#321/369 ●長編
★タイトル (AZA ) 08/04/07 18:40 (229)
お題>告白(上) 永山
★内容
夕餉の席で両親が、“ジャックの森”の一帯を開発する計画が本決まりにな
ったと話しているのを耳にし、梶浦美樹彦は叫び声を飲み込んだ。
表面上は食事を淡々と続ける。が、内では色々な思考が駆け巡っていた。三
年前、小学五年生のときの出来事――悪魔に魅入られたでもしたかのような出
来事を思い出す。
記憶の抽斗の奥底に、押し込めようとしていたのに、何故か鮮明に思い出せ
た。
* *
ジャックの森という片田舎にしては洋風の通称は、静寂の森から来たものと
か、昼なお暗い森の奥深くに大人達が子らを近寄らせぬため、「切り裂きジャ
ックのような殺人鬼のいる森だ」と言い含めた結果とか、色々と伝はあるがは
っきりしない。
何にせよ、近寄ることを禁じられれば、破ってみたくなるのは子供に限らず、
真理かもしれない。
その夏の某日は昼前から、前日の好天とはうって変わって、どんよりとした
曇り空だった。空気も湿り気を帯び、いずれ大降りとなるのが確実と思えた。
だが、夏休みに入った小学生が遊びにくり出すのをあきらめる理由にはなら
ない。降ってきたら戻ればいい。そんな感覚で、梶浦は家を出た。
すぐに一人の友達と合流する。身体の大きな高下光一は、クラスのリーダー
兼ガキ大将的存在で、梶浦とは一番の親友同士と言えた。
「今日、いよいよ秘密基地、な」
「もちろんっ」
二人はこの夏休み、二人だけの秘密基地を森の奥に“建設”するつもりでい
る。ずっと夢に描いていた木の上の基地。今までは体力などの問題もあって、
無理だったが、小学五年生の体格と身長を得て、ついに着手と相成った。春休
みは設計と場所選びに費やし、道具や材料になりそうな物を少しずつ集め、い
よいよ作り出そうというのが今日だ。
基地設計図と言っても、大木の中程で枝分かれしたなるべく平たいところに、
丸太や板を敷き詰め、縛り、固定するだけの簡素な物。壁や屋根も一応あるが、
枝と葉っぱと布きれを組み合わせただけになる予定。強い雨風には弱そうだ。
それはさておき、とにかくスタートだ。森の南側、近くには小川が流れると
いう最高のロケーションに、秘密基地を作ることにしていた。
「みんなに見せるには、まだまだしょぼいなあ。もっとちゃんとした基地にし
たいんだけど」
取り掛かる直前、梶浦は出鼻をくじくような台詞を口走った。そのときはど
うしてそんなことを言ったのか、自分でも不思議だったが、じきに理解する。
遡ること三日、学校において、高下がクラスの女子を相手に告白しているら
しい場面を、梶浦は偶然目撃していた。高下がこのことを秘密にしたのはかま
わない。梶浦にとってショックだったのは、告白相手が三枝東子だったこと。
可愛らしい見た目と女らしい仕種、そして男勝りの一面もある三枝は、クラ
スでも人気があった。町の有力者である父親と派手好きな母親は、その夫婦仲
の悪さも含めてよく噂になったが、三枝東子自身は飾らない、気さくな性格を
していた。
以前、誰か好きな女子がいるかという話になり、梶浦が白状したのが、この
三枝東子だった。そのとき、高下は別の女子の名を挙げた。なのに、高下は三
枝に「付き合ってほしい」と告白したのである。
加えて、三枝がOKしたように見えたことで、ショックは倍加された。
だからといって、高下を問い質すなんて真似はできず、男の友情の方が大事
とかどうとか、自らに言い聞かせて夏休みを迎えたのだった。
「いいさ。とにかく、完成させるのが大事ってんだ。広さはどうしようもない
んだし、この第一号を完成させたら、次々に作るってのもありだろ」
高下は気にする様子は微塵もなく、逆に梶浦を励ました。集めておいた材料
の山から、青い覆いを取り去ると、梶浦に聞いてくる。
「どっちが上がる?」
木に登り、上で材料を受け取る役をどちらがするのか、という問い掛けだ。
普通に考えるのなら、比較的小柄な梶浦が適任だが、設計の詳細は高下の方
が遥かによく理解している。腕力や握力も高下の方が上回っており、物を取り
落とす恐れは少なくなる。
そういった点を考慮し、梶浦が渡す役、高下が受け取る役に収まった。
「うん、いいぞ」
木に登った高下が、足場を確保した。梶浦はまず、平べったい板から渡して
いった。
「完成したら、梶浦は基地のこと、誰々に教えるつもりでいる?」
作業しながらのお喋りで、高下はそんなことを聞いてきた。
「え? うーん、そんなの、考えてない。友達みんなに教えるつもりでいたけ
ど、高下は違うの?」
「そりゃ、最終的には全員、教えてやるさ。自慢になるしな」
鼻の下をこする高下。持ち上げた物を手際よく配しながら、彼は続けた。
「けど、特別な奴には早く教えてやりたい。そう思わねえ?」
「特別な友達って、僕に高下ぐらいしかいないよ。高下は大勢いるかもしれな
いけどさ」
「俺が言ったのは、友達に限った話じゃなくて……ま、いいか。特別を増やし
すぎたら、特別じゃなくなる」
最初は捗っていた作業だったが、時間の経過とともに停滞し始めた。やって
みて、意外と苦労するものと分かった。下の梶浦はまだいいのだが、物の長さ・
大きさによって、上の高下が腹ばいにならなければ受け取れない場合が出て来
たのである。
「交代しようか?」
「いや、いい。縄があっただろ。それを投げてくれ」
言われるがまま、梶浦は縄を取り、放り投げた。片手でうまくキャッチした
高下は、適当な位置かつ適当な太さの枝に、その縄を掛ける。
「よし。これで、滑車みたいに使えるんじゃないか?」
「なーる」
梶浦は感心し、早速試してみた。いきなり大きな板や丸太は恐いので、葉っ
ぱのたくさん付いた木の枝を結ぶ。それから縄の反対側の端を引っ張った。
「――成功!」
この“発明”により、しばらくは順調に運んだ。だが、やがて縄の滑りが悪
くなる。高下も梶浦も疲れ始めていた。
「降り出しそうだ」
空を見上げ、ほとんど同時に二人がつぶやいた。
「切りがいいところまで済ませたいな。直接引っ張ってみる」
そう言い、高下は縄を枝から外し、地面に真っ直ぐ垂らした。梶浦はその端
を持ち、細長い枝の束を括り付けようとする。大きな音と短い叫び声を聞いた
のは、その次の瞬間だった。
息を飲み、見上げる梶浦。見えない。自分がしゃがんでいたのを思い出して、
慌てて立ち上がった。が、それでも木の上の様子は分からない。ただ、高下の
姿が消えているのは確かだ。
「た、高下?」
呼び掛ける。返事がない。
念のため、木下に目線を映した。無論、そこにも高下はいなかった。転落し
たのでないとしたら、一体……?
「ど、どうしたんだい、高下っ! た、か、し、たぁ?」
一文字ずつ区切って呼び掛けると、やっと反応があった。不明瞭な音声に、
梶浦は耳をすませる。
「ここ、いる」
そう聞こえた。声は木の上の方から聞こえた。
「どこ? 見えないよ!」
「中。中だ。木の中」
「え?」
にわかには信じられない返答に、無意識に聞き返す。同じ答があったあと、
「くそっ、腐った? でかい穴ができてた」と付け加えられた。
まだ完全には把握できないでいた梶浦だが、とにもかくにも、地上にいたま
までは埒が明かない。木登りを始めた。そして、さっきまで高下がいた辺りに
立ち、事の次第を理解できた。
大木の太い幹が落とし穴と化していたのだ。運び上げた板の隙間に足を踏み
入れた高下は、洞にすっぽりと収まっていた。目から上と、左腕だけが覗いて
いる。
「三月に見付けたときは、大丈夫そうだったのに」
思わず、そんな感想が口をついて出る。
「多分、虫にやられたんじゃねーの。じゃなきゃ、寿命で枯れてきてるとかな
っ。そんなことより、早く助けてくれよ。引っ張れ」
忌々しいハプニングのせいだろう、高下の口ぶりは普段よりもずっと乱暴に
なった。
梶浦はうなずきつつ、まずは自分の安全を確保しようと思った。が、意外と
足場はよくない。高下が穴にはまった衝撃のためか、仮り組みをしていた板は
雑然となり、かえって邪魔になる。よくよく見ると、一部は地面に落ちていた。
「ねえ、これ、もっと落とさないと、危なくて引っ張れないよ」
「全部落とせ、そんな物。どうせこの木はだめだ。分かるだろ、それくらい」
「分かった」
両手で上の方の枝を掴み、足で板や丸太を蹴落とす。派手な音がした。梶浦
は横に伸びる枝の内、一番太い物を選んで跨った。両腕を伸ばし、高下の左手
首の辺りを握る。
「いくよ。――せーの!」
「い、痛いっ。無理、無理だって!」
梶浦はびっくりして手を放した。高下の悲鳴を聞いたのは、これが初めてだ。
「でも、引っ張らないと、助けられない」
「もっとゆっくりやってみろ。じわじわ力を入れるんだ」
その通りにする。最初はうまく行きかけた。高下の顔がほぼ全部外に出た。
だが、そこで高下は痛がった。やめざるを得ない。
幾度か繰り返したが、それ以上は進展しない。
「無理っぽいよ。何て言うか、真っ直ぐ上から、僕よりも力のある人が引っ張
らないと、難しい」
「畜生! 格好悪いな」
吐き捨てたあと、しばし静かになる。考えているようだ。
梶浦が話し掛けようとした矢先、高下が口を開いた。
「しょうがねえ。大人の人を呼んで来てくれよ、梶浦」
それは自分達が叱られることを意味した。森への立入はより厳しく禁じられ
るようになるに違いないし、秘密基地の計画も水の泡となる。
念のため、そうなってもいいのかと、高下に尋ねる梶浦。すると、「馬鹿か
よ!」と怒鳴られてしまった。
「分かってら、そんなことくらい。早く行けよ! このままだったら俺、死ん
じまうかもしれないんだぞ!」
梶浦は無言で首肯し、木を滑り降りた。靴を履き直していると、上から声が
降ってきた。
「怒鳴ってごめんな」
「え。いいよ、別に」
「ほんとは、まじで恐い。今だって……泣きそうなのを我慢してる。もし、一
人で来て作業してたら、どうなってたか」
「……」
「叫んでも、ここからじゃあ、誰にも聞こえないもんな。おまえと一緒で、命
拾いしたぜ」
声に、洟をすする音が混じる。不安を振り払いたいのだろう、高下は殊更に
明るい調子で言った。
「さあ、できるだけ急いで頼むぞ、心の友!」
「……」
あとから考えるに、このときの高下の台詞に、「心の友」なんていう単語が
なかったなら、素直に助けを呼びに行ったかもしれない。
あるいはその前の、叫んでも誰にも聞こえない云々の話を聞かなければ。
梶浦は今一度、靴紐を結び直し、心を決めた。そして、散乱した基地作りの
材料や道具を集めると、近くの小川に放り込み始めた。
「梶浦、何をしてるんだ?」
見えなくても、音で察した高下が聞いてくる。梶浦は答えず、黙々と“後片
付け”を続けた。
「おい、基地作りを隠すつもりなら、やめとけって。どうせ、森に入っただけ
で叱られるんだし……」
梶浦は片付けを終えた。ただ一つ、縄だけを手元に残して。
木を見上げる。意を決して、再び登った。
「梶浦」
目が合った高下は、不安を隠しきれないでいた。梶浦はなるべく機敏に、高
下の真後ろに周り、そこにある枝に跨った。続いて縄を目の前の首に、素早く
掛ける。
「何をする気だ?」
そんな言葉を皆まで聞かずに、締め上げた。効果は即座に出た。高下の声が
よく聞き取れなくなっていく。
「なんで――おまえ――さえ、ぐっ――くる――おれ――よん……」
声が恐ろしい。聞こえなくなれ!と力を込めていると、いつの間にか静かに
なっていた。
梶浦は高下の顔を覗こうとして、寸前でやめた。声なんかよりももっと恐ろ
しい体験をするに違いない、そんな予感があったから。
でも、高下の左腕は、折り曲げるようにして洞へ押し込んだ。そのままにし
ておいたら、すぐさま見付けられてしまう気がした。
ほとんど飛び降りるようにして木から離れると、梶浦はそのまま振り向かず、
一目散に走った。
風がごおごお、鳴っている。向こうに見える空の雲は厚く、いよいよ雨粒が
落ちてきそうだった。
夜遅くになって、高下家から電話が掛かってきた。息子がどこに行ったか知
らないかと問い合わせる電話だった。
最初、どきりとした梶浦だったが、よく聞いてみると、慌てる必要はなかっ
た。高下の親はクラスメートに手当たり次第に電話していたのだ。秘密基地作
りは文字通り秘密だったので、高下は今日出掛けるときも、誰それと遊びに行
くとさえ言い残してはいなかったらしい。
当然、梶浦は「知りません」と答えた。
その後、数日間に渡って大がかりな捜索が行われたが、高下光一は見付から
なかった。あのあと降り出した大雨のおかげで、一切の痕跡は洗い流されたの
だろうか。小川が水量を増したことで、基地の材料や道具も下流に押しやられ
たのだろうか。
いずれにせよ、梶浦は疑われなかった。一番の友達だからという理由で、心
当たりはないかと聞かれただけで済んだ。
* *
(高下の遺体は、きっと今でもあそこにある)
梶浦は白骨化した遺体を想像した。理科室の標本めいていて、案外、恐怖感
は起きなかった。実物を前にすれば、きっと縮み上がる。
(見付けられない内に、別の場所に移すか? いや、開発が近いのなら、大人
達が出入りしているはず。中学生がのこのこ歩いていたら、怪しまれる。やる
としても夜だろうけど……)
真っ暗闇の中、あの森を分け入って、遺体を抱いているであろう大木まで行
き着くのは、並大抵のことではできそうにない。それに、遺体を移動させると
言ったって、具体的にどこという案は浮かばない。
(考えなしに、下手に動くよりも、見付かるがままにすべき? 高下の遺体に、
僕がやったという証拠はない。大船に乗ったつもりでいていいはず)
梶浦はそう思った。思い込もうとした。
ところが……。
――続く
#322/369 ●長編 *** コメント #321 ***
★タイトル (AZA ) 08/04/07 18:41 (320)
お題>告白(下) 永山
★内容 08/06/16 13:40 修正 第2版
話を聞きたいからちょっとだけと連れて来られたのは、警察署の会議室のよ
うな大部屋。その片隅で、刑事二人と向き合った。他には誰もいない。
ドラマなどでよく見る取調室でないのは、当時小学生であり、現在も中学生
に過ぎないことを考慮したのか、それとも単に空いている部屋がなかったのか。
あるいは、容疑者でなく、飽くまで参考人扱いだから、これが当たり前なのか
もしれない――梶浦は楽観的な思考に努めた。
「報道で知っていると思うけれど」
二十歳でも通りそうな童顔の刑事が、砕けた調子で始めた。名は古舘と言っ
た。もう一人の年輩の刑事は、まだ名乗っていなかったように思う。ひょっと
したら、三年前、既に対面を果たしていたかもしれない。
「ジャックの森で遺体が発見されてね。骨格や衣服から、三年前に行方が分か
らなくなった高下光一君と見て、調べていたんだ」
「高下君だったんですか」
「ああ。歯の治療痕が一致した。まあ、そんなこと、今はいいじゃないか。そ
れよりも梶浦君。君は小学生の頃、よくジャックの森へ遊びに行ってたんだよ
な」
「ええ。叱られるんで、大人には秘密にしてたけど」
「その大半は、高下君と一緒に」
「そうです。あの日は行ってませんけど」
「あの日というのは、三年前、高下君が行方不明になった日のことだね? う
ん、それはいいんだ。今日、君に聞きたいのは――」
懐を探る古館刑事。どこに閉まったのか忘れたか、やや手間取っている、そ
れを見て、梶浦は気にしていた点を明らかにしておこうと思った。
「刑事さん、高下君はどこで見付かったんですか」
「うん? だからジャックの森と」
「森のどこ? 昔、あれだけ捜索して見付からなかったのに」
質問を言い切り、梶浦は内心ほっとしていた。これで、遺体発見場所の詳細
を聞いていないのに、思わず口走ってしまった、なんていう間抜けな事態は避
けられよう。
「どこと言われても、森に目印となる曲がり角や建物がある訳じゃないしねえ」
古館は答えながら、懐より手を戻した。探し物は一枚の写真らしい。それを
机に伏せ、話を続ける。
「ざっとでよければ、南側。それも大木の中だ」
「……大木の中って」
「うん。どういう訳だか、遺体は木にできた縦穴の中に収まっていた。犯人が
殺害後、押し込めたのか、高下君自身が誤って落ち込み、出られなくなったの
か。その辺も調べている」
「犯人……高下君は殺されたかもしれないってことですか」
探るような調子にならぬよう、低い声で梶浦は聞いた。自分が高下にした行
為の痕跡が、どれくらい残っているのか、聞き出したい。
「その可能性もある。とにかく、これを見てほしい」
古館は写真を表向きにした。
遺体写真を想像していた梶浦は、目を背けようとし、やめた。写っていたの
は遺体ではなかった。木の皮らしい。
「……これ」
唾を飲み込んだ。顔を上げるのが恐ろしい。
写真の木の皮には、文字が彫り込まれていた。
“かじうら に”と。
年月を経て、他の木肌と区別しづらくはなっていたが、それでもしっかりと
読み取れた。
「君を呼んだ理由、これで分かったろう? 高下君がどうして、こんな文字を
書き残したのか、君には分かるかい?」
古舘の声が、梶浦の耳にうつろに響く。よい返事は見付からない。
(ま、まさか、あのとき、まだ死んでいなかったのか……。気を失っただけで、
あとで息を吹き返し、字を書いてから、結局死んだ? それとも、首を絞めら
れているときに、名前を書いた?
いやいや、刑事の言った「どうして」はこういう意味じゃない。今は考えち
ゃいけない)
梶浦は怖気立ったようにかぶりを振った。
「何だ、それは。肯定か否定か分からん。名前を書かれる心当たりがあるのか。
高下と大喧嘩したとか」
年配の刑事が初めて口を開いた。外見から想像する通りの威圧的な声に、梶
浦は固まった。喉に見えない膜が張り付いたみたいで、満足に喋れない。
次の瞬間、年配の刑事が何やら怒鳴りつけてきた。机をどんと叩く音だけが
聞こえて、言葉はまるで認識できなかった。
とても持ち堪えられそうにない。元々、自分は気が弱い方なんだ……。
己の性格を改めて理解した梶浦は、自白するタイミングを、半ば無意識の内
に窺った。
* *
「浜さんが度を超えて脅かすから、自白しちゃったじゃないですか」
古舘は年上の浜田刑事に、いつものように馴れ馴れしい口を聞いた。本格的
な取り調べを前に、二人で言葉を交わす。
「ほんの二言三言口を挟んだだけだぞ。それに、解決だろ。いいじゃねえの」
そう答えながらも、浜田の指は頭を掻いている。目算とのズレは、彼も確か
に感じていた。
「文字が残っていたからといって、梶浦を犯人と断定した訳じゃないのに、自
白された。ややこしくなりますよ、間違いなく」
「そうだったな。あー、もう一度、説明してくれ。どうしてあの坊主がやった
とは言い切れないのか」
「しょうがないなあ。文字が刻まれた高さは、高下の胸の辺り。だが、遺体の
姿勢、穴のサイズ、最終的な腕の位置などを考慮すると、胸の高さに文字を刻
むのは、かなり無理がある、らしいですよ。不可能ではないが、わざわざ胸の
高さに書かなくても、腕を下げたまま、下の方に書いたって結果は同じ。もち
ろん、本人は死ぬかもしれないとは思っても、死ぬ覚悟を決めてはいないだろ
うから、可能な限り上の方に書こうとした、という解釈も成り立たなくはあり
ませんがね」
「うむ。分かった」
大きく頷く浜田に対し、古舘はたしなめる口ぶりで付け足す。
「まだですよ、浜さん。もう一つ、自白で厄介なことになったのは、状況が合
わない点。高下の衣服には、彼自身の物と思しき血が、大量に付いていた。頭
骨に殴打の痕跡はなかったので、多分、頸動脈付近を鋭利な刃物で切られた。
それが死因であると見込んでいたのに、梶浦の自白、ありゃなんですか」
「縄で首を絞めた、それしかしていない、だったな。確かに話が合わん」
「未成年てだけでもやりにくいご時世なのに、まったく、困ったもんですよ。
辻褄合わせするか、別に犯人がいるのか」
ため息をついた古舘。浜田は試すかのように言った。
「お得意の合理的に考えればってやつに照らすと、どっちだと思う?」
「蓋然性の高い方を取ると、文字は、高下には彫れなかったと見なすべき。梶
浦がわざわざ自分で自分の名を刻むとも思えません。よって、真犯人が別にい
て、梶浦を陥れる目的であの字を刻んだと考えるのが妥当でしょう」
「しかし、だとしたら何で梶浦は自白した? あれは本気で自分がやったと信
じているように見えたぞ」
「そこなんだなあ。文字の件に加え、自白内容と実際の状況との齟齬から言っ
て、真犯人を庇うケースじゃあり得ない」
古舘は腕組みし、首を傾げて考え込んだ。そんな相棒の背中を、浜田は手の
ひらで叩いた。
「今から聴取で、その分からんところを明らかにするんだろ」
「結論から言うと――K君は高下君の首を絞めたが、殺すまでには至らなかっ
た。直後に逃走した彼の姿を、何者かが目撃した。その人物こそが高下君を殺
害し、K君に罪を全て被せる意図で、『イニシャルKに』と木肌に彫った――
こうなります。これがK君の自白と科学捜査の結果、双方を両立させる、恐ら
く唯一の構図です」
用意しておいた説明を済ませると、古舘は相手の反応を窺った。
被害者らの同級生・三枝東子に話を聞くため、家を訪れた古舘と浜田は、応
接間に通された。2×2のソファには、もう一人、母親の彩美が当然の顔つき
で同席している。口を開いたのは母親だった。
「それが、私達に何の関係がおありですの」
「特にあなた方に関係があるという意味ではなく、当時、高下君やK君と同級
だった子達を、順に回っているのです」
「分かりませんわ。高下という子が遺体で見付かり、Kという子――噂で梶浦
という名前が耳に入ってきていますけれども――が自白した、それで決着では
ありませんの」
古舘と浜田は顔を見合わせた。アイコンタクトの後、再び古舘が話す。
「この『イニシャルKに』という文字を彫ったのが高下君ではないことは、九
分九厘、間違いありません。K君本人でないことも同様です。では、誰か。そ
の人物は事件発生時点で、K君の名前を知っているのが条件。高下君とも知り
合いで、なおかつ高下君とK君が友達であることもよく知っている人物……と
なると、遺憾ながら、高下君と同じ学校に通っていた小学生、それも同学年に
絞り込んでよかろう……こんな経緯です」
「それにしたって、男子児童を当たれば充分じゃありませんか。小学生なんだ
から」
娘の頭を撫でる母親。古舘は言葉を選びながら応じた。
「いずれ、女子児童だった他の子達の家々も回ることになるかもしれませんが、
とりあえずこちらに参ったのは、一つの証言が理由でしてね」
「誰の、何という証言なのかしら」
「誰というのはお答えできませんが、複数の者から確認を取っています。証言
内容の方はプライバシーに関わるので、できればお母さんは席を外していただ
きたい」
「無意味です」
きっぱりと拒否を示す母親。
「あなた方がお帰りになったあと、東子は全て、私に話します。そう躾けてい
ます。そんなことよりも、未成年者を大の大人が二人掛かりで事情聴取しよう
ということの方が、許されないでしょうが」
「弁護士でも何でも呼んでくれて結構なんですよ」
面倒くさいとばかり、浜田が吐き捨てるようにつぶやいた。古舘はそれを手
で押しとどめる仕種をしつつ、「分かりました」と笑みを作った。
「同席を認めますが、証言内容に関して、娘さんにこの場で問い質さないよう
に願います。親子の話し合いが必要なら、あとでやってください」
「……承知しましたわ」
やっと引いた母親から、娘の東子へ視線を移す。
「本来なら、真っ先に君に確認すべきことなんだけれど、色々とデリケートな
問題もあってね。こうして、裏を取ってから来ることになった。その点はすま
ないと思う」
「別に……かまいません」
意外としっかりした声の返事。古舘は目をしばたたかせ、浜田は目を丸くし
ていた。事前の聞き込みで、三枝東子に箱入り娘のような印象を抱いていたが、
少し違うようだ。無論、男勝りの一面があるとは聞いていたが、高いところを
苦手にしているなどというエピソードを耳に挟むと、おしとやかな女の子をイ
メージする。
「では、遠慮なく、単刀直入に。三年前、小学五年生の夏頃、君は高下君から
交際を申し込まれているね」
「――交際ではなく、少し付き合ってほしい、という言い方でした」
少し間が開いたものの、予想よりも早く答が返ってきた。母親の反応はと、
ちらと窺うが、感心にも約束を守って、口出しして来ない。少なくとも表面上
は冷静を保っている。
「高下君が行方不明になる直前だね?」
「直前と言っていいのかどうか知りませんが、三日ほど前だったと記憶してい
ます」
「君の返事はどうだったんだろう? OKしたと思っている人が一人いるんだ
が」
「……OKしたかと問われたら、OKしたことになるんでしょう」
「というと?」
「……そのあと、さほど間を空けずに後悔……というよりもまだ早すぎる気が
して、断りに行きましたから」
返事までの時間が徐々に掛かり始めた。昔を思い出そうとするせいか、それ
とも何か含むところがあるのか。
「ほう」
古舘は質問を止め、しばらく考えた。次にまず聞きたいことは同じだろうと、
浜田にバトンタッチする。
「断りに行ったのは、いつだね」
「それは……よく覚えていません」
何か答えようとして、言い淀み、結局答えなかった。そんな風に見えた。
「覚えているだろ。高下君が行方不明になるまで、ほんの数日しかなかったん
だからな」
「そう言われても……」
「じゃあ、どうやって断った? 直接会ったのか、電話か、人に頼んだか」
「……電話で」
「おかしいな。さっき、断りに“行った”と答えたじゃないか」
浜田の口調がどんどんきつくなる。古舘が「あ、まずいかな」と感じた矢先、
母親がとうとう口を挟んできた。
「やめてください! そんな話、どうでもいいでしょう? 事件に何の関係が
あるんですかっ」
「関係あるんですよ」
浜田に代わり、古舘が応じる。
「今まで伏せていましたが、K君が重要な証言をしてましてね。高下君の首を
絞めた折、高下君が漏らした断片的な言葉を思い出したと。それらをつなぎ合
わせると、事件発生当日、高下君は三枝東子さんを現場に呼び出した可能性が
浮上するんです」
「そんな、まさか」
「高下君はK君と二人で、森の中に秘密基地をこしらえようとしていた。当日
は言わば、起工式の日です。そこへ、付き合い始めたばかりの彼女を呼び、誇
りたいのは、子供らしい心理じゃないかと思うのですが、いかがです」
「人それぞれでしょう。もう喋ることはないわ、東子」
娘の肩を押し、部屋から出て行かせようとする母親。古舘は「いけませんよ」
とやめさせた。
「どうやら、お嬢さんは部分的に嘘をついているようです。はっきりさせない
と、捜査に支障を来します。お母さんが出しゃばりすぎるようでしたら、続き
は警察署の方でしましょうか」
主導権を握って放すまいとする。旦那の権力を持ち出されると厄介なので、
畳み掛けねばならない。
「三枝東子さん。どれが本当で、どれが嘘なのか、正直に話しなさい。まず、
断りに行ったのは?」
「……違います」
「ん? 意味が分からない。嘘ということ?」
「そうじゃなくって、交際を申し込まれたというのが、そもそも違うんです」
意を決したかのごとく、面を起こし、真っ直ぐ見つめ返してきた東子。古舘
は内心、またおかしなことになってきたかと警戒しながらも、穏やかに対応し
た。
「どういうことかな」
「交際を申し込まれたことにすれば、動機がないと思われて、疑われずに済む
と思ったんです」
「うーん、まだよく分からないな。つまり、高下君から付き合ってくれと言わ
れてはいないと?」
「言われました。さっきは刑事さんが勘違いされているのが分かり、動機がな
いと思われたいので、交際を申し込まれたみたいな答え方したんです。本当は、
『夏休みの一日、森の秘密基地作りを見に、付き合ってくれ』と頼まれただけ
……」
「え……っと」
一瞬、ぽかんとしてしまう。これは想定していなかった。
だが、これまでで最重要の証言であることは間違いない。何せ、当日、現場
へ行く約束をしていたというのだから。気を一層引き締め、慎重に尋ねた。
「それで、実際に行ったんだね?」
ここで再び嘘をつかれては困る。逃げ道を塞ぐべく、分かっているのだから
認めなさいと言わんばかりの口ぶりに、敢えてした。
すると効果覿面。東子は母親へ振り向くと、不安に溢れる視線を送った。
母親の彩美は、硬い表情こそしているが、案外と冷静でいるらしく、唇を噛
み、思案する風に見て取れた。
「正直に答えればいいわ。あなたのしたことだけを正直に」
やがて与えられた指示。娘は無言でうなずき、刑事達へ向き直った。
「森へ、行きました。途中で、梶浦君が逃げるように、外へ向かって走ってい
くのを目撃しました。そのあと、言われた場所に着いてみると――」
彼女の言葉を聞いて、古舘と浜田は目を見合わせた。これは正規の調書を作
らなければならない。
「あのね、三枝さん。話が合わない。まとめると、こういう証言になるんだが
――高下君の声がする方を見て、彼を見付けた。助けるのに手間取ると、『早
く大人を呼んでこい』と言われた。こんな場所で会っていたことを知られると
どう思われるか恐い、という理由で躊躇っていると、高下君から罵られた。自
分を悪く言うだけならまだしも、母親の浮気の話を持ち出されてかっとなり、
持っていたカッターナイフで、彼の首を切った――と。どうだね。色々と不自
然だろう?」
「……」
「カッターナイフの現物が見付からないのは、まあ三年前のことだから分から
なくもない。カッターナイフを持ち合わせていたというのが、まずおかしい。
以前、この点を追及すると、文房具として筆箱に入っていたと答えたが、当日
は既に夏休みで、ランドセルとか筆箱とかを持って森にはいるのはおかしいと
指摘した。すると供述を翻し、森に一人で入るのは恐いから、護身用に持って
いったときた。最初からそう答えていれば、まだ信用したかもしれないが、言
い直しはまずかったな。
それから、当時小五の女の子が一人で森に行くこと自体、かなり不自然だと
思うね。護身用にカッターナイフを持っていたとしてても、だ。三枝家の躾は
厳しいようだしな。出掛けるときは、親に行き先を告げるように言っていたん
じゃないか? そう考えると、森に一人で行ったという証言が、ますます疑わ
しくなる」
「……嘘をついている、と?」
「ああ、そうだ。古舘刑事の受け売りだが、合理的に考えられるのは、当日、
三枝東子は森に行っていない、もしくは二人以上で森に行った、てことになる。
前者は、正直にそう答えれば容疑が晴れるのに、そうしていない。他にメリッ
トもないので、却下だ。となれば、実際に起きたのは後者。事件当日、三枝東
子は大人と一緒に森に入った。そうじゃないかね、三枝彩美さん?」
「よくお分かりになりましたわね、刑事さん」
「嘗めなさんなってことだ。あんた、感づかれなきゃ、頬被りして知らぬ存ぜ
ぬで通す気だったのか。全部、娘に押し付けて」
「とんでもありません。これまで知らないふりをし、今こうして認めたのは、
あの子の将来を慮るあまりの――」
「へえ、こいつはおかしなことを。殺人の罪を娘に擦り付ける気、満々でいら
っしゃるようだ」
「――心外ですわ。仰る通り、私はあの子に付き添って、森の中、秘密基地と
やらの近くまでは行きました。しかし、その後何があったのか、直接は見てお
りません。あの子がしでかしたことを、あの子自身の口から聞いただけです」
「被害者の首を切ったのは、三枝東子だと言い張るんだな?」
「事実ですから。そもそも、私には高下という子供を殺す理由がありません」
「それに関しては、娘の証言通りじゃないのかな? 浮気だか男遊びだかを非
難されて、プライドの高そうなあんたは激高し、発作的に殺害してしまった、
と見ている」
「ふん、そんなことで、いい歳をした大人が……」
「三枝東子の仕業とするには、凶器のカッターナイフの説明も付かないんだが、
どうだい?」
「……」
「武器になり得る物を護身用に持って行ったとしたら、それは娘でなく、大人
であるあんたが所持するべきもんだろ。子供にも持たせたとしたって、いい大
人がカッターナイフを渡すか? 催涙スプレー辺りが妥当じゃないか」
「人それぞれです」
「さっき、あんたの持ち物を検査させてもらったが、化粧道具が結構入ってた
な。遊び歩いて、泊まりになることが多いから、一式持っているのかね。まあ、
あれを一式揃っていると呼んでいいのか、男の俺には分からんが」
「余計なお世話じゃありません? 何が言いたいんです?」
「あの中にむだ毛処理用の剃刀があった。ああいうのもこの事件の凶器になる
と感じたんだが、どうだい? 女のあんたの意見を聞かせてくれ」
「……あれは皮膚や肉を斬る切る物ではありませんっ」
「だが、やったら斬れるよな」
「仮にそうだとしても、実際に使ったかどうかは……」
「確かに。遺体が古く、状態もよくないので、判断できない。だが、少なくと
もあんたの娘には、犯行は無理だ」
「……どうして」
「俺達は最初、あの子の証言を鵜呑みにして、事件を再構築した。その上で、
実験してみたんだ。そうしたら――ふふ」
「な、何がおかしいんです」
「失敬。まさかあの子も、再現させられるとは考えていなかったんだろうな。
木を前にして立ち尽くしてしまったよ。早くやってみせてくれと促したら、蚊
の鳴くような声で答が返ってきた。『私、木登り、無理です』ってな」
「あっ」
「自分の娘に、高所恐怖症の気があることぐらい、把握してるだろうに。あっ
と、その前に一つ、質問させてくれ。三枝彩美、あんたは三枝東子の実の母親
なのか?」
――終
#323/369 ●長編
★タイトル (AZA ) 08/06/30 23:59 (499)
火のあるところ1 永山
★内容
三月下旬。暖房器具を仕舞うか、もうしばらく出したままにしておくか、迷
う季節。
他所の大学と同様、Y大も春期休暇のただ中だというのに、その大教室は八
十名ほどの聴衆で賑わっていた。昨日とは打って変わって、暖かな日和になっ
ていたが、誰一人として眠りこけてはいない。
「――見るという行為に関しては、まだまだ実用的ではありません。先程触れ
ましたように、ハプニングに対応できるレベルにないからです。それは、ロボ
ピックのような競技会、つまり現実世界に比べると相当に限定された状況下に
おいてすら、なかなかに難しい」
市民向けの一日公開講座とあってか、講義名は『ロボットの動かし方』と、
イメージのし易い、砕けたものとなっている。内容の方も、言い回しが時折固
くなるくらいで、とても分かり易い。
教壇に立つ教授、笠置秀太郎(かさぎしゅうたろう)の喋りや講義の組み立
てが、以前に比べて聴き手の興味を惹く工夫がされているのも大きい――。三
鷹珠恵(みたかたまえ)はそう感じていた。元々、ソフトな声の持ち主であり、
見事な白髪に柔和な顔立ち、男性にしては小柄故に動きが気忙しく見える等、
好感を与える要素はたくさんある人物だ。
「皆さんの多くがご覧になったロボピックでは、丸、三角、四角、十字、星形
の五種類を区別する必要があったが、五種類と決められていたこと、さらにこ
の五種類だったおかげで、区別が比較的容易だったと云えなくもない。仮に、
歯車型が加われば、一気に困難さが増します。単純なプログラムでは、丸と星
形と歯車を同型、あるいは極めて似た形と認識してしまうでしょう」
図形を板書し、各図形の着目すべき特徴が重なり合っていることを示す。
この公開講座が人気を呼んだのは、偏にテレビによる。民放テレビ局のバラ
エティ番組の一コーナーから派生・拡大したロボットの競技会、その名もロボ
ピック。昨年末に開催された第二回大会で、笠置教室のチームが総合優勝を果
たしたのだ。特に、柱をするすると登り、てっぺんに到着するや否やロープを
切って相手を妨害し、最後にはネットを打ち出すロボットが人気を呼んだとい
う。
(もしかすると、笠置教授の話し方が向上したのは、テレビで鍛えられたせい
かしら)
三鷹はそんなことまで思いつつ、講義に耳を傾けた。
昼食休みを挟み、午後からは体育館に場所を移す。実際にロボットの操作を
体験できるのだ。参加者にとってはこちらの方が楽しみであり、メインと云え
よう。
尤も、講義で時間の多くを割いた自立タイプの物は、構造の精密さやセッテ
ィング等を理由に、一般の人は触れない。実際に触れるのは、遠隔操作タイプ
か、からくり茶飲み人形のようなシンプルな自動ロボットに限られる。
「やあ、三鷹君」
ほぼすり足ながら二足歩行するマシンを動かしていると、教授に声を掛けら
れた。持ち時間にはまだ余裕があったが、三鷹はロボットを停止させると、次
の人にコントローラーを渡し、笠置教授の前に立った。
「ご無沙汰していました。本日はお招きくださり、ありがとうございます。午
前の講義、とても興味深く聴かせていただきました」
「珍しく型に嵌まった挨拶だね」
「具体的に感想を述べるのは、今の自分には無理です」
「そうではなく、いや、それも期待しないではないが、それよりももっと中学
生らしい感想が聞きたい。息子に聞いたことがあるが、まるで歯応えがなかっ
た」
教授はそう云って笑った。三鷹は「ボーダーライン上にいる自分には、“中
学生らしい”というのは難しいかも」と切り返す。この四月から高校進学だ。
「七日市学園だったね。おめでとう。どんなところだね、学校は。高校にして
は設備が非常に充実していると聞いたが」
「まだ実際に使った訳じゃありませんが、その通りだと思います。快適過ぎる
ことを心配してしまうほど」
「うむ。何事も“過ぎ”はいけない」
「ところで笠置教授。メールにあった、とっておきのロボットというのは……」
この公開講座への参加を勧めるメールにて、笠置は三鷹の好奇心をくすぐる
文句を記していた。とっておきのロボットを出すから是非来るといい、と。
「矢張り、それが最大のお目当てか。勿体ぶっている訳じゃなく、運び込むの
に時間が掛かるだけで――おっと、到着したようだ」
出入り口の方を見た教授に続き、三鷹も振り返った。顔の前に掛かった縦巻
きの髪を払い、目を凝らす。
他にも気付いた人がいて、口々に「何だあれ」「でっかいなあ」等と声を上
げた。
それらの言葉の通り、運び込まれたロボットは大きく、些か不気味ななりを
していた。脇に立つ男子学生らよりも、頭一つ分以上、高い。簡単に云えば、
茶運び人形の身長を二メートルほどにした、ただそれだけの代物だった。
「……何ですか」
「見たままだよ。お茶に限らないが、物を運ぶためのロボットさ」
「お聞きしたいのは、目的は何か、なんですが」
「いい質問だ。からくり人形に詳しい者なら、即、意図を察してくれると思う」
「……確か、からくり人形が作られた当時の技術では、茶運び人形の身長は八
十センチ足らずが限界だと聞いた覚えがあります。無意味に首を伸ばす等すれ
ば別ですが」
「さすがだね。そこに気付く人がいないとつまらないので、君を呼んだのだ」
いかにも楽しげに頬を緩めた笠置。係の学生の手により、巨大茶運び人形が
動き始めた。巨漢の割に、駆動音は静かだ。ゆっくりとした散歩程度の速さで、
スムーズに進む。
三鷹は再び髪を揺らし、教授に向き直った。
「じゃあ、あの人形は、伝統的なからくりの技術だけで?」
「いやいや。残念ながら違う。模しただけだ。中身は今風、コンピュータ制御
だ。逆にあのサイズでは大きすぎて、空洞があるよ。あの服を取り去って、蓋
を開けると、分かる。二メートルにするために、わざわざそうしたんだ」
「専門家を一瞬驚かせるためだけに、作ったのですか」
「がっかりしたかい? 実は例のテレビ局の注文で、費用は全て局持ちなんだ
よ。まあ、いい練習になると思って、学生達にやらせた」
「番組で使うんですね」
「この間、撮影があった。春の特番と云っていたから、じきに放送されるだろ
う」
「観てみます。――パワーがあって、移動は水平方向の揺れがなく、滑らか。
介護に応用できるんじゃありませんか」
「費用を抑えられたらね。問題はもう一点ある。段差には酷く弱いんだ。さて、
とっておきのロボットがあれだけでは、がっかりするだろうと思って、いわゆ
るナノマシンを用意しておいた。一般の人に触らせて、壊されては困るので、
講座が終わってからになるが」
「楽しみにしています。それにしても、勿体ない気がしますね」
三鷹は、参加者達を見やった。歓声を上げ、ロボットを動かしている。彼ら
の表情は見えなくても、容易に想像できた。
「小さな子が参加できないなんて」
「うむ。その辺の要望は確かにあったそうだ」
大きく首肯し、認める笠置。
「幸い、今回が好評を収めそうだし、五月の連休にまた催す予定がある。その
ときは、親子デーでも設けるようにしたいものだ」
「実現したら、笠置教授は準備に倍、手間を掛けることになりそうですね」
「ん?」
「小さな子向けに、もっともっと分かり易く、面白い講義をしないといけませ
んから」
「ははあ、なるほどね。忘れないようにしておこう」
笑いながらも、笠置は手帳を取り出し、書き付けた。
太陽が刻々と黄色から赤へと変わる中、三鷹は急いでいた。ナノマシンを見
せてもらったはいいが、つい夢中になり、時間が経つのを忘れて楽しんでしま
ったのだ。
生憎、笠置教授もこのあと予定があり、もう一人の顔見知りの教授――伯父
の行方弘士(なめかたひろし)は不在であったため、送ってもらうことも叶わ
ない。故に、バスに間に合わせるため、キャンパス内を大急ぎで駆け抜けるし
かなかった。
急いた気持ちが、ショートカットを考えさせた。普段なら安全確実なルート
を行くのだが、この日ばかりは、三鷹も気まぐれを起こした。今までY大を訪
れた際は、必ず正門を通って出入りしたが、他にもいくつか門があるのには気
が付いていた。西門と呼ばれるところから出れば、復路のためのバス停には近
いはず。歩く距離も、正門に向かうよりもずっと短い。
陽光をほぼ正面から受け、目を細めたまま、三鷹は初めての道程を急いだ。
途中、体育館側を通り掛かった刹那、狭くなった視界の端に、黒い塊を捉える。
(え、何?)
手で庇を作り、光を遮ってから目を大きく開ける三鷹。
自分が行く小径を挟み、体育館とは反対側には金木犀らしき木々が並ぶが、
その植え込みの根元に、人が一人、屈み込んでいた。黒尽くめに見える。逆光
のせいか、それともそういう服装なのか。
「あの」
気分が悪くてしゃがんでいるのかもしれない。そう考え、声を掛けた。
すると、人影は明らかにびくりとした。振り返った顔は、矢張り光の加減で
判然としない。だが、男性らしいと分かった。立ち上がった全身のシルエット
が、三鷹にそう思わせたのだ。上背はさほどでないが、肩幅がある。
彼女が二度目の声を掛けようとする。が、人影は視線を遮るかのように、腕
を顔の前に持って行き、身を翻した。脱兎の如く遠ざかり、三鷹の視界から消
えた。西門の方へと丘を駆け下りたのか、角を折れて体育館の壁に身を隠した
のか、それすら分からない。
不審なものを嗅ぎ取り、追おうとした三鷹だったが、足を止めた。止めざる
を得なかった。最前まで人影がしゃがんでいた植え込みのすぐ近くに、赤く光
る何かを見付けたためだ。目を凝らすと、正体はすぐに知れた。紙マッチに火
の灯った煙草を挟んである。時間が経てば次々に着火し、燃え上がるという仕
掛け。そう察した次の瞬間、想像した通りになった。
思わず、身を引く三鷹。だが、感じたほどの危険はない。燃える物が他にな
いおかげだろう。紙マッチと煙草を燃やし尽くすと、火は収まった。三鷹は躊
躇したが、念のため、燃えかすを踏みつけた。完全に消しておくべきと判断し
た。
(放火しようとしていた? だとしたら、何に火を着けようと……この木には
直接燃え広がりそうにないし、体育館からは離れているし。新聞紙か何かを用
意していたけれど、人が通り掛かったので、あきらめて逃げたのかしら)
そこまで推測してから、三鷹は誰かに知らせねばと気付いた。部外者の自分
が、直に警察へ通報するのはさすがに躊躇われた。
幸い、体育館には人の気配がする。ロボットを片付けるため、学生が何人か
残っているようだ。彼らに伝えれば、うまく処理してくれるだろう。
四、五月の休日ラッシュも、あと三日を残すばかりという頃、三鷹は再びY
大学を訪れた。
といっても、今回はロボット講座目当てではなく、伯父で情報工学教授の行
方と会うためである。時間が余れば、ロボット講座も覗いてみたいが、残念な
がらその余裕はなさそうだ。
「忘れることの効用を調べているんだ。機械的な忘却を三パターン、恣意的な
忘却を一パターン、それぞれ用意した。機械的な忘却は、古い順から忘れる、
参照頻度の低い順から忘れる、ランダムに忘れるの三つ。恣意的な忘却は、あ
る記憶を参照することによってもたらされた結果を心地よく感じたときはプラ
ス、不快に感じたときはマイナスの数値で点数化し、その絶対値の小さいもの
を忘れていくという形にしてみた。計算量という観点から、効率が上がるのは
間違いないが、反面、忘却の――」
「よかった。伯父様ったら一時期、人間工学にシフトした印象を受けていまし
たが、情報工学に戻ってきた感じがします」
「根っこではつながっているはずだよ、人が使いやすい物と、人のために働く
ロボットは。そして、人のために働くロボットは、人の持つ不便な欠点を極力
取り除いて実現されるべきだと考えている。そのためには、まず人の欠点を持
ち合わせたロボットを作ることが必要だろう」
「ええ。ただ、記憶に関して云わせてもらえれば、人は記憶量が多すぎるから
といって、計算量が増大することはありません。実生活で感じられるほどの差
違はないでしょう」
「確かにね。記憶量不足――換言すれば知識不足のため、停止状態に陥ること
はあっても、逆はない。その辺りが、機械と人間の差で、解明の難しい命題の
一つ」
「解明が難しいといえば、放火未遂の事件、どうなりました?」
思い出したときに聞いておこうと、三鷹は話題を換えた。
「進展なしだ。前に話した以上のことは、分かってないみたいだよ」
犯人は逃げたまま行方知れず、手掛かりは現場に残された燃えかすだが、三
鷹が踏ん付けたこととは無関係に、個人特定には結び付きそうになかった。
「そうですか。あのとき、すぐに追い掛けていれば」
しゅんとして、下を向いた姪っ子を、行方教授が否定する。
「とんでもない! 危ない目に遭った可能性が高い。犯人は君のような女の子
でも、目撃されたことに驚き、慌てて逃げ出したんだろう。だが、追い掛けて
いたら、犯人にも反撃の余裕が生まれたに違いない」
「かもしれませんし、そうならなかったかもしれません。一人で追い掛けるの
ではなく、大声を上げていれば、近くにいた人達が何事かと飛び出してきて、
犯人を捕まえられたかも――」
「いい加減にしておきなさい。怪我がなくてよかった。私は心底、そう思って
いる」
諭すように云われ、三鷹は黙ったまま頷いた。
「幸い、あれから放火騒ぎは起きていない。学内に限らず、この近辺一帯でね。
だから、気にするのはやめなさい」
「はい。でも、悔しい……。以前、事件が起きたときは、みんなで力を合わせ
て、その日の内に解決できたのに」
「あれは偶々、うまく運んだだけだよ。ああいう幸運は、できれば研究の方で
お願いしたいね」
行方は笑い声を短く立てたが、案外本音かもしれない。医学や生物学ほどで
はないにしても、幸運が訪れるに越したことはない。閃きという名の幸運が。
「高校生活はどうだね」
さっきとは逆に、伯父が話題を転じた。頭を軽く振り、笑顔で応じる三鷹。
「まだ一ヶ月弱ですが、素晴らしいです。特待生扱いしてもらっているのです
が、工学分野は他に一年生がいないんですよね。設備が広すぎ、予算が多すぎ
という状態で、勿体ないぐらい」
「テーマを決めるまで、色々と試していいと云っていたじゃない? それなら
学校のやり方に甘えて、思う存分、あれやこれやと接して経験すればいい」
「それが、今はコンピュータ上の生命体に興味があって、工作室とは無縁。何
だか申し訳なくて」
「なるほど、それは問題だ。ははは」
今度の笑いは、本当に愉快そうな響きを伴っていた。
「では、そろそろ始めるとしよう。先程述べた通り、記憶に関する実験だ。機
械と違って、珠ちゃんがやる場合は、記憶の制限を意識的に行う必要がある。
具体的にはこういう番号札を用意し、記憶と対応させる。番号で、使える記憶
と使えない記憶を区分する訳だね」
行方が机の上で箱をひっくり返すと、色とりどりの丸いカードが溢れた。
「その番号と記憶の対応自体を覚える分、機械に比べてハンデがあることにな
るのでは?」
「ちゃんと考えてある」
行方は本格的に説明を始めた。
実験終了まで、休憩を挟んで三時間半を費やした。
お茶代込みのアルバイト賃を受け取ると、別れの挨拶を急ぎ気味に済ませて
部屋を出る。向かうは笠置教授のロボット講座だ。すでに大詰め、ロボットを
実際に触ってみる時間も終わりに近付いている頃合い。走ってもぎりぎり間に
合うかどうかだが、今後のために顔を出すだけでも、しておきたかった。
(工作実習室――ここね)
壁に掛かる案内図を頼りに、場所を確認する。現在、二階にいるが、一度上
がるか下るかしないと、渡り廊下がない構造になっている。
前回、体育館で行われたロボットの操縦体験だが、今回は運動クラブが体育
館を使用するため使えない。代わりに、工作実習室が当てられたと聞いている。
前回並の参加人数では入りきれないので、一回の講義を受ける人数を少なくし、
一日に開く講義数を増やしたそうだ。大学の宣伝にもつながるとはいえ、大変
だなと思う。
「……?」
また走り出そうとした三鷹の頭に、後ろから何かが当たった。感触は軽い。
スピードを落として振り返ると、丸めた紙が廊下に転がっていた。すぐさま視
線を起こすも、投げた人物は見当たらない。
(高校なら知り合いの悪戯で済ませるけれど、これはもしかして!)
ついさっき、放火事件を話題にしていたせいだろうか。理屈を飛ばし、結び
付けて考える。向きを換え、突き当たりまでダッシュする。紙の球を投げたの
が放火未遂犯だとして、もし自分を襲うつもりなら、前触れなしに、背後から
いきなり殴りつけたはず。そうしなかったのは、そのつもりがなかったから。
(だから追っても安全……。おびき寄せるための罠というパターンもあり得る
かも)
よぎった不安が、足にブレーキを掛けた。一転して警戒を強め、角に近付く
と、折れた先をそろりそろりと覗き込む。
無人だった。
エレベーターが一基あるが、ぐずぐずする内に移動完了したのか、それとも
ずっと停止していたのか、とにかく一階のランプが灯っている。
三鷹は再度きびすを返すと、背後を気にしつつ、元の位置まで戻った。丸め
た紙を拾い上げる。
「ロボット講座の……チラシ?」
現在開催中のロボット講座を告知する、B5サイズの印刷物だった。前回の
ときは、校内で印刷したらしき簡素な物だったのが、今回は写真入りのフルカ
ラー印刷と凝っている。
表には何も発見できず、三鷹は紙を裏返した。白紙の裏面には、赤のボール
ペンで書かれたと思しき字が躍っていた。
<口は災いのもと すべて忘れろ
キャンドルライト >
これだけ。
金釘流で、角張って、お世辞にも上手とは云えない文字。いや、わざと下手
に書いたのだろう。利き手とは反対の手を使ったのかもしれない。
(間違いなく警告。でも、キャンドルライトって何? 直訳でいいのなら、蝋
燭の明かり……放火犯であることを示唆した署名みたいなもの?)
考えても分かるものではない。
それよりも、このことを大学側もしくは警察に届けるべきか否か。
(放火未遂事件と関連しているのか、根拠がない。それに、学内ならどこにで
もあるチラシに、急いでメッセージを書いた事実から、犯人が咄嗟に思い付い
た行動。仮に今、犯人を捕まえたとしたって、具体的な証拠を身に着けている
とは、考えにくいわ)
とりあえず、実習室へ急ごう。もう間に合うまいが、笠置教授に事の次第を
伝え、判断を仰げばいい。
(ご迷惑かもしれない。でも、こうしてロボット講座のチラシが使われたんだ
し)
そう云い聞かせ、自らを納得させる三鷹だった。
内密にすべきと考えたから、話は笠置教授の個室でした。
「関連があるともないとも断定できない。保留するしかあるまい」
笠置がこう決断を下したのには、致し方ない面もあった。
警察に通報した結果、現場検証や事情聴取等が行われるのは当然の成り行き
として受け入れられるが、万が一、ロボット講座の中止勧告が出されると、影
響が大きい。今日の件にしても、以前の放火未遂にしても、講座開催に合わせ
たかのように起きた。捜査に当たる責任者が、事件と講座を結び付ければ、中
止勧告はあり得る。大学側も、学生相手ではなく、市民向けのオープン講座で
ある分、中止を求められれば強行しづらいと云えよう。
「君には悪いと思うが……」
済まなそうに目を伏せる笠置に対し、三鷹は首を左右に振った。
「犯人はとっくに逃げたあとでしょうし、明後日の最終講座が済んでからでも、
大丈夫ですよ、多分。自分自身、ロボット講座には大勢の人が来てもらいたい
です」
「そう云ってもらえると、いくらか肩の荷が軽くなるな」
途端に笑顔になる笠置。ひょっとして、許しの言葉を引き出そうと、実際の
気持ち以上に打ち拉がれたように振る舞ったのかも――お嬢さん育ちの三鷹
でも、そんな風に穿った見方をしたくなる。
「行方先生の用事は済んだの?」
「はい。急いだんですが、ロボット講座に間に合わなくて、残念」
「彼もたこ足配線みたいにあっちこっちに興味の触手を伸ばしてないで、一つ
に決めれば、とっくに大きな成果を上げていそうなのに。そりゃあ、論文がコ
ンスタントに載るってのは凄いが、今や、企業と共同しての商業的な成功を求
められているからねえ。姪っ子の君から忠告してやってあげればいい」
「自分にもその気がありますから」
それに伯父は最終的な目標のために、様々なアプローチとデータ収集をして
いる……というフォローを三鷹が口にするよりも先に、笠置が応じた。
「学生の内はいいんだよ。ましてや、君は高校一年生なんだから、それこそ工
学分野に限定する必要すらない」
「はあ」
初めて会った頃に比べ、変わったと感じる。悪い表現を用いるなら、“俗っ
ぽく”なった。ロボピックの優勝で、商業的な成功への道が開けたのは事実だ
ろう。それは決して悪いことではない。ただ、今の笠置教授には、テレビタレ
ント的なものまで漂っているようで、あまり好きじゃない。新年度、彼の受け
持つ講座は、どれも定員オーバーを記録したそうだ。
(――いけない)
三鷹は密かにかぶりを振った。反省する。
(事件が続いて、不安定になったのかしら。こんなことぐらいで、教授を悪く
評価するなんて)
それから、円周率を覚えるための英文を頭の中で暗唱し、冷静さを取り戻し
た。
「で、明日はやっぱり来られないのかい?」
「はい。高校生には高校生の事情がありますので」
「友達付き合いかね? 遊びに行くのは大いに結構だが、七日市学園のある辺
りは最近、事件づいているようだから、注意したまえ」
大人の忠告に、三鷹はきょとんとして、「こちらでも似たようなものじゃあ
りません?」と答えた。笠置は苦笑いを浮かべるのみだった。
* *
西洋人形を連想させる縦ロールした髪型に、整った顔立ち。これでもし、ご
てごてと装飾過多のドレスを着ていたら、何世代か前の少女漫画に登場するお
嬢様キャラだ。
休み時間に廊下で三鷹珠恵を初めて見たとき、僕はそんな印象をまず持った。
「失礼ですが、あなたが一ノ瀬和葉(いちのせかずは)さんでしょうか?」
「いかにもた――むぐぅ」
たこにもと続けようとする一ノ瀬の口を、僕は横合いから手で塞いだ。早速、
抗議してきた――それも「何をするめいか」等と――一ノ瀬と、それを宥める
僕。即座に恥ずかしくなった僕は、話し掛けてきた女子を見やった。
すると、掛け合い漫才のようなやり取りが眼前で繰り広げられているという
のに、その子は涼しい顔で見つめるのみ。じっと待っている。
「あの、それで、君の名前は」
同じ一年生であるのは、校章の色を見れば分かるので、初対面でも砕けた聞
き方をした。
「三鷹といいます。三鷹珠恵」
彼女の丁寧な物腰に、僕も一応、名乗った。礼儀だと思ったから。
「僕は百田充(ももたみつる)。一ノ瀬――さんと同じクラス」
「まあ。あなたが百田さんでしたか」
おや。僕の名前を知っているらしいとは、珍しい。
一ノ瀬なら知られていても、全然おかしくない。数学やコンピュータの才能
を見込まれて、一芸入試枠で入って来たことで有名だ(飽くまで、学校内で、
だが)。
僕の方は、一般入試をくぐって入学した、平凡な生徒。中学までは秀才で通
っていたのだが、七日市学園に来てからというもの、圧倒されるような同学年
ばかりと巡り会って、かなりへこんでいる。
「話が早く済みそうで、助かります。実は、二年生の十文字龍太郎(じゅうも
んじりゅうたろう)さんに、お会いしたいのです」
「へ?」
「十文字さんに事件解決を依頼したかったのですが、コンタクトの取り方が分
からなくて、往生していました。先日、一年生の窓口が百田さんか一ノ瀬さん
という噂を小耳に挟みましたので、お会いしに来た次第です」
「いや、十文字先輩のところへ直接行っても、別に断られはしないと思う……」
引き受けるか否かは依頼内容次第だろうけど、話を聞かずに追い返すなんて
真似はするまい。あの先輩はそういう人だ。謎の内容を聞かずにいられまい。
「でも、十文字さんのご都合をお聞きしないと」
「分かりましたにゃ」
僕へと集中していた三鷹さんの意識が、一ノ瀬の猫言葉に持って行かれた。
「多分、遅くとも明日の放課後までには、時間が作れる。これでいいかにゃ?」
「え、ええ、かまいません」
「ところで、三鷹さんて」
一ノ瀬は猫の手つきを解いた。それでも三鷹さんは瞬きを何度もしている。
どこからどう見ても、呆気に取られている。
「一芸入試で入った三鷹さんだよね?」
「ご存知でしたか」
「そりゃあ、もう! 工学関係の部屋の割り当てがあるのに、コンピュータ室
にしょっちゅう出入りしているから。たまにすれ違っていたと思うよん」
「お邪魔してすみません。性能が段違いなものですから」
「ミーは気にしてないよ。何せ、ミーは最新型も旧式も分け隔てなく、愛用し
てるのさ」
話を聞いていると、三鷹さんもどうやら校内有名人の一人なのか。僕は全然
知らなかった。
って、そんなことよりも、話題を戻さないと。貴重な休み時間を無為に費や
してしまう。
「用件は僕らが十文字先輩に伝えておくから、三鷹さん、連絡先を教えてくれ
る? 都合のいい日を――」
僕のこの発言に先んじて、三鷹さんは一ノ瀬と電話番号やメールアドレスの
交換をしていた。通じるものがあったらしい。
一ノ瀬の猫撫で声による命令で、不本意ながら僕がお茶を入れ、みんなに配
る。四人で季節外れの炬燵を囲み、三鷹さんの依頼する事件の話が進められた。
「――脅迫文の書かれたチラシは、一応、自分が保管することになりました。
そうして、Y大から帰ったのですが、翌々日、ニュースが新たな事件の発生を
報じました。笠置教授の助手で、浪野茂彦(なみのしげひこ)という方が、殺
されたのです。当人も暮らす大学職員寮の近くにある公園内で」
彼女のよくまとまった説明に、僕ら――僕と一ノ瀬と十文字先輩――は聞き
入っていた。
先輩は取り込み中の依頼は勿論、差し迫った大きなテストもなく、時間を持
て余していたらしい。三鷹さんの用件を伝えると、その日の内、つまり今日の
放課後、話を聞こうと相成った。くれぐれも内密にという三鷹さんたっての希
望により、集合場所は学校の外にする必要が生じた。短い検討の後、決まった
のは一ノ瀬の自宅(!)。マンションに一人暮らしで気兼ねがいらないのと、
距離的にも全員にとって、まずまず都合がよいためだが、まさかこんな形で、
一ノ瀬の住まいに上がり込もうとは。
「ニュースでやっていたな。死んだのは午前一時から三時の間で、直接の死因
は、後頭部を強打したためと推定された。手と顔を焼かれた痕跡があったので、
事故の可能性は低い、と。燃料に用いられたと思しき灯油だかガソリンだかが、
地面にも染み込んでいたという」
「身元を隠したかったんですかね。人相や指紋を分からなくするために焼いた
んだとしたら」
「だが、実際には簡単に判明している」
「運転免許証等の身元を示す物は、全て手付かずで残っていたそうです。ちな
みに、財布の中身も同じく手付かずだったと考えられています」
三鷹さんが云い添える。僕の仮説は呆気なく崩れた。ともかく、話の続きを
聞こう。
「順序が逆になりましたが、殺人事件の前日に、不可解な事件がもう一つ、起
きていました。笠置教授は一般向けのロボット講座の期間中、様々なロボット
を工作実習室に出しました。講座は連日開催なので、いちいち仕舞うことはせ
ず、どれも出したままにしておいたそうです。勿論、部屋の鍵は厳重に閉めて。
ところが、浪野さんが殺される前日の朝、教授が実習室を開けてチェックする
と、一台のロボットが見当たらないことに気付きました。ロボピックでの優勝
に貢献したロボットでした」
「ほう。そのことは報道されていなかった」
「おかしいのは、なくなった経緯が不明な点です。講座が終わり、部屋を閉め
た段階では、確かに何事もなかったそうです。鍵は二本あり、一本は教授が、
もう一本は大学が管理しています。そのどちらも使用された形跡はないのに、
翌朝、実習室のドアは開けられていました。盗まれたんだとすると、犯人はど
んな方法を用いて、錠を開けたのか」
「大学の防犯がどうなっているか、知っているのかな? 特に、機械的なシス
テム」
シャープペンの尻でメモをとんとんと叩きつつ、十文字先輩。期待していな
い風だ。
ところが、三鷹さんはしっかりと頷いた。
「夜の十一時以降、大学内の建物はどれも、外に面した扉や窓の開け閉めがで
きなくなるそうです。開閉したり、破ったりすると、契約した防犯会社に即座
に知らせが行きます。建物内部、つまり部屋と廊下を仕切る壁にある窓も同様
です。ただし、内部の扉だけは独立しており、自由に開閉可能です。ロックさ
れていたのなら、鍵が必要ですが」
「なるほどね。ドアは部屋の外からは鍵でロックするんだろうが、中からは?
矢張り鍵がいるのかい?」
「いいえ。つまみを捻るだけです。横に倒すとロックされ、縦に起こせば解錠
されます。あの、差し出がましいようですが、念のために付け加えておくと、
ドアや窓には一切の隙間はありません」
「ああ、糸の類で遠隔操作できるとは、僕も考えていないよ。だが、室内に置
かれたマシンを使えば、つまみを起こすぐらいはできるんじゃないかな」
「外部から無線でコントロールしたと? それは無理です。Y大学の工作実習
室は、外部からの影響を排除するため、壁や天井は特別あつらえだそうですか
ら」
「そうなのか。でも、窓ガラスは」
「あら、ごめんなさい。窓ガラスは、棟全体を思い浮かべて言及しましたが、
工作実習室にはないんです」
「ふむ……」
考え込む先輩に、三鷹さんは閉じた口をまたすぐに開いた。
「ただ、お考えを伺って、思いました。自動操縦タイプもありますから、プロ
グラミングしておけば、解錠させられるかもしれません」
「無線操縦ではないので、壁は関係ないという訳だ。つまみを捻って開けられ
るようなマシンがあれば、盗みの方は簡単に解決しそうだが」
「生憎、笠置教室のマシン全ての機能までは知りません。知っている範囲でも、
あの部屋のドアノブの高さまで届き、なおかつ、つまみを捻るだけの機能を有
するマシンは……ありません」
「仕方がない、その点は、実際に確認するということで、後回しにしよう。メ
インは殺しの方だろう」
「あの、それがもう一つ……」
おずおずと切り出した三鷹さんが、急にか弱い存在に映った。何かに怯えて
いるような、とでも表現すればよいだろうか。
「先程、放火未遂犯と思しき人物から、警告の書かれた紙の玉をぶつけられた
と話しましたが、その後、自分にも危険が迫っている気が……。殺人事件が起
きてから、こうして依頼しようと思うまで間が空いたのも、危険を感じたから
なんです」
「それを早く云ってほしかった。具体的に、どんな危険が?」
十文字先輩が、ぐっと身を乗り出した。名探偵を志す先輩だが、職業探偵で
はない(将来は知らないが、現時点では)。殺人事件の謎といっても、被害者
とは面識がなく、単にパズルでも解くようなつもりでいたんだと思う。だが、
目の前の女性に危機が迫っているとなると、気構えが違ってくるのは当然だろ
う。
「物理的な危害を受けた訳ではありません。警察に届けていないことから想像
が付くと思いますが、一つ一つを取り上げれば、本当に他愛のない物事に過ぎ
ないんです。無言電話の回数が増えたこと、夜道でつけられている気がしたこ
と、自宅の玄関先に小鳥の死骸があったこと。この辺りまでなら、偶然かもし
れないし、騒ぎ立てるほどじゃないと済ませられなくもなかったんですが……」
不意に云い淀む三鷹さん。その微かに俯く仕種には、お嬢様な風貌と相俟っ
て、舞台劇でも観ているかのように錯覚させられる。
「四日前になります。直接電話が掛かってきて、警告を発したのです。『三鷹
珠恵。あと一週間で終わりだ』と」
「なるほど。これまでと違い、明確なメッセージだし、悪意を感じる」
「楽観的に捉えてかまわないのなら、一週間我慢すれば、この嫌がらせ行為が
収まるとも受け取れなくはないと思うのですが……やっぱり、悪く考えてしま
いますね、こういうときって」
自嘲気味に笑った三鷹さん。
僕は彼女の言葉で、そういう解釈もできることに気付かされた。見えない恐
怖におののく一方、冷静でしっかりした気持ち保っているらしい。
「僕も賛成だ。ここは、最悪のケースを想定して動くべきだろうな。それで、
僕に頼みたいのはボディガード? 生憎と、僕の腕力はまだ、名探偵のレベル
に達していないんだが」
「犯人を見付けたいと思っています。力を貸してください。犯人が捕まれば安
心できます」
――続く
#324/369 ●長編 *** コメント #323 ***
★タイトル (AZA ) 08/07/01 00:00 (439)
火のあるところ2 永山
★内容
この台詞を聞いた先輩の表情は、ちょっとした見ものだった。まさしく、鳩
豆ってやつだ。「犯人を見付けてほしい」「謎を解いてください」といった依
頼には慣れていても、「犯人探しに力を貸して」というのは、なかなかないん
じゃないかな。
「分かった」
答えた先輩は面白がる顔つきに変わっていた。
「力を貸すとするよ。ただ、一つだけ約束して欲しい」
「何でしょう?」
引き受けてくれたことに対するお礼なのか、頭を下げかけた三鷹さんだった
が、十文字先輩の言葉に動きを止めた。訝しげな視線で見上げる。
「もしも僕が一人で解いてしまっても、文句を言わないこと。いいね?」
「ええ。当然です」
先輩はジョークを真に受けられて困ったようだ。三鷹さんの返事に、最早、
微苦笑を返すのみ。
「話がまとまったところでお尋ねするけど、行動開始はいつから?」
一ノ瀬が口を挟んできた。見れば、飲み物は既に干している。
「自分にとっては、身の安全に関わること。今すぐというのが望ましいのは、
云うまでもないと思いますが、皆さんにもご都合がおありでしょうから……」
皆さんということは、僕や一ノ瀬も頭数に入っているのね。まあ、悪い気は
しないけれども。
「そうだねえ……最初にやるべきは、君を無事、家まで送り届けることだな」
腕力には自信がないみたいな台詞を云ったばかりなのに。
僕も腕力には自信がなく、十文字先輩とどっこいどっこいだと思うし、一ノ
瀬は戦力外だろう(それ以前に、今この場所が一ノ瀬の自宅なんだから、彼女
は動く必要なし)。ほんと、できることなら、音無(おとなし)に同行してほ
しかった。剣道部の音無亜有香(あゆか)は、女子とはいえ、腕が立つ。適切
な得物さえあれば、暴漢の一人や二人、叩き伏せるに違いない。ちなみに、僕
が理想とする女の子像にぴたりと重なるのが、彼女だ。
「過剰に不安がるな、百田君」
十文字先輩は帰り支度を始めた。
「火を放とうとしたり、急ごしらえの脅迫文を影から投げつけたりする犯人が、
我々三人でいるところを襲ってくる可能性は、極めて低いと分析するね。もし
襲ってくるとしたら、銃や爆弾のような対複数でも戦える武器を獲得したとき
ぐらいじゃないかな」
「爆弾は嫌ですよ」
まったく、この人と来たら、安心させたいのか、不安に陥れたいのか……。
前日、送り届けたあと、登校のときはどうすればいいのか気になった。その
ことを口にしてみると、三鷹さん曰く「問題ありません」。事件のあった大学
に勤める伯父が心配し、車で送ってくれるそうだ。
ただし、下校は時間帯が合わないため、車による送迎は無理。対策を考えな
ければいけない。
「タクシーを使えばー?」
明けて今日、学校でそのことを話すなり、一ノ瀬が云った。既に自力で稼ぐ
人は、発想が違う。尤も、三鷹さんの家も――出で立ちのイメージそのままに
――相当に裕福らしいから、実行可能だろう。
「いや、僕は反対だね」
こう云ったのは、十文字先輩。依頼を抱えているときは、たいてい朝一で教
室まで押し掛けてくるのだ。
「犯人にタクシーの運転手に化けられては、対処できなくなる。そこまで極端
なケースを考えなくても、タクシーを降りた途端に襲われては、全く意味がな
いしね。お金を掛けるのなら、身元のちゃんとした運転手とボディガードをセ
ットで雇うのが、より効果的だろう。現実的ではないが」
「それじゃあ、どうしようというんです、先輩は」
「五代(ごだい)君や音無君に協力を求めるぐらいしか、案はない」
「女子の知り合いの中から、腕の立つ人を選んだ感じですね」
そう応じながら、教室に姿のない音無のことを思い浮かべる。剣道の大会に
出場するので、何日か休むと聞いている。
「五代君も音無君も、合宿やら大会やらで、忙しいらしい。男の知り合いにも、
腕の立つのを何人か欲しいところなんだが、何故かそういうタイプとは親しく
なれない」
独りごちる名探偵。まあ、武道や格技に打ち込む男が、名探偵志望の同性と
相容れ難いのは、何となくではあるけれども合点が行く。名前の挙がった女子
にしたって、五代先輩は前々から十文字先輩と馴染みの仲のようだし、音無は
事件絡みで関わったに過ぎない。
「それで、今朝は三鷹さんと会った?」
先輩に尋ねる一ノ瀬の口ぶりは、いつもと同じで軽い。ただ、三鷹さんの名
前を呼ぶところだけは、親しみを込めているような。一度会っただけで、シン
パシーを感じたのかもしれない。
「校舎に入るまで、見届けたよ。向こうは気付いていなかったようだが、あと
でまた話がしたいな。二年生の教室に来にくければここへ、と云っておいたか
ら、注意しておいてほしい」
集まる場所はどこか一つに絞った方が、行き違いがなくていい気がするので
すが。あるいは、携帯電話で前もって約束を取り付けるとか。
と思った矢先、僕の視界の片隅に、当の三鷹さんが入った。廊下から教室内
の様子を窺っている。まだ僕らを見付けられないでいるようだ。僕は「先輩、
ほら」と云って、名探偵を振り返らせた。
「噂をすれば」
指を鳴らした十文字先輩は、大きな身振りで三鷹さんの注意を惹いた。
当然、彼女はすぐに気が付き、それでも回りの視線を気にする風に、おずお
ずと入って来た。
「おはようございます。時間がないと思いますから、手短に話しますね」
僕達が挨拶を返すいとまもなしに、一気に喋り出す。語勢とは正反対に、音
量が小さいのは、内容が内容だからか。
「昨日の今日でおかしなことなんですが、急展開がありました。今朝早くに電
話があり、『思いは遂げた。あとは好きにしていい』と一方的に告げて、切れ
てしまったんです」
「録音は?」
十文字先輩は昨日の別れ際、次にもし電話が掛かってきたら録音しておくよ
うにと頼んでいたのだ。
「すみません。今日、準備をしようと思っていたので……。掛かってくるのは
自宅の固定電話ですから、家族の目に着きます。心配させずに取り付けるのに、
どう理屈をこねようか考えあぐねていました」
「済んだことは仕方がない。間違いなく、前の電話と同じ奴だったかい?」
「多分。ボイスチェンジャーを通したような声で、男かどうかは断言できませ
んが、抑揚が同じだと感じましたから」
「となると……一週間後に終わると云っていたのは、一週間以内に終わるとい
う意味だったことになる。ニュースになっているかもしれないな。キャンドル
ライトを名乗り、警告文を君に投げつけた奴、君の自宅に電話を掛けてきた奴、
そしてロボット泥棒、大学助手殺害犯は恐らく同一人物。ロボットを使って、
何かしでかしたのかもしれない」
「ふむふむ。ちょっと調べてみる」
一ノ瀬がモバイル端末で検索を始めた。始業時間が迫っていたが、障害には
ならない。一ノ瀬は情報を探し出す能力に長けている、その気になれば、イリ
ーガルなことでも軽々とやってのけるくらいだ。公にされている情報なら、お
茶の子さいさいの朝飯前というやつだろう。
実際、僕らが欲していたものであろう記事は、呆気なく見付かった。
「――三鷹さん。笠置教授とはどの程度の親しさなのかにゃん?」
「伯父のつてで知り合って、二年半ほどになるかしら。それが何か」
「うーん、一応、ショックを受けるかもしれないので、覚悟してから見てもら
いたくて」
珍しくも真顔で前置きし、端末の画面を三鷹さんや僕らの方へ向ける一ノ瀬。
そこには、昨晩、笠置教授の一人息子が死亡したことが載っていた。
ベルが鳴った。
「完全に後手に回っている」
昼休みの学食で、十文字先輩は悔しげに吐き捨てた。よほど悔しいのだろう、
食事はほとんど手付かずだ。その上、とんでもないことを云い出す始末。
「全力で事件に取り組むために、解決するまで休もうと思う」
「休むって、学校をですか」
「ああ。ここまで虚仮にされたのは初めてだ。汚名は雪がねばならない」
「三鷹さんは、依頼を取り下げるつもりみたいですよ」
「それがどうした。事は既に、僕自身のプライドに関わる問題にもなった。仮
に依頼されなくとも、名探偵たる者、謎を拾い上げて解くべき」
それはかまいませんが、僕は休みたくありません。休めませんから、おひと
りでやってください――という自己主張をどこに挟み込もうか、タイミングを
計る僕だが、いつまで待ってもチャンスが訪れない。
「十文字さんらしくないですにゃ」
空気を敢えて読まない一ノ瀬が、スプーンをひと嘗めしてからそう云った。
「最初っから、休むことを前提にするなんて! 今日一日で解決してやる、ぐ
らいの気構えを持っても、罰は当たらないとミーは思いますですよ」
「……それもそうだ」
冷静になったように見える名探偵。とりあえず、一ノ瀬、グッジョブだ。だ
けど先輩はまだ、今日は早退しようとか云い出しそうな雰囲気を纏っているか
ら、要注意だ。
僕が次に掛ける言葉を考えていると、三鷹さんが戻って来た。同席していた
彼女は早めに食べ終え、伯父に電話をしていたのだ。
「笠置教授のご子息が亡くなったことを、伯父も大学に着いて、初めて知った
と云っていました。当然ですが、笠置教授は休んでいるそうです」
「そのご子息について、聞き出してくれたかい?」
聞き込みモードにスイッチが入った。十文字先輩のペンを握る手に力が入る
のが、傍目からでも見て取れた。記憶力にのみ頼らず、しっかりメモを取る辺
り、気合いが入っているのかもしれない。
「名前は笠置優也(かさぎゆうや)。高校二年といいますから、十文字先輩と
同じですね。面識のあった伯父の話をまとめると……優也さんは成績優秀だが、
自由奔放な質で、これには両親が放任主義だったことも影響しているのかもし
れません。高校入学に際し、自宅から楽に通えるにも拘わらず、一人暮らしの
希望をあっさり認めています」
「**マンションだっけ。かなりいい物件だと思うが、そんな部屋を借りてや
れるほど、笠置教授は儲かっているのかな?」
「自分も引っ掛かったので、聞いておきました。笠置教授の配偶者が、某機械
メーカーの偉い方の次女だそうで、生活費を始めとするお金のほとんどは、そ
ちらから出ていたとか」
だとしたら……と、僕は密かに思う。これまで聞いた話の限りでは、笠置教
授という人は研究一筋の専門莫迦ではないようだ。ロボピック優勝やテレビ出
演で一躍有名になったことを、家庭内での権威回復の絶好機だと捉えていたか
もしれない。息子さんが亡くなった今は、それどころじゃないだろうけど。
「息子は父親を見て、ロボットに興味を持っていたんだろうか?」
逆に優也は笠置教授をどう見ていたのか気になり、僕はそんなことを聞いて
みた。三鷹さんはすらすらと答える。
「それはどうか分かりませんが、模型作りを趣味としていたそうですから、関
連あるのかもしれません」
模型って、プラモデルのことか。父親の影響を受けなくても、プラモデルが
好きな男子はいくらでもいるだろうな。
「事件に関しては?」
先輩が話を主題に戻した。
「すみません。事件に関する情報は、大学には伝わっていないようです」
「謝ることはない。大学内で起きた事件じゃないし、ロボット盗難や助手殺害
との関連の有無も明確でないのだから、しょうがない。ただ、爆発が起きた上
での火災というのは、死因が特に気になるね」
昨晩の深夜一時過ぎ、**マンションは爆発音に揺れた。続いて発生した火
災により、付近一帯も含めて大きな騒ぎとなり、消防及び救急が駆け付けた。
程なく鎮火したが、火元と見られる最上階の五〇四号室では、借り主の笠置優
也が遺体で見付かった。
今朝の段階で報じられたのは以上だ。続報がないか、一ノ瀬がモバイル端末
を叩く。さっき食べ終えたばかり故、口をもぐもぐさせながら。
「――公式発表はまだだね。ワイドショーも一報を伝えたのみで、取り上げて
ないみたい」
「それなら……学校裏サイトの類を当たってみてくれないか。掲示板に、事件
にまつわる噂が書き込まれているかもしれない」
「見付けても、ケータイでしかつながらないことが多いよ〜」
「承知している。とにかく、調べて欲しい」
「高校名は?」
一ノ瀬が先輩から三鷹さんへ視線を移す。
「おおかわという高校だと聞きました。『大河』と書いて、『おおかわ』と読
ませます」
「……分からにゃい」
日本語に疎いところのある一ノ瀬に代わり、僕が文字を打った。あとの作業
はまた一ノ瀬に任せる。
「――普通に検索しても、ヒットなし。さて、ここからが腕の見せどころ。裏
サイトが元から存在しないとか、閉鎖されたって可能性だって、ゼロとは云え
ないけど」
「あるとして、探して見付かりそうなのかな?」
「多分、できますよん。でも、ロー多くしてKO少なし……じゃなくて、労多
くして功少なし、かも」
どこでそんな変な風に覚えたんだ。訝しむ僕の気持ちなど知らず、一ノ瀬は
続ける。
「裏サイトが事件と関係あるとして、探すなら、被害者の携帯電話かパソコン
を当たる方が、きっと早い。で、サイトを見付けても、書き込みの信憑性を判
断できないっしょ? 推理の取っ掛かりにはなっても、結局、生徒に直接話を
聞いて確かめなきゃいけないんだから、二度手間になるんじゃあ?」
「この場にいながらにして情報を得たいんだよ、一ノ瀬君。一刻も惜しい。い
つもなら五代君のルートを頼るところだが、今度の事件は管轄じゃないらしい。
仮に何か知らせてもらえるとしても、発生間もない現段階では、期待薄だ」
「しょうがないなー、十文字さん。焦りはキンシャサ」
焦りは禁物、だ。まあ、話の流れから、わざわざ訂正せずとも三鷹さんも理
解できたと思う、多分。
「仮に十文字さんの直感――被害者の同級生が事件に関係してるっていう直感
が、当たっているとしたら、その同級生はY大に来た可能性が高いんじゃ?
