#407/598 ●長編
★タイトル (AZA ) 12/05/27 23:55 (462)
飛井田警部の事件簿:コンプレックスな殺人(上) 永山
★内容 18/07/06 02:42 修正 第3版
外灯の下を男が通った瞬間、芦沢晋也(あしざわしんや)はそいつがターゲ
ットであることを確認した。夏の夜はゴミ出しのついでにぶらっと散歩するこ
とが常である、という事前情報に間違いはなかった。
(どういうネタで強請っているのか知らないが)
身を隠していた角から出ると、芦沢は息を殺し、自らの影や足音に注意を払
いながらあとを付ける。手には昔、防犯グッズショップで買った警棒。周囲に
は寂れた公園がある程度で、住宅もまばらだ。もう数十メートルも進めば、人
家が全くなくなるゾーンに入る。やるならそのときだ。
芦沢はほんの少し、身震いをした。今さら怖じ気づいたのではない。変に力
が入ってしまっただけだ。首を回し、リラックスを心掛ける。そして集中力を
再度高める。
(代わりにあの野郎を殺してもらうためには、全く知らない人間を殺すのなん
て、容易いことだ)
芦沢は距離を詰めた。手の汗を左右交互に拭ってから、改めて警棒を握り直
す。――今なら届く。絶好の距離とタイミングで、芦沢は凶器を振り上げた。
(喰らえ!)
芦沢は死体を見下ろしながら、どうしてこんなことになったのかを思い起こ
していた。
そう、あれは――いくつかの偶然の重なりがきっかけだった。最終に近い電
車に揺られ、誰も待っていない自宅マンションへと気持ちだけ急いでいた。さ
すがに乗客は少なく、芦沢の座っていた車両にも、他に三、四人程度しかいな
かった。それぞれ間隔をたっぷり取って座っているため、お互いの顔すらよく
見えない。全員が会社員風なのは衆目の一致するところだろう。
芦沢の気が急いていたのは、自宅で一人、計画をじっくり検討し、まとめ上
げたいと思っていたから。工藤小太郎をもうそろそろ始末しないと、我が身の
破滅だ。
大学四年の冬、車同士のちょっとした衝突事故を起こした芦沢は、相手側が
一時意識を失っていた間、同乗者で車の持ち主でもある工藤の申出を受け、身
代わりになってもらった。大手の保険会社に就職が決まっていた芦沢に対し、
工藤は家業の手伝いに収まることになっていた。俺の方はどうとでもなる、お
まえの将来の方が大事だ、借りは出世払いしてくれりゃいいなどと言われ、そ
の気になってしまったのだ。事故そのものは、相手運転手も飲酒していたとい
う負い目があると分かり、示談で済ませた。
事故から二年余が過ぎた頃、工藤から金銭援助の要求があった。言葉にこそ
しなかったが、身代わりの件を盾とするつもりなのは間違いなかった。それで
も少額だからと払ってきたが、際限なく続きそうな不安は感じていた。そして
ふた月前、工藤が金額の大幅な上乗せを求めてきたときに、決意は急速に固ま
った。縁を切るには、奴を亡き者にするほかない。
芦沢は手にした新書を開いた。書店で付けてもらったカバーのおかげで、ど
んな本なのか傍目には分からないだろう。鑑識を始めとする警察の捜査を解説
した書籍である。これを参考に完全犯罪を目論む。芦沢はメモを取りながら、
読み進めていた。
そのとき、珍しくも急ブレーキが掛かり、車両がほんの少し前傾したような
気がした。程なくして電車が停止し、しばしの間を置いてから車内アナウンス
が踏切事故の発生を告げる。この電車そのものが事故に関わった訳ではないよ
うだが、しばらく動けまい。
芦沢が深く嘆息し、時間を無駄にせぬため、ペンを取り出し、本を読み進め
ようとした。
が、開いたページに視線を落とすも、しおりを兼ねたメモ用紙が見当たらな
い。若干、焦りを覚える。あのメモには、使えそうな事柄以外に、標的とする
人物名を記しており、ご丁寧にも丸で囲って「絶対にやる!」と走り書きを添
えてあるのだ。
狼狽を浮かべた表情を自覚しつつ、早くメモを見つけようと足下の床に目を
移す。そこには、茶色をした革靴の先が見えた。
「落とされましたよ」
芦沢よりもずっと年上、五十前後と思しき男性が、眼鏡越しに目で微笑みか
ける。メモ用紙を拾い上げた手を突き出された芦沢は、一瞬遅れて立ち上がっ
た。
「あ、ありがとうございます」
「もしよろしければ、お手伝いをしたいのですが、いかがですかな」
紙を簡単には手放さず、男性は小声で言った。芦沢はメモ書きを読まれたの
だとコンマ数秒で悟った。この紙に書いてあることは冗談だ、あるいは、小説
の粗筋だとでも言えばごまかせるかもしれない。
そう考えた芦沢の心を読むかのように、男性は眼鏡の位置を右手中指で直し
ながら、「これに書かれた内容が冗談だろうが作り事だろうが、関係ない。実
現するために、私が力を貸しましょう」と囁いてきた。
「どういう……意味だ?」
やや語気を強め、しかし低い声で尋ねる。男性の返事は明快だった。
「交換するんです。動機を」
動機を交換――それはつまり、交換殺人?
察した芦沢だったが、すぐには口がきけなかった。相手が本気なのか否か、
皆目見当が付かなかったからだ。それに、乗客の少ない電車内とはいえ、人目
が気になる。
すると、相手の男はまたもや先読みをした。
「電車が動き出したあと、あなたに時間があるようでしたら、次で降りられま
せんか? どこかに腰を落ち着けて、じっくり話したい。防犯カメラのないと
ころでね」
「……あなたが警察関係者でなければ」
芦沢が言うと、男性は懐から名刺入れを取り出し、一枚を見せてくれた。
「このあと交換が現実のものとなったときのことを考え、名刺はお渡しできま
せんが」
殺人志願の中年男性は、阪東朝彦(ばんどうともひこ)という名で、大手薬
品メーカー部長との肩書きを持っていた。
そこからあとは、とんとん拍子に計画がまとまった。顔を合わせる機会は少
ない程よいだろうということで、三度の相談で全てを決めた。互いのターゲッ
トに関する情報を教え合い、それぞれがアリバイを確保できる候補日を挙げた
あと、どちらが先に決行するかを話し合う。結果、まずは芦沢がやることにな
った。
守るべき約束事も定めた。たとえば――万が一失敗し、警察に捕まったとし
ても交換殺人について口を割らぬ。事前に障害が発生して当日決行不可能にな
ったた場合はインターネット大手掲示板に立つ特定スレッドへ、合言葉を書き
込み、その直後に「誤瀑」と書き込む。ともに殺人を完遂し目的を達したあと
は決して連絡を取り合わない等々。
「期日を守ることに関して流動的な要素があるのは仕方がないとして、いざ決
行となると怖じ気づいてなかなか行動に移せないことはないかな。特に、あと
でやる方は。その、ターゲットがいなくなって、憂いは取り除かれた訳だし」
「あなたの懸念は尤もだ」
二度目に会ったとき、芦沢が肝心要の点を口にすると、共犯者(になる予定)
の阪東は嫌な顔をすることなく、何度か頷いた。
「ではこうしましょう。あなたの用意した凶器に、私の指紋なり何なりを付け
るのです。事後、凶器は、私が工藤氏をやるまであなたが保管する。会う回数
が増えるが、それだけのメリットはあるでしょう」
「いい考えだと思う。ただ、それだとこちらが有利すぎないかな。こっちも同
じように指紋を付けた凶器を、そちらに渡すのがフェアだろう」
「いいようにしてください。私は怖じ気づいたり、ずるをして逃げたりしませ
んよ」
阪東は落ち着いた様子で笑みを浮かべた。揺るぎない自信に溢れている。仕
事の上でこんな顔をしてもらえたら、部下はさぞかし頼もしく思えるだろう。
――芦沢の無意識の内から来た回想は、不意に聞こえた物音で途切れた。同
時に手も止まる。今し方殺したばかりの相手の衣服や皮膚に、芦沢自身の痕跡
が残っていないか、チェックはまだ終わっていないが、とりあえずその場を離
れ、公園内の物陰に身を隠す。
およそ一分間、息を詰めて気配を窺ったが、誰も何も通り掛かりはしなかっ
た。さっきの音は気のせい、もしくは野良猫の類がどこかの植え込みをくぐっ
