり自信ありませんが……藤村忠雄(ふじむらただお)選手では?」
「あら、本当に知ってるなんて。だいぶ前に引退されたから、選手と呼ぶのは間違いか
もしれないですけど」
「武道、武術をやる人間に、引退はありませんよ。生涯現役に違いありません」
「パット、とっても嬉しそう。紹介しましょうか」
「ぜひ」
 休憩の残り時間が気になったが、加倉井はパットを藤村の前に連れて行った。紹介を
するまでもなく、藤村はパットについて既に聞いていた。
「突然、お邪魔して申し訳ない。気になるようなら、姿を消します」
「いえいえ、とんでもない」
 パットは即座に否定した。そして自分が格闘技をやっていること、それを演技に活か
していることなどを盛んにアピール?する。藤村の方も承知のことだったらしく、「今
日はアクションシーンがないとのことで、残念だな」なんて応じていた。
「藤村さんは、どうして見学に? コマーシャルの続編が決まったとしても、ここへ来
るのはおかしい気がするんですけど」
 加倉井が問うと、藤村は首を曖昧に振った。
「いや、コマーシャルじゃないよ。敵役で出てみないかって、お誘いを受けてね。子供
向け番組と聞いたけど、チャレンジすることは好きだから、前向きに考えてるんだ」
「じゃあ、決定したら、私達と藤村さんが戦うんですね?」
「多分ね。ああ、喋る芝居は苦手だから、台詞のない役柄にしてもらわないといけな
い。コマーシャルで懲りたよ」
 藤村出演の精肉メーカーのテレビCMは、素人丸出しの棒読みで一時有名になった。
思い出して苦笑いする藤村の横に、監督と番組プロデューサーらが立った。
「藤村さん、もしよろしかったら、パット君と軽く手合わせしてみるのはどうです? 
無論、型だけですが」
 プロデューサーが唐突に提案した。いや、藤村忠雄のドラマ出演が頭にあるのだった
ら、当然の提案なのかもしれないが。
「僕はかまいません」
「僕もです」
 藤村が受ける返事に、食い込み気味に答を被せるパット。
「ただ、スペースが見当たらないようですが」
「そんなに派手に動き回らなくても、その場でか〜るく。段取りを詳細に決める暇はさ
すがにありませんから、際限のない場所でやると、危険度が高くなるのでは」
「それもそうです。パット君はそれでもかまわないかな」
「もちろんですとも。型で手合わせ願えるだけで、充分すぎるほど幸福なくらいですか
ら」
 パットの日本語は表現が過剰になって、少々おかしくなったようだ。結局、スタジオ
の隅っこに約四メートル四方の空きスペースを見付け、そこで試し合うことになった。
 身長もリーチも藤村が上回るが、大差はない。演舞なら、二人の体格が近ければ美し
いものに、体格差が大きければ派手なものに仕上がりやすいだろう。しかし今からやる
のは、ほぼぶっつけ本番のアクション。どうなるかは、事前の簡単で短い打ち合わせ
を、どれだけ忠実に実行できるかに掛かってくる。
「トレーニングは欠かしていないが、寄る年波で動き自体は鈍くなってると思うので、
スピードは君から合わせてくれるとありがたい」
「了解しました。あ、それと、もしドラマ出演が決まったら、最終的には僕らが勝つ台
本でしょうから、今日は藤村さんが勝つパターンでいかがでしょう」
「花を持たせてくれるということかい」
 往年の大選手を相手に、舐めた発言をしたとも受け取れる。藤村はしかし、パットの
提案を笑って受け入れた。
 他にも色々と取り決めたあと、互いの突きや蹴りのスピード及び間合いを予習してお
く目的で、それぞれが数回ずつ、パンチとキックを繰り出し、空を切った。
 そして二人は無言のまま、合図を待つことなく、急に始まった。
 仕掛けたのはパット。カンフーの使い手、それもムービースターのカンフーをイメー
ジしているらしく、大げさな動作と奇声から助走を付けての跳び蹴りで先制攻撃。かわ
す藤村は、キックボクサーのステップだったが、距離を取ってからは空手家のようにど
っしり構える。パットが向き直ったところへ一気に距離を詰め、胴体目掛けて突きを四
連続で放つ。もちろん、実際にはごく軽く当てているだけのはずだが、迫力があった。
よろめきながら離れたパットは、口元を拭う動作を入れ、態勢を整えると、身体を沈め
片足を伸ばした。かと思うと相手の下に潜り込むスライディング。一度、二度とかわす
も、三度目で足払いを受け、今度は藤村がよろめく。姿勢を戻せない内に、パットが突
きの連打。藤村のそれよりは軽いが、その分、数が多い。バランスを一層崩した藤村
は、倒れそうな仕種に紛れて前蹴り一閃。パットは寸前で避け、バク転を披露。再び立
ったところへ、藤村がバックスピンキック。
 と、ここでパットが一歩踏み出したせいで、藤村との間合いが詰まった。藤村の蹴り
足をパットが抱え込むような形になり、もつれて二人とも倒れてしまった。上になった
パットが突きを落とすポーズを一度して、離れる。
 改めて距離を作った二人は、アイコンタクトと手の指を使って、もう一回同じことを
するか?という確認を取った。再開後、藤村のバックスピンを、今度はパットも巧く当
たりに行き、派手に倒れてみせた。素早く起き上がった藤村が、先程のパットのよう
に、振り下ろす突きを喉元に当てて――実際は素早く触れるだけ――、アクション終了
となった。
 周りで見ていた者は皆一斉に拍手した。感嘆の声もこぼれている。
「パット君、やるねえ。演技だけに使うのは惜しいくらいだ」
「いえいえ。藤村さんに引っ張っていただいたからこそ、動けたんです」
「こちらこそ、久々だったから疲れたよ」
「まさかそんな。現役を離れているとは信じられないくらい、きれがあって、驚きまし
た。当たり前ですが、プロは違いますね」
 パットは爽やかに笑いながら、藤村の両手を取って、深々と頭を下げていた。

 藤村忠雄が去ったあと、撮影は再スタートした。パットは興奮が残っていたか、しば
らくは何度か撮り直しになったが、しばらくするとそれもなくなった。
 結果的に、予定されていたスケジュール通りに撮影を消化し、この日は終わった。
「パット。お話しする時間ある? 少しでいいんだけど」
 加倉井は控室に戻る前にパットに声を掛け、約束を取り付けた。着替えが終わってか
ら、スタジオの待合室で話す時間を作ってもらった。
「お待たせしました。すみません」
 撮影を通じて仲がよくなり、フランクに話せる間柄にはなっていた。とは言え、キャ
リアが上の相手を、こちらの用事で足止めしておいて、あとから来たのでは申し訳な
い。加倉井は頭を下げた。
「いいよ、気にしなくて。女性の方が身だしなみに時間が掛かるのは、当然だからね」
 パットは近くの椅子に座るよう、加倉井を促した。それに従い、すぐ隣の椅子に腰を
据える加倉井。
「それで話は何かな」
「率直に物申しますけど、怒らないでくださいね」
「うん? 断る必要なんてない。仕事に関することで正当な指摘や要望なら、僕は受け
入れる度量を持っているよ」
 若干の緊張を顔に浮かべながらも、微笑するパット。加倉井は彼の目を見つめた。
「それじゃ言います。パットって、負けず嫌いなところ、あるよね」
「まあ、程度の差はあっても、男なら負けず嫌いな面は持ってるんじゃないかな」
「男に限らないわ。私も負けず嫌いですから」
「ふうん?」
「前から、ちょっと引っ掛かってたことがあって。今日、藤村さんから意見を伺って、
確信に近いものを得たわ。パット、この前の肘がみぞおちに入ったのって、わざとでし
ょ?」
「……どうしてそう思うんだい」
 ほんの一瞬、面食らった風に目を見開いたパット。すぐ笑顔に戻り、聞き返す。
「あなたほどできる人なら、肘が相手に当たったなら、分かるはずよ。なのに、問題の
撮影の際、あなたは倒れた私に『どこかみぞおちに入りましたか』と言った。肘と分か
っていないなんておかしいと思ったのは、あとになってからだけれどね」
「確かに、当たったのが肘だったのは分かっていたよ。でも、わざとじゃない。あのと
き気が動転して、肘と膝、どっちがエルボーだったかを度忘れしちゃって、それで『ど
こか』なんて言っちゃったんだよ」
「動転した? その割には、同じことを繰り返しやっているみたいだけれども」
 加倉井は胸元のポケットから、小さく折り畳んだ紙を取り出した。長机の上に広げて
みせる。そこには、パット・リーがアクションシーンの撮影で起こしたアクシデント三
件について、その詳細が書かれていた。
「これは……」
「日本語、どこまで読めるのか知らないから、こっちでざっと説明すると……まず、こ
の作品では師匠役の男優のお腹に肘を入れてるわね。次は作中でも芸能界でもライバル
である男優に、台本にない中段蹴りと肘を入れている。三つ目は、鬼教師役の男優に、
また肘」
「……こんな細かいことは表に出ないよう、伏せさせたはずなんだけどな」
「パットは日本の事情に詳しくないでしょうけど、私の所属するところは大手の一つ
で、それなりに力があるのよ。調べれば、ある程度のことは分かる」
「それは知らなかった。油断してたよ」
 力が抜けたように口元で笑うと、パットは座ったまま、大きく伸びをした。
「認めるのね?」
「うん、まあ、証拠はないけど、認めざるを得ない。今後、撮影を続けるにはそうしな
いと無理だろうし」
「どうしてこんなことをしてきたのか、聞かせてもらえる?」
「……あの、答える前に、他言無用を約束して欲しいんだけど、無理かな」
 パットは両手を組み合わせ、拝むように懇願してきた。加倉井は考えるふりをして、
焦らしてから承知の意を示した。
「私だって、このドラマの撮影は最後まできちんとやりたいもの。それで、理由は?」
「実は僕は元々、プロ格闘家志望でさ。そのためにトレーニングしていたのを、親が何
を勘違いしたのか、芸能のオーディションに応募しちゃって、とんとん拍子に合格しち
ゃって、芸能界に入っちゃった。名前を売ってからプロ格闘家デビューすれば格好いい
とか言われてね。でも、自分で言うのもあれだけど、顔がいいのとアクションができる
だけで、演技は平凡でも人気が出てさ。いつのまにかプロ格闘家の道はなかったことに
されてた」
「自慢はたくさん。早く続きを」
「それで……撮影でアクションシーン、特に格闘技を交えたアクションがある度に、本
当だったらこんな奴らには負けないのに、とか、この中で一番強いのは自分なんだぞっ
ていう気持ちが膨らんでね。時々、実力を示したくて溜まらなくなるんだ。あ、今日の
藤村さんは強いね。ちょっと仕掛けてみたけれど、簡単に流された。そのあとで、しっ
かり喉にぎゅっと力を入れられたし」
 パットの答を聞きながら、加倉井は、ああ最後のやり取りって二人の間ではそういう
ことが行われていたんだ、と理解した。
「実力を示すと言ったわね。女の私にまで? 以前の三回にしても、相手は演技のみで
実際は素人同然でしょうに」
「そこは自尊心の沸点に触れるようなことがあったから、と言えばいいのかなあ」
 パットが自尊心なんて言葉を使うものだから、どんなことがあったかしらと自分のパ
ットに対する言動を顧みる加倉井。が、特に思い当たる節はない。
「激しく投げられたり、平手打ちされたりしたら、抑えがたまに効かなくなるんだ。だ
から、加倉井さんの場合は、平手打ちが痛かったから、よしここで知らしめねばと考え
てしまったんだよ」
「……それだけ?」
「うん、他には何もない」
 当たり前のように答えるパット。理解してもらえて当然といった体だ。
(ちっちゃ! 呆れた。年上なのに、なんで子供なの)
 非難する言葉を一度に大量に思い付いた加倉井。引きつりそうな笑顔の下で、どうに
かこうにか飲み込んでおく。
(これから芸能活動を続けるのに、そんな性格だといずれ絶対に衝突が起きて、うまく
行かなくなるわ。分かって言ってるのかしら? もっと精神的にも成長して、器の大き
な人にならないと。――私の知ったことではないけれども)
 加倉井は若いアクションスターに何とも言えない視線を向けるのだった。

            *             *

 思い出にまた微苦笑を浮かべていた自分に気付き、加倉井舞美は我に返った。
(器の大きな人になれてないのね、パットは)
 パット・リーに関する記事は読まずに、自分の記事を探す。そして一面にやっと辿り
着いた次第。
「えっ」
 一面とはその新聞の顔。トップの扱いを受けたとなると、普通なら喜びそうなものだ
が、今回は事情が全く異なったのである。
「何よこれはっ」
 だから、加倉井は問題の新聞を左右に引っ張った。破ける寸前で、マネージャーが止
めに入る。マネージャーは一足先に、一面に目を通したようだ。
「だめよ。抑えて抑えて」
「……新聞紙が案外丈夫なことを確かめられたわ」
 皺のよった新聞を近くのテーブルに放り出し、マネージャーに向き直る。事務所の一
室だから、人目を気にする必要はない。それ以前に、ビルのワンフロア全てがグローセ
ベーアなので、部外者は基本的にはいない。
「でも、これは怒って当然よね?」
「気持ちは分かるけど、とりあえず落ち着いて」
 ネット上のサイト閲覧で済まさず、わざわざ紙媒体を購入してきたのには理由があ
る。スポーツ紙の見出しは、スタンドに挿した状態では、次のような言葉が目立つよう
に文字が配されていた。
『加倉井舞美 好き 男性器 大きい』
 こういう手法が古くからあることは充分に認識済み。だが、まさか自分が餌食になる
とは、心構えができていなかった。向こうは、こちらが成人するのを待っていたのだろ
うか。
「マネージャー、前もってチェックしたんでしょうね?」
「したのは本文とそのページのレイアウトだけ。まさか一面見出しに使われるなんて、
考えもしなかったから」
「まったく。してやられたってわけね。抗議は?」
「当然、電話を入れたけれども、浦川さんがつかまらなくて。代わりの人が言うには、
大きなスポーツイベントが中止で紙面が空いたから、ネームバリューを考慮して使わせ
ていただいた、だそうよ」
「取って付けたような……」
 最後まで言う気力が失せて、加倉井は鼻で息をついた。
「どうせ、他にも早々と広まってるんでしょうね」
「他のサイトの芸能ニュースに、ネタとして取り上げられている」
「腹立たしいけれども、我慢するほかなさそうね。一日も経てば、目立たなくなるでし
ょ」
「今後を考えると、浦川さんとの付き合い方を、見直さないといけないかもね」
 マネージャーの言に首肯した加倉井はことの発端となった質問を思い起こした。
(好きな異性のタイプ、か。次に似た質問をされたときは、はっきり明確に答えられる
ようにしておくべきかしら)
 そんなことを考えた加倉井の脳裏に、小学生時代の同級生の名前が浮かんだ。少し前
まで思い出していたせいに違いない。頭を振って追い払った。その名前が誰なのかは、
彼女だけの秘密。

――『カグライダンス』終




#513/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  18/06/27  22:49  (325)
愛しかけるマネ <前>   寺嶋公香
★内容                                         18/06/30 17:14 修正 第2版
 事務所での打ち合わせの最後に、初めての経験となる仕事を持ち掛けられた。
「どっきり番組?」
 マネージャーを務める杉本からの話に、純子はおうむ返しをした。声には、訝かる気
持ちがそのまま乗っている。
 すると杉本は、「え、知らない? 仕掛け人がいて、有名人を驚かせる」と当たり前
の説明を始めた。純子はすぐさま、顔の前で片手を振った。
「いえ、そうじゃなくって、どっきり番組の出演話を、私に全て明かしてしまって大丈
夫なのでしょうか」
「……」
「ひょっとして、仕掛け人の役ですか」
「……今の、忘れてもらえない?」
 忘れろということは、仕掛け人ではなく仕掛けられる方らしい。純子は即答した。
「無理です」
「だよねー。じゃあ、だまされるふり、できないかな」
「そういうのはあんまり得意じゃありませんが……」
 演技の一環と思えばできないことはない、かもしれない。
「杉本さん。このお話、だめになるとして――」
「どうしてだめになると仮定するの」
「えっと、多分、そうなるんじゃないかなと」
 ちょっとくらい怒った方がいいかしらと思った純子だが、ここはやめておいた。第一
に、怒るのは苦手だ。相手のためとしても、うまく言う自信がない。第二に、杉本の掴
み所のなさがある。打たれ強いのか弱いのか。仕事上の些細なミスをやらかしても半日
と経たない内にけろっとしてるかと思ったら、長々と引き摺って気にしてる場合もあ
る。
「どんなどっきりで、他に芸能人の方が絡んでくるのか、気になったんです。だめにな
るならないとは別に、ここまでばらしちゃったんだから、いいですよね?」
「う……内容は言えない。関係してる人については、共演NGじゃないかどうか、遠回
しに聞くように言われていたんだった」
「遠回し」
「共演NGなんて君にはほぼゼロだから、忘れてたんだよぉ」
「もういいですから。どなたなんです?」
「厳密を期すと、芸能人じゃない。古生物学者の天野佳林(あまのかりん)氏。知って
ると思うけど、男性」
「知ってるも何も、有名人じゃないですか」
 二年ほど前からテレビ番組に出だした大学教授。髪はロマンスグレーだが若い顔立ち
で、えらがやや張っているせいでシャープな印象を与える。二枚目と言えば二枚目。喋
りの方は、古生物のことを分かり易く説明する、そのソフトな語り口が受けた。当初は
動物番組にたまにゲストに出たり、化石発掘のニュースで解説をしたりといった程度だ
ったのが、アノマロカリスとシーラカンスをデフォルメキャラクターにしたアニメが子
供を中心にヒットしたのがきっかけで、一時期は引っ張りだこの人気に。今は落ち着い
てきたが、それでもしばしば出演しているのを見掛ける。
「面識はないよね?」
「ありません。前からお目にかかりたいなと思ってましたけど。というか、何故、共演
NGを心配されなくちゃいけないのか理解できませんよ〜」
「そりゃあ、君の化石好きは、僕らは知っていても、プロフィールに書いてるわけじゃ
ないから。企画を持って来た人だって、生き物全般だめっていう女の子がいることを念
頭に、聞いてきたんだと思うよ」
「そういうものなんですね」
「それで……僕としては、受けて欲しい。失敗を隠すためにも」
「自覚はあるんですね、失敗した自覚は」
「きついお言葉だなぁ。涙がちょちょぎれる」
 聞いたことのない表現が少し気になった純子だったが、聞き返すほどでもない。
「途中でぎくしゃくした空気になって、どっきり不発。挙げ句に、お蔵入りになっても
知りませんよ〜」
「そうなったとしても、君の責任じゃないし、させない」
 表情を急に引き締める杉本。黙っていれば割と整った顔立ちだし二枚目で通りそう、
などと関係のない感想を抱きながら、純子は答える。
「分かりました。何事も経験と思って、やります。台本が手に入ったとしても、私には
見せないでくださいね」
「そりゃ当然。最後の一線は越えさせないぞ」
 独り相撲という言葉が、純子の脳裏に浮かんだ。
(どっきり番組だけ、他の人が担当してくれた方がいいんじゃあ……)

 元々そういう線で行くつもりだったのか、それとも杉本がうまく言って変更がなった
のかは分からない。天野佳林との共演――つまりはどっきり番組の収録は、いつ行われ
るか未定とされた。
「なるほど」
 純子は低い声で合点した。本日の仕事で久住淳の格好をしていたせいで、男っぽく振
る舞おうという意識が抜けきっていなかったようだ。声の調子を改めて応える。
「いつになるか分からないということは、本当にだまされて、驚けるかもしれないです
ね」
「でも」
 隣に座る相羽が口を開いた。今、二人は普通乗用車の後部座席に並んで腰掛けてい
る。運転は杉本、助手席には相羽の母がいた。
「元々、その天野教授と会うのが初めてになるんだったら、意味がない気がしますが」
「それもそっか」
 純子は今気付いたような応答をしつつ、相槌を打った。杉本に気を遣って、そこは言
わないであげようと思っていたのに。
「はい、それは少し考えたら分かったんだけどね」
 少し考えなければ気付けなかったの? 杉本の言葉に心の中で突っ込みを入れた。
「もし可能であれば、他にも仕掛け人を用意していただけないでしょうかとお願いした
のだけれど、色よい返事はまだ」
「杉本さん。それ、言って大丈夫なの?」
 相羽母がびっくりしたように目を丸くして横を向き、指摘した。
「あ」
 杉本はブレーキを踏んだ。ショックで動揺し思わず踏んだ、のではない。黄色信号を
見て、安全に停まっただけのこと。
「万が一、僕の要望が通ったら、このこと自体、伏せておかなきゃいけないんだ!」
 叫ぶように自分のミスを確認すると、ハンドルに額を着けて深く大きな息を吐いた。
「いや、要望、通らないから大丈夫だ、うん」
 早々と立ち直った。要望は通らないと決めてかかるのもどうかと思うが。
「杉本さんはもしかすると、自分が口を滑らせたのが原因とは言ってないんじゃありま
せんか?」
 突然そんなことを言い出した相羽に、純子は「さすがにそれは」と止めに入った。
が、杉本は動揺を露わにし、あっさり認めた。
「どうして分かったのさ、信一君? 風谷美羽の勘が鋭くて、どっきりの企画だってば
れてしまったということにしといたけど」
「ひどいなあ」
「うちは人材不足だから、僕が抜けるわけに行かないのだ」
「人材不足以前に人数不足ってだけです」
「それで、何で分かった?」
「杉本さんが自分の失敗ですと認めていたなら、とても次善の策の要望なんて出せる雰
囲気じゃないだろうと考えただけですよ」
「はあ。そうか。言われてみれば確かに」
「杉本さん、ほんとに変よ。私生活で何か抱えてるんじゃないでしょうね?」
 と、息子に負けず劣らず、唐突な発言をした相羽の母。
(いつもよりも失敗の度が過ぎてる気がするけれど、プライベートがどうこうっていう
風でもないような。それとも、大人なら感じるものがあるのかな)
 純子はそんなことを思いつつ、杉本の返事を待つ。長い赤信号が終わり、運転手は
「うーん、特には」と答えて、車を発進させた。
「あ、でも、一つあると言えばあるかもしれません」
「何?」
「付き合っている彼女から、結婚してちょうだいサインを受け取った気がするんです」
「ええーっ?」
 一瞬にして騒がしくなる車内。蜂の巣をつついたまでは行かないにしても、皆の言葉
が重なって、ほとんど聞き取れない状態が二十秒くらい続いた。
「そんなにおかしいですか」
 次の赤信号で停まったタイミングで、車の中はようやく静かになった。
「おかしくはなくても、杉本さんに今までそんな素振り、全くなかったものだから、驚
いてしまって」
 相羽の母が言い、後部座席で子供二人がうんうんと首を縦に振る。
「まあ、隠すつもりはあったんですよね〜」
 後ろから横顔を見やると、何だか嬉しそう。目を細め、口元を緩ませ、その内鼻歌で
も唄い始めそうだ。
「あの、お相手の方はどんな人なんですか」
 純子は思わず聞いた。声が普段のものになっている。
「言ってもいいけれど、内緒にしてね。ここだけの秘密」
「はい、それはもちろん」
 今この車に乗っている面々の中で、一番口が軽いのは杉本だろう。飛び抜けて軽い。
その当人が口外無用というのは、どことなく変な感じだった。
 それはともかく、相羽母子も口外しないと約束すると、杉本は口を割った。
「ほんとにお願いしますよ。彼女って一応、芸能人なもので」
「――!」
 最前、結婚話をするほどの彼女がいると杉本が言ったときと同様かそれ以上の騒がし
さになった。漫画で描くとしたら、道路の上で車が跳ねている。
「だ、誰ですか」
 相羽の母は子供達よりも慌てた反応を示していた。
「やだなあ、相羽さん。そんな飛び付きそうな顔をしなくても」
「いえ、緊急事態だわ。話を聞かない内から言いたくないけれど、何かスキャンダルに
発展したら、お相手の所属事務所に迷惑が掛かるかもしれないし、こちらにだって」
「そうですかー? 客観的に見ればそういう恐れを感じるのは無理ないかもしれません
けども」
「いいから早く、名前を教えて」
「はいはい。松川世里香(まつかわせりか)さんです」
「……心の準備をしていたから、もう驚かないと思っていたけど、驚いた」
 後部座席の二人も驚いていた。
(松川世里香……さんて、あの?)
 純子より一回りは上の世代で、今となっては元アイドルとすべきだろう。現在はバラ
エティがメインのタレント。一時、下の名前を片仮名のセリカにして、“なんちゃって
ハーフ”のキャラクターを演じていた(ハーフを演じたのではなく、飽くまで“なんち
ゃってハーフ”だ)。純子も面識があるにはある。某ファッションブランドのライト層
向けイベントのゲストとして松川が来たときに、挨拶した程度だが。
「お付き合いはいつから?」
「尋問みたいだなあ。えっと、三年目に入ったとこだと思います」
「先方の事務所は、このことをご存知?」
「多分、知らないのじゃないかと。本人が言ってれば別ですが。――あ、行き過ぎてし
まいました」
 突然何のことかと思いきや、左折すべき道を通り過ぎてしまったらしい。杉本の今日
の役目は、純子と相羽母とを撮影スタジオに迎えに行き、その後、柔斗の道場で相羽信
一をピックアップ(社内規定ではだめだが、事前に承諾を取ってある)し、それぞれ自
宅まで送り届けるというもの。
「Uターンできそうにないな。遠回りになるかもですが、この先で左折しますねー」
 今、話せる時間が増えるのは、相羽母にとっては歓迎だろう。
「逆に、こっちは知ってるのかしら?」
「こっち、とは」
「市川さんよ。あなたのボスは知っているの?」
「言ってないです」
「そう。困ったことにならなきゃいいんだけど」
 ふぅ、と憂鬱げに息を吐く相羽母。
「できることなら、すぐにでも話をしておきたいところなのに」
 子供のことを思うと、そうは言ってられない。そんなニュアンスが感じられた。
「杉本さん。とりあえず、返事は待ってください」
「返事? ああ、彼女への。了解しました。というか、どう返事するかを決めかねてい
るので」
「市川さんに報告するつもりだけれど、よろしいですね」
「仕方ないです。隠し続けるのも潮時だと感じていましたし、覚悟して打ち明けたんで
すから」
 何故かしら爽やかな調子で杉本が言う。
(恋愛を語るとイメージが変わる人だったんだ、杉本さん)
 純子は妙に感心した。
 隣の相羽をふと見ると、いつの間にか興味が萎んだのか、窓の外を眺めていた。

 そんな一騒動があって以来、杉本に再び会えたのは三日後だった。
「どうでした?」
「所属タレントに自分の恋バナをする趣味は、持ち合わせてないんだけどなあ」
 恋バナのニュアンスがちょっとおかしい気がしたが、純子は敢えて言わずに、話を前
進させる。これから仕事場へ送ってもらうのだが、当然のことながら、行きは帰りより
も時間的余裕がない。
「そうじゃなくてですね。市川さんから叱られませんでした?」
「叱られる? うーん、叱られたというか呆れられたというか。自社の商品に手を着け
るのがだめだからって、よそ様に手を出すとは!って」
「はあ」
「そういうつもりじゃないんだけどな。接近してきたのは、松川世里香さんの方なんだ
から」
「本当ですか、それ」
「嘘じゃないって。信じてよ」
 ルームミラーを通して、杉本の困ったような苦笑顔が捉えられた。
「きっかけはやっぱり、あのときですか。松川さんがイベントにゲストで来られた」
 そう質問してから、計算が合わないと気付いた純子。お付き合いして三年目と杉本は
言っていたが、くだんのファッションイベントは、一年ほど前の出来事だった。
「いつだったかなあ。正直言って、僕の方は最初の出会いを覚えてなくってさ。彼女が
僕を見掛けて、何か気になったみたいで」
「ふうん?」
 では他に松川世里香と同じ場所にいるような機会があったか、思い返してみた純子だ
が、特に記憶していない。
(二、三年前と言ったら、ファッション関連よりも映像作品に関わることが比較的多か
った気がする。あの頃、松川世里香さんと同じ仕事場になること……分かんないなあ。
まあ、テレビ局でならあり得るのかな。遠目にすれ違ったら、気付かずに挨拶なしって
場合もなくはないし)
 そう解釈することで納得し、気持ちを切り替える。今日の仕事は、関連するアニメの
番宣を兼ねた、テレビ番組のクイズコーナー出演だ。生放送で行われるケースが多い
が、今回は純子が学生であることが考慮され、収録。だから比較的気楽と言える。ライ
ブだと失敗の取り返しが付かないのに対し、収録なら最悪でも撮り直せる。さらに、挨
拶するべき関係者が別撮りだと少ないのは、精神的に非常に助かる。
 その関門たる挨拶をこなしたあと、早速スタジオ入りだ。
「もし答が分かっても、全問正解すると嫌味になるかもだから、ほどほどにね。局だっ
て自分のところの番組の宣伝、もし全問不正解でも時間はくれるに決まってる。適当に
ぼけて」
「はいはい」
 杉本のアドバイスを話半分に聞き流しつつ、送り出される。クイズは五問出題され、
一問正解につき十五秒のコマーシャルタイムをもらえる。全問正解すれば、七十五秒に
プラスして十五秒のボーナスが加算され、九十秒もらえる仕組みだ。
(九十秒をもらったとしても、間が持たないな)
 元々、そのアニメのスポットとして、十五秒バージョンと三十秒バージョンの二通り
が作られたが、もちろん純子は出演していない。アニメのキャラが登場し、アニメの見
せ場でこしらえられたCMだ。ドラマや映画だと出演者がコメントを喋るCMが多いの
に対し、アニメではまずない。事前特番でも制作されるのなら、レギュラー役の声優達
に主題歌を担当する歌手、監督、(いるのであれば)原作者が揃って出演となるだろう
けれど。
「おはようございます。よろしくお願いします……?」
 撮影の行われるスタジオに入るや、雰囲気の違いを感じ取った純子。もちろん、この
番組に出るのは初めてで、普段を承知している訳ではないけれども、何やらぴりぴりし
た緊張感のある肌触りが場の空気にはあった。仮にこれがいつもの空気なら、撮影収録
の度にくたくたに疲れるに違いない。
 緊張感の中心は、探すまでもなく、じきに知れた。
 女性が二人、対峙している一角がある。若い人と、もっと若い人。二人とも面識があ
った。
「――どういうつもりでいるのかと聞いているのですが」
 丁寧語でもややぞんざいな口ぶりで言っているのは、より若い方。加倉井舞美だ。加
倉井と純子は現在、あるチョコレート製品のCMに揃って起用されて、“三姉妹”設定
の内の二人である。一緒に撮影したばかりと言っていい。一つ年上ということにされた
加倉井は、少々不満そうではあったが、仲よくやっている。
「そう言われても、私にも都合がありましたから」
 加倉井の詰問調に怯むことなく応じたのは、松川世里香。そう、杉本の言っていたお
相手だ。テレビを通して見るよりも大人びて感じるのは、普段の松川世里香に近いとい
うことだろうか。あるいは、離れたところからでも、その化粧の濃さが分かるせいかも
しれない。
「何か問題でも?」
「問題? あるわ」
 我慢できなくなった、というよりも我慢するのをやめた風に、加倉井が言葉遣いを変
化させた。
「三度誘って、三度ともドタキャンされちゃ、こちらの予定が狂う」
「あら。困るほどお忙しいんでしたか? それはそれは失礼をしました」
 松川は相変わらずのペースである。足先が出入り口の方を向いているのだから、もう
用事はないはずだが、何故かスタジオを出て行こうとしない。無論、彼女の前に加倉井
が立っているのだが、ちょっと避ければ済む話。なのにそうはせずに、どっしり構えて
いた。やり取りを楽しむかのように。
 周りには男女合わせて十名ほどの人数がいるのだが、止めかねているのは雰囲気で分
かった。加倉井舞美は若手ながら安定した実力を誇る女優だし、松川世里香だって浮き
沈みこそ経てきたが今また何度目かのブレイクを果たした人気タレントだ。二人とも
に、マネージャーと思しき存在がいないことも、状況に拍車を掛けている。
「あの。何があったんですか」
 純子は一番近くにいたスタッフに小声で聞いた。小柄だががっしりした体付きの男性
スタッフは、その場を飛び退くように振り返った。そして口を開いたのだが、彼の声が
発せられるよりも早く、加倉井が反応した。
「ちょうどよかった。あなたに聞いてもらって、判断してもらいましょう」
 いきなりそんなことを言って、純子を手招きする。戸惑いと焦りと不安を覚えた純子
だったが、断りづらい空気に流されてしまった。仕方なく、歩を進める。加倉井と松川
の周りを囲んでいた人垣が崩れ、その間を気持ちゆっくり歩く。
(うわ〜、何か知らないけれども巻き込まれた? 事の次第が分からないまま行くの
は、凄く嫌な予感が)
 対策の立てようがないまま、加倉井の右隣に立つ純子。ここは少しでも自分のペース
を保とうと、加倉井と松川に「おはようございます」で始まる芸能界流の挨拶をした。
それから目で加倉井に尋ねる。
 加倉井は純子の挨拶に些か呆れたようだったが、怒りが収まった様子は微塵もない。
「あなた、松川世里香さんはご存知?」
「も、もちろん。お会いするのはまだ二度目で、最初のときも挨拶を交わしたくらいだ
けど」
 改めて松川に向き直り、目で礼をする。松川は同じ仕種で返してきた。
「そうなの。よかったわね」
 加倉井の言わんとする意味が掴めずに、純子は「よかった?」とおうむ返しした。
「今後、親しくなるつもりだったなら、ようく考えてからにしなさい。不愉快な目に遭
いたくないでしょ」
「不愉快って、加倉井さん、大げさね」
 松川が言葉を差し挟んだ。
「食事の誘いをキャンセルしたくらいで。よくあることでしょうに」
「三度、立て続けに土壇場になってキャンセルされたのは、初めてですけれども」
「それはあなたのキャリアじゃ仕方のないことかもしれない。私は経験あるわよ、三連
続ドタキャン」
「自分がされて不愉快なことを、他人にして平気だと?」
「その言い方だと、私がわざとあなたの誘いをドタキャンしたみたいに聞こえるわね」
「そうじゃないと誓って言えます?」
「証拠はあるの?」
 充分な説明がないまま、純子を挟んで、二人の応酬が再開されてしまった。どうやら
加倉井が松川を食事に誘い、松川も受けたものの、ぎりぎりになって断った。それが三
回連続で起きたらしい。
(あ、確かだいぶ前、同じ映画に出ていたんだわ、加倉井さんと松川さん。コメディ映
画のオールスターキャストで、どちらも脇役だったけど印象に残ってる。そのときの縁
で、加倉井さんが食事に誘ったのかな? だとしたら最初は仲よくやっていたはずなの
に、どうしてこんなことに。――え)
 推測を巡らせる純子の腕を、加倉井が引いた。不意のことだったので、バランスを崩
しそうになる。
「ねえ、風谷さん。察しのいいあなたのことだから、今ので飲み込めたと思うけれど、
どちらが悪い?」
「え? えーっと。まだ飲み込めてません」
「ほんとに? 掻い摘まんで言うと、私があの人を――」
 と、松川を遠慮ない手つきで指差した加倉井。
「――食事にお誘いしたのに、三度も振られてしまった。それも当日ぎりぎりになっ
て」
「ちょっと。自分の都合のいいことだけ言わないで」
 松川が再び割って入る。今度は明白に怒りを響かせた口ぶりだ。
「ドタキャンしたの、最初はあなたでしょ」
 えっ、という口元を覆いつつ、純子は加倉井を見やった。
「その点については、きちんと謝罪したつもりです。あなたも受け入れてくださったと
解釈しましたが」
 その後しばらく繰り広げられた話から推し量るに……一番初めに食事に誘ったのは、
松川。応じる返事をした加倉井だったが、前日になってドラマの撮り直しが決まり、や
むなく約束をキャンセルした。後日、お詫びの挨拶に行き、今度は加倉井の方から食事
に誘った。そこから三度、ドタキャンが繰り返されたという経緯のようだ。
「あなたの意見では、どちらが悪いと思う?」
 加倉井が改めて聞いてきた。
 事情は理解できた純子だったが、心境は全く改善しなかった。こんな状況でどう答え
ろと。

――つづく




#514/598 ●長編    *** コメント #513 ***
★タイトル (AZA     )  18/06/28  01:03  (332)
愛しかけるマネ <後>   寺嶋公香
★内容                                         18/06/30 17:15 修正 第2版
「……」
 口を開き掛けて、何も言い出せないまま、また閉じる。
「どうしたの? 簡単でしょ、率直な意見を言えばいいだけ」
 加倉井の視線から逃げるように顔を逸らすと、今度は松川と目が合った。
「こんなこと聞かれても、困るだけよね。まだ若いんだし、マネージャーさんもいない
みたいだし。そう言えば杉本さんはお元気?」
「え――っと、はい、元気です」
 松川の台詞にも、どう対処すればいいのやら。取って付けたような杉本への言及が、
かえって松川と杉本の付き合いを真実らしく感じさせる。
(うー、どちらにも肩入れしにくいよ〜。直感だと、加倉井さんが筋を通してるのに、
松川さんがわざとキャンセルを重ねてるように思えるけれど、ほんとに急用が入ったの
かもしれないし。だいたい、ここで加倉井さんの味方をして、杉本さんの恋愛に悪い影
響を及ぼしちゃあ、申し訳が立たない……。かといって、松川さんの味方をすれば、加
倉井さん怒るだろうなあ。一緒に仕事する機会も増えてるし、今後のことを思うと、隙
間風が吹くような事態は避けなくちゃ)
 心の中で懸命に考えている間にも、加倉井は「どうなのよ」とせっついてくるわ、松
川は意味ありげににこにこ微笑みかけてくるわで、追い込まれる。
 このあとの宣伝の仕事も頭にあり、急がねばならない。と言って、吹っ切って場を離
れるだけの度胸は、まだ持ち合わせていない純子であった。こういうとき、マネージ
ャーがそばにいれば、多少強引にでも引っ張ってくれるものかもしれないが、現状では
期待できない。そもそも、杉本のがここにいたらいたで、話がややこしくなる恐れも僅
かながらありそう。
 こうして切羽詰まった挙げ句、純子はふとした閃きを咄嗟に口走った。
「じゃあ、私がお二人を食事に誘います!」
「は?」
 怪訝な反応をしたのは加倉井も松川も同じ。声を出したのは、加倉井だけだったが。
「関係ない私が言うのは差し出がましいから、とやかく言いません。二人に仲直りして
もらう場を、私が作ります! どうでしょうか」
 言い出したからには止められない。純子は加倉井の手をぎゅっと握りながら、目は松
川の方へ向けた。最低限、この場はこれで収めてください!と念じる。
 すると松川の視線が動くのが分かった。どうやら加倉井と目を合わせたようだ。もち
ろん、言葉を交わしてはいない。ただ、予想外の提案に困惑しつつも、加倉井の意向を
探る気にはなったのかもしれない。
「……風谷さん、あなたって」
 加倉井の声は、最前までの熱が引いて、冷めていた。
「その食事の席が、今以上の修羅場になったらどうするつもり?」
「そのときはそのとき。思い切りやりあって、すっきりさせてもらえたらいいなあ……
って。おかしいでしょうか?」
「……おかしい。あなたの発想が面白いって意味で」
 誉められているのだろうか。細かいことは気にせず、押し切ろう。
「さあ、のんびりしてないで決めませんか。皆さんには及ばないですけれども、私だっ
ていいお店、ちょっとは知ってるんですよ」
「あなたの場合、ほとんどが鷲宇憲親経由の情報でしょ」
「そ、それは当たってますけど」
「ま、私はいいわ。“姉”のよしみであなたの提案に乗ってあげる。あとは相手次第」
 加倉井は松川に最終判断という名のボールを投げた。芸能界の先輩を立てたとも言え
るし、器が試される面倒な決定権でもある。
「……私も、そちらのかわいいモデルさんに免じて、応じてもいいけれども」
 この返答に一瞬、喜色を浮かべた純子だったが、含みを持たせた語尾に不安が残る。
「果たして日があるのかしら。曲がりなりにも、今人気のある三人の休暇が重なるよう
な都合のいい日が」
「あ」
 そうですねと言いそうになったが、踏み止まる。ここでそうですねと答えては、自分
は二人と肩を並べる程の芸能人だと言ってるようなもの。
「私はどうとでもなりますから、皆さんの都合のいい日を教えてください。すぐには難
しいでしょうから、あとで連絡をくだされば合わせます」
「了解したわ」
 即答した松川。そのまま行こうとして、二、三歩歩いたところで立ち止まる。
「そうそう、連絡先を教えてもらわなくちゃね」
 杉本との親しいつながりを隠す意図があるんだろうなと察した純子。少し考え、杉本
の携帯番号を伝えた。互いに携帯端末の類を持ち込んでいないため、手書きのメモの形
で渡す。
 受け取った松川は特に何も言うことなく、スタジオを退出。ドアを開けるときに、マ
ネージャーらしき人が待ち構えていたのが見えた。
(ドアのすぐ前で待っているくらいなら、入って来てもいいんじゃないの? あの人が
いてくれたら、このもめごとももうちょっと早く解決したかもしれないのに〜)
 純子がそんな不満を抱いていると、加倉井のため息が聞こえた。
「加倉井さん?」
「どう転ぶか分からないし、お礼はまだ言わないけれども。あなたって、ほんっとうに
お人好しなところあるわね」
「そ、そう?」
「この業界、続けるのなら、取って喰われないようにせいぜい気を付けて。喰われると
きは、一人で喰われてね。巻き添えは御免だわ」
「そんなあ。でも、アドバイス、ありがとう」
 改めて加倉井の手を取って握った。加倉井はもう一度ため息をつくと、引きつり気味
の苦笑を浮かべた。

「会わなかったんですか?」
 帰りの車中、純子は意外さを込めてそう言った。
「うん。知らなかったし」
 運転席の杉本が淡々と答える。
「第一、知っていても会うわけにいかないんじゃないかなあ。他人の目が多すぎるっ
て」
 尤もな話だ。
 松川世里香と同じ仕事場に居合わせたのだから、事前に連絡を取り合ってちょっとで
も会う時間を作ったのではと考えた純子だったが、それは浅薄だったようだ。
(それを思うと、私の場合はまだ幸せなのかな……)
「ところで、松川さんと加倉井さんが揉めたって言ってたけれども、どのくらい? 険
悪ムード?」
 そう聞いてくる杉本の横顔は、いつもに比べるとずっと真剣な面持ちに見えた。
「どうなんだろ……。見た感じ、険悪でしたけど。がんばって取りなしたつもりなんで
すが、まだ結果は出てないわけですし」
「しょうがないよ。加倉井さんの性格は前から分かっていたとは言え、松川さんとぶつ
かるなんて想像できないもんな。びっくりしてベストの反応ができなかったとしたっ
て、誰も文句言わないよ」
「――どうするのがベストだったって言うんですかあ」
 少しむっときた純子は、対応に苦慮するそもそも原因の片棒を担いでいる杉本に聞き
返した。
「うーん、そう言われると困る。確かに難しい」
 杉本は簡単に引き下がる。こういう場合、責め立てて追い込んだつもりでも、杉本の
ように変わり身が早く、あっさり引ける人間相手には効果が薄い。
「仮に僕を呼んでもらっても、他の人がいる場で、何か松川さんに言える自信はないか
らなあ。はははは」
「じゃ、次にお二人だけで話すチャンスがあったら、ぜひ言ってくださいね。加倉井さ
んとも仲よくしてくださいって」
「がんばって言うよ。うちのタレントが板挟みで困ってるんだって言えば、効果抜群」
「何言ってるんですか。彼氏としての言葉の方が絶対に効き目ありますって」
「そうなるのかなあ。あ、でも、二人で話すより前に、松川さんが空いている日を連絡
してきたらどうしよう」
「ちょうどいいんじゃありませんか。三人で食事をする前に、杉本さんから念押しして
くれれば、松川さんも仲直りする気持ちを固めて来てくれるに違いない、うん、決まり
っ」
 事態収拾の目処が立った。そんな気がして、上機嫌になって言った純子だった。

 そしてその翌日の日曜日。雑誌のインタビューのお仕事だと聞かされて、純子はテレ
ビ局まで連れて来られた。運転手兼マネージャーの杉本は、所用があると言って、局を
離れてしまった。
(松川世里香さんに会いに行った、とか。まさかね)
 控室で一人座って待つ。インタビューの開始予定まで、小一時間はあった。時間を持
て余して考える内に、もやもやしたものが頭に浮かんできた。
(テーマが漠然としているのよね。最近の仕事とこれからの自分について、だなんて。
そんな語れるほどの人生経験ないし、こんな漠然としたインタビューを受けるほど、大
きな作品に関わっていない気がするんだけど。……そうだわ。何でテレビ局? 今ま
で、テレビ局で仕事があるときの待ち時間を利用して、雑誌などのインタビューを受け
てきたわ。雑誌単独のインタビューは、ホテルのロビーもしく部屋か、喫茶店。宣伝の
ために出版社を訪ねてそこで受ける形が多かった。わざわざ雑誌インタビューのためだ
けに、テレビ局に来るのは珍しい。というよりも、おかしい)
 純子は違和感の正体を突き詰めて考えてみた。対する答は程なくして降りてきた。
(もしかして――前に聞いてたどっきり番組? 前もって知らせることなしにやるって
言われたけれども、きょ、今日なのかしら? 天野佳林先生とどういった形で共演する
のか知らないけれども、対談形式だとしたら、インタビューに近いと言えなくもない…
…。どっきり番組だからこそ、テレビ局まで出向いた。ええ、筋は通る)
 と、そこまで推測を積み重ね、状況把握に努めた途端に、悲鳴を上げそうになった純
子。実際には黙っていたが、思わず空唾を飲み込んだ。
(どっきり番組ということは――この部屋に隠しカメラがあるかも?)
 途端に緊張が全身に回った。探してみたくなる。が、一方でうまくだまされなきゃい
けないんだから、隠しカメラ探しなんて言語道断、やっちゃだめと己に命じる。だけれ
ども、ゆったりできるはずの控室に、もしもカメラがセットされて撮影されているとし
たら、気が抜けない。
(まずいわ。私、スカートで来たのよ。低い位置にカメラがあったら、動きによっては
中が映っちゃう恐れが)
 頭に両手をやって、抱えるポーズをした。この姿も撮られているかもと思うと、何か
理由を付けなくてはという心理が生まれ、「ああ、覚えられない、台詞!」と口走って
みせた。
(だ、だめだわ。この短い間に、物凄い疲労感が)
 両肘をテーブルに着き、顔を手のひらで覆う。本当に隠しカメラがあるかまだ分から
ないというのに、意識過剰で動けなくなりそう。
(元々は、杉本さんのミスから始まってるんですからね! それなのにこんな、見え見
えの舞台を用意して……恨みます)
 部屋で待っているように言われていたが、息が詰まる。ちょっとくらいならいいだろ
うと、腰を上げた。ドアを少し開け、廊下を覗く。カメラを持った人物はいないよう
だ。
(もし行き違いになっても、ちょっと新鮮な空気を吸いに出てたって言えばいいわよ
ね。時間までには戻るつもりだし)
 そうやって自分を納得させて、外に踏み出そうとした刹那。
「やあやあ、お待たせしました」
 陽気な声が掛かった。純子が廊下へ出るのを待ち構えていたかのようなタイミング。
 声のした方向を振り返ると、知らない男性と女性のコンビ、さらに天野佳林その人が
いた。テレビ出演を終えたばかりといった体で、スーツ姿が決まっている。
 天野先生との初対面に少なからず感動を覚えた純子だったが、それと同等以上に気に
なるのはテレビカメラ。やはり見当たらないものの、女性の手にはデジタルカメラが握
られていた。
「事前にお知らせしていなかったと思いますが、本日のインタビューは天野佳林先生と
の対談形式でお願いしたいと考えています。風谷さんは、化石に興味をお持ちだと聞い
たものですから」
 男女二人はそんな前置きで始めて、それぞれ名刺を取り出し、自己紹介をした。続け
て、天野佳林との引き合わせ。ネクタイを少々緩めてから、当人が言った。
「天野佳林です。初めまして。今日は短い時間ですが、よろしくお願いします」
「初めまして、風谷美羽と言います。天野先生のご活躍、テレビで常日頃から拝見して
います。難しいことを小さな子にも分かるくらいに、楽しく面白く話されるから、私も
大好きで、だから急なことに驚いてるんですが、とてもわくわくもしてるんです」
 とりあえず、正直な気持ちを一気に喋ることで、最初の不自然さは乗り切れた?

 純子の懸念、いや、確信に近い想像に反して、対談形式のインタビューは特段、テレ
ビ番組らしい仕掛けなしに終わりを迎えた。
(あれ? 杉本さんから聞いていた話と違うんですけど……いいのかな? ある意味、
びっくりはしてるけれども)
 何が何だか分からない。内心、混乱の嵐が吹いていた純子だった、表面上はきっちり
笑顔を作れている。天野佳林との対談が考えていた以上に楽しいものに終始したのが大
きい。
「それじゃあ、若干時間オーバーしてるところをすみませんが、最後にツーショットの
写真を何枚か、いただきたいと思います」
 男性スタッフの声に応じて、女性がカメラの準備を。純子は天野佳林と仲よく?収ま
った。
 これで終了と伝えられ、純子は心中、ほっとすると同時に疑問符もいっぱい浮かべて
いた。終わりと見せ掛けて最後にどっきりがあるのだろうか。警戒を完全には解かずに
いると、天野が脱いでいたジャケットに腕を通しながら話し掛けてきた。
「そうだ、風谷さん。サインをもらえないだろうか」
「え、サインですか」
 来たわ、と感じた純子。
(こんな学者先生が私なんかのサインを欲しがるはずがない)
 意識して身構えてしまう。いやいや、あくまで自然に振る舞わなくては。見事にだま
されることこそが目的。
「はい。実は、うちの子達があなたのファンだと、今朝になって聞かされましてね。男
と女一人ずつおりますが、二人揃ってあなたについて詳しいのなんの。私、出掛ける前
に色々教えられましたよ」
「はあ。ありがとうございます」
(なるほどね。お子さんがファンだということにすれば、不自然じゃないわ)
 芸の細かさに密かに感心している純子に、先程の男性スタッフからサインペンと色紙
が差し出される。
「先生に言われて、急いで用意したんですよ」
 と、天野へ笑いかける男性。
「すまなかったね。買っておく暇がなかったんだ。――それで、先走ってしまったよう
だが、サイン、いいだろうか?」
「え、はい、かまいません」
 そう答えてペンと色紙を受け取ろうとしたが、またも想像をしてしまった。
(これって強めに握ったら、電気が流れるやつ?)
 雷が大の苦手な純子だけに、電気も苦手な方である。だが待てと冷静になる。
(確か、電気が流れるのはボタンを押すタイプのボールペンとかシャープペンじゃなか
ったかしら? サインペンは押すところがない。スタッフさんだって、普通に持って
た。サイン色紙の方も電気的な機械仕掛けをするには、薄すぎるような)
 自然な動作でサインペンを右手、色紙二枚を左手で受け取った。電気ショックは無論
のこと、何の変哲もない。
「何てお書きしましょう?」
 天野に尋ねつつ、ペンのキャップを取る段になって、またもや嫌な想像が鎌首をもた
げる。
(キャップを外そうと強く捻ったら電気が来るとか?)
 もうこれくらいしかどっきりの仕掛けようがないでしょ!という意識が強くなった。
その余りに、逃げを打ってしまった
「あの、色紙を持ったままだとキャップが取れないので、開けてもらえますか」
 誰ともなしに言ったのだが、男性スタッフが開けてくれた。そしてやっぱり、何とも
ない。平気で開けた。ペンを返され、受け取っても感触はさっきと変わらなかった。
「あ、ありがとうございます……」
 ペンをしげしげと見つめる純子に、天野が問われていた事柄を返す。
「ごく普通にお名前を。それから、みのるとさき、子供の名前なんですが、共に平仮名
で頼みますよ」
 純子は色紙を重ねて構え、一枚ずつ、サインペンを走らせた。現在の心理状態を考え
ると、上出来のサインが書けた。
「これでいいでしょうか」
「ええ、大丈夫。二人の大喜びする顔が目に浮かびます。本当にありがとう」
 終わった。どっきりではなかった?
 純子は何かに化かされたような心地でいた。が、天野が「それではお先に失礼を」と
部屋を出ようと横を通ったとき、はっと気付いて、切り替えた。
「あ、あの、すみません!」
 天野と男女二人が足を止めて振り返る。純子は対談相手に駆け寄って、お辞儀をしな
がらお願いした。
「私も、天野先生のサインをいただけませんか?」

 インタビューだか対談だか、あるいは不発のどっきり番組だか分からない仕事が終わ
って、しばらく経ってから杉本が控室に姿を見せた。
「遅いです、杉本さん」
「そう? 十分と遅れていないはずだけれど」
 十分近い遅刻でも大概だと思うが、そういったずれを見越して、余裕を持ってスケジ
ュールは組まれているので、大きな問題ではない。純子は音を立てて椅子から立ち上が
ると、その背もたれの縁に両手をついた。
「聞きたいことがあって待ちかねてたんです。だから、いつもよりもじれったく感じち
ゃって」
「何かあった?」
「終わったんだから、もうとぼけないでほしいな、杉本さん。お仕事ってインタビュー
と言うよりも、対談でしたよ。それも、天野佳林先生との」
「うん。そうだよね」
「……」
 捉えどころのないふにゃっとした返事に、純子は一瞬、二の句を継げなくなった。が
どうにか修正し、言葉を重ねる。
「どっきり番組だったんですよね? 私、ちゃんと覚えていたんですよ。雑誌インタビ
ューなのにテレビ局に来るから、おかしいと感じてたんです」
「うん、君の記憶力は僕よりずっと上だから、覚えてると思ってたよ。その上で、がっ
くりくるようなことを言うけれども、いいかい?」
「……何だか怖いですが、いいですよ」
 背もたれから手を離すと、握りこぶしを作って覚悟を決めるポーズを取る。
「実は、天野佳林先生とのどっきり番組、取りやめになったんだよねー」
「ええ? 意味が分からない。だって今日、さっき、天野先生が来られて……あ、ひょ
っとしてそっくりさん? 偽者の天野先生にサインをもらっちゃったんですか、私?」
 大騒ぎして、自らを指差す純子。その目の前で、過杉本はおなかを押さえる格好にな
って盛大に笑った。
「ち、違うって。どっきりじゃないって言ったのに。正真正銘、本物の天野佳林先生で
すよ、あの人は」
「わ、分かるように言ってください。大人しく聞きますから」
「だから、対談の仕事も正真正銘の本物で。テレビ局に来たのは、天野先生のご都合な
んだよね。出演番組の収録があって。それでも天野先生が君との対談を結構楽しみにさ
れていたみたいで、どっきり番組が取りやめになったのなら別口で何か仕事を一緒にで
きないかと言われたそうなんだよね。じゃあってことで、当初の予定をそのままスライ
ドさせて、風谷美羽と天野佳林の対談と相成ったわけ」
「……どっきりは完全になくなったんですか?」
 天野からそんな風に言われていたとはちょっとした感激ものだったが、今はそれに浸
っている場合でない。
「あー、どっきりはねえ、完全になくなったかと言われると、そうでもなくて」
「えっと、もしかすると、まずいことを質問しちゃいました? 近い将来、何もかも改
めて私をどっきりに引っ掛けるつもりでいるとか。だったら、もう聞きません」
 耳を塞ぐ格好をしてみせた純子。だが、案に相違して、杉本は首を横に振った。
「なくなったんじゃなくて、どう言えばいいのか……まあ、支度をして、出て来てよ。
外で待ってるから」
 奥歯に物が挟まった言い種になり、そそくさと廊下に出て行ってしまった。
 純子は急いで追い掛けた。支度なんて、とうにすんでいる。
「杉本さん!」
「ロビーで待ってるから、そんなに全力疾走しなくていいよ。むしろ、ゆっくり現れた
方がいいかなあ」
「ちょっと、どういう」
 意味なんですかという質問は途中で溶けて消えた。何度か角を折れ、ロビーへと通じ
る廊下に出たとき、その突き当たりの景色を見覚えのある人の影が横切った気がしたか
ら。
 とにかく、急ぎ足でテレビ局の広いロビーへと向かう。正面玄関を入ったところにあ
るホールまで戻って来ると、テレビカメラを担いだ人が二名ほどいるのが分かった。
「これって……まさか」
 ホールの一角を占めるロビーのソファ群に足を向ける純子。その正面に、二人の女性
が手を取り合ってひょいと現れた。さっき、純子が見た人影だ。
「このあと、食事に行く時間はあるかしら?」
「この通り、仲直りはもうしているから、安心して」
 加倉井舞美、松川世里香の順にそう言った。二人とも、意地悪げな満面の笑みを浮か
べていた。

「つまり……」
 完全にオフレコになったのを見計らい、純子は杉本に詰め寄った。詰め寄ったと言っ
ても、既に精神的に相当消耗しているため、迫力はなかったけれども。
「杉本さんが言っていた、別の人を仕掛け人にして私を引っ掛けるっていう要望は通っ
ていた。そうなんですね?」
「正解〜」
 ホールドアップの手つきをした杉本は、情けない声で認めた。加倉井・松川の両名と
は少し話ができたものの、とりあえず急ぎの仕事を片付けるからと、今はここにいな
い。
「だめ元で出した代替案が採用されたから、驚くのなんのって。まるで、僕自身がどっ
きりに掛けられた気分だったよ」
「それはそれとして」純子の華麗なるスルー。
「加倉井さんと松川さんは、ほんとに何にもなかったんですよね? 口喧嘩は全部お芝
居だったと」
「うんうん。さっき、カメラの回ってるときに言った通りですよ、はい」
「よかった」
 胸のつかえが取れた心地。気分がいくらかよくなった。
 腕を下ろした杉本は、「これで許してくれる?」と笑いかけてきた。純子は間を取っ
て考える振りをして、
「ううん、だめ。まだ聞きたいことがあるわ」
 と強い調子で言った。
「な何でしょう」
「あれも嘘なんですね? 加倉井さんと松川さんが仕掛け人だったということは、松川
さんが杉本さんと恋人関係っていう話。松川さんが仕掛け役を引き受けてくれたから、
急遽思い付いて恋人ってことにして、私がどちらの味方にもなれないようにした……」
 答は聞くまでもない。そう信じて疑わないまま質問した純子だった。しかし。
「さあ? どうなのかあ」
 杉本が答えるその表情はとぼけつつも、普段に比べると数段真面目なように見えなく
もなかった。

――『愛しかけるマネ』おわり




#515/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  18/12/29  22:11  (411)
そばにいるだけで 67−1   寺嶋公香
★内容
「留学、決めた。出発は八月に入ってからになると思う」
 相羽の突然の“報告”に、唐沢は一瞬、我が耳を疑った。
「――はあ?」
 頓狂な声で反応して、次に「留学?」という単語を発声する前に、相羽の説明がどん
どん進む。
「唐沢に任せたい、というか頼みたいのは」
「ちょちょっと待て。ストップ! 留学だって? おまえが? それってやっぱあれ
か。J音楽院だな?」
「そう」
「今さら、何で蒸し返すんだよ」
「蒸し返すの使い方がおかしい」
「うるさい、知るか。おまえ、じゃあ、さっきの俺の見立ては間違いだったってか。ピ
アノを選ぶのかよ」
「……エリオット先生には前々から誘っていただいていた。お断りしていたのは、いく
つか理由があるけれども、日本にいてもエリオット先生に個人レッスンをつけていただ
けるという特別扱いに甘えていたからかもしれない。それがこの春、先生が国に戻られ
ると決まった時点で、気持ちが揺らいだ」
「……もしかして……クイズ番組の観覧に行ったとき、頻繁に電話が掛かってきていた
が、あれも留学の話だったのか」
「当たり。よく覚えてるな」
「おかしな感じは受けてたんだ。席を外してばかりだったから、何のために涼原さん達
の応援に来たんだよ!って」
「一応、肝心な場面には居合わせて、役に立ったろ」
「ふん。過去のことはもうどうでもいいさ。揺らいだだけだったのが、どうして決定に
至ったんだよっ」
「その辺は長くなるし、ややこしいし、話したくない。ただ、昨日のコンサートは直接
には関係ない。最終チェックみたいな位置づけだった。もっと前、先生の帰国には僕に
も責任の一端があると分かったのが大きいけれども、それだけでもないし」
「……」
 尋ねたいことはいっぱいあったが、唐沢は我慢した。本音を言えば、唐沢も少し以前
から、予感していた。違和感に近い勘に過ぎなかったが、相羽の身に何か大きな変化が
起きるんじゃないかと。その予感があったからこそ、今、留学話を打ち明けられても、
“この程度”で済んでいるんだと思う。もし予感していなければ、相羽とまた喧嘩にな
っていた。
 よく喋って渇いてきた口中を、空唾を二度飲み込むことで湿らせると、唐沢は相羽に
続きを促した。
「率直に言って、いない間、涼原さんが心配なんだ。僕はどちらも選ぶ」
「ここに来てのろけるたあ、面倒くせーな。心配って、粘着質なファンもどきみたいな
奴とかか。なら、涼原さんにさっさと留学のこと言って、連れてけよ」
 投げ遣りな口調になった唐沢。無論、唐沢本人も、その最善の策が実現困難であろう
ことは、充分に承知している。
「できるのならそうしたい。できそうにないから……心配してるんだ」
「……まったく。それで? 俺に何をしろってんだ」
「涼原さんのボディガードになって守る。学校の行き帰りが心配なんだ。他は事務所の
人が付いてくれる。だから、学校にも迎えが来るときなんかは、問題ないが」
「あのな。何度か言ったよな。俺、体力はそこそこ自信あるが、喧嘩はほとんどしたこ
とないぜ。一番最近でも……おまえとしたやつが最後だ」
 心身ともに痛さを思い出して、少し笑ってしまった。が、すぐに戻る。
「いいんだ。じゅ――涼原さんを一人にしないことが大事なんだ。前にも言ったよう
に、男が一人でもついていれば、だいぶ変わってくるはず」
「変だな。具体的に危険が迫ってる口ぶりに聞こえたぞ。……勘違いで終わったけれ
ど、パン屋でのことも、実際には予兆があったのか? バイトを始めたのが噂になって
変な輩が寄ってくるのを心配しただけと思ってたが」
「微妙なんだが……ファンレターに混じって、変なのが稀に届くらしいんだ。今のとこ
ろ、実害は出ていない」
「そうか、ファンレターね。今後も何もないとは限らないってわけだ。しかし、ボディ
ガードってんなら、他にふさわしいのがいるだろうに。ほれ、道場仲間が」
「考えなかったわけじゃない。でも、同じ学校じゃないと厳しい。さすがに、こっちの
学校まで遠回りしてくれとは言えないし、仮にOKだったとしても時間がうまく合うと
は思えない」
「時間なら俺だって、委員長やっているから、遅くなることがあるかもしれないぜ。涼
原さんと合うかどうか分からん」
「そのときはしょうがない。涼原さんが待てるようなら、待ってもらう」
 話す内に、唐沢は想像が付いた。
(留学を勝手に決めて、涼原さんに対して後ろめたい気持ちがある。だから、せめて護
衛役を選んでおこうってことかいな)
 唐沢は少し間を取り、考えた。そしてやおら、座っている姿勢を崩して足を投げ出す
ような格好を取った。
「ご指名は光栄なんだけどさ……ボディガードがVIPを狙うのは簡単だぜ」
「うん? 何の話?」
「おまえが涼原さんを残していくのなら、俺、アプローチするかもしれねえぞってこ
と」
「……」
 まじまじと見返してくる相羽。唐沢は敢えて挑発目的で、口元に笑みを浮かべて横顔
を見せた。
(試すような真似をして悪いな、相羽。俺はこの話、涼原さんのためになることを一番
に考える。俺にはっきり言うぐらいだから、今さら留学を翻意させるのは難しいんだろ
うけど、揺さぶりは掛けさせてもらう)
 さあどうする?と、横目で相羽の反応を窺う。
 相羽は、さっき見開いていた目をもう落ち着かせ、左手の人差し指で前髪の辺り、左
頬と順に掻く仕種をした。
「それでも唐沢にしか頼めないな。信じてるから、唐沢のことも、涼原さんのことも」
 唐沢にとって、予想の範囲内の返事だった。ただ、実際にそう答を返され、考える内
に腹が立ってきた。
「ああ、そうかい」
 また姿勢を改め、相羽の方に身体ごと向く。
「そこまで信じてるなら、まず、涼原さんに言えよ、留学の話を。言ってないんだろ
?」
「ああ、まだ」
「何で、俺が先になったんだ。俺がボディガードを断れば、留学をやめるのか?」
「……悪かった。ごめん」
 相羽は頭を下げた。
「あ、謝られても、だな。第一、謝るとしたら、涼原さんに言ってからじゃないか」
 急に素直になられて、攻め手を失った唐沢が戸惑い混じりに応じる。相羽は即座に返
事をよこした。弱気が顔を覗かせたような、細い声だった。
「とてもじゃないけど言えないよ」
 黙って聞いていた唐沢だったが、内心では「だろうなぁ」と相槌を打った。もう責め
る気は完全に失せた。
「仮の話だが、今突然涼原さんが抜けたら、仕事関係の方はどうなる?」
「替えが効かないっていうほどの立場じゃないし、ほとんどは別の人が代役に入るだろ
うね。だから、ビジネスそのものがストップすることはないと思う。問題はルーク、事
務所の方。確実に迷惑を掛けることになるから、事務所に違約金支払いの責任が課せら
れて、最悪、潰れるかもしれない」
「なら、どうしたって無理、無謀か。やる値打ちがあるんなら、俺も協力して、涼原さ
んや周りを説得してやろうと思ったんだけど」
「残念だけど、そうみたいだ。……唐沢って、そこまで人がよかったとは知らなかっ
た」
「おまえのためじゃねーから」
 あーあ、と唐沢が両腕を突き上げてのびをしたところで、下校を促す校内放送が流れ
始めた。打ち切らざるを得ない。
「聞くまでもないが、留学話は他言無用なんだな?」
 音楽室を出る前に最後の確認と思い、唐沢は聞いた。
「頼む。学校で知っているのは、神村先生を含む何人かの先生と、おまえだけ」
「え。何か急に肩が重くなったぜ」
 廊下に出て、扉の鍵を掛ける頃には、この話題はきれいさっぱり消し去った。他の人
に聞かれてはいけないという意識が、暗黙の内に働いたのだ。
「あ、そうだ。天文部の合宿はどうすんだよ、相羽」
「七月下旬なら行けると思う」
「何やかんやで忙しいだろうに」
 でもまあ恋人と一緒にいられる時間を確保するには当然参加するよな。問題は、その
ときまでに留学のことを言えているかどうか……。唐沢は直感で決めた。
「やっぱ、俺も天文部入って、着いて行くわ。間に合うよな。ぎりぎりか?」
「ええ? どうしてまた」
「何かあったとき、事情を知る者が近くにいた方が便利だと思わん?」
「……うーん」
 相羽の歩みが遅くなる。このままだと、腕組みをして考え出しそうな雰囲気だ。
「おいおい、相羽がそこまで考え込むことじゃないだろ。ほら、早く鍵を戻して帰ろう
ぜ」
「うーん……。合宿までには、彼女に打ち明けてるつもりなんだけどな」

            *             *

 ベーカリー・うぃっしゅ亭でのアルバイト(一応の)最終日、純子は大いに営業に精
を出した。前日には急遽作ったビラ配りをして、風谷美羽の姿を往来にさらした。最後
の一日ぐらいなら、もし仮にお客がどっと押し寄せても大丈夫と踏んでの、うぃっしゅ
亭店長の了解も得た上での決断。
「いつもに比べて、小さな子が物凄く多い。もう、うるさいし大変!」
 そうこぼした寺東は、珍しく玉の汗を額に浮かばせていた。ハンドタオルを宛がい、
スマイルを絶やさぬように奮闘している。
(『ファイナルステージ』のおかげかなあ。高校ではさして話題にならないけれども、
小学生には受けてるみたいだから)
 アニメ番組を思い浮かべつつ、純子も笑みを崩すことなく、接客や陳列などに忙し
い。
 先程から、胡桃クリームパンの消費が激しい。文字通り、飛ぶような売れ行きだ。少
し前、子供の一人から「美羽が好きなパンは何ですか」と問われ、純子が正直に答えた
せいである。小学生のお小遣いで菓子パンをいくつも買うのは厳しいだろうけど、一個
ならほぼ躊躇せずに買える。手頃な価格かつ、風谷美羽の好物となれば、そこに集中す
るのは当然と言えた。
 おかげで店長は店の奥でフル回転だ。今日は他にも店員――パートタイムの主婦が二
人出て来ており、内一人が店長の奥さんだと聞いた。ただ、純子はどちらが奥さんなの
かは把握していない。店員として入ったのと同時に、忙殺されっ放しなのだ。
「整理を兼ねて、一旦、外でまたビラ配りしてみる? このままだと店がパンクしそう
だよ」
 パートタイマーの一人が言った。その視線は最初に純子、次に店の奥へと向けられ
た。
 パンクは大げさだが、大混雑しているのは間違いのない事実。通路の幅が狭くなって
いる箇所では、すれ違うのにも一苦労。トレイの端同士がぶつかる恐れが高まってい
た。
「そうだね。涼原さん一人でビラ配り、頼めるかな」
 店長の指示が届いた。
「あ、はい! 手すきになったら行きまーす」
 返事をする間にも、胡桃クリームパン待ちの小学生らが暇に任せて、純子の着るエプ
ロン型ユニフォームを、あっちやこっちから引っ張る。パンにじかに触っちゃだめと注
意したのは効果があったが、今度は自分が触られそうだ。
「ごめんね、ちょっと通してね。あ、ほどいちゃだめ」
 ようやく子供の輪を抜け、外に出る準備をしながら、純子は思い付きで新情報を流し
てみることにした。
「そうそう、発表します。風谷美羽が好きなパンの二つ目は――」
 桃ピザにしようか。

 午前中は体育やら教室移動やらで、いい機会がなかった。だから、聞けたのは昼休み
に入ってからになった。
 明日の土曜――五月二十八日――、学校が終わったら行っていい?と尋ねた純子に、
相羽は「かまわないなら、僕が君の家に行くよ」と提案してきた。
(相羽君、自分の誕生日だって分かってるのかなあ?)
 純子は座ったまま、隣の彼の表情を探り見たが、簡単には判断が付かなかった。
 まあ、特に支障はないし、もしかすると母子水入らずでお祝いするのかもしれないし
と考え、「かまわないわ」と答えた。
(中間テストが近くなかったら、デートに誘いたいのに。考えてみると来年もこんな感
じになっちゃう? 来年は、テストの後回しにしてみようかな)
 両手を頬に当て、肘を突いた格好で一年後の計画を立て始める。静かになった純子
に、相羽は不思議そうに瞬きをした。
「どうしたの? 急に黙りこくっちゃって」
「――あ、うん、歓迎するからね。何時頃までいられるかしら?」
「その前に、お昼をどうするか決めておきたいな」
「そっか。お昼御飯は……相羽君がいいのなら、うちで用意するわ。正しくは、しても
らっておく、だけど」
「……純子ちゃんの手作りなら食べたい、とか言ってみたり」
「少し遅くなってもいいのなら」
「物凄い即答だね」
 顔を少しそらし気味にし、目をしばたたかせる相羽。純子は嬉しさを隠さずに答え
た。
「冗談半分に言ったのをまともに受け取られて驚いた、でしょう? いつもいつも、や
られっ放しじゃないんだから」
 誕生日のプレゼントとして、食事を作ってあげるという選択肢が元からあったので、
素早く返せたまでなのだが。
「それで、どうするの?」
「やっとバイトが終わった人に、料理作ってなんて頼めないでしょ」
「大丈夫よ。そんなに難しい物作らないから。焼き飯になるかな? そうだわ、もらっ
たパンがまだ余ってるから、一緒に食べて」
「米とパンを一緒に……」
「育ち盛りなんだから。なんちゃって」
 笑顔がひとりでにはじける純子に対し、相羽はやれやれとばかり、頭を掻いた。
「ところで、何の用事か聞いていいかな」
「それは――」
 ここまで来て黙っておくのも変だし、気が付いている可能性だって充分にある。純子
はそう判断して答えようとした。が、第三者に先を越された。
「誕生日の何かに決まってるじゃない。自分自身のことには、意外と無関心なのね、相
羽君たら」
 白沼だった。いつの間にやらすぐ近くまで来て、聞き耳を立てていたらしい。
「白沼さん、ひどいよー」
 腰を浮かせ、少々むくれ気味に純子が抗議すると、白沼は「どっちがひどいんだか」
と受けた。
「長々といちゃいちゃ話をされるこちらの身にもなって欲しいわ」
「い、いちゃいちゃはしていない、と思うけど……ごめんなさいっ」
 いちゃいちゃしてたことになるのか自信がなかった。悪いと思ったら謝る。
「相羽君に用事なんでしょ。どうぞ、私の話は一応、終わったから」
「違う、はずれ。あなたに用事。お仕事ですわよ」
 白沼はメモを渡してきた。これまでよくあったのと違って、ノート半ページ分ぐらい
はありそうな大きさだ。
「前に会議で出た検討事項の内、結論が出たのがこれだけ。無論、関係者には全員伝わ
ってるんだけど、早めに目を通しておいてほしいという理由から、直接渡すように言わ
れたわけよ」
「どうもありがとう……これ、決定?」
「全部が全部じゃなく、意見を聞くのもあったはずよ。確か、二重丸が付けてある分。
注釈、書いてない?」
「……ごめん、あった。最後の方、自分の指で隠れてた」
 照れ笑いをする純子に、白沼はしっかりしてよねと声を掛けた。
「言うまでもないけど、テストが終わったら再開だから。各種PRの撮影とか」
「それまでには気合いを入れ直しておきまーす」
「……今日明日は浮かれていても、しょうがないわね」
 白沼も最後は咎めることなく、立ち去った。純子はメモを折りたたみ、鞄にしまうた
めに座り直した。終わってから、片肘を突いて相羽に聞く。
「あーあ。怒られちゃった。そんなにいちゃいちゃして浮かれて見えるのかな?」
「分かんないけど……それ以前に、誕生日のこと、忘れてた」
「え?」
 頭を支えていた腕が、コントみたいに、かくんとなった。
「本当に? その、おばさまが何かしら言ってなかったの?」
「言ってたけど、明日だということを忘れてた」
「……凄い、ような気がするわ。誕生日も忘れるなんて、ある意味、充実してる証拠じ
ゃない?」
「だったらいいんだけどね」
 相羽は微かに笑うと、次に、はっと何かに気付いたように唇を噛んだ。
「純子ちゃん、もしかして……アルバイトしたのって……」
「――えへへ。ばれたか」
 もう隠していても意味がない。聞かれれば素直に認めようと決めていた。
「プレゼントのためよ。だってほら、モデルとか芸能とかって、相羽君のおかげで始め
たようなものだから、今回ぐらいは自力でプレゼントを買ったと胸を張りたいなって」
「そうだったの……。あれ? バイトの理由、母さんからも『経験を積むためよ』って
聞かされてたんだけど」
「あ、それは私が頼んだの。嘘の理由を通すためには、どうしても協力が必要だから、
信一君には秘密にしておいてくださいねって」
「やられたよ、まったく」
 そう答えた相羽は、急に上を向いた。速い動作で右手を頬骨の辺りに宛がう。
「あれ、何だこれ。だめみたいだ」
「相羽君?」
 鼻声になった相羽が気になり、名前を呼んだが、すぐには返事がない。
「――ごめん。ちょっと。顔、洗ってくる」
 そのまま表情を見せることなく、席を立つと、足早に廊下へ出てしまった。
 純子が追い掛けようかどうしようか、迷っていると、唐沢が口を開く。
「放っておきなよ、すっずはっらさん」
「でも」
「感激して涙が出た、ってところじゃないの」
「嘘! そんなまさか、大げさな」
「大げさなんかじゃないさ。それに、今のあいつには、泣く理由があるもんな」
「ええ? 唐沢君、私の知らない事情を何か知ってるの?」
「いやいや。好きな相手が忙しいにもかかわらず、自分のためにわざわざアルバイトし
てくれたら、そりゃあ感激するでしょって話」
 世間の常識だぜと言いたげに、肩をすくめる唐沢。純子は完全には納得しかねたが、
感激するのは理解できるし、贈る側として掛け値なしに嬉しい。それ以上の追及はやめ
にした。

            *             *

(あー、情けない)
 目にごみが入ったことにして、校舎を出た相羽、屋外設置の洗い場まで来ると、形ば
かり顔を洗った。
 ハンカチを持っていたが、自然に乾くままにする。鏡の方は持ってないが、いちいち
確認しなくても大丈夫だろうと踏んだ。
(純子ちゃんがそんなこと考えていたなんて。それに全く気付かないなんて。いくら他
のことに気を取られていたとは言え……俺ってだめな奴)
 頭をがりがり掻き、太陽をちらと見上げる。どこかで冷静な部分が残っており、昼休
みが終わるまであと何分あるなという意識があった。
(あのとき、キスする資格なんて自分にはなかった)
 唐沢の自転車を借り、うぃっしゅ亭から純子と一緒に帰った帰り道。そもそも、何で
咄嗟にしたくなったのかを自分でも分からないでいるのだが……多分、留学に伴うしば
しのお別れを意識して、甘えたくなった・思い出を作りたかった・確かめたかったのか
もしれない。
(明日の誕生日。プレゼントを受け取っていいのか?)
 自己嫌悪が続いており、今の自分にはやはり資格がないと思ってしまう。反面、ああ
までしてプレゼントを用意してくれた純子に対し、受け取らないなんてできそうにな
い。
(渡される前に、留学のことを言う? それでも純子ちゃんがプレゼントしてくれるの
なら――いや、こんな試すような真似はしちゃだめだ。それに……中間テストに悪い影
響が出るかもしれないじゃないか)
 留学のことを話さずにいられる理由を探し、見付ける。純子の勉強や成績、ひいては
先生への受け及び学校側のモデル仕事への理解を考えれば、正しい判断であったが、別
の意味では間違っている。
(僕が独断で遠くへ行くと決めておいて、相手には待っていてもらおうなんて、身勝手
極まりないよな。僕が純子ちゃんを信じていても、純子ちゃんは僕を信じられなくなる
かも。ああっ、何もかも分かった上で決断したつもりだったのに! 誕生日プレゼント
のためにバイトを始めたことにすら思い至らない。全然、分かっていなかったんだ)
 留学の件は、もう後戻りできない。よほどのアクシデントがない限り、このまま進む
段階にまで来ている。だったらあとは。
(純子ちゃんの気持ちに任せるしかない)
 あるいは当たり前の結論に、時間を要して達した。少しだけど、すっきりした。

            *             *

 五月二十八日。半ドンが終わった。
 結局、純子の昼食作りはなくなった。相羽に予定があったのだ。誕生日をきれいさっ
ぱり忘れていた当人が言うには、母親が昼間、どこかに食べに行きましょうと決めてい
たのを思い出したらしい。
「案外、おっちょこちょいなんだねえ」
 下校の道すがら、駅まで一緒に行く結城が呆れ気味に評した。なお、淡島は試験を控
え、先日休んだ分を取り戻すべく、補習を自主的に受けている。よってこの場にはいな
い。
「おっちょこちょいっていうか、えっと、視野狭窄? 一つのことに意識が向くと、周
囲がほとんど見えなくなる」
「一言もありません」
 相羽は自嘲の笑みを覗かせ、認めた。
「てゆうことは、このあとどうするんだ?」
 唐沢が聞いた。最後尾をぷらぷらと着いてくる。
「もしかして、俺、というか俺達、お邪魔虫?」
「……僕からは何とも」
 相羽は純子に顔を向けた。
「今は、そうでもないけど」
 純子の返事は、妙な言い回しになった。ぴんと来たのは結城。
「どこだか知らないけど、家の最寄り駅で降りてから、二人きりになれればいいってわ
けね」
「だったら、邪魔してることになるの、俺だけじゃん」
 唐沢がぼやくと、結城が「こっそり見物していったら? 様子をあとで聞かせてよ」
なんて冗談を言った。
 そんな唐沢の心配は、すぐあとになくなった。駅に着く前に、鳥越が追い掛けてきた
からだ。
「唐沢クン、ひどいよ。掃除当番だから、待っててくれって言ってたのに」
 怒りつつも疲れからか、妙なアクセントかつ情けない顔で話す鳥越。それを見て、唐
沢は即座に思い出したらしい。
「わ、わりい。入部の話だったよな。今から戻るか?」
「入部って、唐沢君が天文部に? 今から?」
 聞いていなかった純子は、唐沢に尋ねるつもりで言った。だが、唐沢は鳥越とのやり
取りに忙しいと見て取ったか、相羽がごく簡単に説明する。
「最近、勉強に余裕ができて、何にもしていないのが退屈になったとかで、どこかに入
りたがってたんだ。ほぼ幽霊部員とは言え、僕らがいるところが馴染みやすいだろうっ
て理由で、天文部を選んだみたいだよ」
 純子が頷く間にも、鳥越と唐沢の会話は続いている。純子達とは反対方向の電車に乗
る結城は、「長引きそうだし、電車来るし、ここでバイバイするね。お疲れ〜」と言い
残し、とことこと足早に行ってしまった。
「学校でなくても、届けを書いてもらうことはできる。あと、どれだけ本気なのか質問
していいか」
「何、そんな面接みたいなことするのか」
 驚いたのは唐沢だけじゃない。純子も驚いたし、顔を見合わせた相羽も同様だ。
(私には面接なんてなかったのに)
 そのことを口に出そうか迷っていると、相羽が先に動いた。
「次期副部長。唐沢の知識はともかく、熱意は保証するよ。だから――」
「いくら君の頼みでも、簡単に承知できないな。だいたい、今日の約束を忘れてすっぽ
かすこと自体、本気度が欠けてる証拠だ」
「それは僕らにも責任があるかも……」
 相羽は純子に目配せした。
「今日、誕生日でさ。純子ちゃんがプレゼントをくれるっていう話で盛り上がって、唐
沢も興味を持ったみたいで、着いてきたんだ」
「……確かに気になる。でも」
 鳥越は改めて唐沢に言った。
「男と男の約束なんだから、忘れないでくれよ〜」
 しなだれかかって泣きつかんばかりの勢いに、唐沢は大きく深く息を吐いた。
「男の約束って言われてもな。そういう性格の約束じゃないと思うんだが。すっぽかし
たのはほんと、謝る。面接は勘弁してくれ、してください。今の俺は情熱だけだから、
クリアできる気がしない」
「鳥越、僕からも頼む。星や夜空のことをこれから勉強しようっていう新人を、ここで
門前払いにするのはよくないと思う」
「うう〜ん」
「入部させて、唐沢が他の部員に悪い影響を与えるようだったら、僕が責任を持つ」
「責任……具体的には? 一緒に辞めるとか言われても、部としては嬉しくない。相
羽、君が辞めたら、涼原さんにまで辞められそうだし」
「や、辞めないわ。少なくとも、そういう理由では」
 純子が慌てて言うと、鳥越は、不意に何かを思い付いたらしく、口元で笑った。
「三人とも、中間考査明けから一学期いっぱい、活動日にずっと顔を出すとかはどう
?」
「――鳥越君、ごめん。凄く難しいです」
 純子はスケジュールの書かれたカレンダーを脳裏に描き、ほぼ即答した。
「ほんとに文字通り、顔を出すだけなら何とかなるかもしれないけれど、最後までいる
のは恐らく無理だわ」
「うんうん、そうだろうな。他の二人はともかく」
 分かっていた様子の鳥越。
「だったら、昼の太陽観測はどうだろう? ほぼ毎日、当番制でやってるんだけど、当
番とは関係なしに、涼原さん達は昼休み、屋上まで来て顔を出す」
「それなら……学校を休まない限り、大丈夫かな」
「学期終わりまでに、三人とも来ない日が一度でもあったら、唐沢、君の入部は認める
が」
「へ? 認める?」
 唐沢の顔にクエスチョンマークが描かれたようだ。鳥越は愉快そうに続ける。
「うん。認めるが、合宿には参加禁止。これでどう?」
「ええー、意味ないじゃん! いや、天文に興味はあるが、合宿はまた別の楽しみって
ことで」
 ごにょごにょと語尾を濁す唐沢。その肩をぽんと叩いて、相羽が意見を述べる。
「いいんじゃないかな? 心配なら、唐沢一人でも連日、太陽観測に足を運べば、条件
達成だ」
「むー。俺、女子に声を掛けられると、そっちを優先しちゃう癖があるからなあ。それ
に真面目な話、委員長やってるからその役目で昼の時間、潰れる可能性なきにしもあら
ずだし、自信持って返事できねー」
「そんなときは私か相羽君が行けると思うから、ね?」
 時間が気になり始めたこともあって、純子は鳥越の提案を受け入れる方に回った。実
際、悪くない話だと思う。
(唐沢君がどれだけ本気なのか、私も分からないけれど、入口にはちょうどいいんじゃ
ないかしら。って、私だって部活動に参加していない点では偉そうなこと言えない)
「涼原さんがそう言ってくれるなら。その条件で頼むよ、えーと、副部長だっけ?」
「次期、ね」
 鳥越と唐沢はそのまま入部の手続きに関する諸々を済ませるために、道端で書き物を
始めた。

――つづく




#516/598 ●長編    *** コメント #515 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/29  22:12  (331)
そばにいるだけで 67−2   寺嶋公香
★内容
 自宅までの道を心持ち早足で歩いて行く。唐沢の入部騒動で、余計な時間を食ってし
まった。誕生日プレゼントを持って来ていれば、学校でも渡せていたはずだが、包装に
皺が寄るのを嫌ったのと、周りから冷やかされるのを避けたかったのとで、家に置いて
きたのだ。
「お待たせ!」
 家まで来てもらって、上がる時間がない相羽を待たせる形になった。気が急いた分、
短い距離をほぼ全力疾走で往復してしまった。さすがに息は切れないが、足音で気付か
れたようだ。相羽は苦笑する口元を手で隠しつつ、「そこまで急がなくても、大丈夫だ
ったのに」と言った。
「この場で感想を聞きたいんだもの。誕生日、おめでとうっ」
 相羽に紙袋を手渡しながら、純子。
「開けていいんだね。――スコアのノートと、これは……」
 縦長の箱を取り出す。紙ではなく、立派なケース入り。
「万年筆だ。あ、音楽用の?」
 万年筆のケース脇に音楽用を意味するMSと記してあるのに気付いた相羽は、少し意
外そうな反応を示した。小説を書くこともある彼のことだから、そちらの用途でプレゼ
ントされたと思ったのかもしれない。
「そ、そう。前、作曲もするっていうのを聞いたから。手に馴染むかどうか分からない
けれど、もし使いにくくても、お守りか何かみたいに思ってくれたら」
「――ありがとう」
  相羽はプレゼントを持ったまま、純子をしっかり抱き寄せた。紙袋のかさかさという
音が聞こえたかと思うと、すぐにまた元の距離に戻ったけれど、純子をドキドキ支える
には充分な時間だった。
「大切に使う」
「え、ええ。もう、逆に、壊れるくらいに一生懸命使ってもらってもいいわ。すぐにま
た新しいのをプレゼントするから、なんてね、あははは……」
「うん。がんばるよ」
「……相羽君。やだなあ、目がうるうるしてる。これくらいのことでそこまで感激され
ると、困っちゃうじゃない」
 相手の顔に感情を見て取って、純子はわざと茶化すように言った。喜んでもらえるの
は贈った方としても大変嬉しいのだが、普段にない反応をされると戸惑いが勝りそうに
なる。
「嬉しいんだから、仕方ないだろ」
 相羽も恐らくわざとだろう、ぶっきらぼうに返すと、受け取ったばかりのプレゼント
を丁寧に元の状態にする。そして学生鞄の中にスペースを作り、これまた丁寧に仕舞っ
た。
「さて。名残惜しいけど、もう帰らないと」
「おばさまにもよろしく言っておいてね。それに、えっと、親子で仲よくお祝いしてく
ださいって」
「分かった。誕生日の当事者がそれを伝えるのは、何となくおかしな気もするけど」
「そうなのかな? とにかく、おめでとうございますってことよ」
「はは、了解」
 別れ際には、いつもの相羽に戻っていた。

 中間考査は、始まるまでに二度ほど友達同士で集まって勉強会をした成果か、無事に
乗り切れた。純子に限って言えば、一年時最後の成績と比べて点数の上下こそあれ、少
なくとも補習や追試を受けねばならない科目は、一つもなかった。
 特に、大きかったのが白沼のサポート。そう、勉強会には白沼も参加したのだ。
「意外だったって? 今回は特別よ」
 全部のテストの返却が終わったあと、感謝の意を告げた純子に対し、白沼は当然のよ
うに答えた。
「もしも追試なんてことになったら、スケジュールが狂うでしょ、仕事の」
「あ、そういう……」
「もちろん、私が手助けしなくても、大丈夫だったとは思うけど。あなた、多忙な身の
割に、勉強もできるんだから」
「ううん、今回はいつも以上にピンチだった。白沼さんがポイントを教えてくれたか
ら、凄く凄く助かった。あれがなかったら、睡眠時間削らなきゃいけなかったわ」
「それは何よりですこと。寝不足はお肌の大敵と言うし、たっぷりと寝て、鋭気を養っ
てちょうだいね」
「……怒ってる?」
「いいえ。怒ってるように見える? だとしたら、あなたが何度もお礼を言ってくるか
らね。無駄は省きましょ。それよりも――また、唐沢君が見当たらない」
 クラス委員として何かあるのだろう、白沼は腕時計で時間を気にする仕種を見せた。
「知らないわよね」
「ええ。昼休みなら、屋上に行ってる可能性が高いんだけど」
 伝わっているのかどうか心配になったので、天文部のことを白沼に話しておく。
「そうなの。……その合宿、あなた達も参加するのね?」
「達って?」
「決まってるでしょ、相羽君よ」
「う、うん。参加するつもり」
「スキャンダルはごめんだから、監視役で着いて行こうかしら」
 視線を巡らせ唐沢を探すそぶりをしながら、白沼はさらりと言った。
(まさか、白沼さんまでここに来て入部?)
「し、白沼さん! そんなスキャンダルなんてないから!」
「着いて行ったって、ずっと貼り付けるわけないんだし」
「だから、何にもしないってば〜」
「あなたにその気がなくたって、健全な高校生男子が抑えきれるかどうか。夏だから、
涼原さんも薄着になるでしょうしね」
「――」
 赤らんだであろう頬を、両手で隠す純子。白沼はまた腕時計を見やった。
「冗談よ。――もう、仕方がないわね。唐沢君の苦手な子って、やっぱり町田さんにな
るのかしら」
「はい?」
 急に友達の名前を出されて、戸惑った。おかげで気恥ずかしさは吹き飛んだけれど
も、話の脈絡が掴めない。
「あなたからでもいいわ。町田さんに頼んで、唐沢君にきつく言ってもらえないかし
ら。休み時間になっても教室を飛び出さず、少し待機しなさいって。それとも、学校が
違ったら、友達付き合いも疎遠になってる?」
「ううん。大丈夫だけど……芙美が言っても、効果があるかどうか」
「そうなの? じゃあ、あなたと町田さんとで、飴と鞭作戦」
 絵を想像してしまった。唐沢がサーカスのライオンで、純子が給餌係。町田は猛獣使
いだ。思わず、笑った。
「ふふっ。それでもうまく行くか、分かんないけど、今言われたことは伝えておくわ」
「頼むわね。あ、そうだわ。唐沢君の弱みを知りたい」
「え?」
「弱みを握れば、私の言うことも多少は聞くようになるでしょう。町田さんなら、小さ
い頃から唐沢君を知ってるみたいだし、何か恥ずかしいエピソードも知ってるんじゃな
いかしら」
「あんまり気が進まないけど……一応、聞いてみる」
 悪魔っぽい笑みを浮かべた白沼に、純子は不承不承、頷いた。

「――ていうわけなんだけど」
 純子が話し終わると、町田は歯を覗かせ、呆れたように苦笑した。
「久方ぶりのお招きに、何事かと思って来てみたら、あいつの話とはねえ」
 電話口で、ともに中間テストが終わって、時間に余裕がある内に会いたいねという風
な話の振り方をした結果、町田が純子の家に来ることになった。
「ほんとに会いたかったのよ。たまたま、白沼さんに言われたのが重なって」
 ケーキと紅茶を勧めながら、純子は必死に訴えた。
「はいはい。でもって、純子、あなたは私とあいつとの仲がどうなってるか、気にして
ると」
「ま、まあね。芙美だって、学校での唐沢君のこと、気に掛けてるんだし」
 時折、電話したときに、学校での唐沢の様子を伝えてはいた。包み隠さずを心掛けて
いるので、この間のパン屋での一件も知らせてある。
「知っての通り、近所だから、顔はよく合わせるわけよ。デートしてるところを見掛け
る頻度が、めっきり減ったわ。ゼロと言ってもいいんじゃないかな。単に、行動範囲を
変えただけかもしれないけれど」
「見てる限り、校内では女子と親しく話してても、校外のデートはしてないと思う」
「心を入れ替えたとでも?」
「……分かんない。ただ、勉強の時間を確保するのには、苦労してるみたい」
「まったく、無理してレベルの高いところに入るから」
「でもね、最近はコツを掴んだみたいなこと、言ってたような」
「純、それは何のフォローなんだね? 唐沢の立場からすれば、逆効果になってる気が
するんだけど」
「えっと。フォローというか、現状報告の最新版」
「ふうん。それで、あいつは白沼さんとはうまくやってるの? 委員長として」
「うまく……立ち回ってる感じ?」
「あははは。その表現で、様子が目に浮かぶわ。白沼さんの苦労ぶりまで。だからっ
て、弱みを握りたがるのはねえ。気持ちは理解できても、やり過ぎ」
「やっぱり、そうだよね」
「だいたい、そんな弱みになるようなネタがあったら、私が使ってる」
「え」
「実はネタがないわけじゃないんだけど、私にとっても地雷だから。一緒になっていた
ずらしたりね。にゃはは」
「本当に、昔から仲がよかったのね」
「昔は、よ。こーんぐらいの頃だけ」
 町田は手のひらを使って背の高さを表す仕種をする。座っているから今ひとつぴんと
来ないけれども、幼稚園児ぐらいだろう。
「あいつがもて自慢するようになってからね、おかしくなったのは。あ、一個思い出し
た。これなら私は関係ないから、言えるわ」
「うん? 唐沢君の弱みの話?」
「まあ、小っ恥ずかしい話。あれは小学……四年生のときだった。知っての通り、小学
校は別々だったけど、お祭りなんかでばったり出くわすこともあるわけよ。あの年も同
級生の女子を大勢引き連れていた。私の方は友達、女友達二、三人と一緒で、穏やかに
すれ違うつもりだったのに、向こうが『女子ばっかで楽しいか』みたいな挑発をしてき
たから、こっちもつい」
 芙美と関係のない話じゃないのかしら?と疑問に感じないでもなかった純子だった
が、スルーして聞き役に徹した。
「『そっちこそ、毎度毎度同じ顔ぶれを引き連れて、よく飽きないわね』的なことを言
い返してやったの。そうしたら、『じゃあ、おまえらこっちに入れよ』って」
「それが恥ずかしい話?」
(単なる唐沢君の照れ隠しなんじゃあ……)
 純子のさらなる疑問を吹き消すかのように、町田がすかさず言った。
「まだ続きがあるのよ。上からの物言いがしゃくに障ったんで、私らも応じないで、適
当に辺りを見渡しながら、『その辺の女の子をつかまえれば』って言ってやった。それ
を唐沢の奴、真に受けてさ。私が顎を振った方向の先にいた、女の人に声を掛けに走っ
たのよ」
「女の人って、まさか、大人の?」
「そうよ。自信があったんだか知らないけど、当然、相手にされるはずもなく、当たっ
て砕けていたわ」
「唐沢君、無茶するなぁ」
 それだけ芙美を気にしているから――そう解釈できると思った純子だが、敢えて言葉
にはしまい。
(芙美も分かってる。第三者があれこれ口出しするときは過ぎてる。あとは二人のどち
らかが行動するだけ。芙美には唐沢君の普段の様子を伝えているけれど、特に気持ちを
動かされた感じはないのよね。そうなると、唐沢君が行動を起こすしかないんだろうけ
れど)
 かつての自分の鈍さ加減を思うと、無闇に焚きつける気になれない。相羽との件で
は、周りに気を遣わせていた意識は充分すぎるほど自覚している純子なので、今さら自
分が気を遣ったり気を揉んだりする分は厭わない。
(芙美も唐沢君も多分、お互いの気持ちを分かってて、意地を張ってる。どちらか一方
じゃなく、二人が揃って素直になれるタイミングじゃないと難しいかなあ)
 知らず、芙美の顔をじっと見ていた。視線に気付いた相手から、「唐沢のことなんか
より」と話題を転じられた。
「相羽君との仲を聞かせてほしいな。おのろけでも何でもいいから」
「誕生日プレゼントを贈ったわ」
「ほう。何を」
「万年筆と五線譜ノートを。ただね、相羽君てば、自分の誕生日を忘れていたいみたい
で」
「ふうん? よっぽど忙しいのかねー。忙しさなら、純子の方が上だと思ってたけど」
「分かんないけど、私だけ忙しいのよりはずっといい。だって、会えなくなって、私だ
けの責任じゃないもんね。あは」
「ジョークでも悲しいわ。その分じゃ、まともなデート、ほとんどしてないんだ?」
「うん。少ないからこそ、一回が濃くなるようにがんばってるから」
「……濃いって、まさか……」
「ん?」
「……あんた達二人に限って、あるわけないか」
「何が」
「デートの回数が少ない分、一回を濃くしようとして一気に進展するようなこと、ある
わけないわよねって言ったの」
「――な、ないけど」
 キスをしたことが頭を何度もよぎる。一気に進展とまでは言えないだろうけど、純子
達にとっては大きな進展に違いない。
「どうしたん? 顔が赤いよ」
 顎を振って指摘する町田。純子が「何でもない」と急ぎ気味に答える。
「さっきも言ったように、今日の私はのろけも大歓迎よ。自慢でも何でも来い」
「自慢するようなエピソードは、まだ……」
「あらら、残念。うらやましがらせるような話を聞かせてくれたら、私も早く彼氏を作
りたいなーって思ったかもしれないのに」
「ほんと? ようし、それなら楽しい話ができるよう、デートに精を出すわ」
 お互い、どこまで本気で言っているのか、当人達さえも分からないやり取りで終わっ
た。

 町田と久しぶりに顔を合わせて話をした翌日、純子は学校に着くなり、白沼の姿を探
した。唐沢の弱みについて、成果は大してなかったが、一応、伝えておこうと思ったか
ら。
(唐沢君は教室に来るのが遅い方だから、いない内にすませちゃお)
 そんな考えを抱いて教室に入った。途端に、当の白沼が気付いて、駆け寄ってきた。
(えっ、白沼さん、そこまで知りたがっていたなんて。すぐに教えたいけれども、で
も、唐沢君がいないことを確かめてからにしないと)
 慌てて教室を見渡すが、確認し終えるよりも早く、白沼が目の前に立った。
「あ、あの」
「ちょっと」
 袖を引っ張られ、そのまま二人して廊下に出る。鞄を机に置く暇すらもらえない。
「唐沢君、教室にいるの?」
 廊下に連れ出されたことをそう解釈した純子。だが、白沼はあからさまにきょとんと
した。
「何の話? 私はあなたに仕事の話をしたいの。さあ、もっと隅っこに行かなきゃ聞か
れるかもしれないでしょうが」
 校舎の端っこ、壁際まで来た。人がいないわけではないが、通り過ぎるばかりで、誰
も気に留めまい。
「仕事って」
「加倉井舞美の事務所から、直接うちの方に打診があったのよ。夏休みの期間中、テラ
=スクエアのキャンペーンのお手伝いをさせてもらえませんかって」
 話が見えない。とっても意外な名前が出て来た気がする。
「加倉井舞美って、あの加倉井さん?」
「どの加倉井さんか知らないけれども、加倉井舞美はあなたと面識があるのよね? 一
緒にやりたいと言ってきたのが昨日の夜だそうよ。今頃、正式な連絡があなたの事務所
にも入ってるはず。そっちは何か事前に聞いていた?」
「何にもないわ。うーん」
 思わず腕組みをしてしまった。
(加倉井さんがまた一緒に仕事をしたがっていたのは、私――風谷美羽ではなく、久住
とよね。それがまた、どうして私と)
「涼原さんにもわけが分からないのね? 加倉井舞美ほどのタレントが、向こうから使
って欲しいと言ってくれるなんて、ありがたい話だと思うわ。でも、異例でしょう、こ
ういうの。何か裏があるのじゃないかって気になったから、とにもかくにもあなたに事
情を聞こうと考えたわけ。それなのに、その様子じゃねえ」
 がっかりしたのとあきれたのが綯い交ぜになったような、徒労感漂う笑い声が、白沼
の口から漏れ聞こえた。
「白沼さんのところは、この話を受けるつもりは?」
「基本的にはあるみたいね」
「だったら、私、じかに聞いてみようかな」
「個人的に連絡取れるの?」
「え、ええまあ。電話番号やメールアドレス、教えてもらったから。ただ、メモリに入
れてないし、覚えてないから、一旦帰らなくちゃいけないんだけど」
「え、メモリに入れてないって、どうしてよ?」
「万が一、私が携帯電話をなくしたら、迷惑掛かるかもしれないから、芸能人の分は入
れないようにしてる」
「ロックしておけばいいんじゃないの。あー、はいはい、解除されるかもしれないと。
そうよね」
 一人で勝手に納得した白沼は、少し考える時間を取った。
「……今すぐ聞けないのなら、あんまり意味ないわね。あなたのとこのルークにも直接
話が行くのは間違いないから、その返事として問い合わせる方が礼儀にも叶うでしょ
う」
「そうかもしれない。白沼さん、凄い。業界にすっかり慣れた感じ」
「そう見えるのなら、少し分かってきただけよ。全体を大まかに見て意見を述べるの
と、連絡係をやってるだけなのに、やたらと調整に手間が掛かって面倒なのはよく飲み
込めたわ」
 白沼は大きく嘆息すると、視線を純子に向け、じっと見てきた。
「よくやってるわね、こんな仕事」
「わ、私は担がれてる方だから、手間とか面倒とかはあんまり。端で見ていて、大変だ
なあって思うし、スタッフさん達に支えてもらっているというのは、凄く感じてるけど
ね」
「じゃあ楽なの? 楽なら私もチャンスがあればやってみようかしら」
 本気とも冗談ともつかぬ白沼の意思表明に、純子は一瞬戸惑った。
「楽とは言えないけど、白沼さんがやる気なら応援するっ」
「ばかね、冗談よ」
「あ。そうなの。もったいない……」
 純子は本心から言った。少なくとも、美人度という尺度で測れば、白沼の方がずっと
美人だろう。
「ありがと。でもね、私、何がだめって、あの撮影関係の待ち時間の長さがだめ。まっ
たくの無駄ではないんでしょうけど、無駄に過ごしてる感じが耐えられないわ」
 白沼はふと思い出したように時計を見た。そして素早く行動を起こす。
「急いで戻らなきゃ。無駄話のせいで」