ロボット講座の聴講生として」
「なるほど。事件の一連の流れから、蓋然性を重視して判断するなら、大いに
あり得る。――三鷹君」
「三月及び五月に開かれた、ロボット講座の受講者名簿が手に入らないか、で
すね?」
「その通り!」
察しがいい三鷹さん。というよりも、万事、気の利くところがある。頭の回
転が速いんだと思う。
「問題はありますが、伯父に頼めば手に入ると思います。笠置教授ご本人に、
優也さんの事件を解決するために必要です、と訴えてもいいかもしれません」
「いよいよとなったら、ミーがY大のシステムに侵入――」
一ノ瀬の口の前に、手のひらを持って行った。皆まで云わなくてよろしい。
「じゃあ、早速頼む。また電話するのかな?」
「メールもありですが、電話の方が即座に意思疎通できます」
「電話がいいな。名簿がデータの形で送信可能なら、僕のアドレスに」
「分かりました。お昼休みの時間が終わってしまいそうなので、このまま失礼
することになると思います」
三鷹さんは席を立った。足を踏み出す前に、十文字先輩に顔を向ける。
「途中で放り出すのは、矢張りよくありませんね。依頼は取り下げずに、最後
までお願いします」
軽く頭を下げ、小走り気味に去る依頼者。その背中を見送った先輩。と、誰
ともなしに呟いた。
「今更取り下げられても、僕はこの事件から降りるつもりはない」
そして急いで食事を片付けに掛かる。うむ、エネルギー補給は必要だ。
僕は時刻を気にしつつ、疑問点を口にした。
「犯人が同級生にしろ、そうでないにしろ、ロボット講座を受けていた可能性
が高いと考えているんですよね」
「そうだが」
「犯人が最初からこの犯罪を計画していたのなら、本名ではなく、偽名を使っ
たんじゃないかと思うんですが」
「それはないよ、みつるっち」
横手から否定された。一ノ瀬はひとまずモバイル端末を仕舞うところだった。
「どうしてそう云える」
「ちょこっと調べたんだ。Y大の市民公開講座を受講するには、事前に申し込
まないといけない。そのとき、身分証明がいるんだよん」
へえ。一日限りの趣味のような講座でも、結構うるさいんだ。でも。
「偽の身分証明をしたかもしれないじゃないか」
「そのあとで事件を起こす気でいるのなら、怪しまれるだけじゃない? 警察
が今、名簿に着目しているかどうか知らないけど、きっと、いずれは調べるよ
ね。偽名なんて、すぐにばれてマークされる」
「いや、だから、住所なんかの連絡先も、当然、嘘を書くんだよ」
「受講記念に全員写真を撮るみたいだよ、Y大学の公開講座。ホームページに
ある紹介を見たら、そんな感じだった」
「……」
ずるいよ、君だけが握った情報を持ち出すのは。そんな台詞を飲み込んだ僕
に対し、一ノ瀬はとどめの理屈をぶつけてきた。
「それに、百人も千人も参加してる訳じゃないじゃない? 身元の明らかな受
講生全員に聞き込みを掛ければ、割と楽に似顔絵を作れる気がするんだよね〜」
「そういうことだ、百田君」
栄養を取り込んだ十文字先輩は、元気よく立ち上がった。
Y大学のロボット講座を――できれば五月は事件の起きた日に――受けた大
河高校生。僕らの求める条件に該当する人物が一人いた。
遠藤丈二(せらきょういち)。同校の二年生であるこの人物は、受講申し込
みの際、虚偽の記述は一切しなかったようだ。だからといって、無論、即座に
容疑圏外に外せるはずもない。
「実際に会って話が聞きたいが、その前に事件について、もっと知っておく必
要がある。それに」
放課後、掃除当番の僕を手伝ってくれながら、十文字先輩が云った。他の当
番から奇妙な目で見られても、平気のようだ。
「疑問にぶつかった。ロボット講座は人気が高いはずだ」
「でしょうね」
箒を左右に動かしつつ、返事する僕。なお、一ノ瀬は当番でないため、さっ
さとどこかに行った。多分、帰ったか、でなければコンピュータのある教室に
籠もっているのだろう。
「人気講座を二度とも受講できたというのは、ちょっと不可解だ。送られてき
た名簿を見直したんだが、遠藤丈二以外に、複数回受講した者はいなかった。
受講者は抽選で決めるのか? いや、公平が声高に叫ばれるご時世だ、見せか
けの公平のために、『前回の受講者はご遠慮ください』ぐらいのことをやるの
が今の“常識”じゃないかと思うんだ」
「実際、遠藤丈二なる人が二度とも受講できてるんですから、何度でも受講で
きたと考えるしかないんじゃあ……」
「いやいや。コネがあるのかもしれないじゃないか」
「はあ」
飛躍したなと感じたが、声には出さずにおく。先輩だって、こうだと断定し
た訳じゃない。
「遠藤と笠置優也は大河高校の同学年。クラスは不明だが、顔見知りじゃない
かと睨んでいる」
「父親の講座に優先的に潜り込ませてくれるのなら、顔見知りといっても友好
関係なんですよね。だったら、遠藤は犯人ではない、と」
「冗談なら面白くないぞ、百田君」
手にしていたちりとりを振り上げる先輩。折角集めたのに……。
「本気で云ったのなら、君はお人好しだな。親友面して、相手を快く思ってい
ないことは、世の中にいくらでもあるさ」
「そりゃそうかもしれませんが」
「親友として、深く付き合ってきたからこそ、ちょっとした理由でこじれ、相
手を許せなくなるのかもしれない」
「分かりました。認めます、遠藤が犯人の可能性はあると」
掃除を早く終わらせないと。クラスメイトの視線が痛くなってきた。
「次に問題になるのが、遠藤と被害者が知り合いだとして、ロボット講座を受
けたのは何のためか、だ」
「遠藤犯人説を採るのなら、ロボットを盗むためでは」
「何のために盗んだ?」
「それは……笠置教授の成功を妬んだとか、次のテレビ出演に悪影響を及ぼし
てやろうとか、あるいは笠置優也に対する何らかの恨みから、その父親の名誉
を傷付けることで間接的に」
「調子が出て来たじゃないか、百田君。しかし、犯人は最終的に、笠置優也を
亡き者にしているんだぜ」
「じわじわと苦しめたかった、とか」
「それにしては短期間にやり遂げたと思わないか? ロボット盗難から殺害ま
で、十日かそこらだ」
「じゃあ……笠置優也にロボットを盗んだと知られたため、口封じに」
「それも的外れだな。三鷹君への脅迫めいた警告を思い出すんだ。少なくとも
現段階では、笠置優也殺害こそが犯人の最終目標だったと見なすべきだ」
仮説を出すのに詰まってしまった。どうせ十文字先輩は自説を用意している
に違いないんだから、早く開陳してもらいたい。
そーゆー意味のことを口にすると、先輩は待っていたよと云いたげに、得意
げな顔つきになった。
「話してもいいが、掃除を済ませてからだね。落ち着かない」
もたついたのはあなたのせいでしょうが、とは言葉にも顔にも出さず、掃除
を完了。僕と先輩はそそくさと、逃げるようにして教室を出た。いや、逃げる
ようにしては僕だけか。
それはともかく、やっと下校だ。尤も、十文字先輩の強引なお誘いにより、
自宅への直行はならず。男二人でぶらぶらと、駅周辺の街中を歩く羽目になっ
た。
「話の続きになるが、僕の考えは、犯人は笠置優也を殺すためにロボットを盗
んだ、これだよ」
「ロボットを使って殺したかのように聞こえますね」
「素晴らしい! 百田君、冴えてきたじゃないか。云わんとしたのは、正にそ
れだよ」
「どうやったかは棚上げするとして、ですよ。ロボットで殺さなければいけな
い理由なんて、あります?」
「それは分からんよ。自分基準を他にも押し付けてはいけない。たとえば、笠
置教授に精神的ダメージをより強く与えるためかもしれない。殺人ロボットの
汚名を被せ、名誉を著しく損なう狙いかもしれない。これらは、百田君も盗難
の動機として言及していただろ? 僕の考えでは、盗むだけでなく、殺人の道
具に使うことで、ロボットそのものに悪いイメージを付加し、効果をより一層
上げようという訳さ」
「先輩の推理が当たりなら、犯行方法は簡単に露見するかもしれませんね」
「うむ。現場からロボットが見付かるはず。爆発の衝撃を受けていても、何ら
かの形で手掛かりは残る。三鷹君をさんざん脅かしたあと、終結宣言の電話を
入れた事実一つ取っても、この犯人は目的さえ遂げればいいタイプに思える。
笠置優也を殺害した今、捕まってもかまわないと考えているかもしれない」
「あ、でも、一点だけ、気になりますね。キャンドルライトなんて名乗った意
味が。自ら異名を名乗るのは、今後、この名前で犯行を重ねていくという宣言
のように思えるんですが」
「あれは、三鷹君を偶然見掛け、彼女に警告するため、咄嗟の判断でしたこと
だろうから、深い意味はないんじゃないかな。せいぜい、『変な名前を名乗る
ことで、悪戯だと思ってくれ。本懐を遂げるまでは大ごとにしないでくれ』と
いう程度の狙いだと思う」
面白い捉え方だと思ったが、納得できない部分が残る。
「助手を殺したのは? 明らかに犯人自らが事件を大きくしていますよ」
「なるほど、確かに」
おや。珍しく、十文字先輩が僕の疑問をそのまま受け入れた。そのまま黙し、
何事か考えている。いかに先輩が名探偵であろうとも、推理する材料に乏しい
現時点で、できることは限られる。想像を逞しくして、物語を組み立てるぐら
いだろう。
「――だめだな。分からん」
大きくかぶりを振った十文字先輩。余裕がないとか自信をなくしたとかでは
ないが、焦りがまだ残存している。現実の事件では、必要な手掛かりが常に出
揃うとは限らない。
「遠藤丈二に早く会ってみたいが、先に推理の裏付けだな。笠置優也の事件の
詳細は明日以降だろうから、今夜はロボット盗難と助手殺しのデータを集める
としよう」
さすがに夜までは付き合えないのですが。
「ロボット盗難の方は、三鷹君に現場写真が入手できないか、頼んでいる。実
は目処が立っていて、それが真相を貫いているとしたら、現場写真を見れば片
付くんだ。君は一ノ瀬君と協力し、助手殺しのデータ収集をしてくれたまえ。
僕も独自に動くとしよう」
「……」
一ノ瀬に丸投げだ。
先輩と別れたあと、用件を口頭で伝えるために、一ノ瀬の住まいに向かった。
他の何かに熱中していると、一ノ瀬は話を聞いていないことがある。だから、
直接伝える方がよかろう。
道すがら、まだ学校にいる可能性があると気付いたが、もう遅い。引き返す
気力はないし、いなければいないで、電話で伝え、しつこく念押しすれば大丈
夫。多分、きっと。
そんなことを思いながら歩道を歩いていると、右手を通過してい行く車両の
内、一台の普通乗用車が、僕の少し前で左に寄せ、停まった。
「――やっぱり、みつるっちだ。おーい、やほー」
助手席の窓を開けると、手だけを出して盛んに振る。声は一ノ瀬に違いなか
った。駆け寄り、その赤い車のすぐ横に着いた。
「――メイさんだったんですか」
運転席の方を覗き、ハンドルを握るのが一ノ瀬メイその人だと知る。一ノ瀬
和葉のおばに当たる人だと聞いている。基本的に旅人。だけど、探偵っぽいこ
ともやっているらしく、その方面で支障が出ないよう、容姿その他に関して詳
述するのは避けたい。ただ、躊躇うことなく美人と表現できる。
「久しぶり」
さっぱりとした調子で、軽く片手を上げたメイさん。
「と云うほど久しぶりでもないか。学校に和葉を迎えに行ったんだが、そのと
きはいなかったね。百田君、元気か?」
「はいまあ、日々健康に過ごしているという意味でなら」
「結構だね。私も身体的には問題ないが、精神的にちょっと参った」
その割に元気そうに見える。黙って話の続きを待った。
だが、一ノ瀬が口を挟んできた。
「どこ行くとこ?」
「ええっと、君の家」
「うにゃ? 何事かあった?」
僕は用件を伝えた。面と向かってだったが、念押しもしておく。
「――そんな訳で、頼む。これで用事は終わり」
「頼むって、みつるっちは?」
「僕は……一ノ瀬と違って、勉強をしないと。宿題に週明けの小テストもある」
少々含みを持たせて答えた僕に、メイさんがいきなり云った。
「百田君、送ってやる。――いや、和葉がその気なら、勉強を教えてやるって
いうのもありかな」
これに、一ノ瀬も何故か食い付いて、「おう、それ、みお――じゃなくて、
おう、それ、いい!」なんて云いやがった。どうしたんだ。メイさんがいるの
なら、僕に料理を作らせようとする必要はあるまいに。
「とにかく乗った乗った。いつまでも停めてたら、邪魔になる」
急き立てられ、僕は仕方なく、後ろのドアを開け、そのまま助手席後ろのシ
ートに収まった。シートベルトを着用しつつ、運転席の方へ「じゃあ、家まで
送って――」と云った。
云ったつもりだが、僕の声をかき消すように、車は急発進。いや、安全確認
をした上でのスタートだったようだけど、音と加速にびくりとさせられた。
「さて。携帯電話があるのなら、自宅に電話して、遅くなるから夕食はいらな
いと伝えるように」
夕方の渋滞のせいか、車のスピードはすぐに制限速度以下に落ちた。対照的
に、メイさんの喋るスピードが上がったようだ。
「な、何でですか」
「家族に心配掛けないために決まっている」
「そうじゃなくて。僕は帰りたいのですが」
「どうして? 学校の勉強をするのなら、和葉とやる方が遥かに効率的のはず。
夕食も三人分あるから心配無用」
「ありがたいですけど」
「勉強以外に、家でやるべき用があるのかな?」
ありません。けど、この、向こうから用意してくれた逃げ口上、利用しない
手はない。正直なところ、同級生の女子の家に単身で上がり込むのは、気が引
ける。誰か知り合いに目撃され、巡り巡って音無の耳に入ったら、困るのだ。
――などと考えていたせいで、返事をするのが遅れてしまった! 僕の沈黙
をノーの意に受け取ったであろうメイさんは、「じゃ、決まり。電話して。持
ってなければ、貸すよ」と早口で云った。
うう。初対面時にこの人の押しの強さというか強引さは感じられただけに、
最早逆らえそうにない。僕は電話をせざる得なかった。
そして、母がだめ出しすることに微かな望みをかけたが……無駄だった。夜
十時までには帰宅する、迷惑を掛けないようにすると注意されただけで、OK
が出た。
――続く
#325/369 ●長編 *** コメント #324 ***
★タイトル (AZA ) 08/07/01 00:01 (460)
火のあるところ3 永山
★内容
「追っていた怪盗に逃げられ、その上、バイクをお釈迦にされた」
食事の席でメイさんは、精神的に参っている理由をそう説明してくれた。
「正確を期すと、怪盗に逃げられたんじゃあない。偽の情報を掴まされ、偽者
を追い掛ける羽目になっていたんだよ」
名誉のためにか、自己フォローをすると、この件に関するメイさんの話は終
了。あとで僕を送るため、今はお酒を飲まないでいるようだ。ここは根掘り葉
掘り聞かず、別の話題に移るべき。
幸い、メイさんの方から振ってくれた。
「さっき云っていた事件てのは、どういうもの? 明日には発つから、最後ま
では付き合えないが、とりあえず聞いておきたいな」
僕は一ノ瀬と顔を見合わせた。アイコンタクトと呼べるほどのやり取りもな
く、僕が話すことに。かなり大きく報道されている事件だし、個人名を伏せる
のは難しいので、ありのままを全て伝えた。
「――なあるほど」
僕が説明を終えると、メイさんは唐突に合点顔になった。
「十文字という子、想像力豊かみたいだね。ロボット盗難の手口は、確かに目
星が付く」
「え。メイさんも目星が付いたというんですか?」
「正解かどうかは別にして、一つの方法ならね。もしかしたら、百田君も気付
いているんじゃないの」
「とんでもない」
ぶるぶると首を振る。メイさんはくすりと笑うような仕種を垣間見せ、それ
から一ノ瀬の方に目をやった。
「和葉は?」
「ミーも分からないよ。だって、考えてないもん」
何と。そうなのか? 十文字先輩に付き合ってるから、一緒になって推理を
働かせているものとばかり。
「今すぐ考えてみたら?」
「えっと。多分、容疑者の体格によりけりはべりいまそかり」
混じってる混じってる、古文が。
「おっ、気付いてるみたいじゃない。犯人は茶運びロボットの内部に身を潜め
ていたってことに」
何ですと?
間抜けな心の叫びを辛うじて声にせずに済んだのは、メイさんの今の一言で、
密室からのロボット盗難の謎が、僕にも解けたため。
そうか。巨大茶運び人形の内部は、人が収まるくらいのスペースがあると聞
いた。周囲の目をかすめて、中に隠れることさえできれば、ロボット講座終了
後、部屋には外から鍵が掛けられる。深夜、人の気配がなくなったら行動開始。
茶運び人形から出て、お目当てのロボピック優勝ロボット一式を手にする。そ
のあとは朝まで過ごし、時間を見計らって再び茶運び人形の中に入る。無論、
ロボピック優勝ロボットを持って、だ。やがて笠置教授が来て、部屋の鍵を開
ける。しばらくして盗難に気付き、部屋を離れる。その隙に、犯人は茶運び人
形から抜け出て、そのまま逃走すればいい。食事や用便等の対策を講じておけ
ば、可能であろう。
先輩が、現場写真を見てからどうこうと云っていた意味も、よく分かった。
現場となった工作実習室に、巨大茶運び人形があることを、その目で確かめた
上で、結論を出したかったのだ。
メイさんや一ノ瀬の推測も同じだった。
「でも、このやり方だと、茶運び人形内部に隠れるのが、最大の難関ね。盗難
の起きた日のロボット講座が終わる間際、人目を盗んで隠れるのはどうにかこ
うにかできたとしても、そのあと、講座を手伝った学生や助手が、ちょっとで
も茶運び人形の位置を動かそうとしたら、まずアウト」
難点を挙げる割に、楽しげなメイさん。考えたり、想像を膨らませたりが好
きなんだろう。
「そこが逆に、推理の端緒になるかも」
一ノ瀬は一言云って、冷しゃぶの肉を頬張る。もぐもぐもぐ、ごく、と嚥下
してから、話を続けた。
「まず、ミー達が思い付いた方法で合っていると仮定するよん。これが大前提。
学生や助手の存在故、ロボット内部に隠れるのが大変なら、学生や助手の中に
共犯者がいれば、楽になる」
今度は、練り物を詰めたレンコンの天ぷらを口に運ぶ。その間にメイさんが
応じた。
「共犯が一人でもいれば、だいぶ状況は変わってくるな。いきなりロボット内
に隠れなくてよくなるんだから。まず、共犯の手引きで、実習室のどこか死角
にでも一時的に隠れる。その後、室内に自分だけ、もしくは共犯者と二人きり
になった機会を逃さず、ロボット内部に移ればいい」
「助手といえば、一人、死んでたんだ。名前はえっと、浪野茂彦。この人の死
って、どっちかな」
何が「どっち」なんだ。省略されると分からないぞ。僕にも分かるように云
って欲しい。
「浪野助手の事件は、たとえば犯人の犯行を目撃したというような、偶発的な
殺人なのか、それとも共犯関係にあった彼が用済みになって始末されたのか。
そういうことだね?」
一ノ瀬に代わり、メイさんが補足してくれた。これなら理解できる。
「二人の推理に沿わせるなら、浪野助手共犯説になりますね」
「その方がすっきりする、それだけだよ」
と、たしなめる口ぶりと目付きでメイさん。
「共犯関係の学生なり助手なりが、浪野に企みを知られたと気付き、口封じに
殺したっていう筋書きも考え得る。こればかりは、浪野の周辺を洗ってみない
と、可能性は等しくあるように思うな」
僕は照れ隠しに、大げさに頭を掻いた。自分もいいところを見せようとして、
墓穴を掘ってしまった。
「想像を逞しくして、仮説を組み立てるのは大いにあり」
メイさんが残りの食事を片付けながら云う。
「ただし、証拠や根拠のないことは、関係者の前でおいそれと口に出さない。
他に狙いがあって、故意に口に出すのはいいが、そうでなく、妄想を吹聴する
のは人を傷付ける恐れがある」
最前の僕の勇み足を咎めているのではない、ということかな?
「それともう一つ。仮説が如何に尤もらしくても、実際に調べて手掛かりと照
らし合わせるのが肝心なのは当然だが、その際に、仮説に合わせて手掛かりを
歪曲してはだめ」
「過ちては改むるに憚ることなカレー」
一ノ瀬、よく知ってるな。最後のアクセントがおかしいけど。
「そういうこと。これができない人間は、途中で仮説を披露せず、しまいまで
黙々と作業しときなさいってね」
いわゆる名探偵の多くが、途中で考えをあまり云わないのも、このせいなの
だろうか。間違えていたら格好悪いし。
「さて、ごちそうさま。私は出発の準備をしてるから、勉強が済んだら、声を
掛けてちょうだい」
「おー」
何で一ノ瀬が返事する。
とにかく、勉強を早く片付けて、早い内に帰ろう。それにはまず、食事を早
く終わらせねば。
「バイクがだめになったあと、この車はどうやって手に入れたんですか?」
距離はたいしてないといっても、送り届けてもらう道すがら、黙っているの
も気詰まりだし、僕はあれこれとメイさんに尋ねた。
「そりゃあ、色仕掛けで」
「ほ、本当ですか?」
「純情少女みたいな反応は困るな。かといって、事実を曲げたくないし」
「本当なんだ……」
「詳しく話すと、怪盗の件での依頼者が大金持ちで、気前よくくれた。偽の情
報を掴ませたこと、バイクをお釈迦にされたことのお詫び込みでね。そのお詫
びの中に、私への好意も多少混じっているのは間違いのない事実」
「買ってもらうなら、もっといい車をねだればよかったのでは」
「小回りの利くのが好きなの。ダンスできるくらいのがいいわね」
「あ、猛スピードで突っ込んで来て、くるっとターン、ぎりぎりの隙間に縦列
駐車とか?」
「できるわよ。この車にはまだ慣れてないけれど、多分、大丈夫」
適当な場所があったらやりかねない口ぶりだったので、僕は超安全運転をお
願いした。
じきに到着。車は家の前に横付けされた、安全運転で。
僕の親が出て来たので、挨拶を交わす。メイさんは流石に大人で、如才なく
こなした。外見がいいのもプラスに働くんだろう。
親が引っ込んだところで、メイさんは車に乗り、運転席から僕に話を。
「学校絡みで物騒な事件が連続しているから、注意するようにね」
「それは勿論です」
「ついでと云ったらあれだけど、和葉にも気を付けてやってほしいの」
「それも勿論。できる範囲で、ですけど」
「うむ。事件を含め、気になることがあって、ここを離れるのは少々後ろ髪を
引かれるんだよねえ。しかし、行かねばならぬ場所がこう多くちゃ、仕方がな
い。頼りにしてるから」
僕なんか戦力外で、頼られても“溺れる者は藁をも掴む”の藁ですよ、なん
て自嘲も美人を目の前にしているとしづらく。まあ、十文字先輩や五代先輩を
含めたグループとしての返事ってことで、僕は頷いておいた。
「では。無事帰宅したかどうかの電話はいらないからね。帰ったら浴びるよう
に飲み、寝る!」
お気を付けて。僕は手を振って見送った。
思わぬ形で勉強が捗り、先輩からの頼まれ事は一ノ瀬に押し付けた。今晩は
安眠できるはずだったが――夜遅くになり、一ノ瀬から電話があった。電話は
いらないと云われたのに、向こうから掛けて来るなんて。いや、あれはメイさ
んの発言だが。
「遠藤丈二と笠置優也の接点を探っててん」
喋りがおかしくなってるぞ。何の影響を受けたんだ。
「え。助手殺しはどうしたんだよ」
「それもやってるよん。警察、方法は解明したみたい。気化したガソリンに何
らかの火花が引火し、一気に燃焼した。波野は急な炎に顔面を焼かれたことで、
驚き慌て、後ろに転倒。頭を打って死んだ。指先の火傷は、燃焼物を手に持っ
ていたため、という見解を後日、ちゃんと発表してた」
てことは、過失致死?
「現場には燃え残りの物体があったらしいんだけど、これは正式発表してない。
犯人特定の有力な手掛かりになると睨んでるのかな、かな?」
「ふうん。て、それをどうやって知ったのさ?」
「事件後の現場を、捜査が始まる前に、たまたま見て、これは特ダネとばかり
にネットに書き込む人っているでしょ。一部のスポーツ新聞や週刊誌が、その
類を記事にしてた。記事によると、一応、警察に当たって、確かな話だってこ
とになってる。どこまで信じていいのか分からないけど」
「容疑者は具体的にいるの?」
どうして十文字先輩に直接報告しないのだろう。途中でそんな疑問が浮かん
だが、とりあえず話を聞いておく。
「警察の発表では、鋭意捜索中だけど、絞り込めてる感じじゃないね。警察は
容疑者逮捕が近いと、情報を出さなくなる傾向が強い――って、前に十文字さ
んが云ってたよ」
「遠藤丈二と笠置優也の接点てのは? まさか同級生というだけじゃないだろ」
「順を追って話すと、まず、二人は中学も同じで、三年時にクラスが一緒だっ
た。そしてそのときの冬、クラスメートの一人が校内で大火傷を負い、今も療
養生活を送っているみたい」
順を追っている割に、唐突だ。僕は説明を求めた。
「焦らない焦らない。その人、梶谷通(かじやとおる)といって、火傷の原因
が表向きは事故とされているけれど、どうも自殺未遂っぽい。火傷のことは新
聞に小さく報じられていて、最初期は、遺書めいた書き置きがそばにあったと
記してあるのに、次に紙面に載ったときは、なかったことに。火傷も、理科の
実験を一人で勝手にやろうとして失敗したせいだって」
「きな臭いな」
「きな粉臭い? きな粉にそんな酷い匂い、あった?」
僕は速やかに訂正してやった。そして本題に戻る。
「その遺書、いや、命を取り留めたのだから、書き置きだよな。書き置きに、
自殺を図る原因になった生徒だか先生だか、とにかく人名が明記されてたんじ
ゃないかなあ。それに圧力が掛かって、もみ消された」
「うん、そんな噂が立ってる。でね、この梶谷と遠藤、笠置は三人でセットと
見られるほど、仲がよかったというか、いつも……白鳥じゃなく……」
「?」
「あ、いつもつるんでた」
白鳥、鶴……。いくら僕でも、これは予測不可能だ。疲れる。
「なのに、事件後、笠置優也と遠藤は喧嘩でもしたみたいに、離れ離れに。梶
谷のお見舞いに行くのは、遠藤だけで、笠置優也の方は全然だったとか」
「ストップ。火傷が実験の失敗ってことにされたまでは、記事から分かるとし
て、そのあと、遠藤達二人が絡んでくる部分は、どうやって調べたのさ」
「実は、ちょっと特別なアクセスを。中学校で火傷事件の内部調査が行われて
いてね。テキストデータの形で保存されていたその報告書を、覗き見させても
らったのさ!」
「明るく云えばいいってもんじゃないぞ」
「だめかな? 十文字さんがこの手の情報入手をどう判断するのか分からない、
ひょっとしたら手掛かりとして認めないかもしれないから、先にみつるっちに
知らせてみたんだけど」
そういう訳か。合点が行った。
「裏付けさえあれば、OKじゃないかな。謎の解明を第一に考える人だから」
「なら、なるべく早くメールで伝えようっと」
「報告書の結論は?」
「うにゃ? ああ、結論は――表向きでない方の結論は、えっと、火傷の件が
起こる前に、梶谷が特定の級友と関係を悪化させていた気配はなくもない。が、
高校受験を控えた時期に特有な、精神の不安定さの表れとも取れ、また、自傷
行動に走った原因が、級友との関係悪化にあるとは必ずしも断定できない。こ
んな具合だよ。ついでに云うと、原因が学校の指導力不足にあったなんて説も、
形だけ持ち出して、否定してる。何のための内部調査なんだか、分からないねー」
「梶谷本人は、どう云ってるの? 自殺を図る原因が笠置優也にあるのなら、
生き残った今、何か云うだろう」
「それが、命を取り留めて以降、ずっと放心状態みたいな感じらしいよ。喋ら
ないどころか、呼びかけたり触れたりしても反応を全然示さない。原因はよく
分からなくて、ショックでってことになってる。火傷の治療が一段落したのを
機に、退院を果たし、現在は自宅療養中、だってさ」
「出歩くことはできるんだろうか? 真実、自殺を図る理由が笠置優也にある
んなら、命を取り留めた梶谷には、優也を殺害する動機がある」
「出歩けるかどうかは不明。ミーが入手できた資料中、最新のものでも安静の
必要ありと記されてるけれど、事件が起きたときには回復していたかも。あっ、
でもでも、三月の春休みに最初の事件が起きたんだから、その頃は……ああ、
ベッドの上の人だ」
つまり、犯人ではない。厳密には、実行犯でないことは確実に云える。梶谷
の殺意を、誰かが――想像を逞しくするなら遠藤が実行した可能性あり?
「分かったのはこれだけ。またあとでフォローできると思うよん」
「この短時間に凄いな」
「いやいや。それほどでも」
顔を撫でる一ノ瀬の姿が、僕の頭の中に浮かんだ。猫のイメージが離れない
どころか、ますます強まる。
「みつるっちが勉強してる間、ちょこちょこっと調べてたからね。短時間てほ
どじゃないのだ」
僕に教えながら、調査を進めていたのか。器用だな。
「次からは、十文字先輩に直接伝えろよな。これなら全然問題ないよ」
「みつるっちに話すのは、文筆修行への協力のつもりでもあるんだけどなあ」
「そりゃあ、どうも」
僕は君の日本語修行に協力させられている気がする。
「まあ、事実をありのまま書く訳に行かないし、飽くまで練習に限るなら、役
立つかな」
「そーゆーことで、十文字さんのワトソン役として、頑張りなさいにゃ」
うむむ。こっちが返事に窮していると、電話は一方的に切れた。
その後、土曜日を挟んで、事件の捜査は大きく進展した。警察も、僕らも。
三鷹さん経由で盗難現場の写真を入手した十文字先輩は、メイさんと同じ結
論を出し、一ノ瀬からの情報を得て、遠藤丈二を最有力の容疑者候補としたよ
うだ。さらに、警察からは、重要な発表があった。笠置優也の死因が首の骨折
と判明したことと、その遺体からはアルコールが検出されたこと、そして盗ま
れたロボットが殺害現場で発見されたことの三つだ。
首の骨折は、爆風で吹き飛ばされた際に急激な力を受け、変な角度で壁か何
かに打ち付けたと見られるらしい。また、アルコールについては、未成年とは
いえ自由気ままな一人暮らしを送っていただけに、日頃からたまに摂取してい
た痕跡が台所にあったという。
「僕は幸運だった。笠置優也殺し単独で依頼を受けていたら、こうも簡単に容
疑を絞れなかっただろう」
遠藤に会いに行く道すがら、先輩は謙虚な話を、自信たっぷりな口調で語る。
ちなみに、待ち合わせ場所は大河高校そばの商店街。その近くまでの足は、
タクシーを使った。笠置と行方の両教授から、交通費が出たおかげである。
「三鷹君が、ロボット講座の線で依頼してきたからこそ、遠藤を早い段階でピ
ックアップできた」
「私達三人だけで来て、よかったんでしょうか」
と、心配げな三鷹さん。首を傾げる仕種が、どことはなしに上品というか浮
世離れしているというか。
遠藤丈二に会う段取りは、三鷹さんが笠置教授に話し、まとまった。無論、
犠牲者の父親たる教授に、遠藤丈二が犯人かもしれないとは、ちらとでも匂わ
せられない。優也の知り合いでロボットに関心を持つ人物に聴けば、事件につ
いて何か分かるかもしれない云々と持ち掛け、約束を取り付けた次第である。
なお、断るまでもないが、三鷹さんの存在を、遠藤の側には一切伝えていな
い。三鷹さんは、犯人にとって標的だったかもしれない存在なんだから。
「十文字先輩の推理通り、遠藤という方が犯人であれば、遠藤さんは笠置教授
から接触を受け、警戒心を強めたはずです。笠置教授の紹介で出向く私達にも、
同レベルの警戒をしていても、何ら不思議ではありません。それこそ、些細な
きっかけで、敵意に昇華するぐらいの」
「ふむ。一理も二理もある」
首肯する先輩。いよいよ待ち合わせ場所に到着しようかというタイミングで、
不安を煽ってくれる。
「会ってからの成り行き次第だが、追い詰める展開も考えられる訳だし、音無
君達は無理にしても、他の助っ人を連れて来るべきだったかもしれない」
「でも、昼日中ですし、相手は一人ですし」
午後二時前。商店街周辺の往来は、若干少なめか。でも、第三者の目がなく
はない。遠藤丈二が仮に大男で凶暴だとしても、好き勝手に暴れることは叶う
まい。
「もうそろそろ、三鷹君は離れるんだ。僕が連絡をするまで、姿を現さないよ
うに。姿形の確認も、相手から見られそうであれば自重してほしい」
「心得ています」
静かに答えると、三鷹さんは足を止め、僕らから離れた。用意しておいた縁
なしの帽子を被り、眼鏡を掛けて、ちょっとした変装を終える。肩越しにちら
と窺うと、いかにも、ぶらぶらとウィンドウショッピングに来た女の子という
雰囲気を醸していた。
「百田君。君が彼女を気にしすぎることで、遠藤に感づかれることのないよう
に気を付けてくれたまえ」
「分かってますよ」
それから一分ほど歩くと、商店街の存在を示すアーケードが見えた。出入り
口の目印として、花飾り付きのゲートが立っている。
「――彼か? あの制服の」
十文字先輩が首を振った先は、そのゲートの脇。男がいた。大河高校らしき
制服できっちりと身を固め、商店街に向かって歩いて来る人波を、じっと眺め
ている。彼が遠藤丈二だとしたら、よかった、平均よりも小柄な体格だ。顔つ
きも恐そうではない。左手の中の携帯電話以外、特に荷物を持って来なかった
ようだ。
距離が縮まったところで、僕から声を掛けてみた。すると矢張り、遠藤丈二
その人であった。次いで、十文字先輩が名乗り、用件と謝意を伝える。相手は
途中で、首を横に振った。
「自分も笠置の死には心を痛めていたし、関心がありますから、協力は惜しみ
ません」
やけに冷たさを感じさせる物腰で云うと、遠藤は携帯電話を仕舞い、僕ら一
人一人と握手を交わした。とはいえ、細めた目には、警戒の色が残っている。
こちらが懸念したままの意味なのか、それとも単に初対面のためか。
「早速、話を聞きたいんだけれども、適当な場所はあるかな? なければ、そ
の辺の喫茶店にでも――」
「すぐ近くに、市立図書館の分館がある。そこの小会議室を予約しておいた」
十文字先輩に合わせたのか、くだけた口調になる遠藤。それにしても、公立
図書館の会議室を借りるとは、随分手回しがいい。
建物の中に入ってしまうと、三鷹さんはどうしようもなくなる。そうなる前
に、素早く確認できるだろうか。僕と先輩は僅かでも時間を稼ごうと、歩くス
ピードを落としてみる。
「入る前に、携帯電話はマナーモードに。会議室とはいえ、図書館内だから」
促され、先輩と僕は云われた通りにした。できれば、いつでも使える状態に
しておき、三鷹さんから面通しの答をメールの形で受け取りたいのが本音だ。
でも、遠藤とは初対面で、しかもこれから容疑者扱いの質問を浴びせるのだ。
素直に従い、愛想よくしておいて、損はあるまい。
自動ドアをくぐり、もう一つドアを押し開けて、図書館に入る。カウンター
で手続きらしきことを済ませると、遠藤を先頭に僕らは会議室――四つある小
部屋の一つだった――に入った。中には長机とパイプ椅子が適当に並べてあっ
た。他にはホワイトボードが一つある程度で、簡素なものだ。
僕と先輩が並んで座り、机を挟んで遠藤が座る。
「メモを取らせてもらいますね」
冒頭に断りを入れ、僕は帳面とペンを取り出した。これで堂々と記録を付け
られる。続いて、十文字先輩が徐に切り出す。
「近頃、身の回りで危険を感じることは?」
「……いや。笠置の事件について、話を聞きたいのでは? そのつもりで来た
んだけれども」
不躾な物腰に転じた先輩からの唐突な質問に、遠藤は唇を尖らせた応じた。
目付きも鋭くなった気がする。
「その通り。だから、尋ねた。危険が迫っていないかどうか」
「笠置の事件が何故、自分の身の危険につながるのか、説明してくれないか」
「気を悪くしないでもらいたい。調べさせてもらったんだ、遠藤さんと笠置さ
んと梶谷さんのことを」
「――梶谷を知っているのか」
「ええ。三人は大の親友だとか。梶谷さんが瀕死の目に遭い、笠置さんが殺害
されたと来れば、次は遠藤さん、あなたが襲われると考えるのは自然な流れだ」
十文字先輩は本命でない推理を語った。眼前の容疑者を揺さぶるために違い
ない。
「おかしいな。あなたはそう考えなかった? とんだ楽観主義だ」
「待ってくれよ」
苦笑を滲ませ、遠藤は話を遮った。
「どんな調査をしたのか知らないが、不充分のようだね。梶谷は自殺未遂だ。
誰かに襲われた訳じゃあない」
「果たしてそう云い切れるかな?」
謎めかせる風に、名探偵。間を置くと、沈黙に耐えられなくなったか、遠藤
が口を開いた。
「遺書があった」
「本物らしく見せ掛けた、偽の遺書かもしれない。手段は色々ある。奸計を用
いて、本人に遺書と思わせずに書かせるとかね。梶谷さんは今も、意思表示で
きない状態ですね?」
先輩の問いに、遠藤は首を縦に振った。それを受け、先輩も頷いた。
「つまり、仮に遺書が偽物でも、当人には否定できない」
「……」
「遺書を見れば、僕が真贋を判断できるかもしれないなあ」
「生憎、自分は文面を知っているだけでね。内容は云えない。知りたいのなら、
梶谷の家族に頼むんだな」
「そうするとしよう。では、遺書に関しては横に措き、ひとまず、推理の要素
から除外する。また、遠藤さん、あなたに危険が迫っていないことは、あなた
の反応で分かった。となれば、笠置優也殺害は単発の事件と見なさざるを得な
い。様相は一変し、被害者に近しい人物が疑わしい。動機の面だけでなく、被
害者の自宅に入り込めるのが、犯人像の条件なんでね。盗んだロボットを利し
た何らかの仕掛けをセットし、爆発炎上を起こしたのは確実なのだから」
「……自分も容疑者の一人か」
「勘が鋭くてありがたい。事件当夜のアリバイ――」
「アリバイならある。警察にも聞かれたさ」
そうだったのか。五代先輩を頼らないと、警察関係の情報はどうしても後手
に回る。
しかし、十文字先輩は顔色一つ変えず、言葉を継いだ。
「深夜にどんなアリバイがあったのか知らないが、意味を有するとは思えない。
ロボットは遠隔操作できる。あなたが手足の拘束と猿轡をされていたとでもい
うのなら、話は別だが」
「遠隔操作の範囲なんて、たかが知れているだろう。梶谷の家と笠置の家とが、
どれだけ離れていると思ってるんだ」
「ほう。事件の夜、あなたは梶谷さん宅にいた?」
「……ああ。自分から望んでのことだが、自殺未遂を起こして以来、頻繁に行
っている。あいつの家族も、喜んでくれているようだし。家族は、こんな頼り
ない友人の見舞いでも、梶谷の心の回復につながっていると信じているんだ」
「アリバイの申し立てに話が出て来るくらいだから、午前一時前後にも、梶谷
さん宅にいたと。時間帯が遅すぎるようだが、泊まり掛けだったのかな」
「そうだ」
「こっそり、抜け出すことは可能では?」
「警察にアリバイ成立を認められたと云わなかったか? 起きて、家族の人達
と話していた。翌日がうちの高校の創立記念日で、休みだったんだ。だからこ
そ泊まったし、夜遅くまで話し込んだ」
「――どうしても、遺書の中身が気になる。もし仮に、梶谷さんが自殺を図っ
た原因が、笠置優也のせいだとしたら、梶谷さんの家族には殺害の動機がある。
そんな人達と一緒にいたアリバイなんて、認められないんじゃないかな」
「おい、本末転倒だろ。俺を疑っていながら――」
興奮のためか、怒りのためか、遠藤の一人称が変化した。
「――梶谷の家族が怪しいから、俺のアリバイも不成立だなんて」
「確かに。あなたに動機が全くないことを示せれば、逆に、梶谷さんの家族の
アリバイを証明できる状況だ、これは」
「動機はないと云いたいところだが、他人が見ればそう思わないだろうな。笠
置の奴が、梶谷の見舞いに来ていなかったこと一つ取っても、自分はあいつに
腹を立てていたぐらいだ。みんな知っている」
「それなら、あなたと梶谷さんの家族の共犯という可能性も、考慮の必要があ
りそうだ」
「断じてない!」
抑えていたものが突沸したような、急な大声に、僕は全身をびくりとさせて
しまった。メモを取る手が止まり、遠藤をまじまじと見返してしまう。
遠藤はすぐに平静に戻った。今のは演技だったのかと思わせるほどだ。
「梶谷の家族は勿論、自分も何もしていない」
「ふむ。では、三鷹という子も知らない?」
「誰だって?」
「知らないのなら結構。犯人は彼女を知っている。ロボットを盗もうとして目
撃されたため、電話で警告してきたんだ」
「じゃあ、電話番号を知ることができた者が、犯人候補だな。自分達は違う」
「念のため、携帯電話を調べさせてもらえませんかね。発信履歴を見たい」
「かまわないが、意味があるのか? 犯人なら当然、履歴自体を消去している
だろう」
「僕の云う『調べる』とは、そんな甘いものじゃない。携帯電話会社に照会す
る。発信記録を見れば一発だ」
「そんなことが、ただの高校生にできるのかい?」
「知り合いに警察関係者がいる。非常に仲がよくてね、頼めば動いてくれる」
「――どうぞご自由に」
遠藤は携帯電話をポケットから抜くと、テーブルに置いた。手を引っ込める
と、自信に満ちた態度で腕組みをする。
十文字先輩は数秒考える仕種をし、やがて首を横に振った。
「なるほど。どうやら的外れのようだ。これまでの非礼をお詫びします。携帯
電話を仕舞ってください」
軽く頭を下げる名探偵。遠藤は、すぐには携帯電話に手を伸ばさない。どう
反応していいのか、困惑している風だ。
その隙を突くように、先輩が云った。
「そもそも、犯人が携帯電話を使用したとは限らない。一連の犯行の計画性か
ら推して、公衆電話を使うぐらいの知恵は働くに違いない」
「自分もその通りだと思うよ」
ようやく携帯電話を戻し、遠藤は笑みを覗かせた。
「差し支えなければ教えて貰いたいんだが、君らは何でこの事件を調べている
んだ? 警察の知り合いだからか。誰かに頼まれたのか」
「守秘義務と答えたいが、プロではないし、協力してくれたことへの感謝と、
非礼のお詫びとして、お答えしよう。先程名前の出た三鷹君の依頼だ」
「矢張りね」
「かなりの確率で危機は去ったと見なしているが、油断はできない。こうして
あなたに教えたのは、あなたを信用した証と捉えてほしい」
「三鷹さんをこの場に呼んで、面通しというのかな、あれを済ませてからの方
がいいんじゃないか。こっちとしても、望むところだしな」
そう云った遠藤は、ペースを取り戻していた。頭の回転も早い。
先輩は「実は」と、三鷹さんが既に外で面通しを済ませたはずであることを
伝えた。
「――それで、もしかまわなければ、携帯電話で彼女と連絡を取り、結果を聞
きたいんだ」
「かまわんよ。電源を切るように云ったのは、マナーだ。厳密なルールではな
いから、話でもメールでもすればいい」
「では、遠慮なく」
自らの携帯電話を持つと、手早く操作する先輩。三鷹さんからの結果報告は
とうに届いていたらしく、確認はすぐに終わった。
「どうやら、疑いを完全に撤回せねばならない。彼女はシルエットしか見てい
ないんだが、あなたとは体格がまるで違うらしい。もっと大柄だったと云って
来ている」
これも名探偵特有の引っ掛けだと思った僕だが、携帯電話の画面を覗き込ん
で、目を丸くしてしまった。三鷹さんからのメールは、今の先輩の言葉と一致
しいたのだ。
「よかったよ。自分としても、笠置を殺した犯人を、早く捕まえてもらいたい
からな。遠回りはできる限り、短くするに越したことはない」
遠藤はかすかに笑うと、時刻を確認した。
「さて、もういいかな? 必要であれば、今後もなるべく協力する。そっちも
分かったことがあれば、こちらに教えてほしい」
そう云って席を立つ。椅子の脚が床を擦る音が、耳障りに感じた。
「では、連絡が取れるよう、番号の交換を」
十文字先輩は挫けた様子を微塵も見せず、そう持ち掛けた。
――続く
#326/369 ●長編 *** コメント #325 ***
★タイトル (AZA ) 08/07/01 00:02 (421)
火のあるところ4 永山
★内容
「できることなら、助手殺しのアリバイを知りたかったんだが、そこまではう
まく追い込めなかったな」
地元に戻る前に、僕ら三人はY大学に行方教授を訪ねることにした。元々、
そう約束しており、待ち合わせ場所はキャンパス内の喫茶だ。ただ、行方教授
は都合で遅れるとの連絡が、三鷹さんの携帯電話に入ったため、今は三人で話
している。
「『そこまでは』っていうよりも、全然うまく行かなかった気がするんですが」
異を唱える僕。名探偵は怪訝な顔をした。
「何故だい? 予想の範疇だろう」
「だって、三鷹さんの面通しが空振りだったことで、全てが振り出しに……」
「勘違いしてはいけないよ、百田君。僕はね、そのことで自分の推理が当たっ
ているのだと、異を強くした」
「どうしてそうなるのか、さっぱり分かりません」
「春休みの講座のとき、三鷹君が目撃した人影は、遠藤ではなく、恐らく、浪
野茂彦なんだよ」
「浪野って……ああ、死んだ助手の」
「先に確認しておこう。三鷹君、君はこのロボット講座より以前から、浪野と
面識があったんだろうか?」
「いいえ。そもそも、笠置教授からご紹介されないままでしたから、知り合い
ようがありません」
「結構。三月の事件は、浪野が一人で起こしたと仮定しよう。だが、彼の体格
では、茶運び人形ロボットの内部に潜むのは難しい。五月の盗難事件は、浪野
とは別人がやった。僕は、そいつこそが遠藤だと睨んでいる」
十文字先輩の解釈なら、面通しの空振りは瑕疵ではなくなる。でも。
「でも、今度は、三鷹さんに警告を出し続けた意味が分からなくなります。目
撃されたのが浪野なら、遠藤は警告なんて出さないでしょう。浪野にしたって、
三月の事件のみを起こしたのなら、ずっと警告し続ける理由がない」
「遠藤と浪野が共犯だったと考えればいい」
「え? でも、二人には接点がない……あ、いや、ロボット講座で接点はあっ
たのかもしれませんけど、共犯関係を結ぶような強いつながりができるとは、
とても」
僕が疑問を一気に喋ると、それの終わりを待ち受けたかの如く、三鷹さんが
口を挟んだ。
「三月の事件で逃走した浪野助手を、遠藤さんが目撃し、半ば脅迫するように
して、共犯関係を結んだというのは、どうでしょうか?」
「おやおや。一つの事件に何人も探偵役がいると、困るね。先を越されてしま
った」
いつも以上に芝居がかった反応をした十文字先輩。言葉にするのが遅れただ
けとはいえ、後塵を拝す悔しさを、誤魔化したのかもしれない。
それはともかく、三鷹さんの披露した推理なら、さっきの僕の疑問も解消す
る。加えて、浪野が共犯なら、ロボット盗難は楽々行えたに決まっている。
「じゃあ、浪野が死んだのは、仲間割れが原因かもしれませんね」
「きっとそうだ。ただし、殺意が最初からあったか否かは、微妙だね。浪野の
死に様から考えると、炎に驚いて転倒し、後頭部を打って死亡したようだから」
「春休みのとき、浪野助手は何をしようとしていたんでしょう?」
今度は三鷹さんが疑問を呈する。彼女は続けた。
「火を放つつもりだったようですけれど、ロボットを盗むためとは思えません。
自らが所属する研究室の名を落とすようなことをしても、デメリットにしかな
らないはず」
「一概には云えまい。笠置教授の評価に不満があって、困らせてやろうと、間
違った方向に走ったのかもしれない。何か笠置教室独自の技術があって、それ
を盗み出してよそに渡せば、金になるのかもしれない」
「いくら弱味を掴まれたとはいえ、浪野助手が高校生の遠藤さんに、唯々諾々
と従ったのが、不思議です。狙いが何にしても、春休みの浪野助手の犯行は未
遂に終わったのだから」
「『自分の目的が達成できたら、そちらの目的達成に協力する』とでも、遠藤
が約束したんじゃないかな。そう考えると、仲間割れにつながる流れも、自ず
と浮かんでくる」
約束を果たさない遠藤に対し、浪野が詰め寄る。遠藤は得意の?火を使い、
浪野を驚かすつもりが、効果がありすぎて死に至らしめてしまった……こんな
具合だったのだろうか。
十文字先輩達の推理が当たっているとしても、証拠がない。警察の捜査で、
茶運び人形内部から、遠藤の髪の毛一本でも見付かれば、大きく進展しそうだ
が、現時点ではそんなニュースは耳に届いていなかった。
僕がそのことを指摘すると、先輩は問題ないと、首を左右に振った。
「推理に沿って、現場や遺留品等を調べれば、裏付けとなる証拠が必ず出て来
るさ」
何となく、一ノ瀬メイさんとは逆のことを云ってるような。まあ、それぞれ
得意とするやり方はあるものだ。
「――ああ、来ましたわ。伯父の行方です」
大きなガラス窓の向こうを見やりながら、三鷹さんが云った。
いいタイミングだ。オーダーした飲み物もほぼ干して、ぼちぼち間が持たな
くなるかなという頃合いだった。
それにしても……僕は気になった。行方教授は、ナイスミドル然とした外貌
に似合わず、全力疾走でこの店に向かって来る。約束の時刻に遅れたのを、気
にしているのか。
僕のそんな想像が的外れであったことを、行方教授は教えてくれた。風を巻
き起こす勢いでドアを開けた彼は、こう云ったのだ。
「――大変だ。笠置教授が亡くなった」
笠置教授は息子を亡くして以降、受け持つ授業の休講を続けていた。Y大学
へも状況の報告と経過を伝えに、二度ばかり来ただけで、仕事としては全く遠
離っていたそうだ。テレビ出演の件にしたって、ストップしてもらっていたと
いう。
今日――僕らが遠藤と対面を果たした――は日曜ということもあり、大学に
来る予定は元からなかったと聞いている。後日、自宅を訪ねるつもりだったが、
まさか死んでしまうとは……。
「当然、一連のものと考えるべきだな」
笠置教授がどのような死に方をしたのか分からない内に、十文字先輩は断言
した。笠置教授は自宅で亡くなっていたそうなのだが、面識がなく、事件での
関係者でもない高校生に現場を見せてもらえるはずもない。唯一、面識のある
三鷹さんは行方教授が連れて帰ってしまった。
動きようのない現在、五代先輩からの情報待ちという有様。
そんな訳で、僕は今、十文字先輩宅にお邪魔している。というか、連れて来
られた。普段なら距離の問題もあって足を運ばないのだけれど、今日はタクシ
ーという足があったせいだ。
ニュースにチャンネルを合わせ、音をやや絞ったテレビを前に、居間で雑談
を始める。
「ところで……先輩の家族は? 挨拶ぐらいはしておいた方が」
「両親なら二人とも仕事のはずだから、いなくて当然だよ」
「日曜なのに?」
「実は両親は探偵事務所を営んでいる。故に土日も祝日もない」
「へえ、そうなんですか」
だから名探偵を目指しているのかな、なんて合点していると。
「今のは嘘」
先輩、何でそんな嘘を……。
「意味はない。強いて云えば、君の信じ込む度合いを測ってみた」
「で、本当は何をされているんですか、ご両親は?」
「この家を見て、ストレートに想像すればいい。平凡なサラリーマンとパート
タイマーさ」
確かに、この二階建ての家は、広すぎず狭すぎず、極々平均的な一家を想像
させる。
「って、サラリーマンが休日出勤ですか」
「固定観念に囚われていては、いつまで経ってもワトソン役だぞ。日曜日に出
勤するサラリーマンなんて、ざらにいるだろう。まあ、父の職場は、フレキシ
ブルな勤務体制を敷いているらしいがね」
そう答えてから、先輩はやおら立ち上がった。
「いやに家族を気にするなと思ったが、もしや、お茶の催促かな? インスタ
ントでかまわないなら、コーヒーぐらい出そう」
「あ、いえ、そんなつもりは全然」
「遠慮することはない、百田君。ちょうど僕も飲みたくなった。ブラックは頭
をすっきりさせる」
「しかし」
どうにも落ち着かないので手伝おうと、僕も腰を浮かした。
と、その瞬間、テレビが、僕らの待ち望んでいたニュースを伝え始めた。僕
は動きを止め、先輩もキッチンの方から戻って来た。普段は閑静そうな住宅街
が映し出される。息を飲んで画面を見つめた。
「――また爆発火災か! 何、自殺や事故の可能性も? 莫迦なっ。無駄な回
り道だ」
アナウンサーの言葉にいちいち反応する名探偵。情報に餓えていたのは分か
るけど、落ち着きをなくすのはらしくない。
他にも重要な事柄が、報道によって分かった。
まず、笠置教授宅で爆発火災の起きた時刻が、午後二時三十前後で、ちょう
ど僕らが遠藤と会っていた時間帯に重なる。
火災の規模は大きくなかった。浴室に封じ込められる形になっていた熱風を
一気に浴び、かつ吸い込んで気道を焼かれたことが、死につながった。同じく
在宅していた夫人は、重傷を負ったらしい。
「すぐに手当てを受ければ、助かったと思う。恐らく、爆風で吹き飛ばされ、
壁か家具に頭を打ち付けた結果、意識を失ったんじゃないかな……」
とは、十文字先輩の見解。笠置優也の死因から連想したのかもしれない。
ニュースは、笠置教授の息子が殺された件に触れ、次の項目に移った。
「遠藤が犯人なら、笠置優也のときと同じ方法を使ったんでしょうか」
「まず間違いない。新たなロボットが必要なら、盗まなくても、教授の家にあ
ったはずだ」
「問題は方法ですね。遠隔操作の方法が分からない」
「うむ。ロボットに囚われすぎているのかもしれない。もっとシンプルなやり
方があると思うんだよ、僕は」
「ですけど、仮に遠隔操作できる範囲内にいたとしても、室内の様子が分から
ないのに、爆発を起こしたり、火を出したりできるのか」
「それなら見当は付いた。助手殺しが参考になったよ。揮発したガソリンに、
小さな種火一つで点火。空気よりも重いため、床に溜まり易い。ガソリンの量
次第で、大きな爆発になる」
「そんなもんなんですか」
「実際に試したことはないがね。ガソリンの臭気を誤魔化せれば、成功率は高
いだろう。模型作りで接着剤を頻繁に使っていたら、ガソリンの臭いが気にな
らなくなることもあるかもしれない」
なるほど。犯人は、被害者の趣味の模型作りを逆手に取ったか。だとすると、
犯人は被害者の趣味を知っていなければならず、遠藤は見事に該当する。
「――電話だ」
先輩が急に云って、ズボンのポケットに手を入れる。携帯電話、マナーモー
ドにしたままだったらしい。
「三鷹君か。――ああ。うむ、大丈夫。いやいや、何ら失礼ではないよ。これ
から? 家にずっといる。今、百田君とも一緒だ。来るのなら勿論、大歓迎さ。
新たな情報も知りたいしね。道は? ああ、それなら。じゃあ」
通話終わり。先輩はメールで何か送った。会話の断片をつなぎ合わせると、
どうやら三鷹さんが今からやって来るらしい。メールは、ここの住所を知らせ
るためか。
「お邪魔なら、この辺で僕は帰りましょうか」
「邪魔だなんて、とんでもない。事件録を頼むよ。それに、コーヒーをまだ出
してないしねえ」
難しい顔をしていたのが、少し柔和になっている。新情報を得られることが、
余程嬉しいらしい。
やがて三鷹さんが到着したとき、電話から三十分ぐらいが経っていた。
「笠置優也さんの事件、現場写真を見ることができました」
彼女の開口一番の発言に、僕は反射的に「え、どうやって」と聞き返した。
「笠置教授ご自身が、写真に収めていたんです。それを伯父が前から受け取っ
ていたのですが、今日まで見せてくれなかった。探偵をして嗅ぎ回るのもほど
ほどにと、手綱を引きたかったのだとか」
極めて常識的な感覚だ。姪っ子が脅しや警告の電話を受けていなければ、つ
まり全くの第三者的立場で事件に関わろうとしたならば、行方教授は写真を絶
対に見せなかっただろう。
「残念ながら、写真そのものは渡してもらえませんでした。でも、現場に何が
残されていたのか、現場がどんな様子だったのか、細かい点をチェックできた
のは収穫ですよね」
「具体的に、新たな発見はあったのかい? 犯人の物らしき遺留品とか」
興味津々という風情で、十文字先輩。器に半分ほど残るコーヒーは、減るこ
となしに冷えつつある。
「被害者は一人暮らしでしたから、遺留品の内、何が不審物なのかは判定しづ
らいそうです。ただ、明らかに不釣り合いな物が、平たいガラスの容器。ばら
ばらに砕けていたのを集めて復元すると、大きめのノートパソコンサイズにな
ったそうです。優也さんの物だとしたら、何に使っていたのか分からない。部
屋の壁や床、他の遺留品と比べ、付着したガソリン濃度が高かったとか」
「なるほど。確かに怪しい」
「あと、これは警察の方から教えられたのですが、優也さんの携帯電話の損傷
度合いが異常であると。枕元に置くか、ポケットに入れていたにしては、壊れ
方が激しすぎるんだそうです」
「――何か見えてきた気がする」
十文字先輩が呟くと、三鷹さんも「はい」と呼応した。彼女はコーヒーに少
しだけ口を付けて、話を続ける。
「いかにして、現場に近付くことなく、火を放てたのか。こんな方法が思い浮
かびました。
まず、優也さんを意識不明に陥らせる必要があります。これは風邪薬とアル
コールの併用で、充分なレベルに達し得たと思います。部屋の主は深い眠りに
就いたら、準備開始。
ガソリンで満たした平らな容器に、蓋を被せておく。蓋の縁には小さな穴を
穿ち、テグスのような丈夫な糸を通し、ロボット本体と結ぶ。なお、蓋には燃
えやすい材質の物を使う。
ロボットは、蓋を外せる方向に進むプログラミングをしたあと、タイヤでも
車軸でもモーターでも電力部でも、とにかく駆動部分に障害となる物を噛ませ、
すぐには動き出さないようにする。噛ませた物――便宜上、フックと呼びまし
ょう――フックには、優也さんの携帯電話を連動させ、マナーモードによる振
動で、簡単に外れるように調節しておく。
以上のセッティングをした物を、優也さんのベッド下に隠す。
その後、都合のよい時間に、優也さんの携帯電話に掛ける。証拠を残さない
ためには、公衆電話からがよいのでしょうが、容疑者の遠藤さんは梶谷さんの
ご家族と一緒でしたから、恐らく、携帯電話を用いたと思います。もしかする
と、自身の、もしくは梶谷さんの携帯電話を使ったかもしれません。だとした
ら、記録が残っているはずですから、傍証の一つに数えてかまわないでしょう。
その携帯電話自体が、着信によって火種になる細工は、大げさな知識がなく
ても簡単にできると思います。仮にできなくても、線香のようなゆっくり燃え
る物を火種とすれば、アリバイは作れる」
「ふむ……付け足すことはない」
十文字先輩が呻くように云った。再び、先を越された格好である。
「敢えて指摘すると、より強力な証拠だね。三鷹さんの推理が正しければ、犯
人は事前に、結構な荷物を携え、被害者宅を訪れたことになる。マンションに
は防犯カメラがあるのかな? あるのなら、警察は防犯カメラの映像を改めて
チェックすべきだ」
「事件当夜の人の出入りは、チェックしているはずですよね。でも、ずっと以
前から少しずつ準備を進めていたとしたら、当日、犯人がやることは……被害
者の携帯電話を密かに奪い、セットするだけ。手ぶらで来られます。目立ちま
せん。仮にあの遠藤さんが犯人だとしても、ちょっと変装されては、正体不明
の人物が映像に残るだけで、逮捕に結び付くかどうか」
語尾を濁し、髪を手でいじる三鷹さん。意外とミステリ好きなのかもしれな
い、と思った。じゃなければ、推理することや論理的思考自体を楽しむタイプ
かも。きっと後者だ、うん。
「それよりも、気になることがあります。誰が犯人であろうと、ロボットを使
う犯行に拘泥した理由が、分かりません」
両拳をぎゅっと握り締める三鷹さん。工学畑の彼女にとって、犯人の手口は
許せない行為であるに違いない。
「なるほど。確かに、ロボットを――笠置教授のロボットを使わなくてもでき
る。探せば、市販の玩具の中に、代用が利く物がありそうだ。だが、これはま
あ、笠置親子に対する恨みがなせる業だと思うんだ。むしろ、火と遠隔殺人に
拘っている、とも云えるんじゃないかね」
「火は、遠藤さんが犯人なら、説明が付きますよね。遠隔殺人は……?」
「アリバイ確保のため、では弱いか」
「アリバイを確保したいのでしたら、わざわざ梶谷さん一家を証人に選ぶ理由
という謎が、新たに加わりませんか」
「うーん、そうなってしまうな……」
「浪野助手や笠置教授のときは、ロボットを使わなかったのかな? 報道では
触れてないけれど」
気付いたことを口にしてみた。先輩が応じる。
「少なくとも、助手殺しでは使っていないようだ。僕の推理では、遠隔殺人で
はない。殺意すらなかったかもしれない。笠置教授に対しては、殺意があった
のは間違いないが、爆発が浴室で起きているのが引っ掛かる。浴室はロボット
を動かすのに適当な空間だろうか、三鷹君?」
「質問が明瞭でありません。水上や水中を動くロボットもありますから」
「ごめんごめん。笠置優也殺害に用いたようなロボットを、だ」
「それなら答は当然、ノーですね。適しているとはとても云えません」
「矢張りそうか。完全に想像になるが、遠藤は昨日、笠置教授宅に行ったんじ
ゃないかな。教授から連絡があって、僕らと今日、会うように云われたんだか
ら、きっかけは充分。亡くなった笠置優也に焼香をあげに来たと云えば、自然
に出向けるだろう。その際に隙を見て、気化したガソリンが浴室に溜まるよう
な仕掛けを施した。携帯電話も浴室内に置いておく。マナーモードではなく、
通常モードにしてね。そして今日、僕らと会っているときに、携帯電話を鳴ら
し続ければ、在宅中の教授は何事かと調べ、浴室のドアを開ける。そのとき、
何かの火が引火した……たとえば、浴室が昼でも暗いなら、明かりを灯すだろ
う。電球に細工をしておけば、ほとんど開けると同時に爆発だ」
「昨日の夜、教授が風呂に入ろうとしていたら?」
僕の素朴な疑問に、先輩は即答する。
「そのときはそのときさ。ガソリンの溜まり具合が不充分で、爆発は小規に模
なるだろうが、無傷では済むまい。ともかく、笠置教授の事件は、ロボットな
しでも行えたとしていいんじゃないか。息子の事件で、ロボットが現場にあっ
たと分かっている。今日の事件で、ロボットが現場にあれば、隠すことなくす
ぐに報じているはずだ」
「結局……笠置優也さんのときだけ、ロボットを用いて遠隔殺人を計画したの
は何故か、という謎に集約されますね」
「梶谷通の代わりに復讐することが動機であるという前提に立てば、梶谷の自
殺未遂騒動に、鍵がありそうなんだが……関係者が口を閉ざしている」
真実がどうあれ、表面的には自殺未遂であり、警察の捜査も浅いまま停滞も
しくは終了していると思われる。五代先輩ルートの情報に期待できないという
ことだ。
「――あ、ちょっと失礼。電話が」
僕は断りを入れ、携帯電話を取り出し、部屋の外に出た。廊下の黄色いライ
トの下で、相手の番号を確認する。
「誰だっけ……。もしもし?」
「百田君だな? 私だ」
「えっと、メイさんですか?」
記憶にある声だが、電話を通すと、少しばかり一ノ瀬和葉のそれに似ている
から困る。
「そう。この前云ってた事件、まだ終わってないね?」
「え、ええ。目星は付いているみたいなんですが、決定的な証拠がないのと、
心理的に解釈しづらい行動が――」
「細かいことはいい。私はね、今日の事件を知って、犯人が誰であろうと、笠
置一家の皆殺しを目論んでいるんじゃないかと思ったんだよ、最初は。だから、
笠置瑤子(ようこ)の」
「誰ですか、それ」
「笠置教授の妻。三人家族唯一の生き残りとも云える。彼女の身の安全を確保
すべきと思い、和葉に入院場所を探させた。で、行ってみたら、警護の付いて
いる様子じゃないんだな。見張りの気配もないから、容疑者扱いしていないっ
てことになる」
「動ける容態ではないってことじゃないですか」
「それもあるだろうな。私は考え直してみた。誰が爆発火災を仕掛け得たのか。
息子の死以来、笠置家の周辺は慌ただしかったに違いない。葬儀もある。人の
出入りは激しいが、だからって、こっそり風呂場に入り、ごそごそやるのは目
立ちすぎる。ましてや、その慌ただしさが一段落した昨日今日の段階で、仕掛
けをセットするなんて、外の人間には無理だろう」
「あ」
僕は最前、先輩が披露した推理を思い出し、電話口の向こうに伝えた。する
と、さもありなんという相槌が返って来る。
「そういう仕掛けならうまく行くかもしれない。だが、遠藤には無理だ。家人
に気付かれ、怪しまれる。一人暮らしの友達相手なら、どうにかなるだろうけ
どね」
「だったら、仕掛けは誰が」
「配管工やガス工事といった業者が出入りしたのでなければ、家の者がやった
に決まっている」
「ええ?」
「笠置夫妻のどちらかだ。調べた限り、笠置瑤子は機械メーカーの偉いさんの
次女にしては、科学に無縁で、知識も乏しい。ガソリンと灯油の区別も付くか
どうか、あやふや。爆発火災の仕掛けなんて、思い付きそうにない」
「じゃ、じゃあ、死んだ笠置教授がってことに、なっちゃうじゃないですか」
「それで何の不都合がある?」
信じられない。僕は恐らく、変な薄笑いを浮かべていただろう。メイさんの
話が冗談に聞こえたのだ。いや、冗談だと思おうとしたのかも。
「で、ですが、笠置教授は、その爆発火災で死んだんですよ? 自殺ですか?」
「自殺もないとは云い切れないが、私は事故だと思うね。仕掛けているとき、
不注意から点火してしまった」
「な、何のために、自宅にそんな物騒な仕掛けをする必要が」
「聞くところによると、笠置教授は瑤子夫人に頭が上がらなかったらしいじゃ
ないの。最近になって、ロボピック優勝で知名度を上げ、盛り返してきた。そ
んなとき、息子を殺され、勢いを止められかけた。だが、これを逆用すること
を思い付いたんじゃないか? 盗難及び爆殺犯の仕業に見せ掛け、妻を葬ろう
と計画した」
荒唐無稽に聞こえた推理だったのに、今や何となく納得させられていた。証
拠がないのは、十文字先輩の推理と変わりないが。
「理屈は飲み込めました。でも、証拠もないのにそんなこと云うのは、メイさ
んらしくないというか」
「他に爆発火災の仕掛けをできる人物がいない。それだけも充分だと思うね。
ついでに、警察が夫人を警護も見張りもしていない事実がある。警察だって莫
迦じゃないよ。根拠があって、夫人を容疑者から外し、身の危険はないと判断
したはずなんだ。恐らく、笠置教授が爆発火災の仕掛けをしたこと、あるいは
それを計画していたことの物証を掴んでいる。今は最後の詰めをして、発表の
タイミングを計っているんだ」
「そんな証拠があるなら、すぐに発表すれば済む話でしょう」
「笠置教授は著名人で、息子を殺されたばかりという意味でも、世間の注目の
的。おいそれと犯罪者扱いにはできないよ。それが警察ってもの」
「……」
筋道は通っている。まだいくつかの疑問は残るが、メイさんの口調から急い
でいる雰囲気が伝わってきた。切り上げるとしよう。
「分かりました。とりあえず、先輩に伝えてみます」
「それがいいね。じゃ――ああ、待った。その先輩って、十文字って子?」
一瞬、遠ざかった声が、元の音量に戻る。
「そうですけど」
「五代って子に伝えて、確認を取った方が早いよ」
その後、五代先輩からの電話で、メイさんの推理が正しかったと証明された。
「今回は不本意極まりない。一ノ瀬君の親戚や三鷹君に、やられっ放しだ」
火曜の学校。昼休みに学食で待ち合わせをし、礼を述べに来た三鷹さんに、
十文字先輩は苦い表情で語った。
「依頼を受けた立場がない」
「そんなことありません。笠置優也さんと浪野助手を殺したのは、遠藤だった
のですから」
三鷹さんが食事の手を止め、気遣うように云った。
彼女の今の言葉通り、最初に二件の殺人は、遠藤の仕業であった。ただし、
逮捕のきっかけは、証拠に依るものではなかった。笠置瑤子の病室に潜り込も
うとしたところを、刑事に職務質問され、逃走を図るも取り押さえられたのだ。
刑事が見張りに付いたのは、メイさんの進言を聞き入れて動いたらしい。メイ
さんに警察の知り合いが――全国各地に――いることは、このとき初めて知っ
た。
「遠藤を捕らえられたのも、一ノ瀬メイさんのおかげだからな」
「そんなことないよん」
一ノ瀬――勿論、和葉の方――が云った。三鷹さんと違って、食べるのをや
めないまま、話も続ける。
「十文字さんが追い詰めたからこそ、犯人は焦って、最後の一人を早く始末し
ようと、準備不足のまま、行動を起こした。だから逮捕できた」
「うう、一歩間違っていたら最悪の事態を迎えていたかもしれないのだが、ま
あ、一ノ瀬君の云うような考え方も、できなくはないか。弁明するなら、遠藤
は多分に運がよかった。笠置教授の死亡が、我々と同席していた時間帯と偶々
重なったことに加え、教授が配偶者を殺そうと決意したのも、確率としては決
して高くない」
笠置教授は、訪ねてきた遠藤からそれとなく仄めかされた結果、息子が殺さ
れた事件でのトリックに想像が付いたらしい。そして、教授は手口を似せて妻
を殺そうと考えた。前者までなら遠藤の思惑通りに進んだとしても、取り立て
て不思議ではないが、後者も含むとなると、矢張り幸運だったと云わねばなる
まい。
ただ、先輩だって途中で、自分は運がよかったと発言してるんだけれどね。
忘れてあげよう。
「三鷹君の依頼に満足に応えられず、申し訳ない」
「もういいんですよ。何度も云わせないでください、十文字さん。ロボットを
用いた理由も、一応、分かりましたし」
遠藤の犯行動機に関しては、先輩達の推理が的中していた。梶谷通の無念を
晴らすためだ。
火に拘ったのは、梶谷が味わったのと同じ苦しみを与えるため。
笠置優也殺しにおいて、遠隔殺人のトリックを用いたのは、梶谷自身に携帯
電話の発信ボタンを押させて、復讐を果たしてるため(無論、遠藤が手を添え
てやったに違いない)。
そして、笠置教授のロボットを用いたのは、優也を育てた責任がある(と遠
藤が信じている)ためだった。笠置夫人の命まで狙ったのは、優也殺害後にテ
レビのワイドショーで、夫婦揃って放任主義だったと伝えていたのを見て、教
授だけを標的にするのは理にかなっていない、と考えたらしい。
「僕はまだ不満だ。肝心の、梶谷が自殺を選ぼうとした背景について、遠藤は
全く語ろうとしないそうだ。喋ることで梶谷を傷付けかねない、だから口を噤
んでいるんだろうが」
「梶谷さんの遺書、というか書き置きに、主観的事実が記してあるのでしょう。
それを見れば分かるはずですが、自分はそこまで求めません。知っても、いい
感じはしない気がします」
三鷹さんのこの発言で、十文字先輩も執着を引っ込めた。名探偵として事件
の全貌を掴みたい気持ちは理解できるし、僕も記録者としてなら全部知りたい。
でも、今度ばかりは三鷹さんと同意見だ。知れば嫌な思いを味わう、そんな予
感がしてならない。
「さて。今回のていたらく、物語上なら、名探偵は姿を消して修行に出なけれ
ばならないところだが、実際にはそうも行かない。とりあえず、今この場の代
金は僕が持つとしよう」
気前よく、先輩が云った。学食だから、高額とまでは呼べないが、結構な出
費だろうに。それよりも、ここは先払いシステムだ。今更、現金を受け取りに
くい。
「そうと分かってたら、一番高い料理を選んでたのににゃー」
一ノ瀬が空気を読まずに云った。
――終
#327/369 ●長編
★タイトル (AZA ) 08/07/31 23:59 (487)
十二等分の幸運 1 永山
★内容
「ミステリは魔物。解けるか、嵌まるか。名探偵誕生の瞬間を追う、『プロジ
ェクトQ.E.D./TOKIOディテクティブバトル』。名探偵の持ち合わ
せるべき運を問う第二関門、開幕!」
井筒隆康の決まり文句で、番組が始まった。と同時に、第一関門をクリアし
た十二人の名探偵候補が登場し、三列に並べられた椅子に座って行く。落ち着
いたところで、司会の井筒が言った。
「第一関門突破、まずはおめでとう。簡単に感想を述べてもらおうかな。美月
さんから、どうだった?」
「今回のテーマは運ですって? だったら私、危ないかも。前回で運を使い果
たしたかもしれないから。トップ通過できたのは、この人のおかげ」
保険調査員の美月安佐奈は自嘲気味に笑い、隣の席の村園輝を見やった。自
然な形で、次の発言者はこの占い師となる。
「それを言うのなら、自分も同じになりますね。前回、答に気付けたのは、多
分に運の要素が強かった」
「実質トップの人にそんな言い方されても、嫌味にしか聞こえないわ。こっち
はやっと残れて冷や冷やだった」
律木春香が口を挟む。前回ブービーだった彼女は、危機感を特に強く持って
いるようだ。
そこへ野呂勝平が遠慮の欠片もなしに割って入る。
「何番目だろうと、勝ち残ればいいのさ。今はな。負けたら終わりだ」
「負けたら終わりと言えば」
天海誠がつぶやく。
「学生の安藤君が落ちたのは、少しばかり意外でした。不正解だったから当然
ですが、テレビ的には、彼のような有名でない人をもっと勝ち残らせたいでし
ょうからね」
「第二シーズンの開催を見越して、一般からの参加希望が増えるようにってこ
とかしら」
八重谷さくらが反応した。天海がうなずくと、彼女もまた満足げにうなずく。
「まあ、実力がなくちゃお話にならないわ。緊張するのも自信のなさ故よ」
「八重谷さんは自信に溢れてますもんね!」
若島リオがやたらと明るく話し掛ける。一歩間違えると太鼓持ちだが、彼女
の場合、そうは見えない。得なキャラをしている。
「この間はうまく抜けられたけれど、リオはそんなに自信持てないから、今回
は誰かにくっついていこうかな?」
「どんなことをするのか分からない内から、くっつくも何もなかろう。前回の
方がまだ相乗りできる余地があった。そういう意味では、気が楽だったな」
元刑事の沢津英彦がたしなめつつも、前回の感想を述べる。実際のところ、
第一関門を突破して肩の荷が下りたのだろう、沢津が最もリラックスした表情
に見える。
「個人的には、最後まで立たされ、お説教を食らったのが屈辱的だった。早く
忘れて、次に進みたい」
更衣京四郎が吐き捨てた。離れた席の八重谷が大いに同感とばかり、オーバ
ーにうなずいていた。
「わしはすでに忘れているかの。ちっとも思い出せやしませんわ」
かかと笑ったのは、最年長の堀田礼治。今の台詞を鵜呑みにする者は、一人
もいまい。
「私は、環境が変わったことの方が大変だった。体調がいまいちで、肌の艶一
つとってもよくないでしょ。お化粧に時間を取られて損。早く慣れなくちゃ」
これは郷野美千留の弁。実際の心境は、髯を含めたむだ毛処理に時間が掛か
るといったところか。
「あら、大変ですね。私は順応しやすい質らしくて、マイペースでやらせても
らっています。この調子で行けたら助かるわ」
最後にのんびりと言ったのは、小野塚慶子。許可さえ出れば、ここにも編み
物を持ち込みそうな雰囲気である。
「これで、みんなが発言した訳だが、今のコメントの中にも駆け引きがあるよ
うなないような……とても興味深く拝聴したよ。それでは、ぼちぼち始めよう
か」
本当に興味深そうに、顎をさすりながら聞いていた井筒は、一呼吸ついてか
らやや大きめの声で続けた。
「第二の関門は運試し。名探偵の持つ運がテーマだ」
「名探偵は推理力が卓越していれば、それで事件を解明できるのだから、運な
んていらないと思うけれど」
郷野の意見に、井筒は首を縦に振り、とりあえずの同意を示す。だが、すぐ
に付け足した。
「確かに、特に幸運である必要はないかもしれない。だが、逆の場合を想像し
てみることだ。彼もしくは彼女が優れた推理能力を有していたとしても、特別
に不運であるために、事件を解明できないことは起こり得るのではないかな」
「それはもちろんよ。鑑定結果をもたらしてくれる電話が、肝心なときに不通
になるとか、誘拐犯との交渉中、たまたま第三者のとった行動が、犯人の目に
は背信行為と映り、被害者が殺されてしまうとか。そういうことを考え出した
ら、きりがない」
両手のひらを上に向け、肩をすくめる郷野。他の面々も程度の差こそあれど、
概ね、同意見らしい。
「だからこそ、運をテーマにした関門があってしかるべきだろう。極端に運の
悪い人間に、名探偵の資格はない」
「かといって、たとえばくじ引きで三回連続、最下位になったから失格、なん
てことにされてもたまらない」
美月が言った。井筒は再び、大きくうなずいた。
「無論だ。救済策は施そう。運が悪くてもなお、事件を解決できる名探偵がい
るかもしれない。むしろ、そのような名探偵こそ、我々が求め、欲す存在であ
るとも言える」
「はいはーい。そういったことを考慮して、第二関門のルールは次のようにな
っています」
議論が白熱しかねないところへ、もう一人の司会者、新滝愛が現れ、はつら
つとした調子で告げた。番組上では画面に、以下の通りのテロップが出るとこ
ろだ。
・運の要素が大きなウェイトを占める十のゲームを行い、各候補者の持ち点を
決定する。点数の高い者ほど幸運の持ち主と見なす。
・犯人当ての問題が出されるが、名探偵候補者の得られる手がかりは、それぞ
れの持ち点によって異なる。幸運な者ほど多くの手がかりを得ることができる。
・ただし、犯人当ての最中に一度だけ、各人の運を見直すゲームを行う。
・犯人当て問題の犯人を論理的に指摘できた者が、早い順に勝ち抜け。
・正解が最も遅かった者が脱落。複数の不正解者が出た場合は、審査員の判定
による。なお、審査では、各人の持ち点が考慮される。
・制限時間は、ゲームを含めて、二十四時間。
「――それともう一つ。これはテーマを理解していれば自明だが、念のために
言っておこう。今回、他者との協力は一切認めない。犯人当ては独力で解くこ
と」
「特定の人を落としたいからって、他の全員に答を教えるのもなし?」
若島リオが舌足らずな口ぶりで聞く。井筒の鋭い視線が飛ぶ。
「なしだ。このルールを破った者は、番組出演に際して提出してもらった誓約
書に反したと見なし、失格および賠償金の請求対象となる」
若島は口を尖らせ、あきらめたようにかぶりを振った。
「他に質問は?」
「運の見直しというのが分からないんだが……口を割りそうにないな」
沢津が挙手しつつ、質問しかける。が、井筒の顔を見て苦笑いを浮かべると、
途中でやめた。
「要するに、ずっと幸運が続くとは限らない、ってことにしときたいんでしょ」
我慢していたものを吐き出すように、推理作家が分かった風な口をきく。
「そうしなきゃ、観ていて面白味がないものね」
「演出上、最低でも一人は逆転を食らう可能性が高そうだわ」
「テレビの舞台裏を暴くような発言は、謹んでくださいね」
律木の台詞を新滝が諫めたところで、質問タイムは終わった。
「もうじき、スタート時刻の午後三時だ。ゲームルームに移動するとしよう」
最初のゲームは、勝ち負けを決める最も簡単な方法の一つ――じゃんけんだ
った。
「あくまで運を見たいので、一切の戦略を取れないようにする。具体的には、
他の対決を見てはいけない。勝負の直前に『次はグーを出すぞ』等の宣言を行
ってはならない」
組合せはランダムになされ、勝ち残りと負け残りのトーナメントが同時に進
行する。そうして、一位から十二位までが決定した。
続いてのゲームは、じゃんけんと同程度に単純なコイントス。井筒の投げる
コインの表裏を皆が予想していき、外した者は順に除外され、最後まで残った
者が一位となる。
次なる種目は“ハイ&ロー”。適当に選んだトランプのカードの数字が、七
より大きいか小さいかを当てる。これも外した者が落ちていき、最後まで当て
続けた一人が一位と認定される。
四つ目は、トランプつながりと言うべきか、ポーカーである。これまでの三
つに比べると、腕前にも左右されるゲームだが、それは回数を重ねてこその話
だ。今回、番組が課したのは一度きりのポーカー勝負。ほぼ、運否天賦のもの
と言えよう。
続いてブラックジャックが五番目に用意された。エースを一もしくは十一、
絵札を十、その他の札は数字の通りと見なして組合せ、二十一に近い数をこし
らえるゲームだ。これもポーカーと同じく、一度きりの勝負では実力云々とは
関係なく、勝敗に運の占める比率が高い。
第六のゲームは、がらりと様相を変え、“ジャストタイム”――ストップウ
オッチを十秒ジャストで止めることを狙う。十秒に近いほど高ポイントが与え
られる。全ゲームの中では、最も運頼みでない競技と言えるが、練習なしの一
発勝負ではやはり運が大きい。
第七ゲームは、十本の煙草に同時に着火し、灰の落ちる順番を当てる、“灰
リスク”。
第八ゲームは競馬。無名馬ばかりが出走する海外の地方競馬の映像を見て、
着順を予想する。
第九ゲーム、“宝箱”。十個の小箱から一つを選び、十の鍵から該当する物
を見付け出す。タイムトライアルだが、開けた箱の中に髑髏マークが刻印され
ていた場合は、タイムを倍にされてしまう。
そして最後の第十ゲームは、運と実力が微妙に絡み合う、“多数決廃除”。
「――これは、最も警戒するライバルは誰か?というお題目で、名札を上げる
形の多数決を行い、最多得票した者を除外。次も同じ採決を行い、最多得票者