ただけなのかもしれない。
芦沢はそれでも用心して左右を確認し、死体そばに戻る。最終チェックを済
ませて素早く立ち去る。一度だけ振り返り、自身の憂いを早く取り除きたいも
のだと強く思った。
週末の終業時刻を迎え、工藤小太郎は印刷所を早々に出ると、コンビニエン
スストアに向かった。いつものように煙草とガムを購入し、そのまま駅に徒歩
で向かう。事故を起こした(ことになっている)彼は、今でも車を持たせても
らえない。仕事でハンドルを握ることはあるが、まずたいていはお目付役が助
手席にいる。
当人はそれを不満に感じてはいなかった。車がなければ不便なほど田舎では
ないし、おかげで貯金も増えた。一時、ギャンブルにのめり込んだが、大きな
ぽかをやり、穴埋めに四苦八苦したのを教訓にほぼ止めた。今では麻雀をたま
にやるぐらいである。芦沢に対して援助額のアップを言ったのは、その穴埋め
のためだった。そして一回限りのつもりだったのに、相手がずっと増額したま
ま出してくれるものだから、黙って受け取っている。
月に一度の割合で、駅で落ち合い、金を直接受け取る習慣になっていた。今
月分を受け取るまでには、まだ約二週間ある。だから、今夜の“軍資金”は少
し寂しい。
バスに揺られること十五分、定時より若干遅れて駅前のロータリーに工藤は
降り立った。何気なく見上げた駅の時計で、到着がいつもに比べて早かったこ
とを認識する。車の流れがスムーズだと感じてはいたが、五分以上早いとは。
誰と待ち合わせしている訳でもないが、すぐには動き出す気になれなかった。
煙草を吸って、時間を調整する。喫煙所を出ると、馴染みの麻雀店に向かって、
ぶらぶらと歩き始めた。
雑居ビルの三階にある店へは、建物内にある細くて急な階段を使うしかない。
老齢の麻雀打ちが最近姿を見せなくなったのは、エレベーターがないせいだと
いうのがもっぱらの噂だ。
(俺もいつか、階段が辛くなる日が来るんだろうな。そうなるまでには、ギャ
ンブルからすっぱり足を洗いたいもんだ)
薄暗い明かりの下、どうでもいい未来をふと想像した工藤。
その想像が脳裏から消えるか消えないかの刹那、背中に鈍い痛みを覚えた。
痛みの源に手を宛がおうと、身体をねじる。だが、届かない。それよりも一
気に痛みが増して、身体から力が抜けそうになる。階段を踏み外さぬよう踏ん
張り、わざと前のめりに倒れた。
「いてぇ」
声を出すと同時に、第二の痛撃があった。今度も背中だ。何かを差し込まれ
る嫌な感覚。間髪入れず、同じような激痛が走る。
工藤は振り返ろうとしたが、そこへ第三の攻撃を喰らった。目から火花が飛
び散ったような錯覚に襲われる。そしてまたも痛み。頭が割れる、いや、割ら
れたのかもしれない。
右手の指を額に持って行き、ぬめっとした感触を確かめた。流血したんだと
意識する間もなく、続けざまに頭部を何かで殴打された。遠のく意識の中、そ
れでも工藤は相手の顔を見ようと、腕で防御をはかりながら懸命に振り返ろう
とする。助けを呼ぶという発想がなかったのは、死ぬほどではないと感じたせ
いかもしれない。だが、現実には出血の多さと頭部への衝撃とで、立ち上がる
こともままならない。攻撃してくる相手の腕を掴もうとしたが、うまく行かな
かった。顔はよく見えない。革手袋をしているのがどうにか分かった。
次の瞬間、視界が歪んだ。一気に危険の度合いが上がったと察した工藤だっ
たが、叫び声を上げるには遅かった。全身から力が抜けていき、身体が階段を
滑り落ち始めた。ここで初めて、襲撃者が慌てたように飛び退いた。
工藤はステップに血の跡を残しながらずり落ち、狭い踊り場に身体を折り曲
げるようにして横たわった。虫の息の彼に襲撃者は近付くと、枕元にしゃがみ
込んだ。懐からワイヤー状の物を取り出し、工藤の首に回す。そして力を込め
て締め上げた。
絶命を確認すると、黒革手袋の襲撃者は足音を殺して階段を駆け下りた。外
に出ると、駅とは反対方向に、やや足早に歩き出した。
* *
警部の飛井田は、朝から欠伸を連発した。事件続きで、ここのところろくに
眠れていない。複数の捜査班で対応しきれないほど殺しが増加・頻発している
と思うと、憂鬱な心持ちにさせられる。そんな感情を面に出しはしない飛井田
であるが、妻にだけは見抜かれることが多い。そしてそれを理由に、刑事なん
て危ない仕事は辞めるか、せめて内勤に配置換えを希望できないのという話に
なる。注意しなければいけない。
「今分かってることを教えて」
現場に到着した飛井田は、二度ほど一緒にやったことのある若い捜査員を掴
まえ、名前を呼ぼうとしたが、ど忘れしていた。しょうがないので用件だけ伝
えた。
「これは警部、お疲れのところを。ああ、前の事件は鮮やかでしたね。アリバ
イ写真に映った木漏れ日が、日食のそれではないと看破されて」
「過去を振り返るのもいいが、今の事件を早く」
「被害者の名前は工藤小太郎、二十八歳。**にある親の自宅を兼ねた印刷所
勤め。土曜の夜は、この辺を遊び歩くのが常となっていたとか」
「この辺て、このビルは……金貸しにスナックに雀荘か」
「雀荘によく顔を出していたそうです。尤も、今晩はまだ現れていなかったと
いいますから、恐らく、来る途中、階段で襲われてこうなったかと。――あ、
すみません。今のは推測です」
「かまやしない。他には?」
「えー、まだ始めたばかりですが、目撃者はなし。防犯カメラの類もなし。物
音などを聞きつけた者すらなしと」
「階段を転げ落ちたように見えるけど、物音を聞いた者がいなかったのかねえ」
狭い階段を見上げる飛井田。
「はあ。古めかしい建物ですが、案外、防音はしっかりしているようで。それ
に麻雀なんかやってたら、外が多少うるさくても気にしないもんでしょう」
「ふうん。それから?」
「えっと、財布や腕時計など、貴重品類は手付かず。凶器は未発見ですが、刃
物状の何かと紐状の何か、二種類を用いていることからしても、殺害自体が目
的だった、つまり怨恨の線が強いかと、個人的に推測します」
「自分も同意見だ。被害者はここまで、車か何かで来たのかな? それとも電
車かバスで駅まで来て、あとは徒歩か」
「バスで駅に到着後、気分次第で行き先を決めてたようです。今日も同じ流れ
だったかと」
「駅やその周辺には防犯カメラが設置されてるだろうから、被害者の行動はあ
る程度把握できそうだな。不審者が映ってるかもしれんし。すぐに押さえとい
てくれ」
「了解です」
「ああ、遺体そのものの情報は、何も聞いてないんだな?」
今にも走り出しそうな岡林――やっと思い出した――刑事の背中に、念のた
め聞いた。「はい。飛井田警部ご自身でお願いします」と返事があった。
飛井田は次に、馴染みで古株の鑑識課員に声を掛けた。
「なーんもない」
遺体の近くにしゃがんで下を向いたまま、相手は応じた。首を横に振った彼
を見下ろしながら、飛井田が促す。
「何もってことはなかろう」
「足跡がいくつかあるが、発見者他多人数の分が乱れていて、判別が困難だ。
仏の身体の上に何本か髪の毛が見つかったんだが、これも通報者が最初に見つ
けて覗き込んだときに、落とした可能性が高いようだ」
「そういえば、第一発見者ってのはどんな人だい? 会えてないんだが」
「俺も会っちゃねえが、茶髪の女だと聞いた。知り合いの男に連れられて、初
めてここに来たそうだ。はしゃいで階段を駆け上がろうとした途端、死体と出
くわして腰を抜かし、足を挫いたとか言ってるのを耳に挟んだ。で、今、病院」
なるほど。発見者がこの場にいない理由が分かった。
「犯人につながる手掛かりかどうか別にして、気になることはない?」
「見つけてたら言うよ。被害者はよほどの不意を突かれたらしいな。まともに
抵抗できていない。防御で精一杯、それも効果はなかったとしか言えん」
「犯人との体格差が大きかったということかな?」
「かもしれんし、違うかもしれん。こんだけ狭い場所なら、不意を突かれりゃ、