 一時間目のあとの休み時間に、加倉井から打診があった件について、相羽にも聞いて
みた。だが、意外と言っていいのか当然とすべきか、彼はこの話に関して何も知らなか
った。
「えらく急な話だね。夏休みと言ったら、あと一ヶ月くらいしかない。もうほとんどキ
ャンペーンの中身は決まってるだろうに」
 話を聞いたばかりでも、分析力に長けた相羽。すぐに不自然なところを洗い出してく
れた。
「あ、そっか。性急さがおかしかったんだわ。それもあって、何となく裏がありそうな
印象を受けたんだ」
「ねえ、純子ちゃん。加倉井さんの話は事務所に正式な形で届くだろうから、そのあと
でいいんじゃない?」
「う、うん。昼休みにでも電話して、聞いてみようかな」
「よし、決まり。実は、こっちも話があってさ。今朝、鳥越に会ったときに言われたん
だ。天文部の集まりに顔を出してくれって。合宿の説明がある」
「あっ、忘れかけてた。だめだ、私」
「そう自分を責めなくても」
「違うのよ。それだけじゃないの。昼休みの定点観測。電話を掛けることばかり考え
て、すっぽかすところだった」
 反省しきりの純子は、昼は屋上、放課後は天文部部室に行くことを頭の中にしっかり
刻んだ。
 ……刻んだのだが、合宿の話は思い掛けず、鳥越の方から足を運んでくれた。二時間
目の終わったあと、わざわざ教室までやって来た次期副部長は、「待っているだけだ
と、本当に来るか不安だから」とやや嫌味な、しかし当然とも言える前置きをした。
 聞き手は純子と相羽と唐沢の三人だ。と言っても、長くはない休み時間故、鳥越は必
要事項を記したプリントを用意しており、手早く配った。
「日程はそこにある通りで決まり。絶対に動かせないから。他に分からないことや、こ
うして欲しいという希望があれば、なるべく早めに言ってくれ。できれば今の役員に」
「はーい」
「費用のことも書いてあるけど、割り当ての活動費でまかなえる範囲に収まったから。
ただし、二日目のバーベキューを豪華にしたいなら、カンパ随時受け付け中」
「つまり、不良部員の俺達に多めに出してくれと」
 唐沢が緊張の色濃く出た笑みを浮かべて尋ねる。鳥越は対照的に、邪気のない笑みで
応じた。
「いやだなあ。そんなつもりは全然。ただ、合宿を楽しく過ごすには、まずは食事の充
実からかなと思ったまでのこと」
「食事の話はおくとして、一つ聞きたいことが。いい?」
 純子はプリントを持っていない方の手を挙げた。鳥越は相好を一層崩した。
「答えられるかどうか分かんないが、受け付ける」
「今回は皆既日食がメインなんでしょう? でも、夜は夜で観測するの? 流星群の時
期に重なるはずだし」
「もちろん、するよ〜。機材の運搬が大変だけど、副顧問の作花(さっか)先生がマイ
クロバスを出すと」
「そうなんだ? それで、細かいスケジュールや観測対象は、またあとで決めるのね」
「そうだね。まあ、夜の観測対象は、やぎ座流星群及びみずがめ座流星群が本命で決ま
りだよ」
「月齢の条件も、まあまあいいんだっけ。楽しみ」
 眼を細める純子の横では、唐沢が相羽の肩をつついていた。
「話が半分ぐらいしか分からないんだが」
「僕はだいたい理解してる」
「うーむ、こんなんで参加していいのか、不安になってきたわ、俺」
 唐沢のぼやきは、鳥越の耳にも届いていた。
「不安なら、テストしてあげようか」
「いやいや、遠慮しとく! 部活の中で教えてくれ」
 唐沢が椅子から立って逃げ出す格好をしたところで、タイムアップとなった。


――つづく




#517/598 ●長編    *** コメント #516 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/29  22:13  (384)
そばにいるだけで 67−3   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:12 修正 第2版
「それなんだけどねえ」
 昼休みに三度電話を掛けたがつながらず、太陽の観測に顔を出す必要もあったため、
連絡が取れなかった。なので放課後、純子は相羽とともに事務所に寄って聞いてみた。
部屋に入るや開口一番、「加倉井さんのところから話があったと聞きましたが」と切り
出すと、市川は明らかに困り顔で反応した。
「アルファグループのプロジェクト的には、細かい部分は進めながら決めていく方針だ
から、よそ様のタレントが絡んできても、よい使い方を考えるだけなんでしょうけれ
ど、うちにとってはあんまり美味しくない話」
「あ、いや、そういう部分の問題じゃなくて、そもそも何で加倉井さんがテラ=スクエ
アのキャンペーンに協力したいと言い出してきたのか、理由があるのなら知りたいなと
思ったんです」
「うん、その辺のことならさっき、と言っても一時間以上前だが、連絡をもらった。テ
ラ=スクエアの仕事で協力する代わりに、久住淳との将来の共演を確約して欲しいとい
うご要望だったよ」
「うわ」
 そういう狙いだったのね。一応、納得するとともに、冷や汗をかく思いもする。
(もし朝の段階で加倉井さんとホットラインが通じていて、迂闊にOKの返事をしてい
たら、大変だったかも)
 好ましく思っていないのは、市川も同様だった。回転椅子を軋ませ、事務机越しに身
振りで、高校生二人にソファに座るよう促す。純子と相羽はテーブルを挟み、向き合う
形で座った。
「そんなこと言われたってねえ、先方やアルファさんにはメリットがあっても、うちに
はほとんどないから。そりゃあ、加倉井舞美との共演は魅力的な話ではあるけれども、
その加倉井舞美とあなたが夏休みの間中、しょっちゅう顔を合わせていたら、さすがに
ばれる恐れが高まる。リスクが大きい」
 市川の深い深いため息を引き継いで、杉本がデスクから顔を起こして言った。市川の
デスクとは直角をなす位置におり、純子からは斜め後ろを振り返らないと杉本の姿が見
えない。
「せめて、テラ=スクエアでの仕事そのものが、加倉井舞美ちゃんと久住淳との共演な
んていう要望だったならよかったかもしれませんね。だめ元で、こっちから提案してみ
ます?」
「いや、それはそれで不自然になるだろうね。その共演が行われている間、キャンペー
ンガールの風谷美羽がどこかに消えちゃう形になるんだから。どこをつつかれてもおか
しくない理由を用意できるなら、考えてみる余地はあるが」
「だめですよ、断るべきです」
 相羽が不意に発言した。言葉は柔かだが、口調に断固としたものが感じられる。皆が
注目する中、彼は続けた。
「加倉井舞美さんは、久住淳との共演話は遠い将来という形で希望していたと聞いてい
ますが、間違いないでしょうか」
 大人達へ尋ねる口ぶりだったが、これには純子が答える。
「ええ。あの時点で、加倉井さんはスケジュールが決まってる風だったし」
「それなのに、今回の件は若干、話を急いでる気配がある。もしかしたら、別の都合が
新たに加わったのかも。完全に想像だけで話すと、たとえば、加倉井と久住でカップル
として売りたい、とか」
「え! カップル?」
 相羽の隣で叫んでしまった純子。意味がすぐには飲み込めなかった。
「なるほどね。今はあんまり流行らないけれど、昔は結構あった売り出し手法だね。こ
の男優にはこの女優、みたいなイメージを世間に植え付けるわけだ。ゴールデンコンビ
として認識されれば、しばらくはその組み合わせだけで結構売れる」
「中には、本当にカップルになって、結婚するのもいましたねえ」
 芸能の歴史や事情をよく知る市川と杉本は、説明がてらそんなことを言った。
「け、結婚て……絶対に無理じゃないですか。断らないと」
「いや、あの、決定したわけじゃないんだし」
 焦りが露わな純子を、相羽が落ち着かせる。
「でも、当たっているかどうかは別にして、また、加倉井さんからの要望を聞くか否か
とも関係なく、この話自体、僕は拒むべきだと思いますよ」
「理由を聞こうじゃないか、信一君」
 純子に代わって、市川が聞き返した。
「今の加倉井さんと一緒にやったら、純子ちゃんは食われてしまいます」
「そりゃまあ、理屈だね。相手の方がキャリアは上で、トーク力もある。食われて当
然。だが、私の見立てでは、個性は五分と踏んでいる。キャンペーンの内容によって
は、純子ちゃんが勝つことも可能じゃないのかな?」
「加倉井さんの個性を殺すような勝ち方では、だめなんじゃないですか。恐らく、互い
にマイナスになります。キャンペーン自体の勢いを削ぐかもしれない。ですから、どう
してもこの話を受けるのなら、相手を立て、持ち上げることに専念するのがましじゃな
いかって気がします。そういうのって、圧倒的に差がある人と共演するよりも、力が近
い相手と共演するときの方がずっと難しいでしょうけど」
「なるほど。案外、的を射ているかも」
 市川は目を丸くし、感心した風に息を吐いた。
「さすがね、風谷美羽の一番のファンだけはある」
「べ、別にそんなつもりでなくたって、おおよそのところまでは想像が付きますよ」
 市川にからかわれた相羽は、目元が赤みがかった。純子の方をちらっと見て、「1フ
ァンとしては、彼女の気持ちを最優先にしてもらいたいなって思ってます」と、捲し立
てるように市川に進言した。
「分かった。では聞こう。どう?」
 市川は座ったまま、椅子ごと身体の向きを換えると、純子の顔をじっと見てきた。
「私は……加倉井さんと一緒に仕事をしたくないわけじゃないんですけど、テラ=スク
エアとは切り離した方がいいと思うんです。白沼さんが関係していますから」
「ほう?」
「加倉井さんが来ると多分、芸能界の話題が出るし、久住淳についても色々発言するは
ず。中には外に漏れたらまずい話が出るかも。それが万が一、白沼さんの耳に入った
ら、ややこしくなりそう」
「あの子は口が堅そうだし、仕事とプライベートをきちんと分けられるように見えたけ
ど」
 これは杉本の感想。ほぼ印象のみで語っているはずだが、当たっている。
「ゴシップ程度なら問題ないです、多分。心配なのは、久住淳に関すること。下手をし
たら、一人二役、白沼さんに勘付かれるかもしれません」
「彼女、そんなに勘がいいのかい?」
 市川の質問に、純子は軽く首を傾げ、
「分かりませんけど……久住淳として会ったことがあるので、記憶を刺激するような話
題は避けたいんです」
 と答えた。
「ああ、そういえばそうだった。よろしい、決めた。今回は断る。と言っても、うちが
できるのは、共演を断る意思表明くらいで、企業が別口で加倉井舞美と契約する分には
口を出せないけれどもね」
「充分です。よかった」
 純子が笑み交じりに反応すると、市川の行動は早かった。すぐさま電話をかけ始めた
かと思うと、今決定したばかりの判断を先方に伝え、さらに今後もこのプロジェクトに
関しては共演なしでお願いしたいと強く要望を出し、会話を終えた。
「これでよし、と。――ついでに聞いておきたいんだが、純子ちゃん」
「はい?」
「本音のところでは、どうなの。テラ=スクエア関係は脇に置くとして、加倉井舞美と
張り合って――たとえば、同じ映像作品でダブル主演みたいな形で共演して、負けない
自信はあるのかな? 久住へのお誘いはあったわけだし」
「あのー、全然ありません。こと演技に関しては、加倉井さんは尊敬の対象というか」
 あんまり自信のない物言いをすると怒られるかなと懸念しつつ、正直な気持ちを答え
た。さっき相羽が示した見方の通りねと、純子も自覚している。
 果たして市川は、怒りはしなかった。
「だろうね。この場にいない加倉井舞美に気を遣って、『一緒に仕事をしたくないわけ
じゃない』と前置きするくらいだし」
「え、あ、それは」
 口ごもる純子に、市川は意地悪く追い打ちを掛ける。
「けど、それってつまり、演技以外なら勝負になると思ってるんだ、うん」
「ま、まあ、演技に比べたらまだましかなー。あはは」
「そういえば、歌は勝ってたよ」
 市川が言ったのは、五月の頭に催されたライブのこと。思いがけないハプニングを経
て、星崎とともに急遽出てくれた加倉井は、単独でも一曲披露した。
「冗談きついです。リハーサルやウォームアップなしに、あれだけ唄える加倉井さんが
凄い」
「じゃ、今いきなり唄ってみる? あのときの加倉井さんと比べて進ぜよう」
「もう〜、市川さん、やめましょうよ〜。私、これでも学校生活で忙しいんですっ」
「学校生活で“も”、でしょうが。いいわ、相羽君と仲よくお帰りなさいな。しっかり
休んでね」
 急に物分かりよく言ったのは、市川も仕事を思い出したためかもしれない。気が変わ
らぬ内にと、相羽を促し、急いで腰を上げる純子。
「それじゃあ、失礼します」
「――あ。大事なことを伝え忘れてたわ」
 背中を向けたところで、そんな言葉を投げ掛けられた。純子は嘆息し、相羽と顔を見
合わせた。苦笑を浮かべ、二人して振り返る。
「何でしょうか」
「昼過ぎに鷲宇さんから連絡があったわよ。連絡と言うより、報告ね」
 据え置き型のメモ台紙を見下ろしながら、市川は言った。心持ち、穏やかな表情にな
ったような。
「美咲ちゃんの手術が行われて、成功したって」
「えっ――やった! よかった」
 喜びを露わにする純子。隣の相羽は対照的に、「本当によかった」と静かに呟いた。
「帰国はもう少し先になるそうだけれど、順調に回復を見せているとのことよ」
「音沙汰がないから、海外に渡ってもドナーがなかなか見付からないんだと思っていま
した。いきなり聞かされて、びっくり」
「実を言えば、ドナーが見付かったという話もちょっと前にあったんだけれど、あなた
達には伝えずにおこうと決めてたの。気になって、仕事が手に着かなくなる恐れありと
見てね」
 臓器提供が決定したら、ほとんど間を置かずに手術が行われる。仕事が手に着かなく
なるほど、気にしている暇はないだろう。だから、市川のこの台詞の背景にあるのは多
分、手術の結果も併せて伝えたかったのと、万が一にも悪い結果に終わった場合を見越
してのもの……だったのかもしれない。
 ドアからまた引き返してきて、市川のデスクに両手をついた純子。熱っぽく要望を口
にする。
「帰ってくる日が分かったら、すぐさま知らせてくださいね。そして美咲ちゃんに会え
るように、スケジュールを」
「分かった分かった。今日のところは早く帰って、学校の宿題でも片付けなさいな」
 呆れ口調で応じた市川は、まるで追い払うように手を振った。
 純子と相羽は、事務所のある建物を出てだいぶ歩いてから、自分達もあることを知ら
せるのを忘れていたと気が付いた。
「あ――合宿の日程!」
 美咲の手術成功のニュースが、あまりにも吉報に過ぎた。

「そうですか。やはり、遊びに行くのは無理と」
「ごめん!」
 両手のひらを合わせる純子。頭を下げた相手は、淡島と結城だ。
「いいって、気にしなくても。だいたいは予想してた」
 結城が寛容に笑いつつ、言う。昼食後の休み時間、廊下に出てのお喋りは、今の気候
と相俟って、ついつい長くなりがち。
「天文部の合宿参加を純子、あなたが決めた時点で、他の諸々に影響が及ぶのは目に見
えてたわ」
「うー、面目もありません。当の私が、予想できていなかった。罪滅ぼしと言っちゃお
かしいんだけど、今度の土曜の午後、二人に付き合う」
「暇があるの? なら、その時間、私達に使わずに休養に充てなよ」
 結城の言葉に、純子は内心、頭を抱えたい気分になった。次の土曜日を仕事なしにで
きたのは、他の日にちょっとずつ無理をした積み重ねであって、もちろん淡島と結城の
ためにやったことなのだ。
(忙しいことを先に話したのがいけなかったかな。最初に土曜日の件を言って、約束し
ちゃうべきだった)
 後悔しても遅い。ちょっとだけ考え、再チャレンジ。
「私、遊びに行きたい。だから、マコも淡島さんも付き合って。だめ?」
「――まぁったく。あんたって子は」
 結城が両手を純子の頭に乗せ、軽くだがくしゃくしゃとなで回す。
「そういうことなら、付き合うわ。ね、淡島さんも?」
 純子の頭に手を置いたまま、淡島へ振り向いた結城。淡島は、最前の純子よりは長く
考えて、おもむろに口を開いた。
「基本的に賛成、同意しますが……一つ、いえ、二つ、よろしいでしょうか」
「え、何?」
 頭から手をのけてもらい、純子は面を起こしながら応じた。
「まず、一つ目は、涼原さんは補習の方は大丈夫なのでしょうか」
 心配げな淡島に対し、純子は微笑を返しつつ、また少し考える。テストの点数に関し
てなら、赤点にはなっていない。今、心配されるとしたら、出席日数の方だ。同じ科目
の授業を三度四度と続けて欠席するようなことがあれば、必要に応じて補習を受ける。
もちろん、純子だけが特別扱いという訳ではなく、他の人と一緒に受けるので、タイミ
ングもある。
「心配掛けてごめんね。今のところ、大丈夫だよ」
「そうでしたか。今後を見通して、余裕ができたときに補習を先取り、なんてことはで
きないでしょうし」
「あはは、無理無理」
 それこそ、頭がパンクしちゃうんじゃないだろうか。苦笑する純子。
 淡島もつられたように笑みを浮かべ、それから二つ目の件に移った。
「二つ目は、遊びに行くと仮定して、リクエストなんですが。もう一人、連れて行くの
はいかがでしょう」
「うん、いいかも。それで誰を誘う?」
「相羽君ですわ」
 にこにこと笑顔の淡島。純子は対照的に、表情を強ばらせた。
「あのー、淡島さん。相羽君を選ぶのはどういう理由から……」
「もちろん、二人のためを思ってのこと。付け加えるなら、その様子を端から見守りた
いという気持ちもあります」
「うう。それはさすがに嫌かも」
 冗談で言っていると信じたい純子だが、淡島の顔つきからはどちらとも受け取れて、
判断不可能。とりあえず、拒否の方向で。
「相羽君と一緒に行くのが嫌なのですか?」
「そ、そうじゃなくって、相羽君とはまた別の機会に……二人で……」
 純子は結城に視線を送って、助けを求めた。察しよく声が返ってくる。
「ほらほら、その辺にしておきなさいって。純が困ってる」
「そうですか。少しでも一緒にいられる時間を増やして差し上げようという、いいアイ
ディアだと思ったのですが」
 本気だったんかどうか、まだ分からない言い回しをする淡島。
「あ、ありがとう。気持ちだけで充分、嬉しい。でも、相羽君も最近、何だか忙しいみ
たいだし」
「言われてみれば」
 首を傾げ、教室内に注意をやる結城。
「今もいないみたいね。ま、休憩時間にいないからって、単なるトイレってこともある
だろうけど。純、本人に何か聞いた?」
「ううん。前に忙しそうなときは聞いたけど、大げさに騒ぐようなことじゃなかったか
ら、今後は聞かないでおこうって」
「あれま。気にならないの?」
「気にならない、ことはないけど。気にしないようにしてるの。でも三年になってから
も同じ調子だったら、気になるかなあ。だって、進路に関係してそう」
「なるほど。同じ大学に進みたいと」
「そ、そこまではまだ分かんない」
「てことは、芸能界に専念したい気もあるの?」
 結城は意外そうに目をしばたたかせ、声のボリュームを落とした。純子の方はまた慌
てさせられた。
「違うのよ。そんな意味じゃなくてね。進学したい気持ちの方が圧倒的に強いのだけれ
ど、相羽君は多分、目標が明確になってるのに、自分は全然定まってないなってこと。
こう言うと事務所の人から怒られるかもしれないんだけど、学校の勉強以外でも地球や
宇宙について知りたい。仕事を減らして、勉強してみたい。化石を発掘してみたいし、
オーロラや流星雨を観察したい。知りたいこと、体験しておきたいことはいっぱいあ
る。ただ……研究者を目指すのかと問われたら、強くはうなずけない」
「――ほへー。純て、星だけでなく、足元の方にもそこまで興味あるんだねえ。純の星
好きって、相羽君に合わせてるんだと思ってた」
 結城が感心する横で、淡島は「私は分かっていました」とぼそりと呟いた。と、強い
風が吹いて、開け放たれた窓から砂粒が少々飛び込んできた。ちょうどいい折と見て、
窓を閉めてから三人揃って教室に入る。場所を変えても、話題は変わらない。
「化石には、相羽君、関心ないのかな?」
「ううん、相羽君も好きみたい。でも、私が化石に興味持ったのは、相羽君に会う前だ
から、これも合わせたんじゃないのよ」
「そんなに強弁しなくても信じるって。進路の話からずれてきてるし」
「あ。それで……相羽君の一番したいことは音楽だと思う」
「だろうね」
「対して、私の目標がこんな宙ぶらりんな状態だと、相羽君に相談することもできない
し、一緒の大学に行こうだなんて、それこそ言えないわ」
「進路、迷ってるんなら、迷っていること自体を話すのは、ありなんじゃない?」
「うーん。相談したら、回り回って、相羽君と相羽君のお母さんが喧嘩になるんじゃな
いかと想像してしまって」
「い? 何ですかそれは」
 さっきと違い、今度は予想外だったのか、妙な驚き声を上げた淡島。
「私が相談を持ち掛けると、相羽君は、私が仕事を辞めたがってると受け取るかもしれ
ない。そうしたら、相羽君はお母さんに言うと思う。辞めるのは無理でもせめて仕事を
減らしてとか。でも、おばさまは反対するでしょ。契約あるし」
「考えすぎだと思うなあ。相羽君、それくらい承知でしょ。親子喧嘩なんかしない方向
で、純の相談に乗ってくれるんじゃない?」
 笑い飛ばす風に始められた結城の言葉だったが、急にボリュームが下げられた。彼女
の目線の動きを追って、純子と淡島が振り向く。廊下を通り掛かる相羽の姿が、窓越し
に見えた。
「帰って来たと思ったら、またどっか行っちゃった。何を駆けずり回ってるんだろ」
「職員室での用事が済んで、トイレに行っただけでは」
 結城はやたらとトイレ推しだ。それはともかく、確かに方向は合っているが。
(職員室に用事なら、ここに戻って来る途中にトイレあるのよね)
 純子は内心、ちょっとだけ不安を感じた。気にしないように努めても、やはり気にな
る。
「とりあえずさあ、遊びの方の話を決めておきたいな。純は相羽君を誘う、決まりね」
「え?」
 結城の強引さに、呆気に取られてしまった。
「誘っても来られるかどうか……ほんとに忙しいみたい」
「忙しいあんたが言うなって話だけど。相羽君が来られなくても、別にかまわないか
ら、私らは。誘うことが大事」
「うー。分かった」
「成功確率を少しでも高めるには、遊びの内容を相羽君の好みに寄せるのと、それ以上
に、誘うときの純の格好が重大要素になるね」
「格好って……」
 苦笑いを浮かべた純子だったが、次いでおかしな想像をしてしまい、顔が火照るのを
感じた。友達二人に気取られぬよう、手のひらで頬をさする。
「そ、それで、どんなことして遊ぶ? 二人のやりたいこと言ってよ。私が付き合うっ
て言い出したんだからね」
「ぱっと浮かんだことが一つあります」
 淡島が言った。水晶玉にかざしているかのように、宙を動く手つき。
「流行り物ですが、VRの技術を取り入れたプラネタリウムが先頃、オープンしたはず
です」
「あ、それ、知ってる。イタリア発のプラネタリウムのショーに対抗して、作られたや
つだね。文字通り、星に手が届く感覚が味わえるとかどうとかって。私も興味あるな。
星なら純も相羽君にもいいし。ただ、料金が結構高いのと、場所が遠くなかった?」
 結城の反応が早かったので、黙っていたが、純子ももちろん知っていた。天文好き
云々以前に、とある伝があった。そのことを言い出せない内に、淡島が答えている。
「料金は忘れましたが、距離は確か……一時間半ほど掛かると記憶しています。電車だ
けで一時間でしたか。あ、でも土日にはホリデー快速みたいなのがあったかもしれませ
ん」
「何にしても電車で一時間は、ちょっと時間がもったいない気がするねえ。あー、で
も、純にはちょうどいいか」
 にまっ、と笑い掛けられ、純子はきょとんとなった。
「何で?」
「移動中、睡眠に充てられる」
「そこまで寝不足に悩まされてないよー」
「休み時間、スイッチ切ったみたいにぱたっと寝てること、しょっちゅうあるくせに」
「あれは時間の有効活用と言ってほしい……」
 実際、寝ているところへ話し掛けられたら起きるのだから、という補足反論は心に仕
舞っておく。
「ま、移動時間はいいとしても、入場料が」
「あ、チケットの方は、私に任せて」
「だめだよ、純」
「まだ言ってないけど」
「私達の分を出すとか言うつもりじゃないの。いくら普通のバイト以上に稼いでいて
も、それはだめだよ」
「違うって。実はそのプラネタリウムの運営会社と、お仕事でちょっとつながりがあっ
て。割引券をいただいたの」
 ぼかして言った純子だが、その運営会社とはテラ=スクエアの関連グループだ。割引
チケットは白沼から直に渡された物で、「くれぐれも相羽君と二人きりで行くことのな
いようにっ」と、釘を刺されてもいた。尤も、今の白沼は二人の仲を一応、曲がりなり
にも認めてる訳だし、二人きりで行くな云々は、万が一にも芸能ネタになるのを避ける
ようにしてよねって意味らしい。
(マコと淡島さんが一緒なら、相羽君を誘って行っても問題なし、だよね)
 渡りに船という言葉を思い浮かべつつ、純子は結城らの反応を待った。
「……お金は自分で出す物と言った手前、非常に言いにくいわけですが。その割引券は
何枚あるの?」
「五枚。あ、でも、そもそも一枚で五名まで適用可よ」
「割引って何パーセントです?」
「えっと、七十パーセント引き。有効期限はオープンから一年。ただし、オープンから
半年間は、日曜を含めた休日のみ適用除外で使えない。混雑が予想されるからかな」
「おー、土曜ならセーフ。素晴らしい」
 結城は純子の両手を取り、「お世話になります」と頭を下げた。無論、わざとしゃち
ほこばって見せているのは純子にも分かってるのだが、元々もらい物なのだから、感謝
の意を表されても居心地がよくない。だから、言うことにした。
「白沼さんからもらったんだから、お礼なら白沼さんに言って」
「へえー」
「そういうことでしたの」
 結城と淡島は順に反応を示し、続いて白沼の席に目をやった。が、不在。純子はそれ
を承知の上で言ったのだけれど。

            *             *

 この場にいない白沼に代わってというわけでもないが、純子と結城と淡島の会話に、
じっと耳をそばだてていたクラスメートが一人いた。
(あの様子だと、相羽の奴、まだ言ってないな)
 自分の椅子に収まる唐沢は頬杖をつき、顔を廊下とは反対の方に向けた姿勢でいた。
聞き耳を立てていることに、勘付かれてはいないはず。
(ちょうどいいタイミングを計ってるに違いないけど。俺が口を挟むことじゃないかも
しれないけど)
 すぼめたままの口から、ため息を細く長く吐き出す。
(ああやって、相羽を誘って遊びに行く相談をしているのを聞くと、少し心が痛むぞ。
本人に聞かせてやりたい)
 相羽自身が純子達の先の会話を聞いたとして、その場で留学のことを打ち明けること
は、まずないだろう。それでも聞かせてやりたい。
(合宿までに伝えるつもりとか言ってたが、ほんとにできるのかね? ぎりぎりまで引
き延ばすつもりだとしたら、それはちょっとずるいぞ、相羽。相手にも考える時間てい
うか、気持ちを整理する時間をやれって)
 今度相羽と二人で話せるチャンスがあれば言ってやろうかと心のメモに書き留める。
ただ……それくらいのことを分からない相羽だとは考えにくいのもまた事実。
(早く決着してくれないと、俺まで気になるんじゃんか。おかげで、勉強も何も手に付
かねーよ)
 いざとなれば、俺の口から――と思わないでもない唐沢だが、実行に移すにはハード
ルが高い。高すぎる。
(そういえば)
 会話している三人の内、淡島に目を留めた。
(淡島さんは占いが得意なんだっけ。あの子に相羽の留学話を打ち明けて、占いの形で
涼原さんに伝えてもらう――)
 一瞬、悪くはないアイディアだと思えた。
(淡島さんがそんな芝居、できるかどうかは知らないが、涼原さんの受けるショックを
和らげる効果はあるんじゃないか。それに、相羽だって、直に打ち明けるよりは、気が
楽になるんじゃあ……)
 ただ、懸念がなくはない。
(涼原さんにしてみれば、相羽から自主的に話してほしいだろうなあ、きっと。女子の
気持ち、何でもかんでも分かるとは思っちゃいないが、これくらいは想像できる。占い
で示唆されて、相羽に確かめるなんて真似はしたくないに違いない)
 やっぱり、あんまりいいアイディアじゃないな。唐沢はこの案は捨てることにした。
(相羽から打ち明けるのを早めさせられたらいいんだが。あいつ、誰に背中を押された
ら、そうなるんだろう? 一番は母親だろうけど、でも、方法が思い付かん。俺が関与
できるのはクラスメート……白沼さんとか。確か今、彼女の親父さんだかの会社のキャ
ンペーンの仕事を、涼原さんがしているんだっけ。その線を突っつけばどうかな。涼原
さんがショックを引き摺って、仕事に影響が出たら迷惑だから、少しでも早く打ち明け
て!とか。……待てよ。それ以前に白沼さんて、相羽のことを完全にはあきらめていな
い雰囲気なんだよな。相羽の留学話を教えたら、彼女自身が動揺するかもしれん)
 状況を徒にややこしくするのは避けべき。賢い方法を見付けたい。
(あと頼れそうなのは、うーん、うーん……あ)
 不意に、一人の顔が浮かんだ。女子、でもクラスメートではなく、ここ緑星の生徒で
すらない。唐沢の幼馴染みで、ご近所さんだ。
(芙美。あいつにこのことを話したら、何かいい案を出すかな?)

――つづく




#518/598 ●長編    *** コメント #517 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/30  01:11  (449)
そばにいるだけで 67−4   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:13 修正 第2版
            *             *

「何、その紙袋は」
 町田に指差された唐沢は、右手をくるっと返して、紙袋表面のロゴが見えるようにし
た。
「鈴華堂の新作で、クロワッサン風どら焼き。芙美が好きそうだなと思って」
「……微妙」
 町田の視線が手元から上へと昇ってきた。唐沢の目にぴたりと照準、否、焦点を合わ
せる。
「クロワッサンと言えばバターたっぷりで、カロリー高そう。そもそも気味悪い。何の
狙いがあって、あんたが私に和菓子を買ってくるのよ」
「そりゃあ、久々の訪問になるから、手土産があった方がいいだろうなと思って」
「嘘。来るときに手土産を携えていたことなんか一度もなかったのが、急にこんな風に
するなんて、絶対に怪しい。何かあるわね。私の直感がそう告げている」
「とにかく入れてくれよ。玄関先で押し問答するほど、嫌われてるわけ、俺って?」
「……どうぞ。誰もいないから」
 言うだけ言って、先に入る町田。唐沢はそそくさと続いた。
「制服のまま来たってことは、学校帰り?」
「うん、まあ。家に、顔は出したけどな」
「それだけ急いで、ここに来るなんて、一体どんな用事よ」
「あー、話の前にお茶、入れてくんない? 俺もこの菓子、味見しておきたい。よさげ
だったら、他の女子に勧める」
「〜っ」
 文句を言いたげな町田だったが、黙ったまま唐沢をダイニングに通すと、自らはキッ
チンに立った。
「日本茶? コーヒー?」
「改めて問われると迷うな。洋菓子なのか和菓子なのか、はっきりしない物を買ってし
まった」
「コーヒーね。インスタントだと後片付けが楽だから」
 勝手に決めて進める町田。背を向けたまま、唐沢に問うてきた。が、その声とやかん
に水を満たす音が被さり、唐沢は聞き取れなかった。
「何て言った?」
「用事ってもしかして純子のこと?って聞いた」
「どうしてそう思うんだ」
「そりゃあ、今現在、あんたから私に直接関係のある個人的な用事があるとは考えにく
い上に、このお菓子」
 と、町田は紙袋から取り出した個包装のどら焼きを、皿にそのまま載せ、唐沢の前の
テーブルに置いた。
「鈴華堂の『すず』から、『涼原』を連想した。それだけ」
 そう説明されて唐沢も、無意識の内に鈴華堂へと足を運んでいたのかもしれないなと
感じた。
「で、当たってるのかしら」
 聞きながらコーヒーカップにお湯を注ぎ終えた町田は、テーブルまで慎重に運んで来
た。唐沢が目の前に置かれたカップに目をやると、お湯の量が若干、多かったようだ。
揺らすとこぼれかねない。
「当たってるよ。おかげで段取りが狂っちまった」
「段取り?」
 唐沢の正面に座り、自身の分の菓子を空けた町田は、手つきを止めて聞き返した。
「こっちの話」
 コーヒーを前に、“お茶を濁した”唐沢は、その段取りを練り直しに掛かった。元
は、以前に相羽の留学話が出た頃のことを話題にして、当時の相羽が純子に前もって打
ち明けるべきだったかとか、女子の気持ちとしてはどうされるのが最善なのかとか、そ
ういった話をしつつ、流れを見て、現在の留学について口外してみるつもりでいた。
(それなのに、涼原さんに関係することだと先に看破されちゃあ、やりにくいじゃない
か。かといって、他にきっかけはありそうになし。ここは一つ、正面突破で)
 心を決めた唐沢は、気持ち、背筋を伸ばした。相手を見据える視線も真っ直ぐにな
る。
「何よ」
 変に映ったのか、町田が速攻で聞いてきた。
「芙美は今でも口が堅いよな」
「うん? そりゃまああんたと比べたら」
「客観的にでも堅いだろう。そうと見込んで打ち明けるんだからな」
「――分かった。他言無用ね」
 唐沢の真っ直ぐさが伝わったか、町田も居住まいを正した。
「昔、相羽が外国の学校に行くかもって話があったのは覚えてるか」
「もちろん。居合わせたわけじゃないけれども、かなり驚かされたし、記憶に残って
る」
「そのときの縁が、今でも続いているらしいってのも分かってるよな。エリオット先生
のこととか」
「うん」
「どうやらその縁がまた強まったみたいなんだ。はっきり言えば、相羽の奴、J音楽院
への留学を決めたって、俺に伝えてきた」
「えええ? まじ? 担いでんじゃないでしょうね」
 途端に疑いの眼をなす町田。唐沢は肩をすくめ、大げさに嘆息した。
「驚きよりも疑いの方が大きいとは、よっぽど信用されてないのね、俺」
「だって、あまりにも突飛だから……」
「悪ふざけでこんなこと言わねえって。で、問題は、相羽はまだ言ってないんだわ、涼
原さんに」
「……おかしい。普通、恋人が一番でしょうに。何でまたあんたに」
「知らんと言いたいところだが、理由は一応ある。あいつが留守の間、涼原さんの護衛
役を頼まれた」
「え? できるの? 見かけ倒しのくせして」
「ひどいなあ。小学校のときの体育で相撲をやったとき、俺、いい線行ったんだぞ。ク
ラスで二番ぐらい」
「どういうアピールよ。あんたは小さな頃からテニスやってて、腕だけは筋肉ついてた
から、そのアドバンテージで勝てただけじゃあないの?」
「そういう説もある」
「まったく。護衛云々は分かったわ。相羽君が純子に言ってないのは確かなのかしら」
「俺に護衛を頼んできた時点で、まだ言ってなかったのは間違いない。その後は分から
ないが、打ち明けたなら涼原さんの態度に出ると思うし、相羽だって俺にそのことを知
らせてくると思う」
「……」
 カップに視線を落とし、沈黙した町田。その様子を前にして、唐沢も黙る。
(事情を把握したところで静かになるってことは、やっぱ、難しい問題なんだな。悪い
な、巻き込んでしまって)
 今からでも「嘘でしたー」とか言って、なかったことにしてやろうかという考えがよ
ぎる。もしそんな行動に出たら、ぶっ飛ばされそうだが。
「日にちは?」
 目線を起こした町田の質問を理解するのに、少しだけ時間を要した。
「うん? ああ、相羽が行く日ね。八月の早い段階のはずだ」
「あんまり時間ないわね。送別会すら開く暇がないかも」
「おいおい、心配するとこ、そこか?」
「うるさい。考えてるのよ。あんたとしては、どうしたいのよ」
「当然、相羽の口から早く伝えさせて、涼原さんに心の準備をしてもらいたい」
「基本的には賛成だけど……今、純はどのくらい仕事やってるんだろ?」
「俺に分かるわけが。てか、そんなこと気にする?」
「当然でしょ。ショックを受けた純が、仕事も何も手に付かなくなることだってあり得
る。そう危惧してるの」
 言われてみて、自分も多少は考えていたんだっけと内心で首肯する唐沢。表には出さ
ず、「その辺は、相羽のお袋さんがうまくやるに決まってる」と適当に答えた。
「それもそっか。相羽君の留学を認めた段階で、純子の仕事のことにも考えが及んでい
るはず。……でも、最終的には純子の気持ちの問題だわ。フォローが必要になるかも」
「あー、そんときは芙美ちゃん、頼む。他の二人――富井さんと井口さんも呼んで」
「気軽に言ってくれる。あーあ」
 テーブルに両肘を突き、組んだ手の甲側に顎を乗せた町田。
「そんなことよりも、相羽君に、純子へ打ち明けるよう促す方法よね。……純子の方に
それとなく仕向けて、純子から尋ねるように持っていく?」
「うーん、涼原さんから直接問われたら相羽も正直に言うだろうけど。それって事が済
んだあと、俺達涼原さんから恨まれないか? 知っていて隠していたのねって」
「恨みはしないでしょうけど、気持ちはよくないかも」
「そういうのは避けたいよな。……食わないのかな?」
 ほぼ忘れかけられていたクロワッサン風どら焼きを、真上から指差した唐沢。町田は
黙って、一口分をちぎり取った。
「……悪くはない。けど、やっぱりカロリーが気になる風味だわ」
「次はフルーツを使ったやつにでもするか」
「果物の糖分も、ばかにはできないのよ」
 唐沢もそのぐらい知っている。言い返そうと思ったが、またまた脱線が長くなるのは
考え物なので踏み止まる。
「さっき話に出た、相羽君のお母さんに促してもらうのが、一番安心できる線だと思
う。ただ、端から見て相羽君とこって、自主性を重んじる感じが強い気がしない?」
「まあ同意する。少なくとも俺のとこよりは」
「だから母親として、ぎりぎりまで待つんじゃないかな。いつがタイムリミットのライ
ンなのかは分からないけど」
「下手すると、相羽が涼原さんに打ち明けなくてもよし、旅立ってから伝えるとか考え
ていたりして。自主性を尊重するってのは、そういうことだろ」
「間接的に仕事への影響が予想されるんだから、さすがにそれはないと思う。……人の
心情を推測してばかりじゃ始まらないわね。いっそ、私達で相羽君のお母さんにお願い
してみる?」
「……そこまでやるのって、相羽を直にせっつくのと変わらない気がするぞ」
「じゃあ、そうしようじゃないの」
「ん?」
「あんた、純子から恨まれるのは嫌でも、相羽君からならちょっとくらい恨まれたって
平気でしょ?」
「平気じゃないが、『これまでいい目を見てるんだから、ちったぁ悩んで苦しめ!』く
らいは思ってる」
 割と本心に近いところを吐露した唐沢。町田は口元で意地悪く笑ったようだ。
「それなら、こういうのはどう? 相羽君を早く知らせざるを得ない状況に持ってい
く。例えば、『純子が、相羽君のお母さんが海外留学の本を持っているのを見て、気に
なっているみたいなの。何かあるんだったら、早くきちんと言った方がいいんじゃな
い?』とか」
「うむ。効果はありそうだが、直球勝負だな」
「今のは即興だから。もっと遠回しに、純子の目の前で、誰か男子が相羽君に九月以降
の予定を聞く場面を作るってのもいいんじゃない? 曖昧に返事するだけの相羽君を目
の当たりにして、純子は妙に思って聞く」
「うーん、そっちの方がましかな」
 チャンスがあれば試してみよう。でも、留学話を知っている自分が相羽の前で知らん
ぷりして予定を聞くわけにはいかないので、誰かに頼む形になる。
「実行に移すのなら、早めにね」
 唐沢の頭の中を覗き見たかのように、町田が言った。
「早くしてくれないと、私、言ってしまいそうだわ」
「おい、他言無用だからな」
「分かってるわよ。正直言って、久仁香達でさえ、相羽君が海外留学するって知ったら
泣くかもって思う」
「――それなんだけど、白沼さんはどうなんだろ」
「うん? 泣くかどうか? 知らない。ただ、人づてに知った場合、真っ先に相羽君の
ところに飛んで行って、確認しそうだわ。それか、純子に詰め寄る。『何でしっかり引
き留めておかないの』とか何とか言って」
 容易にその場面が想像できて、ちょっと笑った。
「ありがとな。相談に乗ってくれて。参考にさせてもらう」
「どうぞどうぞ。私だって、今まであの二人には何かと気を遣わされて、その挙げ句に
幸せにならないってんじゃ許さない。そういう気持ちあるからね」
 意見の完全な一致をみた。唐沢は言葉にこそしなかったが、思わず微笑んでいた。

            *             *

 VRのプラネタリウム体験は、想像していたのとは違ったところもあったが、充分に
楽しめた。宇宙旅行をしているような気分を満喫できて、でも映像酔いを起こすような
ことはなく、これならしばらくはお客さんが途切れることはなさそう。
「それで……」
 相羽は懐中時計を仕舞いつつ、面を起こした。エントランスホールは人の入れ替わり
の波が起きていて、下手に動くと離ればなれになりそうだし、突っ立っていては邪魔に
なる。だから、純子達四人は壁に半ばもたれかかるようにして横並びに立っていた。
「このあとはどうする予定なの?」
 前々日、女子から急に誘われた相羽は、今日の行程について何も聞かされていない。
「帰りの時間を計算に入れると、たっぷり余裕があるわけじゃないけど、折角だから話
題のスイーツでも」
 隣に立つ純子を二つ飛び越え、結城が答える。
「厳密には、みつき前まで話題になっていた、今は流行遅れのスイーツです」
 間にいる淡島が付け足す。それにしても、身も蓋もない。
「でも、二人きりになりたいと言うんだったら、私達だけで行ってくるわ。帰りはまた
合流になるけどね」
 結城がからかい混じりの口ぶりで水を向ける。純子は思わず、「マコ!」と声を上げ
た。
 一方、相羽の方は案外冷静なままで、「いや、それはまずいでしょ」と第一声。
「今日は元々、純子ちゃんが先延ばしになっていた遊びの約束を果たすため、結城さん
と淡島さんを誘ったと聞いたよ。だったら――」
「純子ってば、そんな誘い方をしたの。ばか正直に言う必要なんてないのに」
 今度は呆れ口調になる結城。淡島も追随する。
「そうですわ。こちらとしては、二人きりになったところをこっそり追跡して、覗き見
するつもりでしたのに」
「嘘!?」
「半分ぐらい嘘です」
 残り半分は本気だったのねと、苦笑顔になる純子。
「あのー、そろそろ人も減ってきて、動きやすいタイミングなんだけどな」
 相羽は結城とは別の意味で呆れ口調になりつつ、促した。そして再び時計を見やる。
「さっきから時間を気にしてるみたいだけど、早く帰りたいとか?」
 目聡く言ったのは結城。純子が気付けなかったのは、今ちょうど相羽が斜め後ろにい
る形だから。
「いやいや、そんな失礼なことは。もしも行くところが決まってないのなら、行きたい
場所がなきにしもあらずだったから。問題は、一定時間を取られるのと、必ずカレーラ
イスが出される」
「カレー?」
 今日は土曜で、プラネタリウムに来る前、もっと言えば電車に乗る前に昼食は済ませ
ている。そこそこ時間が経っているものの、カレーライスが入るかどうかは微妙なお腹
の空き具合だ。
「いいじゃない。スイーツはパスして、そっちに興味ある。もしかして、相羽君の定番
デートコースだったり?」
「残念ながら外れ。何たって、忙しい純子ちゃんと来るにはちょっと遠いから」
「それよりも、そのお店だか施設だか、お高くはありません? 開始時間が定められて
いるとはつまり、何らかの催し物があると想像できるのですが」
 淡島が恐る恐るといった体で尋ねる。
「そもそも、何のお店なのかを聞いていませんし」
「あ、マジックカフェだよ。学生千円」
 千円ならどうにかなる。それよりも、マジックカフェというあまり聞き慣れない名称
の方が気になったようだ。純子が聞く。
「多分だけど、マジックを見せてくれるカフェ?」
「うん。マジックバーのカフェ版。ほんとに行く気になってるんなら、動こうか」
 異論なしだったため、壁際から離れて外に向かう。
「予約とかチケットとかは?」
 先頭を行く相羽に着いていきながら、結城が尋ねた。
「必要なし。必要なタイプの店もあるみたいだけれども、これから行くところは大丈夫
だよ。満席だったら、少し待たされるかもしれないけれどね」
「相羽君は行ったことがあるの、そのお店に」
 今度は純子がちょっぴり尖った調子で聞く。連れて行ってもらったことがないのが不
満なのではなく、他の誰かと一緒に行ったなんてことになると、少しジェラシーを感じ
てしまうかも。
「ある、だいぶ昔に母さんと」
 地下鉄駅への階段が見えてきた。そこを下り始める。
「え。それって何年前?」
「だいたい五年前。大きな買い物のついでに寄ってもらったんだ」
「待って、ちょっと心配になってきた。五年前に行ったきり?」
 先を行く相羽のつむじを見つめる純子の目が、不安の色を帯びる。が、明るい返答に
その色はすぐに消えた。
「今も店があるかどうかって? 一応調べておいた。値段も変わらず、営業中だった
よ」
 相羽の言う駅までの乗車券を買って、程なくしてホームに入って来た車輌に乗る。三
駅先で実際の距離も大したものではないようだから、時間に余裕があれば歩きを選ぶだ
ろう。灰色の壁面を持つ、飾り気のないビルが見えたところで相羽が言った。
「あのビルの三階に入ってる店なんだけど、そういえば昨日調べたときに、隣は占いの
店になってたっけ。淡島さん、興味あるならあとで寄る?」
「お心遣いをどうもすみません」
 歩きながらぺこりとお辞儀する淡島。
「時間があるようでしたら、寄りたいと思います。でも本日はお二人のことが最優先で
すから」
 これには純子が反応する。
「いいよいいよ。こっちはマコと淡島さんのために今日を使おうと思ってるんだから」
「先程のプラネタリウムまでで充分です」
「私の気が済まない」
 歩みを止めそうになる二人を、相羽と結城が後ろに回って押した。
「はいはい、時間が勿体ない。ていうか、相羽君、間に合いそう?」
「うん、余裕。お客さんも少なそうだし」
 確かに、土曜の午後、往来を行き交う人の混み具合に比べ、ビルを出入りする者は皆
無と言っていい。
 重たいガラスの扉をして中に入ると、意外にも?空調がちゃんと効いていた。左手に
あるフロア毎の図で念のため確認してから、エレベーターに。三階に着いて降りると、
そこそこ人がいた。それまでは幽霊ビルなんじゃないかと感じさせるくらい静かだった
め、ちょっと安堵。尤も、人々のお目手当はマジックカフェ『白昼の魔法』でもなけれ
ば、占いの店『クロス』でもないようだ。フロアの大半を占めるゲームコーナーと、奥
まった場所にある市民講座か何かの教室に人が集まっている。
「何時に入ってもいいんだけど、九十分の時間制……でいいのかな」
 小さな頃の記憶だけでは不安に感じたか、相羽は店先まで小走り。壁に掲げてある板
書の説明に目を通す。
 その間、純子達は隣の占いショップに目を向けた。
「占い師がいて占うだけでなく、関連グッズもあるみたいだね」
「占い師は日替わり……今日は違うみたいですが、一人、かなり有名な方がいます。
マーベラス圭子師は著書が多く、テレビ出演も何度かあるはずです」
 さすがに詳しい淡島。ただし、その有名占い師が今日の当番ではないことを、さほど
残念がってはいないようだ。
 と、そこへ相羽が戻ってきた。
「今なら貸し切り状態。入店すれば、すぐにでも始めてくれるって」
「いいんじゃない?」
 純子が女子二人に振り返る。すると、淡島が急にきょどきょどし出した。
「うん? どうかした?」
「あ、あのう。お客さんに手伝わせるマジックは苦手です。それはなしということで…
…」
 貸し切り状態と聞いて不安を覚えたようだ。
「絶対にないとは言い切れないけれども、あったら僕が引き受ける。アシスタントは女
性がいいと言われたら、純子ちゃんか結城さんに頼む」
「もちろんかまわないわよ」
 ようやく入店。中は昼間だというのに、カーテンをほぼ閉め切っている。照明も豊富
とは言えない。その雰囲気のせいで、若い女性店員のいらっしゃいませの声までも明る
い調子なのに、獲物を待ち構える獣の冷笑を伴っているかのように届く。
「何名様ですか」
 手振りを交えて四名であると伝えると、先払いでお会計。次にテーブル席がいいかカ
ウンター席がいいかを問われた。カウンター席は、バーなどでもよく見られるタイプ
で、細くて高いストールが並んでいる。テーブル席は、通常のファミリーレストランや
喫茶店などで見られる物よりは低く、椅子もソファだ。
「カウンターの方がステージに近い反面、お客様同士が重なって並ぶため、手前の席の
方ほど見えにくくなるかもしれません」
 店員のそんな説明を受け、純子らは眼で短く相談し、「じゃあテーブルでお願いしま
す」と答えた。その頃には、フロア全体を照明が行き渡り、最初より随分明るくなって
いた。
 着座するとおしぼりを出されると同時に、カレー及びドリンク二杯分の注文を求めら
れた。それぞれ数種がラインナップされている。カレーはルーの違いだけで、トッピン
グの類はない。ドリンクは昼専用のメニューなのか、アルコール飲料はなかった(あっ
ても純子達は注文できないけど)。
「どうしよう、ココナツミルク入りカレーに惹かれる」
「いいんじゃないの。言っておくけど、胡桃みたいなナッツが入ってるわけではない
よ」
「分かってるって。胡桃好きだからって選んだんじゃないんだから」
 純子と相羽のそんなやり取りを見せられ、結城と淡島は顔を手のひらで扇ぐ仕種に忙
しい。
 注文が決まったところで女性店員がカウンターの向こうに引っ込み、代わって薄手の
眼鏡を掛けた男性店員が出て来た。年齢は、大学生かもうちょっと上くらい。顔立ちは
優しげだが後ろに撫で付けた髪が多少はワイルドな雰囲気を加味している。お客に舐め
られないようにするためかもしれない。ところが口を開くと、その声は顔立ちにも増し
て優しげかつ頼りなげだった。
「はい、では、お食事を出せるまでの合間に、まずはご挨拶代わりに始めさせていただ
きたいのですが、あ、私、卓村欽一(たくむらきんいち)と申します。覚えなくてもい
いですよ、名刺をお渡ししますので」
 愛想のよい笑みを浮かべた卓村は、カードを配るときみたいに名刺大の紙を四枚、
テーブルに置いた。それはしかし名刺にしては変だった。名前が印刷されてしかるべき
箇所に、一文字しかない。しかも四枚とも異なる漢字だ。それぞれに「卓」「村」「
欽」「一」と書いてある。
「おっと、失礼をしました。慌てて、試し刷りの分を出してしまったようで。すみませ
ん」
 卓村は四枚の紙を集めて回収。手のひらで包み込むように持つと、トランプのように
扇形に広げた。すると最前までの漢字が消え、卓村欽一と記された名刺になっていた。
 純子達は拍手を送った。
「これでよしと。では改めまして、お受け取りください」
 卓村にそう言われても、しばらく手を叩き続ける。挨拶代わりでこの鮮やかさ。続く
演目にも期待が高まる。
 もらった名刺をためつすがめつしてみるも、種は分からない。
「あー、あんまり見ないで。種がばれたら恥ずかしい。皆さんは高校生ですか?」
「はい」
 純子と結城の返事がハモった。
「今まで、マジックを生で観たことはあります?」
 卓村の目線が結城に向く。結城はちょっと小首を傾げて間を取り、「プロはないで
す」と答えた。
「えっ、ということはアマチュアならあると。もしかして、皆さん奇術クラブか何か
で、やる立場だったりするなんて」
「いえいえ。やるのは一人だけ」
 結城が相羽を指差し、純子と淡島も目を向ける。
「あ、そうなんだ。じゃあ、詳しいんだろうなー。種が分かっても、女子三人には教え
ないでね」
「もちろん。それ以前に見破れないと思いますけど」
「うわ、ハードル上げられたなあ。それじゃあ予定していたのと違うのを……」
 その言葉が真実なのかは分からない。卓村は紙のケースに入ったトランプカード一組
をポケットから取り出し、皆に示した。次いで中から本体を出し、表面を見せる。新品
ではないからか、順番はばらばらだ。
「ヒンズーシャッフルをするから、好きなタイミングでストップを掛けてください」
 言われた相羽が頷くと、シャッフルが始まる。五度ほど切ったところで、相羽が「ス
トップ」と声を発した。卓村はその状態で手の動きを止め、左手にあるカードの山を
テーブルに置き、次にそこに十字になるよう、右手に残るカードの山を重ねる。
「さて、ちょっとした個人情報を伺いたいのだけれど、だめだったらはっきり断ってく
れてかまいません。彼女達三人の中で、一番親しい人は?」
「それは」
 多少の躊躇のあと、隣に座る純子に顔を向けた相羽。純子はそれなりに手品慣れして
いるため、何か来るかと身構える。が、卓村は穏やかな調子のまま話し続けた。
「そうですか。正式にカップルかどうかまでは聞きません。では、さっきストップと言
って分けてもらったここ――」
 と、十字になったトランプの上の部分を持ち上げる。全体をひっくり返し、その底に
あるカードを全員に見せた。スペードの6だった。卓村は空いている手でポケットから
黒のサインペンを出し、相羽に渡す。それから「このカードにささっとサインしてもら
えますか」と、右手のカードを山ごと持ったまま、相羽の前にかざした。
「名前でなくても、目印になる物なら何でもかまいません。このカードを特別なスペー
ドの6にするためですから」
 相羽が記したのは馬の簡単な絵だった。
(……愛馬の洒落?)
 相羽の横顔を見ながらそんなことを感じた純子だったが、もちろん声には出さない。
「はい、どうもありがとうございます。このカードはこうして裏向きにして、よそに分
けておきましょう」
 カードを手の中で裏返した卓村は、言葉の通り、テーブルの端にそれを置いた。
「今度はあなたの番ですよ」
 純子に話し掛けた卓村は、最前と同じようにシャッフルをし、止めさせた。先程と違
って、十字に置くことはせず、ストップした時点で右手のカードの山を表向きにする。
現れたのは、ハートの8。これまた同じく、純子がサインをする。ここは流麗なタッチ
でさらさらと。
「お、芸能人みたい」
 おどけた口ぶりを挟む卓村。純子が本当にタレント活動をしていることは知らないら
しい。結城が忍び笑いを浮かべるのが純子から見えた。思わず、しーっの仕種。
 そんなやり取りを知ってか知らずか、卓村のマジックは続く。右手にあった表向きの
カードの山に、名前の入ったハートの8をそのまま見える形で適当に押し込む。さっき
取り分けた相羽のカードは、裏向きのまま、もう一つの山に差し込まれた。さらに二つ
の山を、全体で裏向きになるように重ね、軽くシャッフル。
「これでお二人のカードはどちらも、どこにあるか分からなくなった」
 純子達が首を縦に振ると、それを待っていたみたいに「――と思うでしょ。実は違う
んだな」とマジシャン。カードの山をテーブルに置き、まじないを掛けるポーズを取
る。
「まずは君から」
 相羽に視線をやったあと、「来い! 姿を現せ!」と叫んだ。その拍子にカードが飛
び出す……なんてことはなく、卓村はカードの山に手をあてがい、横に開いていった。
当然、裏向きの柄が続く。が、その中に一枚だけ白が見えた。指先で前に押し出すと、
スペードの6と分かる。相羽による馬の絵もある。
 女子三人から「うわ」「凄い」「こんなのあり得ないわ」と驚きの声が上がる中、卓
村は表向きにカードの山を揃えた。テーブルに残ったスペードの6を指差し、純子に
「じゃあ、あなたの番です。そのカードを好きなところに押し込んでください」と指
示。純子は右手人差し指と親指とで端を摘まみ、スペードの6を山の中程に差し入れ
た。
 卓村はずれを修正しつつカードの山を裏向きにしてテーブルに置く。
「さあ、ハートの8も、恥ずかしがらずに顔を見せて。来い!」
 まじないポーズとかけ声を経て、再び、カードの山を横へと扇に広げていくと……
ハートの8だけが表向きになって現れた。言うまでもなく、純子のサイン入り。
「嘘でしょ」「分かんなーい」「だからあり得ないって」
 女子三人が騒ぐ横合いで、例によって相羽は驚いているんだかどうだかはっきりしな
い。が、目を見れば感心しているのは分かる。
 驚きの反応が収まったところで、卓村が告げる。
「ここまで、マジックだと思って観てこられたでしょうが、実は占いでもあるんです
よ」
 占いと聞いて、ぴくりと身体が動いた淡島。さっきよりも身を乗り出している。
「占いの結果を示すために、あなた、手のひらを上向きにして、右手を出してくださ
い」
 言われた純子がその通りにすると、卓村は相羽にも同じ指示をした。厳密には右と
左、手のひらの上下は違っていたが。
「これからこのハートの8を彼女の手のひらに置きます。君はカードを挟むようにし
て、彼女の手を優しく握ってください」
「はあ」
 表向きに置かれるハートの8。そのサイン入りカードを相羽の左手が覆い隠す。
「もう少し強く握って。そう、バルスと呪文を唱えるアニメ映画ぐらいには強く」
 マジシャンのジョークに苦笑しつつ、純子は相羽の手から伝わる力が強まったのを感
じた。
「そのままの姿勢をキープして。そちらのお二人も冷やかしの目で見ないようにね。よ
い目が出るかどうか、大事な分かれ道だから」
 淡島と結城にも注意を促すと、卓村は残りのカードの山を左手に持ち、その縁に右手
指先を掛けた。そしてカードをぐっと反らせる。狙いは相羽と純子の重ねた手。
「この中にある彼のカード、スペードの6を飛ばします。ようく見ていて……」
 一瞬静寂が訪れ、コンマ数秒後にマジシャンが右手をカードから離す。ばさばさっと
短い音がして、カードの反りが戻った。
「……何にも飛んでないような」
 結城が最初に口を開く。淡島はうんうんと頷いた。
「あれ? 見えませんでした?」
 卓村は相羽と純子の方を見た。
「お二人も? たとえ目で捉えられなくても、感触に変化があるはずなんだけど」
「いえ、特に何も……」
 純子は答えて、ねえ?と相羽に同意を求める。相羽も「感触は同じままですね」と微
笑交じりに卓村に答えた。
「さてさて、困ったな。まあいいや。手のひらを開けてみれば、結果は明らか。まさか
失敗ってことはないと思うけど、万が一失敗だったら、より仲よくするようにご自身で
努力してね」
 身振りで促され、相羽は左手をのける。四人の観客の視線が、カードに注がれた。純
子の右手にあるのは相変わらず、ハートの8だけ。四人の視線は卓村へ移った。
「おっかしいな。よく見てみて。一枚に見えるけれど、二枚がぴったり重なっているの
かも」
「そんなことは」
 純子は左手でカードを持ってみた。指を擦り合わせるようにして確かめるも、やはり
一枚しかない。と、その目が見開かれる。
「――わ!」

――つづく




#519/598 ●長編    *** コメント #518 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/30  01:12  (363)
そばにいるだけで 67−5   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:29 修正 第3版
 純子が放り出したハートの8はひらりと舞って、テーブルに裏向きに着地。そこには
裏の模様ではなく、スペードの6が。相羽の手書きの馬もしっかりと描かれてある。
「これは」
 相羽がカードを拾い上げ、改めて一枚であることを確かめた。片面がハートの8、片
面がスペードの6でできた一枚のトランプカード。
「これは素晴らしいですね」
 結城と淡島にカードを回してから、相羽は感想を述べた。
「ありがとうございます。結果も気に入ったでしょうか? それぞれ選んだカードが一
枚になって、お二人は離ればなれになることはない、と」
(あ、そういう意味だったのね。驚くのに忙しくて、気付かなかった)
 頬を両手で押さえる純子。赤くなっているであろう肌を隠す。
 右隣の相羽も占いのニュアンスにまでは思い至っていなかったのか、遅れて「……そ
うですね」と答えた。
「――分かりましたわ」
 と、不意に手を打ったのは淡島。
「え? 種が分かったの?」
「いえいえ。そんな眼力、私にはございません。占いというのはジョークだったんです
ね」
 彼女の受け答えに、マジシャン以外がきょとんとなる。逆に、卓村はほっとしたよう
だ。
 淡島は両表になったカードをちょんちょんとつついて言った。
「ハートの8とスペードの6、どちらも表で裏がなくなった。つまり、うらない、で
す」
「ああ、オチを言われてしまった」
 卓村が片手で目元を覆い、天井を仰いだところで、挨拶代わりのマジックは終了。卓
村は下がり、最初に応対してくれた女性店員が四人の前にドリンクとカレーを運んでき
た。
「ご注文は以上で間違いないでしょうか」
 にっこりと微笑みかける女性店員。結城一人が異を唱えた。
「あのー。メニューは間違ってないですけど、私のスプーン……」
 見れば、彼女の握るスプーンはくにゃくにゃに曲がっていた。
「あ、これは失礼をいたしました。超能力マジックで使用した物が、紛れ込んでしまっ
たようです」
 女性店員は曲がったスプーンを結城から返してもらうと、奥に交換に行く――と見せ
掛けて、再度向き直る。
「お一人だけ食べ始めるのが遅くなるのもよくないですよね。こうする方が早いかと」
 店員が左手に持ったスプーンを何度か振って、右手で撫でるような動作をした。右手
が退けられると、曲がっていたスプーンが真っ直ぐに。
「おー」
 結城も他の三人も拍手を贈る。一礼した女性店員から、スプーンを受け取ろうとする
結城の前で、今度はスプーンがぐーんと長く伸びた。いちいち驚かされてしまって、目
を離せず、なかなか食べ始められない。
「すみません。余計な魔法まで掛けてしまいました。これでも使えなくはないですが、
あちこち触ってしまったので、取り替えますね」
 前掛けのポケットから先端を紙で包んだスプーンが登場。女性店員から「はい」と渡
される結城だったが、警戒してすぐには手を出さなかった。
「このスプーンには、何もございません。しばらくの間、お食事をお楽しみください。
あちらの店内モニターにはマジックショーの映像が流れますので、よろしければどう
ぞ」
 ほぼ正面に位置するモニターは、プロジェクター用のスクリーン大ぐらいあり、やや
粗い画像だったが、マジックの模様が映し出されていた。
「翻弄されっぱなしで、もう疲れてきたわ」
 結城がため息を吐き、カレーを一口食す。
「あら、意外と行ける」
「基本レトルトで、メニュー毎に様々なエキスを足すんだって、前に来たとき聞いた
な」
「キッチン事情の種明かしはしなくていいよ」
 純子が笑い交じりにたしなめると、「じゃあ、マジックの種明かしをしろって?」と
相羽に返された。
「そんな無粋は言いませんよー。でもまあ、分かったのかどうかだけは聞きたいかな。
特にカードが一枚にくっつくやつ」
「私も知りたいです。種が分かったとしたら、再現できます?」
「淡島さん、それって暗に、再現してくれと言ってる?」
「はい、遠回しに」
 遠回しと明言すると、遠回しではなくなる気がするが。
「うーん……ちょっと待ってて」
 相羽は食べる手を止め、しばし考えていた。なかなか答を言い出さないところを見る
と、やっぱり難しいのだろう。
「相羽君がマジックを嗜むって言ったおかげで、さっきの人、難しい演目に変更したみ
たいだけど、元々は何をするつもりだったのかな」
「スプーンを使うのがあるくらいだから、ドリンクのストローとかグラスを使った何か
かも」
「もっと簡単そうな……指が切れたり伸びたりするのとか、首が三百六十度回ったりす
るのとか?」
 純子達女子三人で勝手なことを言っていると、それがおかしかったのか相羽が考える
のを止めて話に加わる。
「僕が小さな頃に来たときは、輪ゴムのマジックだった」
「輪ゴムでマジックって何かあったっけ」
「えっと。簡単なのでよければ、こういうやつ」
 相羽はポケットをまさぐって、茶色の輪ゴム二本を取り出した。一本を左手の人差し
指と親指に掛け、もう一本をそれと交差させてから、右手の人差し指と親指で保持す
る。
「ほんとは色違いの輪ゴムを使うべきなんだけど、持ち合わせがないから勘弁。二本の
輪ゴム、間違いなく交差して、引っ張っても抜けることはない、よね」
 口上に合わせ、両手を左右に引く相羽。輪ゴムは伸びるだけで、交差が解かれること
はない。
「ところがこうして何度か同じことをやっていると」
 手を動かし、輪ゴムを伸ばしたり戻したりする相羽。と、急に動きを止め、輪ゴムの
交差部分に注目するよう、皆に言った。注目を得たところで、ゆっくりと手を動かす。
また伸びると思われた輪ゴムだが、そうはならず、一本ずつに分かれてしまった。何と
いうか“ぬるん”と擬態表現したくなるような現象だ。
「お、やるじゃない」
 結城が小さく手を叩いた。淡島は目をぱちくりさせている。
 純子はすでに見せてもらったことのある演目であったのだが、何度演じられても不思
議に見える。
「自分ができるのはこれだけなんだけど、店の人がやったのはもっと複雑なのが含まれ
ていた。もちろん当時とは違う人だからね、今日も輪ゴムマジックをやる予定でいたの
かどうかは分からない」
「私にとっちゃ輪ゴムのマジックでも充分に驚けるわ。その輪ゴム、特殊な物じゃない
のよね?」
 結城が不審の目つきをするので、相羽は輪ゴムを二本とも渡した。結城はその内の一
本を、目の前で引っ張ったりすかし見たりして調べる。と、強く引っ張ったせいなの
か、輪ゴムが切れてしまった。「あ! わ、ごめん」と慌てる結城に、相羽は首を横に
振った。
「いいよ。正真正銘、どこにでもある普通の輪ゴムなんだから」
「むぅ……それなら安心。だけど、それってつまり種がないってことかぁ。テクニック
だけでできるんだ?」
「まあ、そういうこと。ネット検索をしたら多分、分かるよ」
 カレーを食べ始めてからおよそ十五分が経ち、あらかた済んだところへ店員が来て、
食器を下げた。ドリンクも二杯目の物が新たに置かれる。さすがにこんなときまでマジ
ック的な仕掛けはなかった。食器が割れたら困るからかもしれない。
 そのあと、卓村が再登場。「またマジックでご機嫌伺いをしたいと思います」と寄席
芸人めいた入りから、ペットボトルを使ったマジックを披露。四人全員がサインしたト
ランプカードが、未開封のペットボトルの中に入ってしまうというポピュラーな演目だ
が、テレビ番組などと違い、この至近距離で観てもさっぱり分からないため、驚きが減
じられない。むしろより大きくなったかも。
 続いて、自分も超能力マジックが使えるんです、スプーンは曲げられないけれど云々
と前置きして、フォークをくにゃくにゃと曲げた。四つに分かれたフォークの先を、そ
れぞれ別の方向に曲げて、しかも捻るという一見すると本物の超常現象かと思える。
 最後にはフォークを元の形にして、次のマジックにつなげる。観客の一人から大事な
物を借りて、四つの紙袋の内の一つにマジシャンには分からぬよう隠してもらい、大事
な物が入った袋以外を次々にフォークで突き刺すという演目。なお、“大事な物”とし
て供されたのは相羽の懐中時計だったが、傷一つ付けられることなく無事戻って来たこ
とは言うまでもない。
 卓村最後の出し物は、トランプを使った定番のカードマジックだった。一枚のカード
を選ばせて、クラブのキングと言い当てた後、そのクラブのキングを観客に目で追わせ
る演目のオンパレード。山の一番上に置いたと思ったら二枚目になっていたり、逆に山
の中程に入れたはずなのにトップに上がってきたりと、これもテレビ等でお馴染みのマ
ジックだが、間近で見せられると凄さや巧みさがより一層伝わってくる。
 クラブのキングの彷徨いっぷりはエスカレートし、テーブルの端に一枚だけ別個に置
かれていたり、卓村のネクタイに貼り付けてあったり、同じく卓村の眼鏡に差してあっ
たりと、手を変え品を変えしてきたが、いずれも純子達は気付けなかった。最終的に、
淡島の座るソファの隙間から出て来た。さすがにこれは前もって仕込まれていたと想像
できるのだが、それを認めると、じゃあどうやって最初にクラブのキングを引かせるこ
とができたのかが分からない。
 純子らが手が痛くなるくらいに拍手して興奮冷めやらぬ内に、卓村は「このあと、真
打ち登場です。約三十分のステージマジックをご堪能ください」と言い残して引き下が
った。
 感想を述べるほどの間はなく、正面のスクリーン型モニターが機械音と共に引き上げ
られ、ステージが見通せるようになった。舞台袖から登場したのは、相羽らが入店して
からまだ一度も姿を見せていなかった、お洒落な顎髭のマジシャン。彫りの深い顔立ち
に加え、大げさな黒の燕尾服とシルクハットのせいで、魔術師と呼ぶ方がふさわしそう
だ。
 演者は自己紹介の前に手から次々とトランプを出してみせた。この辺で終わりだろ
う、もう出ないだろうというタイミングで一度手を止め、また次々にカードを出して宙
を舞わせる。左右どちらの手からも出現するし、両手を組んだ状態でもカードは現れ
た。しまいには脱いで逆さにしたシルクハットから、大量のカードが滝のように流れ落
ちる。
 ステージ上は当然、カードが散乱して足の踏み場がないほどに。卓村ら店員達が出て
来て、モップで片付けていく。
「えー、この間を利用して、挨拶をさせてもらいます。初めまして、ダンテ伊達(だ
て)と申します。濃いめの顔なのでたまに誤解される方もいらっしゃいますが、もちろ
ん芸名で、西洋の血が混じってることもありません。あしからず」
 散らばったカードが片付けられ、ステージの片隅には一本足の台が置かれた。卓上に
は直方体の箱や透明なグラス、花瓶など小道具がいくつか。伊達は空いたスペースにシ
ルクハットを載せると、次の演目に取り掛かる。
「先程お見せしたのは、マニピュレーションと言って基本的に、指先のテクニックだけ
で行う奇術です。あ、基本的にと言ったのは色々組み合わせたり、カードの補充にあれ
したりと事情があるので。嘘をつけない性格なもので、白状しておきます。それで、店
の者から聞いたところだと、皆さんはそこそこマジックに詳しいとか」
 四人まとめて言われるとどう返事していいのか困る呼び掛けだが、ここは結城が率先
して「私達は観る専門で、やるのは彼だけ」と相羽を指し示しておいた。
 伊達は承知しているという風に頷き、「何かに気付いたり変な物がちらりと見えたり
しても、やってる間は言わないで。これ、マジシャンとお客との大事な約束」と指切り
のポーズをした。
「さて、そういったマジック慣れした人達に、同じようなネタを見せてもつまらないで
しょう。折角準備したのだけれど、取り外します」
 そう言って伊達が宙を掴むと、右手の指先には金色に光るコインが一枚現れた。台を
引き寄せそこにある花瓶の中に入れると、ちゃりんと音が響く。と、次に左手で宙を掴
むとまたコインが。花瓶に入れるとちゃりん。これを繰り返して、何枚もコインが出現
する。途中、ステージを降りてテーブル席まで来た伊達は、淡島の肩口、結城の耳元、
純子のつむじ、そして相羽の飲み物のグラスの底からコインを出してみせた。
「コインはこれで多分片付いたと思うんですが、まだ他にも仕込んでまして」
 テーブルに右手のひらを押し当てる伊達。そのまま前後に擦る動作をすると、赤い球
が現れた。布か何かでできているようだが、手の中に簡単に隠せるとは思えない大きさ
になる。左手でも同じことをすると、今度も赤い球が出て来たが、右とは異なり、小さ
い。ただし数がやたらと多かった。三十個ぐらいあるだろうか、あっという間にテーブ
ル上に溢れ、転がった。
「それから、これも出しておかないと」
 ステージに戻った伊達は、今度はCDかDVDのディスクと思しき銀色の円盤を手か
ら出した。あんな固そうな物を次々に出現させ、マジシャンの手は赤、青、黄、緑……
とカラフルなディスクで一杯になる。それらを台に置くと、またディスクを出し、今度
は手の中で色がチェンジするおまけ付き。八枚出したところで一揃えにしたかと思う
と、自身がくるりと一回転。観客の方を向いたときにはディスクは巨大な一枚になって
いた。
「これで全部出し切ったかな。――あ、いや、もう一つだけ、最初のトランプで忘れて
おりました」
 口からトランプを出す一般にも有名なネタで、一連の演目を締める。
「ふう。やっと身軽になった。これでやりやすい。ところで皆さんは、お花と蛇、どち
らが好きですか」
 唐突な質問に戸惑う一行。一拍遅れて、「そりゃまあ、花になるでしょう」と相羽が
答える。
 伊達はふむと首肯し、花瓶を手に取った。逆さに振ってコインを取り出すのかと思っ
たら、花が五、六本ととぐろを巻いた蛇のおもちゃが出て来た。さっき入れたはずのコ
インは? 疑問を見て取ったらしい伊達は、蛇のおもちゃの首根っこを押さえて言っ
た。
「ああ、さっきのコインならこの蛇が飲み込んでしまったようだ。ほら」
 空のグラスに蛇を傾けると、その口からコインがあふれ出た。グラスを五割方埋めて
止まる。
「蛇はお嫌いとのことなので、使わないと」
 そう言うなり、蛇のおもちゃを観客席に向けてアンダースローのように投げる格好を
した伊達。次の瞬間、蛇のおもちゃはつーっと空中を泳ぐように伝った。勢いがあっ
て、まるで生きているかのよう。テーブルの端まで来て止まった。前触れなしに目と鼻
の先に蛇が来て、さしもの相羽もソファごと数ミリ後ずさり。
「び、びっくりした」
 この日初めて驚きを露わにした相羽に、伊達は満足げな笑みを浮かべ、髭をひとなで
した。
「その蛇は差し上げます。嫌いなら置いていってもかまいません」
「いただきますよ。面白い」
 相羽が手を伸ばすと、蛇のおもちゃはことっと音を立てて、横倒し?になった。今際
の際に最後の反応を示したみたいで、何だか薄気味悪い。それでも相羽は手に取ると、
もう一度「面白い」と呟いた。
「こちらの花はどうするかというと」
 伊達は台の上にてんでばらばらに置かれた花を見下ろし、両手をかざした。
「生きているようで死んでいた蛇とは逆に、死んでいるようで生きているのがこの花た
ちなのです」
 そう説明するや、顎の近くで揃えていた両手を、急に左右に開いた。そうすると目に
見えない力でも働いたみたいに、花が動いた。ある物は立ち、ある物ははじけ飛び、ま
たある物は浮かび上がる。伊達は浮かび上がった一輪をキャッチし、「この子が最も活
きがいい」なんて宣った。
「うまくすれば、お客さんの目の前でも飛び上がるかもしれない」
 またもステージを降り、テーブルまでやって来た。純子、結城、淡島の三人からほぼ
等距離になるテーブル上の一点に花を置く。
「もしうまく行ったら、キャッチしてください。棘はありませんから、思い切り掴んで
も平気です」
 そう言って皆を花に注目させてから、最前と同じように両腕をかざす。あたかも念じ
ているかのようなポーズがしばらく続き、だめかなと思わせるぐらいまで引っ張って―
―一気に動かした。花はマジシャンから見て左側に跳ね、純子の目の前に落ちた。
「あらら、思ったほど飛ばなかったな。惜しい。でも、その花も差し上げます。取り合
いにならないよう、ここにもう二本持って来ましょう」
 伊達の言葉に合わせて、空っぽだった彼の両手にそれぞれ一輪ずつ、花が現れる。結
城と淡島は呆気に取られながら、その花をもらった。
「少し疲れたので、一休み。皆さん、ドリンクをどうぞ。私もいただきますから」
 ステージに再び立った伊達は、グラスを手に取ると、女性店員からコップ一杯の水を
もらった。コインの詰まったグラスにその水を注ぐ。次の刹那、コインは泡を立てて溶
け出した。金属製のコインに見えていたが、実際は発泡性の溶剤か何かだったのか。
 黄色いオレンジジュースみたいになったグラスの中身を、伊達はうまそうに飲む。半
分くらいになったところで止めて、女性店員からストローをもらった。そのストローを
グラスに挿して吸い始める。と、伊達が両手を離しても、グラスは浮いたままになっ
た。
「おおー、芸が細かい」
 ぱちぱちと手を叩く。それに応えて、伊達が手を振り、「どうもありがとう」と喋っ
た。当然、口からストローが離れ、グラスが数センチ落下した。が、どんな仕組みなの
か、宙で止まってぶらぶら揺れる。
「おおっと危ない危ない。あんまり喜ばせないでくださいよ。油断して落とすところだ
った」
 液体を干してグラスを台に置くと、伊達は直方体の箱を取った。
「休憩、終わり。ああ、皆さんは飲んでいて問題ありません。マジックを観てください
とだけ言っておきましょう。さて、この箱、そうは見えないでしょうが、パン製造機で
す。信じられない? でもこれを見れば納得するのでは」
 今、直方体の上になっている面にはつまみがある。スライド式の蓋になっているよう
だ。そこを持って伊達が開けると、中は空洞。そのことをよく示してから、伊達は蓋を
閉じ、軽く振って呪文を短く唱える。また振ると、今度は何か音がする。聞こえにくい
が、直方体が音の源なのは確かだ。
 伊達はオーバージェスチャーで蓋を開けると、これまた大げさに驚いた顔つきにな
り、直方体からロールパン一個を摘まみ出した。
「ね? これ本物ですよ。食べてみせましょう」
 宣言通り、ひと齧りしてパンの欠片を飲み込む伊達。
「うん、うまい。え? 食べて確かめたい? そうしてもらいたいのはやまやまなんで
すが、残念。このパン、賞味期限が切れてるんですよ。コンプライアンス的にお客様に
提供できません」
 その賞味期限切れを食べた口で言うのがおかしい。逃げるための冗談なのだろう。
「このパン製造機のいいところは、材料を入れなくても新しく一個出て来る点でして、
ほら、この通り」
 口上に合わせて直方体を振り、蓋をスライドさせると中には新たに一個、ロールパン
があった。
「パンが出て来るってだけでも結構なマジックだと思うんですが、これで終わりじゃな
い。ここにサインペンとメモ用紙があります。どなたかお一人、紙に何か書いてもらえ
ますか」
 伊達の手には、すでに何度か登場したサインペンと、付箋のような小さめのメモパッ
ドがあった。用紙一枚を取り、テーブル席の方に来る。
「何でもいいんだけど、時間の関係もあるから、簡単な絵か短い文でお願いします。
あ、私には見えないように。書けたら四つ折りにでもして」
 受け取った淡島が成り行きで書くことに。嫌々という様子はなく、マジックの手伝い
を恐れていたのが嘘みたいだ。
「何て書くのがいいでしょう……」
「今日の感想でいいんじゃない?」
 時間を掛けずに、ぱぱっと『楽しんでます! 緑』と書いた。緑は自分達の学校を表
したつもり。指示の通り、紙を折り畳み、「できました」と伊達に声を掛ける。
「はい、どうも。ペンと用紙は他の人が回収しますので、そのままで。折り畳んだメモ
を、この箱の中に入れてください」
 伊達が両手で持つ直方体の箱は、蓋が開けられている。そこから中に紙を放り込ん
だ。
「はい、確かに」
 伊達は蓋を閉めて。小さく振った。かさっと乾いた音がした。
「えー、さっきは言いませんでしたが、この箱――パン製造機にはもう一つ、優れた点
があります。それはプレーンなパンを作ったあとから、そのパンに具を放り込めるんで
す」
「え、まさか」
「嘘や冗談ではありません。これから実証してみせましょう。実験には、このさっき出
したばかりのパンを使います」
 台に置かれた二個目のロールパンを指差す伊達。
「私が触ると怪しいと思う向きもあるでしょうから、どなたか取りに来てくれますか」
 目を見合わせてから、それじゃあ私がと純子が席を立つ。ステージに足を踏み入れる
と、照明がちょっと眩しかった。パンを両手で包み持って、すぐに引き返す。
「大事なパンです、しっかりと大切に保管してくださいね」
「は、はい」
「繰り返し注意しておきますが、そのパンも賞味期限切れなので、食べちゃいけません
よ」
「はい、食べません」
「結構。では、こういう具合にパンを額の高さに持ち上げて」
 伊達の動きに合わせ、純子は両手を額の位置まで持っていった。舞台を見通せるよう
に腕は若干開き気味。
「その格好……ビームフラッシュとかウルトラセブンて分かる?」
 伊達が言ったが、何を意味しているのか分かる者はおらず、全員きょとんとするばか
りだった。時代を感じると口の中でもごもご言いつつ、伊達は本題に戻った。
「そのまま掲げていて。先程入れてもらった紙を、こちらから飛ばして、パンの中に入
れるからね。下手に動くと、パンじゃなくてあなたの中に入るかも」
「あはは。そのときはさっとよけます」
 ジョークにジョークで切り返す純子。伊達は「これは頼もしい」と笑みを浮かべた。
「では、そろそろ行きましょう。一瞬のことだから、お見逃しなきよう――はっ!」
 直方体が上下に一度、激しく振られた。紙が飛んで行く気配は全く感じられなかった
が、僅かながら風は起きた気がする。
「……成功したと思います。パンをこちらに持って来てもらえますか」
 純子は再び席を立った。離れる際、パンを調べたそうな相羽の視線を感じ取ったが、
勝手な真似はできない。
「台の上に置いてください。はい、どうも。戻らないで、ちょっと待っていて。さて、
このパン製造機の箱には、ナイフが付属しています。パンを切るためと、バターを切り
取るための二種類が」
 講釈を垂れながら、くだんの二本のナイフを側面から取り外す。伊達は純子が持って
来たパンを左手に、パン切りナイフを右手に、純子の顔の高さに合わせて持った。他の
三人からもよく見える。
「今からこうしてナイフでパンを切りますから」
 伊達はナイフの切っ先をロールパンの横っ腹に差し込んだ。ゆっくりと押し込みなが
ら、台詞をつなぐ。
「よく見ておいて。メモ用紙の白い色が見えてくるはず……」
 程なくして白い紙が見えた。観客は口々に「あっ」「何かある」等と声を上げる。
 伊達はナイフを引き抜き、できたばかりの切り口を純子に向ける。
「最後はあなたの手で引っ張り出してください」
 無言で頷き、紙片の角を摘まむ。さほど力を入れずに抜き取れた。
「開いて、みんなに見せてあげて」
「はい……」
 実際には開く前から、全く同じ畳み方だわと気付いていた。焦って落としたり破いた
りしないよう、慎重に開いていく。そして『楽しんでます! 緑』の文字を見付けた。
 純子は用紙を目一杯に開き、テーブル席の方に向けた。が、この小さな紙の小さな字
では読めまいと気付く。伊達に目で許可を取って、ステージを降りた。
「凄い。ほんとにさっき書いた物だね」
「おみくじのフォーチュンクッキーみたい」
「いいバリエーションだなぁ」
 メモ用紙を囲んで、三者三様の感想をこぼす。
 このあとラストとして、人体切断マジックの大ネタを観ることができた。女性店員が
ロングスカートのドレスに着替えて登場。伊達の助手(要するに切られる役)になり、
人の形を簡素化した絵の描かれた箱に入って、上半身と下半身の間辺りに鉄板二枚を差
し込み、上半身を横にずらすという演目。ずらしたあとも、箱から出た手や足の先は動
いており、表情も笑顔のまま。箱のずれを戻して鉄板を抜き取ると、無事に助手が生還
する。箱から出て来た女性店員の衣装がドレスからバニーガールに変化していた。
 見事なフィナーレに拍手喝采し、ショーは幕を下ろす。店を出るときに、簡単なマジ
ックができるカードまでもらった。
「予想以上に面白かったわ」
 店を出てすぐに結城が振り返り、言った。少々興奮気味だ。
「いい趣味してるんだね、相羽君て」
「僕とかマジックがとかじゃなくて、演じた人達のセンスがいいんだよ」
「いやいや、輪ゴムのマジックだけでも分かる。純はいいわね。彼におねだりすれば、
種を教えてもらえるんでしょ」
「そ、そんなことないって!」
 ふるふると首を横に振った純子。
「厳しいんだから。こちらが考えに考えた末に、やっと教えてくれるかどうか」
「そんな、人を鬼教官みたいに」
 そのままエレベーターを目指す三人に、背後から若干恨めしげな声が掛かる。
「お待ちください。時間はまだあると思うのですが」
 淡島だ。純子は振り返って瞬時に思い出した。

――つづく




#520/598 ●長編    *** コメント #519 ***
★タイトル (AZA     )  18/12/30  01:13  (283)
そばにいるだけで 67−6   寺嶋公香
★内容                                         18/12/31 17:39 修正 第2版
「占い!」
「あっ、ごめん」
 相羽と結城も急いで反転。占いショップの前でたたずむ淡島の元へ駆け付けた。
「せーっかく、お二人の仲を占ってもらう分、おごろうと考えていましたのに」
 淡島がどよんとした目で見上げてくる。
「えっと、このタイミングでそう言われても」
 相羽と純子は共に戸惑いを表情に出した。淡島の機嫌を直してもらうには、おごって
くださいと言うべきなのだろうか。何か変だ。
 相羽は両手を拝み合わせ、淡島に頭を下げた。
「淡島さん、本当にごめん。マジックのライブが久しぶりで、僕もつい夢中になってし
まって。次からは気を付けて、こんなことないようにする。だめかな?」
「……よろしいです。ちょっと意地悪を言いたくなっただけですから、ご安心を」
 淡島が笑顔を見せたので、相羽も純子も結城もほっとした。
「ただ、お二人が占ってもらうところを、同席してみたい。私独自のやり方の参考にな
るかもしれません」
「え。そういうのは、占い師さんに頼んでみないと分からないんじゃあ……」
 店の前で揉めていてもしょうがない。思い切って入ってみることに。店内は占いグッ
ズが所狭しとディスプレイされていた。が、淡島は目もくれない。
「時間がどのくらい掛かるか分からないから、すぐさま観てもらいましょう」
 淡島に手を引かれ、奥の占いスペースらしきコーナーへと連れて行かれる純子。相羽
も仕方なしに着いていき、その後ろを結城が面白がって押す。
 ゲルを思わせるそのコーナーの出入り口には、占い師の名札『小早川和水』が掛かっ
ており、天幕からの布が目隠しになっている。先客はいないようなので、布を持ち上げ
て中の人に声を掛けてみることにした。淡島と純子で声を揃える。
「すみません、占ってほしいのですが……」
「どうぞ、お待ちしておりました」
 存外、軽い調子の返事があった。幾分緊張していたのが和らいで、入りやすくなる。
 壁際の椅子に腰掛けていたのは、浅黒い肌の女性で、太い眉毛が印象的な人だった。
どことなく南国かインド辺りを連想させる。髪はショートカット、衣服は水色のワン
ピースで、いかにも占い師といった風ではない。客の椅子との間には白いテーブルがあ
り、紫のクッションの上にやや大きめの水晶玉が一つ鎮座している。他にも何やら標本
サイズの鉱物がたくさんある。
 椅子を勧められたが、先に伝えねばならないことがある。淡島が暗いジャングルを手
探りで行くような口ぶりで聞いた。
「変なことを言うかもしれないですが、あのう、一度に四人が入っても、大丈夫でしょ
うか……」
「他の人に占いを聞かれてもいいの? だったらかまわない」
 これまた思いのほかフレンドリーだ。虚仮威しタイプよりはずっといいが、こうも親
しげだと占いの重みやありがたみが薄れそうな気もする。
「初めての方ね? 初回特別割引で、学生さんならこういう具合になってるけれども、
いいかしら」
 料金表を示し、ビジネスライクなことまで言ってきた。とにもかくにも、普通の高校
生でも楽に手が届く設定はありがたい。
「お願いします。ただ、とりあえず、観ていただきたいのは二人なんです」
 ここからは純子が話す。相羽との仲を観て欲しいと伝えた。淡島に半ば強制されたこ
とは言わないでおく。
「珍しい。普通は隠したがるものでしょうに。いけない、関係のない詮索はやめないと
ね。れじゃ、二人に前に座ってもらって、付き添いの友達は後ろで……そこのパイプ椅
子を出して置けるようなら、座って」
 相羽が率先して椅子を置いていく。幸い、椅子を二列ならべてもまだ余裕はあった。
「それでは改めて……私の名前は小早川和水(こばやかわなごみ)と言います。ご覧の
通り、水晶占いにジュエリー占いを組み合わせて観させていただきます。他にも姓名判
断とタロットが使えますが、水晶でかまわないかしら」
「は、はあ。お任せします」
 純子が受け答えする横で、相羽は口をつぐみ、占いの道具の数々をぼんやり眼で見て
いる。興味がない訳ではなく、平静を装っているようだった。
「じゃあ、最初にイメージを掴むためにお名前を教えて欲しいの。姓名判断ではなく、
飽くまでイメージを把握するため。それから誕生石を知る必要があるので、誕生月もお
願いね」
 便箋と鉛筆を滑らせるようにして、純子と相羽それぞれの前に置く。相羽がここで初
めて口を開いた。
「名前にふりがなは?」
「何て読むのかを知った方が、よりイメージしやすいわ」
「じゃあ書きます」
 流れに素直に従う。書き終えた便箋を向きを換えて渡すと、小早川は何も言わずに石
を選んだ。五月の代表的な誕生石エメラルドと十月の代表的な誕生石オパール。どちら
も極小さな物で、シートに固定されている。他に参考ということだろうか、翡翠、トル
マリン、ローズクォーツとメモ書きするのが見て取れた。
「最初に言っておくと、このあとの占いで示される見立ては、今の時点でのものだか
ら。どんなにいい結果が出ようと心掛けや行い次第で、悪い方に変化し得るし、逆もし
かり。そのことを忘れないでね」
 二人がはいと答えると、小早川は便箋を返した。個人情報の処理はお客に任せる方針
らしい。
「それではお聞きしますが、お二人の何を観てみましょうか?」
「えっと」
 改まって尋ねられると、具体的には決めていなかったと気付く。かといって、淡島に
判断を仰ぐのもおかしな話だし。
「見たところ――これは占いではなく、私の直感だけれど――見たところ、現状で充分
幸せそうよ。120パーセント満足とまでは行かないにしても、大きな不安や悩みなん
てあるようには思えないわ」
「……小さな不満なら」
 純子が小さな声で言った。占い師の「聞かせて」という促しに応じて続ける。
「会える時間が少ないんです。一緒の学校、一緒のクラスなのに。でもこれは原因がは
っきりしてるからいいんです。一時的なことのはずだし」
「少し、はっきりさせてみましょうか。悩みは過去にあるのか未来にあるのか、それと
も現在なのか」
「未来、かな……この先ずっと、こんな調子だと嬉しくないなって」
 相羽の様子を横目で窺った。相羽の口が、そうかと声のない呟きの形に動いたように
見えた。
「彼氏さん、えっと相羽君の方は何かある?」
「悩み相談室みたいですね。ええ、今の状況に幸せを感じてはいます。だからこそと言
うべきなのか分かりませんが、将来に対する不安はあります」
 ほぼ同じことを言ってるようでいて、ニュアンスの微妙な違いがあるようなないよう
な。その空気を感じ取れたのか、小早川は具体的な提案をした。
「とりあえずというのもおかしいけれど、二人の将来を観てみよう。ね? 今の状態が
いつまで続くのかとか、よい方に向いているのかとか。結ばれるかどうかまでは言えな
いけれど、相性診断も併せて」
 その線でお願いすることに決めた。
 小早川和水は集中するためにと前置きして、占いコーナー内の明かりを若干落とし
た。ほの暗くなった空間で、水晶玉に手をかざす。その手には、エメラルドかオパー
ル、どちらかの誕生石が握り込まれているようだった。
「――今現在の姿から、将来への像を辿って描きます――今現在の涼原さんは全力疾走
しているイメージ。それも多方面に。水晶玉にあなたの誕生石をかざすと、色々な方向
に電気のようなものが走るから。そのことがさっき言っていた原因? あ、答えなくて
いい。……うん。ときが来れば止まる。そのとき、一緒にいてくれる人が」
 小早川は石を取り替えたようだ。ほとんど間を置かずに、首を縦に小さく振る仕種を
した。そして次に、首を傾げる動作もあった。
「そのとき一緒にいてくれる人が、相羽君なのは間違いない。ただ、それまでに……」
 言い掛けてやめる占い師。純子は何があるのかと反射的に聞き返そうとした。が、そ
のタイミングで相羽が手を握ってきた。おかげで口出しはせずに、占いは続くことに。
「もう少し待っててね。ここは慎重に、段取りを踏んで、彼氏さんの今現在の姿も思い
描くから」
 小早川がそう言って、石――多分エメラルドの方を水晶玉にかざす。その様を見てい
る内に、水晶玉の内部を本当に電光が走ったように思えた。
「うん。ちょっと不思議かな」
 どういう意味ですかと聞き返してしまいそうなのを堪え、続きの言葉を待つ純子。相
羽の手を握り返す手に力が入った。
「相羽君の方は今、岐路に立っているか、通り過ぎたばかり。本人が自覚しているして
いないにかかわらず、そういう地点にいるっていう意味」
「あの、よろしいでしょうか」
 意外なことに、相羽が口を挟んだ。隣の純子も、後ろの二人も少なからず驚いて、は
っとする気配が伝染する。小早川も一瞬むっとしたようだが、すぐに如才ない笑みを浮
かべた。
「何か?」
「高校生はそろそろ進路を決める時期だからってことで、当て推量で言ってるのではあ
りませんか?」
「うーん、私がそういう計算を無意識の内にしているのかもしれないけれども、その辺
りも全てひっくるめての占いよ。これでいい?」
「分かりました。失礼をしました」
「じゃあ、続きを――相羽君が行くであろう道は、彼女さんの道とは交わらないか、大
きくぐるっと回ってきてようやくつながる、みたいなイメージを持った。つながったと
きというかつながったあとは涼原さんとずっと一緒になる、そんな感じよ。今ね、二人
の石を同時にかざしているのだけれど、別ちがたい結び付きがあるのが伝わってくる。
それを思うと、道が交わらない時期があるのが逆に不思議。一時的な物とは言え、これ
だけ相反するものが見えたということは、心掛け次第では大きく変化してしまうことも
ないとは言い切れない……」
 明かるさが徐々に戻っていく。どうやら占いは済んだようだ。
「あのー、結局どういう……」
 終わったのなら聞いてもいいだろうと、純子は尋ねた。
「今のあんまり会えない原因が、まだしばらく続くか、拡大するという解釈になるんで
しょうか」
「少し違うと思う。見た目の原因は変わりがないとしても、間接的に相羽君の選択が関
係してるんじゃないかっていう見立てよ」
「そうですか」
 多少の不安を抱えて、相羽の顔を見る純子。相羽も見つめ返していた。
「まあ、驚かせるようなことを最後に付け加えたのは、二人に緊張感を保って欲しいか
らよ。何があってもどうせ一緒になれるんだからと思い込んで、いい加減な行動を取っ
て、それが原因で不仲になったりしたら、私が恨まれてしまう。実際、似たようなこと
で怒鳴り込まれた先輩を知っているし」
 占い師としての実情をぶっちゃける小早川。神秘性はあまりないけれども、親しみを
覚える人柄に、純子は少なからず好感を持った。
「さあて、知りたいことは他にない? あっと申し訳ない、先にお代をいただいておか
なくては」
 そう言われて、相羽が真っ先に動いた。
「ここは僕が」
 皆まで言わない内に支払いを済ませる。それどころか、ずっと見物していた結城と淡
島に向き直り、「何かあるのなら、僕が出すから観てもらいなよ」と誘った。
「ありがたい話だけれども、私は相談を友達に聞かれたくないわ〜」
 結城が冗談交じりに言うのへ、被せるようにして「僕らは出ているから」と後押しの
言葉をつなぐ。
(相羽君が占いのことでこんないい風に言うなんて珍しい。小早川和水さんを相羽君も
気に入ったのかしら)
 結局、淡島も結城も相羽のおごりで観てもらうことになった。先に座った結城は、外
に聞こえるほどの音量で「彼氏がいつになったらできるのか、知りたいです!」と言っ
ていた。

 帰りは当初の予定よりは遅くなったものの、ちょっとしたずれの範囲内で、明るい内
に最寄り駅まで戻れた。
 結城や淡島とはすでに駅で分かれており、ここから自転車に乗っての帰路は相羽と二
人きり。
「あーあ、楽しかった。ちょっぴり無理をした甲斐があったわ」
「やっぱり、無理をしてたんだ?」
 結城達がいなくなったところで気抜けしたのだろう、つい実情を漏らしてしまった。
相羽にはしっかり聞き咎められたが、もしかすると純子自身も心の奥底では誰かにねぎ
らって欲しいと願っていたのかも。
「そんなに、無理って言うほどの無理じゃないわ」
「隠さなくても。実は、おおよそのところは、母さんから聞いて知ってるんだけど」
「そ、そうだったの。だから誘ったときに、簡単にOKしてくれたのね」
「心配して欲しかった? 仕事がないときは休めって」
「うう。かもしれない。でもいいんだ」
 自転車ではなく徒歩だったら、相羽の方を振り返ってほころぶような笑顔を見せてい
ただろう。
「今日は休んだ以上に充実してたもん。寄ったところは三つとも好みに合って。プラネ
タリウムは内容が入れ替わるまではいいけど、マジックはどうなのかしら? ショーの
内容は同じ?」
「基本となる部分は同じで、あとは客に合わせて変えてくると思うよ。僕らのこと覚え
てくれただろうから、なるべく違う演目になるはず」
「じゃあ、近い内にまた行ってみない? 今度はその、二人で」
「……」
「な、何で黙るの!」
 恥ずかしさから声が大きくなる。相羽が急いで返事を寄越した。
「随分、積極的だなと思って、びっくりした」
「それだけよかったってこと! ……それに、占い師さんにああいう風に言われて、少
し気になったから」
 駅から自宅まである程度行くと、あまり信号がなく、あっても青だったため停まらず
に来られた。が、ここで十字路に差し掛かり、一旦停止した。
「相羽君も気になったでしょ?」
「そう、だね」
 相羽の区切った言い方に引っ掛かりを覚えた純子だが、疑問を言葉にする前に、自転
車を漕ぎ出す。比較的狭い路地に入るため、一列になった。純子は後ろに着いた。
「小早川さんの言っていた岐路って、当たってたんじゃあ?」
 思い切って聞いてみた。相羽の背中から反応が来るまで、ちょっと長く感じた。
「どうしてそう思うの?」
「学校で先生のところによく行ってるでしょ、相羽君。面談の話だけにしてはいつまで
も掛かっているし。やっぱり進路の相談なのかなあと思って」
「なるほど。……純子ちゃん、次に時間が取れる日っていつになる?」
「え? それは分からないけれども、当分無理かなぁ。今日の休みを確保するために、
あとのスケジュールにもしわ寄せが行ったみたいだから」
「そっか、そりゃそうだよね」
 相羽が額に手を当てて、考える姿勢になるのが分かった。そのポーズがしばらく続く
ものだから、「前、ちゃんと見てる? 危ない」と声を張る。
 実際には周囲がまだ明るさを残しているおかげもあって、危ない目に遭うことも遭わ
せることもなく、純子の自宅前まで着いた。
「結局、何だったの? 時間が取れる日って……」
 自転車を降りて門扉の手前まで押して立ち止まり、振り返って尋ねた純子。
「気にしないで。僕の方で何とかする。じゃあ急ぐからこれで」
「? う、うん。分かった。気を付けてね」
 違和感を払拭するためにも、手を強く振って彼を見送った純子。だが、何となく居心
地の悪いものが残った。

            *             *

「母さん、純子ちゃんのスケジュールで一日だけでも完全な休みを作れない?」
 マンションの自宅に帰り着くなり、相羽は母に言った。
 キッチンに立っていた相羽の母は、短い戸惑いのあと、眉根を微かに寄せた。難しそ
うだと見て取った相羽は、答を聞く前に言葉を重ねる。
「無理なら、一番仕事に余裕がある日を知りたい。三日間ぐらいのスパンで見た場合
に」
「……もうすぐ夕飯が完成するから、その話は食べながらにして、今は着替えてきなさ
い。うがいと手洗いもね」
 分かったと素直に動く相羽。
 今日午後から遊んだ中で、二度も暗示的な出来事があった。自分と純子との近い将来
を考えさせる出来事が。表裏一体になったカードと占い、どちらも純子に何かを勘付か
せるきっかけになっているような気がする。
(はっきり聞かれる前に、僕から言わなくちゃ)
 しかしそれにはタイミングを見定める必要がある。当初は、彼女にじっくり落ち着い
て聞いてもらえる時間と場所があれば、何とかなると思っていた。だけれども、少し考
えてみて、純子が関わっている仕事への影響も考慮せねばならないと思い直した。その
目的のために、まずは母に聞いてみたのだが。
「――それを教えても、大して差はないと思うわ」
 母の返答に、相羽は何でだよと口走った。似つかわしくない荒っぽい言葉に、母が苦
笑を浮かべる。
「信一がどんな理想的な状況を描いているのか知らないけれど、ショックを与えずに知
らせるなんて、絶対に無理だから。仕事への悪影響って言うのなら、ショックを二日も
三日も引き摺るかもしれないわ」
「それは……」
 続きが出て来ない相羽。母が意見を述べた。
「とは言ってもね。私から見た印象になるのだけど、純子ちゃんはあなたの留学を知っ
ても、多分仕事はきちんとこなすわ。最高の状態ではない、悪いなりにではあるかもし
れないけれど、責任感のある強い子だから、それくらいはやり遂げる。純子ちゃんにと
って一番影響を受けるのは、あなたがいなくなったあとの日常の方」
「そうなのかな……」
「決まっているわ。好きなんでしょう、お互いに。あなたが考えるべきは、一番ましな
伝え方をしようとか、ベストのタイミングを計ろうとかじゃなくて、離ればなれになっ
たあとの彼女のことを想って、今できる行動を起こす。これじゃないのかしらね」
「……分かるけど。難しい」
 食事の手が止まりがちになるのは、カレーライスのせいだけではない。母に促され
て、何とか再開する。
「私が純子ちゃんなら」
 その前置きに相羽が顔を起こすと、母がいたずらげな笑みを浮かべていた。
「こんな大事なこと、一刻も早く知らせてよ!ってなるかな。次は、ひょっとしたら翻
意を期待するかもしれない。そこは信一が誠意を持って受け入れてもらうしかない。そ
れから――一緒にいられる間にできる目一杯のことをしたくなるわね。信一は求められ
る以上に応えてあげて。そうして彼女に安心してもらう」
「安心」
「そう。たとえ遠くに離れていても、これからの将来ずっと一緒に歩んでいけるってい
う安心」
 おしまいという風に、箸でご飯を口に運ぶ相羽母。
「いいアドバイスをもらえた気がする」
 相羽は無意識の内に頭を掻いた。
「けどさ、純子ちゃん忙しいんでしょ? 出発する日までに、どれだけ時間を取れるの
か……」
「そこはまあ、信一が工夫して。学校にいる間を最大限活用するとか。たとえば、思い
っきりべたべたしてみるとか?」
「母さん!」
 怒ってみせた相羽だったが、次の瞬間には学校で純子とべたべたする場面を想像し
て、赤面と共に沈黙した。