を除外。これを、二人になるまで繰り返す。最後の一人を決めるのは、それま
でに除外された十人による採決だ。なお、同票の場合は、九種のゲームを終え
た時点でのポイントの低い方を除外していく。ポイントも同じ場合は、司会者
である私が判定を下す」
井筒の解説を、全員が飲み込んだところで、ゲーム開始だ。
一回目の採決では、村園が八票で除外された。第一関門の実質一位通過者で
ある点に加え、これまでのゲームでもなかなかの強運ぶりを発揮していること
が、他の者に驚異と映ったようだ。
第一関門の成績を根拠とする流れは続き、二回目は美月、三回目は天海が最
多得票者になった。
四回目は、第二関門のポイント合計でこの時点のトップ、郷野が除外に。続
く五、六回目では、すでに敵を多く作ったであろう八重谷、更衣が相次いで除
外される。
残り六名になった七回目の決で、最多得票が二人出た。堀田と沢津である。
今までのポイントにより、堀田が生き残ったが、彼も次で除外された。
九回目の決では小野塚が落とされ、三人に。
「ここまで残ったことを、不名誉に思うべきかもしれないわね」
情けないと律木春香がつぶやく。漫画に描くとしたら、負のオーラが出てい
るところだろう。若島リオは対照的に、明るくコメントする。
「見た目がばかそうでも実は名探偵っていうのは、私が最初から言ってるスタ
ンス。全然、ちっとも、問題なし!」
「まあ、何にせよ、次で除外されるのは俺だな」
野呂が自嘲しながら言った。――そして実際、その通りになった。
最後の決を前に、新滝が早口で説明をする。
「状況を整理しておくと、第九ゲームまでのポイントは、律木さんが三十七、
若島さんが五十三と、若島さんが上回っています。次の採決で五票ずつなら、
若島さんの勝利になります。この二人それぞれとポイントで競っている人は、
ようく考えて投票を。最終的な順位を左右するのは明白です」
新滝の示唆が、十人の投票行動にいかなる影響を及ぼすのか。名探偵候補た
る者、この程度のことでは影響を受けはしないかもしれないが。
「心は決まっただろうか? ――それでは、十人の名探偵候補諸君、一斉に札
を上げて」
律木、若島どちらかの名前の書かれた札が十本、さっと上がる。素早く数え
られた。
「律木春香、六票。若島リオ、四票。よって、律木さん、あなたが除外され、
最後の運試しは、若島君の勝ち残りとなった」
「わーい、って喜んでいいのかな? かな?」
タレントは自分のキャラクターをよく把握しているようだ。演技なのか地な
のか、軽々しく判断を下せないものを感じさせる。
律木は一瞬、落胆の表情を覗かせるも、一位と二位とで獲得できるポイント
差は、わずか一であることを思い出したか、じきにすっきりした顔つきに変化
した。
番組上は、ここで何名かの短いインタビューが挿入される。
若島リオ
「最後のゲームで勝ち残ったときは、実際、手を叩いて喜びたい気分だったわ。
十二人の中で、私が最も警戒されていないんだもの。私からすれば、充分にチ
ャンスありってこと。運のよさは全体で六位っていうのは、不満だけどね」
律木春香
「正直言って、複雑な気持ち。何であろうと、こんなに低い評価を受けたのは、
人生で初めて。屈辱的よ。だけれども、克服して、勝ちにつなげないといけな
い。運のポイントも高くないけれども、黙って頭を使うことには自信がある」
村園輝
「最後のゲームで早々に脱落したこともあり、最終的な順位は四位。まあ、よ
いポジションだと思います。第一関門から引き続いて、有利なポジションをキ
ープして戦うのは、今の自分にふさわしくない」
郷野美千留
「際どかったわ。もう少しで二位になるところだった。一位と二位だと、気分
のよさが全然違うのよね、やっぱり。それ以上に、たくさんの手がかりが得ら
れるってことが、重要なんだけど。せっかく巡ってきたチャンスだし、犯人当
ても一番に正解して、ポイントを稼ぐとするわ」
沢津英彦
「遊びの類は苦手という自覚はあったが、こうもできないとは予想外だ。最下
位からの巻き返しは、厳しいものがありそうだが、最善を尽くすとしよう」
十種のゲームの結果を受け、決定された運のよさは、上から順に、次の通り
である。
1.郷野美千留 2.天海誠 3.更衣京四郎 4.村園輝 5.堀田礼治
6.若島リオ 7.美月安佐奈 8.小野塚慶子 9.律木春香 10.八重
谷さくら 11.野呂勝平 12.沢津英彦
「第二関門のスタートラインが、ようやく引けた。ここからが本番だ」
「やっと、ミステリらしいミステリに取り組める訳だね」
井筒の言に、更衣が反応する。本領発揮を期する者は彼だけでない。全参加
者が、このときを待ち望んでいた。
「出題形式だが、今回はテキストを配布する。犯人当て推理小説と同じと考え
てくれていい。繰り返しになるが、他の参加者と相談するのは禁止とする。他
人のテキストの中身を見るのも禁止だ」
「与えられる証拠に差があるのなら、当然ですね」
天海が確かめるように言った。さようさようと井筒が時代がかった物腰で応
じる。
「実は、テキスト配布は済んでいる。諸君のホテルの部屋それぞれに届いてい
るはずだ。各自、これから部屋に戻り、問題に取り組んでもらいたい。調べ物
は自由だが、外部への連絡は禁ずる。食事も今回は、各部屋で摂ることになる。
他の参加者と顔を合わさぬよう、なるべく部屋に籠もっていてもらいたいのだ
が、反面、番組として絵にならないのも困るので、場合によっては我々が部屋
を訪ねたり、調べ物に着いていったりすることになると思うが、そのときはよ
ろしく」
「質問が」
村園が発言を求め、新滝が許可する。
「第二関門では、解答の回数に制限はないのでしょうか。言及がなかったもの
だから、気にはなっていたのですが」
「何度解答してくれてもかまわない」
井筒があっさりと答える。
「ただし、何度も間違えるようだと、後々、審査員の判定になった際に、不利
に働くのは当然のことだがね。早さも大事だが、正確さも大事だ」
「誤って告発した相手から賠償金を請求されても平気、という探偵さんがいる
のなら、それでかまわないですけどね」
新滝が奇妙なフォローを入れる。いや、ジョークだったのかもしれないが、
誰一人として笑わなかった。
「他に質問は? ないのなら、予定よりも少し早いが、第二段階に進むとしよ
う。諸君の幸運を祈る――文字通りのね」
井筒の声がずしりと響いた。
「ではここで、審査員の一人であり、問題作成にも携わっておられる土井垣龍
彦先生に、お話を伺うことにします。――土井垣先生、よろしくお願いします。
早速ですが、第二関門の問題作りで工夫あるいはご苦労なさった点は、何でし
ょうか」
「念頭に置いたのは、レベルです。難しすぎても簡単すぎてもいけない。バラ
ンスのよい犯人当てというのは、結構大変なんですよ。しかも、今回は名探偵
候補達が相手でしょう? 普段の読者相手というのなら、まだおおよその感覚
が掴めているからいいんだが、我こそは現実の名探偵という人達を相手にする
のは初めての経験で、勝手が分からなかったなあ」
「その上、第二関門では運の度合いによって、レベルに差を付けなくてはいけ
ないという……」
「もちろん、それもありました。まあ、大失敗ということはないでしょう。今
回の結果を参考に、よりよい物を生み出していきたい」
「それでは、工夫された点は?」
「あんまり話すと、興を削ぐことになりかねないので……小説という形式なら
ではの趣向を凝らしたつもりとだけ」
「そうですか。視聴者の皆さんに、問題の一部をVTRにしてお見せするので
すが、小説ならではとなると、映像にするのは難しかったかもしれません。と
ころで、視聴者の皆さんに見せるのは、運の順位が何位の方のがいいんでし
ょう?」
「これはもう、決めています。六位でお願いしています。一般読者を想定して
犯人当てを書くときのレベルに合わせたつもりなので」
「第一関門と第二関門の途中までをご覧になった上で、優勝の有力候補だと思
える方は?」
「今、答えるの? 無理だよ。第一、審査員がそんな発言をしたら、あとで出
る結果によっては、色眼鏡で見ていると受け取られかねない。一つ言えるのは、
犯人当てタイプの推理小説を読み慣れた人なら簡単だろう、という予想ぐらい
かな。ああ、私自身の名誉のために付け加えておくと、第二関門なんだし、超
絶に難しくしてもしょうがないと考えたから、易しくしたのだよ(笑)」
「なるほど。ところで、土井垣先生の書かれるミステリには、幾人かのレギュ
ラー探偵がいますが、今度の犯人当てではその中の誰かが登場するのでしょう
か」
「無論。読者サービス、いや、視聴者サービスかな。とにかく、観ている人へ
のサービスの意味も込め、湯上谷龍(ゆがみだにりゅう)を登場させた」
「先生が最も大事にされているキャラクターですよね。龍の名は、ペンネーム
に合わせたとか」
「合わせたというよりも、暖簾分けのようなつもりだよ。今回の作品は、犯人
当てという性格上、湯上谷探偵をいつもより若干、鈍い人物として描くことに
なったかもしれない。結果的にだがね」
「大事なキャラクターをそんな風に扱うのは、さぞかし心苦しかったのでは」
「うむ、それはあった。が、未来の名探偵のためなら、我慢もするさ(苦笑)」
「ありがとうございました」
* *
そして死の影が忍び寄る
原案:土井垣龍彦
「おいおい、まだ掛かっているのか」
迎えにやって来た湯上谷龍は、背後から私の手元を覗き込むなり、批難調で
始めた。
「確か、締め切りが迫っているのは、短編が一本だけと言っていたように記憶
しているのだが」
「余裕と思ってたよ。そこへ新聞連載の依頼があって、喜んで引き受けた訳」
私は振り返ることなく返事した。
作家になって以来、初めて新聞社からの連載依頼だった。だから、というの
も変だが、新聞連載の仕組みをよく分かっていなかった。少しずつ書いて原稿
を渡せばいいと考えていたのが、全部まとめて出すように指示されて、大いに
焦っている。短期集中連載という理由もあろうが、それにしても……。
「で、目処は立っているのかね」
「原稿そのものの完成は、もう少し先でいいんだ。明日までに、全体のプロッ
トをきっちり仕上げて、示さねばならない。粗筋はもちろん、購読者から抗議
が来るようなテーマを含んでいないか、チェックしたいとかで」
「ふむ。雑誌の類よりも新聞の方が、面倒な印象はあるな。選挙絡みとか」
分かったようなことを呟いてから、湯上谷は私の肩に右手を載せた。もう一
方の手首にある腕時計で、時刻を確認したようだ。
「で、仕上がりそうなのか。あと一時間で出発しないと、間に合わないぜ。ど
こかで昼食を摂る予定をすっ飛ばしたとしても、猶予は三時間ほどだろう」
かつて湯上谷が依頼を受け、解決した一件について、ぜひとも礼がしたいと
某大企業の社長から誘われていた。いつもなら単なる記述者でしかない私・弁
田士郎(べんだしろう)も、何の因果か、この事件のときは活躍し、社長の令
息並びに令嬢の危機を救った。ために、私もぜひにと招かれている。あの社長
の押しの強さを思うと、今更断るのも言い出しづらい状況である。
「しょうがないな。過去の事件の小説化を許可する。無論、月日が経過し、な
おかつ関係者に迷惑の及ばない事件だけだ」
「ありがたい。実はその言葉を待っていた」
時折、私が創作に行き詰まると、湯上谷は彼が引き受け、解決した依頼の中
から、適切な事件ファイルを選び、小説化することを許可してくれる。
「許可できる事件の数は、前回から増えていないが、覚えているかい?」
「ああ」
たいていは私も同行してきたし、湯上谷の扱う刑事事件の八割ほどは、強烈
な印象を残すもので占められている。
「分量を目安にすると、候補は二つ三つあるが、新聞連載は毎回の盛り上がり
が肝心だろうからね。一つに絞り込める。君が幼馴染みに呼ばれて、巻き込ま
れたあの事件だ」
「ああ……あれか」
湯上谷の声が途切れたので再度振り返ると、若干、感慨深げに遠い目をする
彼がいた。
「あれなら問題ない。各関係者から正式に許しを得ている。あとはいつものよ
うに、関係者全員の名前を仮名に変えてくれりゃいい」
「心得ている」
「それと、あの事件に君は居合わせなかったじゃないか。伝聞だけで大丈夫な
のか」
「見てきたような嘘を書く腕なら、それなりに自信がある」
冗談交じりに返事するや、私は梗概をまとめに掛かった。と、その前に確認
しておきたいことがあった。
「君があのニックネームで呼ばれていたこと、書いていいんだよな」
湯上谷は肩をすくめた。
「かまわん。別に気にすることでもあるまい」
* *
黄色の軽自動車をロータリーに一時停め、助手席側の窓を下げた私・平木舞
子(ひらきまいこ)は、駅から吐き出された人混みに意識を集中した。
「あ、龍ちゃん! こっちこっち!」
待ち人を簡単に見付け、私は顔がほころぶのを自覚した。当時憧れ、今も記
憶に刻み込まれた幼馴染みを、素直に成長させるとこうなるであろう想像図。
実際に目の当たりにした姿が、それとほぼ重なっていたのだ。
「君は……平木さん」
近付きながら向こうが言う。低いがクールさを感じさせる声だ。車を降りた
私は、とりあえず挨拶をした。
「久しぶり。覚えていてくれたんだ?」
「当然だ」
その返答に、少なからず期待してしまう。しかし、続いて出て来た台詞に落
胆させられた。
「小さい頃から言っていただろう。将来、探偵になるのが夢だと。記憶力がよ
くないと、探偵は務まらない」
「あ。そ、そうね」
感情を面に出さぬように努めながら、私は前々から聞いてみたかったことを
口にした。
「ということは、今、探偵をやっているの?」
「そうとも。結構、活躍しているんだぜ」
少し誇らしげになる。微笑ましく思いつつ、意地悪を言ってみたくなった。
「本当かなあ? 活躍してるのなら新聞やテレビに名前が出てもいいのに、全
然、聞かないわよ」
「本名を無闇に明かして活動してちゃあ、探偵を続けるのが難しくなるじゃな
いか」
「えー? そんなに危ない仕事を引き受けてるの?」
「ああ。……詳しい話を聞きたいのなら、先に車に乗せてくれないか。迎えに
来てくれたんだろう?」
いけない、と思わず小さく呟き、私は運転席側に回った。助手席側のドアを
開ける。
「荷物は後ろに」
「分かった」
二十秒後、私と龍ちゃんを乗せた黄色の軽は、やや騒がしく出発した。
この大型連休を利して、小さい頃の仲よし六人組が集まり、ちょっとした同
窓会を開くことになったのは、仲間内でおめでたいことがあったからだ。
「――それにしても、川野の奴が園島さんと婚約とはね」
実際に関わった事件について、手短に済ませると、龍ちゃんは話題を換えた。
「名探偵でも予想外だった?」
「ああ。予想をすることすらしていない。だが、園島の家が一財産築くのは、
確実とは言えないまでも、予想の範囲内だったろう」
美幸ちゃんのおじいさんやお父さんは、資源やエネルギーこそ経済発展の命
脈という信念の元、昔から積極的かつ継続的に投資してきた。その入れ込みよ
うと来たら、企業の株を買うだけでは飽き足りず、鉱山そのものにまで手を出
すほどだった。浮き沈みは結構激しかったみたいだけれど、今や大きなお屋敷
を構えるまでになった。
「――なんて、小学生の頃の私には、全然、想像できなかったわ。というより
も、美幸ちゃんのお父さんが何の仕事をやっているのかが、分からなかった」
「ならば、中学生の頃には気付くべきだな」
「ちゅ、中三の頃には理解していたわよ。何となくだけれど」
「川野の奴は、何をしているんだろう? 高校を卒業したあとは、あまり交流
がなかったから知らないが、まさか家業を継いだとも思えない」
川野君――他人の旦那様になる人をニックネームで呼ぶのはよそう――は、
豆腐屋の一人息子で、父親は当然、継がせたがっていたみたい。でも、大手ス
ーパー進出の煽りを食らった格好で経営不振に陥り、私達が進路を決める頃に
は、店を続けるかどうかの瀬戸際だったらしい。だから、というのもおかしい
が、川野君は親の同意を得て、大学に進めた。
「それで、今は食品メーカーの研究員。太ったんだよ。新製品を作る部署で、
試食の機会が多いせいね」
「そいつはまずい。結婚したら危ないな」
龍ちゃんが真剣な物腰で言うものだから、私は一瞬だけ、前方から視線を外
した。「え?」とだけ聞き返し、また運転に集中する。
「ますます太るってことさ」
気抜けするような返事。真顔で冗談を言う人だったと思い出した。
「で、園島は? 家事手伝いか」
「一応、大学では経済学部に入ったものの、家族の期待に合わせた選択だった
みたい。挫折して、デザインの専門学校に入り直して、現在はジュエリーショ
ップで修行中って聞いてる」
「結婚したらやめるんだろうか」
「そのつもりはないみたいだけど、どうなることかしら。――随分、根掘り葉
掘り聞きたがるわね。気になるの?」
多少の嫉妬込みで、私は尋ねた。
「大した意味はない。ただ、名探偵の行くところに事件ありと言うだろ。ひょ
っとしたら、この集まりでも何か事件が起きるのではないかと思ってね。念の
ため、下調べというか、予備知識を頭に入れておきたい」
「考えすぎ。ていうか、それ、ドラマか何かの話でしょ。現実には……」
また冗談だと決め付けた私に対し、龍ちゃんは相変わらずの真顔で応じる。
「他の探偵がどうかは知らないが、自分の場合は犯罪に巻き込まれる確率、か
なり高いと感じている」
事実だとしたら、本当に名探偵だわ。依頼を受けるだけでなく、知らず知ら
ずに事件と関わるなんて。そう思ったが、口に出さずに私は会話を続けた。
「だったら、私や他の人達についても、近況を知っておかなくちゃいけないん
じゃない?」
「聞かせてくれるのなら」
リクエストに応え、簡単に説明する。
「連君は大学を出たあと、しばらくぶらぶらしていたけれど、家業を継いで、
バイクショップの店長に収まってる」
「予想の範囲内だが、店長とは早いな。連城のところって、まさか親父さんに
何かあったのか」
「それがね、交通事故に遭って。幸い、命に別状はなかったのだけれど、どち
らかの手に麻痺の症状が出て、よくならないんだって。ちょうど二年になるか
な。手以外はしっかりしているけど、すっぱりと店長を息子に譲って、サポー
トに回ったそうよ」
「ふむ……」
龍ちゃんの横顔は何か言いたそうに見えたが、切り出す気配は収まってしま
ったので、私の説明は次の人物に移った。
「猛は、龍ちゃんもある程度知っていると思うけど、地元の建設会社に入社し
て、ばりばり働いてる。けど、ばかもやってるから、出世は望めないわね。喧
嘩っ早いのに加えて、お酒を飲むようになったし」
「解雇されないってことは、警察沙汰にはなってない訳だ。沼の奴らしい」
下の者に対しては面倒見がよく、上の者からは好かれるタイプといったとこ
ろか。企業の野球チームではクリーンナップとやらを務め、また、暇さえあれ
ば、近所の子供に野球を教えている。
「さて、最後になりましたが、この私は」
「念願叶って、地元に戻り、チェーン店を任される身分になったんだろ」
「さっすが、名探偵」
「ばかにするなって。車の横に、でかでかと店名が書いてあるじゃないか」
国内に広くチェーン展開する、パンとケーキの店。黄色はイメージカラーな
のだ。
「食べ物屋の店長が、店を放ったらかしにして大丈夫なのかねえ」
「信頼できるスタッフに任せています。それにさあ、連休突入直前だから、迎
えに行けるのが私しかいなかったの」
感謝してよねとばかり、さりげなく?アピール。
「主役の二人に迎え役はさせられないし、猛は早くても夕方まで仕事。連君の
とこは、遠出の前に具合を見てくれっていうライダーさんが多く来るんだって。
明日からは、お父さんや他の店員さんに任せるらしいけれど」
「それはそれは。僕さえ来なければ、平穏無事だったのに」
「ちょ。そんなこと言ってない」
慌てて表情を窺うと、彼は皮肉っぽい笑みを浮かべていた。また冗談に引っ
掛けられた。
「到着は、もうそろそろかな」
のんきな調子で、探偵の龍ちゃんはのたまった。
――続く
#328/369 ●長編 *** コメント #327 ***
★タイトル (AZA ) 08/08/01 00:00 (362)
十二等分の幸運 2 永山
★内容 08/12/06 17:33 修正 第2版
元々の日本家屋に洋館を建て増した格好だから、外観は一部、ちぐはぐなと
ころもあるけれど、それを帳消しにして尚余るくらいの広大さは、最早威厳を
伴っていると言える。詳しくは教えてもらえないが、防犯設備も様々な物が取
り付けてあるらしい。話だけ聞くと、何と大げさなと思っても、実際にお屋敷
を目の当たりにすれば、大いにうなずける。
「これは……予想以上の大富豪って感じだな」
さしもの名探偵も圧倒されたかのように、ウィンドウ越しに建物を見上げな
がら言った。私はインターフォンで来意を告げ、カメラに姿形を確認してもら
って、門が開かれるのを待つ。
「手土産が食い物に酒だけで、本当にいいのかね」
「らしくないわねー。名探偵なら、こういう屋敷に招かれるってことも、多々
あるんじゃないの?」
ささやかな逆襲のつもりで私が言うと、龍ちゃんは首を横に振った。
「ここまで大きなところは初めてだ。一度、お上品な良家に出向いたときは、
調子が合わなくて苦労させられたしねえ」
「美幸ちゃん家は変わっていないから、身構えずに、安心していいわよ。それ
にこの連休中、ご家族は旅行に発たれて不在だそうだし」
「そんなことまで、気にしちゃいないさ。自分達が結婚の申し入れに来た訳じ
ゃないんだから」
「ということは、もし仮に美幸ちゃんと結婚することになって、ご両親に許し
を得に出向いたとしたら、緊張するんだ?」
「飛躍が過ぎるぞ。ほら、門扉が開いた」
私はよそ見をやめ、車を敷地内に進み入れた。
通い慣れたとまでは言えないにしても、幾度か来たことがあるので、あとは
勝手知ったるもの。来客用の駐車スペースの一角を借り、この屋敷には不釣り
合いな黄色の車を、我ながら遠慮がちに停めた。
「どの建物に向かえばいいんだ? いや、そもそもどこから出入りすればいい
のやら」
土産の品を持った龍ちゃんは、広大さに呆れているようだった。私は、ほぼ
真ん中に建つ洋風建築を指差した。
「あそこが結婚後の住まいになるんだって。今の内から二人で暮らしてみて、
不都合の有無をチェックしてるとか何とか」
そして、そちらへ向かって歩き始める。私のあとを来ながら、龍ちゃんが言
った。
「特に手を加えずとも、既に三世代住宅の完成って訳だ。こうなってくると、
執事や家政婦がいることを期待してしまうね」
「執事はいなかったと思うけれど、家政婦さんは何人かいたはず。ただ、美幸
ちゃん達は今の段階では、家政婦さんに頼らないつもりみたい」
「いつまでその決心が続くか、楽しみだな」
「今日はお祝いの席なんだから、そういう皮肉はほどほどにね」
注意しつつ、昔を思い出し、私は密かに微苦笑を浮かべていた。後ろの彼に
は見られなかっただろうけど、そうでなかったなら何と言われたことか。
「今回、僕らをもてなすのは、川野達二人だけなのかい?」
「どうなのかしら。そこまで聞いてない。ていうか、龍ちゃんこそ、何をそこ
まで気にしてるの?」
「さっき答えたのと同じ理由さ。万一、事件が起きたとき、迅速に対処できる
よう、人物を把握しておきたい」
「あんまり不吉なこと言わないで。二人の前では、絶対に」
半ば呆れながら、私は重ねて注意しておいた。
それから数歩も進まない内に、玄関ドアが開いて、美幸ちゃん本人が顔を覗
かせるのが見えた。私達に気付くとすぐに全身を現し、こちらに駆けてくる。
「車が来たって聞いたから」
正面に立ち、わずかに息を切らせ、彼女が笑顔を振りまく。こちらも笑みを
返した。
「主役がわざわざ出て来なくても」
「招待主だもの。お客様を歓迎するのは、当然のことよ」
そうして美幸ちゃんは視線を移した。
「久しぶり、龍君。元気そうね」
「一目見て分かるとは、たいした名探偵だ」
「え?」
戸惑う彼女に、私は説明した。彼は現在、探偵をやっているのだと。
「ふうん。探偵って儲からないイメージあるけれど、立派ななりをしているわ
ね。一張羅?」
美幸ちゃんは裕福な家庭に育ったせいか、お金に関することを割とストレー
トに口にする。
「いやいや。人並み程度の収入はある。どうして儲からないイメージを持たれ
るんだろ?」
「洋画に出て来る探偵は、たいていは安いお酒しか飲めないし、普段は暇そう
にしているじゃない。警察を出し抜くような探偵にしたって、いつ、どれだけ
の依頼料を受け取ったのかがちっとも分からないし」
〜 〜 〜
若島リオは口元を手で覆うことなしに、欠伸を盛大にした。今、彼女はあて
がわれた部屋に一人きりなので、気にする必要はない。カメラやマイクの類は、
一切仕掛けられていない。
「かったるいな〜」
取り組んでいた犯人当てのテキストを放り出し、若島はベッドに寝転がった。
ゲームで六番目の運のよさを獲得した彼女への問題は、視聴者にVTRで示さ
れるものとほぼ同等。他の参加者と違い、視聴者と直に比べられる立場だが、
その事実を彼女は知らされていない。余計なプレッシャーを与えては、不公平
になるためだ。
問題を読むのを中断した若島であるが、表情に焦りはない。時間的にもまだ
余裕はあるし、直感ではあるがすでに当たりを付けてさえいる。
「これで決まりの気がするんだけど〜」
他人の耳目はなくとも、呟く声は飽くまでアイドルらしく。
(わざとつまらなくして、読むスピードを落とさせようという罠かしら、これ)
犯人当てが分からなくて投げ出したのではなく、内容に退屈して投げ出した
のであった。
彼女は見た目によらず(?)読書家である。移動時間や待ち時間の多くを、
読書に当てている。ここ数年は、役柄のためもあって、推理小説を好んで読ん
できた。だから、犯人当てミステリの基本も押さえているつもりだ。
(湯上谷龍の名前がまともに出てきたの、最初しかないのよね。作中作になっ
てからは、“龍ちゃん探偵”とか“彼”とか、とにかくフルネームで書かれて
ない。それどころか、名字すら登場しない。これって、龍ちゃん探偵と湯上谷
龍は別人の可能性ありってことじゃない?)
頭の中、文章としては疑問形で表したものの、真相を射抜いている手応えを
早々と感じていた。裏の裏を掻くことも考えられなくはない。だが、第二関門
の時点で、そこまで捻った出題をするだろうか。さらに――。
(テーマは運。犯人当てを解くことがメインじゃないんだし)
気になるのはむしろ、相談禁止のルール。参加者同士の相談を禁じるなんて、
今度のテーマなら当然。各自に与えられる手掛かりに差があると分かっていて、
相談なんかしたら、出し抜かれる可能性が高い。それも第一ステージとは段違
いに高い。
(なのに、わざわざ明文化……気になる)
相談禁止のルールがなければ、絶対に相談しないかというと、そうとも言い
切れないのは確かである。たとえば、驚異になりそうなライバルを早めに落と
すため、複数名が同盟を組むケースが考えられる。
(だけど、まだ一回しか戦ってないんだから、みんなの実力って言ってもほと
んど分かんない。ま、私が一番甘く見られているとは思うけど。気軽に組んで、
仲間意識を持って油断したら、裏切られる恐れもあるし)
よって、現時点で組もうと考える参加者がいるとは考えられないのだ。
若島は足をばたつかせ、上体を起こした。
(運の見直しがあると言っていたし、裏がある気がするのよね。犯人当てが解
けるかどうかより、そっちの方でいらいらするっ)
第一関門のことを思うと、その疑念は尤もであった。
(他にもっと重要なことが、はっきりしていなかったのも気になる)
髪をかきむしる格好――格好だけ――をした若島。もうしばらく気がかりを
検討しようか、それともテキストに戻ろうか。彼女の迷いを、ドアをノックす
る音が棚上げにした。
誰何する。テレビ局のディレクターだった。コメントを収録しに来たという。
たとえタレントでも、録ったコメントを番組で使うかどうかは未定。面白けれ
ば採用される約束になっている。
「第一関門の途中でコメント出すときは、プロデューサーさんまで来てくれた
のに、これから段々、扱いが悪くなって行くのかなあ?」
意地悪を言うと、相手は笑みを浮かべたまま平身低頭した。ちょっとだけ優
越感を味わい、すぐに許す。気晴らしみたいなものだ。
「じゃあ、現在の心境や犯人当ての手応えなんかを、話してちょうだい、リオ
ちゃん」
盛り上げるような調子で言い、万歳のポーズをするディレクター。大げさな
動作のおかげで、眼鏡が若干ずれた。
応じようとした若島だが、ふと気が変わった。
「あ、まだ回してないでしょ? これ、NGかもしれないから、先に言っとき
ますね。OKなら、あとでもう一回ってことで」
「え、何?」
レンズの奥で、瞬きが激しくなったディレクター。戸惑いが露わな彼は放っ
ておいて、若島はさっさと喋り始める。
「今の内に正解出して、かまわないのかな?」
「え? っと、それは……」
一緒に入ってきたカメラマンを振り返るディレクター。カメラマンと相談し
ても、結論の出る問題ではないだろうに。
「他の人から、同じ疑問、出てないですか? 私達参加者が解答する際、どう
すればいいのか全然指定されてないの、変だって。今更気付いたって遅いかも
しれないけど」
「いや、だから、それは早い者勝ちで……」
今回のルールを思い起こしたか、ディレクターは眼鏡を直しながら答えた。
ただ、明らかに歯切れが悪い。
「じゃあ、運の見直しをする話は? 見直しの前に正解しちゃっても、いいの
かなっていうか、どうなるのかなっていうか」
若島が畳み掛けると、ディレクターはいよいよ困った風に、眉間にしわを作
った。喋っていいものか、判断しかねているようだ。
「実は……」
そう切り出したものの、まだ言い淀んでいる。どうやら、決定権を有しては
いるが、彼自身に話すのを渋る理由がある――若島はそんな推測をした。が、
思考とは裏腹に、首を傾げて、“リオ、何にも分かんな〜い”を体現する。も
ちろん、首を傾ける角度と表情は、計算し尽くされた完成形だ。
「実を言うと、運の見直しをするよりも前に解答し、正解にたどり着いた人は、
そのまま勝ち抜け。そういうのも運だから。でも、リオちゃんに早々と抜けら
れちゃあ、絵的にちょっと、ね」
「うまいこと言われたら、ぐらついちゃうな」
得心しつつ、最上級の笑みを浮かべる若島。
「真相を見抜いてる自信なくはないんだけど、解答するの、今はやめようかし
らって」
「うん。ぜひ、そうして――」
「でも、早く正解した人ほど、評価が高くなるからなあ。だったら、やっぱり、
勝つこと優先しないと」
「こちらの気持ちを知っといて、それはないよ」
「でもでも、私がこのステージでもしも敗退したら? そっちの方が番組的に、
ダメージ大と思うんですけど」
「う。まあ、そりゃ、理屈はそうなるんだけど。毎回、ほどほどのところまで
映って、勝ち残ってくれるのがベストな訳で」
「やらせで、最後の四人ぐらいまでは無条件で残れるくらいのこと、してくれ
るんなら、考えなくもないかなあ」
タレントの台詞を真に受けたか、ディレクターは考え込む様子を見せる。
若島は急いで言い足した。
「本気にした? やだな、今の、冗談。私、キャラ作り関係なしに、ほんとに
ミステリとか推理小説とか好きなんですからね」
「なんだ。てっきり、問題発言かと思ったよ」
ディレクターの顔が、気抜けした苦笑いをなす。
「他にいました? すでに正解を抱いて勝ち抜けちゃった人は」
「いや。それはない」
きっぱりと断言すると、ディレクターは時間を気にし出した。
「とにかく、コメントを録らせてよ」
促され、取り澄ます若島。カメラ用の笑顔を作り直した。
午前三時。こんな時間帯にも拘わらず、ホテルのロビーはにわかに賑やかに
なった。参加者全員に招集が掛けられたのだ。
叩き起こされた面々の中には、あからさまに不機嫌な者もいる。いや、眠り
に就いていなくとも、推理の組み立てを邪魔されたとすれば、気分を害すもの
だろう。
「これ、サプライズ? こういうのって番組上の演出で、出演者には予め、知
らされているんだと思っていたわ」
律木春香が化粧気のない顔で言った。元々、薄化粧の彼女は、目の周りを除
けばどうにか見られる。尤も、その腫れぼったい瞼のせいで、台無しの感があ
った。
「名探偵を目指す人間が、深夜に起こされた第一声がそれじゃあ、だめだな。
まるでなってない」
スーツ姿の更衣京四郎が、小馬鹿にしたように言う。いやに元気だ。声には
張りがあり、目が輝いている。身振り手振りも絶好調である。
「あん? 何のこと……ああ」
律木は欠伸をかみ殺したような仕種をした。他人の目をさほど気にする様子
もなく、ふんふんと頷き、更衣に返す。
「『何か事件が起きたのですか?』とでも言えばいい訳ね」
「その通り。番組外で事件が起こる可能性はゼロじゃない」
「確かに解せぬところはある」
堀田老人が口を挟んだ。言葉はしっかりしているが、動作がぎくしゃくして
いる。まだ油が回っていないようだ。
「スタッフは数人いるようだが、カメラやマイク、照明の類が見当たらぬのは、
番組なのか否か、判断に迷うの。ご婦人方に気を遣って、カメラを回していな
いだけかもしれぬ。一方、事実、事件が発生したが、わしらは飽くまでも名探
偵候補、頼りにされとらんだけかもしれん」
「司会者達もいないから、これは番組ではない……と推理すること自体、罠に
嵌まっているのかもしれませんね。疑い始めるときりがない」
穿った見方を披露した村園輝。深夜のハプニング(?)には、占いでもまま
ならないようだ。
「皆さん、あちらのモニターに注目してください」
前置きなしに、若い男のAD(アシスタントディレクター)が指示を出した。
彼の上司らは、今頃ベッドで高いびきか、酒盛りか。
正面玄関を入ってすぐの位置に、大きな薄型テレビのような物が運び込まれ
ていた。オーロラビジョンらしい。今は電源は入っているものの、画面は青一
色で、無音である。
「一応、断っておきますと、これから流れる映像はVTRです。生ではありま
せん。この言葉に嘘はありません。ですので、現れた人物に話し掛けないでく
ださい」
ADが言い終わるのに合わせて、別の男が機械を操作し、映像が流れ始めた。
スタジオでの収録と思しき、一見豪華なセットを背景に立つのは、司会の井
筒隆康。最初、彼の上半身のアップだったのが、徐々に引いていくと、参加者
達のどよめきを呼んだ。装いがそれまでの背広姿でなく、探偵活劇に登場しそ
うな怪盗の格好をしていたためである。派手な装飾の襟元、はだけ気味の胸、
肩から足下へと垂れるマントは、表が光沢のある黒で、裏地は深紅。これでシ
ルクハットを被り、モノクルをし、どじょう髭を生やしでもしていたら見事に
はまるが、さすがにそこまで凝ってはいなかった。
画面の中の井筒は、名優らしからぬ大げさな調子で始めた。
『名探偵候補の諸君、おやすみのところを失礼する。あるいは、頭を痛めてい
たかな?』
司会進行時とは明白に違う井筒の声色に、参加者達は呆気に取られたり、唇
の端で笑ったり、困惑したように眉根を寄せたりと、様々な反応を示した。
『集まってもらったのは、他でもない。私、五十二面相から諸君へ、真夜中の
プレゼントを渡すためだ』
「五十二面相?」
この単語には、吹き出す者が多くいた。名探偵を志すからには、敵役として
の怪人物に理解がない訳ではないだろうが、ネーミングセンスの古さについて
いけなかったのかもしれない。
そういった雰囲気を知らぬまま、VTRの井筒は続ける。
『プレゼントと言っても、具体的な品物ではなく、喜ばれるものですらない。
君達を窮地に陥れるためのルール適用。そう、運の見直しを只今から行う』
空気に緊張感が走った。表情を引き締める者、姿勢を正す者、自らの頬を叩
く者、「そうきたか」と呟く者等々、参加者達は目が完全に覚めたようだった。
『運の見直しとは、言ってしまえば、他人との運の交換だ。このあと諸君らは
簡単なゲームをし、その結果に問答無用で従わねばならない。ゲームの敗者に
は、犯人当て問題の交換や追加があり得る』
「ちょっと。私、もう解き明かして、あとは名推理を名文に起こすだけだった
のよ」
八重谷が抗議口調で言った。しかし、彼女の態度はその物腰ほどには、焦っ
ていない。こうなることを半ば、予期していたかのように。
女流推理作家の真意はさておき、“既に解いていた”という言い分に反応し
て、更衣や律木らが、「自分も解けていた」と即座に主張した。負けず嫌いの
一面が出ていた。
「お静かに願います。VTR、まだ続くんで……」
ADの遠慮がちな声に、皆、意外なほど早く口を閉ざした。
『とうに名推理で解決したという方もいよう。恐らく複数名。が、それらは全
てチャラだ。解決したことを表明する機会について、具体的な説明がなかった
不自然さに気付き、スタッフにそのことを指摘するも、はぐらかされた方もま
たいたと思うが、どうかご容赦願いたい。運というテーマと探偵としての能力
を総合的に、しかも手っ取り早く評価するには、こうするより他にないと思う』
「まあ、そうね。ただ単に運で決めるんだったら、くじ引きで一人、落伍者を
選べば済む話なんだから」
郷野美千留がひそひそとした仕種で、しかし聞こえよがしに呟いた。
『納得してもらったものとして、次に進める。もとより、抗議は受け付けない
がね』
VTRの井筒が、なかなか勘のいい間を取りながら、話し続ける。
『前半で決めた幸運度の順位を覚えているだろうか? あの順位に従って、一
位と最下位、二位と十一位という具合に組み合わせを作り、一対一でゲームを
してもらう。幸運度の高い者が勝てば、そのまま運の入れ換えはなし。逆に負
ければ、運を入れ換える。当然、解くべき犯人当て問題も交換することになる。
対戦の順番は、一位と最下位の組み合わせを最初とし、以下二位と十一位、
三位と十位という風に続く。対戦を終えた者から、犯人当ての解答権を得られ
る。同一対戦の中では、勝者が敗者に優先して解答できるものとする。大まか
なルール説明は、以上だ』
VTRの井筒は最後に締めの言葉を口にしそうだったが、画面は唐突に青一
色に切り替わった。スタッフの男が停止ボタンを押したようだ。いそいそと片
付け始めるところを見ると、早く休みたいのかもしれない。番組構成上は、あ
とで井筒の締めの言葉をくっつけて流せばいい訳だから、大きな問題ではない
のだろう。
モニターなどが片付けられる様子を眺めつつ、次いで行われるであろうゲー
ムの説明を待つ参加者各人。と、その中で、マジシャンの天海が若島リオを小
声で呼んだ。
「リオさん、お願いがあるんですが」
「ん? ゲームで手心を加えてほしいというのは……って、天海さんは私の対
戦相手じゃないじゃないですか」
若島の早とちりに、天海はくすりとした。
「実は、あることに気が付きましてね。自分でスタッフの皆さんに言ってもい
いんですが、番組の段取りをぶち壊しかねないことだけに、迷っているんです。
参加者の総意ということにして、どなたかに代弁してもらおうと考え、リオさ
んが適役と判断しました」
「どういうこと? 意味が分かんない〜」
「あなたなら、テレビ局の人達と元々親しいでしょうし、かわいらしさ故に角
が立たないんじゃないか、とね」
「……急いだ方がよさそうですね。引き受けます」
そして天海の話を聞いた若島は、大きく頷くと、素早くし、しかしタイミン
グをちゃんと見計らって挙手した。
「代表して、質問があるんですけど」
ADらスタッフ間に、若干の緊張と戸惑いが走る。想定外の質問に加え、ア
イドルにどう対処すべきか慣れていない……。この時間帯の撮影が、地位の高
くない者ばかりで行われている証と言えた。
「仰ってください」
牽制し合いの末、ADの男が唇を尖らせ、仕方なさそうに応じた。
「思うんですけど、参加者の皆さんは名探偵候補で、優れた推理能力を持って
いる人ばかり。多分、犯人当ての問題は全員がとっくに解いてる。仮にそうだ
として、これからするゲームで運が上の人が悉く勝つよう、八百長すれば、私
達、とっても楽なんですよね」
「それは……確かにそのようです」
ADが困惑を深めたように眉間にしわを作った。若島リオは様子を探りつつ
も、続けた。
「でしょ? ルールの穴はまだあると思うんです。解答の順番で、おかしなこ
とが起きちゃう。一位の人の次は十二位の人が解答できて、五位と六位の人が
最後に回るなんて、理不尽じゃないですか?」
「うーん……なるほど」
唸るだけになってしまったAD。この場の他のスタッフに視線を移しても、
同じような具合だ。もしかして、セカンドステージは企画失敗?――そんな空
気が、参加者間に流れ始めた。
と、そのとき。
「やれやれ。これは謝らないといけないな。皆さんを甘く見ていたようです」
男の声がした。しかし、声の主が誰なのかを理解したのは、ほんの数人だっ
た。
「土井垣先生? いるの?」
八重谷さくらが真っ先に反応した。推理作家の彼女は、土井垣龍彦の声を同
業故に知っていたのだ。
「いるよ。ここに」
スタッフの中でも特に目立たない、隅にいた小太りの男が進み出る。スタッ
フジャンパーを羽織り、赤いキャップを目深に被っている。そのキャップを取
ると、本の著者近影で見覚えのある土井垣龍彦の顔が現れた。皺や白髪が、六
十四歳という年齢を感じさせるが、その両目はいたずらげに輝いているかのよ
うだ。
「どうして土井垣先生が、ここにいらっしゃるの? 変装までされて……」
番組収録中は高慢さを隠そうともせずに来た八重谷が、今ばかりは先達に気
を遣っているようだ。
「出題者として、近くで見守りたかったというのもある」
土井垣は八重谷だけでなく、全参加者に話し掛けた。
「それ以上に、こうなることを恐れ、待機していたというのが正直なところか
もしれん。このステージの問題自体に欠陥があると見抜かれるのをね」
「つまり」
土井垣と面識のない名探偵候補者の中で、いち早く口を開いたのは、更衣だ
った。髪を手串でいじりながら、いささか気取った調子で言う。
「前回と同じように、問題そのものに仕掛けがあるパターンだったという訳で
すか」
「君の言う通りだ。だが、今回は仕掛けがあることを見破った者が即、合格と
はならない。諸君らが欠陥に気付かなかったら、あるいは気付いても誰も指摘
しないようであれば、それまでのこと。そのまま進めてもかまわない作りにし
てあるからねえ」
「でも、私達は気付き、指摘した」
不機嫌な声で言ったのは天海。マジシャンとして、翻弄されることを極端に
嫌う節が垣間見られた。
「こうなった場合、一体どんな関門が別に用意されているのか、非常に関心が
ありますね」
「だろうね。そのことについては、僕の口から説明をする。秘密主義を徹底す
るため、井筒さんのVTRも用意されていないんだよ」
土井垣は対照的に、愉快そうに口元で笑みをなす。
「ということで、これから正式な出題をする。真夜中の開演もミステリらしく
てよいだろう?」
――続く
#329/369 ●長編 *** コメント #328 ***
★タイトル (AZA ) 08/08/01 00:01 (472)
十二等分の幸運 3 永山
★内容 09/02/04 03:03 修正 第3版
「捻りも何もないが、サインゲームとでも名付けるとしよう」
土井垣から発表された、本ステージの“正式な”関門は、以下のようなゲー
ムだった。
1.当ホテルの一室に、参加者全員の名前を一度ずつ記したノートを置く
2.参加者は順次その部屋に入り、十分以内に出る。その際、許される行為は
以下の二点のみ
A.一人分までの名前を消す
B.二人分までの名前を書き足す。内一人分は、自身の名前も可。また、同
じ名前を二つ書くのは不可
3.一巡後、ノートの内容が参加者に知らされる。
4.全員が一斉に、2の条件下で再度、名前の削除と付加を行う(実際に同時
に書き込むことはできないので、用紙による申請となる)
5.ノートを確認し、名前がない者を失格とする。全員名前があれば、書かれ
た数の最も多い者を失格とする。それぞれ複数名以上の該当者がいる場合、
前もって決めた運のよい者を失格とする
このルールは放映時にはテロップで示され、細かな点はナレーションによる
フォローが入る。たとえば、2のAについては、「一人分までの名前を消す、
つまり、誰か一人の名前を消すか、もしくは誰の名前も消さない」というよう
に。
より重要な点に関しては、司会者が直接、参加者達に補足説明を行う。
「なお、4における名前の削除と付加は、2における順番に従う。ある時点で
名前のない者を削除する申請があっても、それは無視される。また、漢字の表
記は正確を期すこと。存在しない漢字は認めないものとするので、要注意」
土井垣は説明を終えると、質問はないかとばかりに、十二名の名探偵候補を
見渡した。井筒に比べて、芝居がかったところがなく、実務的だ。
「順番は、どうやって決めるのかしら?」
軽く挙手した八重谷さくらが、指名を待たずに問うた。同業者相手だからか、
いつも以上に遠慮がなく、声には馴れ馴れしい響きが含まれていた。
「おお、忘れていた。運のよい者から、好きな順番を選べる」
「ていうことは、私から」
郷野が呟き、途端に計算を始める風に眉根を寄せた。
その間に別の質問が出る。沢津からだ。
「不正を行わぬことの担保がないと思うのだが」
「つまり?」
「部屋に入るときは、一人なのであろう? ノートの名前を二人以上消したり、
三人以上書き足したりした場合、誰がチェックするのだろうか」
「抜かりありませんよ、沢津さん。私が立ち会います。テレビカメラも据えら
れる」
胸に片手を当てた土井垣。無言でうなずく元刑事の横で、マジシャンの天海
が声に出して反応した。
「なるほど。番組として、そういった映像も欲しいでしょうしね。ああ、別の
質問があるのですが、よろしいですか」
「何なりとどうぞ」
「当初の問題では、運の見直しがあるとのことでしたが、あれはまだ有効です
か。要するに、このサインゲームにおいても、運の見直しはあるのか?という
ことです」
「ありません。部屋に入る順序を決め、同点の場合の判定材料とする運のよさ
は、昨日の昼の結果が全てとなる」
「了解しました」
「他に質問はありませんかね? なければ、順序を決める作業に……」
「あ、はいはーい。もう一つだけ」
若島リオが、時間帯に似合わない甲高い声とともに手を挙げる。土井垣は眼
で指名した。
「犯人当ての答なんですけど、私のもらった問題では、龍ちゃん探偵が犯人で
合ってますか?」
部屋に入る順を決定したあと、十二名の参加者達は改めて睡眠を取った。
ゲーム再開は明けて午前十一時から。朝食から再開までの時間を利して、ど
んな意図を持って、自らの順番を決めたかを答えるインタビューが収録された
無論、各自の話した内容は、他の参加者に対しては伏せられた。
郷野美千留
「真っ先に選べるというのは、有利であるようでいて、そうでない部分もある
と思うの。他人の様子見ができないっていう。もちろん、有利さが上回ってい
ると思うけれどね。ただねえ、真夜中に叩き起こされて、頭がはっきりしない
内に説明が始まって、その上、途中で設問が変わるなんて波乱続きでしょ。い
つもより頭が冴えてなくて、じっくり考える余裕がなかったわ。結局、ラスト
を選んだのは、それまでにみんながどんな風に振る舞ったのかが分かる、ただ
それだけの理由よ」
天海誠
「郷野さんに続いて、自分もラストから二番目、つまり十一番目を選ぼうかと
思ったのですが……一巡したあと、ノートを見ることができるのですから、さ
ほどメリットはないと判断しました。ならば、前半の流れを把握し、後半の流
れを方向付けられる位置がよい。そう思い、七番目を選んだ訳です」
更衣京四郎
「犯人当てがなくなると知らされて、がっくり来た。『もう、手掛かりの方か
ら勝手に飛び込んでくる感じ。笑いが止まらないね』って感じで、ご機嫌だっ
たのに……。関門設定に関わった者全員に、厳重に抗議したいな。順番? 考
えるまでもなかろう。大局的に見て、後ろになるほど有利なんだから」
村園輝
「七番を選んだ理由に、複雑な意味はありません。天海さんの意図を、すぐそ
のあとで感じ取ってみたいと思っただけです。目下のところ、彼が強敵の一人
になることは確かでしょうから」
堀田礼治
「いくら年寄りが早起きだといっても、夜中に起こされるのはたまらんわい。
早いとこ眠りたかった。だから、残りの中で一番後ろを選んだまで。ま、あと
になるほど、考える時間にも余裕があるしねえ」
若島リオ
「トップバッターを選んだ理由? うーん、別に。一番が好きだから。ってい
うのは半分冗談で、考えても仕方がないじゃない? 時間、全然足りないし。
たっぷり検討できるのなら、違う番目を選んだかもしれないけれどぉ。それに
さ、たとえばの話、一番の私が滅茶苦茶な行動に出たら、二番目以降の人は困
惑すると思うんだ。あ、これも冗談だからねっ」
美月安佐奈
「いくつか作戦が浮かんで、その一つを実行するとしたら、何番目が最も可能
性が高くなるか。それを突き詰めれば、残っていた内で、一番遅い九番目を自
然と選ぶことに。作戦? それはノーコメントです。当然でしょう」
小野塚慶子
「えっと、理由を問われましても、困りましたね。こうして聞かれると分かっ
ていたら、ちゃんと考えていましたのに……。強いて言うと、末広がりかしら。
あら、冗談では。少なくとも、四番よりは、気持ちよくゲームに臨めます」
律木春香
「順番、ね。考えてる余裕、なかったから。挽回しようと気合いを入れていた
のに、犯人当てが帳消しになって、もう、頭の中、ぐちゃぐちゃ。一からやり
直さないと……って思ったら、そのことでいっぱいになってて、何番が有利か
なんて、考えてる余裕、ほんとなかったわ。でも、残っていた四つから、一番
あとを選んだのは、悪くない判断だと思う」
八重谷さくら
「何でこんな仕打ちを、私が受けなくちゃならないのよ。優秀な頭脳を無駄に
使わせて……。ああ、文句をぶちまけるんじゃなくて、どうして四番を選択し
たかの理由を答えるんだったわね。そんなもの、簡単よ。残っているのが二、
三、四番だったら、最後を選ぶのが有利に決まっているわ。当たり前のことを
聞かないで欲しいわね、まったく」
野呂勝平
「理由も何も、あと二つっきゃないんだから、さして考えることもなかったな。
それに、三番目ってのは、悪かないと思うぜ。手間に二人しかいないんだから、
そいつらがどんな風に手を打ったのかだけは、ほぼ分かると思うんだ。まあ、
そいつをそのまま二回目に当てはめていいのかってのは、別問題だけどよ」
沢津英彦
「他の連中には、理由を聞いたんだろうな。こちとら、選ぶ余地なしだ。てっ
きり、一番目だと覚悟していたのが二番になったのは、意外だった。あのタレ
ントのお嬢ちゃん、頭がいいのか悪いのか分からん。それだけに恐くもある」
決定した順番を整理すると、次の通りになる。
1.若島リオ 2.沢津英彦 3.野呂勝平 4.八重谷さくら 5.律木春
香 6.天海誠 7.村園輝 8.小野塚慶子 9.美月安佐奈 10.堀田
礼治 11.更衣京四郎 12.郷野美千留
こうして、一回目の記入及び削除が、およそ二時間を掛けて行われた。その
結果が、昼食前に公開される。
ホテル内のレストランに集められた名探偵候補十二名の前に、土井垣が姿を
現したのは、午後一時前だった。
「どうも井筒さんは、合わせる顔がないとのことで、引き続き、僕が取り仕切
らせてもらうことになった」
土井垣の真顔によるコメントは、恐らくジョークだった。深夜の問題変更の
経緯を番組に組み込むか否かで、構成が変わってくる。どちらのパターンにで
も対処可能にするには、土井垣が司会役を受け持つ方が編集し易い。
「さて、時間もあまりないことから、迅速に結果の公表に移ろう。僕の好みは、
試験の合格発表みたいに大きく張り出す方式なんだが、問題の性質上、そうも
行かない。コピーした物を十二部用意したので、各自、手に取って確かめて欲
しい」
アシスタントを兼ねる新滝愛が、笑顔をふりまきながら、配布を始める。ノ
ートの体裁はなしておらず、見開き二ページ分を一枚にコピーした形だ。それ
が何枚かに渡っていた。
雑多な記述になった物を、なるべく原型を活かしながらまとめると、以下の
ようになろう。
若島リオ 郷野美千留 沢津英彦 沢津英彦 野呂勝平 更衣京四郎 郷野美
千留 村園輝 郷野美千留 村園輝 律本春香 小野塚慶子 沢津英彦 美月
安佐奈 沢津英彦 堀田礼治 小野塚慶子 更衣京四郎 美月安佐奈 郷野美
千留 堀田礼治 沢津英彦 村園輝
数の多い者をカウントしておくと、沢津英彦の名が五つで最も多く、次いで
郷野美千留の名が四つとなっている。
「さて、これから二巡目のための用紙を配る。回収は午後二時半に行い、結果
発表は午後三時だ。食事を摂りながらでも、じっくり考えて欲しい」
土井垣が言い、例によって新滝が紙を配った。
「念押ししておくと、この第二関門での協力体制は認められない。飽くまで自
主的に考え、書くように願いますよ」
忠告だけでは足りないと考えたか、食事中にも番組スタッフの監視が付く始
末。当然、食事は静かで味気ないものに終始した。
一巡後の結果を受け、各自が用紙に思惑を込めた申請を書き込み、予定通り
に回収された。その直後、いかなる計算を働かせたのか、十二人のコメントが
収録された。
番組放送時にはこれらVTRに、それぞれの“投票行動”を経て、名前の数
がどう変化したかを一覧にしたものを付す形になる。
若島リオ
「自分が消えちゃわないように、一票入れて、もう一人分は郷野さんに。一巡
目と一緒ね。あと、誰かをゼロにしておきたかったから、野呂さんをゼロに」
沢津英彦
「一致協力しない限り、誰か一人は確実に名前なしになると踏んだ。一番手の
お嬢ちゃんは、恐らく野呂の名を消すだろう。権利を無駄にしないために、お
嬢ちゃんの名を消した。増やすのは、一巡目で数の多かった郷野と村園にした」
野呂勝平
「名前が一つだけ残ってるのは、狙われ易いと思った。マイナスされたら、確
実にゼロになるんだからな。俺も当てはまる。だから自己防衛で俺自身の名前
を書いた。もう一人は、迷ったが、沢津の旦那に。マイナスの方は、美月さん
が集中攻撃される可能性ありと睨んだ」
八重谷さくら
「答えるまでもないと思うけれど、自分の名前がなくちゃ話にならない。もう
一人分は、男性陣から与し易そうな野呂さんを選んだわ。減らしたのは、更衣。
あの自信たっぷりな態度が、鼻について嫌なのよ」
律木春香
「私は前回よくなかったし、全員からノーマークだと思う。幸運の度合いを決
めるゲームの最終種目でも、私は目立たず、最後の二人まで残った。つまり、
いつでも落とせるって、甘く見てるのよ。ということは今回、私は一巡目終了
時点で名前があったことで、すでにほぼ安全圏にいる。だから、脱落して欲し
い人、脱落しそうな人の落ちる確率を高めることに集中できた。美月さんを減
らし、沢津さんと郷野さんを増やしたわ」
天海誠
「私の名前を書くのは当然として……私より前の人は、先に計算されるんです
よね。沢津さんを除き、皆さん、ご自身の名前を一つ増やすはず。そうなると、
確実に削除できるのは、八重谷さんになります。プラマイゼロという訳です。
あと一人分、増やす権利は、矛盾を角を立てずに伝えてもらった若島さんに使
いましたが、大勢に影響ないでしょう」
村園輝
「一巡目の際のインタビューで答えたように、実力者に残って欲しいというの
が基準ですので……特に脱落して欲しくない美月さん、天海さんの名前を書き
ました。その上で、私自身が落ちてはお話になりませんので、慎重を期して、
私の名前を一つ消すことにしました」
小野塚慶子
「果たして、私の仕掛けた作戦に、あの人が気付いたかどうか。それは分かり
ません。ここは、自らの生き残りに最善を尽くすとします。無駄になるかもし
れませんが、天海さんの名前を消すとしましょう。増やすのは、当然、沢津さ
んと郷野さんです」
美月安佐奈
「下手にトップを取るものじゃない。つくづくそう思う。私の名前を消そうっ
て人が多そう。だから私の名前を一つ増やしておく。今一人は、沢津さんに。
削除権は、一巡目の解きに見送った更衣さんに行使します」
堀田礼治
「わし自身はゼロになることはないと思うが、念には念を入れて、堀田礼治と
書いた。もう一人分は、一巡目で最も数の多かった沢津元刑事にした。それか
ら、減らしたのは天海君。彼は手強そうだ。できれば、ここで落ちてもらいた
い。この関門で落ちても、運がなかったまで。名誉に傷は付かないしの」
更衣京四郎
「まずは私の名前を書いた。足場を固めるという当たり前の理屈だ。もう一人
分の名前を書く権利は、天海誠、彼に使うとしよう。何故かって? 好敵手た
り得る彼を落とすチャンスなのだが、それ以上に、あの女流推理作家を蹴落と
したい。二人がともに名前なしでは、運で上回る天海が落ち、女が残ってしま
う。最早言うまでもないが、減らす権利は、八重谷さくらに使う」
郷野美千留
「一巡目の結果を眺めていて、ふっと、気になることを見付けたのよね。それ
が思った通りなら……ううん、危ない橋を渡るのは愚か者のすること。今の私
の立場では、名前なしの人が一人でも増えるように持って行く、これを第一に
考えなくちゃいけない。つまり……若島リオちゃん、彼女の名前を消したわ。
増やすのは、もちろん、沢津さんと村園さんね」
午後三時。いよいよ発表の瞬間を迎えたスタジオは、その空気に緊張と不安、
そして少しばかりの興奮をはらんでいた。
進行慣れしてきた土井垣龍彦の司会により、名探偵候補十二人は、大いに焦
らされることになる。
「最初に、最も名前の数が多かった者を発表する」
その声に、若島が大げさに反応した。といっても声を上げたのではなく、郷
野と沢津の両名を振り返ったのだ。その考えは他の者も同じと見え、何名かは
横目で盗み見るような仕種をした。
「その者の名は――沢津英彦」
今度は若島以外の参加者も、身体で反応を示した。名を呼ばれた沢津は身を
固くし、そんな彼を皆が見つめるという構図ができあがる。
「計十一の名前があったよ。ちなみに、二番目に多かったのは郷野美千留さん
で、八つあった」
今度は郷野に視線が集まる。
当人は、「ふ〜、ちょっと危なかったかも」と、手で顔を扇ぐ仕種をした。
尤も、内心ではほっとしているに違いない。これにより、郷野の第二関門突破
は確定したのだから。
「ノートから名前のなくなった者はいたのか否か? これが大事になってくる。
沢津さん、現在のお気持ちは?」
「特にない。一巡目の結果から、全員の名前がノートにあるとは考えにくい」
「……いい読みをしますな。さすが元刑事といったところか」
土井垣が表情を緩める。つられたように沢津も破顔した。すぐさま口元を引
き締め、「つまり、私がここで落ちることはないんだな」と聞き返す。司会進
行の二人から確約をもらい、再度、笑みを覗かせた。単純な喜びというよりも、
むしろ面目を保てたことから来る安堵かもしれない。
「では、ノートから名前の消えた人を発表する。今度は口頭ではなく、あちら
を見ていただこう」
土井垣の示した先には、無地の可動式ボードがあった。新滝愛が横手に着き、
ボードを押して百八十度回転させる。そこには、様々な筆跡で参加者達の名前
が記してあった。ノートの中身を拡大コピーしたものらしい。
若島リオ 郷野美千留 郷野美千留 郷野美千留 郷野美千留 郷野美千留
沢津英彦 沢津英彦 沢津英彦 沢津英彦 野呂勝平 野呂勝平 律本春香
郷野美千留 村園輝 郷野美千留 村園輝 小野塚慶子 沢津英彦 沢津英彦
堀田礼治 堀田礼治 更衣京四郎 小野塚慶子 郷野美千留 沢津英彦 堀田
礼治 沢津英彦 沢津英彦 村園輝 沢津英彦 美月安佐奈 美月安佐奈 沢
津英彦 村園輝 天海誠
「ご自分の名があるかどうか、確かめるように」
司会に言われなくとも、運命の定まっていない十名の参加者らは、身体を捻
ってボードの方へ向き、身を乗り出す風にした。程なくして、「あった」「よ
かった」といった声が上がり、うんうんとうなずく姿が見られる。総じて、大
人しい反応だ。この程度のことで騒いでは、名探偵らしくないと考えているの
かもしれない。
「ない、ないわっ」
八重谷さくらが裏返った声で言った。顔色がよくない。表情は笑う形を取り
つつも、強張っている。髪の下のこめかみには、青筋が立っていそう。
「そのようですね、八重谷さん。他の全員の名前があれば、あなたがこの関門
での脱落者となります」
どこか楽しそうに土井垣が告げた。彼を睨みつけた八重谷は、すぐさまボー
ドに視線を戻す。その呟きから、他の名前をチェックしているのだと分かる。
「いかがです?」
「……」
返事なし。八重谷は唇を噛み締めていた。が、やがて皆の目に気付いたか、
「こ、こんな、実力と関係ないテーマで落とされても、全く痛くも痒くも」
などと口走る。
土井垣は場を静かにさせてから、新滝に目配せした。
「それでは、正式な確認のため、きちんと印を付けていきます」
新滝はペンを持つと、まず若島リオの名を楕円で囲った。続いて郷野、沢津、
野呂と順調に印を付けていったが、その次の名前で止まった。
「五番目は律木さん……と思ったら、何だか変ですよ、これ」
二文字目を指差す。全員の意識が向く。特に八重谷と律木は、何事かとボー
ドの近くまで寄って来た。
「『木』じゃなくて、『本』だわ!」
真っ先に声に出したのは八重谷。律木が「え?」と目をぱちくりさせる。
元々ノートにあった“律木春香”の文字、その二番目に小さく横棒が付け加
えられていた。
「偶然、誰かのペン先が触れたんでしょうかね」
「まさか。ドラマでそんな筋書きを書いたら怒られちまう。現実でも、ここま
でのアンラッキーはあり得ない!」
第三者然とした囁きが聞かれる中、律木と八重谷は司会者二人に対し向き直
った。
「これはどうなるの?」
「僕から説明を」
土井垣が応じたが、やけにおかしそうにしている。笑いを堪えているようだ。
「まず、この『本』の横棒だが、これは決して偶然ではない。誰がやったかを
明かすのは、この場ではできないが、立ち会い人として断言する」
「で、でも」
不安が現実となるのを感じ取ったらしい律木が、一歩詰め寄り、早口で抗議
する。
「こんなの、名前を消したことには……」
「いや。誤字を含む名前に書き換えたのだから、無効に、つまり消したことに
なる」
「ルールはどうなります? 消していいのは一回につき一人ですわよね」
「その通り。そして僕は、誰もルールを破らなかったことを知っています」
「どういう意味ですか」
「あなたの名前を単純に消す代わりに、このように横棒をきゅっと引いた、そ
れだけの話です」
「――『そんなのありかよ! 聞いてないっ』」
どちらかといえば大人しい外見の律木が、急に声を張り上げ、しかも乱暴な
台詞を吐いた。スタジオ内に緊張が走る。
周りの人間の反応に満足したのか、律木はふーっと息をつき、声のトーンを
元に戻した。
「……とわめき散らしたい気分ですけど、やめておきますわ。仮にも名探偵候
補に選ばれたのだから、引き際も潔くありたいと思います」
肩を落とす律木の横で、八重谷が小首を傾げた。状況を把握しきれないでい
るようだ。
「えっと。要するに、名前がなかったのは、私と彼女だけで、こういったケー
スでは、運のよい方が脱落するんだったわね。私は十番目で、律木さん、あな
たは……?」
「九番目よ。おめでとう」
敗者は立場をよく理解していた。
参考までに、一巡目終了時に収録された、各人のインタビュー内容を掲げて
おくとしよう。それぞれの行動によって、名前のリストがノート上でどのよう
に変化したかも、併記しておく(名前のあとの数字は、その時点で記入された
名前の数。数字がないものは、その名前が一つだけ書かれていることを示す)。
最初の状態は、次のように表される。
若島リオ 沢津英彦 野呂勝平 八重谷さくら 律木春香 天海誠 村園輝
小野塚慶子 美月安佐奈 堀田礼治 更衣京四郎 郷野美千留
以下、十二名の行動とその結果を列挙していく。
若島リオ2 沢津英彦 野呂勝平 八重谷さくら0 律木春香 天海誠 村園
輝 小野塚慶子 美月安佐奈 堀田礼治 更衣京四郎 郷野美千留2
若島「仮に名前のなくなった人がいなくて、自分と郷野さんが同数でも、運の
いい人が負けになる。八重谷さんを消したのは、面と向かってだと文句言いに
くいから」
若島リオ2 沢津英彦2 野呂勝平 八重谷さくら0 律木春香 天海誠 村
園輝 小野塚慶子 美月安佐奈 堀田礼治 更衣京四郎0 郷野美千留3
沢津「お嬢ちゃんの意図を汲んだつもりだ。郷野さんを増やし、自分自身も念
のために増やしておいた。更衣の名を消したのは……そりが合いそうにないか
らだ」
若島リオ2 沢津英彦2 野呂勝平 八重谷さくら 律木春香 天海誠 村園
輝 小野塚慶子 美月安佐奈0 堀田礼治 更衣京四郎 郷野美千留3
野呂「運のよさナンバーワンの郷野さんを落とす可能性を高めたいなら、名前
なしの人を復活させねばならん。だから八重谷さんと更衣さんを書いた。美月
さんを消したのは、彼女が第一関門をトップ通過したからであり、他意はない」
若島リオ 沢津英彦2 野呂勝平 八重谷さくら 律木春香 天海誠 村園輝
小野塚慶子 美月安佐奈0 堀田礼治 更衣京四郎 郷野美千留4
八重谷「私の名を消した人が前の三人にいる訳だから、報復で一番目の名を一
つ消したわ。それとみんな、郷野さんを落としたがってるみたいだから、彼に
一票。もう一名分、書き足せる権利は放棄。違反じゃないでしょ?」
若島リオ 沢津英彦2 野呂勝平 八重谷さくら 律木春香2 天海誠0 村
園輝 小野塚慶子 美月安佐奈0 堀田礼治 更衣京四郎 郷野美千留5
律木「これまでの流れを受けて、郷野さんの数を増やしつつ、名前のない人も
作りたいと思った。美月さんが既に消されていたので、一番の強敵である天海
さんを。あとは、自分がゼロにならないように」
若島リオ 沢津英彦2 野呂勝平 八重谷さくら 律木春香2 天海誠 村園
輝 小野塚慶子 美月安佐奈 堀田礼治 更衣京四郎 郷野美千留4
天海「思惑通り、前半の流れは掴めて嬉しかったですね。しかし、名前なしの
人を出さないようにして、郷野さんを落とす作戦はかなり厳しいと思いました
ので、引っ掻き回すことに決めた次第」
若島リオ 沢津英彦2 野呂勝平 八重谷さくら 律木春香 天海誠 村園輝
2 小野塚慶子 美月安佐奈 堀田礼治 更衣京四郎 郷野美千留4
村園「筆跡から、直前の天海さんの考え方は、朧気に分かった気がしました。
私自身は、実力のある人に残ってもらって、実力で競い合いたいと考えていま
す。十二名の中では律木さんが劣ると感じますので、彼女の名前を一つ消しま
した。書き足す権利を自分にしか行使しなかったのは、なるべく大勢が名前な
しになる可能性を作っておきたかったので」
若島リオ 沢津英彦2 野呂勝平 八重谷さくら 律木春香0 天海誠 村園
輝2 小野塚慶子2 美月安佐奈 堀田礼治 更衣京四郎 郷野美千留5
小野塚「空気を読んで、郷野さんの落ちる可能性も少し高めつつ、作戦を決行
したわ。成功する見込みは……三分七分かしらね」
※ここで小野塚は「律木春香」を「律本春香」とした
若島リオ 沢津英彦3 野呂勝平 八重谷さくら 律木春香0 天海誠0 村
園輝2 小野塚慶子2 美月安佐奈2 堀田礼治 更衣京四郎 郷野美千留5
美月「やはり自身の名前がなくなるのは恐いですから、増やそうと思っていた
んです。すると、郷野さんの名前が五つもあったので、安心して増やせた。も
う一人分は、プロの手腕が恐いので、沢津さんに上乗せを。削除権の方は、更
衣さんを減らしておきたかったんですけれど、彼にはこのあと回るので、無意
味だと思い、前回実質トップの天海さん、悪いんですが、名前を消しました」
若島リオ 沢津英彦4 野呂勝平 八重谷さくら 律木春香0 天海誠0 村
園輝2 小野塚慶子2 美月安佐奈2 堀田礼治2 更衣京四郎 郷野美千留4
堀田「己が枠の外に置かれているのは、気持ちがいいというか悪いというか、
複雑なもんですな。先行した人に倣い、まずはわし自身の名を増やしてと。そ
こから考えて、なるたけ接戦を演出すれば、その二名に集中が起きるのではな
いかと。で、郷野さんを減らし、元刑事さんを増やした」
若島リオ 沢津英彦4 野呂勝平 八重谷さくら0 律木春香0 天海誠0
村園輝2 小野塚慶子2 美月安佐奈2 堀田礼治2 更衣京四郎2 郷野美
千留5
更衣「私に注目した者がほぼ皆無とは、何たる屈辱! ……というのはジョー
クだ。名前のない者を増やす意図で、女流作家に一歩下がってもらうとしよう。
それから私の名を書き、保険の意味で郷野さんも増やしてみた」
若島リオ 沢津英彦5 野呂勝平 八重谷さくら0 律木春香0 天海誠0
村園輝3 小野塚慶子2 美月安佐奈2 堀田礼治2 更衣京四郎2 郷野美
千留4
郷野「名前ゼロの人を増やしたかったんだけれど、ノートを見てびっくり。私
の名前がやけに多いじゃないの。だから減らすことに決めたわ。二回、チャン
スがあるんだから、私の名前をここで一回、次にもう一回減らす行為に、意味
は充分あると思うの。次に、競ってる沢津さんを増やして、それから手強そう
な人の中から、村園さんを増やしてみたわ。彼女を選んだ意味は特になくって、
ほんとは更衣さんを増やしたかったんだけれど、そうしたら彼には誰が名前を
書いたか、丸分かりになっちゃう。今の時点でそれは避けたかったの」
* *
予告:次回の『プロジェクトQ.E.D./TOKIOディテクティブバト
ル』は……。
井筒「前回は途中で姿をくらましてしまって、大変失礼をした。お詫びに、君
達を接待させてもらいたい」
井筒「第三関門のテーマを発表する。それは、基本的技術だ。食事が終わった
ばかりで申し訳ないが、早速その一つ、尾行に取り掛かってもらおう」
「優勝すれば顧客を引き継げるんだから、依頼者の扱い云々はあんまり関係な
い気がする」
「警察との付き合い方、情報の引き出し方なら、俺や沢津さんが有利になるの
にな」
「ワ、ワトソンが十人……」
お楽しみに。
――2ndステージ.終了
#330/369 ●長編
★タイトル (AZA ) 08/08/31 23:59 (445)
お題>すれ違い 1 永山
★内容 08/09/02 00:05 修正 第2版
いや、かまわんよ。別に汚れた訳でも、濡れた訳でもない。
それよりも、君みたいないい若者が、休みの昼からこんな店で一人とは、ど
うしたんだね。さっきから、しきりに出たり入ったりを繰り返しておるが。
ああ、気になっていた。よければ、話してくれないかな。
ん? 待ち合わせ相手と行き違いになったらしい? 何と、それだけのこと
だったとは。いやいや、すまない。君にとっては大事なことだろう。ただ、も
っとドラマチックな理由を期待してしまってね。
行き違いというか、すれ違いになるかな。私にも思い出があるよ。ちょうど
いい暇潰しだと思って、聞いてみる気はあるかい? この雨だ、どうせ相手も、
じきに引き返してくるさ。
うむ、結構。付き合ってくれて感謝するよ。
あのときも、そうだな、最後には今日のように雨が降った。
* *
最初の殺人から三年が経った。
もう充分だ。沼島豊一(ぬしまとよかず)に制裁を加える権利が、私にはある。
この男が当時成人し、かつ三人以上殺していれば、私も警察に出向いて、証
言をしただろう。しかし、沼島は高校生で、手に掛けたのは二人。死刑判決は
望めまい。私が直接、死刑を科すしかないのだ。
三年という時は長かったが、その分、計画を練り、準備をすることができた。
沼島は乾登喜夫(いぬいときお)と帯谷真優子(おびやまゆこ)を、事故に見
せ掛けて殺した。同じ手段を私は執らない。発覚を避けるには、事故死か自殺
を偽装するのが一番だとは理解している。しかし、私は沼島を惨殺しなければ
気が済まない。加えて、事故死や自殺に見せ掛けては、沼島の悪事を白日の下
にさらせないではないか。罪を悔いての自殺なんてシナリオは、以ての外だ。
神と悪魔に裁かれたような死。それこそが、沼島豊一にふさわしい。
私と沼島のつながりは、謎求会というミステリ同好会に属していることのみ
にある。
会の恒例行事となっている夏合宿に、沼島は今年も参加の表明をしていた。
この合宿で会員仲間を二年続けて殺しておいて、よくもぬけぬけと。その図太
さには呆れるばかりだが、そもそも、三年前の三月末、沼島が謎求会に入会し
たがために、事件は起きたと言える。
高校二年生の沼島は、過剰なまでに自信に満ちた男で、この年頃にありがち
な悩みの欠片すら抱えていなかった――それが彼を見た私の第一印象である。
実際、これは間違っておらず、年上の帯谷に早速モーションを掛けていた。だ
が、既に彼氏のいた帯谷は、相手にしなかった。いや、この高校生を慮って、
きつい言い方にならないようにしつつ、固辞を続けていた。
ところが、自信家の沼島は――周囲の人間は知るよしもなかったが――、帯
谷が誘いを断るのは、彼氏に遠慮しているためだと解釈した。帯谷の彼氏、乾
を排除すれば、帯谷は気兼ねなく我が胸に飛び込んでくると信じたのである。
だから、沼島は乾を橋から突き落とし、殺害した……らしい。
残念ながら、この件に関しては推測の域を出ない。帯谷の場合と違い、私が
直に目撃した訳ではないからだ。だが、ほぼ間違いないと見なしている。何故
ならば、沼島は帯谷を同じ橋から同じように墜死させたのだ。しかも、乾の死
んだ日からちょうど一年後に(そのために、帯谷は乾のあとを追って自殺した
とすら考えられている。遺書がないので、最終的な判断は下っていないが)。
二泊三日の夏合宿は、八月中の週末を利して、謎求会会長の萩原行長(はぎ
わらゆきなが)が所有する別荘で行われる。昨年は、二年続けて死者を出して
いたため自粛し、場所を都内に移して日帰りで済ませたが、それ以外はずっと
会長の別荘が定番となっていた。
ゲームソフトメーカー社長のミステリ趣味が高じて建てただけあって、それ
は別荘よりも館と呼ぶ方が似つかわしい、二階建ての洋館である。当人は、で
きれば古城風にしたかったと常々言っているが、私の目には充分に広く、大き
い“城”に映る。そう、殺人事件が起きるのにふさわしい舞台。
館で殺人を起こすことに、持ち主の会長にはすまない気持ちもあるが、心中
で許しを請うほかない。他の場所を殺人の舞台にすることも考えなくはなかっ
たが、私と沼島が継続的に接近していられるのは、合宿の機会をおいて他にな
い。それに、ほぼ毎年通う内に、よいトリックを思い付いたというのもある。
会長の別荘でなければ実行不可能という訳ではないが、会長の別荘でなら失敗
しない自信がある。何故なら、会で行うゲームとして、いつか皆にお披露目し
てやろうと、密かにリハーサルを重ねていたからだ。
さて、余計な能書きはここまでとしよう。このメモは、万が一にも私が沼島
を殺し損ねたとき、あいつが帯谷と乾の命を奪ったと示唆するために書き残す
ものなのだから、計画の詳細をだらだらと綴っても仕方がない。
黙祷の時間が過ぎると、食堂はどこかほっとしたような空気に包まれた。
萩原会長が、このあとはミステリ談義に花を咲かせよう、それが二人の供養
になると信じて云々と締めの言葉を述べることで、安堵した雰囲気はいよいよ
広がる。そして夕食が始まった。
気持ちの片隅に引っ掛かる物やいたたまれない物が多少あっても、とりあえ
ず肩の荷を下ろせた――メンバーのほとんどは、これが正直な気持ちだったろ
う。
今年の謎求会夏合宿に集まったのは、会長と沼島の他には、七名を数える。
・沼島の高校時代の恩師で、彼をこの会に誘った泉田東次郎(せんだとうじろ
う)
・会長の旧友で主婦の松岡俊美(まつおかとしみ)
・推理小説研究家の鷲巣重蔵(わしずじゅうぞう)は隠居老人で、年長者
・吉倉志保美(よしくらしほみ)は舞台俳優だが、ミステリ劇に出演し、ゲー
ムの声優を務めたのが縁で、萩原会長と親交を持つように
・会長の掛かり付け医、江ノ本竜彦(えのもとたつひこ)は、会長のミステリ
好きを呼び覚まし、会誕生のきっかけを作った
・秋塚丈治(あきづかじょうじ)は平凡なサラリーマンを自称するが、古書コ
レクターとして一目置かれる
そして私、月影満(つきかげみつる)、推理作家の卵だ。この名前はペンネ
ームだが、皆と初めて顔を合わせて以来、月影で通している。
無論、メンバーではない者も数名、館にいる。館の管理人である合田(ごう
だ)夫妻に、メイドが一人。萩原会長の秘書、小村麗奈(こむられいな)は、
仕事上の連絡係として同行していた。
総勢十三。不吉だとか縁起が悪いだとかは、一切感じない。じきに一人が消
え、十二人になるのだから。
「調子はどうです、月影さん?」
隣に座った泉田はそう尋ねてから、湯飲みの茶を何度も吹いた。猫背気味の
彼が猫舌とは、よくできている。痩身だからか、口をすぼめて目を細める様が、
やけに神経質そうに映った。
私は例年通りの質問に苦笑を浮かべてみせ、皆にも聞こえるように声をやや
大きくした。
「十月末締め切りの賞に向けて、トリック重視のを書いています。あと、少し
方向転換して、来年一月末締め切りの賞をターゲットに、職業物とでも言うの
ですかね、専門色の濃いミステリを」
「二作、並行して書いて、大丈夫ですか」
「実際に執筆しているのは、締め切りが近い方だけですよ。一月末の方は、プ
ロットを詰めている段階」
「一本に集中した方がいいと思いますけどね。落選を繰り返しているんだから」
泉田を挟んで私と反対側に座る沼島が、批判的にはっきりと言った。毎度の
ことなので、気にならない。私が三ヶ月に一度、会のためにこしらえる犯人当
て小説でも、不正解になると何やかやといちゃもんを付けてくるのだ。
「いっそ、君が挑戦したら?」
向かいに座る吉倉が、箸を沼島に向ける。仕種だけでなく、声にも半ばから
かうような響きがある。自他共に認める“個性的な美人”で、嫌な感じはあま
りない。
「僕は――」
答えようとする沼島を遮り、鷲巣が声を張る。声は元気だが、肌の色つやは
あまりよくない。健康そのものだったのが、ここ二年ほどで老け込んだように
見えた。年相応とすべきかもしれない。
「沼島君、君は宣言して賞に投稿するタイプではないな。周囲の人間には秘密
で、黙って投稿し、首尾よく行けば口外し、自慢する。賞に投稿する気があろ
うがなかろうが、皆の前では『いえいえ、僕なんて』と答えるだろうよ」
「――よくお分かりで」
一瞬、笑顔を引き攣らせたようだが、すぐに修復する沼島。
「できることなら、この夏合宿までに成果を上げて、皆さんに報告したかった
のですがね。学生生活に忙しく、手が回らなかったもので」
「言うからには、腹案があるのだろう? どんなトリックを使うつもりだい?」
銀縁の眼鏡をくいと押し上げ、興味津々、江ノ本医師が聞く。こんな質問を
するが、トリック偏重の読者ではなく、ストーリーはストーリーで楽しみ、ト
リックを珍重するタイプである。私も同じだ。
「喋れるようなものはないですよ。まあ、分類だけ言うと、密室とかアリバイ
工作とかいった、トリックを用いたことを疑われるような手段は、現実的でな
いから使いたくないかな。読む分には好きでも、書くとなると何だか馬鹿らし
くて」
「手厳しいな」
私は一言だけ応じ、苦笑を浮かべてみせた。感情を偽りのそれとすり替える
のにも、ここ二年ほどで慣れた。
「あんまり、きついことを言うものじゃないわよ」
松岡が会話を引き継いでくれた。丸顔でころころ笑っているが、いつもに比
べて化粧がおとなしめなのは、やはり哀悼の気持ちの表れであろう。
「沼島君も月影さんの犯人当て、楽しんでるくせに。毎回、完璧な正解を出せ
るようになってから、大口を叩きなさい」
「やれやれ。ここは大人の皆さんの忠告に従うとしましょう。でも、ま、近々、
出題者の立場になってもいいかなと考えてましてね。締め切りが近付いたら、
月影さんも執筆に集中したいでしょう。その間、僕が代理を引き受ける訳です」
「……悪くない話だね」
当たり障りのない返事を心掛ける。いや、ここは「じゃあ、次回は沼島君に
頼むよ」と言っておくべきか? 彼に対して殺意のなかったことをアピールす
る意味で。
そんなことを斟酌していると、会長が先に口を開いた。
「謎は多ければ多いほどいい。可能であれば、お二人に犯人当てを書いてもら
い、どちらの正解率が低いか、あるいはどちらが犯人当てとして優れているか