まともに反撃できない内に終わってしまう可能性、大いにありと思うね、俺は。
さあ、何もないってのが分かったろ。今はあきらめて、ちゃんとした報告を待
っといてくれよ」
「分かった。だが、何もないってのは嘘だな」
飛井田が意味ありげに言い、笑みを作っていると、鑑識員は怪訝そうな半眼
で振り返った。
「はあ? 何か掴めたというのか?」
「ああ。確実に言えるのは、犯人は超肥満体型ではないってことさ。狭い階段
をスムーズに動けないからな」
「――確かに」
呆れたとばかりに嘆息する鑑識員だったが、その口元には笑みが浮かんでい
た。
工藤小太郎の死亡推定時刻は、土曜の午後六時前後と見立てられた。死因は
窒息死だが、絶命前に負った刃物傷も相当深く、仮に首を絞められなくとも、
助けが来なければそのまま失血死を迎えていただろうと推測された。
駅及びその周辺に備え付けてある防犯カメラの映像について、この午後六時
前後を中心に、チェックが行われた。結果、被害者はバスを降り、真っ直ぐに
雀荘へ向かったと思われた。そして被害者を付ける怪しい人物は……見当たら
なかった。少なくとも、防犯カメラの映像には、不審者の姿はなかった。
動機面を当たることになった飛井田警部は、すぐさま一人の男に着目する。
芦沢晋也だ。被害者と同じ大学の同じサークルに属し、それなりに親交があっ
た等の関係が判明するのは、後のこと。最初に芦沢の名を知ったきっかけは、
工藤が残した備忘録めいたノートの一文だった。そこには、工藤が芦沢の起こ
した交通事故の身代わりをし、それと引き替えに金を定期的に受け取っている
旨が書いてあった。
「――とまあ、かようないきさつで芦沢さん、あなたを訪ねたんです。ロビー、
出ましょうか」
「え、ええ」
勤め先の自社ビル、一階ロビーで刑事の来訪に応じた芦沢だったが、飛井田
が話す内にそわそわと落ち着きがなくなった。飛井田が場所の移動を提案する
と、すぐに飛びつき、近くのホテルのレストランに向かった。
「もうすぐ昼休みで、他の社員が利用するのでは?」
「いえ、ここは高いから、多分、誰も来ないでしょう。それよりも刑事さんは、
私を交通事故のことで捕らえに来たのですか?」
「あなたが望むなら、そうしてもよいですが、幸か不幸か、工藤さんのノート
には何年前の事故なのかは記されてなかった。本腰を入れて調べればすぐに特
定できるとは思いますが、今、我々が抱えているのは殺しでして、優先順位は
自ずと決まってくるというものでしょう」
「私をお疑いですか? 工藤に金を渡してきたことは認めますが、曲がりなり
にも感謝の念からです。あいつを殺す気なんて、これっぽっちも持ってません
よ」
「どのぐらいの額をお渡しになったのか、聞いてみませんとね」
「月数万。微々たる額で現在の安寧が保てるのだから、高いとは思っていなか
った」
「金額の明細というか記録、付けてないですかね」
「そんなこと、するはずがないでしょう。工藤だってしていなかったはずだ。
金の受け渡し行為そのものをノートに書いていたとは予想外でしたけど」
芦沢の返答に飛井田は頭を掻き、質問を変えた。
「アリバイを聞かせてください。犯行時刻、芦沢さんはどこにいたのか、それ
がはっきりすれば疑いは即晴れますよ」
飛井田は質問を投げたあと、すーっと黙ってみせた。しばらく経ってから、
芦沢が「……いつですか、工藤が死んだのは」と尋ね返してきた。芦沢が犯人
だとしても、さすがにこんな古典的な罠には掛からないようだ。
「先週土曜の午後六時前後とでています」
「先週土曜の夜六時頃なら……会社は休みだから、どこかに……ああ」
急に表情を明るくした芦沢。ジャケットのポケットを左右とも探り始めたか
と思うと、左ポケットからマッチ箱を取り出した。赤と白の縞模様に、青い片
仮名何文字かが横方向に踊っている。
「“アンデス”という名のバーですか。当日の六時前後、この店にいたという
証拠はありますか?」
「夕方の五時過ぎから入り、八時頃までいた。飯も頼んだし、店の人が覚えて
いると思う。バーテンダーが一人いたきりで、他に客はいなかったと記憶して
いる」
「馴染みの店ですか」
「いや、初めて入った。外からは古びた感じだったが、中は結構明るくて、居
心地はよかった。あ、思い出した。電球を取り替えてやったよ。店を入って右
手奥のやつ」
「ほう」
「バーテンダーが腰を悪くしているとかで、頼まれましてね。代わりに、何だ
ったか、つまみを一種類サービスしてくれた」
「腰を悪くしたのなら、店を休めばいいのに、仕事熱心ですなあ」
嫌味を効かせて飛井田が言うと、芦沢はややむっとした顔付きになり、「疑
うんなら、直接行って調べてみればいい」と吐き捨てるように言った。飛井田
は鷹揚にうなずいた。
「無論、そのつもりです。あっと、マッチ箱もお借りしてよろしいでしょうか
ね」
「どうぞっ。差し上げますよ」
追い払いたい一心の表れか、芦沢は甲を上にして手のひらを前後に振った。
スナックバー“アンデス”のオーナー兼バーテンダーは、保田大聖(やすだ
たいせい)といった。四十九歳になるらしいが、身体は痩身ながら筋肉質で、
継続的に鍛えているようだ。若い頃はかなりもてたであろう顔立ちに、いらっ
しゃいと出迎えた声も渋い。店構えにしても、趣味のよい内装をしている。駅
からやや離れているものの静かに過ごせると考えれば、もっと流行っていてよ
さそうな店だ。
「確かにこのお客さんでしたよ」
「間違いない?」
芦沢のアリバイ確認のため、その写真を見せた飛井田は、念押しした。
「ええ。初めての方ですが、料理を多めに摂られたことと、電球を取り替えて
くださったこととで、よく覚えています」
如才ない受け答えというのだろうか、保田は滑らかな口調で言うと、左手で
一つのライトを示した。芦沢の言っていた、入って右奥にある電球だ。
「あそこの電球です」
飛井田は無言で首肯し、同行の鑑識員に指紋の採取を頼んだ。
「結構高い位置にありますね。当日、芦沢さんは踏み台か何かを使ったんでし
ょうか」
「確か……そちらの席の椅子のどれかをお使いに。もちろん、靴を脱いで」
バーテンダーが指差した先には、複数のテーブルとそれぞれ二脚ないし四脚
の椅子が並んでいた。
「どの椅子だったか、分かりますか」
「いえ、さすがにそこまでは。それに刑事さん、指紋をお調べになるつもりで
したら、無意味だと思います。椅子やテーブルは営業時間終了後、きれいに拭
くことにしていますから」
「でしょうな。電球は拭いてないでしょうね?」
急に不安に駆られ、飛井田は聞いた。つい、天井を指差す。
「はい。電球を拭くのは、二週に一度程度の割合でしょうか。ライトの傘は、
最低でも週に二度は拭いていますが」
「ああ、そうでしたか……」
あからさまに残念がる飛井田。電球に被せてある傘にも、芦沢の指紋が付い
ていることを期待していたのだ。
「当然、グラスや箸なんかも洗うなり、処分されるなりしたんでしょうな」
「そうなります」
「ボトルを入れる、なんてこともしてないと」
「次の機会にとおっしゃっていました」
保田は答えてから、「差し支えなければ、あの男性がどんなことで疑われて
いるのか、教えてもらえませんか」と聞いてきた。今日、警察が訪れることは
事前に連絡を受け、店を開けて待っていたが、その詳細はまるで知らされてい
ないのだ。
「殺人事件なんですが、まあ、芦沢さんの無罪を証明するための証言ですから、
あなたは気にすることなんて全然ありません」
「殺人なんですか。早く無関係であることが証明されるとよいですね。ほんと、
あの人はよい人でしたから」
事情を飲み込めてすっきりしたのか、バーテンダーの保田はほっと息をつい
た。それから腰に手を宛がい、うんうんと唸りながら伸ばす動作をする。
その様を見て、飛井田は思い出した。
「そういえば、腰を悪くしていたとか。店を営業時間外でも開けてもらえると
言うから、もう治っているのかと思ってましたよ。どうもすみませんね」