――『そばにいるだけで 67』おわり
※作中に出て来た、皆既日食の起こるとされる月日は、架空のものです。過去及び未来
を通して、同じ七月下旬に皆既日食が日本で観られるケースはあるはずですし、なおか
つ本作のカレンダーと合致する年があるとしても、それは偶然であり、本作の年代を特
定する材料とはなりません。念のため。




#521/598 ●長編    *** コメント #501 ***
★タイトル (AZA     )  19/01/30  22:43  (471)
絡繰り士・冥 3−1   永山
★内容                                         19/02/01 01:30 修正 第2版
「これをどう思うね?」
 十文字先輩が白い封筒とその中身の便箋を示しながら云った。
「この住所のところに行ける? ちょっと季節外れでも、南のリゾート地に行けるなん
てうらやましいにゃ」
 一ノ瀬和葉が答えて、ホットミルクの入ったグラスを両手で引き寄せた。穴の開いた
棒状のお菓子をストロー代わりにして、ぼそぼそと吸っている。
「――百田君、君は?」
 先輩の目が僕に向いた。先輩の注文したコーヒーと焼き菓子がちょうど届いた。
「招待状を受け取る心当たりはあるのですか」
 僕は冷めつつある残り少ないパスタをフォークで弄びながら尋ねる。
 ここは七日市学園のカフェだ。今は放課後の四時。他の利用者はほとんどいない。冷
たい雨が降っているせいか、早々と帰路に就いた者が多いのだろう。唯一、遠く離れた
席で、女子の二人組がお喋りに花を咲かせている。――いや、何やら深刻そうに話し込
んでいる。
「ないさ」
 きっぱりとした返答の十文字先輩。名探偵を志し、実際にいくつかの凶悪犯罪を解き
明かしてきたこの人にとっても、見知らぬ人物から招待状を送られるなんて経験は、珍
しいらしい。それで先輩が困惑したのかどうかは分からないが、意見を聞きたいという
ことで、僕らはカフェに呼び出され――来たのは先輩の方が遅かったけれども――、今
に至る。
「字は毛筆体だが、プリンターで出力したものだね。差出人の名は小曾金四郎と書い
て、こそ・きんしろうと読むと判断した。初めて見る名だ。住所の記載はなく、消印す
らない。直に郵便受けに放り込んだと思われる。中身は便箋と飛行機のチケット。文面
は多少凝っているが、内容は至ってシンプル。『貴殿の探偵業における日頃の活躍を賞
し、また慰労のため、保養の地にご招待する所存』云々かんぬん。要するに、探偵とし
てよくやったから骨休めに来いという訳だ。どこで活躍を見てくれていたのか知らない
が、これを直に郵便受けに投じていることや、スマホや携帯電話その他モバイル機器の
類は持参するなと書いてあること等からして、怪しさ満点だよ」
「小曾金四郎ってのも本名じゃないんでしょうね」
「恐らく、いや間違いなく偽名だろうな。振り仮名がなかったんだが、こそきんしろう
と読める名を名乗ったのは、別の意図があるんだと思う」
「と云いますと?」
 僕が莫迦みたいにおうむ返しした横で、一ノ瀬が「あ」と叫んだ。ストローは消え、
ミルクも飲み干していた。
「もしかして、アナグラム? えっと、ローマ字なら、KOSOKINSHIROUだ
から……」
「KURONOSOSHIKI――『黒の組織』になる」
 すかさず答えた十文字先輩。著名なアニメでもお馴染み、悪者グループの俗称、代名
詞みたいなものと云えよう。
「これが偶然でないとしたら、ますます警戒する必要があるのだが、こういった招待状
に対して、怖じ気づいて応じないというのも名探偵像にはない」
「じゃあ、乗り込むんですか」
「それは君の返事次第だよ、百田君」
 想像の斜め上から来た文言に、僕は口をぽかんと開けた。頭の方も一瞬、ぽかんとな
ったかもしれない。
「ど、どういう意味ですか」
「お誘いの文句には、集合する日時と場所の指定に続けてこうある。『同封したもう一
枚は、お連れの方の分としてご自由にお使いください。ただ、一つだけ当方の我が儘を
述べさせていただきますれば、十文字探偵の名パートーナーでワトソン役である方をご
同伴願えたらと、切に願う所存です。』とね」
「僕のこと、ですか」
「そうなるね。ワトソン役を連れてこいということは、向こうで事件が起きる、少なく
とも準備がなされている可能性が高い。モバイル禁止は、外部の助けを借りるなという
示唆じゃないかな。向こうがここまでして待ち構えているのに、行かずにいられようか
という気分の高鳴りを覚えるんだよ。無論、君の意思は尊重したい」
「待ってください。僕が行かないとしたって、他に誰か頼めばいいのでは? たとえば
……五代先輩を通じて、警察の人に同行してもらうとか」
 五代春季先輩は十文字先輩の幼馴染みで、警察一家に生まれた。柔道の腕前は強化選
手クラスだ。
「この段階で、警察が動くとは考えづらい。仮に動いてもらったとして、何も起きない
内から、探偵が警察を連れて来るというのもまた前代未聞じゃないかな」
「だったら、せめてボディガード的な……それこそ五代先輩や音無さんがいれば、心強
いじゃないですか」
 音無亜有香は僕や一ノ瀬と同級で、剣道に打ち込んで強さを磨いている。こと暴力沙
汰になれば、僕なんかよりずっと役に立つ。
「ご指名は――名指しじゃないが――君なんだよ。特別な理由なしに、君以外の者を同
行させたら、僕が臆病風に吹かれたみたいに映るじゃないか。そうなるくらいなら、最
初から招待を断る」
 何となく格好いいこと云ってるみたいに聞こえるけれども、矛盾してる。そこまでメ
ンツを気にするなら、行かないというのはあり得ないはず。一人でも行くというのが最
後の選択肢なのではないのかしらん……なんてことを先輩相手に指摘できるはずもな
く。多分、十文字先輩は僕に着いてきて欲しいのだと思う。理由は不明だけれど。
「いつなんですか。都合がつけば行きますよ」
 僕の返事に、高校生名探偵は破顔一笑した。

 いくら南国のリゾート地といえども、連休を丸々潰して出向くには、不気味で不確定
な要素が多すぎる。一ノ瀬が云ったように時季外れだし……と、旅立つ前はそう思って
いたのだけれど。
「ようこそ、ワールドサザンクロスへ」
 空港のすぐ外、送迎車らしきワゴンカーの前で待機していた女性二人は朗らかに云っ
た。僕の方に付いた女性は、どことはなしに全体的な雰囲気が音無さんに似ていて、そ
れだけでこの旅がいいもののように思えてきた。あ、毎度のことだから記すのが遅くな
ったけど、僕の理想の女性像は音無さんなのだ。
 尤も、年齢は僕ら高校生より上であるのは確実で、四年生大学卒業前後といった辺り
に見えた。彼女はミーナと名乗り、十文字先輩に付いたもう一人はシーナと名乗った。
もちろん本名ではなく、当人らの説明によると、小曾氏の自宅に隣接する形で氏がオー
ナーを務めるリゾート施設があり、そこのショーに出演するプロのパフォーマーだとい
う。
「そんな方々が迎えに、わざわざ車を運転してくるなんて。まさか、自動運転じゃない
でしょう?」
 先輩が真顔でジョークを飛ばすと、ミーナとシーナはより一層の笑顔を見せた。
「ご安心ください。運転手は別にいます。名を東郷佐八(とうごうさはち)といいま
す」
 スライド式のドアを開け、中へと導かれる。運転席の中年男性に挨拶をすると、振り
向いて強面を目一杯柔和にして挨拶を返してくれた。
「このまま我が主の邸宅へ向かいますが、寄りたい場所があれば云ってください。道す
がら、目にとまった場所でもかまいません」
「とりあえず落ち着きたいので、目的地に直行でお願いします」
 実際問題、下調べをするゆとりがなかったため、どこに何があるのかさっぱりだ。結
局、コンビニエンスストアに立ち寄って、ご当地仕様のお菓子や飲み物なんかを多少買
い込んだぐらいで、他に寄り道はせず小曾邸に着いた。最終的に車は五十分ほど走った
ようだ。
 門をくぐって、噴水を中心にロータリーみたいになっているところで降ろされた。
ミーナが荷物を持ちましょうと云ってくれたが、断った。つい浮かれ気分になりそうな
陽気だが、この旅行は正体不明の差出人からの怪しい招待を受けてのもの。警戒するに
越したことはない。それを云い出したら、迎えの車に乗るのはどうなんだとなるが、だ
ったらそもそも招待に応じなければいいとなるので、虎穴に入る覚悟をある程度してい
る。
「こいつは……想像していたのとは若干違うが、豪邸だな」
 先輩の言葉に、僕も同感だった。ちょっとしたお城のような洋館を思い描いていたの
に対し、目の前に現れたのは、平屋造りの日本家屋。ただ、敷地面積がやたらと広い。
多分、余裕で野球ができる。
 隣接されているレジャー施設も背の高い建物はなく、黄色と青色を配したかまぼこ型
の屋根が長く伸びているのが確認できたのが精一杯だった。
 背の高い扉の玄関の前まで来て、ふと気付くとミーナもシーナもいない。東郷は元か
ら車を離れていない。
 どうしたものかと迷う間もなく、観音開きのドアが内側から押し開けられた。スムー
ズな動きで、音はほとんどしない。
 執事か何かが登場すると思っていたら、筋肉質な身体の持ち主がいた。若い男――と
いっても三十前ぐらいか――で、黄色のシャツに赤いジャケット、膝下でカットしたブ
ルージーンズという信号機みたいななりをしている。男前なのに残念なセンスの持ち主
なのかなと思った。
「よく来てくれたね。僕が小曾金四郎だ。よろしく」
 いきなりの招待主登場に、僕は面食らった。対照的に先輩は、小曾が満面の笑みで差
し出した右手を自然に握り返し、握手に応じている。ああ、何はともあれ、名前の読み
は“こそきんしろう”で当たっていたんだ。
「探偵の十文字です。お招き、ありがとうございます。こちらはワトソン、百田充君で
す」
 先輩の紹介に続いて、僕も小曾と握手。とりあえず名前だけ云って、あとは黙ってお
いた。
「早速ですが、僕らを招いた真の目的は何です? 本当に称えるためだけなら、失礼で
すがこのような僻地まで呼び付けずとも、僕らの地元で祝ってくれればいいのにと感じ
たんですがね」
「話が早いのは助かる。依頼がしたい」
 小曾は最初の笑顔を消して云った。
「依頼なら他に簡単な方法が――」
「ただの依頼じゃない。訳あってこのような迂遠な方法を採ったんだ。否、採らされ
た」
「採らされたとは?」
「言葉通りの意味だ。強制されたのだ」
 つい先程から、低い振動音が微かに聞こえている。スマートフォンか携帯電話のマ
ナーモードによる音らしく、どうやらそれは小曾の方から聞こえる。
「やっと許可が出た。僕は小曾金四郎ではない。俳優だ」
「はあ?」
「名前は岸上健二(きしがみけんじ)、あんまり売れていないが、ネットで調べればい
くつかの舞台劇や映画に出ていると分かるだろう。そんなことは重要じゃない。僕は今
の今まで、小曾金四郎役を強制されていた。さっき、スマホに着信があったんだが、そ
れが合図でこうして事情を君達に喋っている」
「きょ、強制されているって、何が原因なんです?」
 思わず、僕は口を挟んだ。横手から軽く舌打ちする音がして、十文字先輩が僕の肩に
手を掛けた。
「百田君。今は岸上さんの話を聞くのが先決だ。何者か知らないが、彼を操っている人
物から話すチャンスを与えられたようなのだからね」
 なるほど、喋れることを全て喋ってもらおうということか。質問するだけ時間の無駄
という訳だ。岸上も意図を汲み取り、一気に話す。
「僕には妻と子供がいて、三日前から人質に取られている。相手は小曾金四郎と名乗
り、妻達の身の安全と引き換えに、僕に指示をしてきた。警察には届けていない。君ら
には申し訳ないが、この条件なら達成できると思った。云うことを素直に聞いて、妻と
子供を無事に返してもらうつもりだ。条件というのは、さっきの着信まで小曾金四郎の
ふりをして、云われた通りの役回りを務めることと、もう一つ。君達というか十文字君
に、簡単な問題を解いてもらうことだと聞かされている。問題が何かは聞かされていな
い。このあと、指示が来るはずだ。それから、小曾がどこかから見張っていると思うん
だが、詮索するなと厳命されている。そのことは君達も守ってくれ。お願いだ」
 岸上が明確な返事を求める目を向けてきたので、先輩も僕も首肯した。
「もちろん、守ります。話したいこと、話せることは以上ですか」
 先輩の問い掛けに、岸上は一瞬考える仕種を覗かせ、次に早口で云った。
「聞きたいことがあれば聞いてくれ。次の指示があるまでは、自由に答えられる」
「とりあえず三つまとめて聞きます。いつどのようにしてここに来たのか。小曾からの
接触はどんな方法だったか。奥さんとお子さんが無事である証拠は示されたのか」
「着いたのは昨日だ。正午過ぎだった。多分、君らと同じ車で運ばれた。犯人の小曾か
らは三日前の夜、家の固定電話に電話があった。妻が自転車で保育園に飛翔(かける)
を迎えに行った帰り道、妻と飛翔を誘拐したと云っていた。ここへ来る交通費やルート
は、郵便受けに入っていた。無事である証拠は声を聞けた。最初の電話のときから一日
に一度ずつ、一分あるかないかの短い時間だったが」
「次の三問です。昨日着いてから今まで、何をして過ごしましたか。この家や隣の施設
に実際に使われてきた形跡はありましたか。あなたの他に、誰がいますか」
「到着したその日はずっと監禁されていた。奥の方の土蔵のような部屋だった。見張り
の有無は不明だが、外から鍵を掛けられた。食事は小型冷蔵庫があって、その中から適
当に食えと云われていた。トイレも簡易式の物があった。こう説明していると牢屋だ
な、まるで。今朝になって部屋を出された。身なりを整え、こんな格好に着替えさせら
れ、君らの到着を待った。二問目については、よく分からん。この家の方は使っていた
形跡はあるが、住人がいたのかどうかは知らない。隣の施設となるとさっぱりだ。サザ
ンクロス何とかだっけ? サーカスか何かみたいなものだと思っていたが、人の気配や
歓声はなかったな。それから他に誰がいるかは、答えることを禁じられている。云える
のは、犯人側ではない者が何人かいるとだけ」
「――他に禁じられていることは何? 電話をしてきた小曾の声の調子はどんな感じだ
った? それから」
「すまない。着信があった。時間切れらしい」
 岸上は俯き気味に首を振った。ポケットの中で、機械を操作するのが分かる。
「このあと、僕はまた小曾金四郎として振る舞わねばならない。君らもそのつもりで対
応してくれ。他の連中は何が起きているのかをまだ知らない。抽選に当たってただで旅
行に来られてラッキーと思っているようだ」
 言葉を句切ると、岸上は「入ってくれたまえ」と語調を改めて云った。
「案内は彼女達がやってくれる」
 ドアが閉じられてから、岸上が手で示した先には、ミーナとシーナの二人がいた。初
対面時のラフな格好と異なり、ホテルマンのような制服を身につけている。
 岸上の方には東郷佐八が着き、先を歩かされるようにしてどこかへと消えていった。
「ミーナとシーナ。君達には質問してかまわないかい?」
 先輩は物怖じする様子もなく、むしろ気さくな感じで尋ねた。女性二人は顔を見合わ
せたかと思うと、ミーナが口を開いた。
「こちらは将来、宿泊施設に改装もしくは増改築することを念頭に、今回テストとし
て、お客様にはお泊まりいただくことになっております。お二方もモニターという訳で
す。ご質問にはできる限りの範囲でお答えしますが、かような事情ですから、確定的な
返答ができかねる場合もありますことをご了承ください」
「ああ、いや、そうじゃなくて」
 表情に戸惑いが微かに滲む十文字先輩。その間に部屋への移動が始まる。
 やがて、まずは手探りとばかりに、当たり障りのない質問を探偵は発した。
「あなた方はパフォーマーなのに、従業員のような役割を受け持っている? おかしく
ない?」
「現在、私達は故障を抱え、パフォーマンスの方はお休みをいただいています。その
間、別の業務を、という判断がなされました」
「あなた達を雇っているのは小曾金四郎? いや、名前ではなく、さっきいたあの男
性?」
「違います。オーナーの姿を見掛けたことはあまりありませんが、先程の方でないこと
は確かです。あの、質問を返すのは申し訳ないのですが、先程の男性はあなた方に小曾
と名乗られたのでしょうか」
「――ええ、まあ」
「では、オーナーがお客様の皆さんのためにご用意した趣向だと思います。詳しいこと
は一切聞かされていないのですが、誰もが驚くイベントがあるとか。そのおつもりで、
お過ごしください」
「ええ、楽しみに……。東郷さんとは、以前からのお知り合いなんですか」
「はい。東郷は送迎バスの運転手の他、雑用をこなします。ワールドサザンクロスの設
備に不具合が見付かれば、あの人が修繕することがほとんどです」
「なるほど。他にも宿泊客がいるはずだけど、彼らもモニター役とは知らずに来たのか
な」
「知っている方もいれば、ここへ来て初めてお知りになった方もいました。現時点では
皆さん把握されていますから、気兼ねなく交流をお楽しみください」
「……」
 先輩が黙り込む。と同時に、部屋に着いた。扉には味も素っ気もない漢数字「一」の
プレートが掛かっていた。
「こちらになります」
 二人部屋で、扉を開けてみると、玄関の土間に当たるスペースが設けられており、部
屋へはもう一つ内扉があった。再び扉を開け、ようやく十畳程の和室と分かる。内扉は
ふすま風で、外扉は洋風のドア。上がり框が設けられていることからも、すでに宿泊利
用のため、この和風建築のそこかしこに手を入れてあると窺い知れる。
「ご宿泊中は、そちらにありますスリッパをお使いになれます。室内の小さな冷蔵庫は
ご自由にお使いください。中の物もご自由にどうぞ。夕食は――」
 ざっと説明を済ませたあと、シーナとミーナは部屋のカードキーを置いて去って行っ
た。
「さて、できることならワールドサザンクロスに関して、もっと調べておきたいところ
だが」
 荷物を部屋の片隅に放りつつ、先輩が云った。
「素直にルールを守ったおかげで、ネットが使えない。近所に聞き込みに行くのも簡単
ではなさそうだ」
「近くに民家は見当たりませんでしたからね。それよりも、案内してくれた人やその他
と、どう接するのがいいんでしょう? 犯人の小曾と通じている者だっているかもしれ
ませんよ」
「今は、相手のやり方に乗っかるしかあるまい。人質を取られていることを忘れないよ
うに」
「ですが……問題発言かもしれませんけど、あの岸上さんの話を信じられるかどうかも
分からない訳で」
「無論、それを含めて、敵の策略かもしれない。しかしこれは相手が仕掛けてきたゲー
ムだ。最初っからレールを踏み外すような真似はしまい。僕に害を加えることが目的な
ら、歓待の席で毒を盛るなり、行きの飛行機を落とすなり、簡単な方法や派手な方法は
いくらでもあるだろう。わざわざ舞台を用意するからには、意図があるに違いない。恐
らく、この十文字龍太郎の探偵力を試す」
 語る先輩の顔は、微笑しているようにも見えた。

 小曾金四郎が何を解かせようとしているのか提示されない内は、こちらか動く必要は
ないとの判断で、夕食のある午後六時半までは自由に振る舞うこととなった。
 とはいえ、矢張り気になる。何しろ、誘拐事件が起きているのだから。岸上の近くに
いて、一刻も早く次の小曾からの指示なり何なりを掴むのが最善の策ではないのか。そ
のような意見を先輩にしてみた。
「云いたいことは分かる。だが、そんな風に待ち構えるのは、詮索の一種になるんじゃ
ないか」
「それは……微妙な線だと思いますが」
「今現在、岸上氏は小曾金四郎として振る舞っている。その前提を無視するのは、避け
た方がよい気がするんだよ」
「確かに先手の打ちようはないですし、外部に援軍を求められる状況でもないでしょ
う。しかし、何かできることはあるんじゃあ……たとえば、隣の施設に行って、下調べ
をしておくとか。わざわざこの場所を指定したからには、きっと何らかの関連があるん
ですよ」
「僕もそれは考えた。考えた上で、二番目の優先事項だ。ここにいなければ、犯人から
の指示を報せてもらうのが遅れる可能性があるからね」
 そうか。携帯電話やスマホがない影響がここに出る訳か。
「携帯端末を誰かから借りるのはどうです? 従業員は信用できるかどうか半々でしょ
うけど、宿泊客なら」
「宿泊客なら信用できるという理論は怪しいが、借りるのは考え方として悪くない。問
題は、他の人達が持って来ているかどうかだ」
「え? そりゃ持ってるでしょう」
「どうかな」
 十文字先輩は後ろを向いた。
「館内専用のようだが、電話がある。あれでフロントに問い合わせてみないか? スマ
ホなどの持ち込み禁止ルールは徹底されているのか、といった具合に。他の宿泊客にそ
んなルールがないとしたら、電話に出た従業員は怪訝な反応を示すだろうさ」
 僕はすぐにやってみた。すると電話に出た女性従業員――多分シーナ――は、「は
い、厳密に守られています」との返事をくれた。それとなく理由を尋ねると、「皆様は
モニターとしてお試しで当施設をご利用になられています。云うなれば、企業秘密に関
わる事柄ですので、ここでの体験や情報をリアルタイムかそれに近い形で外部に流され
るのは禁止させていただいております」との答を得た。
「――だめでした。矢っ張り、全員が禁止です」
「そうだろう。理由付けがし易い状況だしな」
 満足げに頷く先輩。モニター云々という理由を見越していたらしい。
「まあ、落ち着かないのは分かるが、落ち着こうじゃないか。買ってきた菓子でも食べ
て、栄養補給しておくといい」
「そうですね。夕飯にはまだありますし」
 木製の四つ脚テーブルの上には、電気式の小振りなポットが一つと、湯飲みが二つ、
ティーバッグがいくつかまとめて置いてあった。茶菓子もあるにはある。
「お茶、入れます? それとも冷蔵庫の中から……」
「実は迷っている。いや、何を飲むかじゃない。もし僕を試すつもりなら、飲み物類に
は全て眠り薬が仕込んであって、迂闊に飲んだらぐっすりと眠りこけてしまうんじゃな
いか、とね」
「そういうテストまでされるんだとしたら、気力が保ちませんよ。風呂にいるときだっ
て、布団で寝ているときだって、襲われる可能性を念頭に置かなきゃならなくなる。今
だって、いきなり何者かが乱入してきたら」
「僕が云っているのは、ちょっとニュアンスが違うんだが、まあいい」
 十文字先輩がそう云ったとき、部屋の戸が激しくノックされた。ついさっき、乱入な
んて想像していただけに、余計にどきりとした。僕達は二人して応対に出る。鍵を掛け
たまま、まず僕がドア越しに「どなた? 何ですか?」と誰何する。
「東郷です。十三号室の小曾金四郎様から言伝があります」
 ノックの激しさとは裏腹に、落ち着いた調子のダミ声が響いた。僕の隣で先輩が「十
三号室? オーナーではなく、岸上氏のことか」と呟く。それから外に向けて、「この
まま読み聞かせてください」と云ったのだが、反応は歯切れが悪かった。
「それが、読み上げるにはいささか不適切な内容なので……」
「分かった」
 先輩はドアを開け、東郷佐八を中に入れた。彼の手を見てさらに云った。
「メモがあるのなら、直に見たい」
 この申し出に東郷は考える様子もなしに、すっと渡してくれた。この施設専用のメモ
用紙らしく、ロゴが入っている。
<犯人からの指示があった。君達への出題だ。直に奥の部屋に来てもらいたい。13号
室 岸上>
 なるほど、ドア越しに声を張り上げるには、「犯人」とは云いにくいだろう。
「奥の部屋とは十三号室のことなんですか」
 靴を履きながら問う十文字先輩。東郷は「恐らく。前の廊下の突き当たりが十三号室
なので」と答えた。
「その部屋は土蔵や牢屋のようになっている?」
「まさか。こちらの部屋と同じですよ」
 苦笑交じりに返答された。岸上が監禁されていた部屋は、別にあるらしい。
「急ごう」
 足早に行動を開始した先輩に、僕だけでなく東郷も着いて行く。
「東郷さんに聞きたい。これはイベントの一環?」
「分からんのですが、多分そうなのでしょう。実を云うと、三日前からオーナーは姿を
くらましていて、こちらにはおりません。秘密主義のところがある男で、またいつもの
癖が出たなと」
「あなたはオーナーの小曾金四郎氏とはどのくらい親しいんですか」
「親しいも何も、オーナーとは親戚でして。私の妻の兄が、オーナーの義理の母と姉弟
の関係になる」
「……小曾金四郎というのは本名なのですか」
「いえ。オーナーはかつて芸人をやっており、そのとき名乗っていた芸名をそのまま使
っている次第で。本名は那知元影(なちがんえい)と云います」
 東郷が矢継ぎ早の質問に淀みなく答え切ったところで、十三号室の前に辿り着いた。
「それでは自分はここで」
 帰ろうとする東郷。オーナーの部屋に案内してもらうような錯覚をしていたので、こ
の人に取り次いでもらうのは当然だと思っていたが、考えてみれば関係ない。仮にイベ
ントだとしても、従業員が特定の客に肩入れする形になるのはまずかろう。
「――待ってください。返事がない」
 早々にノックしていた十文字先輩が、東郷を呼び止めた。扉の取っ手をがたがた揺さ
ぶりつつ、「鍵も掛かっている。どうすれば?」と続ける。
「おかしいですな」
 素が出たような困惑の呟きをした東郷。扉にロックがされていること及び中に呼び掛
けても反応がないことを確認し、首を捻る。
「伝言を預かったのは、ついさっきなんだが。十分も経っていない」
 来いと呼び付けておいて、十分足らずで部屋を離れるのはおかしい。意図的に身を潜
めたか、あるいは。
「開けることは?」
「マスターキーを取ってくれば、開けられますが」
「……オーナーの指示で禁じられているとかでないのなら、開けてください」
 十文字先輩の要請に、東郷は黙って応じた。きびすを返し、今来た長い廊下を急ぎ足
で戻る。
「悪い予感しかしないな」
 先輩の言葉に、僕は「え?」と目で聞き返す。
「岸上氏は命じられて強制的に操られているだけで、直に害を蒙ることはない。そう思
い込んでいた。だが、今の状況は……」
 そこから先は口をつぐむ名探偵。もしや十三号室の中には、襲撃されて声も出せない
岸上がいるのだろうか。それこそ最悪の事態を想像したそのとき。
「あ? 開いている」
 何の気なしに触れたドアが、すっと開いた。
「何かしたのか、百田君?」
「いえ、何も。触れただけです」
 冷静さを失って、どもりそうになるのを堪えながら、僕はドアが動くことを示した。
「よし、入るとしよう。ただし、二人一辺に入るのはよそう。閉じ込められでもしたら
間抜けだ」
「でも、中に犯人がまだいるとしたら、一人は危険なんじゃあ」
「現段階では、誘拐が起きたと岸上氏が云っているだけだ。殺人や傷害事件が発生した
とは限らない。そこら辺を確かめないと、話が進まないんだよ。心配しなくても部屋に
入るのは僕で、君は見張りを頼む。充分に注意して、何かあったら大声で知らせてく
れ」
「先輩も気を付けて。中で何かあったら知らせてくださいよ」
「五代君に鍛えてもらったから、多少の心得はあるつもりだ」
 云い置くと、十文字先輩は扉を全開にした。僕は廊下全体に意を注ぎながらも、入っ
て行く先輩の背中を見送った。

 意識を取り戻すと、状況が激変していた。
 時刻は夕方。ブラインドの降りた窓からそれらしき光が差し込んでいる。場所は……
宛がわれた部屋ではない。荷物がないし、布団を敷いた覚えはないのに、今の僕は布団
の上に腰を落としている。そして寝床の横には人の刺殺体がある。
 驚きのあまり声を失うという経験が今までにもないではなかった僕だけれども、この
ときばかりは悲鳴を上げたつもりが出せなかった。物理的にシャットアウトされてい
る。緩くではあるが猿ぐつわをされていた。両足首には手錠のような物がはめられ、両
手首も後ろ手に結束バンド(直に見えてないので恐らく)で自由を奪われている。身体
が固いつもりはないが、この状態で腕を前に持って来るのは無理。肩が抜けそう。縄抜
けの術があれば習っておけばよかった。探偵助手としてのたしなみというもの――いや
いやいや、僕は探偵になりたい訳じゃないし、ましてやワトソン役に好んでなった訳で
もない。
 とにもかくにも、現状の理解だ。
 廊下を見張っていたら、突然、首筋に電撃みたいな一撃を食らって、意識を失った…
…んだと思う。薄れる意識の中、背後は壁なんだ、襲われるなんてあり得ないと疑問に
感じて振り返ったのを覚えている。そのとき視界に端っこに、壁が開いて中から腕が出
て来ていたような。恐らく、壁には仕掛けがあって、普段は単なる壁にしか見えないの
が、機械的な操作で口が開き、そこから腕を伸ばして僕の首筋を殴ったか、電気ショッ
クを与えたかしたのではないか。だとしたら、位置関係から類推するに、僕を襲った腕
の主は十三号室の中にいたことになる。つまり、十文字先輩も襲われて、僕と同じよう
に拘束されているのか?
 ……まさか、死んでいるのが先輩?
 僕は確かめるために、身をくねって遺体ににじり寄った。
 遺体は俯せで、あちらに顔を向けている。そもそも僕がこの人物を見て死んでいると
判断したのは、背中に深々と突き刺さった刃物状の凶器と、床に広がる大きな血溜まり
が理由だが、絶対確実に死んでいるとは言い切れない。といって、声を出せない今、ち
ょんちょんと爪先でつつくぐらいしか反応を見ることはかなわないのだが、もちろん実
際にはしない。
 やや近くで見る内に、この人物が東郷佐八その人だと分かった。後ろ姿が、記憶と重
なる。十文字先輩とは全く異なるシルエットなのに、一瞬でも勘違いしそうになった自
分が情けない。メンタルの疲弊を覚える。自覚したならしたで、意識して己を奮い立た
せる。
 何故、僕がこんな目に遭うのか。もっと云えば、何故、十文字先輩ではなく、僕なの
か? 招待状は高校生探偵である十文字龍太郎宛だった。こうして死体を見せつけるの
なら、名探偵相手に展開するのが常道ってやつじゃないのか。しかし、現実にはそうな
っていない。理由は何だろう?
 まず考えられるのは、僕だけじゃないってケース。さっき思い浮かんだように、先輩
も同じ状況下に置かれているのかもしれない。その場合、先輩が監禁されているのは、
十三号室か?
 次に、何かの手違いや思い違いで、僕が十文字龍太郎だと見なされているケース。可
能性は低いだろうけど、ないとは言い切れない。敵が深読みをする奴で、“名探偵たる
者、こんな怪しげな招きに乗ってくるからには、最初からワトソン役と入れ替わってい
るに違いない”なんて誤解した恐れ、なきにしもあらず。
 三番目は、想像したくないけれども、十文字先輩が既に亡くなっているケース。死者
を相手に死体を見せつけてもしょうがない。犯人だってわざわざ呼び寄せた名探偵をい
きなり殺すつもりはないだろうから、あるとしたら十三号室で乱闘になり、先輩の方が
制圧されて命を落とした可能性ぐらいか。犯人は計画を放り出せずに、僕を代役にして
続行している。もしこれが当たりなら、僕にとって最悪だ。
 四番目は……だめだ、思い付かない。意識を失っていた影響もあるのかもしれない。
 とにかく助けを呼ばなくては。窓ガラスを割るのが最も手っ取り早いだろうが、手足
を拘束された状態で、怪我をせずに割れるかどうか。窓の高さは、一般的な成人男性の
腰の辺り。普通よりは低いかもしれないが、それでも割るのは大変に違いない。道具も
使えそうになく、そもそも窓の下まで五メートルはある。あそこまで這っていくのと、
ぴょんぴょん飛び跳ねていくのとどちらがいいだろう。後者の方が楽だろうけど、もし
転倒すると血溜まりに身体を突っ込む恐れがある。
 まあそれらは些細な点だ。もう一つの脱出経路を検討してみる。ドアだ。窓と反対側
でやや暗く、すぐには気付かなかったが、ドアがある。学校の体育倉庫によくあるタイ
プ。横にスライドする大きな金属製の扉らしい。外から施錠されているのかどうか、こ
こからは分からない。危険防止のため、外からのロックを内側からも開錠できる仕組み
になっているのか否かも不明。距離は窓までよりも若干遠く、七メートルくらい? こ
うして観察していくと、意外に広い。本当に倉庫なのかもしれない。影になって見えづ
らいが、部屋の隅には大ぶりな物体がいくつか置いてあるようにも見える。
 と、ここで別の不安が沸き起こった。おいそれと助けを求めて大丈夫なのか。犯人に
見付かるのは避けねばならない状況なのだろうか。――これにはすぐに判断を下せた。
こうして人を拘束した上で死体を見せつけているのだから、犯人はとっくに立ち去って
いるだろう。次はおまえがこうなるという警告ではなく、飽くまでも高校生探偵への挑
戦と見なすのが妥当。こうとでも信じなければやっていられない、というのも無論あ
る。
 他に出入りできそうな場所を求めて、再三再四、視線を走らせる。するとまた新たな
発見があった。体育倉庫みたいだという連想が効いたのか、壁際の下部、踝ぐらいの高
さに、いくつかの小窓があると分かった。窓と云ってもガラスはなく、板状の蓋を横滑
りさせて開閉できる仕組みのようだ。体育館や体育倉庫にあった、空気の入れ換えのた
めの吐き出し口みたいなものか。施錠の有無は不明だが、どちらにせよ、大の大人が通
り抜けられる程のサイズはないと見えた。目算で、たてよこ三十センチメートルより大
きくはあるまい。二枚の蓋の間に柱がなければ、その二枚とも外に蹴り飛ばすことで、
穴が大きくなるのだが、現実には頑丈そうな金属の棒が通っている。
 検討結果が出た。窓ガラスを割るのが最も手早くできるはず。うまく割れずに脱出し
損なっても、音で気付いてもらえる可能性がある。
 僕は意を決し、身体を起こそうと試みた。やや遠回りになってもいいから血溜まりを
避け、なるべく窓に近付く。もし転倒したらそこからは芋虫のように這うか、横方向に
転がるか。
 ある程度状況を想定した上で、実行に移す。が、その努力は意外な形で幕が下ろされ
た。
「百田君、いるか?」
 足元の小さな扉がスライドし、その軋むような音に混じって十文字先輩の声が聞こえ
た。
 僕は猿ぐつわの存在を忘れ、「います!」と叫んだつもりだった。

――続く




#522/598 ●長編    *** コメント #521 ***
★タイトル (AZA     )  19/01/31  00:25  (432)
絡繰り士・冥 3−2   永山
★内容                                         19/02/01 01:31 修正 第2版

 拍子抜けする程唐突に窮地を脱し得た。僕はそう思っていた。
「客観的に云って、君の立場は厳しい」
 地元警察の栄(さかえ)刑事は、四十代半ばと思しき男性で、これまで知り合ってき
た警察関係者の中では穏やかな方だろう。太い眉毛を除けば柔和な顔立ちだし、声も威
圧的ではない。ただ、上にも横に大きい巨漢なので、空間的には圧迫感を感じる。太っ
ているというのではなく、大昔の武将みたいなイメージだ。狭い取調室だったら、それ
だけでギブアップする犯人もいるかもしれない。幸い、ここは取調室ではなく、僕(と
十文字先輩)に宛がわれた部屋だし、そもそも僕は犯人じゃない。
「ワールドサザンクロスの西側にある倉庫は、俗に云うところの密室状態にあり、その
中で東郷氏の刺殺体と一緒にいたのは君一人だ。一つしかない扉と六つある窓はいずれ
も施錠され、扉の鍵はスペアも含めて東郷氏自身が身に付けていた。あの場所はそこそ
こ広いし、何だかんだ物が置いてあったので、人が隠れるスペースはあっただろうが、
君を見付けて皆で救出した際、こっそり出ていく者ようなはいなかったと証言を得てい
る」
 窓ガラスを割ることで十文字先輩や施設の人が中に入り、僕を助けてくれたという。
 なお、僕の手足を縛っていた結束バンドや手錠は、自分自身で付けられる物だから、
犯人ではない証拠にならないとされた。
「証言をしたのは君の知り合いで先輩の十文字君だ。彼が嘘を吐く理由はないようだ
し、君との関係も良好のようだ。しかも彼は、君に対する救出は他人に任せ、彼自身は
東郷氏の遺体をそばから観察していたという。これがどういうことか分かるかい?」
「……犯人が僕以外なら、扉の鍵を密かに被害者の懐に戻すという方法は採れなかった
ということでしょうか」
 答えると、栄刑事は意外そうに口をすぼめた。
「ほお、本当に分かるんだな。十文字君が云っていた。名探偵の助手として経験を積ん
だのだから、これくらいは察するに違いないと」
「はあ」
 現状で、そんなことで誉められても嬉しくはない。
「足元にある換気のための小窓は、外側からでも自由に開閉できるが、そこを利用して
鍵を東郷氏の懐に戻すというやり方も、どうやら無理のようだ。何せ、鍵は胸ポケット
にあったのに対し、遺体は俯せの姿勢だったからねえ」
「何か絡繰りめいた仕掛けがあるのかも」
「秘密の隠し扉とか? そういうのは見付かってない。君が証言した、最初に襲われて
意識を失ったという話も、信じがたい。壁から腕が出て来たように感じたと云うが、十
三号室に隠し扉はなかった」
「そんな」
「設計図と実際とを比べ、念入りに調べたから間違いない。建てたのも外部の人間だ。
何か隠し事をしているとは考えられない」
「じゃあ、僕を後ろから襲ったのは……」
「君の言葉を信じるなら、一つだけ可能性がある。襲ったのは十文字君だ」
「え?」
「十文字君は、百田君が襲われる直前に、十三号室に入ったんだろ? 廊下に意識を集
中していた君は、密かに引き返してきた十文字君に気付かなかったという訳だ」
「そんな莫迦な! それだけはあり得ませんよっ」
 強く主張すると、相手は分かっているとばかりに鷹揚に頷いた。
「だとしたら、話は元に戻る。君の立場は厳しい。極めて」

「無事に戻れたら、真っ先に五代君に感謝しておくんだ」
 栄刑事が立ち去ったあと、夕飯と共に先輩が入って来た。どこで時間を潰していたの
か知らないけれども、目が若干落ちくぼんだような印象で、憔悴の痕跡が見て取れた。
そのことを告げると、君はもっと酷い顔になっていると指摘された。
「ということは、身柄を拘束されずに、こうして部屋にいられるのは、五代先輩のご家
族が……」
「手を回してくれたらしい。尤も、基本的に管轄違いだから、いつまで神通力があるか
分からん。今の内に目処を付けたいものだ」
「部屋の外には、見張りの人がいるんでしょうね?」
「いる。百田君はここから出るなと云われなかったのかい?」
「はっきりとは。『出掛けるのなら我々警察に知らせてからにしてくれ』と」
「じゃあ、敷地内なら何とか認めてもらえるかな。いや、容疑者扱いの君を犯行と関係
ありそうな場所に立ち入らせるはずもないな」
「先輩だけでも動けそうですか」
「さて、どうかな。さっきは大丈夫だったが。これも五代君のおかげに違いない」
「……連れて来るの、僕じゃなくて五代先輩がよかったんじゃあ」
 自嘲めかしてこぼす僕に、十文字先輩は叱りつけるような口調で応じた。
「今さら何を云うんだ。これは僕の希望したこと。招待主から逃げたと見なされたくな
いがためにね。それを含めて、君をまた事件の渦中に放り込む格好になってしまって申
し訳ないと思う」
「もう慣れましたよ。先輩のワトソン役を務めるようになって、どれだけ経ったと思っ
てるんです? 今回だって、怪我をしたとか、精神的に酷いショックを受けたとかじゃ
ないですし」
「そう云ってもらえると救われるが、犯人を見付けないことには収まらない」
 先輩はテーブルに置いた大きめのプレートに顎を振った。バイキング料理を適当に見
繕い、盛り付けてきたのが丸分かりだったが、これはこれでうまそうではある。
「とにかく食べようじゃないか。腹ごしらえは大事だろう」
 お茶を入れ、食べ始める。死体を見たあとにしては、食欲は大丈夫だった。
「僕が役立つかどうか分かりませんけど、結局、どういう状況なんでしょうか。イベン
トは本当に用意されていたのかとか、施設の従業員はどこまで把握していたのかとか、
小曾金四郎はどこにいるのかとか。ああっ、岸上さんの誘拐事件も」
 浮かんでくるままに質問を発した。先輩は箸を進めながら、順に答え始めた。
「分かった範囲で云うと、まず、宿泊者を対象とした宿泊モニターは皆が承知だった
が、イベントに関しては小曾金四郎の独断だ。前に聞いた話と変わりない。ただし、パ
フォーマーの何名かは、イベント関連でパフォーマンスを行うように指示を受けてい
た。ミーナとシーナの二人も、空中ブランコを披露する予定だったと聞いた」
「え、ていうことは、怪我は嘘?」
「そうみたいだな。怪我で休んでいると見せ掛けて、じつはっていうどっきりの一環ら
しい。彼女らの他には、ピエロの西條逸太(さいじょうはやた)とマジシャンの安南羅
刹(あんなみらせつ)が組んで、ピエロが空中に浮かんでばらばらになってまた復活す
るという演目を披露する予定だった」
「羅刹って本名じゃないですよね」
「本名は小西久満(こにしひさみつ)といって、西條と組むときは裏ではダブルウェス
トと呼ばれるとか。まあ、これは関係あるまい。演じる予定があったパフォーマーはも
う一人いて、トランポリン芸の北見未来(きたみみく)。普通にトランポリンで跳ねる
だけでなく、壁を徐々に登っていったり、高所から飛び降りてまた戻るという演目だそ
うだ。あ、それからこの北見は元男性」
「へえ。新たに分かった三人には直に会えたんですか?」
「いや。遠目からちらっと見ただけだ。警察以外で情報をくれたのはシーナとミーナだ
よ。話を総合すると、事件発生時に敷地内にいたのは、被害者を除けば、五人のパフ
ォーマーとそのサポート役の二人、そして六人の宿泊客の合計十二人に絞られる。小曾
金四郎が隠れているのなら十三になるけどね。サポート役についてはまだ名前は知らさ
れていないが、文字通りパフォーマンスの手伝いで裏方に当たるようだ」
「ええっと、ちょっと待ってくださいよ。敷地内にいた人ってそれだけなんですか? 
宿泊施設の側の従業員がいるんじゃあ?」
「そこなんだが」
 僕の疑問に、十文字先輩は何とも云えない苦笑顔を見せた。
「ここに来てから、従業員に会った覚えはあるかい?」
「うん? それはありますよ。東郷さんにミーナさん、シーナさん……」
「ミーナとシーナはパフォーマーだ。東郷氏は雑務全般を受け持っているから、まあ宿
泊施設の従業員と云ってもいいかもしれないが、正確には違う」
「もしかして、いないんですか、従業員?」
 ピラフの米粒が飛ばないよう、口元を手で覆いながら云った。十文字先輩は種明かし
を楽しむかのように、目で笑った。
「うむ。人間の従業員はいなくて、ロボットが対応するシステムだ。これもサプライズ
の一つだったというんだ。チェックインや客室への案内は、ロボット従業員が行うはず
だったのが、トラブルでシステムダウンした。結果、急遽パフォーマー達が奮闘したと
いういきさつみたいだ」
「……平屋だったり、通路に曲がり角や段差が少なかったりするのは、そのため? 
え、でも、料理は」
 目の前の料理に視線を落とした。
「料理は将来的にはロボットによる調理も考えているが、宿泊モニター期間は元々、ケ
イタリングで済ませる計画だったから問題ないと聞いた。百田君、そういった細かなと
ころを気にしていたら、事件解決からどんどん遠ざかる」
 あの、ロボットを利した密室トリックや殺人の可能性を思い浮かべていたのですが。
でもまあ、システムダウンしているのであれば、関係ないと言い切れるのか。と、そこ
まで考えてから、ぱっと閃いた。
「――ロボットを使うくらいなら、秘密の扉もあるんじゃあ?」
「ああ、壁から腕が突き出て来たんじゃないという話だな。残念だがそれはない。廊下
を囲う壁は明らかに古い日本家屋の壁で、修繕とその痕跡を覆い隠すための塗装はして
あるが、内部は至って普通だということだよ」
「そうですか……」
 壁の一部が突然開いて、機械の腕が僕の首筋に電流を、なんて場面を想像してしまっ
た。濃いめに入れたお茶を飲み干し、心残りなこの私案を吹っ切る。
「先輩は十三号室に入ったあと、どうなったんですか?」
「入ってすぐ、靴がないと知れたから、岸上氏は留守なんじゃないかと察した。その反
面、人を呼び付けておいて部屋を空けているのはおかしい。とにかく室内を覗いて確認
しようと、靴を脱いで上がり込んだ。念のため声を掛けつつ内扉を開けて、中を見たん
だが、矢張り岸上氏は不在だった。いつ帰ってくるか分からないし、部屋の中で待つの
も問題がある。東郷氏に再確認もしたかったから、部屋を出た。すると君がいないじゃ
ないか。しばらく一人で探したが見付からないのでフロントに出向いたら、今度は東郷
氏が見当たらない。鍵を取りに行ったはずなのに何故? 行き違いになったかと、また
十三号室に引き返したが、誰もいない。何らかのおかしなことが起こっている。施設の
人間を信用できるのかどうか分からない。よほど警察に行こうかと考えたが、ちょうど
このタイミングで東郷氏が現れた」
「ええ? まだ、そのときは生きていたと」
「そうなる。時刻は四時になっていたかな。彼が云うには、十三号室に鍵を開けに戻っ
たが、すでに開いていたから、どういうことなのかと僕を探していたそうだ。僕は鍵が
開いたことと、百田君の姿が見えないことを話し、探すのを手伝ってもらった。といっ
てもすぐ二手に分かれ、別々に行動した。僕はこの宿泊施設の方を探し、東郷氏はワー
ルドサザンクロスに向かったはずだが、この目で見届けた訳ではない。途中、他の宿泊
客に遭遇したので聞いてみたが、知らないという答が返って来ただけ。じきに探す場所
もなくなり、フロントに電話してみた。シーナかミーナかどちらかが出たんで、事情を
伝えるとすぐに行きますと云って――実際は五分以上経過していたと思うが、来てくれ
た。今度は三人で建物周りを三人揃って捜索したんだが成果が上がらず、とりあえず東
郷氏に首尾を伝えようとなって、今度は東郷氏が行方知れずだと判明した。それが確か
五時前だった」
 その後は、僕と東郷氏の両名を探す態勢になり、五時半を少し過ぎたところで、倉庫
部屋に辿り着き、僕は救出。東郷氏は死亡しているところを発見されたという流れだっ
たようだ。
「死亡推定時刻は四時半から五時半の一時間。だが、血の凝固具合から云って五時より
も前の可能性が非常に高いそうだ。百田君、この時間帯にアリバイは?」
 聞くまでもない質問だろうに。僕は首を横に振った。名探偵は軽い調子で頷いた。
「だろうね。さて、僕達以外の宿泊客については、岸上氏を除くと親子連れの三名。親
子連れとは直接会えた。五十代男性と三十代女性の夫婦に、小学校中学年の女の子が一
人。アリバイは証明されていないが、外見だけで判断すればとても事件に関係している
ようには見えない。男性は足が悪くて車椅子生活、女性は男性と子供の面倒をみなけれ
ばならない上に、外国と日本とのハーフで言葉がやや不自由。子供は親にぴったり着い
て離れないという状態だったからね」
「確かに、関係なさそうです」
「アリバイの話が出たついでに、他の面々のアリバイに関して、判明していることを云
っておくとしよう。パフォーマーの五人とサポートの二人は、リハーサル中でお互いの
アリバイはある。ミーナとシーナの二人は時折、宿泊客からの電話などに応対する必要
があったが、事件発生時は僕と一緒に捜索活動していたからね。結局、五人ともアリバ
イ成立だ」
「そんな」
「残る岸上氏だが、僕から云わせれば彼こそが怪しくなってきた。誘拐事件があったと
いうのは芝居だと云い出したんだ」
「ええ? さっきの刑事、そんなことはおくびにも出しませんでしたよ!」
 自宅だったら、机をどんと叩いてていたかもしれない。怒ってみたものの、警察の捜
査では極当たり前にある手法だと知っている。
「自分は小曾金四郎から送られてきた台本に沿って、役柄を演じただけだとさ。多少変
な役だと思ったが、高額報酬につられて引き受けたんだと。小曾とは会ったこともなけ
れば、声を聞いてすらいない。それはともかく、彼が役柄として指示されていたのは、
東郷氏を通じて僕らにメモを見せ、十三号室に呼び付けるまでだった。その後は別の部
屋に閉じ籠もって身を潜め、明日の昼間に種明かしという段取りを聞かされていたらし
い。それらのことは東郷氏もパフォーマー達も承知の上だったと云っている」
「うーん、何が嘘で何が本当なのか、こんがらがりそうです。要するに、岸上氏が小曾
金四郎に化けるのもイベントの一部であり、そのことは岸上氏本人だけでなく、パフ
ォーマー達も認めている。だから事実だと見なせる……」
「それが妥当な見方というものさ。思わぬ多人数が共犯の可能性を除けば、だがね」
「誘拐がなかったのはいいことですけど、岸上氏が犯人あるいは犯行の片棒を分かって
いて担いだんだとしたら、どうして妻子を誘拐されたなんていう設定を選んだんでしょ
うか。殺人事件が起きて警察に乗り込まれたら、その嘘を必要以上に疑われるのは目に
見えてると思いますが」
「僕もそう考えた。それ故に、岸上氏が怪しいとする線で押し切れないのだ。小曾金四
郎の存在も気に掛かるしね」
「オーナーの動向に関しては、パフォーマー達も岸上氏も、全く把握していないんです
かね」
「そのようだとしか云えないな。嘘を吐いている者がいても不思議じゃない。だが、何
にしても動機が不明だ。遊戯的殺人者の線を除外すればの話だが」
 遊戯的殺人者。その言葉が出て来て、僕は内心、矢っ張りかと感じた。大げさな招待
状に軽いアナグラム、そして意味があるとは思えない密室殺人。これだけ“状況証拠”
があれば、今度の事件は冥かその一味の仕業と考えてかまわないのではないだろうか。
 冥――冥府魔道の絡繰り士を自称するという、遊戯的殺人者。殺人のための殺人、ト
リックのためのトリックを厭わない、むしろそのために人を殺す。現在、職業的殺人者
つまりは殺し屋のグループと揉めている節が窺える(らしい)。その一方で名探偵を挑
発し、試すような行動を起こすこともしばしば(らしい)。いずれも一ノ瀬和葉のお
ば・一ノ瀬メイさん――旅人であり探偵でもある――が主たる情報源だ。冥とメイさん
とで紛らわしいが、事実この通りの名前なのだから仕方がない。
「冥の仕業だと思いますか」
「大いに可能性はある。最近、一ノ瀬メイさんも冥から試されるような事件を仕掛けら
れたことがあると云っていた。だから動機は斟酌しないでいいのかもしれない。真っ当
な動機があるとしたら、殺し屋グループにダメージを与えるためとか冥の身辺に肉薄し
た探偵を始末するためとか、そういったところだろうさ」
 穏やかでない仮説だが、少なくとも僕らは冥の正体に迫ってはいないだろう。第一、
冥自身が僕らを招いておいて、招待を掴まれそうになったら殺すなんて理不尽は、激し
く拒否する。絶対に願い下げだ。
「対策を立てるなら、メイさんに改めて連絡を入れて、最新の情報を仕入れておくのが
よくありません?」
「うん、一理ある。あの人は掴まえるのに苦労させられるが、電話なら何とかなるかも
しれない。ああ、しまったな。今の僕らは携帯電話が使えない。フロントの近くに公衆
電話があるが、人の行き交う場所で話すのは躊躇われる……」
「そんなことを云ってる場合じゃないと思うんですが」
「確かに。賢明な人だから、こちらが事件のあらましを伝えたら、察して一方的に喋っ
てくれるんじゃないかな」
 十文字先輩は腰を上げると、部屋を急ぎ足で出て行った。テーブルにはほぼ空になっ
たプレート二枚が残された。

 電話をしてきたにしては、いやに早いな。五分程で戻って来た先輩を迎えた僕は、内
心ちょっと変に感じた。
「どうでしたか」
「電話はしていない。フロントにいた、ええとあれはシーナが、伝言をくれたんだ。彼
女が云うには、『一ノ瀬メイ様から先程お電話があり、十文字様に伝えて欲しい、でき
ればメールをそちらに送りたいとのことでしたので、お部屋におつなぎしましょうかと
お伺いしたのですが、時間がないからとおっしゃって。それでメールアドレスをお伝え
したところ、ほとんど間を置かずにメールを受信しましたので、プリントアウトした次
第です。つい先程のことで、お知らせするのが遅れて、申し訳――』ああ、僕は何を動
転してるんだ。ここまで忠実に再現する必要はないな。要するに、五代君経由で事件の
概要を知った一ノ瀬メイさんが、気を利かせて情報を送ってくれたんだ。敵か味方か分
からないシーナにメールを見られたのは、今後どう転ぶか分からないが、とにかく読も
う」
「はあ」
 高校生探偵の一人芝居に、しばし呆気に取られていた僕は、つい間抜けな返事をして
しまった。それはともかく、メイさんからだというのメールには、次のような話が簡潔
にまとめられていた。

・冥の仕業である可能性が高い。
・その傍証として冥が起こしたと考えられる殺しで、私は似たような謎を解いた。
・その謎とは湖での墜落+溺死で、詳細は省くが、湖内に高さのある直方体の風船を設
置し、てっぺんに犠牲となる人物を横たわらせる。それから風船を破裂させれば以下
略。
・ここまで書けば、このトリックにはさらなる前例があることに気付くと思う。繰り返
し同じ原理を用いたトリックを行使することは、冥にとって当たり前の日常的な行為と
推察される。
・それから十文字龍太郎君。名探偵であろうとして完璧さに固執せずに、弱さを認める
べきときは認めるのが肝心。

 以上だった。
 メイさんが示唆しているトリックについては、理解できた。だが、そのトリックが今
度の事件とどう結び付くのかがぴんと来ない。
「先輩、このトリックが倉庫部屋の密室に応用できるんでしょうか」
「……できる。そうか、分かったぞ」
「本当ですか?」
「うむ。君はよく見ていないから知らなくて当然だが、ワールドサザンクロスではエア
遊具的な物を多用しているんだ。ほら、商業施設のイベント用やスポーツセンターの子
供向け広場なんかに設置されることがあるだろう、空気で膨らませた強度の高いビニー
ル製の滑り台が」
「分かりますよ、見たことあるし」
「ワールドサザンクロスには、エア遊具ならぬいわばエアセットとでも呼べそうな代物
が多い。空気で膨らませたビニール製の建物や壁だね。トランポリン芸を披露するの
に、ちょうどいいんだろう。恐らく、あの倉庫部屋にも仕舞われてると思うが、空気を
抜いて小さく畳まれていれば気付かなくても無理はない」
「つまりは、メイさんが示唆したトリックを実行するための道具には事欠かないって訳
ですね」
「その通り。あの倉庫部屋に合った適切なサイズのエア遊具を使えば、密室殺人は可能
だ。想像するに……東郷氏は犯人が云うドッキリを演出する助手で、こう命じられたん
じゃないかな。百田君を意識を失わせた後に拘束して倉庫部屋に運び込み、布団に寝か
せる。東郷氏自身はその横で死んだふりをする。目覚めた君を驚かせる算段だ。ところ
が犯人の真の狙いは、東郷氏の殺害にあった。東郷氏は直前に、眠り薬の類やアルコー
ルを混ぜた飲み物を飲むよう仕向けられた。東郷氏自身は秘密の行動中だから当然、部
屋に入ったあと内側から錠を下ろす。横たわった彼はじきに前後不覚となり、意識をな
くす。頃合いを見計らって犯人はエアを注入」
「え? どこにエア遊具があるんですか」
「横たわった下だよ。これも想像だが、東郷氏が横たわる下には、床によく似せた迷彩
を施したエア遊具が設置されていたんじゃないか。そこに空気を送り込むホースは、倉
庫部屋にある足元の小さな窓を通せばよい。コンプレッサーを始動して風船を静かに膨
らませると、東郷氏は持ち上げられる。同時に、遊具の内部中央には一本の刃物が備え
付けられており、膨らみきったところで垂直に立つような仕組みになっていたんだと思
う。その状態で風船が破裂すると、どうなるか。東郷氏の肉体はすとんと落下し、真上
を向いた刃先に突き刺さる。割れた風船の破片は、小窓から回収できるだけ回収する。
残りが現場にまだあるかもしれないな。ホースももちろん片付けて、小窓を閉めれば密
室の完成だ」
「……凄い」
 僕は一応、感心してみせた。
 一応というのは、納得できない点があるにはあるから。そこまで大きな風船がすぐ隣
で割れたのに、僕は気付かなかったのだろうか。仮にじんわりゆっくり空気を抜いてい
ったとしたら、音で気付くことはないだろうけど、凶器の刃物がしっかり刺さるのかと
いう疑問が生じる。まだ他にも引っ掛かることがあるような気がするのだけれど、はっ
きりしない。霞の向こうの景色を見ようと、曇りガラス越しに目を凝らしている気分。
「無論、今云ったトリックが使われたとは限らない。だが少なくとも、密室内に他殺体
と一緒にいたから君が犯人だというロジック派は崩す余地が出てきた。そのためには物
証が欲しい。早速、警察に一説として知らせたいな」
 少し興奮した様子の十文字先輩。僕は同意しつつも、「それじゃ僕を背後から襲っ
た、壁からの手は何だったんでしょう?」と疑問を口にした。
「百田君の勘違いではないんだな?」
「壁から腕が突き出たという点は断言しかねますけど、壁を背にしていたつもりなおに
後ろからやられたのは間違いないです」
「ふむ……」
 顎に手をやり、いかにもな考えるポーズを取る先輩。その視線が、メイさんからの
メールの写しに向けられる。最初から順に読んでいるように見えた。
 そして最後まで来て、やおら口を開く。
「実は、一つだけ可能性があると思い付いてはいる」
「だったら、それを聞かせてください。決めかねる部分があるんでしたら、僕が推理を
聞くことで記憶が鮮明になって、何か新たな発見があるかも」
「うん。いや、決めかねているとか曖昧な点があるとかじゃないんだ。ほぼこれしかあ
るまいという仮説が浮かんだ。ただね、それを認めるには僕自身の問題が」
 そこまで云って、先輩はメイさんのメールの一点を指さした。
「思い切りが悪いな、僕も。こうして一ノ瀬メイさんが先読みしたように警句を発して
くれたのだから、ありがたく受け入れるべきだな」
「先輩、一体何を」
「この最後の一文さ。自分のプライドに関わるからといって、認めるべきものを認めな
いでいると、真実ををねじ曲げてしまう」
 先輩はそうして深呼吸を一つすると、まさに思い切ったように云った。
「僕は十三号室に入るとき、気が急いていた。内扉の向こうにばかり注意が行っていた
んだと思う。逆に云えば、それ以外への注意が散漫になっていた。入った直後、左右を
よく見なかったんだ。部屋の構造はどこも同じだという油断もあったと思う。下足入れ
にライトと鏡があるくらいで、その暗がりに何があるかなんて、全く想像しなかった」
「もしかして、その暗がりに人が潜んでいた?」
「恐らく、じゃないな。確実にと云っていいと思う。最初、東郷氏を含めた三人でいた
ときは鍵が掛かっていたのに、しばらくすると解錠されただろ。中に人が潜んでいた証
拠だよ。素直に考えればよかったんだ」
 こちらの方は納得できた。では、隠れ潜んでいた人物は誰?
「隠れていたのは岸上氏なんですかね。十三号室の宿泊客で、イベントに関して主催者
側だったのだから、ギャラと引き換えに命じられたら、ある程度までひどいことでも引
き受けそうですよ」
「普通の俳優がいくら仕事でも、他人を気絶させるような真似をするかね。尋常じゃな
い。まあ、だからといって隠れていた人物が岸上氏ではないと断定する材料にはならな
いが」
「他に候補はいます?」
「誰でもあり得るんじゃないか? 全く姿を見せていない者は、特徴で絞りようがな
い。小曾金四郎だってあり得る」
 十文字先輩の云う通りだ。極論するなら、影に潜んでいた人物と殺人犯とが同一とさ
え限らない。現実的には同一人物か、少なくとも共犯関係にある二人である可能性が高
いんだろうけど。
「各人の詳細なアリバイをリストアップして検討すれば、あの時刻――三時から三時半
ぐらいだったと思うが――十三号室内にいることが不可能な者はそこそこいるんじゃな
いかな。家族連れ三人組は除外できるだろうし、シーナとミーナ以外のパフォーマー達
も外せそうだ。云わずもがなだが、東郷氏も外せる」
 ここまで検討して来て、誰が有力な容疑者かを考えてみる。当然、小曾金四郎が最も
怪しいが実態がはっきりしない上、警察の捜査が入っていつまでも逃げ隠れしていられ
る秘密の場所が、この敷地内にあるとは考えにくい。一方で十文字先輩の推理したトリ
ックが殺人に使われたとすれば、その後片付けまで含めると少なくとも五時十五分、機
械の大きさによっては二十分頃までは現場周辺にいなければならないだろうから、その
後の逃走は難しそうだ。もし小曾金四郎が犯人なら、実行犯ではなく計画を立てた首謀
者なのではないか。
 岸上氏にも嫌疑を掛けざるを得ない。小曾金四郎と通じて、舞台裏をある程度把握し
ていたのは当人も認めており、平気な顔で嘘を吐き通せる。実行犯の可能性があると云
えよう。引っ掛かりを覚えるとすれば、誘拐云々という嘘。その話を聞いた僕らが強引
に警察に通報していたら、計画は失敗に終わったはず。わざわざ警察の介入を招きかね
ない誘拐を嘘のネタに選ぶ理由が分からない。
 他にはシーナとミーナも多少怪しい。十文字先輩と一緒になって僕を捜してくれてい
たというが、アリバイ工作の匂いを感じる。空中ブランコをこなすくらいなら、細身の
女性でも身体能力・運動能力は高いに違いない。
「さっきの殺人トリックって、結局、空気を送り込むコンプレッサーを駆動しておけ
ば、自動的に殺せますかね?」
「殺せるだろうね。無論、そのままにしておけないし、痕跡を消すためには色々と手間
が掛かる。目撃される恐れもある。幸運の女神ってのが犯人に味方したのかもしれない
な」
 うーん。それだと矢っ張り、シーナやミーナには難しいのか。
「さあ、いつまでも推測を重ねて、ぐずぐずしていても始まらない。警察に進言しに行
こうじゃないか」
「あ、僕も一緒にですか」
「決まってる。説得するには百田君自身の証言も重要になってくる」
 慌てて立ち上がる僕とは対照的に、先輩は落ち着き払った態度で、しかしきびきびと
次の行動に移った。

             *           *

「君にはがっかりだよ」
 一号室の会話を、車中で一人、盗聴器を通じて聞いていた冥は深く息を吐いた。警察
の人間の目に止まると厄介だからと、建物には近付けないでいたが、音はクリアに聞こ
えている。
(高校生名探偵の誉れ高い十文字龍太郎だったが、期待外れのようだね。元々、私自身
はその高い評判に疑問を抱いていたが)
 耳に装着したヘッドセットをひとまず外すと、念のため大元の機器のボリュームも落
とした。
 冥が今回の犯罪を計画した端緒は、十文字龍太郎の探偵としての能力に今ひとつ確信
が持てなかったことにある。ライバル――遊び相手にふさわしいのか見定めるために、
罠のあるテストを仕掛けた。
(こうも易々と引っ掛かるようでは、本来の探偵能力も怪しいものだ。知識ばかり先行
して、オリジナルの問題は解けないタイプじゃないかな。今回も、一ノ瀬メイからの
メールを偽物と気付かない上に、誘導に簡単に引っ掛かって、同工異曲のトリックが使
われたと信じてしまった。風船のトリックでは、死体の向きがおかしい。東郷の死体は
背中を刺され、俯せだった。風船が破裂してその下の凶器に突き刺さるのであれば、な
かなかそんな状態にはならない。破裂の弾みでそうなる可能性はあるが、仰向けのまま
である可能性の方が圧倒的に高い。もしも仰向けになったら、小窓から糸を介して鍵を
死体の懐に入れるやり口が容易になり、密室の強固さが失われるじゃないか。密室殺人
のためのトリックなのに、そんな不確定要素の大きな手段を執るはずがないと気付かね
ばいけないレベルだよ。暗示に掛かりやすい訳でもなさそうなのに……周りの人間に頼
りがちなところがあるということか。本人に自覚はなさそうなのが痛い。少女探偵団の
子達みたいに、最初からグループでやってますって看板を掲げているのなら、まだかわ
いげがあるのに、しょうがないやつだ。あの年頃にありがちな、実像以上に己を強く大
きく見せたい願望かな。調べたところでは、この四月の“辻斬り殺人”で、校内で襲わ
れた件はその後、犯人探しに力を入れていないようじゃないか。名探偵ともあろう者
が、そんな逃げ腰、弱腰でいいのかねえ)
 十文字探偵に対する感想を心の中で積もらせた冥は、しかし何故だか微笑を浮かべ
た。
(名探偵と呼ばれるが実際はたいしたことない、という存在には利用価値がある。色々
と想定できるが、実際に使えるのは恐らく一度きり。勿体ないな。まあ、別の楽しみも
あるしね。十文字に力を貸してきた周囲の連中が、なかなか優秀なんじゃないか?)
 と、そこまで近い将来図を描いていたところへ、電話が鳴った。複数所有している中
のどれだったかを瞬時に判断し、取り出す。
「小曾です」
 小曾金四郎からだった。普段の声とは息づかいが違うが、冥の耳は小曾本人だと正し
く認識した。
「私だ。定時連絡の時間には約一分早いが、ハプニングかな?」
「いいえ、順調そのものです。ただ、時計が。携帯電話の液晶がおかしいのか、読み取
れなくなりまして、それがハプニングといえばハプニング」
「腹時計で掛けてきたのかね? それはちょっと愉快だな」
「このような状況ですので、予定を切り上げて早めに脱出をしたいのですが」
「かまわない。自力で行けるかね?」
「大丈夫、何ら問題ありません」
 答えると同時に通話は切られた。冥は、使える部下の無事の帰還を待つことにした。
(そう、迂闊な見落としといえば、この点もそうだぞ、十文字探偵。小曾金四郎の本名
を気に掛けたまではよかったが、あとの詰めが甘い。小曾金四郎が芸名だったと知った
時点で、何の芸なのかを気にすべきだったのだ。那知元影という名前の方が、よほど芸
名らしく響きやしないか? これは偶然の産物ではあるが、那知元影は文字通り、名は
体を表すの好例と呼べるのだから、気付く余地はあったのだ。お得意のアナグラム……
ローマ字にしてから並び替えれば、それが浮かび上がる)
 冥は宙に指で文字を描いてみせた。

 nantaigei

――終わり




#523/598 ●長編
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:06  (229)
「長野飯山殺人事件」1 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:18 修正 第3版
1

 飯山ミュージック劇場は、こんな場末にあって、しかも雪で足元が悪いのに、
盛り上がっていた。
 天井にぶら下がったスピーカーから、音割れしたハウスミュージックが
ガンガン響いてきていた。
 お色気むんむんのピーナがステージ狭しと踊り狂っていた。
 肌の上を、赤、緑、青のスポットライトがくるくるとまわる。
 客のオヤジどもは、手の平も裂けんばかりに手拍子を送っていた。
 踊り子はステージの前面にせり出してくると、激しく身をくねらせた。
「燃えよいい女、燃えよギャラリーッ」という訳の分からないアナウンス。
 踊り子は前後左右に移動しながら、陶酔した様に踊り狂う。
 オヤジどもは狂喜乱舞の大はしゃぎ…。
 突然音楽が止まった。
 スポットライトも消えた。
「ありがとう、ございました」踊り子はちょこっと頭を下げると
楽屋に消えていった。
「続きましてはタッチショー。なお只今おっぱいの化粧中ですからね、
しばらくお待ちを」
 場内にピンクの明かりが点灯した。
マドンナの『クレイジー・フォー・ユー』が流れる。
 ステージの袖から、上半身裸で皮の腰巻だけ付けた女が再登場する。
「はい、拍手よろしくー」
 ぱらぱらぱらー、とやる気のない拍手があちこちで鳴った。
 ステージのすぐ横に居たおっさんが立ち上がって、
でれーんと両手を差し出した。
 女はそこへ行ってあぐらをかくとウェットティッシュで客の手を拭いた。
それから両手をとっておっぱいを揉ませる。
 おっさんはグィッと鷲掴みにすると、グイーっと揉みあげた。
「アーイ、ノー、優しくお願いしまーす」と女が嫌がっても、
ニンマリとスケベそうに笑っている。
 あれは中川といって、俺の電脳同人誌の仲間だった。
T大法医学教室出身の医者で、今は勤務医をやっていると言っていた。
 その隣に座っているのが佐山で、メーカー勤務で、
叙述ミステリーを書くとか言っていた。
 中川と佐山は俺がこの飯山に招いたのだった。
俺がマンション管理員をやっているスキーマンション兼ホテルが
長野県北部地震のせいか暇なので遊びにこないか、と誘ったら、
向こうも暇だから遊びに来るという話になったのだった。
そして泊まりにきたついでに劇場にも招待したのだった。
 中川はピーナの背中に手を回して片乳を揉みながら覗き込むようにして
話しかけていた。
 すけべ野郎。あいつは女好きで、看護師を愛人にしていると言っていた。
「やり過ぎてちんぽから血が出たで」とか言っていた。
「赤玉ってやつじゃないの?」と俺は言ってやったが。
 精液に血が混じるのは睾丸に病気があるからだと俺でも知っているのに、
元法医学者がそんな事も知らないのか。
法医学の知識を元にミステリーを書くとか言っていたが。
 俺は密かにあいつをライバル視していた。
あいつには解けないトリックを考え出して見せつけてやりたい。
いや、俺だったら社会派かな。ストリップ劇場の裏事情でも書くかな。
 劇場の裏事情なら隣に座っている同僚の牛山さんが詳しい。
見ると酔っ払って眠り込んでいる。
インスリンを打っている上に人工透析もしているのに、
こんなに飲んで死なないのだろうか。
時々咳をしている。ゲホッゲホッっと。痰の絡まるようなヤバそうな咳だ。
ヤバイんじゃないのか。
或いは今俺も胸を患っているので、咳に敏感になっているだけかも。

 パタンと入り口のドアが開くと店員が顔を突っ込んできた。
「はい、カミールの個室サービス、42番のお客さん、ステージ横の個室ね」
 この劇場には個室サービスというのがあって
三千円でユニットバスぐらいの個室で一発やらせてくれる。
 店員の後ろからカミールが入ってきた。パンティーにタンクトップという姿で、
手にはコンドームなどの入ったポシェットをぶら下げている。
「俺や」突然酔いがさめたように牛山が立ち上がった。
 なんだ、個室チケット買っていたのか。
 牛山はよろよろと椅子の間をすり抜けていくと、
カミールの後ろにくっついて行って個室の中に消えていった。
 ユニットバスのドアをすかして、抱き合っている影が見える。
 それを見ながら俺は牛山の話しを思い出した。
 カミールと店外デートした話。

【先週の給料日の話なんだけど。焼き鳥屋とかスナックで飲んでから、
十時頃、劇場に行ったんよ。
 最終回の3人目にニューフェイスの娘が出ていて、
久々にアイドル系の娘で、つい年甲斐もなく買っしまったんよ。
本当は俺みたいなジジイは年季系のサービスのいい女に入ればいいのだが。
 個室に入ったらいきなりコンドームか被せようとするんで、
ああ、まだ素人だな、と思った。
 彼女は眉をしかめてオンリーフィフティーミニッツと言っていた。
 英語だったら多少は分かるんで教えてやった。
 そんなんやって早く終わらせようとするから、消耗するんよ。
ぎりぎりまでしごいておいてから入れれば三こすり半で行ってしまう。
そうすれば疲れないだろ。つーか、こんな個室はアンテナショップにして、
店外デートで稼ぐ方が消耗しないだろ、などと教えているうちに、
自分が常連中の常連になった気がして、白けてしまった、萎んだまんまよ。
 もういいと言って、パンツを上げようとすると、
 まだ時間がある、まだ時間があると、引き止める。
 俺は思わず座り込むと、「どこからきたの?」と聞いた。
 フィリピン。
 幾つ?
 十八。
 子供が居ないのは体で分かった。
 借金はいくらあるの?
 それは私の問題。
 まあいいから。
 彼女は指三本立てた。
 三百万かあ。個室で客をとっても一人千円だから大変だなあ。
 しょうがない。
 そんな話しをして、十五分が経ったら、背中を丸めて個室から出てきた。
 それから自販機で缶ビーをル買って、おまんこを肴に、ビールをなめなめ、
結局閉店まで粘った。
 外に出たら雪だ。
 酔いを覚まそうと、コンビニで缶コーヒー買って出てきたら、
さっきの女の子が軒下に立っている。白い薄いパーカー一枚で。
 何やってるの?
 友達を待っている。レストランに行くから。
言うと、パーカーに両手突っ込んで膝をがたがたさせている。
 自分風邪ひくよ。そうしたらこれ飲んで待ってな。今車を回して来てやるから。
 そうして車を回して来ると、彼女を乗せて、
エンジン三千回転ぐらいにしてエアコンで暖めた。
 暖まってくると体も柔らかくした。
 ルームミラーでちらっと劇場の方を見ると店員がシャッターを下ろしていた。
 友達くるのか? 電話掛けてみる? 言ってスマホを渡すと、
掛けて、ぺらぺらぺらーっとタガログ語で何か言っていた。
 携帯を切ると、シーズライヤー、ライヤーと言う。
 なに? なに?
 彼女、うそつきー、と日本語で言った。
 ライアーか。あんた、もう帰った方がいいんじゃないの?
 劇場は二時まで開いているからファミレスへ連れいってくれ、と言う。
 そうしたらデニーズだ。あそこはメニューが写真だから日本語が読めなくても
大丈夫だから。
 デニーズではピザだのハンバーガーだのをぺろーっと食べてた。
俺だったらこんな夜中にあんなもの食ったら胸焼けがしてたまらんが。
 それから劇場に帰るともう閉まっていた。
 結局ホテルに行った。
部屋毎に建物が別になっている昔ながらもモーテルだった。
 部屋は暖かかった。
 入るなりカミールはうずくまるようにして腹を押さえるんで、
何しているんだと思ったが、Gパンのボタンを外してたんよ。
ぺらぺらぺらと脱ぐとすっぽんぽんになった。
 俺もぎんぎんになる。
 それからやったよ。
 終わると、俺の腕を取って、首に巻きつけて、俺の太股に足を絡めて来る。
 何をする気だと思ったら、そのまま俺の胸の中で寝息をたてたんよ。
 体が熱かった。女の体ってこんなに熱を持っているのか。
 雪が降っていたからすごい静かだった。どっかで、しゅーっと、音がしている。
暖房の湯が回っている音だろう。
 俺は、関係を続けたいと思った。でも客になるのは嫌だ。
でも彼女に必要なものは金だろ。どうしたらいい?
 スマホを買ってやろう。劇場の個室は三千円だから、
三千円使う毎に一回やらせてもらえばいい。
それから兎に角冬服を買ってやらないと。
 朝、デニーズ行って、マンゴーを食っている彼女に、スマホの件を提案した。
 そうしたら私、どんどん使う。
 三千円で一回だぞ。
 何回でもやる、と無邪気に彼女は言った。
 そんな話をしていて思ったのは、劇場で一人やっても千円、
あと何人とやらないといけないのかということ。
 突然、俺は、俺が死んで保険金をやれば、と思った。
俺の保険金で借金を返して帰ればいいんだ、と考えた。
 俺は透析にもうんざりしていた。週に三回も四時間も五時間もやるのがだるい。
もうすぐ個室型の透析器が入って寝ている間にできる、と妹が言っていたが、
それでも面倒くさい。
金があれば自分の家に透析器をおけるだろうが、銭が入るのは死んでからだ。
 カミールもうつむいて、うーんとうなっていた。
「どうした?」
「変な事を考えていた。フィリピンから女の子を入れて百万ぐらい抜けば自分は仕事を
辞められる…、だめだめ、それは悪い考え」と頭を振る。
 そんなやばい橋渡れるのか。
 とにかく劇場に彼女を送り届けると、俺はスマホと冬服を買いに走った】

 牛山の話を脳内再生をしていたら、リアル牛山が個室から出てきた。
 チャックのあたりを直しながら長椅子に腰掛ける。
「思った通り、たたなかったよ。ところで、頼みがあるんだが。
今晩、カミールをアパートまで送っていってくれない?」
「えっ、だって俺、東京から来たあの二人とあんたを送っていかないと」
「いいよ、俺らタクシーで帰るから」

 十二時過ぎ、牛山ら三人はタクシーで帰っていった。
 俺はコンビニの前にレガシィをまわすと暖機運転をして待っていた。
 ルームミラーで、百メートルぐらい後方の劇場を見る。
店員が酔っぱらいの客を追い出して、
あたりを見回した後、シャッターを半分閉めた。
 やがて、厚底ブーツにファー襟ジャケットのカミールが現れた。
と思いきや、後ろから四人も付いてくる。
 なんだよ、なんだよ。
 ここで、速攻でトンヅラすればよかったのだが、迷っているうちに、
女たちは小走りに迫ってきて、後部座席に乗り込んできた。
「あーい、あなた怖がっているでしょう。どうしてあなた怖い? 
もし逮捕される、それ私達でしょ。あなた問題ない、だいじょうぶ」
年季系の女が日本語で言った。
 後ろに四人乗ってカミールが助手席に乗った。
「デニーズお願いしまーす」タクシーの運ちゃんにでも言うみたいに言う。
 俺は諦めて車を出した。
 カミールは身をくねらせると、
後ろに向かって英語混じりのタガログ語で話していた。
「ウシヤマは勘違いしている。個室の客はこうやれば早くイク、だの、
デートならおまんこを消耗しない、だの。その積りで彼を誘ったのに、
一発やらせてくれたら三千円分スマホを使っていいとか、ケチな事を言う。
あれは、自分は客じゃない、マネージャーだ、みたいに思っているのか」
 けっ、牛山も気の毒な男だなぁ、と思いつつ、俺は飲み屋街から国道に出る
路地を慎重に走っていた。
 ところが、なんと、その路地の出口のところで、検問をやっていた。
 合図灯に止められた。
 窓を三センチぐらい開けた。「なんの検問ですか?」
「バレンタインデーの飲酒検問でーす。お酒のチェックさせて下さい」と、
マイクみたいな形の検知器を突っ込んできた。
 はーっと息を吹きかける。俺は店では飲まなかったからそれはよかったんだが。
「一応、免許証拝見できますかね」と言ってきた。
 こういう時に限って、ポンタカードだのキャッシュカードだのに挟まって
免許証が出て来ない。心臓がばくばくしてきた。
「手元、暗いですかね」とお巡りが懐中電灯を向けてきた。ついでに隣の女、
そして後部座席の女も照らす。
「あれあれ、後ろに4人乗っているんですか。定員オーバーですね。
つーか外国の方?」
 離れたところにいたお巡り2人も寄ってきた。
「ちょっとパスポート拝見出来ます? パスポート、プリーズ」
「あーい、ノー」女たちは渋りながらもパスポートを出した。
 お巡りたちがパスポートに懐中電灯を当てる。
「あらららオーバーステイだ。こりゃあダメだ。
ちょっと署までご同行願いますかね。ポリスステーション、プリーズ」
「あーい、ノー」
 女たちは車から降ろされると、パトカーに収容されてしまった。
「ご主人の分は、定員オーバーの違反切符を切りますので」言うと、
画板に免許証を挟んで違反切符に記入しだす。
「彼女らはどうなるんですか?」
「さあ。何日か勾留されて、入管に行って、強制送還になるのか、
ちょっとその先は分かりませんねぇ」
 女を乗せたパトカーはパトライトを点灯して行ってしまった。
 ヤバイ。俺はどうなるんだ。
 俺はあたりをキョロキョロ見回した。
 持って行かれたのは今更しょうがない、が、
劇場の客にでも見られていたら「あいつがお巡りに捕まったんだ」と言われる。
 回りに人影はなかった。
 このまま誰にも言わなければバレないだろうか。
牛山には、昨夜誰も出てこなかったと言えばいいか。





#524/598 ●長編    *** コメント #523 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:07  (126)
「長野飯山殺人事件」2 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:19 修正 第3版
2
 その晩、一睡も出来なかった。
 夜中じゅう、強迫観念に襲われていた。
やくざに拉致られて廃工場でリンチを受ける。
生爪を剥がされたり、歯をペンチで抜かれたり。
 朝になると、それでも空腹になって、朝マックへ行った。
 ソーセージマフィンを食っていたら、なんと、牛山さんの妹の良美さんが現れた。
彼女は飯山の隣町の中野町の僻地病院で看護師をしていた。
そこで牛山さんも透析をしていたのだが。
 彼女は、片手にショルダーバッグ、片手にトレーを持って、
操り人形の様に座席の間を歩いてくる。
途中で俺に気付き、こっちにくると相席してきた。
「あらー、おはよう、これから出勤?」
「いや、今日は夜からのシフトなんだよ。そっちは?」
「私はこれから」
 言うと、エッグマフィンをつまんでがぶりとかぶり付く。。
 その時、ジャケットの袖から手首が出て、
鱧でも刻んだみたいなリスカの痕が見えた。
 あれは、昔、僻地病院で、新生児の交換輸血に失敗して子供を死なせた
ということがあって、それがトラウマになっていて、リスカをするのだという。
 それからリスカのみならず、瀉血、透析、血液クレンジング療法など、
ほとんど血液マニアになってしまっているという。
 何でそんなことになるのか。
 前にゲイバーに行った時に、オカマのリストカッターが言っていた、
リスカはアナニーに似ていると。
アナルが疼くのは、勃起したペニスが空中に投げ出されたみたいな
寂しい時なのだが、そういう時にアナニーを繰り返すと脳に回路が出来るという。
同時にアナルに限らず、尿道切開、チクニーなど同時多発的に性感帯が発生する。
 それと同じで、良美の場合、交換輸血で空虚な気持ちになって
リスカを初めたのだが、同時に瀉血、透析、血液クレンジング療法などに
連鎖していったのではないか。
 俺は、エッグマフィンを食っている良美を、上目遣いで見た。
「そうそう」と良美がこっちを見た。「兄貴の透析だけど」と又血の話。
「とうとううちの病院に個室用の透析器が入るのよ、今日ね。
あれがあれば兄貴も夜に透析出来るだからいいと思うんだ。
もう兄貴も疲れているだろうから」
 俺もあんたの兄貴のせいですごい疲れてると言おうかと思ったがやめた。
「俺も今病院に通っているんだ。飯山市の市民病院だけれども。胸を患って」
「へー。兄貴もそっちにも通っているのよ」
「どこが悪いの?」
「うん、ちょっと」
 がんかな。あの咳の事を思い出した。
「兄貴に会ったら連絡くれるように言ってよ。
最近シフトの関係で全然会わないから。電話しても寝ていたら悪いし」
「ああ、言っておくよ。遅くとも明日の朝にはマンションで会うから」
「じゃあ、よろしく」
 良美はハッシュドポテトを食ってコーヒーを飲むと行ってしまった。
ゴミをトラッシュボックスに入れて。

 彼女が行ってしまうと、又拷問の続きが脳裏に浮かんだ。
鼻の穴に割り箸を突っ込まれたり眼球をえぐられたり。
でも別に俺には責任はないとも思う。俺はただ単に風俗店で遊んでいて、
アッシー君をやっただけだものなあ。それに誰にも見られていないんだから、
見つかる要素もないし。
 などと思っていたら スマホが振動した。
「斉木か」
「えっ」
「飯山興業のものだけれども。あんただろう、夕べうちのタレント連れ出したの。
四人もパクられちまったぞ」
「はぁ?」
「は、じゃねーよ。もう劇場は穴あいちゃうし、
マネージャーは女を返せって騒いでいるし、どうしてくれるんだよ」
「なんで俺だって分かるんですか。つーかどうやってこの番号知ったんですか」
「一人出てきたんだよ、まだビザがあった女がいて」
 カミールだ。カミールには電話番号を教えていない。牛山に聞いたのか。
「お前、即行で事務所に来い。来ないならこっちから行くぞ。
もうそっちの住所とか特定しているんだから。今から一時間以内に来い」
言うと電話は切れた。

 俺はとにかく、まだ女の匂いがぷんぷんするレガシィに乗ると、飯山に向かった。
 俺の住んでいる所は中野町といって、長野線の信濃竹原駅という寂れも寂れた
駅付近にある。
 飯山に行くには、雪の高社山を右手に北上していく。
 左右にうず高く雪がつまれた県道355を北へ走った。
 時々バスとすれ違うとチェーンの音がじゃらじゃらしてきたが、
それが行ってしまうと、人も車もいなくなった。
 355から414に入ると更に寂れて自分の車以外は何もなかった。
 俺はチェーンを付けておらず、溝の減ったスノータイヤだけだった。
ここで、又事故でも起こしたら、泣きっ面に蜂だ。夕べの定員オーバーで、
せっかくのゴールド免許にも傷もついたし。
 ところが、北陸新幹線の高架の下のところで、ごとっと何かを轢いた。
 なんだッ。猪か何かか。まさか人じゃあるまいな。
 降りてって確かめると熊だった。
体長一メートルに満たない小熊が頭から血を流して倒れている。
 つま先でつついてみたが、もう死んでいた。
 しょうがないな、と呟いて、尻尾を引っ張って、
左手の夜間瀬川の河川敷の方に捨てた。
 バンパーがへこんでべっとり血がついていた。
 ちっ。くそー。まだ、不吉な連鎖が続いているのか。
 突然高架を新幹線が、びーーーーーうーーーーとドップラー効果の
残響を残して走り去っていく。

 やくざの事務所は劇場隣のスナックの二階にあった。
 事務所に入ると、スカーフェイスのやくざが二人が麻雀卓で牌をこねていた。
「一緒にやらない?」と言う。
「いやー、三人麻雀はちょっと」
「まあいいわ。遊びにきたんじゃねーものな」こっちに向き直る。
「兄ちゃんよお。どうしくれるんだよ。今日から劇場開けられねーじゃねーか。
ただでさえニッパチで売上げが上がらねーのに、
タレント四人も連れて行かれたんじゃあ堪ったもんじゃない」
「俺、何か悪い事しました?」
「なにぃ」
「こんなの言うのなんなんですけど、
俺的には、風営法の看板の出ている店で遊んでいて、
アッシー君を頼まれただけなんだけれどもなぁ。事故った訳でもないし」
「なに言ってんだ、おめーは」
「もしタクシーに乗っていて、捕まったりしたら、
タクシー会社にも文句言うんですか?」
「なに、ごちゃごちゃ言ってんだ、おめーは。
そんな言い訳がマネージャーに通用すると思ってんのか」
「マネージャー?」
「劇場が開けられないのは俺らの問題だが、
女はマネージャーから預かったタレントだ。
女には一人当たり三百万の借金が残っている。
カミールは帰って来たからいいとして、三百かける四人で千二百万だ。
それをマネージャーが返せと言ってんぞ。お前払え」
「千二百万もあるわけないですよ」
「だったらホームレスでもぷーたろーでもいいから四人野郎を用意して、
偽装結婚させるしかないな」
「えー、無理だよ。つーかストレスで胸焼けがしてきた。
つーか、俺胸が悪いんですよ。これから病院に行かないとならないんで、
帰ります」俺は勝手に踵を返した。
「ちょっと待て」やくざが立ち上がった。
 脇目も振らず、俺は階段を駆け下りた
「ゴルァ、お前の住所も何もかも分かってんだからな。逃げても無駄だぞ」
背後でやくざが怒鳴っていた。




#525/598 ●長編    *** コメント #524 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:08  ( 69)
「長野飯山殺人事件」3 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:19 修正 第2版
3
 それから俺は、胸の病気の治療の為に、市民病院の呼吸器科に行った。
 待合室の長椅子に座っていたら、「よっこいしょ」と、
トートバッグを持った牛山が腰を下ろした。
「あれー、なにー。つーか昨日はえらい目にあったよ。
今もやくざに絡まれていたんだから」
 牛山は咳き込んでいた。ゲホッゲホッ。
 咳が収まるとじろりと見て、「おまえさん、なんでこんなところに居るの?」
と言う。
「ちょっとここを」俺は胸の当たりを押えて見せた。「でもずーっと
通院でやっているんだよ。シフトに穴あけて迷惑かけても悪いし。
そっちはどうしたの」
「ずーっと咳が止まらなかったやろ。かにてんてんや」
「かにてんてん」
 やっぱりな。糖尿で人工透析までしているのに今度はかにてんてんか。
「妹の病院で診てもらえばいいのに」
「だめだ、あんな研修医しかいない交通事故の専門病院なんて」
そして又ゲホッゲホッ。「こんどはダメかも知れないなぁ」
「なに弱気になってんだよ。大丈夫だよ」
「気休め言うな。俺には分かっている。それに考えている事もあるんよ」
「なに?」
「俺が死んだら保険金が入るんだが。
それをカミールに渡して有効に使って欲しいんだが。
彼女が、借金を返して、国に帰って、両親と使えば有効だろう。
 しかし、日本で渡して、散財されても無駄になってしまう。
 それに、受取人をカミールにしても、
あんなパスポート、偽造かも知れないしなぁ。
 そこで、誰か信用出来る奴に受取人になってもらって、
カミールの故郷に持って行ってもらいたいのだが。
もっともそんな事を引き受ける奴は常識のない奴なんだろうが」
「そんなの俺に聞かせてどうするの? 俺にやれって事?」
「そうじゃないけどなぁ、ゲホッゲホッ。
ところで、昨日運転していて捕まったそうだな。
どうする積りだ。一人三百万の借金だからなあ。四人だったら千二百」
「それ、保険金で払っていいって話?」
「全然違うよ。別の話だ。あんた、狙われているよ。
やくざじゃなくて、マネージャーに。
あんた、タイーホされた女のかわりに新しい女を入れろ言われているだろ。
それができないんだったら、これで落とし前つけにゃならんって、
預かってきたんよ」とトートバッグを開いてタオルを広げた。
そこにはハジキが。
 牛山はそれをタオルで包むとこっちに押し付けてきた。
「なんだ、これ。本物か」
「当たり前だ。そんなものおもちゃでどうするぅ、ゲホッゲホッ。
あんた、それを使いたくなかったら、女を入れるしかないで」
「どうやって」
「それは、やなぁ」牛山はめもを渡してきた。
ツイッターのユーザー名らしき名前が四つ。
「あんたがなあ、野郎を探してだなあ、そのツイッターの女と見合いさせるんよ。
そんでそいつらが身元保証人になってだなあ、
成田の入管を通して、入国させるんよ。そんでマネージャーに返すんよ」
「そんな事する男、ここらへんに居る?」
「できなかったらそれで自殺するしかないぞ」
「そんなぁ」
「結婚相手が見付かったら、カミールに報告しておいて。窓口はカミールなので」
 牛山は診察室に消えて行った。
 俺は、タオルに包まれたハジキを抱えたまま途方に暮れる。

 病院で処置を終えて建物の外に出てくると、スマホが鳴った。
 すわやくざ! 良美さんだった。
「今、お兄さんに会ったけど、良美さんの事伝えるの忘れちゃったよ」
「何だ、折角個室用の透析器が入ったのに」
「お兄さん、相当悪そうだったな。かにてんてんの方が」
「ああ、うーん。血液クレンジングみたいなのやればよくなるかなぁ。
つーかキース・リチャーズみたいに血液全取替すればいいのか」
「俺が血液クレンジングしてもらいたいよ」
「えー、なんですって」
「いや。俺がかにてんてんなんてことはないんだけどね。
あまりにもややこしい事になってきたので、自分をリセットしたい気分なんだよ」




#526/598 ●長編    *** コメント #525 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:09  ( 59)
「長野飯山殺人事件」4 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:19 修正 第2版
4

 俺は午後からの勤務の為にレガシィでマンションに向かった。
このややこしさから逃れるには、
誰かにフィリピーナをおっつけなければならない、と思っていた。
まず、俺の前に勤務していた加藤という男はどうだろう。
 マンションの更衣室で加藤と引き継ぎをする。
「何か変わった事あった?」
「ガンダムのナレーションをやっていた人が死んだ」アニメオタクの加藤が言った。
「そうじゃないよ。業務の事だよ」
「業務では特にないよ。そっちは何か変わった事あった?」
「大ありだよ。まず熊を轢いた」
「どこで?」
「中野町の高架の下だよ。今日は暖かいので冬眠から覚めたのかも知れない」
「冬眠といえば、ガンダムにもコールドスリープというのが出てくるけど、
あれは冬眠とは違って、眠る前に、
血を抜いて不凍液を入れてゆっくりと凍らせて行くんだよ」
「へー。血液交換だな。牛山妹の世界だな。
…まあ、冬眠の話はどうでもいいから。
そんな事よりお前、そろそろ所帯を持ってもいいんじゃないか? 
お前、外人は嫌いなの?」
「そんな事ないけど」
 俺はスマホでツイッターを開くとピーナの名前を入力して画像を表示した。
「こんな女どうだ」
「うーん、原住民っぽいね」
「贅沢言ってんじゃねーよ。おめーにしてみりゃあ、こんな女上玉だろう。
それにフィリピンだったら、常夏だぞ」
「フィリピンに住むの?」
「そうじゃないけど。とにかくお前の顔を写メで撮らせろ。
向こうに送っておくから」
「いいけど」
 そして俺は加藤の写真を相手の女に送った。
 加藤が帰ると、風呂掃除、巡回、蛍光灯交換、フロント業務などをこなす。
 仮眠をとるとすぐに夜中になった。
 夜中の三時、朝日、読売、毎日の新聞屋をオートロックを解錠して入れた。
「お前ら、新聞を配る前にちょっといい話し」と全員をフロントの前に集める。「お前
ら、結婚とか考えていないの?」
「え、なにをやぶから棒に」
「いい女がいるんだよ。ちょっとこれを見てみな」
俺はツイッターの画面にピーナの名前を入れて表示して見せた。
「こういう女と結婚してみたいと思わないか」
「今は新聞配達も外人ばっかりだからインターナショナルなのには
慣れているけれども、ピーナとなんか結婚して笑われないかなあ」
「笑われる訳ないだろう、今や角界にも芸能界にもピーナハーフは多い。
時代はピーナだぞ」
「ビザとか問題ないの?」
「だからお前らが身元保証人になって入国させて、
気に入ったら結婚すればいいんだよ」
「成田に行くのかあ。だったら夕刊の休みの日じゃなあいとダメだな」
「とにかくお前らの顔を写メで撮らせろ。向こうに送っておくから」
「いいけど」

 朝になって牛山が出勤してくると聞いてきた。
「どうだ、進展はあったか」
「俺は仕事が早いぜ。一晩で四人確保したよ」
「誰よ」
「加藤と新聞屋だよ。これからカミールに会いに行く」
「それは期待が持てそうだな」
 それだけ交わすと、俺はそそくさと退社した。




#527/598 ●長編    *** コメント #526 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:09  (106)
「長野飯山殺人事件」5 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:20 修正 第2版
5

 駐車場に行くとレガシィに乗り込む。
車内でも息が白かった。
 カミールに電話すると英語で話した。
「もしもし、サイキ。分かる?」
「もちろん」
「今日、会いたいのだけれども。偽装結婚のことで。大丈夫?」
「大丈夫」
「じゃあ十時頃、飯山のファミレスの駐車場で待っている。
俺の車は知っているだろう。白のレガシィ」
「わかった」

 二十分後、ガストの駐車場についた。
 フロントガラスごしに空を見上げると、異様に晴れていた。
今日は何か起こるんじゃないのか。
 拳銃をジャケットのポケットに入れると、車を降りた。
 ガストの軒下に、カミールがPコートに両手を突っ込んで立っていた。
 あのファー襟に厚底ブーツでなくてよかった、と思った。
 雪の照りっ返しで、カミールの顔は白く見える。
 カミールを促して、一緒に店に入ると窓際の席に付いた。
 カミールはハンバーガーにオレンジジュース、
俺は目玉焼き&ベーコン朝定食を注文した。
 料理がくるまえにさっそく俺は切り出した。
「夕べ、俺の知り合いにフィリピンの女の写真を見せたんだけれど。
そしてそいつらの写真をメールで送ったんだけれども。
向こうの女、なにか言っていた?」
「あんなこ汚い新聞配達員じゃあ無理だよ。女の子はみんな若いんだから。
それに、偽装結婚は私の借金を返す為にやる積りだったのに。
あんたがしくじって逮捕された女達の穴埋めをする為じゃない」
「そっちが乗せてくれって言ってきたんだろう」
「とにかく無理、無理。あんなジャパニーズじゃあネバーポッシブル」
 無理無理と繰り返されると無理に思えてくる。
ユーチューバーになろうとか、fxで儲けようとか、
ミステリーの新人賞に応募しようとか、誰かに無理と言われると無理に思えてくる。
 偽装結婚も無理だし、それに面倒くさく思えてきた。
 トンヅラした方が早いんじゃないのか。牛山の保険金をもって。
 料理が運ばれてくると、カミールはさっそくハンバーガーを頬張った。
見ていて、若いな、と思った。
こんな若い女が本当に牛山を愛しているのだろうか。
スマホを渡したり、送金したりしてやっているから、利用されているだけだろう。
俺は聞いた。「カミール。牛山は客か? それとも恋人?」
「恋人だよ」
「うそー。だってあいつは金をはらって個室に並んでいた男だぞ」
「それはあなたも同じ」と言うとジッとこちらを見据える。
 なんでここで俺を攻めてくるんだろうと、一瞬顔が引きつった。
でもまあいいや。俺は声を潜めていった。
「牛山は、タバコが好きでしょう。だから胸が悪い。後で死ぬかも知れない。
そうしたら、保険金が入るでしょう。彼はそれをあなたにプレゼントしたい。
でも、日本人がいないとお金持って帰れないでしょう。どうする?」
「あなた助ける」
「どうして? 俺、ただのお客さんでしょ?」
「友達でしょ」
「友達だからって、助けるとは限らない。
その前に俺には問題があるし。お前のボスに脅かされていて、
女を入れないと死なないとならない。こんなものを押し付けられた」
 テーブルの下で、拳銃をポケットか出して、見せる。
「はーっ」と息を呑む。「ちょっと見せて」
 さっと手を伸ばすとひったくった。
「おいおい」
「これ、カルロが持っていたものだ」
「カルロって?」
「マネージャー。私が持っていてあげる。故郷で撃った事もあるし」
「故郷に帰ろうよ。牛山の金でマネージャーに借金を返して。
俺もカルロに脅かされているから、一緒に逃げたい。どう?」
「うーん」と唸って前かがみになる。胸の谷間が見える。
「この話しの続きはホテルでしようか」
「一発撃たせてくれたら、行ってもいい」
「オッケイ、オッケー」

 ファミレスを出ると、カミールをレガシィに乗っけて、中野町方向に走った。
 新幹線の高架の下で河川敷の方に向かう道に車を入れて止める
 そして、昨日捨てた熊の死骸のところへ行った。
「ここに撃てよ」
 カミールは構えた。
「ちょっと待って。一応、電車が来たら撃て」
 やがて、新幹線が、シューーーーーと擦れる様な音をたてて通過した。
「撃て」と俺は言った。

 船の形をした石庭グループのホテルに入ると、
自動販売機で部屋を選んで鍵を出す。
部屋に入ると「冷えた体を温めたい」とカミーラが言った。
 俺は冷蔵庫の上にあったティーバッグで紅茶を入れてやった。
「はい、tea。でも、アルファベットじゃないけれども、
俺は、T(tea)よりU(you)の方が好きだよ」
「でも、IよりHが先だと順番が逆ね」
 俺は黙って服を脱いだ脱いだ。
 カミールは寄ってくると、下着を下ろしてあそこを見た。
「なに、この絆創膏、血がにじみ出ている」
「それは、伝染る病気じゃないから」
「でも、やる前にシャワー浴びないと」
「オッケーオッケー」
 俺はシャワーで絆創膏のべたべたをとった。多少出血した。
 出てくると一発やった。

 事が終わる、そそくさと部屋を後にした。
 二人してエレベーターでフロントに降りてくる。
 そして出口に向かったのだが、突然カミールが消えた。
 あれー、どこに行ったんだ、俺はキョロキョロした。
背後を見ると、カミールが拳銃を構えていた。
「なにしている」
「サエキ、撃つよ」
「やめろぉ」
 しかしそのままズドンと銃声が鳴った。
 身をよじると胸からどくどくと血が流れ出した。
 俺はその場に倒れ込んだ。入り口のドアのガラス越しに妙に晴れた青空が見えた。




#528/598 ●長編    *** コメント #527 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:10  (152)
「長野飯山殺人事件」一 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:20 修正 第2版
一