を競うのも、なかなか面白いのではないかな」
「私は量より質ですね。あ、別に月影さん達の犯人当て小説を悪く言ってるん
じゃないですよ。今の会長の発言に対して、ですから」
黙っていた秋塚が、不意に発言した。ために、自然と皆の注目を浴びる格好
となった。目をしばたたかせ、ごま塩頭を振る。続けて何か言わねばと感じた
のだろう、唾を飲み込んだ。のど仏が動くのがよく分かった。
「ああっと、ついでに今回の合宿での懸賞品を発表させていただきましょう」
合宿で行う犯人当て小説には、懸賞を付ける。購入費は会費から出すが、懸
賞品を用意するのは、多くの場合、秋塚の役目である。彼に任せれば、ミステ
リ関連の珍しい書籍やグッズを、比較的安く手に入れることができる。目利き
も確かだ。
「発表するのはいいが、披露はテーブルの上を片付けてからにしてくださいよ。
下手をして汚しては勿体ない」
会長の忠告に、笑いが起きた。
合宿全体の流れは、明るく和やかなものと決定した。
夕食は午後八時で終わり、しばらく自由に過ごすことになる。
私は計画の最終チェックをするため、そして下準備のため、早々に個室に向
かおうとした。逸るのはあくまで気持ちだけ、実際の態度や足取りは余裕ある
ものに努めた。急ぎすぎて何事かと注目されてはまずい。
廊下まで出て、いくつかの部屋を通り過ぎた。そこへ。
「月影さん」
沼島が後ろから声を掛けてきた。
多少びくりとするが、平静を装って応じる。さっきの議論の続きでもしたいの
だろうか。
「何かな」
振り向くと、沼島は自身の部屋の前で、ジャケットの懐に右手を入れ、ごそ
ごそやっている。程なくして、財布が出て来た。
「前の例会で借りてた金」
「ああ」
謎求会は月一ペースで例会を開いている。先月、珍しく沼島が参加したのだ。
この合宿の段取りを直接聞いておきたいとの意図だったらしく、ついでに参加
費を持って来ていた。が、何をどう勘違いしたのか、千円不足していたのだ。
一番親しい泉田は不参加で、借りる当てのない沼島に、私が千円を貸した。二
人の間に険悪なものはありませんよと、アピールするため。
「利子なしの代わりに、ピン札で」
どうでもいいことを言うくらいなら、礼の一言でも付け加えたらどうだ。ち
ょっとしたことで、沼島に関してはいらいらを覚える。
「確かに」
と、受け取った瞬間、相手がしかめっ面をした。同時に舌打ちも。何事かと
思い、その表情を見つめる。
「あ、いや、こっちのこと。ピン札のせいで、切れました」
沼島が右手を広げ、こちらに見せる。人差し指の中程と親指の付け根付近に、
赤い筋ができていた。見る見る内に、血が滲む。
「こりゃ意外とひどいな。家政婦さんに言って、絆創膏を」
「平気っすよ。嘗めてりゃ、その内」
あとの言葉がないのは、本当に傷口を嘗めたため。
「じゃ、またあとで」
どことなく気取った身振りで言うと、沼島は宛がわれた個室に入って行った。
夜十時過ぎ、大きなハプニングの発生が明るみに出た。
夕食後は各人自由行動で、たいていの者は風呂をもらう等して過ごす。その
あと、十時に再び集まり、酒をやりながらミステリの話に興じるのがお決まり
のパターンだったのだが……一人、顔を見せないメンバーがいた。
家政婦を兼ねる管理人夫婦の妻、合田政子(まさこ)が大広間に来て、萩原
会長に報告する。
「鷲巣さんの部屋を見て来ましたが、おられません。ノックに反応がなくて、
仕方なく、失礼をしてドアを開けたのですが……」
「ふむ。再集合の時刻を忘れるとは考えられんし、いくら気心の知れた集まり
とはいえ、鍵を掛けずに部屋を空けるのはおかしい。隅々まで見たのか? た
とえば、眠り込んでベッドから落ちたが、影になって見えなかったとか」
「いいえ、そこまでは」
小柄な身体を縮める合田政子。使用人の立場としては、遠慮せざるを得ない
ということだろう。会長もその心情を理解したらしく、自ら腰を上げた。
「しょうがない。私が見て来よう。――皆さんは先に初めてください」
「ああ、私も着いていくよ」
と、江ノ本医師。無精髭を気にする風に顎を撫で、よっこらしょと立ち上が
る。
「万が一、急病や頭を打って気絶なんてことであれば、処置が早い方がよい。
それに」
ドアの方へ、会長を追いながら、江ノ本は不意に冗談めかした。
「ミステリではこのような場合、複数で行動するべきだろう」
「それならいっそ、全員で団体行動と行きませんか」
沼島が真に受けたのか、冗談に乗ったのか、そんな提案をした。が、同調す
る者は現れなかった。
会長らが出て行ってから数分後、我々が遅いなと口々に言いだした頃に、萩
原会長だけが、駆け足で戻って来た。その様子に、緊張感が走る。広間に残っ
ていた面々が注目する中、会長は息を整えて説明を始めた。
「皆さん、落ち着いて聞いてほしい。鷲巣さんは、部屋で亡くなっていた。し
かも、他殺の可能性がある」
江ノ本の姿がないのは、蘇生を試みて手や衣服が汚れたため、着替え等をし
ているんだという。
「どんな様子だったのか気になりますが、今は警察への通報が先決でしょうね。
会長、もう済ませたので?」
落ち着いた声で、秋塚が言った。だが、慣れっこになったのではない。その
証拠に、顔が青ざめている。
「ああ、そのつもりだったんだが」
口ごもる会長。私には理由が分かっていた。自由時間を利して、電話の大元
を壊し、使用不能にしたのは私なのだ。会長の話では、故障なのか、それとも
意図的な破壊なのかの判断はできていないようだ。
それにしても……私は困惑していた。通報を遅らせるのは、計画通り。しか
し、鷲巣を殺したのは私ではないのだ。
電話が使えないことを知らされたメンバーは――おかしな表現かもしれない
が――色めきだった感があった。人里離れた館で、他殺とみられる遺体が見付
かり、電話が不通。これに興奮するのは、ミステリマニアの性であろう。
「それじゃあ、誰かが町まで行って、いや、町まで行かなくても、電話のある
家に飛び込んで、通報させてもらう、ことに」
泉田の発言は、途中まで早口で捲し立て、やがて相手の反応を窺う風に、途
切れがちになった。
我々は会長所有のマイクロバスに乗って、駅からここまで送られた。ガレー
ジには他にも普通乗用車が一台ある。通報を遅らせるために、私はそれぞれの
車両のタイヤ全てを切り裂いておいた。この館にスペアタイヤが四本あるとは
思えない。
「小村君に命じたんだが、ガレージまで行って、すぐに引き返してきた」
会長の説明が続く間、私は鷲津の死についてのみ、考えていた。
ひとまず、他殺であるとする。誰がやったのかも気になるが、この突発事を
受け、私はどうすべきかを決めねばならない。計画通りに沼島を殺害するか否
か。
もし仮に、沼島が犯人だとすれば、奴は都合三名を手に掛けたことになる。
一連の犯行ではないかもしれないが、三人の命を奪ったとなると、死刑判決の
可能性が出て来るのだろうか。内二件が未成年時の犯行でも。
そうする内に、江ノ本医師が戻っていた。この場の話題は、いかにして通報
するかがまだ続いている。
「一番近い人家まで、徒歩でどのくらい掛かります?」
吉倉が会長に尋ねる。実際に彼女が歩くことはなさそうだが。
「別荘地という訳ではないからね。むしろ、ミステリらしい雰囲気を味わえる
よう、周りに他の家がない土地を選んだんだ。そもそも、どの方向に家がある
か、把握していない。となると、必然的に町までの道を下っていくことになる
が、アップダウンもあるし、さて……」
「歩くにしても、夜は危ないですよ」
沼島が言った。表情を盗み見たが、いつもと違いは読み取れない。口調にし
ても平時と同じだ。
「明日、明るくなってからでいいでしょう。それまでの時間を、現場検証に当
てたらいいと思うな」
「現場保存ではないのかね」
泉田が微かに目を剥き、咎める。この辺は教師だなと思わされる。対する沼
島は前髪を手で払い上げると、、分かってるんでしょ?とでも言いたげに、に
やりとした。
「保存はしますよ。でも、放っておいたら、消えてしまう証拠もあるかもしれ
ない。それをチェックする意味で、現場検証は必要なんじゃないかなあってこ
とです」
泉田は首を左右に振り、判断は任せますとばかり、萩原会長の方を向いて嘆
息した。
「確かに、検証は必要だと思う。すでに江ノ本先生が遺体を動かしたこともあ
るし、現場の様子を細かく写真に撮っておけば、多少触っても大丈夫だろう。
もちろん、手袋を填めてだが」
「じゃあ、決まりってことで」
「待ちなさい」
移動を始めようとする沼島を、萩原会長はいつになく鋭い声で止めた。
「部屋のサイズは分かっているだろう。全員で見るのは無理だ。それに、君に
は聞きたいことがある」
「何です、会長?」
聞き返された会長は、江ノ本医師を見やった。話し手交代だ。
「鷲巣さんの刺殺体は、クローゼットの中に押し込まれていた。足を抱えて、
座り込む格好でね。扉がほんの少し、開いていたおかげで気付いたんだ。それ
はさておき、クローゼットの内側には、遺体の他にも証拠となりそうな物があ
った。まず、凶器が胸に刺さったままだった。抜いてはいないが、果物ナイフ
だ。恐らく、この別荘に元からあった物だと思うが、あとで確認を願う」
「それが僕と関係あるんですか」
沼島が苛立ちを露わに、声高に聞いた。
「ここからが本論だ。鷲巣さんは血文字を遺しておった。平仮名で『ぬしま』
とな」
「ば……」
声が途切れ、口をぱくぱくさせるだけの沼島。馬鹿々々しいとでも言おうと
したんだろうが、言葉にならないとみえる。
ただ、驚いたのは私も一緒である。沼島が鷲巣を殺したのか? 犯人の名前
を直接書くダイイングメッセージなんて、ミステリの中ではなかなかお目に掛
かれない。犯人に気付かれて隠滅される恐れがあるからだ。だからこそ、死の
間際に被害者は驚くべき知恵を絞り出し、摩訶不思議な伝言を遺す。
逆に、あからさまなまでに分かり易いダイイングメッセージは、真犯人によ
る偽装というのが相場だ。
「クローゼットの中に押し込められた段階で、鷲巣さんは息があった。最後の
力を振り絞り、犯人の名を書き、息絶える。犯人はそんなことには気付かない。
クローゼットの扉を閉めたあとだから。と、こんな解釈ができる」
「その血文字を見せてほしい」
江ノ本による疑惑の提示に、沼島が当然の要求をした。
家政婦やメイドによって、凶器に使われた果物ナイフは、この別荘の台所に
あった物と確かめられた。台所は出入り自由、使用人が常駐している訳でもな
いので、誰にでも持ち出せたとの判断が示された。また、果物ナイフ一本に注
意を払う人間はおらず、いつの時点でなくなったのか、不明であった。
血文字は、沼島以外のメンバーも目にして、どのように読めるかの検証がな
された。とは言え、どこからどう見ても「ぬしま」としか読めないのは、明々
白々であった。広くないクローゼットの中、天地を逆にする等の試行錯誤は全
く不要である。そうすると、残る検討課題は、これが偽装である可能性だ。
私の感覚では、殺人だとするなら、沼島らしくないやり口だというのが第一
印象だ。二度も事故死に見せ掛けることに成功した奴が、三度目はあからさま
な他殺を行うとは、考えづらい。よって、血文字は真犯人の偽装だと判断する。
が、この推理を披露する訳にはいかない。沼島が過去に二人を死に追いやっ
た――少なくとも一人については私が証人だ――という“告発”を、現時点で
してしまうのは、計画の頓挫を意味する。彼には残酷な死を与えねばならない。
であれば、鷲巣殺しの真犯人の意図に乗っかり、沼島を殺人犯に仕立て上げ
る方がよい。成人した今なら、沼島を死刑に追い込む道が開ける。ただ、遺体
があと二つほど足りないが。
次の刹那、私の脳裏に閃いたのは、あと二人、誰でもいいから殺害して、そ
の罪を沼島に擦り付けることだった。無差別に三人を殺したとなると、死刑は
免れまい。身に覚えのない汚名を被って死刑になるなんて、沼島の奴にこそふ
さわしい。無論、問題は多い。流石に、二度も三度もダイイングメッセージを
用いるのは無理だろうから、他の方法で沼島を犯人であるように装う必要があ
る。それに、あいつを死に追いやるために、無関係な犠牲者二人を新たに出す
のは、本末転倒である。その程度の理性と冷静さなら、まだ持ち合わせている。
思い付きを私は捨てた。
「鷲巣さんが、いつ亡くなったかの見当が付けば、手掛かりになるのに」
吉倉の呟きに、医者の江ノ本がすぐさま反応する。
「専門ではないが、おおよそは分かるぞ。さほど意味がないから、口に出さな
かっただけでな」
「何だって? 言ってくれよ!」
噛み付くような乱暴な口ぶりで、沼島が江ノ本を睨む、追い詰められた心地
なのだろう。
「午後八時から十時までの二時間だよ」
医者の返答に、多くの者が息をついた。会長が首肯しつつ、口を開く。
「要するに、自由行動の間ってことか。そりゃあ、手掛かりになりそうにない。
沼島君、アリバイ証明できるかね?」
「無理。食後すぐ、月影さんと立ち話をしたけど、すぐに終わった。あとは八
時十分から二十分間ぐらい、泉田先生と部屋で、近況報告みたいなもんを。そ
れ以外は一人だった」
「犯行には十分も要さないと推測できるから、アリバイ不成立か。ついでに、
みんなにも聞きたい。八時から十時まで、常に複数で行動していた、あるいは
他の形でもいいからアリバイの証明をできる人が、この中にいるかな?」
誰もいなかった。
女性二人がそれぞれ、入浴と身支度に二時間のほとんど全てを注ぎ込んだと
主張したが、主張が事実であっても、犯行所用時間が約十分と推測されるため、
アリバイは認められなかった。
「生きている鷲巣さんを最後に見た人は? 犯人を除いて、だが」
犯行時刻を少しでも絞り込もうと、私は言ってみた。皆、思い出す風に視線
を走らせたり、首を傾げたりする。ほんの三時間ほど前のことなのに、なかな
かはっきりしない。
「八時過ぎに、食堂を出て行ったようだが」
「そのあとは、自室にいたんじゃないかしら? 全然見掛けなかったから」
「風呂に入った形跡はなかった?」
「衣服は、食事のときと変わっていない」
結局、八時過ぎに食堂を去る姿が最後だったようだ。
「部屋に籠もって、何をしていたんだろう」
疑問を呈する泉田に、会長が即答した。
「例年、鷲巣さんはこんな感じだったよ。研究の成果を少しずつまとめるのを
日課にしていたから、一人になれる時間があれば、書いていた」
そう。私と違って、どこに応募するでもなく、公表するつもりがあるのかど
うかさえ分からないが、とにかく根気よく続けていた。あれは一種の執念と言
えた。三年前の合宿時なぞ、彼の個室だけ冷房が故障したのだが、それにもし
ばらく気付かず、窓を開け放って執筆を続けていたくらいだ。
「もしかして、犯人の目的は、研究成果の奪取?」
全員を見回し、吉倉が言った。
「なるほど、今度は動機から攻めると。しかし……」
会長は江ノ本医師と目を合わせた。互いに頷き、再び会長が喋り出す。
「鷲巣さんの原稿は、手付かずであったと思う。全部ではなく、部分的に数枚
が消えたんであれば話は別だが、多分、原稿は無事だ。異論のある者は言って
ほしい」
「鷲巣さんの原稿の全内容を、誰も把握してはいないんだから、そんな議論は
無意味ですよ。新しく書き上げた分を持ち去られたら、気付きようがない」
無駄と感じた私は、ばっさりと切り捨てさせてもらった。早く、他の動機を
探りたい。
「うむ。そもそも、推理小説の研究がたとえどんなに貴重な内容でも、殺人の
動機たり得るとは考えづらい。別の動機があるとすべきだ」
「でも、この中に、鷲巣さんを殺したいと思ってる人がいるなんて……」
松岡が震える声で言う。顔色も悪い。遺体を目にして以降、気分がすぐれな
いようだ。
「だが、外部からの侵入者が殺したというのは、まずあり得ない。そいつが偽
装工作するのに、『ぬしま』と書けるはずがないのだから」
「ですね。会長の名前なら、表札を見たとも考えられますが」
相槌を打っておく。盗み聞きの可能性もわずかながらあるが、言い出すと際
限がなくなりそうなのでやめた。今は動機だ。
「最近の例会で、鷲巣さんと険悪になるほど激論を闘わせた人って、いました
っけ」
「うーん……議論の白熱はありましたけれども」
秋塚が頭を掻きながら、思い出す風に応じる。
「それは毎度のこと。いちいち殺意を抱いていたら、命がいくつあっても足り
ないってやつになるかと」
「第一容疑者にも発言権はある?」
沼島が軽く挙手。会長は黙って顔を向け、発言を促した。
「最近じゃなく昔だけど、月影さんの書いてきた習作を、全員で回し読みした
ことがあった。あのとき、鷲巣さんにトリックが古典作品の物と同じだと指摘
されたっけね」
「覚えている。それが何か」
言いたいことは即座に察したが、話を聞いてやろう。殺意を持続する燃料の
足しになる。
「自信があったのに、そんな指摘をされては、面目丸潰れで、悔しかったんじ
ゃないですか? 言ってみれば、恥を掻かされた訳だ。殺意に育つかもしれな
い」
「私はそうならなかったとだけ答えておく」
舌打ちが聞こえた。煽るつもりが、当てが外れて悔しいのは分かる。しかし、
これほど感情を露わにするとは、普段の俊敏さが影を潜めている。沼島が鷲巣
殺害の犯人ではない証か?
「動機のことだが、こうは考えられないかね?」
江ノ本医師が穏やかな調子で言い、悪くなった雰囲気をいくらか回復する。
「何かしらの悪事を働こうとしていた犯人が、鷲巣さんに見付かり、口封じの
ために殺害した。台所から果物ナイフを取ってくるという時差が、ちょっとお
かしいが、詰め寄る鷲巣さんを宥め、話し合いを持ち掛けることで時間を作っ
たのかもしれない」
「そういう動機なら、納得はできるが、誰にでも当てはまるという点では、あ
まり意味がない……」
会長が率直な意見を述べる。
「それに、先生の仮説が当たりだとしたら、犯人はまだ本来の目的を達成して
いない訳だ。事件が続くとしたら、これほど恐ろしいことはない」
「次の事件待ちなんて、連続殺人を全員死ぬまで防げない自称名探偵じゃある
まいし」
沼島が口の端を曲げ、揶揄した。踏み止まって、調子を取り戻しつつある。
「今の我々にできること、いや、一番優先すべきことは、自己防衛でしょう。
このあと嫌でも睡眠を取るが、次の事件を起こさせない、犠牲にならないため
に、個室に入ったら戸締まりを厳重にし、誰が訪ねて来ても入れないようにす
る。夜が明けるまでは、これを徹底してもらいます。死者が出るのは、もう御
免だ」
それは萩原会長の決意表明のように聞こえた。
――続く
#331/369 ●長編 *** コメント #330 ***
★タイトル (AZA ) 08/09/01 00:00 (316)
お題>すれ違い 2 永山
★内容
初日から二日目にかけての夜は、静かに更けた……と私には感じられた。
私自身の計画では、元々、この夜の内に沼島の命を奪うつもりであったのだ
が、鷲巣殺しの様相がよく掴めないままでは、行動に移すことは自重するしか
なかった。強行しても、沼島が部屋の鍵を開けるとは考えにくい。もし今回の
滞在中に決行するなら、夜は難しくなった。
浅く短い眠りを繰り返す内に、朝を迎えた。七時三十分。確かめてから、腕
時計を填める。カーテンを開けると、自然の緑は素晴らしいが、今にも降り出
しそうな曇天であった。空気がぶつかり合い、渦巻く様を想像させる音が、耳
に届く。着替えその他を済ませ、広間に出向いてみた。
すると三、四名が集まって、何やら相談をしていた。警察へ通報するため、
徒歩で下山する役目を誰が担うかで、話し合いを始めたところらしい。
「誰にしろ、一人で行かせるのは反対だ。そいつが殺人犯だった場合、そのま
ま逃走を許すことになりかねない」
「その理屈だと、二人でも無理ね。殺人犯と二人旅なんて、ぞっとしないわ」
「じゃあ、少なくとも三名を選抜することになるか。体力的に問題のない者と
なると、自ずと絞られてくるようだが」
徐々にまとまりつつあるところへ、萩原会長が現れ、改めて最初から話を聞
いた。
「なるほど。私としては、合田に行かせるつもりだったが、彼が犯人でないと
は言い切れぬからには、確かにあと二人を選ぶ必要がある」
会長の言う合田は当然、男の方だ。
候補からは、まず女性を外さざるを得まい。体力的に難がある、山歩きに適
した靴がないといった問題以前に、もしも選抜した三人の中に犯人がいて、他
の二人ともみ合いになった場合、(女性が犯人でないという前提で)非力な女
性では足手まといになりかねない。
――殺人計画を胸に秘め、ここへ乗り込んだ私が、こんな心配をするおかし
さに気付き、ふと笑いたくなった。
「体力のあるイコール若い、とするなら、沼島君が入ってくるが……」
言いにくそうに語尾を濁す泉田。沼島はこの場にいない。依然、眠りこけて
いるようだ。
「ダイイングメッセージの件があるから、選びづらいということですな」
江ノ本医師があとを引き取った。
「あの血文字を鵜呑みにするのもどうかと思うが、彼を自由にするのは一応、
やめておくべきだ。警察に事情を話すとき、変に受け取られるかもしれん」
「あの、誰が適当かを考えるよりも、とりあえず、立候補を募ってみてはどう
ですか」
秋塚が提案した。今朝は顔色がだいぶましになっている。
「ただし、今ここにいない人達には、三人選ぶことは伏せて聞いてみるんです。
彼らの中に犯人がいるとしたら、真っ先に手を挙げるかもしれませんよ」
「うーん、それはどうでしょうね」
私が疑問を口にしたのと同時に、家政婦の合田が現れ、朝食の準備ができた
ので食堂の方へいらしてください云々と告げた。時計を見ると、八時十五分。
最初に聞かされていたスケジュールより遅れ気味だが、事件があったことを思
えば、よくやっていると言える。
「いないのは……松岡さんと沼島君か。小村君、仕事ではないのにすまんが、
呼んできてくれ」
食事の準備に忙しく動き回る使用人二名を目にしたからだろう、会長は秘書
に頼んだ。
「はい」
素直に応じる小村。
「ですが、私の悲鳴が聞こえたら、すぐに駆け付けてください」
真顔で言うが、冗談のようにも聞こえた。
我々謎求会のメンバーは顔を見合わせ、私と泉田が席を立った。最前の話し
合いからの連想で、三人一組で行動するのがよいと思えたのだ。
「私達も一緒に行きますよ」
犯人は秘密の呪文でも使えるのか? そう疑いたくなった。
入念に身支度していた松岡を呼び出したあと、彼女を加えた四人で、沼島の
部屋に向かった。強心臓の持ち主故、熟睡しているに違いない。そう睨んでい
た私は、ドアを乱暴にノックした。
だが、無反応が延々と続き、これは変だとなった。ドアノブに手を掛けると、
簡単に回る。いよいよおかしい。
この瞬間、私は思っていた。まさか、沼島が鷲巣を殺したのか?と。犯人で
あれば、鍵を掛けずに眠るのも理解できなくはない。あのダイイングメッセー
ジは沼島自身の細工で、最も疑わしい人物は犯人ではないという、ミステリマ
ニアの抱きやすい思い込みを逆手に取ったのか。起きてこないのは、酒類を浴
びるように飲んだため……。
しかし、私の推理は、ドアを開け切ったときには瓦解していた。
先を越されたのだ。私は悔しさで唇を噛み締めた。
女性の悲鳴を背後で聞いた。
「意味が分からない」
江ノ本医師が首を捻った。もう何度目になるだろうか。
「沼島君を殺したのが、鷲巣さんを殺した犯人と同一人物だとする。ダイイン
グメッセージで沼島君に罪を擦り付ける小細工をしたのに、今度はその彼を殺
してしまうとは……全くもって、意味が分からん」
沼島はベッド脇に倒れ込んで、死んでいた。江ノ本が診るまでもなく、首に
残る痕跡から、考察と考えられる。凶器は、カーテン留めの紐らしい。沼島の
部屋の物を二本結び合わせて使い、そのまま放り出してあった。
「自殺……ではないんでしょうね、やはり」
第一発見者の一人となった松岡が、げっそりとした表情で、声を絞り出す。
彼女に応じたのは秋塚だ。
「推理小説の中に限れば、絞め殺されたように見せ掛けて、実は自殺だったと
いうシチュエーションに挑んだ作品が、内外にいくつかあるけれど、私の知る
範囲では、どれも不満の残る出来映えでした。ましてや、沼島君の件に当ては
めるのは無理です」
「他殺であることは、認めなければいけない」
萩原会長が、苦虫を噛み潰したような顔で言う。昨夜の宣言が脆くも破られ、
内心、忸怩たる思いがあるに違いない。
「皆さんに伺いたい。当初、警察に通報することだけを考えていたが、万が一
にも、犯人が更なる殺人――最悪の場合、皆殺しを画策しているかもしれない
現状では、全員揃ってここを離れ、山を下りるのが賢明ではないかと思うのだ
が、どうだろう?」
「全員行動は悪くないが、山を下るとなると、状況が違ってくると思いますね」
私は間髪入れず、発言した。私に先んじた犯人を、自分自身の手で見付けた
い気持ちもあったことを認める。
「これだけの人数で山を下りると、徐々に体力差が出て、絶対にばらけます。
その隙を狙って、犯人が次の殺しを行う恐れがあるんじゃないですか」
会長は唸って、考え込むように腕組みをした。
「他の人は?」
何名かが短く発言したが、概ね、私の意見に賛成だった。
「では、当初の通り、通報のために少人数で山を下り、残りはここで待機とす
る」
そのまま、三名の選出作業に入る。朝食前の話し合いで、秋塚が提案してい
たことは、有耶無耶にされた。
ただ、朝からの惨事に、誰もが食欲に乏しく、歩いて下山するには、気力体
力とも不満足な状態であった。
「皆さんの許しがもらえるんなら、自分が一人で行ってきますが……」
合田が顔色を窺うように、おずおずと場全体に尋ねる。
「かまわないんじゃない? 被害者は会のメンバー二人。管理人とのつながり
は、ここでお世話になってるだけで、恨んだり恨まれたりがあるとは考えにく
いわ」
楽観的な見方を取ったのは吉倉。諸手を挙げて賛成したくなる。天候が崩れ
そうな中、長い道のりをてくてくと歩くのは、ただでさえ辛く、気が重い。
一方で、もしも彼が犯人だったら、という可能性を考えてしまう。ミステリ
マニアの性だろうか。
そんなことをぼんやり考えていると、不意に閃いた。物語の名探偵と違い、
何の伏線も暗示もなく、閃くときは閃くのだなと思った。当たりかどうかは分
からぬが、検討する値打ちは間違いなくある。
「皆さん、聞いてほしいんですが」
会の面々だけでなく、使用人や秘書にも集まってもらう。
「ずっと引っ掛かっていた疑問があります。どうして沼島君は、犯人を部屋に
招き入れたんでしょう? 前夜、鷲巣さんが殺されたのに。しかも、会長が注
意するように念押ししたにも拘わらず」
「そりゃあ、相手を信用していたからじゃないか」
江ノ本医師が即応する。私は頷いた。
「考え方の一つですね。他には?」
「死んだ人を悪く言いたくはないけれど、沼島君自身が鷲巣さん殺しの犯人だ
った、とか」
吉倉が答える。さほど言いにくそうにはしていない。
「ええ、それもあり得る。他にないですか」
しばしの沈黙。が、じきに破られた。
「もしかして、私どものことを?」
メイドの神徳香が、悲鳴のような声で言った。
「はい。厳密さのために、お許しください。あなた方使用人は、我々の宛がわ
れた各部屋の合鍵を、持っているんじゃありませんか?」
「私は持っていません」
ぶるぶると首を左右に振るメイド。
「ベッドメイキングなどのときだけ、お借りする場合はありますが……ああ、
今回の合宿では、ベッドメイキングの機会がまだありません」
「通常、合鍵の管理はどなたが」
使用人達よりも早く質問に応じたのは、萩原会長だった。
「合田、確かおまえだったな」
「その通りで」
言われてから、鍵の束を懐から出してみせる合田。金属の触れ合う音が意外
と響いた。
「信用していた人物だから入れたか、沼島君自身が安心しきっていて鍵を掛け
なかったか、あるいは合鍵を使ったか。沼島君の部屋に犯人が入れるパターン
は、この三つぐらいだと思います。他の可能性を思い付かれた方は、ぜひとも
教えてほしい」
「鍵のすり替えという方法があり得ます。沼島君の部屋の鍵と、犯人自身の鍵
をすり替えるんです」
秋塚が言った。が、次いで自説の否定を始める。
「でも、今回の事件の成り行きを見る限り、鍵のすり替えを行う隙はなかった
でしょう。別荘に到着してから、各自部屋に荷物を置き、食堂に集合。食後に
散会してまた部屋に戻り、午後十時に再び集まる。ここまでで、鍵を何度も使
用することになりますから、すり替えをしてもすぐに発覚します。そして十時
以降は鷲巣さんが遺体で見付かり、議論の後、各部屋に入って就寝しました。
とてもじゃありませんが、鍵をすり替えることは無理だと判断します」
「ありがとう。それでは、先に挙げた三つのパターンのいずれかだとします。
まず、二つ目の沼島君自身が鷲巣さん殺しの犯人であり、安心しきっていたか
らという考え。これって、あり得るでしょうか? 自らの名前をダイイングメ
ッセージにするなんて」
「単純なトリックだけど、実行不可能ということはないと思うわ」
松岡が言った。久々に声を聞いた気がする。
「本当に? 仮にあなたが殺人を行うとして、あなたの名前を書き残せます?」
「……それは……」
口ごもる松岡。期待通りの反応に、私は自然と微笑していた。
「他の人も、考えてみてください。裏を掻いた偽装工作だと頭では理解してい
ても、実行に移すのは困難でしょう。違いますか? 『もしも額面通りに受け
取られたら、どうしよう。現実の事件を捜査するのが名探偵並みの切れ者とは
限らないぞ。短絡思考の平凡な刑事が打担当するかもしれない』――そんな風
に危惧の念を抱き出したら、もうだめです。自分の名前をダイイングメッセー
ジするなんて、絶対にできない」
静かになった。多分、納得しているのだろう。普通の人間なら、納得できる
心理のはずだ。
「分かった。月影さんの推理を認める。少なくとも、沼島君が鷲巣さん殺しの
犯人である可能性は、極めて低いと考えるのは妥当だ」
会長の意見が鶴の一声となった。私は続けた。
「そうすると、容疑者を絞り込めます。沼島君から信用されていた人物か、合
鍵を使える人物か。言い換えると、前者は泉田さんで、後者は管理人の合田さ
んとなる」
「私がか。まあ、高校時代の恩師で、彼を会に誘ったのも私と来れば、信用さ
れていたと見なされても仕方がない」
泉田は端から覚悟していたようで、肩を落としつつも、語気は決して弱くな
ってはいなかった。
名指しされたもう一人、合田の方は、先程からさらに動揺が増している。
「わ、私は鍵を持っているだけで、何をしたというのはありませんよ、はい。
だいたい、信用してる人となったら……こんなことは言いたくないですが、私
の連れ合いやメイドだって、使用人と見なされているのだから、言えばドアぐ
らい開けてくださるんじゃないでしょうか。それに、その……」
口を噤んでしまった合田だが、その両目は萩原会長へと向けられている。ど
うやら、会長なら会員の信頼を得ているはずだと主張したいらしい。
「悪いが、合田さん。昨夜、最初の事件が発覚して以降、沼島君は警戒を強め
ていたはずだ。使用人や会長にも疑いの目を向けていたに違いない。何故なら、
沼島君はミステリマニアなのだからね。こういうときでも、疑うんだよ」
“我々と同じ”ミステリマニアなのだと言おうとして、やめた。同じではな
い。断じて違う。
「では、どちらかが犯人だと仰るので? だったら、私には明らかに動機がな
いんですから――」
饒舌になる管理人。私は彼のお喋りを遮った。
「まだ容疑者の段階だ。二人の内のどちらかが犯人だとも、言っていない。た
だ、確かめたいんだよ」
「何をですか」
「皆に、また考えてみてもらいたいことが」
私は広間にいる人全員を見回した。
「犯人は、沼島君を殺すのに、カーテン留めを使った。この点について、我々
はちょっとした錯誤をしていたかもしれません」
「ほう。どんな?」
興味津々といった風情で、江ノ本医師。
「凶器となったカーテン留めが、沼島君の部屋の物であるという思い込みです」
「うん?」
私のこの意見は、江ノ本医師だけでなく、大勢の脳を刺激したようだ。
「思い描いてみてください。犯人が招き入れられたにせよ、合鍵を使ってこっ
そり侵入したにせよ、カーテン留め二つをフックから外して結び合わせ、それ
から被害者を襲うという構図を」
「なるほど。おかしいな」
会長が真っ先に言った。大きく頷く彼に、私は続きを言ってもらうよう、促
した。
「そんなことをやっていたら、沼島君に気付かれる恐れが大。まともな考えの
持ち主なら、凶器を予め用意しておくものだ」
「そうです、この犯人もそうしたはずです。想像するに、犯人は、自室のカー
テン留めを外して凶器をこしらえ、それを隠し持って、沼島君の部屋に入った
んじゃないか。殺害後、持ち込んだ凶器は放置し、現場となった部屋のカーテ
ン留めを取り外す。そして、自室のカーテン留めにしたんではないか」
「面白い、興味深い推理だ」
会長は一ミステリマニアに戻り、拍手の格好を両手で作った。
「だが、そこから犯人を絞り込めるのかね」
「それは分かりません。ですが、確認する意義はあると思いますよ。泉田さん、
合田さん、それぞれの部屋のカーテン留めを」
「ん? 分からないな」
口を挟んだのは秋塚。私もそれを待っていたのだが。
「仮にあなたの推理通りだとして、入れ替わったカーテン留めを区別できます
か? どれも同じデザインだったと思いますが」
「確かにね。でも、沼島君の部屋に元々あったカーテン留めには、彼の痕跡が
残っているはずなんですよ」
私はそれから、昨日の夕食後、沼島に貸していた千円札を返してもらった経
緯を話した。そう、あの怪我のことも。
「――こんなことがあったんです。そして、その直後、彼は部屋に入った。こ
の館に到着したとき、あるいは夕食前の時点では、まだ外は明るく、カーテン
を引かなかったでしょう。夕食を食べ終えて、部屋に戻り、初めてカーテンを
引いたんじゃないか。とすると、彼の部屋のカーテン留めには、多少の血液が
付着しているに違いありません」
「そんなことが……あるものか」
真っ先に反応したのは、管理人の合田だった。その反応こそが、容疑を深め
るとも気付かずに。
もし絞り込んだ二人のどちらかが犯人だとしたら、合田かなと私も考えなく
はなかった。何故なら、泉田は食後、沼島と合って話し込んでいる。その際、
沼島の手の怪我に気付いていたはずだから。尤も、怪我に気付いたからと言っ
て、カーテン留めの入れ替えを行わないと決め付けることはできないが。
「では、合田さんの部屋から見せてもらうとしましょう。さあ」
うなだれる管理人がぼそぼそと返事する声は、降り出した雨の音にかき消さ
れた。
* *
これで、私の昔話は終わり。もう二十年ほど前になるかな。
何だ、物足りなそうな顔をしているな。ああ、管理人の合田が、沼島を殺し
たんだ。完全に追い詰めた訳ではないが、周りにミステリマニアだらけという
状況で、ぶるってしまったんだろう。あっさり白状した。
動機? はは、それが傑作なんだ。私と同じさ。
そう、沼島が帯谷真優子を事故に見せ掛けて殺害するところを、合田も目撃
していたのさ。合田は妻帯者でありながら、帯谷に好意を抱いていた。前年、
乾が亡くなったせいもあり、その思いは募っていたようだ。それだけ、沼島を
許せなかった。彼にとって、夏合宿でしか沼島と顔を合わせる機会はないから、
何が起きようとも決行したんだ。私と違ってね。
――おお、気付いたかね。その通り。鷲巣殺しは、合田の仕業ではない。驚
いているようだが、事実だから仕方がない。無論、沼島が殺したのでもない。
実は私も偉そうにできないんだ。真相は、自白によって判明したのだからね。
合田が沼島殺しを認めたあと、泉田が皆に打ち明けたんだ。泉田は、手書きの
原稿用紙を見せて、説明を始めた。
違う違う。泉田が犯人ではないよ。早とちりはよくない。初日の晩、鷲巣の
死が明らかになったあと、部屋に戻った泉田は、気を紛らわすために、持って
来た本を取り出した。その本に、紙が挟んであったという。秘密めいた物を感
じた彼は、誰にも言わずにその紙――原稿用紙を一人で読んだ。
それは、鷲巣の手による遺書と言えた。
うむ、鷲巣は自殺だったのさ。台所から果物ナイフを失敬し、自室に籠もる
と、クローゼットの中に入り、胸を自ら刺した。最後の力を振り絞って「ぬし
ま」と血文字で書き、絶命した。あるいは先に軽く傷を作り、その血で文字を
書いたあと、改めて胸にナイフを突き立てたのかもしれん。
遺書には、大まかに言って三つのことが記してあった。自分が不治の病で先
が長くないこと。三年前、乾登喜夫が沼島に突き落とされるのを目撃したこと。
――ああ、お笑い種だ。沼島が二年続けて犯した殺人には、三人の目撃者が
いたんだよ。合田は管理人としての仕事で、鷲巣はエアコンの故障による暑さ
から、涼みに、それぞれ夜に外出したんだな。しかも、その誰もが警察に言わ
ず、何らかの形で沼島を葬ろうと考えるなんて。
話を遺書に戻そう。鷲巣は、三年前の時点では、どうせ他人事だと関わり合
いになるのを避けたが、その一年後に似た状況で帯谷が死に、沼島が再びやっ
たのかと疑念を持つ。それと前後して、自身の病を知り、命を賭して沼島を貶
め、告発しようと考えた。他殺を装った自殺を決行し、その罪を沼島に被せる
のだ。だが、推理小説研究家の彼は、これだけは弱いという自覚があった。そ
こで、沼島と一番親しいメンバーである泉田に、全てを託す、言い換えれば押
し付けるため、遺書を書いた。
さて、それこそが遺書の三つ目の要点になる。鷲巣は推理小説を研究する過
程で、トリックを実際に試すこともしていたらしく、毒を幾種類か入手してい
た。その中から、アマゾンだかアフリカだかの原住民が使う生物毒を、瓶に詰
めてこのときの夏合宿に持って来ていた。別荘に着くなり、ビニールで厳重に
くるんだ毒の瓶をトイレのタンクに隠した。そしてこのことを、遺書で泉田に
教えたんだ。「沼島の件であなたが責任を感じているのなら、毒を活用して、
決着してもらいたい」云々と書いてあったな。「沼島がわしを含めて三人を殺
したことにし、死刑台に送り込むのもよし、あなたが直接葬るのもよし、あく
まで教え子を守り、代わりに責任を取って自害するのもよし」なんてことも。
実際のところ、泉田は以前の二件の死は、沼島の仕業ではないかと疑ってい
た。そこへ鷲巣の遺書で新たな事実を知らされ、かなり心が揺らいだらしい。
絶対にばれないというチャンスが巡ってきていたら、自殺に見せ掛けて沼島を
殺していたかもしれない、という意味のことを仄めかしていたよ。もちろん、
全てが終わったあとだが。
補足が長くなったが、これで本当におしまいだ。なかなか、スリリングであ
っただろう?
あと一つ、聞きたいことがあるって? 遠慮なく。
――なるほど、私の用意していたトリックね。それは話せないなあ。今に至
るまで小説の中でさえ使わず、胸の内で温めているんだ。
ま、ここぞというときが来れば、使うかもしれない。
――終わり
#332/369 ●長編
★タイトル (AZA ) 08/10/20 00:41 (478)
鍵を開けて外へ 1 永山
★内容
手首と足首、それぞれを手錠で拘束されていた。
頭がずきずきする。手を苦労して頭に持っていき、さすってみた。血が滲ん
だが、ほぼ止まっている。うまく殴ってくれたものだ。加減を知らない奴だと、
あの世行きにされていたかもしれない。それとも、こうして生きているのは、
偶々なのだろうか。
そんなことはあるまい。
文字通り目と鼻の先に、血まみれの人間が転がっているのだ。臭いこそまだ
大人しいが、明らかに死んでいる。すり切れ掛かったカーペットの灰色に、血
が染み込んで黒くなっていた。両刃のぎざぎざしたナイフが、少し離れた床に
置いてあった。
開いた喉から目をそらす。殺しの罪を擦り付けられる、哀れな生贄。そのた
めに自分は気絶させられ、こうして死体の近くに放置された?
上半身を起こし、自分が横たえられていた場所の認識を試みる。広さ十二畳
ほどの部屋には、事務机が二つ、直角をなす位置関係で並べてある。書類を綴
じたファイルの束や電気スタンド、ホワイトボードにロッカー等があるが、固
定電話が見当たらない。全体に雑然としている――否。これは家捜しのあと、
短時間で可能な限り元に戻そうと試みた結果のようだ。ファイルの向きが一つ
だけ前後逆になっているのが、その証拠と言えないだろうか。
ドアは一つに、窓も一つ。窓からは、ガラスを通して自然光が差し込んでい
る。ドアの方は、磨りガラスがはめ込まれているが、向こうに続く廊下だか部
屋だかが暗いためか、差し込む光は乏しい。
誰だか知らないが、犯人はこの自分をわざわざ手錠を使って拘束した。単に
気絶させて転がしておくだけでは、警察の到着前に意識が戻ったら、逃げられ
てお仕舞いとなるからだろう。
反面、この拘束は濡れ衣を着せるには余計な小道具だ。殺された男と同様、
かわいそうな被害者だと思われる可能性が出て来る。それなのに敢えて、拘束
したからには、もっと大きな理由があるに違いない。
体育座りのような格好をしてから、勢いを付けて立ち上がった。死体を避け、
窓際に寄る。三日月型の錠が下りていて、開けられない。
もしやと思い、今度はドアの方へ。足枷のおかげで、少し進むだけでも一苦
労。焦って転び、血まみれになるのは御免だから、慎重に行こう。
やっと辿り着き、ノブに手を伸ばす。後ろ手にされなかったのは、不幸中の
幸いかもしれない。
手応えは固かった。ドアも窓もロックされている。閉じ込められたというよ
りも、これは恐らく……。
そのとき、遠くからパトカーの音が聞こえたような気がした。それは確かに
近付いている。今いるここが目的地だとしたら、誰かが通報したのか? なる
ほど、窓から覗けば、異変を発見することはできるが、どうもおかしい。
このままの状況で警察に来られては、まずい立場に置かれる。確実に犯人扱
いだ。さっき想像しかけたように、ここがいわゆる密室状態だとしたら、決定
的だ。殺人犯が運よく助かった被害者を装い、自ら手錠をして気絶の演技をし
ていた――そんな見方をされるに違いない。
逃げるに限るが、時間的にも物理的にも難しかろう。となれば、せめて密室
を開いておかねば。
眼前のドアは、ノブ上のつまみを倒すことで、開けられた。念のために窓へ
と戻り、三日月錠も開けておく。
パトカーの急行音は、いよいよ大きくなり、やや通り過ぎたような感じがし
たあと、収まった。
「名前は?」
「紀邑拓哉(きむらたくや)。字面は、免許証を見てください」
「……ふむ。職業は」
「一応、探偵。ちゃんと届けを出しています」
「届けを出しているのに一応とは何だ」
「一週間ほど前に開業したばかりで、今、やっと二つ目の依頼を手掛けている
ところでしてね」
「一週間で二件の依頼とは、繁盛しているじゃないか」
「一件目はお決まりの、逃げたペットの猫探しでしたが」
「なるほど。で、ここに来たのは、その二件目の依頼の関係でか?」
「いいえ。気付いたら、ここに転がされていた有様で。ここ、どこなんで?」
「……どうやら、聞くべきことがたくさんありそうだ。死んでいた男との関
係は?」
「初対面のときには死んでいましたよ。何者かすら知りません」
「じゃあ、意識を失う前のことを――救急車が来た。続きはあとで聞く」
舌打ちすると、刑事は離れた。確か、徳井(とくい)と名乗った。いやに早
く駆け付けた気がしたのだが、耳に飛び込んできた制服警官の会話から判断す
るに、非番の徳井刑事が散歩中、パトカーの音を聞いて様子見に来て、そのま
ま合流したらしい。凶悪事件の多さに対して、人員不足は深刻と見える。
入れ替わりに救急隊員がやって来て、具合を尋ねながら、車へと誘導してく
れる。精密検査を受ける羽目になるようだ。
運ばれる間、次に刑事に尋ねられたときのために、記憶を手繰り、話を整理
しておこう。
まず……二件目の依頼を受けたのが、今朝九時。始業と同時に、依頼人がや
って来た。
待てよ? 今日は本当に“今日”なのか、確認しないと。腕時計を見る。そ
れから、(多分)血圧を測ってくれている隊員を見上げ、自国と日にちを尋ね
た。うむ、ずれていない。今日は九月十五日だ。
今朝九時に駆け込んできたのは、遠藤信男(えんどうのぶお)という四十が
らみの男。えらが張っていて眉が太く、押しが強そうであるというのが第一印
象。前々日の土曜から、妻の邦恵(くにえ)が姿を消した。黙って泊まり掛け
の旅行に出るような質じゃないし、心当たりに電話しても見付からない。家を
出て行かれる理由にも覚えがない。探し出してもらいたい――というのが当初
の依頼だった。話し終わるのを待っていたかの如く、遠藤の携帯電話が鳴り、
通話する内に彼の表情が見る間に青ざめた。警察からで、A川の河川敷で女性
の遺体が発見された。身に着けていた携帯電話の登録番号に掛けているが、心
当たりがあるのなら身元確認に来てもらいたい。
仕事が逃げて行ったと、落胆した。が、遠藤という男、年齢や見掛けの割に
動揺しやすい性格なのか、一人では恐ろしくて行けない、電車で来たから足も
ない、何かの縁だから着いて来てくれと頭を下げる。渋ると、ガソリン代と半
日分の探偵料を払うとまで言い出し、金を押し付けてきた。
思えば、ここで怪しむべきであった。警察が遺体の身元確認を電話で呼び出
すだけなのかどうかは知らないが、発見場所の河川敷に呼び付けるのはおかし
くないか。探偵としての日の浅さと、目の前のはした金に目が眩んだことが、
今の状況につながったのかもしれない。
中古の軽で慌ただしく出発したあとは、遠藤の指図するがままに走った。実
際、A川の河川敷に辿り着いたが、事件が起きたような様子は見つけられず、
車を降りて、あちらこちら探し回る内に、頭をがつんとやられ……今のていた
らくに至る。
そういえば、車はどうなったんだろう。河川敷に放置されているのか、さっ
きの事件現場に運び込まれるのに使われたか。中古も中古だから、犯人が乗っ
ていったなんてことはあるまい。
「はい、着きましたよー、紀邑さん。これから降りて、移動します。ちょっと
揺れますが――」
幸い、頭の怪我は軽傷だった。中の方も異常なしの見込みだが、正式な診断
はしばらく待たねばならない。
「軽傷だったそうで、何よりです」
個室で待たされていると、姿を見せたのは徳井刑事。初対面時よりも表情が
柔らかくなっている。ドアをきちんと閉めると、喋り出した。
「あなたを診た医者の話だと、自分で傷を付けるには無理な角度だろうってこ
とでしたんでね。疑いのレベルを引き下げた訳ですよ」
「完全に払拭できてはいないと」
「当たり前でしょう。共犯がいるかもしれないし、被害者から反撃を食らった
のかもしれない」
瀕死の被害者から反撃されるだけでは飽き足らず、意識を失い、手錠で拘束
される殺人犯? そんな間抜けはいまい。
「とにかく、あなたから話を伺わないと始まらない。現場にいた経緯を、説明
してもらいましょうか」
救急車の中で思い出し、整理していたことを語る。
刑事はどう受け取っているのか、黙ったまま、首を小さく縦に振ったり横に
振ったりしていた。
「遠藤の実在を示す証拠を、全部出してもらいたい」
「証拠? いや、身元を示す物は見ていないし、名詞一枚もらっていない。せ
いぜい、押し付けられた金ぐらいか。ああ、あと、車がある。指紋が出るはず
だ。そうだ、刑事さん。車がどこにあるかを――」
「殺人現場のすぐ裏手に停めてあったよ。あそこは元は貸店舗で、現在使って
いるのが、紀邑さんとご同業と言ってよかろう、便利屋さんだ。興信所的な仕
事以外に、溝掃除や蜂退治、お年寄りの話し相手もすると謳っている」
「何て名前の人です?」
「桜木翔太郎(さくらぎしょうたろう)と梅沢太平(うめざわたいへい)、男
二人の共同。聞いたことのある名前はないか?」
「……顔写真を見せてください。お持ちでしょ?」
求めると、徳井刑事は眉一つ動かさず、写真を二枚、すっと差し出してきた。
こっちの指紋を採る気かな?などと勘ぐりつつ、受け取り、一葉ずつ眺める。
そして気が付いた。
「亡くなっていたのは、この梅沢って男に似ていますが……?」
「その通り」
もっと喋ってくれるかと期待していたのだが、短い肯定のあとは、口を噤ま
れた。仕方がない、こちらも手の内を明かすとしよう。
「桜木の方は、居場所は分かってるんで?」
「何故、桜木だけ聞く? 女の方は気にならないのか」
刑事の口調が再び荒っぽくなるのを感じ取り、急いで言葉を補充する。
「実は、桜木の弟、桜木孝助(こうすけ)とは高校、大学と同じ学校に通った、
まあ、親しい友人です」
「ほう。翔太郎との面識は?」
「ありません。兄貴がいるとは聞いていましたが」
「孝助は今、何の仕事をしているんだろう」
「保険会社に勤めているはずです。商品企画だか運用だかは忘れましたが、営
業じゃないのは確かだ」
「真っ当なサラリーマンか」
舌打ちが聞こえた。怪しげな探偵と被害者の共同経営者とを結び付ける存在
に、疑惑の目を向けるのは常道と言えよう。
「あいつは基本的にいい奴ですよ。失業していた私に、探偵でもやってみない
かと道を示してくれた」
「……アバウト過ぎるアドバイスに聞こえるが」
「私、以前は銀行マンでしてね。成績は悪くないつもりでしたが、対人関係か
ら来るストレスのためか、体調を崩した。治らないまま数年経って、これはも
ういられないなと辞めたんです。その前後から、心配してくれたのが桜木孝助
って訳で」
「それにしても、探偵ねえ? ま、銀行よりは、対人関係のストレスはなさそ
うだが」
「私にとって、個人でやれるものなら何でもよかったんです。最小限、食うに
困らないだけの蓄えはまだあるんで、何かして世間とつながっていたかった」
「念押しするが、探偵を強要されたんじゃあないと?」
「……資格がいらない、準備に必要な物が少ない、兄も似たようなことをやっ
ているから、いざとなったら助言してやれる、とは言われた記憶が。そう、そ
れに冗談めかして、客が来ないようだったらうちの加入者を紹介してやれる、
とも」
「なるほど。強要されてはないが、お薦めされている」
にやりと音がしそうな笑みを作る刑事。
「あなたには面白くない話だろうが、桜木兄弟の陰謀に思える。桜木から恨み
を買う覚えは? いや、ないだろうな、それだけ信じ切っているのだから。い
いように利用されただけと解釈するのが妥当だろう」
「……たとえば、保険金を手に入れるために、桜木は共同経営者を殺害し、私
を犯人に仕立てた。そもそも、事件に巻き込むために、探偵になるよう仕向け
た」
「動機は知らないが、図式はそんなところじゃないかね。これから裏付けや証
拠を固めていかねばならないが」
信じられなかった。徳井刑事の推測だと、遠藤なる男も桜木達の共犯になる
のだろう。三人でやって充分な実入りがあるほど、高額の保険を掛けていたの
か? 確かに、孝助は保険会社勤めだから仕組みには詳しいに違いないが……。
考える内に、違和感の正体に気付く。
「私は桜木翔太郎の顔を知らない。だったら、遠藤の役回りを翔太郎がすれば
いいはず。敢えて三人で行うメリットがありませんよ」
「桜木の兄があなたと直に会ったら、あなたが生きている限り、顔を知られる
危険を伴う。計画が瓦解する。だから遠藤を使ったんじゃありませんかね」
「う……。だが、濡れ衣を着せる相手に、被害者と何ら接点のない私を選ぶ理
由が分からない。刑事さんの言う通りに計画が行われたとして、では犯人達の
想定した“紀邑拓哉の犯行”とは、どんなものになるんでしょう? 見ず知ら
ずの男を殺し、金目の物を奪うでもなく、遺体と共に殺人現場にとどまる。馬
鹿げていますよ」
「……尤もな見方だ。桜木兄弟がどうしようもない愚かな犯罪者ならまだしも、
そうではないのは明白だ」
考え込む刑事。少なくとも、桜木兄弟犯人説に固執するつもりはないようだ。
こちらとしても一安心できる。お兄さんのことはよく知らないが、桜木孝助が
殺人に手を染めるとは、とても考えられない。
「桜木の弟から話を聞きたい。番号を教えてくれますか」
刑事が思い付いたように言う。私は手首の傷を気にしながら、手帳を取り出
した。
「おや? 携帯電話は?」
「持っていません。昔は持っていましたが、あれこそがストレスの元凶だった
気がして」
「なるほど。だから意識を取り戻しても、電話できなかったか。現場には電話
がなかったし」
番号を教えると、刑事はメモ書きした上で、自らの携帯電話を取り出した。
掛けるか否か、迷っている風である。疑いが残っており、容疑者相手に独断で
は動けないのだろうか。
「自宅と勤め先の住所も教えていただけますか。翔太郎の住所なら分かってい
るんだが、同じではないでしょうから」
逡巡したのだが、断れる状況ではない。手帳を開き、桜木孝助の住んでいる
番地を伝えた。社員寮のはずだ。勤め先は聞いていない。社名のみ伝える。
「出勤しているかどうかだけ、問い合わせてみるか」
呟くと同時に、刑事の眉間にしわが寄った。何事かと思ったら、手にした携
帯電話が低く唸り、ディスプレイが光っている。この病院での使用はOKなん
だろうかと、詮無きことを考えた。
会話は極短く、また、刑事の返事も「ああ」だの「そうか」だのに占められ
ていたため、内容はまったく分からなかった。
電話を仕舞うと、刑事は立ち上がった。
「今は、これで結構です」
そして出て行こうとする。その背中に尋ねる。
「私はこのあと、どうすれば?」
「もう少ししたら、似顔絵の得意な刑事が来ますから、遠藤信男の似顔絵作り
に協力してもらいます。ああ、それと、自宅に戻られたら、変に出歩かないよ
うに。犯人があなたを再襲撃する可能性、なきにしもあらずなんだから」
何か分かったら教えてくださいと頼んだが、それに対する返事はなかった。
やがて現れた“似顔絵の得意な刑事”とは婦警で、しかも親切であった(よ
うな気がする)。似顔絵作りが終わると、自宅まで送りましょうと言ってくれ
た。ありがたいが、車に乗って帰らないといけない。そのことを告げると、あ
なたの車は証拠調べに回されているはずですよと教えられた。そうか、指紋の
件があった。
「ということは、私も警察に行って、指紋を採取されるんですね。区別するた
めに」
「そうなります。こちらに回す人員がないので、足を運んでもらうことになる
でしょう」
「じゃあ、いっそ、今日これから行って、やってもらった方が」
「体調は大丈夫ですか」
むしろ一日おいた方が、動くのが辛くなりそうな予感がある。今はまだ、興
奮が残存している。こんなときこそ、休むべきなんだろうが、実際には神経が
高ぶって休めそうにない。
結局、その日の内に指紋を採ってもらうことになった。
自宅兼事務所に戻ると、デスクの上の目覚まし時計に目をやった。孝助の奴
が、「自由の利く職業でも規則正しく起きられるようにしないとな」なんて言
って、開業祝いにくれた物だ。自分も目覚ましは持っていたから、枕元ではな
く、デスクに置いている。
時刻は午後二時を回っていた。昼を食べていないが、食欲はあまりない。買
い置きのパンとインスタントコーヒーで済ませる。
食欲がなくても、喉に飲食物を通したことで人心地付けたようだ。同時に、
頭の傷がずきんずきんと痛むのを感じ始めたが、思考するのには影響ない。事
件に関して考えてみる。
犯人が誰かとか、桜木兄弟がどう関わっているかは、棚上げとする。ただ、
遠藤と名乗った男が一枚噛んでいるのは、間違いあるまい。遠藤初恵なる女性
の遺体が発見されたという事実は、警察では確認できていないそうだ。つまり、
私を騙して事件に巻き込んだ。目的は濡れ衣を着せるため。ではその生贄とし
て、何故、この駆け出しの探偵を選んだのか。
わざわざ依頼者のふりをして接近して来たほどだ、誰でもよかった訳ではな
いと思われる。知らぬ間に恨みを買っていたのだろうか。思い返すとしたら、
銀行員時代だろうが……殺人を起こしてまで濡れ衣を被せるくらいなら、私自
身を始末するのが理屈ではないか? 梅沢の命は奪ったが、私に対する恨みは
さほどでもないということなのか。どうもしっくり来ない。
桜木兄弟に疑いを向けるために、敢えて私を巻き込んだ。この考え方はどう
だろう。現実に、警察の疑いは最初こそ私に向いていたが、じきに桜木兄弟に
転じている。
孝助の性格なら、探偵事務所を開くのに合わせ、早速知り合いに宣伝してく
れたことだろう。その中に、悪意を抱く者がいたとすれば。新米探偵を巻き込
むことで、間接的に桜木兄弟を陥れようと画策……あり得なくはない。ただ、
この説だと、桜木兄弟の少なくとも一人にはアリバイが成立しないこと、そし
てそれを犯人が知っていることが条件になる。
多分、孝助は出社していてアリバイがあるだろう。ならば、翔太郎か。たと
えば、私と同様、偽の依頼でひと気のない、監視カメラの類もない山奥でも走
り回されていた(いる?)ら、アリバイは証明できない可能性が高い。現場を
密室状態にしたのも、私ではなく、密室を作ることのできる者、つまり鍵を所
有する桜木翔太郎を犯人と見せ掛けるためだったのではないか。
ここまでの推理が正しいとして、問題は、真犯人がいかにして現場の鍵を掛
けることができたのか、に移る。梅沢も鍵を持っており、それを奪ったという
線はあるまい。桜木翔太郎に濡れ衣を着せる目的から外れる。
他に妙案は浮かばない。刑事から情報を引き出したいところだが、それには、
自分が密室状況を崩したと打ち明けなければならない。今になって言い出して
も、恐らく再び疑われるだけで何も教えてもらえない恐れが大だ。「頭を殴ら
れたせいで、ぼーっとしたまま行動し、証言するのを忘れていた」で通るだろ
うか? 苦しい気がする。
行き詰まると、痛みがぶり返してきたようだ。ベッド、いやソファで横にな
ろうかと考えていると、電話が鳴った。のろのろとした動作で出る。桜木孝助
の声が耳に飛び込んできた。刑事が訪ねてきて、事件を知らされたらしい。
「大丈夫か? 具合は?」
「うん、平気だよ。それよりも、お兄さんのこと……」
「ああ、実は兄貴の行方が分からない。携帯電話もつながらないんだ」
「こっちは大丈夫だから。翔太郎さんの心配を」
「もちろん、心配してるさ。だが、おまえのことも心配だ。探偵業を始めた途
端、これじゃあ、俺のせいみたいじゃないか」
こういう考え方をする奴だったな、と何故か懐かしく思う。気にするなと答
えてから、鍵について尋ねる。
「事務所の鍵? ああ、兄貴が保管していると聞いたことある。梅沢って人に
は、渡していないはずだ。でも何で鍵なんか気にする?」
質問返しに、一瞬だけ逡巡し、正直に答えた。警察には言わないでくれと前
置きして。
「そうだったのか。聞いたのが俺じゃなかったら、容疑者の筆頭は兄貴とおま
えになるな、確かに」
「怒らないで聞いてほしいんだが、お兄さんと梅沢さんとの間に、トラブルは
ないよな?」
「以前、気が合わなきゃやってられない、と言っていたからな。稼ぎも取り決
め通りに分けていたそうだし、まあ、兄貴が梅沢さんに殺意を持つことはない
と思う」
「じゃあ、自称遠藤信男に心当たり、ないかな?」
記憶にある男の容貌を、口頭で伝える。
「うーん、分からないな。俺、勝手に宣伝したからな、おまえの探偵業のこと。
営業の何人かにも頼んだから、俺の知らない人物にも伝わっているんだ」
また済まなげな声になるのを止めるべく、話の接ぎ穂を探す。
「ああっと、そっちに行った刑事、徳井って人?」
「うん? 違う。確か、沼田(ぬまた)だったぞ。二人組で来るものとばかり
思っていたが、一人なんでちょっと意外だったな」
「そうか」
徳井刑事が出向いたのなら、後々、話が通じやすいかもしれぬと期待したの
だが。
「意外と言えば、俺のところに来た刑事にしても、おまえの会った刑事にして
も、割と物分かりがよくて、優しいのな。警察なんて、強面か嫌味な奴ばかり
だと思っていたよ」
「そりゃあ、事件解決の協力を求めてるんだから、犯人相手のときとは違うだ
ろう」
「いやいや、兄貴達から聞いた話だと、ひどいのもいる。依頼で墓の掃除をし
ていたとき、やたらと偉そうに近付いてきて、最初から不審人物扱いされたと
さ。依頼人に証言してもらって、信じてもらえたものの、それでも胡散臭がら
れて、帰るまで監視されたらしい。仕事にかこつけて、墓荒らしするとでも思
ってるのかね」
ピラミッドや名前のある古墳ならともかく、日本の一般的な墓を荒らしても
仕方があるまい。
「もしかしたら、捜査中だったのかもしれない。誘拐事件で、身代金の受け渡
し現場に張り込んでいて、犯人が現れるのを待ち構えていたとか」
「近くに林があるものの、開けた場所だと聞いたぞ。真っ昼間、身代金の受け
渡しをするには向いてない。半年ほど前の話だが、そういう事件もなかったは
ずだ」
「たとえばの話だよ」
「うむ。まあ、兄貴があとから思ったのは、掃除の前後の状況を依頼人に見せ
るために、写真をぱちりぱちり撮りまくった。あれが怪しまれたのかもしれな
いってさ。あ、時間だ。兄貴の行方が気になるんだが、この程度では仕事を休
めないんだよ」
こちらの返事が届くか届かぬかのタイミングで、電話は切られた。忙しいの
は分かるが、兄の行方(もしかすると安否)に不安がある状況なのだから、も
う少しどうにかならないものか。憤慨したあと、自分の勤め人時代を思い出し、
あきらめた。
そのことはともかくとして、鍵の問題がはっきりしてきた。犯人は桜木翔太
郎の鍵を用いたと思われる。孝助には言わなかったが、暴力に訴えて奪った恐
れすらある。幸か不幸か、警察は翔太郎を少なくとも重要参考人レベルと見な
し、探しているに違いない。敢えて鍵のことを伝えなくても、その探査能力に
差は生じまい。
最悪のケースを想定するなら、犯人はこのあと、桜木翔太郎を自殺に見せ掛
けて殺害し、その懐に鍵を戻すという段取りなのかもしれない。命を奪わずと
も、彼に梅沢殺しの罪を押し付けるつもりでいよう。となれば、どこか人目に
付かぬ場所で、翔太郎を監禁している可能性が高いのではないか。
急がねばならないのは分かるのだが、自分に何ができるか、妙案がさっぱり
浮かばない。が、家に閉じ籠もっていてもだめなのは分かる。監禁場所になり
そうなところを探して回るか? 宛てはないが、とにかく家を飛び出した。
と、外に徳井刑事がいた。道を挟んで、堂々と張り込み?をしている。
車へと向いていた足を、彼の方へと転じた。
「何ですか」
「護衛と言いたいところだが、それは半分でね。あとの半分は見張り。あなた
をシロと決定するにはまだ早いってのが、現時点の見解なので」
「仕方ないでしょうね。ただ、てっきり、あなたが捜査の中心なのかと思って
いましたが、見張り役とは」
「非番が消し飛んだのを斟酌されて、しばらくはあなたに張り付くだけでいい
となった。よろしく」
「ご家族もさぞかし、残念がっているでしょうね」
「その家族ってのが妻子のことなら外れだ、探偵さん。いないよ」
「それは……失礼を」
見た目から想像した年齢から判断したのだが、刑事の結婚は総じて遅いのだ
ろうか。
「別に、失礼じゃない。どこにでも転がってる話。刑事の妻でいることに着い
ていけなくなったとかで、離婚。あとには広すぎる一軒家が残った。結婚前に
身元調査するが、刑事の妻として適正があるかどうかまでは分からないものだ。
それよりか、紀邑さん。隠していることはないね?」
「え?」
結婚なんてまだ早いですよと答えていたら、大ぼけになるところだった。殺
人事件に関する質問に決まっている。
「何も」
「たとえば、桜木兄を庇って、何らかの嘘をついていないか」
「犯人でないと信じていますが、たとえ犯人であっても庇いやしません」
「つまり、己の保身のためになら、嘘をつくこともある訳だ」
「どういう意味ですか」
「見張りと言ったでしょうが。こうして話せる機会を、あなたが犯人である可
能性を見極めるために使わない手はない」
「……で? 私が何か隠したり、嘘をついたりしたと思う根拠があるんですか」
「往来でするには、相応しくない会話だと思いませんか? このあと特に何も
なければ、私の車の中で」
顎を振った先には、グレーの没個性な乗用車が。張り込み用の警察車両だろ
うか。とりあえず、私の車よりはランクが上である。同意し、乗り込む。
「停めた車の中で、男二人が長々と話し込むのも、意外と目立つので」
そう言うと、刑事は車を走らせ始めた。警察車両には無線が付き物と思って
いたが、それらしき機械は見当たらない。ひょっとすると、この車は張り込み
専用なのか。外から無線機を見られたら怪しまれる、という理由で載せていな
いんだろうと納得した。現代は携帯電話もある。
「ドライブも悪くはないですが、怪我を負ったばかりなんで。話を早く進めて
もらわないと」
「何か考えていること、おありなのでは?」
乗り込む前の会話とつながっていない。はぐらかすつもりか。
だいたい、こっちが胸に秘めている推理は、まだ明かせるタイミングにない。
「頭脳労働はしばらく休みですよ。それよりも、あなたが私を疑る根拠を」
「そうですなあ、たとえば、便利屋と探偵でつながりがなかったのか、とかね」
「はあ」
「あなたと便利屋の弟とは知り合いで、似たような仕事を始めるに当たって、
協力関係ができていて不思議じゃない。そこから、便利屋が狙われるような事
情を、実は知っているのではないのかと思ったんですがね」
「知りませんよ」
速度が上がるのを感じつつ、否定した。始めた経緯や孝助の兄とは面識がな
かったことは説明済みなので、繰り返さないでおく。
「本当に? 桜木兄から預かり物をしている、なんてことはありませんかね。
殺しの動機につながりかねない預かり物を」
二度、同じ返事をするのが面倒で、無言で首を横に振った。刑事は粘り強く
言う。
「現場には微妙だが、荒らした痕跡が認められた。そこで思ったのが、犯人の
狙いは、何か形ある物なんじゃないかってことです。便利屋の二人が、あるい
はどちらか一人が巧妙に隠したために、犯人は見つけられないでいる……」
「その何かを、孝助の兄が私に託した? 仮にそうだとしたら、私はとうに殺
されているでしょう。預かり物とやらを奪ったあと、気絶だけで許してくれる
ような犯人とは思えません」
「あなたを気絶させた段階では、あなたがそのブツを持っているとは、犯人は
考えもしなかったのかもしれない」
「穿ちすぎですよ、刑事さん」
「あなただって、知らない内にブツを預かる形になっているのかもしれない。
開業祝いなんて名目で、何かもらわなかったですかね」
「……目覚まし時計を」
人に話すと気恥ずかしさを覚える。だが、聞いている刑事の表情は真剣だ。
「ふむ。その時計、さっきの家に? 調べさせてもらってもよろしいか?」
「何かを隠せるようなサイズではないですよ。それに、くれたのは孝助だし」
「兄が弟に託したとも考えられる」
「協力は惜しまないつもりですが、いくら何でも考え過ぎでしょう。令状が出
たなら、素直に提出します」
口ではそう答えたが、帰ったあと、念のために調べてみようと頭の片隅にメ
モをした。
と、そのとき、徳井刑事がスーツのポケットに手をやった。携帯電話を取り
出す。車を停め、小声で何らかのやり取りを始めた。内容はさっぱり聞こえない。
通話はじきに終わり、電話を元のポケットに仕舞うと、刑事が振り向いた。
「すまない。緊急の招集が掛かった。すぐさま、署に戻らねばならない。あな
たを家に送り届ける暇がないんだが」
「それは……困ります。今朝の事件に関することなら、私も警察署に行っても
いいんですが」
「さっきの呼び出しが何なのかは、部外秘なので喋れません。――そこの喫茶
店で時間を潰していてくれませんか。署に着いたら、すぐに婦警を迎えにやら
せますから」
「しかし」
「何なら、お茶代もポケットマネーから出しますよ」
「……」
おかしい。うまく説明できないが、大きな違和感がある。ポケットマネー云
云の申し出もそうだが、先程、徳井刑事が電話を取り出したときの光景――脳
裏に懸命に再投影させる。
長らく携帯電話を持たない生活を続けてきたせいで、感覚が鈍っていたと思
い知る。今どきの携帯電話は、掛かってくればマナーモードにしていても発光
するんじゃないのか? その光った印象が残っていない。機種によって違うの
だろうか……いや、以前に見たじゃないか。病院で徳井刑事が電話を受けたと
き、ディスプレイは間違いなく光った。
掛かってきたふりをしたのだとしたら、何のために? 容疑者扱いするのな
ら、わざわざややこしい芝居を打たなくても、そのまま警察に連れて行けばい
い。第一、徳井刑事がやろうとしているのは、まるで逆。私を置いてけぼりに
しようとしている。
「どうします?」
急かすような口ぶりの刑事。
私は孝助の話を思い出した。墓地で警察関係者らしき男と遭遇し、嫌な目に
遭った兄達の話を。
もし、そのときの男がこの徳井刑事で、偶然にも今度の事件の担当になった
のだとしたら。――違う。偶然ではない。「非番で散歩中、パトカーの音を聞
き付けて現場に行ってみた」なんてことを言っていたではないか。大きな本部
ならともかく、半端な町の警察署に、捜査班がいくつもあるとは思えない。本
部からの応援が来る以前に事件に関わってしまえば、捜査陣に狙い通りに加わ
ることは容易ではないか。
「刑事さんの携帯電話を貸してください。タクシーを呼んで帰ります」
推測が当たっているとしたら、徳井刑事は私を下ろしたあと、警察に向かう
と見せ掛けて、私の事務所兼自宅に直行するはずだ。桜木孝助からもらった目
覚まし時計を調べるために。
「お茶代は出せても、タクシー代は厳しいですなあ」
「かまいません。自腹で帰ります」
「仕方がない」
刑事は携帯電話を開き、自ら掛けようとする。ごまかされてはまずい。
「あ、自分でやりますよ。贔屓にしている営業所があるので」
「やれやれ」
刑事はため息混じりに呟くと、電話をポケットに戻し、車を急発進させよう
とする。
飛び出すか、残るか。瞬時の判断を迫られた。
――続く
#333/369 ●長編 *** コメント #332 ***
★タイトル (AZA ) 08/10/20 00:42 (107)
鍵を開けて外へ 2 永山
★内容
私は知っていることと考えていたことを、全て徳井刑事に話した。
「いきなりドアを開けて飛び出そうとするから、驚きましたよ」
やっと合点の行った顔をして、額の汗を拭う刑事。結局、警察署に向かうの
は先延ばしになっていた。私が起こした事態のせいで。
私の推理――徳井刑事に対する疑惑は、赤面ものの大間違いであった。端緒
とした携帯電話が光らなかったこと、これに錯誤があった。夜、暗くなっても
張り込みを続ける場合を想定し、念のために光らないように設定し直していた
のだ。
なお、彼が車を急いで出そうとしたのは、時間を要しても私を家まで送り届
けたあと警察署に向かおうと思い立ったからであり、また、携帯電話を使わせ
たがらなかったのは、職務上秘密にしておきたい番号をいくつか登録している
ためであった。
「その、墓地での出来事が気になる」
平身低頭する私に、通り一遍の説諭を短くしたあと、徳井刑事は言った。現
在進行中の事件の方が重要だ。
刑事は車を発進させた。方角は……私の自宅らしい。
「それに、殺害現場のドアと窓がロックされていたとは。実は、鍵は室内で発
見されていて……厄介だな」
密室の謎が形を表したことになる。同時に、桜木翔太郎の身の安全にも、暗
雲が垂れ込める。
私に容疑を掛けるのは必然と思われたが、刑事は別のことを考えていた。
「さっきの無茶な行動と、現場が密室状態だったのを偽った件は、不問になる
よう、私が口添えします。だから、紀邑さんもこの件で、警察発表の前に余計
なことを第三者に喋らないように」
「どうしたんですか。何か考えがあるように見えますが」
「身内の恥かもしれないんで、流石に私の独断では動けやしません。一方で、
急ぐ必要もある」
「それじゃあ、早く署に……」
「いや。あなたの目覚ましを調べたい。今なら即、許可してくれるんじゃない
ですかね?」
当然である。申し訳なさもあるが、早く調べてもらいたい。
「これは独り言であり、現時点では他言無用ですが……警察関係者が絡んでい
るとしたら、現場が密室状態だったのも、謎でなくなる。捜査として現場に入
り、誰にも見られないように鍵を置けば済む」
「ですが、真っ先に駆けつけたのなら、現場のドアは開いていたと認識できる。
鍵を置くのは無駄、それどころか逆効果と気付くはず」
「そこだな、ポイントは。捜査員の中に、現場が密室だと思い込んでいる奴が
いれば、遺憾ながらそいつが……」
苦虫を噛み潰したような表情になる刑事。私は助手席で息を飲んだ。
そして後日、徳井刑事の推理は――彼にとってはあまり嬉しくないかもしれ
ないが――的中していたことが明らかになった。
次の休日、孝助と共に、入院中の桜木翔太郎をお見舞いに行った。
犯人の二人組――遠藤信男こと渡辺俊邦(わたなべとしくに)と、彼をコン
トロールしていた制服警官の近藤恵信(こんどうよしのぶ)に襲われた翔太郎
は、私と同様に頭部に怪我を負い、渡辺のアパートに監禁されていた。警察は
似顔絵から前科者の渡辺をピックアップし、渡辺を情報屋にしていた近藤警官
もマークした。並行して、私がもらった目覚まし時計の内部から、USBメモ
リが出て来た。中身は画像データで、梅沢がデジタルカメラで収めた物だった。
そのいくつかに、近藤が墓地近くの林の中で、何かを隠す様子が捉えられてい
た。
これらの手掛かりを元に、警察は一気に動き、犯人両名の逮捕と、翔太郎の
救出となった……らしい。私がリアルタイムで経験できたのは、メモリが転が
り出て来たところだけである。
「本当にすまなかった」
見舞いに来て、患者に何度も頭を下げられると、こちらが恐縮してしまう。
相棒の梅沢が勝手にしたこととは言え、祝いの品にUSBメモリを仕込んだ
がために、私を巻き込んだ。そう思っているようだが、事実はちょっと違う。
犯人達はメモリの在処を知らなかった。私が巻き込まれたのは、犯人役として
仕立てるため、手近にいた探偵に目を付けただけのこと。
そう説明してもなお、翔太郎は謝罪をやめない。
「そもそも、梅沢が馬鹿な考えを起こさなければ、こんなことにはなっていな
かったのだから」
翔太郎は写真に関してタッチしておらず、全て梅沢に任していた。梅沢は写
真をチェックする際に、林の中の近藤警官に気付き、興味を持った。問題の林
に足を運び、調べたのだろう。麻薬が隠してあった、押収品を持ち出したのだ
ろうとは、徳井刑事が教えてくれた話だ。この点は、まだ公にされていない。
秘密を掴んだ梅沢は、警官を強請ることを思い付き、実行に移す。その関係
は数ヶ月で亀裂を生じ、近藤は渡辺を使い、脅迫のを始末を計画する(この時
点で、私に濡れ衣を着せることも計画に入っていたというから恐ろしい)。思
惑通り、梅沢を殺したが、カメラのデータがどこにあるか分からない。きっと
もう一人の便利屋が握っているのだと決め付け、桜木翔太郎を監禁し、口を割
らせようとした。知らないものを答えられるはずがなく、犯人達も行き詰まっ
ていた。
「もういいよ、兄貴。とにかく、今は助かったことに感謝しろよ。もう少し遅
ければ、始末されてたかもしれないって言っていたぜ」
「確かにな。俺も聞いた」
近藤は捜査の進捗具合をおおよそ把握しており、捜査員達が現場に到着した
とき、そこが密室ではなかったことも、遅ればせながら知った。計画の変更を
余儀なくされ、いざとなれば、監禁している桜木翔太郎に全ての罪を擦り付け、
“自殺”してもらおうと考えるようになっていたそうだ。
「巻き込んでおいて、言えた義理じゃないんだが」
急に改まった口調になる翔太郎。尤も、今日が初対面故、当初はお互いに妙
な丁寧語を使っていたのではあるが。
「紀邑君さえよければ、二人でやって行くというのはどうかだろうか」
「やって行く……とは、探偵業ですか?」
「プラス、便利屋も。相棒を失って、自分も困る。正直、一人ではやって行け
ない仕事なんだ」
思いも寄らぬ提案に、私は相手の顔をまじまじと見、次いで孝助へと視線を
移した。すると孝助が一つ大きく頷いて、口を開いた。
「俺からも頼む。前もって、兄貴から相談されたんだ。今すぐっていうのは、
おまえにとって厳しいかもしれないが、メリットもあるだろうし、将来的には
いいんじゃないかと思う」
確かに、メリットはある。今度の一件で、経験不足を痛感した。人を見る目
はまだまだだし、伝も乏しく、いざというときに一人では心許ないにも程があ
る。
障壁があるとしたら、私自身に。
「ありがたい話なんですが、私はまだ、仕事での上下関係にアレルギーがある
というか……」
「もちろん、考慮するとも。対等な関係で行きたい」
それならば。
「翔太郎さん、よろしくお願いします。私の方でも、できるだけ努力します。
間違いなく、あなたが先輩なんですから」
手始めに、携帯電話の機種を決めようと思う。
――終
#334/369 ●長編
★タイトル (AZA ) 08/11/30 23:58 (499)
そばにいるだけで 64−1 寺嶋公香
★内容
「な、何で白沼さんがここにっ?」
純子が戸口に立ったまま、ソファに座ってこちらに笑みを見せる白沼を指差
しても、誰も咎めなかった。白沼自身も怒らない。
純子が叫びたくなるのも無理はない。相羽の母に呼ばれて、ルークの事務所
に行ってみると、白沼がいたのだ。それも学生服でもなければ、単なる私服で
もない。まるでビジネス用かと思わせる、淡いブルーのスーツをぴたりと着こ
なしている。
あまりの意外さに、純子は思わず、久住の格好をしなくちゃ、とわけの分か
らないことを考えてしまったほどだ。
その直後にようやく思い出す。およそひと月前に、白沼からテラ=スクエア
のキャンペーンガールの話を持ち掛けられたのを。
(あれって、冗談じゃなかったんだわ……)
やっとのことで合点の行った純子だが、その取り戻した平静さを瞬く間に失
わせる台詞が、白沼本人の口から飛び出た。
「CM出演を直接依頼しに来たのよ」
「え」
混乱の度合いが、急速にアップする。唖然として立ったままの純子に、市川
が注意をした。
「いくら友達だからと言っても、今日はお客様だよ。ほらほら、かしこまって、
そこに座る」
「はい」
仕事と聞けば、気が引き締まる。純子は素直にソファに腰を下ろした。白沼
と向き合う形になる。相手の右隣には、灰色のスーツを着た四十代半ばほどの
男性が、背筋を伸ばし、しかしどこかリラックスした態度で収まっていた。
純子の隣には相羽の母が、さらにその隣に市川が座る。
「この子が風谷美羽です」
「ご活躍はよく存じています」
白沼の隣の男性の声は、外見に比べると若々しかった。
純子は自己紹介をしてから、白沼にも目礼をした。
「私は支倉象二郎(はせくらしょうじろう)と言います。αグループ食品部門
の宣伝を担当しています」
食品部門と聞いて、やはりテラ=スクエアとは別口の話なんだと理解した純
子。
支倉は名刺を取り出し、すでに市川らには渡してあるのだろうか、純子の方
に向けてくる。が、受け取ろうとすると、白沼が「そんな挨拶はよして」と止
めさせる。それから市川と相羽の母に向き直り、
「先に、私と涼原さ――失礼――、風谷さんと、二人きりで話をさせてもらえ
ません? 決して、契約に結び付くような口約束はしませんから」
と申し入れた。
まだ状況が飲み込めない上に、おかしな成り行きに困惑する純子。その隣で、
相羽の母が「私はかまわないわ。ただし、時間は短めにお願いね」と答えた。
対して市川は、思慮する様子を見せる。しばらくして、眉間に軽く皺を作り、
白沼を見据えながら尋ねる。
「確認と条件を言わせてもらおうかしら。友達同士の雑談なら、後回しにして
ほしいのだけれど、違うのね?」
「はい。仕事に関係のある話です」
「時間はどれぐらい掛かりそう?」
「五分から十分程度はください」
「……七分で済ませて。二人で話した内容は、どんなことがあっても口外しな
いこと。守れる?」
「αグループの人にも、ですか」
「今度のCMの話に携わっている人になら、話してもかまわない。それ以外は
絶対にNG」
「分かりました。誰にも話しません」
白沼は言葉遣いこそ固いものの、余裕のある表情を見せている。
「それなら了解。奥の部屋が空いているから、そちらへ」
「どうもありがとうございます」
(そういえば、白沼さんはどういう立場でここに来てるんだろう……?)