「いやいや、そんなに酷くはないんですが、慢性化していましてね。気を張っ
ていればどうってことありません。ただまあ、今日も開けるかどうか、迷って
いたのは事実です」
「というと? ああ、座ってかまいませんよ」
鑑識の作業を見守りつつ、会話も続ける飛井田。保田は手近の椅子に腰を下
ろした。
「この芦沢というお客さんが来た翌日から、調子が悪くなって店を閉めていた
んです。先ほど言った、ライトの傘を拭いたあと、本格的に……」
「では昨日までの三日間は、閉店状態だった訳か」
これが事実だとすると、事件後に芦沢が店に来て電球を取り替えるなどした
(日付はバーテンの勘違い)という線は、あり得ないことになる。芦沢の来店
翌日から店を閉めていたとの記憶は、まず間違いないだろうから、事件前の記
憶と勘違いしている可能性もない。
飛井田は芦沢のアリバイ成立を感じ取りつつあった。
バーの電球から採取された指紋は、芦沢晋也のものに相違なしと証明された。
指紋の付着具合も、電球交換時に付いたと見なして何ら不自然ではなかった。
芦沢に容疑をかけ続ける理由は最早、他に有力な容疑者が見当たらない、それ
だけでしかない。
細かな疑問点を挙げることは可能だ。偶然の過ぎるのだ。工藤殺害の時刻に
たまたま初めてのバーに入ったところ、たまたま電球の取り替えを頼まれる等
して印象に残り、アリバイが成立。
「締め上げたいのなら、昔の交通事故の件で引っ張れなくはない」
上司や同僚の中にはそんなことを言い出す者もいたが、別件逮捕は飛井田の
やり方ではなかった。被疑者をコントロールする材料として用いることはあっ
ても、直接的に別件逮捕し、尋問を延々と続けるのは性に合わない。
捜査会議後、岡林とともに凶器捜しの応援に回るよう言われた飛井田だった
が、まだあしざわについて執着していた。廊下に出たとき、俯きがちになって
いた彼に、知り合いの声が届いた。
「苦戦しておるようだねえ」
「何だ、深水(ふかみず)か」
面を上げた飛井田は、昔からの同僚にため息をこぼした。深水とはそりが合
わない訳ではないが、二人とも様々な可能性を思い付き、追う傾向が強い。飛
井田と深水を組ませると際限なく捜査しなきゃならなくなる、と言われたほど
だ。
「そんな顔をするな。おう、岡林。こいつと組んで、勉強になってるだろ」
岡林が「はい」と返事するのももどかしいとばかり、深水はまた飛井田に話
を向ける。
「関係あるかどうか知らんが、ちょっとした情報を持って来たんだ。ありがた
く聞けよ」
「聞いてやろう」
「おまえがこの間、話を聞きに行った保田ってバーテンな、少し前にやっぱり
捜査一課の刑事が話を聞きに行ってるんだよ」
「本当か? 初耳だ」
目を見開く飛井田に対し、深水は面白そうに目を細めた。尤も、深水の目は
小さいので、細くしているのかどうか、非常に分かりにくいのだが。
「知らなくて当然。管轄は同じ署でも、別の殺人事件でのことだからな。三週
間ぐらい前に発生した、まだ捜査中の吸血殺人さ」
「ああ、あれ。吸血ってのは大げさだ。被害者女性の腕から、注射器で血液を
少し抜き取った痕跡が認められたってだけだろうに」
「分かり易かろう。その被害者、食堂経営の女が、保田って奴とは元男女の関
係にあったため、話を聞いたようだ」
「で、保田への嫌疑は晴れたんだな」
「殺すような動機があったのかは知らんが、アリバイが成立したんだと。事件
が発生した日は、常連客数人とクルージングに出掛けてたとさ。何でも、馴染
み客の一人に土建屋のおやじがいて、大型クルーザーを所有できるくらい儲か
ってるとかいう話だ」
「当然、殺人は陸で起きたんだな。……常連客の中に、芦沢晋也がいたとかだ
ったら、話は楽なんだが」
実際のところ、いくら調べても芦沢と保田が以前から知り合いであった形跡
は出て来ない。
「でも、何だか変だな。あのバーテンダー、三週間ほど前に別の事件で刑事の
訪問を受けたなら、そのことを口にしてよさそうなもんだ」
「触れられたくない何かがあるんじゃないですか」
黙って聞いていた岡林が、気負い込んだ口ぶりで言った。
「たとえば、実は連続殺人であるとか」
「しかし、保田にはアリバイが――ああ、そうか」
飛井田は自分の表情が明るくなるのを感じた。情報をもたらしてくれた深水
の肩をぽんぽんと叩き、「ありがとよ」と礼を言う。
「閃いたか。そりゃよかった」
深水が立ち去るのを見送ってから、今度は岡林にも労いの言葉を掛ける。
「おまえさんの意見が参考になった」
「そうですか? アリバイは……」
きょとんとする岡林。目をしばたたかせる様が、愛玩犬のようだ。
自分で言っておいて、信じていなかったのか。飛井田は呆れつつも、辿り着
いた仮説を披露してやった。
「この件、交換殺人かもしれん」
* *
芦沢は跳ね起きると、寝床で荒い息を吐いた。心臓がどくどくと脈打ち、胸
が勝手に上下する。大量にかいた汗で、寝巻きが肌に張り付いていた。
枕元の時計を見ると、時刻は午前三時過ぎ。こんな夜中に目が覚めたのは、
ここしばらく繰り返し見る夢のせいだ。
「もう何度目だよ……」
それは、芦沢にとって悪夢としか言いようがなかった。
交換殺人の共犯である阪東が、顔を真っ赤にして「早く殺せ、早く殺せ」と
要求してくる。夢の中の阪東は、最初こそサラリーマン然としたスーツ姿だが、
すぐに異形の姿に転じ、まるで蘇った死者のごとく血をまとい、おぼつかない
足取りでゆらりゆらりと芦沢に迫ってくるのだ。
最後に出会ったときのことが思い起こされる。ともに紺のスーツに身を包み、
もし第三者の目があったとしても、ビジネスマン同士のやり取りに見えたであ
ろう。その記憶が、悪夢という名のフィルターを通して、赤く染まる。
「殺しは……交換殺人終わったのに、どうしてこんな夢を見なくちゃならない
んだっ」
吐き捨てた芦沢は、毛布を被って寝入ろうとしたが、依然として興奮が続い
ており、眠れそうにない。あきらめて再び身体を起こすと、寝床を離れ、浴室
に向かった。
――続く
#408/598 ●長編 *** コメント #407 ***
★タイトル (AZA ) 12/05/28 00:01 (488)
飛井田警部の事件簿:コンプレックスな殺人(下) 永山
★内容 18/07/06 03:14 修正 第3版
* *
これまでに数々の実績を上げている飛井田だが、本件において、交換殺人説
はまだ確証のない単なる仮説に過ぎない。上に進言してもまともに取り合って
もらえそうにないと判断した。凶器捜しは岡林に任せ、個人的な捜査に着手し
た。単独で、芦沢と保田の関係を念入りに調べる。
ただ、一方で気になる点もあった。
AとB二人で行う交換殺人は通常、AがBの標的を殺す間、Bは遠方で大勢
の人間と顔を合わせるなどして絶対確実なアリバイを用意、次にBがAの標的
を殺す間、Aが同様にアリバイを作るものだ。仮に芦沢と保田が交換殺人の契
約を結んだとして、保田は先のセオリーに見事に当てはまるものの、芦沢の方
が些か変だ。芦沢のアリバイを共犯の保田が証言しても、絶対確実なアリバイ
にはならない。関係を暴かれることはないと高を括っていたのだろうか? い
や、交換殺人を行う共犯を得たのなら、完璧なアリバイも楽々確保できる。そ
うしない理由がない。
とにもかくにも、芦沢と保田が交換殺人を行ったという仮説を実証するには、
最初に突破すべき関門がある。約三週間前の殺しについて、芦沢にアリバイが
あっては、成り立たない。飛井田はまずそこから当たった。
その事件は週末、土曜の夜に起きた。被害者の名は残間朱美(ざんまあけみ)
といい、絞殺されていた。食堂は大繁盛とまでは行かずとも、従業員を何名か
雇い、残間一人が暮らすだけの儲けは出ていた。残間は離婚を経験しており、
夫の手に渡った一人息子と会うため、この土曜日は店を休んだ。そして帰宅し
た途端、襲われたらしい。時刻にして午後八時から十時の間。
「つかぬことを伺いますが、芦沢さん。三週間前、いや、もう四週間になりま