 私、佐山と中川が同人の斉木に誘われて
このスキーマンション兼ホテルに来て三日が経っていた。
 初日はごたごたがあってろくにスキーも出来ず、
これでは慰安にならないと、慰安の慰安としてストリップ劇場に行った。
二日目は怠惰に温泉に浸かって過ごした。
そして三日目の今日も昼頃に起きると温泉に浸かっていたのだが。
 その帰りにフロントに差し掛かると、管理室の中で、
何やらガヤガヤ騒いでいるのが見えた。
清掃員やら、主任管理員、コンシェルジュやらが
「このままだとシフトが組めなくなる
…加藤ちゃんと牛山さんに連投してもらうにしても限度がある」
などと侃々諤々やってる。
 私はドア付近にいたコンシェルジュに訪ねた。
「ちょっと、何かあったんですか?」
「それが、斉木さんが撃たれたんですよぉ」
「はぁ?」
「ピストルで撃たれたんですよぉ」
「えー」私はほとんどそっくり返りかけた。
 コンシェルジュの高橋明子はネットのニュースを印字したもの広げると
読み上げた。
「今日十一時過ぎ、中野町のホテルで中野市在住の
マンション管理員斉木和夫さんが何者かに拳銃で撃たれました。
斉木さんは市内の病院に搬送されましたが、命に別状はないとの事です。
飯山署によりますと、
防犯カメラには外国人風の女性が銃撃の後走り去る姿が映っており、
同署は事件との関係を調査中…ですって」
「外国人風の女性っていったら、ストリップ劇場と関係あるんじゃないのか?」
中川が言った。「あの晩、一緒に帰ってきた時、牛山さんという人が
何とか言っていたなあ。何とかいう踊り子に入れ込んでいる、と。
彼に聞けば何か分かるんじゃないのか。牛山さんは今日はいないんですか?」
「今、裏のエントランスで雪かきしていますが」
「そこに行ってみよう」と中川。
 猪みたいな主任管理員を先頭に、私、中川、高橋明子は、
裏のエントランスに走って行った。
 裏口のエントランスに到着するとすぐに猪は雪かきをしている牛山さんに
詰め寄った。「牛山さん、斉木が誰に撃たれたのか知っているのかい」
「知らんよ」と背中を向けたまま牛山さんは雪かきに集中。
 しばらく二人は押し問答していたのだが。
 ところが突然牛山さんは、わーっと天を仰いだかと思ったら、
がばっと自分の体を抱くようにして雪の上に倒れてしまった。
咳き込んで吐血している。
 何で斉木、牛山と連続して人が倒れるのか、という疑問が鎌首をもたげたが、
とにかく、みんなで裏口のエントランスに運んだ。
 牛山は、更に咳き込み、吐血する。
「こりゃあもう救急だな」と中川。
 猪みたいな主任管理員が救急車を呼んだ。
 しかし、来るのは早いのだが、ストレッチャーで救急車に格納してから、
出ない出ない。
あちこちの病院に電話しては「今、別の急患を診ているから」
などと断られて手間取っている。
 猪みたいな主任管理員が怒鳴った。「なに時間食ってんだ、こんなの、
心筋梗塞、脳梗塞だったらとっくに死んでいるぞ」
 咳き込んでいた牛山がギクッと目を見開いた。
自分で尻のポケットから財布を出すと、診察券を取り出して
「ここに連れていってくれ。何時もここに通っているんだ」と言う。
「診察券を持っているならそこに行きましょう」と救急隊員が言った。
 そういう感じで、救急車はやっとこ動き出した。
 猪の主任管理員が同乗して、私と中川は明子さんの車でついていく。

 市民病院のICUの外で待っていると、医師が出てきて、我々に説明した。
「肺胞出血を起こしてまして、今、薬物療法をやっていますが、
場合によっては血漿交換をしなければならない」
「斉木はここには運ばれてきていないんですか?」私は聞いた。
「今朝中野町で撃たれた斉木なんですが、
彼もおんなじマンションで働いているんですよ」
「それは中野町の病院じゃないですかね。向こうで起こった事件なら」
「それじゃあ主任さんはここで牛山さんの様子を見ていて。
俺らは向こうに行ってみるから」と中川が命令口調で言った。

 私と中川は、明子さんの運転で、中野市の僻地病院へ言った。
 そこは、小さくて古い病院。
 明子さんが言った。「ここは元々は産婦人科だったんですが少子化で
人工透析や救急病院も始めたんですよ。
牛山さんの妹が看護師をやっていて、彼女から聞きました」
 受付の小窓に「斉木さんの職場の者ですが」と告げる。
「十三号室ですよ」と簡単に教えてくれた。
 これじゃあ、犯人がとどめを刺しにきたら簡単にやられちゃうな。
 我々が病室の前まで行くとちょうど女医さんが出てきた。
「今、面会謝絶ですよ。立入禁止です」と冷たく言う。
「しかし、私ら知り合いなのだから具合ぐらい聞かせて下さいよ」
と私は下手に出た。
「部外者には言えませんよ」
 ここで中川がT大医学部の威光を放つ。「私はT大法医学教室の
中川といいますが」
 女医の顔色が変わった。
「あなたが診たんですか」
「はい」
「傷口の大きさとか、火薬の付着の有無とか、教えて下さいよ」
 若い女医は従順に答えた。「傷の大きさは五ミリ。
使われた拳銃は38口径の9ミリです。銃弾は肋骨に当たって止まっていました。
火薬の付着はありません。距離は至近距離だと思われます」
「解せないなあ。普通銃の口径以上に射創はでかくなるんだが。
まあ拳銃なら同じぐらいの大きさの場合もあるが」
 女医は逃げる様に行ってしまった。
 次に警察関係者が出てきた。
「あの、斉木くんの友人なんですけれども、
事件の経緯を教えてもらえませんか?」
「マスコミ各社に言った通りですが」
 ここでも中川がT大の威光を放つ。
「私はT大医学部のモノですが」
「あ、そうですか」
「何かストリップ劇場との絡みとかあるんやなかろうか」
 我々は、牛山さんとカミールの関係を知っていたので、そんな事を聞いたのだが。
「実はですね、一昨日の夜なんですが、飲酒検問に
斉木さんが引っかかったんですよ。
その時にストリップ劇場の踊り子五人を捕まえましてねえ。
一人はビザがあったんで帰したんですが…」
「それが今回の事件と関係あるのですか?」
「さあ、今のところはなんとも」
「そうですか」

 三人でマンションに帰ってきたところで、我々はもう一つ情報を得る事が出来た。
 フロントには加藤という管理員が居たのだが。
「主任管理員はどうしました?」と聞くと、
「まだ、帰ってこなーい」と、それを聞いただけで、
こいつ池沼?と思える様な返答をしてきた。
「君ぃ。君が最後に斉木と会ったのは何時? 何か言っていなかった?」
と中川が聞く。
「前回勤務の時に斉木さんに会いました。その時に、
フィリピン人と結婚しないかと言われました」
「なにぃ?」
「フィリピン人の写真を見せられました。
そして僕の写真も撮って向こうにメールしたみたいです」
「それは偽装結婚?」
「詳しい事は知りません。斉木さんに聞いてみないと」


 我々は客室に戻ってこれらの情報を整理しようと思ったのだが、
やっぱりひとっ風呂浴びながら、という事になった。
 我々は湯船に浸かり、濡れたタオルを頭に乗せて、今日得た情報の整理を始めた。
「まず事件のあらましですが、
まず、あの晩、斉木は踊り子五人を乗せていて飲酒検問に引っかかった、
そしてカミールだけが帰ってきた、というのが事件の始まりですね。
それから、斉木は加藤に偽装結婚らしきものを進めていた。
あと、斉木を撃ったのはカミールなんじゃないか、という疑いがある」
「そうやな。そして想像だが、四人もフィリピン芸人をもってかれたんじゃあ、
その筋のひとから脅かされていたかも知れない。
それでまず偽装結婚で穴埋めをしようとした。
だけど上手く行かないから、落とし前をつけるために死ななければならなかった」
「実際に撃ったのはカミールって感じですが」
「それは怪しいと思うで」
「何故ですか?」
「だって傷口は五ミリしかないのに、九ミリの弾が出てきたんやで」
「でも、医者が弾を摘出したんですよ」
「あんな研修医にはなんにもわからないやろう」
「それに撃たれたところは防犯カメラにも写っているし」
「そうだけれども、俺にはまだ疑問だな」
「じゃあ、そこらへんの事、カミール周辺の事を、明日牛山さんに聞いてきますか。
見舞いのついでに」
「そうやな」




#529/598 ●長編    *** コメント #528 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:11  ( 85)
「長野飯山殺人事件」二 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:21 修正 第2版
二

 ところが翌日、またまた明子さんの運転で市民病院に行ってみると、
牛山さんはICUから出てきたのはいいのだが、
夜中にまたまた肺胞出血が進んで、
鎮静をかけられて人工呼吸器をつけられていた。
 もう意識がなく話せない。
「なんだー」我々は頭を抱えた。
 がっかりして、折りたたみ椅子に三人して座っていると、
看護師が来て、牛山さんの人工呼吸器からチューブを入れて、
ずずずずずーっと吸引した。
 牛山さんは体をビクビクーっと痙攣させた。
「なにをやっているんですか? 痰を取り除いているんですか?」と中川に聞く。
「ああやって、分泌物を取り除かないと誤嚥を起こすからね」
 看護師が作業をしながら、言った。
「斉木さんは中野市の僻地病院に行っちゃったんですってねぇ」
「えッ、斉木を知っているんですか?」
「ええ。この前、牛山さんと一緒に来ていましたよ」
「えッ、斉木がこの病院に」
「あら、そうですが」
「何科ですか。呼吸器科ですか?」と中川。
「え、ええ」
「内科ですか外科ですか」
「それは…、あらなんか私、余計な事いっちゃったかしら」
 看護師は牛山の鼻からチューブを抜くと、
適当に人工呼吸器のコントローラをチェックして、そそくさと出ていった。
「こりゃあ、面白い事になってきたで」と中川。「呼吸器科に通っていたって事は、
胸に切開の傷でもあったかも知れない。
そうすれば、銃弾をそこに埋め込んでおいてやな、空砲を撃たせれば、
他の人には、撃ったと思える。そんであんな僻地病院に運ばれて、
素人に毛が生えた程度の研修医に診させたら、わからんかも知れない」
「じゃあ、その情報をもって僻地病院に行ってみましょうか」
「そうやな」
「じゃあ、明子さん、また送っていってもらえますか」
「ええ」

 我々は又、飯山市から中野市の僻地病院に向かった。
 途中車窓から雪山を見て私は呟いた。
「折角気楽にスキーでもする積りだったのに、
やっかいな事件に巻き込まれちゃったなぁ」
「そんなに気楽じゃあないですよ。今年は熊が出ますから。
地震の影響かも知れないけれども」と明子さん。
「実際に出たのか」と中川。
「いや、加藤さんから聞いただけなんですけど。
加藤さんは斉木さんから聞いたと言っていました。
運転していたら山から熊が出てきて轢いてしまったと」
「近いのか」
「ちょうど中野市に向かう途中ですが」
「そこに連れていってくれへんか」
 我々は斉木が熊をはねたという中野市の北陸新幹線の高架下に降り立った。
 あたり一面は雪だった。
「ここらへんに、熊の死体はないかなあ」と私。
「斉木のアパートは中野市やから、中野から飯山方向の車線の向こうやな。
向こう側が河川敷みたいになっているから、どっか、向こう側にないやろか?」
 そして3人で、反対側の河川敷みたいなところを探してみた。
すぐに雪の上に熊の死体を見付けた。
「雪のおかげで保存状態がいいな」中川はしゃがみこんでじーっと見ている。
「これや。ここに銃創があるで。でも回りの雪は全然血で汚れていない。
つまり死んだ後に撃ったんや。そして弾を取り出したんじゃあないやろか」
 そこまで言った時に、高架の上から、
シャーーーーっという新幹線の音が響いてききた。
「このタイミングで撃ったんですかね。ドラマみたいですが」
「多分そうや。そして、その弾を傷口に入れたんや」
「じゃあ、僻地病院に行って、斉木に尋問してみますか」

 ところが僻地病院の斉木の病室に行ってみると、
なんと斉木は今朝方死亡していて、もう葬儀屋が運んで行ったという。
「検死したのかっ」中川が女の研修医を怒鳴った。
「しましたよ。変死だと思ってちゃんと検視官を呼んで。
そうしたら解剖の必要はないというから、死亡診断書を書いたんです。
そうしたら葬儀屋さんが迎えにきたんです。全部決まりの通りにやったんだから」
「まだ生きている可能性があるから、早く葬儀社に電話して」
丸で自分の部下にでも言う様に研修医に言った。
 しばらくして、事務方の男がきて言った。「あのー、葬儀屋に電話したら、
搬送の途中で遺体が消えたっていうんですよね」
「そんな馬鹿な。警察には通報したんですか」
「一応通報したそうですが、もう検死も済んでいるので、
これは逃亡というよりかは、
葬儀屋が死体をなくしたみたいな扱いになるそうです」
「そんな馬鹿な」
 一瞬興奮したがすぐに冷静さを取り戻す。
 中川は部屋を見回した。
「なんかここは寒いなあ」といいつつ窓際に寄る。
 カーテンは閉まっていたが、窓は開けっ放しだった。
室内の温度は零下に近かった。




#530/598 ●長編    *** コメント #529 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:12  ( 82)
「長野飯山殺人事件」三 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:21 修正 第2版
三

 途方に暮れて、我々は明子さんの運転で帰ってきた。
 フロントにはぼけーっとした加藤がいた。
 彼に言う。「加藤君。君の熊の話ねえ、明子さんから聞いたんだが、
斉木が熊を轢いたという話、あれが事件の一部解明に役立ったよ」
「ああ、コールドスリープでしょう」
「なに?」
「熊の冬眠と人間のコールドスリープは似ているけど違うって言っていたら
反応していたよ」
「斉木がか?」
「斉木さんはコールドスリープなんて牛山さんの妹の世界だって言っていたよ」
「なんだって」そして中川はこっちに言ってきた。「おい、もう一回、
僻地病院に行くぞ。明子さん」
「私、牛山さんの所に行かないといけないんです。
あの人が倒れたのは勤務中だから労災になるので、その書類を届けろと、
派遣元の上司にいわれているんです。もしよかったら社用車、貸しますけど」
「じゃあ貸して下さい」

 我々は自走で、又僻地病院へ行った。
 着くなり受付の小窓に「研修医はいるか」と中川が言った。
「もう今日は帰りましたけど」
「看護師の牛山さんは」
「急用があるといって帰りましたけど」
「じゃあ、院長はいる?」
「はあ。どちら様で」
「私はT大法医学教室出身の中川です」
「少々お待ち下さい」
 数分後、我々は院長室に通された。
 ヒゲを蓄えた初老の院長が我々を迎えた。
「これはこれは、あなたがT大の法医学教室の先生ですか」
「もう辞めましたがね。それで、いきなりですが、
看護師の牛山さんは今日は何で帰ったのですか?」
「なんでも、市民病院でお兄さんが亡くられたとかで早退しましたが」
「そうですか。亡くなったんですが。彼女はどういう人なんですか?」
「何か気になる点でもあるんですか?」
「今回の事件で死んだとされている斉木なんですが、
彼は市民病院で亡くなった牛山さんと同僚なんですが、
その妹が牛山看護師ですから、接点があるんですよ。
 その斉木なんですが、熊を轢いているんですが、
熊の冬眠とコールドスリープは似ている、とか言っているんですよ。
あと、コールドスリープに入る前の瀉血は牛山看護師の世界だ、
とか言っているんですよ。
 あと、斉木の病室が異様に寒かったことも
コールドスリープと関係がある様な気がして。
 そんな事から、彼女は一体何者かというのが気になっているんですが」
「そうですか。ミステリアスですなあ。
彼女は昔からこの病院に居たんですがね。
この病院は元々は産婦人科病院だったんですよ。
それで、新生児に溶血性疾患がある場合には、
当院で交換輸血等もやっていたんですが。
ところが、あるケースで上手くいかなくて、
子供に重度の障害が残ってしまったんですなあ。
彼女はそれを非常に気にしていて、
それ以来それがトラウマになったのか血液マニアの様になってしまって、
瀉血だのリスカだのに興味を持ったりして。
 ちょうどその頃、この病院も少子化のあおりで患者数が減ったんで、
人工透析を初めたんですよ。彼女も血液マニアですから、
喜んでそれに参加したんですがね。
 あと、偶然にもその頃から彼女のお兄さんも
人工透析に通うようになったんですが、
不幸なことに肺がんにもなっていましてねえ。
彼女は、血液交換をすれば治るかも知れない、と言っていましたよ。
 あと、透析の方だけでも楽になるようにと、
彼女は個室タイプの透析器を入れてほしいと言っていましたね。
あれだったら夜間寝ながら出来ますから。
そういうのは当院としてもあってもいいなあというんで、
最近導入したんですがね」
「それは今どこに」
「それがちょうど、斉木さんが亡くなった部屋に置いてあるんですよ」
「見せてもらっていいですか」
「ええご案内します」
 病室に行くと我々はPCラックぐらいの大きさの透析器にへばりついた。
 中川は指差しながら、瀉血のチューブ、血液ポンプ、血液濾過器、
そして返血のチューブ、と血の通り道を追っていった。
「ここにポンプがありますね。これを使って、血液交換は出来ないんですか?」
「さあ。血液交換器とは又別の器械ですからね。
血液交換の場合にはシャント手術なんて前提としていないし。
しかし、そのポンプで瀉血は出来るには出来る。
あと、返血は輸血パックで点滴してやればいいんでしょうから、
入れ替えは可能かも知れませんね。
彼女はこれでお兄さんの血をクレンジングして綺麗にする積りだったんですかね」




#531/598 ●長編    *** コメント #530 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:12  ( 42)
「長野飯山殺人事件」四 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:21 修正 第2版
四

 我々は、それだけの情報をもってマンションに帰ると
又温泉につかって濡れたタオルを頭に乗せた。
「まず、動機というかホワイダニットについての整理やな」
「それはまず、女四人をもっていかれたので劇場関係者から恨みをかっていた
ということですね。それが証拠に加藤らにも偽装結婚を進めていた。
しかしそれが上手く行かないんでその筋の人から脅かされていたかも知れない。
落とし前をつけろなどと。
 もう一つは、撃ったのかカミールらしいということですね。
しかも牛山さんがカミールに入れ込んでいたという。
 以上の二つがホワイダニットになるんでしょうか。
 それからハウダニットですが、これは医者じゃないと分からないんでしょうか」
「まずは、銃弾の偽装だな。加藤らへの偽装結婚も上手く進まないので、
落とし前をつけなければならないが、勿論死にたくない。
そこで熊の死骸に弾を打ち込んで取り出して、元々あった呼吸器科の傷に入れる」
「どういう病気だったんですか?」
「それは不明だが、カミールに空砲を撃たせて、
弾に当たった様に偽装したんじゃないの?」
「しかしそんな偽装、医師に見抜かれないですかね」
「新米の研修医なら見逃すかも知れへんな。
それに、それが死因な訳ではないんやから、
仮にバレても、トンヅラしちゃえばいい訳だから、
意外と一か八かでやれるかもしれないで」
「次にコールドスリープですが」
「まず、牛山の妹が血液マニアで血液交換などに興味があった、
というのが前提になるな。
そして彼女と斉木が
冬眠から覚めてきた熊の様にコールドスリープ云々話していたという事。
あと、あの寒い病室や」
「でも、仮にコールドスリープ状態になったとしても
心肺停止状態にはならないんですよね。
斉木は検死の結果死亡が確認されているんですよ」
「うーん」
 中川は湯船から出ると、屋外の露天風呂に行った。
 そこには小さい池があって金魚が泳いたのだが、
この零下だから池の水が凍っていて金魚も一緒に凍っていた。
「佐山さん、きてみな」と中川が呼んだ。
 私が行ってみると、中川は露天の湯を手ですくってきて、金魚にかけた。
 すると、金魚はなんと泳ぎだしたのだった。
「これをやったんや」
「そんな事が出来るんですか?」




#532/598 ●長編    *** コメント #531 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:13  (106)
「長野飯山殺人事件」五 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:22 修正 第2版
五

 それからなお二日間、我々は怠惰な湯治を楽しんでいた。
 その二日目の温泉の帰り、フロイトの前を通ると、
主任管理員の猪が声をかけてきた。
「お客さんからもらった饅頭があるんですよ。食べて行きませんか?」
 私と中川は管理室の中に入った。
 部屋は10畳ぐらい。家電量販店並の明るさ。
奥の壁には、防犯カメラのモニタ、防災関係の盤などがずらーっと並んでいる。
真ん中にスチールデスクが2個あって、ノートPCが一個置いてある。
 我々はそのデスクにキャスター付きチェアを寄せ合って座るとお茶をすすった。
 突然PCの右下にウィンドウが開いてスカイプの着信音が鳴った。
 「なんだ?」主任管理員が通話のボタンをクリックした。
 画面にタンクトップ姿の斉木がぼーっと現れた。
「なんだ。斉木さんか?」
「おー、おー、繋がったか」
「何処にいるの?」
「アンヘレス」
「アンヘレス?」
「フィリピンのアンヘレスだよ」
「なんで又そんな所に」
「まあ色々事情があってな」
 画面の中の斉木に誰かが皿を運んで来た。
ノースリーブのワンピースを着た女性だが顔は映っていない。
あれはカミールなんじゃないのか。
 斉木は「サンキュー、サンキュー」と言いながら
皿を受け取って机の上に置いていた。
「やっとインターネットを出来る環境が出来たんで、繋いでみたら、
このスカIDがあってんで、掛けてみたんだ。
こんな事すりゃあ、飛んで火に入るなんとやらなんだけれども、
俺って、そっちじゃあ、どうなっているかなーと思って」
言うと斉木はケケケッと猿の様に喜んだ。「つーか、驚いたことに、
そこには中川先生と佐山さんもいるんだ。
ちょうどいいや。今回の俺様殺人事件の答え合わせをしてみようよ。どうだよ」
「それはこっちも望むところやな」PCに向かって中川が言った。
「そうこなくちゃ。じゃあ中川先生、まず、ホワイダニットから言ってみなよ」
「だからそれは、あのストリップ劇場に行った晩、
お前は女のアッシー君をやって、四人も持っていかれて、
その穴埋めに偽装結婚をさせようと思ったが上手く行かず、
落とし前をつける羽目になったが、死にたくない、
そこでカミールと共謀して偽装殺人を思い付いた、ってとこだろう?」
「それじゃあ全然答えになっていないよ。
なんでカミールが偽装殺人に協力するんだよ。おかしいだろう。
実はカミールには俺に協力したい理由があったんだけれども、知りたい?」
「ああ、知りたいな」
「俺は確かにやくざに脅かされていたが、
もう一個カミール絡みで別の話があったんだよ。
実は牛山さんは生命保険に入っていて、
それをカミールに渡したいと思っていたんだよ。
でもカミールもイマイチ信用できない。
そこで俺にカミールの故郷まで金を運べって頼んで来たんだよ。
それでカミールも偽装殺人に協力したって訳さ。
結局はカミールに保険金が入るんだから」
そこまで言うと斉木は天を見上げて何か考えていた。
そして続ける。
「つーか。そもそも俺はあの疑惑の銃弾で死んだ訳じゃないんだけど。
俺はコールドスリープで死んだんだよ。
つまり、トリックは二つあって、
疑惑の銃弾のホワイダニットはやくざへの落とし前だけれども、
コールドスリープの方は保険金目当てって感じだな。
 それをさぁ、やくざへの落とし前を偽装するためにカミールが手伝った、
なんて言うんじゃあ、全然分かっていないな。減点一だな。はははっ」
と笑って乳歯の様な矮小歯を見せた。「だいたい今回の事件はホワイダニットは
どうでもよくてハウダニットが凝っているんだから。
だから、ハウダニットについて言ってみな。まず、疑惑の銃弾についてから」
「ああ、言ってやるよ。お前何か呼吸器の病気があって傷があっただろう。
あと、どっからか回ってきた銃で熊を撃って弾を取り出したのも分かっている。
その弾をその傷口に埋め込んだんじゃないのか?」
「おいおい、呼吸器の病気って何だよ。病名が分からないのかよ、
T大卒のお医者さんが。
それじゃあ裁判で勝てないぞ。今スマホで調べてみろよ。
胸、穴があく病気とかで」
「気胸か」調べるもなく中川はひらめいた様だった。
「そうだよ。気胸だよ。しかも通院で治療出来る方法があるんだよ。
胸に穴を開けて、ドレーンチューブを引っ張ってきて、
腹のあたりにポンプをつけてね。
その胸の穴に弾をめり込ませたって訳さ。
そんでカミールにラブホで空砲を撃たせて、
それから病院に担ぎ込まれた。
でかい病院じゃあバレるかも知れないが
アルバイトの研修医がいるみたいな病院に行けば撃たれたって事になるだろう。
医者に勘付かれたら逃げてくればいいし。それが疑惑の銃弾の真相さ。はははっ。
 でも、別に俺はその偽装殺人で死んだ訳じゃないんだぜ。
コールドスリープで心肺停止状態になったんだ。
そっちの方のハウダニットは分かる?」
「大胆な予想をしてやるよ。
お前はホテルで撃たれて僻地病院に運ばれて寝ていた。
そこに、血液交換マニアの牛山看護師の登場だ。
まず看護師は個室用の透析器でお前の血を全部抜いた。
そして血の換わりに生理食塩水を点滴する。
同時に窓を開け放って部屋を冷たくした。
そうやって体温が十度になれば全ての細胞は活動を停止するからな。
つまり心肺停止状態になるって訳だ。
これは金魚が半冷凍になるのとは違って、完全に心肺停止状態になるものだ。
実際、二〇一四年だかに、血を抜いて生理食塩水を入れて
仮死状態にして手術をする、という症例がピッツバーグだかであったんだよ。
とにかくそうやってお前はまんまと検死を突破した。
その後、血を元に戻して、霊柩車の中で甦った。
ところで、牛山看護師にも動機はあった。
兄の保険金を有効に使いたかったという」
「それは当たりだな。大したものだよ。はははっ」と斉木は力なく笑った。
「しかし全体で見ると、
やくざへの落とし前ということは分かっても保険金の事は分からなかったし、
コールドスリープのこと分かっても、気胸という病名は分からなかったんだから、
二勝二敗だな。
まあ、今回は引き分けって事にしてやるよ。ハハハ歯歯歯はははっ」




#533/598 ●長編    *** コメント #532 ***
★タイトル (sab     )  19/02/15  20:14  ( 83)
「長野飯山殺人事件」六 朝霧三郎
★内容                                         19/02/15 21:22 修正 第2版
六

 スカイプだから鮮明ではないのだが、斉木の頬はこけて無精ひげが生えていて、
心なしか頭髪も薄くなっている気もする。
伸びきったタンクトップの胸のあたりには肋骨が透けている。
逃避行で疲れたか、糖尿病でも患ったか。
 斉木は机の上の皿からスプーンですくってピラフの様なものを食べ出した。
その様子は、キッドナッパーに誘拐された商社の駐在員といった感じ。
 そこへ、さっき皿を運んできたノースリーブの女性が登場した。
 最初の内は、斉木が女に向かって、ファックだのビッチだの声を荒げていたが、
その内、プリーズとか言って、拝むように手を合わせていた。
 女が「カモン」とドア方向に向かって言った。
 機敏な動きの男二人が入ってきて、
椅子に座っている斉木の肩を両方からフルネルソンで固めると、
そのまま、部屋の外に引きずっていった。
 それからワンピースの女がカメラを覗いた。
「アディオース、アスタ、ラ、ビスタ」とこっちに言う。
そしてぷちんとスカイプが落ちた。
「なんだ、何か向こうで騒ぎが起こっているようですが」と主任管理員。
「彼女らも売春をさせられていたんだから、
恨んでいて男を呼んできたのかも知れない」と私。
「これから彼がどうなるのか、というのもミステリーやな。
まだまだミステリーは続くってことや」中川は全く他人事の様に言うと、
お茶をすすった。「腹へったなあ。そろそろめしでも食いに行かへんか。
このお菓子が呼び水になって、すごい空腹感やで」
「だったら今日は海鮮丼がおすすめですよ。
新鮮なイクラとかハマチとか乗っていましたから」
「じゃあ、それ、行こう」

 私と中川とでホテル側のレストランに向かって歩いていたら
明子さんに出くわした。
「あら、これからお食事ですか?」
「そうなんですよ。美味しい海鮮丼があると教えてもらって。
…そうだ、明子さんも一緒にどうですか? ご馳走しますよ。
色々ごたごたがあったし」
「そうですか? じゃあお相伴に与ろうかしら」
 我々三人は、レストランで、
日本海の海の幸満載の海鮮丼、お吸い物つき、お酒つきに舌鼓を打った。
「イクラがぷちぷちと口の中で弾けるところにお酒を含むと絶妙やな」
「磯の香りが広がりますね」
「お吸い物もグーですよ」
「魚介類と吸い物は合うよな。味噌汁はそうでもない。
魚には白ワインは合うというのに似ているのかな」
 など、食レポをしながら寿司を食った。
「そういえば、斉木さんってその後どうなったんですか?」
「そうそう、それを報告したかったんですけれども。
さっき斉木から電話がかかってきたんですよ」
「え? 携帯に?」
「いや、スカイプで」
「あの人、まだ日本に居るんですか? てか、生きているんですか?」
「ええ。なんでもフィリピンに居ると言ってましたよ。
なんか、牛山さんの間男みたいな真似しているみたいですが、
結構揉め事が多いらしいですよ」
「へー、いやらしい。そういえば、私カミールにあったんですよ、
牛山さんに書類を届けに行った日、先生たちに社用車を貸した日ですけれども。
あの晩牛山さんが亡くなって、そうしたらカミールも来たんですよ。
 カミールは、フィリピンに帰るけど、
牛山さんと一緒じゃないのが残念だ、って言ってましたね。
でも、フィリピンはすごい危険だから牛山さんは行けなくてよかった
とも言ってましたね。
なんでも左翼ゲリラがあちこちにいて誘拐されるとバラバラにされて
臓器売買に使われちゃうんですって。
心臓とか目とか。
もしかしたら斉木さんも危ない目に遭っているかも知れませんね」
「じゃあ、さっきの騒ぎも何かその手のトラブルかなぁ」
「え、何かあったんですか?」
「いやいやいや、想像ですよ。
つーか、斉木は死んでも死なない奴だから何があっても平気でしょう。
ねえ、中川さん」
「さあ、どうだろう。あの常夏のフィリピンと
このスキー場とじゃあ何千キロも離れているからなあ。想像でけへん」
 中川はイクラを口に入れると、お酒を含んだ。窓の外の雪山を遠目に眺める。
 私もつられて窓の外を眺めた。
 ゲレンデにはしんしんと雪が降っていた。
 雪が防音材になって、
人間の起こすもろもろの騒々しさを吸い取るかのように思われた。
 この静かな斑尾とあの騒々しいフィリピンが
海底ケーブルで結ばれていると思うと変な気持ちがする。
しかし数日したら又スカイプで電話をしてみようと私は思った。
斉木和夫が二度死ぬかどうかを確かめる為に。


【完】




#534/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  19/02/22  20:17  (  1)
私的バレンタイン・サガ (上)   永山
★内容                                         21/01/18 01:40 修正 第3版
※都合により一時非公開風状態にします。




#535/598 ●長編    *** コメント #534 ***
★タイトル (AZA     )  19/02/23  00:02  (  1)
私的バレンタイン・サガ (下)   永山
★内容                                         21/01/18 01:41 修正 第3版
※都合により一時非公開風状態にします。




#536/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:31  (225)
眠れ、そして夢見よ 1−1   時 貴斗
★内容                                         19/03/26 22:35 修正 第2版
   奇妙な患者


   一

「先生の研究についての噂は、かねがね伺っております」
 高梨と名乗るその変ににやけた男は、真新しい名刺を差し出した。滝
田は男の顔を一瞥し、受け取った。「小暮総合病院 副院長 高梨英一」
とある。
「小暮総合病院。ああ、私もお世話になったことがありますよ。二年前
に右腕を骨折しましてね」
 滝田は職業的な笑顔を浮かべ、Yシャツの胸ポケットから名刺を抜き
出すと、男に渡した。高梨は大仰に両の眉を上げてみせる。
「そうですか、それはそれは。その後ご加減はいかがですか?」
「ええ、もうすっかり。二年も前のことですから」
「いやあ、それは良かった」
 高梨は相変わらず笑みを浮かべながら、応接室の様子を眺め回してい
る。
「まあ、立ち話もなんですから、おかけ下さい」
 二人はソファに座り、向かい合った。
 滝田が経営する睡眠研究所に、病院の医師、それも副院長と肩書きが
つく人間が訪ねてくるなどということは、初めてのことである。「実は今
日伺ったのは、他でもありません」高梨は急に声をひそめた。「うちの病
院に、非常に、何と言いますか、複雑な症状を持った患者が入院してい
るのです」
「はい」
「先生も睡眠の研究者でいらっしゃるから、睡眠障害についてはご存知
でしょう?」
「ええ、一応は」
「最初この患者は、夜なかなか寝付けず、朝早く目が覚めてしまうので、
なんとかしてくれと言って私どもの病院にやってきました」
「睡眠時間が短いわけですね」滝田はテーブルの上に両肘をつき、口の
前で手を組み合わせた。「鬱病ですか?」
「精神神経科医の判断は、ノーです。患者は精神的にはいたって普通で、
しゃべり方もはきはきとしており、その後何度かのカウンセリングでも
本人の生活上とりたてて重大な悩みがあるわけでもなく、食欲もあり、
勤務上の問題もなかったそうです。煙草、よろしいですか」
「どうぞ」
 滝田は手の平でテーブルの上の、ダイヤモンドのような形にカットさ
れた、ガラス製の灰皿を指し示した。
 銀色の、いかにも高級そうなライターで火をつけ、一服吸うと、高梨
は先を続けた。
「ところがその後、今度は夜容易に寝付くことができないのは同じなの
ですが、朝なかなか起きられなくなったと言い出しました」
「ほう、症状に変化が現れたわけですね」
「最初は午前二時頃に寝て、朝七時に起きると言っていました。ところ
がだんだんと、寝る時間が三時、四時へと遅れていき、朝起きる時間も
八時、九時へと遅くなっていきました」
「勤務の方はどうなったのです? 当然支障が出ると思いますが」
「ええ。患者は遅刻の常習犯となり、周りから白い目で見られるように
なりました。奥さんが起こそうとするのですが、絶対に起きないのだそ
うです」
「失礼します」
 所員の常盤美智子が盆にコーヒーを二つ載せて入ってきた。
「どうぞ」
 彼女がカップを置くと高梨は「有難うございます」と言いながら美智
子の顔を興味深げに見つめた。前時代的な牛乳瓶の底のような眼鏡が珍
しかったのだろう。
 滝田の前にもコーヒーを置くと、美智子は高梨の失礼な態度に怒った
のか憮然とした表情で立ち去った。
「睡眠相後退症候群ですか?」
「私どもの診断も、そうです。その状態は一ヵ月ほど続きました」
 高梨は軽く叩いて灰を灰皿に落とした。
「治療を進めるうちに、徐々に症状は改善していきました。患者の睡眠
時間は正常な時間帯へと戻っていったのです。私達は、治療の効果があ
ったのだと思ったのです」
「そうではなかったと?」
「ええ。今度は昼間眠くてしょうがないと言い出したのです」
「今度は過眠症になったとでも?」
 滝田は少し驚いた。
「ええ。夜十分な睡眠をとっているにもかかわらず、昼間たえまなく強
烈な眠気に襲われ続けると言います。笑ったりびっくりしたりすると全
身の力が抜けてしまうということから、ナルコレプシーと診断しました」
 滝田はようやくどういう話か分かってきたが、唇を少し歪めた。
「その患者、嘘をついてるんじゃないですか?」
「いいえ。MSLT(Multiple Sleep Latency Test)をやってみたのです。平
均入眠潜時は三分です」
 二時間ごとに二十分間横になり、眠りに入るまでの時間を測定するテ
ストだ。三分となると、これはかなり重度だ。
「ふーん」滝田も胸ポケットから煙草を取り出した。「それで?」
 高梨は滝田の煙草に火をつけながら、先を続ける。
「次に起こってきたのはレム睡眠行動障害でした。患者はふらふらと家
の中を歩き回り、家族の者に怒鳴り散らしたり、壁に立小便をしたりし
ました。後で聞いてみるとそういう夢を見ていたと言います」
「ほおう」
「さらに睡眠時無呼吸症候群を併発するに至って、私達は患者を入院さ
せることにしたのです」
「つまり」滝田は眉をひそめた。「いろいろな種類の睡眠障害が、次々と
起こったと、そうおっしゃるわけですね?」
「ええ、そうなんですよ」
「そんな馬鹿なことが」
「しかし、現実に起こっているのです。入院してからがもっとひどくて、
一週間から二週間、眠り続けるのです」
「今度はクライン・レビン症候群ですか」滝田はあきれた。「睡眠時無呼
吸症候群は? あれだと夜中に何度も目を覚ますんじゃないでしょうか」
「目を覚まさない場合もあります。しかし、入院後は起こらなくなりま
した。全く不思議です」
「CTスキャンとか、MRIは撮られたのですか?」
「脳には特にこれといった異常は認められていません」
 高梨は大きくため息をついた。
「眠り続ける期間は次第に伸びていきました。今はずっと眠っています。
こうなるともう、分かりません」
 滝田は笑いを漏らした。
「でもそれは、私の所へ持ってこられても、どうにもなりませんよ。も
っと大きな病院に移すとか」
「いえいえ、こうして先生をお訪ねしたのには理由があるのです。入院
してから、我々には全く理解できないような不思議なことが起こったの
です」
「ほう」
「患者はその後、普通の状態では目覚めなくなりました。起きた状態が、
入院する前のそれとは全く違うのです」
「と言いますと?」
「患者の名前は倉田恭介といいます。しかし彼は、自分は御見葉蔵(ご
み ようぞう)だと言うのです。彼は三十五歳なのですが、その時の彼
の声は老人のようなしわがれた声なのです。全く元の倉田とは違った声
質です。どう思います?」
 滝田は、高梨が患者を“倉田”と呼び捨てにするのを、少し不謹慎に
感じた。
「それもレム睡眠行動障害なのではないですか? まあ、声が変わって
しまうのは説明がつきませんが」
「ええ。私達もそう思いました。そこで精神神経科医は彼に質問を試み
ました」
「寝ている患者と会話ができたんですか?」
「ええ、それも奇妙なことです。横で寝ている妻が寝言を言ったので返
事をしてみたら返答してきたので『なんだ、起きてるの?』と聞くとす
やすやと眠っている。そういう例ならいくつもあるのですが、彼のよう
にはきはきと答える患者は聞いたことがありません」
「目は開いてるんですか?」
「開いてます」
「だったら睡眠時遊行症の方かもしれませんね」
「脳波を測定しました。ノンレム睡眠ではありません」
「そうですか。で、どうだったのです?」
「ただのレム睡眠行動障害だというだけでは説明がつかない、ある事実
が分かったのです」
「どんな?」
「患者の様子は、とにかく異常でした。彼が御見葉蔵として語る事は、
細部にまで渡っていました。彼がイカの塩辛をのせたお茶漬けが好きで
あることや、彼が住んでいる屋敷の部屋の間取り、彼が好きな酒の銘柄
……精神神経科医が次々にする質問に対して、実に自然に答えるのです」
 滝田は短くなった煙草をダイヤモンド型の灰皿に押し付けた。
「倉田さんの演技ではない、という訳ですね。すると彼は多重人格かも
しれませんね。彼はなぜだか知らないが昏睡状態に陥った。時々目覚め
るが、その時には御見葉蔵なるもう一人の人物になっている。レム睡眠
時の脳波と覚醒時の脳波は似ていますからね」
「しかし、事前の兆候が見られません。つまり、頭の中で誰かのしかり
つけるような声がする、といったような類の。全く突然にそうなったの
です。第一、彼の中の御見葉蔵という人格は、あまりにもはっきりとし
すぎているのです。一九六一年生まれ、十九歳で結婚し、二十四の時に
長男をもうけました。子供の名前は弘というそうです。六十六歳にして
やっと初孫が生まれました。名前は晃一だそうです。精神神経科医はそ
の他もろもろのことも聞き出しました。家の周辺のどこに何があったか、
煙草の銘柄、息子の好物と、嫌いなものまで。解離性同一障害は、確か
に自分とは全く別の人格が頭の中に宿るものです。しかしそれはあくま
で人格の話です。記憶まで完璧に全くの他人になれるのでしょうか?
御見葉蔵は青森の生まれだそうで、ずっと東北に住んでいるのだそうで
す。倉田が行ったこともない場所です」
「それでもやはり、全部倉田さんの作り話だという可能性は残るでしょ
う?」
「いいえ。作り話だという可能性は、全くないのです」
 高梨はきっぱりと言いきった。
「ほほう」
「担当した精神神経科医は、このことに個人的な興味を抱きまして。そ
れで、青森まで行ってきたのです」
「つまり、御見葉蔵の家にですか?」
「そうです。倉田から住所を聞いておりましたから、実際に行ってみた
のです。ありましたよ、御見の家が」
「まさか」滝田は新たに一本、煙草をくわえた。今度は自分のライター
で火をつける。「話が出来すぎている」
「その田舎の古い屋敷には、御見晃一という男が住んでいました。五十
三歳です。彼は、確かに父親は弘という名で、七年前に亡くなったと言
っています。そして祖父の名前が葉蔵なのだそうです。あとはもうお分
かりでしょう。全ての事実が、倉田が言ったことと驚くほど一致してい
たのです」
「葉蔵さんももう亡くなっているのですか?」
 生きていれば百歳を超える。
「はい」
「憑き物だな、そりゃ」
 滝田は苦笑した。
「どういうことですか?」
「ええ。大昔は、狐や猫が人に憑きました。しかし現代のように自然と
人間とが離れてしまった時代では、他人が憑いたり、コンピュータが憑
いたり、宇宙人が憑いたりします。御見葉蔵の霊が倉田氏にとり憑いた。
馬鹿げた話だ」
「いいえ。それも違います」
 滝田は顔をしかめた。
「まだ何かあるんですか」
「あります。実は彼が御見葉蔵であったのは、比較的短い期間だったの
です。その後三週間から一ヵ月という長いスパンの睡眠に入りました。
彼は次にインドのアジャンタ……なんとかという人物になりました。そ
れが大変な馬鹿力であるだけでなく、ひどく怒りっぽいのです。一番驚
いたのは、彼が自分のベッドを投げ飛ばした時でした。これは私も見て
います」
「日本語でしゃべったんですか?」
「ええ、日本語です。しかし彼が倉田ではない何者かになっていたこと
は確かです。どう考えても、あんな力が出せる体つきではありません。
そのインドの人物が出現したのはわずかに二度だけです。その次に、こ
れが最後ですが、今度は、自分は古代エジプト人だと言い出しました。
ところが言うことがひどくあいまいとしていまして。自分の職業も、名
前も、年齢も分からないと言います。こうなるともう、彼が一体どうな
ったのか、想像もつきません。彼はそんなにころころと、いろんな霊に
とり憑かれる体質なのでしょうか? 国籍も時代も全く違う。私にはど
うも、彼が憑依されたというだけでは説明がつかないような気がします。
もっとこう、私達の常識をひっくり返してしまうような何かが、彼の体
に起こっているのではないかという気がするのです」
「先程も言いましたが、私に相談されても治療して差し上げることはで
きないと思いますよ」
「いえいえ、治療の方は私達で続行します。私達が興味を持っているの
は、患者に起こった不可思議な現象です。私達はこれを解明する鍵は、
夢だと思っています」
「はい?」
「彼はやはり、レム睡眠行動障害なのだと思っています。つまり、彼が
見ている夢の内容が、そのまま行動に現れているのだろうと」
「そこで、我々の夢見装置に話がつながるわけですね? やっと分かり
ましたよ」
 夢の研究をしている所だったらいくらでもあるが、日本で唯一夢見装
置を持つ滝田研究所を訪ねるとはお目が高い。
「ええ。彼の夢の内容を研究すれば、何かとてつもない事が分かるかも
しれない」
「それが分かったとして、治療に役立ちますか?」
「役には立たないでしょう、たぶん。しかしこれが、医学に、いや医学
だけでなく科学に、一石を投じることになるかもしれない」
 滝田は意地の悪い笑みを浮かべた。
「論文にでもして学会で発表しますか? そうしたらあなたは有名人だ」
 どうやら図星だったらしく、高梨は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「このことはくれぐれも、内密にお願いしますよ」




#537/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:34  (289)
眠れ、そして夢見よ 1−2   時 貴斗
★内容                                         19/03/26 22:37 修正 第2版
   二

 春とはいってもまだ三月なので肌寒い。美智子はジャケットの前を合
わせながら、バス停から三十メートルほど離れた滝田研究所の正面玄関
まで、駆け足に近い速さで歩いてきた。見上げると、まるでイスラム教
の寺院のような、おおげさな造りの建物が、今日も相変わらず鎮座して
いる。前世紀、つまり二十世紀からあるこの建物を買い取って研究所と
したのは、全く滝田の趣味だと言える。エレベーターすらついていない。
入り口から入って右手にある階段の前に立つと、美智子はいつもの習慣
で、「はあっ」とため息をついた。彼女は運動が嫌いだ。三十を少し過ぎ
ただけなのに、もう若くないんだわ、などと思う。
 美智子はしぶしぶ上り始める。三階まで上るのは、結構いい運動にな
る。壁は、昔はもっと鮮やかな色であったに違いないのに、今はすっか
り黄土色に変わってしまっている。
 ロッカーにジャケットをしまいこむと、まずコーヒーメーカーから彼
女専用のカップになみなみと注ぎ込んで飲む。これもまたいつもの習慣
である。彼女の頭はこの一杯でようやく目覚める。それまでは半分寝て
いるのと同じだ。二年前までは七、八杯注ぐたびに豆と水を入れ直さな
ければならない古いタイプだったが、常時一定量が供給されるコーヒー
メーカーに変わった。
 再びロッカールームに戻り、白衣を上から引っ掛ける。着替える意味
はほとんどない。着た方が研究者らしく見える、といった程度だろうか。
実験動物の尿などが服につかないようにするため、ということにはなっ
ているが、実際にはそんなものがつくことはまずない。
 滝田研究室に行ってみると、そこには口髭とほう鬚を生やし、同じよ
うに白衣を着た青年がいた。彼は片手にコーヒーカップを持ち、片手に
リモコンを持ち、それを部屋の中央にある大型モニターに向けて、早送
りと巻き戻しのボタンを交互に押している。
「お早うございます」
 青年は画面を見つめたまま言った。
「あら藤崎君、早いわね」
「徹夜ですよ」
 なるほど確かに、目がやや赤くなっている。
「そう。熱心ね」
 美智子は手近にある椅子を引き寄せて、青年の横に座った。
「で、ハリー君の様子は?」
「なんにも変化なしです。時々小さく光ることはあるんですがね。それ
以外は何も映りません」
 モニターの画面はいくら早送りしても真っ暗なままである。
 隣の部屋は二階と三階が吹き抜けになっている。そこにあるベッドの
上には、哀れにも頭部を器具で固定され、四本の針を突き刺された犬の
ハリーが眠っている。今のところ人間以外で夢を観察することに成功し
たのは、猫と猿だけである。犬はうまくいっていない。猫と猿について
はうまくいったのだとは言っても、それは別にたいした成果ではない。
人間以外でも夢を見ることだったら、とっくの昔にアメリカで実証され
ている。夢見装置があるのは、日本の滝田睡眠研究所だけではないのだ。
「ふぁーあ」
 藤崎青年はあくびをすると、コーヒーを一口すすった。
 日中は分析や文書作成等の仕事をこなし、夜中は実験対象が眠ってい
る間、起きて観察していなければならない。だから睡眠を研究している
くせに、皮肉なことに当の本人は眠ることができない。
 美智子は青年の肩を軽く叩く。
「少し横になったら?」
 立ちあがり、ガラス窓に近寄り、隣室のベッドを見下ろす。動物実験
などというものをする科学者はつくづく残酷だと彼女は思う。犬の頭に
突き刺さった針は、脳の奥深い所にまで達している。そのうちの一本は
夢を見始めた時に活発になる箇所――青斑核と呼ばれる部分に、別の一
本は目で見たものを認識する部分――後頭葉の視覚野に刺さっている。
 人間ではこうはいかない。人に刺すなど言語道断である。脳というの
は例えて言えば、ボウルに入った寒天のようなものだ。そこに針を突き
刺したら、頭部を固定していたとしても、少しの衝撃でも簡単に傷が広
がってしまう。しかしヘルメットを被せて、頭蓋骨と頭皮という分厚い
壁に邪魔されて得られる信号よりも、測定したい部位から直接得られる
情報の方が、はるかに鮮明だ。だから猫や犬が犠牲になる。
 こうして、かわいそうな実験動物を見ながら彼女の朝が始まる。滝田
が来るのは一時間くらい後だ。それまでに昨日の分の報告書をまとめて
おこう、と美智子は思った。

 朝九時半、滝田は車を研究所の裏手の駐車場に止める。ドアを開いて
降り立った彼は、大きく伸びをする。二十一世紀に入ってからもう八十
年がたつ。彼の赤のポルシェは、百パーセント電気で走る超高級車だ。
二十一世紀に入ってから、少なくとも車に関しては格段の進歩があった
と言える。ガソリンから電気への移行は比較的スムーズに行われた。だ
が多くの国産車は、今でも電気八割、ガソリン二割くらいでエネルギー
を消費する。思えば、家庭にあるもの、あるいは外にあるものも、ほと
んど全て電気で動いている。テレビにラジオに冷蔵庫。電気自動車もわ
ずかにあったが、車だけが二十世紀終わり頃までガソリンで動くものが
一般的であったことは、今思えば特殊な例外だったと思う。
「おはよ」
 滝田が研究室に入ると、藤崎青年はモニター画面を見つめたまま、「お
早うございます」というやや不機嫌な返事をした。
「おやおや藤崎君、また徹夜?」
 藤崎青年が徹夜をしたかどうかということは、赤の他人には判別が難
しい。なにしろ普段から髭もじゃなので、不精髭といった要素では判断
することはできない。目のかすかな赤み、顔にうっすらと浮いた脂、「お
早うございます」という短い言葉に含まれる、ほんの少しなげやりな口
調、そういったものは、やはり長い間の付き合いでしか分からないもの
なのだろう。
「今日さあ、高梨っていうお医者さんが来るから」
「はい?」
 青年の目が滝田に向けられる。
「うん。僕達の夢見装置を見たいって言うんだよ」
 滝田はもうすぐ五十代に足を踏み入れようという歳なのに、いまだに
親しい間柄の人間に対しては、自分のことを“僕”と言う。
 滝田は昨日の高梨とのやりとりを、かいつまんで話した。
「本当ですかね、それ」
 青年は半信半疑のようだ。
「常盤君は?」
「自室にこもってますよ。報告書がまだ出来ていないんだとか。だめだ
こりゃ」
 青年はリモコンをテーブルの上に放り投げた。
 滝田は研究室を出た。別に急いでいるわけでもないのに早足で歩く。
滝田の癖だ。
 三人の、それぞれに忙しい一日がスタートした。もっとも、青年に関
しては昨日からぶっ通しだが。滝田研究所には他に十八名のスタッフが
いる。しかし分野ごとに分かれていて、研究所のメインである夢見装置
に直接関わっているのが、この三人である。美智子の報告書のつまらな
い矛盾点を滝田が指摘したことに対して、彼女が猛烈に反論してきたり、
藤崎青年がコンピュータの記憶装置に蓄えられた犬の睡眠に関するデー
タを仔細に検討したりしているうちに、昼がやって来た。


   三

 昼の一時過ぎ、研究室に滝田と、チャコールグレイのスーツを着た長
身の、やや細身の男が入っていった。滝田は白衣も着ず、ポロシャツ姿
だ。藤崎青年がプリンタから印刷されたグラフに落としていた目を上げ
る。
「藤崎君、こちら、小暮病院の高梨先生」
 滝田が手の平を高梨に向けると、高梨は青年の方に歩み寄って名刺を
差し出した。
「はじめまして。小暮総合病院の高梨です」
「あっ」青年は立ちあがって、胸やズボンのポケットを探った。「すみま
せん、持って来てなくて」
「常盤君は?」と滝田が聞くと、青年は「呼んできます」と言って出て
行った。
「いやあ、これはこれは」高梨は手を後ろに組んで、研究室のコンピュ
ータ達をながめ回した。「立派なものですなあ」
「ちょっと待ってて下さい。今コーヒーをお持ちしますんで」
 滝田は部屋を出ていこうとした。
「いやいや、結構です。それより、夢見装置はどこにあるんですか?」
「夢見装置というのはまあ、この部屋にある機械全部のことなんですが、
本体は隣の部屋にあるんですよ」
 滝田と高梨はガラス窓に近づき、下方を見た。そこには黒い、大きな
箱があって、その下から何本ものコードが伸びている。そのうちの、数
本の先端がベッドの上にいる犬の頭に刺さっている。高梨の横顔を見る
と苦々しくゆがんでいる。
「あれはもちろん、犬だからああなっているんですよね」
 表情に笑みを取り戻した高梨が、滝田の方を向く。
「ええ。人間の場合はヘルメットを被せるだけです」
 部屋の扉が開いた。藤崎青年と常盤美智子が戻ってきたのだ。高梨は
慇懃に礼をして、青年にしたのと同じように美智子に名刺を渡した。美
智子は自分も出さなければならない、ということには気がつかなかった
ようだ。もっとも、彼女の名刺は机の引出しの奥にしまったままになっ
ているようだが。
「ええ、さて」滝田は両手を握り合わせた。「何からお見せしましょうか」
 滝田は室内を見まわす。
「犬が寝てくれるといいんですがね。とは言っても、まだ犬の夢を見る
ことには成功してませんが。あ、藤崎君、先生にコーヒーと、あと灰皿
を持って来てくれる?」
 高梨が先を促すように質問する。
「先生はどういった研究をされているのですか?」
「主に人間以外の動物の夢を観察することです。あとは睡眠障害を持つ
人の夢を見ることですね。夢と睡眠障害の因果関係を調べているんです
よ」
「ほう! 動物も夢を見ますか」
「ええ。日本では猫と猿だけ成功していますがね。アメリカやヨーロッ
パではもっといろいろな動物の……犬や、うさぎや、小さいものではモ
ルモットでも成功しています。もっとも、脳が小さいものははっきりと
夢だと確認されたわけじゃありませんがね。ああ、そうだ。それじゃま
ず、猫の夢をご覧にいれましょう。ビデオがあるんですよ」
 滝田は部屋の隅の棚に大量に詰められたディスクの中から一本を抜き
出し、それを大型モニターの下の再生機にセットした。
 リモコンのスイッチを入れると、最初のうち真っ黒だった画面が、ふ
いに明るくなった。
「これが猫の夢ですか」
 そこには赤やら灰色やら緑やらの、大小様々な四角形が入り混じって
うごめいている画面が映し出されていた。
「猫と人間では当然脳の作りが違いますからね。これはまだ人が見て分
かるよう信号を変換しているところですよ」
「人間の場合はどうするのですか?」
「得られる信号が微弱ですから、高度な画像解析処理が必要です」
 そのサイケデリックな模様は、だんだんとボカシを入れたような画面
に変わり、徐々にものの形をとり始めてきた。台所かどこかの床の上す
れすれの様子が、画面に映し出された。テーブルや椅子の脚が立ち並ん
でいる。猫の視点が、滑るように右から左へと動いた。その目の先には
女性の足があって、猫はそこに近づいていく。視点が上に動いて、若い
主婦らしき女性の顔が映し出された。彼女は微笑みながら、キャットフ
ードが盛られた皿を目の前に置く。画面は皿の中のアップになった。猫
が餌を食っているのだ。それが終わると、画面は足元からスカートへ、
そして胸元へ、そして髪を後ろにしばったその女性の顔の前へと上がっ
ていった。女は口を動かしている。「よしよし、良い子ねえ」とでも言っ
ているのだろう。そして画面には女性の後ろの窓ガラスが映し出された。
右横にはポニーテールが見えている。猫が主人に抱っこされているのだ。
画面はそこで急速に暗くなり、元の真っ黒な状態へと戻った。
「ここで猫の夢は終わっています」滝田は言った。「これはその辺にいた
野良猫を拾ってきて見た夢です。きっと飼われていた時の記憶なんでし
ょうね。何度も実験を繰り返して、観測できたのはこの一回だけです。
他は、さっきのごちゃごちゃした四角形だけで終わったり、なんだか意
味がない絵しか出てこなかったりして、これほどまでに鮮明に意味を持
った映像は、これだけです」
「いやいや、たいしたもんだ」高梨は心底感嘆したという顔をした。「こ
れは一体、どういう仕組みになっているんです?」
「ええ、仕組みはですね……常盤君」
「夢というのは日頃見て記憶したもののイメージが、眠っている時に後
頭葉の視覚野に流れ込んで起こるんです。五十年くらい前から明らかに
されてきたことですけど」
 どこの研究所だったかな、と滝田は思う。機能的磁気共鳴画像装置を
使って睡眠中の視覚野の活動を計測し、パターン認識アルゴリズムを使
って夢に現れる物体を高い精度で解読することに成功した。あれからも
う七十年近く経つのか。
「へえ、それは初耳だ。しかしそれをどうやって取り出すのですか?」
「脳の視覚野の情報を、コンピュータで処理して映像にしているのです」
「そんなことができるんですか。それは、なんとも……」
 いんちきくさいですな、という言葉が出そうになるのを押しとどめた
かのような高梨の口元を、滝田は表情を変えずに見つめた。
「二〇五八年にはアメリカが、その翌年にはドイツが、夢見装置を発表
したんですよ。大ニュースになったんですけど、覚えていません?」
「いやはや、私が夢見装置のことを知ったのは、ほんの二ヵ月前なんで
すよ」
 おそらくはあの患者の夢を見たいと考えついたのは、高梨ではなく担
当の精神神経科医だろう。夢見装置に最初に着目したのもその人物に違
いない。
 滝田はうっとりとした口調で言う。
「二十一世紀は科学の世紀だと言われ、科学者や技術者達は猛烈に頑張
りました。自動車は電気で走るようになり、空には宇宙ステーションが
浮かび、他人の夢をのぞき見する装置が誕生しました。素晴らしいこと
です」
「二〇六〇年には動物も夢を見ることが、早くも実証されましたわ。夢
見装置が現れてから、いろいろなことが分かりました。国がまったく違
っても夢には共通の要素があることとか、悪夢の構造、正夢の可能性、
色つきの夢に白黒の夢……、この装置は睡眠研究者にも心理学者にも、
まさに夢の装置ですよ」
 ドアが開いて、藤崎青年が四角い盆に人数分のコーヒーと灰皿をのせ
て入ってきた。
「どこまで進みました?」と青年が聞く。
「まだ猫の夢を見せただけだよ」
 滝田はさっそく胸ポケットから煙草を取り出す。
「人間の夢を見せてあげればいいのに」
「それもそうだな。まずそっちが先か」
「睡眠障害者の夢を見たいですな」
 高梨は青年から受け取ったコーヒーを一口すすった。
「ええ、そうですね。それではレム睡眠行動障害の患者の夢をお見せし
ましょう」
 滝田は棚からさらに一枚のディスクを抜き、セットした。
 真っ黒な画面を早送りすると、ふいに白と黒の点が乱れ飛ぶ砂嵐のよ
うな画面が現れ、徐々にものの形をとり始めた。
 それは、両側を田んぼに囲まれた、一本の道だった。向こう側から一
人の女性が歩いてくる。紺の和服を着たその女は、接近すると微笑んで
軽く会釈をした。しかしそこから妙な具合になる。彼女はしばらくこち
らをじっと見ていたが、その表情は次第に困惑の度合いを増していき、
やがて突然怒り出した。何と言っているのかは分からない。
「音は聞こえないんですか」と高梨が問う。
「はい。今のところ視覚情報だけしか得られないんですよ」滝田はビデ
オを一時停止した。「しかし夢を見ている人がなんと言っているかは分か
ります。『きさま、よくも俺を裏切ったな』と言っているんですよ。患者
はレム睡眠行動障害だから、この場面で実際にそういう寝言を言ってい
るんです」
「なるほど、この女性と口論しているわけですね」
 高梨はうなずく。
「この後すぐに起こし、どんな夢を見ていたか聞きました。道を歩いて
いるとばったり妻と出くわした。彼は奥さんの浮気を責め、けんかにな
ったのだそうです。この男性は離婚しています」
 滝田は一時停止を解除した。
 女性との口論のシーンはほんの五秒ほど続き、画面は急に暗くなった。
「おや?」と高梨がつぶやく。
「夢が終わったんです」
 ビデオには編集をほどこしていて、一瞬ちらついてすぐにまた明るく
なった。
 今度はどこかの家の室内だ。乱雑に散らかった部屋は、書斎か何かの
ようだ。畳の上に本がたくさん散らばっている。画面の両端から患者の
ものであるらしい腕がのびて、一冊一冊を拾い上げて、開いて、また床
に放り出す、ということを繰り返している。不思議なことにどの本のど
のページも真っ白である。
「患者はこの時実際に何かを拾い上げる動作を繰り返しながら、『おかし
いな、ないぞ』というような言葉を発し、隣の部屋を歩き回っていまし
た」
 滝田は窓ガラスを指差す。
 その光景は十秒ほどで終わり、またしても画面は暗くなった。
「浮気の証拠の写真を探したが、見つからなかったのだそうです」
 そしてまた息をふきかえすように明るくなり、今度はどこかのレスト
ランのような風景を映し出した。テーブルをはさんで青のスーツを着た
若い男が座っており、卓の上には二人分のランチとステーキがのってい
る。青年は微笑みながら口を動かしている。
「患者はこの時ベッドに腰掛け、『お前も立派になったなあ』というよう
なことをつぶやいていました。この青年は患者の息子で、二年前に交通
事故で亡くなったそうです。一人暮しをしている息子と久しぶりに会っ
たのでいっしょに食事をしたと言っていました」
 今度もまた、その風景は短い時間で終わった。画面が急速に暗くなる。
「これで終わりです」滝田はビデオを止めた。「この時被験者が見た夢は
この三回です」
 高梨は滝田の言葉を聞きながらも、あまりのことにしばし呆然として
いた。
「実に興味深い。ところで睡眠障害とこの夢との関係は、明らかになっ
たんですか?」
「いいえ、さっぱり。全くどこにでもあるような、普通の夢です。何か
へんてこりんな夢でも見てくれればいいんですがね。なかなか思うよう
になりません。そのかわり、夢の内容とレム睡眠行動障害の行動が、ぴ
たりと一致していることは分かりましたよ」




#538/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:38  (190)
眠れ、そして夢見よ 2−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/03 00:11 修正 第2版
   夢を見る


   一

 三日後、滝田睡眠研究所の玄関の前に救急車が止まった。その中から
救急救命士達が下りてくる。助手席のドアが開いて高梨が姿を現す。
「さあさあ、こちらです」
 待ち受けていた滝田が彼らを誘導する。担架に縛り付けられた痩せこ
けた男が運び込まれる。
「家族には治療方針を決定するために一旦他の病院に移して検査すると
説明してあります」高梨が滝田にささやく。「本当に危険はないのでしょ
うね?」
「夢見装置は被験者の頭から出力される情報を得て、観測するというだ
けのものですよ。何かを脳の中に入力するわけじゃない。いたって安全
ですよ。それに比べれば体の中にX線を入射するレントゲンの方がよっ
ぽど危険ですよ」
 慎重に階段をのぼっていく救急救命士達の表情は、エレベーターもつ
いていないことに辟易しているようだ。
「こっちです」
 藤崎青年が観察室の薄桃色の分厚い扉を開けると、みんなゆっくりと
入っていく。患者を抱え、「せーの」と言ってベッドの上に移した。
 男の様子は異様だった。痩せこけ、髪は八割がた白髪になっている。
目はおちくぼみ、パジャマから出ている手足はまるでミイラのようだ。
「それじゃあ、滝田先生、お願いします」
 高梨は軽く礼をした。
 日に三度、医師が診にくることと、何かあったら小暮総合病院に連絡
するようにということを告げると、彼らはひきあげていった。
 寄付金とひきかえにこの患者の状態を調べること、論文のネタを高梨
に提供することは、もう青年と美智子にも言ってある。汚い仕事だが、
なぜ滝田が引き受けたのかといえば、それは患者の病態に興味をひかれ
たからである。なにしろ夢の中で過去の人物になるのだ。意義あるもの
に違いない。
「さてと、どうしますか」
 滝田は両手を握り合わせた。
「この人……倉田さんでしたっけ? ものすごい怪力で暴れ回ったって
言ってたじゃないですか」美智子は心配そうに眉をひそめる。「ベッドに
しばりつけておいた方がいいんじゃないかしら」
「いや、そう神経質になることもないだろう。もしも何か起こったら、
その時にそういうふうにすればいい」
 滝田はあごをさすりながら答えた。
 患者の顔は、安らかな眠りに落ちているとは言いがたかった。むしろ
苦痛にあえいでいるかのような表情だ。その額にも、ほほにも、深いし
わが刻まれ、くちびるは乾いてひびわれ、とうてい三十代には見えない
のだ。眼球は頭蓋骨の二つの穴に落ちこんでしまっているかのようだっ
た。


   二

 一時間後には患者の頭はそられ、ヘルメットをかぶせられていた。高
梨の話ではレム睡眠行動障害の状態を示すのは一ヵ月に一度程度という
ことだったが、夢自体は毎日見るだろう。ただし信号が微弱すぎる場合
は解読できないため、夢を観測できる機会は毎日というわけにはいかな
い。
 ディスプレイに次々と描き出される脳波を、美智子は見つめている。
こうして何か起こらないかと待ち続けるのは、実に退屈な作業である反
面、ずっと緊張を強いられるものでもある。美智子も青年も、患者のさ
さいな変化も見逃すまいと、ひたすらパソコンのモニターをにらみつけ
ている。そして頻繁に立ち上がっては、窓から患者の様子をうかがうの
だ。美智子が見下ろすその先には、まさにミイラという形容詞が似合い
そうな、倉田恭介が長い眠りについている。その横では点滴が、患者の
生命を維持するために、静かに薬液を送り続けている。患者の様子を見
ていると、かわいそうと思う反面、鳥肌がたってくる。
 そうして二時間ほどたっただろうか。
「疲れたわね。コーヒー飲む?」
 そう言って美智子が立ち上がりかけたその時……。
「あっ!」
 青年が短い声をあげた。
 モニターのうちの一台に変化が起こった。中央に白い十字マークが静
止していたのが、急に左右に動き出したのだ。
「眼球運動だわ」
 アイマスクに仕込まれたセンサーが男の目の動きを感知する。
「常盤さん、脳波はどうです?」
 美智子は慌ててディスプレイに目を落とす。
「レム睡眠よ。夢を見るかも」
 人の眠りには二種類ある。レム睡眠とノンレム睡眠である。レム睡眠
は脳が活性化された状態にあり、ノンレム睡眠は脳が休息した状態にあ
る。レム睡眠ではその名前の由来である急速眼球運動(REM:Rapid Eye
Movement)が起こり、この時に夢を見る。人は眠っている時にレム睡眠
とノンレム睡眠を交互に繰り返す。ノンレム睡眠時にも夢は見るが、あ
いまいでぼんやりしているので夢見装置で捕えられない。
 青年が大型モニターに向かうのに続けて、美智子もその黒い画面の前
に立った。
「あっ、今光ったわ」
 画面の中央にぼうっとした光の点が現れてすぐに消えた。二人が見て
いる前で、ずいぶんと間があって、今度は二度またたいた。
「来ますよ」
 青年の言葉が合図ででもあったかのように、画面が薄っすらと明るく
なってきた。白黒の、何千もの光の点が入り乱れ始めた。美智子はくい
いるように見つめる。
 画像は徐々に、ものの形を現してきた。ぼんやりとした風景、何か、
黄土色の岩のようなものがごろごろしている。大きさはまちまちだが、
どれもきれいな四角形である。あきらかに自然のものではない。その向
こうに、大きな石像らしきものが映っている。なにか、虎のような、ラ
イオンのような像、その左横に、大きくぼやけてはいるが、わずかに三
角形と分かるものがある。
「あっ」
 しかし、その映像は、長い時間待ってやっと現れたのに、あっという
間に消えてしまった。画面は元通りの暗闇に戻った。
「撮れた? どのくらい?」
 美智子は青年に顔を寄せて尋ねる。
「二秒ですね」
「たったそれだけ?」
 美智子は腕組みして考えた。
「どこかで見たことがある風景なんだけど」両手の指を胸の前で組み合
わせる。「どこだったかしら」
「あのライオンのような体は、たしかにどっかで見たような気がします
ね。あまりはっきりと映っていませんでしたけど」
「巻き戻してみてよ」
 青年がリモコンを操作し、映像を少し戻すと、再びあの、うすぼんや
りとした石像が映し出される。もっとはっきりしていれば簡単に思い出
せそうなのだが、なかなか思い出すことができない。それでも美智子は
じっと考え込んだ。
「そうだわ!」
 いきなり大声を出したものだから、青年がびっくりする。
「ちょ、ちょっと、常盤さん」
 青年が止める声も耳に入らず、美智子は部屋を飛び出していった。


   三

「見て下さい」
 翌日、出勤してきた滝田に、いきなり美智子が飛びついてきた。
「ああ?」
 滝田はまだ眠い目をなんとか見開いて、彼女が差し出した「神秘の王
国」という名の、科学雑誌らしきものを見つめた。
「昨日の夢ですよ。やっと見つけたんです」
 滝田は少しばかり思考が混乱したが、すぐに彼女が何のことを言って
いるのか分かった。
「ああ、昨日倉田さんが見た夢のことね。で、何が分かったって?」
「見て下さい。これです」
 ぼんやりとした視点が、彼女が開いたページの上をさまよう。昨日遅
くまで学術誌を読みふけっていたことからくる眠気が、一気にふっとん
だ。
「これは」
 滝田も昨日青年から話を聞いていたし、ビデオも見ていた。しかしそ
のぼやけた映像が何なのか、結局分からなかったのだ。
 そこにあったのはエジプトのギザの、スフィンクスとピラミッドの写
真だった。
「なるほど」滝田はつぶやく。「これか」
「おはようございます」
 室内に元気のいい声が響いた。どうやら藤崎青年は昨夜十分な睡眠が
とれたようだ。
「おや、何です?」
 青年が興味を示して二人が見入っている本をのぞきこむ。
「これは」青年は目を見開いた。「これか」
 何言ってんのよ、というような目で青年を見つめる美智子とは対照的
に、滝田は両手をもみ合わせながら、「さあ、忙しくなるぞ」と言った。
 しかしいったい何が忙しくなるのか、言った本人にも分からなかった。
やることといえば、相変わらず倉田氏が夢を見るのを待ち続けるだけな
のだ。
「これってやっぱり、倉田さんが今古代エジプト人になっているらしい
ことと、関係があるのかしら」
 美智子は小首をかしげた。
「大ありですよ」青年が興奮した声を出す。「これは倉田氏が古代エジプ
ト人になっているという、立派な証拠ですよ。彼は夢の中で、古代エジ
プトをさまよい歩いてるんですよ」
 滝田は口をすぼめた。
「まあ、そんな大げさなもんじゃないけどね。スフィンクスの夢くらい
だったら、誰だって見るだろう? でもまあ、次に倉田さんが起きだし
た時に、はっきりするんじゃないかな。高梨先生の話だけじゃ、分から
ないからね」
 それにしても不思議だと、滝田は思う。夢というのは、その都度ころ
ころと内容が違うものだ。しかし倉田氏が、例えば御見葉蔵氏にある一
定期間変化し続けるためには、その間ずっと御見氏の夢を見続けなけれ
ばならないことになる。そんなことが可能だろうか。
 無論、そういうことができる人々がいることは滝田も知っている。明
晰夢を見る人がそうだ。夢の中で自由自在に行動でき、好きなように夢
の内容をコントロールできるという、そういう人だ。現実の世界ではで
きないあらゆることが、夢の中だったらできるのだ。絶世の美女と食事
をするのも、社長になって人をこき使うのも、思いのままだ。その人に
とっては、夢は抽象的なつかみどころのないものではなく、現実世界と
は独立して、はっきりと存在するもう一つの世界なのである。
 明晰夢が一般的に知られ始めたのは一九六〇年代だが、現在に至るま
で睡眠研究のテーマとしてちょくちょく顔を出してきた。倉田氏もまた、
明晰夢を見る能力を持っているのだろうか? しかも全くの他人の人生
と寸分違わぬ夢を?
「常盤君」
「はい」
 美智子は何かを期待するような、にこやかな顔をした。
「コーヒーくれる?」
 美智子が不機嫌な表情をして向こうへ行くのを、滝田は遠くを見つめ
るような目つきでながめた。
 岩は四角形だった、と滝田は思う。全体的にぼやけた映像だったが、
手前に転がっている岩はかろうじて見えた。きれいな直方体だ。
 もしも、現在のスフィンクスであるならば、その手前に転がっている
岩は、元は四角形だったとしても、風化してもっと崩れているはずだ。
 いずれにせよ、今の段階ではあまりにも情報不足だ。倉田氏が次の夢
を見るまで、忍耐強く待つしかない。




#539/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:40  (266)
眠れ、そして夢見よ 2−2   時 貴斗
★内容                                         19/03/31 18:11 修正 第3版
   四

 土曜日、美智子はバス停に降り立つと、大きく深呼吸した。なんと清々
しい空気だろう。平日は人が大量にいて、どうもいけない。それが、休
日になるとこれほど人がいないものだとは。都会とはいえ、親父達の煙
草の煙や、刺々しい喧騒、舌打ちの音や咳払い、そういったものがある
のとないのとでは、空気のうまさが段違いだ。
 休日、それは美智子のように研究、研究で精神をすり減らす人間には、
とても重要な日である。土曜日にはクラシックを聴きながら読書をする
ことで精神を回復する。日曜日にはスポーツクラブに行ってストレスを
発散する。もっとも、本当はスポーツが苦手なので、エアロバイクしか
やらない。エアロビック・ダンスは嫌いだ。「はい、ワン・ツー、ワン・
ツー」という声に合わせて、脂肪を少しでも排出しようと体をねじるお
ばさん達を見ていると、嫌悪感で胸がむかつく。あの中に混じろうとは
思わない。だからひたすらに、床に固定された自転車をこぐ。ペダルを
がむしゃらに回す。
 別に誰から出てこいと言われたわけでもない。そんな休日を犠牲にし
てまで研究所に来てしまったのは、やはり倉田氏の状態が気になるから
である。
「あれ? 常盤さん?」
 振り向くと、そこに藤崎青年が立っていた。
「珍しいですね、休日出勤ですか」
「おはよ」
 青年は笑顔だったが、睡眠不足からくる疲れが、目の下のくまとなっ
て現れているようだ。本当は土日の患者の観察は青年に任せて、美智子
は家で寝ていればよいはずだった。
 休日に出てくるというのは、普段出勤してくるのとは少し違った気分
だ。なんとなく生真面目に研究に没頭する気になれない、きっと何もな
いのに、何かありそうな、少し浮かれた気分だ。
 美智子はこのまま研究所の玄関をくぐるのは、もったいないような気
がしてきた。腕時計を見る。休日出勤の勤務時間帯は決まっていないが、
藤崎青年の業務開始時刻は定められている。まだ少々余裕があるようだ。
「少し、歩かない?」
 青年は、へ? というような顔をしたが、すぐにうなずいた。
「ええ、いいですよ」
 美智子が歩き出すと、青年が慌てて追いついてきて横に並んだ。
 まだ朝早いせいか空は薄暗く、灰色の雲がおおっている。
 立ち並ぶ高層ビル郡は、いつもの活気をすっかりひそめて、巨大な墓
石のように突っ立っている。通りを行き交う車の数も、歩道の人数も、
平日に比べると格段に少ない。
 美智子が何もしゃべらないので、青年は何と話しかけてよいものかと
気遣っているらしく、時々美智子の方を見る。
「常盤さんって休みの日は何をしてるんですか?」
 歩き出してから一つめの信号が赤に変わった時、青年はようやく口を
開いた。
「あら、お見合い?」
 青年は快活に笑った。そして少しばつが悪そうな顔をする。
「藤崎君、大変ね。ちゃんと寝てる?」
「まあ仕事が仕事ですからね。でも大丈夫ですよ。体力だけが取り柄で
すから」
 美智子も徹夜はするが、青年は人一倍頑張っている。
「そう」
 再び会話がとぎれる。美智子は、珍しいわ、などと考える。つまり、
自分がこんなことをしているのが。
「読書」
「え?」
「読書よ。そこ曲がりましょ」
 通りを右に折れて、細い道に入ると、両側に植込みが並んでいる。し
ばらく歩くと、植込みが切れて、都会の中のほんの憩いの場とでもいう
ような、小さな公園がある。すべり台と、ベンチと、うさぎやライオン
の頭の形をした石の像が、ささやかながら置かれている。美智子はここ
で子供達が遊んでいる姿を見たことがない。
 何も言わずにベンチに腰掛けると、青年は遠慮がちに少しだけ離れて
座った。
「でも休みの日まで本を読んでいたら頭が疲れませんか」
「あら、頭を休めるために読書するのよ」
「はあ、そうですか。でも、体を動かした方がいいですよ。山にでも登
れば、気分がすかっとしますよ」
 スポーツクラブに行っているわよ、と言いたいところだが、秘密にし
ておく。まさか三十分だけエアロバイクをこいで帰っています、とは言
えない。エアロビを踊っているのを想像されるのも不愉快だ。
「どんな本を読むんですか?」
「そうね。遺伝子とか、ブラックホールとか、そういうの」
 青年の笑顔がひん曲がった。
「もっと、普通の本は読まないんですか」
「あら、普通の本だと思うけど」
 青年がようやく明るくなってきた空を見上げる。
「うーん、でもそのくらい勉強しないと、常盤さんみたいな天才にはな
れないんでしょうね」
「あら、藤崎君だって頭いいから、今の研究所にいるんじゃない」
「いえいえ、月とスッポンですよ」
 美智子は天才だと言われても、それを否定しない。それをやるとかえ
って嫌味になる。下を向き、じっと考え込む。そして顔を上げ、遠くを
みつめる。
「天才ってね、あまりいいもんじゃないわよ」
 青年が眉根を寄せる。
「なんだか氷の中にいるみたい。氷の壁に囲まれて、その中から出られ
ないの。そしてその壁は、だんだんと、私に向かって迫ってくるのよ」
「疲れてるんですよ。やっぱり頭を休ませなきゃ」
「知ってる? 論理的な思考ばかりして左脳だけ発達すると、右脳が発
達しなくて、人を愛することができないんだって」
 何かのつまらない本に書いてあった馬鹿げた迷信だ。愛の正体は扁桃
体にあるのではないかとも言われている。それは脳の両側にある。
「常盤さんは人を愛せないんですか?」
 美智子は困った。何でこんなこと言っちゃったんだろう、と後悔する。
「そうね、どうかしら」
 美智子は、自分でもびっくりするくらい乱暴に髪をかきあげた。
「天才っていうのは、何かを創り出すことができる人のことよ。勉強ば
かりできる人間はただの真面目な人だわ」
 自分は夢見装置の主要な開発メンバーとして活躍した滝田にどこか嫉
妬のような念を抱いている、と彼女は感じていた。
 青年はうつむいたまま、しばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「今度、山に行きませんか」
 青年は照れたのか、慌てて付け足す。
「滝田先生と一緒に」


   五

「何も映りませんねえ」
「同じこと何度も言わないの。はい、コーヒー」
 青年にコーヒーカップを渡すと、美智子は窓に近寄って倉田氏を見下
ろした。もう何度こうして、昏々と眠り続ける倉田氏の様子をながめた
ことだろう。今日も朝十時頃医者が来て、点滴を取り替えていった。そ
れ以来全く何の変化もなく、寝返りさえうたず、苦しげな表情のまま眠
り続けている。
「それじゃ、私また自分の部屋にいるから。もう一時間くらいしたら、
交代しましょ」
 そう言って部屋を出ようとした時、青年が大声を出した。
「常盤さん」
 大型モニターの前に駆け寄ると、そこに例の砂嵐のような画面が現れ
ていた。
 美智子は青年が唾を飲み込む音を聞いた。
 画面は徐々に、青と黄土色の色彩を現してきた。
「これは」
「ピラミッドよ」
 今度は、前のようなぼやけた映像ではなかった。はっきりと、三角形
の王の墓が姿を現していた。それは普通ピラミッドという言葉から連想
するきれいな四角錐とは少し違っていて、一つの段が大きく階段のよう
だ。青色の部分はその背景にある空だった。手前には石垣のようなもの
が左右に広がっている。
 そのピラミッドが、右へ行ったり、左へ行ったりしている。
「辺りをながめ回しているみたいね」
 やがてそれは、画面の中央に来て止まった。倉田氏、あるいは倉田氏
に乗り移っている何者かは、その王の墓に見とれているようだった。
 画面は明るくなったり、暗くなったりを繰り返し始めた。
「消えます」
 青年の言う通り、画面は黒くなっていき、そして消えた。
「何秒?」
「十秒です」
 美智子は腕組みして、仁王立ちになって考え込んだ。そして脱兎のご
とく駆けだした。
「常盤さん?」
 しばらくして部屋に戻ってきた美智子が両手に大量の本を抱えている
のを見て、青年は驚いたようだった。
「何です?」
 美智子は大きな音をたててテーブルの上に本を置いた。それは全部エ
ジプト関係の書籍だった。
「いつの間に、こんなに」
「探して」
 青年はきょとんとした顔をした。
「探すのよ。今の映像が、何なのか」
 美智子が猛烈な勢いでページをめくり始めるのを見て、青年はあっけ
にとられたように立ちすくんでいた。
「さあさあ、藤崎君、頑張りましょ」
 青年も本を手にとってめくりだす。
 黙々と作業を進めるうちに、テーブルの上いっぱいに本が散らばって
きた。
「あったわ」
 青年が身を乗り出して美智子が開いているページをのぞきこむ。
「これよ。ジェセル王のピラミッド」
 それは、段々の部分が崩れかけた、溶けかかったアイスクリームのよ
うな写真だった。
「たしかに、これの大昔の姿を想像すると、さっきの映像と一致しそう
ですね」
 美智子は別の一冊を手にとって開いた。アフリカの北東部、古代エジ
プトの地図である。紅海の横に、ナイル川が走っている。ナイル川に沿
って、テーベやテル・アル=アマルナやメイドゥムといった地名が並ん
でいる。アフリカ大陸がシナイ半島につながる付近で、ナイル川が何本
にも枝分かれして地中海に流れこんでいる。美智子はその分岐が始まる
根元のあたりを指差した。
「この間のスフィンクスがギザ、ジェセル王の階段ピラミッドがサッカ
ラにあるから、彼はこのあたりにいることになるわね」
 それにしても、なぜこんな所にいるのかしら、と美智子は思う。ギザ
とサッカラといえば古代エジプトでは非常に重要な地域である。ギザの
クフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッドとスフィンクス
は有名だし、サッカラにも多くのファラオ――つまり古代エジプトの王
のピラミッドや、聖牛アピスの地下墳墓等がある。
 ひょっとすると、彼もまたファラオなのかもしれない。もっとも、た
だの農民なのかもしれないが。
 まだまったく謎のままだが、一歩前進したことは確かだ。


   六

「九時か」滝田は腕時計をのぞきこんで、ため息をついた。「今日も何も
現れそうにないな」
 ジェセル王のピラミッドが現れてから、二日経つ。スフィンクスが現
れてからは五日目だ。だいたい二、三日くらいの間隔で、はっきりとし
た夢を見るらしい。もちろん、その間は全然夢を見ないというわけでは
ない。小さく光ったり、砂嵐のような画面が現れたりすることはある。
ただ、夢見装置で捕えられるほどはっきりとした夢を見ないというだけ
のことだ。
 滝田は美智子と並んで、窓から患者の様子を見守っていた。
「そろそろ、帰った方がいいんじゃないか?」
 美智子は黙ってうなずいた。
 その時青年が、ささやくような、それでいて緊迫感を帯びた声を出し
た。
「先生、眼球運動です」
 滝田は緊張して振り返った。青年の背後に歩み寄り、のぞきこむと、
モニター上で白い十字マークが上下左右に動き回っていた。
「うん。常盤君、脳波は?」
 美智子は慌てて波形を調べる。
「入りました。レム睡眠です」
 青年が椅子を回転させて、その下についているキャスターをころがし
て部屋の中央にあるモニターの前に行くのに続いて、滝田もその前に立
った。美智子も後からついてきた。
 画面は真っ黒なまま何の変化もない。
「十秒経過」
 青年が厳かに告げる。滝田は眉をひそめた。ぬか喜びか。
 しかしその時、画面が静かに明るさを増し、砂嵐が走り始めた。
「夢か」
 滝田は尋ねた。
「夢です」
 青年が答える。
 画面の砂嵐は徐々にものの形をとり始めた。
 滝田は唖然とした。それは、今までのようなエジプトの夢ではなかっ
た。どこかの部屋の中の風景だ。壁に沿って冷蔵庫のようなコンピュー
タの箱とパソコンが並んでいる。だんだんと映像が明瞭になるに従って、
滝田はあほうのように口を開いていった。
 中央には大型モニターがあり、床にはいろいろな機器同士を結ぶ配線
が這い回っている。滝田達もいる。間違いない。それは他でもない、こ
の部屋だった。この室内の風景が映し出されているのだ。
「こんな夢は初めてです」
 背後で美智子が驚きの声を漏らすのが聞こえた。
 ジェセル王のピラミッドの時と同じように、彼は部屋を眺め回してい
た。
 突然、彼は歩き出した。ゆっくりとモニターの右横に近づいていく。
 青年が首を横に向けた。滝田も、おそるおそる、彼が立っているはず
の場所を見た。しかしそこには誰もいない。
「常盤君」
「は、はい」
 美智子は窓に駆け寄った。何も言わずひたすら下方を見つめている様
子から、相変わらず倉田氏は眠り続けているのだと分かった。レム睡眠
行動障害は起こっていないのだろう。
 滝田達が立っている方向に移動してきたので慌てて一歩下がった。倉
田氏、あるいは倉田氏に乗り移っている何者かはモニターの真ん前に来
た。
 滝田は目を真ん丸に見開いた。モニター画面の中にモニターが、その
モニター画面の中にモニターが、延々と続いているのだ。
 なにか金属のようなものが、画面の下から上がってきた。スパナだ!
彼はその血管の浮き出た手に、しっかりとレンチを握り締めているのだ
った。それは、列をなして画面のずっと奥の方まで続いた。
 滝田の頭の中に警報が鳴り響く。やめろ。やめてくれ。
 スパナが上方に振り上げられた。
「わあっ」
 滝田は目をつぶった。ひどい音がした。
 ゆっくりと目を開くと、モニターが割れていた。
 滝田は、呆然として突っ立っていた。一体何が起こったのか、どう解
釈すればよいのか、頭が混乱して整理できない。
 ようやく我に返り、窓に駆け寄る。倉田氏は微動だにせず、眠り続け
ていた。ただ、その口元がかすかに笑っているように見えた。
 美智子がPCに駆け寄る。
「常盤君、脳波は?」
「終わりました。ノンレム睡眠に戻りました」
 長いため息が、自然と口から吐き出される。一気に十年も歳をとった
ようだ。
 青年が見つめているのに気づき、額をぬぐうと、冷や汗で濡れていた。
「こりゃ、いったい」
 喉が乾き、干からびた声が出る。
「倉田さんはエジプトにいるんでしょ? どうしてこんな映像が出る
の?」
 美智子は誰にともなく、怒ったように言った。
「分からん。今までのはまだ、不可思議ながらもつじつまが合っていた。
しかし今度のは、まるでおかしい。今ここに実在していたかのようだっ
た。一体彼は、今度は誰になったというんだ?」




#540/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:44  (326)
眠れ、そして夢見よ 3−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/05 00:50 修正 第2版
   手がかり


   一

 空には雲が浮いている。今日もいい天気だ。青年は大きなあくびをし
た。不規則な形をした綿菓子たちが、おとなしく佇んでいる。ふと目に
とめた一つの形が、猫の顔に見えてきた。青年は愉快な気持ちになって
きた。他にも何かに似ているものがないかと探しだす。そんなふうにし
て見ていると、なんということもない雲が、羊の群れに見えてくるから
不思議だ。
 低くて太い音に気づいて、後ろを見ると、屋上に通じる扉が開いて美
智子が出てきた。
「おや、どうしたんですか」
 美智子は靴音を立てながら青年に近づいてきた。
「ズボン、汚れるわよ」
「構やしませんよ」
 美智子はハンカチを敷いて、青年の横に座った。手の平をコンクリー
トに当て、空を見上げる。
「私も空でも眺めようかと思ってね」
「こうしてると気が落ち着きますよ。僕はよく昼休みにここに来るんで
すよ」
「三度も聞いたわ」
 美智子が目を細める。えくぼができる。
 コンタクトにすればいいのに、と青年は思う。一度だけ、眼鏡をはず
したところを見たことがある。まだ二十代だと言っても通じそうな、か
わいらしい顔だった。もっとも、そんなことは本人には言わない。言っ
たら大目玉だ。
「気分、あんまり変わらないわ。どこがいいの?」
「空ってほら、絵みたいじゃないですか」
「そうかしら。そんなふうに考えたことないわ」
「小さい頃、親父と散歩してて、それで河原の土手に二人で寝ころがっ
て空を眺めてたんですよ。僕が、空って絵みたいだねって言ったら、や
っぱり親父も、常盤さんと同じこと言いましたよ。そんなふうに思った
ことないなあって」
「すごい。よくそんなこと覚えてるわね」美智子の顔に意地悪そうな笑
みが浮かぶ。「今作ったんじゃないの?」
「いえいえ、本当ですよ。そうかあ。そんなふうに思うの、僕だけなの
かな」
 美智子は空を見上げたまま、黙っている。青年は言葉が続かず、ひざ
を抱えていた手を、彼女の真似をしてコンクリートに当てた。
「積乱雲だわ。雨が降るかも」
「え、どれですか?」
「あれよ、あれ」
 美智子は、周辺のビルの群れの中でも、ひときわ大きいやつを指差し
た。その上に、なるほどたしかに山のように立ち上がっている雲が見え
る。
「あれ、積乱雲ですか? 違うと思うけどなあ」
「なんで?」
「だって、夏の雲でしょ?」
「そんなことないわ。寒冷前線があると、その近くにできるのよ」
「へえ、雲にも詳しいんですね」
「科学者たるもの、いろんなことに興味を持たなくちゃだめよ。もしも
被験者が雲の夢を見たらどうするの?」
 青年は視線を美智子から空へと移した。
「僕はただ何にも考えないで眺めている方が好きだなあ。積乱雲とか、
そういうのはどうでもいいんですよ。ああ、綿菓子みたいだな、とかね。
きれいだなあ、とか。常盤さんはそういうふうには感じないんですか」
 怒ったかな? と思い、再び視線を美智子に移すと、意外にも彼女は
少し悲しそうな顔をしてうつむいていた。
 青年の心に、なぜだか彼女が言った「氷の中にいるみたい」という言
葉がよみがえった。
 彼女がいきなり立ちあがったので青年は驚いた。
「雨が降るかもしれないわ。藤崎君も早く中に入った方がいいわよ」
 青年は、足早に歩み去っていく彼女の姿を、呆然と見送った。積乱雲
を見ると、わずかにこちらに移動してきたように感じた。


   二

 呼び鈴を押す。応答がない。もう一度押す。滝田は靴のつま先で地面
を叩き始める。
「はーい」
 間延びした女の声が聞こえる。しばらくして、やっとドアが開いた。
髪の乱れたおばさんの顔が、扉の間からのぞいた。
 滝田は慌てて職業的な笑みを浮かべた。
「すみません。私、小暮総合病院の斎藤先生の紹介で来た、滝田という
者ですが」
 倉田恭介の担当医の名を出し、名刺を渡す。その名刺には「滝田国際
睡眠障害専門病院 院長 滝田健三」というでたらめが刷ってある。
「まあ」
 倉田恭介の妻、倉田芳子は甲高い声を出した。
「まあまあ、主人の……。そうですか。よくいらっしゃいました。さあ、
どうぞ」
 靴をぬぐ間も、そうですか、私もう心配で心配で、などと黒板を爪で
ひっかくような声でしゃべり続ける。いらいらする。
 おばちゃんというのは、大別して二種類いるように思う。甲高い声の
おばちゃんと、だみ声のおばちゃんだ。他の種類のおばちゃんはあまり
見たことがない。どうしてだろう。
 彼女は五十代に入っているように見える。歳の離れた女房だろうか。
髪は長く、目は大きく、どちらかというと色白で、昔は美しかったのだ
ろうにと思わせる顔立ちだ。
 彼女の後について歩きながら、奇妙な症状を示し続ける患者の家をつ
ぶさに観察する。歩くときしむような音が鳴る廊下の奥には二階へと続
く階段がある。両側には薄く黄ばんだふすまがある。築年数は十年、い
や、二十年くらいだろうか。なんということはない。普通の家だ。
 倉田の妻はふすまのうちの一枚を開け、さあさあ、どうぞと滝田をい
ざなう。六畳の和室だ。
「汚い所ですが。そうですか、まあ」
 座布団の上にあぐらをかく。
「今お茶をお持ちしますので」
「いや、お構いなく」
 一人になった滝田は、部屋の中を眺め回す。液晶パネルの、ディスク
再生装置と一体型のテレビはほこりも拭かれていない。髪を銀色に染め
たアイドルの女の子が微笑んでいるカレンダーは倉田恭介の趣味だろう
か。エアコンは元々真っ白だっただろうが今は黄味がかっている。そん
なごく平凡な物達に囲まれながら、つまらない一市民としての暮らしを
営んでいたはずの倉田氏が、なぜ突然にあんなふうになったのか。
 家族の話を聞けば何か分かるかもしれないと思うのは、浅はかだろう
か。それでも、何でもいいから手がかりがほしいのだ。
「まあまあ、わざわざご足労頂いて、すみませんねえ」
 耳障りな声を発しながら、おばさんが戻ってきた。
「私、ご主人が入院している病院から依頼されたのですが、やはりご本
人がああいう状態ですから、原因が分かりません。そこで、ご家族の話
をうかがいたいと思いまして。突然訪問して申し訳ありません」
「いえいえ、まあまあ、よく来て下さいました」
 出されたお茶を一口すする。熱いな、と心の中で舌打ちする。
 その時威勢良くふすまが開いて、男の子が駆け込んできた。
「お母さん、おやつ」
「もう、今お客さんが来てるんだから、あっちに行ってなさい。冷蔵庫
にプリンがあるから、それでも食べてなさい」
 子供は来た時と同じ勢いで走っていった。騒々しい家だなあ、と滝田
は思う。
「小暮病院でいいかと思ってたら、検査のために他の病院に移すってい
うでしょ? 私もうびっくりしちゃって。何にも手につかなくて、夜も
眠れないんですよ」
 そうは見えませんが、と言いたいのをこらえる。
「それで、どうなんですか? かなり悪いんですか? あの人が死んじ
ゃったらどうしようと、そればかり気がかりで」
「いえいえ、大丈夫ですよ。死にはしません」
 まさか死ぬことはないだろうと考えていた。だが、彼が重態なのかど
うかも知らない。ただ、痩せさらばえていることは確かだ。このままだ
と栄養失調で亡くなるかもしれない。そうなっては滝田も困る。結局何
も分からないまま調査が終了してしまうのは避けなければ。
「でも院長先生がじきじきに出向いて下さるということは、かなりの重
病じゃないんでしょうか」
 院長はまずかったかな、と滝田は思う。しかし、相手を信用させるに
はそれくらいした方がいいのだ。人間というのは権威に弱いものだ。例
えば同じ発見を有名な学者がしたのと、町にどこにでもいそうな高校教
師がしたのとでは、学者の方が信用されるに決まっている。
「いえいえ、そんなことはありません。脳に異常が見つかっているわけ
でもありません。ただ、眠り続ける原因が分からないんですよ」
「まあ」
 倉田芳子の眉が八の字になった。
「心配することはありませんよ」
「小暮病院でもいろいろ聞かれたんですよ。普段どんな生活をしている
かとか、お酒はどのくらい飲むかとか、寝るのは何時くらいかとか」
「ええ。それはうちの方でも聞いています」寝るのは何時かしか聞いて
いないが、調子を合わせる。「今日うかがったのは、そういった医者が聞
くような通り一遍のことではなくて、もっと突っ込んだことを聞くため
なんですよ」
「と、おっしゃいますと」
 滝田は身を乗り出し、倉田芳子の瞳をみつめる。
「何か、秘密にしていることがあるんじゃないですか? 医者にも言っ
てないような」
 無論、そんなことは分からない。しかしそれで何か情報が引き出せれ
ばもうけものだ。
 倉田芳子は急に下を向いて考え込み始めた。
「大丈夫ですよ。秘密は厳守します」
 だいぶ迷っていたようだが、やがてしおらしく言った。
「実は、主人は新興宗教にかぶれてまして」
「宗教ですって?」
「言ってましたわ。会社がつぶれるかもしれないって」手の甲で目頭を
おさえる。「自分はクビになるかもしれないって、そう言ってました」
 鼻をすすり上げ始めた。近くのティッシュペーパーの箱から一枚引っ
張り出し、鼻をかんだ。
「ずいぶん悩んでたみたいです。それで宗教にすがったんです。私、や
めろやめろって、何度も言ったんですよ。あんなわけの分からないもの
に入れこむから、たたったんだわ」
「で、その新興宗教というのは何て名前ですか。どこにあるんです?」


   三

 高梨の話には嘘があった。たしか、精神的には何の問題もないと言っ
ていたはずだ。そうではなかった。悩みがあったのだ。
 滝田はそこだけ他の建物のようには道に面しておらず、遠慮がちに引
っ込んだ所に建っている小さなビルの正面玄関の前に立っていた。縦に
トーテムポールのように並んでいる看板を見上げる。「二階 和田幸福研
究所」とある。同じ研究所でも滝田のそれとはだいぶ趣が異なる。中に
入り、小さなエレベーターに乗る。四人も乗れば窮屈に感じられるほど
の狭さだ。降りると、廊下をはさんで正面に銀の枠で囲まれたガラス製
の、観音開きのドアがあった。案内は出ていないが、他に扉がないので
それが和田幸福研究所だろう。
 少し躊躇したが、意を決して中に踏み込んだ。左側に、町の小さな病
院のそれに似た受付がある。誰もいなかったが、「すみません」と声をか
けると黄色いセーターを着た目鼻立ちの整った女性が現れた。
「あの、和田先生に面会を申し込みたいんですが」
「会員証をお持ちですか」
「いえ、私、会員ではないんですが、和田先生とちょっとお話ししたい
ことがありまして」
 女性の顔が怪訝そうな表情に変わる。
「先生は会員ではない方とはお会いしません」
「倉田恭介さんのことについてお話を聞かせていただければと思いまし
て」
 女性がパソコンを操作するのをみつめる。
「こちらの加入者の方ですね。しかしプライバシーをお教えすることは
できません」
 困ったな、と思ったが、このまま帰るわけにはいかない。一か八かだ。
「では、御見葉蔵さんについてお話ししたいのですが」
 女性が滝田をにらみつける。ビンゴだ。
「少々お待ち下さい」
 立ち上がって、姿を消した。そのまま戻ってこない。滝田は靴先を鳴
らし始めた。
 五分近く待たされて、ようやく戻ってきた。
「お会いになるそうです。正面のドアからお入り下さい」
 軽く礼をしてこげ茶色の扉を開けると、そこにまた別の女性が立って
いる。他には誰の姿もない。この女が“先生”なのだろうかと思ってい
ると「どうぞこちらへ」と言って滝田を案内する。「第二応接室」という
札がかかった別の部屋のドアを開け、「先生、お客様です」と中の人物に
告げ、滝田に向かって丁寧におじぎをする。
 中から、「どうぞ、入って下さい」という声がした。入っていくと、ゆ
ったりとしたソファに腰掛けていた男が立ち上がった。ポマードで髪を
オールバックにした、初老の男だ。
「あ、どうも今日は。私こういう者なんですが」
 滝田は倉田の妻に渡したのと同じ名刺を男に手渡した。男は目を細め
てしげしげとながめた。
「ほう、病院の院長先生ですか」男はにこやかな笑みを浮かべた。「私は
ここの所長の和田です。で、今日はどんなご用ですか」
 手の平で男の向かい側のソファを指して、ゆっくりと腰掛ける。滝田
も座った。
「実は、うちの患者に倉田恭介さんという方がいるのですが、その人に
ついてお聞きしたいことがありまして」
「ええ、聞きました。こちらに来られていた人ですね」
「そうです。その方が今実に不可解な病気にかかっておりまして。お聞
きになっていませんよねえ」
「いや、奥さんの方からうかがっていますよ。なんでも昏睡状態と夢遊
病がいっしょになった病気だとか」
 夢遊病とレム睡眠行動障害とは別物なのだが。
「奥さんもこちらに来たんですか」
「ええ、すごい剣幕でしたよ。あなた達が主人をおかしくしたんだって、
そんなことを言うんですよ。まったく、困ったことです」
 滝田はいつも話の核心にふれる時にそうするように、相手の瞳をしば
らくみつめた。
「実を言いますとね、私も、こちらの研究所が倉田さんに何かしたんじ
ゃないかと思っているんですよ」
 和田は柔和な表情をくずさず、少し首を横に傾けた。
「おやおや、奥さんはともかく、病院の偉い先生までそんなことをおっ
しゃる。私達が何をしたのでしょうか」
 倉田芳子の話を聞いた時に直感した。新興宗教といえば……
「洗脳ですよ。あなた達は、例えば倉田さんに、誰か別の人間だと思わ
せるように、思想を改造したんじゃないですか」
 和田は狐につままれたような顔をした。
「ああ、奥さんから聞いたんですね。我々が宗教団体だって」
「違うんですか?」
「私達は、人間が幸福になる方法を研究しているんですよ。しかし宗教
団体ではありません。あなたは、私達が倉田さんを別の人間にしたと言
うが、そんなことが簡単にできるんでしょうか? いったいどうやって。
何のために」
 滝田は困った。洗脳の結果、あんなふうになったのだとすれば、無理
にこじつければ何とか説明がつく。倉田氏が詳細を語ったのは御見葉蔵
氏の人生だけだ。あとの二人はあいまいだ。この研究所がなんらかの方
法で御見氏についての情報を得ていて、その人格を倉田氏に植え付けた
のだとすれば、少なくとも御見氏についての謎は解決する。しかし、洗
脳ではないと言い張られては、どうしたらいいのだろう。たしかに、人
間を全くの他人だと思わせるのは、そんなに簡単にできそうもない。一
つのキーワードが浮かんだ。
「催眠はどうです? あなた達は倉田さんに催眠術をかけたのではない
ですか?」
「私達は悩める人を救うために、催眠を使うことはあります。それはそ
の人の悩みを、より良く知るためです。人は心の秘密を、なかなか打ち
明けないものです。その壁を取り払ってあげる必要があるのです」
「倉田さんにもかけたんですね?」
「ええ、かけましたよ。もちろん事前に本人の了解を得ています。何か
問題がありますか?」
「どんな種類の催眠術ですか。使い方を間違えると、非常に危険な行為
だと思いますが」
 和田の顔が、一瞬くもったように思えた。しかしすぐににこやかな顔
に戻る。
「それをあなたに言う義務があるのでしょうか。私達は倉田さんのプラ
イバシーを守る責任があります」
「別に倉田さんがどんなことをしゃべったか教えてくれと言ってるわけ
ではありません。私はあなた達が倉田さんを人形みたいに操ったのでは
ないということが分かればそれでいいんです」
 和田の笑みがくずれた。目は笑みを保っているが、口元がゆがんだま
ま戻らない。
「退行催眠ですよ」
「え?」
「記憶をどんどん過去にさかのぼらせていくのです。人の悩みは幼少期
にどんなふうに育てられたか、どんな大人達と接したかに大きく関わっ
ていることが多い。それを知るためです。倉田さんを操るためではあり
ませんよ」
「どこまで戻らせたんですか? つまり、何歳頃まで戻ったか、という
ことですが」
 その質問はひらめきだった。まだ何かが明瞭に分かったわけではなか
った。しかし、御見葉蔵氏が過去の人物であることと、退行催眠という
言葉が、瞬時に頭の中で結びついたのだ。
「どこまでって、今言いましたように、幼少期ですよ」
「何歳ですか。それとも」自分でも思いがけない言葉が出た。「生まれる
前ですか?」
 和田の表情がさらに険しくなった。
「これ以上は秘密です。倉田さんのプライバシーに関わります。悪いが、
次の方が私を待っています。もうそろそろお引取り願えませんか」
「退行催眠というのは、そんなにほいほいとかけていいものなんです
か? あなた達はそういう資格なり、免許なりを持っているんですか?
それは法的に問題ないんですか?」
 和田が今までの温厚な態度からは想像もできないような、薄気味悪く
不気味な表情を浮かべた。
「いいでしょう、お話ししましょう。秘密は守っていただけますね」
「ええ、誰にも言いません」
「私達も驚きました。退行催眠で前世の記憶がよみがえったというよう
な話は、いくつも聞いたことがありますが、まさか本当に目にする機会
にめぐり会えるとは。倉田さんは突然、今までの様子とは全く違ったふ
うにしゃべりだしたのです。『ここはどこだ。お前らいったい、こんな所
で何をやっとる』とね。後のことはご存知でしょう。彼は御見葉蔵さん
として詳しくお話を聞かせてくれました。しかし、当然それはその場で
終わらせましたよ。後日、私達は御見さんのお墓参りをさせていただき
ました。それで前世の記憶だと確信するに至ったのです。奥さんからご
病気のことをお聞きした時にはびっくりしました。しかし夢遊病と私達
とは何の関係もありません」
「しかしあなたは恐れている。もしかしたら犯罪者にされてしまうかも
しれない。違いますか?」
 催眠をより高めていけば、洗脳やマインドコントロールも可能なので
はないか?
「あなたは大変な誤解をされているようだ。催眠をかけるのに資格や免
許は必要ありません。会話と同じですよ。『私が合図をすると、もう声が
出ません』というのと、『とても美味しいですよ。買いましょう』という
のはあまり差がありません」
 催眠術を使って詐欺まがいの商売をすることも可能だと言っているよ
うにも聞こえる。
「仮に催眠を使って人に罪を犯させたとしても、法的な場で術者の責任
を追及するのは難しいでしょうね」
 そういうことを裏でやっている、とも取れる発言だ。
 その時ドアが静かに開いた。見ると、いかつい警備員が立っていた。
「次の方が私を待っています。お引取り願えますか?」
 和田は繰り返した。