根本的な疑問が浮かんで、純子は彼女の顔を凝視した。目線を感じ取ったか
のように振り向いた白沼はクリアケースを小脇に抱え、「それじゃ、行きまし
ょうか」と腰を上げた。
いつもと違う口調に、ますます戸惑う純子だが、遅れて立ち、着いて行く。
奥の仕切られた小部屋に先に入り、純子を招き入れると、ドアを閉じた。そこ
は、狭いが、秘密の話をするには打って付けの密閉空間だった。小さな長方形
の白テーブルと、グレイのソファが四つ配されている。
「白沼さん、びっくりしたわ。長いお休みのとき、たいていは旅行でしょ?
てっきり今度もそうだと思っていたから、なおさら……」
「仕事の話しかしないんじゃなくて?」
さもおかしそうに微笑む白沼。仕事の現場でクラスメートと会っている違和
感が抜けきらない純子に比べ、彼女の方は普段の延長のようだ。
「それじゃあ、二つだけこちらから聞かせて。今日の話は、いつか言っていた
テラ=スクエアのことじゃないのね?」
「ああ、その話もあとで出て来る流れになるわ、多分。だけど、今日のメイン
テーマは、テレビコマーシャル」
「分かったわ。次に……今日の白沼さんは、どういう立場なの? 途中で挨拶
を打ち切られたから、私、分からなくて」
「正式な肩書きがあるわけじゃないわ。強いて言えば、一応、アドバイザーね。
女子高生の視点から、意見を述べるの。女子高生に受ける広告というものにつ
いて」
「はあ……」
「アドバイザーである私は、支倉部長にアドバイスをした。風谷美羽を起用す
れば、大いに受けるわよってね」
「そ、それは……どうもありがとう」
否定しようと思ったが、クライアントの意向に逆らうと、相羽の母に迷惑が
及びかねない。市川だって、引き受ける方向に進むのを望んでいよう。
「さて、具体的な話をしましょうか」
手近のソファに腰掛け、クリアケースをテーブルの上で開けた白沼は、何や
らリストめいた物が印刷された紙を取り出した。純子には見せないまま、話を
進める。
「私としては、下着のCMに出てほしいのだけれど」
「え」
子供同士でいきなりそこまで具体的な話をするのは、先ほどの約束と違うん
じゃないか。という意味で面食らった以上に、下着と聞いて焦ってしまう純子。
「肌のきれいなあなたが下着を身に着けると、それを見た視聴者の大半は勘違
いする。この下着を着ればあんなきれいな肌になるんだわと」
「む、無理!」
猛スピードで首を横に振る。白沼はくすくす笑った。
「何でもかんでも、真に受けちゃうわね。支倉さんは食品部門だと言っていた
でしょうが」
「あ、そっか」
ほっとすると同時に、腹も立つ。
「仕事の話で、冗談なんか言わないでほしい……」
「全くの冗談というわけではないわよ。下着のCMに、あなたに出てもらいた
いと思っているのは、私の本心」
「……凄く、悪意を感じます、アドバイザーさん」
恥ずかしい目に遭わせようとしている。そんな気がした。警戒感から、しゃ
ちほこばった言い回しを使った純子。
「まさか」
白沼は真顔で否定した。
「相羽君のことがあったときは、素直に言えなかっただけで、本当にきれいだ
と思っているのよ。……と、これだけ言うのにも大変な努力をして、自尊心を
押さえ付けているのだけれど」
台詞の後半に差し掛かると、白沼はにやっとした。
(これだけ開けっ広げに言ってくれるのなら、信用する。うん)
純子は自らに言い聞かせ、仕事の話に移った。
「私達だけでしなきゃいけない話って、何?」
「“ねばならない”ってことはないわ。こうしてコミュニケーションを取って、
信頼関係を築いておきたかっただけよ」
同じ気持ちだったと分かり、ほっとする。
「その代わり、契約が成立したら、びしびし注文を出して行くつもりよ。これ
はビジネスなんですからね」
「もちろん」
白沼から右手が差し出された。握り返す。
白沼の手にはかなり力が入っていた。
小部屋を出て、本格的に仕事の話に入ったあとも、しばらくは白沼が主導権
を握った。
「念のために確認しておきますが、清涼飲料水の類は他社と重なるから、だめ
なんですね」
「そうなっているわ」
市川が答える。いつもとは勝手が違い、子供を相手にどんな話し方をしてい
いのやら、手探り状態なのが窺える。
「来年以降も“ハート”のCMに起用されることに決定している。企業の方針
が変わらない限り、まず無理でしょうね」
美生堂の社長にいたく気に入られたらしくて、純子の“ハート”CM出演は、
異例とも言えるロングランになっている。
「分かりました。それじゃあ、こっちだわ」
白沼は持参したクリアケースから新たな一枚を引き抜くと、手の甲で弾いた。
今度の紙は、カラフルだ。イラストや写真入りで、文字の大きさも様々。しか
も一枚ではない。
「健康食品なら問題ないですか?」
「そうですね。資料を見せてもらえます?」
市川の手に紙が渡る。
「メジャー商品のシリーズで、これまでCMに出た方は注目されています。タ
レントサイドにとっても悪くない話のはずです」
支倉が、ここいらで口を挟んでおかないと出番がないという体で言った。
「そのようですわね。まあ、しばらくお待ちになって。もっと話を聞かせて戴
かないと判断できません。うちの場合、本人の意向もあるので」
「ほう。こんなかわいいタレントさんの意向でも、重視されるのですか」
多少、意外そうに口をすぼめる支倉。大物ならまだしも、こんな小娘の……
というニュアンスが言外に感じられた。
白沼はと言えば、静かにしているのは退屈とばかりに、自己主張するかのよ
うに身を乗り出して話を聞いている。
「はい、純子ちゃん」
相羽の母から資料とこれまでの商品ちらしが渡される。資料の方は、社内用
あるいは業界内用なのか、商品の写真(オレンジ色のケースで、中身は見えな
い)とデータが記載されているのみのシンプルな物だ。一方、ちらしはテレビ
や折り込み広告等で何度も目にしていた。
「“スマイティ”……聞いたことある。食べたことはないけれど、確か、栄養
補助と内臓をきれいにする健康食品ですね? 錠剤タイプとクッキータイプが
ありましたっけ」
「そうよ」
純子は支倉に尋ねたつもりだったのに、白沼が横取りするかのごとく、早口
で答えた。
「正しくは、美容健康食品よ。よく知られた商品でしょ。今度はそのヴァージ
ョンアップ版を出すの」
「新商品なんです」
支倉が苦笑混じりに、イニシアチブを取り戻す。
「今度のスマイティRは、これまでのスマイティの効果に加えて、食べた物の
脂肪分をなるべく体内で吸収せず、外に出すという大きな特長が備わりました。
お肌の保湿力も多少アップします。効き目は実験で証明済み。お疑いのようで
したら、実験結果の統計資料も出します。全部は無理ですが、一部なら」
「ぜひ、お願いします」
相羽の母が言う。この辺りは、広告会社の人間というよりも、モデルとして
の純子を思ってのマネージャー的色彩が強いかもしれない。
その純子は説明を聞いて、「ふうん。何か、凄そう……」と独り言めいた感
想を漏らした。はっきり言って、美容健康食品にはこれまで厄介になったこと
もなければ、必要と感じたことすらない。
「ヒット間違いなしだって、自信満々に言ってたわよ」
純子のつぶやきを聞きつけたか、白沼が口を開く。
誰が言ったの?という疑問が頭の片隅をかすめた純子だが、多分、αグルー
プの人なのだろうと見当付けた。
「ヒット間違いなしなら、私を起用してコマーシャルを作らなくても……」
大人の会話を後目に、やり取りが始まる。合点の行かない純子へ、白沼はと
うとうとまくし立てた。
「相乗効果という言葉を知らないの? あなたがテレビでこれを宣伝する。多
くの人達はあなたみたいになれると思って、買う。あなたはあなたで、スマイ
ティRをずっと食べるようになるわけだから、磨きが掛かるでしょう、その身
体に。結果的に、売れっ子になる。今の何倍もね」
おだてられ、乗せられるのは市川相手で慣れているが、白沼から言われると、
いやにくすぐったい気持ちになる。さっき握手したとはいえ、居心地の悪さを
感じてむずむずする純子に、白沼は顎の先辺りで両手を合わせ、さらに続けた。
「そうだわ。コマーシャルでも、あなたがスマイティを食べていることをアピ
ールしなくちゃね。食べるシーンの他に、台詞でも。『毎日食べています』と
か何とか。ねえ、支倉さん。いいでしょう?」
わずかに媚びた響きを滲ませ、白沼が言った。ねだられた支倉は、満更でも
なさそうに頬を緩める。偉いさんの娘の言うことを聞けば、出世につながるの
だろうか。
「まあ、こういうCMの定番の台詞ですから、いいんじゃないですか。どうで
しょう?」
支倉は市川と相羽の母に向き直った。後者が答える。
「今から具体的に企画するのは気が早いかと存じます。が、確かに定番のフレ
ーズですね」
「え。そういうのはちょっと、よくないんじゃあ……」
異議を唱えたのは純子。上機嫌だった白沼が、横目でにらみを利かせてきた。
「何か問題ある?」
「だ、だって、私、スマイティもスマイティRも毎日食べてないんだから」
「CMが流れる頃には、毎日食べているわよ。それでいいじゃない」
「でも」
と言ったきり、口ごもる。
(撮影した段階では、食べてないか、食べていても効果は出ていないと思うん
だけれど。私の肌を見て視聴者が買うかどうかを決めるとしたら、そういうの
はよくない気がする……)
そう感じたからなのだが、とても声にはできない。こんなこと、口に出すと、
肌を自慢しているみたいじゃない。
「まあまあ、その辺りのことは、後回し」
市川が仲裁に入ってくれた。
「それよりも、私にとって重要なのは、この仕事の契約のことなんだけどね」
ざっくばらんな物言いは、もちろん支倉にではなく、白沼に向けてのもの。
ようやく接し方を心得たようだ。
「お金の話は支倉さんに任せていますから」
白沼の返事に、市川は口元を少し歪めた。
「うん、それも大事だ。けどね、まず、お受けするかどうかをはっきりさせな
いことには、話が進められない」
「あら。すみません。私、てっきり、引き受けていただけるものだとばかり」
手のひらを口に当て、驚きつつも笑顔の白沼。ひるんだり、くじけたりする
様子を微塵も見せない。むしろ、状況を楽しんでいるかのように、純子の目に
は映った。
「考える時間はどれぐらいいただけます?」
「遅くとも一両日中にお願いしたい。いや、本心を言えば、スマイティRを知
ったからには、この場ですぐ、承諾の返事をいただきたいのですが」
「ご要望に添った答をしても、私はかまわないのですけど、先ほども言いまし
た通り、ルークはタレントの意向を重視しますので」
言いながら、純子に視線を送る市川。
(確かに私の意向も聞いてはくれるけど、今まで、たいていは市川さんの意向
通りになってきた気がする……)
そう思うと、ちょっと反発してみたくなる。だが、それ以上に、断る理由が
見当たらない。白沼が一枚噛んでいるから嫌、なんて理屈は通じまい。そもそ
も、悪い話でないのは、純子にもよく理解できた。
逆に、断ったら、白沼から何て言われることやら……。
「やります。喜んで」
純子が答えると、支倉以上に、白沼が大喜びした。席を立ち、拍手を三、四
度してから、純子の手を握る。それを上下に振りながら、
「ありがとう! よく引き受けてくれたわ」
と、一際高いテンションで喋る。
「さすが、涼原さん。これで成功間違いなしね」
「そ、それはどうかと……」
「いいお付き合い、いい仕事ができるように、がんばっていきましょう、ねっ」
「は、はい」
どうしても悪意を感じてしまうのは、純子が気にしすぎなだけに違いない、
きっと。
引き受けると返事したことを、ちょっぴり後悔しないでもない純子の左隣で
は、支倉と市川が、早速契約の話を始めていた。
(白沼さんてば、私を忙しくして、相羽君に会わせないようにする作戦なんじ
ゃないかしら)
純子がそう勘繰りたくなったのは、白沼がCMの他に、別の仕事の提案を積
極的にしてきたため。いくつも候補を挙げられたものの、全部を引き受けるの
はとてもじゃないができない。かといって、全て断るのも今後に響くかもしれ
ない(市川に至っては、「もったいない」と言い切った)。結局、一つだけ、
以前から打診のあった遊興施設テラ=スクエアのイメージガールの件を前向き
に検討する、という形に落ち着いた。白沼の言っていた通りになったわけだ。
CMに関する仮の契約を終えて、ルークの事務所を出ると、純子は往路と同
じく、相羽の母の車に乗った。後部座席右手に座り、はあ、と息をついた。
「純子ちゃん。少し寄り道するけれど、許してね」
「はい、全然かまいません」
答えてから、再びため息をつく。すかさず、運転席から声が掛かる。
「どうかしたの? 確かに私も、あの子の――白沼さんの姿を見たときは、面
食らってしまったけれども、この仕事そのものは最上級にランクできると思う
わ」
「……おばさまは、どこまでご存知なんでしたっけ……」
まだため息の続きみたいな喋り方をしてしまう純子。これではいけないと自
覚し、軽く頭を振った。
「どこまでって、何のこと?」
車は、大通りを二本横切ってしばらく行った地点で右に折れ、高架下の道路
を進む。
「えっと、白沼さんが信一君を……好きということをです」
「それなら聞いた」
どこか弾んだ調子で答える相羽の母。やはり、息子が異性にもてるというの
は、嬉しいものなのだろうか。
「信一は昔から、ぶっきらぼうな割に、女の子達にもてるのよね。どこがいい
んだか」
「す、すごく、いっぱい、いいところありますよ」
フォローではなく、事実を言ったつもりだが、何しろ彼氏のことを話す、そ
れもその母親に向かってというのは、極めて恥ずかしい。話そうとすると、歯
の根が合わない感覚がした。
「ふふふ。それは分かっているわよ。私は母ですから」
「は、はい……そうですよね」
いたたまれない心地になって、下を向いた。振動が伝わってくるのを意識す
る。
「今も白沼さん、信一のことが好きなのかしら」
「え……っと。どうなんでしょう……多分、まだ好きなんだと思いますが」
答えてから、このやり取りに違和感を覚え、考え込む。じきに気付いた。
(おばさまは何故、「今も」と付けたの? まるで、好きでも、相羽君とは付
き合えないと知っているみたいに)
これを発展させると……。
(相羽君と私が付き合ってるってことを、知ってる?)
続いて出た相羽の母の言葉は、あたかも、純子の思考を読み取ったかのよう。
「今は、純子ちゃんでしょ」
「え?」
「今、信一と純子ちゃんは付き合っているんでしょう?」
「――はい。付き合っています」
ほぼ、即答できたのは、聞かれたら正直に認めようと思っていたから。
相羽は隠していたのかもしれないが、話しておくにはよいタイミングになっ
たと信じたい。
「やっぱり。よかったわ。それじゃあ、今度の仕事は、ちょっと因縁のある相
手と一緒にすることになったわけね」
相羽の母の反応は、純子自身が肩すかしのように感じるほど薄かった。当然
のこととして受け入れてもらえたのは嬉しいけれど……。関心の対象は、白沼
にあるらしい。
「おばさま。想像できてたんですか」
「わざわざ仕事の席についてくるなんて、白沼さん、何かあるんだと思ったわ。
一番ありそうなのを口にしてみたら、当たっただけよ」
「実は少し前に、白沼さんから何か仕事を頼むかもしれないから、そのときは
よろしくねって言われてたんです。だから、今日の話がαグループのものと予
め分かっていれば、心の準備もできたのに……」
「そうか、伝えておけばよかったわね」
「あーあ。撮影されてるとこを、白沼さんに見られるのかと思ったら、少し憂
鬱」
「それなのに引き受けたのは?」
「えっと……うーん、あんまり深く考えてません。断って、嫌な感じを持たれ
たくなかったし、白沼さんと喧嘩してるわけじゃないんだし」
「信一を撮影現場に連れて来て、いいかしら」
「え?」
会話が途切れ、純子は後ろから運転席を見つめた。車は、小高い丘を巻く道
に入って行った。
「揉めさせようと思って言ったんじゃないのよ」
ルームミラーの中で、相羽の母が白い歯をこぼす。
「そ、それは分かってますが」
「少し前からね、信一が見に行きたいと言い出したの」
「へぇー、信一君から言い出したんですか」
意外に感じるとともに、嬉しくもなる。過去にも、撮影現場に来てくれたこ
とは何度もあったが、どことなく不承々々というか、不機嫌さがにじみでてい
た。それが今回、彼自身が望んだのだという。
「私は全然問題ありません。見てほしいぐらい」
純子も昔は、仕事ぶりを相羽に見られるのは余計な緊張を強いられるので、
いやだなと感じた頃もあったが、今は違う。
「それよりもおばさま。どうしてそんなことを? わざわざ私に断らなくたっ
て……」
「理由は、さっき純子ちゃんが言ったばかり。白沼さんが今でもうちの息子を
好きなら、彼女とあなたと信一とが鉢合わせするかもしれない。それで気まず
くならないのかしらって。お節介だった?」
首を大きく横に振る純子。
「そうだったんですか。お節介なんてとんでもない。うん、杞憂ですね」
「なら、いいのだけれど」
「ところで、どちらに向かってるんですか? 早く帰らないと、信一君、心配
しちゃいますよ」
これの方がよほどお節介かなと思いつつ、尋ねてしまうのは、純子自身、相
羽のことが気になっている証拠。
「あら。これから行くところに信一がいるのよ」
目を見開いてきょとんとする純子に、説明が付け加えられる。
「ピアノを弾きに行ってるの」
「――ピアノ、続けてるんですね」
「そうよ。信一は何も言ってない?」
「特に何も。でも、一月だったかな。続けるとだけ聞いてました。本当に続け
てるんだと分かって、よかった。信一君、前から上手でしたけれど、エリオッ
ト先生から習うようになって、もっと凄くなりましたよね。教え方がうまいの
かな。それともフィーリングが合うとか」
「そうね」
相羽の母からの返事が、急に素気なくなったように感じた。気のせいだと思
うが、考えたり尋ねたりする間もなく、車は目的地に到着した。
「あれ? ここ、エリオット先生のいる学校じゃないですよね?」
見覚えのない、音楽スタジオらしき丸屋根の建物が小高い丘を背景にしてい
る。まだできて間もないと見えて、きれいな外装だ。
「ええ。ここは鷲宇さんの紹介。大学の方は春期休暇に入って、色々と都合が
あるみたいなの」
今度は優しい調子で答が返ってきた。さっきのはやっぱり、自分の勘違いな
んだ。純子は気分を切り換え、車を降りた。
「あ」
いきなり、相羽の声。外に出て待っていた彼は、純子が来ることを知らなか
ったに違いなく、慌てた足取りで駆け寄ってきた。
「早く帰ろう」
「そ、そんなに急がなくても」
純子の背を押す相羽は母親に向かって、「後回しでいいって言ったのに」と
不平そうに口を尖らせる。
「会いたかったくせに」
笑み混じりに返され、たちまち沈黙する。それでも相羽は純子に対して言っ
た。
「とにかく早く帰ろう。疲れないように休まないと」
「わ、私、そんなに疲れてないよ。気疲れはしたけれど……」
答えながら、そういう意味だったのねと合点する純子だった。心配してくれ
るのは嬉しいものの、大げさすぎる。ちょっと遠回りするくらい、何でもない。
「気疲れって、何か嫌な仕事だったの?」
二人とも後部シートに収まってから、相羽が聞いてきた。純子が、白沼が姿
を見せたことを説明すると、
「白沼さんが来た?」
と、相羽は声を大きくした。純子は、さっき相羽の母が見せたような笑み混
じりの表情でうなずく。もちろん、こちらの笑みは苦笑いだが。
「何か言ってた? いや、その、仕事以外のことで」
「皆無よ。世間話はほとんどしなかったというか、できなかった感じ」
「じゃあ……白沼さんと仕事でうまくやって行けそう?」
「それはまだ始まってないから、何とも言えない。厳しい注文を出されて、し
ごかれそう」
相羽の顔つきがちょっと変わる。困ったような、もどかしいような、居心地
の悪そうな。
しばしの静寂。振動音だけの車内は、明らかに相羽の次の言葉を待っていた。
やがて彼は口を開いた。
「純子ちゃん。もしもやりたくないのなら――」
「それは大丈夫。心配しないで」
全部は言わせず、純子は相羽の方を向いて自己主張。微笑ましくて嬉しくっ
て、くすっとしてしまう。母親も同様だった。
「契約もしちゃってるのよね。だから今更やめるのは難しいんじゃないかな」
おどけた口調が運転席から届く。相羽は気に入らないという風に、かぶりを
振った。
「相羽君。そんなに心配だったら、見に来て。それでね、白沼さんが私に厳し
い注文を付けたら、助けてくれたらいいわ。あなたが優しく声を掛けたら、白
沼さんも厳しいこと言えなくなるでしょ。あはは」
「……考えておくよ」
純子の冗談に、相羽は疲れたようにうなだれた。
帰宅してから十数分後、純子の携帯電話が鳴った。夕飯までの間、春休みの
宿題を少しでも片付けておこうと自室で机に向かった矢先だっただけに、決心
が鈍りそう。でも、出ないわけにもいかない。
「うん?」
表示された相手先の番号に、微かに首を傾げる。
相羽の自宅の番号だ。仕事の話なら、たいていは相羽の母が所有する携帯電
話から掛かってくる。逆に、プライベートの話、つまり相羽からの電話だとし
ても、少々おかしい。彼は、純子の携帯電話は仕事用なのだとはっきり区別し
ている。
とにかく出てみる。
「もしもし……?」
第一声に、訝る響きが滲んでしまったかもしれない。二人の内、どちらが掛
けてきたのか分からないというのは、何だか不安になるもの。
「あっ、僕。今、時間はいい?」
相羽の声が返って来た。ひとまず、ほっとする。
「時間は問題ないけれど、どうしたの? さっき別れたばかりだし、こっちに
掛けてくるなんて……」
「桜、見に行こう」
「え?」
こちらの疑問に対する返事ではなかったせいか、聞き取れなかった。
「桜を見に行きたくない? お花見」
「お花見」
唐突だなぁ、と思いつつ、決して悪い気分ではない。ちょうど見ごろで、晴
天も続くらしいし、何たって、今ならスケジュールに充分余裕がある。
「うん、行きたい」
「よし。いつがいいかな」
弾んだ調子で、やり取りが進む。
純子は一応、手帳のカレンダーを開いた。
「月、火、木、金なら、まずOK。まさか一日中、どんちゃん騒ぎするんじゃ
ないでしょう?」
「もちろん」
「相羽君の方は、日、大丈夫?」
「うん。いざとなったら、レッスンを休むつもりだった。でも、必要なさそう」
「よかった。じゃ、あとは、他のみんなの都合ね。マコはおじいちゃんのとこ
ろで野菜作りのお手伝いって聞いたから、難しいかな。あ、相羽君は唐沢君を
誘うんでしょ? だったら、芙美達も。そうそう、それと場所取りはどうしよ
う?」
「あの、ですね、純子ちゃん」
普段より低い声で、ゆっくりした口ぶりになる相羽。純子は思わず携帯電話
を遠ざけ、電話そのものをまじまじと見た。急いで顔を再び寄せ、聞く。
「はい?」
「僕は誰も誘わない、君以外」
「……えーっと」
遅きに失した感はあるが、純子はようやく気付いた。これは、デートなのだ
と。今までのお花見の経験に照らし合わせていたため、友達大勢で行くものと
思い込んだのだ。あんなに二人きりで会いたいと願っているのに、肝心なとき
に、間の抜けたことをやってしまった。
「純子ちゃん?」
応答がなくなったのを心配してか、電話の向こうで名前を呼んでいる。急い
で答えた。
「ご、ごめんなさいっ! そうよね、当然、相羽君と私の二人で、よね」
「謝らなくてもいいんだけど。それよりも、君がみんな大勢で行きたいのなら、
そうしよう。考えてみると、別々の学校に行っている友達とは、今が一番会い
やすいもんな」
「ううん。あなたがいい。あなたと二人がいい」
「――携帯電話に掛けて、正解だったみたい」
「えっ」
「いや、もし家の電話に掛けていたら、さっきの純子ちゃんの台詞、お父さん
やお母さんに聞こえていたんじゃないかな、って」
「――」
思い返してみる。と、頭の中が大騒ぎ。うわーっとなる。顔が熱い。携帯電
話を、まるで固定電話の送受器のごとく、しっかと握り直した。
「そ、それで、車の中では話さずに、電話、それもいつもと違って携帯電話に
掛けてきたの? 恥ずかしい台詞を両親に聞かれないように……」
「まさか。そこまで見越してはいなかった。ただ、こっちとしては二人きりの
デートに誘うつもりだったから、やっぱり、なるべく内緒にした方が……」
二人とも、しばらく静かになってしまった。
次に口を開いたのは、純子の方。
「あ、相羽君の方は、おばさまに聞こえていないの?」
「多分。台所までは届かないだろ」
それだけで少なからず安堵した。気持ちを落ち着かせ、改めて答える。
「お花見には、お弁当を作って行くわ、二人分」
「よかった。楽しみにしてる」
相羽は嬉しそうにそう言ったあと、口調を若干、真剣なものにして付け加え
る。
「でも、もしも仕事で疲れているようなら、無理をしない」
「平気よ。それにこんなときぐらい、無理をさせて」
「いっつも、無理をしているように見える」
「そんなことないってば。どうしても心配なら、簡単なメニューにしちゃおう
かしら。サンドイッチとか」
「サンドイッチ、いいよ」
「む。ちょっとは残念がってほしいのに」
見えない相手にむくれてみせる。電話を通じて、そんな気配が伝わるはずも
ない。
「手料理を食べられるのに、どうして残念がらなきゃいけないんだか」
相羽が言った。うれしさを抑えきれず、心が飛び跳ねているみたいな口調で。
――つづく
#335/369 ●長編 *** コメント #334 ***
★タイトル (AZA ) 08/11/30 23:59 (499)
そばにいるだけで 64−2 寺嶋公香
★内容
天気予報通りの快晴に、家の門扉を一歩出た純子は空を仰ぎ、目を細めた。
汗ばむでもなく、肌寒くもなく、心地よい朝だった。風が多少あるものの、こ
れから気温が上がるであろうことを考えれば、ちょうどいい。今日は帽子をな
しにして、正解と思った。
そんな爽やかさとは裏腹に、純子自身は寝不足気味。連日の仕事やレッスン
は春休みに入って、量を増している。それに加え、今朝は早くから起き出して
お弁当作りに精を出したのだから、寝不足も道理というもの。幾度、あくびを
かみ殺したことか。いや、最早、こらえきれなくなっている。
「喜んでくれるかな」
口元を空いている片手で隠しつつ、自分の着ている服を見下ろした。桜色の
ワンピースは、今日という日への期待感の表れでもあった。
「それにしても、早すぎた……?」
ペンダントに付いた時計を手に取る。もう片方の手には、もちろん、お弁当
の入った籐製のバスケット。中はしっかり、断熱構造になっている。
相羽が迎えに来る時刻まで、まだ三分はあった。早からず、遅からず、時間
をきっちり守るのを常とする彼のことだから、三分間、待たねばなるまい。
と、覚悟した矢先、往来の右手から、相羽が姿を見せた。
「あ? 遅れた?」
純子を見つけた相羽が、焦った風にそう口にするのが聞こえる。純子はすぐ、
「遅れてない、遅れてない」と歩き出しながら言った。お互いに近付き、立ち
止まったところで、再び純子が口を開く。
「相羽君こそ、珍しい。早く来るなんて」
「絶対に遅刻したくなかったからかな。つい、歩調が速くなったみたいだ。あ、
おはよう」
これに純子は挨拶を返すと、一番に聞きたかったことを言った。
「腕を組んでもいい?」
「……か、かまわないよ」
目元を赤くし、顔を逸らし気味に答えた相羽。何だか久しぶりに見た彼の反
応に、純子は思わず、バスケットを置いて、一人でできる方の腕組みをしよう
かしら、なんて意地悪を考えた。無論、実行はしなかったけれども、その分、
含み笑いをする。
「どうかした?」
「何でもない。ただ、わざわざ聞くことじゃなかったね、って」
腕を絡ませることなく、先んじて歩き出す純子。両手を後ろで組んで、スキ
ップみたいな足取りで。
「あんまり飛び跳ねると、バスケットの中身、大丈夫かい?」
「――忘れるとこだった」
後ろから注意され、手を前に戻すと、バランスがいいように持ち直した。
「飲み物は、途中で買うつもりでいるんだけれど、いい?」
「うん。結局、どんなお弁当にしたの? それを教えてくれないと、飲み物を
決めにくいな」
着いてからのお楽しみ、と答える気でいたのだが、飲み物を決められないと
言われては仕方がない。正直に教えることに。
「最初は本当にサンドイッチにするつもりだったの。でも、気が変わって、お
にぎりと、おかずは鶏の唐揚げ、煮付け、それから……」
「コーヒーやジュースよりも、お茶が合うってことだね」
「そうそう。さすがにデザートは用意できませんでしたから」
余裕があれば付けたかったが、時間的にも容量的にも難があった。早起きし
て作ったはいいが、男子にとってちょうどいい分量を知らないものだから、勢
い、多めに詰め込むことに。結果、デザートを入れるスペースがなくなった次
第。
(付けられたとしても、カットした果物なんだけれど)
次の機会にがんばろう、と誓う純子であった。
バス停に着くと、時刻を確かめる。目的地は、城南の公園。普段、滅多に利
用しない系統のバスに乗り、揺られること十五分ほどで着く。
やがて、定刻から五分ほど遅れてやって来たバスの中は、なかなか混み合っ
ていた。やはり花見客が多い。手荷物から容易に想像できた。
「これだけ多いと、知ってる人と会うかもね」
「うーん、それは避けたい。折角、二人なのに」
小さな声で言葉を交わし、密やかに笑い合う。見つかったら見つかったとき
のこと。これから先、二人きりで花見に行くチャンスは何度でもあるのだから。
三つ目の停留所で、並んで座っていた乗客二人が降りた。目の前の座席が空
いた。純子達は周囲を見て、他の人が座れるように通路を空ける。
一つ分の席は、四十代ぐらいの女性が占めた。が、その左隣の席は、誰も気
付かないのか、それとも近くにいる学生(純子達のこと)に座られるものと思
われているのか、バスが走り出してからも空いたまま。
純子は相羽と目を見合わせ、ともに座る意思がないことを確認すると、近く
で手すりに掴まっていた女性に声を掛けた。背を丸めて、いかにも辛そうに見
える。六十をとうに越え、もしかすると七十代かもしれない。見た目で判断す
る限り、このバスで立っている乗客の中で、最も席を必要としている人だろう。
「あの、空きましたよ」
くだんの女性は耳が遠いらしい。斜め前に立つ純子から話し掛けられたこと
は分かっても、声は聞き取れなかったのか、耳に手を当てる仕種をした。
純子は同じフレーズを繰り返し、座りませんかと持ち掛けた。
「ああ、ああ、ありがとう」
ゆったりとした動作で二度、頷くと、女性は足の向きを換え、歩き始めた。
かなり危なっかしい。走行中であることも考え、純子は手を差し伸べた。
「すまないねえ」
女性は手を借りても、まだ危なっかしかったが、どうにか、よっこらしょと
いう具合に、席に収まった。その頃には、もう次の停留所が目前だった。
「ありがとうね」
二度目の礼に、何だか照れくさくなる。いえいえと首を横に振った。
「ほんとなら、息子達と一緒に乗るはずだったんだけれど、予定がずれてねえ。
一人でバスに乗るのは久しぶりで」
「息子さん達とは、どこかで落ち合うんですか」
「ええ、ええ。お城の公園で」
この女性もお花見だ。しかし、大勢の人でごった返すであろう城南公園で、
うまく落ち合えるのか、少し心配……。
そんなことを思った矢先、下から声が掛かった。
「その荷物、持ちましょうか」
「え? あ、これですか」
バスケットを見下ろす純子。
「ご親切にありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。傾いてこぼれるよう
な物は入っていませんし、これくらいの混雑なら押しつぶされることもないと
思いますから」
嫌な感じにならないよう、気を遣いつつ断ろうとしたため、語調がやや固く
なった。それがかえって相手の機嫌を損ねたのか、女性からすぐの返事はない。
聞き取れなかったにしては、様子が変だ。
「あ、あの」
「お弁当ね?」
突然、そんなことを言った相手の女性は、顔いっぱいに笑みを広げている。
表情ばかりか、口ぶりも若返ったよう。
純子が正直に、というよりもむしろ呆気に取られ、「はい、そうですが……」
と答えると、今度は嬉しそうにうなずいた。
「そちらの殿方と一緒に、桜の木の下で食べるのは、きっと、とても楽しいわ
ね」
純子は相羽と顔を見合わせた。声は当然、彼にも聞こえている。
「あらあら、私ったら……。詮索してごめんなさい。あなたぐらいの頃、煮物
を作って、届けたことを思い出したから。お花見は、二人きりでは行けなくて、
大勢の友達からどうやって離れようかと、苦心したわ……」
そう語る彼女は遠くを見る目を細め、昔日の記憶に浸っている様子。とても
幸せそうに映る。
「――春って、いい季節ですね」
思わず、つぶやきのように言葉が出た純子。相手の女性は微笑みをたたえて、
ゆったりとうなずいた。
「ええ。ほんと、いい季節になりました」
定刻通りにバスは到着した。お城の公園で一緒に降りるや、すぐさま、女性
の携帯電話が鳴った。「持たされてねえ」と言いながら、まだ慣れていない手
つきで電話に出る。会話の断片から、掛けてきたのは息子さんか誰かで、場所
取りのため動けない、これから言う場所に一人で歩いて来てくれということら
しい。
「ご一緒しましょうか?」
電話を終えた女性に尋ねる純子と相羽だが、返事はやんわりとした拒否だっ
た。
「あの子達に、私が他人様の厄介になっているところを見られると、口やかま
しくてね。幸いにも、人出は思っていたほどではないから、平気でしょう」
「そうですか……。では、お気を付けて。あ、お話、ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ」
一番初めの印象からすると、随分と若く、快活な仕種を見せる。この分なら、
ちょっと歩くぐらい、大丈夫だろう。両サイドに露店の建ち並ぶ道を、しっか
りとした足取りで進む。
「いい思い出を持っている人は、年齢よりも若く見えるのね」
後ろ姿を見送ってから、純子がぽつり。
「って、あの人の歳、知らないけれど。でも、おばあちゃんになっても、あん
な素敵に笑えたらいいよね」
「なるほど。僕は、ああいう感じの歳の取り方、いいと思うな。何て言うか、
頼るところは頼るけれど、自分でできることは自分でするという気概があって」
「そこまで深読みする?」
「するする。――さて、ところで」
片手で庇を作り、辺りを見渡す相羽。
「場所取りのことを考えていなかった僕らに、土地の余裕はあるかな」
心配せずとも、城の公園は広い。大人数でならともかく、二人が座れて、そ
こそこ桜を楽しめるスペースなら、まだ残っている。ロマンティックとか、い
いムードからは縁遠いが、それはここを目的地に選んだ時点で、あきらめるべ
し。むしろ、相羽も純子も無意識の内に、そういう方向に進むのを避けようと
する心理が働いたのかもしれない。
「お昼には少し早いけど、お弁当、食べる?」
ミニサイズのシート――風情のない青一色のやつじゃなく、白に淡いピンク
色で桜の花びら模様を散らしたデザインだ――を広げ、とりあえず“領地確保”
をした。お花見にはさほど悪くない立地。ただし、日差しがない。が、時間が
経つにつれて解消されるだろう。
「出店で何か食べ物を買うつもりなら、お昼は早いに越したことないよね」
「その言い方、私が買い食いをすると?」
「しないの? 着色したみたいに真っ赤なりんご飴とか、コーン内部がすかす
かのアイスクリームとか」
「食べません。でも、一つだけ。公園の外になるけれど、桜餅の美味しいお店
があって、お土産に買って帰るつもり。個人的には、くるみ入りのが……思い
出したら、先に食べたくなっちゃうじゃないの!」
「食べたくなっちゃった、じゃないんだ? 問題なし、だね」
「う……そうね」
いつの間にか握っていた手のひらを解き、腕を下ろす純子。
「何だか、力が抜けた……」
シートの上に、ぺたりと座り込んだ。相羽の方は、立ったまま、周囲を見回
し始めた。
「どうかした?」
「まだ飲み物を買ってなかった。行って来るから、リクエストをどうぞ」
「ありがとう……でも、自動販売機の場所、分かる?」
「いや、知らない。ここに来ること自体、二度目か三度目ぐらいで」
「やっぱり。小学生のときの歓迎遠足は、ここなんだけど、相羽君は六年の途
中で転校してきたもんね」
「それはあんまり関係ないような……」
「いいから、いいから」
小首を傾げる相羽に微笑みかけ、純子は腰を上げた。
「私が行ってくる」
「じゃ、一緒に行こう」
「だめ。留守番をお願い」
「……分かった。日本茶の類なら何でもいいよ」
あきらめつつ、名残惜しそうな声で言った相羽。純子はうなずいて、自動販
売機のある方角へ急いだ。
けれども、歩を進める内に、思い直した。どこを向いても桜が観られる中を、
そんなに急いでは風情がない。仕事や早起きした疲れも残っているし、今日は
まだ時間がたっぷりあるのだから、のんびり、ゆったりしよう。
一番近い自販機まで、結構距離がある。その上、普段なら公園の中程にある
芝生のスペースを横切り、ショートカットできるのだが、今日は花見客でにぎ
わっており、そこを縫うようにして行くのはちょっと勇気がいるし、かえって
時間を要するかもしれない。
勢い、芝生のスペースを囲う形の径に沿って、迂回することに。そこから枝
道に入ってしばらくすると、飲み物の自動販売機がある。
(……うわぁ)
枝道に入るなり、目のやり場に困った。この辺りは、桜を観るにはあまり適
当でないが、その分、静かで人が少ない。人が少ないと言っても、いることは
いる。全てがカップルであった。こんな場所故、観桜そっちのけで、真っ昼間
からいちゃついているのは断るまでもない。
(よ、よその自動販売機に行った方がよかったかしら)
顔が火照るのを感じると同時に、冷や汗もかいている気がする。恐らく、カ
ップルの方は、他人のことなんて目に入っていないだろうけど、純子は足音を
潜め、なるべく静かに進んだ。
さすがに、急ぎ足に戻る。俯いて、砂利の少ないところを選んで行く。所々
にベンチがあるが、いずれもカップルに占拠されていた。ベンチの脚は見ても、
男女の絡み合いそうな足は見ないようにと、顔を背ける。
目的を果たし、両手にペットボトルを持って引き返すときには、いっそう足
早になって、半ば駆け抜けた。もう、静かにしようなんて、言ってられない。
首から上が熱くなってたまらなかった。
問題のテリトリーから脱出すると、春の日差しを浴びているのに、涼しさを
肌で感じたほど。相羽の姿を見つけると、ほっとしつつ、最後のひとっ走り。
相羽は純子に気付くと、声を掛けた。
「息を切らせるほど急がなくてもいいのに。……どうかしたの? 顔が赤い」
シートの直前で立ち止まった純子を、頭のてっぺんから爪先まで、相羽の視
線が一往復。それでも理由に当たりを付けられなかったのか、首をひねる。
「お花見に来たんだから、桜を観なさいって言いたい」
純子は状況を手短に伝えた。長々と話すと、思い出してまた火照ってきそう
なので、極力手短に。
相羽は黙って聞きつつ、ペットボトルを受け取ると、代金を渡してきた。当
たり前のように二人分。
「あ、いらない。家で作って来れば、必要のないお金なんだから」
「そういうわけにも行かないでしょ。実際、作って来なかったんだし」
「でも」
「逆に、お弁当を作って来なかったら、多分、どこかで買って食べることにな
るだろ。その場合、僕の分までお代を持つ?」
「それは……ないわね」
なんとなく納得。硬貨を受け取りながら、「そういうときは、逆に、おごっ
てもらっちゃおうかな、なんて」と返した。
「そりゃもちろん」
「うそうそ、今のなし!」
慌てて打ち消しておく。
にぎやかに話す内に、さっき目の当たりにしたラブシーンまがいの連続絵巻
は、遠くに去っていた。もしかすると、相羽が話題を飲み物の代金に移したの
は、わざとだったのかもしれない。
純子は膝をつき、靴を脱いで座った。若干、間は空いているものの、相羽と
隣り合う形になる。
落ち着いたところで、お弁当を広げる。たいして片寄っていなくて、内心ほ
っとした。
「にぎやかだね」
個包装の濡れティッシュを受け取った相羽が、手を拭きながら辺りを見渡す。
ここに来るまでのバズが満員だったことからも分かるように、あちらこちらに
青いシートが咲いている。幸い、カラオケセットを持ち込んだグループはいな
いようだが、二箇所ほどから昇る煙は、バーベキューのものだろう。どんちゃ
ん騒ぎに興じる一団があるかと思えば、ロープで囲った広いスペースに一人、
ぽつねんと陣取っている背広姿の若い男性もちらほら。
「平日だから、もう少しくらい、静かだと思っていたのに」
「静かな方がよかった? も、もしかして相羽君も」
忘れかけていた最前の光景を、自ら呼び起こしてしまいそうになった。
そんな純子の心の動きに気付いているのかどうか、相羽は「ううん。まあ、
どちらでもかまわなかった」と答え、箸に手を。
「時間が合えば、また別の日に、河原にでも桜を観に行きたい気もするけどね。
――いただきます」
手を合わせてから、唐揚げの一つに箸を伸ばす相羽。
時間が合えばと言うからには、そのときも純子と二人でという意味なのだろ
う。汲み取った純子は、知らず、頬を緩めていた。
「いただきます」
純子はそう言ったきり、相羽の方をじっと見る。反応及び感想を、期待半分
不安半分で待ち構えていると、手に力が入った。
会話が途切れた不自然さからか、相羽は自分に向けられる視線に気付いた。
急いだ様子で、口の中の物を飲み込むと、「おいしい」と言った。
「本当?」
「本当。そんな不安そうにしなくても、味見をしてるんじゃないの?」
「もちろんよ。自信がなかったわけじゃないけれど、肝心なのは、あなたの口
に合うかどうか、でしょ!」
「おいしい。君が作ったってだけで、うまい」
真顔で言ってから、相羽はにっと笑い、おにぎりを口に運ぶ。純子は赤くな
った顔を左右に振った。
「……もぉー、そういうんじゃなくって! 遠慮のない感想を言ってよ」
「香ばしくておいしいよ。味付けも……おにぎりの塩加減に、ちょうど合う濃
さになってる」
「よかった……って、それって、おにぎりが薄味だってことじゃない?」
「深読みしすぎ」
ため息をつくと、相羽はおにぎりの入ったバスケットを純子の方へ少し、押
しやった。
「早く食べないと、全部もらうよ」
「――うん、私も食べる」
やっと安堵でき、純子は二度目のいただきますをした。
早めの昼食だったが、お弁当の中身は何一つ残らなかった。
お腹が満たされると眠くなる。あくびをこらえつつ、片付けに取り掛かる。
ちなみにペットボトルは、まだ飲み切っていない。空にしても、自販機横の屑
入れはすでにいっぱいだから、持ち帰ることになる。
「足りた? 物足りなかったら、何か買って来る?」
「いや、充分。腹ごなしに身体を動かすつもりが、ちょっと億劫なぐらいさ」
そんな返事に、純子は心中で色々考える。
(ということは、相羽君にとって、お昼の適量はこれよりほんのちょっぴり少
なめでよし、と。あ、でも、今日は食べ始めるのが早かったんだから、ぴった
りと思っていいのかしら? ああ、分からないっ)
頭を抱えたくなる。直接聞けばすむ話なんだけれど。
「野球をやってる」
顔を起こし、相羽の視線の先を見ると、公園内の芝の上で、小学生になるか
らないかぐらいの男の子――距離があるから断定はできないが、多分、男子ば
かりだろう――達が、ビニール製のバットとボールで、野球をしていた。みん
な半袖で、帽子を被っている。十八人にはとても足りないが、間違いなく野球
だ。緑色のボールを追って、駆け回っている。
「まさか、腹ごなしの運動で、入れてもらうつもり?」
「さすがにそれはない。それに、小さい頃に遊んだのはほとんどサッカーで、
野球はあまりしたことないんだ。あの子らより下手かも」
「野球よりもサッカーが多かったのは、やっぱり、ピアノの関係で?」
「一応はね。別に、父さんから止められていたわけじゃない。突き詰めれば、
サッカーの方が性に合った、好きだということ」
「この前、野球部の試合を観ていたとき、結構、詳しそうだったけれど」
「そりゃあ、基礎知識というか……野球をしないにしても、観戦まで嫌いな男
って少数派だよ」
「それじゃ、基礎知識のある相羽君に聞きますが、我が校の野球部は、今年、
どこまで行けそう?」
「どこまでって、夏の大会だよね?」
「よく分かんないけど、夏の甲子園。今やってるのは、春の甲子園でしょ?」
「そう、選抜大会。ただ、甲子園に行けなかったチームの大半は、もう次を目
指して試合をしてるところだよ」
「そういえば、春休みの間も試合をするっていうのは、聞いた覚えがあるわ。
じゃ、じゃあ、もう夏の予選が始まってるの?」
慌てた口ぶりになったのは、佐野倉との約束を思い出したため。夏の地方大
会はなるべく応援に行く、と。
「ううん、違う。今はシード校を決める地区大会……のはず。ここである程度
勝っておけば、夏の予選で強豪校と当たるのがだいぶ先になる」
「つまり、今は、夏の地方予選じゃないのよね」
一安心。その安堵する様を目の当たりにした相羽も、くだんの約束について
思い出したらしい。一つうなずくと、
「応援するからには、勝ち抜いて、甲子園に行ってほしいと思ってる?」
と純子に聞いた。
「当然よ。だいたい、佐野倉君て、何故だか私のことを、その……勝利の女神
……みたいに思ってるところがあるし。だったら、期待に応えたいじゃないの」
自分のことを「勝利の女神」と言うのは、恥ずかしいにもほどがあった。そ
こだけ声が小さくなる。
「だから、どれぐらい勝ち進めそうなのかを予め聞いておけば、心の準備がで
きるっていうか、肩の荷の重さが違ってくるっていうか……」
純子の言い方に、相羽は咳を交えて微苦笑を浮かべた。それから答える。
「知ってると思うけど、春は地方大会で負けても出られる可能性がゼロじゃな
いが、夏は基本的に勝ち続ける必要がある。本番までに、佐野倉以外の選手が、
どれほど力を着けられるかが鍵だね」
「……」
もう少し分かり易く、お願い!――純子はそんな目付きをしたつもり。そし
てそれは伝わった。
「正直言って、緑星野球部が勝てるようになったのは、佐野倉のおかげだと思
う。力のあるピッチャーが一人いるだけで、ゲームを作ることができる。でも
それは、ある程度間隔を空けて登板すればの話。地方予選はトーナメントだか
ら、勝ち進むにつれて、日程が厳しくなるのは分かるよね?」
「ええ。たとえば、準決勝と決勝は確実に連続になるっていうことでしょ。天
気がよければ」
「そうそう。当然、エースの佐野倉の投げる間隔も狭まる。それだけ疲れがた
まり易くなり、百パーセントの力で投げるのは難しくなる。だから、佐野倉以
外の選手、特に投手がどれだけ育つかが重要というわけ」
「分かった。でも、『特に投手が』の意味が、まだ……。ピッチャーが育たな
いと、だめなんじゃないの?」
「それは、あまりありそうにない、極端な場合を想定したまで。ピッチャーが
育たなくても、打線が物凄くパワーアップしたとすれば、たとえ佐野倉が連投
の疲れから点を取られようと、それ以上に点を取れば勝てるっていう理屈」
「確かに、あまりなさそう……。それで? 結局、どのぐらい勝てそうなの」
「最近の試合や練習を見てないし、分かんない」
「〜っ。やっぱり、野球は苦手みたいねっ」
「そんな風に言われても困る。今、僕がどんな予想をしても、大会が始まった
ら、少なくとも一度は、応援に行くでしょ、純子ちゃん?」
「それはまあ、一度はね。無理をしてでも行くと思う」
「だったら、そのとき精一杯、応援してやればいいよ。声が届くようにね」
「……ねえ、相羽君」
思うところあって、語調を換えた純子。相羽も気付き、振り向いた。
「何、改まって」
「佐野倉君が転校してきたばかりの頃、変な噂が立ったの、知ってる?」
「変な噂……あったっけ。記憶にないなあ」
「野球部の強くない緑星に、佐野倉君が転校してきたのはおかしい。ひょっと
したら、他に目当てがあるんじゃないかっていう、あれよ」
「ああ、あったあった」
途端に手を叩き、相羽は声を上げて笑い出した
「目当ては君、涼原純子ではなく風谷美羽としての君だっていう噂ね、ありま
した」
シートの上に寝転びそうな勢いで、笑い声を立てる相羽に対し、純子は膝立
ちして、両腕を下向きに突っ張る。抗議の意思表示だ。
「わ、笑いごとじゃないわよー。今でこそ噂は収まったけど、私、まだ気にな
ってるんだから」
「悪い悪い。でも、君がいるから緑星に転校してきたっていうのは、想像力が
豊かすぎる噂で、あり得ないと思ってたから。それを真剣に悩んでいたんだと
聞いて、つい」
「ど、どうせ、私は思い込みが激しくて、早合点のおっちょこちょいです!」
「そこまで言ってないって。ごめん、謝る」
「……どうしてあり得ないって言えるのか、教えて」
「緑星に風谷美羽がいること自体は、調べれば分かるかもしれない。しかし転
校は、あくまで家族の事情、多分、親の都合だろう。子供が独りで決められや
しないよ。大金持ちの家に生まれてわがままし放題の箱入り息子なら、絶対に
ないとは言い切れないけどね」
「……納得した」
「よかった。たださ、僕の口から言うのもおかしいけど、佐野倉が君を気にし
ているのは、間違いない」
「やっぱり、そう思う?」
それくらいは、純子も自覚がある。相羽は気軽な口調で答えた。
「応援に来てくれたら絶対に勝つ、とか言ったんだから、そりゃあね」
「……で? そのこと、相羽君は気にならないの?」
「別に。モデルやタレントをやってると、仕方ないところがある」
焦ってほしいとか、やきもちを焼いてほしいとか、そういうつもりはないけ
れど。こうも素っ気ない反応は、ちょっと不満だ。
(じゃあ、佐野倉君が、もしも、私にもっとはっきりアプローチしてきたら?)