すか、土曜の午後八〜十時までの間、どこでどうされていました?」
「いきなりだな、刑事さん」
日曜の自宅で、刑事の再訪問を受けた芦沢は、言葉とは裏腹に、落ち着いた
様子で手帳を取り出した。ページを静かに繰り、ほどなくして目的の箇所を見
つけたようだ。手のひらで押し広げ、そのページを飛井田に示しながら続けた。
「ここにありますように、その日はデートをしていました。同じ会社の地井夏
穂(ちいなつほ)さんとね」
「その方の連絡先、お教え願いますか。また会社に行って迷惑掛けたらまずい
でしょうから」
「うーん、隠れて交際しているんじゃないが、まあ、会社に来られるよりはま
しかな。いいでしょう」
飛井田は芦沢から地井夏穂の連絡先を聞き、メモに取った。
「デートコースは?」
芦沢の答を聞いて、飛井田は渋い顔をした。芦沢の言うことが事実であれば、
アリバイが成立してしまう。落胆を隠し、念押しに掛かる飛井田。
「信じない訳じゃないんですが、恋人の証言だけでは、アリバイとして弱いの
もお分かり頂けると思います」
「ちょっと待ってください。何の事件なんですか。その日その時刻に何が起き
て、私が疑われてることになったのか、教えてもらいたいですね」
「そう深刻に受け取らんでください。私は今日、疑いを晴らすために来たんで
すよ。いえね、現場で目撃された不審者の容貌が、何となく芦沢さんに似てい
る感じがしたので、一応調べておこうと思ったまでで」
目撃者がいた云々は、もちろん飛井田の出任せである。
芦沢は訝しげに刑事を見つめ、鼻を鳴らした。
「この間の殺人事件は解決したんですか。工藤を殺した男を捕まえたなんてニ
ュース、ありませんよね?」
「はい、面目ない。手間取っております」
「あの事件を放り出して、別の事件を調べているというんですか?」
「そういう訳でもないんですが、二つの事件に関連があるかないかも含めて、
鋭意捜査中という次第です」
「ふん。はっきりしない言い種だ」
「全部の情報を明かせる訳じゃないんで、ご勘弁を。それよりも芦沢さん、あ
なたさっき、面白いことを口走りました」
飛井田は語調を変えずに言ったが、芦沢は「え?」と微かな動揺を見せた。
「何か言ったかな」
「『工藤を殺した男を掴まえたなんてニュース』と言いました。私、しっかり
聞いていましたよ。殺した男とね。どうして男だと思うんです?」
「そりゃあ……ニュースからの印象でつい。大人の男を何度か刺して、首を絞
めるなんて、普通の女には無理だ」
「そうとも言い切れんのですが、まあいいでしょう。最初の質問に戻らないと。
地井夏穂さん以外に、アリバイを証言してくれる人物はいませんか?」
「繁華街を歩いたから、そこいらの防犯カメラに映り込んだと思うが、そうい
うのではだめなんですか」
「だめじゃあないが、手間と時間が掛かる。できれば違う方法で」
「……そういえば、二人で入ったレストランで、出された料理にクレームを付
けたな。サラダの味付けが辛すぎて。どうやら間違って塩を大量にふってしま
ったらしい」
「なるほど、店の人が覚えていそうだ」
レストラン名を聞き出し、これもメモ書きする飛井田。手帳越しに芦沢を観
察すると、わずかに覗いた動揺は早くも消えており、その表情は余裕の笑みを
浮かべているように見えた。
調査の結果、残間朱美殺しにおける芦沢のアリバイは成立した。昼過ぎから
地井夏穂を相手にデートをし、夜の十時過ぎまで一緒にいたことは確実で、レ
ストランでの一件も、その店の授業員から肯定する証言を得た。
唯一、飛井田の頭に引っ掛かったのは、レストラン従業員が不満そうに漏ら
した話である。曰く、「サラダにはドレッシングを掛けるだけで、他の調味料
を掛けることは絶対にない。誤って偶然掛かるような場所に塩を置いてもいな
い。だから最初、塩味が濃すぎるというクレームは代金を安くさせる悪質な手
口かと思ったのに、お詫びと説明をするとすぐに納得した様子で、正規の料金
を払ってくれたから、妙な感じだった」という。
(芦沢はアリバイを確固たるものにすべく、第三者の印象に残る行動を取ろう
とした。予め用意しておいた塩を、密かにサラダに振り掛けたのではないか)
飛井田の脳裏から、芦沢への疑いはなかなか飛び去らなかった。
(そう考えると、工藤殺しのアリバイとして、スナックバーで電球を取り替え
たというのも、怪しく感じられる。ただ、電球の取り替えを言い出したのは、
店のバーテンからだったのが、辻褄が合わない気もするが……)
飛井田の沈思黙考は、年若い部下の声によって破られた。
「警部、もう限界ですよー」
「ん? 何が」
警察署の廊下、長椅子に腰を下ろして考え込んでいた飛井田は、目の前に立
つ岡林に聞き返した。
「凶器捜しの報告のことです。ごまかすのも限界」
「ああ、そうだった。すまん」
大先輩からストレートに頭を下げられ、岡林は戸惑いも露わに、返答に窮し
た。
「ま、まあ、いいんですけど。それよりか、交換殺人の線は固まってきたんで
すか?」
「うーん、証言を集めるとむしろ薄くなってるんだが、俺の疑ってる奴がちょ
こちょこ妙な行動を取ってることも分かって、その意味では固まりつつあると
も言える。一進一退だな」
「それじゃ困ります」
泣き顔のように表情を崩す岡林。飛井田は彼に、まあ座れと促した。そして
芦沢が誰かと組んで交換殺人をしでかしたのではないかという説を、今までに
判明した事柄を含め、余すことなく伝えた。
「どう思う? バーテンの保田が前にも殺人事件の聴取を受けたと聞いて思い
付いたんだが、その保田自身にアリバイ証言をさせたんじゃあ、交換殺人では
なくなる。全く別の共犯がいるとしか思えないんだが、手掛かりがない」
「そうですね……少し気になったといえば気になったことが」
顎に手を当てて考えていた風の岡林は、そのポーズを解くと、飛井田に向き
直った。
「残間殺しと工藤殺しそれぞれに、芦沢がアリバイを用意していたことが気に
なります。この内、動機があるのは工藤殺しだけ。なのに残間殺しにもアリバ
イがある。しかも、どちらかというと残間の事件の方のアリバイこそ、工作し
た匂いが強い」
「残間朱美の事件に関するアリバイは、芦沢の意志一つでできることは俺も気
が付いていた。しかし、それだけでは突破口にならん」
「何て言えばいいのか……そう、交換殺人が起きたんなら、荷担した者はそい
つが殺人役を受け持った事件に関しては、アリバイがない。だが、芦沢には二
件ともにアリバイがある。ここがおかしいんです」
岡林の指摘に、飛井田は微かながら光を感じた。腕組みをして考え直す。
「なるほどな。ということは、だ。少なくとももう一件、交換殺人の枠組みの
中で殺しが起きているかもしれん訳だ。そしてその殺しこそ、芦沢自身が手を
下しており、奴はアリバイを持っていない」
三名以上の犯人による交換殺人。いや、計画が漏洩する危険を考慮すれば、
三名が限度ではないか。とりあえず、三人の人間が殺意を持ち寄ったという前
提に立とう。
「これが当たっているとしたら、芦沢は自分が動機を持つ事件以外にも、用心
してアリバイを用意したことになる。他の共犯二人も同じように、アリバイを
二つずつ確保したに違いない」
「今判明しているのは、残間朱美と工藤小太郎殺しのだけです。関係者の中か
らええっと、残間殺しの動機を持つ者で工藤殺しのアリバイがない者をピック
アップすれば、突破口になるかもしれませんね」
岡林の意見に、飛井田はしっかり頷き返した。
「だめだ。行き詰まった」
思わず声に出す飛井田。斜め後ろでは、岡林が疲労感を漂わせ、背を丸くし
て歩いている。
残間朱美の殺人事件を担当する刑事に訳を話し、被害者に殺意を持っておか
しくない人間のリストをもらった。そこには五人の名前が挙がっていたが、全
員に工藤殺しのアリバイが成立すると分かったのだ。
「元夫、辞めさせられた従業員、元彼氏の保田、トラブルを起こした客二人。