#541/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:46  (151)
眠れ、そして夢見よ 3−2   時 貴斗
★内容                                         19/03/31 18:17 修正 第2版
   四

「つまりだ」
 滝田は手帳を閉じた。
 青年と美智子は、新たに分かった事実に驚いたようだった。美智子な
どは口が半開きになっている。
「こういうふうに考えられないだろうか。倉田氏は和田幸福研究所の催
眠術によって、前世の記憶を取り戻した。倉田氏は御見氏の生まれ変わ
りだったんだ」
「そんな、非科学的な」
 美智子が疑いの眼差しを滝田に向ける。
「倉田氏が御見氏になったことを科学的に説明するのが不可能である以
上、たとえオカルトチックだとしても、そういうふうに結論づけるしか
ない。催眠術でよみがえった前世の記憶は、催眠を解けばまた脳の底へ
封じ込められるはずだった。ところが、倉田氏の場合はそれがきっかけ
となって、夢を見る時に自由自在に現れるようになったんだ」
「私はそうは思いません。倉田さんは何かの機会に、御見氏の生年月日
や生前の様子を知ったのよ」
 美智子がいつもの勢いで反論する。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ただ、倉田氏と御
見氏のつながりは薄いがね」
「先生は都合良く話がつながるように解釈しているんです」
「ああ、そうだよ。御見氏になる能力を獲得した倉田氏は、さらに先祖
帰りを始めたんだ。御見氏の前世であるインド人へ、そしてそのまた前
世のエジプト人へ。そう考えるとつじつまが合う」
「いいえ、全てなんらかの現実的な解釈があるはずです。安易に非科学
的な考えを取り込むのは危険です」
「ではインド人になった時の怪力はどう説明する?」
「それは……」
 美智子はつまった。しかし負けん気の強い美智子が、それくらいで引
き下がるわけがなかった。
「それにしたって、高梨医師がそう言ったのを先生が聞いただけです」
「なるほど。高梨先生の嘘だという可能性もなくはないな。でもそうす
ると他の人達とも口裏をあわせておかなきゃならないね。看護師達も見
たって話だよ。高梨先生はどうしてそんなことをするんだろう」
「こじつけよ。もっと慎重に検討を重ねる必要があるんじゃないです
か? 論理の飛躍です」
 美智子の言うことももっともだ。たしかに、こじつけであって、なん
の確証もない。
「ひとつの考え方を言っているまでだよ。そうでなくとも不思議なこと
だらけなんだ。非科学的な推測であっても、なんらかの論理的な意味付
けをしようと試みるのは、間違った態度ではないと思うんだがね」
「でも、証明のしようがありませんわ」
 そうだ。何かが分かったようでいて、結局何も分かっていないのだ。
しかし、科学というのはえてしてそういうものだろう、と滝田は思う。
さんざん調査をやった上で、こういうふうになっているのではないだろ
うか、というひらめきが浮かぶ。そしてそのひらめきが正しいことを証
明するために、さらに様々な調査や実験を繰り返す。実証さえできれば、
初めて“分かった”といえる。しかしできずにいる間は、全ては単なる
憶測にすぎない。
 黙って二人のやりとりを聞いていた青年が口を開いた。
「次に倉田さんが起き出した時に聞いてみたらいいんじゃないですか?」
 なるほど、それはいい考えだ、と滝田は関心した。だがしかし、すか
さず美智子が反論する。
「どうして? 倉田さんは今古代エジプト人になっているのよ。エジプ
ト人の時にはエジプト人の記憶しか持ってないんじゃないかしら。イン
ド人や御見氏のことを聞いても、分からないんじゃないかしら。それに、
先生の説だと倉田さんがこの部屋に現れたことが、説明がつきませんわ」
「そうだ。そこが一番の難問だよ」
 御見氏からアジャンタなんとかいうインド人へ、そして現在ギザ、サ
ッカラ付近をうろついている古代エジプト人へ、順調に過去へさかのぼ
っていた倉田氏が、なぜ突然現代の、しかもこの場所に現れたのか。そ
こが一番分からないところだ。
 滝田は、これ以上議論しても無駄だと感じた。非難するばかりで自分
のアイデアを出そうとしない美智子にもいらいらしてきた。
「まあいい。倉田さんが起き出した時に、インタビューしてみようじゃ
ないか。彼はいったい何者なのか。どこから来たのか。とにかく、一気
に全てが分かるってことは、あまりないもんさ」


   五

 駅から出た美智子は、疲れを頭の芯に抱きながら歩道橋の階段を下り
る。脇に立って下の方を阿呆のように見続けている浮浪者ふうの男を、
円を描くように避けて通る。
 下りた所で酔っ払いのサラリーマンが四人で馬鹿みたいに騒いで進路
をふさいでいる。どきなさいよと言わんばかりの勢いで真中を割って通
る。おっちゃんの一人がよろけて倒れそうになる。
 歩道橋を下りるとシューズショップや菓子店が並ぶ商店街となる。美
智子が帰る時間帯にはすでにどこの店も閉まっていて、人通りも少ない。
菓子店が閉まるとその前に昼間は見かけない占いの男が陣取っている。
簡素なテーブルの上に「手相」と書かれた行灯が淡く光り、謎めいた雰
囲気を醸し出している。
 美智子がいつも気になっているものがある。男の前の卓にぶら下がっ
ている「八割は当たる」と書いてある紙である。これって、どういう意
味なのかしら。
 美智子が見ていると男が声をかけてきた。
「何か悩みがおありですか」
 思わず背筋が硬くなる。
「いえ、別に」
「そんな事はないでしょう。深い悩みがあるでしょう」
 おかしくなった。きっと眉間にしわを寄せて紙を見つめていたのだろ
う。
「いいわよ。みてもらうわ」
 美智子は粗末なパイプ製の椅子に腰掛けた。
「左手を見せてください」
 右利きなのだが関係ないのだろうか。
 手を出すと、男はその上にレンズをかざした。
「なにか、男の関係ですね」
 まあ、倉田氏のことで悩んでいるのだから、そうだと言えなくはない。
「そうね。確かに男の関係と言われればその通りよ」
 男はしばらく手を見ている。美智子の顔は見ない。よく考えると声を
かける時もずっとうつむいたままだった。
「あまり外には出ないお仕事ですね。しかも非常に頭を使うお仕事のよ
うだ」
「その通り。当たりよ」
「毎日の生活はあまり楽しいものではないでしょう」
「まあ、そうね。でも毎日が楽しくてたまらない人なんて、そんなにい
るかしら。あなただってそうでしょう?」
「いえいえ、私は手相を見て言っているだけです」
 美智子の手を見つめたまま、薄気味悪い笑みを浮かべる。
「悩みは、仕事上のトラブルですね」
「そうね。手相だけでそこまで分かるの?」
「ええ、八割は当たります」
 なんだか不気味な男だ。美智子の顔をまったく見ようとしない。手を
見ただけで、次々と言い当てていく。
「人付き合いは不得手でしょう」
「そうね。得意な方じゃないわね」
 男はレンズを静かに下げた。相変わらずうつむいたままだ。
「あなたは恋愛が苦手のようだ。付近に若い男性がいるでしょう。近い
うちにその方と仲良くなれますよ。それと、お悩みのことですが、あせ
らず、ゆったりと構えることです」
 男は自動で話す人形がしゃべり終わったかのように、それきり押し黙
ってしまった。美智子は立ち上がり、鑑定料金を置いた。足早に立ち去
る。
 不愉快だった。自分のマイナス面をつかれたことも、藤崎青年と自分
の間に恋が芽生えるような言い方をされたことも。立腹しつつも、不思
議に思うのだった。手相ってそんなに当たるものなのかしら。歩きなが
ら自分の手の平をみつめた。
 彼女は分析する。彼はきっと人間観察の能力が優れているのだ。
 彼は見ていないようで、実は毎日通り過ぎる自分の顔をそれとなく見
ている。いつも気難しい顔をしているから、深い悩みがあり、毎日が楽
しくないだろうと思ったのだ。男の関係かと聞いたのは、女なら男に関
する悩みを一つや二つ持っているだろうから。恋愛のことであれ、それ
以外であれ。結婚指輪をしていないからたぶん独身だろうと考えた。も
っとも、結婚指輪をはずしている人妻も存在するが。男の関係と言われ
ればそういえなくもないというような言い方をしたので、恋愛のことで
はないと分かったのだ。男に関することで、恋愛ではないこと、そこで
仕事のことかと聞いた。違うと言われればまた別の、友人関係かとか親
子関係かとか聞けばいい。
 色白で、度が強い眼鏡をかけているので、デスクワークだと思ったの
だ。そういった仕事である上につんけんしたものの言い方をする。だか
ら人付き合いは不得意だろうと思った。
 コンタクトにもせず分厚い眼鏡をかけ、いつも化粧っけがない。だか
ら恋愛にもあまり縁がないだろうと考えた。
 保育士でもない限り、付近に若い男はいるだろう。その男と仲良くな
るというのは、自分を喜ばせるためのおまけだ。自分には逆効果だが。
 いつも足早に歩く自分を見て、あせらず、ゆったりと構えなさいとア
ドバイスしたのだ。
 もっとも、彼の推論は全てがあてはまるわけではない。だから「八割
は当たる」なのだ。




#542/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:48  (315)
眠れ、そして夢見よ 4−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/06 21:54 修正 第2版
   レム睡眠行動障害


   一

「さあ、旅立ちの時がやってきた」
 犬の顔に人間の体を持つ男が薄気味悪く微笑み、滝田を見下ろしてい
る。どうやらベッドの上にしばりつけられているらしい。身動きできな
い。
「待ってくれ、何のことだ」
「決まっておるだろう。お前はこれから旅立ち、オシリス神の支配する
国、アアルに行くのだ」
 男は長い真新しいナイフを胸の前に掲げた。嫌な光を放つ。
「お前は何者だ。私をどうするつもりだ」
「私の名はアヌビス。喜べ。お前をミイラにしてやる」
 アヌビス? どこかで聞いたことがあるような気がするのだが思い出
すことができない。
「ミイラだって! 冗談じゃない。私はまだ生きている!」
「おお、なんという哀れな者だ。自分が死んだことにさえ気づいていな
いとは」
 犬の顔をした男は大きく口を開けて笑った。とがった歯が並んだ間か
ら長い舌が吐き出される。男から顔をそむけると、横に四人の、筋肉隆々
の上半身裸で白っぽい腰布を巻いた男達が、壷を大事そうに抱えて立っ
ていた。それぞれの壷には犬や鳥の顔をしたふたがのっている。
「あれは、何だ」
「あれはカノプス壷だ。お前の肺、肝臓、胃、腸をおさめるのだ」
 滝田はもがいた。だが、太いひもが体にくいこんで逃れられない。
「いやだ! やめてくれ!」
「お前は喜ぶべきなのだぞ。高貴な者でなければ、ミイラになれないの
だぞ」
「なぜ私がミイラになるんだ」
 アヌビスと名乗る男はそれには答えず、意地悪く笑ってみせるだけだ
った。
「お前はお前の生涯において、罪を犯していないという自信があるか」
「な、なんだって? 罪を犯していなければミイラにならなくてすむの
か」
「そうではない。お前の心臓は天秤にかけられ、真実の羽根とつり合い
が取れればアアルへの扉が開かれるであろう。お前の罪が重ければ、お
前の心臓はアメミットに食われるであろう」
 男はナイフを振り上げた。
「さあ!」
「やめてくれ! やめろぉ!」

 滝田はふとんをはねのけ、体を起こした。額に手をあてるといやな汗
で濡れていた。ベッド脇のテーブルの上にあるランプをつける。卓にの
っている数冊のエジプト関係の本を悩ましげにみつめた。これを読みな
さい、と言って美智子からおしつけられたものだ。そのうちの一冊を一
気読みしたから、こんな夢をみてしまったのかもしれない。
 アヌビス神。ミイラ作りの神か。
 立ちあがり、ガウンを羽織り、階下へと下りていく。気分がすっきり
しない。
 台所に立ち、グラスにウイスキーを注ぐ。冷蔵庫から素手でいくつか
の氷をつかみだし、放り込む。和室に入り、妻の仏壇の前にあぐらをか
いた。
 琥珀色の液体を喉にながしこむ。妻が胃癌で亡くなってから、もう二
年にもなる。二人の子供はそれぞれの仕事に忙しいらしくてろくに帰っ
てこない。弟はごくごく平凡なサラリーマンになったが、土曜か日曜の
どちらか休めればいい方のようだ。兄は野心家で、独立して事業を起こ
したが、最近では宇宙開発などというプロジェクトに手を出しているら
しい。こっちの方は正月にすら帰ってこない。
 ついつい感傷的になりそうになるのを、仕事に思考を切り替えて払い
のける。割られたモニター、和田が打ち明けた秘密、そして美智子の反
論。
 ――とにかく、一気に全てが分かるってことは、あまりないもんさ…
…
 自分で言った台詞だ。いくら考えたところで、現時点ではたいして分
からない。もう一口、ウイスキーを飲み込むと、早くも心地よい酔いが
回ってくるのを感じた。
 このごろ悪夢をよく見るようになったな、と滝田は思う。こんなだだ
っ広い家に一人でいることが、精神的によくないのかもしれない。
「心地よい眠りのために」
 一人つぶやいて、グラスの残りを一気に流し込んだ。


   二

 美智子は研究室の椅子に腰かけて、ファイルをめくっていた。背に「明
晰夢関連」と書かれたそのファイルは、美智子が滝田にエジプト関係の
本を渡したのと引き換えに、滝田が彼女に渡したものだった。「明晰夢?」
とつぶやいた時、滝田は生真面目な顔をしてうなずいてみせただけだっ
た。
 滝田という男、なかなか頭がきれるのだが、何を考えているのか分か
らないところがある。たぶん、こんなファイルを渡したのも、今回の件
と明晰夢がなにかしら関係していると考えてのことだろう。理論的に筋
道立ててそう考えたのではなく、たぶん思いつきだろう。そういうこと
が多いのだ。しかしその発想が、案外的を射ていたりする。しかし理論
派の美智子から見ると、滝田のそういう所が受け入れられない。
 ドアが開く音で顔を上げると、藤崎青年がモニターを抱えて入ってき
た。
「大丈夫? 重そうね」
「手伝ってくださいよ」
「あら、男の子でしょ? レディーに重いもの持たせるの?」
「まったく」
 青年はもともと大型モニターが置かれていた箱の上にそのディスプレ
イを降ろした。
「一階の資料室からかっぱらってきました」
「あら、いけないわね」
「いいんですよ。あそこのパソコン、誰も使ってませんもん」
「パソコンのモニターなの? つながるの?」
「ええ、もちろん」
 青年は当然というふうに言った。
 だが、美智子にはPCのモニターが夢見装置につながる仕組みが分か
らない。超新星の爆発や、ブラックホールの近くでの時空の歪みについ
てはよく知っているが、こういうのはまるでだめなのである。
「私、手伝わないわよ。家のディスク再生装置だって、電気屋さんにつ
なげてもらったんだから」
「ええ? 僕だってもう疲れちゃいましたよ。一階からここまでこれ持
ってくるの、大変だったんですから」
 青年はため息をつきながら椅子に腰をおろした。
「ほらほら、こうしてる間にも、倉田さんが夢を見るかもしれないわよ」
「意地悪だなあ」
 青年はしかめっ面をして、面倒くさそうに立ちあがった。モニターの
背面に回り込む。
「常盤さん、そこのHDMIケーブル、取ってくれます?」
「えっ、どれ?」
「足元の、箱から出てるやつですよ」
 床を見ると、箱からこちらに向かって何本かのケーブルが伸びている。
「知らない」
 椅子を回転させて、ファイルをみつめる。
「まったく、もう」
 青年が背後のすぐ近くでかがみこむのを感じた。
「その辺にコンセント余ってません?」
「さあね。探せばあるわよ。頑張って」
 青年はしばらく作業をしていたが、美智子はもう興味を失って資料に
没頭し始めた。
「さあ、やっと終わった。だいぶ小さくなっちゃいましたけど、ちゃん
と映りますから」
 青年がスイッチを押し込む音が聞こえ、続いてディスプレイのかすか
にうなるような音が聞こえた。
「あの……常盤さん?」
「なあに?」
「当たりですよ」
「なにが?」
「さっき言ったじゃないですか。こうしてる間にも倉田さんが夢を見る
かもしれないって」
 美智子は驚いて立ちあがった。青年の後ろからモニターをのぞきこむ。
そこには例によって例のごとく、白と黒の幾千もの点が渦巻いていた。
「グッドタイミングね」
「ええ、間一髪でセーフですよ」
 砂嵐の画面は、ずいぶんと長い間続いた。やがて、点と点同士が集ま
り、像をむすび始めた。
 その時、何か、小さな物音が、背後でしたような気がした。美智子は
振り返ってみたが、しかし何事もなく、機器類が整然と並んでいるだけ
だった。再び、何かを映し出そうとしているモニターを見つめる。
 今度ははっきりと、人間のうめくような声が聞こえ、驚いて後ろを見
た。その声は、隣の部屋の音をひろっているスピーカーから出たように
思えた。
「うーん」
 今度は大きく、人間の低いうめき声がそのスピーカーから聞こえた。
美智子ははじかれるようにして窓辺にかけより、倉田氏を見下ろした。
「藤崎君、大変。すぐに先生を呼んできて」


   三

「どうした」
 滝田は室内に飛び込むなり怒鳴るように言った。時刻は夜の八時を過
ぎ、今日も何の進展もなしかと思いつつ、帰ろうとしていた矢先のこと
であった。
 すっかりかわいらしくなってしまった夢見装置のモニターが目に入り、
その画面をのぞきこもうとした。
「こっちです」
 美智子が青ざめた顔をして窓辺に立ち、手招きするのが目に入った。
滝田は一瞬のうちに、何か今までとは違う現象が起こったのを直感した。
 窓辺に立ち、両の手のひらをガラスにおしつけた。
「あっ」
 今までは、倉田氏が眠っている姿しか見たことがなかった。しかし今
の倉田氏は立ちあがっていた。酔っ払いのように体をゆらめかせながら、
腕から点滴の管をぶらさげたまま、立っているのだった。アイマスクは
自ら取り去ったのか、床に落ちてしまっていた。
 それは予想していたことのはずであった。倉田氏は、現在は一ヵ月に
一度程度の割合でレム睡眠行動障害の状態を示すと、高梨医師から聞い
ていた。そして倉田氏の担当医師が最後にそれを目撃した日からは、と
っくに一ヵ月以上経過していた。
「夢は? 夢はどうなってる?」モニターに駆け寄りのぞきこむ。「人が
映っている」
 ずいぶんと大勢の人間がいる。上半身裸で、下にスカートのような腰
布をつけた、褐色の肌をした男達だ。何か作業をしているようだ。彼ら
は古代エジプト人なのだろうか。何をしているのだろう。
 モニター画面の情景は、右に行ったり、左に行ったりを繰り返してい
る。
「常盤君、倉田さんは何してる?」
「なんだかきょろきょろしています。周りをながめているみたい」
 やはり、倉田氏のレム睡眠行動障害時の挙動と夢の内容とが一致して
いるようだ。
「あ、左の方をじっと見ています」
 モニターの動きが止まった。大きな、四角い石を数人がかりで運んで
いる。石の下に木でできたそりのようなものが敷かれ、それにつないだ
綱を何人もの男達が引っ張っている。その後方にも、別の石を運んでい
る男達が続いている。よく見ると、石の前方で男が水をまいている。巨
石を運ぶ男達の列がはるか彼方まで続いている。
 モニターに映る風景が、わずかに上下しながら移動し始めた。
「倉田さんが歩き出しました」と美智子が言った。「あっ、点滴を抜いた
わ」
 画面の中で、倉田氏はその石を運んでいる男達に近づいていく。滝田
は窓のそばに行き、見下ろした。倉田氏はゆっくりと歩いていき、やが
て部屋の壁につきあたった。
 ヘルメットからは、コードは出ていない。得られた信号は無線で夢見
装置本体へ送られる。レム睡眠行動障害や睡眠時遊行症で動き回ること
を想定してそういう仕様になっているのだ。
 再びモニターの前に戻る。男達と倉田氏の間の距離は、あきらかにベ
ッドと壁の間隔よりも離れていたのに、画面では男達がアップになって
いた。瞬間移動でもしたのだろうか。
 画面の右下から、褐色の肌をした腕が綱をひいている男の一人に向か
ってのびた。
「君達は何をしているんだね」
 隣の部屋の音を伝えるスピーカーから野太い声がした。
「壁に向かって話しかけてます」
「日本語だね」
 滝田は胸の前で両の手の指を組んだ。御見氏の時と同じように、古代
エジプト人の声色に変っているのだろうか。それとも倉田氏自身の声な
のだろうか。本人の声音はまだ聞いていない。
 話しかけられた男は画面に向かって何かわめきちらした。しかし、当
然声は聞こえない。
 映像はその男から離れ、かわりにそりの前に水をまいている男の方に
移動した。
「君達は何をしているのだ」
 男は倉田氏の問いに応じたようで、身振り手振りをまじえて何か説明
している。
「どのファラオだ」スピーカーから倉田氏の言葉が聞こえる。「ヒッドフ
ト王? 知らない名だ」
 男はさらになにか言っている。唇の動きからして早口でまくしたてて
いるらしい。ずいぶんと落ちつきのない男で、さかんに手を動かしてい
る。しかしそのボディーランゲージからも、何と言っているのかは読み
取ることはできない。
「分かった。もういい。邪魔したな」
 男が再び水をまき始めた。その時、画面がふっと暗くなった。
「夢が終わりそうです」
 後ろからのぞきこんでいた青年が言った。
 滝田は慌ててスピーカーの所に行き、その横に立っているマイクのス
イッチをオンにした。
「倉田さん、聞こえますか。倉田さん」
 その音声は隣室のスピーカーユニットから出力される。
 振り向いて画面を見ると、元の明るさを取り戻していた。風景があっ
ちへ行ったり、こっちへ行ったりしている。倉田氏が驚いて辺りを見回
しているのだろう。
「何者だ。私を呼んでいるようだが、私はクラタという名ではない」
「私達はあなたと話がしたいんです。いいですか?」
「寝言と会話してる」
 藤崎青年が呆然としたように言った。
「お前はどこにいるのだ。姿を現せ」
「僕、行ってきます」
 青年が駆け出した。
「私も。先生はどうします?」
「僕はここに残ってモニターを見張っている。さあ、早く行って」
 美智子は青年を追って、すごい音をさせてドアを叩きつけ、出ていっ
た。その時初めて、滝田はマイクを握りしめる手に汗をかいていること
に気がついた。
「倉田さん、じゃなくて、あなたはなんという名前ですか」
「無礼な奴だな。まず自分から名乗るのが礼儀だろう」
「失礼しました。私は滝田という者です」
「タキタ? 私に何の用だ」
「あなたの名前は何ですか」
「私か。それがな、私にも分からないのだよ。なんとか思い出そうとし
ているのだが、どうしても思い出すことができないのだ。だがクラタな
どという変な名前ではないことは確かだ」
「あなたはさっき、何を聞いていたんですか」
「ああ、彼らが何をしているのかということだよ。なんでも、ヒッドフ
ト王のペルエムウスを作るために、石を運んでいるのだそうだ」
「ヒッドフト王? そりゃ誰です」
「さあな。聞いたこともない名前だ」
「あなたは今どこにいるんですか」
 スピーカーから美智子の声が聞こえた。
「なんだ。すぐそばから女の声がしたぞ」
 美智子は倉田氏の近くにいるらしい。
「それは私の仲間です。これからあなたにいくつか質問をします」
 目は開いていたからうまくすると二人が夢の中に入り込まないかと期
待したが、残念ながら姿は現さなかったようだ。
「どこ、と言われても、私にも自分がどこにいるのか分からないのだよ。
君達はいったい何者だ」
「あなたはこの間までサッカラにいました。その前はギザにいました」
 美智子は無視して話を続ける。
「サッカラ? ギザ? 私には何のことか分からないが」
「あなたはこの間スフィンクスを見ていたわ。その次はジェセル王の墓。
違いますか」
「スフィンクス? なんだね、それは」
 滝田が割り込む。
「顔が人間で体がライオンの像のことです」
「ああ、あれか。確かに私はそこにいた。ジェセル王の墓も見た。だか
らきっと私はまだその辺にいるのだろう」
 画面が一瞬暗くなった。
「自分の意志で移動しているんじゃないんですか」
 美智子がとげとげしい口調で聞く。
「分からない。私は自分が誰なのかも、どうしてこんな所にいるのかも、
さっぱり分からないのだ」
「嘘よ。あなたは何か隠してるのよ。あなたどうして私達の研究室に現
れたの? 夢見装置のモニター壊したの、あなたでしょ」
「おお、これはどうしたことだ。まるで罪人扱いではないか」
 モニター画面が二度瞬いた。慌てて美智子を制する。
「常盤君、やめなさい。すみません。この女性の無礼をお許し下さい」
 滝田は、もうあまり時間がないと感じた。
「あなたは、インドに行かれたことはありませんか? あるいは、日本
に来たことはないですか?」
「インド? ニホン? それはどこにあるのだ。聞いたこともない場所
だ」
 モニターを振り返る。画面が徐々に暗さを増していく。
「私は疲れた。もうそろそろ休ませてくれないか」
「最後にもうひとつだけ。ちょっと自分の足を見てくれませんか」
「自分の足?」
 モニターの風景が、ゆっくりと下がった。そして、倉田氏、というよ
りも夢の中のその人物の、胸から下を映し出した。
 半円形の、青や赤や紫の小さな四角形をたくさん組み合わせて作られ
た首飾りが見える。その下には褐色の筋肉質の胸が、そしてひきしまっ
た腹が、さらに下には白い腰布が、そして砂の上に半ば埋まった裸足の
足が見えている。
「先生、もう夢が終わりそうなんですか?」
 美智子が叫ぶように言った。
「ああ、もう限界だ」
 美智子は奇妙な呪文のような言葉をつぶやき始めた。
「あなたはまた、夢の中で目覚める。あなたはまたすぐに、夢の中で目
覚める。あなたはまたすぐに、夢の中で目覚める」
 何言ってんだあいつ、と、滝田は心の中で舌打ちした。
 モニターの風景が急速に暗くなり、そして消えた。
「あっ、倉田さん」
 声に驚き、窓に駆け寄って下を見ると、倉田氏が倒れていた。




#543/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:51  (239)
眠れ、そして夢見よ 4−2   時 貴斗
★内容
   四

「ペルエムウスって何ですか?」と、青年は聞いた。
「あら、知らないの? 英語のピラミッドはギリシャ語のピラミスから
来てるんだけど、ピラミスの語源については定説がないの。唯一の祖先
と考えられる言葉がペルエムウス」
「最後のあれ、なんだったの?」
 滝田は美智子に聞いた。
「催眠術がきっかけでああなったって、先生言ってましたよね。きっと
倉田さんは暗示にかかりやすい体質なんだろうと思って、暗示をかけた
んですよ。次のレム睡眠行動障害まで一ヵ月も待たされたんでは、たま
りませんからね」
「ふーん。うまくいくといいね」
 滝田は青年が持ってきたコーヒーをすすった。
「ヒッドフト王って、誰ですか」
 青年は、滝田が倉田氏に聞いたのと同じことを聞いた。
「ヒッドフトというファラオは本に載ってないわ」
 美智子もコーヒーに口をつけた。
「すごい。常盤さんは全部の王の名前を暗記してるんですか」
 青年は目を丸くした。
「ええ、本に書いてあったのは全部」
 美智子はなんでもないことのように言う。
「きっと歴史の教科書にも載ってないような、名もない王様だったんだ
ろうよ」
「ええ、残念ですね」
「残念? と言うと?」
「もしも名のある王だったら、どのピラミッドを建造している最中か分
かるから、倉田さんがいるおおよその年代が分かったかもしれません」
「少なくともスフィンクスとジェセル王のピラミッドよりは後だね」
 だが、そう言いながらも滝田は、倉田氏が現在どの時代にいるのかな
ど、些細なことだというような気がしていた。
 倉田氏は一体何者なのか。
 あの偉そうな口調の人物のことではない。今ベッドの上で再び昏睡に
陥った倉田氏は一体何者なのか。その方がずっと重要な問題だという気
がする。あきらかに、奇妙な睡眠障害になる以前の、ごくごく平凡な一
般市民にすぎない人物とは違った存在に変わってしまっている。彼は一
体何者なのか。
「先生が最後にした質問、あれは何です? どうしてあんなことを言っ
たのか、理解できませんでしたわ」
「え? ああ、自分の足を見ろってやつね。倉田さんの体を見たかった
のさ。録画されてるはずだから、後で見てみるといい。腰布しか身につ
けていなかった。肌は褐色だったよ。ああ、首飾りもつけていたけどね」
「するとやっぱり、倉田さんは今古代エジプト人になっているんだわ。
当時の一般的な服装です」
「そうだね。首飾りはつけていなかったけど、他の人達もそんな服装だ
った」
 美智子から借りた本の中にも、同じような格好の人物が描かれた壁画
や像がたくさん出ていた。
「首飾りをしているということは、上流階級の人かもしれませんね」
 インド人については不明だが、これで御見氏とエジプト人については、
確かにその人物になったのだということが、断言できそうだ。
「でも、常盤君が言うところの、現実的な解釈だとどうなるんだろうね。
倉田さんは古代エジプトの関係の本を読んで、それが夢に現れた、とい
うことになるんだろうか」
「それにしては情景が緻密すぎますわ。砂との摩擦を減らすために水を
まくところまで再現されています。どうして倉田さんはそんなに古代エ
ジプトのことに詳しいのかしら。それに本で読んだり、ネットで検索し
たりしたとしても、それだけであんなに鮮やかにイメージできるものか
しら」
「ああ、まるで見てきたような風景だったな」
「見てきたんじゃありません。見ているんです。倉田さんが夢の中で実
際に古代エジプトにいることは、確実です」
 倉田氏が古代エジプトにいることは認めるくせに、どうして前世とか
いう言葉を出すと怒り出すんだろう、と滝田は思う。
 その時ふと、ある可能性に気づいてはっとなった。
「とすると、これは大変だぞ。彼は夢を見るだけで実際のその場に行け
る。彼は歴史を変えることができる」
「なんですって?」
「だってそうじゃないか。彼は夢の中で研究室に現れ、そしてモニター
を壊した。すると実際にモニターが破壊されてしまった。彼がエジプト
で何かしでかしたら、それによって歴史が変わってしまうかもしれない」
 分厚い眼鏡の向こうで美智子の目が大きく見開かれた。


   五

「あら、やっぱりここだったの」
 藤崎青年がコンクリートの上に座って、空を見上げている。
「いい天気ね」と言いながら、美智子は近づいていく。
「食事はもう済みましたか」と、青年は雲を見つめたまま言った。
「ええ。五分で済ませたけど」
 白衣のポケットから白いハンカチを出して、青年の横に敷いて座る。
後ろに手をついて空を見上げた。昼休みの屋上からは目をさえぎるもの
のない青空が見渡せる。地上ではこうはいかない。そそり立つビル郡が
目を覆い、行き交う車達が耳を覆う。青年はいい場所を見つけたものだ。
「どうです? 氷の中からは抜け出せましたか」
「あらいやだ。そんなことまだ覚えてたの?」
 美智子は、ため息をついた。
「私ね、中学の時帰宅部だったの」
「はあ、部活で青春燃やしてましたって感じじゃないですね」
「ん? まあ、そうね。それでね、中学の時のあだなが眼鏡」
「それってそのまんまじゃないですか」
 今は度の強い眼鏡でも屈折率を高くして、サイズを小さくした非球面
レンズを使った薄型のものが主流だ。古臭い厚い眼鏡をかけている美智
子は珍しかったのだろう。
 少し風が出てきたようだ。乱れた前髪をはらう。
「ある時私、先生にほめられたの。常盤は頑張ってるって。すごく努力
してるって。そしたら、男の子の一人が言ったの。眼鏡は部活やってな
いから、勉強やる時間があるんだって」
 青年は快活に笑った。
「ひどいですね、そりゃ。だったら自分も部活やめりゃいいじゃないで
すかねえ」
「でもね、私考えるの。もしも自分がバレーか何かやってて、へとへと
になって帰ってきて、それから教科書読む気になるだろうかって」
「天は二物を与えず、ですよ。部活動が楽しい子は、そっちの才能が伸
びるんでしょう。勉学が得意な子は成績が伸びるんでしょう」
「それなら、楽しい方が伸びた方がいいんじゃない?」
 青年は何かを言おうとして口を開いたが、閉じてしまった。
「通ってた塾がね、成績が良い順に三つの等級に分かれてたの。私真中
のAクラスだったんだけど、くやしくて頑張って特Aクラスに上がった
の。最初に編成されたクラスから上の級に上がる子って少なかったから、
塾の先生にほめられたのよ。その時のほめ方がさっきの学校の先生と同
じふうだったの。常盤は頑張ったって。猛勉強して特Aに上がったって。
みんなも頑張れって言うのよ」
「良かったじゃないですか」
「そうかしら。あの時はほこらしかったけど、今は違うわ。勉強ってそ
んなに大事なのかしら」
 自分は学習が楽しかったからやっていたのだろうか、と美智子は思う。
そうではない。いい成績をとると周りの大人達からほめられるからだ。
いい点を取ると他の子達から賞賛を得られるからだ。
 眼鏡すごいね。よくこの問題解けたわね。これ解いたの、眼鏡だけよ。
 眼鏡ぇ、これ教えてくれよ。あ、もういいや。眼鏡に近寄っただけで
分かっちゃった。さすが。眼鏡からは気が出てるんだなあ。
 それがどうだろう。今の自分は青年相手に氷の中にいるみたいなどと
愚痴をこぼしている。
「適材適所ですよ。バイオリンが得意な子はバイオリニストになるんで
す。常盤さんは勉学が得意だったから、科学者になったんですよ」
 そもそもバイオリンが得意であることに意味があるのだろうか。バイ
オリニストになることに、意味があるのだろうか。勉強も科学者も、意
味があるのだろうか。それを言い出すと人間は何のために生まれたのか
とか、人類は何のために発生したのか、といった問題になってしまう。
 音楽家になって、研究者になって、人類の歴史に、文化や科学の進歩
に、ささやかな貢献をするためだろうか。人類は、科学や文化を進歩さ
せて、どうしたいのだろう。生活を豊かにしたいから? 確かにそれも
あるだろう。例えば医学の進歩によって寿命が伸びた。その結果どうな
っただろう。意識が朦朧としながら延々と辛い痰の吸引をされ、機械に
繋がって動けず、語れず、ただ死ぬのを待っている。そんな老人がどん
どん増えていった。
 それともこれは、仲間内の競争なのだろうか。自分はバイオリンが得
意だと思っている。自分は学問が好きだと思っている。他の子達よりも
うまく弾けるようになりたい。いい点数を取りたい。
 他の会社よりも売上を伸ばしたい。他の国よりも文化や科学が劣って
いたら、追いつき、追い越したい。別に人類全体の進歩なんか考えては
いない。相手よりも優位に立ちたい。人々から賞賛を得たい。ただそれ
だけのためにやっているのだとしたら、人類は馬鹿だ。
「藤崎君は、山登りと勉強、どっちが楽しかったの?」
「あ、僕が山登り始めたの、社会人になってからですよ」
「あら、そう」
「山はいいですよ。雄大で。学習がそんなに大事なのかとか、そういう
の、全部忘れさせてくれます」
「忘れていいものなの? 問題意識を持ち続けることって、大事なんじ
ゃないかしら」
「いやいやいや」青年は手を振った。「僕みたいな凡人の場合ですよ。僕
がそんなの考えたって、分かりゃしません。子供はなぜ勉強しなけりゃ
ならないのかなんて、そんなのは偉い人が決めたことであって、僕には
分かりません」
 そうじゃない。そうじゃないのよ。決まっていることだからやる。そ
れじゃあ相手の言いなりだわ。
「あんまり深く、考えない方がいいんじゃないですかね。なぜ山に登る
のか。そこに山があるからだ、ってね」
 青年の言うことも正しいような気がする。働き蟻はなぜ働くのかなど
とは考えない。蟻と人間では違うのではないか? いや、同じなのかも
しれない。やっていることの種類が違うだけで。
 人が生まれて、育って、子供を産んで、歳をとって、死んでいく。そ
れは自然現象だ。人間のやっていること、勉強をしたり、サッカーをし
たり、あくせくと働いてお金をもらって、それで欲しいものを買ったり、
公害で自然を破壊したり、戦争したり。もしも神様がいないとしたら、
そういったことも、全部ただの自然現象なのではないか? 働き蟻が働
くのと同じように、人間も戦争するのだ。ヒトとは、そういうふうにで
きているのだ。
 そう考えると気が楽になる。なあんだ、勉強することも自然現象なの
か。だったらそんなに頑張らなくていいじゃない。
 しかし受験勉強に励む子供達はそうはいかない。親や教師に急き立て
られるからだ。少しでもいい高校に入って、少しでもいい大学に入って、
大企業に入って安定した収入を得るのだ。そういう機構にしばられて身
動きできない。自分のやりたいことを見つけ出せなかった子は、甘んじ
て勉強するしかない。やりたいこともなく勉強もしたくなかったら、安
定もしておらず、厳しい条件の労働を一生やっていくはめになる。
 だから親は子供を急き立てる。「あなたのためを思って言ってあげてる
のよ」という言葉は、たぶんその通りなのだろう。それは母性本能だ。
つまりは自然現象なのである。
 全ては自然の理であっていちいち理由を求めなくていいのだ。だが本
当にそれでいいのだろうか。


   六

 眠れない。滝田は寝返りをうつ。もう何度こうして、ベッドの上で体
を回転させたことか。
 人はなぜ眠るのか? 決まっている。脳を休ませるためだ。ずっと眠
らずにいるとどうなるか。幻覚を見る。それでも眠らずにいるとどうな
るか。死ぬ。
 滝田は起きてゆっくりと立ちあがる。寝室をさまよい、明かりのスイ
ッチを探す。住みなれた家だ。目をつぶったままでも、スイッチを探り
当てることができる。
 不眠に悩む人がいる。一ヵ月も眠っていないと言う。だが、そういう
人は実はちゃんと眠っているのだ。浅い眠り。立ったまま眠っている。
起きながらにして眠っている。目を開いたまま脳は寝ている。だから死
なない。
 明かりをつけ、部屋を出る。
 滝田は階段を下りる。この先にはキッチンがある。台所は主婦の戦場
だ。だがその主婦殿は、もういない。滝田は自分のほほがひきつるのを
感じた。
 そこには何があるか? ウイスキーだ。若い頃はビール派だったのに、
すっかりウイスキー派に転向してしまった。
 人はなぜ酒を飲むか。大人になるためか。子供時代と決別するためか。
いや、そうではあるまい。男の言い分だ。女はどうなる? 女は、酒も
煙草もやらなくても、立派な大人になっている。
 ダイニングの明かりをつける。蛍光灯がしばらく点滅する。もうそろ
そろ交換しなくてはならない。面倒くさいと滝田は感じる。LED照明が
一般的になった現在でも、滝田の家では蛍光ランプを使っている。あの
中には電気を受けると光る気体が封入されているんだとか。はてそうだ
ったかな。学校で習ったような気がする。記憶があいまいだ。確実に歳
をとってる。いやだ、いやだ。電気の刺激を受けて、それで光っている。
交流電流が、行ったり、来たり。
 食器棚の下から、ウイスキーを取り出す。グラスに注ぐ。
 冷凍庫から氷を取り出して入れる。さっそく一口飲みこむ。のどが熱
くなる。腹が熱くなる。
 酒が眠りを誘発するまでの時間、今日も女房殿と過ごすか。そうしよ
う。和室に行こう。
 明かりをつける。こちらの蛍光灯はまだ大丈夫だ。重々しく仏壇の前
に腰をおろす。
 女房殿に乾杯。左手に持ったボトルを畳の上に置く。右手に持ったグ
ラスを口に運ぶ。
 人はなぜ夢を見るか。これは難しい。滝田がずっと取り組んできたテ
ーマだ。夢を見ないと死ぬか? まさか。
 人はレム睡眠の時に眠りが浅くなる。だからこの時に起きるのが理想
的だ。脳が活発になっているから夢を見る。夢は脳の働きの一つの現象
だ。それだけのことにすぎないはずだ。だが倉田氏は違う。夢が、本来
の意味とは全く違った意味を持ってしまっている。
 あれは一体何だ。
 酒を一気にあおる。おかわりをつぎたす。飲酒するとなぜ眠くなるか?
脳の活動が弱まるためだ。アルコールの効用とはまさに、そこにあるの
だ。
 滝田は、急激に酒が効いてくるのを感じた。さて、もう一杯。いいぞ。
脳の働きが弱まってくる。徐々に、眠気を催す。さらにもう一杯。
 滝田は、立ちあがるのが億劫になってきた。仏壇を見つめたまま、横
になる。今夜はこのまま、女房殿といっしょに寝てしまうことにしよう
か。




#544/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:57  (393)
眠れ、そして夢見よ 5−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/07 21:03 修正 第3版
   古代――現代


   一

 高梨様。これまでに分かったことを報告致します。現在、夢見装置で
確認できた倉田氏の夢は四回です。そのうち一回はレム睡眠行動障害の
状態での観察に成功しています。最初の二回は、スフィンクス、ピラミ
ッドの断片的な映像でした。三度目は驚くべきことに、見たはずがない
我々の研究室の夢を見ました。その映像は実に正確であり、なぜ彼がそ
んな夢路をたどることができたのかは謎のままです。
 四度目がレム睡眠行動障害の状態でのものであり、彼は夢の中で古代
エジプト人達と会話をしております。我々は彼にいくつかの質問をする
ことに成功しており、その結果、御見葉蔵氏の時と同様、彼が現在古代
エジプト人になっていることはほぼ確実と思っています。
 今後の研究はさらに期待の大きいものとなる予定です。

 滝田は電子メールの文章をそこまで打って、しばらく考え込んだ。そ
して、ウィンドウの×マークにカーソルを合わせ、マウスをクリックし
た。
 こんな事を高梨医師に報告していいのだろうか、と滝田は思う。学会
で発表していい内容だろうか。
 おそらく一笑に付されるだろう。だが、証拠のデータが揃っている。
高梨が言った通り、医学の世界だけでなく、科学の世界にも大きな波紋
が生じるかもしれない。
 高梨の名誉などというくだらないもののために、どうしてこんな貴重
なデータを渡さなければならないのだろう。
 研究費の援助など断ってしまおうか。そのかわり、何の情報も渡さな
い。おそらくそうはいかないだろう。倉田氏を夢見装置につないでしま
った時点で、すでに後戻りできない状態になっていたのだ。いろいろな
ことを知りすぎてしまった。
 滝田は伸びをした。疲れた。右手で左肩をたたく。
 壁の時計を見るともう十時を過ぎていた。まだ誰か残っているだろう
か。
 ふいに、寂しさを感じる。この下では今も車や人が行き交っているだ
ろう。都会は眠らない。
 部屋を見まわす。本棚には様々な論文やら、本やらがぎっしりと詰ま
っている。楽しむために読むのではない、無味乾燥な資料達。こんなふ
うにふと、自分がいる環境が寂しいと感じることがある。普段は全く気
にしていないのに、何かのはずみに冷静な感覚がゆるんだ時に、長くつ
きあってきたはずの、学術誌や、パソコンや、カーテンが、ひどくよそ
よそしく感じられ、部屋の空気が急に冷たくなったように感じるのだ。
 滝田は立ち上がった。みんな帰っただろうか。倉田氏はどうしただろ
う。所長室を抜け出し、静寂に包まれた廊下を歩く。突き当たりの右手
に、夢見装置のある滝田研究室がある。入り口のドアをみつめる。この
扉もだいぶ古びてきたなと、滝田は思う。
 ドアをゆっくりと開け、中に入る。誰もいない。美智子も青年も今日
は帰ったらしい。明かりがついたままの、誰もいない部屋は、とても不
気味に感じられる。もう十年以上もここにいるのに、この気味悪さだけ
は決して慣れることがない。
 窓の方に行こうとしてモニターの横を通り過ぎた時、なにか、光がう
ごめいているのが目の隅に入った。振り返ると、モニターは例の白と黒
の点がうずまく砂嵐の画面になっていた。


   二

 ディスプレイが何かの像をむすび始める。滝田の胸に研究者の冷静な
感情が戻ってきた。寂しさや不気味さが、心の中から消え去る。だがそ
の冷静な感覚は、すぐさま驚きへと変わった。
 どこだろう? どこかの家のようだ。幸いにして、というべきか、こ
こではないようだ。あきらかに古代エジプトでもない。明かりが灯って
いる。廊下だ。前に見たような風景だ。どこで見たんだろう。現代だろ
うか。それとももっと前だろうか。日本の家屋のように見える。
 滝田はようやく思い出した。倉田家だ。倉田の妻に会いにいった時に
見た、倉田家の廊下だ。倉田恭介は夢の中で、自分の家に戻ってきたの
だ。古代エジプト人として? それとも倉田恭介自身として?
 慌てて窓から倉田氏を見る。眠ったままだ。急いでモニターの前に戻
る。
 夢の中の倉田氏、あるいは謎のエジプト人は、泥棒が盗みに入ったよ
うな感じで廊下を歩いていく。
 倉田氏は、滝田があの時案内された部屋のふすまを開け、中をのぞい
た。室内は真っ暗だ。するともう家族達は寝てしまったのだろうか。滝
田は腕時計を見る。まだ十時二十一分。もっとも、これは現在の倉田家
とは限らないが。
 開けっぱなしにしたまま、そこから離れる。倉田氏は階段の方へ歩い
ていく。
 家族が寝てしまったとすると、廊下の明かりがつけっぱなしなのはお
かしい。倉田氏は階段にたどりついた。真っ暗だ。壁を見て、その明か
りのスイッチをつけた。
 これで合点がいった。廊下の電灯は、倉田氏がつけたのだ。足元を見
ながらゆっくりとのぼっていく。
「あっ」
 滝田は思わず声をもらした。それは、古代エジプト人の褐色の足では
なく、やせ細った青白い裸足の足だった。あれは倉田氏のものだ。前は
古代エジプト人だったのに、なぜいきなり倉田氏自身になるのだ?
 階段をのぼりきるとまたしても廊下があった。倉田氏はその明かりも
つける。かなり大胆な行動だ。倉田氏の夢の中の行為がそのまま現実に
なるとすると、家中の照明をつけて回っていることになる。家族の誰か
が起き出したらどうするのだ?
 左手にある木製のドアを少しだけ開いた。廊下から差し込む光で中の
様子がうっすらと見える。そして大きく開き、入っていく。布団が二つ
敷いてある。倉田氏は二人の人物を交互に見つめる。一人はこの間見た
子供だ。あとの一人はもう少し大きい子だ。たぶんお兄ちゃんだろう。
 しばらくの間、画面は二人の子供の顔を映していた。倉田氏にとって
は久しぶりの再会だ。
 反転し、部屋から出ていく。木のドアをゆっくりと閉める。今度は通
路をはさんで反対側の扉を開けた。中はやはり真っ暗だ。廊下からの光
でかろうじて様子が分かる。倉田氏は室内に入りこんだ。画面がそこに
寝ている人物のアップになる。倉田の妻、芳子だ。
 滝田の頭に、あるアイデアが浮かんだ。実行するには少し勇気がいる
が、声を変えれば大丈夫だろう。携帯電話を持ち倉田の家に行った時に
聞いておいた電話番号をタップする。もしもモニターの情景が現在のそ
れであるならば、うまくいくはずだ。
 風景が反転した。足早に部屋を出る。画面がすごいスピードで動いて
いく。階段へ、そして階下へ。
 うまくいった。電話は一階にあるらしい。倉田氏は台所に飛び込んだ。
廊下から漏れる明かりで薄っすらと情景が分かる。入ってすぐの所にあ
る固定電話の前に立った。
 さすがに、倉田氏が受話器をとってくれることは期待できない。かけ
ている相手は倉田の妻だ。倉田氏はどうしてよいのか分からないという
ふうに、そのまま電話を見つめている。画面が回転し、台所の入り口を
映す。倉田の妻が登場した。眠そうに目をこすりながら、明かりをつけ
る。映像が少し横にずれた。倉田恭介がいた場所に立ち、受話器をとっ
た。彼女には倉田氏の姿が見えていないのか?
「はい、もしもし」
 滝田は鼻をつまんで話し出す。
「あ、奥さん? すみませんが、ちょっとそのまま私の話を聞いてくれ
やせんか」
「あの、もしもし? どなたですか?」
「廊下の電気、ついてたでしょ? 階段も」
「まあ」
 倉田の妻は例の耳障りなきんきん声で驚いた。
「あなたがやったのね? 泥棒!」
「いえいえ、あたしゃ奥さんの家に入ってませんけどね。ちょっと、和
室のふすまも見てきてくれやせんかね。開いてるはずなんですけど」
「ふざけないで! この変態」
「大真面目ですよ。あのちょっと、左を見てくれやせんか」
「えっ」
 彼女がこちらを向いた。そして彼女の前には、彼女の旦那が立ってい
るはずなのだ。
「何か、見えやせんかね。誰か立ってません?」
「何言ってるのよ。気色の悪いこと言わないで。この変態」
 おや? と滝田は思った。モニターの風景が、右に、左に回転し始め
たのだ。辺りを警戒しているらしい。感づかれたかな、と滝田はひやり
とする。
「あ、もうそろそろ切りやすんで。お休みなさい」
「ちょっと、待ちなさいよ」
 携帯を切る。倉田の妻は画面の向こうで何か言っている。だいぶ怒っ
ているらしい。しばらくして、ようやく電話の前から離れた。部屋の電
気が消える。
 一分近くたって、再び台所の明かりがついた。電灯のスイッチが映っ
ている。
 どうする気だろう、と思っていると、電話機の前に戻った。ボタンを
プッシュし始める。しまった。非通知でかけるべきだった。着信音が鳴
る。無視すべきかどうか一瞬迷ったが、ボタンをタップした。背筋の寒
くなるような声がこう言った。
「人の夢をのぞくな」
 モニターが急速に暗くなり、消えた。


   三

「父さん、待ってよ。父さん」
 ビルとビルの間の狭い路地を、父の背が遠ざかっていく。少年の滝田
は、灰色の背広姿の父を追いかける。懸命に走るが、どうしても追いつ
くことができない。父はゆっくりと歩いているのに、たどり着けなかっ
た。父が角を曲がった。滝田も後を追って曲がる。いきなり、父が滝田
の前に立ちはだかった。
「健三、宿題はやったのか」
 滝田は驚くと同時に、後悔の念にさいなまれ始めた。父を追いかける
べきではなかったのか。
「今日は、宿題がなかったんだよ」
 思わず嘘が口をついて出る。
「そうじゃない。お父さんの課題だよ。社会のテストの答案を見て、お
父さんはがっかりした。この間の試験よりも二十点上げることが、お父
さんの宿題だったはずだ」
「父さん、聞いてよ。僕は算数と理科が好きなんだ。社会科は嫌いなん
だよ」
 父は滝田の言葉を無視して、背を向けて再び歩きだした。父は言い訳
を聞かなかった。いつだってそうだった。父は、廃屋となって使われて
いないビルに入っていく。
「父さん、待ってよ。僕の話を聞いてよ」
 絶望感で涙があふれそうになる。いくら懸命に走っても、父はどんど
ん遠ざかっていくばかりだ。
 建物に飛び込んだ時、父は地下へ通じる階段を下りていく所だった。
「父さん、だめだ! その階段を下りると、体がちっちゃくなっちゃう
よ!」
 滝田は下り口に立つ。下へいくほどすぼまっている。壁も、天井も、
縦横の比率は同じまま、徐々に狭まっているのだ。父はすでに、人形く
らいの大きさになっていた。慌てて駆け下りる。滝田の体も、一段踏む
たびに小さくなっているに違いない。
 出口から出ると、そこはまたしても、ビルが立ち並ぶ間にある狭い路
地だった。だが元いた場所よりも全てが小さい世界であるはずだ。
 父がいない。どこだ。見まわすが、どっちに行ったのか分からなかっ
た。あてずっぽうに駆け出す。
「父さん!」走りすぎて、息が苦しい。「父さん!」
 父が、古ぼけた時計屋に入っていくのが目に入った。
「待って! 父さん!」
 時計屋の扉が開かない。取っ手を握って懸命にゆするといきなり大き
な音をたてて開いた。中に駈け込む。チクタク、チクタク。
 こげ茶色の鳩時計、金色の置時計、いろいろな時計が、てんで勝手に
時を刻み、その音が混ざって耳に入りこんでくる。
 店の主人が、椅子に座って新聞を広げている。
「ねえ、おじさん、父さんが来なかった?」
「知らんな。わしはお前の父親がどんな人なのか見たこともない」
「灰色の背広を着た人だよ。背の高い人だよ」
「ああ、その人ならそこの階段を下りていったよ」
 また階段か。滝田は走り出す。思った通り、下にいくほど狭くなって
いた。小さくなった父が下りていく。
「父さん! 行っちゃだめだ!」
 後を追いかける。疲れた。もう走れない。出口が外につながっている。
滝田はよろめきながら歩み出た。そこは地下のはずなのに、またしても
ビルとビルの間の路地だった。いったい何度繰り返せばいいのだろう。
こうしてだんだんと、小さな、小さな世界に入りこみ、最後には点にな
ってしまうのだろうか。
 ひざをさする。父がいない。嫌がる足を無理やりひきずって、再び駆
け出す。
 ふいに、背筋に冷たいものが走った。何者かの気配を感じる。上の方
だ。滝田はおそるおそる空を見上げる。黒雲がおおっていて薄暗い。そ
の雲の隙間から、いつの間に現れたのか、巨大な目が滝田を見下ろして
いるのだった。まつ毛の上にある小さなほくろから、誰なのかすぐに分
かった。父だ。父は、滝田を置いてきぼりにして、自分だけ元の世界に
戻ってしまったのだろうか。そして、この箱庭のような世界をのぞきこ
んでいるのだろうか。その目だけの巨大な父は、威厳ある低い声で言っ
た。
「健三、宿題をやれ」

 わあっ、という自分の声に驚いて、滝田は目を覚ました。
 また悪夢を見てしまった。
 父は、いわゆるエリートだった。いい高校を出て、いい大学を出て、
大学院の博士課程まで行って、一流商社に入った。古いタイプの猛烈社
員だった。土日も家にいないことが多かった。厳しく、恐ろしい父であ
ったという記憶しかない。滝田に、テストで悪い点をとることを決して
許さなかった。
 その父は、滝田が大学生の頃に、ある日突然階段から足をすべらせて
死んでしまった。後頭部強打、即死だったという。
 母は事故だと言ったが、葬式の席で、親戚の人達はささやいていた。
あれは過労死だよ、と。
 記憶の底に沈みこんでしまったと思っていたのに、しっかりと潜在意
識に根をはっていたのだろうか。
 滝田はウイスキーを飲むために、ベッドから抜け出した。


   四

「つまり、今度は倉田さん自身になったって言うんですか?」
 滝田が昨日の話をした時、美智子は目を丸くした。
「ああ、おかげで悪い夢を見てしまったよ」
「しかも倉田さんの夢がテレビ電話になっただなんて」
 青年も驚きの声をあげる。
「記録は残っている。電話の内容も、ちゃんと録音してある」
「倉田さんの家に連絡して、事情を説明した方がいいんじゃないかしら」
「何て言うんだい? 倉田さんが夢の中で古代エジプト人になっている
ことさえ、まだ奥さんには教えてないんだよ。ここで何が起こっている
か教えたら、パニックに陥るだろうね」
 聞きたいことは、山ほどある。倉田氏にも、倉田氏の妻にも、和田幸
福研究所の和田氏にも。しかしそれが聞けないから、もどかしいのだ。
「倉田さんは前にも現代に現れていますよね」と美智子は言った。「あの
時も、倉田さん自身として現れたんじゃないかしら」
 それは滝田も考えたことだ。当然、そういうふうに連想が働く。スパ
ナを振り上げた手は細く青白かった。しかし滝田は、彼女の意見が聞き
たくて、言った。
「どういうことだい?」
「倉田さんはずっとエジプト人で、昨日初めて倉田さん自身になったの
ではなくて、ある時はエジプト人、ある時は自分自身になっているんで
す」
「すると、今までの秩序がくずれるわけだ。順々に過去にさかのぼって
いたのに、今は過去に行ったり、現在に来たり、自由自在に行き来でき
るようになったわけだ」
 それは、昨日から今日にかけて滝田がずっと自問自答してきたことだ
った。だが、答が出ない。美智子なら、何か目新しいことを考えついて
くれるかもしれない。
「それは違います。倉田さんがどうして、順々に過去にさかのぼったっ
て言えるんでしょう。エジプト人よりもインド人の方が過去かもしれま
せんよ。そもそも、倉田さんが前世の記憶をたどって過去に行ったって
いう先生の考えにも、私は賛成できません」
「なるほど。前世案ははずれというわけだ。それじゃ常盤君は、どうし
て倉田さんが自由にいろんな時代に行けるようになったと思うんだい?」
「そんなの分かるわけがありません。今回の現象は分からないことだら
けなんです。現代医学では考えられない睡眠障害も、倉田さんが御見葉
蔵氏にとりつかれたようになったのも、古代エジプトもモニターが割ら
れたのも、すべて人間の理解を超えているんです。私達がちょっとやそ
っと考えたくらいで、分かるわけがありません」
 やれやれ、いつものように非難するだけか。滝田はがっかりした。
 保守的だと滝田は思う。神のみぞ知る。全ては人間に分かるわけのな
いこと、では科学など発展するわけがない。不可知な事象を必死に分か
ろうと努力してきたからこそ、今の科学があるのだ。
 意外にも新しい考えを提示したのは藤崎青年だった。
「ひょっとして、古代エジプトにタイムマシンがあったりして」
 青年は照れて笑った。
「どういうこと?」
 滝田は青年に向かって顔を突き出した。
「あ、いえ、先生の前世案が正しいとして、古代エジプト人となった倉
田さんは、古代エジプトでタイムマシンを見つけたんです。あくまで仮
定ですよ。それで現在にも現れるようになった……なんて」
「馬鹿げてるわ」美智子の顔にありありと軽蔑の色が浮かんだ。「そのタ
イムマシンは誰が作ったの? まさか宇宙人が持ってきた、なんて言わ
ないでしょうね」
「いや、すみません。僕は真面目に言ったつもりじゃ……」
「倉田さんはどうしてギザやサッカラなんていう、古代エジプトでは重
要な場所にいるんだろうね」と、滝田は言った。「宇宙人だか未来人だか
知らないが、彼らはタイムマシンで古代エジプトに行った。そして、ギ
ザかサッカラのピラミッドのどれかにタイムマシンを隠した。それを見
つけた古代エジプト人は、自由に時を越えることができるのを知ったん
だ。古代人は恐れおののき、以来ギザ、サッカラの辺りは聖地になった。
倉田氏はたまたまそのタイムマシンを見つけ、現代にも来れるようにな
った。そんな可能性が、百パーセント絶対にないとは、言いきれないと
思うがね」
「よくもまあ次から次へと、変なことを考えつきますね」
 美智子の眉がつり上がる。
「ピラミッドは必ずしも、王のお墓だったとは限らないそうじゃないか。
常盤君から借りた本に書いてあったんだけど」滝田は口をへの字に曲げ
た。「ギザの第一ピラミッドには、他のピラミッドと違って玄室が地下で
はなく、地上五十メートルくらいの所にあるそうじゃないか。案外そこ
が、実はタイムマシンだったりしてね」
「馬鹿馬鹿しい。知りませんわ」
 美智子はそっぽを向いた。
 だが残念ながら、青年のタイムマシン案は却下になりそうだ。それだ
と、現代に現れた時の痩せ細った手が説明できない。その時には倉田氏
自身になっているのだ。謎の古代エジプト人がタイムマシンを見つけた
のなら、夢見装置に映る手も褐色でなければならない。
「僕の考えを言おうか。藤崎君の考えと似たようなもんだから、怒らな
いでくれよ。倉田さんは記憶をたどって前世にさかのぼったが、古代エ
ジプトくらいに昔になると、記憶もかなりあいまいだ。だから完全に古
代エジプト人になりきれずに、時々倉田氏自身に戻ってしまうんだ。こ
れだと謎の古代エジプト人が、自分は誰で、どこの人間かも分からない
ことも説明がつく」
「御見さんは実在の人間なのに、まるでエジプト人は倉田さんの夢が作
り出した架空の人物のような言い方ですね」
 そうかもしれない。エジプト人の方は実際に存在したその人とは違う
偽者なのかもしれない。待てよ? すると倉田氏が死ぬとエジプト人も
消えてなくなるのか?
「あともう二つ、今回の夢には謎があるんだ。一つは、謎の古代エジプ
ト人の時には周りの人間には彼が見えていたのに、倉田氏の時には奥さ
んからは彼が見えていなかったことだ」
「幽霊じゃないんですか? ほら、幽霊だと姿が見えるのと、見えない
のがいるじゃないですか」
 美智子は皮肉で言ったのだろうが、滝田はさも感心したような顔をし
てみせた。
「なるほど。夢の中の倉田氏は、言ってみれば幽霊みたいな存在だ。自
由に姿を現したり、消したりできる能力があるのかもしれないね」
 美智子のかわいらしいくちびるがゆがんだ。
「もう一つは、『人の夢をのぞくな』という文句だよ。倉田さんは、夢見
装置で我々が彼の夢をのぞき見していることを知っている」
「そうよ。倉田さんは怒っているんだわ。だって、これはプライバシー
の侵害ですもの。モニターを壊したのも、そのせいだわ」
「どうしよう。倉田さんを怒らせてしまった」
 滝田は狼狽した。滝田の心中を察したかのように、美智子が言う。
「彼、今度現れたら、夢見装置を壊してしまうかもしれませんよ。モニ
ターだけでなく、全部」
「大変だ。なんとかなだめないと」
「古代エジプト人やインド人はなだめなくていいんですか?」と藤崎青
年が聞く。
「三人は別人だろう。共通の認識を持っているわけじゃない。エジプト
人はモニターが壊されたことを知らなかったようじゃないか」
 青年は腑に落ちない顔をしている。確かに、別の人物とは言っても一
つの脳で起こっていることだ。
「どうやってなだめます? 夢見装置は彼の視覚情報を得る能力しかあ
りませんわ。彼が何て言ってるのか聞くこともできない。こちらの話を
聞いてもらうこともできない」
「できないことはないさ。彼が彼自身としてレム睡眠行動障害の状態に
なった時がチャンスだ」
「今のところ、御見氏や、インド人や、古代エジプト人の時にはあった
けど、彼自身としてレム睡眠行動障害の状態になったことはないんです
よ」
「入院前にはあったよ。しかし、眠ったままでも話せる方法がある。あ
れだよ」
 滝田は研究室の隅の電話を指差した。
「あれに張り紙をしておくのさ。『どうかこの電話をとって下さい』って
ね。で、携帯でかけて話す」
 なかなかいいアイデアだと思ったのだが、美智子は納得していないよ
うだ。
「だったら電話なんかいらないんじゃありません? 電話で彼の声が聞
こえるのなら、この場で倉田さんがしゃべれば、みんなに聞こえるんじ
ゃありません?」
 姿は現さないのに声だけ発するというのはなんだか変だ。
「この場と言っても、夢の中のこの部屋だよ。現実世界とつながってい
ない。倉田さんが夢の中でしゃべっても、それを聞くことができるわけ
がない」
「それじゃあ、電話だとどうして話せるんですか」
「倉田さんが夢の中の現象を、現実の事象として実現できるからさ。彼
が夢の中の電話で話すと、実物の電話機にもその声が伝わると考えられ
ないかね?」
 また、こじつけだわと怒られるかと思ったが、美智子はあきれたのか
反論しなかった。
「あともう一つ、謎がありますわ」
「なんだい?」
「倉田さんが日本語で話すことです。どうして古代エジプト語や、イン
ド語じゃないのかしら」
「夢の中のエジプト人は古代エジプト語でしゃべった。しかし僕達が声
を聞いたのは倉田さんの口からだ。英語は少しくらい習ってるだろうが、
たぶん日本語しか知らないと思うよ」
 美智子はうなずいたが、納得していないことは明らかだ。
「では、こちらの言葉がエジプト人に伝わるのはなぜなんですか?」
「うーん」これは難しい。「倉田さんはイタコのような状態になってるん
じゃないか? 昔ある番組でアメリカの女優さんの口寄せを行った時、
彼女の霊は下北弁で会話に応じたというのを聞いたことがあるよ」
 美智子は苦虫を噛み潰したような顔をした。全て滝田の仮説にすぎな
い。
 滝田は思いついて付け足した。
「張り紙だが、ここの電話番号も書いておいた方がいいな。倉田さんか
らかけてくる場合もあり得る」




#545/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  17:59  (322)
眠れ、そして夢見よ 5−2   時 貴斗
★内容                                         19/04/05 00:56 修正 第2版
   五

 藤崎青年に呼ばれて滝田が研究室に駆け込んだのは、二日後、午後八
時十七分のことだった。
 渦巻き流れるモニターの砂嵐が徐々にその勢いを弱めて像を形作り始
めた。
「どこかしら。林のようだけど」
「倉田さんの手か足が映ってない?」
 滝田は美智子と青年の後ろからモニターをのぞきこんだ。鬱蒼とした
林の中、もやが幽鬼のように漂っている。木々の間から薄暗い太陽がの
ぞき、木や草達に栄養分を与えている。倉田氏は林の中を歩いていく。
音は聞こえなくても倉田氏が草をかき分け、踏むのが伝わってくる。
 木々の間を抜けていくと突然視野が開け、モニター画面に幅の広い河
が映し出された。
 倉田氏は河川に沿って下流の方へと歩いていく。のんびりと河をなが
めながら散歩を楽しんでいるのだろうか。
 そんなふうにしてしばらく歩いていると、徐々に流れが速くなってき
た。おや、と滝田は思う。急流の中央部に何かが見える。最初、それは
石か何かに見えた。だが、動いていて浮き沈みを繰り返している。倉田
氏も気を引かれたらしく見つめている。
 その石のようなものの左横から、何かが現れて沈んだ。もう一度水面
から顔を出し、周りに水しぶきをたてた時、滝田はそれが何であるかが
かろうじて分かった。人間の手だ。大人のものではない。子供の腕だ。
滝田は心臓が締め付けられるのを感じた。おそらく美智子も同じ感触を
味わったに違いない。
「ちょっと、あれ、子供がおぼれてるんじゃないの?」
 倉田氏も同じことを考えているだろう。ただひたすら、その方を見つ
めている。水面から子供が顔を出した。苦しそうに目を閉じている。一
旦水面下に沈み、再び水しぶきとともに浮き上がった。そのほりの深い
顔立ちは日本人のように思えない。今までの経緯から考えると、古代エ
ジプト人だ。
「助けなくていいんですか」
 青年が緊張を含んだ声をもらす。
「助けるって、どうやって? 倉田さんがその気にならなければ救えな
いわ」
 滝田は、青年と美智子が驚くようなことを言った。
「いや、ひょっとすると助けない方がいいのかもしれないぞ」
 振り向いて滝田をにらみつけたのは美智子だ。
「何言ってるんです! どうして助けない方がいいんですか!」
「いいかい? あの子供は、名も無い農村の名も無い人間かもしれない。
しかし将来歴史に名を残すようなファラオになるのかもしれない。ある
いはヒトラーのような残忍な人間になるかもしれない。あの子供を救う
ことで、歴史が変わってしまう可能性がある」
「そんな!」
「倉田氏は元々この歴史の流れの中にいなかった人間かもしれない。こ
の映像が、倉田氏の前世の記憶がそのまま映っているのでなければね。
つまりこの人物が倉田氏の夢が作り出した存在だということだが。しか
し、倉田氏は夢の中で行った通りに現実を変えてしまうことができるよ
うだ。彼が歴史の流れにタッチすることは危険だ」
「それじゃあ先生は、あの子供がどうなってもいいんですか! 逆にあ
の子を助けることこそ、正しい歴史の流れなのかもしれないじゃないで
すか!」
 倉田氏はそんな二人の議論をよそに急流に近づいていく。河との長い
にらみ合いが続く。
 突如、モニターの風景が水の上を飛んだ。数秒真っ暗になり、次の瞬
間画面は大量のあぶくに覆われた。大小さまざまの泡が押し寄せてくる。
 顔を水上に出したらしく、今度は大量の水しぶきがディスプレイをお
おいつくし、そのすきまから対岸の土が見えた。映像は水の中に入った
り出たりを繰り返した。子供がだんだんと近づいてくる。
 ついに少年にたどりついた。その顔が画面一杯に映し出される。回転
して後頭部へ、そして頭のてっぺんへと変わっていく。子供を抱きかか
える筋肉質の胸と腕が浮き沈みを繰り返す。水に濡れるそれらは褐色の
肌であった。
 子供を抱えたまま立ち泳ぎで岸へと近づいていく。滝田達が手に汗に
ぎる中、ようやくたどりついた。土の上に少年を寝かした。やはり日本
人ではないようだ。胸をリズミカルに押し始めたところで画面が暗くな
ってきた。
「ああ、いいところなのに」と青年がささやく。
 夢が終わる瞬間、なんとか子供が水を吐き出し、意識が回復するのを
見ることができた。
「終わった」
 滝田がつぶやく。
「あの子は助かったんだわ」
 美智子は、はしゃいだ声を出した。
「何か、変わったか」
 滝田は周りを見回した。
「え?」
「子供を救助する前と後とで変わったことはないか」
「そんな。本気で言ってるんですか。あの子を救ったからと言って私達
の身の周りに変化が起こるわけがありませんわ」
 滝田は美智子に説明する気にもなれなかった。彼女を説得するのは骨
が折れる。たしかに、我々の日常は古代エジプトとはなんら関係のない
ささやかなものだ。しかし、あの少年がエジソンの遠い遠い祖先ではな
いと、どうして言えるだろう。子供を助ける以前はエジソンなる人物は
存在しなかったのかもしれない。救ったその瞬間に、かの発明王が存在
する歴史の流れに、切り替わったのかもしれない。しかし滝田達にとっ
ては幼い頃からエジソンという偉大な人物が実在したはずだ。だが、本
当はそうではなかったのかもしれない。たった今、そういうふうに全て
が塗り替えられてしまったのかもしれない。
 風が吹けば桶屋がもうかる、という論理で、少年の命が救われた結果
第二次世界大戦が起こったのではないと、どうして言えるだろう。彼が
生き残った結果広島と長崎に原爆が落とされたのではないと、どうして
言えるだろう。
 そう考えると、滝田は素直に喜ぶことができなかった。


   六

 アタックザックを背負って、藤崎青年は緩やかな斜面を登っていく。
すでにシャツには汗が大量にしみこんでいる。これぐらいの低い山なら、
デイパックでも構わないのだが、青年はこのザックの方が好きだ。天気
は良く、太陽がよく照っている。予報は晴れ時々曇りで、雨の心配はな
さそうだ。
 空気がうまいと、青年は思う。細い山道の両側には青々しい草がよく
茂っている。久しぶりの登山だ。青年の休日は月火だ。せっかくの休み
なのだから、おおいに活用しなければ。
 都心から電車で一時間程度行ったところに、こんな絶好の登山コース
がある。標高が八百メートル程なので本格的な山登りを満喫するには物
足りないが、日帰りで楽しむ分には十分だろう。青年は気分をリフレッ
シュするためにここに来ることが多かった。だから慣れた山だ。滝田や
美智子も来れば、さぞかし普段の気難しさが晴れてさわやかな気分にな
るだろうに。一緒に行きませんかなどと誘ってはみたものの、よくよく
考えると都合が合わない。年末年始くらいか。いや、滝田は正月も働い
ているだろう。
 登山の良さは経験した者でなければ分からない。肺にたまった、排気
ガスや煙草のけむりにまみれた都会の空気をはき出し、新鮮な酸素を吸
いこむ。体中の血液がきれいになっていくのを感じる。
 そろそろ休憩したいなと、青年は思う。少し斜面が急になって、道が
うねって登りづらかったが、そこを越えると平らになった所に出た。葉
をたわわにつけた一本の木があって、その木陰に、腰かけるのにちょう
どいい岩がある。青年は座って少し早い昼飯を食べることにした。
 帽子をぬぐと、汗ですっかり濡れていた。ザックのポケットから手ぬ
ぐいを引っ張り出し、顔をぬぐう。弁当箱を取り出して開ける。早朝に
起き出して握ったおにぎりが顔を出す。水筒からふたにウーロン茶を注
ぎ、一気に飲み干す。もう一杯注ぎ、おにぎりのうちのシャケが入った
やつをほおばる。疲れた体にエネルギーが戻ってくる。
 ふと見ると、つばの広い帽子をかぶったおじいさんが登ってくるのが
見えた。老人は彼のそばまで来ると軽く会釈をした。
「いいお天気ですなあ」
 おじいさんはのんびりとした口調で言った。
「ええ、全くですね」
 青年は体を横にずらした。だが老人は座る気はないようだ。
「しかしお気をつけになった方がいい。もうすぐ雨が降りますよ」
「え? こんなにいい天気なのに」
 青年は空をふり仰いだ。多少の雲はあるものの、太陽は明るく照り、
降りだしそうな気配はない。
「今日は泊まりの予定ですか?」
「いえ、日帰りですが」
「泊まりになさった方がいい。土砂降りになりますよ。もうあと三十分
も歩いた所に、山小屋がありますんでな」
 その山荘なら青年も知っている。じゃあこれで、と言って去っていく
老人に、青年は礼を言った。見ると、彼はすごい早さで歩いていく。コ
テージまでは青年の足で一時間はかかる。
 おにぎりを食べ終わり、立ち上がった途端に暗雲がたちこめ始め、た
ちまちたたきつけるような雨が降り注いできた。老人の言った通りにな
った。この辺に詳しいのだろうか。ザックから折り畳み傘を出して差す
が、すぐにそんなものではどうしようもない程の土砂降りとなった。合
羽を出して羽織る。
 徐々に歩くペースを上げていくが、道が急速にぬかるんでくる。濁っ
た水流ができ、青年の歩みを邪魔する。
 ようやく山荘に着いた頃には二時間もたっていた。
 丸太を組んで造ったログハウス風の建物は完全に雨に包まれ、屋根か
ら滝のような水が流れ落ちている。
 玄関に立ち、呼び鈴を押し、レインコートをぬいでいると、主人が顔
を出した。
「いらっしゃい」
「すみません。またお世話になります」
「ああ、藤崎さん、久しぶり」
 背の曲がった、頭の両側にわずかに白髪を残したおじいさんである。
さっき道で会った老人よりもさらに歳をとっている。
「藤崎さん、藤崎さんね」と言いながら、主人はいったん奥にひっこみ、
そして宿帳とボールペンを持ってきた。
「部屋、空いてます?」
 一階に二部屋と食堂があり、二階は大きな二枚の屋根に挟まれたよう
な構造なので狭く、やはり二部屋しかない。
 一階のうちの一つは主人の個室である。
「ええ、ええ。もちろん。こんな小さいコテージに土砂降りの中やって
くる人はそういません。藤崎さんの他はあとお一方だけですよ」
「僕も日帰りのつもりだったんですけどね。まさか急にこんな大雨にな
るとは思っていなかったもんですから」
 二階の一室にもう一人の客が泊まっているという。青年は上階の空い
ている部屋に泊めてもらうことにして階段をのぼった。
 室内に入り、ザックをおろす。肩が痛い。もみほぐしながらベッドの
上に腰をおろす。首を後ろにねじ向け、窓にたたきつける雨をみつめた。
これからどうしようか。
 日帰りのつもりでいたから、火曜日を選んだが、失敗だった。用心し
て月曜日に来れば良かった。明日は午後から出勤すると研究所に断って
おかなければならない。いや、この分だと休みになりそうだ。
 携帯は持ってきていなかった。我ながらのんきなものだ。後で食堂の
電話を使わせてもらうことにしよう。
 テレビもない部屋で、本もなく、ぼんやりと雨をながめる。晴れてい
れば、その辺を散歩すれば結構見晴らしが良いのだが、そうもいかない。
濡れた上着とズボンをぬぎ捨て、洋服ダンスにつるし、ベッドに寝転が
ると一気に疲れが出て、体をふくことも忘れて眠りこんだ。
 どのくらい経っただろうか。ドアをたたく音で目が覚めた。
「お食事の用意ができましたよ」
 扉の外で主人の声がした。すっかり暗くなっていた。雨音はすでに消
えていた。
「はい。すぐ行きます」
 青年はかけ布団の上に寝てしまったのですっかり体が冷えきってしま
っていた。ふるえながらアタックザックから替えの服を出して着る。腹
が減った。急いで一階へと下りていく。
 ダイニングに行くと、すでにもう一人の客が来ていて、料理を並べる
主人と話しこんでいた。食堂とは言ってもテーブルが一つに数脚の椅子
が並んでいるだけという質素なものだ。青年の足音が耳に入ったせいか、
その客が振り返った。
「あっ、先ほどの」
 青年は驚いた。それは、昼間出会ったあの老人だった。
「おや、お隣にお客さんが来たというので、もしやと思ったのですが、
やはりあなたでしたか」
 青年は主人にうながされるままに老人の向かい側に座った。主人は食
事の席には加わらず、「皿はそのままにしといてくれればええんで」と言
って自室に引っ込んでしまった。
 二人だけのわびしい食事が始まった。テーブルの上ではシチューとチ
キンがいい匂いをたてている。
「地元の方ですか」と青年は聞いた。
「ええ。ふもとに住んでいるんですよ」
「やっぱり。いや先ほどは、言われた通り大雨になったものですから」
「ああ、山の近所に住んでいれば分かります。雨が近づくと、においで
分かるんですよ」
 青年にはピンと来なかった。そういう雰囲気を敏感に感じとることが
できるのかもしれない。
「はあ。そういうもんですか」
 老人はシチューを一口すすって、青年に聞いた。
「この山はよく登られるんで?」
「ええ。僕は山登りが趣味なんです。仕事の合間に登ると、ストレスが
とれてすっきりします」
「仕事は何をやっとるんですか」
 青年は躊躇した。自分の職業を人に言うと、たいてい珍しがられる。
「ええ、まあ、眠りの研究をやっています。夢の研究です」
 老人の目に好奇の色が浮かぶ。
「夢の? そりゃまた珍しいお仕事ですな」
「ええ。どんな動物は夢を見て、どんな動物は見ないか、ですとか、睡
眠障害と夢の関係ですとか、そういった研究です」
 老人はコップの水を一気に飲み干した。水差しからもう一杯つぎ足す。
「実を言いますとな、昨日の夜、雨の夢を見たんですよ。場所はこの山
だったのか、全然別の草原かどこかだったのか、よく覚えておりません
が、土砂降りの夢を見たんですよ。それで今日、天気が悪くなることが
分かったんですよ」
「と言いますと、どういうことです?」
 青年は眉をひそめた。
「わたしゃよく正夢を見るんですよ」老人はいたって真面目にそう言っ
た。「小さい頃火事の夢を見ましてな。あんまり本物らしかったから、わ
んわん泣きましてな。そしたら近所で本当に火事がありましたよ。火が
移れば私の家も焼けるところでした。高校生の頃、もう一度火災の夢を
見ましてな。見たことのある家だったから、そこのご主人にわざわざ知
らせに行ったんですよ。まったくとりあってもらえませんでしたが、本
当に台所から火が出て、慌てて消し止めたそうです。私の警告があった
から早急に対処できたんだって、感謝されましたよ」
「本当ですか」
「誰も信じちゃくれません。でも、まだまだあります。車とトラックが
衝突する夢を見たんですよ。次の日ある交差点で信号待ちをしてて、ど
っかで見たことがあるなと思ったら、夢で見た場所なんですよ。そして
その通り、直進する車に右折しようとするトラックがぶつかったんです
よ。そんなのが他にもたくさんあります。あなたに分析してもらえると
うれしいんですがな」
 どうも青年をからかっているようには思えない。実際、老人が言った
通り大雨が降っている。しかし、青年は予知夢の実例をまだ見たことが
なかった。
「数ある正夢の中でももっとも恐ろしかったのは」老人は自分の顔に指
を向けた。「私自身が死んでしまう夢です。私は、病院のベッドの上で苦
しげにうめいています。周りにいるのは医者と看護師だけ。私は急に静
かになります。医者は私のまぶたを開き、首を横にふります。家族の誰
も看取らぬまま、死んでしまうんです」
「良かったですね。その予知夢は当たらなかったようです」
「いえいえ、あれは将来起こる事です。夢の中の私は今よりもっと老け
ています。家族は私によくしてくれます。でも死ぬ時はあんなふうにな
るんじゃないかと。そう思うと怖くてたまらんのですよ。もう三回も見
ています」
 青年は老人を安心させてあげたいと思った。
「人の脳は偽の記憶を作ることがあります。あなたの場合も交通事故が
あった後になって、そういえばそんな夢を見たと、脳が勝手に思い込ん
でいるだけかもしれません。天気くらいだったら勘でもある程度当たる
わけですし。今日の雨にしたって、あなたが言った、雨のにおいって言
うんですか? やはりそっちの方で分かったんじゃないでしょうかね。
大丈夫ですよ。死んだりしません」
「そういうもんですかねえ。だといいんだが」
「ええ。予知夢なんてそうそうあるもんじゃありませんよ」
 老人は安心してくれたのか、微笑んだ。しかし、だとすると火事を予
知してその家の主人に告げたことは、どう説明すればよいのだろうと青
年は思い、不安になるのだった。


   七

「あれ? 藤崎君は休み?」と滝田は言った。
「ええ。昨日雨でしたでしょう? 山の方では大雨だったんですって。
それで足止めをくったそうです」
「ああ、そういえば山登りに行くって言ってたな。常盤君はどっか行か
ないの?」
「私アウトドアは嫌いなんです」
「へえ。体に悪いよ。お肌にも良くないよ」
 美智子はキーボードを打つ手を休める。
「あら、日光を浴びると、かえって肌の老化を早めるんですよ。太陽は
有害なだけです」
 日の光を受けた方が、健康のような気がするけどなあ、と滝田は思う。
しかし美智子には反論しなかった。紫外線がどうのこうのと言い出すに
決まっている。
 滝田は黙って研究室を立ち去った。所長室に戻り、ゆっくりと椅子に
座る。机の上にはアメリカの睡眠障害研究連合や睡眠精神生理センター
から取り寄せた資料が大量に積んである。読みきれないうちにどんどん
新しいのが届くのは喜ぶべきことなのだろうか。
 滝田はその中から一番上のやつをつまみ上げた。英文がずらずら並ん
でいるのを見ていると嫌気がさす。こういうのも全部電子メールにすれ
ばよいのだ、と滝田は思う。そうすれば翻訳用アプリケーションで日本
語に訳すことができる。もっとも、そういった類のソフトウェアは未だ
に誤訳が多いから、結局は元の英文と見比べながら読むことになるのだ
が。
 資料を元の場所に放り、パソコンに向かい、メールが届いていないか
チェックする。
 高梨医師から一通来ていた。さっそくクリックする。内容はごく短い
ものであった。「滝田殿、倉田氏の件、状況はどうですか」という、たっ
たそれだけのものであった。しかし、その一文は滝田の心にずっしりと
のしかかってくるのだった。
 返事をしなければ。報告に期限が決められているわけではないが、途
中状況を知らせなければなるまい。スフィンクスとジェセル王のピラミ
ッドの夢のことだけ報告するか。それならば無難だ。しかしそれだけで
も、倉田氏が古代エジプト人になったという確証が得られたと言って、
大騒ぎするかもしれない。
 もうそろそろ倉田氏を返すべきなのだろうか、と滝田は考える。事実
を知りたいという研究者としての欲求と、現実というしがらみとの間で、
うまく折り合いをつけなければならない。第一、滝田の研究所にいる間
に倉田氏の病状が悪化したりしたら、責任がとれない。
 最小限のことだけ教えたとしても、高梨はすっかり喜んで、もっと研
究を続けるよう要求してくるだろう。高梨のあやつり人形になるのはご
めんだ。
 調査を長引かせるのは得策ではない。こんなに長い間調べておきなが
ら、二つしか夢が見られなかったのか、ということにもなりかねない。
やはり、倉田氏にはもうそろそろ病院に戻ってもらった方がいいように
思える。
 しかし滝田は、その日の夜、倉田氏の夢の調査は続行すべきだと考え
を変えた。倉田氏がまた研究室に現れたのだ。




#546/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:01  (163)
眠れ、そして夢見よ 5−3   時 貴斗
★内容                                         19/04/05 00:58 修正 第2版
   八

「先生、来てください!」
 所長室の扉が勢いよく開き、美智子が真っ青な顔をして飛び込んでき
た。
「ん? どうしたの? まさか倉田さんが夢を見て、研究室に現れたな
んて言わないだろうね」
「その通りなんです!」
 滝田は慌てて立ち上がった。美智子はすでに振り向いて走り出してい
た。
「手は? 足は? どんな色だった?」
 美智子を追いかけて廊下を走りながら尋ねる。
「まだ手も足も映っていませんが、倉田さんに違いありません」
「倉田さんは起きてるの? 寝てるの?」
「寝てます」
 美智子に続いて部屋に飛び込む。彼女が道をあけたので、そのままモ
ニターの前まで走った。
 そして、その映像を見た時、背筋を氷でなでられるような感覚を味わ
った。
「ほら、いるでしょ。私達」
 美智子は凍りついた声で言った。
 倉田氏が室内を見回している。その中に、棒のように突っ立ってモニ
ターを見つめている滝田と美智子の姿があった。ということは、姿は見
えないものの、彼は現在この研究室の中にいるのだ。画面から推測する
と、彼は入り口の近くにいるようだ。
 倉田氏は眼球運動をとらえるモニターの前に移動した。白い十字マー
クが右に行ったり左に行ったりしている。
 滝田は体をねじった。実物の眼球運動監視用モニターの十字も、同じ
ように動いている。
「倉田さん、そこにいるんですか」
 無駄だと知りながら彼が立っているであろう方向に問いかける。彼は
何の反応も示さない。
 滝田はマイクのスイッチをいれた。
「倉田さん、聞こえますか」
 これまた、無駄なことだった。枕元で倉田氏に呼びかけるなんていう
試みは、何度もやってみた。
 倉田氏は十字マークを眼で追うことに飽きたらしい。視線がそのモニ
ターから離れ、再び室内をただよいだす。
 夢見用ディスプレイの側面で止まる。そのまま注視している。この間
のより小さくなったな、とでも思っているのだろうか。映像がゆっくり
と移動していく。モニターの前で立ち止まった。倉田氏と滝田が重なっ
た。恐ろしさのあまり思わず滝田は飛びのいた。
 この間と同じようにモニターの中にモニターが延々と並ぶ異常な画面
が映し出された。だが今度は、そのディスプレイの列が静かに左に動い
た。まるで奥に行くほどすぼまっている四角錐があって、その頂点をつ
まんで動かしているかのようだ。倉田氏が視線を右に動かせば、当然モ
ニター達は左に動いていく。そして今度は右に動いた。さらに上に、下
にと、倉田氏はこの奇妙な映像を楽しんでいるようだ。
 やがてそれにも飽きたらしく、見る方向が変わり始めた。ゆっくりと
回転していく。斜め後ろから画面を見ている美智子の姿を映した。
「やだ、こっちに来るわ」
「落ちついて。下手に彼を刺激しないように」
 美智子の顔がアップになった。目と鼻の先に、倉田氏がいるはずなの
だ。モニターの中の彼女の顔がわずかにふるえだし、額に一滴の冷や汗
が流れた。
 さらに彼女に近づいていく。どうするつもりだろう。キスでもするの
だろうか。
 美智子は毅然として腕を組んだまま立っていたが、ついに耐え切れな
くなったらしく、横に飛びのいた。
「きゃっ」
 配線に足をひっかけて転んだ。床にくずれた彼女を映す映像が小刻み
に、上下にゆれた。倉田氏は彼女をせせら笑っているのだ。
 反転し、画面を見つめる滝田を映した。滝田の体中に緊張が走り、石
のように硬くなった。映像が滝田に近づいてくるにつれて、滝田の額に
も冷や汗が流れた。
 もう滝田のすぐそばだ。滝田は彼の方に向き直った。硬い笑みを浮か
べ、左手で拳を作って耳の下にあてがった。右手の人さし指を空中につ
き出し、いくつかのボタンを押す仕草をした。そして部屋のすみにある
電話を手の平で示した。画面が素直にそっちの方に動いていく。
 ライトグリーンの電話機に、「どうかこの電話をとって下さい」という
間の抜けた文句が書かれた紙が貼ってある。滝田はすかさず携帯を胸ポ
ケットから取り出し、かけた。呼び出し音が鳴る。モニターの中で、倉
田氏の青白い腕が伸びて受話器をとった。実物の電話機の受話器が宙に
浮いているのを見て、滝田の全身に鳥肌が立った。
 おそるおそる、声をかける。
「倉田さん、聞こえますか」
「……」
 返事がない。滝田は自分ののどが鳴るのを聞いた。もう一度呼びかける。
「倉田さん、聞こえたら返事をしてください」
「そんなに私と話したいですか?」
 それは明らかに古代エジプト人の声音とは違う、倉田恭介氏本人の声
だった。そのやや低い音声が耳に入った途端、滝田は背中に何百匹もの
ミミズが這い回るような感触を味わった。
「あまり時間がありません。単刀直入に言います。私達は倉田さんの夢
をのぞき見していました。申し訳ありません」
「知っていましたよ」
 ああ、やはり。気まずい感情が滝田の中に流れた。
「私は頻繁にここに来ています。先生方の会話も聞いています。それで、
私の夢をのぞき見しようとしていることを知りました」
 そうだったのか、と滝田は思う。かなりはっきりとした夢の場合にし
か、夢見装置でとらえることはできない。倉田氏はもっと多く夢を見て
いたのだ。
「すると、自分が古代エジプト人になっていることもご存知ですか」
「ええ。最初、誰の話かと思いましたよ。しかしどうやら私のことを言
っているらしい。私はどうも大変な状態になっているようですね」
「古代エジプト人の時の記憶は残っていませんか」
「はい。私にもそんな自覚はありません。正直言って、自分がエジプト
人になっているなんて、信じられないんですよ」
 倉田氏だ。今話しているのは、古代エジプト人とは完全に切り離され
た、倉田恭介氏本人なのだ。
「モニターを壊したのは、あなたですか」
「ええ。しかし私は、悪いことをしたとは思っていませんよ。これ以上、
私の夢をのぞくのはやめてくれませんか。もうそっとしておいて下さい」
 さて、困った。やはり倉田氏には病院に帰ってもらうのが最良の道な
のだろうか。本人がもう夢をのぞいてくれるなと言っているのだ。高梨
を説得することはできるだろう。しかし、あきらめがつかない。なんと
か調査を続けたい。それには理由が必要だ。
「しかし、病院の方ではあなたの病気はまったく原因不明で、それを解
明する鍵は夢だと言っています。私達もなんとかあなたを救いたいんで
す」
 しばらく、言葉はなかった。倉田氏は次に何を言おうか考えているよ
うだ。
「なぜ私を救うんです。私は夢の中でならなんでもできる。私が人間を
殺せばその人は本当に死ぬ。私は銀行の大金庫に現れることもできる。
私は、核ミサイルの施設に侵入し、核を発射することだってできる。そ
んな私を、どうして生かしておくんですか?」
 滝田は困った。そう言われてしまうと、倉田氏の存在は非常に危険で
あると言わざるを得ない。倉田氏が歴史を変えるととんでもないことに
なると考えたのは、滝田自身ではなかったか?
 一つの言い訳を思いついた。
「それは、あなたが大人だからです。子供は未熟だから、平気で殴り合
いのけんかをします。自分の思い通りにならないからといって泣きわめ
きます。大人は、理性によってそれを抑えています」我ながらくさいな、
と思う。「あなたのような特殊な能力を持っていない人でも、罪を犯すこ
とはできるでしょう。警察に捕まるような犯罪はできないが、石を投げ
て窓ガラスを割って逃げるくらいはできるでしょう。どうして大部分の
人はそれをしないんでしょうか? 人間には理性というものがあるから
です。何をしてはいけないかが、分かっているからです。人の迷惑にな
ることをしてはいけないという、自制心が働くからです。倉田さんは今
までいくらでも時間があったはずなのに、どうしてさっき言ったような
罪を犯さなかったんでしょうか? それは、倉田さんがそれをしてはい
けないと、分かっているからです」
 再び緊張に満ちた沈黙が続いた。倉田氏は、つぶやくような低い声で
言った。
「なるほど、分かりました。私も馬鹿ではないから、もしそんな真似を
して後でどうなるかは分かっています。もしも私の病気が治って、目が
覚めたら、そこには刑事が立っているかもしれませんね。約束しましょ
う。私は罪を犯しません。しかし、私の夢をのぞくのだけはやめてくれ
ませんか」
 どうやら夢見装置を破壊してしまうような事態は避けられそうだ。し
かし滝田は再び困った。なんとか調査が続けられるように持っていかな
ければならない。
「しかし、今のところ私達とあなたとをつなぐものは、この装置――夢
見装置と言うんですが、これしかありません。これをやめたらあなたと
のコンタクトが切れてしまいます。そうするとあなたを治してあげるこ
とができなくなってしまいます」
「いいんです。私はね、半分死んでいるようなもんですよ。私はまるで
幽体離脱したみたいに、自分で自分の痩せ細った体を見るたびに、つら
くてたまらなくなるんですよ。私が理性を保っていられる間はいい。し
かし正気を失った時、私は何をしでかすか分かりませんよ?」
「あなたはやけになっているんです。つらいのは分かります。しかし、
あきらめちゃだめです。病院と私達との必死の努力で、必ず助けてみせ
ます」
「いいでしょう。では勝手に夢をのぞいてください。私はもう、ここへ
は現れませんからね。電話もとりません」
 すごい音をたてて電話が切れた。
「先生、夢が終わりました」と美智子が言った。
 滝田は肩を落とした。意気消沈して美智子の方に歩いていく。
 夢を調べたからといって治療できるわけではないと言ったのは、滝田
ではなかったか? 高梨医師は単に名声を得たいがために、滝田達に調
査を依頼したのではなかったか?
「僕って、ひどいやつかな」
 滝田はつぶやいた。




#547/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:05  (242)
眠れ、そして夢見よ 6−1   時 貴斗
★内容
   ピラミッドとエジプト人


   一

「あら藤崎君、遊んでちゃだめよ」
 美智子は目を三角にして青年をにらみつけた。
「いや、ちょっとした気分転換に」
 青年はパズルの本を読んでいた。勤務中にさぼるなど、美智子にとっ
てはもっての他だ。
「常盤さんも少し休憩した方がいいですよ。ほら、これ分かります?」
 青年は開いたページを突き出した。
「なによ」
 そこにはマッチ棒で「1+1=」という図形が描かれていた。
 美智子は青年から本とボールペンを取り上げた。
「あっ!」
 ページのすみに数式を書きつける。
    1+1=10

「一足す一は十ですか?」
「その読み方は正しくないわね。読むとしたら一足す一はイチゼロかし
ら」
 青年は狐につままれたような顔をした。
「これは数字を二進数で表した場合。じゃあこれは?」
    1+1=1

「一足す一はイチ、でいいんでしょうか」
「この場合のプラスは論理和。読むとしたら一オア一は一かしら」
「あはは。常盤さん、数学の先生になれば良かったのに」
 美智子はちぎれんばかりに首をふった。
「いやよ。絶対にいや。私、子供がうるさいの、大っきらい」
「ああ」
 青年は口だけ半笑いで眉は八の字になっていた。
「要するに一とかプラスというのは数字や記号の定義でしかないのよ。
だから一足す一は三でもかまわないし、百でもいいのよ。プラスという
記号をそういうふうに定義すればいいんだわ」
「そんな。普通は一足す一は二じゃないですか?」
「いいえ。同じことよ。それも定義の一つだわ。数学というのは定義の
上に組み立てられた美しい論理なの」
「あの、それ、あくまでも常盤さんの考えですよね」
「そのパズルだってそうだわ。どうせマッチを二本動かして別の文字を
作るとか、そういうのなんでしょうけど、それだってそういう関数の定
義だわ」
「そうかなあ。普通は一足す一は二っていうのは、一つのりんごと一つ
のりんごを合わせると二つになるっていう、そういうことだと思うんだ
けどなあ。そういうふうに習いませんでした?」
 はたしてそうだろうか。美智子はその教え方には昔から疑問を持って
いた。それは物理現象を数学で記述したということであって、数学その
ものではないような気がする。
「じゃあ、二つのりんごと、三つのみかんを持ってきました。あわせて
いくつ?」
「え、五つじゃないんですか?」
「正解。それじゃあ、二つのりんごと、三本のボールペンを持ってきま
した。あわせていくつ?」
「それは……五個じゃないんですか?」
「それはおかしいわ。りんごとみかんの場合は、まだ同じ果物の範疇に
入るからいいけど、りんごとボールペンの場合は、あくまで二つのりん
ごと三本のボールペンにしかならないんじゃないかしら。やっぱり、数
学というのは関数とかそういうものの定義と、そこから導かれる論理な
のよ。一つのりんごと一つのりんごを合わせると二つになるっていう、
“例え”ではないわ」
「そうかなあ。現象を記述する方法として“一足す一は二”という表現
が生まれたという気もしますけど」
「そう? それじゃあね」
 さらに問題を出そうとする美智子の目のすみに、何かちらつく光が映
った。
 美智子はモニターの方に顔を向けた。
「先生は?」
「えっ? 先生? 先生の定義ですか」
「先生は所長室にいるの? 早く呼んできて!」


   二

 滝田が駆け込んだ時、ちょうど砂嵐がおさまるところだった。ぼんや
りとした映像がだんだんとはっきりとしてくる。一つ一つの物体の輪郭
線が、明瞭になってくる。
「倉田氏かな? それとも古代エジプト人か?」
 青空をバックに、大きな三角形が浮かび上がってきた。いや、上の方
が欠けている。どちらかというと台形に近い。それはピラミッドだった。
上半身裸の男達が、その根元に群がっている。すると、古代エジプト人
の方だ。
「この間の続きだとすると、ヒッドフト王のピラミッドを造っていると
ころだわ」
「倉田さんは起きてる? 寝てる?」
「眠っています」
「起きてる?」というのも変な表現だな、と滝田は思う。レム睡眠行動
障害時も目は覚めていないのだから。
 真っ青な空には雲がわき立っていて、白熱した太陽が砂をこがしてい
る。
「かわいそうだなあ、あの奴隷達」と、青年がつぶやいた。
「あら、奴隷じゃないわ。彼らは庶民よ。報酬としてもらえるビールの
ために、自発的に働いているのよ」
 風景が動き始めた。謎のエジプト人は彼ら労働者達に近づいていく。
 労働者のうちの一人が、こちらに向かって手をふった。ちぢれた髪の、
口ひげをはやした男だ。若いのか、年寄りなのかよく分からない。痩せ
て肋骨が浮き出している。画面はその男に近づいていく。
「おや、顔見知りができたようだな」と滝田は言った。
 男が何か二言三言しゃべると、画面が大きく上下にゆれた。うなずい
たようだ。別の、太った男がロープを指差す。画面の両端から腕がのび
てひもを握る。
「倉田さんは労働者の仲間入りをしたようね」
 いったい何のために、と滝田は思う。ただ単にビールを飲みたいため
だろうか。それだけならいいのだが。
 エジプト人は顔を上げた。巨大な斜路が左の方からのびて、人々が石
をピラミッドの上部に運び上げている。
「このピラミッドは、結局はなくなってしまうんでしょうね」と、青年
が言った。
「そうだな。そうなってくれないと困る。残ると歴史が変わってしまう」
「先生はまだその考え方にこだわっているんですか」美智子が例によっ
てつっかかってきた。「これは単に夢の中の風景にすぎないんじゃないか
しら。実際に倉田さんがここにいるという証拠は、何もないんですよ。
これが実際のその場の景色だという根拠は、何もないんです」
 この間は倉田氏が古代エジプト人になっていることは確実だと言って
いたくせに、と滝田は思う。
「そうだな。倉田さんが何か痕跡でも残してくれればな。何世紀も後に
なって我々が見ても分かるような跡を残してくれれば、確かにここにい
たという証しが残るんだがな」
 だが、それは危険な考え方だった。下手をすると歴史が変わってしま
うかもしれない。しかし科学者の立場としては、ぜひ証拠を残してもら
いたい、という思いもある。
 大変な重労働を何万人もの人が何十年もかけて、一つのピラミッドを
造るのだ。当時のファラオの権力がいかに偉大なものであったかが分か
ろうというものだ。
 ロープを引っ張る腕を映しながら、画面が暗くなっていった。