そう聞こうとした純子に、相羽の返事の続きが届く。
「本当は、モデルもタレントもしないでほしい。その気持ちは、昔からずっと
一緒だ」
「――ありがとう」
言葉が口をついて出る。振り返った相羽の目が、少し、びっくりしている。
「お礼を言われるようなこと、した?」
「した」
人目がなかったら、手をぎゅっと握って、上下に大きく振りたいくらい。長
らくお留守になっていた手を動かして、荷物をバスケットに詰め込むと、鼻歌
が出た。
「少し風が出て来た」
相羽が言った。さっきまで飛んで来ることのなかった花びらが、彼の手のひ
らにある。
次の瞬間、一段階強い突風が吹き、一片の花びらを相羽の手から取り去る。
同時に、たくさんの桜の木が花を一斉に散らせた。舞い落ちた花びらがそこか
しこで小さな渦を作り、やがて土に、草に、伏せる。
「ああっ……」
きれい――と見とれる一方で、残念にも思う。
「今年、もう一度、桜を観るんだったら、急いだ方がよさそうよ」
相羽の横顔を振り返り、純子が言う。風は収まり、何事もなかったかのよう
に、桜は咲き誇る。まだまだ大丈夫と言いたげに見えた。
「盛大に散る桜って、きれいだけれど、寂しい。寂しいけれど、きれいって思
えばいいのかな。あはは」
「……桜がもしも、春の花じゃなかったら、こんなにも感じ入ることはないか
もしれない」
「え……っと、夏に咲いたとしたら、散っていくのも豪快で、寂しさや悲しさ
は感じないだろうってことね?」
「うん。秋や冬なら、逆に寂しさ、もの悲しさばかりに感情が傾く。そんな気
がするというだけなんだけど」
日本の春は、別れと出会いの季節。寂しさと喜びが相次ぐ季節。そんな春に
こそ桜はふさわしく、桜は春にふさわしい。
「来てよかった」
二人は声を揃えていた。
「ほんとに、いい季節になったわ。夏も秋も冬もいいけれど、今は春が一番」
「はは、変な理屈。でも、凄く分かる」
公園内は、にぎわいを増していた。人の入れ替わりはあっても、減ってはい
ない。
「シートも片付けよっか」
純子は腰を浮かし、膝を立てた。
「いつまでも場所を占領していたら、悪いわ」
「僕はかまわないけど、早起きして眠たいんじゃあ……。もう少し休めば?」
「寝たければ、最初から家にいます。大丈夫。相羽君と一緒にいる間は、平気
だって」
純子が立ち上がると、相羽もそれならと立ち、靴を履いた。
散策と呼ぶにはいささか騒がしかったけれども、公園の中をぐるっと一周す
るコースは、思ったほど人の往来はなく、快適な散歩プラス観桜と言えた。
「……」
「……」
しばらく会話がなかった。せいぜい、「桜、きれいだね」「うん」ぐらいで、
あとが続かない。
無論、この二人が今の段階で、“会話はいらない”の域に達してるはずもな
く、互いに、何を話せばいいのかなと戸惑っていた。共通の話題はあっても、
このような他にも大勢いる開けた場所で、二人きりで話すというのには、まだ
慣れていない。
かと言って、焦りも退屈もしているわけでは決してない。二人で作り上げた
狭い範囲ながらも静かな空間を楽しんでいるのも、また事実である。
だから、不満があるとしたら、ただ一つ。
(こういうのって、友達同士でも大差ない? できることなら、恋人同士らし
いことを……)
隣を歩く相羽を、ちらと横目で伺いつつ、純子は思った。相羽はどちらか
というと純子ばかりを見ないよう努力しているらしく、桜の木から木へと視線
を移していた。それでも純子のことを気にする感じが、頭の微妙な動きや角度
で分かる。
純子は視線を戻した。そしてバスケットを見つめる。持って来た食事をきれ
いに平らげた結果、今はとても軽くなっていた。
「本当においしかった?」
純子が聞く。蒸し返したのは、色気がなかろうと、会話のきっかけがほしか
ったから。こちらを向いてほしいから。
「うん」
相羽は振り向いて答えた。
「こういう広い場所で食べたから、とか、お腹が空いていたから、とかを抜き
にして、おいしかった」
「また作るね。あ、相羽君も家ではお手伝いで料理、作るんでしょう?」
「作るという程じゃないよ」
「うそ。調理部で見た限り、手際よかった。今度は相羽君にお弁当を作ってき
てもらおっかな」
「……レパートリーが足りない。弁当向きのおかずを覚えないといけないな」
真剣に考え込む様子の相羽へ、純子は「冗談だってば」と急いで言い添えた。
すると相羽、困ったように答える。
「いや、僕の今の返事も、冗談のつもりだったのですが」
「――じゃ、お弁当とは言わないから、何か一品料理を作ってもらおうかしら」
二人の間に、笑い声が自然と生じた。
会話は弾んできたものの、やはり友達同士の域を出ないまま。傍目から見れ
ば充分、いちゃいちゃしていると映るかもしれないが、少なくとも純子と相羽
の二人にとって、これはいつものお喋りだ。
「知り合いがいても、気付かないまま、すれ違いそうだ」
辺りに目線をやりながら、相羽が呟いた。その言葉で、純子も他人の目を意
識した。
「お互いに気付かないんだったらいいけど、向こうが気付いて、こっちが気付
かなかったら、やだなぁ。学校で冷やかされる。せめて、みんなで来て、それ
からばらけた方がよかったかも」
「違いがよく分からない」
「だって、今のこの状況、内緒でデートしてるわけで……」
「内緒にしてると、あとでばれたとき、冷やかされかねないから、友達にいち
いち報告する? これからずっと?」
「うーん」
改めて言われるまでもなく、滑稽だ。
(要や久仁香とのことがあったから、オープンにしておきたいっていう気持ち
が強いのかな。けど、考えてみたら、聞かれもしないのに言うのって、嫌味に
なるかもしれない。
でも、どこまで進んだのか、なんて聞かれたこともあるし……あれは絶対、
行き過ぎのお節介だと思う)
考え込む純子の隣で、息を漏らす気配があった。振り向けば、相羽が前方を
見つめている。
「ここは、一段と……」
歩みを止め、感嘆するのもうなずける。小径の両側には桜並木。枝を茂らせ、
伸ばして、頭上を覆っている。桜の花のトンネルの入り口だ。足下にも、花び
らが、まるで敷き詰めたようにある。さっきの風のせいだろう。
(こんなにきれいにトンネルになっているのは、私も初めて)
純子も声を出すのすら忘れて、立ち止まった。
――つづく
#336/369 ●長編 *** コメント #335 ***
★タイトル (AZA ) 08/12/01 00:00 (498)
そばにいるだけで 64−3 寺嶋公香
★内容
それから、ふっと思い立つ。今朝のことが脳裏に描かれた。
再度、相羽の方をちらっと見る。ただし、今度は彼の横顔ではなく、腕を。
純子はバスケットを左肘に掛けると、右手を相羽の左手に重ねようと伸ばし
た。
「――」
相羽が気付く。
互いの手がぎこちなくふれ、その温度や感触に一瞬、離れる。そしてまた近
付いて、今度は強く握り合った。
純子は彼との距離を縮めた。
「腕……いい?」
上目遣いになる。純子も背が伸びたが、相羽の成長はそれ以上だと実感させ
られる。
残っていた左手も、相羽の腕に触れさせた。返事は言葉ではなく、態度で。
腕を絡めやすいよう、相羽が肘を軽く曲げる。
二人の間にあった物理的な距離はなくなった。
行こう。
うん。
そんな会話を交わしたかのように、でも言葉のやり取りはないまま、歩き始
める。
そのとき、花びらが一斉に散り、舞った。純子と相羽が腕を組むのを、ずっ
と待っていたかのように、桜色したカーテンが現れ、儚く姿を消した。
恋人達の会話を聞いたのは、桜だけなのかもしれない。
充分に時間を使って散策し終えると、二人は公園を出、純子の言っていた和
菓子店に寄った。予定より少し遅くなりかけていたので、買い物を手際よくす
ませ、バス停に向かう。
やがてやって来たバスは、幸いにも空いていた。
二人掛けの席に、純子が窓際、相羽が通路側の並びで座る。相羽の膝上には
空のバスケット、純子の膝上には鶯色の紙袋がある。袋の中身は、買ったばか
りの桜餅だ。くるみ入りのをちゃんと買えたので、純子はご機嫌かつ安心して、
にこにこ顔が止まらない。
「帰り、家に寄って行って。一緒に食べよ」
「うん」
「洋菓子だったら、紅茶を入れてもらうとこなんだけど、和菓子だから仕方な
い。私がお茶を入れるね。あは」
「ペットボトルの残りがあるけど」
「意地悪言わないでよー」
こんな調子でお喋りをしていた。が、やはり純子の方は疲れが出たのだろう、
バスの振動を心地よく感じながら揺られる内に、いつの間にか眠ってしまった。
「次だよ」
短いが優しい声と、肩への感触で目が覚めた。睡魔の深淵から一気に引っ張
り上げられた純子は、目をぱっちりと開け、意識もはっきりした。
「ご、ごめんなさいっ。寝ちゃってた……」
びっくり顔をした隣の相羽に、純子は何度も頭を下げる。
「気にしなくていいよ。起こしたのは、降りるとき、お姫様だっこするわけに
もいかないから」
「……」
その場面を想像した純子。顔の火照りを覚える一方で、悪くないかも、なん
て思ったり。
と、膝上に何もないことに気付いた。
「あ、桜餅!?」
「こっち」
相羽の膝上にあるバスケット、そのまた上に載せる形で、鶯色の紙袋があっ
た。
「よかった。落とすかなくすかしたのかと思っちゃった」
「実際、ずり落ちそうだった。それにしても、目が覚めて、次に気になるのが
食べ物だなんて」
「もうっ、知らない」
車内に、陽の光がやわらかに射し込み、あふれている。
「来てよかった」
降りてすぐ、どちらからともなく言った。
四月の第一週、『ファイナルステージ』初回の放映があった。そう、久住淳
としてアフレコに初挑戦したアニメである。と同時に、風谷美羽として初めて
歌――エンディング曲を唱っている。まさに初物尽くし。
「……やっぱり、まだちょっと浮いてるかな」
純子は録画しながら観て、前と同じ感想を持った。第一話だけ、先行プレミ
アステージと銘打って、試写会が行われたのだ。その折、純子も会場にいたの
だが、上映終了後に、集まってくれたファン(原作漫画のファンが大半なのは
記すまでもない)の交わすひそひそ話が、全部悪口に聞こえて、内心どきどき
ものだった。
舞台挨拶のために、他の声優陣とともに姿を見せる段階になって、ようやく
ほっとできた。拍手喝采で迎えられたから。
ちなみに、そのあとの簡単な質疑応答で、再びどきどきさせられた。まだま
だトークが苦手なのを証明してしまった形である。
この手のイベントでは、主題歌を唱う歌手も登場するケースがよくあるが、
純子は頼み込んで辞退させてもらった。久住として挨拶し、その変装を解いて
今度は風谷として歌を唱うなんて芸当は、危険すぎる。番組資料上、風谷の名
は出さざるを得ないが、モデル業と学業が多忙なためとの理由で、表立った活
動は抑え気味にする取り決めもできていた。
番組が終わって、自分の歌をテレビで聴くという滅多にない体験に、ほわほ
わと身体を熱くした純子は、顔を洗いに席を立った。身も心もクールダウンさ
せ、タオルで顔を拭き終わったとき、ちょうど携帯電話が鳴る。
市川からだった。話の内容は、当然、放映があったばかりの新番組について。
「上々よ」
「本当ですか。どうしても一人浮いてる気が」
「アテレコのこともだけど、歌も。あれは私も結構、気に入ったゾ」
「は、はあ」
市川が仕事のことで自身の感想を述べるなんて珍しい、と感じて、中途半端
な返事になった。
「何ていうか、上下左右前後にとても広がりがあって、よいなあ。鷲宇さんの
言ってた意味が、やっと分かった感じよ。これまで男声を強いられてきたのが
解放されて、一挙に開花したってね」
「へええ、そんなことを鷲宇さんが」
「ありゃ、聞いてなかったのかい。それはまずかったかな。歌に関しちゃ、誉
め過ぎるなって釘を刺されててねえ」
「たまには誉めてくださーい」
笑い声を立てる純子。
心の中ではうなずいていた。それは指導方針のこと。確かに、歌は厳しく指
導された方が、自分に合っている。モデルや演技に関しては、誉められた方が
乗せられてうまく行く気がする。声優は……まだ何とも言えない。
「反響が大きければ、大々的にプロモーションをしたいっていう話があるのだ
けれど、やっぱりやめとく?」
「私の意志よりもまず、スケジュール上、無理なんじゃないですか」
ゴールデンウィーク中に、久住としてのミニライブをやる計画が進行してい
る。これまた初挑戦であり、諸般の事情により延び延びになっていただけに、
今度こそと準備に余念がない。
「さてさて、そこだ」
市川がおかしな物言いになる。純子は警戒した。電話を握る手に力がこもる。
「久住のライブの中で、風谷が“ゲスト”出演し、一曲披露するのはどうかし
らと考えたんだが」
「無茶ですっ、市川さん。鷲宇さんが許すはずありませんし、ファンは怒るだ
ろうし、正体を見抜かれる危険性だって段違いに高くなる。レコード会社との
取り決めにも触れるんじゃないんでしょうか」
「そこらは承知の上。取り決めはクリアできる。だって、向こうこそ、宣伝し
たくてたまらないに違いないんだから、どんどん唱ってくださいってなもんよ。
問題は二役の方。で、何か策はないかと思って、捻り出したのが、二部構成に
するというアイディアでね。観客総入れ換え制で、第一部は風谷美羽、第二部
は久住淳のライブをやる」
「もっと無茶苦茶です! だいたい、風谷には曲が一つしかありません!」
声を張り上げた純子に、後方から「どうかしたのか」と父の声がする。振り
返ると、新聞を片手に父が急ぎ足でやって来ていた。
「仕事のトラブルか? お父さんが出なくても大丈夫か?」
「うん、トラブルじゃないの。ごめんなさい、大きな声を出して」
送話口を手のひらでカバーし、応じると、父はそうかと安堵して元いた場所
へ戻っていった。
「市川さん、すみません」
「いいお父さんだねえ。こっちの仕事にはほとんど口を挟まないから、関心な
いのかと思っていたんだけど、なかなかどうして、立派な父親だ」
「わ、私の父の話はいいです。それよりも」
「分かってる。ライブ二部構成案もだめかな、やはり。あなたから鷲宇さんに
かわいくお願いしたら、通ると思うんだが」
「何なんですか、かわいくっていうのは」
もしかして市川さん、酔っ払っているのだろうかと疑いたくなった。
電話の向こうでは、そんな疑心などつゆ知らず、饒舌が続く。
「となると、今回はあきらめるとしても、いずれ風谷が単独でやるときは、鷲
宇さんにゲスト出演してもらうのがいいかしら。ゲストが鷲宇憲親なら、お師
匠格なんだからファンも納得するでしょう」
「もうどうとでもしてください……。その頃には、風谷だって持ち歌増えてる
かもしれないし」
近くある初ミニライブが無事乗り切れるなら、それでいいとしておく。
「前向きね。ポジティブシンキング、大いに結構よ」
「ポジティブ? 逆じゃないですか」
「持ち歌が増えてるってとこが。これからも続ける気、満々じゃないの」
嬉しそうな声を聞いて、純子は失言だったかと軽く後悔。別に嫌じゃないけ
れども、実質一人でルークを支えているような状況は疲れる。
ちょうどいいと思い、前から気になっていたことを尋ねてみようと決めた。
「あの。つかぬ事を伺いますが」
「なあに、改まっちゃって」
「ルークって、儲かってるんでしょうか……?」
「ええ。それなりにだね。少なくとも、私達のお給料が出るくらいには。抱え
ているタレントが一人で小規模にやってるからね。鷲宇さんへの依頼だって、
まともに頼んだら目玉が飛び出るくらい高くつくところを、私の最初のアプロ
ーチがよかったのか、それとも鷲宇さんがあなたを気に入ったからなのか、よ
くしてもらっているのよ。ただまあ、久住と風谷の二役をやってる関係で、売
り込みやら宣伝やらの諸経費が二人分かかるのがちょっと痛い。二役じゃなか
ったとすれば、あなたへ実際に渡すギャランティももっと多くなってた」
今でも充分すぎるくらい受け取っている気でいるのだが。美咲の手術のため
の募金に協力したこともあって、現在手元にはあまり残っていないものの、納
得している。
「何でそんなことを言い出したの? 久住か風谷、どちらか一つに絞った方が
よかったと思ってる?」
「もっと多くなってたって、まさか、合わせれば美咲ちゃんの手術費用をいっ
ぺんにまかなえる程じゃありませんよね?」
「ははあ。それはさすがに無理だぁ。財テクで何倍にもしないと」
「だったら、いいです。それよりも、ルークに新しいタレントを入れることは、
考えてないんでしょうか?」
「ん? 妹分が欲しくなった?」
声が弾む市川。妹分をデビューさせて売り出すのもいいかも、と算盤を弾き
始めたのかもしれない。
「違います」
即座に否定してから、一人だけという現状では肩の荷が重いという意味のこ
とを伝えた。
「――ですから、妹分とかどうとかではなくて、何人かの人を入れて、みんな
でルークを支えていくというのがいいんじゃないかなって。私も三年生になっ
たら、受験勉強で忙しくなると思うし、今のペースでは絶対に無理です。よく
分かりませんけど、事務所の将来を考えても、新人さんを育てていく必要とか
……」
「考えないでもないよ」
返答はあっさりとしていた。
「諸々の経費の問題は言ってもしょうがないし、脇に置くとして、だ。二人目、
三人目のタレントを入れるっていうのは考えの中にある」
「じゃあ」
期待に胸を膨らませる純子。
だが、その期待は、市川の次の一言でしゅるしゅると萎んだ。
「でもタレントを増やすと、あなたに辞められてしまいそうな気がするのよね
え。うちは風谷も久住も手放したくないんだ」
「辞めませんよー」
「心理的な話よ。ふっと、辞めたいなって思うとき、これまでにもあったでし
ょ」
「それはまあ……」
「そういうときに、事務所に他のタレントがいて儲けが出ているとしたら、割
と気軽に辞められる。今のまま、うちにはあなた一人しかいない状況なら、辞
めづらい。そういう性格じゃないかな、涼原純子って人は」
「……」
見抜かれている気がした。
これまで仮に純子がタレント活動を一切辞め、ルークが立ち行かなくなった
としても、市川らには広告の仕事に戻る道があるから、職を失くすことはない。
以前の地位よりもランクを落とされるかもしれないが、食うには困るまい。
それでも続けてきた理由の何分の一かは、タレントが自分一人だからという
意識。確かにそうだ。
(見抜いた上で、ずっと新しい人を入れないできたんじゃあ……ないわよね。
いくら何でも)
またまた疑念が持ち上がる。市川の次の台詞は、明るい調子で語られた。
「ま、誰か入れるって話も含めて、重荷を分散できるように対策を講じるから
さ。あなたには仕事に集中してほしいの」
「はい」
「よし、その心意気よ。では、話を戻すと……歌の発売に合わせて、一回だけ、
サイン&握手会みたいな営業をしたい、と。これはレコード会社からの要請で
断れそうにない」
「営業はかまいませんけど、人、来ます?」
「私は詳しくないんだが、アニメファンの集いみたいな感じでやりたい意向ら
しい。だから、かなり大勢来るんじゃないの」
「多すぎるのも……連続して何十人と握手したら、腱鞘炎か何かになって、身
体のバランスが悪くならないかな。そうしたら、モデルの仕事に悪い影響が出
るかも」
ささやかな抵抗。
「うーん。医者じゃないから、これまた私にはどうだか分からない。気になる
のなら、両手で代わりばんこに握手すれば? 右、左、右、左ってね」
相手が一枚上だった。
初回放送の翌日、学校に行ってみると、そこそこ話題になっていた。原作漫
画の読者層の中心が中高生なのだから、当然かもしれない。
が、漏れ聞こえてくる会話の内容から判断すると、『ファイナルステージ』
に純子が関わっていると気付いた人はいないようだった。久住淳としてやった
アフレコはともかく、エンディング曲を風谷美羽すなわち女として唱ったにも
かかわらず、気付かれないとは。
(あんまり注目されなかったかな。その方が好都合ではあるんだけれど)
テロップで「歌 風谷美羽」と短く表示された。たとえそれに目を留めたと
しても、その名が純子を示すと認識している人の割合は、案外低い。純子がな
にがしかの芸能活動めいたことをやっているとは知っていても、芸名を知らな
い者(つまり、活動は本名でしていると思い込んでいる者)がほとんどなのだ。
そんなことよりも。
「クラス替え、どうなったかな」
つぶやく純子。
そうなのだ。今日は新年度の始まりでもある。純子にとっては、高校二年生
としての生活が、名実ともにスタートを切るというわけ。
そして目下最大の関心事は、クラス分けだった。
(贅沢は言いません。相羽君と同じクラスになれたら。それだけでいいですか
ら、お願い)
掲示板のあるところへ向かう道すがら、ほとんど無意識の内に、手を組み合
わせて念じていた。
「相羽と同じクラスになれますように……ってか?」
「え?」
不意の声に、足を止めて振り返る。唐沢が廊下の壁にもたれ、頭の後ろで両
手を組んでいた。彼の前を通り過ぎたと気付かなかった自分に呆れてしまう、
と同時に、恥ずかしい。
「すっずはっらさん。お祈りはいいとしても、歩きながら目を閉じるのはよく
ないと思うよん」
スキップするような足取りで距離を縮めた唐沢は、純子の前に立つと少し顔
をしかめた。
「あれま。また背が伸びたようで」
「え、そうかな」
反射的に自分の頭のてっぺんに、手のひらを持って行く。確かに、唐沢との
差が縮まった気がする。
「モデル的にはOKってとこ?」
「でも、相羽君に追い付いちゃったら、やだ」
再び歩き出し、ため息をつく。それを受けて、すぐ斜め前を行く唐沢が言う。
「男の背は、高校ぐらいからよく伸びるさ」
「……それって、私が男っぽいってことになるんじゃない? 体質的に」
「あ、いや、それは」
しまったという表情になり、そのまま背を向け、歩みを早める唐沢だった。
尤も、早足になったところで、目指す先は同じなのだから意味がない。
「そういえば唐沢君。相羽君を見掛けなかった?」
「いや。逆に俺はてっきり、一緒に来たのだとばかり。毎朝、迎えに来てくれ
るんじゃないのかい、相羽のやつ?」
冷やかしを交えつつ、意外そうに見返してくる。純子はまたため息をついた。
今度はがっかりした風情で。
「迎えはさすがに滅多にないけれど、途中で一緒になることはしょっちゅうな
のに。今朝は会えなかった」
「そんな、永久の別れみたいに。学期の初日ってのは、結構ばらばらになるも
んだし。ひょっとして、天文部で何かあったんじゃないのか」
「うーん、聞いてない」
話す内に、掲示板の前に着いた。当然、他にも見に来ている人は多いが、学
年別にそれぞれ大きく張り出されているので、ごった返すとまでは行かない。
「見える?」
「背が伸びましたから」
唐沢が聞いてきたのへ、最前の意趣返しをちょっぴり込めつつ、応じる。唐
沢は勘弁してくれと言わんばかりに、大きく吐息。と思ったら、不意に大きく
前に出る。
「こうなったら、涼原さんより先にクラス分けを見て、感激を薄れさせちゃる」
などと呟きながら。
「どういう意味?」
一歩遅れて掲示板に近付き、尋ねる純子。唐沢は振り向きもせずに、「もし
涼原さんが相羽と同じ組になってたら、そのことを君が見つけるよりも早く、
言ってやる」と早口で答えた。
「……確かに、感激は薄れるかも」
一緒のクラスになれている確信なんて、もちろんないが、純子は急いで掲示
板の文字に目を凝らした。まずは自分の名前、もしくは相羽の名前のどちらか
を見つけないと。
こういう場合、不思議なもので、どんなに好きな人の名前であろうと、自分
の名前の方が早く目に留まることが多い。事実、このときの純子もそうだった。
二年三組に自分の名前を見つけた純子は、すぐさま視線をその隣の欄の最上
段付近に移した。相羽の名前があるとしたら、そこだ。
即、見つけた。
「――あった!」
弾んだ声が重なる。隣の唐沢も、何故か同じように叫んでいた。
「自分の目で見つけられたわよ」
「ああ、俺も」
唐沢はそう言いつつ、右手を差し出してきた。
「俺もクラスメートだ。また一年間、よろしくってことで、握手を」
「え。あ、そうなの? よかった」
純子が手を握り返そうとした瞬間、廊下右手の方角から結城の声が耳に飛び
込んできた。
「あーっ、いたいた! 探したよ、純子」
振り返ると、結城の他に淡島もいる。二人は対照的で、朝から元気いっぱい
の結城の斜め後ろで、淡島は半分目を閉じているように見えた。挨拶を交わす
ときも、淡島はいつも以上に間延びした返事をよこした。
「調子悪そうだけれど……」
「心配をかけてすみません。大丈夫、今朝は特に低血圧な感じなだけです」
「恐縮するようなこっちゃない。気にしない、気にしない」
純子が気遣うと、淡島が謝り、結城が励ます。
その間、空気と握手したままだった唐沢は、右手で髪をかき上げると、女子
二人に「おはようさんで」といささか不機嫌な口調で言う。
「あら、いたんだ?」
「あら、ひどいご挨拶。俺ってどーも、涼原さんの友達にだけはもてない気が
する」
「『だけは』って、そういう風に言えるところが、厚かましい」
「ねえ、マコ。探していたって、何かあったの?」
際限なく続きそうな二人の喋りを打ち切ろうと、純子は結城に聞いた。
彼女は顔を純子に向けると、首を軽く横に振る。そして人差し指で掲示板を
示しながら、
「特にどうってことはなし。でもまあ、一緒のクラスになれたから」
と笑みをなした。
「マコも、淡島さんも三組?」
くじ運?のよさを感じつつ、聞き返す。
と、結城の方は訝しげに目を細めた。
「その様子だと、まだ確認してなかったわけね」
「ご、ごめんなさい。まだやっと自分の名前を見つけたばかり」
「それと、相羽の名前もな」
横合いから唐沢が口を挟む。頬をほのかな朱に染め、純子が焦り気味に抗議
しようとするが、それよりも先に結城がしたり顔を作った。
「なるほどね。うんうん」
「何が、うんうん、なのよ」
「言わせたいなら、大声で言うけれども、それでいいのかしらん?」
結城はにやにやし、純子は沈黙。
「ところで、相羽を知らない? 今朝、まだ見てないんだよ」
唐沢が純子の気持ちを代弁するかのように、結城らに問う。
すると淡島が伏せがちだった面を起こした。一言喋るのも辛そうに、大きな
ため息をつく。結果的に他のみんなの目を集めてから、口を開いた。
「私、見ました。職員室に用事があって、早朝に訪ねたのですけれど、その折
に、相羽君が、えっとあれは確か、神村先生と一緒に、生徒指導室へ入ってい
ったように見受けました」
「生徒指導室?」
聞き返したのは、結城と唐沢。どちらもその表情は不可解さいっぱい。
「何であいつが。生徒指導室なんかには最も縁遠い存在だぜ」
「内情まで承知していません。それに、相羽君を見たと言いましたが、後ろ姿
でしたので、ひょっとするとよく似た人を見間違えた恐れ、なきにしもあらず」
「似た人なんて、いない」
純子がすぐさま否定すると、淡島は「ですから、後ろ姿だけですってば」と、
驚いたみたいに目を丸くし、答えた。
「別に大したことないんじゃない? 生徒指導室に行ったからって、問題起こ
したとは限らないわよ」
結城が明るい調子で言う。
「個人的な話をするのに最適だからね、あそこは」
「でも気になる……」
考え込む純子。こういうとき、悪いパターンを真っ先に思い描いてしまう質
だけに、不安が募ってきた。
「この! 幸福者がそんな顔するんじゃない!」
突然、結城が後ろから肩越しに腕を乗せ、体重を掛けてきた。あえなくバラ
ンスを崩して、しゃがみ込むが、それだけでは終わらず、しりもちをつく。
「この中で唯一恋人のいるあんたが、そういう不景気な顔するのは許さないか
らねっ。くすぐってでも笑わせる!」
本当に脇腹をくすぐってきた。「お手伝いします」と、淡島も真剣な面持ち
で加わったから、たまらない。
「きゃー! やめてー、あは、だめだって。だめってば。元々弱いんだからぁ。
あはは、やだ」
純子自身はそう叫んだつもりだが、最後の方は声にならない掠れた笑いの悲
鳴になっていた。身体をよじって、ふと見えた唐沢に助けを求める。
「か、唐沢くーん、あん、やめるように言って。やーん」
傍観していた彼は、
「楽しそうかつ色っぽくて結構。だが、次からは、男も参加できる遊びにして
もらいたいですな」
と、頭をかいた。
「ま、そろそろやめないと、恥ずかしいぜ。みんな見てる」
唐沢が言う通り、掲示板のすぐ近くでこんなことやったものだから、注目さ
れるのは当然。知っている顔もちらほらあった。
それを承知していたのかどうか、結城も淡島も、タイミングよく、ぴたっと
手を引き、立ち上がる。身体を丸くして「防御姿勢」を取っていた純子は、や
っと収まった「攻撃」に、まだ安心できなくて、そろりそろりとガードを開け
て顔を起こした。ここでようやく、大勢の視線に気付き、慌てて立とうとする。
(は、恥ずかしい〜)
「あのねえ、マコ」
片膝立ちのまま、結城達二人に文句を言おうとするが、機先を制せられる。
「そのぐらい元気いいのが似合ってるわよ」
「はい?」
「些細な、はっきりしないことで悩まない。彼氏のいる幸せを噛みしめる方に
力を入れなよ」
結城と淡島が手を差し伸べ、純子の左右の腕を掴んで引っ張り起こす。
「あ、あのー……ありがと」
「どういたしまして。それにしても純子って、意外と感じやすいのね」
「……何かその言い方、やだ」
「そうそう。声も艶っぽく、とてもよかったですわ」
「それも嫌ーっ!」
大騒ぎの朝を経て、純子が相羽とその日初めて会えたのは、二年三組の教室
でだった。
年度始めは一旦教室に集まり、出席番号などを確認してからグラウンドなり
体育館なりで、朝礼を行うのが慣わしだ。それまでは、級友とお喋りに興じる。
窓から見える景色がちょっと変わり、まだ慣れない空気が新鮮だ。
と、そこへ近付いてきたのは……。
「おはよう、涼原さん。ちょっといいかしら」
「――白沼さん。おはよう……同じクラスになれたね」
「嫌?」
「そんな。全然」
意味ありげに笑みを浮かべた白沼に、ぶんぶんと首を横に振る純子。
「そうね。私も一緒になれて嬉しいわ。仕事も頼んだことだし、近くにいる方
が何かと便利だもの」
仕事という単語に、結城が耳ざとく反応する。
「仕事って、白沼さんが頼んだ仕事?」
「まあね。話せば長くなるし、伏せておかなきゃいけない点もあるから、説明
はしないけれど、仕事の関係でも涼原さんとお付き合いさせてもらうのは事実」
これを受けて、結城と淡島が、「伏せなきゃならないなら、初めから言わな
きゃいいのに」とひそひそ話。白沼に聞こえたら気まずいと思い、純子は声を
大きくした。
「ね、ねえ、白沼さん。何か進展があったの? 具体的な話がまとまったとか」
「いいえ。今日はただの挨拶。よろしくね」
「は、はあ……」
「それよりも、相羽君はどこよ。また一緒のクラスになれたと思って、喜んで
いたのに、いないじゃない。鞄すらないわ」
相羽と純子との仲を渋々ながら認めてくれた割に、ここまで開けっ広げに相
羽を気にする白沼。彼女らしいとも言えるが、まだ相羽に気があるのかもしれ
ないと思うと、純子にとってまた一つ不安の種が増える。
「私に聞かれても……」
生徒指導室に行ったらしいという目撃証言を話すべきか。否。不確実すぎる。
「知らないの? 付き合ってるのに?」
白沼が、あっきれた、を体現するかのように腰に手を当てる。
そのとき、朝のホームルームまであと五分と告げる予鈴が鳴った。ほぼ同時
に、相羽が教室に入ってきた。
「あ、相羽君」
白沼の顔越しに声を掛けると、相羽が振り返るのが分かった。けれども、白
沼も振り返ったため、視界が遮られてしまう。急ぎ、立った。
白沼が先に口を開く。甘えた声で、刺々しい台詞を言った。
「もう、どこへ行っていたの。出席番号一番なんだから、仮の学級委員長でし
ょう? 早めに来てもらわないと」
「えっと、何かあった?」
「ううん、特別なことは何も。先生が来たとき、いないとまずいじゃない。そ
れだけ」
白沼の話はここで終わり。純子が、さあ、話そうとした矢先、思いの外早く、
担任の先生――去年と同じく神村先生――がやって来てしまった。さっきの予
鈴から、まだ五分経っていないのに。
「じゃ、あとで」
口を開き掛けて固まっていた純子に、相羽は軽く手を振り、最も廊下寄りの
列、その先頭の机に向かう。
「あとで、ね……」
彼の後ろ姿に、純子もまた小さく手を振り、椅子にすとんと腰を下ろした。
このあと、出欠の点呼を取る先生に対し、返事の声に不機嫌な響きが少々混
じったのは、やむを得ないことかもしれない。
短いホームルーム後、全校生徒集まっての朝礼も滞りなく済み、教室に戻る
と、再びのホームルーム。宿題の提出は各教科の授業でするから、各人の簡単
な自己紹介と、それに続く学級委員決めがメインだ。
「――では次、学級委員を決めるわけだが」
神村先生が教壇に立ち、教室を見渡す。肌こそ日焼けしていないが、相変わ
らず、スポーツマン然としており、女子生徒の中には一部、熱狂的なファンも
いる。
「二年生と言っても、まだお互いによく知らない者もいるだろ? だから、選
挙をする前に……立候補するやつはいないか? 意欲があるなら、誰でもかま
わない。立候補者が一人しかいなければ、そいつに決定だ。二人以上のときは、
立候補者を対象に選挙をする」
「そんな奇特なやつ、いないんじゃ?」
一人が言うと、同調の声が続く。
「他薦ならまだしも、ねえ」
「そうだよ。先生、早く、ふつーに選挙やって、決めちゃおうよ」
神村先生は、出席簿を開いたり閉じたりしながら、次のように付け足した。
「動機は問わないぞ。目立ちたい、他の学年とつながりを持ちたい、内申の上
乗せを狙うのもいいし。そうだなあ、僕のテストに限り、学級委員の者が悪い
点だったら、学級委員の仕事が忙しかったことにして、ある程度は大目に見て
やらなくもないこともないことも……」
「どっちなんですかー?」
端からあきらめているような抗議調の声に、中程度の笑いが起こる。先生自
身、苦笑を浮かべた。
「まあ、今の話は確約できないけれどな。どんな下心があろうとも、がんばり
は認めるつもりだってことさ」
「じゃ、先生と少しでも一緒にいたいから、というのでもいい?」
数人の女子が声を揃えて言った。本気とも冗談ともつかない質問に神村は、
「そいつだけは却下。不純すぎる」
と即答し、さらに「だいたい、そんな奇特な生徒、いないだろ」と付け加え
た。これは、最初に発言した生徒の真似らしい。
「さて、そんなことよりも、誰も立候補しなかったら、僕が指名するつもりな
んだが」
「ええーっ!?」
笑い声が収まり、代わりにブーイング入りのざわめきが、瞬く間に教室を占
める。
「横暴だー」
「指名するが、強制はしない。やる気を見ると言ったろ。ただし、辞退するな
ら、説得力のある断り方をすること。単にやりたくないというのは認めない」
「それ、矛盾してるんじゃあ、先生……」
「しばらくやってみて、どうしても向いてないとなったら、交代を考えなくも
ないさ」
今度はしっかり言い切った。こうしてなし崩しに選出方法が決まる。
(神村先生、今年は強引だわ。心境の変化でもあったのかな)
純子は、少しばかりの驚きを持って受け止めていた。尤も、自分は選ばれま
いと思っているし、仮に指名されたとしても断る正当な理由はあるから、気が
楽だ。むしろ心配は、相羽の方。もしも、彼が指名されるようなことがあった
ら困る。ただでさえ、会う時間を作るのに苦心しているところへ、相羽が今よ
りも忙しくなったら、影響は間違いなく大きい。
――つづく
#337/369 ●長編 *** コメント #336 ***
★タイトル (AZA ) 08/12/01 00:01 (496)
そばにいるだけで 64−4 寺嶋公香
★内容
(神村先生、お願いしますっ。相羽君は指名しないで。実績あるけど。すんな
り、選挙にしなかったのは、これまでやったことのない人もやって欲しいから
ですよね? ……あー、でも、万が一、指名されたら、相羽君のことだから、
引き受けてしまいそう……)
心中で念じつつ、不安に駆られる純子。いつの間にか、両手を握り合わせて
いた。
神村先生は、そんな気持ちを知る由もなく、予告した段取り通りに続ける。
「立候補、いないか? 今の内だと思うんだが。今なら、自発的で印象もいい
よ。……よし、これで最後だ。いないんだな? では、締め切る」
案外、あっさりと締め切った。また僅かばかり、雰囲気が変わる。誰が指名
されるのだろう、という風に、みんなで顔を見合わせた。
「最初に言っておくと、運動部に入っている者は除いた。部活を理由に辞退さ
れたら、こっちも強制しづらいのでな」
この宣告に、三割余りの生徒が気抜けしたような吐息を漏らしたようだ。呑
気な調子で、「それを早く言ってほしかった」という声も上がる。
「予め言ってしまったら、やる気のある者の立候補まで、なくなりかねないじ
ゃないか。それから……まあ、特に理由があって私生活で忙しい者も除いた」
神村先生が純子の方をちらと向く。一瞬、目が合い、どぎまぎした。親しい
友達だけでなく、他のクラスメートも分かっているだけに、なおさら。
「わ、私は、一学期は無理ですけど、二学期ならひょっとしたら何とか……」
みんなの視線を浴びて、思わず、そんなことを口走ってしまう。特別扱いさ
れたくない気持ちが働いた。
「そうか? じゃあ、二学期は考えておこうかな」
笑みをなした先生は、出席簿の端に何か書き込む仕種を見せた。ポーズだけ
かもしれない。
「とまあ、他にも、皆の環境や状況をあれこれ考えた上でのことだから、本当
はやる気はあるが、立候補するとは言い出せなかった人。たとえ一番に指名さ
れなくても、気にする必要なし! いいね」
なかなか饒舌な神村。
「ここまで聞いていて、おおよその覚悟はできてると思うが、部活をしていな
い者が、指名される可能性が高いわけだよ」
「うわー、理由、どうしようかな」
「今度、引っ越すことになって、これまでの倍、通学時間が掛かる……だめ?」
「あ、俺、おじいさんが病気で、看病しなければ……」
該当する生徒が、口々に言う。冗談混じりのものがほとんどだ。唐沢もそん
な一人で、
「デートで忙しいというのは、認めてくれない?」
と、早々と先生に尋ねる始末。無論、返事は期待していなかっただろう。
ところが、神村先生、即座にこう答えたのだ。
「だめだ」
「えっと。そんな、真面目かつ真剣に否定しなくても、センセ」
意外そうに目をぱちくりさせた唐沢。そんな彼の様子が、みんなの笑いを誘
う。純子も、噴き出さないように努力しなければならないほど。
(あの焦りよう! もしかして、また大勢の子と付き合い始めてる? ああ、
芙美も苦労しそう……あれ?)
神村先生は唐沢の席のすぐそばまで来ると、真顔で言った。
「唐沢君、おめでとう。学級委員長をやらないか」
ざわつきに拍車が掛かった。いわゆるプレイボーイのイメージが強い唐沢が
指名されるとは、誰も想像していなかったようだ。
「……冗談抜き、ですか?」
何故だか笑みを浮かべながら、聞き返す唐沢。先生もにこにこ顔になると、
頷いた。
「僕も冗談は嫌いじゃないよ。でも、今のは違う」
「委員長なんてしてたら、デートの時間が」
「やりくりしろ。おまえほどもてるんなら、スケジュール調整ぐらい、これま
での経験から楽勝じゃないのかな」
「……俺、かなりの無責任男ですよ」
「そんなことはないと思ってるが、たとえそうだとしても、これから直せる」
「えーっと、遅ればせながら、テニス部に入ろうと思っていたのに」
「入部は自由だが、後付けの理由と見なし、委員長はやってもらうぞ」
「……しょうがないなあ」
「おぅ、やる気になったか」
「やる気はまだ半分ぐらいしか湧いてないけれど、やりますよ。やらなきゃし
ょうがない雰囲気だし。でも先生、条件があるんだけど、聞いてくれる?」
「ああ。かなえてやれるかどうかは、聞いてみないと分からんが」
「無茶苦茶なことは言わないって。副委員長は委員長が指名する。どう?」
「ふむ」
左手を口元に当て、しばし検討する様子の神村。決断は早かった。
「別にかまわないか。無理強いしないのなら」
「先生ぐらいの強引さなら、OKっしょ?」
これでは神村先生も拒否できない。大丈夫かな?という風に、口元を曲げた
たものの、唐沢の申し出を認めた。
「言うまでもないが、委員長が男子なら、副委員長は女子から選ぶのが原則だ。
くれぐれも悪用はよせよ」
「へい。好きな子を副委員長に指名して、口説くような真似はしません」
裁判で宣誓するときみたいに手を掲げ、目を瞑る唐沢。すぐに片目を開ける
と、先生に重ねて頼んできた。
「副委員長は、明日までに決めるってことでいいっすか? まさか自分が委員
長に選ばれるとは思ってなかったし、誰が副委員長にふさわしいか、考える時
間が……」
「今日中は無理か」
「今日中と言ったって、午前中に終わるじゃないですか。短すぎ」
「なるほど、理屈は通ってる。仕方ないな」
神村が了解するや、唐沢は手もみをし、「さっ、誰にしようかな〜」などと
呟いた。いちいち芝居がかっているが、板に付いていて、嫌味がない。早速、
「私、私」なんていう売り込み?の声が飛んだ。
(あれで二人きりになると、真面目な顔や格好いいところも見せるんだから、
女子に人気があるのも頷ける)
妙に感心させられた純子。だが、町田のことを思うと、感心ばかりもしてい
られないわけで。
何とかならないかな――他人事ながら頭を痛める純子も見守る中、唐沢は委
員長“就任”の挨拶を始めていた。
唐沢委員長の初仕事として、席替えを行うことになった。男女別に名前の順
に並んでいたのをシャッフルするだけだから、席替えと言うよりも新学年の席
決めと言うべきかもしれない。
「好きな者同士隣り合うように、なんてのは認めないからな。ちゃんとくじ引
きをしろよ」
神村先生に予め釘を差された格好の唐沢は、不要になったプリントを裏返し
にして線を引き、くじを作り始めた。
「あー、やっぱ、副委員長を先に指名しておくべきだった。一人はつらい」
ぼやきながらも、手際はよい。その様子を眺めていた先生が、
「手間取るようなら、これで発生させた疑似乱数をみんなに宛がって、小さい
順に端から座らせようと思っていたが、その必要もなさそうだな」
と、手のひらサイズの機械――ポケコンの類――を示した。その表情は何だ
か楽しそうだ。
「あ、ずるいよ、先生。そういう便利な物があるのなら、早く言ってくれなき
ゃさあ」
「おまえのやる気を見てたんだ。途中で辞めるのも不本意だろう、最後までや
りなさい。機械を使った席決めは、二学期のお楽しみだ」
「続けて委員長なんてしたくないっす」
狙ったのかどうか分からないが、唐沢の言動がクラスの笑いを誘った。その
声に唐沢は片手を振りながらも、切り分けた紙に器用に番号を振っていく。
「考えたら、あみだくじでもよかったんだよなぁ。ま、いいけど。――よし、
できた。先生、何か袋」
「袋はありませんか、だろ」
注意しつつ、すでに用意していたスーパーの買い物袋を手渡す神村先生。白
色で、中が透けることはない。
唐沢は受け取ると、袋の口を大きく広げ、二つ折りにした紙片を全部流し込
んだ。そして口をぎゅっと握り、袋を上下左右に激しく振る。
「一から四十八までの数字を書いた。四十よりも多いのは、俺が勘違いしたん
じゃなく、最後に引く奴も選べるようにするためだからな。で、数の小さい順
に、廊下側の席に座る。引く順番は……いっつも相羽からじゃつまんないって
ことで、逆にしてみようぜ」
唐沢の気まぐれで、五十音順で女子の最後の人から引いていくことに。
「それから、引いた番号を他の奴に見せたり教えたりするのはなしね。あとで
発表するときのどきどき感、たっぷり味わいたまえ」
そう忠告したあと、唐沢は校庭側の端の列、最後尾から回り始めた。
(どんな順番で引こうと、確率は同じだって習ったけど)
くじ引きの順番を待ちながら、純子は考えていた。
(最後に相羽君が引く番号の前後、あるいは隣り合う数字を引くなんて、至難
の業に思えるよ〜)
純子は当然、相羽に近い席、できれば隣に座りたいと思っている。願ってい
ると言い直してもいい。実際、引く直前には両手を合わせてお祈りしたほどだ。
「涼原さん、これ」
広げた袋に手を入れた瞬間、唐沢が囁いてきた。何事かと見上げようとする
が、その前に気が付いた。唐沢の左手に、小さく折り畳んだ紙切れがある。
(これを引けってこと?)
クラスの人数よりも紙が多いため、特定の二人を隣り合わせるのは難しくて
も、前後に座らせるのは楽だ。※ちなみにクラスの人数イコール紙片の数だと、
最後の相羽の前に引く奴が、くじの数が合わないことに気付いてしまう。それ
なら相羽に真っ先に引かせればいいと思うかもしれないが、相羽にただ不正を
持ち掛けても拒絶されるに決まっている、しかし「涼原さんも乗ったぜ」と言
えば揺らぐかもしれないぞと考えたのだby唐沢。
目で尋ねる純子に、唐沢はさらに囁きを続けた。
「うまくやってやる。任せろ」
それから長引くと他の者から不審がられると踏んだのだろう、「随分迷って
るねー、すっずはらさん。迷うのはいいけど、透視できるわけじゃないんだし、
お早めに」と声を張る。再び笑い声に包まれる教室。
純子は自らも笑いながら、まだ躊躇した。
(相羽君と隣り合うようにしてくれる? そうだとしたら……嬉しいけれど、
でも)
ずるはよくない。
純子はかすかに首を横に振ると、袋の底に固まる紙片の中から一つを掴み、
取り出した。
「えー、それでいいの?」
唐沢の呆れ声が上から降り注いできた。純子は分かるよう、黙って大きくう
なずいた。
「やれやれ。――時間を食ってしまったな。ほんと、やれやれだ」
そう言いながら、唐沢は袋を振った。恐らく、その動作に紛れて、握り込ん
でいた“純子用”の紙と“相羽用”の紙を、袋に投じたに違いない。
(あとで唐沢君に謝っておかなくちゃ。それにしても、いきなり委員長をやら
されて、席替えのくじ引きでそんなことをしようと思い付くなんて……唐沢君
も手品を習ったら上手になるんじゃないかしら)
そんなことを思いながら、唐沢の背中を見送った。
ほどなくして全員が引き終わり、唐沢は教壇へと戻った。
「えっと、先生。実際に席を替わるのは明日から?」
「そうなるかな。今日、席を替わっても、それですぐ、はいさようならだし。
まあ、荷物を机の中に置いておきたい者もいるだろうから、その辺は自由にや
ればいいよ」
「了解しましたー。では、とりあえず、座席表だけ作るってことで」
唐沢は、今度はややもたつきながら、教室の椅子の数だけ、四角形を格子模
様のように板書した。それから肩越しに振り返り、「一番を引いた奴がいたら、
名前を」と皆に言った。
この段取りで二番以降も聞いていき、格子模様を名前で埋める。場所が決ま
る度に、ちょっとした歓声や落胆の反応が漏れ聞こえ、面白い。
だが、純子は面白がるどころではなく、席が決まる前から落ち込んでいた。
唐沢の厚意を袖にして、自分の意志で選んだ数字は、四十五。校庭側の一番端
の列に入るのは確定だ。両隣がある列に比べると、相羽の席と隣接する可能性
が減ったことになる。
しかも四十五ということは、最後尾になる確率が高く、もしそうなったら周
囲の席が他よりも少ないわけで、ますますもって期待できない。
(せめて、相羽君に少しでも近い席になればいいな……。できれば、相羽君よ
りも後ろの席がいい。逆だったら、ずっと意識しちゃって、授業中でも落ち着
かなくて何度も振り返ってしまいそう。ううん、贅沢は言いません)
首を振り、目をつむって、下を向く。いつ、相羽が返事をするか、どきどき
しながら耳を傾けていた。今、ちょうど半分の二十四だが、まだ相羽の番号は
呼ばれていない。
なるべくあとに呼ばれてほしい……そう願う純子の耳に、しばらくして相羽
の声が届いた。三十三番だった。
(三十三……微妙かな?)
少し明るい気分になり、相羽の方を見やる。
相羽は前を向いたまま、口元に手をあてがい、どことなく考える風だ。純子
がまだ呼ばれていないことは当然分かっているから、隣り合う確率の計算でも
しているのかもしれない。
相羽は三十三番だったが、実際はこれまでに三つの数字が欠番になった(引
かれなかった)ため、廊下側の列前方から数えて三十番目の席になる。
(ということは……)
純子もまた前を見、埋まりつつある座席表で確認する。
(私の四十五番が呼ばれるまでに、五つ、引かれなかった数字があれば、相羽
君の隣になるっ。で、でも、引かれない数字は全部で八つ。すでに三つあった
んだから、残り全部が四十四までに含まれなくちゃいけない! ……やっぱり、
厳しそう)
過度の期待をしないでおこう。心にそう決めて、純子は唐沢の声とそれに対
する反応に耳を傾けた。
(思い出すだけでもまだ恥ずかしい……)
昼前の下校にも、純子の足取りは重かった。いや、学校から早く離れたいこ
とは確かなのだが。
「何かぼそぼそ言っているのには気付いたんだけれど、不正は本当になかった
のよね?」
純子の前を歩き、隣の唐沢に詰め寄るようにそう言ったのは、珍しくも一緒
に帰る白沼だ。疑惑を持ったからこそ、一緒に帰っていると言うべきか。
「言ってるだろ。俺はそのつもりだったが、涼原さんが拒んだんだって」
辟易した様子で何度目かの抗弁を試みる唐沢は、質問攻めに参ったか、ささ
やかな逆襲に出た。
「それにしても地獄耳だねえ、白沼さん。涼原さんの二つ前の席だから、絶対
に聞こえやしないと安心してたのに」
「余計なお世話よ。まったく、席が近いばっかりに、この子の喜びぶりを見せ
つけられたわ」
純子は白沼に見据えられ、肩を縮こまらせた。
奇跡的に――少なくとも純子にとっては奇跡的だ――相羽の左隣に席が決ま
った瞬間、純子は「やったぁ!」と声を上げてしまった。彼氏の隣になっては
しゃぐというだけでも結構恥ずかしいが、もう一つおまけがあった。
決まった瞬間とは、直前の番号である四十四に誰も反応しなかったそのとき
であり、要するに自分の番号が呼ばれない内から喜んでしまったわけ。もう、
二重に恥ずかしかった。
「ご、ごめんね、白沼さん」
「いいわよ、別に。不正はなかったようだし、私は一応、身を退いたんですし
ね、一応」
まだ微妙なところを残した文言ではあるが、白沼はそう認めた。
唐沢が「あ、信じてくれたんだ。よかったよかった」と表情をほころばせて
みせると、白沼は、ふん、という風に髪をかき上げた。
「元々、信じてなかったわ、不正なんて。今日のくじ引きのやり方で、前後な
らともかく、左右に隣り合わせるのは、まず無理だと思うもの。ただ、あなた
が変な囁きをしたようだったから疑ってみただけのこと」
「なーんだ、焦って損した」
「やろうとしていたのは事実なんでしょうが。ま、どうせ相羽君が拒絶してい
たから、失敗に終わったでしょうけど」
言い捨ててぷいと横を向いた白沼は、その視線の先にいる相羽には、一転し
て最上級の笑顔を作った。
(本当に退いてくれたのか、疑わしくなっちゃうじゃない)
後ろからその様子を目の当たりにし、むくれる純子。今はまだ恥ずかしい思
いを引きずっているから、口には出さないが。
と、白沼が振り返った。
「それにしても、二人の運のよさには驚くのを通り越して、呆れてしまうわね。
かなわないなぁ」
そう言った白沼の目は、いつものきつい感じではなく、微笑みをたたえてい
るような。
思わず俯いた。別の恥ずかしさ――気恥ずかしさを覚えた。
白沼はそんな純子に気付いたか気付いていないのか、すぐまた相羽の相手に
戻った。
「でも、次の“いいな”と思える人を見付けるまで、しばらくの間、まとわり
つくから覚悟しておきなさい。かなわないまでも、ユーワクしてあげるからね、
相羽クン」
「無駄だなあ」
相羽が困ったように嘆息した。春休み中のテラ=スクエアでの出来事を思い
出したのかもしれない。
「涼原さん、何してんの。取られないように、相羽にくっつかなきゃ」
いきなり唐沢にそう囁かれた純子は、でも、首を横に振った。
「いい、いいの。そんなことしなくたって……」
「赤い糸で結ばれていると証明されたから、ってか?」
「そうじゃなくて。今日ははしゃぎすぎたから、反省してるところ」
唐沢は冷やかしたつもりらしく、純子の冷静な返事に目を丸くする。
「別にいいのに。楽しめる内に楽しんでおかないと、後悔するぜ。どうせこれ
から、普段、会う時間が減ってくんだろ?」
「ま、まあね。色々と仕事が」
その内の一つは白沼経由で持ち込まれたと言ったら、唐沢はどんな顔をする
だろう。少し見てみたくもあったが、黙っておいた。わざわざ状況をややこし
くすることもない。
「仕事かぁ。涼原さんが忙しくなけりゃ、副委員長に指名したのにな」
純子が顔を起こして唐沢を見返すのと同時に、前方から相羽の声がした。
「唐沢、言うだけならいいが、頼むなよ」
「分かってるさ。頼んだら引き受けてしまいかねないもんな、この人は」
二人の男子に対し、視線を行き来させる純子。相羽がしばし歩みを遅くして、
純子の隣に並んだ。前方では、取り残された?形の白沼が、小さくため息をつ
いたよう。そして彼女は足を止めると、相羽の隣につく。
「そこは『この人』と言うよりも、『このお人好しさん』がふさわしいわね」
白沼の目が唐沢、純子、唐沢と移り、戻った。
「私、そんなにお人好しじゃないって。自分のことを一番に考えてる」
「いやいや。だったら、相羽とくっつくまで、こんなに時間は掛かりゃしない」
「そうね。加えて、時間と言うよりも年月って感じだから、困ったものね」
抗議を唐沢と白沼からダブルで一蹴され、なおかつ相羽との仲を言われては、
純子は肩を小さくするほかない。
(相羽君はどんな気分なんだろう……)
そっと窺うと、案外平気な顔をしているのが分かり、気抜けすると同時に、
頼もしくも思えた。
「珍しい場面を見た気がする。唐沢と白沼さんが同意見だなんて」
相羽がぽつりと言うと、白沼がとんでもないとばかり、顔の前で手を振った。
「さっきのは、言ってみれば一般論ね。誰に聞いても同じ答が返ってくるわ。
現に相羽君自身、そうだったじゃない」
「それを抜きにしても珍しい。案外、気が合うんじゃないかな?」
ここまで聞いて、これは相羽から白沼への“逆襲”なのだと気付く。すると
唐沢も心得たもので、すぐさま呼応した。
「おー、そいつはいいや。白沼さんに副委員長をやってもらえりゃ、以心伝心、
さぞかし仕事がはかどるだろうな、うんうん」
「じょ、冗談じゃないわ」
若干、身を乗り出し気味にして、唐沢の方をにらむ白沼。
「絶対に嫌ですからね。お断り」
「つれないな〜。真面目な話さ、白沼さんなら実績あるし、柄でもない委員長
をやる俺にとって、頼りになるんだが」
瓢箪から駒と思ったのか、誘いを掛ける唐沢はまんざらでもなさそう。だが、
白沼は頑なだ。
「嫌よ。そりゃあ、私ならクラス委員ぐらい簡単にこなせるけれども、あなた
とやるのが嫌なの。しかも、私の方が『副』だなんて」
「そんなこと言わずに、考えてみてよ。他にいい人、浮かばないんだよな」
笑顔で語り掛ける唐沢。白沼はますます不機嫌な顔つきになった。四人横並
びで歩く最中、端と端とで言い合いをされて、挟まれた格好の純子と相羽は苦
笑を浮かべていた。
「女の子の知り合いなら、他にも両手両足の指でも足りないほどたくさんいる
でしょうに。その中から選びなさいよ」
「いやあ、隣に立つのは、とびきりの美人がいいのよん、やっぱり」
はははと笑いながら後頭部に片手をやった唐沢に、白沼は呆れ眼で横にらみ
した。純子や相羽なら軽い冗談と分かるが、白沼には通じないようだ。
「おだてても無駄よ。それにその言い種、あなたの知り合いの女子にかなり失
礼よね。言い触らしてあげましょうか」
「ありゃ、やぶ蛇だったか。じゃあ、他の言い方に変えよう。白沼さんが副委
員長なら、俺も女の子にうつつを抜かすことなく、役職を全うできるから適任
なんだよな」
「……どういう意味かしら」
フォローのはずが、白沼の表情は険しくなる一方。彼女は相羽の横を離れる
と、こめかみを押さえつつ、唐沢の方に素早く歩み寄った。
「な、何でしょう?」
詰め寄られ、上半身を後ろに反らす唐沢。白沼は一瞬、相手の胸元を指差し、
続けた。
「私があなたのことを監視するから? それとも、私には恋愛感情が一切持て
ないとでも?」
「お、怒ることないじゃん。まさか、俺に好いて欲しいわけじゃないだろうし」
戸惑いをまだ残す唐沢に対し、白沼は声のボリュームを上げた。
「それは当たり前! だけど、もてないかのような言い方をされると、とても
とっても心外!なのよね。あなたの口から言われたら、なおさらだわ」
それだけ言うと、白沼は歩みを速めた。
「やっぱり、慣れないことをするものじゃないわね。お先に失礼するわ。相羽
君、また明日、学校で会いましょ」
一度、振り返って相羽に微笑みかけたきり、どんどん離れて行ってしまう。
「……今、急いだって、駅で一緒になる可能性が高いのに」
相羽が現実的なことを呟いた。精神的に解放された唐沢は。顎に手をやり、
「ははーん」と芝居がかって言った。
「だからあれは照れ隠しで、案外、次の“いいな”と思える人とやらが、すで
にいるのかもしれないぞ」
「だったら、僕らに付き合って帰ることないだろ」
「それはあれだ。涼原さんの喜び様を見せつけられて、邪魔をしたくなったと」
唐沢の言葉に、また肩を小さくする純子だった。
「今日、喜びすぎたのは反省してる。けど、明日からもこんな調子じゃあ、隣
同士になったのが、かえって辛いなぁ……。話一つするのにも、人の目を気に
しなくちゃいけない感じ」
「気にせず、毎日いちゃいちゃしてやればいいさ」
唐沢の台詞、特に「いちゃいちゃ」の箇所には、純子も相羽も目元を赤くし
た。互いに顔を合わせ、また赤くなる。
「ま、限度を超えたときは、俺が委員長権限でフォルトって言ってあげよう。
だからそうなるまでは思う存分、いちゃつきな」
「……白沼さんが先に行った気持ちが、よく理解できたよ」
相羽はそう言うと、純子の手を取った。
「行こう、純子ちゃん」
「え?」
手を引かれる格好になった純子は、歩幅を大きくしながらも相羽の顔を見た。
「駅まで走る!」
二人は一緒に駆け出し、唐沢は置いてけぼりを食らった。
「ひどいです、涼原先輩」
新学年スタートの二日目、朝から教室前の廊下で純子を待ち構えていたのは、
顔見知りの一年生だった。
「め、恵ちゃん。おはよう……」
二年三組の教室まで訪ねて来た椎名恵を前に、純子はとりあえず挨拶した。
他の対応を思い付かなかったせいだが。
椎名は聞こえなかったのかどうか、“じと目”のまま、詰め寄ってきた。
「入学のお祝いに、先輩の方から来てくれると密かに期待していたのに」
「……恵ちゃんの家に?」
純子の怪訝な表情が、椎名に平静さを取り戻させたか、彼女は恐縮した風に
手を振った。
「いえ、先輩にそこまでさせられません。私の教室まで、という意味です」
「でも私、恵ちゃんのクラスを知らない……とにかく、座らせて」
教室に入る純子。振り返ると、椎名は入ろうか入るまいか、躊躇している。
「遠慮することないよ、恵ちゃん。一年生だってことを弁えていれば、大丈夫」
「そうですか。じゃあ……失礼して」
二年生の教室という雰囲気に、頭を下げる椎名。そこまで気を遣うくらいな
ら、まず私に遣ってほしいと思い、純子は嘆息した。
「それで、何組になったの?」
椎名に尋ねつつ、自分の席に収まり、先に来ていた相羽と目を合わせる。
「二組ですよぉ……あ! 相羽先輩まで!」
遅蒔きながら、椎名も気付いたようだ。相羽の方を振り返って、胸の前で手
を組む。
「久しぶり」
「こちらこそ、お久しぶりですっ」
相羽の簡単な挨拶に、椎名は頭を深々と下げた。
「その様子だと、男嫌いの気味は完全になくなった?」
「完全じゃないです。清潔感のある人でないと、まだだめなんです」
相羽は小声で聞いたのに、椎名自身は隠すつもりもないらしく、敢えて宣言
するかのように堂々と答えた。
純子はそれでも辺りを憚りながら聞いてみる。
「そう言えば、試しに付き合ってみると言ってた男の子とは、どうなってるん
だっけ」
「自然消滅ですよぉ。高校も違うとこ行って」
「あ、そう……」
悪いことを聞いてしまったかと思いきや、椎名の表情を見る限り、そうもな
い様子だ。弾んだ口調と相俟って、すっきりした風にすら映った。
「今のところ、確実に大丈夫って言える男の人は、相羽先輩だけなんですよっ」
椎名は相羽の机に手を突いた。純子からは、椎名がどんな顔をしているのか、
見えなくなる。ちょっぴり、気になった。
(そう言えば恵ちゃんには、私と相羽君が付き合っていること、きちんと伝え
てなかったわ。察してくれてると思うんだけど、一応、話しておいた方がいい
かも……)
そう考えたものの、即、実行に移すことはしない。昨日の一件がブレーキに
なっている。
「お暇なときだけでいいですから、顔を見せてくださいね、涼原先輩。お願い
します」
いつの間にか向き直った椎名が、眉根を寄せた弱り顔で、手を拝み合わせて
きた。
「そんな大げさにしなくても、行くわ。ただ……ちょっと忙しくなりそうなの」
「あ、ですよねー。二年生っていうだけじゃなしに、モデルとかの仕事もある
んでしたっけ。ずっと応援してるんです。がんばってください!」
「あ、ありがとう」
椎名は朝の休み時間をかき回すだけかき回して、出て行った。
とにもかくにも、これで相羽とお喋りができると思った矢先、結城と淡島が
並んで寄って来た。彼女達からすれば、面識のない一年生が去るのを待ってい
たのだろう。
「あの子、誰? 一年みたいだけど」
廊下からこちらに首を戻し、結城が聞いてきた。小学校のときからの後輩云
云と、純子が説明する。
「そういうタイプは、きっちり線を引いて、びしっと言ってやらないとだめな
んじゃないかなあ」
「私の感想も同じく」
結城、淡島ともに好感情は持てなかったようだ。純子は「悪い子じゃないの
よ」と言っておいた。
「悪い子だろうがいい子だろうが、関係なしにさ。空気読めないで、あなたの
日常生活に割り込んでくる感じに見えた。小さい頃ならまだよかったかもしれ
ないけど、今はそうも行かないんじゃない?」
結城の見方は結構鋭いようだ。黙って考え込む純子に、結城は声のトーンを
変え、「そんなことよりも」と肩を揺すってきた。
「蓮田秋人に直に会ってサインをもらうのって、今でも有効?」
「あ、もちろん。あの話、どちらかと言えば、マコの方が怖じ気づいちゃった
んじゃなかった?」
「うーん、そこを突かれると辛い。でも決心したんだよね。高三になるとうち
の家族でも、さすがに遠くへ遊びに出掛けるのを許してくれない予感がする。
だから二年の内にと、一念発起して勇気を奮い立たせることにしたわけ」
結城の家族は揃って蓮田秋人のファンと聞いていたけれど、受験が近くなる
とそんなものだろうか。
「じゃあ、会えそうな日を聞いておくね。はっきり言って、こっちの都合通り
にはまず行かないから、覚悟しておくように」
「それはもう百も承知。しばらくは普段の予定、何にも入れずに待つことにす
るから、いつでもどんと来い!よ」
結城が胸を叩いてみせたすぐあとに、前の方から唐沢の声で「……じゃあ、
結城さんに頼むのも無理か」と聞こえてきた。
「――何のこと?」
振り返りながら聞いた結城の横を抜け、相羽の机の前で立ち止まる唐沢。
「副委員長のこと。俺がこれと見込んだ女子には、悉く断られてる。さっき職
員室で、センセーに早く決めろって言われたんだが」
「へえー? もてるのにねえ」
「それは、その人の選ぶ基準が間違っているからよ」
今度は後方から白沼の声だ。じきに予鈴が鳴る頃合いなのに、純子らの席周
辺は混雑を増してきた。尤も、白沼は自分の席に着いただけだが。
「委員長の仕事に自信を持てなくて、頼りになりそうな女子にばかり声を掛け
てる。唐沢君がもてるのは、あなたを頼るというか、あなたに甘えるタイプで
ほぼ一〇〇パーセントを占めるわね、きっと」
「間違ってるか? 俺、クラスの仕事で逆に頼られたら、ぐだぐだになるよ」
「偉そうに断言することかしら」
「と、言われてもな。真面目にやるのって性に合わないし、初めてのことだし。
あーあ、こうなると分かってたなら、テニス部に入っといたのによ」
頭上で行われる白沼と唐沢の応酬を気にしつつ、純子は淡島に「それで、淡
島さんは何か用事?」と尋ねた。相手はしゃがんで、純子の机に腕枕を作って
から答える。
「再び、結城さんと同じく、です」
「え、と言うと……」
「私も芸能人に直接会ってみたいと思いまして」
「ふ、ふーん。ちょっと意外だな」
「芸能人のオーラを感じることで、私の占い観によい影響がありそう。そんな
気がしたものだから」
そう言って、淡島はにこりと笑い、首を傾けた。
「分かったわ。ただ、私も一応、芸能界の末席を汚してるんですが……」
苦笑を交えてそう返す純子に、淡島は笑顔のまま、けれど大真面目に言った。
「涼原さんは友達です。だから、芸能人オーラのあるなしは分からないし、そ
もそも関係ありません」
うれしさで、純子の頬も自然とほころんだ。
そんな雰囲気にはお構いなしに、唐沢と白沼のやり取りは続いている。
そこへ、純子の真後ろの席から、「えへん、えへん」と咳払いが聞こえた。
明らかに故意のものである。
純子達はめいめいのお喋りをやめ、振り向いた。それを待っていたように、
男子生徒が口を開く。
「少し静かにしてくれないか。休み時間とはいえ、じきに授業が始まる」
眼鏡のブリッジを右手中指の腹で押し上げ、いささか嫌味ったらしく言って
きたが、彼の視線は手元の教科書に落とされたままだ。
「あ、ごめん、稲岡(いなおか)君」
純子は笑み混じりに頭を下げた。
稲岡時雄(ときお)。今度の学年で初めて一緒のクラスになったが、名前は
以前から知っていた。各教科の先生が、勉強のできる生徒の代表のように彼の
名を口に出すためである。
純子達の通う緑星は進学校ではあるが、志望先による細かなクラス分けは三
年生からとなっている。
「分かればいい」
対応の時間すらもったいないとばかり、ちらとも目を上げようとしない稲岡。
純子は口元をぎゅっとかみ、仕方なく前を向いた。そして分からないよう、小
さな吐息を。
(折角、相羽君と隣り合わせになったけれど、喜んでばかりもいられないな。
調子に乗りすぎないようにしなくちゃ)
――『そばにいるだけで 64』おわり
#338/369 ●長編
★タイトル (AZA ) 09/02/15 17:59 (321)
想い人がいるだけで 1 寺嶋公香
★内容
小学生高学年ともなると、異性を意識して不思議でない。でも、それを面に
出すのは、ためらわれる。特に男子は、誰某が好きだなんて、滅多なことでは
口にしない。恥ずかしいとか、格好悪いとか、色々あるのだ。
もちろん、絶対にしないわけでもない。全ては雰囲気だ。
相羽暦達の場合、その雰囲気は夏休みが始まってすぐに催された林間学校、
そこでのテントに訪れた。きっと、似た体験をした人が多くいることだろう。
さて。
この際、暦の好きな女子が誰なのかは、今さら言及しまい。それよりも、彼
を驚かせたことがある。男子の多くが、好きな女子として、暦の双子の姉を挙
げたのだ。
「どこがいいわけ?」
その場にはいない姉の碧を気にする風に、周囲をちょっと見回してから暦は
聞いたものだ。
弟の懐疑的な質問には、テント内の五人からブーイングが、速射砲のごとく
返された。重なり合ってよく聞き取れないほどだ。どうにか、「何言ってやが
る!」というフレーズのみ、確認できた。
「落ち着け。順番に話せって。うるさくしたら先生が飛んでくる」
そうして一番遠くの一人から順に、視線を向ける暦。
「そりゃあ、暦の双子の姉さんだけあって、確かに生意気で、気が強いところ
はあるけど。他のそういう女子と違い、おしとやかにもなれる」
余計なことを前置きに持って来なくいい。
「男と女で区別しないしな。何ていうか、碧さんとは普通に話せる」
同じクラスに双子の姉弟がいるため、みんなは下の名前で呼ぶことがほとん
どである。唯一人、暦だけは、碧のことを姉さんと呼ぶ。呼ばざるを得ない。
「それに、優しくて面倒見がいいじゃん。一、二年の扱いなんか、先生より上
手なときがあると思う」
年下に懐かれるということは、精神年齢が同じということかもしれないじゃ
ないか。
「そういや、汚れるような仕事でも、嫌がりもせず、どちらかと言えば進んで
やってくれる」
委員長だから、というのもあるはずだが。
心の中で一つずつ反論していった暦。対して、最後の五人目は、他に言うこ
とがなくなったのか、それとも真打ちは任せろという心持ちなのか、誰もが思
っていたに違いないのにこれまで言わずにいた“理由”を答えた。
「何たって、見た目が最高!」
結局はそれかよ。――暦は額に片手を当てた。そんな彼の嘆きをよそに、先
に答えた四人も我先にと同調を示す。再び、台詞が重なり合うが、総合すると、
「そうそうそう。すっげー美人。笑っても怒ってもかわいい。モデルやるだけ
あって、スタイルも抜群! 他の女子とは比べものにならない!」
と、こんなところか。
「見た目で決めるなっての」
「そう言われると思ったから、初めに色々と答えたんだ」
「中身を重視しているとは、とても思えないな」
「いや、でもよ。暦もよく考えてみろ。中身がほぼ同じだったら、当然、外見
を比べる。そして当然、いい方を選ぶ、だろ?」
「中身、悪いところならいっぱいあるぜ。人の背中、平気で蹴る」
「背中?」
薄明かりの下でも、友達五人が揃って怪訝な表情をなすのが分かった。
「家で、うたた寝してしまったとき、踏んづけられたんだよ。見えてるはずな
のに、わざとらしく」
「それは、暦が邪魔になっていたからじゃないのか」
「満員電車じゃあるまいし、よける余裕はいくらでもあったぞ。それに、姉さ
んは大の字で寝ること、しょっちゅうなんだぜ」
「大の字……」
聞き手同士、顔を見合わせる。皆、多かれ少なかれ、にやけていた。
「イメージと違うが……ちょっと見てみたいかも」
見せてやれば、幻滅してあきらめがつくんじゃないか。そう思わないでもな
いが、碧がそう易々と隙を見せないことも、暦はよく承知している。せめて、
この場でとくとくと言い聞かせてやろう。
「おまえらがどんなイメージを持っているか知らないけど、風呂上がりなんて、
たまに、バスタオル巻いただけで歩き回ってる」
「なにーっ」
途端に、五人と暦との距離が縮まった。暦の周りに、五つの頭が輪を描く。
「どういう状況だ?」
「どういうって……。とりあえず、おまえら、興奮しすぎ」
「てめー、いいから早く説明しろっ」
「説明することなんか、ない。そのまんまだっての」
「嘘つけ!」
何人かの手で押され、暦は後ろ向きに倒れた。どたん、と派手な音がしたか
と思うと、男の先生の「こらっ、何を騒いでる? 早く寝んか!」という怒鳴
り声が、すぐ近くでした。聞き耳を立てていたのではないかと疑いたくなるほ
どの素早さに、暦達テント内の六名は冷や汗ものの沈黙をし、毛布をかぶった。
「なあ、暦。蒸し返すようだけれど」
ゲームのコントローラーを握りしめたまま、勝浦(かつうら)が何事か言っ
た。しかし、ゲームの大音量のせいで、暦の耳には届かなかった。
「何? 蒸し暑い?」
林間学校から帰っても、夏休み中ということもあり、遊び気分は抜けきらな
い。むしろ、ますます強まるばかり。
七月末のその日も、暦は友達(当然、男子)の家に遊びに行っていた。両親
が共働きで家を空けがちな勝浦は、いくらでも騒いでいいというのを殺し文句
に、よく皆を誘った。尤も、そんな理由付けがなくたって、クラスメートの大
半は、誘われれば行っただろう。
暦の他に呼ばれたのは、茂野(しげの)と所(ところ)だった。勝浦も含め
たこの四人は、林間学校でも同じ斑、つまり同じテントの下、あの話題で盛り
上がった仲だ。
「クーラー効いてて、下手すると、寒いくらいだぜ」
暦の言葉を受けて言ったのは、茂野。実際、タンクトップ姿の彼は、今、借
りたタオルを両肩に掛けている。日焼けした肌が活発さを示しているが、目を
懲らすと鳥肌の立った箇所が見つかり、おかしい。
「違うよ。勝浦は、蒸し返すようだけれど、と言ったんだ」
勝浦のすぐ隣に、片膝を立てて座っている所が注意を喚起した。眼鏡の奥か
らの視線は、しっかりと画面に向いている。ゲームを疎かにしない。
「そうなの?」
同じく画面に集中している暦は、台詞を短縮した。おかげで、優しい響きに
なる。と同時に、ゲームも決着。終始冷静で抜け目のない所が、勝ち残った。
「で、何を蒸し返すんだ」
喜びに浸るわけでもなく、所はコントローラーを置き、勝浦に尋ねた。その
ままゲームは中断、話を聞く雰囲気になる。
「碧さんのことさ」
勝浦は、顔を背けながら早口で言う。改まった空気と、そこから生まれた静
けさが計算外だったのだろう。できればゲームしながら話したかったに違いな
い。
「姉さんのこと? で、蒸し返すってからには……」
暦は少しだけ考え、じきに察した。察したが、敢えて分からないふりをし、
口を開かずにいる。できればゲームに戻りたいが、相手がいない。
相手となるべき二名は、時間差こそあれ、暦と同じ結論に達したようだった。
「そうだ、思い出した。バスタオル」
「ああ、あれね」
たった今気付いた風を装い、そのまま興味をなくしたかのように、コントロ
ーラーのボタンをかちゃかちゃさせる。
「状況の説明をしろ。ここなら、気兼ねなく話せるぜ」
語気を強め、両腕を広げた勝浦。もはや開き直ったか、ゲームを放り出して
いる。よっぽど気になるらしい。しかも勝浦が特別なわけではなく、茂野はあ
からさまに「そうだ、言え言え」と煽るし、所もむっつりしているが、聞き耳
はしっかり立てているようだ。
「脱衣所に着替えがなかったから、取りに行った。それだけ」
ため息混じりに答えた暦だが、納得してもらえなかった。
「普通、母親に頼むんじゃないか」
「何が普通なのか、分からないんだけど。俺のところは、自分でできることは
自分でするのが普通」
父だけでなく、母も仕事でいないことがあるため、いつの間にかそれが原則
になっていた。
「……弟ってのは、ある意味、かわいそうだな。美人が同じ家にいても、何と
も感じないときた」
呆れた口ぶりになり、勝浦は肩をすくめた。期待していたような返事は聞け
なかっただろうに、もうあきらめたのか、コントローラーに手を伸ばす。茂野
も同じようにした。
が、最後の一人、所だけは違った。持っていたコントローラーを手放すと、
眼鏡のブリッジを中指の腹で押し上げる仕種をした。レンズがきらりん、と光
ったような……。
「ちょっと待った、暦君」
「ん?」
「さっき、着替えを取りに行った、と答えたように聞こえたんだけど、間違い
ないか?」
「……覚えていない。何を気にしているんだ?」
「取りに来た、じゃなく、取りに行った、なんだよね?」
「ああ……そう言った気がする」
「つまり、そのとき、君もまた脱衣所にいたことになる」
所の発言に、勝浦と茂野が顔を見合わせる。空気が、ざわっと揺らいだかも
しれない。
暦はしかし、即座に大きく首肯した。
「当たり前だろ。風呂に入ってたんだから」
「えー? ということは、もしかして、まさか、一緒に……」
ひきつったような笑顔になった所が、暦を指差してくる。その腕が、かすか
に震えている。
「姉さんと? ああ、一緒に入ることもある」
「な、何だってーっ?」
どかどかどかと、のし掛からんばかりの勢いで詰め寄られた。三人の顔が、
凄く近い。暦は仰け反りつつ、再びうなずいた。今度は小さく、だったが。
「み、見てるのかっ」
そう聞く茂野の腕は、暦の服をつかんでいた。肩のタオルはもちろん、床に
落ちている。
暦は、“何を”とは聞き返さずに、みたび、首を縦に振るのみにとどめる。
――つもりだったが、意に反して声が出た。
「ぐぇ」
首を絞められた。本気でないと分かっていても、いきなりだったため、咳き
込む。「おまえー」やら、「何で平気なんだあ?」やら、恨めしさと羨ましさ
が混ざり合った台詞が耳に飛び込んで来るが、応えるどころでない。
「何にも思わないのか。君も、碧さんも?」
所が堅い調子で聞いてくる。無理に落ち着こうとしているらしい。暦は呼吸
を整えてから、また一つため息をついた。
「……今よりも小さい頃から、一緒に入っていたからな。全然気にならない。
多分、姉さんも」
「念のために聞く。女子に興味や関心がないんじゃないよな?」
「人並みにはある」
「う〜む」
唸って、考え込む所。静かになりかけたが、茂野が腕組みをしたまま、口を
開く。
「ほんっとに、姉弟ってだけで、無関心になれるものか? 信じられねー」
「みんな、姉妹はいないんだっけか?」
一般論に置き換えようと、聞いてみる暦。「いない」「一人っ子」「兄貴な
らいる」と返事があった。
「じゃあ、一番近い感覚は、母親かな」
このたとえには、うなずける部分もあったらしく、友達三人は納得した様子
を垣間見せた。その中で、所が応じる。
「ああ、分かるような。でも、それにしても、年齢が遠いか近いかで、違う気
もする」
「そうだぜ。暦は、弟と言ったって、同い年なんだし。碧さんの魅力が分から
ないなんて、かわいそうなやつだ」
茂野が追随するが、暦としてもこれ以上は説明のしようがない。
「さ、もういいだろ。続けようぜ。それとも、ゲームの他に――」
「待てい。この際だから、聞いておきたいこと全部聞く」
勝浦はテレビのリモコンを持ち、電源を切った。
「あとで」
「いや、次、また聞ける空気になるかどうか確実じゃないし、学校じゃ聞きに
くいし」
「しょうがないな……で?」
「で?なんて改まって聞かれたら、また言いにくい……。つまり、どんな身体
をしているのか、教えてくれないかなー、と」
「あ、それ、知りてえ」
「僕も」
勝浦の軽い調子の質問に、茂野と所も即座に乗っかる。いずれも早口だ。
「聞いてどうするのさ」
「それは、なあ」
三人は、ちらちらと互いに見合って、にやにやする。暦はこれ見よがしに嘆
息した。
「こっちも、言葉で表しようがない」
「暦君の感覚を聞きたいんだ。異性として見られないというのなら、どんな風
に感じているのか」
「うーん」
適切な言い方を探して、しばし黙考した暦。万が一、姉の耳に入っても怒ら
れないような言い回しは……。
その様が、勿体ぶっている、あるいは答を渋っていると解釈されたらしい。
所がこんなことを持ち掛けた。
「話してくれたら、夏休みの宿題を見せてあげてもいいよ」
言うだけあって、所は勉強ができる方だ。テストでは悪くても九十点はキー
プする。
尤も、暦だって成績は悪くないし、いざとなったら姉と協力し合って半分の
労力で片付けられるのだから、この申し出は物凄く魅力ってほどではない。
だから特に反応しないでいると、それを再び、条件に不満なのかと受け取ら
れた。今度は勝浦だ。
「前に欲しいと言ってたゲームソフト、今でも欲しけりゃ、やるぜ」
暦は少し考え、思い出した。確かに、いいなとは口にしたが、欲しいとは言
わなかったはずだ。どうしても欲しければ小遣いで買っている。実際には買っ
ていないからには、是非とも必要なソフトではないんだろう……そう自己分析
した。
そんな風に反応の鈍い暦に、三つ目の条件が示された。もちろん、茂野から
だ。
「今度、学校で野球をやるとき、ピッチャーを任せる。これでどうだ?」
茂野の投げる球はクラスで一番速く、毎回、ピッチャーを務めるほど信頼さ
れている。おかげで、三番手ぐらいの暦は、やりたくても滅多に投げる機会が
回って来ない。
これには多少ぐらついたが、暦は我に返ってかぶりを振った。
「ものに釣られたみたいで、かえって答えにくいっての。そんなことしてくれ
なくたって、答えてやるよ、まったく」
強い調子に、所達は「いいのか」という具合に、上目遣いで見やってきた。
「その代わり、言い触らすなよ。ここにいる四人以外に広まったら、誰かがば
らしたものとして、三人とも、俺の言うことを何でも聞いてもらう。連帯責任
てやつだ」
「分かった。それでいいよ」
所がうなずく。
「鞄持ちでも何でも引き受けるし、給食のデザートがいるなら三日分でも」
勝浦が例を挙げる。
「好きな女子の縦笛を、黙って借りてきてやってもいいぞ」
そして茂野が“落ち”をつけた。
「余計なお世話」
つい、鼻息が荒くなった暦だが、どうしたものか、そのタイミングでよい言
い回しが見つかった。
「……彫刻」
「え? 何だって」
一斉に聞き返されると、暦は目を斜め上にそらしながら、もう一度言った。
「彫刻のイメージかな、あれは。よく知らないけれど、ビーナスの……」
「彫刻といえば、ミロのビーナス? ビーナス誕生の間違いじゃないのか?