みんなアリバイがあるとは、予想外でした」
岡林は×印の並んだリストを、忌々しげに眺め、手帳に挟んで閉じた。
「外れだったんですかねえ」
「……」
「警部?」
返事がないことを気にして、岡林は飛井田の隣に追い付いた。狭い歩道故、
なるべく並ばないようにしていたのだが。
「五人の中で、特徴的なアリバイの奴はいないかを考えていた」
聞こえていなかった訳ではない飛井田は、岡林をテストすることにした。
「おまえさんは、誰だと思う? 五人の中で一人だけ特別なアリバイの奴を選
べと言われたら、どいつにする?」
「考える時間をください……そうですねえ、保田、になりますかね」
「だよな。芦沢と接している。工藤殺しにおける芦沢のアリバイを証明したこ
とが、保田自身のアリバイ証明にもなっている。芦沢が店を出たあと、他の常
連客が来店し、保田と会話したというから確実性は極めて高い。いや、高く見
える」
「見えるってことは」
「交換殺人に拘りすぎたのが失敗だったかもしれん。芦沢と保田が共犯で、芦
沢は殺したい相手である工藤を直接自分の手で殺した。保田はアリバイ証言を
してやっただけ。そう考えれば筋は通ってくる」
「しかし、電球が。交換した電球から、芦沢の指紋が検出されています」
「そんな物、前もって外した電球に芦沢が触れば済む。保田は芦沢の指紋を消
さないよう、慎重に電球を取り替えりゃいい。マッチ箱は論外だしな」
「あ」
飛井田の唱えた単純な偽装工作に、岡林はぽかんとしていた。単純だが効果
的な細工と言えよう。
「仮にそうだとしても、まだおかしなところはありますよ。残間朱美を殺した
のは誰かっていう問題が。芦沢と保田にはアリバイがあるんですから」
「残間の事件は無関係という可能性もなくはない。が、芦沢のアリバイが作為
的であることから、関係ありと見なすのが妥当だ。そうなると、やはり三人共
犯による交換殺人説が浮上するんだが……芦沢の工藤殺しにおけるアリバイが、
共犯の保田による証言というのが、いびつでおかしな印象を与えてくれるんだ
よな」
「とりあえず、整理してみましょう」
岡林は手帳の新たなページを開き、地や図を書き出した。
「三人の共犯が大前提。芦沢と保田ともう一人、Xによる交換殺人。Xが殺し
たい相手をYとすると、Xは残間を殺し、保田はYを殺し、芦沢は工藤を殺し
た。……やっぱり変ですよね、これ」
「だから何度もそう言ってるだろう。芦沢は自分の殺したい奴を殺し、アリバ
イ証言を保田に頼んだことになっちまう。保田とXだけが交換殺人を実行し、
芦沢は別口でアリバイ証言してもらったのか? どうしてそんな差を付ける必
要がある?」
「先を急ぐ前に、他の組み合わせも考えてみませんと。ええーっと、他にあり
得るのは……芦沢がYを殺し、Xが残間を殺し、保田が工藤を」
「それもない。工藤が殺された時間帯、保田にはアリバイがある。証人は芦沢
以外にも店の客がいるから、より確実だ」
飛井田のだめ出しに、岡林はそれでもなお考えようとしていたが、すぐにあ
きらめた。まともな交換殺人を想定する限り、実行可能な組み合わせはもうな
い。
「こりゃあ、保田が芦沢に対して、有利な立場に立ててるとしか思えなくなっ
てきました」
音を立てて手帳を閉じ、内ポケットに仕舞い込んだ岡林。飛井田は意を留め
た。
「有利?」
「だってそうでしょう。いびつといったって、歪んでる方向は一緒じゃないで
すか。芦沢だけが貧乏くじを引いている」
「……そうだな」
飛井田は頭の中で素早く検討し、納得した。三人による交換殺人だとしたら、
芦沢だけが自身のターゲットを自身の手で始末したことになるし、保田と芦沢
二人だけの共犯なら、芦沢一人が手を汚したことになる。
「芦沢に対し、保田が強く出られる理由があればいいんだが……そもそも、芦
沢と保田が以前から知り合いだったという証拠は全くない。知り合って間がな
い内に対等な共犯関係が成立するのならまだしも、一方がもう一方を意のまま
に動かせるほどの力関係が成立するとは、考えづらいな。よほどの大恩か負い
目を感じるようにという催眠術でも掛けたのか、保田は」
飛井田は他愛ない想像を口走り、自嘲の後、首を捻った。光明を見た気がし
ていたが、針路が明確になる前に、またも暗礁に乗り上げてしまったようだ。
思考を一時中断し、頭を休めると、周りの物音や声が耳に入るようになった。
若い婦警二人の甲高い声でのお喋りが、ややうるさく聞こえる。
「――何でこういうことするかな〜」
「お返しだよ。前にエイプリルフールのことを根に持って、つまらない嘘をつ
くから」
「あの嘘はそれこそ四月ばかのお返しのつもりだったのに」
「それなら四月一日の内にやりなよ。過ぎてから仕返しされたら、エイプリル
フールの意味がないじゃない」
「そう言われると、言い返せない……」
婦警達は左から右へと廊下を渡っていった。
飛井田は岡林に言った。
「今の会話、聞いてたか」
「え? いやまあ、何となくなら耳に入ってましたが、それが何か」
「負い目ってのは、相手に同じようなことをして、切り返されたときにも感じ
るもんだなと思ってね。事件に当てはめてみると、ちょっと面白い」
「当てはめるって、どうするんです?」
皆目見当が付かないという風に、首を傾げた岡林。飛井田はあくまで想像に
過ぎないがと前置きし、答えた。
「芦沢と保田は当初、組んではいなかった」
「そりゃそうですよ。何かのきっかけで知り合って、交換殺人の約束を交わし
たんでしょうから」
「そういう意味じゃない。芦沢は他の誰かとの間で交換殺人に合意し、保田を
殺そうとした。こう考えてみろ」
「何ですって?」
「保田を殺そうとするも反撃に遭い、組み伏せられた上で全てを白状させられ
たんじゃないかということだ。芦沢が極平均的な身体付きなのに対し、保田は
中年にしてはかなり鍛えているようだった。充分あり得るだろう」
「芦沢と保田がやり合えば、保田が勝ちそうなのは分かります。でも、元々、
芦沢が別の奴と組んでいたというのは……」
「現段階では想像なんだから、気にせんでいい。保田に全部白状した芦沢は、
弱い立場に置かれる。交換殺人だとしたらいびつに見えていたが、これが理由
だ。保田が芦沢に『警察に通報されたくなければ、俺の命令を聞け。俺を殺そ
うとした奴を殺せ。おまえが殺したい奴をやるときにはアリバイを偽証してや
る』とでも言ったとすれば、芦沢は保田に乗り換えるんじゃないか」
「……辻褄は合ってきた気がしないでもないですけど、芦沢に保田を殺させよ
うとした人物って誰でしょう? そいつは芦沢に殺されたんだとすると、残間
朱美ではありませんよね。彼女が殺されたとき、芦沢にはアリバイがあります」
尤もな疑問が提出され、飛井田の滑らかな“演説”にブレーキが掛かった。
「この説を捨てるのは、まだ早い。考えてみよう。芦沢が当初組んでいた人物
をZと呼ぶぞ。Zは残間朱美ではない。また、残間朱美を実際に手を下して殺
したのは芦沢でも保田でもない。交換殺人に関与する人物がこれだけだとする
と……残間朱美を殺害したのはZしかいない」
「変ですよ。Zは芦沢と交換殺人の約束をしたんだから、工藤を殺すように言
われたはずです」
「……いや、まだだ。保田殺しをしくじった芦沢が、何らかの理由を作って、
ターゲットを工藤から残間に変更すること及びZが先に殺害を決行することを、
Zに承知させたんじゃないか? そして残間が殺されたのを確認したあと、芦
田がZを始末した」
「……筋は通りそうです。問題は、そのZの正体がさっぱり掴めない点で」
「たった今思い浮かんだ仮説だ。調べてみなきゃ分からんよ」
「ですが、前にも増して突飛もない構図じゃありませんか? 現時点じゃ捜査
方針のメインになりようがないでしょうし、情況証拠の一つでも出せれば別で
すが、その取っ掛かりがなくちゃあ」
「若いのに、否定的な見方ばかりよくできるなあ。いいかい、取っ掛かりは見
つけてる」
飛井田は岡林を指差し、諭すように言った。