   三

 所長室の扉がすごい勢いで開いて、美智子が駆け込んできた。
「先生、倉田さんが」
 滝田は慌てて立ち上がった。美智子を追いかけながら尋ねる。
「倉田さんの方か。エジプト人の方か」
「倉田さんです。しかも、研究室にいます」
 倉田氏か。そっちの方がよほど気になる。この間の夢ではやけくそに
なっているみたいだった。しかしどうした風の吹き回しだろう。もう研
究室には現れないと言っていたはずだが。
 部屋に飛び込むと、藤崎青年が青い顔をしてモニターの前に立ちすく
んでいた。
 青年を押しのけるようにして画面の前に割り込んだ。ディスプレイに
は倉田氏が映っていた。今までの夢と違う。これまでは倉田氏の視点で
見ていたはずだ。滝田は隣のベッドルームで眠っている彼の姿しか見た
ことがない。それが今は、百歳の老人のようなあの顔が、しっかりと眼
を開けて薄笑いを浮かべているのだった。彼は細長い紙を手に持って、
こちらに突き出していた。その紙には墨で、「電話しろ」と大きくと書か
れていた。
「人の夢をのぞくな」と言った時に滝田の電話番号を知ったのだから、
彼の方からかけてくることもできるはずだが、覚えていないのだろう。
 携帯で部屋の電話にかける。倉田氏がすかさず夢の中の受話器を取る。
「もしもし」
 受話口の底から、怒気を含んだ声が聞こえてきた。
「私の夢をのぞくなと言ったはずだ」
「いえ、倉田さん、この間説明したように……」
「あなた達は自分の頭の中をのぞかれて平気なのか!」
「いえ、あの、その」
 言葉がしどろもどろになる。いったい何と言い訳したらいいのだろう。
「倉田さん、これをやめたらあなたとの連絡方法がなくなってしまうん
ですよ」
「結構だ。早く私を病院に戻すべきだ」
 そんなことまで知っていたのか。
「とんでもありません。病院で治せなかったからこそ、ここに来てもら
ったんじゃないですか」
「へえ、そうかい」
 薄笑いが、ぞっとするような冷たい笑みに変わった。
「あなた達は馬鹿者だ」いつの間に持ったのか、握りしめたとんかちを
滝田に突き出した。「大馬鹿者だ」
 金槌を振り上げた。次の瞬間、目の前が真っ白になった。耳をつんざ
く音が響いた。反射的に顔の前に持ってきた腕に、モニターの破片が襲
いかかってきた。
「先生、大変です。夢見装置が壊れました」
 美智子が金切り声で叫んだ。
 恐る恐る目を開けると、周りがやけに明るかった。なんだか様子が変
だ。
 滝田は呆然として辺りを眺め回した。砂の大地と真っ青な空が広がっ
ている。なんだ、ここは。一体どうしたというのだ。振り向いた滝田は
愕然とした。そこには巨大なピラミッドがそびえ立っていた。
 そんな馬鹿な。研究室はどこに消え失せたのだ。美智子は、青年はど
こに行ったのだ。
「まさか」滝田はつぶやく。「まさかそんなことが」
 ピラミッドに近づいていく。てっぺんの方がまだ完成していないそれ
は、明らかにヒッドフト王のピラミッドだった。
「あなたが声の主か」
 突然聞こえた声に驚いて振り返った。
「とうとうここまでたどり着いたか」
 そこに立っていたのは、褐色の肌に首飾りをつけ、腰布を巻いた男だ
った。
「そんな馬鹿な」
 顔に見覚えはないが、倉田氏の口から聞いたその野太い声から察する
に、謎の古代エジプト人だろう。
 画面に映る風景が割れて、粉々の断片となって飛び散った。そこに一
瞬だけ、真っ黒な空洞が口をあけ、そして真っ白になった。美智子が夢
見装置が壊れたと叫んだ。
 その時の衝撃で滝田が夢の中に引きずり込まれたとでもいうのか。ま
さか。馬鹿げている。
「どうした。顔が真っ青だぞ」
 だが他に考えようがなかった。それ以外にこの状況を説明する方法が
みつからない。絶望が頭の中に広がっていくのを感じた。
 ああ、なんということだ。倉田氏の眠りを観察し続けた結果が、これ
だというのか。この世界に出口はないのか。永遠に囚われ人となってし
まうのか。
 気がつくと、ひざまづき、砂をつかんでいた。
「悲しむことはない。さあ、立ちなさい」
 エジプト人に促されて、ふらふらと立ち上がった。
「こちらへ」
 そう言うと、彼は先に立って歩き始めた。ピラミッドに沿って歩いて
いく。
「どこに行くんですか」
「あなたが本当に見たかったものを見せてあげよう」
 いったい何の事だ? エジプト人は角を曲がった。滝田もついていく。
 地下への入り口にたどり着いた。
「この下だ」
 狭い階段を降りていく。滝田はなんだかひどく、嫌な予感がした。滝
田が本当に見たかったもの? その逆で、滝田が見たくなかったもので
はないか? そんな気がしてきた。
 ついに玄室へとたどりついた。燭台がうっすらと照らすそこは、いか
にも殺風景な場所だった。華やかな壁画や、副葬品といったものがある
わけでもなく、まるで地下牢のようだった。
「あれだ」
 部屋の中央に石棺がある。エジプト人は足早に歩み寄り、いかにも重
そうな石の蓋を、いとも簡単に横にずらした。重い音をたてて、蓋が地
面に落ちた。
「さあ、見なさい」
 のどが鳴った。恐る恐る近寄っていく。
「さあ」
 恐々とのぞきこむ。
 そこには男が横たわっていた。腰布だけを身につけたその人物の肌は
褐色ではなく、青白かった。彼の顔を見た瞬間血の気がひいた。
 それは、滝田の父親だった。父が、そこに納められていたのだ。眠っ
ているのか、死んでいるのか分からない。
「あなたはこれを見たかったのだろう? あなたはこれを、知りたかっ
たのだろう?」
 エジプト人の声が部屋に反響する。
「嫌だ。嫌だ! 私はこんなものを見たくない」
「見るがいい」
 横たわった父の目が、いきなり開いた。
「健三……宿題を……」父の口が震える。「高梨医師に……報告を……」

「嫌だ!」
 滝田はふとんをはねのけた。慌ててあたりを見まわす。外の街灯の明
かりが、カーテンを通してうっすらと差し込んでくる。自分の寝室だ。
胸に手を当てると早鐘をうっていた。
 また悪夢を見てしまった。




#548/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:10  (240)
眠れ、そして夢見よ 6−2   時 貴斗
★内容
   四

 これは私の仮説にすぎませんが、倉田氏はある宗教団体による退行催
眠がきっかけとなって前世の記憶が呼び覚まされ、先祖返りを始め、御
見氏からインド人へ、そしてエジプト人へと変化していったのだと思わ
れます。しかし、古代エジプトともなると記憶があいまいなため不完全
です。そのせいで時々倉田氏自身に戻ってしまうのだと推測されます。

 パソコンの画面をにらみつけながら、滝田は考え込んでいた。ウィン
ドウには電子メールの文章が並んでいる。内容はこの間打ったのとだい
たい同じようなものだ。その後起こったことと、自分の仮説を簡潔に書
き足してある。
「送信」と書かれたボタンに矢印を合わせている。マウスをクリックす
れば、この報告が高梨医師に送付される。
 まったく変な夢だった。確かに、今の滝田にとって高梨への報告が宿
題だとも言える。
 本当にいいのだろうか。分からない。送信ボタンにカーソルを合わせ
たまま、もうかれこれ二十分がたつ。
 何かパソコンと真剣勝負でもするかのごとく、身動きさえせずにらみ
合っている。触れると破けそうなほどの静けさが所長室を満たしている。
吸われないまま灰皿のへりに置かれっぱなしになっている煙草から、線
香のような煙が立ち昇っている。
 突然大きな音をたててドアが開かれた。
「先生、大変です」
「あっ」
 驚いた拍子に指が勝手にクリックしてしまった。ああ、なんというこ
とだろう。本当にこれで良かったのか。
 眉をひそめて青年を見る。
「どうした」
「倉田さんが大変なんです」
 滝田は窓を見た。春の日差しが暖かく室内を照らしている。
「昼間に見る夢か。といっても倉田氏には昼も夜も関係ないが」
「そうじゃないんです。とにかく来て下さい」
 滝田が立ち上がるのも待たずに青年は走り出した。滝田も慌ててつい
ていく。
 青年は研究室の方には行かず、階段を駆け下りた。どうしたのだろう。
倉田氏の夢ではなく、倉田氏本人に何かあったのか?
 青年は分厚い扉を開け中に入っていく。青年に続いて入り、倉田氏を
見た滝田は口を丸く開いた。
 様子がおかしい。呼吸が荒くなっている。元々悪い顔色がいっそう土
気色になり、改めて見ると、来た当時より痩せ細って、骨と皮だけにな
ってしまった。
「病院に連絡した方がいいでしょうか」
「そうしてくれ」
 青年が出て行くと、滝田はベッドの横の椅子に倒れるように座りこん
だ。
「倉田さん、もう結構長いつき合いですね」
 彼がここへ来てから三週間になる。滝田にはかなり時間が経ったよう
に思える。病気の原因はもちろんのこと、彼の夢が何なのかも、結局分
かっていなかった。電話で話もした。レム睡眠行動障害時には、直接話
すことができた。にもかかわらず、分かったのは彼が不可思議な状態に
なっているというだけのことではあるまいか。何かが分かったようでい
て、結局何も分かっていないのだ。
 青年が戻ってきた。
「一時間ほどで来るそうです」
 青年と並んで座って、まるで重病の末期患者を看取るように倉田氏を
見ていた。いや、実際重病人なのかもしれない。きっとあの夢を見る際
に莫大なエネルギーを消費するために、栄養をいくら補給しても足らな
いのだ。いやいや、そんなことではあるまい。倉田氏には彼自身と古代
エジプト人の分の滋養が必要なのだ。しかもここへきて、エジプト人の
方は重労働にたずさわるようになった。余計に栄養分が不足しているの
ではないだろうか。
 一時間半もたって、ようやく若い医師が一人でやってきた。
「失礼します」
 滝田達の間に割って入って、倉田氏のパジャマのボタンをはずして聴
診器をあてた。
 滝田達は医師が診察するのをなすすべもなく見つめた。
「心臓がだいぶ弱っているようです」
 医師はつぶやいた。
「あの、倉田さんは大丈夫なんでしょうか」
 滝田はかぼそく言った。
「なんとも言えません」
「病院に戻さなくていいんですか」
「患者の夢については、何か分かりましたか?」
 医師は落ち着き払った声で言った。
「なんですって?」
「私達は睡眠異常の解明のためにクランケをお預けしているわけですか
ら」
「今分かっている分についてはついさっきメールで高梨先生に報告しま
した。そんなことより、病院でケアした方がいいんじゃないですか」
 怒気を含んだ声で聞く。
「そうですか」医師は道具を鞄にしまい始めた。「それでは、高梨に報告
して検討します」


   五

 ひどいと思った。夢の謎が分かるまで、病院に戻さないつもりなのだ
ろうか。滝田は一日中憤りがおさまらなかった。
 その夜、倉田氏がまた夢を見た。
 砂嵐が消えると、またあのピラミッドが映った。太陽が地平線の近く
にある。すると夕方だろうか。その日の作業は終わったのか、人っ子一
人いない。
「先生、レム睡眠行動障害です」
 青年が叫んだ。
「えっ」
 滝田よりも一足早く、美智子が窓辺へ駆け寄った。三人並んで下を見
る。倉田氏が立ち上がっていた。
「僕行ってきます」青年がドアへと走る。「点滴を抜かないと」
「私も行くわ」
 駆け出そうとする美智子の腕を滝田はつかんだ。
「残っててくれ。残って、僕に知恵を貸してくれ」
 滝田はマイクを握り締め、スイッチを入れた。
「倉田さん、聞こえますか。倉田さん」
 振り向いてモニターを見ると、雲が右に行ったり左に行ったりしてい
る。倉田氏が真上を向いて滝田を探しているのだろう。スピーカーが部
屋の上部にあるので、音声が頭上から出ていることは分かったようだ。
「またあなたか。声だけ聞こえて姿は見えない。いったい何者なんだね」
「私は研究者です。信じられないかもしれませんが」滝田は舌で上くち
びるを湿した。「あなたは今私の研究所にいます。あなたは倉田さんとい
う患者の夢の中にいて、今私は倉田さんに向かって話しかけています」
「先生、もっと筋道立てて話さないと分かりませんよ」
 美智子がささやいた。
「何をわけのわからないことを。私はここにこうしている。あなたの言
い方を聞いていると、私がそのクラタという人物の夢の中にいて、実在
している者ではないかのようだ」
「いや、あなたは存在しているのです。今あなたがしゃべっているのと
同じことを、倉田さんもしゃべっているんです。今あなたがしているの
と同じ動作を、倉田さんもしているんです。倉田さんの耳に聞こえてい
ることを、あなたも聞いているんです」
「つまり、そのクラタという人物を介して、あなたは私と話し合ってい
ると、そう言いたいわけだな?」
「そうです。良かった。あなたは頭がいい方のようだ」
「ほめられてもあまりうれしくないぞ。私に何の用だ」
「倉田さん、でいいのかな」
 スピーカーから青年の言葉が伝わってきた。
「またすぐそばから声が聞こえたぞ」
「その男も私の仲間です」
 マイクを握る手に力が入る。
「お前も研究者か」
「え? ええ。よく分かりましたね」
「何の用だ」
「点滴を抜きにきました」
「テンテキ? それは何だ」
「それは、つまり、今あなたが腕からぶら下げている……」
「何もぶら下げていないではないか」
「藤崎君、いいから抜きなさい」と滝田は命令した。
「これが刺さったまま歩き回ると危ないんです。つまり、その、ごめん
なさい!」
 倉田氏の口から「痛いっ」という声が漏れる。
「なにをするのだ。何の魔法をかけたのだ」
「あなたの腕に見えない蛇がかみついていたのです。彼はそれを取り去
ったのです」と滝田は言った。
 美智子が顔をしかめて首をふる。
「テンテキだの蛇だの、何を言っているのだ。言っておくが私は夢の中
にいるということを信じたわけではないぞ」
「いや、夢の中にはいないのです。あなたはそこに実在するのです。つ
まり、何と言ったらいいのかな」
 滝田は困った。本当に何と言っていいのか分からなかった。
「私達は冥府の国、アアルにいるんです」
 美智子が口をはさんだ。
 おいおい、そんなことを言っていいのかと、滝田は思う。蛇がどうし
たなどと言わなければよかった。
「おや、この間の女性だな? するとあなた達はオシリスの使いだとで
も言うのかな?」
「そうじゃないですけど、似たようなものだわ。倉田さんという、夢を
使って遠く離れた場所の人と交信する能力を持った魔法使いを通して、
あなたと話しているのよ」
「研究所というのも、アアルにあるのかな? 何の研究をしているのだ」
 彼は頭がいい。とてもごまかしきれないぞと、滝田は思う。しかし全
てを正直に説明するには、時間がなさすぎる。こうしている間にも夢が
終わってしまうかもしれないのだ。
「まあいい。あなた達が何者であるにしろ、私と話をしたいのだったら、
つき合ってやろう」
 よかった。滝田はほっとした。


   六

「あなたはなぜペルエムウス造りに協力しているんですか」
 滝田はマイクに向かって言った。
「私は自分の名前も知らない。自分が何者かも分からない。どうやらこ
れは治りそうもない。だからせめて、私がここに存在したという痕跡を
残したいのだ」
 みぞおちに冷たいものが流れた。
「いいものを見せてやろう」
 ピラミッドに沿って歩いていく。さっきまで遠くから眺めていたのに、
また瞬間移動したのだろうか。
「おや、こんな所に見えない障壁がある」
「部屋の壁につきあたりました」
 スピーカーから青年の緊張した声が聞こえる。
 しばらく止まっていたが、なぜか景色が再び動き出した。
「倉田さんが足踏みを始めました」
 なるほど。倉田氏は狭い室内で広大な大地を歩く方法を学んだようだ。
 名無しのエジプト人は角を曲がった。そしてまた積まれた石に沿って
歩いていく。
 風景が上を向いた。少し上がったところに、小さな入り口が開いてい
る。彼は自分の身長の半分程もある石をよじのぼっていく。
「この下に玄室がある。案内しよう」
 地下への階段を降りていく。だんだん日の光が差し込まなくなってい
く。
「暗くてよく見えないな」
 彼の腕が前方に伸びた。次の瞬間、その手にはたいまつが握られてい
た。まるで手品のように。
「これでスパナの謎も解明されたな」
 滝田はあごをなでた。
「モニターを壊した時のことですか?」と美智子が問う。
「そうだ。この部屋にスパナなんかない」
 階段を降りきると、平らな通路になっていた。しばらく行くと広めの
部屋に出た。壁に据え付けられた数本のたいまつに火を移していく。
 画面が一瞬暗くなった。いけない。夢が終わる。
「見たまえ、これを」
 石で囲まれた部屋には、王の前で書記が何か記録をとっているといっ
たような、簡単な壁画が描かれている。床には数体の人形のような像が
無造作にころがっている。
「これが王の墓か? なんというみすぼらしさだ。私はここにささやか
な彩りを加えたいのだ」
「どうするつもりです?」
「あなた達がスフィンクスと呼んでいるもの、あれは大変見事だな」
 嫌な予感がする。
「私はあの像から一部を取り、この玄室に添えたいのだ」
「やめて下さい。そんなこと」
 滝田は悲鳴をあげるように言った。
「なぜだ。素晴らしい考えだと思わないかね。あの偉大な巨像の威光を
借り、この粗末な玄室を輝かせるのだ」
「そんなことをして何になるんです。何が輝くんです」
「スフィンクスの頭部の奥、中心部から石の一片をとり、この壁のどこ
かに埋め込むのだ。私にできることといったらその程度のことだ」
「どうやって取り出すんです。スフィンクスの頭を壊すんですか。あな
た一人で」
「石切り場から切り出すのと同じ要領でやればよい。表面に溝をほり、
くさびを何本も打ち込むのだ。できないことはなかろう。労働者仲間に
話したら、賛同してくれる者が五人もいた」
「やめてください。歴史が変わってしまう」
 血の気が引いた。
「なんのことだ。私には分からないが」
 いっそ「私達は未来人です」と言おうかと考えたが、思いとどまった。
「先生、たぶん大丈夫です」美智子がささやく。「あんな大きな頭部の中
心まで掘り進むなんて、できっこありません。せいぜい頭頂部を壊すの
が関の山でしょう。その時点で彼は捕まります。それに、スフィンクス
は何度も修復作業が行われています」
「そのせいで何人もの人間が処刑されてもいいのか」
 画面が二度瞬いた。
「私は自分がどこの誰かも分からない。私は確かにこの世界に存在した
という証しがほしいのだ。私の決心は……変わら……ない……」
 スピーカーから重い音がするのと、画面が消えるのとが、ほぼ同時だ
った。窓に駆け寄り下を見ると、前にレム睡眠行動障害になった時と同
様、倉田氏は倒れていた。
「もしも彼が死んだら」滝田は独り言のようにつぶやいた。「エジプト人
も消えてなくなるかもしれない」




#549/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:16  (237)
眠れ、そして夢見よ 7−1   時 貴斗
★内容
   スフィンクスの頭


   一

 滝田は立ったまま、長い呼吸を繰り返す倉田氏の顔を見つめていた。
どうしていいか迷うばかりで、何もできない自分がはがゆかった。名無
しのエジプト人が歴史を変えようとしていることも、倉田氏の病状が悪
化していくことも、自分にはどうしようもない。
「先生、来て下さい」
 スピーカーユニットから青年の声が伝わってくる。
「どうした」
「倉田さんが夢の中に現れました。先生を呼んでいます」
 倉田氏の顔を見る。心なしか笑みを浮かべているように見えた。
 階段を駆け上がりながら妙なことに気がついた。「先生を呼んでいます」
だって? 自分のほほをつねってみる。痛みは感じるようだ。また夢だ
ったらたまらない。
「僕を呼んだって? どうやって」
 ドアを開けるなりかみつくように言った。
「電話で話してるんですよ」
 滝田は受話器を握っている青年に足早に歩み寄っていった。振り向い
てモニターを見ると、どこだか分からないが、夕暮れ時の屋外が映って
いた。すべり台がある。すると公園だ。正面にはうさぎの頭の形をした
石像と、ライオンの頭の形をした石像が並んでいる。人が座れそうなく
らいの大きさだ。
 腕時計を見る。五時十七分。するとおそらく過去でも未来でもなく現
在だ。
 映像は下を向いて、パジャマ姿の胸から下を映した。ベンチにこしか
けている。ひざの上の四角く平べったい電話機から、螺旋状のコードが
のび、画面の左端で消えている。
 そうか。あれでこの研究室に電話をかけたのか。
 滝田はおかしな点に気づいた。普通は本体からモジュラーケーブルが
出ているはずだが、それがどこにも見当たらない。
「常盤君は?」
「仮眠室で寝ています。何でも昨日一睡もできなかったんだとか」
 まったく。何をやってるんだ、こんな時に。青年から受話器をひった
くる。
「今晩は、滝田さん」
 やや低い倉田氏の声は、それでも、この間聞いたのと比べていくぶん
穏やかな感じがした。
「倉田さん、どうしたんですか。この間の様子からすると、もうお話し
できないのかと思いましたよ」
「私は、自分の意思で好きなように夢を見られるわけではありません。
今日はたまたま私自身として現れることができただけですよ」
「それでも私はうれしい。倉田さんの方から私に連絡をとってくれるな
んて」
「たぶん、お別れを言いたかったんだと思います」
 倉田氏は意外なことを言った。
「私は、最近は目覚める回数が少なくなっているように感じます。たぶ
んそれ以外の時間は、古代エジプト人になっているんだと思います」
「倉田さんは、自分がエジプト人になっていることを感じるんですか」
 少しの間、沈黙があった。
「いいえ。いや、はいかな。時々ピラミッドの姿が見えることがありま
す」
 実に驚くべき告白だった。倉田氏であるのに古代エジプト人としての
風景が見えるのだろうか。
「どんなふうに見えますか。そのピラミッドは、てっぺんの方が欠けて
いませんか」
「ピラミッドとは何だ」
 急に声質が変わった。滝田は目を、飛び出さんばかりにひんむいた。
 すべり台と動物の頭の像が半透明になって、それと重なって青空とピ
ラミッドが映っていた。
 どういうことだ。倉田氏の意識と古代エジプト人の意識が入り混じっ
ているのか?
「ペルエムウスのことです。というより、あなたは誰です」
「何度も言うようだが私は自分が誰なのかを知らない。あなた達が私を
クラタと呼びたいのならそう呼べばいいだろう」
 頭が混乱する。しかし、いいチャンスだ。この間言いそびれたことを
言うのだ。
「スフィンクスの頭を壊すなんて、そんなことはやめて下さい。あなた
は世界的な遺産を破壊しようとしているんですよ。それであなたは平気
なんですか」
「なるほど、彼はスフィンクスの頭を破壊しようとしているんですね」
 声が元に戻った。画面も公園の風景に戻っていた。
「私はたぶん、どんどん古代エジプト人になっていくんだと思います」
 画面が点滅した。
「もう倉田恭介になることもないでしょう」
 画面がフェード・アウトしていった。最後に小さく、「さようなら」と
言ったように聞こえた。
 滝田は放心していた。青年も、滝田も、何も言わなかった。しばらく
して滝田は口を開く。
「どこだろうね、今の場所」
「さあ、どこかの公園みたいでしたが」
 青年の目と口が、急に丸くなった。
「あ、この場所、僕知ってます」
 青年が駆け出したので、滝田も走った。階段を駆け下りていく。玄関
から飛び出した。太陽は沈みかけ、夜が訪れようとしていた。
「おい、どこに行くんだ」
「こっちです」
 通りをしばらく走った。右に折れて、細い道に入ると、両側に植込み
が並んでいた。少し行くと、植込みが切れて小さな公園があった。
「この間、常盤さんとここに来て話したんです」
「え? 君達そんな関係だったの?」
「違いますよ」
 青年が歩いていく先にベンチがあった。滝田が長椅子の上に手をおく
と、今まで誰かが座っていたかのような温もりがあった。


   二

 倉田氏の病状はかなり悪化しているように見えた。その日も三度、医
師と看護師がやってきて簡単な診察をし、点滴をとりかえていった。
「どうなんです。だいぶ悪いんじゃないですか」
 滝田が何度聞いても返事は同じだった。
「大丈夫ですよ。心配いりません」
 医師達は滝田と話すのが嫌なようだった。決して顔を見ようとしない。
 彼らはまるで治療する気もないかのように帰っていった。
 倉田氏の呼吸はさらに荒く、顔中に汗がにじんでいた。滝田はそばに
座ってふきとっていた。
 かわいそうに。実の妻に看病してもらうこともできない。妻が聞いた
ら卒倒するだろう。命より夢の分析を優先するとは。滝田は自分が犯罪
に加担しているような気がしていた。
 脳の研究から睡眠の調査へと移っていった当時は、意欲あふれる純粋
な科学者だったはずだ。それが悪事を働くようになるなど、どうして予
想できただろう。
 いや、それどころでは済まない。歴史が変わろうとしているのだ。滝
田の頭に悪い考えが浮かぶ。もしも倉田氏が死んでくれたら、あの古代
エジプト人も消えるに違いない。そうしたら過去が変わらなくて済む。
もし亡くならずに、エジプト人がスフィンクスを壊そうとしたら、その
時には高梨に頼んで安楽死の注射を……。いや、だめだ。そんなことは
絶対にできない。
 もしも頭部が欠けたら、どういうふうになる可能性があるだろうか。
きっと元々スフィンクスには頭頂部がなかったのだということになるだ
ろう。あるいは戦乱か何かで失われたという解釈になるかもしれない。
影響があるのは考古学ぐらいではないだろうか。それともこれは大変だ
と思った古代エジプト人達が、すぐに修復してくれるかもしれない。
 その程度で済めばいいが。
 しかし、名無しのエジプト人が河でおぼれている子供を助けた時、そ
のせいで第二次世界大戦が起こった確率はゼロではないと考えたのは滝
田ではなかったか。
 怒ったファラオは、無関係の人々を処刑してしまうかもしれない。あ
るいは何かの祟りだと勘違いして、多くの人間を生贄にするかもしれな
い。もしそうなったら、その人達の子孫は生まれてこないのだ。後に誕
生するはずだった英雄や、政治家が歴史上から抹殺されるかもしれない。
そうした人がいなかったために、ヒトラーのような独裁者が支配する世
の中になる可能性だってあるのだ。
 名無しのエジプト人に説得を試みてはどうか。なんとかしてやめさせ
るのだ。しかし、古代エジプトには電話もない。倉田氏がレム睡眠行動
障害にならずに、夢の中でエジプト人が歴史を変えようとしたら、それ
をただ指をくわえて見ているだけなのだ。
 どうにかしてヒッドフト王のピラミッドがあった場所を探し出して、
そこに手紙を置いてきたらどうだろうか。研究室の電話に張り紙をした
のと同じで、夢の中で彼がそれを読んでくれるかもしれない。自分のや
ろうとしていることがいかに馬鹿なことかを、綿々と書きつづるのだ。
もっとも、彼が日本語を読めなかったら、ヒエログリフで書く必要があ
るだろうが。
 いや、この案はだめだ。手間がかかりすぎるということ以前に、時間
的に隔たってしまっている。
 倉田氏が笛のような音をたてて息を吸いこんだので、滝田の思考はと
ぎれた。
 アイマスクを取ってみると、目の周りはどす黒い紫色に変わっていた。
苦しそうに首を右に、左にねじる。
「倉田さん、倉田さん。大丈夫ですか」
 肩をゆすっても、目も覚まさないし反応もしない。
「大変だ。医者達を呼び戻さないと」


   三

 遅い。何をしているのだ。病院に連絡して、もう二時間も経っている。
今度は高梨も来ると言っていた。滝田のメールを読んだからだろうか。
それとも、この間の若い医師が何か言ったのか。
 ベッドルームの分厚い扉がゆっくりと開いた。
「先生、来て下さい」
 現れたのは青年だ。
「どうした、まさか」
「倉田さんが夢を見ています」
 ああ、なんということだ。よりによってこんな時に。滝田は眉間に縦
皺を寄せて荒い呼吸をしている倉田氏の顔をみつめた。
「先生、早く」
 青年に急き立てられて、腰を上げる。駆け去っていく青年を追いかけ
る。だが、なんだか疲れた。急がなければならないのに。くそっ。
 ようやく研究室にたどり着いた時、滝田は息切れしていた。
「どっちだ」
「エジプト人の方です」
 モニターの前の美智子が返事をした。
 滝田が画面の正面に立つと、そこには夕陽をバックにスフィンクスが
そびえていた。思わず窓に駆け寄り、倉田氏を見下ろす。しかしさっき
まで見ていた通り、彼は苦しげな眠りを続けている。レム睡眠行動障害
の状態にはなっていない。
「だめだ。歴史が変わるぞ」
 ディスプレイの前に戻る。胴の下に小さく数人の人間が見える。また
瞬間移動して彼らのそばに来た。そこにはこの間見たちぢれた髪の、口
ひげをはやした、若いのか年取っているのかよく分からない男と、太っ
た男と、他に三人の男が立っていた。彼らが驚かないところを見ると、
テレポーテーションしたわけではなく、歩いて行くシーンがカットされ
ただけらしい。ちぢれ髪の男が何か言うと、画面はうなずいて上下にゆ
れた。太った男が背中にかついでいた布袋をこちらに突き出した。袋の
口から棒のようなものが何本か顔を出している。画面は再び縦に往復し
た。
 背後でドアが開く音がして、「今晩は」という声が聞こえた。振り向く
と高梨が立っていた。
「いや、お久しぶりです」
 状況が良く分かっていないのか、快活な笑みを浮かべて言った。
「挨拶は後だ。早く倉田さんを診てあげて下さい」
 怒りをおさえて言う。
「大丈夫です。もうやってます」
 窓のそばに行った藤崎青年が報告する。
「医者と看護師が来ています」
「今、夢を見ているところですか」
 高梨は言って、滝田のそばに寄って来た。
「あ、今晩は」と美智子と青年にも挨拶した。
「どんな状況ですか」
 いたって明るい調子で聞く。
「私のメールを読んでくれましたか」
 滝田はモニターを見つめたまま言った。
「ええ、もちろん。あれが全部本当だったら素晴らしい」
 素晴らしいだって? 素晴らしいことなんかあるもんか。
「だったら話が早い。今ちょうどね、倉田さんが歴史を変えるところで
すよ」
 滝田は怒鳴った。
 高梨は呆気にとられた顔をした。
「あの、このヘルメット、取っちゃだめなんですか」
 スピーカーから下の医師の声が聞こえた。
「あ、それ取っちゃだめです。取らないで下さい」と美智子が答えた。
「倉田さんはね、というよりも古代エジプト人はね、これからスフィン
クスの頭を壊して、その石をピラミッドに供えるんだそうですよ」滝田
は高梨をにらんだ。「まったく、馬鹿げたことです」
 高梨は少し動揺したようだ。
「なんとか、やめさせることはできないんですか」
「何もできませんね。私達はただぼーっと見ているだけなんですよ」
 ちぢれ髪の男が前へ進み出て、胴体をよじのぼり始めた。ロッククラ
イミングだ。続いて風景が前へと動いて、岩の表面を画面いっぱいに映
した。壁面が下がっていく。
 頼む。やめてくれ。
「あんな大きな像を登れるのか?」
「スフィンクスの高さは二十メートルです」と美智子が得意の記憶力を
披露する。
 戻ってきて一緒に見ていた藤崎青年が付け足す。
「ボルダリングジムの壁の高さは四メートル程です。素人では一発でク
リアするのは難しいです。これを登ろうというのですから彼は僕達が思
っている以上に身体能力が高いのかもしれません」
 滝田は振り向いてマイクをつかんだ。
「倉田さんの状態はどうですか」
「だいぶ弱っています。脈拍が遅くなっています」と医師が答える。
「藤崎君」
「行ってきます」




#550/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:20  (250)
眠れ、そして夢見よ 7−2   時 貴斗
★内容
   四

 だいぶ時間が経っていた。今までの中で一番長い夢なのではないだろ
うか。とうとうエジプト人達はスフィンクスの背の上にやってきた。首
の後ろに歩いていく。
 続いて、風景はそのまま前進し、さらに後頭部を登っていく。そして
ついに頭頂部にたどり着いた。
 もうだめだ。滝田は拳を握りしめた。
 画面の右端から刃物が現れた。のみだ。やめてくれ。お願いだ。
「大変です。心臓が止まりそうです」
 スピーカーから叫ぶような医師の声が聞こえた。高梨がマイクに口を
近づける。
「強心剤を打ってくれ」
「打っちゃだめだ」
 滝田は周りの人間がびっくりするほどの大声をあげた。
「何を言ってるんですか、先生。倉田さんが死んでしまいますよ」
 美智子は声を荒げた。
「歴史が変わってもいいのか!」
 美智子の顔が歪むのが、視界のすみに映った。滝田は、自分のほほに
涙がつたうのを感じた。
 高梨が下の医師に指示する。
「待ってくれ。打たないでくれ」
「そんな。手遅れになってしまいますよ」
 下の医者が困惑した声を出した。
「とにかく、そのまま待機だ。私がいいと言うまで打つな」
 画面の中に、今度は石のハンマーが映った。のみが岩の表面に押し当
てられる。
「先生、お願いです。倉田さんを助けて下さい。スフィンクスの頭が傷
ついたくらい、どうだっていうんですか」
 美智子が哀願した。
「その事で何人もの関係ない人々が処罰されてもいいのか!」
 賭けだった。ひょっとすると名無しのエジプト人が思いとどまってく
れるかもしれない。それと倉田氏の心臓が止まるのと、どっちが早いか。
しかしエジプト人が考えを変える可能性は、ほとんどなさそうだった。
 その場にいる全員が沈黙していた。まるで息さえ止めているかのよう
に、静かだった。
 突然、スピーカーから看護師の黄色い悲鳴が響いた。
「どうした」
「倉田さんが起きだして、ベッドの上で四つん這いになっています」と
藤崎青年が答えた。
 レム睡眠行動障害だ。説得するなら今がチャンスだ。
「あなた、そんなことをしてばれたら死刑ですよ」
 滝田はモニターの方を向いたまま話しかけた。
 画面に空が映る。
「ばれないようにやる。もし死罪となっても、覚悟の上だ」
「あなたのせいで何の関係もない人達が処刑されてもいいんですか」
「何かを成し遂げるのにある程度の犠牲はつきものだ」
 くそっ。だめか。
「倉田さんが死にそうなんです」
 とにかく思いついたことを言った。
「それが私と何の関係があるのだ」
「あなたは倉田さんの夢が作り出した存在なのです」
「またその話か。私は信じていないと言ったはずだ」
「ではあなたには今までの記憶がありますか?」
「何度も言うようだが私は自分が何者なのかも分からない」
「それが何よりの証拠です」
 エジプト人は黙ったまま返事をしない。
 滝田が話している内容はすべて仮説だが、なにしろ彼に聞こえている
のは天の声だ。うまくすれば信じ込ませることができるかもしれない。
「ではこう言い換えましょう。あなたは倉田さんの分身なのです」
「私にはどうでもいい」
「倉田さんが亡くなれば、あなたの生命の灯も消えてしまうんですよ」
「ならばなおさらだ。そうなる前に私はこれを成し遂げる」
 だめか。何かやめさせる方法はないのか。
「あっ、左腕を振り上げました」と青年が言った。
「その腕を捕まえろ」
 一、二秒の沈黙がひどく長く感じられた。
「捕まえました」
 だが倉田氏の行動を制御しても、エジプト人には関係なかったようだ。
ついに、のみに石のハンマーが打ちつけられた。
「ああ!」
 今ならまだ間に合う。エジプト人を説き伏せるのだ。しかしどうやっ
て。
「あなたは大罪を犯しました。あなたの心臓は天秤にかけられました。
残念ながら真実の羽根より重いです」妙な事を言い出したのは意外にも
美智子だった。「アメミットが、倉田さんが死ぬ瞬間を待ち構えています。
彼が絶命すればあなたも世を去ることを知っているのです。あなたの心
の臓は怪物に食われるでしょう」
「私にどうしろと言うのだ」
 画面に映る風景は、周辺から闇が包み込むように黒くなってきた。も
う時間がない。だが美智子は先を続けるのを躊躇しているようだ。彼女
の意図を悟った滝田が代わって話す。
「自分でけりをつけて下さい。アメミットに気付かれる前に」残酷だが
仕方がない。「アアルで会いましょう」
 エジプト人は迷っているようだった。モニターの像が丸くなってきた。
 滝田はこれ以上何も言えなかった。彼を急かすようなことも。ただ成
り行きに任せるしかなかった。
 滝田の靴のつま先が床を叩き始める。
 袋からナイフが取り出された。胸に先端が押し当てられる。
「うう!」
 深々と突き刺さるのを見て、滝田は強く唇を噛んだ。
 画像の直径が徐々に短くなっていく。その円の中に、腰を抜かしてい
る仲間の姿が映っている。
「お前達ももうやめろ。アメミットに……食われるぞ……」
「倉田さんが倒れました」
 青年の悲鳴に似た声が聞こえた。
「強心剤を打て」
 高梨医師が怒鳴った。


   五

 滝田は倉田氏の病室に入っていった。前に会った倉田恭介の妻、倉田
芳子とその二人の息子がいた。といっても兄の方は夢の中で見ただけだ
が。
「まあまあ先生、御無沙汰しております」
「どうも、今日は」
「主人の診察ですか?」
「いえ、その後どうしているかと思いまして、ご様子を拝見させていた
だくために来ました」
「お父さん、こちら滝田、ええとなんとか病院の」
「滝田国際睡眠障害専門病院の滝田です」
 滝田は倉田氏を見て驚いた。この中肉中背のおっさんが、あのミイラ
のような倉田氏と同一人物とは思えない。
「倉田さん、今日は」
「ああ、今日は」
 ぼんやりしたやや低い声が発せられる。
「私が誰だか分かりますか?」
「いいえ。でも、滝田先生ですよね」
 その目はまるで滝田の後ろにある何かを見つめているようだった。
「では、私の声を覚えていますか?」
「いいえ」
「私は倉田さんの睡眠障害について検査をしていました。その時に見た
夢は覚えていますか?」
「いいえ」
 だとすると聞くことは何もない。滝田は安心した。
「お父さん、先生のおかげで目が覚めたのよ。体が治ったのよ」
「いえ、治療をしたのはこちらの病院ですから」
 そうだ。滝田は結局何もしていない。
「先生、それでね、主人の会社、なんとか持ち直しそうなんですよ。こ
れでミケにもご飯を食べさせられます。あ、ミケというのは野良猫でし
てね。いやあ医療保険に入っていて良かったですよ。入院とかいろいろ
かかりますでしょ」
 滝田はなんとなく、一刻も早くここを立ち去りたくなった。倉田氏が
恐ろしい事を言い出しそうな不安にかられた。このおばちゃんもやかま
しいし。
「あ、私は高梨先生に呼ばれて来たものですから。ちょっとお顔を拝見
させていただきたくて立ち寄らせてもらいました。今日はこの辺で失礼
します。いやあ、健康そうでなによりです」
 足早に病室を立ち去る。
 高梨医師からの報告では、あの後倉田氏は小暮総合病院で目覚めたと
いう。最初は二十時間程寝ていたが、一回の睡眠時間も徐々に短くなっ
て、消灯、起床時間に合わせて眠れるようになった。起きた直後どんな
夢を見ていたかの聞き取りは欠かさなかった。高校時代の同級生に会っ
ていた、空を飛んでいた、熊に追いかけられていた、等ありふれた内容
だ。
 滝田はエレベーターに乗り、受付で聞いた通り副院長室がある五階の
ボタンを押した。
 古代エジプト人になったり、滝田睡眠研究所に現れたり、小暮総合病
院の中を歩き回ったりといったことはなかったそうだ。
 廊下に出て高梨医師の部屋に向かう。
 その後レム睡眠行動障害も起っていないという。
「副院長室」と書かれたプレートがあるドアをノックする。
「どうぞ」という声が聞こえたので「失礼します」と言いながら入って
いく。
「お待ちしていました。滝田先生」
 高梨医師は快活な笑みを浮かべ、デスクの椅子から立ち上がった。
 彼には今もいい印象を持っていない。
 手で指し示されたソファに座ると、テーブルを挟んだ向かい側に高梨
も腰かけた。
「これから、どうなさるのですか」と滝田は聞いた。
「どうもしやしません。治ったら退院させて、おしまいです」
 この男は何の責任も感じていないのだろうか。滝田は腹がたってきた。
「学会で発表しますか? 研究の成果はお渡ししますか?」
 鞄の中にある三テラバイトのUSBメモリには、倉田氏の夢から抜粋
した映像と、その分析と考察が入っている。倉田氏に関する資料のうち
のかなり重要な部分だ。倉田氏の顔はモザイク処理し、文書にはK氏と
書いてある。音声のうち「倉田」の部分は「ピー」という自主規制音に
変えてある。高梨に預けるかどうかは今日の話し合いで決めるつもりだ
った。
「今日ご足労願ったのは他でありません。その件ですが、私どもの方で
慎重に検討を重ねた結果、公表はしないと結論付けました」
「ほう、そりゃまたどうしてですか?」
「古代エジプト人になってスフィンクスの頭を壊そうとしたなんて、そ
んなのはただの夢かもしれませんよ。実在したという根拠がありません」
「しかし、倉田さん自身として我々の研究室に現れたのはどう説明しま
す? 彼はあの部屋を見たことがないんです。証拠の映像も残っている
んですよ?」
「起こったのはすべてオカルト現象でしょう。合理的に解釈することな
んて所詮無理なんです。しかし、寄付金は約束通り提供させていただき
ますよ」
 最初に訪ねてきた時と、言っていることが違っていた。医学や科学の
世界に一石を投じるかもしれない。そう話していたのではなかったか。
「それは結構です。結局私達は何の役にも立っていませんから」
「とんでもない。先生方が睡眠障害の元凶である古代エジプト人を殺し
てくれたから、倉田は治ったんじゃないですか」
 頭に血が上った。
「いりませんよ、そんなの」滝田は自分の口調がきつくなるのを感じた。
「あなたは倉田さんが重態なのに夢の解明を優先させた。自分が名声を
得たいがために。責任を感じないんですか」
 高梨は急に能面のような顔になった。
「私達はわらにもすがる気持ちだったんです。倉田の夢に、病気の本当
の原因が隠されているかもしれないと考えたんです」
「私は後悔しているんです。倉田さんをまるで、実験動物みたいにして」
「先生に罪はありません。先生は昏睡状態の患者と夢見装置を通してコ
ミュニケーションを取ろうとしたんです。クランケとの会話は重要です。
先生は決して、倉田を実験台にしたのではありません」
 そんな大それたことではない。滝田にしたって、最初は興味本位では
なかったか。
 滝田は踏ん切りをつけられずにいた迷いに対して決断した。
「倉田さんの資料はすべて破棄します」
「そんな、もったいない」
「こんなものが公になったら、倉田さんはどんな目にあうか分かったも
んじゃありません」
 モザイクをかけたところでやっぱり安心はできない。
「先生、余計なお世話かもしれませんが、くれぐれもこの件は口外なさ
らないようお願いします」
 高梨との取引のことだろう。
 高梨は胸元に手を突っ込み、分厚い茶封筒を取り出した。それをうや
うやしく滝田に差し出す。
「では謝礼だけでも」
「いらないと言ってるでしょうが!」
 手を振って払い落とす。高梨は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。
 滝田は憤って立ち上がった。
「先生、夢と睡眠障害の関係について調査をされているのでしたよね。
その研究は、深めて下さい。睡眠異常に悩む人が減ることを祈っていま
す」
 滝田は返事もせず、副院長室を飛び出した。
 足が勝手に倉田氏の部屋に向かう。何かをしなければいけないような
気がした。全部彼にぶちまけてやろうか。
 すべては終わった。これからは普通の生活に戻るのだ。かわいそうな
犬や猫の頭に針を刺し、モニターの波形に一喜一憂し、美智子とくだら
ないことで口論するのだ。そうだ。それがいい。
 倉田氏の病室の前に戻ると子供が廊下の窓から外をながめていた。弟
の方だ。少年は滝田を見ると不安そうな顔をした。
 滝田はしゃがんで少年に微笑みかけた。
「退屈かい?」
「うん、つまんない」
 滝田は迷った。手に持った黒い鞄を見つめる。資料を取っておくべき
か捨てるべきかについてはずいぶん悩んだ。そして破棄すると決断した。
だが本当にそれでいいのだろうか。バッグを開き、USBメモリを取り出
した。
「これを」言葉がつまる。こんなことをして大丈夫なのだろうか。「これ
を、君にあげよう」
「なあに?」
「これはね、お父さんの病気について記録したものなんだ」
「僕にくれるの?」
「でもね、他の人に言っちゃだめだ。お母さんにも言っちゃだめだ。そ
れくらい重要なものなんだ。約束できるなら、君にあげる」
 少年はほほに人差し指をくっつけて首をかしげた。
「おじさんは、これを君に託したいんだ。託すって、分かるかい? 大
事なものを人に預けることだ」
 そうだ。この少年なら適任のような気がする。彼がこの内容を理解で
きるほどに成長した時、父親に起こった事実を知るだろう。後は、どう
するかは彼次第だ。少年はなおも考え込んでいた。
「うん、いいよ。僕が預かってあげる」
「そうか。誰にも内緒だよ。君とおじさんだけの秘密だよ」
「男の約束だね」
「そうだ。そうだよ。君は良い子だな」
 少年がUSBメモリを受け取るのを、複雑な思いで見ていた。




#551/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:25  (378)
眠れ、そして夢見よ 8−1   時 貴斗
★内容                                         19/04/15 23:37 修正 第2版
   新たな夢


   一

 太陽の光がカーテンの隙間から漏れている。滝田はゆっくりとまぶた
を開く。何万光年も宇宙を旅してようやく目指す恒星にたどりついた宇
宙船の乗組員が、冷凍睡眠からたった今覚めたかのように。ゆっくりと
体を起こし、ベッドサイドテーブルの上にある目覚まし時計をつかむ。
まだ五時だ。セットしている時間は六時だが、最近ではこの時計が鳴る
のを聞いたことがない。
 歳とともに目覚める時間が早くなっていくのを感じる。大きくあくび
をし、頭をかく。元は真紅に近い色だったのが、すっかり薄桃色に変わ
ってしまったじゅうたんの上に足をおろす。
 カーテンを開くと薄い青色を帯びたような街が、もうすぐ起き出しそ
うな気配を見せていた。
 一段踏むたびに軋んで音を立てる階段を下りていく。だいぶ老朽化し
てきたな、と滝田は思う。滝田が老けていく早さに合わせて、この家も
また老いていく。売ってマンションでも買おうかと考えていた時期もあ
ったが、何を今更と思う。
 台所に立ち、水が入れっぱなしになっているやかんがのったクッキン
グヒーターのスイッチを押す。冷蔵庫を開け、きゅうりの漬物と卵を一
個取り出す。テーブルに置いてお新香のラップをはがすと、途中でちぎ
れて少しだけガラスの器の端に残った。それをはがして、大きい方と小
さい方を合わせて丸めてごみ箱に放った。急須をたぐり寄せ、ふたを開
けて中をのぞくと、湿ったお茶の葉が茶こし網にこびりついている。か
えようか、とも思ったが、昨日一度しか使っていないことを思いだし、
そのままにした。食器棚から小皿と湯のみと茶碗を取り出す。炊飯器を
開け、昨日の残りをよそう。椅子に座り、卵を割り小皿に落とし、醤油
の小瓶を握り、しずくをたらす。二滴、三滴。箸で混ぜると、黄味と白
味と醤油とがだんだんとその境界をなくし、それぞれの意味を失ってい
く。ご飯の真中に穴をあけ、流し込む。
 そうこうしているうちにやかんから湯気が吹き出してきた。滝田は笛
を開けたまま湯を沸かす。あの小うるさい音が嫌なのだ。
 座り込んでしまうともう一度立つのは面倒くさいと感じる。勢いを増
す蒸気に急き立てられて仕方なく立ち上がる。
 熱湯を急須にそそぎ、ケトルをクッキングヒーターの上に戻し、ほっ
として椅子に座る。しばらく待って湯のみにつぐと、ようやく朝飯の準
備が終わる。ご飯と卵をよく混ぜてほおばる。きゅうりをかじり、お茶
をすする。
 二年前までは、炊飯器など使わずコンビニで買ってきたレンジで温め
るだけの米を食べていた。五年前はトーストと目玉焼きだった。
 この国の人間は歳をとるほど日本人に帰るのかもしれない、と滝田は
感じる。どうして欧米化がいくら進んでも白米はなくならないのか。な
ぜレトルトご飯は味気ないと感じるのか。かまどで炊いていた頃の記憶
は、しっかりと遺伝子の中に残っていて、歳をとるに従ってよみがえっ
てくるのかもしれない。蒸らしたお米こそ、日本人の原風景なのかもし
れない。
 今では洋食、和食、中華、様々な料理が、安いものから豪華なものま
で、レンジで温めたりお湯を注いだりするだけでできる。二十一世紀に
入って猛烈に科学技術は発展し、それはこの国の食生活も変化させたよ
うだ。科学が進歩するほど、日本人は原風景から離れていくような気が
する。
 だがその繁栄も、最近になってようやく落ちついてきたようだ。新し
い世紀に入って続いた勢いも、さすがに終わりに近づくと萎えてくるの
かもしれない。
 しかし一旦沈静してしまうと今度は停滞期に入る。睡眠研究の分野に
おいても目新しい話題は出てこず、今までの大発見、大発明をつついた
り、いじくり回したりするばかりだ。
 滝田は自分の身の周りがどんどん老いていくのを感じる。つまらない
事を考えているうちにだんだんとまずくなっていく食事をやっと終え、
顔を洗いに行く。
 洗面台に立ち、鏡に映る髪が真っ白になってしまった自分の顔を、滝
田はぼんやりとながめた。


   二

「おはようございます」
 滝田が研究室に顔を出すと、宮田洋次が元気良く挨拶した。この真面
目だけが取り柄の小男は、夢見装置のプロジェクトに加わってから五年
目になる。天才型ではないが、何事もこつこつと忍耐強く続けるこの男
の最大の成果は、夢見装置で視覚情報だけでなく、聴覚の情報まで受信
できるようにしたことだろう。おかげで夢の映像だけでなく、音声まで
観測できるようになった。もっとも、音を得ることに先に成功したのは
アメリカだったが、こっちの方が、性能がいい。より明瞭に聞こえるの
だ。美智子のようなとげとげしさがなく、いい奴なのだが、なんとなく
物足りない。
 美智子か。
 あれから十年! 時間の矢は恐ろしいスピードで飛び去っていく。こ
の十年間にいろいろなことがあった。滝田には孫が生まれ、滝田研究室
のメンバーは入れ替わった。美智子はアメリカに、藤崎青年はイギリス
に移っていった。いずれも夢見装置を持つ研究所だ。新たにこの宮田と
いう男と、藤崎青年と同じくらいの歳なのだが、学生気分が抜けきれな
いまま大人になったような井上という青年がプロジェクトに加わった。
変わらないのは滝田だけだ。
「クラタさんという方から電話があって、先生にお会いしたいと言って
いました」
 滝田ははっとして宮田を見つめた。
「クラタ? 下の名前は?」
「いえ、苗字しか聞いていません」
 倉田恭介や倉田芳子とは別人だろう。彼らは滝田がこの研究所の所長
だということを知らないはずだ。だが、何かの機会に知った可能性はあ
る。
「年齢は? おじさん? おばさん?」
「若い男の方のようでした」
 滝田は目を伏せた。
「あ、そう」
「先生は九時半頃に出勤すると言いましたら、ではそのくらいに伺うと
いうことでした。お断りしますか?」
「いや、一応会うよ」
 廊下に出てゆっくりと歩く。
 何を期待したのだろう。倉田氏の件はもうずっと昔の話なのだ。今に
なって彼らが滝田に何の用があるというのか。
 所長室に入り、エアコンのスイッチを入れる。涼しくなるまでにはし
ばらくかかる。もうそろそろフィルターの掃除をしなければな、などと
思う。このクーラーももうだいぶ古くなってしまった。コーヒーメーカ
ーから一杯注ぎ、いつものように論文や学術誌の山とパソコンがのった
机の前に座る。ポケットから煙草とライターをもたつきながら引っ張り
だし、眉を八の字にして火をつける。顔を仰向けて空中に紫煙の矢をふ
く。
 出勤してしばらくの間は何もやる気がしない。もう頭脳労働をするの
は限界なのかもしれない。頭が働き出すまでに二時間や三時間は平気で
かかる。午前中はまるで仕事にならない。パソコンの電源を入れ、煙草
を持った腕をだらりとたらして起動画面を見つめる。起動するまでの間
は休憩時間だ。もっとも、立ち上がったからといってしばらくはぼんや
りしているのだが。
 煙草をたっぷり根元まで吸い終わると、それをくすんだ銀色の灰皿に
すりつけ、今度はゆっくりとコーヒーを飲む。初夏の日差しは研究所に
着くまでの間に体を幾分汗ばませていたが、滝田はホットコーヒーを飲
む。煙草の後のアイスコーヒーは腹の調子が悪くなる。
 パスワードを入力したがメールをチェックする気にもなれず、たいし
て読む気もない論文の字面をおっているうちに一時間ほどたっただろう
か。いきなりノックもなく部屋のドアが開いた。そんなことをする人間
は一人しかいない。思った通り、井上が顔を出した。
「先生、お客さんっすよ」
「あ、そう」
 長く伸ばした髪を茶色に染めているのはとても研究者には見えない。
頭もたいして切れないのだが、性格がのんきなのだけが救いだ。
「応接室に待たせてますんで」
「うん。すぐ行く」
 井上が扉を開け放したまま行ってしまうのを見て、滝田は苦々しく顔
をしかめた。
 近頃の若いもんは、などと考え始めている自分に気づいた。


   三

 応接室に入っていくと、水色と白のチェック柄のTシャツにジーパン
というラフな格好の若者がソファから立ち上がって会釈をした。
「こんにちは」ととりあえず挨拶する。
 若者は滝田の顔を見ると満面の笑顔になった。
「あ、こんにちは」
「あの、面会の場合はアポを取ってくれないと困るんですけど」
「先生、僕のこと覚えていませんか」
 奇妙なことを言う青年に滝田は不信感を抱いた。見覚えのない顔だ。
「僕、倉田志郎といいます。倉田恭介の息子です」
 あっ、と驚いた。そうだ。倉田という名で若い男といえば、倉田の息
子がいたではないか。突然の再会にびっくりすると同時にうれしくなっ
た。
「弟さん? それともお兄さん?」
「弟の方です」
 すると、USBメモリを渡した子だ。
「いやあ、大きくなったなあ。まあまあ、とにかく座って」
 青年が座るのに続けて滝田も腰掛けた。
「久しぶりだなあ。今、何やってるの?」
「大学生です。先生はお元気ですか」
「ああ、元気でやってるよ。今日は何の用?」
「まずはお礼を言いたくて。先生から頂いたUSB、もらった当時は何な
のかさえ分かりませんでした。高校生になった時に父がパソコンを買っ
て、中身を見て、難しい用語は分からなかったのですが、父がどういう
状態だったのかなんとなく知ることができました。有難うございます」
「だったら、今はもっとよく分かるだろう?」
「はい、検索して調べましたから」
 記録に余計なことを書かなかっただろうか、と滝田は心配になった。
大丈夫だ。夢の観察はあくまで病気の原因を探るためということになっ
ていたはずだ。
「どうしてここが分かったの?」
「滝田国際睡眠障害専門病院は見つかりませんでした。滝田研究所のホ
ームページを見て来ました」
 サイトには滝田の名前も顔写真も載せているから、渡した名刺がまだ
あれば分かるだろう。
「お父さんは今どうしてる?」
「父は二年前にクモ膜下出血で亡くなりました」
「そうか。お気の毒に……」
「僕は秘密を守りました。だから父は何も知らずに死にました。その方
が幸せだったと思います」
「そうだね。お父さんは自分に起こった事を覚えていないようだったか
らね」
 滝田は倉田氏を見殺しにするつもりだった。だが美智子の機転によっ
て助かった。しかし結局は死去してしまった。まああの悪夢のような状
態で亡くなるよりはマシだろう。
「先生の考えはおもしろいですね。前世の記憶をたどって過去にさかの
ぼったなんて。僕、すごく興味を持ちました」
「ああ、あくまで推測だけどね。しかしあの睡眠障害はなんだったのか、
前世に戻るとしても、どうしてそんなことができたのか、全く分からな
いままなんだ」
「僕も結論を出すまでに時間がかかりました。僕達の症状はいったい何
なのか。最近になってようやく僕なりの考えがまとまってきたんです」
 僕達? 滝田は聞きとがめた。この青年は何を言っているのだ?
「実は僕、毎日の睡眠時間が二時間くらいなんですよ。中学の時からず
っとです」
 あまりにもさらっと言ったものだから、滝田は目をむいた。青年は笑
顔のままだ。日に焼けたその快活な表情は、とても病気には見えない。
「君は、不眠症なのか」
「そうなんです。でも、先生。僕は大丈夫なんです。昼間居眠りをする
わけでもないし、どこか体が悪いわけでもないんです。それでも母は心
配して、あっちこっちの病院に連れていきました。でも、どこでも同じ
です。薬をもらって、それでおしまいです。生活にも支障はありません。
結局母はあきらめました」
 久しぶりの再会の喜びが、早くも不吉な疑念へと変わり始めた。父親
の睡眠障害は複雑怪奇なものだったが、息子の症状も変わっている。睡
眠時間が二時間だって? それでどこにも異常がないって? 中学から、
大学まで。
 もっとも、八時間は寝るべきなどというのは、人が勝手に決めこんだ
ことであって、短い時間の眠りでも平気な人間は存在する。ナポレオン
が毎日三時間しか寝なかったのは有名だし、エジソンも短眠者だった。
もっとも、ナポレオンは居眠りの天才であったとも言われているが。
「記録を読むまで、僕は自分の不思議な病気がなんなのか分からなかっ
たんですよ。この症状が始まってから時々見るようになった夢のことも」
 どうやら不吉な予感が当たりそうだ。この青年も、父親のような夢を
見るというのか。
 彼は少しも不安な様子を見せず、いきいきとした調子で続ける。
「僕は、父とは反対に未来が見えるんです。少し先のことから、遠い将
来のことまで。中学の頃は本当に時々でしたが、今は確実に見ることが
できます。見る、というより、行くといった方がいいかもしれません」
「つまり君は、予知夢を見るというんだね。君はそれが本物だって証明
できるかい?」
「証明、というとちょっと難しいんですけど、よく当たるんですよ。遠
い未来は実証できませんけど、近い将来ならまず当たります。先生は明
日危ない目に会いますよ。先生がびっくりした顔をして急ブレーキを踏
むのを、昨日夢で見ちゃったんですよ。僕は横にいました。もう少しで
大事故ですよ」
 まさか、と滝田は思う。父親が特殊な能力を持っていたからといって
その息子にもそんな力があるなんて。作り話ではないのか?
「で、君の考えはどうなの? お父さんや君の能力は、何だと思うんだ
い?」
「タイムトラベルの一種です」
「超能力っていうこと?」
「そうです。僕は父とは違って、睡眠時間は短いものの普通に生活する
ことができます。僕らの力は夢が大きな役割を果たします。だから、発
現できるようになる時に、代償として眠りに異常が起こるんだと思いま
す」
 それは滝田もこの十年間考えていたことだった。滝田は青年の意見を
もっと聞きたいと思った。
「お父さんの睡眠異常は何だったんだろう?」
「父は無意識に試行錯誤したんだと思います。自分の望む最適な状態は
何なのかを。そしてクライン・レビン症候群にたどりつきました。いつ
でも好きな時に夢の中で出現できますからね」
「じゃあ、レム睡眠行動障害は?」
「眠りっぱなしだと、外界との意思疎通が遮断されてしまいます。夢の
中に閉じ込められてしまうんです。そこでコミュニケーションの手段と
してレム睡眠行動障害という形を取ったんです」
「それはお父さんが意識して望んだものではなく、あくまでも潜在意識
下での願望なんだね?」
「そうです」
 滝田も同じように考えていた。ただし、滝田の見解が仮説であるのに
対し、青年の言い方は確信に満ちている点が違うが。
「じゃあ君の不眠症は?」
「僕は、何をするにも集中力を維持するのが、二時間が限界なんです。
予知夢を見るのも同じです。人は眠ってから一番深いノンレム睡眠に達
して、その後眠りの浅いレム睡眠になるんですよね。かかる時間は九十
分。でも個人差がありますよね。僕の場合は二時間なんです。普通なら
この周期を繰り返すんでしょうけど、僕はそれ以上注力することができ
ませんから、目が覚めてしまうんです」
「夢を見るのに集中力が必要なのか。それは興味深い話だね。しかしそ
んな能力のために君やお父さんが睡眠障害を抱えなければならないなん
て、なんだかかわいそうだなあ」
「とんでもない。これは素晴らしいことなんですよ」
 素晴らしいだと? 歴史を変えてしまうような恐ろしい力が輝かしい
ものであるはずがない。
「私はね、エジプト人はお父さんの夢が作り出した架空の存在であるか
のように思っていた。だがあのエジプト人は実在した本物だったのかも
しれない。だとしたら私は人殺しをしてしまったことになる。それでこ
の十年悩み続けてきたんだよ」
「本人ではないと思いますよ。だって高貴な人物なんでしょう? そん
な人が記憶喪失になったからといって砂漠をさまよっているでしょうか。
僕には不自然に思えます」
 滝田にはなぐさめのようにしか聞こえない。
「じゃあ君は何だと思うんだい?」
「アバターのようなものだと思います。ほら、オンラインゲームで髪型
や顔や服装を自分好みにカスタマイズした分身を作るでしょう? 同じ
ように夢の世界の中で自由に動けるアバターが必要なんです。父はその
分身にまず御見葉蔵の記憶を植え付け、インド人の記憶を植え付け、エ
ジプト人の記憶を植え付けていったんです」
「どうしてそんなに確信を持って言えるんだい?」
「僕がそう感じるからです。夢の中で行動する人物は僕自身だという気
がしません。あくまでも複製なんです」
「本物とは別に偽者がいたっていうこと?」
「そうです。おそらくエジプト人だけでなく、御見葉蔵も、父自身も」
「でもエジプト人もインド人も君のお父さんとは別人だろう?」
「御見葉蔵は前世の自分、インド人も前世の自分、エジプト人も前世の
自分、全部自分であることに変わりはないでしょう?」
 なんだかうまく言いくるめられた気分だ。察しはついたが、一応聞い
てみる。
「なるほど。君の意見は分かった。で、もう一度聞くが、今日は何の用
だい?」
「先生にお願いがあるんです。夢見装置で僕の夢を観察してほしいんで
す」
 冗談じゃない。倉田氏でもうこりごりだ。その息子をまた興味本位に
実験台にするなんて。
「それは困るよ。夢見装置は君の助けにはならないと思うんだ」
「いえ、助けるとか、そういうことではありません。僕は、最近はかな
り先の未来の夢ばかり見ます。それは、人類が月に進出した時代なんで
す。僕はある人物の名前を耳にしました」
 青年の瞳が滝田を直視する。
「本当のことを言うと、僕は先生に会いに来るつもりはなかったんです。
今頃になって来たのは、先生ならその人が誰なのか分かるかもしれない
と思ったからなんです」
「もったいぶらずに言ってくれないか。それはどんな人物なんだい?
私に関係あるのか」
「タキタという人なんです」
 なんだと?
「下の名前は?」
「分かりません。月面の日本人基地で、会話の中にその名が出てきただ
けなんです。詳しいことは分からないんです」
「しかし、タキタという姓は別に珍しくもないだろう」
「そうです。ですからここに来るべきかどうか迷いました。だから、ぜ
ひ先生自身に確かめてほしいんです。そのためには僕を夢見装置につな
ぐしかありません」
 滝田は苦笑した。
「その人物を見られたとしても、未来の話なんだろう? 私の家族か親
戚だとしても、判別できるかどうか……」
「分からないかもしれません。しかし分かるかもしれません。僕は先生
に関係あるという気がしてならないんです。これはもう僕の第六感を信
じてもらうしかありません」
「それも超能力なのかい?」
「いえ、そういうわけではありませんが」
 青年の話を信じるべきかどうか。いずれにせよ装置を使わなければ確
かめられない。
「そうかい。それじゃあとにかく、明日また来てくれ。一度だけなら夢
見装置につないであげてもいい。あれはおもちゃじゃないんだ」


   四

 論文の字面を漫然と追う目を、滝田は壁の時計に向けた。夜の九時を
十分ほど回ったところだ。
 遅い。何をやっている。
 再び視線を紙に戻す。読んでなんかいない。ただながめているだけだ。
滝田は一日中落ち着かなかった。今朝起こった事件のためだ。まさかと
思ったが、倉田志郎の予告が的中したのだ。いきなり横から飛び出して
きた車に、もう少しで衝突するところだった。
 青年と約束していた時間は九時だ。だがまだ来ない。
 ドアをノックする音にはっとして顔を上げた。
「どうぞ」
 しかし現れたのは井上だった。がっくりと肩をおとす。
「先生、昨日の人が来てますよ」
 再び息をのんで身を乗り出す。
「入ってもらって」
 立ち去ろうとする井上に声をかける。
「宮田君は? もう帰ったの?」
「ええ。僕も帰ります。んじゃお先に」
 ひどい音をたててドアを閉めた。
 滝田は胸の前で両手の指を組み合わせる。井上は最初から当てにして
いなかったが、宮田も帰ったとなると他の研究室から応援を呼ぶか、滝
田一人でやるか、どっちかだ。
 再びノックの音がして、穴があくほどドアを見つめた。
「どうぞ」
 倉田志郎がにこやかな表情で現れた。
「こんばんは」
「ああ、こんばんは」
 慌てて職業的な笑顔を作る。
「どうでした? 僕の予知夢は当たりましたか」
「ん? ああ、驚いたよ。まさか本当に起こるとは思っていなかったか
ら」
「そうですか。良かった。少しは信じてくれる気になりましたよね」
 青年はかぶっていた帽子をとった。滝田が指示した通り、丸坊主にな
っていた。
「それじゃあ、行こうか」
 青年の脇をすりぬける時、かすかにいい匂いがした。近頃の若者は男
でも香水をつけるのか。あらためて自分が年寄りになってしまったこと
を感じる。
 滝田が先に立って階段を降りていく。歩きながら考える。自分は単な
る興味から倉田志郎の夢を見ようとしているのだろうか。青年がタキタ
という人物に何かしようとしたら、そのアバターを殺したいのではない
か。
 そんなことを考えているうちに、被験者を寝せるベッドルームに着い
た。分厚い扉を開け、先に入れと手で示す。青年は臆することなく堂々
と入っていった。
「へえ。ここで父の夢を観察したんですか」
 滝田は答えずベッドの脇に立った。
「仰向けになって。服はそのままでいい」
 滝田は言われた通り横になった青年にヘルメットをかぶせた。
「すぐに眠れそうかい?」
「いえ、いつも眠くなるのが三時くらいなんですよ」
 錠剤が入ったシートの銀紙を破る。ポットから水をコップに注ぐ。
「睡眠導入剤だ。飲んで」




#552/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:27  (293)
眠れ、そして夢見よ 8−2   時 貴斗
★内容
   五

 午後十時過ぎ、脳波にシータ波が現れ始めた。青年はようやく眠りに
入ったようだ。彼の言う通りだとすると二時間後には夢が見られるだろ
う。
 隣の部屋は青年が寝やすいように、観察できる最低限の明るさにして
ある。
 滝田はまだ何も映さないモニターをじっと見つめ、息をひそめて彼の
眠りが深まるのを待った。
 十一時を少し過ぎた。立ち上がり、脳波計を見る。デルタ波の状態へ
と移行しつつあった。深い睡眠状態だ。
 滝田まで眠くなってきた。首を激しくふり、両手で頬をたたく。
 何かを待ちつづけるというのは、根気のいる作業だ。やたらと腕時計
をのぞきこむ。九十分をすぎたが、何も起こらない。
 十二時二十分、今日はもう無理か、と思い始めたその時、大型モニタ
ーの画面がゆっくりと明るくなっていった。砂嵐のような画面が現れ、
何かの像をむすび始めた。
 上半分が黒、下半分が灰色に分かれ、徐々にどこかの風景であること
が分かってくる。それは、夜の砂漠のようだった。だがそうではあるま
い。青年は、最近は月の夢ばかり見ると言っていた。これがそうなのだ
ろうか。
 青年の夢もまた、カメラで撮影する風景のようだった。視線は右の方
へと動いた。白い板が四本の脚に支えられている。クレーンがつり下げ
た銀色の巨大な筒をそのテーブルの上に降ろそうとしている。二人の人
間らしきものが運転席に向かって合図を送っている。大きな四角いバッ
グを背負い、ヘルメットをかぶった白っぽいそれは、一見ロボットのよ
うだがおそらく宇宙服を着た人物なのだろう。
 青年は傾斜の上の方にいて、彼らを見下ろす形になっている。
 風景がそちらの方に向かって移動し始めた。だんだんと二人に近づい
ていく。
「すべて順調だ」
 突然スピーカーから声が聞こえた。乾いた、電気的に変換されたよう
な声だった。倉田志郎が聞いている音声だ。
「着陸船は二時間後には出発できるだろう」と男は言った。「三時間後に
は輸送船とドッキングだ」
 たぶんもう一人の人物に話しかけているのだろう。男達は青年の方を
向かない。
 青年は、それが未来の風景だと言った。しかし滝田にはまるで映画か
ドラマの一シーンのようにしか感じられなかった。
「念のために第二タンクのチェックをもう一度やっておこう」と、もう
一人の男が言った。
 二人の会話は滝田にはチンプンカンプンだ。青年には理解できている
のだろうか。というより、今この二人を見ているのは青年自身なのだろ
うか。それともアバターなのだろうか。二人は彼に気付いていないよう
だ。
「もうそろそろ交換した方がいいかもしれないな」
 画面が二度瞬いた。
「誰に……だっけ?」
「ああ……言えば……」
 声がとぎれとぎれになってきた。画面がだんだん暗くなっていく。夢
の終わりだ。
「じゃ……任せた」
 風景が静かに消えていった。


   六

 滝田は自販機で缶コーヒーを買い、自分用に所長室でカップに注いで
ベッドルームに戻ってきた。
「どうでした? 撮れましたか」
 手帳にメモを取り終えた青年ははつらつとした顔で言った。夢は見た
直後でないと忘れてしまうから、習慣になっているという。
「ああ、ちゃんと録画してある。見るかい?」
 滝田はベッドに腰掛けた青年と向かい合って座った。滝田がアイスコ
ーヒーを渡すと青年はうまそうに飲んだ。滝田も一口すする。
「また今度にします。早く帰らないと母が心配するんで」
 いい子だな、と滝田は思う。
「私は君が寝ている間に見たけど、なんだかよく分からないな。ありゃ
いったいなんだい?」
「ああ、月の土を火星に持ってくんですよ。火星基地の建設計画がスタ
ートしてるんです」
 青年はこともなげに言った。
「いったいいつの話だい? 何世紀頃なんだろう」
「さあ、何年かはまだ聞いたことがありません。ただ、そんな遠くの未
来の話ではないと思いますよ。おそらく二十年後くらいだと思います。
たぶんそのタキタという人物は……」
「何だね?」
 思わず身を乗り出す。
「いや、やめときましょう。第六感ですから。それに、僕は先生自身の
目で確かめてほしいのです」
 なんて奴だ。もっと夢見装置につないでほしくてかけひきをしている
のだ。だが、滝田はそれ以上問い詰めるような真似はしなかった。
「僕は先生が心配しているようなことはしませんから、安心して下さい」
「私が心配してること? さあ、なんだっけ」
「僕が未来の歴史を変えてしまうことです」
 たしかに、過去を変えるのは重大だが、未来の歴史を変えるのも問題
だ。
「しようと思ってもできないんです。僕は、夢の中でしゃべれません。
ものにもさわれません。夢の中の人物は、僕を見ることができません。
魂みたいなもんですよ」
 未来を見る者。それは大変役に立つ。もしあの映像が本物であるのな
らば、将来の様子を現在の者達に伝える役目を果たす。だが、このビデ
オもまた闇に葬り去ることになるだろう。もし公にすれば、倉田志郎は
どんな目にあうか分からない。
「月に進出した人類だって言ってたね。ところが今度は火星に行くんだ
という。あと、二十年で。宇宙開発はもうそんなに進んでいるんだろう
かね。僕には信じられないけど」
 青年は握った缶コーヒーを見つめたまましばらく身動きしなかった。
「分かりません。ただ、あれは実際に見てきた風景ですから、将来ああ
なることは確実です。先生は予知夢だと言いましたけど、ちょっと違い
ます。僕は予知なんかしていません。つまり、どう言ったらいいのかな」
青年はりりしい眉を少しゆがめた。「あれは、行って観察してきた事実な
んです」
 二十年も先の話だが青年にとっては既製の事実なのだ。
 もちろん、それはまったくのでたらめなのかもしれない。ごくごく近
い将来については、確かに青年の言う通りになった。しかし遠い未来は、
青年が言ったように、証明することができない。
「夢で見るのはあのクレーンだけかい?」
「いえ、月にはもう立派な基地ができていて、着々と開拓の計画を進め
ています。僕も何度も出入りしています。僕は見たり、聞いたりできる
だけですけど。もうあと十年もすれば、一般の人も月に住めるようにな
るみたいですよ」
 やはり、青年にとっては既製の事実なのだ。彼の言う十年後は滝田に
とっては三十年後だ。
 こんなに科学の発展が停滞しているのに、たったそれだけの期間で地
球人が月面に移住するようになるのだろうか。滝田は、たまに帰ってく
ると自分が手をつけ始めた宇宙開発事業の自慢をする長男の言葉を思い
出した。
「これからは宇宙の時代だよ。狭い地球から飛び出そうっていう時にさ
あ、親父みたいに人が寝ているとこばっかり研究してちゃだめだよ」
 ニュースでは静止軌道上の人工衛星が過密状態になっていることが問
題になっていると報道されている。はるか上空で組み上げられた宇宙ス
テーションは十基もあり、それこそあと八年後には人が住めるようにな
るという。だから結構早いうちに、青年の夢の風景がその通りになるの
かもしれない。
 青年はもう缶コーヒーを飲み終わったらしく滝田のカップを見つめて
いる。
「今日は何で来たの?」
「電車です」
「終電には間に合いそうもないな。送っていこう」
「はい。お願いします」
 青年は立ち上がって頭を下げた。
「明日もまた来ていいですか」
「ああ、もちろん」
 滝田の方が頼みたいくらいだ。


   七

 翌日、今度は九時ちょうどに青年はやってきた。昨日の夢を青年に見
せてやると大いに感心した様子だった。滝田達はベッドルームに行った。
青年が眠りについて二時間、滝田は何か暇つぶしをするでもなく、真っ
黒な画面を見つめていた。するとモニターに夢が現れた。
 車のフロントガラスにたたきつける暴風雨のように踊り狂う光点達が
やっと静まると、対照的に凍ったような月面が映し出された。
 それは、まるで一枚の絵画を見ているかのようだった。漆黒の空に砂
糖を一つまみとってさらさらとまいたような星々が鮮やかだ。きっと地
球と違って大気がないから、そんなに鮮明に見えるのだろう。地平線の
上に、ここではお月様のかわりに青い地球が浮かんでいる。地上には灰
色のかまぼこのようなものが放射状にのびている物体がある。それぞれ
の先端に箱が付いている。あれがたぶん青年が言うところの基地なのだ
ろう。なにやら四角い板が斜めに傾いて縦横にきれいに並んでいるのは
太陽電池だろうか。
 未来に行った青年は、それを見晴らしのいい丘に立ってながめている。
それは、滝田も見ていることを意識してサービスしてくれているのかも
しれない。
 青年は下を向いた。一部緩やかな坂になっている。彼は動き始めた。
放射状のかまぼこがだんだんと大きくなってくる。そのうちの一本の端
が口を開けていて、中から光が漏れている。
 明かりに吸い寄せられる羽虫のようにその中に入っていく。
 オレンジ色のライトが照らすそこはまるで巨大なトンネルのようだっ
た。アニメに出てきそうな月面走行車が陣取っている。その横を抜けて
奥に少し進むとすぐに頑丈そうなドアに道をはばまれた。青年は躊躇す
ることなく進んでいく。扉が目の前に迫ってきた。
 ところがどうだろう。風景は一瞬にして切り替わり、今度は白い明か
りが照らす壁も床も真っ白な部屋に出た。青年はドアを開けることなく
すり抜けたのだ。
 その狭い空間はいったい何だろう。
 ああ、分かった。外は真空に近い空間だ。人間が出入りする際に、圧
力を調整するための場所が必要だ。そこはエアロックなのだ。
 青年は前方の扉もすり抜け、施設内に入りこんだ。外側から見ると半
円形の筒だったが、中は四角い通路だった。
 紺色のジャンパーを着て野球帽のような帽子をかぶった二人の男がい
て、一人はホースらしきものを片づけ、もう一人は壁のパネルを調べて
いるようだった。
「おい、Aチームの人間が一人まだ戻ってないらしいぞ」
 ホースの方がもう一人に向かって言うと、画面が揺れた。青年は男の
言葉に動揺したようだ。
「本当か。おいおいマジかよ。規則違反だぞ」
 パネルの方の男が答えると、青年は突然駆け出した。
 いったいどうしたのだろう。Aチームという言葉に反応したようだが。
 半球形のホールに出た。内壁がにぶく光るその場所はいかにも殺風景
だ。取り囲むように扉が並んでいる。どうやらそこから放射状に広がる
通路に通じているらしい。風景が左右に動いて、青年は正面から左に数
えて二つ目の入り口に走りこんだ。
 音は聞こえているはずだが、静かだ。青年の足音は聞こえない。人気
のない不気味な白い通路を走っていく。
 突然騒がしくなった。たくさんのテーブルが並んでいて、大勢の人間
がプラスチックのトレーにのったサンドイッチやロールパンを食ってい
る。紺や緑のジャンパーを羽織った男達が食べ物を持って歩き回ってい
る。女性の姿も見える。ここは食堂だ。
 外国人はいないようだ。なるほど。日本基地というわけか。
「地球ではもうすぐ人口爆発が……」
「メンデレーエフ・クレーターじゃ今……」
 様々な声が入り混じって聞こえる。その中から「Aチーム」という単
語が聞こえた。風景はその声が聞こえた方向に移動していく。
 頭のてっぺんがはげてその周りからちぢれた白髪をはやした爺さんが、
若い背が高い男に向かってしゃべっている。彼らは青年の方には見向き
もしない。
「一人まだ帰ってきてないそうだが。Aチームの連中は心配してるけど
大丈夫かね」
 若い男が答える。
「タキタさんですよね。何か事故にでもあったんでしょうか」
 これか! 滝田の知っている人物か、全然関係ない人間か分からない
が、何かトラブルに巻き込まれているらしい。
 画面が点滅し始めた。なんてことだ。
 爺さんがフランスパンをかじる。
「もう八時間も外に……」
 若い男が答える。
「タンクのエア……大丈夫でしょうか……」
 画面が暗くなって、消えた。
 滝田は、今日の夢はもうおしまいだと思った。だが考え込んでいるう
ちに、再び画面が明るくなるのに気づいた。砂嵐がおさまった後現れた
のは、雨が降り注ぐ滝田睡眠研究所だった。それは、ほんの二秒ほどで
消えた。


   八

 今日も夜の九時をすぎた。雨はまだ降り続いている。滝田は青年が来
るのが待ち遠しかった。
 ノックの音が聞こえた。「どうぞ」と声をかける。
「こんばんは」
 青年が顔を出した。
「昨日の最後のやつは、おまけかい?」
 滝田は吸っていた煙草を灰皿に押しつけた。
 昨晩は聞かなかった。的中するとは思わなかったのだ。
「ええ。見ようと思って見たわけじゃないんですけど」
 青年が予知夢を見ることは確定的になった。
「今日は昨日の続きが見られるのかい?」
「たぶん今日あたり、会えるような気がします」
「ふうん、そりゃ楽しみだ」滝田は立ち上がった。「それじゃあ、行こう
か」
 薄暗い廊下を歩き、階段を降りる。
 もう三日目か、と滝田は思う。こんなに遅くまで残っているのは、最
近ではないことだ。
 ベッドルームに入ると、青年はもう慣れて自分からベッドにのぼる。
 青年に眠剤を与えてから研究室に行く。そしてまたしてもモニターと
にらめっこを始める。待っている間論文なり学術誌なり、何か読んでい
ればいいのだろうがそんな気分にはなれない。
 一時間が経過する頃、画面に砂嵐が現れた。いつもより早い。白黒の
点の集合が像を結び始める。
「おーい、タキタ!」
 凍った砂漠のような大地を、何人もの人間達が歩いている。宇宙服に
身を包んだ彼らの様子を見ても、これが未来に必ず起こるのだという実
感がわかない。どこか映画のようで非現実的だ。それは月面という、滝
田の日常生活からかけ離れたものであるせいだろうか。
「おーい、タキタ! どこだあっ!」
 青年は彼らの無線通信を傍受できるのだろうか。真空に近い空間でそ
んな大声を出しても当然伝わらない。信号がタキタの耳に届いているこ
とを想定しての行為だろう。
 画面が動き始めた。だんだんとその人物達に近寄っていく。青年は彼
らの中に遠慮なく入っていった。
「だめだ。確かにこっちの方に行ったのか」
「ああ。間違いない」
 ヘルメット同士が顔を向き合わせる。
「もう酸素残量が少ない。二次酸素パックのエアと合わせても、もう切
れているかもしれない」
 なんてことだ。Aチームのタキタは、今日青年の夢の中で死んでしま
うのか。滝田は自分とは全く関係がない人物であることを祈った。
「峡谷の方に行ってみよう。そこに落ちたとしか考えられない」
 先頭の人物が進行方向をやや左の方へと変える。
「おおい、タキター!」
「タキター、いたら返事をしてくれ!」
 タキタを呼ぶ、複数人の声。ただひたすら歩き続ける。三分、六分…
…
 やけに時間がかかる。その峡谷というのは遠いのか。滝田の手の平に
汗が浮かぶ。早くしてくれないと青年の夢が終わってしまう。
 八分が経過。願いむなしく、画面が点滅を始めた。
「おーい……タ……」
 声が途切れる。画面が暗くなっていく。そして夢のストーリーは尻切
れとんぼのまま、消えた。
「ああっ」
 滝田は頭をかかえこんだ。今日もまたおあずけか。まるでいいところ
で終わってしまうドラマのようだ。誰か、滝田にとって大事な人かもし
れないのに。その人物が重大な危機に直面しているのに。
 青年はこれまで、一度の眠りで一回の夢しか見なかった。いや、雨の
夢を入れれば二回か。するとまだチャンスはある。
 いずれにせよ、青年が起きるまでは滝田も観察を続けるのだ。このま
ま待つことにしよう。
 立ち上がり、脳波を記録しているPCを見る。だんだんと深い眠りへ
と戻っていく。
 真っ暗な夢見用モニターをいらいらとながめ、箱から煙草を抜き出し
て火をつける。久しぶりに靴を踏み鳴らしていることに気づいた。
 一連の物語を形作る青年の夢。それはまさに連続もののドラマのよう
だ。「続く」という文字が出そうな雰囲気で消えていく。こんなことは普
通の人間ではあり得ない。青年は今後も月面を漂い続けるのだろうか。
 十分もたつと、緊張感を維持するのが難しくなってきた。うとうとし
てきた。頭をふり、立ち上がって脳波を見る。デルタ波が出ている。熟
睡状態だ。
 椅子に座り、背を丸め、両手で膝をしっかりとつかんでモニターをに
らむ。
 まぶたが自然と降りてきて、両腕の力がぬけてきた。




#553/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:31  (128)
眠れ、そして夢見よ 8−3   時 貴斗
★内容
   九

 スピーカーのノイズ音で目を覚ます。いかんいかん、いつの間にか眠
ってしまったようだ。画面には砂嵐が現れていた。二時間の間に二度夢
を見ることもあるわけだ。青年が覚えていないだけで。
 それは期待通り、さっきのシーンの続きだった。彼らの目の前には大
きな谷が広がっている。タキタはここに落ちたのだろうか。
 大変なことになった。こんな所に落ちて、助かるわけがない。
「おーい! タキタ!」
 宇宙服の人物達が、崖のふちに手をついて叫んでいる。
「いたぞ! あそこだ!」
 青年は近寄って下をのぞきこんだ。
 かなり深い峡谷だ。その途中の岩場に、骨組みと車輪だけのおもちゃ
のような月面車がひっくりかえっているのが見えた。そしてそこからさ
らに下に、小さく白い人物がうつぶせに倒れているのだった。
 危険だ。彼はかろうじて岩にひっかかっている。このままでは落ちて
しまうかもしれない。
「しっかりしろ! 今行くぞ!」
 ロープが放られ、宙を舞う。
「俺が行く」
 一人がそう言って、縄をつかんで下り始めた。
 ごつごつした岩肌に足をかけながら慎重に下っていく。ヘルメットの
丸にタンクの四角が、だんだんと小さくなっていく。
 月面車の横を通り過ぎた。
「あと少しだ!」
 誰かが叫んだ。
 頼む、生きていてくれ。それが誰であるにせよ。
「あっ」
 誰かが叫ぶのと、モニターの前の滝田が声を上げるのが同時だった。
男は足を岩にかけそこなったらしく、ロープをつかんだまま急速に降下
した。
 ひやりとしたものの、どうにかもち直したようだ。おかげでタキタに
一気に近づいた。
「大丈夫か、ヒラタ」
 ああ、あの男はヒラタというのか。ヒラタと呼ばれた男は、こちらに
向かって手をふってみせた。
 なんとか無事タキタが倒れている岩の上に下り立った。タキタの肩を
揺さぶるがぴくりともしない。もう死んでいるのか?
 ヒラタはタキタを抱え起こしてロープにつかまった。だがタキタを抱
えたままではとてもじゃないが上れない。上げてくれと手で合図した。
 風景が仲間達の方へと動く。彼らは綱引きのようにロープを引っ張り
始めた。ずいぶんと乱暴なことをする。綱がちぎれたらどうするのだ。
 ようやく、崖のふちにつかまる手が現れた。仲間達が手助けする。ヒ
ラタはタキタを地面に降ろした。
 ぐったりとしている。
「おい、大丈夫か」
 太いチューブを背中のタンクに差し込む。エアを送っているようだ。
 タキタの体が動いた。うめき、右手を宙に伸ばす。よかった。彼は助
かったのだ。
 その後に仲間の口から出た言葉は、滝田を愕然とさせた。
「大丈夫か、タツオ!」
 タキタ タツオ! それは他でもない。今年二歳になる、滝田の孫の
名前だった。
「大丈夫……だ……」タツオはかすれた声で言った。「ブレーキが……き
かなくて……」
「あんなポンコツに乗ってくからだ」
「どこが痛い?」と、もう一人が聞いた。
「どこも折れていないようだ……すまない」
 青年はタキタに近づいていく。ヘルメットの中をのぞきこむように顔
を近づける。滝田によく見てみろと言っているようだった。
 左目の下にほくろがある。孫とまったく位置が同じだった。


   十

「ひょっとしたらと思ったんですが、やはりそうでしたか」と、青年は
言った。
 滝田はベッドに腰掛けた青年と向かい合っていた。
「私の孫は将来宇宙飛行士になるのかい?」
「前にも言いましたが、僕のは行って見てきた事実です。今から何年後
かは分かりませんが、必ずそうなります」
「私の孫はまだ二歳だ」
 とは言ったものの、だからどうだというのだ。
 滝田は心配だった。達夫が危険の多い宇宙飛行士になるなんて。しか
も今の青年の夢ではあやうく死ぬところだった。この後もっと危ない目
にあうこともあるかもしれない。
「僕ら、もう会わないほうがいいと思いますよ」
 青年は物憂げに言った。
「え、どうして」
「僕は、おそらくこれからも月の夢を見るでしょう。もしも先生のお孫
さんがとんでもないことになったら、僕はそれを先生にお見せしたくあ
りません」
 青年はまるで滝田の心を見ぬいたかのようだった。
 滝田の心境は複雑だった。達夫の未来の姿をもっと見てみたいという
気持ちと、もしも不幸なことになるとしたら、それを先に知ってしまう
のが怖いという気持ちが混じりあっていた。
「しかし、あのままで終わったら、達夫が大怪我をおったのか、それと
も無事なのかも分からないじゃないか」
 骨は折れていないようだが、他のことは分からない。
 青年は目をふせた。
「先生、僕は間違っていたのかもしれません。僕は、彼らの会話にタキ
タという名前が出た時、ぜひ先生に報告すべきだと思ったんです。でも、
そうするべきではなかったのかもしれません。僕はこんな夢を見てしま
うことを、全く予想できなかったんです。彼が重傷なのかどうかも、も
う先生に知らせるべきではないのかもしれません」
 自分は軽率であったと言いたいらしい。
 過去を変えることには、誰もが危機感を持つ。それに比べて未来を変
えることにはそれほど批判的ではない。むしろ積極的に未来を変えよう
という言い方さえされる。滝田にしても、このまま青年に孫を見守って
もらい、危なくなったら助けてほしいとさえ思う。が、それはできない。
 時間移動をして未来に行く場合、歴史を変えてしまうことよりももっ
と大きな問題がある。それは、知りたくなかった事実を知ってしまうこ
とだ。だが、もしそれが先に分かったのならば、なんとかそうならない
ように回避しようとすることができる。例えば、達夫が宇宙飛行士にな
らないように説得できる。だがここで、「運命」という、やや宗教的な考
え方が出てくる。たとえ避けようと工作しても、結局は同じような将来
になってしまうのではないか。
 それでもやはり、達夫のその後が知りたいのだ。
「せめてもう二、三日、僕につきあってもらえないかい?」
「先生は最初、夢見装置には一度しかつなげてあげないと言っていませ
んでしたか?」
「それはそうだが、今は事情が違う」
「僕の目的は、先生に夢の中のタキタさんを確認してもらうことでした。
もう目的は達成できました。ですが、今では反省しています。僕らの能
力は、人に迷惑をかけすぎます。自分の夢のことは誰にもしゃべらず、
おとなしくしているのがいいんです」
 滝田は言葉につまった。それはないよ。君達の能力は科学の進歩に大
きく貢献するんだよ。君達が沈黙することで、そのチャンスを逃すんだ
よ。
 そんなことを言うつもりはない。科学の発展よりも一人の人間の方が
大事だ。第一、この夢は公表すべきではないと考えたのではなかったか?
 青年がそうしたいのならば、それを尊重する方がいいのだろう。
 二人ともしばらく黙っていたが、やがて滝田が口を開いた。
「さ、送っていこう」
「いいです。今日は僕、バイクで来ましたから」
 青年は立ち上がった。
「気が向いたら、また来ます」
 だが彼は二度と来ないだろうと、滝田には分かった。




#554/598 ●長編
★タイトル (tok     )  19/03/21  18:36  ( 85)
眠れ、そして夢見よ 9   時 貴斗
★内容
   帰省


 今日はうれしい日だ。滝田にとって、いいことがある。長男の浩一と
その妻が、お盆休みで帰ってくるのだ。
 玄関で呼び鈴が鳴っている。滝田は気もそぞろに立ち上がった。
 ドアを開けると、そこに息子と義娘が明るい笑みを浮かべて立ってい
た。その間から、今年七つになる孫がはずかしそうに顔をのぞかせてい
る。
「よっ、親父、元気か」
 浩一は紙袋を振り上げて威勢良く言った。たぶんおみやげの菓子だろ
う。
「こんにちは。お久しぶりです」義娘は頭を下げた。「ほら、たっちゃん、
おじいちゃんに挨拶は」
 孫は母親の後ろに隠れてしまった。
「いやあ、よく来たなあ。さあさあ、上がって。暑かっただろう」
 滝田は妻の仏壇がある和室に三人を案内した。テーブルの上には久し
ぶりに奮発して買った特上寿司が置いてある。
「今ビールを持ってくるからな。ほら、早く座って」
 息子に言ってから今度は孫に笑顔を向ける。
「たっちゃんはオレンジジュースでいいかい?」
 達夫は不安げな顔をしていたがやっとこくりとうなずいた。
 あれからもう五年にもなる。はっきりとは言えないが、年を経るごと
に達夫は倉田志郎の夢の中に現れた男に似てくるような気がする。倉田
青年からはその後一度だけ、一ヵ月くらい経ってから手紙が来た。あれ
から月の夢はあまり見なくなったが、達夫は元気でやっているという内
容だった。
 はずかしがりやで内気な達夫が、将来宇宙で活躍するような人間にな
るのだろうか。
 ビールにグラス、オレンジジュースについでに麦茶も盆にのせて和室
に戻ると、息子はのんきにテレビをつけて野球に見入っていた。
 義娘は滝田から盆を受け取ってかいがいしくコップに注ぎ始める。達
夫は野球に興味がないらしく所在なさげにテーブルを見つめている。
「どうだ、宇宙開発事業の方は」
 滝田は寿司の皿を覆うラップをはがしながら聞いた。
「ああ、ノズルの特許をとったよ」
 浩一は一口ビールを飲んだ。
「ノズルってなあに」
 達夫が初めて口を開いた。
「ああ、ロケットがね、ぶおーって火をふくとこだよ。それで宇宙に飛
んでいくんだ」
 浩一がコップを空けると義娘が瓶を傾けて注ぎ足した。
「達夫が大きくなる頃には宇宙に行けるようにしてやるからな」
 浩一の言葉が滝田の肝を冷やした。倉田青年の話はまだ打ち明けてい
ない。探るように達夫に聞いてみる。
「たっちゃんは大きくなったら宇宙に行きたいのかい?」
 達夫は首を横にふった。滝田は少しほっとした。それでもやはり、孫
の泣きぼくろが気になるのだった。
 倉田青年が滝田の孫の名前を知るはずがなかった。顔のほくろの位置
も。
「親父は? 相変わらず夢の研究をやってるのか」
「ああ、まだ続けてるよ。とは言ってももうあまり役に立ってないがな」
 滝田はまだ所長の身分でいる。しかしお飾りみたいなものだ。研究所
に行ったところで、大した事はしていない。夢見の研究は完全に若い世
代に引き継がれていた。
 義娘が孫のために寿司からわさびを抜いてやっている。さび抜きのや
つを注文すべきだったな、と反省する。
「へえ、暇人なのか」
「ああ、前は休日出勤も当たり前だったけどな。暇を利用して家庭菜園
を始めたんだ。見るか」
 滝田が立つと、息子もしかたねえなというふうに立ち上がった。ガラ
ス戸を開け、サンダルをはいてベランダに出る。二人で並んで庭をなが
める。
「お、プチトマトだな」浩一は持ってきたビールを飲み干した。「一気に
爺臭くなったな、親父」
 少しばかり腹がたったが、まあ確かにその通りだ。
 滝田の研究は、若い世代へ引き継がれていく。滝田の家系も、無事に
息子へ、孫へと受け継がれていくようだ。その孫は、将来月へと旅立っ
ていくかもしれない。
「引退かな」
「もう歳だもんな」
 背後で、「ほら、食べていいのよ」という声が聞こえた。
「お菓子はないの? 僕、お菓子が食べたい」と、達夫が駄々をこねた。
「あるぞ。せんべいも最中もようかんも」
「やっぱり爺臭いな」浩一は振り返った。「持ってきたサブレーでも開け
てやれよ」
 滝田はうーんとうなって腰をのばした。空には雲も少なく、太陽が照
りつけている。ふいに、太陽光線は肌を痛めると言って嫌っていた美智
子を思い出した。今頃どうしているだろう。結婚しただろうか。もう四
十代の半ばをすぎているはずだ。藤崎青年はどうしただろう。彼ももう
四十代だ。みんな歳をとっていく。若い世代が後を受け継ぐ。
 まぶしく照りつける青空に、白い月が浮かんでいた。


<了>




#555/598 ●長編    *** コメント #520 ***
★タイトル (AZA     )  19/07/31  20:14  (429)
そばにいるだけで 68−1:先行公開版   寺嶋公香
★内容                                         19/08/02 20:24 修正 第2版
 いくら何でも待たせすぎだと反省しまして、続きを書いていることの証明にでもなれ
ばと、1msg分だけUPします。後の68全文UP時には直しが入ることもありま
す。
======================================

 週明けの朝、自宅を出発する時点では、相羽は間違いなく決心していた。
(今日、言おう)
 米国留学することを純子に。
 改めて記すまでもないが、闇雲に打ち明けていいものではない。世間話のように、他
にも人がいるところで「九月には日本にいないから」なんてのは論外だ。最低限のシチ
ュエーション、二人だけで、伝えたあと少しは時間が取れる状況が欲しい。
 その決心に対し、のっけから段取りが狂う出来事があった。
 朝の休み時間に鳥越がクラスの席までやって来て、君の九月の予定はどうなってるん
だろうと聞いてきたのだ。やけに唐突な質問だったの訝しんで理由を聞き返す。
 すると、九月になると流星群があるので、学校で観測をしたいと思っているとのこと
だった。納得しかけたが、学校で催すのであれば予定はあまり関係ないじゃないか、と
不思議に感じた。
「その質問は、涼原さんに真っ先に聞くべきじゃあないか」
 相羽自身が答えづらいこともあって、鳥越にそう水を向けると、何故か相手は動揺を
僅かながら覗かせた。しかもすぐ近くに純子がいるというのに、尋ねようとしない。
「まあ、決まっていないんだったら、後日でいいよ。じゃあ、お昼に」
 そう言い置いて、鳥越は逃げるように去ってしまったのだ。
「何だったんだ、あいつ」
 ちなみに本日は朝から曇天で、午後からは雨の予報が出ていた。

            *             *

 二時間目が始まるまでの休み時間、唐沢は鳥越と二人で、校舎の外れの中庭にいた。
「どうしてこんな役を押し付けたんだい。それも急に。そこを説明してくれないと、僕
も納得できないよ」
 鳥越の失敗に多少の文句を言うつもりであった唐沢だが、反駁を食らって、言い返せ
ないなと気付いた。理由を明かさずに無茶をさせたんだから、失敗するのも無理はな
い。尤も、理由を明かした上で芝居させたとしても、果たして鳥越がうまくやりおおせ
たかは怪しく思う。
「わりぃ、俺の想定外だった。理由は言えないんだ」
「まったく。唐沢君が部員勧誘に協力すると言うから、渋々やっただけなのに、恥を掻
かされた気分だ。涼原さんのためだっていうのは、本当なんだよね?」
「そこは保障する。下手すると、部をやめる恐れがある」
「その危機は解消されたんだね」
「いや、まだ」
「何なんだよ〜」
 察してくれと言うのも無理な話か。唐沢は鳥越に両手を合わせて謝った。
「すまん。合宿に二人が参加したら、問題は解決したと思ってくれ」
「分かんないな。全然、仲が悪そうには見えないけれど」
「いいから。あ、あと、俺が頼んだことは絶対に言ってくれるなよな」
「約束は守るよ。唐沢君こそ、約束、忘れないでもらいたいね。来年の春、新入部員の
勧誘には力を入れてもらう」
「ああ。いざとなったら、女の子を大勢引っ張ってきてやる」
 安請け合いし、どうにかこの場を切り抜けた唐沢だった。
(やれやれ。作戦失敗か。同じ手が使えないわけじゃないが、似たようなやり取りを相
羽と涼原さんの前で二度も三度も繰り広げるのは、やっぱりやめておきたいよな。とな
ると、涼原さんの名前を使って、相羽に危機感を持たせる作戦を採るか……。淡島さん
の占いを通じて知らせる作戦も、悪くはないと思うんだ。でも、相羽の口から打ち明け
る方向に持って行くには……淡島さんが涼原さんにじゃなく、相羽に対して占いで言い
当てたみたいにすればどうかな。いや、相羽のことだから、俺が淡島さんにばらしたん
だって勘付くに違いない。どうすりゃいいんだ)