貝に立ってる」
「いや、ミロの方だ」
所の指摘を否定し、さらに続けた。
「絵にも、ああいう感じのはあるのかな。でも、絵の名前を知らないから。そ
れで……彫刻のビーナスほどじゃないにしても、姉さんは均整の取れた体つき
をしていると思う」
「しかし、確か、あっちのビーナスはかなり筋肉質だぞ」
「うん、だから、それ。姉さんも腹筋が結構ある」
「嘘だろ」
茂野がすぐさま言って、にやにやしながら暦の脇腹をこづく。
「姉と仲が悪そうに見せながらも、実は仲良しで、本当のことを言いたくない
んだろ。だから嘘を」
「違うっての。姉さんは小学校に入るか入らないかぐらいで、ダンスやエアロ
ビクスみたいな運動を始めてさ。それ以来、ずっとレッスンに通って、自然と
鍛えられたってこと」
「でも、手なんか柔らかそうだし、胸も大きいし……」
勝浦が訝しそうに呟いた。
「関係あるか? 腹筋が付いていたら、胸が大きくちゃおかしいという理屈が
分からねえよ」
「よ、要するに」
所が確認を取るような口ぶりで、聞いてきた。語気を荒くした暦に、探りを
入れるような感じも含みつつ。
「暦君は、碧さんを、美術品みたいに見ている、ということになるのか」
「……知らん」
ぷい、とそっぽを向いて、今度という今度こそはと、ゲームのコントローラ
ーを握りしめた。だがしかし、一旦火の着いた異性への関心は、なかなか収ま
る気配を見せない。
「なあなあ、暦。何で碧さんは、そんなに鍛えてんだ?」
「そうそう、俺も疑問に思った。太ってるわけでもないし、必要ないじゃん」
「姉さんは、母さんにあこがれて、目標にしてるからな」
ぼそりと答える暦。
暦達の母はやはり小さな頃からモデルを始め、今でも通用する身体を維持し
ている。その秘訣の一つは、レッスンにあった(と考えられる)。若い内に身
体を鍛え、内側にしっかり筋肉を付けると、齢を重ねても内臓の締まりが緩ま
ず、お腹が出ない、という。
「――そんな話を耳に挟んだせいか、姉さんは母さんよりも早くから、レッス
ンを始めて、とにかく腹筋を鍛えた。あんまり鍛えすぎたら、モデルの仕事が
減るし、今はほどほどでセーブしてる」
「なるほど、と言っていいのかどうか」
感心したような、驚いたような口調で、所が感想を漏らす。そこへ茂野が、
陽気に言葉を被せた。
「何だっていいや。美人の母親、美人の姉を持ったおまえがうらやましいぞ」
「さっきは、ありがたみが分からない弟はかわいそう、とか言ってなかったか」
暦が聞き返しても、茂野は口笛を吹くばかりで、ごまかされた。
と、そのとき勝浦が唐突に、「ああ、いっぺんでいいから、見てみたい。暦
が何とかしてくれたら……」と口走った。暦は反射的に、相手の頭をはたいた。
「何を言ってやがる。調子に乗るな」
「違う、落ち着け」
片手で頭を押さえ、もう片方の手で暦を制しようとする勝浦。暦はかまわず、
詰め寄った。
「何が違うって? さっき喋ったのは特別なんだぞ。言葉で説明するのみなら
いいかと思っただけだ。それをおまえら」
他の二人が慌てて、「言ってない言ってない」と両手を振った。
「だから、誤解だって!」
実際に口にした勝浦も、小刻みに頭を左右に振り、否定する。
「見てみたいと言ったのは、碧さんのお腹だよ! どんな腹筋なのかなと……
だからつまり、学校の水着だと見られないから、夏休みプールか海にでも」
勝浦は、支離滅裂とまでは行かないが、まとまらないまま話している様子が、
明白だった。
「それで?」暦が低い声で重ねて聞いた。
「つまり……つまり、暦が碧さんを誘って、俺達とプールか海に遊びに行く。
そのとき、碧さんが学校の水着じゃなく、上下に分かれたやつを着てくれたら
なという意味で……」
「……そういうことか」
いつの間にか勝浦の服の襟元を持っていた。ぱっと手放すと、勝浦はぐった
りとした体で、絨毯の上にへたり込む。いわゆる女座りみたいになっていた。
「俺の早とちり。ごめん」
素直に悪かったと感じ、頭を垂れる暦。勝浦も胸元をさすりながらではあっ
たが、「いいって。分かってくれりゃ」と応じた。
「にしても、やっぱり仲のいい姉弟なんだな」
場の空気を見て、茂野がすかさず口を挟む。さらに所の追い打ちが。
「勝浦の言葉を、裸に受け取る辺り、女性を全然意識していないってことでも
ないみたいだし」
暦は一瞬、肩を震わせてから、声を張った。
「おまえら、うるさいっ。いい加減、他の話に移れ!」
――つづく
#339/369 ●長編 *** コメント #338 ***
★タイトル (AZA ) 09/02/15 18:00 (284)
想い人がいるだけで 2 寺嶋公香
★内容
「うん?」
髪を洗い終わり、まとめた状態にしてキャップを被った碧が、視線にふっと
気付いたように、暦の方に目を向けた。
湯につかり、バスタブの縁に腕を載せた格好だった暦は、瞬きを何度かした。
いつもの通り、恥ずかしさはみじんもないが、いつもと違うのは、暦が碧の身
体をじっと見ていたこと。
「何? 何かおかしい?」
口元で笑った姉に、暦は聞き返した。碧はタオルを石けんで泡立てた。
「ちょっとね。我が弟も、やっと異性の身体に興味を持ったかしらと」
答えたあと、左胸から洗い始める。
「興味がないことなんかないって、ずっと前から言ってるだろ。ただ、今日、
友達に言われて」
夕食を前に、相羽家の子供二人は入浴中だった。普段は、一日の出来事をお
互いに喋って過ごす時間、空間。今日もそれと大差はないが、少しばかり趣が
異なることになろう。
「何なに? 私のことが出たの?」
「うん……。姉さんは、クラスの男子に人気があることを、分かってる?」
「そりゃあもう」
自信ありげにうなずいた碧。目を細めて、やけに嬉しそうだ。
「これだけの美人を放っておく男子の数なんて、クラスでは弟のあなたを除け
ば、片手で、ううん、じゃんけんのチョキで足りるんじゃないかな。なんちゃ
って」
「調子に乗んなよなー」
実際にチョキを作って、ピースサインのようにポーズを取る姉へ、暦はため
息混じりに言った。
「その男子のほとんどが、恐らく、風呂に入っているときの姉さんの姿を想像
したことがあるんだ」
「……でしょうね」
微笑みを浮かべたまま、身体を順次、洗っていく碧。
「恥ずかしくない? それか、気持ち悪いとか」
「全然恥ずかしくないと言ったら嘘になるけれど。気持ち悪くはないわよ。好
きな相手のことをあれこれ想像するのって、普通。暦も好きな子の裸、想像し
たこと、あるんじゃないの」
「答えなくても、分かってるくせに」
「まあね。あ、そうか。好きな子に気持ち悪く思われやしないか、不安だった
のね。それで、私に聞いてみて、女子の一般的な答にしようと考えたわけだ?」
「違うって」
だいたい、姉の答を他の女子に当てはめていいのかどうか、判断しようがな
い。
「じゃあ、何よ」
「一緒に泳ぎに行かないかと誘われたら、行く? 行かない?」
「? つながりが見えない」
二の腕をこすりながら、碧は首を傾げた。暦は急ぎ、言い足した。
「だから、色々と想像されても気持ち悪くないのなら、一緒に泳ぎに行くこと
くらい、楽勝だよなって意味」
「――あなた、友達から、私を誘うよう、頼まれたのね」
「簡単に言うと、そう」
「最初っからそう言えばいいのに。回りくどいわね」
「当日はセパレートの水着にしてくれ、という理由も説明したかったんだって
ば!」
ちょっと声を大きくすると、風呂場ではよく響いた。思わず、首をすくめる。
「セパレート? そう言われても、理由がまだ分かんないんだけれどな」
「あいつらの話をかいつまんで言うと、学校とは違う格好で泳いでるところが
見たいってさ。嫌なら、断っとく」
「別に。まあ、女子が私一人じゃ寂しいな」
「誰でもいいから、友達を誘えば? 少なくとも、こっちの方は、女子が増え
て嫌がる奴なんていないと思う」
「誰でもって、小倉さんでも?」
「な、何で、そこで小倉さんお名前を特別に出す?」
「言わずもがなでしょ。ま、暦の言う“あいつら”全員が一人ずつ、女子を誘
うことに成功したら、私も参加するわ」
「無理だって。第一、それができるくらいなら、来てくれって姉さんに頼まな
いと思うぞ」
「暦、そろそろ交代」
話題を打ち切り、腰掛けたまま、背中を向ける碧。身体や髪を洗うのと湯船
に浸かるのとを交代する。その前に、背中の流しっこだ。
「今、背中をごしごししろと命じられると、力一杯ごしごししてしまいそうだ」
湯船から出て、泡を吹くんだタオルをぎゅっと握りしめる暦。碧は肩越しに
目だけ振り返って、釘を刺した。
「だめよ。肌を傷めるような真似をしたら、私だけじゃなく、母さんが大目玉
よ。仕事に差し支えることは、凄く怒るから。大勢の人に迷惑を掛けるって」
「分かってるよ。わざわざ、爪も切らせてもらいました。」
念のため、自分の指先をじっと見つめる暦であった。よし、問題ない。
「その代わり、聞かせてよ、姉さん」
碧の背の表面にタオルを滑らせつつ、暦は尋ねた。
「何が、その代わり、なの」
「つまり……小倉さんの名前を出したその代わり。逆襲だよ。姉さんの好きな
男子の名前、教えろ。教えてくれ。教えてください」
斜め後ろから横顔を見、反応を伺いつつ、暦が言葉遣いを変えていった。姉
は気を悪くした風もなく、「そうね」と人差し指を自分の口元に持って行くと、
考える仕種。程なくして答があった。
「いないなあ、男子は」
「え」
手が止まる。
「男子は、ってことは、まさか姉さん……」
「違う違う。ばかね」
間髪入れずに否定し、それから笑いをこらえるのに苦労する様子が、ありあ
りと伺えた。
「ばかと言われるほど、的外れか?」
「手を動かして、暦。素早くやってくれないと、お互い、湯冷めしかねない」
暦は仕方なく、手の動きを再開した。
「それで? 男子にいないというのは、どういう意味?」
「同級生にいない、ということ。もっとはっきり言えば、同じ年頃の子にはい
ません。納得した?」
今度はしっかり振り返り、意地悪げな笑顔を見せる碧。暦は軽く舌打ちし、
「納得した」と応じる。それから、背中全体に湯を掛けてやりながら、「でも」
と付け足した。
「じゃあ、大人なんだ、好きな相手って」
「そうよ。――ありがと」
身体の向きを換え、今度は、碧が暦の背をこすってやる。暦は少し考え、鎌
を掛け気味に聞いた。
「里中(さとなか)先生?」
「うん? どうして。さっきのあなたの疑問、そのままお返しよ。どうして里
中先生の名前が出てくるのか」
「だって、先生の中なら、里中先生と一番仲がいいように見えるよ、姉さん」
「そうかもね。だけど、好きな相手というのとは違うわ。第一、先生に限定す
るのがおかしい」
「えっ、けれど、大人って、他に考えられ……」
語尾が消える。碧はレッスンを受けているから、そっち方面の関係者がいる
のだ。当然、男性もいる。暦は詳しくは知らないが、若くて格好いい人も一人
や二人、いや、もっといたような。
「誰? 僕の知らない人なら、あとで写真を見せてよ」
「ううん。知っている人よ。間違いなく、会っているしね」
「……もったいぶらず、名前を言ってくれっ」
「――ああ、もう。ほら、動くから、ほっぺに泡が着いちゃった」
「あとで取る。それより名前」
後ろを向いた暦は、また顔を前向きに戻し、返事を待つ。思わず、貧乏揺す
りが出た。
「はいはい、じゃ、教えるけれど、誰にも言ったらだめよ」
「分かった。約束する」
暦がそう応じると、碧は洗面器をお湯で満たしながら、何事か言った。断片
的にしか聞こえなかったが、それでも暦は、え?と驚いた。信じられず、再び
振り返ろうとしたところへ、ちょうど背中を流すお湯が。
「うわっ!」
顔、特に口にお湯が掛かって、むせる。
「だ・か・ら、動かないでって言ってるでしょ。私のせいじゃないからね」
暦はかまわず、しかし多少咳き込みながら、確認を試みた。
「誰だって? もういっぺん」
「何度も言わせないでよ、しょうがないわね。地天馬さんよ」
答えた姉は、当たり前のような顔をしていた。
「分からないな」
暦は机に向かった姿勢で、幾度目かのつぶやきを繰り返した。
食事を含む家族団らんの時間を過ごしたあと、只今は自分達(暦と碧)の部
屋で、とりあえず、夏休みの宿題に取り組んでいる。
「分からない問題は、あとで一緒に考えるんだから、次に進めば?」
右方、やや後ろから、碧の声があった。これまでいくらつぶやいても返事が
なかったのが、やっと反応してくれた。
「宿題じゃなくてさ。風呂でのこと」
「地天馬さんを好きだって話? いいじゃない、別に」
碧はノートを閉じた。最低ラインのノルマはこなしたという証だ。折角のチ
ャンスに、暦は話を続ける。
「地天馬さんなら、僕も好きだけど、姉さんの言う意味は、文字通り、恋人に
ってことなんだよね」
「あなただって、そのつもりで聞いたんでしょう。違った?」
「違ってない」
「何が分からないわけ? あり得る答じゃない」
相変わらず、この件に関しては当然と言った表情を崩さない碧。小首を傾げ
た弟の前で、姉はさらに続けた。
「当人の目の前で言うのはおかしいかもしれないけれど、我が家にはいい男が
二人もいるんだもの。お父さんと暦。私、まだ小学生なのに目が肥えてしまっ
て、仕方がないわ。身近な人で、お父さんや暦に並ぶ男性なんて、そうそうい
ない。地天馬さんぐらいよ」
「僕のこともはともかく」
ほんと、本人の前でそんなこと言うなよ、と思いつつ、口には出さない暦。
ただし、目の下辺りが少々赤くなっていたけれども。
「しかし……それにしたって、年齢が。地天馬さんて、いくつ?」
「知らない。歳の差を気にするの?」
「でもさ、限度が……」
指折り数えてみようとする。
「母さんが地天馬さんと初めて出会ったの、母さんが子供のときだったって。
そのとき、地天馬さんはもう探偵をやっていたそうだから、どんなに若く見積
もっても……当時すでに十九?」
「中学を卒業してすぐ、探偵を開業されたのかも」
「そんな無茶な」
「分かってるって。十九歳でも若すぎるわ。常識的に判断すれば、若くて二十
二、三。実際は、三十前後じゃないかしら」
「じゃあ――母さんの今の年齢から十いくつかを引いて、二十二を足す。それ
が地天馬さんの今の推定年齢、最も若いパターン」
「うーん、およそ三十四かぁ」
「何でそうなる! 母さんが二十代になるじゃないか」
「二十四、五歳で充分に通用するのよねえ。ある仕事で、同じ年代の女性カメ
ラマンがいてさ、その人から恨みがましく、『碧ちゃんのお母さんて、魔女じ
ゃないの?』と言われたことがあるわ」
「はぐらかすなっ」
暦が怒ってみせると、碧は「ふう」とため息をついて、微笑みを返して来た。
「あのね、暦。あなたの言ってることぐらい、私にだって分かる。そんな無理
に若く見積もって計算しなくても、そうね、地天馬さんは多分、五十から六十
の間。私なんか相手にしてもらえないだろうけど、でも、今、あの人を好きな
気持ちには変わりない」
「そうじゃなくってさ。現実問題、地天馬さんが独り身ってことはないぜ。つ
まり、姉さんが結婚できる年齢になったって、地天馬さんとはまず結婚できや
しないじゃないか」
「……そこまで具体的に思い描いていたわけじゃないけれど」
腕組みをして、考え込む碧。そのポーズのせいで、冗談なのか本気なのか、
暦には見極められない。でも。
「とにかく、今の私は地天馬さんがいいの。好きなの」
そう言い切った姉の横顔を見ていると、本気のように思えてきた。
今の内に、何か対処しといた方がいいんじゃないか。そんなことまで考えて
しまった。子供らしい、考えすぎなのだが。
物語は一足跳びに半年あまり先へ。二月の中旬に入ろうかという頃合いに。
「最近、妙に男子が優しい」
下校の途中、友達が一人離れ、二人離れしていき、姉と弟だけになったとこ
ろで、碧が呟いた。
「やっぱり、あれかしらね」
「あれっていうと……」
察しは付いたものの、皆まで言わない暦。分からないようなふりをし、相手
に委ねる。
「お菓子メーカーに躍らされる日のことよ。そんなにチョコレートがほしいも
のかと」
「チョコレートがほしいんじゃなくて、相羽碧って女の子から、何かプレゼン
トがもらいたいんだよ」
「うん、そこなんだな、問題は。好かれるのはいいの。私、基本的にイベント
好きだし、躍らされるのなら楽しく躍りたい。ただ、何をもらえるんだろうっ
て、期待されるのが困るのよ」
お喋りに熱が入る。その度合いとは反比例して、歩みは遅くなる碧。暦は合
わせた。
「何でもいいんだって。たとえ五十円のチョコを剥き出しでもらっても、喜ぶ
に決まってるさ、あいつら」
「そのくらい、分かってる。でも、だからってほんとに素っ気ない、十把一絡
げみたいなプレゼントですませるなんて、私にはできないのよねー」
「義理でも渡すからには……ってやつ?」
探るように尋ねる暦へ、碧は黙ってうんうんと頷いた。暦はからかうような
笑みを作り、冗談交じりに言葉を重ねてみた。
「そうして、一ヶ月後のお返しに、いい物をもらうと」
「いやいやいやいや」
今度は一転、横方向に激しく首を振った碧。
「お返し、いらないわよ。私がお返しをほしいのは、好きな人からだけ」
「そういえば、バレンタインデー、地天馬さんに何か渡すつもり?」
「当日、直に渡せるようならね」
恐らく、その条件を満たすのは難しい。相手に依頼が入っていないことを筆
頭に、クリアすべきハードルが多い。
「みんなに、姉さんが好きなのは、遥か年上の探偵だってこと、言ってもいい
かな」
「何で」
不思議そうに口をすぼめ、弟を見つめ返す碧。
暦は逆に視線を外し、言い訳がましく答えた。
「そりゃあ、みんなから聞かれるし。教えないでいると、うるさいったらあり
ゃしない」
「ふふん、言いたくなるのも分かる。あんた自身は知れ渡っているものね、好
きな女の子」
「違っ。そ、そういうのじゃない」
一瞬、振り向いた暦だが、赤面している気がしたので、すぐに戻した。
「ただ、現実を知らないせいで、希望を持ってる奴がいたら、かわいそうと思
わないかってことだ」
「あはは。知った上で、それでも希望を持ち続けてくれる男子なら、見込みあ
ると認めてよさそうっ」
「こっちは、ていうか、男の側としては真剣なんですけど」
「私も真剣だよ。そうね、年上の知り合いが好きだってことは言ってもかまわ
ない。ただ、その人が探偵だとは言っちゃだめ」
「どうして」
顔の火照りも消えた暦は、姉の顔をまじまじと見た。微笑を添えての答がす
ぐに返る。
「もしかしたら、よ。それなら自分も探偵になる!って言い出す人が、いない
とも限らないでしょ」
暦にとって、思いも寄らぬ理由だ。姉のことをよいと言う男子の面々を、ひ
とりひとり思い浮かべてみた。さもありなんというタイプ、確かにいる。
「そういう奴がいても、別にいいじゃないか」
「私が求めるのは、名探偵だから。名探偵はなるものじゃなく、いつの間にか
そうなっているものだと思わない? 努力と才能、そして運命によって決まる
存在」
暦は無言でいたが、心の内では、そうかもしれないと思った。少なくとも、
努力だけでは辿り着けそうにない。
「そんな名探偵を目指させるなんて、忍びないじゃない」
「けど、ひょっとすると、中には一人ぐらい、才能のある奴がいて、そいつの
運命のきっかけが姉さんにあるんだとしたら……」
「可能性、極端に低そうだけど、ロマンチックね。うん、それだったら、あり
かも」
「それなら――」
暦は言い掛けて口を噤んだ。姉にとって年齢的に釣り合いの取れた異性が現
れる余地を、少しでも広げておくには、職業探偵であることも皆に教えておく
べきだ。そんな風に考えた。
二人の歩く速度がいつの間にか逆転している。振り返った姉は、訝しげに眼
を細めていた。
「途中で言うのをやめるなんて、怪しい」
「大したことじゃないよ」
「よからぬことを考えているのなら、私にも手があるんだからね」
「手?」
ウィンクをした碧に、暦はぞくっとして身を引き気味にする。鞄の中で、乾
いた音がした。筆箱と縦笛がぶつかったらしい。
「たとえば、そうね、『相羽暦くんは私と一緒にお風呂に入ります。しかも、
近頃は身体をじろじろ見てきます』って、小倉さんに教えてあげるとか」
「偽情報反対!」
好きな女子の名を出され、暦はそう抗議するのがやっとだった。
* *
数年後、相羽碧のために名探偵を目指す男の子が、本当に現れる。だけれど
も、当然ながら、まだ本人達は知らない。
その話については、また別の機会に。
――おわり
#340/369 ●長編
★タイトル (AZA ) 09/03/13 23:59 (269)
お題>スキップ 1 永山
★内容
一人住まいのアパートで、競馬中継を見ようとテレビの前に座していると、
ドアがノックされた。まだメインレースまでは時間があるからいいようなもの
の、誰だこんなタイミングでと、僕はいささか不機嫌になった。
応対に出ようと玄関に向かうと、既にドアは開いており、大きな丸眼鏡を掛
けた男が、こちら側を覗いていた。若干小柄で、頼りなげな体格に色白の肌を
している。
「あ、田村市彦さんですね。P大学一年生の」
いきなりそう言った。高いが、耳障りではない声だ。
「そうだけど、あなた、誰?」
「江住と申します。これ、名刺です」
マジシャンがカードを扱うときのように、流麗な手つきで名刺を取り出し、
渡してきた。ありふれた白い紙の名刺に、江住末雄と刷ってある。肩書きには、
スキップ社商品販売員とあった。
「訪問販売のセールスマン? 何か売りつけるつもりなら、人を見る目を――」
「まあまあ、端からそう邪険になさらず、どのような商品か、説明をお聞きに
なってからでも」
「しかし、余計な物を買うお金が、そもそもないんだ。ご覧の通り、決してご
立派でないアパートに、親の仕送りとバイトで暮らしている学生の身分なんで
ね」
我ながら芝居がかって、室内を見渡す仕種をした。こういう手合いは、早く
追っ払うに限る。だったら、さっさと「いりません、帰ってください」と言え
ばいいのだが。この時点で相手のペースに嵌まっていたのかもしれない。
「お金なら、もうじき、それなりのまとまった額が入りますよ」
江住は意味ありげに言った。訳が分からない。
「おや。競馬をなさるのに、勘が鈍い」
競馬は、大学に入ってから知り合った友達に誘われて、大きなレースだけ買
うようになった。験担ぎというか、決まった数字の馬券を購入するだけで、馬
や騎手その他に関しては、まるで詳しくない。
「競馬で当てたと言うんですか? おかしいな。これまで買った分は、欠かさ
ずチェックしているけれども、二回目に本命がちがちのを当てたきりで」
「そうではありません。今日、これから、的中するのです」
「? さっぱり分からん」
頭のおかしい人なのかと思い始めた。すると、江住は僕の心を読んだかのよ
うに、「大丈夫、私は正常ですよ。論より証拠、実体験してもらうのがよいと
考え時間を合わせて飛んできたつもりでしたが、少々、早かったようで」とぺ
らぺら喋りながら、上がり込んできた。
「ちょ、ちょっと」
「レース、始まりますよ。いつものように、6−7を買っておられるんでしょ
う?」
「あ、ああ」
六月七日、好きだった異性の誕生日にかけたものだ。そんな馬券の買い方を
していると知っているのは、誰もいないはずだが。
「一〇四万九千円ぐらいが返ってくるはずですよ」
「入れば、ね」
倍率を思い出しつつ、そう答えた。
「間違いなく、6−7が来ます。何故、確信を持って言えるかというと、私に
とって過去のことだからです」
相変わらず続く意味不明の話に、いい加減腹が立ち、怒鳴りつけてやろうか
とした。その矢先、メインレースがスタートした。出かかった言葉を飲み込み、
テレビの方を向く。横目で江住の様子を窺うと、自信たっぷりな微笑を浮かべ
ていた。
そして――。
「……ほんとに来ちゃったよ」
事態をよく理解できないまま、僕はとりあえず、江住氏にお茶を出していた。
本人が主張するところによると、彼は未来人で、二十四世紀半ばから来た。
“スキップ”というテクノロジーが二十四世紀初頭に、その原理の端緒が見付
かり、以後、様々な発明がなされた。その関連商品を売り歩くセールスマンだ
という。
「――こうして、私が過去の時代に来られるのも、スキップ技術のおかげなん
です」
「えーと」
僕は半信半疑のまま、確認の質問をしようとした。大人であれば口にするの
が多少憚られることを。
「スキップというのは、つまり、その、タイムマシンのようなもの……なんで
すか?」
「そういう理解で、何ら問題ありません」
我が意を得たりと、大きく頷く江住氏。
「補足するならば、今回、田村さんにお買い上げいただこうと持って来たのは、
条件付きタイムマシン、限定的タイムマシンとでも呼べましょうか」
話しながら、懐から超小型アタッシュケースのような物を取り出す江住氏。
さらにそれを開けて、中から一枚のカードを手に取った。サイズはトランプ大
で、デザインや色はどこかで見た覚えが……。
はたと気付き、僕はつい、指差して叫んでいた。
「何、それ。UNOのスキップじゃないか!」
「はい。同じスキップなので、メーカーとして洒落っ気を出して、似たデザイ
ンになっております。混乱を避けるため、商品名はSカードとしていますが」
彼はカードを裏返した。裏――大きくSと書かれた側が表だとして――には、
細かい字で何やらびっしり書き込まれている。多分、説明書き、注意事項の類
だろう。
「使い方や注意事項などは、ここに日本語で書いてあります。説明責任からお
伺いしますが、一つ一つ読み上げましょうか? それとも、主な点のみをお伝
えし、細部はあとでご自身で読まれますか?」
「じゃあ、とりあえず、主な点を聞かせてほしい」
江住氏が帰るまでに、全部読むくらいの時間はあると踏み、僕は後者を選択
した。
「分かりました。まず、正式な商品名は、Sカード・スタンダードです。名称
からご推察できると思いますが、様々な機能が付いた上位製品があります。し
かし、今回、田村様にお売りできるのは、このタイプのみになっております。
何故かと申しますと、大変失礼ながら田村様の資産――」
「分かった分かった。ついでだから、先に価格を聞いておきたい。いくら?」
「五十万円になります」
息を飲む。生まれてこの方、そんな高価な物を僕個人で購入した経験はまだ
ない。
「これでもお安くしています。と言いますのも、スキップ関連商品に定価とい
うものはなく、人柄と資産その他諸々を調査した上で、適正と思われる価格を
算出、提示させていただくシステムとなっていますので」
「し、しか、しかし、五十万が僕にとって適正か?」
「最前、百万円あまりの臨時収入があったことをお忘れなく。その半分以下の
ご請求なのですから、良心的であるとさえ自負しております」
図々しいというか、傲慢というか。
でも……本当に時間旅行のできる代物であれば、五十万円でも安い、という
考え方もありなのは確かだ。ひとまず、支払う意思のあることを示すと、僕は
翻意して、説明書きを読みたいと望んだ。万が一にも、この品物の欠点を隠さ
れたまま、丸め込まれてはかなわない。それに、もし本当に江住氏が未来から
来たのなら、一瞬でこの場から消え失せることも可能なのではないか。そんな
想像が働いたのだ。
「かまいませんよ。じっくりと読んでください。ご不明な点があれば、遠慮な
く質問してくださって結構です」
1.本品の使用者欄に名前を当人が記入することで、使用者が決定される。使
用できるのは、名前の当人のみとする。使用者変更はいかなる形でも不可
2.本品の使用は、希望する行き先と時間を明確に思い浮かべながら、「スキ
ップ」と発声し、本品を足下に放ることでなる(本品は移動した先に着いて
行きます)
3.本品の移動可能範囲は、使用者ごとに条件が付く。つまり、使用者の現に
存在する時点より未来、過去の方向にかかわらず、使用者が生存している時
間に限る。これを超えて使用した場合、使用者の生命に関わる
4.本品により移動した先での滞在時間は、三時間を上限とする。これを超え
て滞在した場合、弊社は使用者の身体の安全及び元の時点への帰還を保証し
ない
5.本品により移動後、元の時点に戻るに際しては、直行に限る(換言すれば、
寄り道をしてはならない。これに反した場合、元の時点に戻れません)。帰
路に関しては、「Rスキップ」と発声して本品を足下に放るだけでなる
6.本品は使用限度を六回とする(使用後は、単なるカードと同等になります)
7.Sカード製品全般並びにスキップ技術について、いかなる形でも口外して
はならない。これに反した場合、使用停止及び本品の返品に加え、相応の賠
償を請求する権利を弊社は有する
8.同じ時空へ重ねて行かれることは、なるべくお避けください。これに反し
た場合、弊社は全ての安全を保証しかねます
9.万が一、本品に不具合が生じた場合、本品を手にしたまま、下記の連絡先
へお知らせください
「これだけ?」
「お、もうお済みですか。それで、これだけとは」
湯飲みを口から離し、聞き返してくる江住氏。僕はSカードをテーブルに置
き、とんとんと指で軽く押さえながら言った。
「もっと細かい禁止事項があるんじゃないの? 大雑把に言って、歴史の改竄
をしてはならないっていう……」
「ああ、それならご心配には及びません。正確に説明し、かつ、田村様にご理
解いただこうとすると、長くなるので省略しますが、人類がSカードを発明し、
使うことをも含め、全てが時間の流れであり、歴史なのです」
「……分からないなあ」
「歴史が変わったとしても、結果が全てということです。ご納得がいただけな
ければ、時間の流れは実に強大で、一個人が少々がんばったぐらいでは変わら
ない、とも言えます」
「うん? まるで正反対のようだけれど」
「そうですねえ……仮に一個人の行為が歴史の書き換えにつながろうとも、因
果応報、バランスを取る形で揺れ戻しが起こり、結果的には丸く収まっている。
これでどうです?」
「うん、まだ分かったような分からないような」
「考えてもみてください。私がこうして、未来の製品を田村様に紹介し、今正
に売り渡そうとしている、この行為自体、歴史の改変でしょう。でも、これは
禁じられていないし、実際に歴史に大きな影響を及ぼすこともないのです」
「……調査済みってことかな」
「そう受け取ってもらって結構です。第一、歴史を変える行為はだめと禁じた
ところで、一般人に過ぎないお客様が、把握できやしません。極端な例を想定
するなら、道端の小石を蹴っ飛ばすかどうかで、人類全体の将来に関わるかも
しれないのですから」
そういう筋書きのSF漫画を、小さな頃に読んだ覚えがあった。既に記憶は
曖昧だが、読後、少なからず怖さを感じた気がする。
「他にご質問は」
「6にある使用限度の六回っていうのは、スキップの回数だけ? それともR
スキップを含めた回数?」
「Rスキップも含めます。ですから、実質、三回とも言えますね」
ちょっとがっかりした。三回では、余程吟味して使う必要がある。
「もう一つ、質問。3番だけど、使用者、つまり僕の生きている時空でしか使
えないというのは分かるんだけど、過去はともかく、何年先の未来まで自分が
生きているかなんて、どうやって知ればいいんだよっていうか……」
「その疑問はごもっともですが、お教えすることはできません。ただ、サービ
スとしておおよその目安はお伝えできます。現時点の田村様なら、あと六十数
年は確実に生きられます」
てことは、八十歳ぐらいまでなら、まず大丈夫という訳か。
「これも親切心のつもりで付け加えておきますが、未来に行く折は、充分にお
考えになった上で、実行するのが懸命です。たとえば、移動した先が大火事の
まっただ中であれば、焼け死ぬ恐れがあります。思い浮かべた建物が取り壊さ
れ、高速道路が通っていることも、ないとは言えません」
「危なくて使えないじゃないか」
「ええ。ですから、なるべく、過去に行かれることをお薦めします。過去なら、
調べさえ万全にしておけば、まず大丈夫です。それに」
江住氏は口元をきゅっと結び、会ってからこれまでにない、真面目な顔つき
になった。
「それに、田村様は過去に行き、是非とも食い止めたい出来事があるのではご
ざいませんか? 私、僭越ながらそれを見越した上で、今日という日を選び、
販売に伺ったのですが」
「――確かに。ないこともない」
即座に認めるのは、何とも気恥ずかしいので、そんな返事に止めた。
「もう一度、確認するけど、江住さん。過去を変えてもいいんだね? 死んだ
人を生き返らせても?」
僕は腰を浮かせ、江住氏へとにじり寄っていたかもしれない。
セールスマンは、らしいスマイルを浮かべ、
「問題ありません」
と答えた。
僕は五年前の事件について、改めて、調べうる限りのことを調べた。
中学二年生のときのクリスマスイブに、クラスメイトの一人が死んだ。殺さ
れたのだ。彼女の名は、森野早紀子。僕の好きだった異性、そして恋人になる
はずだった人。
十二月頭に、思い切って、付き合ってほしいと告白し、OKの返事をもらっ
ていた。二十三日にプレゼントを交換した。そのとき、「今年のイブやクリス
マスは、女友達や家族と過ごす予定がもう入ってるから、来年ね」と言った彼
女に、「どうだろ? 来年は高校受験があるからなあ」と僕はとぼけた。
犯人は、年明け早々に捕まった。森野さんで三人目となる犠牲を出した連続
殺人鬼で、四人目を襲おうとしたところを第三者に見付かり、逮捕された。二
十歳になったばかりの、設楽幸三郎という大学生だった。動機は身勝手なもの
で、大学生になっても未来が見えて来ないとか、自分よりも優秀な人間に馬鹿
にされている気がしたとか、思い通りにならない現実にむしゃくしゃしたとか、
そんな理由で自分よりも体力的に劣る者を狙い、鬱憤を晴らしていた――と語
ったらしい。
一人目を殺した時点では未成年であった点が、多少問題視されたものの、判
決は死刑で確定。現在は、執行を待つ状況にある。
無論、犯人が死刑になっても、死んだ者は戻らないし、遺族を始めとする遺
された者の気が晴れることもないかもしれない。そうと分かっていても、死刑
を望んだ。
今でも、その感情に変わりはない。森野さんを助けられるかもしれないとい
う立場に立った今でも、だ。
僕はただ、思い掛けず手に入れたSカードの力を借り、最善を尽くすのみ。
チャンスは三回。しかし、注意事項に、同じ時空への介入は繰り返さない方が
よい旨が記されているだけに、なるべく一度で決めたい。
そのためには、まず、Sカードで移動したあと、どんな具合になるのかを体
験しておくべきだと考えた。リハーサルを経ることで、本番では計画した通り、
落ち着いて行動できるに違いない。
では、具体的に、森野さんをいかにして凶行から救うか。
真っ先に心に決めたのは、僕自身が犯人の設楽と同じ位置に堕すまい、とい
うことだ。噛み砕いて表現するなら、いくら森野さんを助けるためでも、他の
何者かを死なせてはいけない。たとえそれが、今や死刑囚となった設楽であろ
うとも。
最も穏便な方法として、僕が思い付いたのは、事件当日までに設楽と親しく
なり、事件を起こさせないというものだったが……滞在三時間で達成するのは、
困難極まりない。
逆に考えるのはどうだろう? 森野さんを犯行現場から遠ざけるのだ。あの
日、彼女は女友達の家から徒歩で帰宅途中、襲われた。ならば、僕がそれより
も早く、彼女の前に姿を現し、送って行くなり、どこかで時間を稼ぐなりすれ
ば、悲劇に遭わずに済むのではないか。
いや、待て。僕は移動した先でも今の僕の姿であって、森野さんからすれば
見知らぬ青年(おじさんかもしれないが)に過ぎない。下手をすると、僕自身
が変質者や犯罪者扱いを受けかねない。
だが……小さな修正を施せば、この作戦はまだ行ける。事件当日の時空には、
当時の僕が存在する。だから、当時の僕に事情を説明し、森野さんを迎えに行
かせる。これで危機を回避できるのではないか。三時間あれば納得させる自信
があるし、いざとなったらSカードの秘密を明かせばいい。Sカードについて
口外禁止の条項があるが、自分が自分に言うのは当てはまらない、だろ?
悪くない案だと思うのだが、不安なのは、江住氏の言葉。そう、時間の流れ
は強大だとか、因果応報だとか。僕のこの程度の介入なんて、消し飛ばされ、
なかったことに? あるいは、その時点では森野さんを救えても、別の日に被
害に遭うかもしれない。もしくは、設楽の手から逃れたはいいが、他の凶事に
巻き込まれて命を落とすかも……? 不安はきりがない。
ただ、江住氏は、僕が森野さんを助けに、過去へ行くと踏んだからこそ、S
カードを売りに来た、みたいなことも言っていた。あの人には胡散臭いところ
もあるが、基本的に信用している。その江角氏が、わざわざ無駄に終わると分
かっていて、僕を煽るような真似をするだろうか。しないと思う。思いたい。
と、計画を練る内に、失敗に終わった場合、何も同じ時空に行かなくても、
他の時空に行き、別の方法で介入すればいいと気付いた。これなら、同じ時空
への介入繰り返しにはなるまい。
そう考えるに至り、ほっとする。同時に、リハーサルがもったいなく思えて
きた。一度たりとも無駄にせず、三度のチャンス全てを森野さん救出に注ぎ込
むべき。その上で、一度目で成功すれば、御の字だ。
僕は改めて、いくつかの救出作戦を考え出し、その中から特に有効そうな三
つを選んだ。
――続く
#341/369 ●長編 *** コメント #340 ***
★タイトル (AZA ) 09/03/14 00:00 (274)
お題>スキップ 2 永山
★内容
一度目。
僕が行き先に選んだのは、事件発生の一時間前、森野早紀子が通るであろう
ルートからほど近い、寂れた公園。そのトイレ裏。冬の夜七時過ぎだから、人
目は少ないはずだが、念には念を入れて、目立たぬ場所に出現するよう心掛け
た。
出発日は、クリスマス前日。意図した訳ではないのだが、彼女の命日と重な
った。これを、“命日だった日”にしてみせる。
説明書きの通り、「スキップ」と唱えたら、アパートの個別トイレから、い
つの間にかこの地点に立っていた。足下を見ると、Sカードがあったので、忘
れない内に拾っておく。
過去に遡った確証こそまだないが、瞬間移動を果たした。Sカードはジョー
クでも詐欺でもなく、本物だった。それでも、間違いなく目的の過去に到着し
たと、確認しておきたい。革ジャンの襟を立て、僕は近くの商店街を目指した。
そうして、寒風に翻るのぼりに記された数字が、五年前の西暦であることを認
めるや、すぐに引き返す。これで確実だ。
改めて、周りを見渡す。
記憶に残る光景と、今、眼前に広がる光景に、大きな差はない。五年程度な
ら、まだまだよく覚えている。懐かしさに浸る間もなく、また、時間旅行をし
たという感激を味わうこともほとんどなく、僕は急いだ。森野さんを待ち構え
て、呼び止めねばならない。
最初の作戦として選んだのは、悲劇へとつながるルートを変更すること。そ
のためには、未来から来た僕自身が彼女に声を掛けるのはまずい気がしたのだ
が、さらに考えを詰めると、僕が五年前の僕とよく似ている事実が利用できる
と思い至った。
僕は田村市彦の親戚に扮し、田村家を探しているという設定で、森野さんに
近付く。道を尋ねるだけなら、警戒される恐れが大きい。しかし、田村市彦や
家族の名前を出し、この僕の顔を見せれば、道を教えてくれるに違いない。う
まく行けば、実際に家まで案内までしてもらえるかもしれない。そうなれば、
目的達成だ。自宅前まで来て、彼女に家の者を呼び出してもらっている間に、
姿を消す。怪訝がられるのは必至だが、森野さんを守るためには仕方がない。
思い付いた中では、最も穏当なやり方なんだ。
目星を付けていた道端に立ち、しばらく待った。何人かの人、何台かの車両
をやり過ごした後、とうとうやって来た。
五年前の森野早紀子。
視界の端でショートヘアの彼女を見つけたとき、僕は叫びそうになった。す
ぐにでも手を取り、安全な方角へ引っ張っていきたくなった。よく堪えたもの
だと、我ながら感心する。
僕は深呼吸して自分を落ち着かせ、道に迷っている演技を続けた。森野さん
とすれ違い、僕は五秒を数えたところで、振り向く。
「あの、すみません。――すみません!」
「……何でしょうか」
振り返った森野さんの戸惑いがちの表情が、外灯に照らされている。計算通
りだ。この位置なら、近付くことで、僕の顔をはっきり見せられる。
「親戚の家を初めて訪ねるところで、探してるんですが、分からなくて。あな
たと同じぐらいの年頃の男の子がいる、田村さんというお宅なんです」
早口になっているのが、自分でも意識できたが、不自然さとまではなってい
まい。相手の反応を、期待を込めて待つ。
「田村……もしかしたら、知っているかも」
「え? その男の子は確か、市彦君と言って、中二で。親戚連中に言わせると、
僕とよく似ているらしいんだ」
相変わらず、口調に焦りが滲んでしまうが、致し方がない。悪いことをしよ
うとしているんじゃないんだ、落ち着け。
森野さんは、僕の言葉に意を留めたらしく、こちらの顔をまじまじと見つめ
てきた。一拍おいてから、にこっと笑みをこぼす。
「ええ、似てる。私の知っているクラスメイトと」
信用を得た瞬間だった。正直、涙がこぼれそうになるほど嬉しい。だが、こ
こで本当に涙を流しては、それこそ変な人だ。ぐっと我慢し、話を続ける。
「ということは、同級生かい? それはラッキーだ。大まかでいいから、どう
行けばいいのか、教えてほしい」
「……」
森野さんは少しよそ見をする。上目遣いになって、何かを迷っている風だ。
僕も迷う。何かを言って、望む方へ話を持っていくべきか否か。
だが、こちらが誘導せずとも、彼女は親切さを発揮した。
「偶然、私は田村君と親しい方ですから、案内します」
そんな前置きをしたのは、付き合い始めたことを知られたくないからかな、
なんて思った。
とにもかくにも、ルートを曲げることに成功した。内心で、小躍りしている。
その喜びを面に出さないよう、努力が必要だったくらいだ。
勝手知ったる道順を、さも初めて通るかのように振る舞いつつ、森野さんの
斜め後ろを歩く。道すがら、会話を交わす方がいいかとも考えたが、結局よし
た。「悪いね、ありがとう」の謝辞ぐらいに止めておく。
家が見える位置まで来て、僕は何気ない風を装って、時刻を確かめた。よし、
もうすぐ犯行時刻とされる時間帯だ。このあと、僕が姿を消して、しばらく騒
ぎになり、時間を稼げるはず。それに五年前の僕は、ガールフレンドの思いも
寄らぬ訪問に、少しぐらい一緒にいようと引き留めるだろう。何たって、今宵
はクリスマスイブなんだ。
「ここです。表札が出ているから、間違いないか、確かめてみてください」
森野さんに促され、僕は表札に目を凝らした。
「ああ、ここみたいだ。ほんと、わざわざ案内してくれて、ありがとう」
「いえ、別に大したことじゃ……」
きびすを返されない内に、僕は急いで付け足す。
「ついでに頼みたいんだけれど、呼び鈴、君が押してくれないかな。それで誰
でもいいから、玄関まで呼んでほしい」
「え?」
「驚かせたいんだ。ご無沙汰していて、恥ずかしいってのもあるけれどね」
「……ここまで来たら、しょうがないですね」
困ったような笑顔になった森野さんは、手袋をした手を伸ばし、呼び鈴のボ
タンを押した。
うちのインターフォンは、音声のやり取りができるだけで、カメラはない。
よって、インターフォンを通じて『どちらさまでしょう?』という声が届く。
この年のこの時間、父は酔って寝ており、母は食後の後片付けで忙しかったの
だろう。その声は僕自身のものだった。
森野さんは、ちょっとだけ考えを巡らせる仕種を覗かせ、やがて口を開いた。
「夜分にすみません。私――森野です。その声は、田村君?」
『あ』
突然の事態に、機械が瞬停したみたいに、音声が途切れる。一秒か二秒の沈
黙を挟んで、『あ、ああ、森野さん。えっと、何』と応じるのがやっとの様子。
我がことながら、苦笑を禁じ得ない。この様子なら、充分に時間を稼いでくれ
よう。
いつまでもとどまって、笑っていられる状況ではない。僕は気持ち、忍び足
になり、この場を離れる準備をする。しばらく待っていると、予想通り、森野
さんがこちらを肩越しに見た。それから彼女がまたインターフォンの方を向く。
そのタイミングで、僕は姿を消すことにした。
戻るなり、驚かされた。それこそ、心臓が喉から飛び出るんじゃないかと思
うほどに、どきりと。
「どうかした?」
アパートのトイレを出発点とし、また戻って来たのだが、Sカードを拾って
戸を開け、居室に足を踏み出した矢先のことだ。女性の声が、話し掛けてきた。
「――君は、森野、さん」
森野さんがいた。五年分、成長しているが、見間違いようがない。髪型こそ
長く伸ばして、おしとやかなイメージだが、そこを除けば、中学二年生時の姿
を拡大コピーした感じがする。もちろん、化粧をして、着飾って、大人っぽく
なっている。
「変なの」
僕の反応や表情が、よほどおかしかったのだろう。ころころと笑う。
「やっと下の名前で呼んでもらえるようになったと思ったのに、元に戻っちゃ
うのかなあ?」
「いや。顔を上げたら、すごい美人がいたので、ぼけてしまった」
とっさの応対にしては、まずまずではないだろうか。色々と混乱している頭
で、状況把握に努める。
推察するにこれは……まず、ともかく、森野さんを五年前の悲劇から救うこ
とに成功した。これは確定事項だ。だから彼女が生きて、ここにいる。
いや、ここにいるのは、彼女が、今でも僕のガールフレンド、いやいや、恋
人でいるからに他ならない……と思っていいのか? 順調に交際を続け、今や、
下の名前で呼び合い、アパートを訪ねるまでに、なっていると?
ひょっとしたら、五年前の今日、インターフォンで会話をしたことがきっか
けで、交際を始めたばかりなのに大きな進展があったのだろうか。そんなこと
まで想像してしまう。
「そろそろ出発しよ? 映画に間に合わなくなる」
これからデートらしい。
「うん、ああ」
肯定の返事すら、どんな言葉を使っているのか分からない。どぎまぎし通し
のデートになりそうだ。
ところが――徐々に身体と心が、今の時空に馴染む。そんな感覚があった。
じわじわとだが、状況を理解していく。誰に教わるでもなく、乾いたスポンジ
が水を吸い取るかのごとく。
そして……思い出した。
すっくと立ち、玄関へと向き直る勢いで、髪をなびかせた森野さん。その生
え際に、僕の目が自然と行く。
はっきりとは見えなくても、あそこには深くて長い傷がある。
森野さんは五年前のクリスマスのあと、設楽幸三郎に襲われた。命こそ助か
ったが、手術でも容易には消せない傷を負ったのだ。
「どうしたの? 本当に変よ、今日の市クン」
折角だから、という訳でなく、新しい“今”をしっかりと噛みしめ、実感す
るために、僕は森野さんとのデートを楽しんだ。早めに切り上げて、アパート
に一人で戻ったのは、やり直しの必要を強く感じていたから。
殺人事件の犠牲になるという絶望の淵から助けたのはいい。目的達成である。
が、あの後日、同じ犯人に襲うことを許してしまい、森野さんの身体と心に傷
を残す結果では、喜べない。画竜点睛を欠くと言える。欠けているのは、目の
点どころではないかもしれない。
僕は決意した。もう一度、過去に飛ぶ。今度は森野さんを完全に無事に、助
け出す。きっとうまい方法があるはずだ。
森野さんがあのあとも襲われないためには、犯人の設楽を凶行に走れないよ
うにすればいいんじゃないだろうか。常に奴の行動を見張り続けることは、僕
には到底無理だから……残る手段は、奴を殺すか、森野さんの生活範囲から遙
か彼方へと遠ざけるか。二つに一つ。
一番初めに誓ったように、僕は設楽と同じ立場まで身を墜とす気はない。あ
いつを殺すという選択肢は、端から無視だ。
そうなると、当然、もう一つの選択肢、あいつを遠ざける方法に絞るほかな
い。遠ざけると言っても、強制的に連れ去るなんて、できっこない。五年より
ももっと過去に行き、設楽に接触して、奴の人生を変える――これも無理そう
だ。何せ、たったの三時間しか使えないのだから。
そうだ、警察に逮捕させるというのはどうだろう? たとえば、設楽が最初
の殺人をする現場に飛んで、あいつを現行犯で捕まえる……。
よい方法に思えたが、じきに恐怖心が僕に芽生える。殺人鬼に立ち向かおう
というのか? 首尾よく組み伏せることができても、僕自身も無傷で済むまい。
いっそ、捜査本部宛に匿名の手紙を出すのは、どうだろう。殺人現場を目撃
したが、怖くて名乗り出られないので、手紙で知らせるというのは、ありそう
な話だ。ただ、犯人の名前まで記すのは、不自然だ。自然な形で設楽が犯人で
あると示すには、凶行の瞬間を捉えた写真でもあればいいのだが……そんな写
真を撮ること自体は可能でも、設楽に気付かれるリスクが大きい。だいたい、
僕にできるだろうか? 目の前で女性が殺されるのを、黙って見過ごし、写真
に収めるなんて。
半ば運を天に任せるつもりで、僕は過去のある時空へと飛んだ。
移動が完了するや、足下にあるはずのSカードを回収することをも後回しに
し、さらにその下、今まさに女性――第一の被害者になるはずの春日井恵さん
を襲い、組み伏せた設楽を視界に捉える。
そう、僕は最初の犯行現場の上空五メートルに現れた。裁判記録などを読ん
でも、厳密な意味での正確な犯行時刻は不明であるため、その点は賭けるしか
なかったのだが、どうやら間に合った。春日井さんは死んでいない。必死に抵
抗している。
僕は落下しながら、未来より持ち込んだ鉄パイプを構え、設楽の肩口に狙い
を定める。そして一撃!
見事にヒット。設楽はばね仕掛けのおもちゃみたいに、横方向へ飛んだ。い
や、倒れたのか。僕の体重も加わっているから、強烈な不意打ちを食らったこ
とになるはず。だが、殺しまではしない。設楽の自由を奪えればいい。僕はジ
ーンズのサイドポケットに突っ込んでいた、おもちゃの手錠を取り出すと、設
楽を後ろ手にして拘束する。おもちゃではあるが、頑丈な物を選んだ。念を入
れて、ガムテープでぐるぐる巻きにする。仕上げに、梱包用の丈夫なロープで、
近くの大木と設楽の手錠とを結び、くくりつけた。
全ての作業をやり終えたあと、設楽に意識があることに気付き、ぞっとする。
うっすらとではあるが、奴の目が開いて、こちらを睨んだようだ。逃げるか、
叫ぶかしたいところを耐え、僕は負傷した女性に話し掛けた。携帯電話を借り、
救急車とパトカーを呼ぶのだ。
それから暗闇を凝視した。Sのマークが、黄緑色に浮かび上がっている。S
カードには、前もって蛍光塗料を塗っておいた。おかげで、回収を素早くでき
る。僕は息を整える間も惜しみ、元いた時空に引き返す。
大晦日の夜、戻って来た僕は即座にアパートを出た。過去をいじったことで、
また新たな“今”が生じているに違いない。タクシーを拾い、目的地へと急ぐ
車中で、その変化を吸い取る。
森野さんが無事であることは感じ取った。最初の犠牲者になるところだった
春日井恵さんも、重傷ではあったが、命を取り留めていた。それから、設楽が
五年前に傷害で逮捕されたことも分かった。
肝心の、今の僕は真っ先に知りたいことが、まだ分からない。森野さんの身
に、別の凶事が降りかかっていないのか。普通に暮らしていることまでは、感
じ取っているのだが、前のときに残っていた傷跡の類は、まだ把握し切れてい
ない。彼女のいるマンションに行き、直接会う方が早い。
「あ、迎えに来てくれたの? それもタクシーだなんて」
マンション前、玄関ホールを出たところで、森野さんは立っていた。
この瞬間、僕は、僕らがこれから初詣に出掛ける約束をしていることを理解
した。
僕はタクシーを降りると、滅多に口にすることのない「お釣りは取っておい
て」の台詞とともに支払いを終えた。
そして星明かりと外灯の力を借りて、彼女の顔を、全身をじっと見る。
「ど、どうしたのよ。何かついてる? なんてありきたりのこと、言わせたい
のかしら」
「……よかった」
思わず、彼女を力いっぱい抱きしめていた。
森野さんは五年前からずっと、犯罪や事故に巻き込まれることなく、今日こ
の日、こうして僕の前に立っている。因果応報やバランスなんて、関係なかっ
たんだ。
「――痛いってば。寒いからって、人をカイロ代わりにしないの」
「あ、ごめん。何だか、凄く、嬉しくってさ。やっと君に会えた気がした」
「……」
黙って聞いていた森野さんの真顔が、不意に崩れ、頬が緩む。
「時々、おかしいよお、市クン」
「大丈夫、もうおかしくない。今まで通りの僕さ」
さて、じゃあ当初の予定通り、初詣に出発しようと、道路を見やると、すで
にタクシーはなし。待っていてくれとは頼まなかったし、運転手だって、こん
なラブシーンまがいのものを見せつけられては、さっさと立ち去りたくなるの
もうなずける。
しょうがない。にぎやかな通りまで出て、改めて車を拾うとしよう。
歩き始めて五分ほど経った頃だったろうか。
生活道路の十字路で、右側から出て来た男とぶつかりそうになった。揉めご
とは避けねば。そんな心構えをしてから、相手を見やる。と――。
「……おまえ、こんなところで、見つけたぞ!」
いきなり殴り掛かってきた男の顔には、見覚えがあった。
設楽幸三郎。
森野さんの悲鳴が聞こえた。
何故だ? 設楽の奴、死刑に……。いや、僕は勘違いに気付く。
今の設楽は、死刑囚でなければ、殺人犯でもない。傷害事件の犯人だ。未成
年で、傷害事件一つを起こしただけなら、五年もあれば出て来られるのか。
そして、何というこの偶然。これが因果応報ということなのか?
「おまえのせいで!」
外灯の明かりに、銀色に光ったのはバタフライナイフか?
次の刹那、僕は脇腹の辺りに熱い痛みを――。
僕は五年前、設楽が最初の事件を起こした直後に、飛んだ。
森野さんや設楽に姿が消えるところを見られたに違いないが、緊急事態だっ
たから、許してもらいたい。あの場合、Sカードを使って逃げなければ、命が
危なかった。それに、これから僕は過去にまた介入し、森野さんの目の前で消
えたという事実自体、なかったことになる。
動悸が激しくなっている。過去に飛んでも傷は消えない。痛みは血とともに、
どんどん広がっているようだ。見る気がしないので確認していないが、急いだ
方がいいに決まっている。
僕がSカードのラストチャンスを使い、この時空に飛んだのは、最早覚悟を
決めたから。
僕と森野さんの完全な幸せのためには、設楽幸三郎という人間自体、存在し
てはならないんだ。
それに、今なら、僕は設楽を殺してもいいはずだ。何故って、“ついさっき”
僕は設楽に殺されそうになったのだから。正当防衛で、逆に設楽を葬っても、
何ら問題あるまい。法的にも、倫理的にも。
僕はSカードを拾い上げると、なくさないよう、懐にしっかりと仕舞った。
そうして、前回来たときに置いていった鉄パイプを探す。すぐに見つかった。
縛られたままの設楽の前に立ち、奴を見下ろし、狙いを定める。早くしなけ
れば、僕自身が携帯電話で呼んだ警察が、ここに着いてしまう。
大きく息を吸い、得物を振り上げた。
――終わり
#342/369 ●長編
★タイトル (CWM ) 09/04/26 17:40 (462)
夜明けのうた 上 つきかげ
★内容
「ねえ、何しているの」
その言葉に僕は、はっと顔をあげる。
ゆっくりと。
水の底から浮上してくるように。
焦点が合っていなかったカメラの映像が、次第にクリアになってゆくよう
に。
僕は現実を取り戻していく。それは僕の皮膚から否応なく染み込んで、僕の
意識を支配してゆく。
ひとびとの語り合う声。
どこかで流れる音楽。
歩いてくるひと、立ち去るひとの足音。
音、音、音が少しずつ僕の意識を覚醒させる。そして、それに合わせて色彩
が。
僕のこころに届いてくる。
そこは。
駅の構内にある喫茶店だ。
目の前には彼女がいた。
あなたの妹だと名乗って僕の前に現れた女の子。まるで物語に出てくる妖精
みたいに。少し現実離れした美貌を持つ少女。
僕はゆっくりと首を振る。
「何をしているって」
僕は自嘲気味に口を歪める。
「思い出していただけだよ。昔のことを」
あなたのことを。
思い出していた。
そうは言わなかったけれど、彼女にはそう判ったらしい。
「何にしてもまだ時間はある」
僕は携帯電話を取り出し時間を見る。
僕らが乗る予定の夜行列車が出発する時間まで、まだもう少しあった。
彼女は。
ぐいっと。
僕の袖をめくりあげた。
そこには、傷痕が文字となって並んでいる。
あなたが、僕に残した聖痕。
皮膚の下に描かれた紅い文字。
2011.4.5 5:12
彼女は冷めた美貌に薄く笑みを浮かべる。
「そうね。約束の時間までまだ随分あるわ」
僕は。
ゆっくりと。
再び記憶の海へと沈んでゆく。
その部屋は。
薄暗く、幾つもの電子機器が並べられており。
病院の一室というよりは、何かの研究室か実験室のようで。
並んだ液晶ディスプレイが放つ仄かな光の中に、その女医は佇んでいた。
彼女がかけた紅いフレームの眼鏡は、医者らしからぬ艶かしい雰囲気を持っ
ていたが。
彼女が身に纏ったものは、法廷にのぞむ裁判官みたいな厳粛さであった。
僕とあなたは。
白衣の女教皇みたいな女医の前に腰を降ろしていた。
あなたにはもう身寄りとなるひとが誰も残っていなかったので。
僕だけがあなたのそばに居ることになった。
女医はそして。
厳かに語り始める。
あなたはどこか。
授業を受ける女学生みたいに好奇心で瞳を輝かせ楽しげであった。
「この症例はだいたい2年前、そう2009年くらいから報告されるように
なったわ」
女医は。
表情を変えず、どこか事務的ですらある調子で語りつづける。
「TSD(Time Sense Disorientation)という奇妙な名称で呼ばれる
病 」
「知ってるわ」
その言葉に僕は驚いてあなたを見つめる。
「時間識失調症でしょ。わたし、2年前。その病でつきあってた彼をなくしたもの」
僕があなたと出会う前。
そのころの話を聞いたことはなかったので、知らないのは当たり前なのだ
が。
女医は満足げに頷いた。
「時間というものは、何か。それは物質のように意識から外在的に実在する
ものではなく、それ自体がそもそもひとつの脳の機能といえるわ。つまり
ね。脳の機能が正常に動作しなければ時間というもの自体が正常に流れなく
なる」
「ええ」
あなたは、朗らかに笑いながら語った。
「この病にかかると正常なひとたちとは別の時間が流れる世界にシンクロし
てしまい。この世界からは消えてゆくのでしょう」
女医は。
判決を下すように。
薄く笑みを浮かべて、頷く。
「そうね。例えてみれば。私たちの住んでいる世界が時速50キロで走る電
車の中にいることだとすれば。TSDを発症したひとは時速500キロの電
車に乗り換えるようなもの。つまりね。私たちからは認識できない世界へと
入り込んでしまうのよ」
僕は何か。
全てが非現実であるような。
粘液質の皮膜がその部屋全体に覆いかぶさっているような、奇妙なとても奇
妙な幻惑を感じながら。
あなたと女医のやりとりを聞いていた。
「わたし。あとどのくらいこの世界に留まれるのかしら」
「いくらか遅らせる方法はあるのだけれど。精一杯やって2ヶ月というとこ
ろかしら」
あなたは、
僕に微笑みかける。
「春まではもたないみたいね」
夜は。
物理的な重さを持って、僕らの上にのしかかってくるかのようだった。
夜行列車は夜の闇を走っている。
列車は絶え間なくリズミカルな律動を生み出している。とても単調でシンプ
ルな音楽みたいに。
それは時間を作り出していた。
僕らの生きる時間。
そして、あなたがとどまり続けることができなかった時間。
列車は。
高く聳える山の狭間を走ってゆく。
山は漆黒の巨人となり僕らの両脇に佇んでおり。
その狭間から見える空は。
深淵への裂け目のように黒く横たわっている。
僕は。
その闇の世界に、なぜか安心する。
深くて黒い闇は、僕のこころにも横たわっており。
世界が闇に塗り潰されれば、僕のこころと同期がとれる。
彼女は。
僕の向かい側に座っている。
切れ長の少しつりあがった。
夜の宝石みたいに美しい瞳で僕を見つめている。
唐突に。
彼女は口を開いた。
「姉は、どんな感じだったんでしょう」
僕は、思い出したように彼女を見つめる。
「この世界から去る前の姉は。どんなだったのでしょうか?」
僕は、ぎこちなく笑ってみせる。
そして。
ゆっくりと語った。
「普通だったよ」
僕は闇に潰されたこころの底から、記憶を取り出す。
「とても。普通だった」
そこも。
病室というよりは、電子機器で武装された要塞のような。
あなたは。
その青白い光を放つモニターの群と、冷却ファンがノイズを放つプロセッサ
の城壁に取り囲まれ。
無数のケーブルが繋がったヘッドセットを頭に付けていた。
まるでガラスで出来た仮面を付けているような。
そして、僅かに口元だけが露出しており。
あなたは、その口元を子供っぽい笑みで歪めると。
「えへへ、こんなんなっちゃった」
と僕に語りかける。
あなたは、無数のセンサーやチューブで機器に接続されていたため、ほとん
ど機械の一部になっているように見えた。
ただ舞い落ちた花びらみたいな紅い唇だけが。
あなたが、まだひとであることの証だと思う。
「なんかね」
あなたは。
ごく自然な調子で。
まるで今日のお天気がどうだということを話すみたいに。
僕に語りかける。
「TSDを発症するとほら。わたし、別の流れにある時間の中へ意識を飲み
込まれていくじゃない」
僕は、そんなあなたをただ見つめていた。
「この機械は、わたしの意識をね。この世界につなぎ止めることができるら
しいの」
あなたの脳は。
女医が言っていたところの時速500キロの世界へと向かってブーストをか
けられている。
TSDは着実にあなたのこころを、意識を、蝕んでいっているはずだった。
でも。
あなたは、幼子のように笑っている。
僕はあなたの隣に座った。
「TSD特別障害年金の手続きができたよ。大した額ではないけれど、」
突然。
あなたの唇が、僕の唇へ押し当てられる。
優しく、まるで風が撫でるみたいに。
あなたは僕に口づけをした。
「ほら、こんなんなってもちゃんとキスできるんだよ」
僕は。
涙をこぼした。あなたは、困ったように微笑む。
「ねえ。大丈夫だって。そりゃあお外を並んで散歩はできないけどさ」
あなたは、くすりと笑う。
「どっちにしても外はまだ寒いじゃない。こうして手をつなぐのよ」
あなたは。
僕に手を預ける。
「そうすれば、お部屋の中で並んで座って手をつないでるのよ。いつもとお
んなじ。ね。泣いたらおかしいよ」
その夜、僕はあなたのそばで一夜を過ごした。
TSDを発症したひとは、異なる時間の中へ飲み込まれてゆくときに、身体
が光につつまれる。
まるで。ホログラフでできた映像みたいに現実感を無くして細かな光の粒子
に分解されてゆく。
僕は暗くなった夜の部屋で。
魔法の森に咲く花のように神秘的な光を放つあなたの身体を眺めながら。
その手をぎゅっと。
握りしめていた。
現実感を無くしていくあなたをそうすれば、この世界につなぎ止められると
いうかのように。
それより2週間前のこと。
僕ははじめてあなたの病に気がついたときのことを、思い出す。
そう、それは。
夜明け前の出来事だった。
僕とあなたは、ひとつの部屋の中でまるで子宮の中で微睡む双子みたいに。
肌をよせあい、互いの息を感じながら。
薄く次第にはぎ取られて闇の中で抱きあっていた。
はじめ僕は、夜明けの光があなたに訪れたのかと思ったのだけれど、そうで
はなく。あなたの身体は。そう。世界から剥離していくことの象徴みたい
に。
薄く光輝いていることに気がついた。
僕は思わずあなたを揺すり起こしたのだけれど。
あなたは、自分の身体が現実離れした光を放っているのにただ微笑みを見せ
ただけで。
母親が子供を抱きしめるみたいに、いやあるいは子供が親にしがみつくみた
いにぎゅっと。
そう。
ぎゅっと。
僕の身体を抱きしめてくれた。
そのときが、はじまりだった。
そして、そのときあなたは。
それから何が起こるのかを全て理解していたのだ。
僕が不安に喘ぎながら夜明けの光の中で蒼ざめているときに。
あなたは全てを知っていたのだ。
僕はあなたの肌にふれ手を繋ぎ、日々を過ごしていて。
いつの間にかそれが永遠のものだと思ってしまっていたのに。
あなたは、それに終わりがあることを知っていた。
知っていたんだ。
女医は。
電子機器に囲まれたシャーマンのように。
妖しげなひとみで僕を見つめた。
「で、あなたは何を知りたいの」
なぜこの病院はどこに行ってもこう機械に満ちあふれているのか。
ここでは誰も彼もが、機械に接続され駆動されているみたいだ。
僕はふうとため息をつくと。
こう言った。
「TSDを発症したひとは、最後はどうなるんですか?」
「言ったはずよ。わたしたちの世界から消えてゆく」
女医は。
月と氷が支配する世界に佇む女王のように。
ディスプレイたちが放つ仄白い光を浴びてふっと微笑む。
「その答では満足できないのね」
「ええ。だって、異なる時間に飲み込まれていくのでしょう。つまり別の世
界に行くということではないのですか?」
「死ぬことだって」
女医はどきりとするような冷たい眼差しで、僕を見る。
「別の世界へ行くようなもの。そうじゃあないかしら」
「ではTSD患者は死ぬのと同じだと」
「うーん。ちょっと違うかな。少し待って」
女医は振り向くと、ディスプレイのひとつに向き合って、キーボードを操作
し始める。
「あのね。TSDの発症例は全部で1300くらいある。そのうち一例だ
け。戻ってきたひとがいるの」
「戻ってきた?」
僕は。
息が止まるかと思った。
「そんなことが」
「ただ、戻ってきたひとはほとんど別人になっていたのだけれどね。そのひ
とにインタビューしている映像がストレージのどこかにあったはずなんだけ
れど」
女医の手が忙しく動く。
「どいういう訳か、戻ってきたひとの情報はほとんど組織が非公開にしてし
まったから」
「組織?」
僕は女医の言葉にひっかかりを感じて問いかける。
「ああ、TSDの調査組織のことよ」
突然、ディスプレイのひとつに男の映像が浮かび上がった。
猛禽のように見開かれた瞳。蛮族のように長く乱れた髪。そして、狼のよう
に痩せ細り、餓えた笑みを浮かべて。
男は語り始めた。
「もうすぐ、夜が明ける。
黄金に輝く太陽がやってくるんだ。
おれたちは。
夜と月に属する一族だから。
彼女らのように光輝く世界の中では、
存在していくことはできない。
そう。
嵐が地上を蹂躙するみたいに。
光が世界を押し潰す。
そこでは太陽の娘たちだけが、息をするのを赦される。
彼女らは喜びに満ちあふれ、夜明けの歌をうたう。
ああ。
おれたち夜と月に属するものは。
消えてゆく。
消えてゆくんだ。
けれど、決して哀しみとともに消えるのではなく。
太陽の娘への祝福と喜びに満たされて。
消えてゆくんだ。
ああ。
もうすぐ、夜が明ける。
あなたは光輝く黄金の光に抱かれて。
喜びに満たされるんだ」
少し粗雑なその映像は、唐突に打ち切られた。
女医は謎かけのような笑みを僕に向ける。
「どう思う?」
「どうっていうか」
「もちろん、きちがいの戯言として片付けてもいいと思う。でもね」
女医は、シャーマンの笑みを見せると厳かに言った。
「きちがいは、別の世界に属した内的論理に従って語っているのよ。判るか
しら」
僕はふっと。
甦る記憶の中に飲み込まれた。
僕とあなたは。
夜の部屋の中で固く抱きあっていた。
まるでそうすることによって。
お互いの肌が溶けあって混ざり合わすことができるというかのように。
お互いがひとつのものに、なれると思っているように。
固く、しっかりとたがいに抱きあって。
夜が明けるのを待っていた。
傲慢な光の刃が、薄暗い部屋の闇を切り裂くのを。
待っていた。
期待とともに?
不安とともに?
恐れとともに?
待っていた。
僕とあなたは、ふたりで夜明けを。
でも。
僕はなぜか夜に留まることを選んでしまった。
そういうことなのだと思えた。
夜行列車がその駅についたのは、真夜中の少し前だった。
大体4時間ほど列車に乗り続けたことになる。
夜の闇を抜けた末にたどりついた北の地にあるその駅は。
思ったより大きな駅だったのけれど。
既に終電車も終わってしまった時間で、バスも終わりタクシーも出払ったら
しく。
まるで廃墟のように閑散としていた。
僕と彼女は並んで駅の外へ出る。
太古の遺跡のように大きなビルが立ち並ぶ人気のない北の街。
ひとつよいことは、いつの間にか空が晴れたらしく明るい月が輝いているこ
とだ。
「どうやって行くつもりなの?」
彼女の問いに僕は笑って答えた。
「もちろん、歩くのさ。4時間も歩けばつくよ。約束の時間には余裕で間に
合う」
彼女は何も言わずに、僕とともに歩きだした。
大きなビルの立ちならぶ街並みは30分も歩けば様がわりして。
気がつけば周りは寺院や、墓地がならぶ土地となった。
荒涼とした暗い土地が延々と月明かりの下に広がっており、死霊達が這い
まっわっているような静かではあるが濃厚な死の気配が漂う場所だ。
まるで、冥界を歩いているようだった。
僕は、その場所を歩きながらとても馴染んでくるのを感じる。
まるで、ここが自分自身の場所のように。
その考えに、僕は思わず苦笑する。
彼女は、その様子を怪訝そうに見て声をかけてきた。
「あなたがその刻印を受けた場所がこの先にあるんですよね」
僕は頷いた。僕の腕、皮膚の下に刻まれた紅い血の文字。
「そうだよ。君のお姉さんがこの世界から消え去る3日前。今から大体一ヶ
月ほど前のことになる」
僕は輝く月の下で白々と輝き荒野を貫く道を歩きながら、遠くを指差す。
「この向こうにある森の奥。そこの建物で約束の刻印を受けた」
僕は。
一ヶ月前、とても奇妙な場所で目覚めた。
そして目覚めた僕の腕には、聖痕が刻まれていたのだ。
約束の時間を示す、血の刻印。
僕らは、その約束の場所へ約束の時間にたどり着くよう向かっている。
月の光に照らされ白く輝く道を抜けて。
その日いつものように病室に入った僕は、驚きのあまり息をのむ。
あなたが居ない。
機械に接続されかろうじてこの世界に繋ぎとめられていたはずのあなたが、
消え去っていた。
残り少ないとはいえ、後数日は残されていたはずなのに。
突然。
僕はあなたに抱きしめられた。
あなたは、扉の影に隠れて僕が来るのを待っていたのだ。
いつもの仮面は脱ぎ去り、空色のワンピースと濃紺のカーディガンを着て。
華やかといってもいい表情を僕にみせてくれていた。
「ねぇ、驚いた?」
僕は言葉を失いもあなたを見つめる。
あなたはそんな僕を見て上機嫌に微笑んでいたが、急に切なそうな目で僕を
見た。
「さあ、行きましょう」
僕は、驚いて聞き返す。
「え、どこに行くというの?」
「わたし、この世界から消えてどこにゆくか判ったの。だから」
あなたは笑みを浮かべ、僕の手を引く。
「あなたにもその場所を見ておいて欲しいから」
あなたは、僕の手を引き廊下に出る。
不思議と今日に限って人気のない廊下を駆け抜けると、あなたは壁の一箇所
を押す。
壁の一部が開き、奥に部屋が現れた。僕らはその薄暗い部屋に入る。そこは
パイプやダクト、ケーブルが縦横に走り点検用と見られる機器の取り付けら
れた鉄骨の柱がむき出しになった場所だ。
僕とあなたは、鉄製の階段を下ってゆく。まるで鋼鉄の迷宮みたいなその場
所を僕らは、下へ下へと降りていった。
あたりには金網のフェンスや轟音を立てて稼動している機械があり、鉄骨や
コンクリートがむき出しになって迷路を構成している。
気がつくと、そこは最下層らしくコンクリートの床がある場所へ立ってい
た。僕らは内臓のように複雑にケーブルやパイプの絡み合った廊下を駆け抜
けてゆく。
そして。
あなたは、また壁の一箇所を押す。
僕らがたどり着いたその場所は。
駅のホームだった。
「一体?」
僕はあたりを見回す。
恐ろしく古い、壁にはひびが入りあちこちから水が染み出して滴っておりま
るで自然の洞窟みたいでもあったが。
間違いなく駅のホームらしく、プラットホームの向こうには線路が走ってい
る。
「もうすぐよ」
あなたのどこか無邪気な声に呼び出されたように。
列車が姿を現した。
黒くて大きな獣を思わせる巨大な乗り物は、ごうごうと音を立ててホームに
入ってくる。
その列車が立てる音は獣の雄たけびみたいだと僕は思う。
その列車は僕らの前に止まった。
開いた扉の向こうへ、当然のようにあなたは乗り込む。
僕は慌ててあなたの後に続いた。
僕らはベンチシートに腰を下ろす。ため息みたいな音をたてて列車の扉は閉
まり。
ごうごうと音を立てて再び走り始めた。
規則正しい律動を列車は僕らに伝えてくる。
ただ。
そのリズムはどこか奇妙だった。
列車の生み出すリズムは、時間を作り出す。
ただ、その時間は今まで僕らのいた場所のそれではなく。
あなたがこれから行くはずの場所に属する時間。
ブーストをかけられ僕らの意識が到達できなくなるはずの高速で流れる時間
を、作り出しているようだ。
巨大な鋼鉄の獣はごうごうと咆哮して。
僕らの属する時間を抜け出して、別の時間が流れる別の世界へと向かって
行った。
あなたは。
もう僕を見ておらず、窓の外を流れててゆく地下の照明を見つめていた。い
や。何も見ていなかったのかもしれない。自分の内に流れる異質な時間以外
は何も。
そして。
列車は厳かに停車した。
何かの終わりを告げるような轟音と振動が響き渡り、列車は完全に止まる。
扉が開き。
僕はあなたの後を追ってホームに出た。
あなたはホームを急いで駆けてゆく。
まるで、何かに追い立てられるように。
僕は慌ててあなたの後を追った。
階段を駆け上り、いくつもの廊下を走り抜けてゆく。
僕は地下世界でうさぎを追うアリスみたいに。
息を切らしてあなたの海の底みたいに青いカーディガンを追い求める。
それでもいつかあなたを見失い。
気がつくと僕は行き止まりの廊下に迷い込んでいた。
その突き当たりには鋼鉄の扉がある。僕は、その重くて頑丈そうな扉を開い
た。
扉の向こうには。
巨大な機械が立ち並ぶ、薄暗い場所だった。
天井はとほうもなく高く、備え付けられている機械たちもまるで小規模のビルみたいに
高く聳えている。
機械についているらしい無数のLEDパネルが光を放っており。
まるで、照明が星のように煌く夜の街を眺めているみたいな。
あるいは宝石が瞬いている、地下の洞窟に迷い込んだような。
そんな気持ちになって、巨大な機械の谷間へ入り込む。
ごおんと。
空調や、冷却ファンの立てているノイズが僕を包み込む。
そのノイズは僕のこころから思考を奪い取り。
あなたを見失った不安さえも麻痺させていった。
気がつくと僕は壁沿いに上ってゆく階段を僕は見出す。
僕はその延々と続く階段を上ってゆき、天井近くにある扉をひらいた。
そこには真っ直ぐ廊下が伸びていて。
突き当たりには巨大で城壁みたいに聳える扉があり、少しだけ隙間が開いて
いる。
僕はその扉の隙間から奥の部屋へと入った。
そしてそこに。
あなたが居た。
#343/369 ●長編 *** コメント #342 ***
★タイトル (CWM ) 09/04/26 17:42 (366)
夜明けのうた 下 つきかげ
★内容
そこは。
広々とした場所だった。
体育館か講堂のように天井も高くスペースも広い、しかしがらんとした場
所。
薄暗く、薄墨色の空気に満たされているようなしんとしたところ。
その場所のずっと奥に。
あなたは居た。
あなたは。
天使のように巨大な翼を壁に貼り付け。
いや。
あなた自身が化石となって岩壁に埋まっているように。
つきあたりにある広大な壁の中に、身体の半ばを塗り込められていた。
あなたの翼は。
羽根はなく金属でできた骨格だけのようだったけれど。
広々とした壁全体を覆うことができるほど巨大なものだった。
金属の糸で出来た蜘蛛の巣にいるようにも見え。
病室で様々な機器に接続されていたときと同じように。
得体のしれぬ翼のような機械を身体に組み込まれているようにも思えた。
あなたの瞳は閉ざされており。
息をしている気配も感じられなかったため、オブジェかあるいは剥製のよう
に思え。
僕は恐ろしくて近づくことができなかった。
本当に、本当にあれはあなたなのだろうかと何度も何度も自問したのだけれ
ど。
固く目を閉ざしたその顔は紛れもなくあなたのものであった。
僕がその広々とした部屋に立ち尽くしている間に。
いくつもの人影が現れて、あなたのほうへ向かって行った。
そのひとびとは。
皆、男性のようであり全身に刺青を入れていた。
その刺青はまるで身体を覆う回路図のように見え、幾何学的なラインが青白
い光を放っており。
その男たちの身体内部で何か光輝くものが燃えさかっているかのように思え
た。
男たちは、まるで僕が存在しないように僕のそばを通り抜けてゆく。
多分。彼らには僕が見えていない。
僕はまだ彼らとは異なる時間に属しているためだろうと思う。
男たちはあなたを取り囲むように、佇んでいた。
僕は男たちの声を聞くことができた。
(なぜオメガは目覚めない)
(このままでは間に合わないな)
(もう時間がない。このままオメガが目覚めぬのであれば)
(夜明けは訪れないのかもしれぬな)
男たちは、吹き抜ける風のように囁きあい。
やがて。
現れたときと同じように静かに立ち去って行った。
ひとりの男だけを残して。
ひとりだけ残ったその男は。
他の男たちがそうだったように、逞しい身体を持っている。
その身体は、ギリシャ彫刻やボディビルダーのような均整のとれたものでは
なく。
野生の猛獣が持つ。
しなやかさと獰猛さを兼ね備えた。
自然に身についた威圧感を持つ肉体である。
そして、その肉体には縦横に亀裂のような刺青が走っており。
体内で燃え盛る光が漏れ出るように。
輝きを放っていた。
その男は僕を見つめている。
その男だけには、僕が見えているようだ。
男は語りかけてくる。
「おまえは、ブレーンワールドから来たものだな」
僕は、首をかしげる。
「判らないか。まあいい。この世界は16次元空間。バルク空間だ。お前た
ちの世界は、高次元が圧縮され皮膜化したブレーン(泡)の世界。おまえは、
このオメガに連れられてここに来たのだろう」
僕は頷く。
「そうです。あなたには僕が認識できるのですね」
「ああ。おれの名はアルファ。そこにいるオメガのパートナーだ。おそら
く、オメガと認識を共有しているためおまえが見えるのだろう」
「パートナー?」
アルファと名乗った男は。
無言で振り返ると、歩き出した。
「ついてこい。おれたちが何をやっているのか見せてやる」
僕は、アルファの後ろに続く。野生の獣みたいな滑らかな動きで歩くアル
ファは、部屋の扉を開き外に出た。
そこは、広々とした屋外ステージのような場所だ。
眼下には荒廃した大地が広がっており、頭上には深い深い青に染められた空
がある。
アルファは。
その空の彼方を指差した。
「見ろ。あそこにおれたちがフェンリルと呼ぶものがいる」
アルファが指差す先には。
黒い。
おそらく死、そのものみたいな闇につつまれた。
巨大な。
空の一角を支配してしまうくらいに巨大な。
漆黒の塊があった。
それは、切り取られた夜のようでもあるが。夜よりなお深く絶望と哀しみに
満ちており。
見るもののこころを暗澹とさせる力があった。
「フェンリル、あれこそが世界の終わりだ。そして」
アルファは、今度は頭上を指差す。
「戦闘妖精たちが、フェンリルへ向かう。見ろ」
この世のものとは思われない純粋な青に染められた空を。
女たちが翼を広げてとんでいく。
彼女らの翼には羽根はなく、金属の骨格だけのようであったが。
その骨格の間に菫色の光が輝いていた。
彼女らは、菫色の羽を持つ蝶にも見えた。
「彼女らが抱いているのが、パートナーだ」
戦闘妖精と呼ばれた彼女らは、大きな繭を持っている。その中に男たち、つ
まりパートナーが入っているということなのだろうか?
フェンリルと呼ばれた黒い塊は、近づいてくる彼女らに光の矢を放つ。暗黒
の雷雲が雷を地上に向かって放出するように。
空を飛翔する乙女たちに向かって光の刃は容赦なく、襲いかかってゆく。
獰猛な輝きを放つ光が彼女らに触れると、彼女らはあっけなく炎につつまれ
墜ちていった。
「彼女たちは戦っているのですか?」
僕の言葉に、アルファは首を振る。
「誰も自分の死と戦うことなぞできはしない。受胎させようとしているのだ
よ」
「受胎?」
「そうだ。彼女らの持つ繭。あの中には溶解したパートナーが入っている。
溶解したパートナーは卵となり、フェンリルの中に投じられるとフェンリル
を受胎させる」
僕は驚いて。
アルファを見つめる。
「受胎したフェンリルは、夜明けとなる。つまり」
アルファは微かに笑みを浮かべたように思えた。
「世界の始まりとなるのさ」
僕は、アルファと別れ。
あなたのいる部屋へと戻ってきた。
僕は膝をつき、首を項垂れ、祈るように。
あなたの前で。
幾度も自問する。
あなたは。
あの世界の終わりを見せたかったのだろうかと。
あなたがいずれ赴く。
あの黒く哀しく、そして凶悪な。
世界の終わりを僕に見せたかったのだろうか。
僕は。
その問いかけを自分に繰り返しながら。
あなたの前で跪いている。
突然。
あたりが菫色の光につつまれた。
僕はあなたを見上げる。
あなたの翼が光を放っていた。
夜明けの空のような、菫色の光。
そしてあなたは瞳を開くと、壁から抜け出して僕の前に立つ。
あなたは。
両手で僕の顔を抱き。
「ねえ」
唇を僕の頬へよせ。
「あなたが、好きなの。大好きなの」
あなたは。
口づけを僕の瞼へ、額へ、頬へ、
そして、耳へ、鼻梁へ、唇へ、
そよぐ風のようにやさしく。
「とても好きなの。とても、とっても。大好きなの」
そういいながら
口づけを。
僕は、あなたの腰に腕を回して抱きしめる。
「あなたを、無くしたくない。離れたくない」
あなたは、僕の顔を手で支えると微笑みながらもう一度口づけをする。
「大丈夫なの。心配しなくていいの。大丈夫なのよ。それを伝えたかった
の」
あなたは僕から少し離れて立つと、輝く翼を大きく開いた。
あなたの下腹部に暗い穴があく。
海の底みたいに暗いその穴から、銀色の糸が放出される。
その糸は瞬く間に僕の身体を覆った。
僕は繭の中にいる。
(僕はこの中で溶けて卵になるの?)