「Zは保田に殺意を持った人物だ。これで充分だろう、取っ掛かりには」
「最初に閃いたのは、ルートの交差でした。芦沢さんの勤め先である保険会社
と、保田さんが以前勤めていた薬品メーカーの本社ビルとは、距離こそ離れて
いるが、通勤ルートを思い描けば交わり、重なる部分がある。いや、無論、社
員個々人によって違うし、時間帯も考慮しなければいけません。それでも、保
田さんの元同僚が、芦沢さんと顔を合わせる確率は結構あると判断しました」
飛井田は関係者を前に、ことここに至った経緯を流暢に述べていた。
「そこで、保田さんと特に親しかった社員のリストを作ってもらい、芦沢さん
と顔を合わせておかしくない人達をピックアップした。この時点で五名程度に
絞れました。次に、五名の内、最近何らかのトラブル、悪くすれば死亡してい
るような人はいないかと探したところ、お一人、条件にぴたりと合う方がいた。
残間朱美さんが殺されてから二日後に、阪東朝彦という方が会社を無断欠勤し、
今も行方不明と分かりました。我々警察は、この人物について行方を追うとと
もに、会社の方々に徹底的に聞き込みました。すると、匿名の文書という形で
はありましたが、ある秘密を打ち明けてくれた方が出たのです。その文書によ
れば、保田さんは在職中、横領を重ねており、そのことが発覚したため、辞め
ることになったと」
飛井田の眼差しをまともに受け止めた保田は、若干、顔を逸らした。だが、
特に動揺はない。ばれてしまったか、といった程度の感情らしい。
「事実でしょうか?」
「ああ。どのような名目で処理されたかは忘れたが、横領が元で辞職したのは
事実だよ」
店での応対とは違い、保田はぶっきらぼうな調子で応じた。
横領されたのは表沙汰にできない類の金だったのか、はたまた別の事情があ
ったのか、会社側は訴えることなく内々に処理が行われ、保田は早期退職扱い
になった。以来、横領事件の秘密は守られていたが、阪東の行方不明や、こと
は殺人に及ぶと捜査員が匂わせたことにより、警察に話す者が現れた訳だ。
「ところが、文書はここで終わりません。極一部で囁かれた噂との注意書き付
きですが、実際に横領を主導していたのは保田さんの上司だった阪東さんであ
り、発覚時、保田さんが全てを被る形で辞めたのが真相とされています」
飛井田が再び確認の意味で視線を向けたが、今度は保田も返事をしなかった。
「警察では、阪東さんの資産の動きを調べました。脅迫の材料になると思いま
したから」
「分かった。認めますよ、刑事さん。いくらかの金をもらった。アンデスを、
自分の店を持てたのも、阪東さんから援助があったおかげだ」
「どうも。そうなりますと、阪東さんには、あなたを排除したい動機があった
と言える」
「先回りしてかまわないなら、反論したいんだが、いいかな刑事さん?」
「うーん。ま、いいでしょう。どうぞ」
「阪東さんは、私に感謝しつつも疎ましく思っていたかもしれない。だが、私
からすれば、阪東さんは大事な金蔓だ。いざというときに動かせる駒でもある。
そんな重宝な存在を私が消す訳がない。そうは思わないか」
「どうでしょうね。いくら便利でも、命を狙われたとなると、さっさと処分し
たくなるかもしれない。忠実な飼い犬だって、飼い主に噛みついたら、ね」
「……」
「このあと詳しく述べますが、私が今お話ししている仮説は、広い意味で過剰
防衛みたいなもの。動機があると見なし、続けますよ。――芦沢さん、あなた
は阪東さんと偶然出会い、交換殺人の計画を立てた」
急に名を呼ばれた芦沢だが、予想をしていたのか、慌てた素振りはない。ゆ
っくりと顔を向け、慎重に言葉を選ぶ様子を見せた。
「刑事さん。証拠はあるんですか」
「今はまだ示せませんが、とりあえず、最後まで聞いてください。できれば、
反論があってもあとで……」
「いや、何らかの情況証拠でも出してもらわないと、納得できないな」
強気に出た芦沢に、飛井田は手持のカードを開くことにした。
「情況証拠と言えるかどうか分かりませんが、ある駅の防犯カメラに、阪東さ
んと思しき男性があなたと思しき男性と並んで車両を降り、その後、やや距離
を取ったものの、前後して同じ方向に歩いて行く様子が映っていました。不思
議なのは、芦沢さんにしても阪東さんにしても、その駅は普段降りる駅じゃな
いってことでしてね」
「それは……事故があって、予定が大幅に狂ったから、酒を引っ掛けて帰ろう
と思っただけで、偶然だ」
「おや。よくご記憶で。確かにその映像が収められたのは、人身事故が起きた
日でした」
飛井田の言い種に、芦沢もさすがに焦りを覗かせた。
「お、覚えていて当然だ。違う駅で降りたのは、その日だけなんだから」
「そうですか? 私の調べでは、芦沢さんは時折、馴染みの薄い駅でふらっと
降りて、書店に行くことはあるようですが」
「たまにしか行かない。ここ最近は行ってなかったから、事故の日と分かった
んだ。もういいっ、話を続けてください」
了解を得た飛井田は、手帳を大きな動作で開き、悠然とした態度を演出した。
「最初の交換殺人計画がどんな風にできあがったかは知る由もありませんし、
省きます。芦沢さんは阪東さんの意を受け、保田さんを襲った。だが、保田さ
んの反撃に遭い、取り押さえられた。そして計画を白状させられた。自分の命
が危なかったと知った保田さんは、どういう行動に出たか? 警察に報せるこ
ともできたはずだが、あなたは違った。芦沢さんの負い目につけ込み、阪東さ
んを始末させることにした。それだけに留まらず、交換殺人のからくりを逆手
に取り、元恋人の残間朱美さんを阪東さんに殺させるという奇策を用い、成功
した。芦田さんが殺して欲しい人間の変更を申し出れば、阪東さんも受けざる
を得なかったでしょうから。
芦沢さんの見返りは、工藤さん殺害時にアリバイを証言してもらう、この一
点のみだった。当初の思惑とはだいぶ違ったが、目的を達せたのだから万々歳
といったところでしょうか」
指紋を前もって付けた電球のトリックを補足説明し、飛井田は話を一旦、区
切った。容疑者二人に目を向ける。先に反応したのは、芦沢だった。
「何度も言いますよ。証拠がない。情況証拠なんかじゃなく、物的証拠という
やつを出してもらわないことには、絶対に認めませんよ」
続いて保田も口を開いた。
「同感だ。そもそも、阪東さんが死んだかどうか、はっきりしていないんじゃ
ありませんか? 行方不明のままだと、いわば“犯罪の主体”がない訳だ。立
証なんて、不可能だろう」
飛井田は即座に言い返した。テーブルの上で両手を組み、じっくりと腰を据
える。
「阪東さんは恐らく殺され、海か山に遺棄されたと睨んでいます。携帯電話の
位置情報のおかげで、ある程度まで範囲を絞り込めているのですよ。残念なが
ら、現在は電波が途絶えてしまっているが、人海戦術で何としてでも発見して
みせる。警察の動員力を甘く見ないことです」
「仮に、阪東さんが死体になって見つかったとしても、それが私と芦沢さんと
の共謀による犯行と、どう証明するんで?」
「阪東さんは用心深く、話もうまいタイプのようですな」
飛井田の砕けた口調に、保田は機先を制せられたか、「はあ?」となった。
「横領を巧妙にやり抜けているし、その後も保田さんを身代わりにして、仕事
を辞めずに済んでいる。こういうタイプの人が、交換殺人という大事に臨むに
当たり、全く“保険”を掛けないなんてこと、ないと思うんですよ。ましてや、
一度は先に殺すと言っていた芦沢さんが順番の交代と、ターゲットの変更を申
し入れてきた。阪東さんは一層用心したに違いない。共犯者のデータをメモし
た紙でも出ないかと、家宅捜索したのです……が、これは期待外れでした」
間を取った飛井田の喋り方に、芦沢は見事に翻弄されていた。緊張した面持
ちが、ふっと緩む。
「だが、別の物を発見しましたよ。芦沢さんの指紋が付着した凶器です」
「――」
芦沢の顔面が見る間に青ざめるのが観察できた。
* *
(そんなはずはない!)