            *             *

 一時間目。
 相羽は、自分が意外と平静さを保てていないんじゃないかと思わされる。
「……あれ?」
 英語の教科書、忘れた。

            *             *

 「あれ?」という声が聞こえ、純子は隣へ振り向いた。相羽が学生鞄をまさぐってい
る。横顔に焦りの色が浮かぶのを見て取った。
(もしかして忘れ物? 珍しい)
 時計を見る。何を忘れたのか知らないが、これからある英語の授業に関わる物だとし
たら、他のクラスに行って友達から借りてくる時間はなさそう。と思う間もなく、始業
を告げるチャイムが静かに鳴った。
 ほとんど間を置かずに、門脇(かどわき)先生が教室に入って来た。女性にしては大
柄で、学生時代は柔道で鳴らしたとの噂だけど、真偽は不明。年齢を重ねた今、膝を悪
くして足取りが遅い自覚があるせいか、何事も行動を始めるのが早い。
「立ってる者、席に着け〜。始める。はい、号令」
 しゃきしゃきした口調の先生。呼応する形で唐沢が号令を掛け、起立・礼・着席を行
った。
 門脇先生が欠席のないことを確認するために教室内を改めて見渡したあと、教科書を
開き掛けた。
「あの、先生。教科書を忘れてしまいました」
 相羽はすかさず、しかしおずおずといった体で挙手しながら申告した。
「何だ、相羽君。らしくもない。浮ついているのかな。今後、気を付けるように」
「は、はい」
「教科書は隣に見せてもらうように。……涼原さんで大丈夫ね」
 大丈夫の意味するところがいまいちぴんと来なかったが、純子は素早く二度頷いた。
 相羽は机を横に動かし、純子の机とぴたりと合わせた。
「ごめん」
「いいよいいよ。気にしないで。困ったときはお互い様」
 朝からある意味うれしい成り行きに、純子は少々気分が高揚して、口数が多くなっ
た。おかげで先生から「こら、喋り続けるんなら戻してもうらよ」と怒られてしまっ
た。二人が肩を縮こまらせたところで、授業スタート。
「早速だが、相羽君。気合いを入れ直す意味も込めて、読んでもらおう。続けて訳も」
 相羽は席を立ち、二つの机の間に置かれた教科書を見下ろす姿勢で、音読を始めた。
声の通りはいつもに比べてよくないが、発音はいい。
(相変わらず凄い。エリオットさんとの日常会話を楽々こなすほどだし、相当勉強して
るんだろうなあ)
「はい、そこまで。ノートは持って来てるんだね? じゃあ、訳を」
 相羽はノートの該当ページを開き、今度は両手に持って答えた。大半の生徒が英訳で
は堅苦しい日本語になりがちだが、相羽はくだけた表現を織り込むのがうまい。翻訳を
思わせるほどだ。意識してやっているのではなく、自然とそうなるのかもしれない。
「――よろしい。ほぼ完璧で怒るに怒れないじゃありませんか。ただ一点、解説を加え
る必要があるのは、ここ」
 先生は“If it isn't broken, don't fix it.”と板書した。
「直訳すると、『壊れていない物は直せない』。相羽君は砕けた感じで、『そもそも壊
れてないのなら、直しようがない』と言ったけど、大体同じだね。で、実はこれ向こう
のことわざで、『すでにうまくいっているものを改善しようとしてはいけない』って意
味がある。教科書の例文ではことわざって言うより、『余計なことすんな』ってニュア
ンスが一番近い」
「知りませんでした」
「しょうがない。辞書を引かなくても知ってる単語で構成された文章は、いちいち調べ
直したりしないもんだから。文章のつながりから浮いた訳になるならまだしも、これな
んか別に違和感ないからねえ。違和感があるのは、ほら、前にやった遊園地で遊んでる
場面で、鍋の話をするやつだ。あれなんかはおかしいと感じて、調べて欲しいと思う。
で、涼原さん、どんな言い回しだったか覚えてるかな?」
「はい?」
 いきなり指名されて、立ち上がる純子。どうやらさっきのお喋りの代償を、ここで払
わされるようだ。
「相羽君は座って。――涼原さんも浮かれていないか確かめるために、ちょっとしたテ
ストだね。これに答えられなければ、机の間を一センチ離すように」
「そんなあ」
 情けない声を上げつつ、思い出そうと記憶のページを必死に繰る。
(遊園地で遊んでいると時間が経つのが早い。その関連で、時間に関係する、鍋の出て
来る慣用表現があったのよ。確か……)
 思い出せたような気がした。面を起こして、でも自信なげに答える。
「見られている鍋は決して沸かない……“A watched pot never boils.”でしたっけ」
「お、正解。だけど、日本語の方がちょいと怪しい。直訳で覚えずに、『焦りは禁物』
『待つ身は長い』等で覚えること」
「はぁい」
 座ろうとした純子だったが、止められてしまった。
「ついでに続き、少し読んで。訳はいいわ」
 いつもの授業と違い、変則的な当て方をする。生徒達は大げさに言えば戦々恐々とな
った。
 この調子での授業が十五分ほど続き、それからテキストにある設問を答えるくだりに
差し掛かった。適当に時間を区切って、各人が解きに掛かる。教室内は一転して静かに
なった。
(こんなに近いと、変に意識しちゃうよ)
 純子はいつもに比べて、集中力を若干欠いていた。好きな人が隣の席にいるというだ
けでも意識するのに、今はもっと近い。相羽の手元を覗こうと思えば覗けるし、逆もそ
うだろう。開いたページとページの間、谷になって見えづらい字を読もうと、顔を近付
けるとお互い息を感じるくらいに接近してしまう。
(相羽君は何とも思ってないのかな)
 盗み見ると、相羽はペンをさらさらと走らせている。次々に解いているのではなく、
教科書を借りている立場の彼は、設問に関連する箇所を本文から写さねばならないとの
理由もあるのだが、それにしても軽快に書いている。一心不乱というよりも、自動筆記
みたいだ。
(普通の集中とはまた違う……ぽーっとして、感情をシャットダウンしてるみたい。私
のことも見えてないのかしら。だとしたら凄いけど。――はあ、いけない。集中集中)
 緩みそうになる頬を軽くつねって、ノートに答を書き始める純子。問題にしばらく取
り組んでいると、不意に「あ」という相羽の小さな声。次に彼の手が純子のスカートを
かすめる風に伸びて来た。
(あ、相羽君、何を)
 気配を感じた純子は、反射的に「きゃ」と悲鳴を漏らしてしまった。何事かと先生や
クラスメートから注目されるのが空気で分かる。
「ご、ごめん、キャッチするつもりが空振りした」
 そういう相羽の視線は、純子の太ももの間、スカートの布地に。そこには相羽の消し
ゴムが乗っかっていた。
「こら、何を話してるの」
 近くまで来て立ち止まった先生が、プリントの束(と言っても十枚もない)で相羽の
頭をぽんぽんとやった。
「いちゃつくのなら、席を離して、反対側の子に見せてもらいなさい」
「すみません」
 相羽が謝罪するのに続いて、純子は同じように謝ったあとに続けた。
「でも違うんです。消しゴムがスカートの上に落ちてきて、私がびっくりしただけで、
いちゃついてたんじゃない。ほんとです」
 未だにスカートの上にある消しゴムを、ほら見てくださいとばかりに示す。
「……分かった。子犬の瞳で訴えなくても信じます。さあ、続けて。残り時間わずかだ
よ。みんなも集中して解いて」
 教卓の方へ引き返す先生を見て、純子はよかったと安堵した。
 それからまた問題に取り掛かろうとした矢先、相羽が純子の方を向き、左手を左右に
小刻みに振って、何かを擦るようなポーズを取るのに気付く。一秒考え、あっと思い出
す。
 純子は相羽の消しゴムを拾い、彼の机の端っこに置いた。

「ありがと、助かった」
 英語の授業が終わって、門脇先生が去ると、相羽は机を元の位置に戻した。
「それと消しゴムのこと、ごめん。肘が当たったみたいで」
「かまわないんだけど、さっき問題を解いてるとき、何だか変じゃなかった?」
「変? そうだっけ」
「周りに誰も見えてない感じだったわよ。矛盾するけど、ぼんやりしつつ集中してるっ
ていうか」
「それは多分、先生に言われたことを気にしていたからかも」
「先生に言われたことって? 何かあったかしら……」
 尋ねたつもりだったが、男子数名が相羽のところへやって来たせいで、有耶無耶に。
「おい、さっき本当に何でもなかったのか」「教科書見せてもらうために、わざと忘れ
物したんじゃないの」「次の数学は何を忘れるのかな」等と冷やかされる相羽だが、特
に反応せずに涼しい顔をしている。
 当事者の一人である純子としては、おいそれと口出しして藪蛇になっても困る。それ
を思うと、相羽の受け流しは賢明な選択と言えそう。
 純子は素知らぬふりで次の数学の準備をしていると、ふと気が付いた。
(うん? 唐沢君が加わってないなんて珍しい)
 いつもなら真っ先に来そうなのに。委員長の用事があるのでもなし、自身の席に着い
たまま、一人でこちらを――相羽の方を?窺っているように見えた。。
(数学の宿題を忘れて、相羽君を頼ろうとしたけど割り込みにくいなと躊躇っている…
…なんてことじゃないわよね。どうしたんだろ。何か言いたそうな、様子を探っている
ような。男同士の約束でもあるのかな)
 そちらに意識を取られたおかげで、先生に言われたことどうこうはすっかり忘れてし
まった。

            *             *

 神村先生の数学が終わると、次は家庭科の調理実習で、移動や準備に時間を取られ
る。まずい、この調子だと打ち明けるのがずるずると先延ばしになってしまう。相羽は
割烹着風エプロンを身につけながら思った。
(本当はすぐにでも――一時間目が終わったら、話があるから昼休みにでもって純子ち
ゃんに言うつもりだったのに。門脇先生に『浮かれているんじゃないか』って……ショ
ックだ。そんな風に見えてるのか)
 英語の門脇先生は、相羽の留学話を承知している教師の一人だった。学科こそ全く異
なるが留学経験があり、いわゆる生の英語に詳しいとあって、折に触れてアドバイスを
頂戴している。
(浮かれてはいないと断言できる。でもまあ、気が散っているところはあるのかもしれ
ない。英語の教科書を忘れたのだってそう。消しゴムが転がったのに気付いたとき、後
先考えずに手を伸ばしたのも)
 落ち着こう。とりあえず、気が散ったまま火を扱う授業を受けていては、事故の元に
なりかねない。こうして気を引き締め直したおかげか、純子と同じ班で臨んだ調理実習
は、特に失敗することもなく、無事に仕上がった。一時間目の一件のおかげで、周りか
ら冷やかしは飛んだけれども。
 ちなみにメニューはミニ揚げパンに春雨サラダ、杏仁豆腐だった。昼前のコマで調理
実習をやる場合、授業が終わったあとも家庭科教室で昼食と合わせて料理をいただくの
が原則。弁当持参でない者は、早く平らげて食堂なり売店なりに行かねばならない。ほ
ぼ確実に列の後方に並ぶことになるため、不評である。生徒側も対策を講じ、弁当を持
って来る者の割合が飛躍的に高くなる。
 相羽も母に時間的余裕があるときは作ってもらっているけれども、あいにくと日曜か
ら仕事があって、今回は無理だった。代わりに、惣菜パン二つと飲み物を通学途中に購
入していた。
「食べない?」
 登校時に一緒だった純子は当然そのことを知っており、お弁当のおかずを勧めてき
た。
「どれでもいいよー。こっちはダイエットのつもりで」
 つみれや唐揚げ、胡麻豆腐にチーズちくわと文字通りのよりどりみどり。だが、相羽
はすぐには手を伸ばさなかった。
「そう言われて僕が食べたら、君が太ってると言ってるみたいにならない?」
「ならない。ほんとの体重、自分自身がよく分かってるから」
 そのお喋りを聞きつけたか、唐沢が近くに移動して来た。「なら、ありがたくちょう
だいしよう」と、相羽より先に箸を出す。
「だめ。唐沢君はお弁当でしょ。結構大きいのに、余分に食べたらそれこそ太るわよ
〜。女の子が悲しむんじゃないかしら」
「うー、それでも食べてみたい」
「まさか、手作りと勘違いしてないか、唐沢?」
 相羽の指摘に、唐沢はぽかんとなった。本当に純子の手作りだと思い込んでいたよう
だ。
「あ、そうか。じゃあ、さっきの春雨サラダか杏仁豆腐をもらいたかった」
「それならここにある」
「いや、おまえの前にある分じゃだめ」
「元は同じなんだが」
 相羽が唐沢とやり取りする横で、純子がくすくす笑い出した。
「もう、話が迷走してる。はい、相羽君。これ食べて」
 相羽の持つ焼きそばパンの切れ目に、唐揚げ一つが置かれた。
「あ、ありがとう、いただきます」
 相羽はお礼を言いながら、気持ちがだいぶほぐれてきて、いつものようになれたと感
じていた。

 昼休みも食事が済んで、教室に戻ると、相羽は純子に話があることをまず伝えようと
した。
 ところがここでまた予想外の邪魔が入った。野球部のエース・佐野倉が純子の元にや
って来て、前の土曜、試合を観に来てもらいたかったと一言。地方予選の真っ只中にど
こでどう聞きつけたのか、土曜日に純子が遊びに行ったことを掴んだらしい。
「ごめんなさい。勝ったんだってね。おめでとう」
 純子が謝ったあとも、佐野倉が「一、二回戦は楽に勝てると思われるてるんだろう
な」とか「本当に決勝だけ観に来る気なのかな」とか言うものだから、周りにいたクラ
スメイト――主に男子の反発を買った。
「おい、謝ってるじゃねえか」「きちんと約束したわけでもないくせに」「スポーツマ
ンらしくないな」云々かんぬんと声が飛び、対する佐野倉もいちいち反論するものだか
ら、収拾が付かなくなりつつあった。
 しょうがない。一緒に遊びに行った身として相羽は仲裁に入った。
「みんな静かにしてくれよ。佐野倉、ちょっといい?」
「かまわん。何」
「誘いに乗って遊びに行った者として、弁明したいなと」
「やっぱり混じってたか。公認の仲だから、驚きゃしないが」
「悪い。誘われたときに、野球部の試合予定日だってのは頭にあった。でも、雨天順延
で日程がずれたんじゃなかったっけ?」
「その通りだが」
「女子達の話を聞いてみたら、遊びに行く予定を立てたのは、そっちの試合の順延が決
まるよりも先だった。みんな時間を調整して、決めた計画を前日になって変えなきゃな
らないとしたら、酷だと思わん?」
「……まあな。しかし、その話が本当だという証拠がない」
「粘るね、佐野倉も。その調子で勝ち続けてくれたら、絶対に応援に行くぜ」
「ごまかすな」
「証拠なら私が。証言だけれどね」
 外野から応援が入った。白沼が人の輪を割って進み出る。彼女は自身がその遊びには
加わっていないことと、VRのプラネタリウムの割引券をこの前の土曜日に使うと、純
子から知らされていたことを伝えた。
「――さあ、これでも疑う? これ以上、無駄に引っ張るのなら、いくら野球部のエー
ス、大黒柱であっても、徹底的に叩くわよ。何しろ涼原さんは今、うちの仕事を手伝っ
てくれている大事なタレントなんだから。変な言い掛かりを付けて、疲弊させないでも
らいたいのよね」
「……分かった」
 そのまま行こうとする佐野倉に、「涼原さんに謝らないのか」とブーイングが上がり
掛ける。それを制して、相羽が再び声を掛けた。
「佐野倉、余計なお世話だけど、いつもと違うように見える。こんなことを気にするタ
イプじゃないだろ。何かあったんじゃ?」
「別に」
「あ、俺知ってるけど」
 知らんぷりを通そうとした佐野倉だが、クラスにいた同じ野球部の男子によって、わ
けを暴露されることに。
「観に来ないなら来ないで、あとで残念がらせようと思ったのか、ノーヒットノーラン
を狙ってたんだよな」
「……」
 同期の部員に言われても、沈黙を守る佐野倉。
「ノーノーどころか完全試合かってペースだったのが、コールドで参考記録になるのが
ほぼ確定して気が緩んだのか、あれ? 最後のイニングで四球を出して、次にあと一人
ってところでポテンヒットを打たれて、パーになった」
 そこまでばらされて、ようやく口を開くエース。
「細かい解説なんかするな。要するに、記録を狙って変な力が入った。その上記録達成
に失敗して、いらついた。それだけだ」
 佐野倉はきびすを返して純子の机まで戻ると、腰を折って頭を下げた。
「要するに八つ当たりだ。すまなかった」
「……う、うん、私は別にいいけれど。それよりも、ノーノーって何だっけ?」
 この純子の発言には、佐野倉のみならず、話を聞いていた男子のほとんどががくっと
来たらしく、中には派手に笑い出す者までいる。
「す、涼原さん。君って……いや、まあ女子では普通か」
「佐野倉君? 悪いこと言っちゃった?」
「いや、言ってないさ。あーあ、おかげでストレス発散できたわ」
 肩のこりをほぐす仕種をする佐野倉。
「これで次の試合に集中できる。ありがとな」
 もう休み時間は残り少なかった。
 佐野倉が立ち去ったあと、相羽は純子から話し掛けられた。
「ねえねえ。私、おかしなこと言った? 佐野倉君に悪いことしちゃったのかなあ?」
「心配無用」
 相羽は次の授業の教科書などを、机に出しながら答える。
「むしろ、あの場では最高の返事だったと思うよ」

            *             *

 午後からの授業中、窓の外を眺めていた唐沢は、曇り続きの天候に嘆息した。
(この分なら明日も屋上に行かなくて済むかもな。おかげで相羽と涼原さんのために考
える時間だけはあるわけだが……もうしぼりかすしか残っていない気がする)
 ここ試験に出るからという教師の声に、はっとする。ノートを取ろうにも、教科書の
どの辺りをやっているのか、把握できていない。ひとまず、板書だけして、あとで照ら
し合わせるとしよう。
(試験か……期間に入ると、人の世話を焼いている場合じゃなくなっちまうなあ。いつ
も通り、相羽センセーを頼りにすることで、どうにか……あれ? もしかして相羽の
奴、次の定期テストって受けないのでは?)
 がたがたっと椅子で音を立ててしまい、教師からじろっと見られた唐沢。すんません
とジェスチャーで応じて事なきを得た。
(留学するんなら、最早この学校でのテストなんか受けなくていいんじゃないのかね。
もう内申書がどうこうって段階じゃないだろ。仮にそれで当たっているとしたら、俺、
ピンチじゃん)
 思わぬところで、相羽の留学が自身によくない影響をもたらすことに気付いた。たと
え今度の定期テストは受けるんだとしても、二学期以降はいなくなるんだからどうしよ
うもない。何とかせねば。
 授業が終わるなり、相羽にとりあえず泣き言をぶつけてやろうかと一歩を踏み出した
が、思い止まった。
(涼原さんに聞かれたら説明できねー。……けど、留学のことを伝えるんなら、こんな
軽い調子でもいいんじゃないかね。いつまでもぐずぐずしてるよりかは、よっぽどいい
だろうに。相羽の方から話を振ってくれりゃあ、俺は乗るぜ)
 てなことを思いながら相羽の後頭部辺りをじっと見ていると、いきなり振り返られ
た。唐沢は急いで視線を外しつつも、様子を窺う。
(――何だ。俺が見ていたのを察したんじゃなくて、涼原さんとどこかに行くのか)
 相羽に続いて純子が席を立つのを見て、ぴんと来た。
(やっと話す気になったか? なら、俺は見守るのみ)
 世話を焼く必要から解放され、あとは自分の勉強のことだけ。そう思うと、ちょっぴ
り気が楽になった。気が緩みもしたのか、白沼までもが席を立ったのを見逃してしまっ
た。

            *             *

 職員室、校長室の前を通る廊下を抜けて、校舎の外に出る。降り出しそうで降り出さ
ない空の下、相羽は純子を壁際に、自らはその正面に立った。
「それで話って何?」
 人のいないところを求めて、うろうろしたおかげで、三分以上を費やしてしまってい
た。残り七分足らず。相羽は心持ち見上げてくる感じの純子を前に、焦りと躊躇の葛藤
を覚えた。
(今日の授業が全部終わるまで待つべきだったかな?)
 弱気とも思える迷いが生じた。首を左右に小さく振る。ここまで来て、もう引き返せ
まい。
「相羽君?」
「純子ちゃん――落ち着いて聞いて欲しいんだけれど」
 そこまで言って、喉がごくっとなった。口の中が乾いてる気がする。と、この一瞬の
間を置いたことで、邪魔が入る。
「――あ、待って。携帯が」
 純子が言った。振動音が微かに聞こえる。機器を取り出しながら、「白沼さんから」
と囁き調で相羽に教える純子。
『はい?』
『どこに消えてるのよっ。追い掛けたのに、見失ったじゃない!』
 相手の剣幕に思わず耳を離す。おかげで、相羽にもその通話が聞こえた。
『どこって……相羽君と話してるところよ』
『戻って。教室と同じフロアの東端にいるから。学校で携帯使うくらいなんだから、緊
急の連絡だって分かってるわよね。お仕事の話』
『えーと、電話じゃだめ?』
『だめ』
 一方的に告げられ、切られた。純子は携帯を仕舞い、両手のひらを合わせながら相羽
に小さく頭を下げた。
「ごめんなさい、急用みたい。話、あとでも大丈夫?」
「う、うん。またあとで。行ってらっしゃい」
 ぎこちない言葉遣いになるのを自覚した相羽だが、純子はそのことを気にする風でも
なく、再度「ごめんね」と言って、スカートを翻した。
(ほっとしたような、これじゃだめなような)
 急ぐ彼女の背中をぼんやり見つめながら、相羽はため息をついた。

            *             *

 唐沢は廊下に出ていた。純子が結構なスピードで走って行くのを目撃したからだが、
すでに彼女の姿は見えない。
(廊下走ると先生に怒られるぞ。……やっぱり、相羽から打ち明けられて、ショックだ
ったのかねえ? 顔はよく見えなかったけれども)
 どうしようもなくてぽつねんとたたずむ。五分近くそうしていたが、純子は戻って来
ない。もうすぐ授業だぞと思い始めた頃、相羽が横を通り過ぎた。そのまま教室に入る
ようだ。
「よ、相羽。待てよ」
 寸前で呼び止め、右腕を引っ張って教室とは反対側に連れて行く。
「何。今、軽く自己嫌悪してるところなんだけど」
 その台詞の通り、相羽は冴えない目付きをこちらに向けてきた。
「てことは、ついに言ったのか。それで涼原さんが」
「何のこと?」
「こいつ、何でまだとぼけるんだよ、この」
 唐沢は相羽の脇を小突いて、「留学の話だよ」と言ってやった。割と大きなボリュー
ムになった。
 その台詞が終わるか終わらないかのタイミングで、廊下の向こうから早足で歩いてく
る純子の姿が認識できた。続いて白沼も。
 ちょうどいいと感じた唐沢だったが、次いで相羽の反応を目の当たりにして、はっと
なする。
「もしかして、まだ、なのか?」
「ああ。タイミング悪く、白沼さんから呼び出しがあって――」
 答えた相羽も、純子が接近中だと気付いたようだ。唐沢は片手で謝るポーズをしなが
ら、ひそひそ声で言った。
「わ、わりぃ。今の聞こえちまったかも」
「……」
 相羽は唐沢を押しのけるようにして一歩前に出た。すぐ先を純子が通ろうとする。
が、眼前を横切る寸前に、教室後方のドアへと足を向けた。
「相羽君、授業始まるよ。唐沢君も」
 純子が言って、微笑みかけてきた。あとを追うように来た白沼が「早く入って、席に
着いてよね。怒られるのは委員長と副委員長かもしれないんだし」と、特に唐沢に向け
た忠告を発した。
「へいへい」
 唐沢は努めて軽い調子で応じながら、内心では盛大に安堵していた。
(セーフだったか〜)

――つづく




#556/598 ●長編    *** コメント #555 ***
★タイトル (AZA     )  19/10/31  20:40  (390)
そばにいるだけで 68−2:先行公開版   寺嶋公香
★内容
 またもや先行公開版のみです。(^^;
 本来なら連載ボードに移行すべきところですが、とりあえずこの『そばにいるだけで
 68』は長編ボードで完結させようと思います。ご了承くださいませ。

======================================

            *             *

 純子は手のひらの中のメモを丸く握りつぶした。
 メモには白沼からの緊急の用件が書いてある。夏の音楽フェスティバル用のテレビ特
番がいくつかあるが、その一つから打診があったという。テラ=スクエアの会場から生
中継で久住淳に唄ってもらうのはどうかと。この件をメールで知らされた白沼は最初、
理解に苦しんだようだが、久住が風谷美羽(純子)と同じ事務所だと思い出して、純子
に伝えるに至ったらしい。純子はその話を聞かされた際に、白沼から「顔を売るチャン
スだから、あなたも何か唄わせてもらえば」と言われ、苦笑いを堪えるのに苦労した。
と同時に、変な勘ぐりもした。もしかして、加倉井さんのところが手を回して、久住を
引っ張り出そうとしてるんじゃあ……と。
 しかし、今の純子は数分前のやり取りを思い返している場合ではなかった。
(留学……って言ってた)
 相羽に話し掛ける唐沢の台詞は、間違いなくそう聞こえた。前後はほとんど聞き取れ
なかったけれども、留学の話をしていたのは確かだ。
 先生が入って来た。唐沢が号令を掛け、起立礼着席。一連の動作に、純子も遅れずに
着いていった。
「試験がそろそろあるのに、遅れ気味だったから、ちょっとスピードアップするよ。緩
急に注意していれば、ここは試験には出ないなと分かるかもしれないよ」
 軽く笑いを取ってから、本日最後の授業、日本史が始められた。純子も表情だけ笑っ
て、板書のための鉛筆を構えた。
(留学って、当然、相羽君のことよね)
 相羽の方をちらっと一瞬だけ窺い、考え込む。
(前に言っていた、エリオットさんがいる学校。J学院のこと? 断ったのに、また持
ち上がった? どうして話してくれないの?)
 そこまで思考が進んで、あっとなった。声に出さなかったのが奇跡的なくらいに、ぴ
んと来た。
(さっきの休み時間のあれが……)
 もう一度、相羽の方を見た。今度は様子を窺うだけでなく、問い掛けたくてたまらな
かった。努力して我慢する。
(あなたは何て言うつもりだったの? 留学するかしないか迷ってる? それともまさ
か、もう決めたとか? だとしたらいつから? 緑星を卒業したあとの進路?)
 色んなことが浮かんできたが、純子自身にとって最悪のケースだけは、心の内でも言
葉にはならないでいる。
(それをどんな風に私に言うの? 明るく、軽くか、反対に深刻な調子? 言われた私
はどうすれば)
 仮定の積み重ねに、答の出しようがない。改めて言ってくれるのを待つのが、今は一
番いいのかもしれない。だけど全く考えずにいようとするのは難しく。
(聞き違いだったらいいのに)
 そう願ってもみたが、自分自身で信じられない仮説だ。残念ながらというのはおかし
いが、鷲宇憲親のレッスンを通じて音楽に携わるようになって以来、耳はよくなった。
音感だけでなく、聞こえも聞き分けも。
(唐沢君と、どんな話をしてたんだろう)
 留学と発言した主を思い浮かべる。
(だいたい、唐沢君が知っているのはどうしてなの。私、まだ知らないのに)
 少し腹が立ってきた。理不尽とまでは言わないが、順番が違うんじゃないのと抗議を
したくなる。
(唐沢君にも黙っていたけれども、ばれたのかしら。だったら、私に言おうとしたのだ
って、他人に知られたから仕方がなく……?)
 純子はかぶりを大きく振った。全くの想像だけでここまで悪く見るなんて、してはい
けない。
「涼原さん、どうかしましたか」
 先生に名を呼ばれ、反射的に立ち上がる。さっきの続きみたいに頭を振りながら、
「いえ、何でもないです」
 と笑み交じりに答えた。
「眠いのでしたら、顔を洗って来てもかまいません」
「大丈夫です、先生」
 ようやく座らせてもらえた。というよりも、元々立つように言われていないのだけれ
ども。
 着席するとき、相羽が振り向いて目が合った。ここでも純子は笑みで返した。

 日本史の授業が終了すると、純子は手早く片付けた。  教科書やノートだけでなく筆
記具も何もかも。そのまま学生鞄を持って、席を離れる。
 机の間を縫って、唐沢の方に向かう。背中に相羽の視線を感じる。そんな気がした。
「あれれ、帰るの? ホームルームは?」
「ごめん。ちょっとだけ早引け。白沼さんを通じて仕事の話が来て、急いで知らせない
といけないから」
 だいぶ嘘が混じっている。恐らく純子が知らせなくても、市川達は把握済みだろう。
対応をみんなで急ぎ考える必要があるのは事実だが、そのために早引けするのではな
い。
(やっぱり、今は聞きたくない。相羽君の話を聞かないで済むようにするには)
 そう考えた結果、導き出した逃げ道だ。
「一応、神村先生にも言いに行くけれども、すれ違いになるかもしれないから、委員長
に言っておこうと思って」
「承知した。――で、その」
 すぐに廊下へ向かおうとした純子は、唐沢の声に立ち止まった。
「うん?」
「いや、なんだ、普通に元気だなあと思って」
「そ、そう?」
 もし元気そうに見えるのなら、精一杯の空元気よと心中で付け加える。
「じゃ、よろしくね」
 唐沢に手を振り、相羽の隣も通った。黙って通り過ぎるのは不自然で失礼だ、さっき
の休み時間にできなかった話について、何か言わなければ、
(『話は、明日また時間があるときにね』)
 というフレーズが喉から出掛かった。だけど、言えなかった。
「相羽君。ばいばい」
 手を振って、今日は別れた。

 仕事の話をするには不安定な心境だったし、行かねばならない理由もない。にもかか
わらず、とりあえず事務所に寄ってみたのは、やはり久住淳としての仕事をどうするの
かが気になるから。
(それに……仕事に集中すれば、ちょっとは気が紛れるかも)
「あのー」
 ドアをこっそり開けると、一人、市川だけがいた。大きなデスクの上に腰掛け、壁掛
けタイプの紙製カレンダーとにらめっこしていた。教師が使うような指し棒を操り、七
月と八月を行ったり来たりしている。
「お。ちょうどよかった。来てくれたんだ」
「はい。久住に来た仕事は特に判断が難しいですから」
「しーっ。ドアを閉め切らない内に、微妙な言い回しをしないように」
 注意を受けドアをきちっと閉めてから、純子は適当な椅子に腰を下ろした。
 市川は腰を軸にくるっと向きを換え、床に立つと、純子の近くの椅子に座った。
「どう聞いてる? その前に、聞いたのは同じクラスの白沼さんからかな」
「仰る通りです。白沼さんがメールを受け取って、教えてくれました。事務所にもテレ
ビ局からの話は届いていたんですか」
「テラ=スクエアさんへ中継を申し入れた件も含めてね。ご挨拶に出向きますってなニ
ュアンスで言われたから、ここに来られるよりはと思って機会があれば局の方でと返し
ておいたわ。当人が行くとの約束はしてないから、どうにでもなる」
 普段に比べると、市川が慎重な態度を取っているようだ。純子はストレートに疑問を
ぶつけた。
「どうしたんですか。いっつも、大きなお仕事は前のめり気味に決めようとするのに」
「うーん。予感がした」
「予感?」
「加倉井舞美の影を感じたんだよねえ。おいしい話にほいほいと乗ったら、彼女のとこ
ろが出て来そうで。加倉井さんと絡むこと自体は注目度が上がるから悪くはないけれど
も、あちらさんの方が事務所の力は圧倒的に大きい。だからといって意のままに操られ
るのは願い下げってこと。その辺を調べるために、杉本君達を動かしてはみたものの、
首尾よく探り出せるかしら」
 話を聞く内に、「私の知っている探偵さんに頼んでみましょうか」などと言いそうに
なった純子だったが、思い止まった。こんなことで手を煩わせるのは申し訳ないし、
(仮に想像が当たっているとして)加倉井にも悪い気がする。
「そもそも加倉井さんのところは関係していないと思うんですが。鷲宇さんが用意した
んじゃあ?」
 白沼から話を聞かされた際、真っ先に思い浮かべた線を聞いてみた。音楽関係の大き
な仕事となると、鷲宇憲親が一枚噛んでいると見なす方が自然だ。
「そう思って問い合わせてみたけれども、相変わらずのご多忙で掴まえられなくてさ。
それに噂で聞くところによると、鷲宇さんは国外での活動が長かったせいもあって、テ
レビ局の知り合いって、想像するほど多くはないみたい。私らを、というかあなたを驚
かせるためだけに、事前の予告なしにテレビ局を動かしてどうこうするっていうのもあ
の人らしくない。外野から見れば、露骨なえこひいきになる」
「言われてみれば確かに、そうですね……」
 鷲宇を疑って申し訳ない気持ちが、純子の声を小さくさせる。両手を握って、気を取
り直す。
「思い切って、ずばり聞いてみるのはどうでしょう?」
「何て」
「たとえば、音楽フェスにうちの久住が出るとしたら、加倉井さんも出ますか?とか」
「どこがずばりなのやら。どちらかと言えば、持って回った感が恋のさや当てに聞こえ
るわよ」
 呆れ顔でそう評されてしまった。
「まあ、ほんとに認められてご指名が来た可能性も当然ある。そのときは受けるつもり
なんだけれども、スケジュールがね」
 カレンダーに顎を振る市川。
「八月中旬なんだけど、すでに決めたスケジュールが立て込んでいて、かなりタイトな
んだ。って言わなくても分かってるでしょうけど」
「はあ」
 天文部の合宿に行く時間を作るために、あれやこれやと調整をした結果である。
「今から合宿なしにしてというのは、無理よね?」
「も、もちろんです。当たり前です」
 即座に答えたものの、内心ではふっと別の感情がよぎった。
(相羽君はどうするんだろう……)

 電話なりメールなり、何らかの形で相羽が連絡を取ろうとしてくるんじゃないだろう
か……という純子の半分希望込みの予想は外れた。疲れているのにしばらく寝付けなか
ったせいで、今朝起きたときは目が腫れぼったい感じがした。鏡の前に立ってみると、
さほどでもなく、少しほっとできた。
(きっと、直接会って言ってくれるんだよね。電話やメールで済ませることじゃないっ
て。それが今日の学校で)
 考える内に、心の中に重石を入れられたみたいに落ち込んでくる。一晩明けて、聞き
たくないという気持ちの方が強くなっていた。できれば会いたくない。今日はまだ知ら
せたくない。休みたい。
 一瞬、仮病を使おうかという思いがよぎった。だが、首を左右に振って吹っ切る。髪
と髪留めのゴムに手をやり、朝の支度に取り掛かる。
(こんな嘘はよくない。それに、相羽君を試してるみたいになる)
 しっかりしなくては。弱気を追い出そう。昨日は一刻でも早く事情を知りたがってい
たのに、今は怖がっている。
 気持ちの上ではそう努力しているのだが、実際には簡単にはいかない。何かにつけて
足取りが重くなり、全体の動作ももたもたとスローに。結果、いつもの電車を逃したせ
いで、学校に着いたのは始業ぎりぎりになってしまった。
(――いる)
 教室の戸口のところで、隣の席に相羽が来ていることを視認し、すっと目線を逸らす
純子。自分の席に向かう途中、結城らから「おはよ。遅かったね。何かあった?」等と
声を掛けられたが、曖昧に「うんちょっと寝坊」と返すにとどまる。
「おはよう。大丈夫?」
 着席するタイミングで、相羽から言われた。
(大丈夫じゃないように見えるとしたら、あなたのせいよ)
 純子が涙ぐみそうになるのを堪え、軽く頭を振った。悪意に取り過ぎたと反省する。
(今の言葉は、遅刻しそうになったのを心配してくれただけのこと。相羽君は私が留学
話に勘付いたって知らないんだから)
「おはよう。寝坊しちゃった」
 今できる精一杯の笑顔で返事しておく。一コマ目の授業の準備をしているとベルが鳴
って、じきに先生がやって来た。授業がこれほどありがたく思えるのは滅多にない。

            *             *

 二時間目が終わって、この日二度目の休み時間を迎える。その頃には、相羽も「おか
しいな?」と思い始めた。
 一時間目が終わってすぐ、純子に話し掛けようと名前を呼んたのだが、返事をくれる
ことなしにすーっと席を離れ、廊下に出てしまった。トイレか何かかなとしばらく待っ
たが、結局次の授業が始まるぎりぎりまで帰って来なかった。
 そして今し方話し掛けようとすると、手のひらでやんわりと壁を作られてしまった。
「あとでね。――マコ!」
 声を結構大きめに張り上げ、結城の方へ行く。何か話しているが、内容までは分から
ない。
 その後も、昼休みを含めた全ての休み時間で、まともに話す機会は訪れなかった。都
度、純子は淡島と話をしたり、白沼と話をしたり、あるいは一年生の教室に遠征してみ
たり(多分)と、相羽を遠ざける。
 唯一、天文部の太陽観測に顔を出す際にチャンスがありそうだった(唐沢も含めた三
人による移動になるが)。が、これもまた、純子が突然、お腹の具合がよくないみたい
と言い出して、離れてしまう。
「……」
 何とも言えぬまま見送った相羽が嘆息し、前を向くと唐沢と目が合った。
「涼原さんと何かあったのか」
「いや、別にない」
「今日は朝から避けられてるみたいに見えるんだが」
「やっぱり、そう見えるんだ?」
「涼原さんの態度、露骨だぜ。ていうか、普段一緒にいるのが当たり前の二人が、こん
なんだったら逆に目立つ」
「……心当たりがないんだけど、そっちは?」
「待て。心当たりがない? つーことは例の話、まだ言ってないんだな?」
「言ってない。昨日は色々邪魔が入ったし、今日はタイミングが合わない」
「……まずいな」
 唐沢が顎を片手で覆い、呟いた。何がと相羽が聞き返す前に、二人は屋上に到着。そ
のまま観測の手伝いに入ったため、話の続きはできずじまいに。純子はだいぶ遅れてや
って来たが、もちろん私語を交わす暇はなかった。

 完全に避けられているなと自覚したのは、放課後だった。ホームルームが終わるや否
や、相羽が何も言い出さない内に純子が独り言めかして、「もう少ししたら期末試験が
あるから、早めに勉強しておかなくちゃ。あぁ忙しい」と言い置き、さっと教室を出て
行ったのだ。
 またもや見送るしかできないでいた相羽は、肩を叩かれて振り返った。真顔の唐沢
が、ちょいちょいと右手人差し指で手招きならぬ指招きをし、内緒話を求めて来る。
「何?」
 顔を寄せた相羽に、唐沢は耳打ちに近い格好を取る。
「今日一日、様子を見ていて悪い直感が働いた。もしかしたらだが、例の話、涼原さん
にばれたのかもしれない」
「言ってる意味が分からない」
 相羽が重ねて聞くと、唐沢はこのままでは喋りにくいと判断したのか、「時間ある
か? あるんなら場所、移そうぜ」と確認してきた。相羽は黙って頷き、鞄を小脇に抱
えた。
「天文部の誰かに見付かると気まずいから、学校の外がいいな。どっか、ファースト
フードとか」
「あの話をするんだったら、緑星の生徒が来そうにない場所の方が」
「それもそうか」
 唐沢は歩みを一瞬止めたが、場所の選定をすると再び歩き出した。
「芙美の家に行こう。あいつ、帰ってりゃいいんだけどな」
「な? 町田さんのところ? 何で? いや、それよりもまさか」
 これから町田さんに留学話を伝えるのかと聞こうとした相羽。急な展開に困惑気味だ
ったが、唐沢からの答は想像を上回っていた。
「先に謝っておく。すまん、例の話、実はもう芙美に言ってるんだわ」
 それを聞いた相羽は、先を行く唐沢の後頭部に鞄をぶつけたくなった。衝動を我慢す
る代わりに、声をやや荒げる。
「一体何を考えてるんだよっ」
「女子の立場からの意見を聞きたくてな」
「っ〜。唐沢が考えているのは、町田さんが純子ちゃんに教えたっていう線なのか?」
「全然違う。大外れだ」
 唐沢がいきなり立ち止まり、振り返った。勢いづいていた相羽の急ブレーキは間に合
わず、肩と肩がぶつかる。
「相羽。この件で俺を悪く言うのはかまわない。けど、あいつは違うからな。芙美は俺
なんかよりずっと口が堅い」
「……ごめん。ひどいこと言ってしまったな。謝る」
 距離を取り直して頭を下げた相羽に、唐沢は「今の段階なら謝らなくていいって」と
応じた。横並びになってまた歩き出してから、付け加える。
「さっきも言ったが、謝るべきは多分俺の方だし」
「分からん」
 首を傾げる相羽。
「今すぐに推測を話してやってもいいんだが、説明を繰り返すのが面倒だからな。芙美
の家に着くまで待て」
 唐沢に言われて素直に付き従い、町田の家の前まで来た。駅に降り立った段階で電話
を入れ、彼女が帰宅していることは確認済みで、かつ、これからの訪問の了承ももらっ
ていた。ただし、唐沢だけが来ると思われていたようで。
「お――珍しい。おひさ」
 びっくりしたのか、言葉の軽さとは対照的に、町田の表情はちょっと硬くなったよう
だった。

 〜 〜 〜

「――というわけで、廊下で俺が不用意に掛けた言葉が、涼原さんの耳に届いていたと
したら、ばれただろうなって」
 極力、明るく軽い口調で自らの想像を説明し終えた唐沢。喉が乾いたか、町田の出し
たジュースを呷る。
「これやたらと甘いな。毎日がぶ飲みすると、ぶくぶく太り――」
「甘いのは、あんたの脇でしょうが。男がどうこう女がどうこうとか言いたくないけ
ど、敢えて言うわ。男の喋りは格好よくない」
 町田がずばり指摘すると、唐沢は力なく項垂れ、「その通りです、面目ない」と甘ん
じて受け止める。
 町田はしばし唖然としたようだったが、面を起こした唐沢が片目でちらと様子を窺う
素振りを示すと、大半が演技だと気付いた。これ見よがしにため息をつき、今度は相羽
の方に顔を向けた。
「えーっと。まずは、何を言うべきかしら。留学おめでとう? 違うか」
「あ、いや。ありがとう」
 相羽は浮かんだ戸惑いをすぐに消すと、微笑しながら礼を返した。町田も少し笑った
が、すぐにまた表情を引き締めた。
「で、敢えて聞くわよ。何で純にすぐ言わないで、ずるずる引き摺っていたのかな」
「一番いいタイミングを探して、見付からなかった。それと……僕自身、伝えるのが怖
いと思っていたのが大きい」
「――素直でよろしい。でも、純の立場からしたら、ちょっとでも早めに知らせてくれ
るのがどんなにいいことか」
「うん。それに気付かされて、早く知らせようとした途端、こんな事態に陥ったという
か」
 相羽が答えると、町田はむーと唸って、少しだけ考えてから、今度は唐沢に対して言
った。
「公平に判断して、あんたの方により責任があるわ、やっぱ」
「そうかなあ。五分五分だと思うが。って、そんなことを聞きたくて来たんじゃねえ」
 三人が囲むテーブルを唐沢が手で叩こうとすると、町田は飲み物の残るグラスを持ち
上げた。
「分かってる。だいたい察しは付いたわ。大方、私に探りを入れさせようっという魂胆
ね」
「鋭い」
 握った拳を解除して、町田を指差す唐沢。町田はその指を払う仕種をした。
(なるほど。そういう意図があったのか)
 二人のやり取りを目の当たりにして、相羽は遅ればせながら飲み込めた。遅れたの
は、唐沢が町田に留学話を教えていたことを知らされたばかりというハンデがあったせ
い。だが、たとえハンデがなくても、町田にスパイじみた真似をしてもらうのは、相羽
一人では気兼ねしてできなかったかもしれない。
「引き受けてくれるのか?」
 唐沢が手を拝み合わせながら尋ねるのへ、町田は「しょうがないじゃない」首肯す
る。
「引き受けるけれども。もし仮にここで私が、私にはメリットがないとか言って断った
らどうするつもりなのよ、キミ達?」
 “キミ達”と複数形を用いていながら、彼女の両目は相羽に向けられている。相羽は
ほぼ即答を返した。
「町田さんはそんなこと言わない。この話を拒否する理由がメリットがないだなんて」
「――なるほどね。リアリティのない仮定になっちゃったか」
 一本取られたわと続けた町田は、質問をぶつけてきた。
「他人の色恋沙汰にはなるべくノータッチで行きたいところだけど、関わるからには私
にとって望ましい結果になるように、純のためになるように行動するからね。私が探り
を入れた結果、純子が相羽君の留学をすでに知っているとなったら、どうしたいわけ
?」
「……僕の選択肢は元から一つしかないよ。心の準備が違ってくるだけ。あ、純子ちゃ
んがいつまで経っても話を聞いてくれなかったら困るけど」
「そりゃそうよね。じゃ、うまく行く保証は無理だけど、あの子の気持ちが話を聞く方
に向くよう、がんばるわ」
 町田は若干、緊張した面持ちになって請け負うと、学生手帳を開いた。
「それで? 今の純にとって暇な日っていつ?」

            *             *

「芙美!」
 水曜の学校帰り、純子はターミナル駅前のロータリーで町田と待ち合わせをした。運
行の都合で、純子の方が三分あとになるのは分かっていたこと。けれども、なるべく待
たせたくない、ちょっとでも早く会いたい気持ちから駆け足になっていた。
「純!」
 呼応する町田の声や表情が以前と全く変わらないことに、何だかほっとする。
「待った?」
「待った待った。思ってたより早く学校が終わったから、早く来ちゃってさ」
「え、どのくらい?」
「安心して。五分」
 ひとしきり笑って、どちらからともなく出た「会えて嬉しい」「私も」という一連の
言葉が重なった。
「とりあえず、どこかに入って落ち着こうか」
 適当に移動し、近く――といっても裏通りに喫茶店を見付けた。“金糸雀”という名
前のその店は、駅周辺のカフェにしては古びた外見で、窓からちらっと窺える様子も落
ち着いた雰囲気、客層からして大人向けに思えた。
「騒ぐつもりじゃないし、私らだけならここで大丈夫でしょ」
「騒ぐって、もしかしたら唐沢君を想定してる?」
「純、私が常にあいつのことを思い浮かべてるみたいに言わないで。今思い浮かべてい
たのは、久仁香と要よ」
「だよね。わざと言いました」
 店前でお喋りしていると、ちょうど中から三人組のお客が出て来た。入れ替わるよう
にして、純子達二人はドアをくぐった。店員らしき人物は、左手にあるカウンター内に
長めの髭を生やした男性が一人。見た目のイメージよりずっと若い声で「いらっしゃい
ませ」と迎えられ、お好きな席にどうぞと促される。中程の窓際にある二人席に向かい
合って収まった。長めの髭を生やした男性店員、多分マスターがカウンターから出て来
て、純子達のテーブルにお冷やとおしぼりを置いてから注文を取る。長時間の滞在はで
きないこともあって、ともにアメリカンを選んだ。
 マスターがカウンターの向こうに戻ってから、町田が純子に耳打ち。
「冷たい物じゃなくてよかったの?」
「冷たいのって最初から甘い物が多いから。レッスンがない時期は、ちょっとずつ節制
しないと」
「ああ、期末考査があるもんね」
「芙美こそ、遠慮しないでケーキの一つでも頼めばいいのに。よかったらおごる」
「遠慮してるわけでは。それより、おごるって何で」
「だって、誘ってくれて嬉しかったんだもん」
「普通、おごるとしたら誘った側でしょうが。まあ、どっちにしても今日はいらない。
最近、結構食べてるからねえ甘い物」
「じゃあ、次の機会は絶対に」
 話す内に、早々とアメリカンコーヒー二つが届く。単なる薄めのコーヒーにあらず、
香りだけで満足できそう。
「うん、いける」
 一口飲んだところで、町田が言った。コーヒーの味の善し悪しにはたいして拘りのな
い純子も、これは美味しいと感じる。同意を示そうとした矢先、町田が尋ねてきた。
「そういえばさ。純がコーヒー頼むのって珍しくない?」
「えっ、そうかな。そうかも」
 家ではそれなりにインスタントを飲むが、外でわざわざ注文するのは、ほとんどなか
ったかもしれない。この店はコーヒー専門店ではない。紅茶もジュースもある。
「たいてい紅茶だったよね。好みが変わった?」
「変わってはないけど、今日は何となく」
「ま、考えてみれば、紅茶はもういいってくらい普段飲んでるんでしょ? 自宅だけじ
ゃなく、相羽君に入れてもらうとか」
「あ」
 純子は反応できなかった。遅れをごまかすために、スプーンを持ってコーヒーをかき
混ぜる。
(ひょっとして私……相羽君のことを避けようとして、紅茶まで避けた?)

――つづく




#557/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  20/03/05  22:20  (177)
クリスマスツリーは四月に解ける 上   永山
★内容                                         20/03/09 19:43 修正 第3版
 小学校では二年ごとにクラス替えが行われた。だから、高校生になった今、希にあの
出来事は小三のときだったかな、それとも四年生のときだったかなと迷うことがある。
けれども、あの出来事はいつだったか、絶対に間違えない。六年生の十二月だ。
 当時、小学校ではふた月に一度ぐらいのペースで、お楽しみ会なる催し物が各クラス
単位で行われていた。外でひたすらドッジボールをやることもあれば、クイズ大会(単
に出題するのではなく、知力体力時の運てやつ)もあった。班単位に分かれてレクリ
エーションの進行を受け持つイベントでは、よくあるハンカチ落としや“箱の中身は何
だろな?”、笑い話を一斉に聞かせて笑った者から脱落なんてのもあった。
 そして十二月はクリスマスが定番。もちろん二十四日には学校は冬休みに突入済みの
ため、上旬に行うのだけれど、なかなか雰囲気があってよかったと記憶している。
 最終学年である六年生ともなると、力の入れ方が違ってくる。でもはっきり覚えてい
るのはそれだけが理由じゃない。
 その年の四月、一人の転校生がクラスに来た。北浦拓人《きたうらたくと》という男
子で、見た目も中身もおとなしい子だった。背はクラスで真ん中ぐらい、色白で運動は
苦手みたいだったけど、かけっこと水泳だけは早かった。顔は……頼りない感じの二枚
目、かな。
 特に目立つタイプではないけれども、大勢に埋没するでもなし。さっき言ったおとな
しいというのは、私達女子から見てのことだったらしく、男子同士では普通に話してい
たみたい。で、いつの間にかクラスに溶け込んでいた。
 北浦君を初めて意識したのは家庭科。同じ班になっていたからあれは二学期。エプロ
ンを縫う課題を、手早くかつ丁寧にやり遂げた。私は裁縫が苦手で、うらやましく思う
気持ちが表に出たのか、北浦君に「分からないところがあったら言って。できる限り教
える」と言われてしまった。ありがたいんだけど恥ずかしいって感じがして、私の方が
ちょっと素っ気ない態度を取っていたかもしれない。それでも、彼が縫うのを見てい
て、その細くて長い指が器用に動くのが印象に残っている。

 十二月のお楽しみ会は、プレゼント交換やキャンドルサービスの他、クラスのみんな
がそれぞれ五分から十分程度の持ち時間で、出し物をやることになった。要は隠し芸大
会みたいなもの。
「えっ。手品、できるの?」
 事前に全員が自己申告した上で作られたプログラムを見て、私は北浦君に思わず聞い
た。
「うん」
 彼は照れたみたいにほんのり頬を赤くして答えた。その頃にはかなり仲よくなってい
た。
「お、自信あるんだ? 『一応……』とか言わないくらいだから」
 私が笑いながら指摘すると、彼は慌てて「あ。一応」と付け足した。そんな風だった
から、あんまり期待しないでいたんだけど、本番で私は、ううん、私達クラス全員はび
っくりすることになる。
 当日、会場の理科室にはクリスマスらしい装飾が施された。黒板にサンタクロースや
トナカイのそり、クリスマスツリーに雪だるまといった絵が描かれ、窓はスプレーの雪
が吹き付けられ、折り紙でできたリングチェーンが彩る。本物ではないけれどもクリス
マスツリーも用意して、教室の上座の隅を飾る。実際の天気は晴れで、雪が降らないど
ころか、この季節にしては暖かいほどだったが、ムード作りはばっちりだ。
 出し物は歌が一番多く、半数を超えるくらいいたからちょっとしたカラオケ大会にな
った。ちなみに参加は単独でもペアでもグループでもいい。歌そのものよりも振り付け
を頑張った口も結構いた。歌とは別に、ダンスを披露したグループがいれば、ものまね
を披露した男子もいた。そんな中でも漫才をやった二人組は素人離れしていて、大いに
受けて大いに盛り上がった。
 この流れを受けてとりを務めたのが北浦君の手品。こういう順番になったのは期待値
の大きさではなく、単に手品は色々散らかるから、最後にするのがいいという判断。当
然、私は内心、大丈夫かなと心配していたわけ。この日までに北浦君の手品を見た人が
クラスにいたのかどうか、定かでない。でも先生はチェックしたと思う。会場がいつも
なら自分達の教室なのに、今回に限って理科室になったのは、北浦君の手品に関係して
いるらしいから。
 廊下で準備を終えて入って来た北浦君は、普段と違って芯が通ったように見えた。典
型的な手品師のイメージである燕尾服にシルクハットではなく、ジャケットを羽織っ
て、いつもの半ズボンがジーパンになっただけなのに、ちゃんとマジシャンらしく見え
る。ただ、プロマジシャンと違って、色んな道具をデパートの大きな紙袋に入れて自分
で運んで来たのが、そこはかとなくおかしい。
 それでも、わずかの緊張と自信が表れていて、何て言うか凄くいい顔をしている……
と見とれてしまった。それは一瞬だけで、我に返って赤面を自覚しつつも、成り行きを
見守った。これでこけたら承知しないからって気持ちになってた。
 北浦君は荷物を教卓の陰に置いてから一礼すると、背中側からステッキを取り出し、
いきなり始めた。バトントワリングのような手さばきを短く見せたかと思うと、ステッ
キをふいっと宙に浮かせる。「おお」って声が上がる。最初は両手のひらで包む格好
で、いかにも見えない糸で吊っていますって感じだったのが、段々と手を離れていき、
上下左右に大きく動くように。驚きの声が大きくなったところで、北浦君はぴたりと動
作をやめる。と、左手からステッキがぶら下がるみたいに浮かんでいる。それから左手
のステッキの間の空中に、右手をチョキの形にして持って行き、はさみで切る仕種をす
る。同時に、ステッキが床に落ちて、からんからんと乾いた音を立てた。
 何だやっぱり糸かという声が聞こえたけれども、北浦君、意に介した様子はない。逆
にその声に応えるみたいに両手を動かすと、再びステッキが宙を飛ぶように浮いて、右
手でキャッチした。観ているこっちがまた「おおーっ」となっている目の前で、ステッ
キを四、五本の花に変えてしまった。矢継ぎ早の技に驚きの歓声が止まらない。
 皆が落ち着いたところで、改めて北浦君が口を開く。「受けてよかった」とほっとし
た顔つきで言って、笑いを誘う。
「続いては……その前に、この花、造花で再利用するから仕舞っておかないと」
 持参した袋に造花を戻す北浦君。次に振り返ったとき、突然、何かが飛んできた。み
んながびっくりしてその物体をよける。びっくり箱に入っているような下半身が蛇腹の
ピエロの人形だった。
「あ、ごめん」
 とぼけた口調になるマジシャン北浦。
「びっくりした? こういうことも入れておかないと、すぐにネタが尽きて間が持たな
いので。次に進む前に、身体の緊張をほぐしましょう。簡単なストレッチを一緒にどう
ぞ。これから僕のする通りにやってください。やりにくかったら立ってもいいよ」
 手のひらを開き、両腕をまっすぐ上に挙げる。次に両手を頭上で交差させ、手のひら
を握り合わせる。そのまま胸の高さまで下ろす。
「ここまではいい? 分からない人、自信のない人はいない?」
 さすがにこれくらいは誰にでもできる。でも北浦君は「そこ、加治木《かじき》とか
坂口《さかぐち》とか大丈夫?」と仲のいい男子を名指し・指差しして、確認を取る。
ようやく安心できたのか、続きに戻った。
「みんな準備できたところで、最後にこうしてください」
 言いながら、ねじれた状態で組んでいた両手を離すことなくねじれを解消し、手のひ
らを私達観客側に向けた。
「え?」
 そこかしこで、戸惑いの反応が出る。誰も北浦君と同じようにできていないようだっ
た。ざわつく私達に向けて、「時間が余ったら種明かししまーす。てことで次行くよ」
と告げた。満足げで調子が乗ってきた様子。
 もうあとは彼の独壇場。取り出したスカーフを両手でぴんと張り、その縁を小さな
ボールが左右に移動し、二つになり、最後には重なって雪だるまになる。
 先生が鉛筆や物差し入れにしていた空き缶を受け皿に、お金(おもちゃのコインだけ
ど)を次から次へと生み出して投じていくが、最後に缶を見ていると空っぽのまま。が
っかり――と思ったら、両手でも余るような特大の硬貨が教卓の上にどんと置かれる。
 三つの金属のわっかが、つながったりまた離れたりを繰り返す。私達もわっかを触ら
せてもらったけど、切れ目が見つからない。
 そのわっかのチェックをした流れで、トランプのカード当ての相手に選ばれた。自分
がサインしたハートの四が、トランプの山のどこに入れても一番上から出てくるという
のはテレビなんかで見たことあったけど、目の前でやられるとまた格別で魅了される。
最後にはサインしたカードは自分の両手の間でしっかり持っていたはずなのに、やっぱ
り山の一番上になっていて、じゃあ持っていたカードは何?と確かめてみるとスペード
の八で、そこには北浦君のサインまであった。スマイルマークと「みまちがえたでし
ょ?」という台詞付きで。
「見間違えてなんかないわよ。でも……」
 カードを見つめながら考え込んでしまう。
「考えたいならそのカードとハートの四はあげるよ」
「あ、ありがと。だけど、二枚のカードをにらんで考えて、種が分かるもの?」
「うーん、無理」
 なんだと肩すかしをされた気分だけど、まあ記念にもらっておこう。お楽しみ会の間
は、他の子から見せて見せてと言われたので貸したけれども、終わったら大事に仕舞う
んだ。
「名前を書いたカード同士、ひっつけておくのは占い的に何かあるかもしれないんで、
ようく剥がしておいてね」
 手元に戻って来たとき、北浦君から謎の念押しをされた。

 北浦君がフィナーレを飾るマジックの前に、カーテンを閉めてと言い出した。皆率先
して、校庭側、廊下側の両方ともカーテンをきっちり閉める。普通教室と違って黒くて
分厚い布地のおかげで、部屋はほぼ真っ暗になった。
 北浦君は一旦教室の電気を点けると、「暗いと見えなくなるだろうから、今の内に僕
が何も持ってないことを確認しといて」と両手の裏表をゆっくりと見せた。先生が電灯
を消す。
 やがて始まったマジックは、それまでとひと味違う、幻想的な物だった。昔の、小さ
な宇宙生物が主役の映画についてちょっと語ったかと思うと、その映画の象徴的なシー
ンを再現するかのように、彼の人差し指の先端が光を放つ。まぶしくはない。豆電球レ
ベルの光だけど、そのオレンジ色は温かく映る。マジシャンが右人差し指を左手に向け
て振る、と、光が左手の人差し指に移動した。そこからは自在に光は指先を移動を始
め、ややくどくなりかけたところで、色が変化した。緑になったり黄色になったり赤く
なったりする。しかも、一つの指が一色ではないのも驚きだ。
「そういえばこの部屋にクリスマスツリーがあったけど」
 指先の光を教卓の端っこに移して、北浦君が口上を述べる。
「一目見て、がっかりしたことがあったんだ。ツリーのてっぺんに星がない」
 言われてみれば……そんな囁きがいくつか上がった。
「ツリーのてっぺんの星、ベツレヘムの星って言うらしいんだけど、イエス・キリスト
ととても深い関係のある星なんだって。だから思った。クリスマス会なのにあのままじ
ゃ寂しいので、この光を星の代わりにしてみようかなと」
 なるほど。指を離れて机の端っこに点せるくらいなら、ツリーのてっぺんも光らせら
れる?
 北浦君は机から光を拾うと、ツリーに向けて指を弾く動作をした。けど、光は移らな
い。
「あれ?」
 何度か同じ仕種で試すがうまくいかない。最後に来て失敗? 勘弁してよ〜。と、心
中で祈る気持ちだったけど、当人は平気な様子で、すたすたとツリーまで近づいてい
き、そのてっぺんを光で照らした。何と、指先全てが光っている。それくらい明るい
と、彼の手元もそれなりに見えるのだけど、細工は分からない。たとえば豆電球を貼り
付けてはいないようだ。
「うーん。クリスマスツリーらしくなったけど、僕だっていつまでもここで照らす訳に
いかないので」
 マジシャンは一瞬だけ十指の光を消した。次に点ったときには、ツリーには星が付い
ていた。
「星に来てもらうことにしたけど、いいよね?」
 おお、とも、うわーともつかない驚きの声がみんなの口からこぼれ出る中、彼はさら
っと言って一礼した。
「これにておしまいです。ありがとうございました」
 先生がカーテンを開け始めるよりも早く、私達は立ち上がって北浦君に大きな拍手を
送った。
「種明かしはー?」
 誰か男子のその声で思い出した。手を組むマジックの種、教えてくれる約束だった
わ。
 北浦君は早々に道具を片付けつつ、「ごめん。時間オーバーしちゃったから、切り上
げたんだけど」とぺこぺこした。
「いいよ。今言ってよ」
 当然、そういうお願いが出る。それは先生にも向けられ、
「はいはい、分かりましたから、早く済ませてね」
 と許可を引き出すのに時間は掛からなかった。きっと先生も種を知りたかったに違い
ない。

 つづく




#558/598 ●長編    *** コメント #557 ***
★タイトル (AZA     )  20/03/05  22:22  ( 90)
クリスマスツリーは四月に解ける 下   永山
★内容

 二学期終業式の日。学校が終わって帰る間際、私は児童昇降口を見通せる位置で一人
待ち構え、北浦君が通りかかるのを待った。他の男子と一緒に下校することもそれなり
にある彼だけど、今日は幸い、職員室で先生と長話をしている。ということは一人で帰
る可能性が高い。ただ、余り長話されると、私が寒くてたまらないんだけどね。
 と、それから五分しない内に北浦君が現れた。思惑通り一人だ。今日これからしたい
話は、どうしても二人きりでなければいけない。
「北浦君!」
 私の隠れていた柱の前を通り過ぎた彼を、小さな声だが元気よく鋭い調子で呼ぶ。相
手はびくりとして振り返った。
「な」
「長話し、やっと終わった?」
「お終わったよ。な何、待ってたの? 何か用?」
「うん。手品の話をしたくて」
「……種明かしはもうしないよ」
 外靴に履き替えながら返事してきた。私も少し離れた位置で履き替えつつ、「そうい
えばあの手を組む手品の種って、あんな単純だったのね」と思い出しながら応じる。
「がっかりした?」
「ううん。簡単にだまされて悔しいけど、凄く楽しい」
「そう」
 頬が緩み、彼の横顔がうれしげになる。私達は並んで校舎を出た。
「話というのはそれじゃなくって。私、気付いちゃったんだけど」
「え。お楽しみ会でやった手品の種が分かったと?」
 焦った様子になる北浦君。表情がくるくる変化して、こっちはおかしくなってきた。
「ふふ。違うって。あなたがくれたカード」
「――まじか」
 北浦君がこんな言葉遣いをするのは初めて聞いたかもしれない。それだけ、今の彼は
慌てているはず。
「種を見破るのは無理と言われたけれども、ヒントにはなるんじゃないかと思って、
ハートの四のカード、念入りに調べたの。それに北浦君、ようく剥がしてとかどうと
か、変なこと言ってたのも思い出したし。そうしたら表の絵柄が薄く剥がれてきてびっ
くりしたわ」
「……」
 そっぽを向いた北浦君。色白さはどこへやら、耳が真っ赤になっている。それはそう
よね。私だってカードの秘密を見付けたときは驚いたし、赤くなっただろうし、こうし
て話している今でも恥ずかしさは多少ある。
「大事なカードだから持って来なかったけど。あの剥がれたシールの下に書かれていた
ことは本気?」
「……」
 聞こえないふりなのか、さっさと行こうとする彼を、校門を出てすぐの辺りで掴まえ
た。腕を引いて、こっちを向かせる。
 そしてしばらく逡巡した後、思い切って言った。
「先に言っておくけど、私の返事は『はい』だよ」

 何で直接じゃなく、手紙でもなく、気付かれない可能性大である手品用トランプの内
側を使って告白してきたのか。
 あの日、私は北浦君に続けて聞いた。
 三学期になるといなくなるから、と彼は答えた。四月の転校も親の都合で急だったそ
うだけど、今度はもっと急に決まったらしい。その分、先行きは逆にほぼ確定してお
り、四年後には戻って来るという。
 こんな事情があったから、たとえ相手がOKしてくれても、すぐに離ればなれになっ
てしまう。それなら別に気付かれなくたっていいからカードに託そうと思った、とい
う。
「……それって……気付かれた場合はどうなるの?」
「……考えてなかった」
 おーい。何だか知らないけどちょっぴり感動していたのに、力の抜けることを言って
くれるわ。私は決めた。こちらも一瞬ではあっても心を奪われた弱みがある。
「よし、運命ってことにするわ」
「はい?」
「遠距離恋愛になっても、私は我慢する。離れていることを楽しむくらいに」
「それは……凄く、嬉しい」
「四年後というと、高校一年、二年?」
「多分、高二の春」
「じゃ、そのときは絶対に会う約束をしましょうよ。そうね、忘れないように何か強い
理由付けを……」
 少し考え、すぐに思い付いた。
「四年後に会ったとき、クリスマス会でやった手品の種、全部教えてね」

 そして今日が、その四年後、再会の日。
 私は駅まで出てきて、プラットフォームで待っていた。
 実を言うと、小学校を卒業してから今日までの間に、北浦君とは年に一度か二度くら
いのペースで会うことができた。会う度に私はねだったものだ。手品の種明かししてよ
って。
 彼は――拓人は首を横に振るばかりだった。
「だって、高校二年生の春に教えるって、約束しちゃったもんな」
 当時、約束したことは守ってよと念押しした私は、そう言われるともう黙るしかな
い。
 けど、それも今日で終わり。
 北浦拓人の名は高校生マジシャンとして業界内ではそれなりに知られているそうだ。
けど、種明かしは滅多なことではしない。私だけの特別だと思うと嬉しくなる。指先が
光るなんてほんとの魔術師みたいに見えたけど、その種を知ったら魔法は解けてしまう
んだろうか――なんて愚問。解けようが解けまいが、気持ちは変わらない。
 私は時計を見て、次にフォームの電光掲示を見上げた。家族分の指定席券の都合で、
遅めの号に乗ることになったと聞いている。家族とは別行動になってでも、一刻も早く
私に会いたいとは思ってくれないのね。不満じゃないけど、恨めしい。
 彼が乗るのは、十三時四十分着ひかり464号。もうすぐだ。
 あ――光のマジックの種明かしをする人が乗って来るにはお似合いよね、と気付い
た。

 おわり




#559/598 ●長編
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:19  (127)
条件反射殺人事件【1】
★内容
林田式という神経症の精神療法を知っている人はどれぐらい居るだろうか。
林田式といったらまず“ありのまま”だ。
“ありのまま”というのは、「だるいからやらない」というのはダメで、
「だるいなら、だるいなりに今を受け入れて、やるべき事をやる」
という姿勢である。
これを“恐怖突撃”という。
この“ありのまま”と“恐怖突撃”で病気を陶冶していくのである。
もっともこんなに厳しいのは入院林田式なのだが。
入院はちょっと、という人の為に、生活の創造会という全国組織の
自助グループがあるのだが、そこは、“ありのまま”やら“恐怖突撃”
などはなされず、林田式がむしろ禁止している、
愚痴と慰め合いの場に成り果てているのであった。

時任正則の住んでいる八王子地区では毎週土曜日に労政会館で
創造会の集まりがあった。
時任は何時もは立川の創造会に参加していたのだが、
今週は八王子のに参加していて、今まさに、みんなの前で
愚痴を披露しているところだった。

「僕は本当に、IT長者みたいなのが嫌いで…」
□型に配置されているテーブルには一辺に五人ぐらい座っていた。
つまり二十人ぐらいの前で時任は話していた。
まだ三十に充たない、TOKIO松岡似の男。
「ホリエモンとかひろゆきとか、楽天の社長とかアメブロの社長とかが
嫌いで嫌いで、見た途端に、ばりばりばりーっと心にヒビが入るんです。
自分はアパートに住んでいて派遣社員なのに、
なんであいつら楽して金儲けしているんだろう、と。
でも、それは、自己受容が出来ないからだと最近気づきました。
なんでか、自分は、この自分の体と心でいいや、と思えなくて…。
そうすると比較しだすんですよねぇ。
例えば、クラブでナンパする時だって、自分は自分だと思えないから、
ありのままの自分をさらけ出す事が出来なくて、
ちょっと見劣りのする友人に行かせて、
あいつでも相手にされるんだったら俺だって、と比較する。
それと同じで、テレビやスマホでIT長者を見ると比較するから、
殺したくなるんですよね。殺しちゃまずいけど、ははは。
という訳で、僕の当面の目標は、
“ありのまま”に自分を受け入れて、“恐怖突撃”する事だと思います」
オーディエンスの内、比較的若い層は、そうかもしれない、
リア充って難しいものねぇ、などと頷いていた。
中高年は、自分と他人の区別がつかないとはどういう事か、
みたいな視線を送っていたが。
とにかく、時任正則としては他言無用を条件にありのままを語る場と
なっているので、本当の事を告白したのだった。来週の目標も付け添えて。
「それでは次の方」と司会役のおっさんが言って、ノートに何やら書いたが、
書痙で激しく鉛筆を震わせていた。
その隣には、創造会に協力している病院から、臨床心理士が来ていた。
佐伯海里(さいき かいり)とネームプレートに書かれている。
喜多嶋舞似の、ちょっと顎がしゃくれた花王ちゃん。
「萬田郁恵といいます」まだ二十歳そこそこの、
若い頃の榊原郁恵と安室奈美恵を足して2で割った様な
可愛らしい感じの女の子が言った。
「不潔恐怖症で悩んでいます。
ばい菌とか大腸菌なんですけど。
別に、自分だけが綺麗という訳じゃないんですけれど。
外から帰ってきて、とりあえずスマホとか全部消毒するんですけれども、
手を洗う時に蛇口をひねると蛇口にばい菌がつくし、
蛇口をスポンジで洗うとスポンジにうつるし、
そのスポンジから皿に伝染するからそのスポンジは捨てないと、って。
ウェットティッシュで拭いてもゴミ箱に伝染するから
ゴミ箱も使い捨てのにしないと、とか。
そうやってキチガイみたいに、あっちに伝染した、こっちに伝染した、
と騒いでいます。
むしろ、指で舐めちゃえば平気なんです。
汚れ自体よりも、伝染していくのが嫌なんです。
という訳で、私の目標は、一通り手洗いをしたら、そこで気持ちを切り替えて、
“ありのまま”に“恐怖突撃”をする事だと思います」
「はい、どうもありがとう。それでは、今の萬田さんで自己紹介は終了なんで、
ここで少し休憩にしたいと思います」と書痙オヤジが言った。

みんな、椅子をギーギー鳴らして立ち上がった。
一部のおばさん達は、部屋の後部に行って、お茶とお茶菓子の用意を始めた。
他は廊下に出て行く者、トイレに行く人もいる。

時任が廊下に出ると、窓のところで萬田郁恵が外の空気を吸っていた。
ニヤッと笑みを浮かべて歩み寄った。
「君、えーと名前は」と話しかける。
「萬田郁恵」
「ああ、萬田さんかぁ。さっきの話だけれども、萬田さんの不潔恐怖って、
自分は自分と思えないからなんじゃない?」
「はぁ?」
「僕は、自己受容が出来ないから、だから自分は自分と思えなくて、
それで、人から人へと転々と比較しちゃうけれども。
汚れも同じで、その汚れはそれだけなんだ、と思えないから、
手から蛇口へ、蛇口からスポンジへ、と伝染していく感じなんじゃない?」
「えー、私は別にホリエモンとか羨ましいとは思わないもの。
関係ないと思える。ばい菌は関係あっても」
「同じだよ。対象をありのままに受け入れないから比較しだすんだよ」
「えー、違うよ」
その時、風に乗ってユーミンの『守ってあげたい』が流れてきた。
これは、市の防災無線放送で 毎日午後2時になると市内四百十八箇所の
スピーカーから木琴で演奏された『守ってあげたい』が流れてくるのだった。
「あー、これ、嫌いなんだ」と萬田郁恵は顔をゆがめた。
「なんで?」
「ユーミンのミンが嫌いで…。ミンミン蝉みのミンみたいで。
セミってゴキブリみたいだから、それを潰したら手もゴミ箱も汚れるから、
という感じで伝染していく」
「僕もユーミンは好きじゃないけど。
何しろホリエモン的成功者が嫌いなんだから、ユーミンとか嫌いだよ」
「元気そうじゃない。久しぶりー、と言っても一週間ぶりか」
と言って別の女性が割り込んできた。
「ああ、亜希子さん」
亜希子さんは、歳は萬田郁恵と同年代だが、吉行和子似で、老けてみえる。
「初めまして。時任さんだっけ。安芸亜希子といいます。
症状は、摂食障害で、『人体の不思議展』を見てから肉が
食べられなくなったの。だって同じ哺乳類でしょう」
と聞いてもないのに、自分の症状を語りだした。
「いやー、聞きたくない。伝染るから」と萬田郁恵は耳を塞いだ。
「時任さんって、あんまり見ない顔じゃない?」
「何時もは、立川とかに行っているから。知っている人に会うと嫌だから。
今日は何気、地元の会に来たけれども」
「本当? ナンパできたんじゃないの?」
「え」
「あんたは、自分がいじけ虫だから、メンヘラ狙いなんでしょう」
(ずけずけ言う女だなあ。アスペルガー入っているんじゃないのか。
そういうの林田式の適応外だけれども)と時任は思った。

休憩後は、4つのグループに分かれて、おやつ(ブルボンのアルフォート)
を食べながら、どうやって、自分の“ありのまま”を実践に移すかなどの
話し合いが行われた。
時任は萬田さんと一緒のグループになりたかったのだが、残念、
おじさんおばさんの神経症の愚痴を聞かされる事になり、
あっという間に五時になった。
「それでは二次会に行きましょうか。今日は中町の焼肉屋に予約してあるから」
書痙オヤジが元気に言った。
「わー、焼肉ひさびさ」などの声があちこちから上がる。





#560/598 ●長編    *** コメント #559 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:20  (161)
条件反射殺人事件【2】
★内容
会に参加した内、二次会にまで行ったのは十名程度だろうか。
彼ら彼女らは、京王八王子からJR八王子方面の繁華街に向かって歩いた。
JR八王子駅から放射線状に伸びている、西放射線通りに入ると、
ドンキ、マック、ベローチェ、BIGECHOなど、若者仕様の街並みが続く。
やっぱり学生が多い感じ。あちこちに男女が屯っていて、
どこの居酒屋に入ろうか相談している。
ティッシュやピンクチラシを配っているあんちゃんもいた。
人々の間をスケボーに乗った男が高速で走り抜けていった。
カラカラカラーっというローラーの音が通りに響いた。
傍から見れば自分らもメンヘラ御一行とは分らないんだろう、と時任は思った。

焼肉屋の座敷で、時任はすかさず萬田さんの隣をキープ。
トイメンに安芸亜希子が座った。
「あれ、安芸さん、肉、食べられないんじゃないの?」
「野菜を食べるから」
(嫌に、絡んでくる感じがする。なんで邪魔したいんだろう。
レズで萬田さんを狙っているのかなあ)と時任は思う。
しかし、真ん中に置かれているコンロに火が入って肉を焼き出すと、
ジューっと煙が出て、なんとなく前後は分断されて、
左右と語る感じになって、萬田さんと多いに語れた。
「萬田さんは、肉は平気なんだよね」とカルビやロースを網に乗せながら
時任が言った。
「もちろん平気だよ」
「でも、胃の中に入ったり、大腸から出ると、うん○だから、
汚いものになるのか」といいつつ。カルビやロースをジュージューいわす。
「養老孟司が、脳は自己中だからペッと唾を吐いた瞬間に汚いと思うのだ、
と言っていたわ。口の中に入っている間は綺麗なのに」
「養老孟司は甘いね。脳の構造で言うなら尾状核的という事だよ」
「は?」
「脳の構造しりたい?」
「は?」
「脳の構造が分かれば、何で、強迫神経症になるのかも分かるんだけれども」
「ふーん」
「脳には、つーか大脳辺縁系と大脳基底核には海馬と尾状核というところが
あるんだけれども、海馬は空間把握をするところで、
尾状核は反復記憶みたいな場所なんだけれども…、
これ、もう焼けているよ、食べたら」
「あ、いただきまーす」と萬田郁恵は肉を取り皿にとるとタレに浸して
口に運んだ。「むしゃむしゃ。柔らかくて美味しい」
「それで、海馬と尾状核の話だけれども、
海馬は空間認識だから、海馬がでかいと空間認識に優れるんだ。
だから、ロンドンのタクシードライバーは海馬がでかいんだけれども
…そのロースも、もういいんじゃあない」
「いただきまーす。むしゃむしゃ」
「タクシーの運ちゃんに限らず、ネズミでも、
迷路の真ん中に餌をおいておいてネズミを放すと、
海馬があれば、餌の位置を俯瞰的に一発で当てるんだよね」
「ふむふむ、もぐもぐ」
「ところが実験で、ネズミの海馬を損傷させると、尾状核を使う様になる。
そうすると、迷路の角から入っていって、たどり着けないと戻ってきて、
又次の角、というように、トライ&エラーを繰り返す。そのカルビも行けるよ」
「えー。時任さんも食べたら」
「じゃあ、いただきまーす」言うと、時任は、タレに浸して、食う。
「むしゃむしゃ。美味しいね。こんな旨いもの食わないなんて、
亜希子さんてかわいそうだね。
ところで、その実験で海馬を損傷したネズミと同じで、
僕も海馬が小さくて尾状核で生きているから」
「えーー」
「海馬があれば、瞬間的に、自分は自分人は人、と認識出来るのだけれども、
尾状核を使っているからそれが出来ないから、
反復的に比較するんだと思うんだよね」言うと焦げた肉を口に運ぶ。
「もぐもぐもぐ。君だって、あの汚れはあの汚れ、
とは思えないのは海馬が萎縮しちえるからで、
転々と伝染していく感じなのは尾状核を使っているからじゃない? 
その肉、焦げてきているよ」
「あ、じゃあいただきまーす。もぐもぐ。でも、なんでそんな事知っているの?」
「SNSに知り合いがいるんだよ。脳科学に詳しい。リアルじゃないけれども」
「へー、色々勉強しているんだね。もぐもぐ」
「結構、知りたくなるからね。ただ症状を言うだけじゃなくて、
病理を知らないとね」
「考えるのが好きなんだね。もぐもぐ」
上座の方で、書痙オヤジが立ち上がった。「えーー、それではみなさま、
宴たけなわではございますが、そろそろ時間の方も迫ってまいりましたので、
ここらへんで、おひらきにしたいと思いますが」
「えー、もう?」
「飲み足りない方はこれからカラオケに行きますんで、そちらでどうぞ」
「カラオケ、行く店決まってんの? ビックエコーなら+一五〇〇円で、
アルコール飲みほだよぉ」
「カラオケ館の方が設備も料理もいいし、あたし、VIP会員だから」
など、中高年が盛り上がっていた。

焼肉屋からビッグエコーに移動したのは中高年6、7名だった。
「私、JRだから」と焼肉屋の店先で安芸亜希子は言った。
「じゃあ、私、京八だから」と萬田郁恵。
「僕も京八の方の駐輪場に原チャリを止めているから」
「じゃあねえ」名残惜しそうに安芸さんが去って行った。

そして時任は萬田郁恵と来た道を労政会館の方に戻りだしたのだが。
時任は(どうやって誘おうかなあ)と思っていた。
「さっきの尾状核の話、興味あった?」ととりあえず言ってみる。
「もっと話したいなあ」
「えー」
「あそこのベローチェでお茶していかない?」
「いいけど…」
萬田郁恵はあっさり応じた。
二人はまたまた折り返して来た。
ベローチェはやりすごしてドン・キホーテもこえて、
放射線通りをどんどん奥に行って、裏道に入ろうとする。
「えー、どこ行くの?」
「あそこ」と時任は顎でラブホをさした。
「えぇー、だって」その後萬田郁恵が言った台詞は意外だった。
「焼肉を食べたばっかりだし」
「そんな事だったら無問題だよ。平気だよ、こっちも食べているし」
「嫌だぁ」
「じゃあ、ドンキに戻って、チョコミントのピノでも買ってくれればどうかなあ」
「それだったらいいかも」
二人でドンキに戻ると、ピノとついでにメントスも購入した。
歩きながらピノを食べ終えると、メントスをなめなめラブホに入った。

『ジェリーフィッシュ』という、紫の照明、アクリルの椅子とテーブル、
壁紙も紫、という、確かにクラゲの中にいるような部屋に入る。
お茶を飲む間もなく、紫のシーツに倒れこむと、
Gパン、パンティーを脱がすが早いか、重なり合った。
「今日会った時からいいなぁと思っていたんだ。
セックスは反復運動だから尾状核的なんだよ」
前戯もそこそこに、さっさと挿入するとピストン運動を開始する。
やっていて、時任は、
(いやにぬるぬるするな。もしかして生理中じゃあ)と思った。
果てた後に体を離してみると、シーツに直径1メートルぐらいのシミがあった。
「なんじゃこれは」
「私、すっごい濡れやすいの」
「水浸しだなあ」
「ちょっと待ってよぉ。私のGパン、濡れているじゃん」
脱ぎっぱなしのGパンにまで郁恵の膣液は到達していた。
「これで電車で帰るの平気かなあ」
「じゃあ、バイクで送って行ってあげようか」
「えぇ?」
「どこに住んでいるの?」
「大塚」
「もしかして大学生?」
「そうだけど」
「帝京とか中央とか」
「帝京だよ」
「それで下宿しているのか」
「そうじゃないよ。学生は学生だけれども、
父親があそこらへんの田んぼ屋なんだよ。アパート経営もしているけれども」
「へー。多摩モノレールの下あたりかあ」
「そうそうそこらへん」
「じゃあ、送ってってやるよ」

京八の駐輪場に戻ると、時任はアドレス110のメットケースから
フルフェイスを取り出して被った。
トップケースからドカヘルを出すと萬田郁恵にも被せてやる。
バイクに跨るがると、いざ出発。ブゥーーーン。
北野方面に向い、16号バイパスに出て、野猿街道で峠越えをした。
片側三車線中央分離帯付きの幅広の道に出ると更に加速する。
しかし、堀之内を超えたあたりで、メットをごんごん叩いてきた。
「止めてー」と言ってくる。
路肩に寄せてサイドスタンドを出すが早いか、郁恵は飛び降りて行って、
歩道を横切って、雑草の生えた空き地に向かってかがみ込む。
げぼげぼげぼーーーと嘔吐した。
(あれー、運転が荒かったかなあ)と時任は思った。
しかし見ているうちに、自分もこみ上げてきて、空き地に走ると嘔吐した。
げぼげぼげぼー、げぼげぼげぼーーー。
「焼肉とメントスのゲロだ」一通り吐き終わって時任が言った。
「おかしいなあ。お酒なんて飲んでいないのに」と郁恵。
「コーラを飲んだから、メントスコーラみたいになったのかも。
まあ、でもスッキリしただろう」
「うん」
二人はバイクに跨ると再スタート。
多摩モノレール下の萬田郁恵の家の田んぼ屋まではすぐだった。




#561/598 ●長編    *** コメント #560 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:21  ( 70)
条件反射殺人事件【3】
★内容                                         20/11/07 17:42 修正 第2版
次の一週間は、時任は夜勤があった為に、萬田郁恵に会う事は叶わなかった。

待ちに待った土曜日、時任は、労政会館の創造会に行った。
前半は何時もの様に、自分の症状を自己紹介風に語り、来週の目標を語る、
というコーナー。
休憩時間になると、萬田郁恵がおやつの準備を手伝っていたので、
時任もいそいそと手伝った。
萬田郁恵と臨床心理士の佐伯海里が、紙の皿に、ブルボンホワイトロリータ、
ハッピーターンを盛り付ける。
時任は、ドリンクの三ツ矢サイダーを紙コップに注いでいった。
「うえー」と郁恵がえずく。「このニオイ大嫌い。時任君平気? 
私、このニオイ大っ嫌いになったのよ」
「え、何で?」
「ほら、このラムネのニオイがメントスみたいな感じがしない? 
先週焼肉屋の帰りに焼肉とメントスを吐いたんです。そうしたら
ミント系のニオイが大嫌いになりました。歯磨き粉もダメになったんです」と、
佐伯海里に言った。
「それはガルシア効果だわね」
「はぁ?」
「ガルシア効果といって、カレーを食べて乗り物酔いをすると
カレーのニオイをかいだだけで吐き気がするようになっちゃう
という様な条件付けね。パブロフの犬みたいな」
「へー」
「普通の条件付けは一回では出来ないんだけれども。
パブロフの犬だって何回も肉とブザーで条件付けをして、
条件反射が出来たんだけれども。
でも、ガルシア効果だけは一発で条件付けられるのよ。
あと、音や光だとトリガーにはならなくて、味覚情報じゃないとダメなの」
「でも、僕はサイダーを飲んでもなんともないけど」と時任は一口飲んだ。
「人によりけりなんじゃないかしら。
不潔恐怖症の人は連鎖しやすいのかも知れない」

窓の外からユーミンの「守ってあげたい」が流れてきた。
「二時かあ」
「来週は、みんなで高尾山だよ」と書痙オヤジが言ってきた。
「毎年晩秋になると、八王子の創造会では、リクレーションで
高尾山に行くんだよ。
行きはケーブルカーで行って、山頂で昼ご飯。帰りは4号路を下ってくるから、
ちょうどこの放送が聞こえるのは吊り橋を渡っている頃かなあ」
「萬田さんも行くの?」と時任。
「みんな行くのよ。海里先生も」
「僕も行こうかなあ」
「当たり前じゃない。これも“ありのまま”の“恐怖突撃”の一種なんだから」

休憩時間の後は四つのグループに分かれての話し合いが行われた。
今日は時任は萬田郁恵と一緒のグループになれた。
ブルボンのお菓子を三ツ矢サイダーで流し込みながら萬田郁恵の悩みを聞く。
「私の父は大塚の田んぼ屋なんですけれども。
多摩モノレールが通った時に、地上げにあって、すごい大金を得たんです。
それはいいんですけれども。
多摩モノレールの下に通りが出来て、
その左右にアパートを建てて大家になっているんですけれども、
アパートの管理なんて不動産屋に任せればいいのに、
草刈りとかゴミ出しの後の掃除とか、父がやっていて。
それで、ゴミ捨て場に指定の袋に入っていないゴミがあると、
市の収集車は持って行ってくれないんですけれども、
それをカラスが荒らすといって、父が家に持ってくるんですね。
それで、ハエやゴキブリが出て。
それが不潔恐怖症の私の悩みなんです」
時任は、聞いていて、ばりばりばりーっと心にヒビが入るのが分かった。
殺意さえ感じる。
スマホニュースのガジェット通信やzakzakで
IT長者の話題を目にした時に感じる殺意だった。

会が終わって、労政会館から出てきたところで、時任は
「今日は帰る」と宣言した。
「えー、今日はお好み焼き屋に行くんだよ」と萬田郁恵。
「昨日まで夜勤で昼夜逆転しているから眠いんだ。帰るよ」
言うとそそくさと一人で駐輪場に向かった。
アドレス110に跨ると一人で寺田町のアパートに向かった。




#562/598 ●長編    *** コメント #561 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:22  (101)
条件反射殺人事件【4】
★内容
その日の晩、時任はスマホで某snsを開けた。
友達一覧の中から『浦野作治』にタッチする。
スケキヨマスクのプロフィール画像の下に自己紹介が表示される。
「心理学マスターがメンヘラちゃんにアドバイスします。
神経症というのは、梅干しを想像すれば唾液が出てきてしまう、
という条件反射にほかなりません。
電車に乗ると吐き気がする、というのも条件反射。
それを“乗り鉄”の様に、電車に乗れば幸福に感じる様に
条件付けしなおすのです。
古典的条件付けで神経症を克服しよう。
メンヘラちゃんは気軽にメッセージ下さい」
メッセージのアイコンに触れるとメッセンジャーが起動した。

時任:今、います?
浦野:いるよ。
時任:いやー、今日は滅入った。つーか腹がたった。
僕の愚痴、聞いてくれます?
浦野:聞いてあげるよ。
時任:創造会の女に、親が土地持ちでアパート経営している、
というのが居るのだが、
その親父が、居住者のゴミを家に持ってきて、
それで、ハエやゴキブリがわく、とか言ってその女が嘆いている。
ふざけやがって。百姓の癖に。
こっちは派遣社員で賃貸アパートに住んでいるというのに、
貧乏人をハエやゴキブリの様に思っているんだ。
しかし、前から田んぼ屋というのは知っていたのだが、
何故か今日突然吹き上がった。
こんなに簡単に殺意を抱く僕って変ですか?
浦野:他人は他人、自分は自分と思えなかったんだよね。君は。
時任:つーか、同じ人間なのに、制度に守られていて、
それで威張っている感じ。IT長者も百姓も。
浦野:制度に守られている、とは?
時任:典型的な例が医者ですかね。
林田式の総本山は慈敬医大だけれども、
あそこの医者なんて威張りまくっているが、
あれは制度に守られているからでしょう。
制度に守られているから、人と人とも思わない事をやってくるでしょう。
昔、慈敬医大病院医師不同意堕胎事件、とかあったけれども。
妊娠した彼女の同意なしに中絶しちゃうなんて、
人と人とも思っていない感じで。
それは、医療という制度がバックにあるからそういう事が出来るんだ。
そういう感じで、アパートの大家も俺様だし。あの女は俺様大家の娘って感じ。
浦野:それはお仕置きをしなくちゃいけないかもね。
その大家の娘というのはどんな性質の女なんだい?
時任:強迫神経症の女でなんでも結びつく女ですね。
八王子市では、ユーミンの曲が防災放送のチャイムで流れるんですが、
ユーミンのミンからミンミン蝉を連想して、
蝉はゴキブリに似ているから、だからユーミンは嫌いだ、とか。
あと、バイクで2ケツで酔って吐いたんだけれども、
その前にメントスを舐めていて、メントス味のゲロを吐いた。
そうしたら、サイダーを飲めなくなったとか。
浦野:ガルシア効果だね。
時任:そうそう、ガルシア効果っていうって聞きました。
浦野:誰に?
時任:創造会の臨床心理士の女に。
浦野:へー、そんな女がいるんだ。他には何か特徴は?
時任:すごい潮吹きですね。一回セックスしたが
1メートルぐらいの染みをベッドに作りました。
浦野:そうすると、なんでもつながる、という事と、ユーミンと潮吹き、
というのが、その女に関する情報かな。
時任:そんな感じ。
浦野:だったら、ユーミンの放送と潮吹きを条件付けしてやれば面白いよ。
時任:そんな事、出来るんですか?
浦野:だって、メントスのニオイで胃粘膜が刺激されるってあるんだろう。
だったら、ユーミンのメロで膣壁が刺激されてもいいだろう。
時任:でも、ガルシア効果なんていうのは、味覚情報のみで、
音や光をトリガーにするのは無理と創造会の臨床心理士が言っていたけれども。
浦野:君は『時計じかけのオレンジ』を見なかったのかい? 
あの映画でアレックスは『第九』を聞くと吐き気がするという条件付けを
されたじゃないか。
だから、メロで膣壁が刺激されるという条件付けも出来るんだよ。
時任:ユーミンを聴く度に潮吹きかあ。
そんな事が出来るんだったら毎日2時には潮吹き、
いや、もっと面白いお仕置きが出来るかも。
浦野:ユーミンと潮吹きの条件付けは教えてあげるから、
どんなお仕置きをするかは自分で考えなさい。
時任:で、どうすればユーミンをトリガーにして潮吹きをするという
条件反射を植え付けられるの?
浦野:セックスをしながらユーミンを聞かせれば、
潮吹きとユーミンが条件付けされるかも知れないが、より効果的なのは…。
例えば、自転車。
初めて自転車に乗った時には全神経を集中させて漕いでいるだろう。
でも慣れてしまえばスマホをいじりながらでも運転出来る。
そういうのは、無意識が自転車を漕いでいる状態だが。
そういう状態の時には、トランスのチャンネルが一個開いているから、
そこから無意識につけ込むことが出来る。
そういう状態の時にはトリガーを埋め込みやすい。
ところで、セックスも自転車漕ぎみたいな反復運動だろう。
だから、女性上位で女に反復運動をさせれば、
自転車を漕いでいる時と同じ脳の状態になる。
しかもその時ちょうど女は潮を吹いているんだろう。
その状態でユーミンを聞かせれば、
ユーミンのメロと潮吹きが条件付けされる可能性は上がるかもね。
時任:さっそくやってみます。
浦野:鋭意邁進したまえ。しかし、そのガルシア効果を指摘した
臨床心理士というのは気になるな。
時任:でも、1週間は会わないから。
それまでに条件付けしちゃえばいいんでしょう。
浦野:1週間後に会うのかい?
時任:そうだけど。それまでに条件付けは可能かな。
浦野:まあ、君の熱心さによるだろうね。成功を祈るよ。




#563/598 ●長編    *** コメント #562 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:24  (232)
条件反射殺人事件【5】
★内容
翌日、時任は、夜勤明けで眠たかったが、萬田郁恵を誘い出すと、
前回と同じラブホにしけこんだ。
『ピカソ』という名前の部屋。
「新宿の目」の様なアメーバーの様なオブジェが壁にあって
そこが間接照明になっている。
時任は萬田郁恵とベッドに寝そべると、いきなり脱がせたりしないで、
スマホを取り出した。
「君は、ユーミンを好きになるべきだよ」と時任は言った。
「ユーミンが嫌いなんてひねくれているよ。
僕もそうだけれども。
ユーミンとかサザンなんて恋愛資本主義には付き物なんだし、
それに毎日放送で流れてくるんだから好きになるしかないよ」
言いながらスマホをいじくって、LINEを開くと萬田郁恵の名前にタッチした。
「『守ってあげたい』をプレゼントするよ。今送るから。はい、送信」
「私、誕生日が近いんだよ」
「じゃあ誕生日プレゼントも用意しておくよ。もう曲、行ったんじゃない?」
ぽろりんと、萬田郁恵のスマホが鳴った。
「あー、来た来た」スマホをいじくりながら郁恵が言った。
「聞いてみな。案外いいものだよ」
郁恵はポーチからコードレスイヤフォンを取り出すと耳に突っ込んで再生する。
曲に合わせて首を振っている。
「じゃあ、そろそろ行きますか」言うと、ズボンやシャツを脱がせだした。
「今日は腰が痛いから女性上位でやってくれない? 聞こえている? 女性上位でー」
郁恵は曲をききながら、ふがふがと頷いた。
素っ裸になると、前戯もそこそこにいきなり騎乗位にまたがってきて挿入する。
こっちの臍のあたりに、心臓マッサージでもするみたいに手をつくと、
♪you don't have to worryのメロディに合わせて腰を動かす。
1曲終わらない内に果ててしまった。
それでも膣液でビシャビシャである。
郁恵はバスルームに行くと股間を中心にザーッとシャワーを浴びた。
戻ってくるとバスタオルを巻いただけの格好でベッドに腰掛けて、
セブン限定タピオカミルクティーを飲みながらリラックスした。
ベッドに寝ていた時任は、スマホを出すと、『守ってあげたい』を再生した。
果たして今のセックスで条件付けは出来たであろうか。
じーっと郁恵の背中を見つめる。
しかし、ピクリとも反応しなかった。
これは、スマホのスピーカーだと音質が悪くてダメなのか。
それとも、やっぱり一回セックスしたぐらいじゃあ条件付け出来ないのか…。

時任は寺田町のアパートに帰ってくると、さっそく、スマホで、
浦野作治に報告した。
時任:上手くいかなかったよ。全然効果がなかった。
浦野:ただ、こすっただけじゃあ、条件付けなんて出来ないよ。
時任:そうなの?
浦野:そうだよ。
パブロフの犬だって、ベルが鳴ってから肉が出るというのを繰り返すと
ベルが鳴っただけでヨダレが出る、という訳でもないんだよ。
ベルがなって肉が出るというのにビックリして、
ビックリするとシナプスの形状が変わるから、それで記憶になるんだよ。
これをシナプスの可塑性というが。
シナプスの形状が変わって、それで流れる脳内化学物質の質と量が変わる、
それが記憶の正体だよ。
だから、シナプスの形状を変化させないと。
それにはビックリする事が大切だから、ビックリしやすい状態、
つまりシナプスが変形しやすい状態にしておかないと。
それは、脳内化学物質が潤沢に分泌されている様な状態だから、
何かドーパミンの出るものを与えておくと条件付けしやすいんだがなあ。
ニコチンとかカフェインとか。
ニコチンとカフェインを大量に与えて、シナプスの先っぽに
脳内化学物質が大量に分泌されている状態で条件付けをすれば、
ユーミンと潮吹きは結びつくかも知れないのだがねえ。
時任:じゃあやってみる。

翌日の午後、時任は又郁恵を誘い出した。
何時ものホテルの『レッドサン』という部屋。
1メートルぐらいの日の丸の様な赤い間接照明の下に、
これまた赤い丸いベッドが置いてある。
いきなり脱がせないで、ベッドに寝転ぶと、
時任はレジ袋の中からパッケージを取り出した。
それを開けると、アイコスのポケットチャージャーが出てくる。
「なに、それ」と郁恵。
「電子タバコ。高かったんだから」
「いくら?」
「5000円」
時任は、ポケットチャージャーからホルダーを取り出すと、
そこにアイコス専用タバコステックを差し込んだ。
「吸ってみる?」
「えー」
「これだったらそんなに害はないしし、すっごく感度がよくなるから」
「本当に?」
ホルダーが振動すると、ライトが点滅するまで長押しした。
ライトが2回点灯したので、もう吸える状態。
「ほら、吸ってみな」と郁恵の方に差し出す。
郁恵は受け取ると両手で持って、口にくわえると、
シンナーでも吸う様に吸った。
「すーーーはーーーー。キター、クラクラするわ」
「あとこれも」とレジ袋からモンスターエナジーを取り出すと
リングプルを開けた。
「それも飲むの?」
「カフェインも感度がよくなるんだよ」言うと
口元に持っていってごくごくと飲ませる。
「あー、オレンジ味かあ。いやー、いきなりドキドキしてきた」
今や郁恵は、左手にモンスターオレンジ、右手にアイコスを持ちながら、
交互に飲んでいる。
「ああ、目が回って気持ちいいわあ」
「どんな感じ?」
「低気圧が迫っていて自律神経失調症になって、
動悸息切れがする様な気持ちよさ」
「それじゃあその状態で、ユーミンを聞いてみな」
言われるばままにイヤフォンを装着すると、ユーミンを聞き出す。
そしてベッドに横になると、白目をむいて 上目遣いで目を潤ませた。
時任は郁恵を脱がせる。
約5分のセックス。
セックスの後、郁恵は何時もの様にシャワーで膣液を洗い流して、
戻ってくるとバスタオルを巻いた状態でベッドでごろごろした。
「今日は体力消耗したわ」
「ほんま?」
横目で郁恵の様子を見ながら時任はスマホのスピーカーでユーミンを再生してみた。
「♪you don't have to worry worry まもってあげたい〜」と
チープのスピーカーのせいか、ユーミンの声質なのか、乾いた音が響いてくる。
「ん?」と郁恵は眉間にシワを寄せる。「あ、バスタオルが濡れるかも」
「え、本当?」
「なんか、まだ感じているのかなあ」
「本当かよ」

寺田町のアパートに帰ると、さっそく、浦野作治に報告した。
時任:今日は効果があった。ユーミンの曲で、湿らせる事に成功しました。
浦野:本当か。それは大躍進だな。
時任:なにしろ、アイコスとモンスターエナジーでバッチリ刺激しましたからね。
浦野:ニコチンとカフェインで、
相当、シナプスの間に脳内化学物質が出ていると思われる。
ここで止めをさすには、シナプスのつなぎめに持続的に大量の
脳内化学物質が漂う様にする為に、
セロトニン再取り込みを阻害する薬品=向精神薬を飲ませるという事だが。
時任:林田式では向精神薬とか使わないからなあ。
浦野:だったら、君、バイクで彼女が吐いたと言っていたなあ。
だったら、バイクに乗る為に酔い止めだといって、
アネロンとかトラベルミンとかの市販薬を飲ませてみろ。
それらには、ジフェンヒドラミンを含むので、
セロトニンの再取り込みを阻害するから。

翌日、又又誘い出すと例のラブホに行った。
『ネスト』という名前の部屋で、
壁全体にビーバーの巣の様に木が積んであって、ベッドも木目調だった。
ベッドにごろりとなって肩など抱きながら時任は言った。
「今日、バイクでツーリングしようか」
「嫌だぁ。又酔っちゃうから」
「だから今の内に酔い止めを飲んでおけよ」
アネロンを取り出すと通常1回1カプセルのところを3カプセルも飲ませる。
「じゃあ、折角、ビデオもある事だから映画でも見てみるか」と時任。
壁面には50インチ程度の大画面テレビが備え付けられていた。
リモコンでVODを選択して映画を選ぶ。
「何を見るかなぁ。ユーミンづくしで『守ってあげたい』を見るか。
薬師丸ひろ子の」
「何時の映画?」
「わからん」
「そんなに古いのあるの?」
「『守ってあげたい』はないなあ。
原田知世の『時をかける少女』ならあるけど。
まあ似た様なものだからこっちでもいいか。
『守ってあげたい』はツタヤで借りてきて君んちのでっかい液晶画面で見よう」
二人は『時をかける少女』をしばし観賞。
「なんでこの映画、さっきから同じシーンが繰り返し流れるの?」と郁恵。
「何をボケた事言っているんだよ。時をかけているんじゃないか」
「あー、そうなの。あー、なんか退屈。ふあぁ〜〜」と大きなあくびをした。
そろそろ薬が効いてきたか。
それに退屈だったらそろそろいいか、と思って、時任は脱がせにかかった。
そしてセックスに移行する。
が、その前に、
「そうだ、ユーミンを聞かないと。
イヤフォンを出して『守ってあげたい』を再生して」
「なんで何時もあの曲を再生しないといけない訳?」
「そりゃあ、好きにならなくちゃ。八王子市民なんだから」
「私なんて大塚だからほとんど日野市民なんだけれどもなぁ。まあいいけど」
郁恵はイヤフォンを出すと耳に突っ込んで再生した。
そして約5分のセックス。
コイタスの後、例によってシャワーを浴びると、
バスタオルを巻いてベッドに戻ってくる。
まだあくびを噛み殺していた。
時任は、じろりと横目で観察しながら、スマホでユーミンを再生した。
♪you don't have to worry worry まもってあげたい〜
「う、やばい、何故か漏れてくる」と郁恵が尻を浮かせた。
「本当かよ」
「やばい、やばい、まだ感じているのかなあ」
時任は内心ガッツポーズで、スマホを掴んだ。

ホテルから出てくると時任は言った。
「じゃあ、折角酔い止めも飲んだことだし、天気もいいので、
ひとっぱしりしてくるか」
バイクに跨るがると、いざ出発。ブゥーーーン。
ホテルのある中町から16号線に出る。万町のマックの角を右折して、
八王子実践高校を通り過ぎるとすぐに富士森公園が見えてきた。
「あそこで一休みしよう」
富士森公園の駐輪場に止めると、二人は陸上競技場に入っていった。
芝生の観客席に座り込むと、後ろ手に手をついた。
都立高校の生徒が陸上競技をやっている。
屋外用ポール式太陽電池時計を見ると、1時59分。十数秒後、2時になった。
例の放送が、マイクが近いせいで、大音響で響いてくる。
♪you don't have to worry worryのメロディが木琴で流れる。
「あれ? 芝生が湿っていない?」言うと郁恵は尻をうかして
芝生と自分の尻を触る。「違う。自分が湿ってきたんだー。なんで〜?」
(キターーーーーー!!)時任は心の中で正拳三段突きをする。