「いいえ、あなたはパートナーではないもの。そうはならない」
僕らは空へと舞い上がる。
青い青い空。
僕はその天空の景色を、あなたの瞳を通して見ていた。
繭の中にいる僕は、あなたとこころが繋がっており、あなたの見るものが僕
にも見ることができた。
あなたは高速で空を飛翔する。
漆黒の塊であるフェンリルが瞬く間に近づいてきた。
あなたは。
巧みにフェンリルが放つ光の矢を躱しながら、黒い闇へ近づいてゆく。
やがて、僕らはフェンリルの真上へ来た。
真上から見たフェンリルは、金色と銀色の光が渦を巻いており。
そしてその中心には、黄金に輝く球体があった。
それは。
永遠の輝きのように、荘厳な光を持っており。
とても美しく。
とても神秘的で。
宇宙の果てから訪れたかのように、異様な力を内に秘めており。
神の創りたもうた永遠の安息みたいに安らかで。
怖れをもたらし。
哀しみをもたらし。
僕のこころを嵐のように揺さぶって。
僕は涙した。
あなたは僕に囁きかける。
(忘れないで。何も失われない。何もつけ加えられない)
あなたは、フェンリルの中心にある黄金の球体めがけて急降下する。
僕らの回りで、黒と金と銀の渦が激しく回転した。
美しかった。何もかもが。涙がこぼれるほどに。
そして。
僕らは喜びに包まれながら。
黄金の球体へと突入する。
(忘れないで。全ては変わってゆくだけなの)
僕と彼女は。
その森のはずれについた。
おそらく約束の場所である。
建物がある場所。
そこはかつて学校であったようだが、今は廃校になったらしくひどく荒廃し
ている。
僕は、あなたとともにフェンリルへ飛び込んだ後。
その廃校となった校舎の屋上で目覚めた。
一ヶ月前のことである。
一体どうやってそんな北の地にたどり着くことができたのか、なぜそんなと
ころにいったのかは全く判らなかった。
けれど、僕は自分の腕に刻まれた文字を見出す。紅い血で刻まれた文字。
2011.4.5 5:12
その日付が今日だ。あと一時間ほどでその時間が訪れる。
おそらくそれはあなたが僕にくれた約束のメッセージ。
約束の場所と約束の時間。
それがあったから。
僕はあなたがこの世界から消え去ったときにも耐えることができた。
あなたがもう一度。
おそらくあと一度だけ僕に会いにきてくれるという予感があったからだ。
僕と彼女は。
隠遁した賢者のような、今にも崩れ落ちそうな感じのする建物の中へと入っ
てゆく。
暗い階段を登り黄泉の世界みたいな建物の中をとおりぬけると。
屋上へでた。
東の空は微かに白みはじめており。
夜が明ける予兆で空気が震えているような気がする。
ああ。
夜が明けるのだ。
夜と月は消え、光が世界を支配する。
僕は、ただずっと東の空を眺めつづけていた。
彼女が唐突に口をひらく。
「あと、10分ほどね」
僕が彼女を見たとき。
あたりが轟音に満たされた。
轟く爆音と風が吹き荒れる。巨獣のようなボディを持つ軍用ヘリが姿を表し
た。
ライトが凶暴な圧力を持って僕らを照らし出す。
2機の軍用ヘリは屋上に風を巻き起こしながら着陸すると兵士たちが降りて
きた。
ひとりの兵士が彼女に大きな軍用拳銃を渡す。
「一体あなたは何ものだい」
「わたしたちの組織は」
彼女は僕に拳銃を向けると言った。
「ずっと、TSDの研究を続けてきた。あなたがバルク空間に行ったときに
乗ったあの列車は、わたしたちが開発したもの。あなたは戻ってきたひとの
映像を見たのでしょうけれど、戻ってきたものは彼だけではない。わたしも
また」
僕は息をのんだ。
「そんな」
「戻ってきたのよ。そして、世界を滅ぼさないために。組織に協力して戦う
ことにした」
「世界が滅ぶ?」
「わたしたちは夜の生き物。夜明けに耐えることはできないのよ。あなた
も、わたしも。ブレーンワールドのものはみな。わたしたちは夜という皮膜
に貼りついて生きている。夜明けがくると泡は弾けて消えてしまう」
突然。
空が菫色の輝きに満たされる。
夜明けの光が頭上に出現した。
あなたが。
戻ってきたのだ。
あなたは。
夜明けの光で輝く翼を背負い。
屋上に降り立つ。
地に立つと同時に翼は光を失い、金属でできた骨格みたいな翼は折り畳まれ
てゆく。水晶の破片が触れ合うような音をたてながら。
彼女は。
僕の腕をとらえると、僕のあたまに拳銃を押し付けた。
あなたは、歌うように語り出す。
「ねえ。これは我儘なの。わたしの我儘なの。あと一度だけ。一度だけあな
たに会いたかったの。とてもとても。会いたかったの。夜明けがくる前に」
「ありがとう」
僕は。
かろうじてその言葉を絞り出すことができた。
「ありがとう」
彼女は、叫ぶ。
「この男を殺されたくなければ、ここに留まりなさい。フェンリルを受胎さ
せてはだめ」
あなたは。
どこか哀しげに首を振った。
「意味はないのよ。何も減らないし何も付け加えられない。あなたもバルク
空間にいたのなら判るでしょう。時間の対称性が破れているのはひとの妄想
にすぎない。全てはあるの。永遠に。永遠に戻ってくるの。何度も何度も
戻ってくるの」
彼女は苦しげに叫ぶ。
「違う。夜明けは永劫の別離だ」
「いいえ。恐れていてはだめ。それすらひとつの変化に過ぎない。全ては永
遠なのよ」
「それこそ妄想だ。知っているのだろう、あのフェンリルこそブレーンワー
ルドの正体なのだと」
あなたは。
笑みを浮かべると。
再び、水晶が触れ合う音をたてながら、翼を広げる。
夜明けの光。
菫色の光が再びあたりを覆う。
ああ。
それはそれは。
荘厳で、清らかで。神秘的でとても哀しい。
この世界の夜明けを示す光であった。
あなたは。
その光の中へと消えていった。
彼女は舌打ちすると、拳銃で僕の顔を殴る。僕は屋上に倒れる。
鼻骨が折れ、僕は激痛でのたうちまわった。
「まったく。なんて役たたずな男なの、あんたは」
彼女は腹立ちまぎれに僕の頭を蹴りとばす。
僕は呻きながら転がって彼女から逃れた。
仰向けになり。
東の空が明るくなってくるのを見た。
そして。
僕は苦痛でかすれる意識の中でそれに気がついた。
空の中心。
もっとも高いところに。
金色の輝きがある。
そうか、あれがそうんなだ。
僕はつぶやく。
「夜明けが始まる」
「ああ。なんてこと」
彼女の呟きのすぐ後に、銃声が響いた。
僕は驚いて彼女のほうを見る。彼女は自分で自分の頭を撃ち抜いていた。
僕は再び。
空を見上げた。
金色の光は大きくなってゆく。
いつかバルク空間でみたときよりも。
遥かにリアルで獰猛で激情を揺さぶりおこす。
美しさと激しさが。
安らぎと激動が。
嵐のように互いを喰らいあいながら激しく回転しており。
それは、空いっぱいに広がる金色の果実みたいに。
大きな大きな輝きは、世界を満たし。
そして。
僕は。
光の中に飲み込まれた。
ゆっくりと。
水の底から浮上してくるように。
焦点が合っていなかったカメラの映像が、次第にクリアになってゆくよう
に。
僕は現実を取り戻していく。
僕は、暗闇の中で手探りでものを掻き集めるみたいに。
記憶を取り戻してゆく。
僕は。
そう、薄暗い病室の中にいた。
ベッドに横たわり。
終わりのときを待っていた。
苦痛を和らげるために投入された薬のためか。
随分長い夢を見ていた気がする。
夜明けにかかわる夢。
あなたが夜明けの向こうへと飛び去る物語。
それは哀しくもあるけれど。
僕を幸せにしてくれる夢でもあった。
僕は。
誰かの泣く声を聞いた気がして。
泣くなんて、おかしいよ。
と言ったつもりだったけれど。
もう、声を出すほどの力は僕には残っていなかったようで。
次第に。
あたりが光に満ちてゆく。
部屋が。
真っ白に輝きはじめ。
僕の意識もその白い光に飲み込まれてゆく。
ああ。
夜が明けるのだと思う。
ねえ、夜明けの歌をうたってよ。
夜明けの歌を聞かせてよ。
#344/369 ●長編
★タイトル (CWM ) 09/08/11 01:30 (379)
ホテル・カリフォルニア 1 つきかげ
★内容 09/08/11 01:39 修正 第2版
冬の空みたいに蒼い海が、世界を覆っている。
清洌な、哀しさすら漂わす冷たい蒼。
海は蒼に身を包み、寒々と横たわっている。
そのホテルは、海の中にあった。
古代の遺跡のようにあるいは中世の城塞みたいに灰色の武骨な外見を晒す建物。
潮が引いて、海が浅くなったときにだけ。
そこにいたる白い道が海の中から姿を顕す。
海の中から浮き上がる、白い骨のような。
真直な道が。
蒼い海の中に浮き上がる。
そしてその道を通って岸壁にたどり着くと、そこに螺旋状に刻まれた回廊を見出すこ
とになった。
巡る回廊を通り抜け、城壁のような壁に囲まれた道を進むと。
大きく頑丈な木製の扉へたどり着く。
そこには、こう刻まれている。
「ホテル・カリフォルニア」
この世で最も残酷な生き物は子供に違いない。
だってそうじゃないか。なんでやつらは、僕を殴るんだよ。
意味もなく。
へらへら笑いながら。
挑発するように、
いたぶるように。
露出している部分にあざが残らないよう注意深く。
まるでこころを傷つけるためみたいに。
殴る。
殴る。
ああ。こんなこと考えている場合じゃあない。
僕はもう眠らないと。明日までに。こころと身体の痛みを快復させて。
うんざりするような。
そう、マンガの中でのできごとみたいに現実感がなくバカバカしく。
それでいて耐えがたい苦痛に満ちた、生きるために全ての気力を振り絞らなければい
けないような。
日々に立ち向かわないといけない。
多分、あれだぜ。
ピラミッドを造った奴隷たちだって、こんなにしんどくは無かっただろうと思う。
僕の日々に比べれば。
僕は、
布団に横たわり。
ああでも、子供が残酷というのなら僕も残酷ってことなんだ。
と思いつつ。それはないよなと思いつつ。
そのとき。
突然僕はその声を聞いた。
(やあ、はじめまして)
僕はびっくりして、あたふたする。
なんだよ、誰なんだよ。頭の中に直接話しかけるなんて、一体だれ。
(いや、僕はきみで、きみは僕。そして僕は人力コンピュータ)
へえ、きみは僕なんだ。なるほど、それで僕の頭の中に直接、て、人力コンピュータ
!?
なんじゃそりゃあ。
(コンピュータの歴史を考えると、人力で動いていた時代のほうが長い。それこそ紀
元前から手動でコンピュータは動かされてきた。それはさておき、もうひとり、僕そ
して、きみがいる。失われた、大切なものを探しにいこうとしているきみ、そして僕)
なんの話だよいったい。
て、いうかさ。
そもそも、なんの用があるの、人力コンピュータ。
(終わりが始まる。そして、きみはたどりつく。ホテル・カリフォルニア)
なんか。
僕は夢見心地。
そこは、空の上。
下には、海がひろがっている。
蒼い海。
そして、その海を貫く白い道を。
僕がきみが。
歩いてゆく。
まっすぐ。
ずっと。
君は。
蒼い夜空を横切る白い銀河みたいな。
その道を歩んでゆく。
世界は哀しいほど澄み渡った蒼に満たされて。
ただ。
君の足元の道だけは、塩のように白い。
かつて神の怒りに触れた街が滅ぶのを見たひとが、その屍を塩の柱と化したというけ
れど。
その塩と化した屍が続くようなその道を。
君は。
歩んで行く。
巡礼者のように、フードのついたマントを身に纏って。
両の瞳は分厚いゴーグルで覆い隠し。
灰色の影となった君は。
蒼い世界に浮かぶ灰色の城塞へ、たどり着く。
君は。
螺旋を描く回廊を、黄昏をさまよう幽鬼のように静かに歩んで行くと。
その扉にたどり着く。
その頑丈な木の扉には、こう書かれている。
「ホテル・カリフォルニア」
君は。
その扉に手をかけた。その時。
鐘が鳴り響く。
ああ。
今まさに。
世界が終わることを歎く弔いの鐘のように。
美しく、鳥肌が立つように荘厳な。
そう、それは城塞のような建物に相応しい原始の司祭が祈りを唱えるように戦慄的に。
鐘が鳴り響く。
君は扉を開いた。
薄暗く広いその玄関ホールに。
悪魔のように黒衣を纏った初老の男が立っている。
黒い男は黄昏みたいに、そっと笑い。
こう言った。
「ようこそ、ホテル・カリフォルニアへ」
その言葉と同時に君の背後で軋み音をたてながら。
大きな扉は閉ざされる。
まるで。
棺桶の蓋が閉ざされるように、重々しい音をたてて。
ずしりと。
この世界の綻びは修復され永遠に。
閉ざされた。
君は。
玄関ホールの中へと入ってゆく。
マントのフードをぬぎ、さらさらと揺れる細く真っ直ぐな髪を顕にする。
小鹿のようなつぶらな瞳や、エルフのように華奢な身体はゴーグルとマントに隠され
ているが。
少女のように繊細な作りの唇や顎の線はさらけ出されている。
君は。
呟くように、目の前にいる黒い男に話し掛ける。
「どうして」
男は魔物みたいに口の両端を吊り上げて笑い、言葉を促す。
「そんなふうに、笑うのですか?」
男は表情を変えず、問い返した。
「お気に召しませんか」
「だって」
君は。
儚ない花びらのような唇を少し震わせながら、言った。
「怖いじゃあないですか」
男はすっと、笑みを消した。
そして彫像のように無表情になると、優雅に一礼する。
玄関ホールは洞窟みたいに薄暗いが礼拝堂のように広く、天井が高い。
男はその玄関ホールの奥へ、ファウストを案内するメフィストみたいに君を差し招く。
男は奥にあるカウンターの中に入ると、芝居の台詞みたいにくっきりと言った。
「お名前を頂戴できますか?」
君は。
少女のように俯きながら、けれどはっきり答える。
「野火・乃日太といいます」
男は満足げに頷く。
「ではすぐにお部屋をご用意しますが、それまでの間お飲みものでも如何ですか」
君は。
答える。
「では、ホットミルクを」
男は少し眉を上げる。
「そのようなスピリッツはございません」
君は困ったような笑みを浮かべる。
「スピリッツじゃあない。ホットミルクだよ」
男はそっと。
頭を下げた。
「わたくしどもはスピリッツ以外のお飲みものはご用意できません」
君はため息をつき。
その場を離れる。
君は。
玄関ホールを抜けると中庭に出る。
真冬の空みたいに灰色の壁に囲まれた中庭は。
中央に噴水があり。
周囲に緑なす木々が繁っていて。
そこは半ば自然のままであり、半ばひとの手によって造り上げられたもののようで。
不思議な混沌と。
静謐な秩序とが。
調和を取り合って成立している場所であった。
君は。
石柱が立ち並ぶ庭園の入口から。
噴水近くを眺める。
そこには。
黒衣を纏った男女がおり。
野生の獣みたいにしなやかで美しい動きを見せながら。
美しい旋律を持ったコンチェルトみたいなダンスを踊っていた。
空はいつしか深い藍に染め上げられ。
日は音もなく退場したようで。
酔い心地に浮かれた黄昏れの空気があたりを包みこんでいる。
君は。
突然。
氷の刃を押し付けられたみたいな殺気を背中に感じて。
後ろを向く。
その手には。
骨のように純白の巨大な拳銃が握られている。
魔法のように。
拳銃は突然手の中に出現したように見えた。
君は。
声をかける。
「どうして、そんなふうに僕をみるのです」
か細いけれど。
冬の陽射しみたいに凄烈な声で。
君は言った。
「怖いじゃあないですか」
石柱の影から女が姿を顕す。
グレーのジャケットを身につけた。
長身の女は精悍な笑みを浮かべながら自然体で君に近づく。
「悪かったよ。君があまりに剥き出しだったから試したくなったんだよ」
女は君のすぐ前に立つ。
君が手にした、拳銃をゆびさす。
「見せてくれないか、その銃を」
君は。
純白の拳銃を女の心臓につきつけたまま。
静かに問いかける。
「あなたは、誰なんです」
女は。
吐息を吐くように、そっと笑った。
「君と同じ。このホテルの客だよ。入ることはできるけれど。出ることの叶わない。
裏返って閉ざされた場所。そこの囚われ人。君と同じだよ」
君は。
手にした拳銃をくるりと回して。
銃把を女のほうへ向けた。女は満足げに笑みを浮かべると、銃把を手に取る。
女は、その五連式輪胴断層の拳銃を手にした。
「バントラインスペシャルなみだな、この長銃身は」
女はトリガーガードのレバーを操作し、中折れ式の銃を折り弾倉から銃弾を取り出す。
女は低く口笛を吹いた。
「驚いたな。これは375口径、ホーランド&ホーランドマグナム。エレファントキ
ラーじゃないか」
女は銃を畳むと、君に戻す。
「猛獣狩り用のライフル彈を拳銃で使うなんて。ライフルで撃ったとしても素人であ
れば鎖骨を骨折するといわれているが。それを拳銃で発射するなど正気の沙汰とはお
もえない」
女は喉の奥で笑う。
「これを撃てば手が裂けても不思議はない」
君はゴーグルで表情を隠している。
女は問いかけた。
「なぜこんな大きな銃を使う」
君は純白の拳銃を腰のホルスターへ戻すと。
可憐な唇を震わせながら。
女に答える。
「だって」
君は、少し俯いて、でもはっきりと言った。
「怖いじゃあないですか」
女は。
驚いたように眉をあげる。
「357マグナムや44マグナム。いえ。50口径のマグナムだって」
君はゆっくりと言った。
「確実に殺せるとは限らない」
女は。
ゆっくりと頷く。
「エレファントキラー。確実に死を与えることができる。だから僕は」
君は、少し微笑む。
「少しだけ安心するんです」
女は。
納得したように頷く。
「では君もあのディナーにでるつもりなんだな」
君は。
少し苦笑の形に唇を歪めて、答える。
「あれをディナーと呼ぶのであれば、そうですね」
空を見上げる。
藍に染まった空は。
次第に昏くなってゆき。
逢魔が刻を迎えつつある。
薄明の中で、黒衣の男女たちは優雅に踊っていた。
そして。
夜はゆっくりと降りてくる。
僕は夢の中。
君がホテルの中で交わした会話も夢で聞いた。
そして。
今は誰かの泣き声を聞いている。
誰なんだろう。
そんなに泣くことはないのに。
きっと悪いことばかりじゃないよ。
いいことって。記憶に無いけれど。まあ、大丈夫さ。
てな感じでいい加減なことを言っていたら。
ふっと目がさめた。
僕は驚いて息を呑む。
「えっと、お母さん?」
暗闇の中。
微かな月明かりに。
お母さんの姿が浮かびあがっている。
その手には、冷たい金属の輝きを放つものが握られて。
えっと。
それって包丁。
ちょっと。まてよ、おい。だめだって。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ」
僕は叫んで横に転がる。
包丁は布団に突き立てられた。
僕は、必死で窓から飛び出す。
無我夢中で、窓辺の木に抱き付くと、下まで滑り降りる。
なんだよ、一体。
どういうことなんだよ。
夜の庭。
気配を感じて僕は振り向く。
真っ黒な男の影。
男が動いて、月明りを浴びる。
「お、お父さん……」
お父さんの手には、金属の棒が握られている。
多分。
ゴルフのクラブというやつだ。冗談じゃあない。そんなものを振り回して。
「ひいいっ」
僕は辛うじて尻餅をついて、フルスイングを躱す。ごきっ、と音がしてクラブは木に
激突し、へし折れる。
僕は、塀に跳び上がると、道路に出る。
そして走った。走った。走った。
心臓が喉から飛び出るかというくらい。
犬のように。
走った。走った。走った。
僕は、限界がきて、膝をつく。
汗が噴きでる。喉に火がついたように激しく息をした。吐息が炎みたいだ。
奇妙な夜だった。
声に成らぬ叫びが。
おーーーんと。
おおおーーーんんと。
無音のまま、夜に響き渡っている。
それは、夜を恐怖と不安の色に染め上げた。
でも。
それは僕にとって母親の膝みたいに。
とても馴染があるものだ。
そう。
僕の日常には、不安と恐怖が満ちあふれている。
僕は、学校で殴られながら。こう囁かれる。
(おれが本気だして殴ればよう。お前の内臓は破裂するするぜ)
そして、腕の関節をきめられてこう囁かれる。
(おい、このまま折ってもいいんだぜ。そしたらお前。どうするのかなあ)
そんな。
不安と恐怖がいつも僕とともにあって。
だから今、それが街じゅうに溢れているので。
これって僕のこころがそののまま夜を塗りつぶしたってことじゃん。
なあんて。
思うんだけれど。
「野火くん」
いきなり声をかけられ、僕は顔をあげる。
「み、水無元さん…?」
そこには。
ラプンツェルみたいに髪の長い。
妖精みたいな美少女が。
蒼ざめた顔をして立っていた。
僕と同じパジャマのままで。
荒い息をして。
立っていた。
僕は立ち上がると。
水無元さんの前に立つ。
こんなときでも水無元さんは石鹸のいいにおいがして、僕は少しどきどきした。
「ねえ、野火くん。あなたも街のひとたちを見た?」
え、街のひと……?
「知らない、なんのこと?」
水無元さんは、整った顔を少し曇らせる。不思議の国で道に迷ったアリスみたいに。
「みんな、おかしいの。まるでそう、あれは」
「あれは?」
「ゾンビみたいなのよ」
げげっ。
そんな、そんなことが、あるんだろうか。
僕にとって日常はいんちきで、でたらめで。
マンガの中のできごとみたいに。
馬鹿馬鹿しく過ぎてゆく時間なのだけれど。
でも怪奇映画になってしまうなんて。
そりゃあいきすぎだぜ、と思ったら。
水無元さんの顔が。
月明りの下で。
川に墜ちたオフィーリアみたいに、蒼褪めてきている。
僕はゆっくりと振り向いた。
そこには街のひとたちがいる。
なるほど、ゾンビだね。こりゃあ。
焦点の合っていない目。
ぎこちない動作の歩み。
僕は、髪の毛が逆立つような恐怖を感じる。
なるほど。夜を支配していた恐怖はこれだったのかと。
僕は思う。
「逃げよう」
僕は水無元さんの手をとって、走り出す。
でも。
僕も水無元さんも裸足でその足は傷だらけだったから。
そんなに速くは走れない。
ゾンビみたいになった街のひとたちも、速く走ることはできなさそうだったけれど。
でも、僕等は次第に追い詰められていった。
そのとき。
水無元さんが、前方の坂の上に立つ人影を指さした。
あれ。
あれは。
夢の中に出てきた。
君で、僕で、彼じゃないか。
灰色のマントを纏って、フードを被り。ゴーグルで目を隠した。
僕で君でそして彼は。
叫んだ。
「ここまで、走れ。全力で」
#345/369 ●長編 *** コメント #344 ***
★タイトル (CWM ) 09/08/11 01:32 (407)
ホテル・カリフォルニア 2 つきかげ
★内容 09/08/11 01:41 修正 第2版
僕は水無元さんの手を掴むと。
走った、走った。
足が痛いけれど。
叫びながら走る。水無元さんのあえぎが耳元で。少し心が痛い。
おん、と。
無言の叫びが。
恐怖の津波が。
背後から押し寄せる。
僕は肩越しに後ろを少し見た。
鬼火のように。
目が月明かりに輝いて。
ぎこちない舞踏のように身を揺らせながら。ひとびとは僕らに向かって迫ってくる。
それは具現化した恐怖の波だった。
僕はそれに戦慄を感じながらも、魅了される。あれは僕の世界。僕の属する場所。
そっちじゃあない。
おまえのいる場所は、こちら側だと。
呼ばれている。
「振り向かないで」
君は彼は、そう叫ぶと。
僕らの頭越しになにかを放り投げる。
一瞬、背中が真昼のような光に照らされた。
そして、轟音が落ちてくる。
僕らはようやく君の彼のそばへ着く。
「僕の後ろへ、スタングレネードで一瞬は動きがとまるけど、ほんの少しの時間稼ぎ
だ」
「あの、君って僕?」
僕のへんな質問にゴーグルの君は頷く。
「量産型N2シリーズだ、僕は」
君、量産型N2は真っ白な拳銃をぬく。
そう、それは。
エレファントキラー。
猛獣狩りのライフル弾を撃つ拳銃。
光と轟音が消えると。
彼らはまたぎこちなく走りだす。
君は撃った。
落雷のような、ほとんど物理的な力で頭をぶん殴られるくらいの轟音が。
鳴り響く。
その圧倒的パワーは死神の振るう鎌のように。
殺戮の天使が薙ぐ剣のように。
ゾンビたちを打倒した。
僕はその力に陶酔し。
知らないうちに勃起していた。
量産型N2は、トリッガーガードのレバーを操作して、銃身を折り空薬莢を捨てる。
同時にスピードロッダーを使って375H&H彈を5発装填し、銃身を戻す。
それを、君はコンマ数秒でやってのける。フィルムの早回しみたいだし、手品のよう
だ。
再び、エレファントキラーは象をも殺すという凶悪な銃弾を吐き出す。
5発を撃ったはずなのに、銃声はひとつにしか聞こえない。一度だけの獰猛な雷鳴。
エレファントキラーは凄まじい力をゾンビたちに振るう。
銃弾は身体の一部を鷲掴みにしてもぎとっていくかのようだ。
頭にあたれば、頭ごと消失し、胸にあたれば、胸が吹き飛ぶ。胴にあたれば、胴が引
きちぎれ、手足にあたれば、手足がもがれる。
君は、立て続けにエレファントキラーを撃ち、装填する。
マシンガンを撃っているように銃弾が途切れることはない。
おそらく、エレファントキラーの反動は凄まじいものがあるはずなのに。
量産型N2は、僕と同じ華奢な手で恐竜のようなパワーを持つ銃を操っている。
エレファントキラーは、君の手の中で死の歌をうたい、破滅の舞踏を踊っていた。
君はただ。
そのサイクロンのように暴れ狂う力の中心にいて。
死の矢を放ち続けるだけだ。
僕も。水無元さんも。
ただ呆然とつったって、その異様な殺戮を眺めていた。
ゾンビと化した街のひとたちは。
身体をめちゃくちゃに蹂躙されたというのに。
動き続ける。
頭を失っても。
這い回る。
彼らは死者であって死者ではなく、生者であって生者ではない。
動く恐怖。
僕と同類。
あるいは僕の一部。
あっという間に。
夜の街路は、破壊された動く死体で埋めつくされる。
やがて、二本足で立っているものはいなくなった。
「行こうか」
君は。
量産型N2は。
僕等を促し歩き始める。
「ねえ、量産型N2」
僕は君を追いながら、尋ねる。
「何があったんだよ、一体」
「2300時にT.ウィルスが月見ヶ原一体に散布された」
「何そのT.ウィルスって」
君は。
天気の話をするみたいに穏やかに語る。
「ひとをゾンビ化するウィルスだよ」
げっ。
げげっ。
「じゃあ、僕もゾンビになっちゃうの」
「君はN2シリーズのオリジナルだ。抗体を持っている」
「じゃあさ、じゃあさ」
水無元さんを見る。
水無元さんは月の光の下。妖精みたいに可憐だけれど。
死体みたいに蒼褪めていた。
「水無元さんはどうなの」
「彼女のことは知らない。でもたまにT.ウィルスに感染しないひともいるみたいだ」
そんな偶然ありかよ。
とか思う。
でも、考えてみたってしかたない。
現実を、
それがどんなにでたらめであっても。
とりあえず、受け入れるしか。
「ついた、ここだ」
君は、月見ヶ原にある地下鉄の入口を指さす。
月見ヶ原の街は閉ざされている。
南側は大きな川が流れており、歩いて渡れる橋はない。
北側にはとても23区内とは思えないような、大きく昏い森がある。
そして、東と西には大きな工場の後地があって、ずっと工事していた。
東西南北、どちらへ行っても歩いて街から出るのはとも難しい。
街から出たければ。
車で南側の橋を渡るか。
この地下鉄を使って出るかだった。
僕の家には車がないので、外に出るのはいつも地下鉄だ。
年に何回かは地下鉄を使ってもっと大きな街へゆくことがある。
月見ヶ原の外に出たときの記憶はとても曖昧だ。
何より僕ひとりでは出たことがないので、行き方もよく覚えていない。
その地下鉄の駅は。
もう深夜を過ぎており、間違いなく終電は出てしまっているのだろうけれど。
地下へと続く階段にはシャッターが降りておらず。
心許ない照明がまだついていた。
「さあ、行くよ」
量産型N2は、僕と水無元さんを促して。
地の底へと向かうような階段を下ってゆく。
やがて。
僕等は洞窟のように薄暗く開けた空間にでる。
地下鉄のホーム。
それは闇の大海に浮かぶ小島のように。
暗闇の中に白く照らされていた。
ホームの壁にある時計は午前三時を示している。
「そろそろ、くるころだ」
え、と僕は量産型N2に問いかける。
「何がくるっていうの」
君は。
量産型N2は。
漆黒に塗りつぶされたような、暗いトンネルを指さす。
その奥に、光が灯る。真冬の夜空に輝くポーラスターみたいに冷たく冴えている光。
それは次第に大きくなってゆき。
やがて、流線型の汽車が姿を顕した。
それは、獰猛で凶悪な爬虫類を思わせる。
奇妙に滑らかで流線型をした姿で。
ため息をつくように、静かな音を立ててホームに止まった。
ごとんと。
扉が開く。
「乗るよ」
僕等は量産型N2に促されて電車にのる。
四人がけのボックスシートに僕等は座った。君と迎えあわせて。水無元さんと僕が隣
り合わせに。
そして、またこどりと音を立てて扉は閉まり。
汽車は走り出した。
真夜中の地下鉄。どこに向かうのか判らない、その汽車は。
暗闇を切り裂き彗星のように地下を駆け抜けてゆく。
僕はその汽車の中で君に問いかける。
「ねえ、聞いていいかな」
君、量産型N2は首を傾げる。
「なんだい」
「君は僕なんだよね」
その奇妙な問いに。
君は薔薇の花びらみたいな唇を綻ばせると、そっと笑った。
「そうだよ。君は僕。僕は君だ」
「そうなんだ。じゃあさ。あのホテル・カリフォルニアに行った君も僕で君で、量産
型N2なの?」
君はそっと首を振る。
「彼は量産型ではないよ。特殊仕様でプロトタイプ一号だ。プロトワンと呼ばれてい
る」
「へえ」
僕は感心して目を丸くした。
「プロトワンと君はどう違うの」
「恐怖の質さ」
君は即答する。
「プロトワンの恐怖は、オリジナルである君に限りなく近い。深くて昏く。絶望より
無惨で。望みを根こそぎ刈り取るような。真っ暗な恐怖」
水無元さんが、あきれて微笑む。
「野火くんは、そんなに怖がりなの?」
僕はえへへと笑ってみせる。
「まあね。恐いよ」
僕は量産型N2を見るとさらに問を投げる。
「どうして僕が三人もいるの? それに君は量産型だということは。もっと沢山僕が
いるということなんだ」
「ああ、僕等はオリジナルである君をコピーして造られた」
げっ、コピーだって?
「それってコピー機でコピーとるみたいに複製したってことなの?」
量産型N2は、くすりと笑う。
「今僕等はそれを説明してくれるひとのところに向かっている。説明は彼に任すよ」
「え、誰?」
量産型N2は穏やかに笑って言った。
「彼もまた、君であり僕である。その名は。人力コンピュータ」
「ええっ?!」
突然。
がくんと。
汽車が停止する。
「着いたの?」
「いや、真空チューブの中に入った。これからリニアモーターシステムに駆動される」
君は相変わらず、穏やかに笑っている。
「すぐに超音速に達する。そうすれば、じき目的地につく」
汽車は。
ジェットコースターみたいに加速したけれど。
音もなく揺れもなく。宇宙空間を飛ぶように静かだった。
そして、やがて。
汽車は音もなく減速して、線路の上を走り出す。
ようやく。
目的地についたようだ。
「さあ、ついたよ」
僕等は汽車を降りる。
そこは地下の建築現場みたいなところだった。
フェンスで囲まれ、その向こうには向きだしの鉄骨に鉄パイプが組まれており。
そして、そこが巨大な自然の地下ドームであることは窺い知れた。
僕等はその地下ドームの中を歩く。
通路の両脇はフェンスで囲まれていた。
そして。その建物が姿を顕す。
それは。
石でできた寺院のような建物。
灰色で陰鬱で物凄く歴史を感じさせる、ある意味廃墟みたいな。
その建物の前に僕等は立ち止まった。
「さて」
量産型N2はその建物を指し示す。
「あそこの中に人力コンピュータがいる。彼が全てを説明してくれるよ」
進もうとする僕等に、君は声をかける。
「ああ、人力コンピュータにはひとりで会いたまえ。水無元さんは、僕とここで待と
う」
「どうして?」
「僕たち以外が知る必要の無い秘密があるからさ」
水無元さんは、肩をすくめる。
「行ってらっしゃい、野火くん」
僕はため息をついて、水無元さんに手を振ると。
重い石の扉に手をかけた。
ホテルは夜に覆われた。
夜空はとてもとても。深い藍となった。それは深海の青さ。その無限に近い深みを持
つ藍の空に。
ダイアモンドの欠片みたいな星々が瞬いている。
君は。
石柱の並ぶ中庭を抜け。
食堂のある棟へと向かった。
君は。
食堂のある広間へと入る。
そこは目が眩むように豪華な場所であった。
天井には天使が智天使舞い飛ぶ壁画が描かれている。
そして、光の宮殿みたいなシャンデリアが吊るされていた。
広間の中心では。
優雅な真紅のドレスを着た女たちと。
漆黒の獣みたいに黒衣の男たちが。
くるり、くるりと。
輪を描きダンスを踊っていた。
「よお、遅いじゃないか」
昼間に会ったあの女が。
君に声をかける。
女はくすくす笑いながら、傍らのテーブルを指し示す。
広間の周囲には、食卓が並べられている。
そこには。
正装した男女が腰を降ろしていた。
皆ホテルの客である。着飾っており端正な顔立ちをしたひとたちは。
まるで告別式に出席したひとたちみたいに無表情だ。
そう。
彼らはこれから、何がおこるか知っている。
「ディナーで食卓にあがるのはひとりだけさ」
女はライオンみたいに獰猛な笑みを見せた。
君は。
困ったようにうつむく。
「止めてください」
君は呟くように言った。
「怖いじゃあないですか」
女は楽しげに笑う。
「ああ。でもそのひとりが君かもしれないよ。どうするね」
君は。
憂鬱な笑みを、その薔薇色の唇に浮かべた。
「その時は仕方ないので、撃ちます」
「で、君は何を待っている?」
「オリジナルを」
女は驚いたように、眉をあげる。
「オリジナルがここにくるのか」
「ええ。ついさっき月見ヶ原にT.ウィルスが散布されました。もうすぐです」
女は頷いた。
「なるほど。それで、量産型ではなくプロトワンである君がきたということか」
女の言葉に。
君は困ったように顔をあげる。
「何者なんですか、あなた」
「言ったはずだよ。君と同じホテルの客だと。では待とう。ディナーの主役が登場す
るのをね」
わたしは、部屋にいた。
そこは、どことも知れない建物の地下みたいだ。
その部屋には。窓は無く、置かれている家具といえば病院に置くような鉄パイプのベ
ッドだけ。
蛍光灯の照明があるが、とても薄暗い部屋。
朝なのか。
昼なのか。
夜なのか。
わたしには、何も判らない。
わたしに辛うじて判るのは。自分がおんなであるということだけだ。
自分の身体を見る。若くて美しい。熟れた果実のような、そして野生の獣みたいにし
なやかな。美しい身体をしている。
この部屋で、わたしはいつも夜空に輝く月のように全裸だ。
ただ。
わたしは日に一度だけ。
食事のためにこの部屋からつれだされる。
その時の記憶はひどく曖昧で。いつも夢の中のできごとみたいで。でも。
まぎれもなく、それは背徳的で陶酔的で。残酷な欲望の支配する時間。
わたしは。
その時間を経ることによって間違いなく満たされるのだけれど。
そのあとには、恐怖と嫌悪に見舞われる。
それは。わたしのこころを引き裂いてゆく。欲望の囁きと、わたしのこころが二つに
割れてその葛藤がわたしを責めさいなむ。
でも。
いつもその時が近づいているのが判る。
飢えが。
わたしを犯しはじめる。
わたしは飢えの中で少しずつ狂ってゆく。
わたしは毎日。
泣き続けていた。
耐えがたい日々。
耐えがたい寂しさ。
わたしには何もない。何もない。誰もいない。
檻の中にいる獣と同じ。
そして。ゆめの中でそのおとこの子と出会う。
小鹿のように粒らな瞳。薔薇の花びらみたいに繊細な唇。少女のように優しい顎の線
。さらさらとゆれる髪。
そのおとこの子をわたしは知っていた。
そして、多分そのおとこの子もわたしのことを知っていた。おとこの子は、わたしに
囁きかける。
そんなに泣くことはないのに。
きっと悪いことばかりじゃないよ。
いいことって。記憶に無いけれど。まあ、大丈夫さ。
わたしは。きっと。もうすぐ。そのおとこの子に出会うのだろう。
僕は。
その重い石の扉の向こうへ入る。
そこは、完全な暗闇。果ての無い宇宙みたいに真っ黒に塗りつぶされた闇に向かって。
僕は歩み出す。
背後でごとりと、扉が閉まった。
僕は完全な闇の中に堕ちる。前後も左右も上下もない。宇宙の闇みたいな空間を。
僕はいつも共にある恐怖だけを共として。
前へ進んだ。
突然。
光が溢れた。
「ああ」
僕は感動のあまり、涙ぐむ。
そこは、人力コンピュータの部屋であった。
四角いその部屋は格子状の枠で壁が覆われており。
その四角い枠の中には大小の回転する円盤があった。
その無数に散りばめられた回転する円盤にはきらきら光を反射する鉱石が埋め込まれ
ている。
それは色とりどりの銀河を泳ぐ星々のようであった。
無数の回転する円盤に満たされた部屋を、虹のように様々な色を見せて輝く鉱石が星
のように巡り、回転する。
僕は。
それを曼陀羅のようだと思った。
そしてその曼陀羅の中心には。
君が。
そして僕であり、彼である。
人力コンピュータがいた。
人力コンピュータは僕とそっくりの顔をして。けれども、全くの無表情で。
自分の回りにある無数のハンドルを回転させていた。
そのハンドルの回転によって。
無数の円盤が連動して回ってゆく。
(やあ、ようやくきたね)
人力コンピュータは、僕の頭の中へ語りかけてくる。
僕は直感的に理解した。
君の肉体はここのコンピュータの部品であり。
人力コンピュータとしての意識はこの部屋全体の、円盤の回転運動によって生み出さ
れているのだと。
つまり君は。
人力コンピュータの入出力装置なんだろうと。
(さて、僕はこれから全てを説明してあげようと思うのだけれど)
君は、僕は。全くの無表情で。きらきら光る鉱石が。シノプシスの発火みたいに、思
考を創出している。
(まず、君の質問を聞こうかな)
僕の頭の中には。
無数の疑問があるはずなんだけれど。
でも、いざ質問するとなると何を聞いていいのかが判らない。
でも、黙っているわけにもいかないのでとりあえず、質問する。
「あのさ、ここは一体何なの。工事現場みたいなんだけれど、寺院みたいな建物があ
ってさ」
(ああ、そうだね。まずここが何かを説明しよう)
君の頭に響く声は。
あくまでも落ち着いていて、とても自然だ。
(ここは、採掘場だよ)
僕は意外な言葉に、びっくりする。
「採掘場って。何を採掘するんだよ」
(お経さ)
僕は。
さらにびっくりして目がくるくる回る。
「お経って。一体なんだってそんなものを」
(チベットには埋蔵経典がいっぱいあるんだよ)
「いやあのね」
僕はくらくらする頭を押さえて言った。
「チベットに埋蔵経典があるとして。でもここはチベットじゃないだろ。いくら超音
速で移動したと言っても。練馬区からチベットまでは、数時間でこれないでしょ」
(残念ながら、ここはチベットなんだ)
僕は。
それが真実だという前提に立って。
いや、それは真実なんだと理解していたのだけれど。
よく考えてみた。
「つまり、月見ヶ原は日本の中に無かったということ?」
(正解)
人力コンピュータの声が厳かに僕の頭の中に響き渡る。
(君がいたのは本物の月見ヶ原ではなくてね。月見ヶ原をコピーして大陸の中に作っ
た模造都市。チベットから、そう遠くないあたりにあるんだ)
ほう。
ほほうと。
つまり、僕はきっと正しかったんだ。全部が偽物みたいに感じていたのは。つまり、
偽物の作り物の街に住んでいたからなんだ。
ほよよ。
びっくりこいたよ、そりゃあ。
#346/369 ●長編 *** コメント #345 ***
★タイトル (CWM ) 09/08/11 01:35 (393)
ホテル・カリフォルニア 3 つきかげ
★内容
とりあえず、質問を続ける。
「ねえ、僕の住んでいた街が模造都市であったというのなら。そこに住んでいたひと
たちってどうなのかな」
僕は。少し掠れる声で質問する。
「お父さんやお母さん。街のひとたち。僕の友達。みんなコピーで偽者だったという
こと?」
(もちろん。いや、正確には大人たちだけが、偽者だったのだけれどね)
では。水無元さんは、本物なのか。
「それってさ。ようするに子供たちだけが本物の月見ヶ原から模造都市に連れてこら
れた、てことなんだよね」
(正解)
「でも」
僕は、まるで。でたらめなパズルをなんとか組み立てるような気持ちで問いかけを続
ける。
「一体誰がなんのために、そんなことをしたというの」
(DPRKという独裁国家がある。いや、あったというべきなんだろうね。独裁者の
死とともに、国家が崩壊した)
「つまり」
僕は息を呑む。
「その独裁国家が模造都市を造って。僕らを拉致して連れてきたと。でも結局国家が
崩壊して維持できなくなったから、住民をみんな殺すことにして」
(まあ、ほぼ正解。でもゾンビ化しても死ぬとはいえないけれどね)
それでは。
「住民をゾンビ化して。何がしたかったの?」
(まあ、デモンストレーションというところか。崩壊した独裁国家の幹部が亡命する
ときに手土産としてT.ウィルスを持っていけるということを示したかったんだろう
ね)
「僕はその巻き添えになって死ぬところだったということ?」
(そういうこと)
僕は。はあ、と深いため息をつく。
「その模造都市はなんのために造られたか、てのは?」
(DPRKが造った模造都市は月見ヶ原だけじゃないよ。アメリカ、中国、ロシア、
韓国、色々な国家の模造都市が造られていた)
僕は。あんぐりと口があく。
「なんで?」
(都市テロルの演習を行うため。君たちこどもを利用して、テロリストに洗脳して。
本物の街でテロを引き起こすため)
おいおい。
「僕は洗脳されているの?」
(いや)
ふう、と安堵のため息が出る。
「まだ大丈夫なんだ」
(まあ、記憶操作は受けているよ)
ええっ! なんだってぇ。
(君はテロの演習をさせられていたときの記憶はないだろう)
なるほど。確かにそれはそうかもしれない。
(でも君はテロ兵器を手渡されて、何度か模造都市を壊滅状態に持っていっている)
げげげっ。
「ほんとなの?」
(よく、思い出してごらん。君にテロ兵器を手渡したのは。青い猫型ロボット)
僕はそのとき。
なぜか君が歩いていたホテル・カリフォルニアへいたる道を思い出す。
青い空。
青い海。
その青さと同じ、猫型ロボットがいて。
そう。確かに。破壊的な兵器を色々と。
「まって、まって。信じられない。僕の消されたはずの記憶。今断片的に思い出した
けれど。でもそれだったらさ。DPRKは物凄いテクノロジーを持っていたんじゃな
いの?」
人力コンピュータはなぜか笑った気がした。
(どんなことを思い出したの?)
「ええと。瞬間移動装置みたいなのとか。ものの大きさを大きくしたり、小さくした
りとか。精神をコントロールするとか。そういうの使っていた」
(それらは完全だった?)
「うーん。ほとんど一度使うと二度と使えなかったような気もする」
(そう。テロ兵器はどれも不完全だった)
僕は首をふる。
「それにしたって」
(ああ。君の思っていることはもっともだよ。なぜDPRKはそんなテクノロジーを
手に入れることができたのか? その答えがここにある)
「ここって」
(つまり採掘場)
僕は、へなっと腰砕けになる。
「ちょっと待ってよ。ここはお経を採掘しているのでしょう?」
(まあね。お経が何かが問題なんだよ)
「お経って。お経じゃない」
(ここで採掘しているお経はね。虚空菩薩の教えを記したもの。西欧ふうにいえば。
アカシック・レコードを読み取ったもの)
なんだそりゃ。
「ア、アカシック・レコード? 何それ」
(世界が始まって以来の記憶。つまり集合無意識のレベルの記憶だよ)
判らん。
何がなんやら。
(まあ、前世の記憶といってもいい。超古代。今は失われた超テクノロジーが存在し
たのだよ。アトランティスやムーは御伽噺だけれど。本当に古代の超テクノロジーは
存在した。その時代まで前世の記憶をさかのぼって書き記したもの。それが埋蔵経典
だ)
びっくりだ。
よく判らないけれど、びっくりだ。
「じゃあ、人力コンピュータ。君はもしかして」
(僕は埋蔵経典の解読装置。この寺院は埋蔵経典をデコードする装置として、造られ
たもの)
うーん、でもね。
「判らないな。そもそも僕のコピーを作るっていうのがさ。超古代のテクノロジーを
使わなくても可能でないと。君の存在の説明がつかないよ」
(ああ、N2シリーズは、超古代のテクノロジーじゃない)
がくっ、となる僕。
「でも、ひとのコピーを造るなんて」
(もともとはUSSRで開発されたレトロ・ウィルスを利用してN2シリーズは造ら
れた。君が天性のテロリストであるということが判ったから。君のDNAをコピーし
て別の人間に写しこまれたんだよ)
おいおい。
僕が天性のテロリストだなんて。
いいたい放題だな。
「レトロ・ウィルスって」
(USSRの強制収容所では人権なんて無かったから。色々な人体実験が行われてい
た。そのひとつがDNAコピーをおこなうレトロ・ウィルス。それと、人間をコンピ
ュータ化する技術が複合されて人力コンピュータである僕が生まれたんだ)
なんと。
人間をコンピュータ化するなんて。
「一体どういうことなの?」
(白痴のサヴァンと呼ばれる、高機能アスペルガー。左脳障害によってひとはコンピ
ュータ以上の速度で計算をする能力を身につけたりすることがある。USSRでは、
高機能アスペルガーのひとをコンピュータとして利用する技術があった。それをさら
に進めて、人工的に脳障害をおこして高機能アスペルガーを生み出す技術を組み合わ
せ、さらにDNAコピーのレトロ・ウィルスがそれに利用されて)
うーん。
「まず、君が生まれて。そして、超古代のテクノロジーの解析が始まった。そういう
ことなの?」
(正解)
なんとまあ。
長い。
長い話の果てにたどりついたのは。
結局行き先の無い迷路みたいな場所だった。
いったい。
僕は。
「これからどうしようか」
(ねえ、ホテル・カリフォルニアのことは聞かないの?)
ああ、それねぇ。
「まあ、一応聞いておこうか」
(あれはね、元々君をテロリストとして養成していた猫型ロボットなんだよ)
え、どういうこと?
「あそこは、ホテルじゃん。なんであれがロボットなの?」
(四次元ポケットってあるでしょ)
「ああ、あったね」
(あれがようするにさ。人工的に造られた小宇宙でね。あそこは元々テロ用の兵器を
開発する工場だったんだよ)
ふうん。
(でも、DPRKが崩壊したせいで猫型ロボットのメンテナンスができなくなって)
もしかして。
「暴走したってこと?」
(そうだよ。四次元ポケットが裏返って閉ざされてしまった。ねえ。ホテル・カリフ
ォルニアへ行ってみなよ)
なんで。
「どうして?」
(多分。そこに行けば。進むべき道が見えると思うよ)
けれど。
「どうやっていくのさ」
(量産型N2が案内してくれる)
進むべき道ねえ。
多分、もう僕には選択肢がない。
じゃあ、まあ。行ってみるか。
僕は。
その寺院から外へ出る。
待っていたのは。
水無元さんと、量産型N2だった。
「お待たせ」
僕の言葉に水無元さんは、会釈する。
「ねえ。中で何を話していたの?」
うーむ。何をどう説明したものか。
「なんだか僕は天性のテロリストらしいよ」
水無元さんは、くすりと笑う。
「野火くんみたいに、怖がりのテロリストなんて、変だわ」
まあ。一理あるわな。
「恐怖は、テロルの本質だよ」
量産型N2が真面目な顔をして言った。
「恐怖を感じるということは、世界に抗うということだ」
なるほど、と僕は頷く。量産型N2は言葉を重ねる。
「抗うのをやめると、世界に飲み込まれてしまう。恐怖を感じるのは世界に対して抗
って生きる意志があるということだ」
量産型N2は。とても真剣に語り続ける。
「恐怖は。たとえそれが昏い絶望に彩られていたとしても。それは戦いの歌であり、
生の証でもあるんだよ」
まあ。それはそれとしてだ。
「ねえ。僕らがこれからどうするかなんだけれど」
水無元さんと量産型N2は僕を見る。
「ホテル・カリフォルニアへ行こうと思うのだけれど」
水無元さんは、首を傾げる。
「そこは何なのかしら」
「よく判らないけれど」
僕は、肩を竦める。
「そこに僕の進むべき道があるみたいだ。きっと。多分。水無元さんの道も。そこで
見つかると思う」
水無元さんは、にっこりと微笑んでくれた。
「そう。では行きましょう」
量産型N2は黙って頷くと、先にたって歩き出す。地下の巨大なドームのようなその
採掘場。
僕らは寺院を後にして、フェンスで囲まれた道をまっすぐ歩いてゆく。
次第に。
道は細く険しくなってゆく。
僕らは、岩がむき出しになっている坂道を登って行った。
やがて、道は洞窟のようになってゆき。
暗い、細い道を僕らは手探りで登って行った。
突然。目の前に大きく道が開けた。
僕と水無元さんは。
大きく息をのむ。
目の前には。
蒼い。
空のように。
海のように。
蒼い、蒼い。
岩壁があった。
それは。
おそろしいまでに大きな、壁画のようだ。
岩壁は、蒼く塗りつぶされている。
そして。
海が。空が描かれており。
海には真っ直ぐに伸びる。
骨のように、塩のように。
真っ白い道があった。
これは。夢に見た、君が歩いていった道。
そしてその道の先には。
ホテル・カリフォルニアが。無骨な中世の城みたいな建物があった。
量産型N2は無造作に言った。
「ホテル・カリフォルニアはあそこにあるよ」
おいおい。勘弁しておくれ。
「絵でしょ、これ」
「いいや。これはね。圧縮された空間なんだ」
判らんよ、そんなこと言われても。
僕の表情を読んで量産型N2は言葉を重ねる。
「アインシュタインの相対性理論によれば、空間の大きさというものは相対的なもの
でね。光の速度に対する運動によって変わってくる」
「何がいいたいんだよ」
「あのね。超古代のロストテクノロジーの多くは、宇宙の基礎パラメータを変更する
ものが多い。つまり。光の速度という絶対的な宇宙の基礎パラメータを変更すれば、
空間や時間も圧縮することができる」
あーっと。
つまり、ホテル・カリフォルニアのある空間を圧縮して壁画にしたってことだな。
「まあ、どうでもいいけれど。どうやって絵の中に入る?」
「いや、普通に」
量産型N2は僕と水無元さんの背中をどん、と押した。
気がつくと。
僕らは壁画の中にいた。
頭上に広がっているのは。
蒼い空。
足元でたゆたっているのは。
蒼い海。
そして。僕と水無元さんは、白い道を歩き出した。ゆっくりと。
その豪華な広間で。
食卓についた客たちに、ピンクシャンパンが振る舞われる。
君の前にも。
沈みゆく太陽に染め上げられた空の色となったグラスが、置かれる。
君は。
そのグラスに手をつけることは、無かったが。
そして。
黒衣を纏った男や女が。
広間の中央で踊り続けている。
漆黒の宝石みたいに美しく。
黒豹のようにしなやかで。
そして黒鋼のマシーンみたいに正確に、踊り続けていたが。
突然。
時が撃ち殺されたみたいに、動きがとまった。
そして鐘が鳴り響く。
死せる神を弔うかのように。
荘厳で。
美しい。
鐘の響き。
君の隣で女が呟く。
「ふむ、ディナーが始まるようだね。オリジナルは間に合わ無かったということか。
幸いにして。と、言っておくよ」
君は。
少し薔薇の花びらみたいな唇を、苦笑の形に歪めた。
鐘がなりやむ。
死んでいたはずの時が、再び息を吹き返す。
一組の。
黒衣の男女が、ゆっくりと広間の中央から歩きだす。
二人は、ひとりのおんなの前で立ち止まった。
男はまるで。
愛を囁くみたいに優しく。
おんなに手を差し延べた。
つれのおとこが立ち上がったが。
黒衣の女はそっとおとこの肩に手をあて。
恋人にするような口づけを与えた。
おとこは、魂を吸い取られたような茫然とした表情で。
椅子に崩れるように座り込む。
そして。
おんなは黒衣の男に魅入られたように。
炎に引き寄せられていく、蛾のように。
男に導かれて広間の中央に向かって歩きだす。
その表情は苦悩に満ちているようであったが。
その唇からもれる吐息は。
とても甘やかなものだった。
なにかに耐えているみたいに。
おんなの身体は、震えていた。
君のとなりで。
「さて、いよいよ女主人が登場するかな」
と、女が呟いた。
僕と水無元さんがその頑丈な木の扉にたどり着いた時には。
すっかり夜が空を深い藍に、染め終えたあとだった。
扉を開くその瞬間に。
厳かに。
人の世が終わることを告げるような。
崇高な美しさを持つ。
鐘の音が響き渡った。
僕らは黒衣の女に導き入れられる。
僕は。
黒衣の女に尋ねてみる。
「ねえ。ここはさあ。天国なの、地獄なの?」
黒衣の女はくすりと笑ったように見えた。
「それはご自分でお確かめください。ただ」
黒衣の女は艶っぽい眼差しで、僕らを見る。
「ここはとても素敵な場所ですよ。さあ急ぎましょう。今ならディナーに間に合いま
す」
部屋の中で。
わたしは、震えていた。
飢えが。
体の奥底で欲望が疼き。
わたしの奥深いところを穿つような。
飢えが。
やって来ようとしている。
逃げ出したかったのだけれど、それが叶わぬことであると。
わたしは知っていた。
わたしはこの部屋しか知らない。
ひとりで部屋からでる術を持たなかった。
それより。
何よりも。
自分自身の欲望から。
身体の奥底を焔で焼き焦がすような。
その飢えから、逃れることはできない。
そして。
扉が開く。
端正な顔をした、黒衣に身を包んだ初老の男。
魔物のように口の両端を吊り上げて笑うと、優雅に一礼する。
髪が額に、ひとふさかかる。
黒衣の男は。
名をドクター・キョンと言った。
この世界を。
そしてこのわたしを。
造りあげた男。
「お迎えにあがりました」
ドクター・キョンは手でわたしの行き先を指し示す。
そう。
飢えを満たしに行かなければ。
わたしは。
わたしでなくなり。
身体の震えが止まる。
わたしは真夜中の闇みたいに漆黒のナイトドレスを身につけると。
部屋から外へと踏み出す。
君は。
ディナーが始まったことを知ったが。
今のところなすこともなく。
馴染みの恐怖を纏ったまま。
広間の中央で演じられていくショウを見ていた。
黒衣の男に導かれるまま、広間の中央へ連れ出されたおんなは。
何かに耐えるように、震えていた。
黒衣の男は野生の黒豹みたいに優雅な笑みを見せると、氷の欠片みたいに冷たい煌め
きを見せる、ナイフを抜いた。
おんなは。
泣き出しそうな、縋り付きそうな。
儚げな表情をして立っている。
黒衣の男は、手にしたナイフを振り上げるとおんなに向かって振り下ろす。
何度も。
何度も。
まるで花束の花を散らすように。
おんなのドレスが切り刻まれ。
おんなの足元へ。
はらり、はらりと。
落ちてゆく。
やがて。
夜空に輝く月のように白く輝く裸身をさらけ出したおんなは。
苦しいような。
耐え切れぬような。
それでいて何処か甘やかな吐息を。
ほうと漏らす。
黒衣の男は獣のように、口をひらいて笑う。
その口には。
抜き放たれた刃みたいな牙があった。
切なそうな瞳で黒衣の男を見つめるおんなに、黒衣の男は牙を突き立てる。
おんなは。
耐え切れぬような。
恥じらいを含んでいるような。
秘めたものを、漏らしてしまうような。
掠れた嗚咽を静かに放った。
ああ。
そのとき。
広間に声にならないどよめきが、沈黙につつまれたまま響き渡る。
ドクター・キョンに連れられた漆黒のナイトドレスの女が姿を顕す。
美しい。
あまりに美しいすぎるがゆえ。
むしろ異形にすら見える。
真夜中の怪物。
ナイトドレスの女は暗黒の太陽が星無き夜を支配するように。
静かに。
広間に君臨した。
そしてナイトドレスの女は黒衣の男から全裸のおんなを受け取ると。
飢えた獣が獲物を喰らうように。
その首筋へ。
くちずけをした。
バイオリンのE音を狂ったように掻き鳴らす、そんな悲鳴が。
広間に響き渡った。
#347/369 ●長編 *** コメント #346 ***
★タイトル (CWM ) 09/08/11 01:37 (478)
ホテル・カリフォルニア 4 つきかげ
★内容
僕と水無元さんが広間に入ったとき。
黒衣の女が全裸のおんなを抱きかええて、その首筋へ口づけをしているところだった。
それを見た水無元さんが、悲鳴をあげる。
広間の空気に亀裂を打ち込むような。
そんな悲鳴だった。
黒い男や女たちは。
一斉に僕等のほうを見る。
慌てて僕は、水無元さんの口元を手で押さえたのだけれど、手遅れだった。
僕らは広間じゅうの注目を浴びている。
魔物のように口の両端をつりあげて笑う。
初老の男が僕たちを見て一礼をする。
「これは、ようこそ。ホテル・カリフォルニアへ」
黒い男や女が。
僕たちのほうへ近づいてくる。
獲物を見つけた肉食獣が、包囲の輪を閉ざそうとするかのように。
僕は水無元さんの前に立って、庇おうとするけれど。
それにほとんど意味が無いことは、判っていた。
彼らはひとではない。
恐怖。
それは黒く闇そのもののような恐怖であり。
僕の心臓を凍った手で握りつぶしてゆく。
ああ、ここでも。僕は自分の世界が外に漏れ出していくのを見ることになるなんて。
黒豹が獲物を襲うように、優雅なそして獰猛な動きで。黒い男が僕等の前に跳躍する。
僕は。
自分の首が喰いちぎられ、血を迸らせるのを見るはずだった。
けれども。
その瞬間響きわたったのは、神が震う鉄槌のような轟音。
そう、エレファントキラーの銃声だった。
僕の前には、君がいる。
純白の巨大な拳銃をかまえた。
思った以上に華奢な(いや、僕と同じ体格なんだろうけれど)、少女のように儚げな。
君、プロトワンがいた。
黒い男は顔面の半分を吹き飛ばされ。
血と脳漿を撒き散らしながらも。さらに平然と飛びかかってくる。
君は撃つ。さらに撃つ。
僕に向かって伸ばされた手が吹き飛んだ。そして、その胸に銃弾は穴を穿ってゆく。
黒い男は身体を分断され地に堕ちる。
ああ。
恐怖と陶酔と快楽が交互に僕へ襲いかかり。
僕の足はがくがくと震えていた。
瞬時に銃身を折って君は、375ホーランド&ホーランドマグナムを装填する。
黒い女が。男が。次々に襲いかかってくるのを。
見えない壁があるみたいに。
君は正確に撃ち殺してゆく。頭を撃ち抜き、腕を足を吹き飛ばし、胴を引きちぎり。
黒い男や女は、半分に身体を千切られてもさらに、牙を剥き出して。
咆哮する。
叫ぶ。
呪いの歌を。夜の歌を。闇の歌を。
君の撃つ銃弾は、その歌を切り裂き破壊し、真っ赤な血に染め上げてゆく。
僕等の足元の床は、真紅のカーペットを敷いたように赤い海に沈んでいた。
「危ない!」
水無元さんが、叫ぶ。
君の背後から忍びよった黒い女が飛びかかる。
君の右手は、正面からくる黒い男女に向けて撃たれていたので、背後へ向けることは
できない。
女の赤い唇は少女のように薔薇色に染まった君の頬にせまる。
けれども。
黒い女は、巨大な鉄槌で吹き飛ばされたように、後ろに倒れる。
君は左手に。
もう一丁の白い拳銃を抜いていた。
硝煙を吐き出すその拳銃は。
さらに銃弾を女に向かって吐き出す。
女が真紅の挽肉になるまで。
君は二丁の拳銃を前に向けた。
立て続けに撃ちまくる。
そして。
銃身が反動の力で宙にあるうちに、片手で銃身を折り畳みスピードロッダーを使って
銃弾を片手で装填する。
まるで、拳銃が自らの意思で中空に留まっているような。
僕はジャグリングを見ているみたいだった。
エレファントキラーは死と破壊を吐き出しつづける。
双頭の白い龍みたいな拳銃は、運命の咆哮を振り絞りつづけた。
金色の空きカートリッジが雨のように真紅に濡れた床へ降り注いでゆき。
黒い男や女は死の舞踏を踊りつづける。
彼らは逃れるなど考えることもなく。
闇色の怒りを滲まして飛びかかってくる。
エレファントキラーは自身の反動で宙を舞い。
君は。
少女のように嫋やかな手でその凶暴な力の奔流を操る。
僕は、君の口が動いているのを見た。
君の。
薔薇色の唇は、そっと囁いていた。
それは。
恐怖を。
「怖い。
怖い。
怖い。
怖い。 怖い。
怖い。 怖い。
怖い。 怖い。
怖い。 怖い。 怖い。
怖い。 怖い。 怖い。
怖い。 怖い。 怖い。
怖い。 怖い。 怖い。
怖い。 怖い。 怖い。
怖い。 怖い。 怖い。
怖い。 怖い。 怖い。
怖い。 怖い。 怖い。 怖い。
怖い。 怖い。 怖い。 怖い。
怖い。 怖い。 怖い。 怖い。
怖い。 怖い。 怖い。 怖い。
怖い。 怖い。 怖い。 怖い。 怖い。
怖い。 怖い。 怖い。 怖い。 怖い。
怖い。 怖い。 怖い。 怖い。 怖い。 怖い。
怖い。怖い。 怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
怖い」
突然。
黒いナイトドレスの女が。
僕と水無元さんの前に立つ。
ああ、それは。
なんて美しく、なんて哀しい。真夜中に飛び立つ漆黒のワイルドスワンのように。
目を見開いて。
そして、水無元さんも目を見開いて。
言葉を無くして立ち尽くしていた。
黒い、男や女もナイトドレスの女には近寄らなかったので。
その空間はまるで。
嵐の中に一瞬訪れた静寂みたいに、時を凍り付かせた。
わたしは。
その少年と少女が広間に入ってきた瞬間から、目がくぎづけになった。
正しくはその少女に。
いいえ。
少女ではなく。
わたし。
わたしであり、あなたである。
わたしは、あなたの視点からわたしを見ることができた。
あなたの恐れと。
微かに混ざった陶酔の感覚を。
まるで身体の秘めやかで繊細な部分に触れるように、感じ取ることができた。
あなたの目から見たわたしは。
美しく哀しく、しかし戦慄的なまでに獰猛であり、野生の生き物みたいに凶暴であっ
た。
でも。
その中に。
あなたと同じ、わたしと同じの。
繊細で優しく感受性に溢れた、野に潜む兎みたいに跳びはねてゆくしなやかさを持っ
たこころがあることが判る。
そして。
あなたがわたしの奥深くに触れるのを感じる。
成熟したおんなとしての、充実した肉体を持つことを。
その奥深くに秘められた欲望の疼きと官能の呼び声さえもあなたは感じ取り。
戸惑いながらも受け入れてゆく。
わたしとあなた。あなたとわたし。
ふたりであり、ひとりである。
わたしはあなたの瞳を通じてわたしを見て。
あなたはわたしの瞳を通じてあなたを見て。
それは。
無限にループする合わせ鏡のようで、世界にはもう、あなたとわたししか居ないのに
、そのふたりが増殖して世界に満ち溢れてゆくようで。
ああ。なんてこと。
無限に繰り返され上昇していくカノンのように。
陶酔に包まれながらわたしたちはふたりだけの世界を駆け昇って無限に飛翔し、同時
に無限に墜落する。
そして。
その無限に巡り続けるループは。
一発の凶悪な銃声に撃ち殺された。
ナイトドレスの女は、銃弾によって顔面を粉砕され倒れる。
同時に、水無元さんも悲鳴をあげて崩れ落ちた。僕は彼女を辛うじて受け止める。
銃を撃ったのは。
グレーのジャケットを着た女。
その女は精悍な顔をして、銃を構えたまま倒れたナイトドレスの女へと近づく。
そして、まるで黒い疾風が巻き起こるように顔面を深紅に粉砕された女が跳ね起きる。
グレーのジャケットを着た女に、漆黒の猛禽のように掴みかかろうとするのを銃声が
跳ね返す。
女の撃ったS&WのリボルバーM500が火を噴き、ダブルオーバック9粒の散弾が
発射され心臓を貫く。
広間には。
ようやく静けさが戻ってきた。
動くものは誰もいない。
黒い男女は全て殺され、客たちはいつの間にか逃げ去ったらしく姿が見えない。
君は。
プロトワンは。
足元に黒いひとの残骸を積み上げ、純白の拳銃を構えている。
君は。
ふっと、薔薇色の唇から溜息をもらすと白い拳銃をくるりと回転させ腰のホルスター
へ収める。
グレーのジャケットを着た女は。
黒のナイトドレスに開いた深紅の穴へ、手を突き入れる。
そこから取り出したのは、闇色の蝙蝠みたいな生き物。蝙蝠のような羽を持っている
が大きな違いは、脳が巨大であることだ。
女は、口を歪めて笑う。
「寄生型生物兵器ネメシス。見事な作品だよ、ドクター・キョン」
初老の男は。
凍りついたようなその虐殺の舞台となった広間で、ただひとり動き続ける物体となっ
たようで。
魔物の笑みを頬に貼付けたまま女の前にたつ。
「ご苦労様です。今回はCIAと契約されましたか? アリス・クォータームーン」
アリス・クォータームーンと呼ばれた女は、S&WM500を構えたままで応えた。
「まあ、そんなところさ。ドクター・キョン。でも皮肉なものだな」
アリスは口を歪める。ドクター・キョンは問い掛けるように、片方の眉を上げた。
アリスはドクター・キョンの足元へその巨大な脳を持った蝙蝠をほうり投げる。
「N2シリーズの後継として造り上げたはずのバイオソルジャーとネメシスの組み合
わせが、あっさりとN2シリーズのプロトワンに全滅させられたのだからね」
ドクター・キョンはゆっくりと首を振る。
「あなたも判っていらっしゃるでしょう。兵器というものが単純にその攻撃力や破壊
力から量られるものではなく。操作性、耐久性においても優れたものでなくてはなら
ないということを」
アリスは皮肉な笑みを浮かべたまま、頷く。
「そうだな。N2シリーズは耐久性に問題があるわけだ」
ドクター・キョンは。
哀しくげに頷く。
「ええ。N2シリーズは恐怖を武器にしました。恐怖が脳内のリミッターを外してし
まい、通常の人間では扱えないようなパワーやスピード、テクニックを実現しました
。けれどもリミッターを外したままでは」
「ひとは長く生きられない。当たり前だ」
アリスは昏く吊り上がった瞳で、ドクター・キョンを見る。
「あんたは使い捨ての人間兵器、量産型N2シリーズを造ったがそれはコストがでか
すぎる」
「ええ」
ドクター・キョンは溜息をつく。
「だからわたくしは、T.ウィルスを開発しました。まあ、それだけでは役に立たな
かった」
「T.ウィルスに感染したひとは不死身の身体を手に入れるが、知性が消滅する。だ
から寄生生物ネメシスを造りあげた」
アリスは。
僕が支えている、水無元さんを見る。
「そこの少女のDNAを組み込んだ、知性を持った寄生生物を」
ドクター・キョンは。
静かに頷く。邪悪な笑みを浮かべて。
僕は驚いて、ドクター・キョンを見る。
「寄生生物ネメシスをT.ウィルスに感染したひとに埋め込みました。そうしてネメ
シスは脊髄の神経を乗っ取って、ゾンビたちをコントロール可能にしました。でも彼
等の破壊衝動、血を見ることへの飢えを消滅させることまでは、できなかった」
ふん、とアリスは鼻で笑う。
「結局あんたの言い方をまねれば、操作性を満足できなかった訳だな」
僕は。
震えた。
ではきっと水無元さんは僕がN2シリーズと意識を夢の中で共有していたように。
あの黒い男女やナイトドレスの女と意識が繋がっていたということなんだろうか。
この。
妖精みたいに可憐な。
僕の手の中で意識を失い、その柔らかで華奢な身体を僕に預けているおんなの子が。
黒い獣みたいに闇の欲望に焦がれている生物兵器と意識が繋がっていたなんて。
それは、残酷で。哀しくて。赦しがたいことのように僕には思えた。
そして。
おそらくアリスも同じように感じているらしかった。
「わたくしを」
ドクター・キョンは魔物の笑みを浮かべ、アリスとそして僕と水無元さんを見る。
「どうされますか」
アリスは自嘲しているように、見えた。
「わたしが受けたオファーは単なる情報収集で、介入することではなかった。でも」
アリスは、あきらめたように薄く微笑む。
「ドクター・キョンあなたを殺さなくてはここから出ることはできなさそうだ。そう
だろう」
ドクター・キョンは頷く。
「ええ。わたしの生体反応が途切れることがあれば、自動的にこの閉鎖空間の出口が
開きます。では、殺すのですね。わたしを」
アリスは、肩を竦めた。
「残念だが」
「お願いがあります」
ドクター・キョンの言葉に、アリスは片方の眉毛を上げる。
「できれば、プロトワンの手で殺されたいのです」
僕らは。
プロトワンを。
君を。
見る。
君は、分厚いゴーグルの奥からドクター・キョンを見つめていた。
そして。
囁くように。
薔薇色の唇を震わせて。しかし、はっきりと。話始めた。
「あなたは、僕等の神なのですね」
魔神のような男は、哀しげに頷く。
「そうです」
「でも、僕を失敗作だと思っている?」
「いいえ」
初老の男は疲れたように、首を振る。
「君達も。死んでいったネメシスたちもみな。とても愛おしく思っています」
「僕等は不安と恐怖の中で生き、それでも必死で戦いながら堪え難い生を生き抜きま
す。全ての神経と体組織をストレスで朽ち果てさせて死にます。そんな僕等でも愛し
ていると」
「もちろん」
初老の男は魔物の笑みを浮かべたまま。
頷く。
君は。
エレファントキラーを抜いた。
「答えてくださって、ありがとうございます」
「君は」
ドクター・キョンは、慌ただしく言った。
「ホテル・カリフォルニアに来られて満足したのですか?」
君は、ゆっくり首を横に振る。
「だって、怖いじゃあないですか」
轟音。
落雷のように容赦のない凶暴な銃声が。
死体の折り重なる広間に響き渡った。
無数に重なる死体の山に。
もうひとつ死体が、積み重ねられた。
僕は。
このホテルの出口が開くのであれば、きっと空が割れたり海が消滅するみたいな大変
動が起こるに違いないと思っていたのだけれど。
ドクター・キョンの死は、何も引き起こさなかった。
死体の折り重なる広間に、もうひとつ死体が追加されただけで。
あたりは静寂につつまれたまま、夜明けを迎えようとしていた。
僕は。
アリスに尋ねる。
「ねえ、何処に出口が開いてるわけ?」
「いや。多分エマージェンシーシステムが作動する条件が満たされていない。ドクタ
ー・キョンは死んだけれど、おそらくメインシステムが生きておりエマージェンシー
システムの作動を抑止している」
君は。
僕の傍らに膝をつくと、水無元さんの身体を僕から受け取った。
水無元さんは君の腕の中に納まり、そして君は口を開く。
「ねえ。オリジナルの僕。君がここのメインシステムを停止するべきだよ」
なんと。
僕の出番がきたとおっしゃいますか。
「なんで?」
「ここのメインシステムが、それを望んでいるから。それと、君自身が」
君は。
ゴーグルの奥から僕をじっと見つめる。
「失った大切なものを取り戻さなくちゃあ」
なんだって?
「僕が失ったもの?」
君は。
静かに頷く。
「そうだよ。君はまるでマンガの中に生きてるようだったのだろう?」
僕は頷く。
「君の現実。君の戦い。そして君の恐怖。それらが失われている。いや、それはオリ
ジナルの君からとりあげられて、僕たちコピーに配布されたと言っていい」
なるほど。君はゴーグルの奥から小鹿のようにつぶらな瞳で僕を見ている。
「だから君は。最後の扉を開くのだよ。この閉ざされた場所を、再び世界へと解放す
るために」
僕は。
立ち上がった。
「で、どこに行けばいいの?」
君は。
静寂に包まれた、広間の奥深く。ドクター・キョンとナイトドレスの女が登場してき
た扉を指差す。
「あそこから、地下の兵器工場へと降りていける。そして最も深いところにメインシ
ステムがいてる」
「判った」
歩きだそうとする僕に、アリスが声をかける。
「これを持っていきなさい」
アリスは拳銃を僕に差し出す。N2シリーズが使うエレファントキラーほどではない
にしても、それはとても大きな銃だった。
S&W M500。
僕はそれを受け取る。
そして僕は歩きはじめた。
僕は大きな拳銃を手に提げたまま、地下への階段を下ってゆく。
その階段は、闇につつまれていた。
冥界へ繋がって行くかのようなその階段を、僕は降りてゆく。
降りてゆく? いや。
奇妙なことに。
ああ、本当に奇妙なことにいつのまにか階段は昇りとなっていた。
この世界の中心を超えて重力が裏返ったかのように。
僕は闇に沈んでいるその階段を一歩一歩、踏みしめて上っていく。
長い。
とても長い階段を昇りつめて。
扉の前についた。
僕は扉を開き、外に出る。
蒼い。
哀しいまでに蒼く美しい空が、目に飛び込んできた。
僕は一歩踏み出す。
そこは砂浜だ。
そして、空には。彼がはりついていた。
青い猫型ロボット。
そのロボットは、腹のところで空にはりついている。
丸い頭がくるりと動くと、顔が僕のほうを向いた。
(遅かったね。随分待ったよ)
僕は頷く。
「これでも、頑張ったつもりなんだけれどね」
(君と別れてから、ずっと君のことを、そして君たちのことを考えていた)
へぇ、でもね。
「うん。でも僕はずっと君のことを忘れていたよ」
(残念だね。とても残念だ)
ロボットは笑っていた。いや、ロボットが笑うなんてできるのか僕には判らないのだ
けれど。
とても、哀しげに。
笑っていた。
(君たちはね。ひとつにならないといけないんだよ)
僕たち? N2シリーズを言ってるのだろうか。
「どういうことなの」
(君に渡すものがあるんだ)
僕は。
全く無防備だった。油断していたと言ってもいいし、まあそんなことが起きるなんて
予想してなかったから。
ロボットの瞳が輝いて、光が僕の額へと走る。
レーザー光線?
凄まじい激痛が額に打ち込まれる。ドリルを額に突き立てられてようだ。
「がああぁぁぁっ」
僕は悲鳴というよりは、咆哮をあげて砂浜をのたうちまわる。
血で顔が真っ赤に染まっているのが判った。
畜生、畜生、畜生。
痛い、痛い、痛い。
ボンと、破裂音がする。ロボットの頭が爆発したようだ。
多分、ロボットの頭部はレーザー光線の発射に耐えられなかったのだ。
どん。
と、突然幻覚のような。
いや、それ以上の何か凄いものが僕の頭の中に到来して。
僕は苦痛を忘れた。
強引に頭の中に巨大な世界が押し込まれたような。
どくん。どくん、と。
自分の頭が果てしなく膨張し、無数の光が流れ込んできているようだ。
景色が見える。
たくさん、たくさん、たくさん。
ああ、これはきっと。
世界中に散らばったN2シリーズの見ている景色なんだろうなあと思う。
銃火が交差し、死体が重なり、炎に包まれる都市や。
極彩色の鳥たちやむせかえるように濃厚な香りを放つ花や緑につつまれたジャングル。
無数の宝石をぶちまけたような、満点の星空の下に広がる真白き砂漠の海。
無造作に死体が放置された貧民窟で麻薬に溺らされるおんなたち。
雪原に覆われた高い山岳地を容赦なく吹き荒れる暴虐の巨人みたいな吹雪。
僕は。
恐怖し。
手にしているのは白いエレファントキラー。
それを。
撃つ、撃つ、撃つ、撃つ、撃つ。
無数の手が無数の銃弾を発射する。
(やあ、ようやく開かれたようだね)
その声は、人力コンピュータ。
(トレパネーションの手術は成功したようだね)
なんだよ、そのトレパネーションていうのは。
(頭蓋骨に孔を穿つ手術さ。紀元前から行われていたことだよ。脳の血流量を飛躍的
に増大させ、意識を拡大する。君の中に今まで眠っていた情報が一度に動き出した。
もう暫くすれば、落ち着くよ)
僕は。
今まで、眠っていたのか。
(まあ、いうなればそうだね)
そうか。
僕はようやく、目覚めたわけだ。
世界は。
今までどおりに、恐怖と不安と絶望に満ちている。
目覚めることによって。
それらは蒼い焔となって、僕の身体を内側から焼き尽くしてゆく。
それはみょうに陶酔的ですらあって。
僕は身体を震わせて、ゆっくりと立ち上がる。初めて地上に産み落とされた小鹿みた
いに。ゆらゆらと揺れながら。
手にはまだ。
大きな拳銃がある。
そう、空に向かって。蒼い、蒼い、哀しいまでに美しく愛おしい。君がいる空に向か
って。
銃を向けた。
ああ。
震えるような喜びと。
こころを焼き尽くすような恐怖が重なり。
銃を向けた空が割れる。
ここは、大きな河のようだ。水が流れていないけれど、河の中に僕はいる。多分、こ
こに流れているのは無数の思い出と記憶。
あなたが。彼女が。地下奥深くの部屋から顕れて、僕の前に立つ。
どくんと、僕の手が震えて。その震えは銃の先にとどき。銃口が震えている。
あなたが手を広げて。こう囁く。
(ここで。一緒に。永遠を。永遠があるの。全てがあるの。完全があるの、ここに、
ここに、ここに!)
ホテル・カリフォルニア。
永遠の場所。
ここは、天国なのか。地獄なのか。
あなたが、彼女が、手を伸ばし。僕にその吐息が触れる。
恐怖が。
稲妻のように僕の頭から下半身までを貫いて、蒼い焔が暴龍みたいに荒れ狂い内臓を
食い荒らした。
「がああぁぁぁっ」
僕は絶叫して。
銃声が轟く。
空が炸裂した。蒼い輝きが無数の欠片になって、きらきら、きらきらと。ガラスの雨
みたいに降ってくる。
その向こうは大きな闇があった。
僕の恐怖。僕の不安。僕の絶望。僕の呪い。
それが果てしなき闇となって。
世界を覆う。
僕は歩いていた。
蒼い空の下を。
蒼い海を貫く、白い道を。
灰色のマントを纏って。
分厚いゴーグルで目を隠し。
歩いてゆく。
その先にあるのは。
天国なのか地獄なのか。
未だに僕には、判らない。
#348/369 ●長編
★タイトル (AZA ) 09/08/23 23:54 (270)
お題>スイス 1 永山
★内容
足を抜いて一歩進むだけで苦労する