心の中で芦沢は叫んでいた。その感情が表面に滲み出てしまうのも忘れて、
過去を思い返す。
(阪東が残間朱美を殺したあと、『もう一度、はっきりと指紋を付けておこう』
と言って、凶器の警棒を持って来させた。そのとき阪東を殺し、凶器も回収し
た。万が一警察から疑われたら阪東に全ての罪を着せるために、凶器は指紋を
拭った上で、阪東と一緒に遺棄した。だが、刑事が言っているのはそのことで
はないようだ。もしや、阪東の奴、偽物を持って来ていたのか? こちらの急
な変更を怪しみ、そっくりの警棒を購入して……。最初に俺が指紋を付けた凶
器は、ずっとあいつの家にあった訳か)
そこまで推測し、言い逃れる道を考えようと、頭を片手でかきむしる芦沢。
椅子二つ分を空けて腰掛けている保田も、どことはなしに表情が曇りつつある。
そこへ、刑事の飛井田が追い打ちを掛けてきた。
「もう一つ、家宅捜査で興味深いメモが出て来ました。最前も言いましたよう
に、共犯者に関するデータは皆目なかったんですが、阪東さんは共犯者に裏切
られた場合に備え、ある細工をしていたようなんです」
「細工?」
おうむ返しの声が震える。芦沢は唾を飲んだ。飛井田は説明を続けた。
「次に共犯者と会ったとき、密かに印を付けようと企んだんですな。さすが薬
品メーカーの社員と言っていいものかどうか、阪東さんは手に掛けた残間朱美
さんから血を抜き取っています。凝固しないよう処理したその血液を、共犯者
の衣類に擦り付けるつもりだったらしい」
「別の殺人事件の血を……」
「実際にそうしたのかどうかは不明です。何しろ、当人も行方知れずになのだ
から、確かめようがない。ですが、道はある。芦沢さんに保田さん、あなた方
お二人が常用する服を何着が提出していただき、調べてみる価値はあるでしょ
う。無論、快く同意してくださいますよね? 拒否されると、令状がまた必要
になって手間がかかりますが、まあ、人間の血液ってのは、そう易々と完全に
洗い落とせやしません。念のために申し添えておくと、たとえ密かに処分しよ
うとしても、監視の目が光っていますので」
逃げ道を次々と封じる飛井田に、芦沢は白旗を揚げる寸前まで追い込まれて
いた。思わず、助けを求める視線を、保田に送ってしまう。
当然、無視されたが。
* *
「仮に刑事さんの推測が当たっているとしても、それは部分的だ。私は関与し
ていないのだから」
保田が切り捨てるようなことを言い出すと、芦沢は口をあんぐりとし、絶句
した。
飛井田が保田に「少なくとも、工藤小太郎さんが殺された事件で、アリバイ
証言したのではないですか」尋ねる。
「頼まれてしただけであって、彼があの時間帯、何をしでかすつもりでいるの
かは、知らなかった」
「何も聞かないまま、嘘のアリバイ証言を引き受けたと?」
「知らないからこそ引き受けた、と考えてもらいたい」
「なるほど、物は言い様だ。でも、阪東さんが芦沢さんから残間さんの情報を
受け取って、彼女を殺したという流れが立証できれば、その発端にあなたの存
在は欠かせないと思いますがね」
「知らないね。芦沢さんが勝手に朱美のことを調べ上げ、狙ったんだろう」
陥落寸前の芦沢に比べ、保田はまだ強気でいる。虚勢を張っているだけかも
しれないが、外見上はそれをほとんど感じさせない。
「ねえ、芦沢さん」
飛井田は手強そうな保田から、芦沢へと標的を移した。
「計画的に交換殺人を行うとしたら、お互いの信頼関係の構築が大事になる。
あなたと阪東さんは、それぞれの犯行を示す何らかの証拠を相手に渡したんじ
ゃないか?」
「……」
追い詰められているとは言え、警戒の色が濃い芦沢。黙す相手に、飛井田は
粘った。
「一方、保田さんとは信頼関係を築くよりも先に、主従関係ができてしまった
と思う。言われるがまま、行動せざるを得なかったろう。不幸なことだが、も
しも一人で罪を被るなら、それだけ罰も重くなる。賢明なあなたは、事前に対
策を施したんじゃないかな。保田さんが犯行に関与している、何らかの証拠を
秘密裏に確保しておいた、というようなことがあれば、率直に明かしてもらい
たい。無論、それは捜査に協力したと見なして、後々の考慮に入れる」
飛井田がちらと保田を見やると、二枚目の顔立ちに汗が幾筋が流れ始めてい
た。コントロール下に置いたと信じていた共犯者が、まさか何かを……と悪い
想像が頭の中を駆け巡っているに違いない。
「保田さん。あなたが今すぐ、素直に認めるというなら、もっとありがたい。
今なら心情的には自首と同等かもしれないな……」
揺さぶりを掛けると、効果は覿面に現れた。容疑者二人は互いに牽制し合う
ような視線を、無言でばちばちと交錯させた。ともに呼吸が荒くなっている。
「芦沢さん。現時点では、あなたの家を捜索することは可能であると、私は踏
んでいる。捜査員が、保田さんの関与した証拠を発見した場合、あなたにプラ
スには働かないよ」
「――録音してある。会話を、ICレコーダーに」
芦沢が口走った瞬間、保田が「貴様!」と叫んだ。かと思うと、ふわりと宙
を舞い、痛烈な跳び蹴りを共犯者に喰らわせた。止める間が全くない、電光石
火の早業に、飛井田は外に待機していた同僚に叫ぶだけで、精一杯だった。
「応援を頼む!」
「さすがのおまえも、今度ばかりは大苦戦だったようだな」
阪東朝彦の遺体が山中の林で発見され、残間朱美殺しの凶器も合わせて見つ
かり、事件解決に目途が立った頃、深水が飛井田を掴まえて、からかうように
言った。
「芦沢の方が崩れてくれたからよかったものの、両人ともが保田みたいに利口
で厚顔無恥な輩だったら、逃げ切られた恐れもあったんじゃないか」
「どうだろうね」
飛井田は久方ぶりに自宅に戻る準備をしながら、ひょうひょうと答えた。
同じく帰り支度を終えた岡林が、「今後の参考に、是非聞かせてくださいよ」
とせがむ。
「何を」
「その、弱点のない複数犯を相手にしたときの対処法です」
「そんなもんに公式や型がある訳ない。ケースバイケースだよ」
車に荷物を放り込んだ飛井田は、手をはたきながら岡林と深水に向き直った。
「物事は単純じゃない。ただ、シンプルな考え方が大事なときもある。それぐ
らいだな」
そう言うと、飛井田は車のドアを閉めた。
「……おやぁ」
疲労の蓄積のためか、力が入らなくて半ドアになった。
――終わり