翌日、金曜日、親が居ないというんで、大塚の萬田郁恵の家に行った。
ツタヤで『ねらわれた学園』を借りて持っていく。
郁恵の家は、如何にも田舎の豪邸といった感じのお寺の様な家だった。
二階の彼女の部屋は、欄間に龍の彫刻がある十畳の和室で、
ピアノ、オーディオセット、ベッド、ソファ、50インチの液晶テレビ、
壁一面に漫画とノベルスが並んでいた。
(こういうのもみんな店子から巻き上げた銭で買ったんだろう)と時任は思う。
「じゃあ、DVDを借りてきたから見ようか」
言うと時任はソファにふんぞり返った。
郁恵がDVDをセットするとすぐに再生が開始される。
まずは、写真とアニメの合成の、宇宙のビッグバンの様な映像が流れる。
続いて、スタッフクレジットが流れるオープニングでいきなり
『守ってあげたい』が流れた。
♪you don't have to worry worry…
「うっ」と小さく唸ると、郁恵はぎゅーっと股を締めた。
「うっ。ちょっとトイレ行ってくる」言うと、障子を開けて出て行ってしまった。
(もう完璧だ)と時任は思う。(完成したよ)。

しばらくすると、なんと郁恵は安芸亜希子と一緒に戻ってきた。
「あれ、亜希子さん、家に来たりする間柄なの?」
「そうよ」
「ちょっとちょっと」と郁恵に引っ張られて、
二人は部屋の隅の勉強机の所に行くと、何やらひそひそ話しを始めた。
「実はね、ヒソヒソ、ヒソヒソ…」
(何を話しているんだろう。
まさか、セックスの時にユーミンを聞かされていたら、
♪you don't have to worry と聞くだけで潮を吹くようになった、
とでも言っているのでは。
しかし、既に条件付けは完了しているので、今更何を言おうと。無問題)。

その日の晩、浦野作治はチャットには居らず、時任は一方的に報告をタイプした。
時任:条件付けはバッチリですね。
何時でも、ユーミンの曲が流れてくれば濡れる様になりましたよ。
富士森公園の放送であろうと、映画の挿入歌であろうとね。
あとは場所を危険なところに移してあのメロディーを聴かせるだけ。
そうすると何が起こるか。
潮吹きだけじゃあ滑落しないと思ったから、僕は特別な仕掛けを考えましたよ。
へへへ。どんなお仕置きをするかは乞うご期待ですね。
又リポートしますよ。へへへ。




#564/598 ●長編    *** コメント #563 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:25  ( 46)
条件反射殺人事件【6】
★内容
高尾山ハイキングの当日、集合時間の1時間も前に高尾山口駅で待ち合わせをした。
ロータリーを出てきたところに知る人ぞ知る『ホテルバニラスィート』があった。
巨大なチョコレートケーキの様な建物を見上げて、
「ここを通る度に、あそこで楽しい思いをしている人もいるんだろうなぁ、
って思っていたんだ。入ってみようか。まだ1時間もあるし」と時任は言った。
「えー、又ラブホ?」
「今日はすっごくセクシィーな気分なんだよ」

部屋に入ると一応あたりを見回す。
でっかりWベッドの上に浴衣が2枚。
テーブルの上にはお茶菓子と缶のお茶。
風呂場を覗くと、ジャグジー風呂になっていた。
全体として、田舎のモーテルみたいな風情。
そんなのには大して興味をしめさず、「さぁさぁ」と言うと、
さっそくベッドに倒れ込んだ。
「今日はとにかくセクシィーな気分で我慢出来ないんだよ」
パンティーを脱がすのももどかしくセックスに移行する。
セックスの間、パンティーはベッドの上に丸まっていた。
約5分で終了。
案の定、膣液が1メートル程度のシミを作っていた。
その上にパンティーが丸まっていた。
「ちょっとぉ、濡れちゃったじゃない。これからハイキングだっていうのに」
と郁恵。
「ちょうどよかった。つーか、今日誕生日だろう? 
プレゼントを用意してきたんだよ」
言うと、ナップサックから包を出して、渡す。
郁恵が包を開けると中からパンティーが出てきた。
ランジェリーショップで売っている様なセクシィーなパンティーが。
「なぁにぃ、これ」パンティーを広げてひらひらさせながら言った。
「誕生日のプレゼント…。嘘嘘、本当のプレゼントはこっちだよ」
言うと、スウォッチを渡した。メルカリで落札した二千円の
キティーちゃんのスウォッチ
「あ、これ、いいじゃない」と郁恵は喜ぶ。
「こうやって、パンティーの後の時計を渡すのは『アニー・ホール』
みたいでやりたかったんだ」
「え、なに? 『アニー・ホール』?」
「まあ、そういう映画があったんだよ。とにかく、その時計でも、
もう十一時近いだろう。そろそろ集合時間だから行かないと。
さあ、早くそれを履いて」
郁恵はセクシーパンティーに脚を通した。
「お弁当どうしよう。高尾山口に売っているのかなあ、
それとも山頂に蕎麦屋とかがあるのかなあ」
「弁当はもう買ってきたよ。君の分も。今日から物産展だったんだなあ。
セレオ八王子で」
「へー。なんのお弁当?」
「それは山頂でのお楽しみだよ」




#565/598 ●長編    *** コメント #564 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:25  ( 91)
条件反射殺人事件【7】
★内容
やたら蕎麦屋と饅頭屋のある参道がケーブルカーの始発駅、
清滝駅につながっているた。

清滝駅の前には、書痙オヤジ、安芸亜希子、佐伯海里先生、
その他おじさん、おばさんが集合していた。
それに合流する。
「それじゃあみなさん集まった様なので出発しまーす」
ツアー客でも案内するように、海里先生がみんなを引き連れて行く。
片道四八〇円の切符を買うとカチャカチャ切符きりで切られて改札を通過する。

ケーブルカーに乗り込むと、安芸と郁恵は先頭でキャッキャしている。
時任はニヤリとほくそ笑んだ。
「高尾山行きケーブルカー、これより発車です」というアナウンスと共に、
車体が引っ張られて上がり出した。
「このケーブルカーは標高四七二メートル地点にございます
高尾山駅までご案内致します」というアナウンス。
(人が転落死するには十分な高さだな。ちょっと足を滑らせれば一巻の終わり)。
「高尾山薬王院は山頂高尾山駅より歩いて15分程のところにございます。
薬王院は今から約一三〇〇年以上前、行基菩薩により開山されたと伝えられ、
川崎大師、成田山とともに関東の三大本山の一つとなっております。」
(そんな由緒あるところでやったらバチが当たるかな。
あのメロディーを聴いて潮を吹くのは向こうの勝手だとしても、
潮吹きだけじゃあ滑落しないので、
確実に滑落する様な仕掛けを仕組んだのは僕だしなぁ)。

ケーブルカーを降りて、ぞろぞろ歩いていくと、
新宿副都心が見える展望台、サル園、樹齢四百五十年のたこ杉、と続き、
浄心門という山門をくぐるといよいよ境内に入る。

書痙オヤジやおじさん、おばさん連中が先頭と行き、萬田郁恵と安芸亜希子、
そして臨床心理士の佐伯海里先生が続く。
時任はほとんどしんがりを歩いて行った。

左右に灯篭のある参道を更に進んでいくと、
男坂と女坂というコースにY字型に分岐している。
男坂に進んで、煩悩の数だけの石段を上ったが、これにはばてた。
茶屋があって、ごまだんごと天狗ラーメンのいい香りが漂ってきた。
「お弁当買ってきた?」と佐伯海里先生が振り返った。
「うん、駅ビルで買ってきた」。
「何を?」
「牛タン弁当」
「ふーん」言うと尻をぷりぷりさせて参道を進んで行った。
参道を更に進むと四天王門という山門があって、又石段があった。
その先に、薬王院の本堂があって、そこを裏に回ると又石段。
権現堂というお堂があって、裏に回って、更にきつい石段。
奥の院というお堂があって、裏に回って、木のだんだんを上って行く。
くねくねと舗装された道を行くと、軽自動車が2台止まっていた。
(なんだよ、車で来れるのかよ)と時任は思った。
しかし、もうちょっと行ったら山頂に着いたのであった。
展望台から「富士山、丹沢が見えるー」と、書痙オヤジ、
おじさん、おばさん連中は喜びのため息をもらしていた。
「じゃあ、みなさん、ここでお昼の休憩にします。出発は一時四十五分です」
と佐伯海里先生。
おじさん、おばさん連中は、ベンチに陣取ると弁当を広げだした。
「丹沢や富士山を眺めながら食べると旨いぞー」などと言っている。
「僕らもどっかで食べる?」と時任。
「ばてすぎちゃって食べたくない」と郁恵。
「じゃあ、俺もいいや」
安芸と海里先生は「私たち、そばを食べてくる」と言って茶屋に入っていった。
何気、時任と郁恵は展望台の先っぽに移動する。
ベンチに腰掛けると、富士山を見る。
時任は、横目で、萬田郁恵のシャツの上からでもむちむちしているのがわかる
腕をガン見した。
(さっきやってきたばっかりなのに、まだ未練がある。
これを崖下に放り捨ててしまうなんておしい。
しかし、貧乏人をハエだゴキブリだと言った女だ、お仕置きしなくっちゃ。
つーか、何時も中田氏しているから妊娠しているかも。
そうしたら自分の子供もろとも崖下にって事か? 
それでもいいや。中絶の手間が省けて。
慈敬医大病院の医師みたいに同意なしに中絶しちゃうなんていう手間が省けて)。
「前に、会で、ホリエモンやひろゆきがムカつくのは
自己受容が出来ていないからだって言ったでしょう」
時任は富士山を見ながら語りだした。
「だから、尾状核的になっていて、比較するんだって。
でも、やっぱり、ホリエモン的な奴らがおかしいと思う時もある。
ずーっと前、慈敬医大の医者が看護師を愛人にして、
妊娠したからビタミン剤と偽って子宮収縮剤を飲ませて中絶させた、
という事件があったけれども、そんな酷い事が出来るのは、
制度に守られていいるからだと思うんだよね。
人間なんてでかい車に乗っているだけで威張るし、
体がでかいだけで威張るし、
制度にのっかっていれば威張るものだと思うけれども。
IT長者がツイッターで威張っているのも、同じだと思うんだよね。
だから、カーっとしてお仕置きしてしまうかも知れない」
「何をするの?」
「さぁ。今に分かるさ」

しばしベンチで堕落していたら、すぐに時間は経過した。
「それではそろそろ出発しまーす」という佐伯海里先生の声。
時計を見るともう一時四十五分。
よーし、いよいよだ。




#566/598 ●長編    *** コメント #565 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:26  ( 75)
条件反射殺人事件【8】
★内容
生活の創造会八王子支部御一行は、
おじさん、おばさん連中、書痙オヤジ、佐伯海里、時任、
しんがりに萬田郁恵と安芸亜希子という順番で来た道を引き返した。
浄心門まで戻ってくると左側の4号路に入り、高尾山の北斜面を下る。
鬱蒼としたブナなどが左右から道を覆って筒状になっている。
しばらくは丸太と盛る土の階段を下っていた。比較的幅広で手摺もあった。
しかし、すぐに道は 上りの人とすれ違えない程の、かなり細い下り坂に変わった。
右手からは樹木の根が迫っていて、老婆の手の静脈の様に見える。
左側は切れ落ちている。
「これ落ちたら死ぬで」
樹木の生い茂った崖下を見下しながら書痙オヤジが言った。
「こんなところ死体が上がらないぞ」
後ろでは、安芸亜希子と萬田郁恵がよろよろしている。
「スニーカーじゃあ危なかったかも」
「季節的に道がぬかるんでいるのかな」
(ちょっとつついてやれば崖下に転落するかな)と時任は思う。
時計を見ると、まだ一時五〇分。

しかし、丸太の階段と下り坂が交互に続いた後、道幅は急に広くなってしまった。
4号路と、いろはの森コースという別ルートの交差点の先には、
丸太のベンチまで設置してあって、休憩出来る様になっている。
(こんな幅広の道じゃあ、安全すぎる)と思う。
「休憩します?」と書痙オヤジと佐伯海里が言い合っている。
時計を見ると一時五三分。
こんなところで休まれたら予定が狂う。
「行こう、行こう、一気に行った方が楽だから」
時任は前のみんなを押し出す様に圧をかける。

しかし、丸太の長い階段を下ると、急に道幅が狭まったかと思うと、
左手は切れ落ちの崖の斜面に出た。
ここでもいいが、時計を見ると、まだ放送までには時間がある。

少しして、左手の崖下はブナなどの木で見えなくなってしまったが、
しかし川のせせらぎがきこえてくる。
あれは「行の沢」のせせらぎだ。
樹木が生い茂っていて見えないのだが、崖下には「行の沢」が流れている筈。
吊り橋も近い。
(ここだ)と思った。
時計を見ると、一時五八分。
(あと二分か)。
時任は、歩調を弱めると、立ち止まり、そしてしゃがみこんで、
靴ひもを結ぶふりをした。
「早く行ってよ」後ろで安芸亜希子が言った。
「お前ら、先に行けよ」と、亜希子と郁恵を先にやる。
紐を結びながら時計を見る。一時五九分五九秒、二時!
吊り橋の向こうから、
♪you don't have to worry worry『守ってあげたい』の
木琴Verの防災放送が流れてきた。キター。
時任はしゃがんだまま(どうなるか)と三白眼で前を行く女を睨む。
萬田郁恵がもじもじしだした。
そしてすぐに、蛙の様に飛び跳ねだした。
かと思うと、安芸亜希子にしがみついた。
二人共バランスを崩した。
(あのまま二人共落ちてしまえ!)。
しかし、郁恵だけが崖から転落していった。
ああぁぁぁぁぁー、と、悲鳴ごと吸い込まれていく。
ボキボキボキと枝の折れる音。
かすかに水の音が。
「郁恵ぇーーーー」と叫ぶ安芸亜希子。
「どうしたぁー」と書痙オヤジが振り返った。
「萬田さんが落ちました」と安芸亜希子。
「えーーーー」とか言って、佐伯海里先生だの、おじさん、おばさん連中が
崖下を見下ろす。
「郁恵ぇーーーー」と崖下に叫ぶ。
しかし、沢のせせらぎが聞こえてくるだけだった。
「降りて行ってみよう」と書痙オヤジ。
「危ないですよ。警察を呼びましょう」と海里先生。
スマホを出すと110番通報した。
「4号路の吊り橋の手前です。はい、そうです。はいはい。そうです」
他のメンツは、心配そうに崖下を覗いていた。
「一体何が」と書痙オヤジ。
「突然もじもじしだしたと思ったら、飛び跳ねて、
そして、私にも抱きついてきたんですけれども、
一人で、一人で、崖下に…。私が突き飛ばしたんじゃありませんから」と亜希子。
「それはもちろんだよ」




#567/598 ●長編    *** コメント #566 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:28  ( 52)
条件反射殺人事件【9】
★内容
たった15分で、赤いジャージに青ヘルの屈強そうな
一五、六名の救助隊が到着した。
背中に黄色い文字で『高尾山岳救助隊』と刺繍されている。
「山岳救助隊、隊長の新井です」日焼けした馬面の中年が言った。
「どうされましたか」
「突然メンバーの一人が暴れだして、ここから沢に落下したんです」
見ていたかの様に書痙オヤジが。
隊長は、しばし、崖下を見下ろす。
すぐに背後の隊員のところへ戻ると、円陣を組んで、隊員達に言う。
「これより。滑落遭難者の救助を行う。
それでは任務分担。
メインロープ担当、山田隊員、
メインの補助、今村隊員、
バックアップロープ担当、江藤隊員
バックアップの補助、池田隊員、
メインの降下要員、椎名隊員、
補助要因、豊田隊員。
以上任務分担終わり。
準備が出来次第、降下を開始する」
「はーい」と隊員らは声を上げる。
隊員らは、太い木を探して、ロープを巻き付ける。
ロープに、カラビナや滑車などを取り付けると、降下用のロープを通す。
それを降下する隊員のカラビナに縛り付ける。
降下要員にメインとバックアップの2本のロープがつながれた。
「メインロープ、よーし」
「バックアップよーし」
「降下開始ーッ」
「緩めー、緩めー、緩めー」の掛け声で、降下要員が後ろ向きに、
崖下に消えて行った。
「到ちゃーく」と茂みで見えない崖下から隊員の声がする。
続いて、補助隊員も降下していった。
既に垂らされたロープをつたって、するするすると崖下に消えていく。
「隊長ーー」崖下から声がした。「要救助者、心肺停止の状態。
これより、心臓マッサージと人工呼吸による心肺蘇生を行います」
数分経過。
「隊長ーー。心肺蘇生を行いましたが、効果ありません。
斜面急にて担架は使用不可能。よって背負って搬送したいと思います」
しばしの静寂。
「隊長ーー。ただいま、要救助者、背負いました。引き上げて下さい」
「よーし。これより、降下要員引き上げを行う。メインロープを引っ張って」
「メインロープ、引っ張りました」
「ひけー、ひけー、ひけー」
の掛け声で、降下要員が、崖下から姿を現す。
背中にはぐったりとした萬田郁恵を背負っていた。
引き上げられた萬田郁恵は、担架に移されると、
ベルトで固定されて毛布をかけられる。
4人の隊員が担架を持ち上げる。
「これより、要救助者、下山させる。いっせいのせい」で持ち上げた。
先頭に4人、担架の4人、後ろに4人の体制で、
それこそ天狗の様な速さで下山していった。
それを見ていた時任は心の中で
(ミッションコンプリート)と思う。




#568/598 ●長編    *** コメント #567 ***
★タイトル (sab     )  20/11/03  17:28  (225)
条件反射殺人事件【10】
★内容                                         20/11/04 13:27 修正 第2版
残ったのは馬面の新井隊長とあと二人。
「なにがあったんですか?」と新井隊長が聞いてきた。
「事情聴取をするんですか?」と書痙オヤジ。
「我々は高尾警察の警察官なんですよ。
私は警備課の新井警部です。
こちらは、生活安全課の山田巡査、あと交通課の江藤巡査」
狐顔の山田と狸顔の江藤が敬礼をした。
「はぁ、そうですかぁ」と書痙オヤジ。
「…どんな感じだった?」と亜希子の方を見る。
「突然、一人で、あばれだしたと思ったら、飛び跳ねて、
一回は私に抱きついたりしたんですけど、
勝手に離れると転落していったんです」と亜希子。
「その時に何か変わった事は」
「変わった事?」
「どんなに小さな事でもいいから」
「えー、」と亜希子は考え込む。
「そういえば、八王子市の放送がちょうど流れてきていました」
「放送?」
「ほら、ユーミンの♪you don't have to worry 『守ってあげたい』の
メロディーの放送です」
「えっ」と佐伯海里先生が顔を出した。「もしかして、そのユーミンと
何かが条件付けされているって事、ありませんか?」
「はぁ???」新井警部と二人の巡査は頭の周りに?マークを浮かべている。
後ろの方からそのやりとりを時任は睨んでいた。
(あの女、何を言い出す積りだ。そういえば、snsの浦野作治も、
臨床心理士には気をつけろ、と言っていたが)。時任は動揺してきた。
「私たち一行は、生活の創造会といって、神経症患者の集まりなんですけれども。
私は臨床心理士の佐伯海里と申します。
それで、神経症患者というのは、すぐに何でもトラウマにしちゃんですよ。
パブロフの犬みたいに。
例えば、メントスを食べた後に嘔吐して二度とミント味のものが
食べられなくなるとか。
同じ様に、ユーミンの放送で何か暴れるように条件付けされていたんじゃ
ないですかね」
「それ、今関係あるんですか」と隊長。
(そんな事は、関係ない、関係ない)時任は祈る様に心の中で呟いた。
じーっと考えていた、安芸亜希子が、顔を上げた。「そういえば、
郁恵ちゃん、ユーミンを好きにさせられているって言っていたわ」
「え?」
「あの、時任さんに」と時任の方を見た。「八王子市民ならユーミンを
好きにならないといけないと言われて、曲をプレゼントされて
何回も何回も、、、、」
「何回も?」
「えっ。うう」
「何回も何?」
「その、セックスの時に、繰り返しユーミンを聞かされたって。
しかも、こんなの恥ずかしいんですけれども、
重要な事だと思えるので言いますけれども、
郁恵は結構濡れやすくて、すごく濡れやすいんだと言っていました、
それで、最終的には、ユーミンを聞くだけで濡れてくるようになったと」
(くそー。萬田郁恵の家でちょっと話していたと思ったら、
そんな事までべらべら話していたのか)。
「という事は、ユーミンの放送が流れてきて、それで膣液を分泌して、
その後、あばれだして滑落した、という事ですか?」と新井警部が言った。
「そういう事は有り得ると思いますね」と佐伯海里先生。
「で、被害者は誰と付き合っていたんですか?」と新井警部。
「あの人です」と亜希子は時任を指さした
佐伯海里先生、安芸亜希子、書痙オヤジ、おじさんおばさん連中、
警部と巡査2名が時任を見ていた。
「へ、へへへ」と時任は笑う。「僕が、ユーミンと潮吹きを
条件反射にしたって? へっ。想像力がたくましいな。
つーか股間が濡れたら足が滑るとでもいうのかよ」
じーっと海里先生は時任を睨んでいた。
その視線は時任のツラからリュックに移動する。
「ちょっとリュックの中身を見せてくれない?」
「なんでだよ」
「警部、あのリュックの中に重要な証拠があるかも知れません」
「何?」と警部も時任を睨む。
「見せてくれよ」と書痙オヤジがリュックに手を伸ばした。
そして、警部と書痙オヤジに両肩を抑えられる格好になり、
そのままリュックがズレ落ちてしまった。
それを海里先生が奪うと中を見る。
「これは、さっき山頂で食べなかったお弁当ね」
と二つの弁当を取り出した。
「それが今なんの関係が」と警部。
「この牛タン弁当は、この下の紐をひっぱると、温まるんです」
言うと海里先生は紐をひっぱった。
「この弁当は、電車の中で旅行者が食べる時に温める為に、
底に生石灰だかが入っていて、この紐を引っ張ると水が出てきて、
それが生石灰と反応して熱が出るのね。
それで温まるのね。5分ぐらいで」
海里先生は弁当を手の平に乗せてみんなに見せた。
「さあ、もう温まった」
海里先生は、温まった弁当を開くと、箸を出して牛タンと米粒をつまんだ。
「さあ、時任さんに食べてもらおうかしら」
「なんで今そんなもの食わないといけないんだ」
「いいから食べてみて。いいから」
と、牛タンと米粒をつまんだ箸をもって迫っていく。
時任は警部と書痙オヤジが両肩を抑えられていて、羽交い締めにされた状態で、
ちょうどダチョウ倶楽部の上島竜兵が肥後と寺門ジモンに押さえつけられて
熱いおでんを食わされる様な格好になっていた。
海里先生は、牛タンとご飯を時任に食わせた。
「モグモグ、う、うえー」と時任は吐き出した。
「なんだ」と警部。
「ガルシア効果だわ」と海里先生。
「ガルシア効果?」
「この時任さんと郁恵さんは、先々週の土曜、
焼肉を食べた後メントスを舐めて、その後バイクで車酔いをして吐いたんですね。
一回そういう事があると当分ミント味は嫌いになる、というのがガルシア効果。
実際、萬田郁恵さんは、先週の創造会の時にサイダーが飲めなかった。
しかし、このガルシア効果の条件付けは、ミントだけじゃなかった。
焼肉も、食べると吐き気がするという条件付けがなされていたのね。
それで今時任さんは吐き出した。
さあ。ここで疑問だわ。
時任さんは、何故食べられもしない牛タン弁当を買ってきたのかしら」
海里先生は、腕組みをすると顎を親指と人差し指でつまんだ。
安芸亜希子や、両肩を抑えている書痙オヤジ、警部も首をひねっている。
「何で食べられもしないのに牛タン弁当を買ってきたのよ」と亜希子。
「なんでだ。言ってしまえ」と書痙オヤジ。
「ふん」羽交い締めされたまま時任はそっぽを向いた。
「なんで?」
「なんでなのよ」
「なんでだ」
「なんでですか」
みんなの「なんで」の嵐が巻き起こる。
時任は。なんで攻撃を無視して黙り込んでいた。

「言いたくないみたいね」と海里先生。「だったら私の想像を話すわ」
海里先生は腕組みを解くと、吊り橋の方を指差した。
「さっき、ユーミンの放送が聞こえてきた時、
急に萬田郁恵さんがあばれだして、そして滑落した。
それは、ユーミンの曲を聞くと膣液が分泌される
という条件付けがなされていたから。
でも、膣液が出たぐらいじゃあ、足を踏み外すとは思えない。
それだけじゃない何かの仕掛けを仕込んでおいたのね。
それはどんな仕込みなのか。
それは、非常に非常に児戯的な感じはするんですが、
それは、この牛タン弁当の底にあった生石灰、
それは水分を吸収すると熱を発するのですが、
それを、郁恵さんのパンティーに仕込んでおいたんじゃない? 
それで膣液が出て、それを石灰が吸収して、発熱して、
それで、あちちちちとなって飛び跳ねて滑落した、と」
「へへへっ。そんな事」時任は顔を引きつらせた。
「どうやって、パンティーに生石灰を仕込むんだよ」
「それは、潮吹きだから、替えのパンティーが必要で、
それに仕込んでおいたんじゃないの?」
「想像力たくましすぎだね」
「じゃあ、警部に調べてもらいましょう。
警部、連絡して調べてみてもらって下さい。郁恵さんのパンティーを」
「了解」警部は携帯を出すと電話した。
「こちら、新井です。要救助者の下着になんかの細工がしていないか
調べてもらいたいんだが。そう、そうです。はい。それではお願いします」
電話をしまうと警部はこっちに言ってきた。
「今調べてもらっていますから」
今や時任は2人の巡査に押さえ込まれて、膝を付いた状態になっている。
書痙オヤジ、安芸亜希子、海里先生、おじさん、おばさん連中全員が
取り囲んでいた。
警部の携帯が鳴った。
「はい。はい。なにぃ。そうかあ。出てきたかあ。了解」
携帯をしまうと語気を強くして、警部は時任に言った。
「お兄さん、ふもとの交番に来て、話を聞かせてもらいたいんだがね」
「それ任意だろ」
「なにぃ」
「任意だったら行かなくってもいいんじゃね? 
よくユーチューブとかでもやっているけれども」
「物証が出てきちゃっているじゃないか」
「物証が出てきたって現行犯じゃないだろう。
証人が言っている事だって嘘かも知れないし」
「物証が出てきているんだから、任意で応じないなら逮捕状請求するだけだな」
「だったら、札、もってこいや」
「じゃあー、そうだなあ、保護だ」と警部が言った。
「吐いたし、この人はふらふらしているから、滑落する危険がある。
これよりマルタイを保護する。ほごーー」
その掛け声で二人の巡査は、時任を片腕ずつ抱え込んだ。
「待て、ゴルぁ、離せこら、離せ」
など言うが、強引に、巡査二人に引き上げられる。
時任は、ほとんどNASAに捕まった宇宙人状態で、
足を空中でばたばたさせながら、下山していった。
嗚呼哀れ、時任正則もこれで年貢の納め時。
これにて事件はあっけなく一件落着。

「それではですねえ」と警部が言った。
「代表者の方のお名前と連絡先を教えていただきたいんですが」
「はあ」と書痙オヤジが前に出る。「私ら、生活の創造会、八王子支部の者で、
私は代表世話人の佐藤と申します。連絡先は090********です」
警部は手帳にめもっていた。
「分かりました。又、後ほど事情にお伺いするかも知れませんがその時は
よろしくお願いします」
「はあ」
「それではご一緒に下山しますか」
「いやいや、お先にどうぞ」
「それでは私はこれで失礼します」
敬礼をすると警部は天狗の様なスピードで下山していった。

「あー、よかった。名前を書いてくれって言われるんじゃないかと
ヒヤヒヤしたよ」と書痙オヤジ。「まさか、参考人の調書なんて
とられるのはいいけれども、署名しろなんて言われないだろうなあ」
「そういえば、警察の取り調べではカツ丼が出るというけれども、
そんなの食べられないわ」と亜希子。
「ベジタリアンだから天丼にしてくれって言えばいいじゃない」
「でも、警察のメニューはカツ丼しかないって言うから」
「マスコミが騒いだりしないだろうなあ。みんなあの会に参加しているのは
秘密なんだから。テレビなんかで、この人達は神経症ですよーなんて
全国報道されたらたまったもんじゃない」
(全く神経症の人って、最愛の人の葬式でも、
線香を持った手が震えないか心配しているんじゃあないかしら。
でも、神経症の人って神経症自体の苦しみ以外に、
それがバレる事の恥ずかしさとも戦っているのね)と佐伯海里は思った。

「それじゃあ我々も下山するか。日が暮れるから」と書痙オヤジ。
「そうね」と安芸亜希子。
御一行は、書痙オヤジを先頭に、おじさんおばさん、亜希子、
そしてしんがりに佐伯海里の順番でとぼとぼ下山していった。
吊り橋を渡っている時に、『夕焼け小焼け』の鉄琴のメロディーが流れてきた。
八王子市では夕方五時に防災無線でこのメロを放送している。
『夕焼け小焼け』を聞きつつ、
(ユーミンのメロとの条件付けなんて誰が思い付いたんだろう)
と佐伯海里はふと思った。
(ユーミンと膣液の条件付けは鮮やかな感じはするのだが、
パンティーに生石灰を仕込むというのは如何にも鈍くさいと感じる。
せっかく遠くから聞こえてくるユーミンのメロに反応するという
遠隔操作的条件付けをしておきながら、
当日牛タン弁当を買うなんてアホすぎる。
動かぬ証拠を持ち歩いてる様なもので。
それは、犯人がアホだからではないのか。
もしかしたら、条件反射に関しては、
誰か入れ知恵をした者がいるのかも知れない。
これは、もし事情聴取があったら、あの警部に言ってやらないと)
など思いつつ、海里は吊り橋を渡った。
吊り橋の底を覗くと、海里はぶるっと震えるのであった。
(水が少ししかない。あれじゃあ痛かっただろうなあ)と思ったのだ。
後ろを振り返ると闇が迫っていた。
西の空には宵の明星が姿を現していた。

【了】




#569/598 ●長編
★タイトル (sab     )  20/11/07  17:44  (378)
条件反射殺人事件【10】別ver
★内容                                         20/11/07 17:51 修正 第2版
【10】

残ったのは馬面の新井隊長とあと二人。
「なにがあったんですか?」と新井隊長が聞いてきた。
「事情聴取をするんですか?」と書痙オヤジ。
「我々は高尾警察の警察官なんですよ。
私は警備課の新井警部です。
こちらは、生活安全課の山田巡査、あと交通課の江藤巡査」
狐顔の山田と狸顔の江藤が敬礼をした。
「はぁ、そうですかぁ」と書痙オヤジ。
「…どんな感じだった?」と亜希子の方を見る。
「突然、一人で、あばれだしたと思ったら、飛び跳ねて、
一回は私に抱きついたりしたんですけど、
勝手に離れると転落していったんです」と亜希子。
「その時に何か変わった事は」
「変わった事?」
「どんなに小さな事でもいいから」
「えー、」と亜希子は考え込む。
「そういえば、八王子市の放送がちょうど流れてきていました」
「放送?」
「ほら、ユーミンの♪you don't have to worry 『守ってあげたい』の
メロディーの放送です」
「えっ」と佐伯海里先生が顔を出した。「もしかして、そのユーミンと
何かが条件付けされているって事、ありませんか?」
「はぁ???」新井警部と二人の巡査は頭の周りに?マークを浮かべている。
後ろの方からそのやりとりを時任は睨んでいた。
(あの女、何を言い出す積りだ。そういえば、snsの浦野作治も、
臨床心理士には気をつけろ、と言っていたが)。時任は動揺してきた。
「私たち一行は、生活の創造会といって、神経症患者の集まりなんですけれども。
私は臨床心理士の佐伯海里と申します。
それで、神経症患者というのは、すぐに何でもトラウマにしちゃんですよ。
パブロフの犬みたいに。
例えば、メントスを食べた後に嘔吐して二度とミント味のものが
食べられなくなるとか。
同じ様に、ユーミンの放送で何か暴れるように条件付けされていたんじゃ
ないですかね」
「それ、今関係あるんですか」と隊長。
(そんな事は、関係ない、関係ない)時任は祈る様に心の中で呟いた。
じーっと考えていた、安芸亜希子が、顔を上げた。「そういえば、
郁恵ちゃん、ユーミンを好きにさせられているって言っていたわ」
「え?」
「あの、時任さんに」と時任の方を見た。「八王子市民ならユーミンを
好きにならないといけないと言われて、曲をプレゼントされて
何回も何回も、、、、」
「何回も?」
「えっ。うう」
「何回も何?」
「その、セックスの時に、繰り返しユーミンを聞かされたって。
しかも、こんなの恥ずかしいんですけれども、
重要な事だと思えるので言いますけれども、
郁恵は結構濡れやすくて、すごく濡れやすいんだと言っていました、
それで、最終的には、ユーミンを聞くだけで濡れてくるようになったと」
(くそー。萬田郁恵の家でちょっと話していたと思ったら、
そんな事までべらべら話していたのか)。
「という事は、ユーミンの放送が流れてきて、それで膣液を分泌して、
その後、あばれだして滑落した、という事ですか?」と新井警部が言った。
「そういう事は有り得ると思いますね」と佐伯海里先生。
「で、被害者は誰と付き合っていたんですか?」と新井警部。
「あの人です」と亜希子は時任を指さした
佐伯海里先生、安芸亜希子、書痙オヤジ、おじさんおばさん連中、
警部と巡査2名が時任を見ていた。
「へ、へへへ」と時任は笑う。「僕が、ユーミンと潮吹きを
条件反射にしたって? へっ。想像力がたくましいな。
つーか股間が濡れたら足が滑るとでもいうのかよ」

じーっと海里先生は時任を睨んでいた。
その視線は時任のツラからリュックに移動する。
「ちょっとリュックの中身を見せてくれない?」
「なんでだよ」
「警部、あのリュックの中に重要な証拠があるかも知れません」
「何?」と警部も時任を睨む。
「見せてくれよ」と書痙オヤジがリュックに手を伸ばした。
そして、警部と書痙オヤジに両肩を抑えられる格好になり、
そのままリュックがズレ落ちてしまった。
それを海里先生が奪うと中を見る。
「これは、さっき山頂で食べなかったお弁当ね」
と二つの弁当を取り出した。
「それが今なんの関係が」と警部。
佐伯海里は、牛タン弁当を乱暴に開封すると、
箸を出して牛タンと米粒をつまんだ。
「さあ、時任さんに食べてもらおうかしら」
「なんで今そんなもの食わないといけないんだ」
「いいから食べてみて。いいから」
と、牛タンと米粒をつまんだ箸をもって迫っていく。
時任は警部と書痙オヤジが両肩を抑えられていて、羽交い締めにされた状態で、
ちょうどダチョウ倶楽部の上島竜兵が肥後と寺門ジモンに押さえつけられて
熱いおでんを食わされる様な格好になっていた。
海里先生は、牛タンとご飯を時任に食わせた。
「モグモグ、う、うえー」と時任は吐き出した。
「なんだ」と警部。
「ガルシア効果だわ」と海里先生。
「ガルシア効果?」
「この時任さんと郁恵さんは、先々週の土曜、
焼肉を食べた後メントスを舐めて、その後バイクで車酔いをして吐いたんですね。
一回そういう事があると当分ミント味は嫌いになる、というのがガルシア効果。
実際、萬田郁恵さんは、先週の創造会の時にサイダーが飲めなかった。
しかし、このガルシア効果の条件付けは、ミントだけじゃなかった。
焼肉も、食べると吐き気がするという条件付けがなされていたのね。
それで今時任さんは吐き出した。
さあ。ここで疑問だわ。
時任さんは、何故食べられもしない牛タン弁当を買ってきたのかしら」
海里先生は、腕組みをすると顎を親指と人差し指でつまんだ。
安芸亜希子や、両肩を抑えている書痙オヤジ、警部も首をひねっている。
「何で食べられもしないのに牛タン弁当を買ってきたのよ」と亜希子。
「なんでだ。言ってしまえ」と書痙オヤジ。
「なんで?」
「なんでなのよ」
「なんでだ」
「なんでですか」
みんなの「なんで」の嵐が巻き起こる。
しかし時任は、羽交い締めを振りほどくと立ち上がり、
地面からリュックを拾うと担いだ。
「バカバカしい。俺は帰らせてもらうぜ」言うと一人で山頂の方へ逆戻りしだした。
「ケーブルカーで帰る積りかぁ」と書痙オヤジ。
「捕まえないんですか」と海里は警部に言った。
「さあ、牛タン弁当を持っていたというだけでは、どうにもねぇ」
腕組みをして時任の背中を見ている。
その背中はどんどんと小さくなり、やがてブナなどの茂みの中に消えていった。
「ふー」と警部はため息をつく。「それじゃあ、我々もこれで下山しますが。
ご一緒に下山しますか」
「いやいや、お先にどうぞ」
「それでは我々ははこれで失礼します」
敬礼をすると馬面警部と狐顔巡査、狸顔巡査は天狗の様なスピードで
下山していった。
「それじゃあ我々も下山するか。日が暮れるから」と書痙オヤジ。
「そうね」と安芸亜希子。
御一行は、書痙オヤジを先頭に、おじさんおばさん、亜希子、
そしてしんがりに佐伯海里の順番でとぼとぼ下山していった。
吊り橋を渡っている時に、『夕焼け小焼け』の鉄琴のメロディーが流れてきた。
八王子市では夕方五時に防災無線でこのメロを放送している。
吊り橋の底を覗いて、海里はぶるっと震えた。
(水が少ししかない。あれじゃあ痛かっただろうなあ)と思ったのだ。
後ろを振り返ると闇が迫っていた。
西の空には宵の明星が姿を現していた。

【11】
翌日の日曜日、一日中、佐伯海里は考えていた。
(あの時ユーミンのメロがトリガーになって郁恵は暴れだした。
ユーミンと潮吹きの条件付けしたのは時任に間違いない。
でも、股が湿ったぐらいじゃあ滑落しないだろう。
そこで出てきたのが牛タン弁当だ。
なんでガルシア効果で食べられない牛タン弁当なんて持っていたんだろう)。
考えても考えても、これらの点が線になる事はなかった。

夕方になって、書痙オヤジから電話がかかってきた。
「実は、萬田郁恵さんの葬式の事なんだが、今日通夜で明日告別式なんだよ」
「えー、検死とか解剖とかはしないんですか?」
「それが、事件性がないというんで事故として扱われたらしんだよ。
それで、お寺さんやら斎場の都合もあって明日が告別式になっちゃったんだよ。
で、海里先生にも来てもらいたいんだがねえ」
「それはいいですけど」

翌日の昼頃、海里は告別式の行われる市の斎場に着いた。
火葬場併設の式場で、四十五名収容と狭い為、
入りきれない弔問客はロビーで待っていた。
手首に包帯を巻いた書痙オヤジがいた。それ以外に安芸亜希子や
何時も見るおじさん、おばさん連中もいる。
なんと時任がきていやがった。犯人が犯行現場に戻るというのはこの事か。
相当飲んでいるらしくふらついている。
あんな事件をやってしまった後ではシラフではいられないのだろう。
それ以外に、新井警部と狐顔巡査、狸顔巡査の姿も見える。
やっぱり事件性があるのだろうか。

親類縁者などの焼香が終わると、弔問客が4人ひと組でお焼香をする。
お焼香の時に郁恵の遺影を見たが、まだ高校生の面影を残している。
さぞかし無念だったろう。この無念を晴らしてやりたい、と海里は思った。

焼香が終わると、又ホールに出てくる。
暖房のないホールはひどく寒かった。
十一月中旬は、晩秋ではなく完全に冬だ。
葬儀社の人が「これをどうぞ」とホッカイロを配っていた。
海里も一個もらって拝む様にもんで手を温めた。
となりにいたオバタリアン二人組が、
「この前、寒くてさあ、ホッカイロを下っ腹に入れて寝ていたのよ。
そうしたら下の方にずれて、お股が低温火傷しちゃった」
「あらあら、当分おあずけね」
などと、下卑た笑いをあげていた。
お弔いの席で不謹慎なおばさんたちだ、とは思ったが。
(何かひっかかるものを感じる)と海里は思ったのだった。

又反対側には地方から来たらしいおっさんが二人いて、
ホッカイロだけでは足りないらしく、
「お清めだから酒を飲もうか。体も温まるしさ」などといって、
缶入りの酒を取り出していた。
「これ、面白いんだぜ。この底のボタンを押すと酒があったまるんだよ」
「へー、底にヒーターでもついているの?」
「違うよ。ここに、生石灰と水が入っていて、
この缶底のボタンを押すと中で生石灰と水が混ざって、
それで熱が出るんだよ」
「へー」
「酒だけじゃないんだぜ。今日、八王子の駅ビルで物産展をやっていて、
そこで牛タン弁当を買ったんだが、それも底に生石灰が仕込んであって、
紐を引っ張ると温まる仕掛けになっているんだよ。見せてやるよ」
言うとおっさんはカバンから牛タン弁当を取り出した。
「この紐を引っ張ると中で生石灰と水が反応して熱を出すんだよ。
ここにそう書いてあるだろう」
あれは、時任が高尾山にもってきたのと同じものだ。
あの時はあわてて乱暴に開封したので、あんな温め装置には気付かなかったが…。(何
かひっかかるものを感じる)と海里は思った。

ロビーに、葬儀社の人間が出てくると「それではお別れの時間です」と告げた。
遺影や位牌をもった親類縁者がぞろぞろと出てくる。
親族の最後尾に続いて、火葬場に向かった。
別棟の火葬場に行くと、既に、火葬炉の扉の前に萬田郁恵の棺は置かれてあった。
「それでは最後のお別れでございます」
棺の小窓が開けられる。父母や兄弟が覗き込み、そして嗚咽して泣くのであった。

火葬炉の扉が開けられた。
中を覗き込んで、(あそこに入ると、火にくるまれて燃えてしまうんだわ)
と思ったその刹那、海里は思い付いた。
生石灰で牛タン弁当を温めるイメージと、ホッカイロで股間を温めるイメージから
ひらめいたのである。
キターーーー!!
「ちょっと待って」海里は声を上げるた。
弔問客を押しのけて、棺のそばまで行く。
「ちょっと待ってください。郁恵さんの無念を晴らす為に、
ちょっとみなさんに言いたい事があります」
「な、なにかね」と親族の一人が言った
「もう一回、高尾山での滑落の事件について考えてみたいんです。
あれは事故なんかじゃない。事件なんです」
「なにを?」と親族。
後ろの方では、新井警部らも見ていたが何も言わない。
「ここで言わないと、本当に郁恵さんの無念が晴れません。
だから、言わせて下さい」
「何をだね」
「じゃあ言います。
一昨日、高尾山の4号路の下りの、吊り橋手前で、郁恵さんは滑落しました。
その時にはユーミンのメロ、八王子の防災放送のメロが流れていた。
そのメロで突然暴れだしたんですが、
時任に、あの後ろにいる、あの男です、あの酔っ払っている男に、
ユーミンのメロを聞くと股間が濡れるという条件付けをされていたんです」
「何を言っているんだ、君は」
「でも、これは本当なんです。そしてこれを言わないと、
真相が明らかにならないし、郁恵さんの無念は晴れないんです。
だから言わせてください。
郁恵さんは、ユーミンのメロを聞くと股間が濡れる様に条件付けされていた。
パブロフの犬の様に、ブザーを聞けばヨダレが出る様に、
ユーミンのメロを聞けば股間が濡れるという条件付けを」
「何を言っているんだ、不謹慎な」
「不謹慎でも何でも本当の事を言わない方が郁恵さんは無念だと思います」
「だいたいどうやってそんな条件付けっていうのか、それをしたというんだ」
「それは、セックスの時に繰り返しユーミンを聞かせたりして」
「不謹慎な事を言うなッ」
「でも、真相を言わない方が郁恵さんは無念だと思います。
とにかく、郁恵さんは、ユーミンのメロを聞くと膣液を吹く、
という条件付けをされていた。
そして山中でユーミンのメロが流れてきた。それで潮を吹いたんです。
でも、それだけでは、滑落しない。股間が湿っただけでは足を滑らせたりはしない。
そこで出てきたのが時任の持っていた牛タン弁当です」
「一体、なんの話をしているんだね」
「時任が牛タン弁当を持っていたんです」
「それが何の関係が」
「関係あるんです。時任が牛タン弁当をもっていた、という事が。
しかも、彼は、先々週、焼肉を食べてバイクで酔って吐いてから、
もう焼肉系は食べられなくなっていた。だのにそんなものを持っていた。
それが謎でした」
「…」もはや親族は何も言わなかった。
「ここまでを整理すると、あの時、ユーミンのメロで股間が濡れた、
その条件付けをしたのは時任、でもそれだけじゃあ滑落しない、
そして時任は食べられもしない牛タン弁当をもっていた、という事です。
そして、今日、ここに来て、私は二つの事からひらめいたんです。
一つは、ホッカイロを股間にあてておくと低温火傷をするという事。
これがひっかかりました」
「き、君は、郁恵の最後を侮辱する積りか」
「そうじゃないんです。とにかく、ホッカイロを股間にあてるという事と、
それから、もう一つは、あれです」
言うと海里は、田舎からきた風のおっさんのところに行くと、
さっきの牛タン弁当を奪ってきた。
「これです。この牛タン弁当。今日ここで、偶然にも、
時任があの日もっていた牛タン弁当に出くわしたんです。
それがこれ。
そうでしょう。時任さん」と後部にいる時任に言うが、時任は返事はしない。
「まあ、いいわ。…それで、この牛タン弁当の底には生石灰があって、
この紐を引くと水と反応して熱が出るんです。
同じものを時任は事件の日に持っていた。
以上の2点から、私はひらめいたんです。
もしかしたら、時任は、生石灰を郁恵さんのパンティーに
仕込んでおいたんじゃないか、と。
それで膣液が出て、それを石灰が吸収して、発熱して、
それで、あちちちちとなって飛び跳ねて滑落した、と」
「き、きみ」とは言ったものの、親族一同は、今度は時任の方を見た。
「へへへっ。そんな事」時任は顔を引きつらせた。
「どうやって、パンティーに生石灰を仕込むんだよ」
「それは、潮吹きだから、替えのパンティーが必要で、
それに仕込んでおいたんじゃないの?」
「想像力たくましすぎだね」
「それじゃあ、新井警部」
「はいよ」
「調べてみて下さい。この棺の中の郁恵さんのパンティーを。
これは不謹慎でもなんでもないんです。
火葬にしてしまったら証拠は消えてしまうんです。
もしパンティーから、この牛タン弁当の生石灰と同じものが出てきたら
ビンゴじゃないですか。ねえ、警部」
「分かった」言うと、警部が親族の方に進み出てきた。
「それじゃあ、親族のどなたか、郁恵さんの下着を
取り出してもらえないでしょうか。それとも湯灌でもしちゃいました?」
「いえ、傷がひどいのでそのままでと」
「じゃあ、ご親族の方、ご遺体からパンティーを」
父親らしき男がため息をつくと、隣にいた若い娘、郁恵の姉妹であろうか、
に目で合図した。
そして娘が棺の蓋をずらすと、しばらくごそごそやって、そして、
ハンケチにブツを包んできて警部に渡す。
「江藤、山田、その牛タン弁当の底から生石灰を出してみろ」
それから3人は唸りながら、牛タン弁当の生石灰とパンティーのを比較する。
待つこと数分、新井警部が顔を上げた。「こりゃあ、調べてみる価値ありだな」
そして時任の方を向いて言う。
「時任さん、署に来て話を聞かせてもらいたいんだがね」
「それ任意だろ」
「なにぃ」
「任意だったら行かなくってもいいんじゃね? 
よくユーチューブとかでもやっているけれども」
「物証が出てきちゃっているじゃないか」
「物証が出てきたって現行犯じゃないだろう」
「物証が出てきているんだから、任意で応じないなら逮捕状請求するだけだな」
「だったら、札、もってこいや」
「何を言っているんだ、お前は、協力しろ」
「いやだね」
「協力しろよ」
「いやだね」
「なんでだよ」
「協力する義務がないから」
こういう言い合いがしばらく続く。
最後に時任が「俺は帰るぜ」と宣言すると踵を返そうとする。
が、酔っているせいでよろけた。
「危ないっ」と警部が叫んだ。「危ない、危ない。転ぶかも知れない。
保護だ。保護ーッ!」
その掛け声で二人の巡査は、時任を片腕ずつ抱え込んだ。
「待て、ゴルぁ、離せこら、離せ」
など言うが、二人の巡査に完全に脇を固められる。
時任は、ほとんどNASAに捕まった宇宙人状態で、
足を空中でばたばたさせながら、火葬場から連れ去られていった。
嗚呼哀れ、時任正則もこれで年貢の納め時。

ここより事件は警察が捜査する事となった。
火葬は中止になり、郁恵の遺体は警察がもっていく事となった。
近親者は複雑な思いでロビーに佇んでいた。
佐伯海里、書痙オヤジ、安芸亜希子、その他の生活の創造会メンバーは
とぼとぼと斎場から出て行った。
「参考人の調書なんてとられるのかなぁ」と書痙オヤジ。「とられるのは
いいけれども、署名しろなんて言われないだろうなあ。手が震えちゃうよ。
今日は包帯をして誤魔化したけれども、何時も包帯をしていたらバレるしな」
「そういえば、警察の取り調べではカツ丼が出るというけれども、
そんなの食べられないわ」と亜希子。
「ベジタリアンだから天丼にしてくれって言えばいいじゃない」
「でも、警察のメニューはカツ丼しかないって言うから」
「マスコミが騒いだりしないだろうなあ。みんなあの会に参加しているのは
秘密なんだから。テレビなんかで、この人達は神経症ですよーなんて
全国報道されたらたまったもんじゃない」
(全く神経症の人って、愛する人の葬式でも、
線香を持った手が震えないか心配しているのね。
でも、神経症の人って神経症自体の苦しみ以外に、
それがバレる事の恥ずかしさとも戦っているのね)と佐伯海里は思った。

斎場から通りに出たところで、ちょうど二時になり、
例のユーミンの曲が流れてきた。
(ユーミンのメロとの条件付けなんて誰が思い付いたんだろう)
と佐伯海里はふと思った。
(ユーミンと膣液の条件付けは鮮やかな感じはするのだが、
パンティーに生石灰を仕込むというのは如何にも鈍くさいと感じる。
せっかく遠くから聞こえてくるユーミンのメロに反応するという
遠隔操作的条件付けをしておきながら、
当日牛タン弁当を買うなんていうのもアホすぎる。
動かぬ証拠を持ち歩いてる様なものだから。
それは、犯人がアホだからではないのか。
もしかしたら、条件反射に関しては、
誰か入れ知恵をした者がいるのかも知れないな。
これは、もし事情聴取があったら、あの警部に言ってやらないと)
など思った。

とにかく海里は、自分は郁恵の無念を晴らしてやったのだ、とは思っていた。
そして空を見上げると初冬の空も晴れていた。

【了】









#570/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  21/02/04  20:23  (  1)
期間限定UP>凶器は嵐の夜に飛ぶ   永宮淳司
★内容                                         21/02/15 19:47 修正 第2版
※都合により非公開風状態にしております。




#571/598 ●長編    *** コメント #570 ***
★タイトル (AZA     )  21/02/04  20:24  (  1)
期間限定UP>凶器は嵐の夜に飛ぶ【承前】   永宮淳司
★内容                                         21/02/15 19:48 修正 第2版
※都合により非公開風状態にしております。




#572/598 ●長編
★タイトル (AZA     )  21/06/19  21:22  (170)
計算すると不利かな<前>   永山
★内容                                         22/09/25 03:41 修正 第2版
 君は力コンなるものを知っているかい?
 小説投稿サイト大手の一つで“読むは力、書くも力”をキャッチフレーズにする力ワ
ヨムは毎年秋口から年末にかけて、登録ユーザーを対象にしたコンテストを催す。その
名も力ワヨム・コンクール、略して力《りき》コン。

 いくつかの部門に分かれていて、登録ユーザーは自分に参加資格のある部門の中か
ら、自分に合ったものへ作品を投じることになるんだ。
 まず力コン大賞と力コン短編賞とがある。大賞の方は長編で、締め切りの時点で字数
は十万字以上が必要、かつ、嘘でもはったりでもいいから完結済みにしなければならな
い。
 純粋な意味での長編でなくとも、一つのシリーズとして連作短編形式で十万字以上に
達していれば、長編と見なされる。ただし、最後に各短編がつながるような芯が通って
いることが望ましいとされ、実際単なる短編集形式が受賞に至ったことはない。
 一方の力コン短編賞は文字通り短編を対象としたもので、字数は五千字から二万字ま
で、完結済みが必須条件となっている。

 力コンにはもう一つ大きな区分けがあって、それは自費出版を除いて一度でも単著出
版(媒体は問わない)の経験がある者はプロと見なし、長編・短編ともに別枠で募ると
いう線引きさ。
 尤もこのプロ部門、大いに賑わっているとは言い難い。受賞の際の賞金額や出版条件
はアマチュアと変わらない上、結果に“プロ”同士の実力・人気の差が如実に表れるた
めか、わざわざ挑んでくる本当の意味でのプロはごくわずか。一、二作出して長らく音
沙汰なしのクリエイター達が参加者の大半を占めてる。

 僕? 僕はもちろんアマチュアの方に参加している。大昔、まだ小説投稿サイトなん
て存在しない頃、素人作品ばかりで編む推理小説のアンソロジーに拙作を拾ってもらっ
たことがあるから、そこそこ行けるんじゃないかと思ってたんだけど、前回初めて出し
てみて、全然だめだった。
 念のため聞いとくけど、君も出すならアマチュア? ああ、そうだよね。いや、ライ
バルが増えるなあと思って。あっ、でもジャンルが被るかどうかは分からないか。

 それぞれの区分けの下には、より細かなジャンル分けが設けられてる。
 第一回はファンタジー、恋愛・ラブコメ、ミステリ、SF・ホラー、その他エンタ
メ、純文学という六つに分けていたが、各部門間で応募数の差が著しくあり、またそう
いった過疎部門にカテゴリーエラーと承知の上で敢えて自作を投じる者が幾人か出て、
いささか混乱した状況を呈していたそうだよ。え? ああ、僕はその頃はまだ参加して
ない。それどころかそういうサイトがあることすら知らなかった。で、第二回から、コ
ンクール期間中に一旦エントリーしたあとは、カテゴリ変更や部門変更は一切禁じられ
ることになる。
 翌年の第二回から毎回、ジャンルによる部門分けは変わり、今でも迷走と揶揄される
ことしばしばだ。そもそも部門が互いに重なっている感があって、部門変更禁止のルー
ルが厳し過ぎるとの声もある。
 運営サイドのガイドラインによれば、複数の部門に跨がりそうな作品――たとえば異
世界で名探偵が幽霊殺しを調査する――は、作者自身の判断で一つの部門のみに投じな
くてはいけない、となっている。作者自身の判断が間違っていたら、部門違いで遠慮な
く落とすんだってさ。なお、同一あるいは極めてよく似た作品を複数の部門に投じるの
は御法度だから。
 その辺りはさておき第七回目の今年は、別世界ファンタジー、日常ファンタジー、学
園・ラブコメ、恋愛・現代ドラマ、SF・ホラー・幻想、ミステリ・知略バトルとなっ
ている。他にも細かな但し書きがあり、応募に際してよく読まなくちゃいけないよ。
 たとえば恋愛・現代ドラマ部門には異世界要素のある作品はNG。架空の国を設定す
る場合も、現実離れしたものは一律アウトに処するとのこと。
 また、学園・ラブコメ及び恋愛・現代ドラマの各部門では、過度な性描写や残酷な描
写をしてはならない等々。

 参加する作家にとって重要な項目の一つは、選考方法だろうね。
 これがつまびらかにされていない。募集要項には大まかに記されているのみ。
 予選として、読者選考がある。その上位作品が本選に進み、ここで初めてプロの編集
者が目を通して受賞に値する作品の有無をジャッジする、らしい。
 では読者選考とはいかなる方法で行われるのか。僕が初めてこの項目を読んだとき、
投票ボタンはどこにあって、一人何票分の権利があるんだろうって探したんだけど、思
ったのとちょっと違ってた。
 調べてみると、部門分けほどではないが、マイナーチェンジを繰り返している。
 第一回コンクールでは“星”と呼ばれる読者による評価がそのまま反映された。一人
につき一作品に三つまで星を付けられ、コンクールの開催期間中は一度付けた星を増減
させてはならない。期間中に得た星を集計し、上位から一割足らずを本選に上げる。一
見、うまく機能したようだったが、応募総数が膨大故、ネット上で有名な作者が多少有
利な形式であることは否めなかったようだよ。加えて、後に公募の伝統ある賞で大賞を
獲る作品が読者選考の段階で落ちていたことが判明し、内外から問題視されてる。力コ
ンのカラーが定まっていなかった頃の話なので、「そういう作品は最初から公募に出せ
よ」的な論調はほぼなかった。

 第二回では読者選考のシステムは同じだが、コンクール期間中、星の数及びランキン
グを非表示としたそうなんだ。が、顕著な改善は見られず。それどころか、主催社によ
る不正(出来レース)が行いやすくなったといらぬ誤解を招き、不評を買っているね。

 第三回でも読者選考の方式は基本的に変えず、星の数は非表示のまま、ランキングは
出すようにした。
 そして大きな変更として、マイナスの星を投じることが可能になった。単純にプラス
の星数からマイナスの星数を引くのではなく、ある程度の傾斜――パーセンテージは非
公表――を付けてマイナスし、順位付けした。
 が、これはコンクール史上に残る混乱をもたらしたんだ。星を計算するとマイナスに
なる作品が続出したんだってさ。贔屓の作家を勝たせようと、固定読者がライバル作品
に、いや贔屓作家以外の作品全てにマイナスの星を目一杯付けたようなんだちょっと考
えればこういう事態も起こり得ると、予測ができそうな気がするんだけど、何故かゴー
サインが出たんだろうね。無論、マイナスになろうとランキングは作成可能だけど、い
びつな結果になったのは火を見るよりも明らかだった。

 第四回ではマイナスの星は取りやめた一方、一人の読者がコンクール期間中に投じら
れる星は各部門三十個までとされた(一つの作品には三つまで)。この回は第三回がひ
どかったせいもあって、比較的穏便に終わったと言えるかもしれない。ただ、証拠は全
くないが、投じない、つまり余った星の“取り引き”が裏で行われたのではないかとい
う噂が立ったらしい。

 第五回。一読者がコンクール中に投じられる星の数は、各部門十個までと大幅に減ら
された。ここまで手持ちの星が少ないと、なかなか余りは生じないらしく、最も妥当な
結果になった回と評されている。たまたまかどうか分からないが、後年大ヒット作にな
るあの『殲怪《せんかい》の忍び』を輩出したのはこの第五回だよ。

 第六回は、前回の選考方法を踏襲しつつ、さらなる改善が行われた。作品に星を付け
たのがどのユーザーなのか、期間中は分からない仕組みになった。本選の結果が出たあ
とには、投票者もオープンになる。
 このやり方は、一部の作家とその固定読者との間に緊張関係をもたらしたってさ。こ
れもちょっと考えれば分かる。読者からすれば推しの作家や作品が一つとは限らないの
に、作家側は「当然、私を推してくれるよね?」となってもおかしくない。本当に星を
投じたのかどうか判明するまでタイムラグがあるため、疑心暗鬼が強まったのんじゃな
いかな。
 尤も、そのような作家はほんの少数で、大勢に影響はなかった、とされてる。これを
機会にその手の作家と縁を切った読者も多数いたとかいないとか。

 そして今度迎えるのが第七回。前回、前々回となかなかうまく機能したのに、何故か
またもや追加の変更があった。さっき言ったように前回までは一度投じた星は変更不可
だったのが、今回はいくらでも付け替えられるとなってるんだよね。さらに、完結状態
にならないと星を付けられないとも決まった。代わりに、作者にのみ見える応援メッ
セージなら完結前でも送れる仕様になった。
 どうやらスタートダッシュによるアドバンテージを軽減したい狙いがあるようだ。悪
くない改訂だと思う反面、想像も付かない事態が起きるかもしれない。根拠がないであ
ろう噂によれば、応援メッセージの多寡も読者選考に少なからず影響を及ぼすのではな
いかと、もっともらしく囁かれている。
 作者だろうと読者だろうとユーザーとしては、「余計なことをして……」とならない
のを祈るばかりだよ。

 〜 〜 〜

 実を言うと、僕が今回力ワヨムに誘った子が主にミステリを書くのは知っていた。力
コンについて説明したとき、知らんぷりしたのはあとで嫉妬したくなかったから。それ
だけ、彼はいいミステリを書く、と僕の鑑識眼は判断してるんだけど。

 ウェブ小説、特に小説投稿サイトではミステリは不人気部門の一つに数えるのが定
説。ネット上だと特に、話の序盤から読者を引き込む必要がある。その点、ミステリは
死体を転がして密室か不可能犯罪か不可思議な状況を描けばいいような気もするのだ
が、なぜか読まれない。魅力的な謎を掲げても、その直後から地道な捜査や関係者の紹
介などに入らざるを得ず、失速してしまうからか? よほどキャラクターが立っていな
い限り、とにかく続けて読まれることは希のようだ。
 そうしたネット小説としての勢いのなさ故か、ミステリが関連する部門は、SFが関
連する部門と並んで、僻地・番外地扱いされるのが当たり前になっている。その評判が
外部にまで伝わっているせいなのかどうか、参加作品数は多いと言えず、勢い、優れた
作品も集まりにくいようだ。結果、受賞作なしで終わることが多い部門と言える。
 僕はミステリ書きとして残念に思う一方で、そんな現状をわずかでも変えたいと常々
考えていた。その策の一つとして、若くて実力のある彼を引き入れることにしたんだ。
 彼の書くミステリなら、あるいは状況を好転させられるかもしれない。何年かぶりの
ミステリ作品受賞作が生まれておかしくないと信じている。
 もちろん不安もある。玄人はだしの傑作ミステリではあっても、ネット小説向きの作
風とは言えないからだ。第一回力コンで埋もれた後のプロ作品、あれのジャンルは推理
小説だった。あれから選考方法などに手を加えて、良作を逃すことのないよう網の目を
小さくして来たとはいえ、一抹の不安は残る。
 ――何にせよ、他力本願なことばかり考えるのは、後ろ向きでしかない。僕は僕で、
今回も作品を出すつもりだ。彼は文字通りライバルなんだが、彼が受賞するならあきら
めが付く。

 コンクールの開催期間に入ったが、例の彼は作品を出さないでいた。
「基本、読者からの星で予選は決まるから、早めに出した方がいいんだって分かってる
よね」
 確認のために聞いてみると、分かっているとの返事。じゃあどうして。すでに書きた
めた作品の中から合う物を出してくればいいじゃないかと、僕は思っていた。
 でも彼は、「挑戦するのなら新作で」と、こだわりがあると分かった。僕はその意志
を尊重しつつ、「どうしたって出遅れた分は損だから、とりあえず一本は旧作から出し
ておきなよ」とアドバイス。それでもなかなか聞き入れてくれないのを、どうにかこう
にか説得して、ようやく一本、旧作『ホック城の怪事件 〜 アレッシャンドリ見聞録』
で参加してくれた。中世ヨーロッパの架空の国アレッシャンドリを舞台とする、古典的
な本格ミステリで、凝った作品であるのは間違いない。日本人のササキ・ミヤモトがア
レッシャンドリを旅したときの記録、との体を取っているが実はそれ自体が真っ赤な嘘
で……という重構造で、ウェブ小説っぽいかと問われればうーんとなる。
 字数を見ると、十万八百。どこかの国の消費税みたいだった。
「十万文字以上あって、一番短いのを選んだんだ。短い方が最後まで読んでもらえる確
率、高いかと思って」
 彼の思惑通りに多数に読了してもらえることはないだろうが、ちょっとでも彼の名前
を露出させておくためには、まあよかろう。

 <後>につづく




#573/598 ●長編    *** コメント #572 ***
★タイトル (AZA     )  21/06/20  14:56  (187)
計算すると不利かな<後>   永山
★内容                                         22/09/25 03:47 修正 第3版
 その後、僕は『ホック城の怪事件』がどのくらい読まれているかを気にして、ちらち
らと様子見に行った。
 少しだけ読まれているようだったが、出足は案の定にぶい。それ以上にまずいなと思
ったことが。彼は力ワヨムを事前に使っていなかったのか、それとも彼なりの信念があ
ってのことか、十万字超の作品を分割せずに掲載していたのだ。読んでもらうには、な
るべく三千〜五千字程度に分けて少しずつ更新していくのが吉だとされているけれど
も、彼にそれを言うのを忘れていたのだ。かといって、今さら一旦削除して改めて分
割・公開するのはコンクールの規定違反になる。
 別の作品を分割して、連日上げていかないかと水を向けたが、彼は新作の執筆に集中
しているからと取り合わない。
 僕は僕で忙しく、それ以上彼に無理強いはできなかった。そもそも、僕も自作を完成
させる必要があった。完成させた作品を期間中、連日更新していくつもりだったのが、
先月、体調を崩しがちになってまだ仕上がっていないのだ。
 もちろん、作品の公開はコンクール初日から始めて、更新も進めている。何としてで
も完結させないと。

 と思っていたのだが、だめだった。身体が着いてこず、入院の憂き目に遭った。
 毎夜遅い時間帯を執筆に当てていたのだけれども、体調悪化に拍車を掛けてしまった
ようだ。冬の寒さも堪えたのかもしれない。
 異変を感じた時点で自主的に診察を受けていればまた違ったんだろう。仮に入院した
としても病床で執筆を続けられたはず。
 ところが現実の僕は無理を重ねた挙げ句、自宅の二階から降りるときにふらつき、階
段を転げ落ちた。身体のあちこちをぶつけ、脳しんとうを起こし、何箇所か骨を折っ
た。内臓疾患と合わせて、しばらく完全看護の下に置かれるほどだった。痛みがピーク
を過ぎて下り坂に入ったのを機に執筆再開しようとしたが、両手の骨に異常を抱えてい
ては、難しい。音声入力で執筆するのは他の人に聞かれるのが何となく嫌だし、不慣れ
でもあったので……あきらめた。
 今回は若い彼に望みを託そう。見舞いに来てくれたときに、新作を公開してコンクー
ルに応募したことは明言していったのだ。タイトルは『三千人の容疑者』で、総文字数
は十万五千ちょっとになったという。
「舞台は現代の日本で、三千を超えるキャラクターを用意し、その内の四分の三、つま
り少なくとも七百五十人ほどを濃淡の差こそあれ書き分けて登場させた上で、ロジック
によって殺人事件の犯人を絞り込んでいくんだ。初っ端に死体を出して、すぐさま探偵
が推理に入る」
「えっと。その内容で十万と五千字ちょいで収まったのかい?」
「うん。序盤で利き手を理由に約三分の一になるからね。ははは。そこから怒濤のロジ
ック連打で、どうにか読者の興味をつなぎ止めようという作戦」
「出足は? 狙い通りに行った?」
「いや〜、なかなか厳しいものがありますね。けれども先にアップした『ホック城の怪
事件』に比べたら、段違い。読み始めた人はほぼ全員、ちゃんとついて来てくれている
らしいっていうのも分かるし。ああ、分割してちょっとずつ更新しなさいっていうアド
バイスの意味、分かってきた」
 彼は屈託のない笑みを浮かべ、感謝の言葉を述べてくれた。ほんとに小説投稿サイト
ビギナーなんだな。他のユーザー(作家)の動向もまるで参考にしていないってことだ
ろう。そういえば知り合って間もない頃、買ってきた炊飯器を説明書をまったく読まず
に使おうとして、悪戦苦闘してたっけ。その性質は今も変わっていないに違いない。
「退院したら読めると思う。問題は開催期間中に退院できるかどうかだけど」
「いいですよ。あなたからの星があるかないかで当落が決まるくらい際どい位置に付け
ていたら早く読んでくれと懇願するかもしれませんが、今のところそこまでのレベルに
は届かないような気がしています」
 僕と彼はお互いに、読んだ上で面白いと感じなければ星を投じることは断じてない
と、固く誓い合っている。第三者から見れば「そんなもん口先だけだろ!」で片付けら
れるレベルだろうけど、本当なのだ。現に、僕は彼の完結済み作品『ホック城の怪事
件』をサイトに上がる前から読んで知っており、高めの評価をしているけれども、まだ
星は付けていないし、彼もまた僕の連載途中の作品に応援メッセージ一つ寄越してくれ
ない。それもこれも、他によい作品があればそちらに星を入れるのがしかるべき投票行
動というものだと信じているので。……ただ今回は自由に星の付け剥がしができるよう
になったのだから、ひとまず付けてもいい(その方が人目に付く可能性がわずかでも高
まるはず)んだけど、最終的にやむなく剥がすことになったとしたら、気まずくなるか
もしれないので後回しにしている。
「現段階でどのくらいの星? あ、星はまだか。最後まで更新してないだろうから」
「うん。応援メッセージなら今朝までに十七件あった。好意的なものばかりだったけ
ど、大半は連載開始してすぐに来たからなあ。これって多分、あなたの言っていた見返
りを求めてのあれじゃないのかな」
「そうかも。三千人の容疑者って題名なら、本編を読まなくても応援メッセージを書き
やすそうだ」
「そんな嫌なことをあっさり言わなくても」
「はは、ごめんごめん。入院生活が長引いて、ちっとばかし苛々してる。許してくれ」
「ああ、作品、まだ書き上げてないんだっけ。……あなたさえよければ、僕が代筆と代
理更新しますけど」
「……うーん……ありがたい申し出だけど、厳密に言えば規約に抵触する行為だろうか
ら」
 自己のIDを他者に貸与してはならない的な文言があったと記憶している。複数名で
小説をこしらえる共作行為も原則的に禁じられていて、やるのならサイト側に申請して
認めてもらった上で、IDを取得しなければいけない。ただしこれは新規の場合で、す
でにユーザーである者同士が組みたいときはどうすればいいのか、あいにくと知らな
い。
「ま、やめといた方が無難かな。あきらめた訳じゃないしさ。あと一万字くらいだか
ら、退院が予定通りなら間に合う計算なんだ」
「そうですか。希望的観測込みのようにも聞こえますが、何かあったら言ってくださ
い。お手伝いできるところはします」
「ありがとう。気持ちだけで充分だ」
 隊員を前にそういう大見得を切った僕は、絶対に間に合わせてみせようと基本的なリ
ハビリを頑張り、予定よりも二日早く、出られることになった。コンクールの読者選考
期間終了までちょうど一週間あることになる。この分ならどうにかなる、してみせる。
 さて、退院が急に早まったため、出迎えは誰もなしとなり寂しくないと言えば嘘にな
るかもしれない。だけど身軽に動けるのはいい。昼過ぎに自宅アパートに戻るなり、僕
は昼食もそこそこにネットを始めた。真っ先にアクセスするのはもちろん力ワヨムだ。
自作にちょこちょこと応援が付いていることに感謝しつつ、そちらへの返事は後回しに
させてもらって、彼の『三千人の容疑者』のページに行ってみた。この作品に少し目を
通して、あとは自分の応募作品を完成させることに全力を注ぐ。
 『三千人の容疑者』は、本格ミステリとして定番の型で幕開けしていた。山中の一軒
家に作家を訪ねた知り合い達が、返事がないのを訝しんで庭に回る。すると広い庭に面
したダイニングキッチンで家の主が赤く染まって倒れているのが、大きな窓ガラス越し
に見えた。この段階で家の鍵は全て施錠され、密室状態にあることは推測済みであるた
め、来訪者の一人が大慌てでガラスをぶち破り、怪我をしながらも中に入った。しかし
時すでに遅く、主は死亡していた。密室殺人の謎に加え、現場には何かの会員証らしき
カードが一枚あり、また、196と読める血文字が床に書かれていた。
 あまりに型通りで適当に飛ばし読みしたくなるが、私は彼の伏線や暗示の配置の仕方
を知っているので、丹念に読んだ。
 読んでいて、段々と違和感に囚われる。読み易い文体なのに、どことなく引っ掛かる
というか、目障りな物があるというか。やがて気付いた。
 一ノ瀬昭彦(いちのせあきひこ)、二階堂可菜(にかいどうかな)、三鷹佐由美(み
たかさゆみ)、四谷民恵(よつやたみえ)、五代尚子(ごだいなおこ)、六本木春也
(ろっぽんぎはるや)、七尾誠(ななおまこと)、八神保仁(やがみやすひと)、九条
蘭丸(くじょうらんまる)……古典的な某有名漫画に合わせたのか、途中まではこの調
子で付けられた名前が続くのだが、そんなことよりも違和感の正体はここにある。
 振り仮名だ。彼は丸かっこで表す方式を採っているのか。でもこのサイトには、振り
仮名をするための記法があって、仮名を振りたい一連の漢字の直後に《》で括って読み
を記すのが基本である。これに慣れている僕は、丸かっこが久しぶりだったため、妙な
印象を受けたのだった。
 彼はこのサイトも説明を読まずに、ほとんど感覚だけで使っているらしい。しょうが
ない奴だ。あとで連絡して仮名の振り方を教えてあげようと心に留め、もう少しだけ読
んでおくかと目を走らせていると、五分ほどしてはたと大事な点に思いが至った。
 ちょっと恐ろしいその思い付きを、僕は否定したくて、でも確かめずにはおられな
い。
 登場人物の名前の読み方、平均の文字数はどのくらいだろう? ざっと数えて、六文
字くらい? 丸かっこを含めれば八文字か。
 彼は、この作品は日本を舞台にしたと言っていた。登場人物はほぼ日本人で占められ
ているに違いない。そして登場人物の数が三千。名前が付けてあるキャラクターが、彼
の言っていた七百五十名だとして、丸かっこを含めた振り仮名の総数は750×8=6
000ほどと推計される。
「やばい」
 思わず呟いた。
 『三千人の容疑者』は今はまだ完結していないので、総文字数は分からないが、作者
の彼は十万五千字ちょっとだと言っていた。そこからさっきの振り仮名分を差し引く
と、九万九千、規定の十万字に届かなくなる!?
 えらいこっちゃ。たとえどんなに傑作で面白かろうと、規定を満たしていないのはだ
め。即失格だ。読み仮名の振り方を知らないことにどうして気付かなかったのか、思い
返してみると、彼が先にアップした『ホック城の怪事件』には日本人というか漢字表記
の名前を持つキャラクターが一人も出て来なかったんだ。失敗したな〜。
 彼の力なら、千字程度の穴埋め、楽にこなすと思うんだが……。
 ところが連絡が付かない。そういえば元々の退院予定日を伝えたとき、「あっ、ちょ
うどいいですね。その前日に帰ってきますんで」と反応していたな。学者のフィールド
ワークに同行して、旅に出ると言っていた。行き先は聞いた気もするが、忘れてしまっ
た。電話でもネットでも連絡が付かないということは、外国の僻地? まあそれでもか
まわない。彼は明日には帰国予定なんだ。それから伝えても遅くはあるまい。
 と、悠長に構えていたら、翌日になっても彼から連絡はない。他人事だというのに焦
りを覚え始めた。SNSで連絡を取ろうとあれこれやってみても、無反応が続く一方、
力ワヨムの小説の更新は毎日正午(日本時間)に行われているから、自動更新設定をし
ているようだ。そこだけはちゃんと説明を読んだのね。
 やきもきして、彼の作品の続きを読むどころか、自作まで危うくなりつつある。僕は
外部情報をシャットアウトして、隙間時間の全てを執筆に当てた。そしてコンクール最
終日、どうにか十万文字オーバーを達成し、一挙に公開。当初の目算とは違う更新頻度
になったが仕方がない。
 自分の事が片付いてやっと余裕が生じた。彼への連絡を試みると――電話に出た、あ
っさりと。
「すみません、退院祝いに行けなくて」
 存外元気そうな声が聞けて、ひとまず安堵した。
「どうしてたんだ。今、どこ?」
「今、関空からのバスを降りたところです。ニュースで流れてませんでした? サンド
リテ国の国際空港が、一万年に一度レベルの大雨に見舞われて、使用できなくなったっ
て。復旧して、やっと戻って来ました」
 サンドリテ? どこだそれは。まあいい、とにかく帰って来られたのならいい。安心
した。
 安心すると今度は少々腹が立ってくる。僕は不機嫌な口調になって、おまえの『三千
人の容疑者』、振り仮名を丸かっこで表しているが、ちゃんと振り仮名に直すと文字数
が足りなくなるぞと指摘した。
「へえ、そんな便利な書式があるんですか」
「いや、落ち着いている場合じゃない。コンクールのために書いた作品、無駄になって
もいいのか? 表面上は十万五千字あっても、事実上、約九千文字となったら、たとえ
星をたくさんもらえていても、予選通過することなく落とされる可能性大だぞ」
「あのー、申し訳ない、言いそびれてしまって」
「あん? 落ち着いてないで、今からでも千字、いや余裕を見て二千字ほど書き足せ。
描写を詳しくすればそれくらい稼げるんじゃないか?」
「いえ、それは大丈夫なんです。実はお見舞いに寄せてもらったあと、帰ってから間違
いに気付いたんです。でわざわざ電話なんかで知らせるほどでもないかなと、放置して
いました。すみません」
 神妙な声になり、謝ってくる。彼が電話の向こうで、実際に頭を下げる様子が目に浮
かんだ。
「どういうこと? 大丈夫っての書き足さなくても大丈夫って? 何で? あきらめる
んじゃないよね?」
「ほんと、そこまで心配していただいて、非常に心苦しく、言いにくくもなっているの
ですが……あれ、十万五千字は僕の見間違いで、実際は一千五万字ありました」
「……え?」

 考えてみれば、三千人の容疑者がいて、少なくとも七百五十名を書き分けるとなる
と、結構な分量が必要になるに決まっている。十万五千字だと七百五十人を描写するの
に、一人当たり百四十文字しか使えない。それで本格推理小説の体をなすなんて、ほぼ
不可能だと気付くべきだったのだ。
 その約百倍となる一千五万文字が七百五十人を描くのに多すぎるのか少ないのか、は
たまた妥当なのかは凡人たる僕には判断が付かなかったが……とりあえず、最後まで読
んでくれる人は少なそうだなぁ。

 あ、更新頻度、物凄いことになってる。

 おしまい




#574/598 ●長編
★タイトル (sab     )  21/10/31  08:51  (448)
「仏教高校の殺人」1    朝霧三郎
★内容

 第1章


 極楽寺高校は東京都下八王子市にある私立の仏教系高校である。
 今は授業が始まる前で、佐伯海里は3年8組の教室の一番後ろの廊下側の席に
だら〜んと突っ伏していた。
 ちょっと受け口で目が離れていて垂れ目。
 ファニーといえばファニーだが、可愛くなくもない。
 そこに後ろの入り口からV系バンギャルメイクの女子が寄ってきた。
「おはよー」
「おは、」
 思わず息を呑む。
「つーか、あんた、誰、だれー、…リエラか」
 2ケ月前から不登校になっていた江良リエラ。
 不登校になってからもチャットとかはしていたが、リアルがこんなになっていた
なんて。
「なんでそんなに」
 と海里はリエラをまじまじと見た。
 耳の軟骨にストレートバーベルのピアスが5つ並んでいる。
 極細眉毛にもピアス。
 髪の毛は黒に赤のヘアカラー。
 ブルーっぽいアイシャドーに、瞳にはグレーのカラコン。
 肌の色は青白く毛細血管が浮き出ていた。
「今日はファンデはつけていないから。
 つーか、もうスッピン捨てているから」
「2ケ月前はあんなおたふくだったのに」
「これには深い理由があるんだよ」
 リエラは隣の空いている席に座った。
「実は夏休みに抜け駆けして代ゼミに行ったんだよ」
「それはチャットでも言ってたじゃん」
「そうしたら、すごいストレスで。
 都内って凄いストレスじゃん。
 山手線なんて乗車率190%とか。
 教室もすし詰め状態で」
「うん」
「しかも教室はシリコンの清潔な感じで。
 そうすると、自分が臭いんじゃないか、って思えてくるんだよ」
「えー」
「厭離穢土(おんりえど)だよ」
 厭離穢土とは娑婆の全てを穢れたものとみなす仏教の考え方である。
「…白い歯、赤い唇といえども、一握りの糞に粉をまぶしたようなもの…」
 とリエラは授業で暗記させられた『往生要集』の一節を言った。
「みたいな気持ちになる。
 吹き出物が気になって、便秘の予感がして、脂肪とかが超気になりだして」
「へー」
「しかも吐き気がしてきてさぁ。
 こんなところでゲロ吐いたらやばい、と思って、屋上に逃げたら」
「うん」
「屋上の金網ごしに、遠くの方に浄土が見えたんだよ。
 ピカピカの10円玉みたいにピカピカの平等院鳳凰堂が見えた。
 うん」
「そこらへんまではチャットで見ていて知っているよ。
 つーか、だからってなんでV系になったのかという」
「だあら、ストレスで自分が厭離穢土になって、遠くに浄土が見えてって、世界が
まっぷたつに分かれたんだけれども、同時に、あれは『スッキリ』のEDだったか
なあ、それで『in The BLOOD EYES』を聞いて、これだ、と思って、ユーチューブ再生
しまくって、一気にクリムゾンまで遡って」
「えぇ」
「厭離穢土で身体は否定したんだけれども、脂肪のない皮膚に、タトゥーとかピアス
とかすれば、一気に逆方法に振り切って、一気に浄土を目指せる」
「えー、なんだよ、それ」
「だから、ストレスで厭離穢土になったんだけれども、そんで浄土が見えたんだ
けれども、V系で浄土に至る道が見えた」
「だからなんでV系なんだよ」
「それは、仏教でも、菩薩だとか如来だとか色々な偶像があって浄土に至る様に、
V系の曲とかファッションとかコスメとか、そういうのでニルヴァーナに至ると実感
しただよ」
「ふーん」
 ここまで喋ると、チャイムが鳴った。
 キーンコーンカーンコーン
「え、もう時間」
「じゃあ、又後でね」
「こりゃあなかなか一回じゃあ説明できないから、おいおいね」
 リエラは隣の7組に行く。
 わざわざ色々言いに来たのは、地元が一緒だからというのもあるし、催眠・瞑想
研究会という一緒の部活のメンバーでもあるというのもあるのだろうか。
 それにしてもびっくりした。
 リエラがひきこもってからチャットではやりとりしていたが、リアルがあんなに
変わっているとは思わなかったから。

 リエラが出ていくと同時に、前の扉が開いて若い女の教師が入ってきた。
「教壇に向かって一同、起立、礼、着席」
「それでは朝拝を始めます」
 と教師。
 ここは仏教系の高校で朝拝がある。
「係りの人、聖歌をお願いします」
「はい。
 法の深山(のりのみやま)を歌います」
 前の方の日直が言った。
「いちにーのさん、
♪法のみ山のさくら花
昔のまーまに匂うなり
道の枝折(しおり)の跡とめて
さとりの高嶺の春を見よ」
「それでは次に般若心経を唱えます」
 と教師。
 一同「観自在菩薩 行深般若波 羅蜜多時 照見五蘊皆〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜」
「それでは最後に瞑想1分間」
「瞑想はじめー」
 と日直が言う。
 退屈だぁ、と海里は思った。
 海里の家も尼寺なので、この手の事には慣れている筈だったが、退屈した。
 海里は薄目を開けるとあたりを見回す。
 窓際の後ろの方では、金井妃奈子が机の下で『JJ』をめくっていた。
 家は豊かなお寺で、服でも靴でも何でも買って貰えるらしい。
 見た感じは教師に言わせると『雁の寺』の若尾文子的エロさがあるという。
 なんだそりゃ。
 髪も茶髪のロン毛でしょっちゅう美容院に通っている感じ。
 隣の席から腰巾着の太古望花が覗いていた。
 見た感じは松たか子か。
 望花の家は丸ビなので指をくわえて見ているだけ。
 この二人は催眠・瞑想研究会の部員だ。
 窓際前の方には、剛田剛が座っている。
 家はお寺ではないのだが、仏教原理主義的なやつで、見た感じも金剛力士像みたいな
感じで、声も太くて、明王様だったらあんな声か、と思わせる声だ。
 彼によれば、楽しいこと、気持ちいいことをすると“なまぐさ”がたまると言う。
 例えば、妃奈子みたいに欲しい洋服を買ったりしても“なまぐさ”がたまると言う。
 真ん中の列の前の方には、クラスのマドンナ、否、如来、遊佐蓮美が座っていた。
 グレース・ケリーよりも美人。
 取り巻きの猿田だの雉川だのの男子が近くに座っているが、休み時間になると
下敷きで仰いで風を送っている。
 そんな蓮美も、中学校の頃に東北地方から引っ越してきたのだが、東北の大震災で
親類縁者の多くを亡くすという暗い過去があった。
 そして廊下側の前の方には萬田郁恵がいた。
 これも美形だが、グレース・ケリーとは違って、萌え系の可愛い顔で
『アルプスの少女ハイジ』と安室奈美恵を足して2で割った感じ。
 眉尻の下の骨がコーカソイドの様に出ていて、あれ純粋に日本人か、
ハーフかクオーターなんじゃあないの? と言われていた。
 郁恵の家は、海里んちの尼寺の系列の僧寺の大きなお寺だった。
 それに比べて尼寺なんて、檀家も少なく、僧寺の法事のお茶くみだのなんやらの
手伝いをして糊口をしのぐという感じだった。
 という訳で海里は郁恵とは幼少の頃から付き合いはあったのだが、自分ちが貧しい
尼寺なので、密かに羨ましいと思っていた。

 退屈な授業が始まった。
 1限目は英語。
 「He is a so-called bookworm
 本の虫ってなんですか? 辞書をあけると小さい虫がいますよね。
 あれが本の虫ですか」
 と教師。
 教室の中では、衣替えしたばっかのブレザーの背中が、無邪気に揺れていた。
 わーっはっはっは
 窓の外を見ると、校庭の向こうの木々が風でざわざわと揺れていた。
 二限目はじじいの教師のやる日本史。
 白衣を来たじじいの教師が教壇でポケットに手を突っ込んでいた。
 ポケットの先に穴が開いていていんきんをかいているという噂だった。
 それから3時間目は袈裟を着た僧侶の教師の古典。
 お布施と教員の給料のWで稼いでいる“なまぐさ”坊主。
 それもあっという間に終わった。
 キーンコーンカーンコーン、とチャイムが鳴ると教室はざわついた。
 4時限目は体育だったが休講だった。
 となりの7組も休みだった。
 V系リエラが後ろの入り口から顔を突っ込んできた。
「部室に行こうか」


 北側に校舎を背にして、南側の部室棟に向かって、海里とリエラは、プールだの
体育館の横を歩いて行った。
 体育館の角まで行くと左に曲がって欅の下の小道を歩く。
 部室棟の階段を2階に上って、外廊下を真ん中辺まで行くと、催眠・瞑想研究会は
あった。
 鉄の扉に『催眠・瞑想研究会 梵我一如研究会』という看板が張り付けてある。
 扉を開けて中に入った。
「こんちわーっす」
 とリエラ。
 正面に窓があり、左手はロッカーで隣の部室と仕切られていて、床にはビニール製
の畳が敷き詰められていた。
 その上に、小暮勇と乾明人、城戸弘が座っていた。
 乾明人はK−POPのイケメンみたいな顔をしている。
 小暮勇は山田孝之似。
 城戸弘は神田正輝か三浦友和みたいな感じ。
 この3人はナンパ師三羽烏と言われている。
 みんな3階の3組の男子だった。
「リエラ。
 おめー、変わりすぎだよ」
 と乾明人。
「あれ、あんたらも自習?」
 外履きを脱いで畳に上がりながらリエラが言った。
「おお、教師がノロウィルスに感染しやがってよぉ」
 と乾明人。
 小暮勇と城戸弘は立て膝をしてにやけていた。
 鉄扉が開いて、3階4組の伊地家益美が顔を突っ込んできた。
 名の通りいじけた感じがする女子で、フィギュアの村主章枝に似ている。
「あれー、篠田君は?」
 と部室を見回す。
「いないの? じゃあ帰る」
 と言って行ってしまう。
 篠田亜蘭というのが催眠・瞑想研究会のリーダーだ。
 伊地家が行ってしまうと、城戸弘がが突然リエラに言った。
「リエラ、お前、解脱しないとやばいよ」
「えーっ」
「お前、代ゼミだかどっか、都市的な空間に行って、自分の身体が厭離穢土の様に
なって、拒食症患者みたいに脂肪を嫌って、同時に、遠くに浄土が見えてきたん
だってぇ?」
「なんでそんなの知ってんのよー」
「みんな知っているぞ。
 お前、チャットでべらべら喋っていただろう」
「そっかー」
「まあ、そういうのは、全くありがちなんだけれどもな。
 ただそういう場合、たまに解脱して浄土に触れる様にしないと、自分の厭離穢土
にやられてしまって“なまぐさ”がたまりだす」
「解脱ってどうすればいいのよ」
 リエラは畳にしゃがみこんだ。
「まず、こうやって、人差し指をピーンと立ててみな」
 言うと城戸弘は、リエラの顔の前で人差し指を立てて見せた
 リエラも真似して人差し指を立てる。
「じゃあそれをこうやって曲げてみな」
 と、城戸弘は万引きのサインの様にコの字に曲げてみせる。
 リエラもかくっと曲げた。
「今、自分で曲げたと思っただろう。
 だが脳的には、曲げた0.2、3秒後に曲げろと命令しているんだよ」
「えー、そんな事あるのぉ」
「あるんだよ」
「えー」
「じゃあ、今度は、指を繰り返しコの字にカクカクやってみな」
「リエラはカクカクと指をコの字曲げては伸ばすを繰り返した。
「もっと早く」
 カクカク、カクカク、カクカク、カクカク
「カクカクやりながら、般若心経を唱えてみな」
「かんじーざいぼーさつ ぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー
 しょうけんごーうん かいくう どいっさいくやく〜〜〜〜」
「できるだろう。
 今お前の脳は般若心経読経をやっている。
 だったら、カクカク指を曲げているのは誰なんだよ」
「えっ」
「それは、脳というより神経というか、それは無意識がやっているんだよ。
 まあ受動意識仮説、というか、トランス状態、つーか変性意識状態に近いんだが。
 その時、無意識にアクセスしやすんだよな。
 つーか、飛べる可能性があるんだよ。
 つまり瞬間的に解脱する可能性があるんだよ」
 二人のやり取りを黙ってみていた小暮勇が口を開いた。
「その変性意識状態って、たとえばチャリを漕いでいてもそういう事が起こるんだぜ」
「は?」
 と城戸弘が小首を傾げる。
「チャリって、乗れない人が初めて乗る時には、大脳を使ってよろとろ乗るだろう。
 しかし慣れればスマホをやりながらでもこげる。
 その時は、実は、無意識につけこむチャンスなんだよ。
 その時スマホから催眠でもすればスーッと無意識に作用できるという。
 それを使ってナンパが出来るんじゃないかと」
「ナンパぁ? どうやって」
 と城戸弘。
「俺は考えたんだが、具体的には、こうだ。
 自転車置き場に、いやにサドルの高いドロップハンドルのサイクリング自転車が
放置してあるだろう。
 あれに乗らせると股間を刺激して、女は感じると思うんだよなあ。
 と同時に自転車をこぐという行為をしているから変性意識状態になっている。
 つまり、トランス状態で股間に刺激がいっている。
 そこでだなあ、その女の斜め前に、誰か、例えば乾、お前が走っていて、そして、
お前はウルトラマリンか何か強めの香水をつけていて。
 そうすれば、洗脳でいえば、股間で感じるのがアンカーに、ウルトラマリンが
トリガーになっている。
 そうやっておいて、サイクリングから帰ってきた時に、更衣室で俺がウルトラマリン
をつけて登場する。
 俺のコロンの匂いをかいで、ターゲットは欲情する。
 そこで俺はジッパーをおろして、オカモト0.01を装着するという訳さ。
 はっはっはっはっは」
 と小暮勇は笑った。
「それって、催眠でも瞑想でもなく、条件反射じゃない」
 と海里が目を細めて言った。
「かもな」
「で、ターゲットは」
 と城戸弘。
「とりあえず8組の遊佐蓮美だな」
「えー、そんな事したら、犬山君が発狂しちゃう」
 とリエラ。
 犬山というのは7組の生徒で、催眠・瞑想研究会と一緒にアマチュア無線部にも
入っていて、宇宙からのメッセージが如来である遊佐蓮美に届くだのと、とにかく
電波なやつで、猿田、雉川らの信者と共に蓮美の三銃士を結成しているのだ。
「犬山みたいなスクールカースト下位の野郎が遊佐蓮美みたいな鮮度のいい女と
仲良くしているのか」
 と乾明人。
「前に、女の眼球にキスするのが流行って、結膜炎が蔓延したとかあったが、
それって犬山なんじゃない?」
 城戸弘が変な事を言った。
「えーなんで。
 犬山君にはそんな事、出来そうにないよ。
 つーか、だいたいなんでそんな事したいの?」
 とリエラ。
「犬山にしてみれば遊佐蓮美なんて星野鉄郎におけるメーテルだろう。
 鉄郎っていうのは不細工でモテないから、そうすると、リエラの平等院鳳凰堂
みたいに、如来が立ち上がってくるんだよ。
 それがメーテルで。
 その時メーテルに求める愛の形は完璧な愛なんだよ。
 性愛とかじゃなくて、自分の全てを包み込んでくれるような愛。
 乳児の愛というか、子供が求める愛は、赤ん坊はおぎゃーとしか泣けないから、
おっぱいが欲しい、とか、オムツを換えて、とか言えないから、常に母親が最大限の
気配りをしてくれなければならない。
 それが子供の相手への万能感で。
 だから、それは、性的なものじゃないんだよ。
 だからメーテルには性器がないんだよ。
 母に性器があったら、他のオスがよってくるから。
 自分への完璧な愛がなくなってしまうから。
 そんな感じで、自分だけを見て、というんで、眼球にキスしたんじゃないの?」
「なんか難しい話だな。
 そんなに難しい事考えているのか。
 お前は変態だからな」
 と小暮勇。
「とにかく、犬山みたいなうらなりが、あんなに鮮度のいい女を相手にしているのは
許せないな」
 と乾明人が言う。
「こっちはストリートに出て、すれっからしのずべ公ばかり追っかけているって
いうのに」
「お前はすれっからしに縁があるからな」
 と小暮勇。
「乾は去年卒業した一個上のヤンキーの姉ちゃんにまだつきまとわれているんだっけ」
 と城戸弘。
「俺は最近つくづく、スクールカーストの嘘、というのを感じてるよ」
 と乾明人。
「『アメリカングラフィティー』っていうジョージ・ルーカスの昔の映画を
ネットフリックスで見たんだけれども、あれでも、不良は街に出て、追っかけている
女はすれっからしで。
 でも、学校ではプラムがあって、ロン・ハワードみたいな、スクールカースト下位の
野郎が鮮度のいい女子を相手にしている」
「それにストリートは危ないしな。
 海里、お前の地元でも、ひと夏で3人も死んだんだって」
 と小暮勇が言った。
 海里の地元の日野市立2中の卒業生で、違う高校に行ったり就職したりしていたOB
が3人もこの夏から秋にかけて、バイク事故で亡くなっていたのだった。
「甘いね。
 つーか、古いね」
 とリエラが言った。
「昔は、禁止するのはPTA教師やPTAだったから、禁止をやぶってストリートで
遊ぶすれっからしがいて、片方で、大人しい“鮮度のいい女”が教室に残っていたん
だよ。
 ところが禁止が変わって、今は、地域の大人が禁止をしているんじゃなくて、
今や身体が禁止の理由になっているんだから。
 身体が厭離穢土になって、自由を禁止しているんだから。
 だから、教室に行っても、“鮮度のいい女”はいないよ。
“鮮度のいい女”と思っても、だぼだぼなカーディガンを脱がせてみれば、
その下にはきっとリスカの痕と、ボディーピアスとタトゥーがあるんだよ。
 現代のすれっからし、だよ。
 そうじゃないのは、芋姉ちゃんなんじゃないの?
 蓮美も芋姉ちゃんなんじゃないの?」
「ナマイキ言うじゃん。
 ビョーキになって少しは考えたか」
 と小暮勇は睨んだ。
 リエラをシカトして、乾明人や城戸弘の方に向いて言った。
「まあ、ともかく、前哨戦として、明日の文化祭で催眠をかけてやるか」
 催眠・瞑想研究会の文化祭の出し物は催眠だった。
「あのグレース・ケリーにS&Bの練りからしを食わせてやるよ」
 と小暮勇言い切った。
 海里は3人を見て思った。
(この3人は言うなればこんな感じか。
 乾明人。
 ストリートですれっからしに凝りている男。
 小暮勇。
 ストリートでインポテンツになった黄昏た男。
 城戸弘。
 変態。)
 鉄扉がギューッと音をたてて開いた。
 篠田亜蘭が剛田剛と部室に入ってきた。
「よぉ、おつかれさん」
 などと言って、乾明人と城戸弘がさっと立ち上がると、小暮勇もよっこいしょと、
立ち上がって上座をあけた。
(なんでこの三羽烏、亜蘭に気を遣っているのだろう)
 と海里は思った。
(多分こうだ。
 亜蘭の祖父が三鷹の方ででっかいお寺を営んでいるのだが、…亜蘭の父は
サラリーマンで後を継がなかった。
 だから亜蘭がいきなり住職になるかも知れない、…そのお寺が最近ボヤを出した。
 そんで、本堂修復の為に、宮大工だの仏具屋だのに大量の発注をするのだが。
 小暮勇んちは仏具屋、乾明人んちは宮大工で、城戸弘は石材店。
 それで気を遣っているいるのでは。
 この三羽烏は国立府中周辺に住んでいるので三鷹と近いし。
 嫌だね、業者は。)
 そう思って三羽烏と上座にどっかと腰を下ろした亜蘭を見比べていた。
 亜蘭の横では弁慶か明王の様に、如来を守る様にして、剛田剛があぐらを
かいていた。
「さてと、お経でもあげるかな」
 と剛田が片膝を立てて、お香だの数珠だのがしまってある共用のロッカーに手を
伸ばして扉をを開けた。
 すると、扉の裏に、曼荼羅が貼ってあった。
「何、それ、誰が貼ったの」
 と海里。
「昨日までそんなの無かったよ」
 亜蘭も身をよじって見て、首をかしげる。
「わー綺麗、万華鏡みたい」
 とリエラ。
「万華鏡じゃねーよ、曼荼羅だよ」
 と剛田。
「知っているけど」
「つーか、お前なんてお寺の娘じゃないから、こういうの詳しくないんじゃない?
 こういうの、意味分かる?」
「意味? わかんなーい」
「じゃあ説明してやろうか」
「うん」
「それじゃあまず」
 剛田はロッカーの前にずれていってしゃがみ込むと扉の裏を指さして説明した。
「まず上の曼荼羅は、これは、こうやって月輪状の絵が3×3に並んでいるが、
これは、金剛界曼荼羅といって、これは、大日如来の智慧や道徳を表しているんだよ」
「ふむふむ」
「それから下のこれー。
 これは胎蔵界曼荼羅といって、この真ん中のが大日如来。
 この絵を中心に9つの仏像がキューピーちゃんみたいに並んでいるでしょ。
 これは胎内の胎児を表していると言っていいだろう」
「胎内?」
「おお、まあね。
 でへへ」
 剛田はがちがちの原理主義者なのだが、“でへへ”と笑う癖があった。
「金剛界曼荼羅は宇宙のお父さんで、胎蔵界曼荼羅は宇宙のお母さん。
 お父さんのダイヤモンド的な智慧が、お母さんの胎内にぴゅぴゅぴゅっと
発射されて、9体の仏像が懐胎し、生まれると娑婆に出て行く、という感じ
だろうか」
「娑婆行って何するのよ」
「それはねえ、この9体の子供は宇宙の智慧を持っているのだが、“なまぐさ”
も持っている。
 だから、何十年かの娑婆での生活で、それを減らす、というのが この9体の
人生の目的だな。
 そうすれば、曼荼羅に帰った時に、宇宙全体の“なまぐさ”も減るだろう。
 それが娑婆にきた目的だな」
「ふーん」
「しかーし、宇宙に“なまぐさ”が少しでも残っている間は、輪廻転生が
繰り返される。
 だがやがて、宇宙全体に一点の“なまぐさ”もなくなったならば、
この輪廻転生は終わって、宇宙全体が解脱して極楽浄土が完成するのである」
「じゃあ、その×はなによ」
 3×3段に描かれているキューピーちゃんの様な仏像の、上の段と真ん中の
大日如来に×印がしてあった。
「えぇ? 誰かがいたずら書きしたんだろ」
 と剛田。
「何で宇宙の“なまぐさ”を娑婆で減らさなきゃならねーんだよ」
 乾明人が脇から突っ込んできた。
「そりゃあ、油でないと油はとれないから。
 油性のマジックインキなんて油でないととれないだろう。
 それと同じで、下等な人間でないと“なまぐさ”は消せないんだよ。
 だから、胎蔵界曼荼羅の仏像が人間に姿を変えて、“なまぐさ”を背負って
この世に降りてきて、“なまぐさ”を減らすんだよ。
 増やすやつもいるけどね」
「何すると“なまぐさ”が増えるの?」
 と小暮勇。
「そうだなあ、例えばストリートでジャンクフードを食ってナンパするとか。
あと、それに飽きてあろうことか、平和な教室で女子を誑かしたりすること」
「俺はそうは思わねーな」
 と小暮勇。
「そんなよぉ、精進料理食って禁欲生活してりゃあいい、なんて発想は浄土宗
みたいで貧乏っくせえや。
 俺はむしろ、平安時代の貴族みたいに、やりたい放題やって、1日に一回だけ
禅や瞑想で解脱して、又やりたい事をやってみたいに、自力本願がいいよ。
 俺も乾明人も城戸弘も、催眠で瞬間的に解脱すれば“なまぐさ”は減るだろう、
と思ってんだよ。
 別に女と遊んでもさ」
「そうそう、私の話はどうなった? 厭離穢土になってしまったら、解脱して
“なまぐさ”を減らした方がいい、とかいうのは」
 とリエラ。
「まあ、それは、明日の文化祭の後だなあ」
 と城戸弘が言った。




「●長編」一覧



オプション検索 利用者登録 アドレス・ハンドル変更
TOP PAGE